村瀬孝雄

2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう- (第2版)

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥る場合があるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、いわゆる「アスペルガー」タイプの皆さんの少なからず場合にあてはまりそうだ)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないから(^^)。

 自分のことを振り返ってみるとどうだろう?

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

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2009/12/16

田嶌誠一 著 「現実に介入しつつ心に関わる」

 私の臨床心理学上の恩師は、言うまでもなく、ジェンドリンの「フォーカシング」「体験過程と心理療法」の一介の一読者に過ぎなかった私を「拾ってくださった」、故・村瀬孝雄その人である。

 そして、精神医学を含めた意味での治療者のあり方において、私の「神」なのは、未だにお姿すら拝見したことがない中井久夫先生である。

 フォーカシング・トレーナーとしての偉大な先達にして、敢えて"fellow"とお呼びしたいのが、初対面の時から異様な意気投合に到達したアン・ワイザー・コーネル女史である。

 最後に、私が若い頃から声をかけてくださり、一緒に飲ませていただき、九州に戻ってからも色々相談に乗ってくださった、私にとっての、あまりにも頼もしい、「現場心理臨床の兄貴」、それが、現九州大学大学院教授の田嶌誠一先生である。

****

 福岡県大牟田市生まれ。十代はそこそこ不良でした(^^)。しかし、高校時代のある時、突如心機一転して猛勉強、九大を目指します。

 そして、催眠療法や臨床動作法であまりにも著名な、日本を代表する心理療法家、成瀬悟策先生門下の逸材(認められるまでが大変だったそうですが)として、最初は病院心理臨床で、重篤な患者さんとの面接のキャリアを積む中で、深い変化を静かに引きおこししつつも、患者さんの自我を危機に至らせない「安全弁」を持つ、独創的な心理療法、「壷イメージ療法」を開発。

 続いて、広島修道大学、更には九大で大学学生相談を担当、深刻な精神疾患、暴力や引き籠もりの学生との関係作りに、他の誰にもまねができない独創的かつ積極的なアプローチで成果を重ねます。

 引き続き、文部省のスクールカウンセラー事業の草創期に、もっとも荒れた中学校を担当、教師、家族、生徒たち全体を巻き込む「ネットワーク型アプローチ」を導入して、学校の空気そのものを一変させ、少年院送りを繰り返す水準の不良生徒たちからも卒業時には崇敬を集めるという、神がかりな活躍をなさいました。

 そして、現在取り込んでおられるのが、多くの場合、家族からの虐待から保護された子供たちが収容される、児童養護施設内部で陰惨に繰り広げられてきた、「施設内暴力」を一掃するシステムをコーディネートすることなのです。

 日本の心理臨床の生んだ、空前の「現場で行動する臨床心理士」、それが田嶌誠一先生です。

*****

 田嶌先生の新著について、かなり前からこのブログで記事を書くとお約束しながら、私自身が急激に多忙化する中でなかなか果たせないで来ました。 

●田嶌誠一:「現実に介入しつつ心に関わる -」(金剛出版)
ISBN:978-4-7724-1103-5

 

現実に介入しつつ心に関わる―多面的援助アプローチと臨床の知恵

(楽天ブックス)

 講演記録を元に、新たに書き下ろされた、児童施設内の暴力問題への対応についてを中心主題とする、本書冒頭の「総論に代えて 現実に介入しつつ、心に関わる」以外の論考は、その大半について、先生が最初に学会発表されたその場に臨席もしたし、学会誌でお読みしている。

 冒頭の章の概要そのものも、先述の記事で書いたように、先生に直接お会いする機会を持たせていただいた時にうかがっている。

 今回、実際の著作の内容と照合しても、その内容の最低限のイントロダクションの意味は、すでにあると思えたので、ご参照下されば幸いである。

*****

 そういう意味で、「ライブ田嶌」先生からすでにうかがった内容のほうが私の中で大きなインパクトを占め過ぎているために、どうもこのご著書の内容を改めて客観的に概説するとなると、私は心境的にちょっと重荷になりすぎる。

 ただ、申し上げたいのは、先述の、今回書き下ろされた、冒頭の「総論に代えて」の持つ、凄まじいまでのインパクトと、そこに示された先生の決然たる問題提起だけは、是非、多くのカウンセラーの皆様に、実際に目を通していただきたい。

*****

 いくつか、この「はし書き」と最初の章から、田嶌先生の言葉を、アフォリズム的に拾い上げてご紹介することとします:

=======以下引用========

 「私は、当事者のニーズの応えること、そしてできればもっとも切実なニーズに応えることを心がけてきたつもりである」(p.5)

 「現場のニーズを、『汲み取る、引き出す、応える』ためには、心理臨床家が従来のようにもっぱら心の内面や深層に関わるという姿勢(それも必要ですが)のみでは不十分で、『現実に介入しつつ心に関わる』とそれに基づく多面的アプローチが必要となります。これは、心理臨床が生き残れるかどうか、換言すれば心理臨床が社会に貢献できるかどうかに関わる重要なことだと私は考えています」(p.12)

 「しばしば間違えるのは、学校の先生と保護者とが『原因は何でしょう』と話し合うことです(中略)。すると、お互い内心は『こいつだな』と思っているわけです。そうすると、連携がちっともうまくいきません。
 それよりも、この子が元気になるために学校に何ができるか、保護者に何ができるか、それを一緒に話し合うというスタンスでいきますと、割合、無難な対応ができます。(中略)
 保護者の力、担任の先生の力、生徒たちの力、そして相談に乗った私と、いろいろな人がネットワークを活用してその子の援助をしていくという形になります。これが『ネットワーク活用型援助』です。心の内面だけではなく、現実に介入していくわけですね」(pp.18-9)

 「[まずは]いじめという現実がなくならないといけない。その解決は、いじめが沈静化する必要がある。完全な解決かどうかはともかく、とりあえずいじめがなくなる[ように、その学校内のネットワーク・システムに介入する]。その後、本人の心を扱うという形をとる。これが『現実に介入しつつ、心に関わる』ということの例のひとつですね」(p.19)

 「このように、いじめなどがそうですが、必ずしも本人が変わるべきではなく、周囲が変わるべきである場合もあると考えるようになりました(中略)。今では問題は、『主体と環境の関係』だというふうに言っています。主体と環境、つまり、内的環境と外的環境があって、その心、内面の問題は内的環境との関わりの問題なのだろうと考えるようになりました」(pp.19-20)

 「大事なのは、『個人の心理や病理』だけではなく[学校や地域の]『ネットワークの見立て』どということを強調しているわけです」(p.20)

 「[施設内暴力]に加担した加害児のうちのひとりは、1,2年前まではそのボスからおしっこを飲まされたり、散々いたぶられています。つまり、かつての被害児が加害児童になっているわけです」(p.25)

 「施設では多くの場合、[マズローの言う]『安全欲求』が満たされていないわけです。これは成長の基盤です。だから[まずは、施設内での]暴力をなくさないといけない。しかしこの理屈が意外と臨床心理の人に通りが悪かったんです。つまり、こどもたちが暴力を振るうのは、心の傷があって、それをケアすることが大事なんだという発想が強すぎて、理解が進まないんですね。心のケアは大事だけど、その前に、暴力を使わないで暴力をきちんと抑えるということが必要です」(p.27)

 「それらの問題行動は、過去の虐待や苛酷な教育環境への反応として、反応性愛着障害や発達障害の兆候として理解されてきたように思います。(中略)
 しかし、それらの問題行動は、子供間暴力(児童間暴力)や職員からの暴力等の、その子が現在[施設内で]置かれている状況への反応である可能性があるということになります。(中略)入所前に受けた虐待が主なる原因ではない」(p.27)

 「『愛着』や『トラウマ』関係のどの本でも、安心・安全が重要であると述べられていますが、その安心・安全を施設で実現していくことがいかに大変なことか、どうやって実現していったらいいかということが、まったくといっていいいほど言及されていないのです」(p.37)

 「[施設内暴力という問題それ自体に対する]専門家によるネグレクト、大人によるネグレクト、そして社会によるネグレクト」(p.38)

 「私は臨床家ですから、『告発者』としてではなく、外部から援助者として現場にうまく入らないとならない。そのためには、大変なエネルギーと技術が必要です。しばしば、「志は高く、腰は低く」という姿勢が必要です。そして問題を発見して、解決システムを模索して考案していくという順序になります(p.39)

======引用終わり=====

 田嶌先生が全国の児童養護施設に提案し続けている「安全委員会」システムとはどのようなものかについては、ネットでの情報などでは済ませずに、是非、実際に本書をお読み下さい!!

 なお、こうした被虐待児を一箇所に百名以上収容する施設など、欧米には存在しないとのこと。だから、解決策には輸入できるモデルなんてないそうです。

 「里親制度」・・・・欧米は基本的にそっちなんですね。

 日本にも里親制度はありますが、時折、里親自体からの子供への陰惨な暴力がマスコミ記事になることはたいへん痛ましいことです。里親と子供への、地域の個別の公的サポート(監視)体制が不十分すぎるんですよね。

*****

【追記】:  この著作についてのご紹介シリーズ、追補して書かせていただくことにしました。こちらからどうぞ。

******

【更に追記】:

この本の続編、「児童福祉施設における暴力問題の理解と対応」が刊行されました。

その本のご紹介は、こちらでしています。

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2009/11/26

「フォーカシング事始め」(村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎 共著)

 私自身が共著者の一人として名前を連ねて1章だけ書いているので、ご紹介するのは少し恥ずかしいのですけれども、それでもやはり、日本(特に関東地区)におけるフォーカシングの普及において、ひとつのターニング・ポイントになった本だと思いますので。

 それはどういうことかといいますと、本書が刊行(1995年)された少し前、フォーカシングの有力なトレーナーであるアン・ワイザー・コーネル女史が初来日され、ワークショップを開催しました。その時の実習と、当時ワークショップ参加者だけが購入できたアンさん独自の技法マニュアル(それが後に刊行されたものが、あの「入門マニュアル」「ガイド・マニュアル」です)を元に、東京の日精研などを舞台として、恩師、故・村瀬孝雄先生や日笠摩子さん、近田輝行さんたちと共に、そのアンさんの技法を自己掌中のものにするべく勉強会を重ねました。

 そうした中で、村瀬先生の立案で、アン・ワイザー法を詳しく具体的に紹介することに大部を割いた本を4人で1冊書くことになったのです。

 つまり、本書は、日本における、公刊された、アン・ワイザー法フォーカシング「事始め」でもあるのですね。

 日本フォーカシング協会設立の、少し前の時期のことです。

フォーカシング事始め―こころとからだにきく方法

●神田橋條治先生による本書の書評(「精神療法」誌 第22巻 3号掲載)

******

 次に、本書の目次をご紹介します。

  1. フォーカシングとは?(村瀬孝雄)
  2. フォーカシングの不思議な力(村瀬孝雄)
  3. 熟練した2人のガイドとのフォーカシング経験(日笠摩子)
  4. あるワークショップの記録(村瀬孝雄)
  5. フォーカシングを実際にやってみるために(日笠摩子)
  6. フォーカシングQ & A(村瀬孝雄・日笠摩子)
  7. フォーカシングの歴史と理論(村瀬孝雄)
  8. フォーカシングの諸相と日本・世界の現況(村瀬孝雄)
  9. カウンセラーがフォーカシングを学ぶことの意味(近田輝行)
  10. フォーカシングの「臨床適用」について(阿世賀浩一郎)
  11. 補章:谷川俊太郎の詩 「きもち」を借りてフォーカシングを解説する(村瀬孝雄)
  12. フォーカシングについてもう少し知りたい人のために(村瀬孝雄)

*****

 その後、私たちは、後続するジェンドリンや奥様のメアリー・ヘンドリックス(The Focusing Institute 現CEO)、アン・ワイザー、エルフィー・ヒンターコフ、ジャネット・クライン、ケビン・マケベニュ、バラ・ジェイソンらの著書や論文、ワークショップ(邦訳はありませんが、メアリー・マクガイア、ドラリー・グリンドラーをはじめとする人たちによる、重篤事例についての重要な論文があります)からさらに多くのことを学び、日本国内でワークショップ・セミナー・研究会を仲間たちと実施したり、それぞれの臨床・教育現場の中での適用を模索する中で、更に研鑽を積んで行きました。

 しかし、今回、本書を久しぶりに読み返してみたのですが、(自画自賛じみて申し訳ありませんが)、よくもまあ、この段階で、ここまでフォーカシングの当時最先端の潮流を咀嚼し、広範囲の視点から総合的にご紹介できていたなと、ほっと胸をなでおろした次第です。

 私たちの「フォーカシングの青春時代」は無駄ではなかった(^^)・・・・まだ、古くなってないです。

*****

 本書の中の白眉のひとつは、日笠さんが苦心の末に編み出した、当時のアン・ワイザー法に基づく「フォーカシング・フローチャート」(p.pp.124-6)でしょう。このフローチャートを観てみるだけのためですら、本書を借り出したり、購入する価値があるかもしれません。

 ジェンドリン自身のオリジナルのフォーカシング技法が、単純に要約された、せいぜい1,2ページのマニュアルとして配布され、「それがフォーカシングというもの」と学習者に思い込まれてしまって伝播したことの最大の弊害は、フォーカシングの手順というものを、「空間づくり」にはじまり、「フェルトセンスをつかむ」→「手がかりとなる言葉やイメージを見つける」→「見出した言葉やイメージが実感にぴったりかどうか共鳴させる」→「フェルトセンスに問いかける」→「受け止める」という段取りを、順序だてて進めたときにはじめてフォーカシングしていたことになる・・・かのような誤解を広め、それでは思うように成果が上がらないと諦められてしまう事態を招いたことでした。

 (このことが、ジェンドリンも望まない事態で、もっと柔軟な適用が肝心であることについては、ジェンドリン自身の著作、「フォーカシング」を丁寧に読み解けば、繰り返し説かれていることなのですが)

 アンさんは、ジェンドリンの技法をベースにしながらも、それをわかりやすくて「勘所」を明確にした「5つのステップと5つのスキル」に再構成しました。

 その結果、気がかりな「事柄」からであろうと、その時の漠然とした「身体の感じ」からであろうと、柔軟にフォーカシングを始められるばかりか、内側から生じてきたものは取りあえずなんでも「認めてあげる(acknowledging)」ことと、フェルトセンスから性急な言語化を引き出さないまま「共にいる」ことを重視する丁寧でかゆいところに手が届くものとなりました。

 この「認めてあげる」や「共にいる」は、実はセッションの最中のいたるところで提案される教示なので、実は番号を振って直線的に順序だてて説明することになじみにくいところがあります。

 更に、フェルトセンスから「遠すぎる(too distance)」状態になった人と、「近すぎる(too closed)」状態になった人(アンさんのいうフェルトセンスを「脱同一化(disidentification)」して感じられる状態が程よく維持できないという点では、どちらの事態も共通です)への臨機応変な介入も必要です。

 これらをすべて表現しようとすれば、もはやフローチャート形式をとって空間的な表現にして、必要あればあっちに行ったりこっちに戻ったりということを一望できる図版にするしかない。

 日笠さんを中心とした人たちが取り組んだこの「図版化」は、アンさんの技法書のどこにも出てこないオリジナリティあふれるもので、これがアンさん来日2年目で達成されたことは、再評価されてしかるべきと思っています。

 (アンさんの技法体系そのものも、その後進化を続けていますが、この段階でのアン・ワイザー法の、几帳面な丁寧さのプラス面は、フォーカシングを「意図的なスキル」として緻密にトレーニングする場においては、決して過去のものにされてはならないというのが私の信念です。このフローチャートは、私の主催するささやかなグループでの恒例の配布資料で、現在もあり続けています(^^)) 

*****

 さて、私が執筆した第10章ですが、のっけから「臨床家自身がフォーカシングを身につけ、日常の中で役立てられていないうちは、臨床現場での適用なんていうことは考えない方がいいのでは?」という、不遜なまでに挑発的なメッセージからはじまっています。

 さすがに若気の至りではなかったかなと、その後多少自己嫌悪に襲われ、長らく読み返さないでいたのですが(^^;)、本書刊行から14年を経て、一読者の心境で客観的に読み返してみたところ・・・・ほっとしました。私なりに十分にジェントルで丁寧な語り口で書けている。

 (つい最近、認知行動療法の大家、伊藤絵美先生が、これからCBTを学ぶ専門家への心構えとして、実にそっくりの表現を、著作でなさっているのに気がつき、安堵したというのあります)

 そして、当時はジェンドリンが書きつつある「フォーカシング指向心理療法」のdraftを村瀬先生によって手渡されて、その一部を読み解くぐらいの段階でしたが、私がその時点で言葉にできた「臨床現場でフォーカシングをどのように生かすか」という方向性に、その後ブレはなかった、完全に今日の私のスタイルへと繋がっていると確信できました。

*****

 更に、この私の書いた章、さすがアニメおたくカウンセラーこういちろうですね(^^;)、私自身すっかり忘れていたのですが、次のような部分がありました(pp.241-2):

========引用はじめ=========

 このようなクライエントさんたちにとっては、自分が「どんな」感じでいるのかについて語ることは、まだサナギの状態でしかいられない昆虫が、性急に脱皮を急がされたような外傷体験に容易に結びついてしまう危険があるのです。・・・最近(95年7月)、「風の谷のナウシカ」等で有名な宮崎駿氏らスタジオジブリ制作による長編アニメ、「耳をすませば」が封切られ、映画館でご覧になった方も少なくないかと思いますが、この映画の中で、主人公の月島雫(しずく)という中学生の少女が、留学した恋人が日本に戻るまでに、自分もなにかをやり遂げようと一大決心をして、受験勉強を投げ出して、寝食を忘れてファンタジー小説の執筆に打ち込む展開があります。

 憔悴して眠り込んだ雫は、ある悪夢にうなされます。鉱脈の中の壁一面が原石でできた洞窟の中で、ほんとうに輝くただひとつの純粋なエメラルドを見つけ出そうと焦って探し回るけれども、なかなか見つからない。これぞと思って壁から抜き取った石は最初は光り輝くかに見えました。しかし次の瞬間にその石は、雫の手のひらの中で、まだ卵からかえっていないヒナの死体へと変容するのです。

 悲鳴と共に飛び起きる雫。目の前には一向に進まない、破り捨てた書きかけの原稿用紙の山があります。

 映画の中の雫の場合には、物語をともかくも書き上げるだけの自我の強さと、そうした彼女を理解して見守る幾人かの周囲の人たちのまなざしがあったから救われたのですが、私たちが現実の臨床現場の中で出会うクライエントの中には、まさに賽の河原で石を積んでは壊されるかのようにして、自分の中の「卵」や「サナギ」を性急に孵化させようとしては流産させることを繰り返す中で傷つき、内面をすり減らし、蟻地獄のような絶望と無力感に次第次第に沈んで行く人たちも少なくない思えます。

 むしろそうしたクライエントさんたちにまず必要なのは、自分なりにさなぎ(繭)をつくって、その内部で成長と分化が暗黙のうちに進展するのを見守ることが許されるような治療的な場の保障と関係性ではないでしょうか。

 すなわち、彼ら/彼女らは、まずは、自分たちの中にうごめく形(言葉)にならない混沌が、自分を破壊する可能性がある脅威ではないという安心感を抱けるように徐々になれる治療的な場を保障してもらえる必要があるように思います。

 そして、その言葉にならない混沌を、いとおしみながら育み育てるための子宮的な空間を、自分の身体の内部や外部に安定した形で確保できる自分なりの工夫を見出せるようにサポートされるべきです。

 (これが、本書でもすでに第5章で示した、アン・ワイザー女史の言う、フェルトセンスと「一緒にいる」ということにあたります)

========引用おわり=========

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続きを読む "「フォーカシング事始め」(村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎 共著)" »

2009/09/20

書評 : ジェンドリン「フォーカシング」

ジェンドリン/フォーカシング

(楽天ブックスでの本書の紹介)

 自分の内側の言葉にならない曖昧な感じからのメッセージを少しずつ受けとめていく技法、フォーカシングの創始者自身による、一般向けに書かれた最初の「技法」解説書としての価値は不朽である。

 言うまでもなく、フォーカシングに関心を抱く人必読の「第一基本文書」だが、技法の手引きとして、他の欄でも紹介している、アン・ワイザー・コーネルをはじめとする様々な実践家による著作で、更なる展開がなされていることを忘れてはならない。

 翻訳の水準は、章によって若干ばらつきがあり、重要な語句の翻訳が抜けている場合もある。しかし、技法としてのフォーカシングの用語の「定訳」を定めた功績は大きい。

 ただ、現実のトレーニングの現場では日本人にすっと入らない教示の言葉も日本語として多く、工夫を要する。

 なお、ジェンドリン自身が実は強調していることだが、フォーカシングにおいては、フェルトセンス(自分の状況と結びついた、自分の中の曖昧で言葉になりにくい実感それ自体)にちょっとだけ触れ、しばらく味わっていられたら、それだけでその人は「現象としてのフォーカシング」を十分体験「していた」していたことになるのである(訳書p.74)。このことは6つのステップを進めている「どの時点でも」生じ得るものであり、6つのステップのすべてを達成した時に、はじめてフォーカシングが完成したのではない。

 「フェルトシフト」と呼ばれる、心身の緩みと共に気づきや洞察が生じる体験は、何回もかけて、小刻みな小さなステップとして生じて行く中で、あたかも漢方薬のようにじんわりと効き目をあらわして「いた」ことに、後で振り返って気づけることも少なくない。

 また、シフトとは「向こうからやってくる」ものであり、「生じさせる」ものではないともジェンドリンは明言している(訳書pp.74-5)。

 こうした簡便化されたマニュアルでは抜け落ちがちな事柄を、この本の中でジェンドリンはあちこちで「さりげなく」書いている。

 この本と出会って20年になる私すら、時折本書をめくり出してみると、「なんだ、このことはジェンドリン自身がすでに書いていたではないか!」と気づかされる部分に遭遇する。

 そうした意味では、やはり技法開発者自身の最初の一般向け著作は奥が深いものだと思う。

*****

 これも、以前Amasonのレビューといして書いたものに更に手を入れて、今の私の思いに近づけてみました。

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2009/09/19

書評:アン・ワイザー・コーネル著「フォーカシング入門マニュアル」

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシング入門マニュアル

(同著への楽天ブックスへのリンク)

 フォーカシングの名教師、アンの著作の中で、日本で最初に翻訳されたものである。

 だが、およそフォーカシングを「技法体系」として身につけるために正攻法に学ぼうとした場合、その内容の明快さと体系性、にもかかわらず同時に「かゆいところまで手が届く」細やかさという点で、現在に至るまで、これほどバランスのいい著作は刊行されていないように思う。

 フォーカシングの発案者、ジェンドリン自身の「フォーカシング」は、もちろん今でもフォーカシングを学ぶ際のベースとして大事にすべきである(書評はこちら)。

 しかし、その著作の中で、ジェンドリンは、フォーカシングという技法のアイデンディディを確立する立場にあったためか「フォーカシングでないのは何か」「フェルトセンスでないのは何か」ということをくどくどと説明し過ぎたところがある気がする。

 それがむしろ学び手に「私はきちんとフォーカシングしているのか?」という不安を喚起する副作用を生み出した側面は否めない。

 ところがアンは、この点で正反対のアプローチを取った。すなわち、ただの身体の感じでも、イメージでも、それどころか、ジェンドリンが「内なる批評家」と呼び、ますは追い払うべきと述べた、自分自身を叱責する超自我的な内なる声ですら、フェルトセンスの形成に役に立つことを強調した。

 更に言えば、フェルトセンス自体と静かに「共にいられる」内的関係を築ければ、フェルトセンスからシフト(洞察を伴う気づき)が生させようとせっかちにならなくてもいいことについて、技法体系の中に明確に組み込んだ。

 このアンの柔軟なアプローチが紹介されるのを待ってはじめて、日本でのフォーカシングの普及はひとつのブレイクを起こしたといっても過言ではない。

 フォーカシングのトレーナーをめざす人は、先述のジェンドリン自身の「フォーカシング」を併読しつつも、何よりこの著作に書かれた内容を自己掌中にするまで身につけるべきであると思う。

 フォーカシングをフォーカサーとして学ぶ一般の皆さんにとっても、学びの過程で疑問や行き詰まりが生じた時には、本書のどこかに、その解決のためのヒントが書かれていることを期待していいだろう。

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2009/09/04

運命の出会いかもしれない・・・・・ (第2版)

 ついに、中井久夫先生と神田橋條治先生の「後継者」とまで言われる、熊木俊夫氏の著作に実際に目を通し始めることとなった。

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)


 実はまだ40ページばかり読み進めたに過ぎないのだが、もう、この段階できっぱり書いてしまおう!!

まさに「こんな」精神科医療の本をこそ、
私は読みたかったのだ!!

 敢えて不遜なことを言わせて頂ければ、私が現段階で精神医療に期待している理想のあり方とは、まさにこの著作で展開されている内容「それ自体」である。

 
更にいよいよ不遜なことをもうひとつ書くと(^^;)、私がこのブログで精神医療との連携の可能性について書いて来た内容とのシンクロ度半端ではない高さではないか!!

 きっと、私のことを、とっくに熊木シンパであると思っておられた読者の方もあるかもしれないが、とんでもない。

 だって、今日はじめて、めくってるんだもん!!

*****

 「<臨床感覚>は、個々の治療者が自らの身体を用いて、よりなまなましく対象に関わろうとすることでしか得ることはできない」(p.vii) 

 「やはり精神療法はこころに効くのだ。さらにそういった精神療法は、薬物療法と並行して行なわれているのが常であり、このことにいたく衝撃を受けた」(p.6)

 「治療者にとって薬物療法とは、単に一治療技法であるにとどまらず、薬を介した<生体との会話>なのである。(中略)そして<生体との対話>とは、言語表現としては到底すくいとれず、治療者・患者双方の身体感覚を通してしかわかりあえないような、より未分化で普遍的な生体とのコミュニケーション方法を指す」(pp.11-2)

 「私は今後、臨床家および患者の「薬物の官能評価[実際に飲んでみた結果として心身に徐々にどのような変化が生じるのかについての身体感覚次元での主観的効き心地。もちろん、不快感や、「効かない感じ」も含む]」の情報収集が成されることを強く期待する。
 患者という揺れ動く<構造>に対処するには、唯一の正解はない。
 治療上多くのパラメーター[変数]を同時に取り扱うためには、集積され各々の臨床家や患者に還元された種々雑多な「薬物の官能評価」の中から、臨床家各人が自分の感覚になじむものを鋭敏に選び取らなくてはならない。この営為もまた、治療的<構造>把握に向けての感度を上げていく過程で必要不可欠なプロセスであろう。
 そしてひいては、患者も、より自らの身体感覚に即した治療を受けることができるようになるのではなかろうか」(p.29)

 「<生体との会話>とは、言語表現というかたちをとる以前の、より未分化で普遍的な<わかりかた>のプロセスである」(p,32)

 「この人の話している<モゾモゾした気持ちの悪さ>とはどんな感じなんだろうか。実際のところ、この人のつらさをわかってあげられるのであろうか。いや、完全にわかることは不可能だろう。どれほど想像力を膨らまそうとも、この人に成り代わるわけではないのだから」(p.33)

・・・・この箇所など、私がこのブログで、すでに何回となく、北山修先生の作詞家としての代表作、「あな素晴らしい愛をもう一度」

 あの時同じ花を見て
 美しいと言った二人の
 心と心は
 今はもう通わない

を引き合いに出して伝えたかった「間主観性」の限界に関わる事柄を、嫌が上でも髣髴とさせる。

 そして、熊木氏は更に続ける:

 「そもそも、同じ感覚をわかってあげなくても、治療的関わりは可能なはずである。だとしたら、どのように関わっていけばよいのだろうか。やはり私なりの<患者の生体に対するわかり方>の方法論が必要となるだろう。この患者は治療という場において、特定な他者に開かれていなければならない・・・・・・。そんなことを考えながら患者のの身体を触診している時、私の身体はいくぶんなりとも患者の身体に同調してゆく。
 その感じに浸っているうちに、この身体は患者自身のものなのか、それとも、もしかすると私自身のものなのかもしれないという不分明さが生じてくる・・・・・」(pp.33-4)

 「「主観的身体像(P)[=患者さん(Patient)自身の感じている身体の感じ]」とは、<患者の有する自己の身体イメージ>と表現したものであり、対自的、ゆえに自閉的[阿世賀注:サリヴァン(中井訳)の言う「プロトタクシス的」]であるのが大きな特色である。たとえば、患者自身の頭痛の自覚などがこれにあたる。
 「主観的身体像(T)[=治療者Therapist)側の、患者の身体感覚についての、患者の身になっての「主観的」感覚]」は、これまでその重要性があまり顧みられなかったものである。<治療者が患者の身体について感じたこと>というのが、その意味するところのものなのだが、これではわかりにくいので、<治療者が自らの身体を映し鏡にして、患者の身体をモニタリングしたもの>とすればイメージが浮かびやすいだろう。
 治療者が自らの頭に頭痛があることを想定して、それをもとに想像してみた患者の訴える頭痛のつらさなどが、この一例である」(p.38)

 「私は、治療者が[患者自身の]「主観的身体像(P)」を共有しようとするすることが、まず必要なのではないかと考える」(p.39)

 「ただ誤解なきように付言すると、「主観的身体像(P)」と「主観的身体像(T)」は最終的には同じになることをめざすものではないし、また同じになっていくはずもない。
 治療において必要なのは、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」がどのようなものかを認識し、自らの[患者の身になって感じているつもりの]「主観的身体像(T)」についても自覚的になることである。
 その結果
、ともすれば硬直化しやすい患者の「主観的身体像(P)」がマイルドにほぐされていく[!!!!]
 
  (中略)

 治療者が患者の<からだをわかる>ということは,患者にとってみれば、「主観的身体像(P)」が治療者によって容認されたと感じられること。
 治療者にとってみれば、「主観的身体像(P)」の共有過程で「主観的身体像(P)」と「客観的身体像[測定可能な身体状態]」とを引き比べ,腑に落ちた』と感じられることである。それは同時に、主観的身体像(T)がひとまず完成を見ることである」(pp.40-1)

 「一般に世間で、患者に対する「受容と共感」の重要性が説かれているにもかかわらず、その方法化、いや、方法の意識化が不足しているのではなかろうか」(p.41)

こういちろう、激しく同意!!

 医者と違って、カウンセラーは「触診」ができないというだけのことで。

***** 

 更に、今日読んだ部分のダメ押し。

 「しかしどうしても、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」の理解に及ばない時もある。その場合、治療者の心のうちで一種のジレンマが生じてくる。それは、了解し得ないものに対する無力感と苛立ち、同時にその感情を受け入れまいとする否認の規制である。だが、この内なるジレンマにどのように向き合うかどうかが、治療のカギとなるであろう。
 もし、患者の訴える主観的身体像の<わからなさ>を容認することができるなら(治療者の「主観的身体像(T)」の歩み寄り)、患者の持つ苦痛と絶望をいくぶんか和らげ、訴えも少なくしてゆけるだろう」
(p.44)

 ・・・・これって、結局、私が常々このブログでも書いてきたし、

現代のエスプリ (No.410) 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編)

でお書きした、

クライエントさんに対する「感情移入的フォーカシングモード」と、治療者自身の体験している「自己指向フォーカシングモード」の間に矛盾が生じて、クライエントさんに「感情移入したい自分」「しきれない自分」(feeling about feeling)の両方をsplitさせて「認めてあげる(acknowledging)」ことができたら、なぜかそれだけで、治療者としての私の中に生じた余裕が「空気伝染」して、クライエントさんにも「何となく」余裕を回復させ、そこから面接の膠着が再び開け出すことが多い・・・・という、私の面接術の奥義と同じこと言って下さってるようものではないか!!

●「受容・共感と自己一致の相克」シリーズ(5連作)

●フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ (2)-(7)

*****

 更に言えば(今回はっきり言ってしまおう)、私の今後の最大のテーマのひとつは、精神医療における薬物療法が更に効果を上げる上で、薬を飲む前と飲んだ後とでの未分化で曖昧な身体感覚の変化への感受性を、まずは治療者側が、ひょっとすると患者さん側も上げるためのトレーニングとしてフォーカシングを「限定的」かつ「特殊な」技法形態で発展できる可能性である。

 すでにそのための試論は書いています:

●フォーカシング技法を活用した、鬱状態のクライエントさんのための「主導型積分的フェルトセンス照合」スキルアップトレーニング(案)

 更に、これを機会に、この1ヶ月間、とりあえず掲載見合わせにしていた次の記事を正式にUPしました。

●「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 

*****

 熊木氏に影響を与えている神田橋條治先生が、実はフォーカシングの熱血応援団長みたいな役割を務めてくださっていということ、そして、中井久夫先生に至っては、どうみても天才型ナチュラル・フォーカサーですから、こういう結果になることは、予想できなくもなかったんですけど、まさかこれほどとは・・・・・。

 40ページ読む中でも、私にとって幾つも新たな発見や刺激になった部分が他にもたくさんあります。

 ほんとうに、すごい才能がある新世代精神科医が生まれたものである。

****

 それでも敢えて書いてしまいます。

 精神科医の皆様、熊木氏の本を読んでいて理解不能になったり、

「では具体的にどうすればそうしたセンスが磨けるのだ?
 これではアートだ!!」


・・・・などとお感じでしたら、どうか試しに、フォーカシングを、まずはご自身のセンス向上のためにお学びになって見てください(^^)

 きっと、スラスラ読めて、納得してしまいますよ!!

 

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2009/09/03

若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待

おゆとり様”世代を考える.(ココログニュース)

=========引用開始(若干改行を増やしました)========

 2002年度に“ゆとり教育”を導入した新学習指導要領。その頃に中学生だった人たちが今、成人を迎える時期にきている。物心ついた頃からずっと不況で、「貯蓄を重視」し「巣ごもり傾向がある」。

 その一方で『hanako世代』にあたる母親の影響を受け「ファッションには敏感」であり、それでも他人と比べるようなブランド物よりは、ユニクロなどのファストファッションを好む、といった特徴が見られるという。この世代を“おゆとり様”と呼ぶのだそう だ。

 高度経済成長期に熱い若者だった団塊の世代からは、「(おゆとり様には)社会人となり業務上で難題に対し、死ぬ気で何とかやり遂げようとする言動があるのかしら」と戸惑いの声があがる。

 身近な20代女性が「いかにお金をかけないで」楽しむことを重視しているのを見て「これが消費しない若者世代の モットーなのか(中略)そんな彼女たちのマインドにヒットする商品は なかなか難しい」(神戸ものがたり)と、彼らの消費行動が景気に影響を与えるとの見方も。

 一方で、ゆとり教育世代の息子を持つ『主婦だってがんばっちょる!』のブロガーは「どんな時代になろうとも地道が一番だし、何かあった時にやっぱり 必要になるのは貯金ですから」と、その堅実さを肯定する。

 また、“おゆとり様”の傾向分析やカテゴライズそのものに違和感を覚える人も多い。大学生と身近に接する人の中には、全体としてそのような傾向があることは認めつつ、「ファッション好き」と「貯蓄好き」の差は大きく、「別の物と思ったほうがいい」との意見がある。

 さらに「この多様化極まる時代にある 特定の層に“だけ”スポット当て、十把一からげ宜しくレッテル貼りの作業。もうこんな手法は飽きた」など、辛らつなコメントは少なくない。ラベリングで特 定の層を表現するのは、物事をわかりやすくしているように見える反面、肝心な部分を見落としてしまう可能性もあるのかもしれない。

(ははぎく)

=========引用終わり========

 先日、日本人間性心理学会第28回大会に出席したことはすでに述べた。

 この大会期間の中の2日間に、8つの時間帯の個人発表「枠」があった。この時間枠は、日本心理臨床学会大会のように互いに折り重なることはない。つまり、8つの個人発表を連続して聴くことが、参加者に可能な最大数であった。

 この折に、大学院博士後期過程在学中、ないし、少なくとも博士前期課程は修了して、臨床現場に出て数年以内の、非常に若い世代の臨床家たちの個人発表を7連続で「はしごして」回る形になった。

 正確に言うと、私が発表を聴いた中のお一人のみが中堅(というよりベテランの域に踏み込みつつある、私とほぼ同年齢の、学会でも著名な実力派カウンセラー)であり、残りの7人は、48歳の私よりも20歳は若い世代の方々だったのである。

 それらの人たちは、ここでいう「おゆとり様」世代よりはほんの少し上ということにはなるかもしれないのだが。

 事前に送られてきた論文集で目を通して、「ほう・・・・」と感心させられる"something"を感じた方の中からセレクトした。何とその結果、上の世代や同世代ではなくて、一番若い世代こそが、私の鑑識眼を刺激したことに、我ながら驚いたのである。

 これらの7名全員が、日本の「フォーカシング技法」および「フォーカシング指向心理療法」の「第3世代」というべき若手研究者・実践家である。

 もっとも、この学会は、フォーカシング関連の発表が非常に多い学会なので、同じ時間帯に別の教室でフォーカシング関連で発表される若い方すらいる(要するに、「裏番組」も観たい状態)・・・という苦渋すべき事態が頻発した。

 特に心理臨床系の個人発表のように、最低でも1時間の時間枠が与えられる発表についての、大会論文集上の抄録の情報量というものは、発表内容の全容を掌握するリソースとしては、実は不十分なものである。

 ですから、たまたま私が「究極の選択」に窮して会場に出向かなかった若手の発表者の皆様、どうか、別に阿世賀が「裏番組」の発表の方が優れているなどと判断したとは、夢にも思わないでいただきたい。

 私の身体はひとつしかないので、「行きたかったけど、行けなかった」だけです!!

*****

 全くおだてだとか餞(はなむけ)の儀礼などではなく、率直に申し上げたい。

 その7名の発表者の方全員が、私の期待以上の研究実践水準であった!!

 すでに我々フォーカシング「第2世代」(池見先生や、吉良先生、日笠さんや近田さんや村里さんや田村さんや天羽さんも含みます!)が、試行錯誤の中で日本に本格的に根付かせようとしてきた中で積み上げてきたものを、それぞれなりに「当然の前提」として咀嚼し、消化した上で、それぞれの現場に密着した問題意識を抱き、身につけた専門的なリサーチ能力を高度に駆使し、パワーポトントをはじめとする視聴覚素材での洗練されたプレゼンテーション能力も発揮 しながら、厳密な臨床研究手法で、一歩一歩前に進もうとされてる方々ばかりでした。

 池見先生や田村さんや私のような「古株」があら捜しすれば、確かにいろいろと理論的理解や技法実施上のテクニック、統計手法、研究デザインなどに関して、個々の問題点は指摘できますし、それらについては、その会場にいたこれらの先生方と共に、私も遠慮なく(でも簡潔に!)コメントさせていただきま した。

 しかし・・・・池見先生すらも休憩時間に私に漏らされたんですよ。

「『第3世代』は僕たちの若い頃の域をすでに超えかかっているのかもしれないね」

・・・と。

(注:日本のフォーカシング「第1世代」とは? 戦後しばらくして大学教育を受け、主としてカール・ロジャーズの「クライエント中心療法」や「非構成的エンカウンターグループ」の研究実践者として、1970年代までにすでに一定の業績を上げた先生方の中のある部分の先生方が、1978年に、ロジャーズの共同研究者でフォーカシング技法の創始者であるジェンドリンの来日を期に、フォーカシング技法の日本への紹介と摂取に尽力されることになる。故・都留春夫先生、我が恩師、故・村瀬孝雄、そして現在も活躍されている村山正治先生、大澤美枝子先生、白岩紘子先生、井上澄子先生をはじめとする、すでに60代以上の先生方を指します)

*****

 なるほど、今の若い世代の人は、私たちの若い時代に比べれば過酷な受験戦争を体験していないかもしれません。

 しかし、 こちらの記事で書いたこととも関連しますが、高度成長期からバブル崩壊前の楽観主義の中でしか、自分の進路や将来像を描けないまま社会に出てしまった世代に比べれば、自分たちが参入していく社会の現実をシビアにとらえ、自分の立ち位置と社会に出てからの歩み方について、非常に足が地に着いた考え方と判断力でやっていかざるを得ないように、子供時代から肌身で感じて育っていると思うのです。

 そのしたたかさが、実はこれからの日本を支える若い力になるのかもしれない。

 どうか、バブル崩壊以前に社会に出た、現在アラフォー「以上の」世代全体を、どんどん「実力で粉砕」して、「社会を動かす」側に回ってください。

 もし、言ってることややってることがヤバイと思ったら、本気で忠告します。必要を感じれば論戦も厭わない。

 いざとなったら、あなたたちを敵として、武器を手にとってでも、将来「内戦」するかもね!!

 それが、私の世代に、これからできることなのだと。

「おゆとり様世代の諸君、エースをねらえ!!」

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「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/06/11

壺イメージ療法とフォーカシング(第3版)

 以前にもご紹介したかとも思うのですが、改めて、現在九州大学で奉職されている、田嶌誠一先生(研究室情報はこちら。先生のメッセージもあります)の開発した「壷イメージ療法」について取り上げてみたいと思います。

 まず、壷イメージ療法についての田嶌先生ご自身の著作(単著、およびそれに準ずる著作)は次の二つです。

壷イメージ療法―その生いたちと事例研究(成瀬悟策監修)

 専門家向けの包括的な著作としては結局この本に勝るものはないのですが、中古市場でたいへんな高値がつく状況です。もちろん、伝統ある臨床心理系の大学院のある図書館には結構所蔵されている可能性が高いでしょう。

 研究会の、シンポジウム形式での発表と討論の記録という体裁をとっているのですが、そこで討論者に指定された先生方が超豪華です。

 倉戸ヨシヤ先生・栗山一八先生・中井久夫先生・増井武士先生・(我が恩師、亡き)村瀬孝雄先生。(司会はもちろん田嶌先生の恩師、成瀬悟策先生です)

 ・・・・もう、これだけで、一読したい若手臨床家の皆さんは少なくないかと(^^)

イメージ体験の心理学 (講談社現代新書)

 この本は、壷イメージ療法についての解説書というよりも、イメージ体験全般が人の変化に持つ意味についての平易な解説書という側面が強いので、「壷イメージ療法」の臨床現場での適用についての解説本を期待された読者には少し物足りないかと思います。

 ただ、田嶌先生の「イメージの体験様式の変化」論について、そのおおよそを掌握したい人には向いているかと思います。

*****

 この中の前者の著作で書かれていますが、壷イメージ療法のルーツは、あくまでも、田嶌先生の恩師である成瀬悟策先生のイメージ療法催眠療法です。いつの間にかフォーカシングのバリエーションとして生み出された技法であるかのように受けとめる人が増えていますが、この点は安易に混同すべきではないでしょう。

 更に、壷イメージ療法を、

1.気になる事柄について、
2.それを入れるのにぴったりの壷を思い浮かべて、
3.の中にその気がかりを入れて
4.蓋をして封印して、
5.置き場所を決めて「距離をとる」

・・・・そういう技法だと思い込んでいる皆様も少なくないようです。

 すでに10年以上前になりますが、私は、田嶌先生ご自身が講師のワークショップに参加して、こうした理解がいかに一面的だったかに重々気づかせていただきました。

 それ以来、私は、フォーカシングのインサイダーであるにもかかわらず、壷イメージ療法を行なう際には、田嶌先生のエッセンスを絶対に外さない、オリジナルほぼそのままを使うようにしています。

 現場の日常のカウンセリングでも「壷イメージ療法」は全くの「普段使い」の技法のひとつですし、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」や「フォーカシング個別指導」の場でも、ご希望があれば、いつでも「オリジナル・バージョン」のままでお伝えしています(^^)

 そこで、ネット上にいくつかある、「壷イメージ療法」についての解説記事よりも更にメリハリを明確にして、できるだけシンプルに、この技法の勘所の私なりの解説を試みてみたいとお思います。

*****

1.深呼吸などをして、リラックスできる態勢を作ってもらう。

2.「あなたのこころの中のことが入っているた、壷のような『容れもの』があると想像してみるのはいかがでしょうか?・・・・・・しばらくすると、浮かんできますよ」。

【Tips 2-1】・・・・・ここで肝心なのは、標準技法においては、先に、「こころの中のこと」が具体的に何なのか想像してもらい、次に、それを入れる壷を想像してもらうのではないということです(このことは、田嶌先生に直接ご質問してはっきりと確認済みです)。

 のっけから「自分のこころの中のことが入っている壷」をいきなり想像してもらうわけですね、こころの「内容(content)」は何なのかに意識的に注意を向けるように誘導することをむしろ回避し、contentは曖昧のまま、それを包含する「容れもの(container)」の方をイメージしてもらう方向に仕向けているあたりに大きな鍵があります。

 もちろん、こうした教示の結果、クライエントさん自身が、壷のイメージを見つけ出す前にせよ、見つけ出した後にせよ、自分から、「これは、○○についての壷」などと命名することはあるかと思いますし、それは当然受容的に受け止めていくことになりますが、それが何についての壷なのか、クライエントさん自身にずっとピンとこないままでも、壷イメージ療法を進める上では何も障害にはなりません。

 田嶌先生は、「あなたのこころの中のことが入っている」って何? と怪訝な様子のクライエントさんには、そこすらすっ飛ばして、ともかく壷を思い描いてみることを勧めてみることすらあると言われていたと記憶します。

(もちろん、応用編として、具体的な、扱いづらい課題や感情について、それを入れる壷を思い浮かべるという方法はあり得るわけですが)

【Tips 2-2】・・・・・「壷」という指定イメージは、たいていの人にとって思い浮かべやすいものなのですが、「いれもの」のようなものであれば、壷ではなくて、ビンだとか、袋だとか、箱だとか、ともかく、「容器めいた形状」であればいいことを多少示唆するサポートが役に立つクライエントさんも少なくないようです。

******

3.壷が浮かんできたら、少なからぬクライエントさんは、簡単な誘いかけだけで、「どんな壷か」について、形状や、そのたたずまい(かもし出す雰囲気)、更には、眺めているとどんな気持になるか、それに似た壷を以前どこかで見たことがある・・・・・などという話を、自分から物語り始めるので、それを受容的に受け止める(ロールシャハでいう「自由反応段階」みたいなもの)。

【Tips3-1】 大きさや形、色、陶器か磁器か、表面の材質、触り心地の感触など、いくつかの具体的観点から、セラピスト側から、控えめに若干質問してみるくらいはいいだろう。

 私(阿世賀)個人は、こういう時に、「どんな『感じ』がしますが」という言い方をオープン・クエスチョンで一般的な形で軽率に使いすぎること自体を回避したい気持ちが強い。それなら、せめて、「壷を眺めていてどんな気持ちがしますか」ぐらいに設定を明確にしたい。

 なお、私は、フォーカシングの場合には、フォーカサーがイメージ的な象徴化をしても、イメージそれ自体について、「大きさは?」「色は?」などどいう、イメージの具体的な詳細化を直接求める問いかけをすることをほとんど禁忌とすらしている(もっとも、夢フォーカシングだけは例外である)。 

 フォーカシングにおいてイメージは不可欠に必要な過程ではない。アン・ワイザーのいうがごとく、イメージは、身体感覚や情動や、気になる事柄についての具体的な語りなど、フェルトセンスが響きあういくつかの側面の中のひとつであるに過ぎない。

 フェルトセンスをとりあえずつなぎとめるためのハンドルとして生起したイメージは、リスナーやガイドからの具体的な詳細化の求めがあると、フォーカサーのフェルトセンスから離れて「一人歩き」し始める、むしろフォーカサーに体験過程の軌道を見失わせるからである。

 ところが、壷イメージ療法の場合には、壷のイメージをリアルに具体化させる方向に若干誘導する(=拡充する)ことそのものが、促進的なブロセスとみなしていいようだ。

 つまり、ロールシャハで言う「質問段階」みたいなものにある程度踏み込んでもいいということである。

(そもそも、壷という課題を提示したのは治療者の側であるため、クライエントさんの中で固有のイメージ化のプロセスを具体的に促進する援助が必要ということにもなるのだろう)

 この点で、私は壷イメージ療法とフォーカシングとでは、そもそもイメージについての質問や応答のしかたそのものをはっきりと使い分けている。

 もっとも、クライエントさんの語りを丁寧に受け止めていけば、そのような喚起的質問は最小限でも、クライエントさんは、思いの外自発的に、細やかにこうした語りを紡いでいくものであり、性急に質問を繰り出すのは、本人のプロセスを妨害するだけであることは、両技法共に変わりがない。

******

4. 「他にも浮かんでくる壷はないか?」と問いかけ、2..-3.までの段取りを繰り返す。

 田嶌先生自身、「ひとつしか壷が思い浮かばない人の場合の方が注意を要する」と、1つ目の著作でお書きである(p.57)。「1つの壷の中に多様なものを含みすぎている状態であろうと思われる。ただし、『他にもあるけどはっきりしない』とか『たくさんあるけど一個だけはっきりしてる』という場合はこの限りではない」(pp.57-8)という示唆は興味深い。

 私の経験では、意外と少ないのは、個数が2個で終わるケースである。3個や4個というケースは、壷の形状とそこから語られる連想もバラエディに富み、セッションとしてまとまりがいい気がする。「序・破・急」あるいは「起・承・転・結」ということを連想させる不思議な順序で壷自体が浮かぶのである。

 つまり、単にこころのいろんな側面の表れというより、新たな壷について語られ出した時、新たな体験過程のステージが開かれていくばかりか、治療者がそれにうまく付き添う限り、新たな壷の登場そのものが、そのセッションで可能な範囲での無理のない「人格再統合」すら暗々裏に指向しているかのようなのである。

 (ここまでは田嶌先生は言われていない。ただ、私の場合、フォーカシングにおいても、clearing a spaceを進めていくことは、思いよらない新たな気がかりに『気づいて』いくことであり、丁寧にclearing a spaceが進むと、すべてを積み出した時には、単にすっきりしたというのを超えた大きな気づきを伴うシフト体験にすでになっていて、それ以降のフォーカシングの部分は不要とフォーカサーも感じていることが少なくない現象を早くから指摘してきた立場(阿世賀,1992)なので、私が療法家として新たな壷を思い浮かべていってもらう過程でも、類似のことが生じやすいとも想定できるかもしれない)

******

 5. とりあえずの、ちょうどいいいくらいの壷の「置き場所」について「相互調整」してもらう。

 【Tips4-1】田嶌先生のオリジナルに従えば、一つ一つの壷に「ちょっと入ってみて」配置を決めるのだが、私は、壷を眺めていての心地だけで決めてもらうことしかやったことがない。

 一般的に言えば、なじみやすい壷を手前に置くことになるだろう。「ちょっと奥に置いて眺めてみるのもいいし、右手寄りでもいいし、左手よりでもいいし・・・・」ぐらいの曖昧な示唆しか与えない。置き場所に高低の「段差」があったほうがいいので「台」や「棚」や「スロープ」を自発的に設定してしまう人もいる。

 この段階で、自発的に、「実家の土間に置いてあるイメージが浮かぶ」とか、自発的に具体的なことを語る人も出てくるし、中には「腕の中に抱えていたい」などと、思いもよらないことを言い出す人もあるが、受け入れている。

******

6.一番入りやすそうな壷を選んでもらい、壷の中にゆっくりと入ってみて、じばらく中の居心地を味わってみる→出てきてもらう→壷に蓋(ふた)をする

 田嶌先生自身、これは無理な人にやってもらう必要はないことを強調している。このステップを最初から省略する前提でもいいように思う。田嶌先生自身短いワークショップではこの部分を割愛している。

 この「入ってもらう」体験は、一般に思われているよりは、恐ろしい体験として本人に体験されることは少ないようである。

 ただし、仮に壷に「入ってもらわない」ままで済ませたとしても、個々の壷との関わりの終了の前に、「蓋(ふた)を見つけてもらう」ように促すことは大事なことである点は強調したい。

 しかも、どんな蓋がいいかを吟味してもらうプロセスが大事である。 コルクの栓という人もいれば、油紙やラップを何重にも重ねたものを壷の口に載せ、紐でぐるぐる縛りあげる人もあるかもしれない。

 このことと延長して、壷そのものの「梱包」まで進むのが自然な人も少なくない。「壷が本来入っていた木箱に納めたい」というような人も少なくない。

 私の場合には、個々の壷の栓のしかたと、その日のセッションの段階でのその壷の「置き場所探し」は、連続的な手続きとして進めてもらうことが多い。

 「置き場所探し」に関して、私は「それは現実の場所でもいいですし、空想上の場所でもいいです。この面接室の中のどこかでもいいです。(小さな壷の場合)もし、持ち歩きたいというのでしたら、それを入れるための空想上のバックやポーチをしつらえてもいいですよ」

などとアドバイスします。少し変わった例では、「その壷を置いた建物の『外観』を写真に撮ってパスカードに入れて持ち歩くつもりでいたい」というような例もあった。

 「栓のしかた」と「置き場所探し」は、私の見たところでは、実は別々のことではなくて、多くの人にとって、相互補完的なワン・セットの段取りのように思う。

 中には、「別に蓋をしなくても大丈夫です、実家の神棚のお神酒のところに置いてあるつもりになれば」などと、置き場所にだけこだわれば十分という人も珍しくはないように思う。これは、私の場合、以下に述べるとおり、壷に「入ってもらう」ことを滅多に行なわないことも深く結びついているのではないかとも思えている。

 実は、私の場合、この「入ってもらう」段階は、面接現場ではほとんどの場合省略している。それは、ここまでのプロセスですでに十分すぎるほどのことがクライエントさんとの間で進んでいる気がしてならないことが多いからである。

 少なくとも、この「入ってもらう」部分を、壷イメージ療法におけるクライマックスとして想定する必要はなく、むしろ、可能な人向けの追加オプションと見なしてもいいのではないかとすら私は判断している。

 では、壷イメージ療法の中で一番肝心なことが生じているのは?

 実は、壷を思い浮かべて、無理のない距離感で、しばらく壷の様子を味わった、その段階だと私は思っています(^^)

 この点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスをつかまえ、無理なくしばらくそのそばに『共に-居られた』経験それ自体を繰り返し可能になれることが大事で、後のことは無理して引き起こすことではないというのと似ているかと思います。

******

 
7. 次の壷に入りたければ、6.と同じようにして入ってもらう→壷の置き場所を見つけてもらう。

8.そのセッションで相手をしなかった壷についても、蓋をしたり、置き場所を見つけたりが必要なものもあるだろう。強迫的にすべての壷の封印や置き場所探しは不要で、「目を開ければ消えてしまう」ということでいいという壷もあるかもしれない。

 しかし、セッションの中で不快な、あるいは不気味な印象のみを残したり、混乱させたり、後味の悪い壷については、封印や置き場所探し、あるいは、田嶌先生自らが「補助的技法」として紹介している「金庫に入れて、鍵は治療者が預かる」という厳重なやり方、更には「次にこの面接室に来て、また開ける気になった時まで、その壷を一人で家で開けてみたりは決してしない」という約束などが重要なこととなるだろう。

 私は、この「この面接室だけで壷の蓋を開けよう」という約束を興味深く思っている。面接室の中で、クライエントさんが壷との関わりでそこそこ安全な体験をできたのも、実は、治療者がクライエントさんの内面の"container"(ビオン的な意味を込めてもらっていい)としての役割を果たし、更に、面接室とい特殊な心理=社会的かつ物理的な「容れもの」空間にも保護されていたからだと言えるかと思う。

 面接室の一歩外に出たら、あの冷たい世間の風なのだ。あるいは、家に帰ったら、家族との関わりの中で心の壁にたくさんの弾痕ができている人も多い。そういう人が、面接室と同じような調子で壷のふたを開けたら、自分自身のこころのcontainerだけでは中からあふれ出してくるものに対応できない可能性は高い。仮に時折壷を思い出しても、外側から眺めたり、撫でてみる程度までにとどまっていれば、実は安全度が高い形で、日常に裏面的なプロセスを持ち帰っていることになると思える。

******

 壷イメージ療法の最大の逆説は、心の"内容(content)"に具体的に注意を向け、言語化し、表現し、説明・分析していくという、対話的心理療法の方向性を逆手に取り、「壷」という、誰にとっても視覚イメージが喚起しやすいばかりか、ディティールが細やかで皮膚感触的な感覚性も高く、太古的・原型的で、人間の身体構造のアナロジーともなる絶妙な指定イメージのもつ、

「具体的な中身(content)を包み隠しつつも安全に保持するが、密閉はされていない『容れもの(container)』」

を思い浮かべて味わうことに、巧妙にすり替えている点だと思う。

 「すり替えて」という言葉は今の私にとってもぴったりではないが暫定的に採用したい。

 少なくともここで私が言う「すり替えて」とは、いい意味での「すり替え」なのだ。ただのガムの銀紙を金箔に「すり替える」みたいな方向での。

 目に見え、触ることもできる『容れもの』をイメージ的・身体感覚的に観照し、味わい、体験することは、ユング風に言えば、その『容れもの』の中で胚胎され、発酵していく、たましい(soul)そのものの変容過程という、目に見えないし、言葉で説明しきれないものに関わるのだと思う。

 神田橋先生ふうに言えば、実はファントムに過ぎない「言語化まみれ」の泥沼から「こころ」を救出し、大事に守り育てるための、ひとつの営みなのだと思う。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

 壷イメージ療法の効能について、旧来の心理学や精神医学の力を借りればさまざまな説明ができる。でも、それらによって説明し尽くそうとすることと、この優れたアプローチを、現場で臨床家がどう職人的に役立て得るかは別次元の問題であろう。

 どうも、フォーカシングの方が、壷イメージ療法よりも「難易度が高い」技法のようだとは、私すらも感じています(^^;)

****

 なお、田嶌先生が理事長をお務めになる形で、NPO法人として、開業カウンセリングルームが、福岡市の西新プラザで開設されています。

 詳しくは、

●九州大学こころとそだちの相談室

サイトをご覧下さい。
    

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2009/04/22

性懲りもなく、すぐに立ち直ることを繰り返す、「アメリカ人」というものの、光と影を象徴  -『風と共に去りぬ』についての「自我同一性地位」の観点からの考察-

 たとえ何が生じようとスカーレットは立ち直る。

 たとえ何が生じようと、スカーレットはアシュレーと自分との恋という幻想を振り払うことができないままでいた。少なくともアシュレーの夫となった従姉妹メラニーが死んでしまうその時までは。

 スカーレットには、非常に根本的な次元で、アシュレーの抱く心の闇、現世へのペシミズムへの基本的共感性が欠落しているから。(もとより、アシュレーはまだ死んでいない以上、スカーレットがこの煩悩からほんとう目覚めたのかどうかすら定かではない)

 この点からすれば、レッド・バトラーは、そういうスカーレットに巻き込まれたひとりの等身大の男性であるに過ぎない。

 彼ですら、暖かい家庭を夢見た。子煩悩そのもので、結婚後、地域の人と折り合うためなら、柄にもなく会釈を繰り返した。

 かなり久しぶりにBSで全編を通して観た時、レッドの最後の捨て台詞、

「そんなの知ったことか!!」は、

決して冷たいものではないばかりか、むしろスカーレットに残せる、精一杯の屈折した愛の言葉にすら響いた。


 それに比べるとスカーレットは何を考えているのだ?


 「そうだ! タラに帰ろう!」sign02 

1860年代当時、タラはオハラ家にとって、いったい何年前からのふるさとだ???

どんなに長く見積もっても、1世紀前に移民していた(ましてや、タラにたどり着いていた)わけではあるまいに。

.......言いたかないけど、究極的にはネイティヴの住民から搾取した土地でしょうが。


****


 そういう、半ば幻想とごまかしに満ちた、フィクションとしての自らの「ルーツ」へと、スカーレットは、「ご破産で願いましては」とばかりに立ち返っては、周囲を巻き込んで、一から出直し、工場主の妻になっていたかと思えば農園主になりなど、やれることは何でもやって、そのたびごとに立ち直ってしまう。

 それはどこか、青年期のモラトリアムにおける「役割実験」の繰り返しのようだ。ある観点からすると、スカーレットには決してアイデンティティの確立に行き着くことはない。

 なぜなら、自分が周囲を巻き込んでしでかしたことへの根本的な反省と、そうした「業(ごう)」を背負っての再出発の中で、以前と似た螺旋をめぐるようでいて、ある種の深みが増していくというプロセスまでは、彼女に見受けられないからである。

 そしてこれこそ、多くのアメリカ人が背負い込んでいる、「歴史を反省する能力」が基本的な欠落したまま、「性懲りもなく同じ過ちを繰り返す」傾向のまさに典型的・象徴的な表現なのだ。

 その意味で、この映画ほどにアメリカ人を感動させる映画はあり得ず、同時にアメリカ映画というもののいやらしさをこれほど完璧に描き切ったと感じさせられる形で立ちはだかる、我々にとっての「大きな壁」というべき"The Movie"である。


*****


 しかし、アイデンティティ論のエリクソン自らが明言している。

 アイデンティティを、青年が社会に出立してさほど立たないうちに一度確立されれば生涯を保障してくれる「達成」のように誤解してもらっては困る....と。

エリクソン/幼児期と社会 1 (1)

エリクソン/幼児期と社会 2 (2)

 ある観点からすれば、人は、いったん確立されたかにみえるアイデンティティに安住できないまま、再び「役割実験」に踏み出す一生を、生涯の間に何回か繰り返す。

 戦争や経済、産業、科学の進歩の伴う社会変動、天災・事故、別れ、年齢や体力の衰え、子供の巣立ちなどの中で、人はそれまでの自分のやり方が通用しなくなるのを感じ、新たな「危機」に直面し、リスクを背負ったチャレンジをはじめる。

 その意味からすれば、スカーレットの生き方は、我々の、等身大の写し身であり続けるだろう。

 心理=社会的アイデンティティの確立そのものが、そうやって、生涯にわたって少しずつ更新されていくしかない、状況との相互作用としての「体験過程」のステップなのである。それこそがエリクソンのいう意味での、心理=社会的「ライフサイクル」ということになる。

 恐らく、我が師、村瀬孝雄の生涯の最後の数年が、エリクソンとフォーカシングの両方にささげられたことの核心は、師が、両者のこの「接点」に深く気付いていたからこそだろう。

エリクソン(著)、村瀬孝雄・近藤邦夫(訳)/ライフサイクル、その完結

●風と共に去りぬ(1939) - goo 映画


*****


 現代日本の行き詰まりは、そうした個人や社会の更新過程の必要な危機に際して、むしろ、「モラトリアム」→「アイデンティティの確立」→「モラトリアム」→・・・・・というらせん状のバリエーションとして前に進めるプロセスが停滞し、横道に入り込んで袋小路に行き着き、固着(fixed)しやすいという点で、他の多くの国や地域以上に危機的な状況にあることかもしれない。


 では、その横道の袋小路の具体とは?

 実は、それを更に明快に2タイプに分類した、研究者には知れ渡っている業績がすでにある。

 Marcia,1966は、自我同一性の問題への対処の仕方を4つに類型化し、「自我同一性地位(Ego Identity Status)」と名づけた(図表参照)。

 (詳しくは、波戸香織「青年期の自我同一性の達成に関する研究動向 -現代日本における同一性形成要因を探る-」学校教育 A00-1835 参照)

 現代日本とは、この4つの同一性地位の中の残り2つ、すなわち、

「同一性拡散」(Identity Diffusion)と、「早期完了」(Foreclosure)の間を、青年期以降はひたすら悪循環的に性懲りもなく往復するだけの、成熟を知らぬ時代である。

 何しろその「同一性拡散」と「早期完了」の往復しかできない、今の日本の典型的人物が、(直系ではないが)二世議員でもある、我が郷土、福岡と縁が深い、現「総理大臣」なんだから、あまりも象徴的ではないか!!

「同一性拡散」から、あるいは「早期完了」から、再び「モラトリアム」的役割実験のステージに立ちなおすという、細くて曲がりくねった獣道のような隘(あい)路(ボトルネック、難関)を潜り抜ける勇者が(世代や年齢に関係なく)少なからんことを!!

そして、「早期完了」に過ぎない人たちが、まるでアイデンティティを確立した大人であるかのように振舞い続けることを打ち砕くだけの、社会の柔軟性という土壌と、神のご加護がありますことを!!


****

 なお、「同一性拡散」と「早期完了」という、この2つの概念のうち、今日、この中の"Foreclosure"の定訳扱いをされている「早期完了」とは、先述の、恩師村瀬孝雄の案出した訳語である。

 そこにジェンドリンの体験過程理論において”incomplete"を「未完了」と訳さずにいられなかった村瀬の中で、こだまのように響きあっていた言語連想があると想像することは、決してこじつけとはいえまい。

 {見かけ上「完成されて(complete)」いるが、実は、内的葛藤のworking throughを経ずして先行世代の規範を取り入れただけで、実は真の心理=社会的相互作用の過程を経ての自己確立ではない}体験過程の状況との相互作用が真に推進しないままでincompleteにとどまっているのが、まさに"Foreclosure"だからである。


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