ハンガリーに生まれ、フィレンツィに師事し、その後ドイツに渡り、更にイギリスに移住した、精神分析的対象関係論の大家、マイクル・バリント(ハンガリー読みにすると、姓と名が日本と同じで逆転するので「バーリント・ミハイー」)は、日本ではもっぱら故・土井健郎先生の「甘え」理論を国際的に紹介し、「甘え」理論との類似性で「一次的対象愛」という概念が精神分析系の専門家の間で人口に膾炙しているに留まる。
しかし、バリントの真の集大成、主著というべき著作は、中井久夫先生の、もはや「原著を越えた超訳」とまで呼ばれる邦訳で、知る人ぞ知る、「治療論からみた退行」(原題:"Basic Fault")である。
マイクル・バリント/治療論からみた退行
今、「超訳」と申し上げて置きながら、いきなりこのことに言及するのは気が引けるが、中井先生と縁が深い山中康裕先生が、たしか雑誌「こころの科学」で本書を紹介するにあたって、中井先生が、"Basic Fault"を「基底欠損」と訳し、その訳語が日本で普及してしまったことに対してだけは、敢えて唯一注文をつけておられる。
山中先生曰く、「"fault"というのは地学でいう『断層』のことであり、何かが『欠けて』いるというのとは随分ニュアンスが異なるのではないか」。
・・・・ ごもっともな指摘である。
「基底欠損(Basic Fault)」という概念を一言で説明するのはたいへん難しい。日本ではそれをまるでボーダーライン的心性と同一視するかのような理解がされがちだったように思う。
確かに、バリントは本書の中で、「基底欠損」を、プレ・エディプス期の問題として位置づけてはいる。しかし、その切り込み方が、メラニー・クラインとも、マーラーの分離個体化理論を援用したマスターソン(「青年期境界例の治療」)
とも異なる、独自の視点を持っている。
私のみたところ、「基底欠損」の理論は、単なるボーダーライン性よりも幅広い現象を内包しているように思える。控えめにみても共通部分を持った、すっかりとは重なり合わないベン図のような構造になるのではなかろうか?
バリントは、ウィニコットと共に、アンナ・フロイトの創始した「自我心理学」とも、「クライン正統派」とも一定の距離を維持する「独立学派」のひとりと呼ばれる。
確かにウィニコットとの接点はたいへん大きい(それどころかビオンとの接点ですらバリントは本書で明言している!)。そして本書の「仮想敵」は、後述するように明確にメラニー・クラインであり、クラインへの批判に紙数を割きすぎたのが、少なくとも日本人の読者にはまどろっこしいのではないかと、訳者の中井先生ご自身が解説で感想を漏らしておられる。
だが、ウィニコットの諸著作が日本でも熱心に読まれるのに比べると、バリントが本書で展開した独自の理論と治療的示唆に関心を持つ人は少数派であろう。
そうなった最大の原因は、バリントがすでに先行する著作、「スリルと退行」の中で確立していた独自の新造語、オクノフィリアとフィロバティズムという概念が、本書においても、更に発展された形で鍵概念とされていることが一見難解だと感じさせられることが大きいかと思う。
マイクル・バリント/スリルと退行
*****
この2つの鍵概念についての概説に入る前に、バリントがなぜクライン理論にあそこまで反発したかという、本書の前半で展開される内容について私なりに概説したい。
クラインやウィニコット、バリントは、神経症より重篤な事例に関連して、フロイト以降に展開され、プレ・エディプス期の早期対象関係を重視した、広い意味での「精神分析的対象関係論」に属することには変わりがない。
広義の「対象関係論」とは、噛み砕いていえば、現実の「外的」他者の態度の摂り入れ(introjection)としてのみ人の自我形成過程をとらえるのではなく、個人内部での、一種の内的ファンタジーとしての「内的な」他者=「内的対象」との関係形成過程を重視する立場である。
こうした観点は、実はフロイト自身もある程度予見し、示唆していたことでもある。そして何よりユングが「内なる他者」としてのアニマ・アニムス・影などとの交流過程を重視した先達なのだが、どうも対象関係論の人たちは、ユングを先達とみなすことは回避する傾向があるようだ。
しかし、クライン正統派の場合、現実世界に存在する「外的対象」としての養育者の持つ意味が明確化されない「独我論」ではないかという批判は早くから生じた。
そこで、ウィニコットは「内なる養育者」との関係と、「外的な他者」との関係を統合的に説明しようといいう方向性を強く打ち出し「錯覚(illusion)」「脱錯覚(disillusion)」という概念を巧妙に媒介とし、幼児の外界との一体化という「錯覚」に巧妙に応える時期から、次第にそれを遅延化させ、「脱錯覚」へと導き、信頼できる他者との成熟した関係性を確立する上での"good enough mothering"=「そこそこいい養育者」、あるいは「環境としての養育者」についての理論、あるいは養育者自身の代理、他者との継続的な関係性の媒介物ともいえる「移行対象」の理論、あるいは、親密な他者と共にいながら、それぞれが自分の世界に没頭できる能力形成が果たす役割を表現するための逆説的概念、「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」、そして、ここでは概説しないが、「遊ぶこと(playing)」が治療関係で持つ意味などを次々に考察した。
ウィニコットのこれらの最重要理論のほとんどは、
情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書 第 2期第2巻)
遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)
・・・・この2冊だけで掌握可能である。
バリントは、ウィニコットとは別の切り口から、プレ・エディプス段階における「内的対象関係」と「外的な他者との関係性」が果たす役割について統合的に考察しようとしたのである。
このようにして、正統クライン派とも一線を画することをはっきり表明した分析家の一群を、フロイト以降の精神分析の領域で、狭義の「対象関係学派」あるいは「独立学派」と呼ぶ。
*****
さて、前置きが非常に長くなったが、いよいよバリントの中核概念である「フィロバティズム」と「オクノフィリア」について概説しよう。
バリントがクラインを批判する最大の立脚点は、「対象(object)」という概念それ自体にある。クライン理論は、対象関係=他者との関係を、まるで真空の中に浮かんでいる完全に自主独立した二つの固形的「物体」との間の相互作用のようにとらえているのではないか? 「対象(object)という概念それ自体の中に"objection"=「反発性がある」、輪郭が鮮明な「固体」的なものという含意があることにバリントは注目する。
我々は、成熟してから後ですらも、ある意味で「前-対象(pre-object)」的な係わり合いの中にしか生きていないのではないか。ここでいう「前-対象」とは、バリントにおいては、もはや人間以外のすべての諸事象との関わり全般にまで拡張される。
つまり、世界の諸事象と「調和的=相互浸透的渾然体」として融合されたあり方でしか存在していないという側面を背景として、現実の他者との関わりも考えるべきであるというのがバリントの視点である。
そもそも「空気」がなければ人間は窒息することなど、普段は忘れているではないか?
「魚とって、エラの中に存在する水が果たして『環界』なのか、魚の『内部環境』なのかを問うことに何の意味があるのだ?」と。
これは「独立した自我を持つ主体」同士の交流を成熟した対人関係様式としてとらえる、欧米的な個人主義的な自我観を自明の前提としている人たちにとっては、何とも難解でぶっ飛んだ論の進め方に感じられたであろう。欧米で、正確に理解できた精神分析流域の専門家は稀れではなかったと推測できる。
しかし、バリントには、東洋的な色合いも強く残した故国ハンガリーの血への基本的な共感が失われてはいなかったのだろう。
人も万物もすべて同じ地平で眺めるという、非キリスト教的(いや、ユダヤ教やイスラム教にもそうした視点はない)=異教的な感性が脈々と受け継がれていたのであろう。
ところが、数学・物理学・経済学の分野で名高いフォン・ノイマンをはじめとする数々のノーベル賞級科学者、科学哲学者ポランニから、指揮者(ライナー、セル、ショルティ、ドラティ)・作曲家(バルトーク)・音楽家(ブダペスト弦楽四重奏団)まで、非常に優秀な人材を一気に輩出した、第1次世界大戦後の長期にわたる度重なるハンガリー動乱の連続(1918-1956)の下での亡命ハンガリー人の知的階級の多くは、異国のでサバイバルのために、非常にタイトで厳格な方向のにのみ自分の技能を研ぎ澄ますところがあった気がする。クラインもその一人であろう。
バリントがその道を歩まなかったのは、師、フィレンツィが、フロイトの時間厳守、中立性の原則を打ち破り、ついには心労で命を縮めた治療法の潜在的可能性を引き継いで完成させることを生涯の使命としたことが大きいようである。
*****
さて、プレ・エディプス期において問題があった人="Basic Fault"を潜在的に抱えた人は、治療的面接場面が進むと、独特の退行様式を取り始める。
それが「オクノフィリア」と呼ばれる現象である。
オクノフォリアは、対象との全き融合の幻想が維持されることを求める。しかもその際に、対象と自分の間に「空隙」があることを「恐怖」する(「オクノフィリア」というギリシャ語をバリントが創出した背景)。
その結果、対象が、自分の欲求を絶えず気遣い、先回り的に配慮してくれて「あたかも鍵穴に鍵をぴったり合わせてくれるように」対応してくれないと我慢がならないという状態になり、治療者を徹底的に翻弄する。そこにはすでに「通常の成人言語水準でのやりとり」は無力化する。
治療場面のみならず、家族など親密な関係を持つ人物相手に、こうしたオクノフィリア的心性を顕わにする人たちは決して稀れではない。子供が少しでも「気が利かない」と逆上し、子供をいつまでたっても自分を補完する存在としてしか取り扱わない親など典型であろう。こうした親は、実は子供の方に際限なく「甘えて」いる現実に無自覚なままなのである。
*****
ところが、この世には、「世界との完全な調和的一体感」を指向する点ではオクノフィリアと同じだが、全く正反対のアプローチを身につけた一群の人たちがいる。
その人たちは、自らの持てる身体的技能(skill)を極限まで磨き上げ、古代ギリシャ以来「四大元素」と呼ばれたもの、すなわち「地(土)・水・火・風(空気)」をすべて自分の味方につけたかのような錯覚と万能感の中に生きている。
これら4つの対象は、輪郭がはっきりせず、自由に形状を変容させ、対象を「包み込む」ことができるという点に特徴がある。
典型的なのは、飛行機乗りやレーサーを一方の極とするスポーツ選手、演奏家、曲芸師などであろう。
私流に言えば、「キャプテン翼」の「ボールは友だち」の世界である。「自分が」ボールを巧みに操っているのではない。「ボールの方が(そしてそれを包む空気やクラウンドの土の状態が)、まるで自分に『協力してくれている』かのような錯覚の世界にある。
彼らにとっては、世界とは自分にとって「友好的な拡がり(frendly expanses)」として通常は機能してくれる。
一般の人からすると危険でスリリングすぎる活動に身を投じることこそ、彼らの生の充実感、世界との一体感を支えている。中途半端なややこしい「社交的な」関係なんてほんとうはできるだけ回避したいくらいなのだ。
(もっとも、フィロバティックな心性を持つ人の中にもオクノフィリア的心性は存在することをバリントは言い忘れてはいない。安心して深い絆を形成できる人物に「見守って」いてもらえていることが支えとなっていることが多いというのだ)
一芸に秀でたスキルで世を渡っていくという点からすれば、非常に幅広い職種の人が含まれることだろう。アニメーターだって、ある意味ではカウンセラーだってその種の人間であろう。
このような存在のあり方を「フィロバティズム」と呼ぶ。
フィロバティズムを生きる人にも弱みはある。自分のスキルに故障が出た時。心身が燃え尽きた時。あるいは突然の気象の変化や機器の故障が生じた時、彼らは失調するばかりか「事故死」の危険と隣りあわせということにもなるのだ。
自らが死や破滅と隣り合わせの生き方をしていることに、誰よりもフィロバティズムを生きる人たち自身が気がついている。それゆえに、安心してくつろげる、気の置けない対人関係も、限られた人たちとでいいいから大事にしようとするはずだと、私は思う。
*****
さて、バリントが、治療関係において必要なのはどういう関係であるかについて述べた部分を引用して終わりとしたい:
========引用はじめ========
分析の場における沈黙の意味には二つあるだろうということには皆同意していただけると思う。ひとつは恐ろしい空虚という戦慄的な体験をしている場合である。空虚は疑惑に満ち、敵意に満ち、拒絶に満ち、攻撃性に満ちている。前進を阻む沈黙であり、結局不毛に終わる沈黙である。しかしまた、沈黙がおだやかな静かな調和体験の場合もある。平和と信頼と受容という雰囲気である。つまりおだやかな成長の時期、統合の時期でもありうるのだ。分析家にもっとも必要なのは、今向かいあっている沈黙がどちらの型なのかを識別することである。
フィロバティズム的偏向をもつ技法においては、おそらく、解釈をわずかしか用いないだろう。特に退行した患者に対する時はそうなるだろう。分析者はたえず患者を見て、[次の]どちらの態度をとるべきか考えるだろう。すなわち、個別的な対象の役割をとり、退行した患者を安全な距離が見守り、この冷静で客観的な視座からことばで綴った解釈を与えて理解を求めるのがよいのか、あるいは自分も「友好的広がり」の一部と化して、何一つ要求せず、ただ息をしているだけの存在としてあり、患者に欲求が起こればさっそく役に立とうとする構えだけは持ちつづけるのがよいのかを考えるのである。(中略) 最大の危険は、この技法が患者にあまりに多くをゆだね、早すぎる時期に大きすぎる独立性を押しつけることであろう。 (中略)
[もう]ひとつはオクノフォリックな方法であって「患者の手をとって」ゆく方法である。どうしてこの動きをしてあの動きをしなかったのかを一貫性を以て解釈してゆくことである。ここに内在する危機としては、患者が分析家を理想化してこれを寛大で慈愛こもった人物として取り入れるように誘導する恐れがある。こうなると患者の自由が制限されて、理想化された対象が処方し許容してくれる範囲から出られなくなってしまう。
自由とは、私の考えでは「友好的広がり」の再発見のことである。それはフィロバティックな世界の中にあって、成人的なスキルを身に付けることを要求するものであるが、その背後には、何も要求せずに抱きかかえてくれる一次愛の世界が控えている。誤解されると困るので、「友好的広がり」の再発見があらゆる対象を完全にあきらめることを意味するものではないことを言っておかねばならない。
そうではなくて、それはただ、[オクノフォリックな]絶望的なしがみつきをやめて対象から一定の距離を置いて独りで立つ能力すなわちスキルを身につけるだけのことであり、そしてそうすることは対象を「正しい釣り合いにおいて」眺め、「真のパースペクティヴ」の中で対象を獲得するために必要なのである。
新規蒔き直し(new beginning)時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。分析者は存在していなければならない。分析者は高度に可塑的でなければならない。あまり抵抗してはならない。破壊不能性を示さねばならない。これは確かなことだ。また一種の相互滲透的調和渾然体の中で分析者と共に生きることを患者に許容しなければならない。(中略) おおよそ、友好的物質という、一点の曇りない調和体だけがあり、その中から対象が成立する以前の体験である。
[退行の]良性形では、患者はさほど外的行動[を治療者に「してもらう」こと]による満足を求めず、それよりも外的世界を活用して自己の内面の問題に前途の途がひらけること、私の患者のことばを借りれば”自分自身に到達できるようになること”をそっと認めていてほしいと希う。(中略)
認識されるための退行(中略)では、あたかも大地や水が己れの体重を安んじてあずける者を支え返してくれるように、患者を受容し支え荷うことを引き受ける周囲の人々のいることが前提である。物質としての治療者は抵抗してはならない。引き受けねばならない。あまり摩擦を起こしてはならない。患者をある期間受容し荷い、自分は潰れないことを示さねばならぬ。境界線を越えないぞとつれなく言い通してはならない。患者と自分との一種の渾然体の発生展開をゆるさねばならない。
以上はすべて、患者に同意し、関与し、巻き込まれることを意味するが、必ずしも具体的働きかけをする意味ではない。ただ理解と寛容だけでよい。ほんとうに大事なのは患者の内面つまりその心の中でさまざまの出来事が生じうる条件を維持し創造することだ。[分析者は患者を積極的に荷おうとはせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。すなわち患者のために存在し、またそうされることにあまり抵抗を感じないで患者に使用されることである。
我々は立居振舞(behavior)、空気(climate)、雰囲気(atmosphere)などのことばを使うが、これらは皆、漠然としたカスミのかかったような、画然たる境界を欠くものを指すことばで、(中略)にもかかわらず”雰囲気””空気”というものは存在し、感じ取られ、しばしばことばでの表現を要しない。(中略)
”洞察”とは的を得た解釈の結果生まれるものだが、洞察が生まれるにふさわしい対象関係が創出されたならば、その結果は一種の”感じ(feeling)”である。
”洞察(insight)”が視覚と対応するとすれば”感じ(feeling)”は触覚と対応する。すなわち一次関係かさもなくばオクノフィリアである。
ある一種類の対象関係に硬直的に固執すべきではなく、いつでも患者とともにオクノフィリア的とフィロバティズム的の両原始世界を往復する心構えが必要であり、時には両世界の彼方の一次関係まで行く心構えがなければならない。(中略)
解釈は、分析者が「患者は確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。こういう時に解釈を与えないことを不当な要求あるいは刺激と感じるだろうからである。(中略)
仮に分析者が以上の条件の大部分を留保ぬきで誠実に満たすことができれば、ここに新しい関係が生まれ、それによって、患者は、自己の精神構造の欠損あるいは瘢痕形成の原因となったそもそもの欠陥と喪失の悔みと悼みをある形で体験できるようになる。その悼みは、現実に愛する人の喪失や、内的対象への打撃あるいはその破壊という、メランコリー[抑うつポジション]特有の事態が原因で生じる悼みとは全然別物である。
私がいま頭に抱いている悔み悼みとは、自分自身の中に欠陥・欠損があるという動かしえない事実に対する悔みであり悼みである。(原注:この悼みは、元来基底欠損に対する過剰代償として生じたらしいナルシシズム的自己像を断念すること[こういちろう注:世界との、他者との全き調和の断念。自己のスキルに対する万能感の断念…とも読解できよう]と関連した悼みである。(中略)
分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈によって維持できるならば、患者と分析者の共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である。
========引用おわり========






最近のコメント