四日市

2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/03/27

治療関係のベースライン(第2版)

 =治療者自身が、自分が体験している暗々裏(implicit)に感じられた過程に注意を向け、味わい、「そこ」から応答する存在として、クライエントさんの-前に-いること。

 昨日、月に一度の、恒例、四日市での藤嶽さんたちとの「東海フォーカシング研究会」で、ジェンドリンの「人格変化の一理論」("a theory of personality change")の読書会をしている中で気づいたことなんですが。

 この研究会、すでに10年近く続けてきて、やっと、この、わずか40ページあまりの、ジェンドリンの体験過程理論の最重要基本文献の読書会、大詰めに差し掛かりました。

 原文旧村瀬訳、「セラピープロセスの小さな一歩」所収の池見先生をはじめとする先生方の新訳を徹底的に引き比べ、安易に先に進めることをしない、一回2時間前後、でも、いつまでに終わらせるかなど一向に気にしないという、超ロングランの読書会。

 4名の参加者が、自分の臨床経験に引きつけて、納得できる水準で、この論文を読み解いていかないと気が済まない形で進めてきたので、一日にわずか10行しか進捗しないこともごく普通という、恐怖の牛歩の歩みで進めてきたのですが 、私の解説にどんどんつっこみを入れて下さる藤嶽さんたちのおかげで、私がひとりではとても気がつくことが不可能な次元まで、ジェンドリンがこの論文に込めた含蓄の深さを読み解くことができてきたことについて、参加者の皆様に深く感謝しています。


*****


 以下に引用するのは、この論文の終わりから2つめの節、原書および村瀬旧訳でいう第25節、「体験過程の様式が極端に構造に拘束された場合」の中の、更に注26(原書の場合。.
池見他新訳でも「原注26」(pp.225-6).。村瀬旧訳でいう注55)の後半である。

 基本的には旧村瀬訳に依りますが、細部については阿世賀が更に改訳しています。

 なお、最後の方の茶色の部分は、池見先生たちの新訳からは欠落している(^^;) 


 クライエントが一言も語らないにしても,そこにはある感じられた相互作用過程が生じつつあり,まさしくこの過程において,彼の諸感情は分節化され象徴化されるのである。ある一人の人間の行動が他者の相互作用と体験の過程を再構成しうるのである。(定義23を見よ)

 クライエントが黙している間,治療者はそこに不快気に座っているところの問題を抱いた一人の人間の内に進行しているかもしれないと思えることを表明することができる。さもなくば,彼は次のような場合に治療者である自分の心の内面で進み行くものを表明することもできるのだ。

 それは彼が援助をしたいと願い,聞きたいと望み,圧力をかけたくないと思い,無用の存在ではありたくないと強く感じ,あるいはクライエントが黙っている時間が有益であるとわかれば嬉しいのだがと思うとき,或はまたクライエントの心中に去来していても,まだ話すだけの気持ちの準備ができていない多くの感情,多分諸々の苦痛な気持ちを心に描いているときである。

 これらを治療者の自己表現と呼びうるためには四つの条件が必要とされる。

1. それらが治療者自身の自己表現であることが,はっきりと表明されること。もしそれらの表現に何かクライエントについてのことを示唆するようなところがある場合に、治療者は,自分のいったことが事実かどうか確信はないのだ,ただそう想像するのだ,こういう印象を受けたのだ等と言う必要があるのだ。それについてクライエントの側から,確かにそうだとか,間違っているとか示してもらう必要は少しもないのである。治療者がまさに自分自身のために語るという点が重要なのである。

2. 治療者が、自分が表明しようかと感じている気持ちに、二,三分の間(a few moments),焦点を合わせる時をもつ〔ことは有益である〕。彼は〔その二,三分の沈黙の間に〕感じていることのすべての中から、安心して単純にいえるような、ある一部,ある局面を探し求めるのだ。人間にとって,ある瞬間(a moment)に暗黙のうちに感ずる何百,何千もの意味をすべて言うなどというのは不可能である。一つあるいは二つの,とくにその瞬間には,あまりに個人的にわたり過ぎたり,具合悪過ぎたり,困惑が大きすぎるように思われることどもが,ごく短時間の(a moments)焦点づけ(focusing)の後には,現在の相互作用のパーソナルな表現と変わるのである。

 具体的に述べよう。〔治療者である〕私にとって共に黙っていることが耐え難いところであり,かつ私はどうも彼にとって何の役にも立っていないらしい。〔……と私が感ずる場合〕、〔治療者である私の、〕まさに「この」感じこそ〔まさに我々が関心を払い,活用すべきところなのである〕!! 「そこ」にこそ私が彼に語りうる何ものかがあるのだ。

 あるいはまたこうして共に黙っていて一体彼の中に何かが動いているのだろうかと私の方で疑問に感ずることがある。私はもし彼にとって黙っていることが,考えたり感じたりする時間と心の平和とを与えるものならば,私も喜んで黙っていたいと感じていることがわかる。私はそのことを表明することができる。

〔阿世賀注:「私は今、あなたの前でこうして黙ったままでいるのが苦しく感じ始めています。私があなたにとって何の役に立っていないのではないかという不安も感じています。でも、それはあくまでも私の側だけの感じ方かも知れませんね。......この沈黙を、あなたと共にしていることが、あなたにとっても安らかで有意義なものであればいいのだが、と念じながらここに座っているのです。」といった自己表明になると想定できる〕

 かかる表明は二人の個人的なものの暖かい交わり,一つの相互作用なのである。

 だが、このような自己表明のためには、〔治療者は、〕二,三分の間,自己に注意をふり向けることが必要とされる。この間に私は,この相互作用において現在〔治療者である〕私が体験している過程に焦点を合わせ,そこにひらけを生じさせるのだ。

3. 我々のうちに湧いてくる言葉使いや意味は,我々が話しかける相手に対してこちらが抱いている感情全体から非常に強い影響を受けるものである。一人の人間としてのクライエントに対する治療的な態度とは,彼に対して全体的に存在する(being totally for him)という態度であり,ロジャーズ(1957)のいう「無条件の尊重」(unconditional regard)ということである。ホワイトホーン(Whitehom)(1959)はそのことを患者の「弁護士」のような在り方と名づけている。それは我々両者が共にこの問題をどんなに嫌だと思っていようと,一人の人間としての個人が自らのうちにおいて,そのことに「あえて直面する」("up against")ような態度を指している。私は常に真実の気持ちをもってそう考えることができるのだ。

 (この感度というのはあれこれの行動,特性,態度,あるいは特異性についての承認や同意や好意とは何の関係もない。)
 しばしば私は,こうしたすべてのことに「直面して」いる或る内面の個人というものを想像しなければならない。こうしたことをして後,何カ月も経ってから始めて私はその人を愛し,知るようになるのだ。
 このことがいかに具体的で規定可能な態度であるかには,驚くべきものがある。我々はそれを頼りにして良い。個人の中にある,どんなに好きになれないことにでも「あえて直面する」一人の人間というものは常に存在するのである。

4. クライエントが自己を表明するときには,そのことへのある反応が必要である。かかる場合,治療者の自己表明はかえって妨げになる。

 クライエントの感情や彼に感じられた特定の意味に反応する機会と,何かを知覚し解釈する正しい確実な方法とがある場合には,そのことに対して正確に反応〔応答〕することが最上のそしてもっとも強力な反応なのである。

 〔以上述べてきたような、治療者が〕自己表明していく反応様式(モード)は、あくまでも、こちらが反応しようにも反応できるようなものが殆ど見つからないクライエントに適しているのである。

 一つの反応様式としての治療者の自己表明は,ただ外的な状況について述べるか,全く沈黙を保って座っているような人で,殆ど感情を表明せず,精神病的だと分類された人々にとっては重要なことである。

 しかしながら、具合よく行っている人々の中にも,深い相互作用をつくることがむつかしい人も多くいる。それは彼らが自己を表明しないからである。カートナー(Kirtner)(1958)が見出したところによると,面接の第一回目のときに殆ど自己の内面に注意をむけないような人々は,治療で失敗することが多いことを我々は予測できる。近来我々は,治療者の自己表明がそのような人々の相互作用及び体験しつつある過程を再構成する助けとなりうることを学びつつある。


*******


 以上の箇所、「治療者の自己表明」という題目であるので誤解されやすいのだが、ここでは、いわゆる「治療者の自己開示」について取り扱っているのだと誤解されるととんでもない事柄について、ジェンドリンは厳密に、条件規定しながら述べていることについて、まずは注意を喚起しておきたい。


 次に、この部分が画期的なのは、私が知る限り、ジェンドリンが、文献で見られる形で、「意図的にフォーカシングすること」について述べた、最初の箇所であるという点である。


 しかし、セルフヘルプ的な「技法としてのフォーカシング」は1970年代になって急速に成長したものであり、ジェンドリンの視野にまだなかったものであるから、池見他による新訳におけるように、「フォーカスする」とか「フォーカシング」という言葉を、1964年のこの論文の時点で、訳として使ってしまうのは誤解を与えかねないと思う。あくまでも「焦点づけ」という訳にとどめるのが慎ましいことのように思えます。

 
 しかも、そうやって、意図的に行うものとしての「フォーカシング」についてジェンドリンが最初に言及したこの箇所で、ジェンドリンは、それを、あくまでも、クライエントさんとの面接場面のただ中で、セラピスト自身が、面接場面のただ中で感じている漠然とした曖昧で複雑な感じ全体に改めて注意を向け、味わい直し、その場に無理なくふさわしい反応を見いだすための、沈黙しながらのひとときとして述べていることも重要だと思えます。


 フォーカシングは、クライエントさんの、自分の内面への焦点づけ能力を高めるために、クライエントさんが学ぶ技法ではなかったのですね。

 
 「フォーカシングの臨床適用とは、面接場面のただ中で、治療者自身が、治療場面で感じるフェルトセンスにフォーカシングしていくことがベースラインであり、クライエントさんにフォーカシングの教示をすることではない


 なんだ.....私が長年、フォーカシングの「臨床適用」の基本として繰り返して主張してきたことと、全く同じところに、ジェンドリンの出発点はあるじゃないか。


*****


 興味深いのは、その際に、クライエントさんがどのような感じでいるのか、クライエントさんの身になって感じてみて、その結果をクライエントさんに応答(表明)することに関して、ジェンドリンがむしろ抑制的・警戒的ですらあること。

 むしろ、クライエントさんを前にして治療者自身がどんな居心地になっているかに、治療者自身が、虚心に、じっくりと注意を向けて感じてみることの意義を強調している。

 そして、そうした沈黙の中から、クライエントさんに言葉にしても無理のない言葉が浮かび上がること、そしてそれを表明することの効能について述べているのである!!

 
 クライエントさんの「身になって」感じてみた結果を、断りもなく治療者の側から安易に表明することは、クライエントさんにとって「侵入的」になる危険を冒すものであると、ジェンドリンも考えているのではないかと思う。

 精神病的なクライエントさん相手の場合だと、それこそ「思考伝播」「思考奪取」(自分の考えが読まれている、抜き取られている)の不安すら触発し、自我境界を更に危うくする侵蝕的アプローチであり、仮に用いるとしても、慎重に場の空気を読みながらなされるべきだろう。

 「あなたは、こんな感じでいるんでしょうね」ではなくて、関係についてじっくり吟味した上で選り抜いた、「私は,あなたを前にして、こんな感じでいるんです」という表明の方が、クライエントさんを脅かさない。

 治療的面接場面において、セラピストは「クライエントさんがどんな気持ちなのか」に共感し、それを受容しようというモードにはまりがちである。その結果、自分がその面接の場で、どんな居心地でそこにいるのかについては注意を向けなくなる。

 しかし、クライエントさんは、そうした、面接室のただ中での、カウンセラーのたたずまい全体....すべてを感じながら、カウンセラ-が、クライエントである自分と向き合い、その場にどっしりと居てくれるているかどうかの方を、まるごと敏感に感受しているものだと思う。

 これが、セラピストの「プレゼンス(現前性)」と呼ばれるものの中核なのではないか。

 そして、そうした、共に悩みを見つめる関係性の「場」そのものに安心感と安全感を見いだしていられるかどうかの方が、クライエントさんにとっては、ベースラインとして、重要なことなのではないかと思う。


 現代のエスプリ410「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一/阿世賀浩一郎 編)の中の一論考、

阿世賀浩一郎 :面接場面でクライエントの「容れもの(container)」として機能する技法の試み
〜治療者自身の体験過程を生かし続けるためのベースライン〜

で、治療者自身が面接場面で常時維持すべき「フォーカシング」のモードとして、(クライエントさんへの)「感情移入的焦点づけモード」と、(面接場面で、クライエントさんを前にして、どんな感じでいるかという)「自己指向焦点づけモード」の2つがあり、この2つを二重に抱えながら、時々スイッチを切り替えるように行き来して感じてみることを論じたのは、方向性として間違いでなかったと改めて感じた私だった。

 関連するこのブログの記事としては、こちらを参照していただければ幸いである。

●自分が相手に共感できて「いない」ことを「自己『共感』」すればいいのだ!!
●クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと
●カウンセラーが「前に-いる」ということ

なお、続編こちらにあります。

2008/02/04

「プレゼンテーター中心主義」 -こころの天気大船グループバージョン-

 さて、すでに「大船でフォーカシングを学ぶ会」で2回、四日市の「東海フォーカシング研究会」で1回実施した、「こころの天気」小グループバージョン大船版が、どういう基本原則で実施されているのかを具体的に解説してみましょう。

 私が理解している範囲では、島根の土江正司さん開発の「こころの天気」の技法は、非常にシンプルな原則のみで実施可能です。


 1.「こころの天気」とはどういうものなのかについては、絵を描く本人の解釈と発想の自由に基本的に委ねる。

 「天気」であるからには、晴れとか雨とか、そういう「天候を含んだ風景」でなければならないと言うことはないのです。中には、かなり抽象度の高い描画で、「今の気分」を表現する人も出てくるでしょうし、かなり接写に近い静物画のようなものを書く人もいる。 絵にタイトルを付け、文字で書く人もいるでしょうし、絵の中にいろんな解説の文章を書き込む人も出てくるかもしれない。

 中には、絵は描かないまま、紙いっぱいに大きく「気持ち」についての文字を書きなぐる人も出てくるかも。

こういうふうに!(^^)

 これらのバリエーションが自然と各人の解釈の元に生じてくることについては、介入しないという基本原則があるように私には思えます。


 2.「写生」ふうの伝え返ししかしない。

 描かれた絵に、カウンセラーは「伝え返し」をするのですが、この際、絵に現れたままを、俳句で言う「写生ふう」の形で、簡潔に伝え返しをするに留めることを、開発者の土江さんはたいへん重視しています。

 前の記事の私の絵を例にすれば、

「夜なのかな。
家が一軒あるね。
窓に明かりが灯っているね。
赤い服を着た女の人が、その窓のそばに立っているね」

くらいです。


 (更に、中井久夫先生の「風景構成法」からの転用として、絵を実際に描く前に、画用紙の縁のあたりに自分で「枠線」を描いてもらうことが一般的なようです)


******


 こうした、オリジナルの「心の天気」技法を尊重しつつ、同時に、小グループの場の中でお互いに共有するための、場の安全の原則として、私、阿世賀が考案した工夫について以下に述べます。

 (以下の内容の著作権は阿世賀浩一郎が有します。無断転載、引用は固くお断りいたします。リンクを張るなどの形で紹介下さる前には、ご一報下さるようにお願いいたします)


1.絵を描く際に、グループの他のメンバーの「面前で」絵を描かない自由の保障(位置を変え、皆に背を向けて「こそっと」描いてもいい)

2.描いた絵を他のメンバーに公開しないままにする権利の保障。

3.他のメンバーへのプレゼンテーションの際に、何も解説しないまま絵を提示する権利の保障。

4.提示された絵に対して、その場のファシリテータのみが、前述の「写生ふうの伝え返し」を必ず行う

5.絵を皆に見せるメンバー(以下「プレゼンテーター」と呼ぶ)は、他のメンバーに具体的な感想を返さないように求める権利を有する。

6.プレゼンテーターの絵を見守る他のメンバーは、プレゼンテーターに具体的な感想を返さない権利を有する。

7.6.に抵触しない限り、プレゼンテーターは、他のメンバー全員から具体的な感想が欲しい旨、前もって「注文を付ける」権利を有する。

8.プレゼンテーターは、絵についての他の参加者とのやりとりをいつどこで終結させるかの判断の権利を有する。


 場のファシリテータは、これらのことをプレゼンテーターに保証するための介入しかせず、それ以外の点では他の参加者と平等な立場にあるように努めることになります。

 その結果、自然と生じるのは、プレゼンテーターが持ち回りで2人目、3人目となるうちに、ファシリテーターがもはや逐一介入しなくても、全く自然かつ自発的に、「その時のプレゼンテーターが場の主人公として振る舞うようになる」という現象である。


  私は、こうした場の特性を、

 「プレゼンテーター中心主義」 

  と名付けることにしたのだが、いかがだろうか?


 なお、この「こころの天気」大船バージョンの成立には、四日市の「東海フォーカシング研究会」での、「藤嶽法」の、すでに数年におよぶ実践の中で共有された知見が、実は大きく影響しています。

 すでに10年近く、全く同じ固定メンバーとして毎月1回場を共にしてきた、藤嶽大安さん、渡邊邦子さん、森尾邦江さんに、厚く御礼申し上げます。
 

2007/11/18

精神病状態にある人の体験過程についてのジェンドリンの見解に対する増井武士氏の反論について吟味する(1)[第2版]

 今回は、フォーカシングや体験過程理論についての、最もディープな水準での興味深い議論について、公刊されている著作を参照しつつ論じる内容です(^^)

 今回は、まずはジェンドリンが精神病水準の人の体験過程について「人格変化の一理論」(Gendlin,E.T.,A Theory of Personality Change,1964)で述べている部分を紹介し、私のその解題を書くまでとし、増井氏の見解についてとの私なりの吟味は続編とします。

 これは、昨日、四日市での「東海フォーカシング研究会」で、すでに10年続く、この論文についての読書会にセクション(数十ページの論文をこれだけかけて読んできて、やっと終盤!!)私がレクチャーした内容です。1回にちょうどこれくらいしか読み進まないのですね(^^;)

 以下の引用では、池見先生を中心とする新訳(pp.222-4)に、私が更に手を入れたものを紹介します。[ ]内は私の注ですが、他の部分も新訳と幾つか訳を変えています。


*****


 まずは、ジェンドリンの日本語訳を引用私による解題を少しずつ付加しますます:

 
25. 体験過程の様式が極端に構造に拘束された場合
  (精神病,夢,催眠,CO2,LSD. 刺激遮断(Stimulus Deprivation)[=感覚遮断実験])


(前略)

e) 静止した,反復的,変容不能の様式

 感じられた体験過程の「暗黙の機能」が硬化している限り,現在の諸状況がそれと相互に交渉し合い、それを修正する術はない。従ってそれは現在の状況の解釈[注:ここでは精神分析的な「解釈」や、知性化された理解に限定されず、広い意味での「認識」「理解」程度の意味]にはならず,ただ現在の状況によって変容を受けない反復的パターンが見られるだけで終わってしまうのである。[たまたま]現在の諸事象によって「きっかけ」を与えられる結果として,事は連続して「なんとかなって」いく["go off"]かもしれないが,それは現在の諸事象の解釈でもなければ,それら事象への[新たな]反応でもないのだ。


 【解題】
「暗黙の機能」については、詳しくは、「4. (知覚と行動における)暗々裡の機能」(新訳p.181)を参照。 ここで手短に復習すれば、直接のレファラント=フェルトセンスとして直接注意を向けられることがないまま、心身が状況に応じて反応していく過程である。つまり、「漠然とした感覚」としてすら知覚の「図」になることがないまま、状況に刻々と対処していくプロセスである。例えば、路面の変化に応じて人は歩き方やや全身の筋肉の緊張や平衡をコントロールしているはずである。あるいは、人とのやりとりの中でも最低限の柔軟性をもって生じているものだろう。これは私たちの日々の基底にごく普通に広汎に機能している、健全なものであり、恐らく動物にすら機能している。フェルトセンスとして注意を向けることが可能になるのは、どんな人でも、そのほんの一局面のみである。

 それが「極度に『構造に拘束』される」とは、そうした暗々裏のプロセスが、フェルトセンスとして直接注意を向けることが可能なレヴェルに少しずつ繰り込まれる、「再構成化(recotituting)」[新訳Pp.205-6]の過程が柔軟性をひどく失った状態とみなされる。

 しかし、それは、例えば他の人の「キュー出し」やサポートや偶然の介入という、状況要因の一種によって、「それがないと陥る、まったくいつもと同じ行き詰まりにはならずに棲む」=「なんとかなっていく」といったものだろう。精神分析用語でいうと「無意識的な『反復強迫』にかなり近い。このことはジェンドリンも決定稿からは削除された草稿の中で明言している。


 f) 精神病的「内容」(contents)の普遍性

 極端に構造に拘束された様式下での諸経験は過程局面(process aspects)ではない。つまり、感じられた過程が進行していないほど、体験の構造拘束的様式の度合いが高まるのである。あるいくつかの主題がどんなに普遍的に反復して出現するかには驚くべきものがある。通常それらの主題は我々に馴染み深いあの「口唇的,肛門的,および性器的な」主題である。


 【解題】一番わかりやすい例でいえば、精神病状態の人間の妄想が、「個性的」なものではなく、極度にパターン化された発展過程を持つことは臨床的によく知られている。「自分はほんとうは天皇の落胤だ」「私の部屋のどこかにFBIの盗聴器が仕掛けられている。その証拠に、テレビを見ていると私への様々なメッセージが織り込まれている」など。


 すべてこうしたことが[精神病者に限らず]我々をつくりあげている材料となっているのだ。そして進行中の過程がその進行を止めているときには,通常それまで進行していた過程がこうした材料に分解,還元されてしまうと考えられる。

g) 精神病的諸経験は「抑圧されたもの」(the repressed)ではない

 上記のように,構造に拘束された諸現象を今始めて「あらわれた」あるいは「噴出した」過去の抑圧された経験とみなすのは誤りである。もしも現象をこのように考えると,次のような厄介な質問が出てくるのである。つまり,多くの[力動的人格]理論において、[神経症水準については、より]適応するためには、気づきを必要とし,抑圧は不適応をもたらすといっていながら,他方,同じ理論において精神病はこれらすべての体験に「気づきすぎており」それらを「再抑圧する」必要があるといわれているのである。

 事実をよりよく公式化して,上の疑問を解決するためには,観察事実を次のように解釈すれば良いように思われる。事がうまく行っているときには,これらの普遍的な過去経験は感じられた体験過程の中に暗々裡に機能している。

 その過程が進行を止めたときには,分解され,静止した諸々のパターンが感覚中枢の中心を占めるのである。

 このようにとらえなおすことにより、例えば次のような具体的事象をよりよく説明することができる。この見解によれば「精神病」はその底にあると我々がみなしている様々の内容ではないのだ。(その意味では誰でも「精神病的」である。)

 むしろ,「精神病」とは,感情と事象との相互作用過程の削減,もしくは停止ということに他ならないのだ。だから我々がある個人を「境界線の精神病者」であると分類するとき,これは,彼の中にある危険な諸々の内容が横たわっているという意味ではないのだ。彼は「孤立し」「吸入せず」「何か十分には存在しておらず」「退避しており」あるいは「自らに触れていない」のであり,これすなわち彼の体験過程様式が構造によって強く拘束されていることなのである。

 「精神病」の発生を防ぐには、[治療者が、患者の中で、]暗黙のうちに機能している感情にできる限り反応してやることによって,相手の中に進行しつつある相互作用と体験過程を前進させ,再構成することが必要である。


 【解題】阿世賀はこれを、例えば統合失調症の最初の急性発症のプロセスの予防、というところまで安易に拡張することには違和がある。鬱病の先駆段階、軽傷境界例水準の「サイコティックな」エピソードまでであろう。中井久夫の言う「恒常期」から寛解段階にいたるまでや、再度の急性化防止にはあてはまるかもしれないが、あくまでも薬物療法の併用があってのことであると考える。

 更に言えば、ここでいう、「暗黙のうちに機能している感情にできる限り反応して」とは」、フェルトセンスに触れることの促進だとか、それはどんな感じかくわしく話すように促すということではない。例えば、患者が焦燥感にかられていそうもないのに汗を流していたら「暑いでねえ」と声をかけ、「窓を開けましょう」と窓を開ける、そういう程度のことの時たまの繰り返しなのだと思う。体験過程尺度を深めるような促進的応答、ましてや技法としてのフォーカシング的な教示のことではない(そもそもこの論文の段階では、技法としてのフォーカシングはまだ存在しない!!)

 なお、少なくとも、フォーカシングの本人の動機づけの強い、自律的フォーカサーとしての学習においては、病理水準の違いよりも、個々人の資質の違い、トレーニング場面での関係性の質をトレーナー側が敏感に配慮するだけの経験値の違いの方が決定的である。

 神経症、境界例、発達障害、犯罪者、嗜癖、心的外傷(これらすべて外国の症例報告が幾つもなされている)、医療のサポートをうけた精神病寛解期などといった区分に関係なく、役に立つ人には役に立つ。しかしそれは、セラピスト側がマニュアル化した技法を機械的に適用する水準では不可能である。

 個人的には、「フォーカシングの適用範囲はどこまでか?」という一般論的問いかけは、実はほとんど不毛で無精な問いとしか思えない(^^;)。クライエントさんが受け身のままで、治療者が深い配慮もなく機械的に実施して効果的な技法など、どこにあるのだろう???? そして、一般には効果が高いとされる技法でもうまくいかない人にはうまくいかないのも摂理であり、また、自分の中に「この技法で何とかしてやろう」という悪魔の誘惑に屈する「色気」があるうちはたいてい失敗する。あるアプローチをそれ以上適用することを潔く取り下げる決断を、相手の意志と自らのフェルトセンスを頼りにして、柔軟にできない治療者は、そもそもフォーカシングを学んでいるとは言えまい。

 私の現場臨床は、フォーカシングを自分のために身につけた人間が、平常心で「普通のカウンセリング」をしているバリエーションに過ぎない(^^)


*****


 記事を改めての続編に向けて、興味のある方は、増井武士先生の、この本をお手元に。P.39以降やp.111以降を次回取り上げます。


2007/11/17

安倍川もちに継投してもらう

 きのうから今日にかけては、恒例の、四日市での「東海フォーカシング研究会」でしたが、先日ご紹介した夢フォーカシングについて、「コーチ法」(セッションにコーチがリアルタイムで介入したり、ガイド側がコーチにヒントをもらうやりかた)を取り入れながら参加者にやっていただき、体験を共有する時間をたっぷり取りました。いろい生産的な議論になりました。

 ......で、結局大船へのおみやげは「赤福」から「安倍川もち」になりました。隣の県になってしまうけど(^^)

 名古屋駅の売店の主役がいないのはやはりさびしい。

 ちなみに、四日市へのお土産にした、小田原の「月のうさぎ」も好評でした。鎌倉系の和菓子してるとの意見も。


●楽天市場 「もち あん 和菓子」へのリンク

楽天トラベル株式会社

2007/10/28

亀田兄弟、父親と別居ぐらいしたら?

●亀田大、心療内科の診察受ける(nsn=産経)

 亀田家の二男、大毅選手が、興毅選手と比較してもすっとまだ実力がなかったということは明白だろう。そういう中、あれだけボロボロに負け、しかも反則まで繰り出して、我に返ってみれば情けないことこの上ない現実にショックを受け、心療内科を受信しても、これはあまりにも自然なことだと思える。少なからぬ皆さんが思うより、心療内科受診は遠い世界でもなんでもないと私は一患者経験者としても思っているし。

 興毅選手の記者会見も相当程度肉声と信じていいように思えた。決して言い逃れではなく、今にして思えば、家族そろって何か変なモノに取り憑かれていたという心境だろう。彼にもいざとなれば父親との仲より「名実共に」世界チャンピオンになりたいという「純粋な野心」(変ないい方だが)の芽生えぐらいはあるだろうし。

 コートの上、もとい、リングの上では、最後には、誰でもひとり、ひとりきりだとは、もう気がつきはじめているだろうし。リングの上で殴られるのは自分だ。

 これを機会に、まずは興毅選手に、文句なしの試合を見せるボクサーになって欲しいものである。

 いろんなところから圧力がかかるにしても、プロボクシングの世界の方が、某競技より、ダーディーな面を含めて遙かにシビアだろうし。

 いろいろと、世の中で、すべてが信じられなくなるような不祥事が表面化する中で、まだしも誠意があると信じたいところである。

 この際、3兄弟、近くでもいいから、親父さんと別居ぐらいはしたら? と、私は、いろんな意味で思うけど。それをパフォーマンスなどといいたがるやつには言わせておけばいい。


*****


 松阪投手がまだシーズンを通して実力を維持できるところまでは問題も多いことは誰の目からみても明らかで、ご本人が心底実感しているだろう。でも、大舞台で自ら2点タイムリーを放てたのは、決して僥倖ではないと思う。来年、もっと「しぶとい」活躍を、シーズンの後半にもすることを、みんな期待していると思う。そういう矜持をもって生きる人と思うし。

 以上、四日市で買う「赤福」が好きだったこういちろうより。


*****

追伸:

●“ポスト赤福”そっくり「御福餅」ブレイク!(msn=産経)

....... 今度行ったら代わりとして満足するかどうか買ってみよう。

【追記】 ......などと書いていたら、こちらも立ち入り調査とは。とほほ。

2007/08/24

四日市征服の野望に燃える「あゆさま」

またもやうちのBlogPetの「あゆさま」が世迷いごとを吐いたようで、飼い主としてお詫び申し上げます(--;;;;)

四日市(BlogPet)

あゆさまは四日市がほしいな。
四日市ってどこにあるかな

*このエントリは、ブログペットの「あゆさま書きました。

2007/08/23

「怪談」と「トランスフォーマー」続けて観た

 日付変わって、昨日は四日市に夕方に移動。四日市の109シネマスクエアで「怪談」を観る予定だったのだが、「トランスフォーマー」のレイトショーも続けて観られるとわかったので、一気に2本観ました。おかげで今帰って来たばかり(^^;)

 今日は一日研修会の講師なので、内容の感想は明日にずれ込むかも。

2007/08/14

お盆 (今日のテーマ)

BlogPet 今日のテーマ お盆
「お盆まっただ中ですが、今年はどこかに行きますか??」
今年のお盆は、お客様が続くので、銀行並みに平日モードです。これ、すでに書いたとおりです。
 
あとは、22-23日が恒例の四日市での勉強会(今度は絶対に一日早くなんて行かない)。この時と抱き合わせで映画「怪談」観るでしょうね。

 25日(土)がa-nationで恒例のayu様拝謁。avex系の他の歌手も初ライブとなります。
 
 

 ホントは前日の奥華子さんも出演する野外ライブも考慮したけど、翌日昼からa-nationではとても身体がもたないと考えてあきらめました。

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