=治療者自身が、自分が体験している暗々裏(implicit)に感じられた過程に注意を向け、味わい、「そこ」から応答する存在として、クライエントさんの-前に-いること。
昨日、月に一度の、恒例、四日市での藤嶽さんたちとの「東海フォーカシング研究会」で、ジェンドリンの「人格変化の一理論」("a theory of personality change")の読書会をしている中で気づいたことなんですが。
この研究会、すでに10年近く続けてきて、やっと、この、わずか40ページあまりの、ジェンドリンの体験過程理論の最重要基本文献の読書会、大詰めに差し掛かりました。
原文と旧村瀬訳、「セラピープロセスの小さな一歩」所収の池見先生をはじめとする先生方の新訳を徹底的に引き比べ、安易に先に進めることをしない、一回2時間前後、でも、いつまでに終わらせるかなど一向に気にしないという、超ロングランの読書会。
4名の参加者が、自分の臨床経験に引きつけて、納得できる水準で、この論文を読み解いていかないと気が済まない形で進めてきたので、一日にわずか10行しか進捗しないこともごく普通という、恐怖の牛歩の歩みで進めてきたのですが 、私の解説にどんどんつっこみを入れて下さる藤嶽さんたちのおかげで、私がひとりではとても気がつくことが不可能な次元まで、ジェンドリンがこの論文に込めた含蓄の深さを読み解くことができてきたことについて、参加者の皆様に深く感謝しています。
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以下に引用するのは、この論文の終わりから2つめの節、原書および村瀬旧訳でいう第25節、「体験過程の様式が極端に構造に拘束された場合」の中の、更に注26(原書の場合。.
池見他新訳でも「原注26」(pp.225-6).。村瀬旧訳でいう注55)の後半である。
基本的には旧村瀬訳に依りますが、細部については阿世賀が更に改訳しています。
なお、最後の方の茶色の部分は、池見先生たちの新訳からは欠落している(^^;)
クライエントが一言も語らないにしても,そこにはある感じられた相互作用過程が生じつつあり,まさしくこの過程において,彼の諸感情は分節化され象徴化されるのである。ある一人の人間の行動が他者の相互作用と体験の過程を再構成しうるのである。(定義23を見よ)
クライエントが黙している間,治療者はそこに不快気に座っているところの問題を抱いた一人の人間の内に進行しているかもしれないと思えることを表明することができる。さもなくば,彼は次のような場合に治療者である自分の心の内面で進み行くものを表明することもできるのだ。
それは彼が援助をしたいと願い,聞きたいと望み,圧力をかけたくないと思い,無用の存在ではありたくないと強く感じ,あるいはクライエントが黙っている時間が有益であるとわかれば嬉しいのだがと思うとき,或はまたクライエントの心中に去来していても,まだ話すだけの気持ちの準備ができていない多くの感情,多分諸々の苦痛な気持ちを心に描いているときである。
これらを治療者の自己表現と呼びうるためには四つの条件が必要とされる。
1. それらが治療者自身の自己表現であることが,はっきりと表明されること。もしそれらの表現に何かクライエントについてのことを示唆するようなところがある場合に、治療者は,自分のいったことが事実かどうか確信はないのだ,ただそう想像するのだ,こういう印象を受けたのだ等と言う必要があるのだ。それについてクライエントの側から,確かにそうだとか,間違っているとか示してもらう必要は少しもないのである。治療者がまさに自分自身のために語るという点が重要なのである。
2. 治療者が、自分が表明しようかと感じている気持ちに、二,三分の間(a few moments),焦点を合わせる時をもつ〔ことは有益である〕。彼は〔その二,三分の沈黙の間に〕感じていることのすべての中から、安心して単純にいえるような、ある一部,ある局面を探し求めるのだ。人間にとって,ある瞬間(a moment)に暗黙のうちに感ずる何百,何千もの意味をすべて言うなどというのは不可能である。一つあるいは二つの,とくにその瞬間には,あまりに個人的にわたり過ぎたり,具合悪過ぎたり,困惑が大きすぎるように思われることどもが,ごく短時間の(a moments)焦点づけ(focusing)の後には,現在の相互作用のパーソナルな表現と変わるのである。
具体的に述べよう。〔治療者である〕私にとって共に黙っていることが耐え難いところであり,かつ私はどうも彼にとって何の役にも立っていないらしい。〔……と私が感ずる場合〕、〔治療者である私の、〕まさに「この」感じこそ〔まさに我々が関心を払い,活用すべきところなのである〕!! 「そこ」にこそ私が彼に語りうる何ものかがあるのだ。
あるいはまたこうして共に黙っていて一体彼の中に何かが動いているのだろうかと私の方で疑問に感ずることがある。私はもし彼にとって黙っていることが,考えたり感じたりする時間と心の平和とを与えるものならば,私も喜んで黙っていたいと感じていることがわかる。私はそのことを表明することができる。
〔阿世賀注:「私は今、あなたの前でこうして黙ったままでいるのが苦しく感じ始めています。私があなたにとって何の役に立っていないのではないかという不安も感じています。でも、それはあくまでも私の側だけの感じ方かも知れませんね。......この沈黙を、あなたと共にしていることが、あなたにとっても安らかで有意義なものであればいいのだが、と念じながらここに座っているのです。」といった自己表明になると想定できる〕
かかる表明は二人の個人的なものの暖かい交わり,一つの相互作用なのである。
だが、このような自己表明のためには、〔治療者は、〕二,三分の間,自己に注意をふり向けることが必要とされる。この間に私は,この相互作用において現在〔治療者である〕私が体験している過程に焦点を合わせ,そこにひらけを生じさせるのだ。
3. 我々のうちに湧いてくる言葉使いや意味は,我々が話しかける相手に対してこちらが抱いている感情全体から非常に強い影響を受けるものである。一人の人間としてのクライエントに対する治療的な態度とは,彼に対して全体的に存在する(being totally for him)という態度であり,ロジャーズ(1957)のいう「無条件の尊重」(unconditional regard)ということである。ホワイトホーン(Whitehom)(1959)はそのことを患者の「弁護士」のような在り方と名づけている。それは我々両者が共にこの問題をどんなに嫌だと思っていようと,一人の人間としての個人が自らのうちにおいて,そのことに「あえて直面する」("up against")ような態度を指している。私は常に真実の気持ちをもってそう考えることができるのだ。
(この感度というのはあれこれの行動,特性,態度,あるいは特異性についての承認や同意や好意とは何の関係もない。)
しばしば私は,こうしたすべてのことに「直面して」いる或る内面の個人というものを想像しなければならない。こうしたことをして後,何カ月も経ってから始めて私はその人を愛し,知るようになるのだ。
このことがいかに具体的で規定可能な態度であるかには,驚くべきものがある。我々はそれを頼りにして良い。個人の中にある,どんなに好きになれないことにでも「あえて直面する」一人の人間というものは常に存在するのである。
4. クライエントが自己を表明するときには,そのことへのある反応が必要である。かかる場合,治療者の自己表明はかえって妨げになる。
クライエントの感情や彼に感じられた特定の意味に反応する機会と,何かを知覚し解釈する正しい確実な方法とがある場合には,そのことに対して正確に反応〔応答〕することが最上のそしてもっとも強力な反応なのである。
〔以上述べてきたような、治療者が〕自己表明していく反応様式(モード)は、あくまでも、こちらが反応しようにも反応できるようなものが殆ど見つからないクライエントに適しているのである。
一つの反応様式としての治療者の自己表明は,ただ外的な状況について述べるか,全く沈黙を保って座っているような人で,殆ど感情を表明せず,精神病的だと分類された人々にとっては重要なことである。
しかしながら、具合よく行っている人々の中にも,深い相互作用をつくることがむつかしい人も多くいる。それは彼らが自己を表明しないからである。カートナー(Kirtner)(1958)が見出したところによると,面接の第一回目のときに殆ど自己の内面に注意をむけないような人々は,治療で失敗することが多いことを我々は予測できる。近来我々は,治療者の自己表明がそのような人々の相互作用及び体験しつつある過程を再構成する助けとなりうることを学びつつある。
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以上の箇所、「治療者の自己表明」という題目であるので誤解されやすいのだが、ここでは、いわゆる「治療者の自己開示」について取り扱っているのだと誤解されるととんでもない事柄について、ジェンドリンは厳密に、条件規定しながら述べていることについて、まずは注意を喚起しておきたい。
次に、この部分が画期的なのは、私が知る限り、ジェンドリンが、文献で見られる形で、「意図的にフォーカシングすること」について述べた、最初の箇所であるという点である。
しかし、セルフヘルプ的な「技法としてのフォーカシング」は1970年代になって急速に成長したものであり、ジェンドリンの視野にまだなかったものであるから、池見他による新訳におけるように、「フォーカスする」とか「フォーカシング」という言葉を、1964年のこの論文の時点で、訳として使ってしまうのは誤解を与えかねないと思う。あくまでも「焦点づけ」という訳にとどめるのが慎ましいことのように思えます。
しかも、そうやって、意図的に行うものとしての「フォーカシング」についてジェンドリンが最初に言及したこの箇所で、ジェンドリンは、それを、あくまでも、クライエントさんとの面接場面のただ中で、セラピスト自身が、面接場面のただ中で感じている漠然とした曖昧で複雑な感じ全体に改めて注意を向け、味わい直し、その場に無理なくふさわしい反応を見いだすための、沈黙しながらのひとときとして述べていることも重要だと思えます。
フォーカシングは、クライエントさんの、自分の内面への焦点づけ能力を高めるために、クライエントさんが学ぶ技法ではなかったのですね。
「フォーカシングの臨床適用とは、面接場面のただ中で、治療者自身が、治療場面で感じるフェルトセンスにフォーカシングしていくことがベースラインであり、クライエントさんにフォーカシングの教示をすることではない」
なんだ.....私が長年、フォーカシングの「臨床適用」の基本として繰り返して主張してきたことと、全く同じところに、ジェンドリンの出発点はあるじゃないか。
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興味深いのは、その際に、クライエントさんがどのような感じでいるのか、クライエントさんの身になって感じてみて、その結果をクライエントさんに応答(表明)することに関して、ジェンドリンがむしろ抑制的・警戒的ですらあること。
むしろ、クライエントさんを前にして、治療者自身がどんな居心地になっているかに、治療者自身が、虚心に、じっくりと注意を向けて感じてみることの意義を強調している。
そして、そうした沈黙の中から、クライエントさんに言葉にしても無理のない言葉が浮かび上がること、そしてそれを表明することの効能について述べているのである!!
クライエントさんの「身になって」感じてみた結果を、断りもなく治療者の側から安易に表明することは、クライエントさんにとって「侵入的」になる危険を冒すものであると、ジェンドリンも考えているのではないかと思う。
精神病的なクライエントさん相手の場合だと、それこそ「思考伝播」「思考奪取」(自分の考えが読まれている、抜き取られている)の不安すら触発し、自我境界を更に危うくする侵蝕的アプローチであり、仮に用いるとしても、慎重に場の空気を読みながらなされるべきだろう。
「あなたは、こんな感じでいるんでしょうね」ではなくて、関係についてじっくり吟味した上で選り抜いた、「私は,あなたを前にして、こんな感じでいるんです」という表明の方が、クライエントさんを脅かさない。
治療的面接場面において、セラピストは「クライエントさんがどんな気持ちなのか」に共感し、それを受容しようというモードにはまりがちである。その結果、自分がその面接の場で、どんな居心地でそこにいるのかについては注意を向けなくなる。
しかし、クライエントさんは、そうした、面接室のただ中での、カウンセラーのたたずまい全体....すべてを感じながら、カウンセラ-が、クライエントである自分と向き合い、その場にどっしりと居てくれるているかどうかの方を、まるごと敏感に感受しているものだと思う。
これが、セラピストの「プレゼンス(現前性)」と呼ばれるものの中核なのではないか。
そして、そうした、共に悩みを見つめる関係性の「場」そのものに安心感と安全感を見いだしていられるかどうかの方が、クライエントさんにとっては、ベースラインとして、重要なことなのではないかと思う。
現代のエスプリ410「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一/阿世賀浩一郎 編)の中の一論考、
阿世賀浩一郎 :面接場面でクライエントの「容れもの(container)」として機能する技法の試み
〜治療者自身の体験過程を生かし続けるためのベースライン〜
で、治療者自身が面接場面で常時維持すべき「フォーカシング」のモードとして、(クライエントさんへの)「感情移入的焦点づけモード」と、(面接場面で、クライエントさんを前にして、どんな感じでいるかという)「自己指向焦点づけモード」の2つがあり、この2つを二重に抱えながら、時々スイッチを切り替えるように行き来して感じてみることを論じたのは、方向性として間違いでなかったと改めて感じた私だった。
関連するこのブログの記事としては、こちらを参照していただければ幸いである。
●自分が相手に共感できて「いない」ことを「自己『共感』」すればいいのだ!!
●クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと
●カウンセラーが「前に-いる」ということ
なお、続編がこちらにあります。
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