北山修

2009/12/12

新人類世代の絶対的自己肯定ドラマとしての「超時空要塞マクロス」

 1984年という年は、日本のアニメ史において、ひとつのメルクマールとなる、今にして思えばとんでもない年である。

 なぜなら、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」、押井守の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」、そして当時24歳の若手だった河森正治を監督とした「劇場版 超時空要塞マクロス 愛・おぼいえていますか」という、日本アニメ史の不朽の金字塔というべき3作が、共に劇場公開された、空前の「当たり年」だからである。

超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか HDリマスター版 [DVD]

(楽天ブックス)

 ・・・・私が、いわゆる「昭和35年組」アニメファン、すなわち、日本初の国産テレビアニメ「鉄腕アトム」の本放送を幼児期に体験し、日本のアニメの歴史と完全に同時代的に歩み、エヴァ本まで出した、超筋金入りの世代であることは繰り返し申し上げてきた。この「劇場版マクロス」等が公開された年に23歳ということになる。

 だが、不思議と、このブログでこれまでにただの一度も名前が登場していないビックネームの監督さんがいる・・・・そう、「ガンダム」シリーズの富野喜幸という名前である。

 私は、いわゆる「初代ガンダム」本放送を体験し、たいへんな衝撃を受けた世代の一人であることには変わりがない。しかし、「Zガンダム」以降はどうしても感性がついていかなかった。アムロとシャアが登場する限りは、すべての劇場版を公開時に観ていますけどね(^^)

 そこには、ひとつには「ニュータイプ」という概念への基本的な違和感があるのだと思う。「初代」のTVシリーズの最終話の、あの何とも印象深い終わらせ方より先まで、ニュータイプについては執拗に物語を紡ぐ必要があったとどうしても感じられないのだ。

 そこには、ひとつには、私が加藤和彦と北山 修 - 加藤和彦 作品集 - あの素晴らしい愛をもう一度「あの素晴らしい愛をもう一度」(←やっと北山修と加藤和彦のオリジナル、iTunes Storeに入りましたね)への再三のこだわりで示してきたように、ウィニコット的な対象関係論に骨の髄まで浸かった人間観の持ち主であること、すなわち、

「人と人とのこころは直接対話できない。できたと思ってもそれは錯覚(illusion)なのかもしれない。こころの交流という思い込みは、はかないまでに容易に幻滅(disillusion)に転じる。しかし、そうやって思い込みが覆された後も、希望を捨てないで更にリアルに交流し続けることによってしか人との心の絆は築き得ない

という圧倒的な信念を自分のアイデンディディとして生きてきた軌跡のためでもある。

 もちろん、ガンダムにお詳しい方は、きっと、「それだけではニュータイプ論は語り尽くせない」といろいろな反論はお持ちかもしれない。あくまでも、「初代ガンダム」以降の富野作品と内的対話が成立しなかった私の一面的な独断と偏見であると見なしていただいて結構である。

(当時のサンライズ系作品では、むしろ装甲騎兵ボトムズ - 【映像パック】装甲騎兵ボトムズ (OP/ED:ノンテロップ)「ボトムズ」に思い入れが深いタイプである)

*****

 どうも、「ガンダム」主流派にとっては、この「マクロス」という作品はチャラチャラした作品に見えるらしい。

 しかし、私は、「マクロス」こそが、当時の、ニュータイプならぬ「新人類世代」が、圧倒的な開き直りの中で到達した、自分たち世代の絶対的自己肯定賛歌だったように思えてならない。

 生まれながら、テレビの向こうの側の出来事こそ「世界の現実」であるという逆転構造を当たり前にようにして生きてきた私たちの世代。

 宮崎さんがいかに「ラピュタ」でシータの口を借りて「地に足をつけなければ人は生きられないのよ」と説教垂れようと、私たち世代はとっくに「地球という故郷を喪失」して宇宙空間を漂う巨大な要塞都市の住民としてしか存在していないのである。

 単なる会社の「兵士」としてしかアイデンディディを持たないくせに、そこからだけの視点で「現実」を振りかざして「戦いを挑んで」くる「巨人族」=親世代たちは、どうもすでに夫婦の亀裂も深いらしく(爆)、お互いに戦闘状態にある(劇場版の世界観に従えば)。

 それに挑む新人類世代は、自分たちの「身の丈」も省みず、「巨大ロボット」に乗って応戦するしかないのだ。

 そして、「歌=文化」の力で、巨人族=親世代たちの「脳みそをかく乱」させる!!

 当時はまさに松田聖子と中森明菜の絶頂期でもある。リン・ミンメイには、この現実の2大歌姫が深く投影されていることは、知る人ぞ知るとおりである。

 ミンメイの「性格」は、我が故郷久留米の生んだ最大の「偉人」(?)の一人である、当時の聖子の「ぶりっ子」イメージをものの見事に投影していますが、今回調べてはじめて知りましたけど、劇場版のステージ衣装はむしろ明菜の舞台姿の影響が濃いそうですね(^^)

*****

 1984年といったら、まだ今日のCGや3Dバーチャル・リアリティのシステムは存在しないに等しい。このアニメ映画で表現された世界は、その点でどれだけ時代を先取りしていたことか!! 映画の最初の方のミンメイのコンサート・シーンなんて、リアルワールドでは当時は夢のまた夢の演出手法だったはずである。

 そして、1984年という数字を意識すると、この映画全体が、すべて手書きのセルアニメで表現されているということが、どれだけ途方もないことだったか!! アニメーターたち(「エヴァ」の庵野さんも主要アニメーターの一人)は、何ともはやクレイジーな領域のことを現実化していたのである。

 ちなみに、公開当時はドルビーサラウンドですらない、モノラルでした(^^)

 この作品を紹介するにあたって、私はあの「あまりにも美しすぎる」クライマックスの戦闘シーンではなくて、むしろミンメイと早瀬美沙、一条輝のラブロマンスに焦点を合わせたという点では実にセンスがいい、スペイン語バージョンを選ばせていただくことにしました(一部、TVシリーズの画面も混ぜているのだけど、むしろそれが何ともニクイ使い方である)。

●MACROSS - Ai Oboete Imasuka [Español](YouTube)

 ・・・・確かに、当時の私たちは必死に背伸びしていたのかもしれない。

 しかし、その「昭和35年組」も、来年度にはついに満50歳を迎える

 もはや、社会を動かす指導層としての責任を果たさねばならない。

 結局、若い頃に「観念まみれ」になった上で、高度成長期の甘い夢が醒めた「傷つき」を引きずる、「団塊の世代」が、今の日本に何を残したというのだ?

 子供時代に中国大陸から「生還」し、裸一貫からたたき上げた経理の職人である、「団塊」のひとつ上の世代である私の父には、今でも「硝煙の匂い」が染み付いている気がすることがある。

 流浪の引き上げ日本人コミュニティの歩哨に立っていた父親(私の祖父)が馬賊に銃撃され殺されるなど、私には細かくは語らないけどど、どれだけ多くのシビアな悲惨さを、旧中国東北部から、大連で食うや食わずの生活をして終戦後1年を経て帰還できるまでに、大陸で、その目で見たことだろうか。

 私は、その、戦場をさ迷った父の「嫡子」である。

 ほんとうに、リアルワールドで「戦い抜き」、「サバイバル」する気概のない人間のたわ言にはいちいちつきあっていられない。

 そもそも、自分が進んでリアルワールドでの「政治」の世界に「身を投じ」、泥にまみれるくらいの覚悟は持て!!ひとつの重要な暗示・・・・私の場合、正確には「復帰」です・・・・

 馬鹿馬鹿しいまでに「命のやり取り」を覚悟して物事に挑む迫力を示せる人間の方が絶対に強いと確信している。悔しかったら「リアルワールドで」私の足を露骨に引っ張るくらいの謀略性と戦闘性で挑んできて欲しいものである(^^)

 公開されたネット上で私に公然たる批判を書いたらすべて私のサイトのアクセス数増加にしか貢献しないことを、すでに一部の皆様は身に染みてお感じのはずだ。アンチこういちろうサイト、心の底から大歓迎ですが(爆)

 そして、リアルワールドでの顧客様の着実な増加が、もはやネットでのアクセス数へのこだわりから私を解放している。経営的にはすでに地方都市久留米への移転後のほうが成功したと断言していいい。

 (最近、アクセス数が300台弱のラインへと後退気味な主な原因は、先日のココログのシステムのメジャーアップデートで、カテゴリーバックナンバーが、最新10個以降「見出しのみ」の表示になり、全文の複合検索ではヒットしにくくなったためというのが主因とわかってますし。

 まあ、それでも少しは投資をかける余裕が出てきましたので、Googleマスターツールやanalytics、小額なりにお金を出してのAdWordsの管理者の側にすでにいます。万が一「おかしな動き」があった時はGoogleに向け「積極介入」することになります)

*****

 話をマクロスに戻すと、リアルワールドにあらわれた私の「リン・ミンメイ」が、この映画公開当時はまだ5歳前後だったはずの、これまだ我が福岡が生んだスーパー歌姫、浜崎あゆみであることは、いうまでもない(^^)

 こうして、生のayuをライブで観ない時間が長くなると、もうそれだけでayuの存在感が私の中でもどんどん希薄になってしまう(^^;)

 ・・・・もとより、私も、「ミンメイ」ではなくて「早瀬美沙」を取るであろう(爆)

*****

 最後に、詳しいことは知らないままですが、私とほぼ一緒に年をとった河森さん、現在公開中の「劇場版マクロスF」の興業的大成功、おめでとうございます!!

●劇場版マクロスF -虚空歌姫- 公式サイト

*****

 共通するスタッフによって引き続き制作された、「裏マクロス」というべき「メガゾーン23」も私が敬愛する作品です。このブログのあちこちですでに言及していますので、興味ある方はお探し下さい。

代表作は、

●なりたかった大人になればいい

です(^^)

●MEGAZONE23 AMV(YouTube)

メガゾーン23 [DVD]

メガゾーン23 PART 2 〜MEGA ZONE 23 PART 2〜 [DVD]

*****

 更に、河森さん関連で言うと、「マクロス・プラス」についての古い拙文はこちら

 劇場版「エスカフローネ」についてはこちら

 「創生のアクエリオン」についてはこちら

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2009/10/18

加藤和彦さんのご冥福を、謹んでお祈り申し上げます。

 北山修先生も、さぞお悲しみのことでしょう。

 このブログで、恐らくもっとも繰り返して引用した歌、en-Ray - Chai Chai サントリー烏龍茶ソングコレクション - あの素晴らしい愛をもう一度「あの素晴らしい愛をもう一度」

 iTunesにオリジナルの歌声はないので、ダ・カーポによるカバー・バージョンで恐縮ですが。

Crm0910171556014p3

 共同通信社の画像より拝借させていただきました。1968年当時のザ・フォーク・クルセダーズ。左から北山修、加藤和彦、はしだのりひこの3人のメンバー。

 関連事項を、王子のきつねさんサイトのこのコメントで書かせていただいています。

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2009/09/04

運命の出会いかもしれない・・・・・ (第2版)

 ついに、中井久夫先生と神田橋條治先生の「後継者」とまで言われる、熊木俊夫氏の著作に実際に目を通し始めることとなった。

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)


 実はまだ40ページばかり読み進めたに過ぎないのだが、もう、この段階できっぱり書いてしまおう!!

まさに「こんな」精神科医療の本をこそ、
私は読みたかったのだ!!

 敢えて不遜なことを言わせて頂ければ、私が現段階で精神医療に期待している理想のあり方とは、まさにこの著作で展開されている内容「それ自体」である。

 
更にいよいよ不遜なことをもうひとつ書くと(^^;)、私がこのブログで精神医療との連携の可能性について書いて来た内容とのシンクロ度半端ではない高さではないか!!

 きっと、私のことを、とっくに熊木シンパであると思っておられた読者の方もあるかもしれないが、とんでもない。

 だって、今日はじめて、めくってるんだもん!!

*****

 「<臨床感覚>は、個々の治療者が自らの身体を用いて、よりなまなましく対象に関わろうとすることでしか得ることはできない」(p.vii) 

 「やはり精神療法はこころに効くのだ。さらにそういった精神療法は、薬物療法と並行して行なわれているのが常であり、このことにいたく衝撃を受けた」(p.6)

 「治療者にとって薬物療法とは、単に一治療技法であるにとどまらず、薬を介した<生体との会話>なのである。(中略)そして<生体との対話>とは、言語表現としては到底すくいとれず、治療者・患者双方の身体感覚を通してしかわかりあえないような、より未分化で普遍的な生体とのコミュニケーション方法を指す」(pp.11-2)

 「私は今後、臨床家および患者の「薬物の官能評価[実際に飲んでみた結果として心身に徐々にどのような変化が生じるのかについての身体感覚次元での主観的効き心地。もちろん、不快感や、「効かない感じ」も含む]」の情報収集が成されることを強く期待する。
 患者という揺れ動く<構造>に対処するには、唯一の正解はない。
 治療上多くのパラメーター[変数]を同時に取り扱うためには、集積され各々の臨床家や患者に還元された種々雑多な「薬物の官能評価」の中から、臨床家各人が自分の感覚になじむものを鋭敏に選び取らなくてはならない。この営為もまた、治療的<構造>把握に向けての感度を上げていく過程で必要不可欠なプロセスであろう。
 そしてひいては、患者も、より自らの身体感覚に即した治療を受けることができるようになるのではなかろうか」(p.29)

 「<生体との会話>とは、言語表現というかたちをとる以前の、より未分化で普遍的な<わかりかた>のプロセスである」(p,32)

 「この人の話している<モゾモゾした気持ちの悪さ>とはどんな感じなんだろうか。実際のところ、この人のつらさをわかってあげられるのであろうか。いや、完全にわかることは不可能だろう。どれほど想像力を膨らまそうとも、この人に成り代わるわけではないのだから」(p.33)

・・・・この箇所など、私がこのブログで、すでに何回となく、北山修先生の作詞家としての代表作、「あな素晴らしい愛をもう一度」

 あの時同じ花を見て
 美しいと言った二人の
 心と心は
 今はもう通わない

を引き合いに出して伝えたかった「間主観性」の限界に関わる事柄を、嫌が上でも髣髴とさせる。

 そして、熊木氏は更に続ける:

 「そもそも、同じ感覚をわかってあげなくても、治療的関わりは可能なはずである。だとしたら、どのように関わっていけばよいのだろうか。やはり私なりの<患者の生体に対するわかり方>の方法論が必要となるだろう。この患者は治療という場において、特定な他者に開かれていなければならない・・・・・・。そんなことを考えながら患者のの身体を触診している時、私の身体はいくぶんなりとも患者の身体に同調してゆく。
 その感じに浸っているうちに、この身体は患者自身のものなのか、それとも、もしかすると私自身のものなのかもしれないという不分明さが生じてくる・・・・・」(pp.33-4)

 「「主観的身体像(P)[=患者さん(Patient)自身の感じている身体の感じ]」とは、<患者の有する自己の身体イメージ>と表現したものであり、対自的、ゆえに自閉的[阿世賀注:サリヴァン(中井訳)の言う「プロトタクシス的」]であるのが大きな特色である。たとえば、患者自身の頭痛の自覚などがこれにあたる。
 「主観的身体像(T)[=治療者Therapist)側の、患者の身体感覚についての、患者の身になっての「主観的」感覚]」は、これまでその重要性があまり顧みられなかったものである。<治療者が患者の身体について感じたこと>というのが、その意味するところのものなのだが、これではわかりにくいので、<治療者が自らの身体を映し鏡にして、患者の身体をモニタリングしたもの>とすればイメージが浮かびやすいだろう。
 治療者が自らの頭に頭痛があることを想定して、それをもとに想像してみた患者の訴える頭痛のつらさなどが、この一例である」(p.38)

 「私は、治療者が[患者自身の]「主観的身体像(P)」を共有しようとするすることが、まず必要なのではないかと考える」(p.39)

 「ただ誤解なきように付言すると、「主観的身体像(P)」と「主観的身体像(T)」は最終的には同じになることをめざすものではないし、また同じになっていくはずもない。
 治療において必要なのは、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」がどのようなものかを認識し、自らの[患者の身になって感じているつもりの]「主観的身体像(T)」についても自覚的になることである。
 その結果
、ともすれば硬直化しやすい患者の「主観的身体像(P)」がマイルドにほぐされていく[!!!!]
 
  (中略)

 治療者が患者の<からだをわかる>ということは,患者にとってみれば、「主観的身体像(P)」が治療者によって容認されたと感じられること。
 治療者にとってみれば、「主観的身体像(P)」の共有過程で「主観的身体像(P)」と「客観的身体像[測定可能な身体状態]」とを引き比べ,腑に落ちた』と感じられることである。それは同時に、主観的身体像(T)がひとまず完成を見ることである」(pp.40-1)

 「一般に世間で、患者に対する「受容と共感」の重要性が説かれているにもかかわらず、その方法化、いや、方法の意識化が不足しているのではなかろうか」(p.41)

こういちろう、激しく同意!!

 医者と違って、カウンセラーは「触診」ができないというだけのことで。

***** 

 更に、今日読んだ部分のダメ押し。

 「しかしどうしても、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」の理解に及ばない時もある。その場合、治療者の心のうちで一種のジレンマが生じてくる。それは、了解し得ないものに対する無力感と苛立ち、同時にその感情を受け入れまいとする否認の規制である。だが、この内なるジレンマにどのように向き合うかどうかが、治療のカギとなるであろう。
 もし、患者の訴える主観的身体像の<わからなさ>を容認することができるなら(治療者の「主観的身体像(T)」の歩み寄り)、患者の持つ苦痛と絶望をいくぶんか和らげ、訴えも少なくしてゆけるだろう」
(p.44)

 ・・・・これって、結局、私が常々このブログでも書いてきたし、

現代のエスプリ (No.410) 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編)

でお書きした、

クライエントさんに対する「感情移入的フォーカシングモード」と、治療者自身の体験している「自己指向フォーカシングモード」の間に矛盾が生じて、クライエントさんに「感情移入したい自分」「しきれない自分」(feeling about feeling)の両方をsplitさせて「認めてあげる(acknowledging)」ことができたら、なぜかそれだけで、治療者としての私の中に生じた余裕が「空気伝染」して、クライエントさんにも「何となく」余裕を回復させ、そこから面接の膠着が再び開け出すことが多い・・・・という、私の面接術の奥義と同じこと言って下さってるようものではないか!!

●「受容・共感と自己一致の相克」シリーズ(5連作)

●フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ (2)-(7)

*****

 更に言えば(今回はっきり言ってしまおう)、私の今後の最大のテーマのひとつは、精神医療における薬物療法が更に効果を上げる上で、薬を飲む前と飲んだ後とでの未分化で曖昧な身体感覚の変化への感受性を、まずは治療者側が、ひょっとすると患者さん側も上げるためのトレーニングとしてフォーカシングを「限定的」かつ「特殊な」技法形態で発展できる可能性である。

 すでにそのための試論は書いています:

●フォーカシング技法を活用した、鬱状態のクライエントさんのための「主導型積分的フェルトセンス照合」スキルアップトレーニング(案)

 更に、これを機会に、この1ヶ月間、とりあえず掲載見合わせにしていた次の記事を正式にUPしました。

●「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 

*****

 熊木氏に影響を与えている神田橋條治先生が、実はフォーカシングの熱血応援団長みたいな役割を務めてくださっていということ、そして、中井久夫先生に至っては、どうみても天才型ナチュラル・フォーカサーですから、こういう結果になることは、予想できなくもなかったんですけど、まさかこれほどとは・・・・・。

 40ページ読む中でも、私にとって幾つも新たな発見や刺激になった部分が他にもたくさんあります。

 ほんとうに、すごい才能がある新世代精神科医が生まれたものである。

****

 それでも敢えて書いてしまいます。

 精神科医の皆様、熊木氏の本を読んでいて理解不能になったり、

「では具体的にどうすればそうしたセンスが磨けるのだ?
 これではアートだ!!」


・・・・などとお感じでしたら、どうか試しに、フォーカシングを、まずはご自身のセンス向上のためにお学びになって見てください(^^)

 きっと、スラスラ読めて、納得してしまいますよ!!

 

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/07/16

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(2)

 前回の続きです。

 語り手の話を傾聴する時に、

  • 語り手の語った言葉を丁寧に伝え返していくこと
  • その際に、特に語り手が感じているであろう感情(feeling)について大事に受け止め、伝え返していくこと

 このことは、ロジャーズにはじまる、来談者中心療法カウンセリングにおけるベースラインとして強調されてきたことなのですが、ひとつ間違うと、語り手が語った内容を表面的に「鸚鵡返し」するだけになりかねません。

 そうした表面的・機械的にルーティン化した傾聴に留まる場には、話し手の側にも、聴き手の側にも、独特の「のっぺりとした」場の空気と居心地が徐々に生じてきて、話し手も聴き手も、苦しさと物足りなさを感じなからも、頑張って、話をしていき、傾聴していくという状態に徐々に陥いがちなものです。

 話し手の側は「ほんとうに聴いてもらっているという気がしない」と感じ始めるし、聴き手の側は「話を受容的・共感的に聞き続けて、伝え返していくのが苦しい」と感じ始めることが少なくないわけです。

 ロジャーズふうにいえば、語り手も、聴き手も、自分自身がありのままにそこにいるという「自己一致」した感覚が、やり取りの中で徐々に失われていくことを、実感の上で漠然と察知しているものです。

 話し手も聴き手も、辛抱しながらそういうやりとりを重ねているのですから、両者の中にある、「カウンセリングを受ける(する)こと」への義務感や、そこからいい結果が生じることへの「一抹の期待感」「盲目的な信頼感」だけが場の支えになっているような状態に近くなっていることも、決して少なくないかと思います。

**** 

 オーソドックスなロジャーズ派のカウンセラーの中にも、これだけではほんとうに生産的なカウンセリングが進んでいるとはいえないことを十分承知し、それを超えた次元のやりとりを実際にできる人たちも少なくないのですがフォーカシング(におけるリスナーやガイドの傾聴においては、こうした平板なやりとりをいかに克服するのかについての、積極的な「勘所」を身につけて行くことが大事にされています(・・・・・の、筈です(^^;)

 これについては以前も書いたことがあるのですが、今回改めて、今の私なりの新鮮な言葉で表現しなおしてみましょうしょう。

 1.聴き手は、今、自分が、話し手を前にして(あるいは、話し手と実際に面会する前の段階すら)、どんな居心地や気分や身体の漠然とした感じを感じながらたたずんでいるのかについて、十分に内側にセンサーを張って、モニタリングし続けている必要がある。

 例えば、カウンセラーがそうやって面接を始めようとしているのに、いまひとつ乗り気でない自分に気付き、自分の中にある「乗り気ではない部分」を認めてあげて、「乗り気でない」気持ちのそばに、ちょっとだけたたずんであげてみる、セルフ・フォーカシングを、ちょっとだけしてみることは大きな意味があります。

 その際に、別に「なぜ乗り気ではないのか」について分析したり、セルフ・フォーカシングで内側にシフトを起こして、面接に生き生きと臨める体制を作り上げねばならないとまでみなして、必死にセルフ・フォーカシングしてしまう必要まではないのですね。

 フォーカシングを、自分がある程度体験的に学び、身につけてきているという手応えがある人なら、経験的に、次のことを知っているはずです。すなわち、「十分OKな感じでいららない」自分に気がつき、それを、対象化して、それを自分の中でちょっとだけ認識しておく(気づいておく)だけで、心の中にわずかなスペースが生まれ、ちょっとだけ自分を取り戻せることが多いことはご存知のはずです。

 (自分の中の、面接に乗り気でない気持ちを受容しようとする、などという大それたことはできなくていいのですね。フォーカシングの名トレーナー、アン・ワイザーのいう"Acknowledging"=「(自分の中で)気づいておいてあげる」とは、この水準のことです。・・・・・こうした過程を「体験的に距離を取る(make a space,make a distance)」という言い方でとらえるのを好む人たちもありますが、少なくとも私自身は「距離をとる」という言い方をあまり好みません。それは「距離を取れねばならない」という強迫性のようなものを喚起するという意味で本末転倒になりやすいと感じています。「距離が取れない」自分に気がつけているだけで、実はその時可能な範囲で、そこそこ「距離が取れている」ことになるのですね。自分をセルフモニタリングする「立ち位置」を自分中で確保できているわけですから、すでにその段階で、単に「巻き込まれて、自分を見失ってしまっている」わけではないのです。最低限、それで十分かと思います)

 2.語り手とのやり取りを進める中で、

  • 聴き手としての自分個人が、話し手を前にして、どんな居心地を感じていて、どんなフェルトセンスが生じてきているか、どんな連想が生じているか(どんな分析を勝手にしてしまっているか、どういう部分に違和感や抵抗や不安を感じているか、自分のどういう体験と引き付けてとらえようとしているか、それどころか、「なぜか面接室の冷房の音が気になっているな」とか、「その聴き手の面接とは無関係のはずの別の事柄が脳裏を掠めているな」などを含めて)をしているのかについて絶えずセンサーを向け、そうした連想や「感じ」を、次々と対象化する形で、「気づいておく」ようにすること(繰り返しますが、とりあえず「気づいておく」以上の内的処理は不要です)。
  • 話し手の「身になる」モード。話し手語る内容、話しぶり、たたずまいなどをから感受されるものを、聴き手が、聴き手自身の身体に響かせ、身体感覚をくぐらせるようにして味わい、「話し手は、話をしている事柄に関して、今、どんな実感を感じつつ、話しているのか」そのものに、あたかも自分自身の体験している実感であるかのように、自分の身体感覚自体をチューニングするつもりで傾聴していくこと。
  • 上記の二つのモードを別々に自覚し、時々行き来しながら、それぞれに気づいておく主体としての、「第3の立ち位置」・・・「内なるスーパーバイザー」の視点のようなものを確保し続けること。

(・・・・・以上、2.で述べてきたことは、すでに、

伊藤研一・阿世賀浩一郎 編/現代のエスプリ 410 特集「治療者にとってのフォーカシング」 至文堂 2001

の中の、

●阿世賀浩一郎/面接場面でクライエントの「容れもの(container)」として機能するための技法の試み ~カウンセリング場面で治療者自身の体験過程を生かし続けるためのベースライン~(pp.65-73)

で詳しく述べさせていただいている事柄のエッセンスの要約です)

 このように書いてくると、何か複雑なことのようですが、過去の経験の中で「自分自身を保ちながらも、相手に積極的に関心を向け、相手の身になって話を聴いていられる」余裕ある状態でいられた時の体験をふりかえってみれば、実はこうしたことを無理なくできていたようだということは、フォーカシングを学んだ皆様に留まらず、およそどんな現場臨床家の皆様にも共通する体験ではないかと想像します。

 例えば、精神分析的にいえば、「平等に漂う注意」を維持できる状態というのに類似しているかと思います。

 ここで重要なのは、「相手の身になって」感じてみるモードと、相手との関わりの中で「自分個人の中に」生じてきたものを「感じ分ける」姿勢を維持し続けることです。

 そして、聴き手は、この2つのことを、話し手にとってはっきりと区別できる形で別々に提示できることが必要ではないかと思います。

 例えば、話し手が、家族に気持ちがうまく通じない時、何があったかとか、どんな思いが生じたかについて話し続けている際に、聴き手であるあなたの中に、自分が、大事な人との関係の中で生じた、気持ちが行き違った時の体験もまざまざと思い出され、そうした時の心境も生き生きと実感され始めるかもしれません。

 しかし、話し手と聴き手の体験している「気持ちが通じない時の」辛さや気傷つきが、すっかり同じ体験であるということを保障するものは何もないのです。

 このブログで引用するのは何回目かもうわからなくなりましたが(^^)、

>あの時 同じは花を見て、美しいといった二人の

(「あの素晴らしい愛をもう一度」 作詞:北山修)

感じていた、「美しい」という実感そのものが、共通のテイストのものであることを証明するものは何もないわけですね。

 このことの厳しい自覚こそが、聴き手(カウンセラー)が、話し手(クライエントさん)を独立した個人として尊重するということのベースラインに一番必要なものだと思います。

 そして、その峻別は、話し手の体験世界を、より深い次元で理解し、共有しようとする上での基盤となるのです。

***** 

 続きの部分では、話し手の身になって傾聴し、伝え返すこと、更には、話し手の実感にそれを照合してもらい、しっくりと来なかったら修正してもらうという相互作用を進める中で、話し手の体験世界に次第に寄り添っていくプロセスについて、もう少し具体的に書いてみたいと思います。

(続く)

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2009/07/05

July 1stならぬJuly 5th(第2版)

 今日は九大西新パレスでの北山修先生の講演会に行ってきた。

 福岡市早良区西新は、私の出身校、西南学院高等学校があるところ。

090705_1151001

 約四半世紀ぶりに行ってみたら、当時のチャペルは「西南学院博物館」の名の元に残っていたけど、校舎は少し離れた場所に移築になっていた。

 大正時代に作られた、このチャペルのレンガ造りにデザインを一致させる形で、周囲の西南大学関連の施設がみんな同じようなレンガ造りの外観に統一していたのには感心した。


*****


 講演会の内容については後日ご紹介するとして。

 講演会が終わった後、久しぶりに百道(ももち)の浜まで歩いてみようかと思った。

 私が在学していた当時は、高校のグラウンドのちょっと外まで出ると砂浜だった。

 それがそれから15年もたたないうちに、海岸線は埋め立てられて、ウン百メートル先になり、ベイエリアのビル群の向こうに人工海浜が作られるという「福岡市のお台場」というしかない土地に変貌していた。

090705_1158002
↑このグラウンドの向こうの松林の向こうがすでに砂浜だったと思いねえ。

 その砂浜に、大相撲九州場所の時は各部屋の合宿所があり、お相撲さんたちが稽古をしていて、高校の校舎の周りの道でよくすれ違ったものである。

(遠くに見えるタワーがベイエリアにそびえ立つ福岡タワー。タワーのすぐ右隣(手前の大きいのに非ず)高層ビルがテレビ西日本フジテレビ系列なので、そこまでお台場に似せるか!! といいたくなるくらいだが)

090705_1608001
↑今度は海岸側からみたテレビ西日本社屋と福岡タワー。

090705_1612001
 ↑人工海浜の突端にある、海の中道海浜公園行きの観光船乗り場(マリゾン)より振り返る形で撮影。すでに結構海水浴客があふれていました。ドーム状に見える大きな施設は、もちろんソフトバンクホークスの本拠地、福岡ヤフードームである。その手前に鋭くそそり立つのがシーホークホテル。

●far away(王子のきつねOnline)

 ↑このページに行くと、航空写真で、どのくらい海岸線が沖に移ったかわかります(^^)
 この写真の段階ではまだ福岡タワーも人工海浜もできていません。

 ↓ですから現在の地図をおまけします。

大きな地図で見る

 浜崎あゆみの出身も早良区でして(西新より少し海から離れた六本松地区。私が高校を卒業した直後にayuは生まれている)、幼い日に離婚をきっかけに離れ離れになった父親との数少ない記憶の地が百道の浜だとのこと。

 実は、年齢的に見て、ayuの幼児期の百道の浜は、埋め立てより前の「昔の」海岸線だったはず・・・・ということにはなるのですが。

浜崎あゆみ - Rainbow - July 1st浜崎あゆみ/July 1st
 
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2009/07/03

明日から2日間、宮崎哲弥氏と北山修先生の講演会を続けて聴講予定。

 評論家の宮崎哲弥さんが、実は、我が故郷、福岡県久留米市の出身であることをご存知の方もいらっしゃること思います。

 明日4日、久留米青年会議所の主催で、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」と題して講演会が開かれるので、それに参加することにしました(すでに応募締め切りです)。

【追記】参加報告はこちらです。


****


 更に、翌日の5日、九州大学の北山修先生を講師とする、「九州大学対人援助職スキルアッププログラム」の一貫として、「人生物語 (ライフ・ストーリー)の読み方 -精神分析入門-」と題した講演会が開かれます。

(こちらもすでに参加募集締め切りです)

 今の私は福岡市まで出向くことはそんなに機会が多くありませんが、福岡市近郊のの臨床心理士の皆様、私を見かけたら気軽にお声をおかけくださいませ。

 この2つの行事参加のため、私の開業カウンセリングルームは、この土日の2日間、臨時休業とさせていただきます。

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2008/10/14

ウィニコットの"good enough mother(ing)"をどう訳すか(第3版)

 これまた、直前の記事の後半で、ウィニコットについて書いたことから、心理療法家、特に精神分析系の、臨床心理先攻の心理学科学部学生以上にとっては十分に有益な情報をひとつ。

 ウィニコットには、もはやカウンセラー(特に分析系)だときちんと理解していないとモグリだといわれかねない水準の、指定校大学院博士前期コースを出た出た人だと、臨床心理士資格認定試験の受験勉強には欠かせない水準の概念として、

●移行対象(過渡対象)
●錯覚(illesion)/ 脱錯覚 or 幻滅(disillusion)

(わざと、資格試験のために最低限これくらいかなという素朴な水準の定義にリンクしました)

そして、

●good enough mother(ing)

の3つがあると思います。

 実は、直前の記事で紹介した「偽の自己(false self)」などを資格試験や大学院の入試に出題するのは、学生や臨床心理士資格受験者には酷と思います。

なぜなら、

1.J-Popなどでも歌われ、世間の人一般が思っている「偽せものの自分」「ほんとうの自分」という次元での用法(私はこれを軽視しているのではなく、むしろ専門家の側がこれを尊重せよと強く言いたい)

2.ウィニコット自身が言っている本来の意味あい(専門家ならこれを十分理解しておけ、といいたい)

3.それを「誤読」したマスターソンが使った意味あい(臨床家の卵だと、本来は乳幼児発達心理学者マーラーが言い出した「見捨てられ(分離)不安」と関連づけて結構ありがち)

4.ウィニコットをある意味では継承したけど、これまたオーバーランしたきらいがあるR.D.レインにおける意味あい(3.よりマニアックなぶん、アマチュアの心理好きも知っていることあり

 最低この4つぐらいを、臨床系の大学の有名な精神分析の先生ですら、一緒くたにしていたり、この中のどれかに強い感化を受けている可能性があるので、「正解」をどの範囲とするか、受験生と採点の先生の「趣味」があわないと、あまりに不確定になるからです。

(もっとも、北山修先生や松木邦裕先生、福本修先生、狩野力八郎先生、妙木浩之先生、私も多少親交がある藤山直樹先生クラスの先生(精神分析系の院生なら、どの程度の水準か見極めていただけますよね)が採点して下さればそうした心配はないと思います、むしろ「自分はウィニコット/マスターソン/レインの次元で書いている」と自己申告して勝負を挑むのもいいかもしれません)


****

 次に「錯覚(illusion)」と「幻滅(脱錯覚 disillusion))」の関係についてはすでに何回か書きましたし、同じくウィニコットのいう有名概念のひとつ、

●ひとりでいられる能力(ability to be alone)

についてもこのブログで何回も言及しましたが、これも指定校大学院入試や臨床心理士資格試験に出題でもされたら、問題を考えた先生に「酷です」といいたい。

 ウィニコット自身が書いた意味とは全く別のニュアンスで日本の臨床家全体に流布していますから。

 この点だけ、端的に正解を書きます。

△=孤独で、一人きりでいられる能力、引き蘢れる能力、「自閉する能力(=すごく有意義な臨床概念だが、神田橋條治先生の独創に近い)」

○=親しい人(親や恋人)と一緒の空間にいながら、しかも自分の世界に没頭できること

 このふたつは奥でつながっている場合も多いのですが、あまりにアングルが異なるでしょ? 恐らく筋のいい教育を受けた人なら後者に近い形で理解しておられるはす(20代のかけだし臨床家の皆さん、ほっと胸を撫で下ろした人が50%はいるでしょう)

(........自分の畑ではないフロイト以降、いや、クライン以降の精神分析の理論においてですらこの水準の的確な理解と使い分けが大事といいだす私という人間が、ことフォーカシングの世界で、すでに25年間ライフワークにして来たジェンドリンや体験過程理論の理解にどこまで厳密さを求めているかは推(お)して知るべしと想像して下さい。......でも私を恐れないで(爆)!! フォーカシングを学ぶ皆さんがどういう本を読んでどこで誰に学んで(外国を含む)どういう脈絡で使っているかまで、私は瞬時に汲み取って、無理なく、それこそ、「お互いに、いい意味でgood enoughに」対話しますから)


****


 さて、問題の、"good enough mother(ing)"です(^^)


 30年前の訳書では、「適切な母親」(「適切な養育」)と訳されました

 しかしこの訳語は誤解を招くという意見が高まり、ある一時期は、全くの直訳ふうに、


  「ほぼ十分な母親(養育)」


と訳されることが全盛を極めた次期があるかと思います。


*****

 でも、実用的な英語を学んでいる人なら、good enoughを「ほぼ十分な」と訳するのは大学受験生までにしてくれとおっしゃりたい方がすくなくないかと(^^)

 ちなみに、英会話スクールBerlizのサイトでは、このページで次のように解説されています:

 今日はこの中にある“good enough”という言い回しに注目してみます!

 “good enough”は、「良い」という意味の“good”と、「十分な」という意味の“enough”からなる言い回しで、直訳すると、「十分に良い」となりますが、会話では、「十分」「満足」という意味で使われます。“enough”だけでも「十分」という意味があるのですが、捉え方によっては、「それ以上はいい」という意味になってしまうこともあり、“good”を付けることで、「満足」というニュアンスを加えることができます。


つまり、

「コーヒーもう一杯どう?」

ときかれて、


「もう十分いただいたわ( ^ ^ )」

から

「結構( ^^;)」


と答える時まで広げられるかな?

 字幕や吹き替えでは、場面と脈絡に応じて、「ありがとう、もうOKよ」とか「もういいわ」とか訳しているのでは?

 「かすかな拒絶」が優勢なニュアンスの時と、「心からの感謝を込めて」のニュアンスで受けとめてかまわない時があるでしょうね。


 仕事の出来についての感想だったら、

「十分よ!( ^ ^ )v 」
「まずまずだな」
「一応いいか!」( ^ ^ ; )
「ま、いいでしょ(- _-)」
「問題ないね」

ぐらいに訳し分けられるかも。

 ある意味では、日本語でいう、「適当」という言葉が「いい加減!」「手抜き!」から、「まずまず!」「そこそこいけてる!!」「いいんじゃないの?」といった複雑なニュアンスを内包できるのに似ている。


****


 いずれにしても、ウィニコットの"good enough"の訳語として、わたしがこれまで著名な先生方の日本語訳として気にいったのは、


「まずまずの」

とか、

「そこそこの」

と訳した例でした。

(後者は、私が共立女子大学非常勤講師の時代に使った、酒木保先生(コラージュ療法で著名)の教養過程の心理学向け教科書だったと思います)


*****


 これ、実は「ありふれた」とか「普通の」に、限りなく近いのです。

 日本人って「適切」という言葉に凄く構えてしまい、「適切な水準」を目標に掲げ、強迫的に探し求める罠にはまりやすいので。


******


 .......このように書くと、「自分は"good enough mother"か??」と真剣に悩み抜いておられた女性のある部分はあっけにとられるでしょうね(^ー^) 

 決してそういう方々への揶揄でいうのではありませんが、「自分は『普通の』人間のなのだろうか?」と真剣に悩み抜いて来た方々のある部分を別にすれば、少しは安心して下さるのではないかと

 つまり、これだけでは「気休めにもならない」皆様が少なからずおられるのも私は心から受け止めます。少なくとも「数年前の」浜崎あゆみにとってはそうかもしれない。今もクラくなると彼女はそう感じているかも(少なくとも、ayuの歌詞に共感できる皆さんには、こういう言い方で通じますよね)。

 特に日本人には「普通に」という言葉を「無神経」、「デリカシー」がないと受け止められてもしかたないくらいに「普通さ」に過敏な面があると思います。

 それはこの言葉の濫用のせいも大きいと思います。鬱病、統合失調症、ボーダーライン、発達障害とされる人に安易に使わないデリカシーを、good enoughなカウンセラーの皆様なら持っている筈と思います。


*****
 

 ほんとうは、こういうニュアンスまで汲み取れないと成り立たないのが、それこそ"good enoughな"カウンセラー・マインドだと私は感じています(^^)

 これは読者の皆様への「謎かけ」ではなくて(^^;)、

 こう書くと「いい塩梅(あんばい)で="good enoughに"」伝わるかと( ^ ^ )


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2008/08/31

久留米フォーカシング・カウンセリングルームまでの詳細なアクセス・マップ

●「アクセス」カテゴリー〈久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)


 Googleマップから地図Z、街の案内地図をデジカメで撮ったものなど、ローテクを交えて、手法総動員です。

 実は、久留米は北九州より熊本からの方が近い(50分)、それどころか、九州新幹線部分開業のおかげで、鹿児島中央からですら2時間という現実があるのですね。

 
 

2008/03/02

大船でフォーカシングを学ぶ会、今後第4土曜日にも開催!!

 恒例、「大船でフォーカシングを学ぶ会」開催報告です。

 その前に告知!!

 この「学ぶ会」には、かなり遠方からの日帰りの参加者の方が多い(片道2時間半クラス)ことに気がつきました。
 更に、もし「土曜日開催」ならおいでになれる方も増えるのではないかというご意見も頂きました。

 そこで、とりあえず試行的に、今月の第4土曜日、3/22(土)に【B日程】で急遽開催することを思い立ちました。

 この後、第4土曜に継続開催しようという気持ちは強いのですが、【B日程】で続けるかどうかは、皆様のニーズに基づいて判断します(【A日程】の時間帯と比べて、どちらが参加者の便宜になるか判断がつかないからです)


*****


 さて、本日、3/2(月)は、久しぶりに大人数、私を含めて参加者7名でしたが、初参加の方もすでに既成のフォーカシングの勉強会に参加されている方で、くつろいだ中にも密度が濃い内容にできたように思います。

 前回、少人数ということを生かして実現した懇切丁寧なプログラムが、こういう大人数でも無理なく実施できるかが、私の課題になりました。


●第1部:身体感覚中心のclearing a space スペシャルバージョン(ホールボディ・フォーカシングつき)

 前回と同様に、7名様で、1時間をゆうに超える時間を要した、集団法clearing a speceの中ではかつてない丁寧さを持ったコンテンツ!!


 どういうことかといいますと、

1.身体の各部分ごとに丁寧に「今申し分のない感じでいれれるか?」と身体に問いかけてもらうことの、もっとも詳細なやり方。

 胸→背中→お腹→腰→あし(太ももからつま先まで)→腕・手先→肩・首筋→首から上→周囲の空気→各人が自由に身体のあちこちを感じてもろう、という私のフォーマットでのフルコースを、参加者が各部分を味わうことに完全に十分と感じるペース(一箇所3分-5分以上!!)で、個々の参加者に確認を取りながら進めた。


2.ホールボディ・フォーカシングの統合

 それぞれの部分を感じる際に、楽でいられる安全基地の確認を重視、「そこ」を大事にしながら、身体の実感を大事にして、身体がどういう姿勢や筋の伸ばし方を求めているのかをじっくりと試してもらう。これはホールボディ・フォーカシングの応用だが、各人が「心地よい身体の姿勢」を主体的に探してもらい、自由に味わう時間をたっぷり取って、私を含めた参加者7人が納得がいく体験をしたことを確認した上でしか、次の身体の部分を中心に感じてもらうことに進まない。これが、ひとつの身体の部分だけで5分近くかかるという長大化の要因ともなった。


3.ひとつの身体の感じを味わった後に、それを言語化する権利の保障、言語化しない権利の保障

 大人数だとこのことを確認する余裕がなくなるかなと思いましたが、それでもここまでまで含めて、参加者に了解を取って進めることにチャレンジしましたが、存外に順調に進みました。結果的には途中でどなたも言語化の権利を行使しなかったのだが、これは、言語化する権利を保障したからこそ生じた状況であり、それぞれご自身の中では体験を言語化するというプロセスが生起していたという逆説があったと今回も思います。

「今何分やってたのかしら?」
「10分ぐらいかな?」

という雑談が出たことに私は内心苦笑していました。ホントは1時間かけたんですよ!!


4.それぞれの身体の感じを味わううちに自然と生じた日常場面の回想日頃の悩みとの関連を身体の感じと無理のない範囲で行き来して味わい、無理のない体験的距離を見つけて、それぞれを「認めてあげて(acknowledging)」、あとで必要あればもう一度関わることを約束するプロセスの丁寧な実施。

 私の見出した分類における「外共鳴(external resonating)」を無理のない体験的距離を見出すまでじっくりやっていただいたことになる。


 .....こうなると、1時間を超えるclearing spaceが、各参加者のペースを尊重した、自由で伸び伸びしているけれども、深い身体と心の落ち着きが獲られるプロセスとなる。

 参加者の多くに、ほとんどここまでで、その日参加した十分な満足感を感じ、身体も心も普段にない充足感や、日常の気がかりについての生産的な気づき、最低でも「焦点化」して無理のない「体験的距離」を見出すブロセスが生じたようである。


●第2部:藤嶽法第1法フルバージョン


 何しろひとりの語り手に6人もの人間が、相手の身になった応答を返してくれるという、インタラクティブ・フォーカシングのラウンドロビン・フォーマットとしては超豪華版!! カードを媒介とするのでひとまわりするのに2時間以上かかりました。

 この前と同じように、最初のひとり二人の語り手が終了し、3人目に持ち回る頃には、皆さんやり方のコツをわきまえてしまい、段取りの進め方がポーカーゲームのようにスピードアップ!!カードで文字や絵で表す共感的な応答にセンスがどんどん上がるし、皆さん絵を描くの早くなる!!

 その結果、前回と同じように、フォーカサーの提示する絵画と、リスナーが提示する絵画の一致度、リスナー相互間のカードの一致度が、奇跡的なまでに上がっていくのですね。

 もう、お互いに全然ズルしてないのに、そっくりの絵を提示したリスナー同志が驚いてしまう域にまで達しました。

 もう、言葉以前の次元で、集団全体が「おなじ花を見て、同じ美しさを感じて」いる驚異の水準ともいえました。

 凄いのは、「漢字の一致」すらはじまったことです。

ひとりのリスナーが、

「留(どと)める」

と書いたカードを出して、

次のリスナーが、

「溜(た)める」

と書いたカードを出した時には、みんなその象形文字の一致に驚愕しました(^^)

 そして、微妙なずれそのものを味わい直すことが、フォーカサーとリスナーの体験過程のステップを更に促進するという、理想的な展開になりました。

藤嶽法は、文字でマニュアルを理解してもらおうとすると煩雑ですが、「体験的に」コツをつかむのは、「フォーカシングの初心者でも」実に簡単なんです。もっとも、「トレーナーが熟達していれば」の話です....自戒ならぬ自負を込めて)


*******


●今後の予定:


 今後は、


【B日程】3/16(日) 14:45-19:00
【B日程】3/22(土)《新設》 14:45-19:00
【A日程】4/6(日)  13:00-18:00

の予定です。


*****


 継続的な参加を必要とする内容にはいたしません。

 第1・第3日曜、第4土曜のいずれかのみ参加、
 敢えて月2回、3回の参加、
 更に、ランダムに参加されること等、ご自由に選んでいただければと思います。

 ただし、開催日前日夕刻までに、どの日にご参加希望かのエントリーを、継続者の方も、メール・ファクス・電話等で必ずお願いいたします。8人定員を遵守いたします。

******


 更に付言しますと、第1日曜の「学ぶ会」開催日については、夜19:00以降の個人カウンセリングの新規申し込み、第3日曜、第4土曜については、14:30までに終了するカウンセリング・フォーカシング個別指導・ケーススーパービジョンの新規申し込みも受け付けています。

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