答え:
カウンセラーと相談にこられた方が、実際には向かい合って座っていても、気持ちの上では、45度から90度の角度でたたずみ、二人の「前にある」相談に来られた方の「悩みの全体」を、まるで二人がお互いに「全く同じ」気持ちや感じ方をしながら「味わい、眺めつつ」語り合っている「かのような」気分に「お互いに」なれる瞬間が面接時間の「かなりを」占めるようになった時です。
こうなれば、たとえその時点で、カウンセラーも、相談に来られた方も、悩みや問題の具体的な解決の方向が見えて「いなく」とも、遠からず、二人とも満足の行く 、思ってもいなかった出口にたどりつける可能性が高いです。
つまり、いわば細長い二等辺三角形の鋭角の頂点に、相談に来られた方の「悩み」があり、そちらを二人で、少し距離を置いて「一緒に眺めて」いるような状態ですね。
(わかりやすいようにあとで図を補足します)
要するに、
> あの時、同じ花を見て
> 美しいと 言った二人の
> 心と心が 今は もう通わない
のではなくて、ある程度以上の出現率で「通い合う」状態で「あり続ければ」、そのカウンセリングは、絶対にいい方向に向かいます。
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音楽の教科書にも載り、もはやかなりのお年寄りを除いては、日本中で知らない人は珍しいだろう、日本のフォークの歴史に残る記念碑的作品、
「あの素晴らしい愛をもう一度」



などなど、オリジナル以外に、若い世代の歌手もカバー・バージョンをいくつも出していますし、
あの「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督の初実写映画、
村上龍原作、
「ラブ & ポップ」のエンディングで主役の女の子たちが○○を行進していく印象的なシーンでも、その子たちによって歌われてます。
(今週からはじめると宣言した「エヴァ」ネタとは、もちろんこのことではありません。まあ、「前ふり」にはなるかなという思いもほんの少しはある)
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実は、この歌を、カウンセリングや精神療法の世界で論じたのは残念ながら私ではありません。
何と、この歌を作詞し、歌っているにもかかわらず(?)、その後イギリスに留学、今や日本の精神分析の世界で第一人者となった、九州大学教授、「北山修」その人なんですよね。
そして、ご自身の著作、
「幻滅論」(みずず書房)の、クライマックスといえる箇所で、ここぞとばかりに、著作権所有者ご本人がこの歌詞を引用し、大論陣を張るという、他の誰にも不可能な、なんともうらやましいこと(?)をなさっています。
北山先生.......どーしても私なんかはこうお呼びしてしまいます。北山先生、去年の心理臨床学会での先生のワークショップで、フロアから3回も長い質問して、先生を困らせたのはこの私です(^^;)
(実はこのブログに実に繰り返し「北山修」で検索しておいでの方がいるので、その方が同一人物とは限りませんけど、ひょっとしたらフォーカシングにも縁の深い九大の北山ゼミの学生さん・院生さんあたりじゃないかとも思い、勝手に伝言を依頼します)
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さて、北山先生は、「幻滅論」で、私にも負けないくらいに予想外の脈絡からこの歌詞を引っ張り出します。
江戸時代の浮世絵に描かれた母子像に、たとえば月だとか花火だとかを一緒に見ている姿が、ひとつのパターンとして多い、ということに北山先生は着目します。
子供はお月さんとかを指差してたりもするわけですね。
おそらく、こういう場面で、まだ言葉が話せない子供だったとしても、
「あー」
とか何とか叫び月を指差し、お母さんが、
「あ、お月様、きれいねえ」
とか会話をしているかもしれません。
こうした瞬間、母親と子供は、まさに
「同じものを見て、同じように感じている」
一体感の世界にいます。
こうした経験の繰り返しが発達早期の親子関係に決定的な意味を持つ、などということは、北山先生が留学されたイギリスで盛んな「対象関係学派」と呼ばれる精神分析の流派の人たち、たとえば
ビオン(Bion)とかが、アルファとかベータとかcontainerという小難しい用語を使って説明しているのですが、北山先生は、いかにも日本を代表する作詞家らしく、「日本語で考える」臨床心理・精神医学の樹立の大切さを訴え続けています(その点では、
「甘え」理論の土井健郎先生の流れを汲むともいえます)。
そこで、これらの浮世絵の構図をもとに「共同注視」という、北山先生独自の概念を生み出したわけです。
つまり、母子の何かの対象への「共同注視」が生じている時には、
あたかも
「同じ花を見て」、
同じように
「美しい」
と感じている「かのような」状態が生じている。
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ここで大切なのは、単に母子両方が「美しい」と感じるかどうかではないということです。
二人ともお互いに、
「同じような」感触、「同じような」質感の「美しさ」
として
感じ、味わい、体験している
という、
「共同幻想(illusion)」
がもてるかどうか、ということです。
これは、お互いの勝手な思い込み、「錯覚」かもしれない。
でも、その「錯覚」こそが、人と人との<絆>の原点です。
哲学の世界で、仮に同じ色刺激、それこそ、”FF 00 00"としてデジタル記号化して共有できる色についても、
Aという人が体験している「赤」と、Bという人が体験している「赤」がはたして「同じ」体験なのか、ということは、古典的な認識論の命題です。
まして「美しい」とか「悲しい」とかいった、人間のものの感じ方そのものをあらわす体験を「共有する」とはいったいどういうことなんでしょう。
人が他者から切り離された実存的「個」としての自我を持つということは、まさにそのような感情体験の「共有」という「幻想(illusion)」が壊れ、それは「錯覚」だったのではないかという「幻滅」にも耐えていかねばならないということでもあります。
(「脱錯覚」「幻滅」どちらも英語で言えば"disillusion"です。そして北山先生の本のタイトルが「幻滅論」であり、そこで北山先生が言わんとしている意味での「幻滅」とは何かということと、深くかかわりあうことになります。

"disillusion"とは、イギリスの対象関係学派の中でも、特に最大の大家というべきウイニコット(Winicott)にとって決定的な鍵概念です。
過度に単純化しすぎる危険を敢えて冒せば、人が「他者」から切り離された「個」として生きる上で避けがたい、他者とかかわりにおけるこうした「幻滅」体験が、特に赤ん坊時代の母子関係で深刻な傷としてのみ残るか、それとも「確かに『思い込み』が壊されて傷つくこともあるけど、少なくとも相手によっては、そして理解し合おうというという探索(まさぐり)の過程がお互いにうまく噛み合えば、
たとえそれが、
「一瞬の接点」
であったり、あるいは
「お互いの感じ方が『どのように違うか』がわかりあえた」
などという逆説的な「共有」であろうとも、
「時には」可能なのだ、自分にも生み出せるのだ、という「わずかな希望と人間信頼」であろうと、人が生きていく支えとなることがあるのだと私は思っています。
カウンセリングの場とは、カウンセラーと相談に来た方が、
「同じ花を見て、同じ『美しさ』(悲しさ、大変さ....)を感じている」
と感じられる、「共同注視」の「黄金のトライアングル」体験を、共に築き上げていく、共同作業の場だと思います。
当然そこには、お互いの勝手な「思い込み」→「幻滅」から生じる「小競り合い」もあるかもしれません。
そういう危機を何度もしのぎ切って、「以前よりは」お互いに理解しあえた、という小刻みなプロセスをどこまで積み上げられるか。
これは、カウンセラーと、来談に来た方との「真剣勝負」です。
しかし、それをいくつも乗り越えて、カウンセラーとの<絆>を維持できるところまで辿り着けたとしたら、きっと、現実世界での恋愛とかでも、同じ「思い込み」→「幻滅」というつらい体験のくり返しの輪から抜け出せるのではないかと思います。
......というと、
劇場版「エヴァンゲリオン」での葛城ミサトが最期にシンジに伝えた
「私も、『ぬか喜び』と『自己嫌悪』の繰り返しだった。それでも前に進めた気がする」
というセリフに通じるものだと思うのです。
はっきり言って、
拙書「エヴァンゲリオンの深層心理」(Amazonはこちら)は、書き終わってみれば、このことを言いたいがために書いたみたいなものでした。
そして、やっと最近になって、そういう相談に来られる方と私、双方の「思い込み」と「幻滅」の振幅にある程度耐え切れ、支え切れることも増えてきたかな、くらいです。
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この『黄金のトライアングル』(一般には「治療同盟の成立」といわれることの、更なるエッセンスのつもりです)については、この後も形を変えて書いていきます。
例えば、フォーカシングの祖、ジェンドリンの先輩格の共同研究者、日本のカウンセリングの流れに大きな影響を残した、来談者中心療法の祖、

カール・ロジャーズが「治療の3要件」として掲げた、
「感情移入的理解」
「無条件の肯定的関心」
「治療者自身の自己一致」
かすべて共に達成された状態はまさにこの状態だともいえます。
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更に言えば、フォーカシングを「ひとりでも」できるようになるには、「内なるクライエント」としてのフェルトセンス(言葉にならない曖昧な感じ)、「内なる来談者中心療法セラピスト」として、フェルトセンスに、注意と関心を向け、フェルトセンスからのメッセージを傾聴しようとする「私(I)」との「内的な二者関係(Annのいうinner relationship)」だけではなくて、
「内なるコーチ」「内なるスーパーバイザー」としての、公平なまなざしを持つ「3人目」が「脱同一化(disidentification)」して存在し、「内なる『黄金のトライアングル』」=「内なる三者関係」が必要ではないのか。


ここまでなら、
「それは、
この著作や、
この著作、
そして、
この著作で、
Ann Wiserが、
「内なるリスナー」と「内なるクライエント」とが
脱同一化(disidentificate)された
"inner relationship"形成
としてのフォーカシング論を展開する際に述べた、
「Larger "I"(より大きな『私』」
という概念に通じるのではないか、
といわれるかもしれません。
しかしAnnは、私の理解では、アンは確かに、前二者を「包含する」あるいは「俯瞰する」視点として取らえているとはいえるかもしれませんが、
「三者関係」として位置づけてしまうことはしていなかったように思います。
(敢えて「内的なトライアングル状の<三者関係>」として位置づけることにどのような意味があるのか? それは、「内的な互いの役割が自由に入れ替わってしまうことがあり得る」という観点を導入できるからなのですが、これについては、おそらく8月下旬中には「ホームページ本部」の「私のフォーカシング」久々の「新作」として発表となる実例を読んでいただかないと、何を言いたいのか見当もつけてもらえないでしょう。請うご期待!!)
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更なる仮説を提起します。
フォーカサーとリスナー(ガイド)が別々にいる、2人でやるフォーカシング・セッション(フォーカシング・パートナーシップ)でも、実はこの各々の「内なるスーパーバイサー」=「内的な3人目」を二人が「共有」できているというillusionが必要なのでないか???
そこには、フォーカサーの「私」、リスナー「私」、双方の「内なるス-パーバイザー」のillusionとしての「共有地点」という、もうひとつの「黄金のトライアングル」の存在を仮定するということになります。
ここまでくると、おそらく世界のフォーカシングの世界でも最前衛といっていい発想(はっきり言って、今年の私の人間性心理学会第24回大会での個人発表の中身にもろにかかわります!!)かもしれないものにもつながります。
それらをすべて「包括して」図にするとどんな形になるか? これは、focusing-netの読者にはすでに公開しましたが、学会発表で使うことになる図版を
で、ついに転載しました!!
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更に屋根屋を重ねて、
精神分析的対象関係論の領域での最新の潮流で言うと、
オグデンの「第3主体」論
とか、
ケースメントが、「患者から学ぶ」で書いた、
「内なるスーパーバイザー」論
ともリンクし始め、
まさに、流派を超えて、およそ心理療法の分野における最先端の議論にすらなるはず、
という、壮大な構想が私の中にはあります。
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「エヴァ」ネタ解禁も、これだけではもちろん終わりません!!
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