クライエント・センタード

2009/07/29

「何かを本気で学ぶためには、人は一度孤独にならねばならない」

 解決指向フォーカシング療法(SOFT)を編み出した、バラ・ジェイソンは、フォーカシングのコミュニティの中で、フォーカシングを十分に学んだ後で、解決指向アプローチの訓練を受け始めた人である。

 バラは、解決志向アプローチにおける、非常に積極的で、指示的なアプローチについて、最初は非常に戸惑うところが大きかった。それどころか、

「実際私は、フォーカシング・コミュニティの仲間たち、特にジェンドリンが、私にあきれ果てるのではないかと心配で、数年間秘密にしていたほどでした。自分のしていることを知られたら、コミュニティから追い出されるのではないかと怖れていました。
 それも今は笑い話です。このSOFT(解決指向フォーカシング療法)アプローチをフォーカシング国際会議で初めて発表したとき、フォーカシング界の仲間の多くがすでに解決アプローチを取り入れていることを発見しました。そして、その人たちもまったく同じようなためらいを感じながら、解決アプローチを取り入れていたのです。ですから、私たちは言わば、表現がふさわしくないかもしれませんが、一致に『カミングアウト』したのです」

・・・・バラ・ジェイソン(日笠摩子監訳)解決指向フォーカシング療法―深いセラピーを短く・短いセラピーを深く:邦訳pp224-5

 この部分を読んで、私は、臨床家としての自分の現状への物足りなさをバネにして、孤独の中に新たな道を模索して、トンネルを抜け、同じような孤独の道をたどってきた「同志」が実は身近にいたことに気づいて報われる思いがするところまで突き抜けて来た、バラという人の等身大の生き様が伝わってくる気がして、ある感慨を覚えた。

 このことを伝えたフォーカシング関係の知り合いが、私に紹介してくれたのが、タイトルに掲げた、

「何かを本気で学ぶためには、人は一度孤独にならねばならない」

という言葉である。

 これは、落合信彦「アメリカよ!あめりかよ!」 という本に出てきた言葉らしい。

 落合氏のアメリカ留学時代の体験についての自伝ノンフィクションとのことだが、この著作の中でさりげなく独白のように書かれている一句とのこと。

 今の時代、若い臨床家の皆さんは、四半世紀前の私の修行時代と比べると、比較にならないくらいに整備された学ぶための場を持っている。邦訳された多くの専門的な著作、ワークショップ、セミナー・・・・むしろ、浴びせられるような情報の洪水に、大学の専門課程に進めは接することができる。共に学ぶ仲間の人数も、以前の比ではない。

 しかし、早くからそうした情報や知識を「学ばされる」状況に、色々目移りしながらもアップアップしてしまい、消化不良になる危険とも隣り合わせの中におかれているのではないか。

 日本の心理臨床の世界は、すでに、草創期の、自ら道を切り開くチャレンジングでベンチャーな開拓者の時代ではなくなりつつあるといえばそうかもしれない。しかし、そうした恵まれた環境の中で、実は自分のしっかりとした立ち位置を見つけるたという実感も感じにくい、薄氷を踏む危機感とも実は隣り合わせの状況ではないかとも思える。

 ただ、既成の集団や組織やコミュニティーに埋没しているだけでは、実は今の自分が現実に直面しつつある「漠然とした、マイルドな違和感」や危機意識を直視できなくなる場合もあると思う。

 私に、上記の落合信彦の言葉を紹介してくれた人にとっては、中学生時代の座右の銘のような言葉だったという。

 私も、この言葉は、実にいい言葉だと思う。

 落合信彦については、いろいろ毀誉褒貶があるらしいが、この言葉は思わず紹介したくなった(^^)

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2009/07/27

カウンセラーの自己受容あって、はじめてクライエントさんを受容できる。

 カウンセラー自身が、一個人、一生活者としての自分の中に生じる様々な矛盾した思いや葛藤や感情、行き詰まり感、自分でもはっきりと直面したくないもろもろの課題や思いや認識に日々気づいていき、たとえそれに具体的な解決策は見出さなくとも、静かにそれらを味わい、認めてあげ、自己受容することがでてきること。

 このような、自分自身に対する「風通しのよさ」のようなものを自分で実感できていてはじめて、カウンセラーは、クライエントさんたちが語り出す様々な葛藤や矛盾する思い、自分でも認めたくない自分の心の動きを静かに受け止めながら傾聴できるであろう。

 さもなければ、カウンセラーは、クライエントさんが語りだした事柄(語りだそうとしていた事柄)をなんらかの意味で「遮る」存在になる。たとえそれが形の上でどれだけ受容的な傾聴をしていても、一見些細な言葉の端々や声の調子を通して、クライエントさんに、何か「伝えがたき壁」を感じさせる存在になるであろう。

 それをすべて、クライエントさん側の投影や転移(要するに、ひとり相撲)の問題に還元できるわけではない。

 カウンセラーもまた、クライエントさんたちの語りによって、何らかの意味で「揺らされる」存在であるに過ぎない。いい意味で「揺らされて」いること(これは「動揺する」こととはまるで違うことだ)は、むしろクライエントさんとの相互作用の場においてはむしろ必要なことであろう。

 先日亡くなった土居健郎先生が言われていた、「共振れ」とは、まさにそのことを指すものであろう。

 いい意味で「揺れされ」得る心の余裕は、カウンセラー自身が、自分自身に対して防衛的であるうちは確保できない。

単に「揺らされまい」とだけしたら、恐らく、カウンセラー個人が日常で体験する心の「揺れ」を味わい、受容する感受性すら鈍磨し始める可能性すらあるのではないか。

 これは単に、教育分析(教育的カウンセリング)の場などの限られた場で「すっかり解消してしまえる」ような性格のものではない。

 そうした個人としての葛藤を、心を開いて語れる相手をカウンセラーは確保できているのが望ましいことは言うまでもない。

 しかし、最後の最後に勝負を決めるのは、カウンセラー自身の、日頃からの自分との関わり方の問題だろう。

 話し相手に、いつ、どこまで、何を語るかを思い定めるのも、自分自身なのであるから。

・・・・・以上、自戒を込めて。

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2009/07/18

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(4)

 この連載、前回に続いて、ついに4回目に突入しましたが、私自身にとっても、私が日々のカウンセリングにおいて(・・・・いや、それだけではなく、個人的に本当に大事にしたい人たちとの対人関係で、相手の気持ちときちっと向き合いたい時に)、いったいどういう関わり方をしているのかを自分で再確認してみることにもなっていて、興味深い場になっています(^^)

******

 私のそうした場面での傾聴と応答の際には、どうやら、実にシンプルに習慣化された、4つのステージが構造化されているようです: 

Stage1.ベースラインモード

 話し手が個人的な含蓄を込めて、実感に触れながら語っている「かのように」私に感受できた言葉や言い回し(実感を伴うキーワード)を、私自身の身体に響かせ、話し手が体験している言語以前の漠然とした「感覚」そのものを私の身体の中に徐々に醸成するかのようなつもりで、決して言い換えることなく、「点(話し手の用いた、実感を伴うキーワード)」「線(語り手の語った状況説明の大枠や、接続詞)」を大切につなぎながら、言葉として投げ返していく。

 私が、そうやって、話し手にとっての実感上のキーワードや言い回しを、私自身の身体に響かせること自体が、私の中に、話し手の身になった「感情移入的フェルトセンス」一層醸成させることに貢献するのであり、話し手がどういう実感を体験していたのかに、更に身体ごとチューニングしていく上で役に立つのです。

 これが、傾聴と応答全体の6-7割で堅持されている基本スタンス、ベースラインモードなんですね。

 たいていの人は、何かを人に語り出す時に、

  • 自分の体験している実感そのものを相手が共有してくれることを期待している。
  • すでに多少の程度は自分の実感に触れる中から言葉を紡ぎだそうとしている

・・・・この2つの前提に立った方がいいと思います。

 話し手の話が一息つくたびに、私の方から、こういう、身体を通して身になる聴き方を経た伝え返しの応答を差し挟んでいくとしていくと、それだけで、話し手は、自分が今言葉にしてきた言い方が、自分の実感としっくり来るものなのかどうかを、自然派生的に内側で照合し、自分にとって更にしっくりする言い方に置き換えていったり、あるいは、自分の抱えた問題の中の、本当に伝えたい局面を物語ろうとして行ってくれることが多いようです。

 こうした聴き方をしていると、話し手も、いつの間にか、私に向けて自分の気持ちを語ることに没頭し始めるのですね。そして、その時のその人なりに無理のない範囲で、自分の中の実感に触れながら言葉を紡いでいく傾向が、しなやかに「少しだけ」喚起されることになることが少なくないと思います。

 つまり、まずは聴き手の側が、率先して、語り手の語りをじっくりと「身体を通して」傾聴して、語り手の語った、語り手の実感がこもっていそうな言葉や言い回しを「拾い上げ」、伝え返していくを姿勢を繰り返しとることで、どういうわけか、そうした聴き手の「身体を通す」スタンスそのものが話し手自身の、「自分の」実感へのかかわり方へと「伝染する」(あるいは「非言語的な次元での模倣」を喚起する)ことに、かなりの程度信を置いていいと思っています。

 そうした一方、(連載2回目でも書きましたが)、私はそうやって、私自身の身体の中に、話し手の「身になって」体感しつつある「感情移入的」フェルトセンスを感じる部分とは別に、話し手を前にして、話を聴く中で、「私個人の中に」生じてくる実感や連想や思いを受け止めるためのスペースを、いわば2重抱えでしつらえています(聴き手自身の中での、いわばマルチタスクのフォーカシングモードです)。

 敢えて言うと、あくまでも相手の身になって実感を感じようとしているのはは、相手と対面している、私の身体の正面寄りの部分に、仮想的に設定されたし身体領域です(半分は私の身体に埋没し、半分は正面寄りの空間に張り出しているイメージでしょうか)。

 その後ろの方の身体領域に、「相手の話を聴いて私個人がどう身体で感じているか」を味わうための、もうひとつの身体領域があるつもりになっています。

 そこでは、語り手の話を聴いて行く中で私自身に生じた不安や緊張、違和感や時には嫌悪、そして、私個人の中に勝手に沸き起こってきた感想や連想や、私自身の体験と勝手に引き付けてとらえようとする心の動きや、「批評家的」な感想や分析の類が次々と沸き起こることを私は許しています。

 しかし、私は(アンさんの技法風に言えば)それらひとつひとつに「なるほど、そういう感覚や連想も生じてきているわけね、わかったわかった。必要あれば後で相手してあげるから」と一声ずつかけて("Acknowledging")、脇にひかえていてもらうことを果てしなくやっていき、そうした「私個人の」内側からの訴えがとりあえず静まったら、「相手の身になっている部分」の方に注意を戻してしまうわけですね。

 この「相手の身になっている」仮想身体と、「私個人が相手との関係で感じている」ことを受け止めるための仮想身体は、あたかも2つの地層のように、私の身体の中で隣接しているわけです。しかし、この2つの層の間のバウンダリー(障壁)は、人の話を真剣に聴こうとする際には、非常に強固に維持しようとしています。

 敢えて言うと、一方の層の血管に流れている血液は、めぐりめぐってもう一方の層にも流入するので、間接的な相互作用は生じているという相互影響過程は当然ありますが。

 そして、少なくとも、今言及しつつある、1番目の「ベースモード」の聴き方をしている時には、「私個人がどう感じているかを体感する仮想身体」の方の直接的発言権は、厳重に管理され、その会話の日常的な自然さを保つのに必要な、比較的些細な内容を除くと、「ほぼ」封印することになります。

 こうして、私は「相手の身になりつつも、同時に私自身であり続ける」という形で、相手の前に身をさらして話を聴いているわけですが、このようにするのは、単に「相手に巻き込まれてしまわないため」などという理由に留まりません。

 むしろ私として申し上げたいのは、私が、相手の話を傾聴しながらも、私の体の中の一方の層の中で、ある意味で情け容赦がないくらいに、話を聴きながら私個人がどういう実感でいて、どんな連想をしているのかを、ことごとく自覚して、認めておこうとしている(アンさんの著書の原題タイトル、"Radical Acceptance of Everything"を想起します)から「こそ」、それと安易に混同しない、より純粋な形で、「相手自身は」どんな実感でいるのかに丁寧に関心を向け、感じてみようという余裕(自分の中のスペース)が一層生まれるのだと思っています。

 単に自分個人の実感を自分の中で押し殺そうとしているだけだと、「相手の身になる」心の余裕はどんどんそがれていく・・・・なのに、ひたすらその「フリをする」ことに没頭する自己不一致状態になるのではないかと思います。治療者側の自己不一致は、クライエント側の自己不一致を誘導することは、ロジャーズ派カウンセリングの基本原理でしょう。

 更に言えば、話し手側には、聴き手の私が、私個人として、どのようなことを感じているかの内容的な実態は、その段階では具体的にはほとんど全く感受できていないかもしれませんが、私が、聴き手の身になろうと務めながらも、どういうわけか、私としての自然な存在感(presence)を維持しつつ、しっかりと安定して「そこに-いる」ということは伝わると思います。このことそのものが、話し手に、話をしても大丈夫だという安心感と信頼感を醸成するのではないかと思います。

(続く)

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2009/07/16

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(2)

 前回の続きです。

 語り手の話を傾聴する時に、

  • 語り手の語った言葉を丁寧に伝え返していくこと
  • その際に、特に語り手が感じているであろう感情(feeling)について大事に受け止め、伝え返していくこと

 このことは、ロジャーズにはじまる、来談者中心療法カウンセリングにおけるベースラインとして強調されてきたことなのですが、ひとつ間違うと、語り手が語った内容を表面的に「鸚鵡返し」するだけになりかねません。

 そうした表面的・機械的にルーティン化した傾聴に留まる場には、話し手の側にも、聴き手の側にも、独特の「のっぺりとした」場の空気と居心地が徐々に生じてきて、話し手も聴き手も、苦しさと物足りなさを感じなからも、頑張って、話をしていき、傾聴していくという状態に徐々に陥いがちなものです。

 話し手の側は「ほんとうに聴いてもらっているという気がしない」と感じ始めるし、聴き手の側は「話を受容的・共感的に聞き続けて、伝え返していくのが苦しい」と感じ始めることが少なくないわけです。

 ロジャーズふうにいえば、語り手も、聴き手も、自分自身がありのままにそこにいるという「自己一致」した感覚が、やり取りの中で徐々に失われていくことを、実感の上で漠然と察知しているものです。

 話し手も聴き手も、辛抱しながらそういうやりとりを重ねているのですから、両者の中にある、「カウンセリングを受ける(する)こと」への義務感や、そこからいい結果が生じることへの「一抹の期待感」「盲目的な信頼感」だけが場の支えになっているような状態に近くなっていることも、決して少なくないかと思います。

**** 

 オーソドックスなロジャーズ派のカウンセラーの中にも、これだけではほんとうに生産的なカウンセリングが進んでいるとはいえないことを十分承知し、それを超えた次元のやりとりを実際にできる人たちも少なくないのですがフォーカシング(におけるリスナーやガイドの傾聴においては、こうした平板なやりとりをいかに克服するのかについての、積極的な「勘所」を身につけて行くことが大事にされています(・・・・・の、筈です(^^;)

 これについては以前も書いたことがあるのですが、今回改めて、今の私なりの新鮮な言葉で表現しなおしてみましょうしょう。

 1.聴き手は、今、自分が、話し手を前にして(あるいは、話し手と
実際に面会する前の段階すら)、どんな居心地や気分や身体の漠然とした感じを感じながらたたずんでいるのかについて、十分に内側にセンサーを張って、モニタリングし続けている必要がある。

 例えば、カウンセラーがそうやって面接を始めようとしているのに、いまひとつ乗り気でない自分に気付き、自分の中にある「乗り気ではない部分」を認めてあげて、「乗り気でない」気持ちのそばに、ちょっとだけたたずんであげてみる、セルフ・フォーカシングを、ちょっとだけしてみることは大きな意味があります。

 その際に、別に「なぜ乗り気ではないのか」について分析したり、セルフ・フォーカシングで内側にシフトを起こして、面接に生き生きと臨める体制を作り上げねばならないとまでみなして、必死にセルフ・フォーカシングしてしまう必要まではないのですね。

 フォーカシングを、自分がある程度体験的に学び、身につけてきているという手応えがある人なら、経験的に、次のことを知っているはずです。すなわち、「十分OKな感じでいららない」自分に気がつき、それを、対象化して、それを自分の中でちょっとだけ認識しておく(気づいておく)だけで、心の中にわずかなスペースが生まれ、ちょっとだけ自分を取り戻せることが多いことはご存知のはずです。

 (自分の中の、面接に乗り気でない気持ちを受容しようとする、などという大それたことはできなくていいのですね。フォーカシングの名トレーナー、アン・ワイザーのいう"Acknowledging"=「(自分の中で)気づいておいてあげる」とは、この水準のことです。・・・・・こうした過程を「体験的に距離を取る(make a space,make a distance)」という言い方でとらえるのを好む人たちもありますが、少なくとも私自身は「距離をとる」という言い方をあまり好みません。それは「距離を取れねばならない」という強迫性のようなものを喚起するという意味で本末転倒になりやすいと感じています。「距離が取れない」自分に気がつけているだけで、実はその時可能な範囲で、そこそこ「距離が取れている」ことになるのですね。自分をセルフモニタリングする「立ち位置」を自分中で確保できているわけですから、すでにその段階で、単に「巻き込まれて、自分を見失ってしまっている」わけではないのです。最低限、それで十分かと思います)

 2.語り手とのやり取りを進める中で、

  • 聴き手としての自分個人が、話し手を前にして、どんな居心地を感じていて、どんなフェルトセンスが生じてきているか、どんな連想が生じているか(どんな分析を勝手にしてしまっているか、どういう部分に違和感や抵抗や不安を感じているか、自分のどういう体験と引き付けてとらえようとしているか、それどころか、「なぜか面接室の冷房の音が気になっているな」とか、「その聴き手の面接とは無関係のはずの別の事柄が脳裏を掠めているな」などを含めて)をしているのかについて絶えずセンサーを向け、そうした連想や「感じ」を、次々と対象化する形で、「気づいておく」ようにすること(繰り返しますが、とりあえず「気づいておく」以上の内的処理は不要です)。
  • 話し手の「身になる」モード。話し手語る内容、話しぶり、たたずまいなどをから感受されるものを、聴き手が、聴き手自身の身体に響かせ、身体感覚をくぐらせるようにして味わい、「話し手は、話をしている事柄に関して、今、どんな実感を感じつつ、話しているのか」そのものに、あたかも自分自身の体験している実感であるかのように、自分の身体感覚自体をチューニングするつもりで傾聴していくこと。
  • 上記の二つのモードを別々に自覚し、時々行き来しながら、それぞれに気づいておく主体としての、「第3の立ち位置」・・・「内なるスーパーバイザー」の視点のようなものを確保し続けること。

(・・・・・以上、2.で述べてきたことは、すでに、

伊藤研一・阿世賀浩一郎 編/現代のエスプリ 410 特集「治療者にとってのフォーカシング」 至文堂 2001

の中の、

●阿世賀浩一郎/面接場面でクライエントの「容れもの(container)」として機能するための技法の試み ~カウンセリング場面で治療者自身の体験過程を生かし続けるためのベースライン~(pp.65-73)

で詳しく述べさせていただいている事柄のエッセンスの要約です)

 このように書いてくると、何か複雑なことのようですが、過去の経験の中で「自分自身を保ちながらも、相手に積極的に関心を向け、相手の身になって話を聴いていられる」余裕ある状態でいられた時の体験をふりかえってみれば、実はこうしたことを無理なくできていたようだということは、フォーカシングを学んだ皆様に留まらず、およそどんな現場臨床家の皆様にも共通する体験ではないかと想像します。

 例えば、精神分析的にいえば、「平等に漂う注意」を維持できる状態というのに類似しているかと思います。

 ここで重要なのは、「相手の身になって」感じてみるモードと、相手との関わりの中で「自分個人の中に」生じてきたものを「感じ分ける」姿勢を維持し続けることです。

 そして、聴き手は、この2つのことを、話し手にとってはっきりと区別できる形で別々に提示できることが必要ではないかと思います。

 例えば、話し手が、家族に気持ちがうまく通じない時、何があったかとか、どんな思いが生じたかについて話し続けている際に、聴き手であるあなたの中に、自分が、大事な人との関係の中で生じた、気持ちが行き違った時の体験もまざまざと思い出され、そうした時の心境も生き生きと実感され始めるかもしれません。

 しかし、話し手と聴き手の体験している「気持ちが通じない時の」辛さや気傷つきが、すっかり同じ体験であるということを保障するものは何もないのです。

 このブログで引用するのは何回目かもうわからなくなりましたが(^^)、

>あの時 同じは花を見て、美しいといった二人の

(「あのすばらしい愛をもう一度」 作詞:北山修)

感じていた、「美しい」という実感そのものが、共通のテイストのものであることを証明するものは何もないわけですね。

 このことの厳しい自覚こそが、聴き手(カウンセラー)が、話し手(クライエントさん)を独立した個人として尊重するということのベースラインに一番必要なものだと思います。

 そして、その峻別は、話し手の体験世界を、より深い次元で理解し、共有しようとする上での基盤となるのです。

 

 続きの部分では、話し手の身になって傾聴し、伝え返すこと、更には、話し手の実感にそれを照合してもらい、しっくりと来なかったら修正してもらうという相互作用を進める中で、話し手の体験世界に次第に寄り添っていくプロセスについて、もう少し具体的に書いてみたいと思います。

(続く)

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2009/05/23

こういちろうはいかに短期療法に入門したか(前編)

 このタイトル、「こういちろうによる短期療法入門」などというあまりにおこがましい形を避けたことがミソです(^^;)

 今朝方の記事に書いたように、私はバラの本の速読と、今回の日本産業衛生学会総会の催しでの、児島達美先生のレクチャーと、ライブ・コンサルテーションを通して、全くはじめて短期療法や解決指向心理療法について知ったというのが現実である。

 この、実質的「ワークショップ」では、単に短期療法についてのものではなく、産業保健活動(EAP)における臨床心理士の果たす役割というテーマと密接に関わりあっており、それは短期療法の本質と切り離しえない側面があり、それについてもいろいろ感想を述べたい気持ちもあるのだが、内容が錯綜しかねないので、、今回のこのエントリーでは、敢えて、短期療法それ自体の魅力という方向性から、以下のことを書いてみたいと思う。


*****


 短期療法(ブリーフセラピー)というと、「セラピーを短期間で終わらせる療法」というふうにとられかねない。確かに「時間制限心理療法」という、最初から12回のセッションに限定する約束で行なう心理療法が、今日言う意味での「短期療法」の先駆みたいにして存在するんだけど、実は、この「時間制限心理療法」の「外面的な」設定についてだけが教科書的な知識として広まったおかげで、短期療法は、クライエント中心療法や精神分析的技法などの、長期間かけて人格の変容を促す技法を主に学んだ人たちから、不要な偏見にさらされることになったように思える。

 念のためにいうと、「短期療法」というのは、ある特定の心理療法流派というより、一群の心理療法流派が共有する特性を総括したグループ分けのようなものと見たほうがいいようだ。

 代表的なものとしては、狭い意味では、

ミルトン・エリクソンの心理療法
○神経言語プログラミング(NLP)
○MRIアプローチ
○解決志向(指向)心理療法
○家族療法のうちのいくつかの流派
○ナラティブ・セラピー

こうしたあたりを指すことになり、広義に解釈される場合には、

○論理療法
○認知行動療法
○応用行動分析

などまで枠を広げることになるようだ。

 しかし、児島先生のレクチャーとデモに接して痛感したのは次の点である。

短期療法とは単に心理療法の分類でもなければ流派でもない

 むしろ、現実の臨床実践(コンサルテーション)場面で、クライエントさんや、クライエントさんと関わる当事者(家族や上司)、そしてカウンセラーという3者が、いかに不毛な堂々巡りを(それぞれの中で、それぞれの相互間で)し過ぎることなく、悪循環的な相互作用を脱し、良循環的相互作用の関係に転じることを、無理なく、自然に、しかも現実的に必要な「そこそこの」水準で成し遂げていくか、そしてそのことのために、最小限の介入でありながら、使えるものは何でも使うというスピリットに基づいてなさていれば、それは短期療法的アプローチである。

 ・・・・・このように定義するのがアクティブでリアルな理解だ!! ということだった。


どうも、

「効率性」
「過去でなくて現在をテーマとする」
「洞察や気づきではなく、問題解決重視」

などという言葉を下手に振り回すと、実は短期療法についての誤解を広めるだけだとすら感じました。

 短期療法の中でも、クライエントさんは深い気づきや洞察は体験することは決して珍しくはないですし、クライエントさんを単に受身に服従させるだけの効率性重視など、まがいものの、一番唾棄されるべき短期療法のあり方だと見なされている気がします。

 もとより、洞察や気づきが生じることを自己目的的に礼賛することは短期療法ではあり得ないわけですが。


*****


 いずれにしても、上に述べたベースラインを踏み外してしまったならば、認知行動療法の名の下になされる場合ですら、「短期療法」の名に値しないし、逆に、ある「フォーカシング指向心理療法セラピスト」によって、この点をしっかり押さえて実践されていれば、「フォーカシング指向心理療法」だって、立派な「短期療法」であるといえるのである。

 恐らくこのことは、ひとつの独立した技法体型としてのフォーカシングのトレーニングのことしか知らず、フォーカシング指向心理療法を、単にそれを現場臨床場面に適用・応用したものであるかに過ぎないようにまだ思い込んでいる人には、全く気づかれない、思いもよらない事柄かもしれない。

 フォーカシング指向心理療法は、いったいこれのどこがフォーカシングなのか、ほとんど痕跡をとどめないくらいに解体され、カスタマイズされ得るのである。そしてそれがブリーフ・セラピー的な技法と自由に行き来できるところま到達したら、熟達したブリーフ・セラピストの実践と、全く判別不能の域になってしまうだろう。

 私は、児島先生の発言や、ライブ・セッションから。そのことを痛烈に感じ取ることになる。

 
*****


 興味深い人には興味深いテーマでしょうから、私がここまで書いたことまででとりあえずアップしてしまい、児島先生のレクチャーとライブ・セッションからの具体的ご紹介は「後編」にまわしたいと思います。

 ・・・うう、児島先生が言われた次の教えに一番反する順序で紹介してしまったのかもしれないcoldsweats01


 「先に理屈をつけて、特定の方法や技法を学んでも、結局身につきませんからね!」


 ・・・・「はじめにブリーフセラピーありき」で、ブリーフセラピーをどんな形で、どんな領域で、どんなクライエントさんに適用できるか、などと考えて学んでいるううちはモノにはならないわけです。

 同様に、「はじめにフォーカシングありき」で、フォーカシングをどんな形で、どんな領域で、どんなクライエントさんに適用できるか、などと考えて学んでいるううちはモノにはならないわけです(^^;)。



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2009/05/12

「ゆとり教育」が人を受け身にする?

コネタマ参加中: 五月病、どうやって乗り切る?

 私に限らず、今どきのカウンセラーの多くは、「5月病」などという言葉を耳にすると、何を今更、その言葉で説明して済ませるのかという思いにかられる人が多いかとは思う。

 しかし、ゴールデン・ウィークを終えて、4月はじめに見定めた目標を喪失し、何となく意欲が落ちているのを感じる皆様は、新入生や新社会人の皆様に限らず、多い季節かと思いますので、あえて旬のネタということで・・・


●「ゆとり世代」成長意欲高いけど…受け身 どう接すべき?(msn=産経)

============リンクが切れてたら===============

今年の新入社員は職場にこまやかなフォローを望むゆとり世代-。人材育成サービスを展開するウィル・シード(東京都渋谷区)が、4月入社の新入社員を対象に実施したアンケートで、こうした傾向が浮かび上がった。

 ◆スキルアップ期待

 この調査は、同社が顧客企業に提供している新入社員研修の受講者のうち1938人を対象に3月末から4月中旬にかけて実施した。

 それによると、会社に期待することの質問では「自分の能力の向上機会」がダントツで57.5%(複数回答)の人がこの答えを選んだ。次いで多いのが「適正な評価」で30.1%だった。また、上司・先輩に望む指導スタイルを二者択一で聞いたところ、「細かい指導をしてくれる」が65%で、「任せてくれる」の35%を圧倒。「こまめに声かけしてくれる」も63%と、「話しかけたときに対応してくれる」の37%を大きく上回った。

 ◆人間関係に不安

 仕事をしていく上で不安に感じていることは、「上司・先輩との人間関係」が53.1%(複数回答)と最多で、以下、「専門知識・スキルが足りない」(41.6%)、「求められる職務への適性があるか」(28.8%)、「失敗してしまわないか」(20.0%)と続いた。自分が一人前になれると思う期間は「1~3年以下」との答えが41.0%を占めた。

 ウィル・シードはこの結果から、今年の新入社員の大きな傾向として、「成長意欲が高い一方で、“受け身”“様子見”の姿勢が強く表れると予測される」と分析。第2土曜日が休みとなった1992年前後に小学校に入り、「ゆとり教育」を受けてきた世代の特性と断言してしまうことはできないが、入社時に抱いたイメージと、現実の職場が乖離(かいり)していると不平・不満を抱くことが想定されるとしている。

 □ 上司が接する時間作ろう ウィル・シード 池谷聡氏

 成長意欲は高いものの、受け身の姿勢が目立つ「ゆとり世代」の新入社員。職場の上司・先輩はどう接すべきか、ウィル・シードで社員研修プログラムの開発を担当している池谷聡(ただし)・人財育成カンパニー副カンパニー長に聞いた。(原誠)

 ◆独自の発想伸ばす

 ――「ゆとり世代」とは

 「昨年の新入社員が小学校に入った年に日本のゆとり教育に大きな転換が起きた。それまではスパルタ式も含めて何度も繰り返し訓練する反復学習で土台を作り、その上に応用をのせるという教育方針だったのが、個性を重視し、子供が興味を持つことや独自な発想をコーチング的に伸ばしてやる方向に変わった。私たちはその年の前後に小学生になった世代を『ゆとり世代』と定義している」

 ――「ゆとり世代」の特質は

 「『主体的な受け身』と表現できる。ゆとり教育は結果的に、学校がテーマを与え、その中から選ばせる形になったので、自ら何かを手に入れるという経験がないままに育った。勉強でも何でも一生懸命に取り組むのだが、テーマを与えられないと動きだせない。ものが豊富にあり、一人部屋も与えられて育ったという社会的背景も影響。他人とコミュニケーションして人間関係を築きあげていくことが苦手だ」

 「携帯電話の登場で、電話でも知っている人とだけ話をすればいいようになった。小学校から大学まで限られたコミュニティーの相手とだけコミュニケーションしてきたので、相手の立場を考えようとせず、自分の伝えたいことは他人に簡単に伝わると思っている」

 ◆仕事以外の話も

 ――上司はどう対応すべきか

 「昔のように『背中を見てついて来い』というのは難しい。新入社員ときちんと接する時間を定期的に設けて信頼関係を築くことが大事だ。実際には企業の現場では、上司が忙しさにかまけて、新入社員との話し合いを後回しにしがちだ。ゆとり世代は、忙しそうにしている上司や先輩に異常に気を使うので相談することが苦手だ。ところが、上司は『なぜ相談しない』と思ってしまう。家族のことなど仕事以外の話もして、信頼関係を築いた上で、だめなことはだめとはっきり言うべきだ」

【会社概要】ウィル・シード

 2000年7月に創業。企業向け人材開発・教育プログラムと学校向け体感型教育プログラムの開発・提供が2本柱。企業向けは大企業を中心に約350社に提供しており、毎年、延べ約2万人の新入社員を研修している。社長は船橋力氏。資本金は1000万円。


============引用おわリ===============


 「ゆとり教育」というのは、本来、

1.ひとりひとりが主体的な問題意識を持ち、
2.自分から、様々な機会や人間関係のチャンネルを切り開いて、
3.焦りに振り回されすに、じっくりと多角的に、自分なりの見地を築き、多様な問題解決方法論やスキルを獲得する

ためのものだったと私は理解している。

 しかし、現実には、ここで説かれているように、テーマを人から与えてもらえないと能動的には動けない人間を生み出してしまったとすれば、いささかさびしいというしかない。ほんとうは、自分で自分をコーチングできる人間が育たないとならないのである。

 ただ、次のことは言いたい。

 人間、「あなたの好きなようにやっていいんだよ」だとか、「やりたいことをやりなさい」とだけ言われてしまうと、むしろ「突き放された」、それどころか「放置された」「見捨てられた」と感じて不安になり、途方にくれてしまうものである。

 特にこれは、まだ自分が社会でどのように通用するか見当もつかず、大人社会への参入が承認されるかどうかにビクビクしている若い世代においては、なお一層見られることだと思う。

 先行世代に求められているのは、「関心を持ちつつも見守ってくれている」ということが具体的に伝わってくるような「聴き手」のあり方のように思う。

 そうした聴き方においては、単に「うん、うん」とうなづくだけではなく、かなり具体的に話を引き出そうとするような積極的な関与が必要であろう。

 ただし、そうやって積極的に「訊(き)き出そう」とする過程で、聴き手が当然すでに知っていると思っていることを先取りして具体的に問い質(ただ)されると、自分の無知に萎縮したり、プライドが傷つけられたと感じやすい。

 たとえば、福祉の仕事に就きたいという高校生に、「介護福祉士」「精神保健福祉士」「社会福祉士(ソーシャルワーカー)」の中のどれになりたいの? などという質問を性急にかつ不用意に浴びせようものなら、まるでカタツムリの目玉をつついて、角を引っ込めるどころか、殻の中に胴体全体を引っ込める引き金になりかねない。

そのくらいに、若い人とは、それこそ、"fragile"なものである。

 しかし、

♪引っ込めながらも考えた
♪何の負けるか今に見ろ
♪大きくなって皆のため
♪お役に立って 見せまする 見せまする

・・・・と、この「お山の杉の子」という歌が作られた、戦後の焼け跡時代と同じような「背伸びしてでも何かをやってやる」という、いい意味でのど根性は、先行世代が、単に「背中を見せる」にとどまらない形で、今の不況の世にあっても、決して保身にだけは走らない形で、「先輩」としての前向きな生き様をさらし、更に、後につつく世代を、「同志」として、前向きに真摯に扱う中で、はじめて伝えられていくとは信じたい私ではある。

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2009/03/19

感謝!! 3月19日0時過ぎ、連載がGoogleサイトでついに首位掲載!!

 この記録は、このブログ=「カウンセラーこういちろうの雑記帳」バージョンではなく、職場サイト、「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトのバージョン(このサイトのバージョンよりもまじめで、表現も推敲されています)で達成されました。

 恐らく、深夜時間帯の限られた時間にとどまり、また首位を明け渡すとは思いますが。自分でもびっくりしました!! ご愛読ありがとうございます!!

Google090316
↑NHK公式サイトの情報を抜いてしまったんですね(^^)

 いずれウェブページとして整理しなおし、わずらわしい改版履歴も削除して「決定版」掲載しますが、とりあえずここまでの連載の目次を表示します:


● 連載:NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想

1.(副題なし)
2.双極性障害(躁うつ病)と単なるうつ病とでは薬の処方が全く異なる
3.医者選び、ここに注意
4.投薬の全面的見直しの際に注意すること
5.番組で「非定型うつ病」を積極的に取り上げなかったこと
6.認知行動療法について
特別編1.統計上の問題など。
特別編2.今回の番組を「ネットでは常識水準」と言ってしまうことの副作用
特別編3:ご紹介:読売新聞の「医療ルネサンス」 更に、援助的専門家自身のメンタルヘルスについて
医者に鬱病と診断され薬物療法も受けている人にフォーカシングは危険か?


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2009/03/14

特典映像? -NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(ボーナス・トラック1)-[第5版]

 前の記事、最終回は、少しまるくおさめ過ぎ、皆様の期待を裏切ったかもしれませんので、最後にこれだけは画像つきで書いてしまおう!!

 番組の後半、認知行動療法についての部分には、大きな自己矛盾が内包されている!!

 NHKサイトの、この番組についての公式ページでは、次のようにこの番組のことを紹介している:


*****


(前半略).....こうした中、薬の処方を根本的に見直す取り組みや、難しい診断が一目でできる技術の研究が進んでいる。また、「うつ先進国」のイギリスでは2年前から、国を挙げて抗うつ薬に頼らず、カウンセリングでうつを治す「心理療法」を治療の柱に据え、効果を上げている。うつ病治療の最前線に迫る。


*****


 この番組の後半を実際に見ても、どうも番組制作サイドではこういうふうな流れでまとめたかったみたいなんだけど、その過程で、いくつか凄い勇み足を同時にやってしまっている。

 以下の図版をまずはごらんあれ:

Nhkspomake1
 ↑どう見ても大学の心理学の教科書!!大学生なら学部に関係なくおなじみの、実にありがちの内容です!!

 (心理学って、教養課程でも人気科目だものね!! 私はいくつかの大学で、実験心理から臨床心理まで内容に含めた「心理学入門」を教えた経験がありますが、全学部の全学生の半分ないし80%の人に科目登録され、最高で800人が実際に提出したレポートと学期末試験を丁寧に採点していた時期があります。はっきり書こう、専修大学出身の皆様、共立女子大学出身の皆様、阿世賀はこうして「生き延びて」いるぜ!!)

 この画面で表示されているのは、ロジャーズ派カウンセリング=来談者中心療法についての、心理学の教養課程向けの教科書ですら実は結構見られる水準の解説の文章の断片ですね。

 ここにオーバーラップして、ナレーションは、

「うつ病に対して、受容と共感的傾聴とする旧来の心理療法よりも優れた新しい技法として認知行動療法が認められて来ています」

と入る。

 うつ病に対する認知行動療法の優位性は、日本でも十数年前からとっくに唱えられていたんだけれども、それは置いといて!!


*****


 【ここから第2版で追加】  そもそもこの番組、どの内容が最新トピックななのかの序列がわかりにく過ぎます。

 すでにこの連載エントリーで具体的に示した話題に限定すると、恐らく、時系列的には、

1.うつ病における認知行動療法アプローチに、日本のカウンセラーにも関心が高まる
     downwardleft
2.「非定型うつ病」への関心が高まる。
     downwardleft
3.欧米で双極性障害II型と単純なうつ病では、薬物の標準処方が全く異なるという認識が確立する。
     downwardleft
4.イギリスで、認知行動療法を、公に、うつ病の標準処方とする法律が国会で可決され、各地に公立で無料の「臨床心理センター」が開設され、公費での認知行動療法カウンセラーの養成がはじまる。
     downwardleft
5.日本で、双極性障害II型と単純なうつ病では、薬物の標準処方が全く異なるという認識が広まり、心ある現場の医者の中に、そのことを実現するための十分なスキルが実現され始める。

 ........恐らく、こんな順序のはずですが(^^)

 どうです? 番組の流れに全然一致しませんよね。 【ここまで第2版で追加】


******


 番組の流れは、イギリスでは、地域の、精神科医ですらない一般開業医に欝と診断されると、薬物療法ではなくて、地域の臨床心理センターの認知行動療法カウンセラーにまずは回されるという法律がすでに国会で成立している、ということを映像で描いていくのだが、この脈絡のなかで、次のような統計グラフを提示してしまった!!

Nhkspomake2
 ↑ここで示された統計グラフは、「薬物療法だけ」の場合、「薬物療法と認知行動療法を併用した場合の再発率を比較したものである。


*****


 Q : さて、教養課程で統計入門を学んだ、心理学に関心ない理系や社会科学系の大学生の皆様、この場面で比較のためには、実は最低もうひとつ、厳密には更にもうひとつ、もーっと念を入れると更に更にもうひとつのデータを加えて相互比較すべきなのですが、それはどういうデータでしょう? 

 A : 

* 最低限絶対必要 : 「薬物療法と来談者中心療法併用した患者の再発率」

* これもあったほうが厳密 : 「薬物療法を用いずに認知行動療法のみ適用した患者の再発率

* ここまでやったら完璧 : 薬物療法を用いずに来談者中心療法のみ適用した患者の再発率

 百歩譲って、「薬物療法を用いない形で実験することは、人道的に許されない」というのなら(凄い!! 二人きりで密室で過ごすことは絶対に大丈夫なんだ!)、最初のひとつをだけでも加えて最低3群の比較をすべきではないでしょうか???


*****


 次にこの4群の調査資料ががすべてそろったします。もとより、サンプル数の違いも統計的に問題ないとします。すると次のような結果のパターンのシミュレーションができますよね。

1.薬物療法なしだと、認知行動療法の再発率が来談者中心療法よりも明らかに高い/同じくらい/むしろ低い

2.薬物療法ありだと、認知行動療法の再発率は来談者中心療法よりも明らかに高い/同じくらい/むしろ低い

3.薬物療法なしの場合とありの場合で比較すると、認知行動療法においては再発率の違いがより大きい/同じくらい/小さい/反比例(逆相関)する(4. と比較して)

4.薬物療法なしの場合とありの場合で比較すると、来談者中心療法における再発率の違いがより大きい/同じくらい/より小さい/反比例(逆相関)する(3.と比較して)

5.薬物療法がない場合、認知行動療法の方が来談者中心療法のよりも再発率が低い/同じくらい/むしろ逆


 そして、極めつけは、


6.薬物療法も認知行動療法も来談者中心療法もすべでやらない場合自然治癒を経た後の再発率が一番低い!!

 (更に、2番めに再発率が低いのが、「認知行動療法と薬物療法の併用」というケース)

…というシミュレーションが結局正解(統計学的にも有意)の可能性が、全くない、とはいえないのが統計学なのです!!

 (実際には、そうした多角的な統計を取ったのかもしれませんけど ^^;)


*****


 もう皆様お気づきでしょうが、どんな心理療法を適用しても、薬物療法の併用が同じくらい効果が上がる可能性だってあるわけですね(^^)

 いや、薬物療法にサプリを足したら、心理療法オールスター連合軍(?)との併用より再発率が低かったらどうしよう?

 薬物療法とバナナ(もちろん食用)を併用したらどうかな?

 いや、こんにゃくゼリーとの併用という、すでに少しネット界では旬を過ぎたネタをやってみたらどうだろう?)


 イギリスでも、このような統計のマジックにだまされて(ごり押しされて)、法案は通過した.....ということだけはいくらなんでもないとは信じたいところです。

 もしそうなら、全く別の意味でのスキャンダラスのドキュメンタリー、今流行りの「国策捜査、もとい、「国策調査(統計)」になってしまいます(^^;)


*****


 そして、そもそも日本うつ病学会理事長の野村医師の発言だけを追うと、どうも認知行動療法を特に推奨しようとする番組製作サイドの方向性に、あたかもブレーキをかけるようなアドリブ発言が各所に見られます。

 認知行動療法について番組内で「解説」しているのは、よーく観ると、ナレーションと、取材対象の、日本とアメリカの認知行動療法専門のカウンセラーだけなんですね!!)


 一方、野村先生は、

 「認知行動療法だけではなく、他のカウンセリング技法を含めて」

だとか、

 「薬物療法は、、ひとつの選択肢に過ぎないという捉え方も必要だけど、重要なものであることには変わりがない」」

といったアドリブ発言を、番組の最後まで繰り返しているわけですね(^^;)


 私には、

 「認知行動療法もいいけどさあ、そもそもお医者さん自身がじっくり話をきくという、セラピー云々以前の基本中の基本がなってないようではカウンセラー以前の問題だよ。正確な診断も投薬もできないとすれば、その医師は、カウンセラーも適材適所で有効活用できないんじゃないかなあ・・・・」

 という野村医師の心のボヤキ(この表現は決して失礼ではないと信じます)が聞こえてきてもおかしくないなと想像したのですが、思い込みすぎでしょうか?


 【ここから第2版で追加】 

 少なくとも、「こんな思い込みも可能では?」と提案をしてみることは、「物事の認知の枠組みを変え、生産的な方向で別の可能性を示していく」、という意味において、すこぶる「メタ認知行動療法的」アプローチかと思いますが(^^;)

 最も善意に解釈すると、番組スタッフと出演者の間で、「番組制作を進めるうちに、当初の方向性とは思いもよらない形でバランスが狂ってしまった」という共通理解が成立していて、

もう手直しが間に合わないので、野村先生、アドリブでそのへん、できるだけ修正くださいますか」

などどいう談合が成立していたのかもしれません(^  ^;)

.......え、今度はスベッた???

 (以上、ボーナストラック、終わり!! ボーナストラック2へ続く)



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2008/09/24

昨日からにほんブログ村に参加しています。どうかよろしく!!(第2版)

 すでにお気づきの方もあるかもしれませんが、やっと昨日午後から参加しています。

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 《2008/9/25 19:08更新》

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2008/09/04

カウンセラーとクライエントの「こころ」が共同で生み出した「物語」への尊厳

 前の記事で、私のカウンセリングルームでの「個人情報のお取り扱いについて」に出発してひとつの問題提起をしました。

 今度は、別の条項を引き合いに出して、少し違った観点から問題提起をしましょう。


7.甲(カウンセラー)は、学会発表や著作等に、乙(来談者)との相談内容を具体的に事例として記述する場合には、乙の許可を受けて公表します。その場合も、乙との相談が終結して原則として満 1 年を経過した事例についてのみ公表します。乙 には事前に発表内容について閲覧し、甲に修正を求める権利があります。公表の際、聴衆や読者に乙という特定の人物が推測・同定できない水準まで、個人情報の一部を改変・省略して公表するように努めます。

 こちらの方は、すでに臨床心理士の共通理解として定着したものです。

 私も異論はありません。個人情報保護の観点からみても、必要なことですし。

 たいていのカウンセラーが実践しているのは、「発表についてクライエントさんの承諾をいただく」という水準のことかもしれません。

 しかし、特に日本心理臨床学会大会の多くの個人口頭事例発表に参加して気がついたのは、近年、クライエントさんに、発表草稿全体を文書の形で全文クライエントさんに読んでいただき、いただいた感想まで含めて発表なさるカウンセラーの皆さんが徐々に増えて来ている気がするということです。

 私はこうした発表者の姿勢に心から敬服しています。


*****


 一方、クライエントさん本人に「発表すること」の許諾は求めても「発表内容」全体までクライエントさんに開陳することには踏み切れないでおられるカウンセラーの皆様は、少なくないかと思います。

 
*****


 個人情報保護の観点ではなく、純粋に臨床的観点から考えた場合、「発表することをクライエントさんに許諾していただく」ということそのものが、治療的に悪影響を与えないか、という不安を、多くのカウンセラーは一度は抱くと思います。 クライエントさんの症状が再び悪化したらどうしよう?....などと。

 確かにこれは大変デリケートな問題なのですが、少なくとも、「発表の草稿をお読みいただくこともできます」と選択肢を提示したり、「私としては、むしろ一度お読みいただきたいのです。よろしければ、感想やご意見、間違いの指摘などをいただきたいのです」と、カウンセラーの側から提案することは、フランクになされていいのではないかと感じます。

 カウンセラーの方によっては、むしろ、これを「フォローアップ面接」のいい機会と受け止めておられる方もあるかもしれません。

 もちろん、こうした、発表についてのクライエントさんとの話し合いの中で、クライエントさんが発表に難色を示した場合には、どれだけ発表したくてもおやめになるカウンセラーの方が多いと思います。

 特に「成功事例」と考えるものを発表する場合、そこには、カウンセラーの中にある「評価を受けたい欲求」という厄介なものが介入していることも少なくないかもしれません。しかし、それが発表者の「記憶そのもの」を変容させる可能性は,確かにあると思います。

 しかし、「失敗事例」「中断事例」とカウンセラーご自身が考えているものを敢えて学会で発表したり、論文で書こうとされているカウンセラーも増えて来ているように思います。こうしたことは、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、こうした事例で的確な考察がなされているもの、あるいは、座長やフロアの参加者と活発な議論がなされた上で、それも大事にして論文におまとめになることは、他の臨床家にとっても、大きな学びの場を提供して下さることとなり、敬意を表しています。


*****


 更に、事例研究発表を考える際に忘れてはならないのは、発表するために、記録に基づき再度事例を振り返り、まとめ直し、考察する過程そのものが、実は、カウンセラー自身による、面接過程の「再話」であり、「物語化」であるということです。

 私はこれを、必ずしも否定的な意味で述べているのではありません。そうした再検討の過程で、記録の中の、完全に忘れていたさりげないエピソードに気づくことをきっかけに、以前から頭の中で思っていたのとは別の形で事例全体が見えてくることは、実によくあることだからです(臨床家の皆さん、経験がありますよね?)

最近、「ナラティヴ(説話、あるいは「物語ること」)」という社会構成主義の観点からカウンセリング過程を検討することが盛んになっています。私は、実は未だにこの用語についてほんとうに納得できたと感じたことはない不勉強なものなので、以下の内容はこの概念の奥行きを理解していない浅学な者の引きつけ方かもしれませんが、ともかくナラティヴという概念も連想した、私個人の素朴な考えというぐらいのつもりで以下の内容をお読みいただければ感謝いたします。
 

*****

 
1. そもそも、クライエントさんが、カウンセラーに語り出す内容そのものが、すでに、クライエントさんが無意識のうちに創造したた「物語」だともいえます。

2. クライエントさんの周辺の人たちが、クライエントさんをどう見ているか、というのも、ひとつの「物語」です。

3. 更に「周囲の人たちが自分をどう見ているのか」というクライエントさんの「物語」という次元がある訳ですね。

4. カウンセラーがクライエントさんの話をどのように理解するかも「物語化」の過程です。

5. カウンセラーにどのように理解されているのか、というのも、クライエントさんの「物語」です。

6. そして、こうしたこと全体が複雑に相互作用している多元的なトポス(場)として、治療場面は存在します。


 いずれにしても、「事例発表」は、質のよい事例発表ですら、クライエントさんが聴いたらびっくりたまげかねないような「カウンセラーの物語」になっている可能性はたいへん高い。これは、カウンセラーが誠実であろうとしているか、などと言った次元でなく、生身の人間ゆえの限界でしょう。

 現実には、事例発表の段階で、すでにそのカウンセラーを直接指導する先生や、スーパーバイザー、事例検討会に参加した他の参加者の紡ぎだす「物語」との相互作用が進んでいるわけで、それらをもとに学会発表された時点ではすでにもの凄い「物語化」が生じているわけですね。

 それを学会で口頭発表する際に、クライエントさんの感想も聞く。

 更に、学会発表の際の座長やコメンテーターの先生や、フロアからの発言。

 それに輪をかけて、論文を投稿した後の、査読の3人の匿名の委員の先生との文書によるやり取りの繰り返し。

 ......果たして、これらがほんとうに、カウンセラーの見地を「より真実に迫らせた」といえるかどうか????

 何しろ、ロジャーズ派や一部の家族療法を除いては、面接の過程の記録を、録音や録画の形で検証可能な状態にないのが普通です。仮にそれらが存在したとしても、リアルタイムで面接と同じ時間をかけて)再生し、それらを全検討者が検証するというのは非現実的であり過ぎます。どこかで「圧縮」が必要なのです。


*****


 だとすると、最低限どのラインで、「物語化の副作用」を抑止し、修正することでけじめをつけるか。

 私の答えは、面接過程の中で、折々、クライエントさんと、それまでの面接過程について小刻みに振り返り、クライエントさんがそれまで感じていたけどコトバにならなかった違和感などを、面接のなかで取り上げて互いに納得いくまで相互作用することを繰り返し、学会発表のための草稿をまとめる時点でその一応の総決算をしておくことだろうと思います。

 まずは、このことがカウンセラーとクライエントさんとの相互作用の中で、丁寧になされていること。


 敢えて言います。

1. カウンセリングの過程をどう受け止めるかは、究極的にはまずはクライエントさんの内心の自由であること。

2. 続いて言えば、カウンセリング過程の直接の当事者であるクライエントさんとカウンセラーの共有物であるということ。

3. もし、これが、カウンセラーとスーパーバイザーや指導者との共通理解の方が、2.よりも長期にわたって優先するようになったら、もはや注意すべき状態ではないかということ(たとえ、いわゆる「現実吟味」が低下している重症精神障害や認知症や発達障害の場合ですら!!)。

4. 時として、カウンセラーとクライエントさんの間のいわゆる「転移/逆転移」関係の中で、一度お互いに何らかの意味で「クレージーな」状態を経過するリスクを幸いうまく切り抜けられたので、活路が開けるということもままあることである。指導者やスーパーバイザーは、そうした可能性を一方で必要な時点で示唆することを忘れるべきではないが、クライエントさんとの相互作用のただ中で、両者が自発的に脱錯覚していく権利は保証されるのが望ましいのではないか。


******


 面接過程は、担当カウンセラーとクライエントさんの共同作品です。

 いかなる権威も、指導者も、二人の関係に、ある「尊厳」を感じ、「抱え」の姿勢で見守る、フィロバティックな姿勢を堅持してこそ、自律的な、責任感ある、経験を消化する力の高い、良き治療者は育つのだと思います。


*****


 私は、6年ほど前、福岡在住で、ウィニコット、ビオンをはじめとするイギリス対象関係論のもっとも誠実な日本での指導者であり、現場カウンセラーとしては、重度の摂食障害患者との入院治療で知られた、松木邦裕先生に、かつて、大会場での事例のコメンテーターをお願いするという、怖い者知らずなことをいたしました(カウンセリング関係者なら、これがいかに無謀か、ご想像できるかと)。

 結局、例のごとく、カミソリで痛みもなく斬られました(^^;)。

 先生の見解にすべて納得したわけではありません。

 しかし、先生の


 「クライエントさんを汚しちゃいけないよ」 


という言葉だけは深い印象に残っています。

 ......ここからの自由連想なのですが、


 「クライエントさんと、カウンセラーの関係を、汚しちゃいけない」 


とも言えるのではないか。


 .......日本中のカウンセラーの指導者の先生方に向けて。


*****

この記事、更なる続編がこちらにあります。

*****


 臨床心理における社会構成主義的アプローチについては、東京大学の下山晴彦先生のセミナーに一回出た経験しかない。

 わかりやすい入門書は、以下の本だそうですね。


●ナラティヴ・セラピー入門 高橋 規子 (著), 吉川 悟 (著)  金剛出版
 

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2008/08/13

「カウンセリング」?「心理療法」?「セラピー」?「ヒーリング」?

 「カウンセリング」という言葉は、今日、社会の中でいろんなジャンルにわたって流通しています。

 その一方、次のような言葉もありますよね。

A.心理療法
B.精神療法
C.サイコセラピー
D.セラピー
E.精神医療
F.精神分析
G.ヒーリング(癒し)


 .....これらの言葉の関係を整理してみましょう。


******

●「心理(精神)療法」(サイコセラピー)とは、専門家の言うとおりに受身に従うだけでは効果をあげないはず。

 「心理療法」と聞くと、


「心の病気や症状を抱えた人が、専門家によって心の治療を受けること」


というイメージが強いかと思います。


 しかし、どのような流派や手法のセラピーでも、セラピーを体験するとは、単にセラピスト(カウンセラー)に言われるままに受身に従っていくということではありません。

 およそ、流派に関係なく、相談に来た人(クライエントさん)からの反応や感じ方をカウンセラーが敏感に受け止め、面接や心理療法のその後の展開に臨機応変に役立てていかない心理療法やカウンセリングなど存在しないはずと私は考えます。

 心理療法やカウンセリングとは、相談においでの一般の皆様と、専門家としてのカウンセラーとの「共同作業」の中で、初めて真価を発揮するものです。

 そういう共同作業をうまく進めるために、相談においでの方からの、時として予想もしない反応を汲み取り、柔軟に生かすための技量こそ、カウンセラー(セラピスト)の「専門家としての能力」を決定づけるものであると私は考えます。


 ですから、(私のカウンセリングルームに限らず)カウンセラーに相談に来られる皆様、カウンセリングの進みかたやカウンセラーの言うことに違和感を感じたら、どうか遠慮なさることなく、できればその回の面接が終わる前に、カウンセラーに伝えてください。

 そうした際に、誠意をもって受け止め、むしろカウンセリングの進展に役立てようとする姿勢を柔軟にとれるのが、流派に関係なく、いいカウンセラーだと私は思います。


******


●カウンセリング=心理(精神)療法

 日本においては、戦後早い段階で紹介されたカール・ロジャーズの来談者中心療法の大きな影響もあり、

「カウンセリング」=「サイコセラピー」=「心理療法」

という共通理解が専門家の間ではほぼ定着していると思います。


つまり、


 (心理)カウンセラー=サイコセラピスト(あるいは単に「セラピスト」)=心理療法家


とみなしていただいてかまいません。


 どうも一般の皆様の中には、


「カウンセリング=具体的な事柄について解決するための軽い相談」


誤解されている場合も少なくない気がしますので。

※このサイトの記事でも、「カウンセリング」と「心理療法」という言葉を同じ意味に使いますし、心理療法の専門家(セラピスト)全般を指す意味で「カウンセラー」という言葉を使います。
 


*****


●心理療法=精神療法=サイコセラピー


 実は"psychotherapy"という英語の日本語訳が「心理療法」あるいは「精神療法」であるに過ぎません。

 訳しかたの違いに過ぎず、全く同じ意味なんですね(^^)

 どちらか深いもの、あるいは本格的なものというわけでもありません。

 では、こうした訳語の違いが生まれたかといいますと、日本では、精神科医・心療内科医など、医療関係者は「精神療法」と訳する伝統が生じ、臨床心理士など、医師資格を持たないカウンセリング専門家は「心理療法」と訳するという、暗黙の合意が、専門家の間でいつの間にか長年のうちに生じたということ。それだけです。

 もっとも、現在、現実には、精神科医が「心理療法」という言葉を使ったり、臨床心理士などの心理カウンセリング専門家が「精神療法」という言葉を使うことも現在では普通です。


※臨床心理士である私は、このサイトの中では、「心理療法」という訳語に今後統一します。すでに述べましたように、「カウンセリング」という言葉を使った場合でも「心理療法全般」という意味と区別していないのですが。


*****

●「セラピー」と「心理療法」(=「サイコセラピー」)との関係


 セラピー"therapy"という言葉には、単に「治療(法)」という意味しかありません。医師やカウンセラーの行なう「専門的」治療法にとどまりません。心に限らず、もっぱら身体を治療する技法全般も含まれます。

 例えば、「温泉」だって十分にセラピーだし、都市を離れ、自然に包まれた環境で静養したり散策することだってセラピー、何を食べるかに注意を払うことや、音楽や絵画を解消することセラピー、スポーツ・運動すらセラピーといえる場合があることになりますね。

 敢えて申し上げると、薬物「療法」ですらセラピーともいえます。

 しかし、今日、日本に限らず、世界的に見ても、身体の治療や健康増進のみを目的とするのでなければ、カウンセリングや心理療法、ヨガや瞑想などを含めたすべての技法を「セラピー」と呼ぶことが増えているように思います。

 ヨガや瞑想に関心を持ち、真剣に深く極めている臨床心理士もたくさんいます。

 しかし、単に「セラピー」といった場合にも、もっぱら臨床心理士などの資格ある専門家が行なう、狭義の、学術的とされる「心理(精神)療法」やカウンセリングを指す場合も多く、「心理療法(サイコセラピー)」との厳密な区別はなくなっているようにおもいます。


*****


●スピリチュアルな次元での悩み


 私はそうした東洋的修行の体験はありませんが、いわゆる「スピリチュアル」な次元についてのご相談にも、信じる宗教・宗派に関係なく誠意を持って応じています。

 欧米では、「私は教会の行事やお祈りは熱心にささげて来ましたが、実は神の存在を本当に確信したことがないことで悩んでいます」というような相談はありふれているとのことですし。

(メアリー・ヒンターコフ著「スピリチュアリティとフォーカシング」による)

*****


●「ヒーリング」という言葉


 さて、最近は「ヒーリング」(癒し)という言葉が流行しています。

 「ヒーリング」という言葉は、実はそれを用いる人、聴く人によって全く異なる次元で理解されている気がします。

 「苦しい修行や内面を見つめ抜くことをしなくても、受身に体験するだけで心身が癒されること」

と理解している人がいる一方、正反対の極には、

 「通常の心理療法やセラピーは、個々の症状や問題を解決するという次元にしか届かない。<たましい>の救済、スピリチュアル(霊的・超越的)な次元での<癒し>は、時として苦しい修行を重ねて、やっとたどり着ける」

と理解している人もあるように思います。

 そして、どちらに理解するにしても、そうした癒しを求め続けて、たどり着けなくて悩んでいる人、「そういう癒しは現実逃避に過ぎない」と批判的にとらえて、家族や知り合いを批判しながらも、対処に困っている人もいれば、そうした疑いに自分の中で苦しんでいる人もいるかと思います。

 私は、「ヒーリング」の正しい理解と何かを判断する立場に自分があるとは思いません。

 しかし、こうした様々な次元での理解と困惑を背景としてのひとりひとりの皆様のご相談にお応えしていくのが務めだと考え、実践しているつもりです。

***

●狭い意味での「心理療法」


 「心理療法(=精神療法=サイコセラピー)」という言葉は、


カウンセラーとクライエント(相談においでの皆様)の間で、
1対1で行なう、
主として言葉のやりとりを通してなされる技法


.....を指すことがあります。


 こうした場合、「心理療法ではないもの」として、次のようなものと比較して使われているのですね。


* 観点a:「薬物療法」 との区別

 .....別の項で述べますように、心身の「診察」をして、法律的効力のある「診断」を行うこと、そして「薬物」を処方する権限は医師にしかありません。

 また、精神科医・心療内科医でも、カウンセリングや心理療法に熟達し、研修を重ねたた人はいます。そういうお医者さん行なう、薬物療法以外の診療活動全般を「心理療法(精神療法」と呼ぶこともあります。

 もっとも、お医者さんの少なからぬ場合、お医者さん自身が、得てして30分から10分程度、ともかく患者さんの話をきくことをしていれば「精神療法(心理療法)」と呼ぶことも少なくありません。

 時間が短いからといって、1時間かけた臨床心理士のカウンセリングよりも価値が低いとは限りません。 

 実力のあるお医者さんは、1回ごとは短時間であっても、密度の高いやり取りを続けるすることによって、十分に「治療的」で、クライエントさんの役に立つやりとりをするだけのセンスを磨いていますので。

* 観点b:「言語のやりとり」以外も重視する療法との区別


 例えば、

「行動療法」(内面の洞察よりも問題行動そのものをなくすことを重視する療法)
「表現療法(=芸術療法)」=絵画療法・箱庭療法・音楽療法・身体を動かす療法など

と区別するために「心理療法」という言葉を使う場合があります。

 最近は、誤解を避けるために「対話的」心理療法という言い方もよく使われるようになりましたが。

 もっとも、行動療法や箱庭療法でも、多くの場合、カウンセラーとクライエントさんとの言葉のやりとりは、時々はなされていることが少なくないわけです。

 一方、主として言葉のやりとりを中心とするかに見える心理療法でも、クライエントさんの表情の変化や、実際には言葉に出して言えないでいる思いがあるのではないかことを大事にしない心理療法はありえない気がします。

 そうした際にどのように対処していくかも、そうしたセラピーの効果に大きく影響します。

 あるいは、主として言葉による対話によるやり取りを中心としてやり取りを進めていても、そうした中で、絵や図に書いてみることをクライエントさんに提案したり、カウンセラーの側から絵や図を描いてみたり、クライエントさんが自分で書いてきた、あるいは持ってきた詩や俳句や絵や漫画や音楽をネタにしたコミュニケーションを柔軟にしていくカウンセラーさんも多いと思います。私もそうした立場です。

 ですから、行動療法や表現療法を含めて「心理療法」という言い方をするのでかまわないと私は思っています。


******


●「精神分析」という言葉

 
 一般の皆様の中には、カウンセリングや心理療法に当たる専門家とのやり取りのことを「精神分析」と呼び、精神科医による薬物治療によらない治療法全般を指すつもりで理解されておられる方も少なくありません。

 「精神分析を受けたいのですが」と相談申し込みをされた時、どんな流派に属するカウンセラーであっても、安易に「ここでは精神分析はやっていません」と口にしてしまうと、それだけで不必要な誤解の火種をまくことになる気がします。

 一般のクライエントさんに,

「精神分析とは、フロイトの創始した心理療法のことで、厳密に言えば寝椅子に横たわっての自由連想をしていくことを基本とする。厳密には、フロイトから離反したアドラーの療法は「個人心理学」と呼ばれ、ユングの「分析心理学」を精神分析の一流派と位置づけることにも問題がある。その後、精神分析は、アメリカを中心とした「自我心理学派」、メラニークライン正統の「クライン派」、両者を仲介する立場にある「対象関係学派」に別れている.....」

......などと講釈することには、決してクライエントさんの求めに答えることではないはず(^^;)


 ますは、その人がイメージし、期待している「精神分析」とはどのようなものかをじっくり聞いてみることがまずは大事かと思います。

 フロイトが始めたように、ほんとうに、寝椅子に横になって自由連想をすることを期待されている場合もあるでしょう。

 むしろ、ユング派の夢分析に近いことを期待されている場合もあります。

 しかし、実は手法なんか役に立つ限り、広い意味での「カウンセリング」を受ける中で悩みや症状が解決していくならそれでいい、薬物療法にだけは不安がある、という人もあるかもしれません。

 薬物療法でもOKだという人すらいるでしょう(^^)


******


●たいていのカウンセラーは実は特定の「心理療法流派」に所属し、その技法にのみ忠誠を誓っているわけではない。


流派の違いというものはカウンセリングの効果の違いに結びつかないことが多い。

(未完)

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2008/08/03

久留米フォーカシング・カウンセリングルーム 公式サイトはこちら

 久留米での開業再開情報です。


 久留米フォーカシング・カウンセリングルーム 公式サイト

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2008/07/24

流派を問わず、すべてのセラピーは、まずはセルフセラピーとして学ばれるのが自然ではないのか? (改題)

 フォーカシング関係者の皆様に向けては、 私自身の気難しさや関係作りの下手さも大きいので、今更愚痴めいたことは書くつもりはありません。
 
 自分で言うのもおこがましいかと思いますが、ある意味で天才肌でマイペース、一緒に伸びて行こうという姿勢をとれなかった私を、さぞ扱いにくかったろうと想像しています。

 このことは今後の糧とし、私の今後のあり方に反映させていくつもりです。

 これからも、どうかよろしくお願い申し上げます。


******


 それでも少しだけ、現状についての思いを。

 以下の話は、ことフォーカシングおよびフォーカシング指向心理療法のセラピスト、カウンセラーに留まらず、すべての社会領域で活躍する援助職の皆様、とんな流派に属するかにかにかかわりなく共通する問題としてもお読みいただけるかもしれません。


******


 以前、日本を代表する、ある他流派のカウンセラーの方(開業としても成功しておられます)に言われたことがあります。

 「日本のフォーカシングの世界の不幸なところは、最初から大学の先生方が中心となって研究実践がなされてきたことではないかと常々感じている」

と。

 フロイトをはじめとして、多くの精神療法の創始者は、大学ではなく、開業や、自分の「臨床現場」を中心としていた人たちでした。そして、大学の外で、自分の流派の運動を発展させ、後継者を育てていきました。

 
 日本でも、大学に招聘される前に、まずは自分の臨床現場で専門的な技量を磨いた先生方が開拓されて来たことが少なくないかと思います。

 最近でこそ、臨床の指定校大学院には、さまざまな専門や流派、さまざまな専門領域のの先生方からの教育を受けられる環境が整備されて来ていますが、それ以前は、九州大学など、格別に恵まれた大学を除いては、詳しい情報はほとんど知らないまま、自分の入った大学の先生が専門にしている流派中心の教育を受けることが少なくなかったかと思います。

 そして、自分の先輩の先生方がその流派、その専門領域(児童発達臨床なら児童発達臨床、障害者臨床なら障害者臨床)に強い関心を持ち、経験を積んでいている「から」、卒論や修論をその領域で書く、という学生さんが少なくなかったし、今もその傾向はかなりあるのではないかと思います。

 もとより、それに違和感を覚え、早くからいろんな臨床家のセミナーや勉強会に出席したり、領域別の研修会やワークショップに通ったりして、多様な研鑽を積んで来た皆様がたくさんいるのは承知しています。実際に現場に出たら、その領域についての修行が必要になったというきっかけがある人も少なくないでしょうし。

 何年も何年もいろんな領域や流派に関わっていき、いろんな現場経験を積む中で、自分の方向性が定まってみたら、すでに30代も終わりつつあったというのでも、全く自然なことかと思います。

 そして何より、一度現場に出たら、日々の仕事に忙殺され、新たな学びを定期的にみっちりと積み上げるための時間と労力、お金と気力を捻出し続けるだけでも、たいへんであろうことについても、想像に余りあるものです。


*******


 しかし、私は思い起こして欲しいと思っています。

 カウンセラーを志した皆さんは、多かれ少なかれ、自分の人生に迷い、悩む経験が、この職業を選ぶ少なからぬ要因になっている、という「原点」をです。

 フロイトですら、ユングですら、この問題に生涯向き合い続けました。

 単なる「知的専門職」への憧れ、ましてや高収入への憧れ(これは現実に反する)、あるいは人々の助けになりたいという思いから心理カウンセラーを目指した人は少ないと思います。

 まずは、自分の人生の悩みを解決していくのに役立つ形で心理療法を学んで欲しい。

 そのことに役立てるように、自分にしっくりくる方向に、心理療法を、セルフ・カウンセリングとして身につけるつもりで。

 これは、ことフォーカシングに留まらず、例えば、行動療法だって、箱庭療法だって、プレイセラピーだって、みんな同じだと私には感じられます。


  流派を問わず、適用対象を問わず(!)

  すべてのセラピーは、

  療法家自身の「内なるクライエント」のためのセルフセラピー

  として「まずは」身についていくのが自然なはず


と思います。

(例えば、慢性統合失調症患者向けのセラピー、広汎性発達障害の人向けのセラピー、老人向けのセラピーであったとしても!!)


 自分個人の人生に役立つという実感がないとしたら、あるいはそのことと矛盾するとしたら、適切な学び方、いや、「身につけ方」に至っていないということかと思います。

 自分自身のために身に付く、役立つ、ということを抜きにして、人への療法の腕だけを磨き得るということは、原理上あり得ない。

 そして、そうやって自分のものになって、自分に役立っているということを評定するのは、あなたの師匠ではなく、あなた自身の実感だということを忘れないで下さい。


 これは、特にクライエント中心療法の流れを汲むセラピーを学ぶ人たちにおいては当然のことでは?

 「クライエント中心」とは、
 セラピストにとっての「クライエント中心」ではなく
 クライエントにとっての「クライエント中心」にならなければおかしいと思います。

  まずは、
  あなた個人の「内なるクライエント」の
  役に立っている実感があるもの

  成長させてあげないと。


 そのための「内なるセラピスト」の養成過程として、

 いわゆる「教育分析」や、自分が本気で自分の流派のセラピーを受ける経験があるのだと。 


  あなたが、あなた自身のために役に立つことをしてあげられなくて、

  どうして人の役に立つなどということができるでしょう? 


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2008/04/23

ネット通信教育、「実践的『フォーカシング』講座」に変更します。

 以前告知した、「ナレッジサーブ」通信教育(e-ラーニング)について、何回も延期を重ねた挙句、まるで立ち消えになったかのようにも皆様に受け取られかねない状況になっていたこと、私への信頼にも関わることなので、なんとお詫びしたらいいかわからないくらいの心境です m(_ _)m

 熟慮を重ねた結果、「現役カウンセラーキャリアアップ講座」の構想はひとまず先送りさせていただくことにしました。あとで講座を追加することは出来ますので、折を見てきちんと形にしたいと思います。

 この試み、アイデアとして思いついた当初はあっさりと青写真ができたのですが、具体的に内容をどう煮詰めるかとなると、私の中でああでもない、こでもないという「迷い道」に入り込んでしまいました。まだ、まとまった形で言語化していくのには、私の中で機が熟していないと判断しました。


*****


 代わりに始めることにしたのは、

「言葉にならない自分の思いって何だろう? -実践的『フォーカシング』講座- 」

です。


 最初から「どうしてそれをやらないのだ?」という心の声はあったのですが、「それはいつでもはじめられる」という思いが強かったのです。2番目でいい....と。

 しかし、当初通信教育を試みようと思った頃から、4か月の月日が流れ、「大船でフォーカシングを学ぶ会」も数回重ね、既成のフォーカシングのグループに特別講師として招かれたり、個別指導の経験も重ねる中で、私の中で「フォーカシングを伝えるとは何か」という点でいろいろ触発されるものがありました。

 私の開業スタイルが、通常の現場カウンセリングをベースラインに置くことには何の代わりもないのですが、「フォーカシング・トレーナーとしての私」が日々実践していることの具体を、フォーカシングに著作で興味を持っているけれども実際に継続的に学ぶ場を見つけられないでいる全国の一般の方や、日本中のフォーカシング関係者にもっとお伝えし、共有していくことの重要性を、このところひしひしと感じるに至りました。

 文字媒体でお伝えできることは限られています。

 (もっとも、私のガイディングの「音声ファイル」のアップロードも考えています。文字媒体先行で、あとで音声媒体は追加する形になると思いますが)

 1.フォーカシングの全くの初心者で、臨床家でない人にもわかりやすく「勘どころ」がつかんでいただけ、
 2.既成のフォーカシングの手引書の副読本としても活用可能
 3.私の本領発揮である、「ひとりでフォーカシングする」際のコツについての情報満載
 4.すでにフォーカシングを学び、ガイドやリスナーとしての研修を深められている人にも実践的ヒントとなり、
 5.通常のカウンセリングにフォーカシングをどうさりげなく生かすせるかの私なりの提案集でもある

......そうした方向性をめざすつもりです。

 全文、新たな書き起こしで、しかも、フォーカシングをすでに学んで来た人たちにしか通じない表現は可能な限り使わないつもりです。もとより、既成のフォーカシング技法書を読み解く時にも役立つような構成にしますが。


*****


 よく、私のフォーカシングは「個性的な」スタイルだと勘違いされます。

 しかし、基本は、「人格変化の一理論」の時点でのジェンドリンの体験過程理論、著作「フォーカシング」の時点でのジェンドリン法、「夢とフォーカシング」におけるジェンドリンの夢フォーカシング技法、そして、アン・ワイザーさんの「フォーカシング入門マニュアル」 「フォーカシング ガイドマニュアル」で書かれた技法をどのように咀嚼(そしゃく)するかということから離れたことはないという自負はあります。

 ただ、私は、ある教示や用語のパターンに、フォーカシングの学習者のほうが「適応」し、いわば「フォーカシングの世界だけで通用する、内輪の共通理解」になってしまうことを非常に恐れています。

 フォーカサーとしての「その時の」自分自身にぴったりなアイデア、その時のフォーカサーの在り方にぴったりな当意即妙な伝え返しや教示の提案やさりげないアドバイスが、全く新鮮なものとして自分の中から湧き出し続けるのがふさわしい。

 あえて言うと、

「その時のフォーカシングやガイディングの進め方そのものについて、フォーカシング的に言葉を紡ぎ出す」

という領域です。

 それは、単に「型を崩す」ことではなく、実は、「肝心要な勘どころ」を体験的に理解しているからこそ可能な「臨機応変性」だと思います。

 「それ」をお伝えすることに挑みたいのですね。

 可能な限り、フォーカシングの習熟者向けの、用語や概念の積み上げ理解の上に立った説明は回避して!!(このへん、リンクをうまく使えば、「以前の言及箇所」や「用語事典」に簡単に戻れる構成も可能でしょう

 インターラクティヴなメディアという側面がありますから、受講者からの質問や疑問も、受講者のプライバシーを侵さないように十分な配慮をしながら活かしていけたらと思っています。

 (この質問と回答については全受講生にに公開可、この質問については個別の返事が欲しい、などを最初に選んでいただこうかと思います)


*****


 私がひと様に文章媒体で伝えられるものは何か? 私が後進や同輩に残したいものは何か?という原点に立ち返った時、やはり、一番柔軟に、臨機応変だけど、過去の経験値を凝縮したものを、しかし平易な形で書けるのは、この領域なのたと。

 よほど不測の事態がない限り、講座「第1期」に当たる部分は、数日中に始めることを、今度こそお約束します!!

 その具体的な目鼻がつき、改めてここでも告知するまで、よほど興味深い話題がなければ、このブログの記事の更新は控えるつもりですので。

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2008/03/30

受容・共感は大前提だが、クライエントさんはそれを超えたsomethigを含むカウンセラーの「反応」を待っている。

 先日の「治療関係のベースライン」と題する記事を書く中で、私が現実にカウンセリングをする際に、現在、何を大事にする方向に向かっているのか、自分の中でたいへんはっきりしてきた。


 人は、他者から「反応」してもらえることをエネルギーにして、はじめて生きていける。

 セラピストが「反応」しなければ、少なからぬクライエントさんは、面接に言葉にならない不充足感を感じ続けるる。


 もちろん、受容的・共感的傾聴は重要である。ベースラインと言っていい。

 クライエントさんがまだ何かしきりと伝えたいときに、それに割って入ってカウンセラー側の見解を伝えることは、原則として回避され、傾聴を優先せねばなるまい。

 少なくとも「割って入っている」自分の振る舞いを自覚しているべきであり、そのことのリスクについての査定をした上で、「敢えて」自覚的になされるべきだろう。

 しかし、単なるオウム返しや「それはたいへんでしたね」式のセラピストの反応が、単なる職業的な習い性に過ぎなくなった時、クライエントさんはそのことを見抜いてしまう。正確に言えば、感覚的に直感できるというか、身体で感じてしまう。
 
 そうなった時、クライエントさんは、日常の中での困難をじっくりと活き活きとカウンセラーの前で物語り、自分の内面を自分なりに感じ直し、内省していくモチベーションそのものがそがれていく。

 セラピストの「治療的『態度』」という方がなされる時、それは表層的な「ふるまい」であるかのようにとらえられる危険がある。いわば「装い」「演じる」ことが可能なことであるかのように。しかし、「聴き方」「応答の仕方」には、テクニックに還元不能な領域があり、そのsomethingもまた満たされている時、はじめて実質を伴うものとして機能する十分条件となる。

 そのsomethingとは何か。それは、カウンセラーが、面接場面の場の中で、クライエントさんの訴えを聴く中で、カウンセラー自身の中にどんな反応が生じているかについても、敏感で繊細な目ざとい耳を持ち、モニターし続けていられることである。

 フォーカシングで言えば、治療者自身が感じる、曖昧で容易に言葉にならないフェルトセンスである。

 そして、そのフェルトセンスと無理のない関係を、治療者自身が作る。そのためには、治療者自身の中での、その感じに触れながらの言語化、イメージ化、身体感覚の味わい直しの循環運動のプロセスが必要となるだろう。

 これで、クライエントさんへの「非言語的な」反応、あるいはvocal(音声の調子。神田橋先生のいう「鳴き声」だが、元ネタはサリヴァンである)な次元での反応はほぼOKでろう。

 これだけでもクライエントさんにある安全感と、カウンセラーと、ある信頼できる「関係」の中にあるという感覚のベースは作られるし、「必要条件」なのだが、得てしてこれだけでは不十分である。

 クライエントさんは、セラピストの言語的(verbal)な表明の意味内容と、セラピストの刻々とした非言語的な反応、声の調子という「鳴き声」次元での反応がすっきりと一致していること.....要するに、「セラピストの自己一致」が達成されているかどうかに非常に敏感なものであると仮定していいのではないか。

 言葉を換えて言えば、多くのクライエントさんは、それまでの、家族や友人、恋人、同僚や上司などとの関わりの中での「ダブル・バインド」(言葉上と態度の矛盾したメッセージ)に翻弄され、傷つき続けている。

 そして、得てして、すでに医師や他のカウンセラーなどの「援助的専門職」の人との関係の中で、何回も、何回も、、そういう「ダブル・バインド」的態度、「自己不一致ぶり」に遭遇し、「専門家」なるものに警戒的になっている。

 だから、セラピストが自覚的にクライエントさんに示す応答の次元でも、「自己一致」した応答がなされていないことを感受すると、それだけで警戒的、防衛的になる。

 「ああ、また、あの表面上はやさしげで何でも聴いてくれるけど、何かが空疎でわざとらしくて人工的で演技的なカウンセラーの、あの何とも言えない「雰囲気」に遭遇してしまった。「この」空気に呑まれると、私は自分自身ではいられなくなる。日常で感じている苦しさの実感に「私も」アクセスできなくなる。そして、本当に伝えたいことの核心にとどかない言葉だけしか思い浮かばず、繰り出すだけの存在になり果てる。そして、突如反動が来て、セラピストと喧嘩別れしたり、通うのがイヤになってやめてしまうことになりそう」

 こうした無力感を心の底で抱えつつも、「藁にもすがりたい」思いから、我慢してしばらく「大人しく(オトナのふりをして)」通い続けている、奥ゆかしい健気なクライエントさんは、特に日本文化の中では少なくないのではないかと思う。

 それを超えた、真に実りある手応えを、クライエントさんに感じてもらいつつカウンセリングを進めるために必要なもの。それは、カウンセラー側が、クライエントさんとの関係の中で、(十分な専門性プロ意識を堅持しつつも、同時に自分自身でいられ続けることのような気がする。


*****


 まだ言葉足らずであり、これだけでは私が伝えたいことが「誤解(misunderstand)」される危惧は大きいが、少なくとも、これまで治療機関・相談機関に足を運んできたクライエントさんの中には共感して下さる方もいると信じている。

 最後に、以前も引用したけど、ここでまた浜崎あゆみさんにご登場願おう。



>大丈夫だって 言い聞かせて
>得意の笑顔に 切り替える

>震える手を 隠したのは
>同情が 寒すぎるから

>親切そうな あの人々は
>ほんとは何を 知りたいのだろう
>優しげな目の 奥に鋭い
>好奇という名の ナイフ隠して

浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood浜崎あゆみ/(miss)understood"

 なぜこの歌が、私はここまで好きなのか、いよいよ私の中で明確になってきた気がする。

浜崎あゆみ/アルバム "(miss)understood"

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2008/03/02

大船でフォーカシングを学ぶ会、今後第4土曜日にも開催!!

 恒例、「大船でフォーカシングを学ぶ会」開催報告です。

 その前に告知!!

 この「学ぶ会」には、かなり遠方からの日帰りの参加者の方が多い(片道2時間半クラス)ことに気がつきました。
 更に、もし「土曜日開催」ならおいでになれる方も増えるのではないかというご意見も頂きました。

 そこで、とりあえず試行的に、今月の第4土曜日、3/22(土)に【B日程】で急遽開催することを思い立ちました。

 この後、第4土曜に継続開催しようという気持ちは強いのですが、【B日程】で続けるかどうかは、皆様のニーズに基づいて判断します(【A日程】の時間帯と比べて、どちらが参加者の便宜になるか判断がつかないからです)


*****


 さて、本日、3/2(月)は、久しぶりに大人数、私を含めて参加者7名でしたが、初参加の方もすでに既成のフォーカシングの勉強会に参加されている方で、くつろいだ中にも密度が濃い内容にできたように思います。

 前回、少人数ということを生かして実現した懇切丁寧なプログラムが、こういう大人数でも無理なく実施できるかが、私の課題になりました。


●第1部:身体感覚中心のclearing a space スペシャルバージョン(ホールボディ・フォーカシングつき)

 前回と同様に、7名様で、1時間をゆうに超える時間を要した、集団法clearing a speceの中ではかつてない丁寧さを持ったコンテンツ!!


 どういうことかといいますと、

1.身体の各部分ごとに丁寧に「今申し分のない感じでいれれるか?」と身体に問いかけてもらうことの、もっとも詳細なやり方。

 胸→背中→お腹→腰→あし(太ももからつま先まで)→腕・手先→肩・首筋→首から上→周囲の空気→各人が自由に身体のあちこちを感じてもろう、という私のフォーマットでのフルコースを、参加者が各部分を味わうことに完全に十分と感じるペース(一箇所3分-5分以上!!)で、個々の参加者に確認を取りながら進めた。


2.ホールボディ・フォーカシングの統合

 それぞれの部分を感じる際に、楽でいられる安全基地の確認を重視、「そこ」を大事にしながら、身体の実感を大事にして、身体がどういう姿勢や筋の伸ばし方を求めているのかをじっくりと試してもらう。これはホールボディ・フォーカシングの応用だが、各人が「心地よい身体の姿勢」を主体的に探してもらい、自由に味わう時間をたっぷり取って、私を含めた参加者7人が納得がいく体験をしたことを確認した上でしか、次の身体の部分を中心に感じてもらうことに進まない。これが、ひとつの身体の部分だけで5分近くかかるという長大化の要因ともなった。


3.ひとつの身体の感じを味わった後に、それを言語化する権利の保障、言語化しない権利の保障

 大人数だとこのことを確認する余裕がなくなるかなと思いましたが、それでもここまでまで含めて、参加者に了解を取って進めることにチャレンジしましたが、存外に順調に進みました。結果的には途中でどなたも言語化の権利を行使しなかったのだが、これは、言語化する権利を保障したからこそ生じた状況であり、それぞれご自身の中では体験を言語化するというプロセスが生起していたという逆説があったと今回も思います。

「今何分やってたのかしら?」
「10分ぐらいかな?」

という雑談が出たことに私は内心苦笑していました。ホントは1時間かけたんですよ!!


4.それぞれの身体の感じを味わううちに自然と生じた日常場面の回想日頃の悩みとの関連を身体の感じと無理のない範囲で行き来して味わい、無理のない体験的距離を見つけて、それぞれを「認めてあげて(acknowledging)」、あとで必要あればもう一度関わることを約束するプロセスの丁寧な実施。

 私の見出した分類における「外共鳴(external resonating)」を無理のない体験的距離を見出すまでじっくりやっていただいたことになる。


 .....こうなると、1時間を超えるclearing spaceが、各参加者のペースを尊重した、自由で伸び伸びしているけれども、深い身体と心の落ち着きが獲られるプロセスとなる。

 参加者の多くに、ほとんどここまでで、その日参加した十分な満足感を感じ、身体も心も普段にない充足感や、日常の気がかりについての生産的な気づき、最低でも「焦点化」して無理のない「体験的距離」を見出すブロセスが生じたようである。


●第2部:藤嶽法第1法フルバージョン


 何しろひとりの語り手に6人もの人間が、相手の身になった応答を返してくれるという、インタラクティブ・フォーカシングのラウンドロビン・フォーマットとしては超豪華版!! カードを媒介とするのでひとまわりするのに2時間以上かかりました。

 この前と同じように、最初のひとり二人の語り手が終了し、3人目に持ち回る頃には、皆さんやり方のコツをわきまえてしまい、段取りの進め方がポーカーゲームのようにスピードアップ!!カードで文字や絵で表す共感的な応答にセンスがどんどん上がるし、皆さん絵を描くの早くなる!!

 その結果、前回と同じように、フォーカサーの提示する絵画と、リスナーが提示する絵画の一致度、リスナー相互間のカードの一致度が、奇跡的なまでに上がっていくのですね。

 もう、お互いに全然ズルしてないのに、そっくりの絵を提示したリスナー同志が驚いてしまう域にまで達しました。

 もう、言葉以前の次元で、集団全体が「おなじ花を見て、同じ美しさを感じて」いる驚異の水準ともいえました。

 凄いのは、「漢字の一致」すらはじまったことです。

ひとりのリスナーが、

「留(どと)める」

と書いたカードを出して、

次のリスナーが、

「溜(た)める」

と書いたカードを出した時には、みんなその象形文字の一致に驚愕しました(^^)

 そして、微妙なずれそのものを味わい直すことが、フォーカサーとリスナーの体験過程のステップを更に促進するという、理想的な展開になりました。

藤嶽法は、文字でマニュアルを理解してもらおうとすると煩雑ですが、「体験的に」コツをつかむのは、「フォーカシングの初心者でも」実に簡単なんです。もっとも、「トレーナーが熟達していれば」の話です....自戒ならぬ自負を込めて)


*******


●今後の予定:


 今後は、


【B日程】3/16(日) 14:45-19:00
【B日程】3/22(土)《新設》 14:45-19:00
【A日程】4/6(日)  13:00-18:00

の予定です。


*****


 継続的な参加を必要とする内容にはいたしません。

 第1・第3日曜、第4土曜のいずれかのみ参加、
 敢えて月2回、3回の参加、
 更に、ランダムに参加されること等、ご自由に選んでいただければと思います。

 ただし、開催日前日夕刻までに、どの日にご参加希望かのエントリーを、継続者の方も、メール・ファクス・電話等で必ずお願いいたします。8人定員を遵守いたします。

******


 更に付言しますと、第1日曜の「学ぶ会」開催日については、夜19:00以降の個人カウンセリングの新規申し込み、第3日曜、第4土曜については、14:30までに終了するカウンセリング・フォーカシング個別指導・ケーススーパービジョンの新規申し込みも受け付けています。

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2008/02/22

「臨機応変」な面接は、自分の面接の「型」がしっかり身についていてこそできる。

> .....というのも、自分の中心線をどこか一つに定めることによって、クライエントさんの定式的な反応や一般的な反応というのがある程度見えてくると思います。いわゆる共通性ですね。そして、その共通性とは思えないような反応があった時、それこそがそのクライエントさんの独自性の表れだということがキャッチできるのかなと。

> これが「柔軟に」とか「臨機応変に」という名の下に、時と場合によってコロコロと変えていると、自分の中心線がどこにあるのか分からなくなり、何がクライエントの独自性なのか、何が揺さぶられているのかが分からなくなりそうで。 (セーイチさん)


 そうですね。「臨機応変」で柔軟な面接というのは、実は自分なりの座標軸が相当しっかりあって、はじめてできることなのでしょう(^^)

 この点を忘れてはなりませんね。

 これは、カウンセリングに限らず、広い意味での「ビジネススキル」全般に当てはまることかもしれません。カウンセリング関係以外の読者の皆様は、以下の部分を、自分の領域に読み替えてみてください。何か参考になるかもしれませんので。


*****


 面接でのクライエントさん(顧客さん)への普段の応答や、解釈的発言をする機会についても、私の中では厳密そのもののフォーマットが実はあります(^^)。まさに武道の「型」を半ば無意識に繰り出せるのと同じように。

 それをこのブログで、滅多に技法フォーマットとしてダイレクトに書かないのは、それを形だけ真似されたら、その人なりの座標軸形成の妨げになると思っているからです。


****


 もちろん、私も、面接の中で、そういう「型」が崩れる時もたくさんあります。例えば、共感的傾聴ができなくなり、思わず、クライエントさんに批判とも受け取れる意見を言ってしまうとか。

 そういう時は、単に技法の「原則」を外れた自分を責めて自己嫌悪するだけでは意味がないのではないかということは、すでに「受容、共感と自己一致の相克」シリーズで取り上げました。

 むしろ、そのクライエントさんの個性だとか、問題の核心、あるいは、カウンセラー自身の面接内での「共振れ(土居健郎)」の質に気がつく、絶好の機会。

 そして、それを生かすのが可能なのも、自分の面接の標準の「型」=「ホームポジション」=「座標軸」をはっきり自覚しているからこそなのです。


****


 当然、こうした、標準の「型」=「座標軸」は、そのカウンセラーの技能の成熟と成長に伴って、少しずつ変わっていく性質のものです。

 結局、柔軟であるための方法論というのは、実はマニュアルとしては伝えられない。できたとしても、それはスポーツのコーチのように、マン・ツー・マンでしかできないでしょう。

 総合格闘技をやる人でも、ボクシングやレスリング、空手などを、きちっと「型」を理解してみっちり学んだ人の方が強いのじゃないかな?
 
 だだ、そこから各人が自分なりのスタイルを築き上げる上でのヒントというのは伝えられるのではないかと思う。


*****


 我田引水ですが、私が今度、通信教育、「現場カウンセラー・キャリアアップ講座」でやってみようとしているのは、そういう領域です。

 ですから、目次原案をご覧になればお分かりのように、通常のカウンセリング学習の項目からすれば、斬新過ぎる実践的切り口をメニューにしてみました。

 「相談機関での同僚との付き合い方」とかね(^^)

 通信教育は、e-ラーニングの個別指導システムも併用できるので、それぞれの受講者の皆様ひとりひとりののニーズと習熟水準におこたえできる考えています(ここがただのメルマガとの最大の違い)。

 ちなみに、「キャリアアップ講座」では、文体も語り口も、はるかに平明なものにすることは、お約束します(目次の各章各節のタイトルだけでも、このブログの私と別人のような文体を目指していることは伝わりますよね)


*****


 .....以上、またもや、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「ケース記録とプロセスノート」(すでに78コメント)への私のコメントから、若干増補改定の上で転載。

 このコメントを触発する発言をしてくださった、セーイチさんに、こころから感謝申し上げます。


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2008/02/18

「大船でフォーカシングを学ぶ会」全記録を1ページで読めるようにしました。 

 このブログに「大船でフォーカシングを学ぶ会」という新しいカテゴリーを新設しました。

 http://kasega.way-nifty.com/nikki/cat20042469/index.html

 これで、過去の「学ぶ会」の全記録が1ページで読めることになります(^^)

 これ、過去の「学ぶ会」関連記事をすべて検索してアップロードしなおすという、かなりの作業量ですので、ある時期からやろうやろうと思いつつ、億劫になってなかなかできずにいました(^^;)

 しかし、これで、フォーカシングのひとつのグループ活動の全記録がライブで更新され、ネットで公開されていくという、かなり画期的かもしれないことが実現されていくことになります。

 もちろん、個々の参加者の皆様の守秘には十分配慮し、掲載に迷いが生じた内容は、参加者の方に了解を取ってから掲載することは遵守いたします。

 

 

 

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2008/02/15

フォーカシングの、世界の最前線の記事たち

 「こころの天気」でおなじみの土江正司さんから以下のニュースをご紹介いただきました:

The Focusing Instituteの定期刊行物、"Folio"の、土江さん、日笠さん、上村さん、土井さん、小坂さん、増田さん、天羽さん、久波さんなど、日本フォーカシング協会の精鋭たちの、多忙な中、時間を割いての尽力による日本語翻訳版です。日本フォーカシング協会サイトにあります。

http://www.focusing.jp/International/folio20-1index.htm

 アフガニスタン中南米にもひろがる、世界のフォーカシング最前線の人たちの肉声が伝わってきます。

 個人的には、ジェンドリン自身「タウン(街)と人間的な注意」という、講演の一部を抄録した記事が興味深いです。

 ジェンドリンは、今も、現在と未来を見つめ、精力的に活動しています。

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2008/02/14

父なき時代の、自らの父となるためのカウンセリング

 人はその時代や社会の価値観や文化の中で生きる以上、たとえ「対向同一性(counter identity)」を選択するにしても、この世に「棲息」していく限り、「すべての防衛を克服したほんとうの自分」として生きる」というのは、絵に描いた餅だと思う。

 プロセスとして、「ほんとうの自分になろうとする」とか、「ほんとうの自分に戻る瞬間」というのはあっても。
  
 どこまで行っても、ある意味では「適応に適した新たな防衛形成」以外の適応なんてないと思う(^^)

 だから、ウィニコットは「偽りの自己(false self)」を「適応に必要なもの」として肯定的に論じた。この点まだまだ誤解があると思う。ユングが、「ペルソナ(仮面)」が形成されないと、個性化の過程ははじまらない、と論じたのも同じ脈絡。


*****


 私自身は、「正統派ロージェリアン」と「フォーカシング指向心理療法」の違いについて繰り広げられている議論なんかも、きっちり押さえておく必要はあると思うけど、進んで関与する意識はなくて。

(これについてはキャンベル・パートンの「パーソン・センタード・セラピー」、が、日本語で読める最良の質のレビュー献です)

 要するに、only one=「私の心理療法」でしかあり得ない。

 私に会いに来るクライエントさんも「フォーカシングを」学びに来たのではなくて、「ともかく自分の困難を解決してくれるひとりのカウンセラー」に会いに来ただけ。

 私は、「フォーカシング個別指導」の申込者から、「フォーカシングは役立ちますか」という問いに、

 「私にとっては人生になくてはならないものですが」

と言う答えしかしないのです。

 これに面食らう申込者も多い。


 「だから、私にとって、フォーカシングはあっているかということです!」


 でも、その「面食らって」もらったところでの関係性のすりあわせが、関係をはじめる上で不可欠なのを、最近の私は感じています。

 私は、少なくとも開業してから、ただの一度もフォーカシングを私のほうから勧めたことはないのですね。

 「どうしてもフォーカシングを試してみたい」という頑固な人(^^)にだけ、しぶしぶ(...ウソウソ)、「ほんとにいいんですか?」という面持ちで、次回面接で、フォーカシングのフォーマットを意識的に使う約束をする。

 「願わくば、あなたが、あなたにとって私がいなくても日常の中で、現実との戦いの中で日々役に立つ、あなたにとってのフォーカシングを身につけることを。私はそのためのお手伝いをするのです」


******


 要するに、私は「父なき」、独り立ちできる、いずれフォーカシングのことなんて、カウンセリングを受けたことなんて忘れてしまう息子、娘を育てたいのですね(^^)

 著名な芸術家が精神分析(に限らず心理療法)を受けると、独創性が失われる現象はよく見られますが。本人がそれで満足していればそれはそれでいいのでしょうが。

 要するに、心理療法は、どこまでいっても「心理学的ロボトミー」を超えられないのかも。

 私自身、とっくに、フォーカシングというロボトミー手術を自分に施してしまった「人工的な」存在である悲哀をかみしめつつ生きています。

 生涯一モルモットとして生きる覚悟がありますから。


*******


 でもそのうち、フォーカシングのことも忘れてしまって面接しているかもしれませんね。日常の中でもフォーカシングしなくなるかも。


 そうなりたい。

  『早く人間になりたい!』

 ........以上、恒例、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「外れた解釈」(すでに108コメント)への私のコメントからの転載。

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2008/02/10

自分の夢を実現するということ

 以前も書きましたけど、私は、フォーカシングの世界に入ったら、いろんな先達の素晴らしい先生がいて、疑問があればそれらを皆すらすらと教えてくれると進じていたんですね(^^;)

 ところが、現実にはそうでなかった。

 しかし、私はそれでもフォーカシングの可能性を信じ続けたわけです。

 つまり、私のイメージ通りのフォーカシング....現場臨床場面にも、さりげなく、柔軟に使えるフォーカシングというものを、ある意味で20年かけて、「1から創造した」のです(^^;)

 一見既成の技法通りのレディ・メイドに見えても、実は私の手作りのセルフ・オーダーメイド。

 つまり、ブランド品と寸分違わぬものを、自分の手作りで作れるようになってしまった(^^)

 そして、それに対して、とっくに資格製造元からお墨付きもらっちゃってるわけだから、私=正規ブランド、模造品にあらず、なんです(爆)

 ある意味では、特定の流派にコミットして、更にそこから突き抜ける形で自分の臨床の世界を見つけるというのも、好ましいあり方だと思っています。

 その意味では、分析系の人が、本格的な精神分析訓練を受けた上で、敢えてそれを突き抜けるところまで行って欲しいと念じています。

 学会発表もしない、「地上の星」の臨床家の中に、そういう人がたくさんいたのではないかという件については、全く賛成ですね(^^)

 only oneであると言うことは、「他人と違う」と言うことではない。

 ユングのいう「個性化」は、むしろ人生前半での「アクの強さ」=自我(ego)の偏りが一見失われ、平凡化していくかに見える過程。

 それが、「自己(self)」の全体性への統合の過程なのだから。

 だんだん、自分がロジャーズの論じたとおりの面接でも現場で通用し、クライエントさんが着実に自分の道を見つけていくと感じるようになった、今日この頃。


 BGMはもちろん、槇原敬之さんの、槇原敬之 - NORIYUKI MAKIHARA SYMPHONY ORCHESTRA “cELEBRATION” - 世界に一つだけの花「世界でひとつだけの花」

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2008/02/04

「プレゼンテーター中心主義」 -こころの天気大船グループバージョン-

 さて、すでに「大船でフォーカシングを学ぶ会」で2回、四日市の「東海フォーカシング研究会」で1回実施した、「こころの天気」小グループバージョン大船版が、どういう基本原則で実施されているのかを具体的に解説してみましょう。

 私が理解している範囲では、島根の土江正司さん開発の「こころの天気」の技法は、非常にシンプルな原則のみで実施可能です。


 1.「こころの天気」とはどういうものなのかについては、絵を描く本人の解釈と発想の自由に基本的に委ねる。

 「天気」であるからには、晴れとか雨とか、そういう「天候を含んだ風景」でなければならないと言うことはないのです。中には、かなり抽象度の高い描画で、「今の気分」を表現する人も出てくるでしょうし、かなり接写に近い静物画のようなものを書く人もいる。 絵にタイトルを付け、文字で書く人もいるでしょうし、絵の中にいろんな解説の文章を書き込む人も出てくるかもしれない。

 中には、絵は描かないまま、紙いっぱいに大きく「気持ち」についての文字を書きなぐる人も出てくるかも。

こういうふうに!(^^)

 これらのバリエーションが自然と各人の解釈の元に生じてくることについては、介入しないという基本原則があるように私には思えます。


 2.「写生」ふうの伝え返ししかしない。

 描かれた絵に、カウンセラーは「伝え返し」をするのですが、この際、絵に現れたままを、俳句で言う「写生ふう」の形で、簡潔に伝え返しをするに留めることを、開発者の土江さんはたいへん重視しています。

 前の記事の私の絵を例にすれば、

「夜なのかな。
家が一軒あるね。
窓に明かりが灯っているね。
赤い服を着た女の人が、その窓のそばに立っているね」

くらいです。


 (更に、中井久夫先生の「風景構成法」からの転用として、絵を実際に描く前に、画用紙の縁のあたりに自分で「枠線」を描いてもらうことが一般的なようです)


******


 こうした、オリジナルの「心の天気」技法を尊重しつつ、同時に、小グループの場の中でお互いに共有するための、場の安全の原則として、私、阿世賀が考案した工夫について以下に述べます。

 (以下の内容の著作権は阿世賀浩一郎が有します。無断転載、引用は固くお断りいたします。リンクを張るなどの形で紹介下さる前には、ご一報下さるようにお願いいたします)


1.絵を描く際に、グループの他のメンバーの「面前で」絵を描かない自由の保障(位置を変え、皆に背を向けて「こそっと」描いてもいい)

2.描いた絵を他のメンバーに公開しないままにする権利の保障。

3.他のメンバーへのプレゼンテーションの際に、何も解説しないまま絵を提示する権利の保障。

4.提示された絵に対して、その場のファシリテータのみが、前述の「写生ふうの伝え返し」を必ず行う

5.絵を皆に見せるメンバー(以下「プレゼンテーター」と呼ぶ)は、他のメンバーに具体的な感想を返さないように求める権利を有する。

6.プレゼンテーターの絵を見守る他のメンバーは、プレゼンテーターに具体的な感想を返さない権利を有する。

7.6.に抵触しない限り、プレゼンテーターは、他のメンバー全員から具体的な感想が欲しい旨、前もって「注文を付ける」権利を有する。

8.プレゼンテーターは、絵についての他の参加者とのやりとりをいつどこで終結させるかの判断の権利を有する。


 場のファシリテータは、これらのことをプレゼンテーターに保証するための介入しかせず、それ以外の点では他の参加者と平等な立場にあるように努めることになります。

 その結果、自然と生じるのは、プレゼンテーターが持ち回りで2人目、3人目となるうちに、ファシリテーターがもはや逐一介入しなくても、全く自然かつ自発的に、「その時のプレゼンテーターが場の主人公として振る舞うようになる」という現象である。


  私は、こうした場の特性を、

 「プレゼンテーター中心主義」 

  と名付けることにしたのだが、いかがだろうか?


 なお、この「こころの天気」大船バージョンの成立には、四日市の「東海フォーカシング研究会」での、「藤嶽法」の、すでに数年におよぶ実践の中で共有された知見が、実は大きく影響しています。

 すでに10年近く、全く同じ固定メンバーとして毎月1回場を共にしてきた、藤嶽大安さん、渡邊邦子さん、森尾邦江さんに、厚く御礼申し上げます。
 

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2008/01/28

今日もセーイチさんサイトにいます(^^;)

 セーイチさん、「この」状態を寛容に見守ってくれていることは某ルートでやりとりしていますので。

 こっちのブログが私の「独演会場」だとしたら、セーイチさんサイトでは、本気で皆さんとキャッチボールができるのが嬉しくて仕方がない。

 もの凄く、半端ではない、高度な水準で、バリントや、ビオン、フロイトなどとフォーカシングの接点のやりとりが進んでいる気がしてなりません。


 こういうやりとり、私の夢のひとつだったので、思わず、


♪居場所がなかった みつからなかった浜崎あゆみ - A Song for XX - A Song for XX


と一節唄ってしまったのであった(爆)

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2008/01/22

こういちろうの自分史

●@nifty TimeLine



このコンテンツは、刻々と増補されます(途中を含めて)

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2008/01/17

自分探しと恋人探し

 もう一本追加です(^^)

 どうして、対人恐怖のかたまりで、自分は一生女性とセックス(セルクス)なんてできないと感じていた私が、そこそこ女性との無理のない距離感作りに、ある水準の自信を持つまでに到ったのかなあ?

 (忘れないでね。私は、モチ、プレーボーイとは程遠い。恐らく、男女関係に積極的で、同時に冷静に経験値を積んでもいる、普通の高校生や大学生の水準に追いついたに過ぎないことを書いてるだけと思う。.....と、少し謙遜

 これ、あるクライエントさんと話していて、自然に思い浮かんだことなんだけど。


 私は、少なくとも当面、自分が社会人として進む道を、深い次元で納得しながら受け入れられる。

 大学教授になるのは、私の予定では、55歳ごろ。
 しかも、どこかからお呼びがあった時です(爆)

 それはあくまでも、

研究費と老後の生計の基盤が欲しいのと、
サバティカル世界鉄道旅行したいのと(カナダ横断鉄道が、アメリカ大陸横断鉄道が、オーストラリア横断鉄道が、シベリア鉄道が、TGVが、オリエント急行が、私を呼んでいる......爆)、

その頃になったら、
日本の心理臨床学の大学における学問的発展と、大学における研究者・臨床実践家の養成に関与することから逃げない責務があると思うから。  


*****


 でも、若い人の恋愛って、そういう心理=社会的なアイデンティティの形成課題と、伴侶の獲得っていう、二兎を追う時期って、遅かれ早かれ、どうしてもあるではないですか!!

 たいへんだよね!!


*****


 私は、その苦悩は感じないまま、結婚暦、育児暦まで経験させていただきました。

(今にして思えば、「キヨブタ」=「清水の舞台から飛び降りる」そのものだったな。恋愛結婚だったし)

 そういう意味では、いわゆる「自我同一性尺度」でいう、「早期完了型」のバリエーションそのもの。

 .....ま、多くの大学のセンセ、多かれ少なかれそうだけどね(^^)


*****


 更に、もうひとつ『贈る言葉』。


   経験を重ねることより、ひとつひとつの経験を消化していくこと。

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2007/12/28

クライエントさんからの注文や不信の念の表明といかに対峙できるか(第2版)

 すでに何回もこのブログで書いてきたことなんだけど、ある意味で増井先生シリーズ佳境に入ってきましたし、ちょうどいいタイミングかもしれないので。

 神田橋先生がおっしゃった、「自閉する能力」という概念があります。

 これは更に普遍化されて、

 「症状」という言い方をする時に、「.....する能力」と読み替えてみたら?

と提言されています。

「引き籠もり」症状ではなくて、「引き籠もる」能力
「人目が気になる」症状ではなくて、「人目を気にする」能力、
「すぐに風俗に通う」問題行動ではなくて、「風俗に通える」能力、
「人にお節介を焼くことで、その相手を自分の人形のように依存させる」能力
「ずる休みをする」問題行動ではなくて、「する休みできる」能力
「解離」症状ではなくて「解離できる」能力
「鬱」症状ではなくて、鬱に陥れる「能力」
「本当の自分を出せない」悩みではなくて、「本当の自分を出さずに済ませる」能力

......と言った具合ですね。

(これだけ並べると、むしろ少なからず多くの人に確かにある程度ある、「適応」能力にすら見えてくるから不思議です)


******


 これは決して単なるポジティヴ・シンキングなどではない

 そのようにすることで、
 クライエントさんは、かろうじてここまでやって来れたのであり、

 もしそういう能力がなければ、
 もっと悪い状態に陥って「いた」かもしれない、

......と、考える余裕を治療者は持て、ということだと私は理解しています。


*******


 この「.....する能力」の応用問題として、神田橋先生の直弟子である増井先生と、その増井先生の兄弟分である田嶌先生が共に強調する事柄に、

「拒否能力」

更に、

「注文をつける能力」

という、現場臨床的に見て画期的な概念があります。

鬱病圏にせよ、統合失調症圏にせよ、神経症圏にせよ、日常の中で、あるいは職場や親などの「重要な他者」との関わりにおいて、こうした能力に乏しい方が多いことを実感し得る現場セラピストは多いからです。

 受容、共感とよく言われますけど、殊に日本人の場合、受容されればされるほど、カウンセラーにほんとうの思いを言えなくなるクライエントさんは、ありがちです。

 わかりやすく言えば、ずっと「人に嫌われないいい子」であろうとしてきた人は、カウンセラーの前でもそれを当然繰り返します

 カウンセラーを信頼すればするほど、


「嫌われたらどうしよう」症状、

もとい、

「嫌われたらどうしよう」と思える能力


が発動するのですね。

 ......そのことに気づかないままでいるカウンセラーなど滅多にいないと信じますが(^^)


 あるいは、人に対する(あるいは、それまでのカウンセラーに対する)不信感が強いあまり、最初からカウンセラーをいろいろ試みるクライエントさんがいるのも、「援助を求めたい相手に、安易に気を許さない防衛能力」といえるかと思います。


*****


 いずれにしても、

それまであまり苦情やカウンセリングの進め方について
違和感や苦情を言わなかったクライエントさんが、
敢えてそれを口にした時

あるいは、

これまで面接の中で取り扱わなかったテーマを
敢えて取り上げたいと自分から申し出る時
には、
それ相応の覚悟を決めていたり、
勇気をふるっていることが多い。

 少なくとも、そのカウンセラーを信じたいという気持ちと不信感がギリギリのところでせめぎ合っていることが多い。

 この時のカウンセラー側の態度如何で、より面接が深まるか、それとも堂々巡りしたり、突如中断したりするかの分岐点になることが多いのは確かです。

 見え透いた「注文歓迎」の姿勢や、「お茶を濁す」態度、あるいは議論のすり替えなどは、容易にクライエントさんに見破られます。


*****


 以前にも書きましたが、こうしたことへの感受性は、少なからぬ場合、カウンセラー自身のカウンセリングの師匠(たとえばスーパーバイザーに)対して感じた違和感を自分でどのように見つめ、対処してきたのかが如実に反映します。

 得てして、カウンセラーは、自分のカウンセリングの師匠の嫌な部分だけを無自覚に取り入れるという「反復強迫(やりたくもないし、用心しているのに、実はそのことをいつのまにか繰り返してしまうこと)」を持っています。

 これは、多くの一般の人が、親を反面教師にしようと懸命に努めてきたのに、いつの間にか、自分の子供が自分のことを、かつての自分と同じように嫌っている事実に直面してショックを受けるのと全く同じ次元でのことなのです。

 そういう意味では、そういうカウンセラーになってしまった責任は、実は師匠との関係性の質に大きく影響される(どちらが悪いとは言えませんが)。

 ただ、師匠に全責任はないにしても、そういう「スーパービジョン」や「教育カウンセリング」経験、あるいは師匠が弟子に研究室の日常の中でどう接したかという「トラウマ」を背負うあまりに、クライエントさんとの関係で苦しみ続け、堂々巡りを続けるカウンセラーがこの世にたくさんいることも確かなようです。

 だから、カウンセラーにどうしても違和感があり、どう伝えても通じない壁があると感じたら、そのカウンセラーは、よほどたちの悪い「師匠」や「先輩」に負わされたトラウマに無自覚なままだ、と発想しているのも、いいかもしれません(^^;)

 この記事もご参照ください。

 更に、こちらの記事で取り上げた映画も、ぜひご覧になることをお勧めいたします。


*****


 何より、自戒を込めて。


 実は、本日、クライエントさんに痛いところを突かれた経験があったからこそ、その方への感謝を込めつつ、ここに書くことにしました(^^)

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2007/12/26

増井先生シリーズ、久々の続編 : 境界例水準の人の「寝た子を起こすな」へのジェンドリンの見解

 久々なので、この増井先生シリーズの長期連載最新目次こちらにあります。

 興味のある皆さんは,復習、よろしく!!


********


25. 体験過程の様式が極端に構造に拘束された場合
  (精神病,夢,催眠,CO2,LSD. 刺激遮断(Stimulus Deprivation))

(中略)


g) 精神病的諸経験は「抑圧されたもの」(the repressed)ではない

(前略)

 「精神病的な内容が潜在している」という考え方に従うときには,二つの誤りに陥る危険がある。我々はある人間の感じている困難や障害を(それらの感情が明らかな精神病という階段にまで発展してしまわない場合には)無視したほうが良いと決めるか,あるいはそれらの感情を「解釈し」,かつそれらを「掘り出す」かのどちらかをとる。

 どちらにしてもこれによって,パーソナルな相互交渉と個人の中に暗に働いている諸感情は否認され,わきへ押しやられてしまう。どちらに決めても,その結果は精神病ということになるだろう。……それら二つの決定のどちらにも共通している点は「内容」が精神病的なのだという,明らかに誤った考えである。

 何か「底にある内容」が「精神病的」だなどというようなものはないのである。精神病的なのは体験過程の構造に拘束された様式であり,感じられた体験過程と相互作用が欠如しているか,文字どおり硬化していることである。

 「境界線にあろうと明らかな精神病にまで至ってしまったように見えようと,もしもまだ機能しているものを前進させるようなパーソナルな反応によって,相互交渉や体験過程が再構成されるならば,その人は「生気をとり戻す」であろう。

             (以上、ジェンドリン「人格変化の一理論」村瀬旧訳、おゆび池見他新訳pp.223-4)


*****


●原文:

Psychotic Experiences Are Not "the Repressed."

The view of "latent psychotic contents" leads to two dangerous errors: either one decides that the individual's feelings of difficulty and trouble had better be ignored (lest they "blossom into" full psychosis), or one "interprets" them and "digs" them "out." Either decision denies and pushes away the personal interaction and the individual's implicitly functioning feelings. Either decision will result in psychosis-they involve the same selfverifying misconception that "contents" are psychotic.

There is nothing "psychotic" about any "underlying contents." What is psychotic is the structure-bound manner of experiencing, the absence or literal rigidity of felt experiencing and interaction.

Whether "borderline" or seemingly "gone," the person will "come live" if interaction and experiencing is reconstituted by personal responses which carry forward what does still function .


******


●阿世賀の再訳:


 「精神病的な内容が潜在している」という考え方に従うときには,二つの誤りに陥る危険がある。

 すなわち、我々はその人の感じている「むずかしさ」や「ややこしさ」について、(それらの〔言葉にならない〕感じが明らかな精神病という段階にまで花開いてしまっていない限り、)〔触れないまま〕無視したほうが良いと決めるか、それとも、それらの感じを「解釈し」、かつそれらを「洗い出してしまう」か、どちらかを採(と)るのである。

 どちららの対処を採るにしても、これによって、〔治療者とクライエントの間での〕パーソナルな相互交渉と、〔クライエント〕個人の中に暗に働いている様々な〔曖昧な〕感情は否認され、わきへ押しやられてしまう。どちら〔の治療的態度〕に決めても、その結果、精神病的〔注1〕になるだろう。


 (〔注1〕ジェンドリンはここだけ「精神病的」という言葉を " "、つまり「括弧入り」=いわゆる「○○」、と慎重に述べることを敢えてしていないことに注目。それならこう訳すのが素直である。「こんな対処しかできないから、みすみすホントに精神病的にしてしまう」と、さらりと言ってのけていることになる。


 ……これら二つの対処法のどちらにも共通している点は、「内容(content)」が精神病的なのだという,明らかに誤った考えである。

 何か「底にある内容」が「精神病的」だなどというようなものないのである。精神病的なのは体験過程の構造に拘束された様式であり,感じられた体験過程と相互作用が欠如しているか,文字どおり硬化していることである。

 「境界例状態」にあるか、あるいは、明らかな精神病にまで「行ってしまった」かのように見えようと,もし、〔クライエントの内部で〕まだしも機能しているものを前進させるような〔治療者の〕パーソナルな反応によって,相互交渉や体験過程が再構成(reconstituded)〔注2〕されるならば,その人は「生気をとり戻す」であろう。


 (〔注2〕以前も解説したとおり、ジェンドリンが「再構成化(reconstitution)」という単語を用いる場合、そこには体験過程の「推進」=フェルトセンスと象徴化の相互作用は含まれない。直接注意を向けられもしないままに進行する、暗々裏の機能のことである)


******


 この部分、残念ながら、我が師、村瀬孝雄もまた、この部分の本来の脈絡まで見通せずに訳していたように思う。


 実は、増井先生のように、「こころの整理法」で、気がかりの「置き場所」をひとつひとつ見つけていく場合も、

 田嶌先生のように「壺を思い浮かべる」にしても、

(個々の「具体的な何かを入れるために壺」として思い浮かべる、とは田嶌先生の本来の「壺イメージ法」では言われていない。せいぜい、「私の心の中のものがすべて入っている壺」というのが正式の教示である.....このことはすでに田嶌先生から個人的にうかがって確認済みである)

 実は、

体験の内容を「洗い出す」ことはしないまま

   しかし、

〔クライエントの内部で〕まだしも機能しているものを前進させるような〔治療者の〕パーソナルな反応 

をしていくための、非常に実用的で無害なやり方のバリエーションとして、見事にマニュアル化されたものに他ならない、と位置づけられることになる。

 壺を思い浮かべる能力、置き場所を見つける能力は、あくまでもクライエントさんの体験過程に依存している。

 治療者の側から具体的な「置き場所」や「どんな壺か」を押しつけることは、有害無益であることは言うまでもないだろう。

 (.....まだ現在でも、一部の専門家の間で、このことの危険性に気づかないまま安易に適用されている可能性は否定できない)。


*****


 いずれにしても、

  増井先生と、ジェンドリンの言っていることとは、この点では全く矛盾しない


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2007/12/20

応用行動分析(ABA)のあまりにも素朴な入門!?

 子供のしつけに関して、よく、

 「幼稚園へと家を出る前に、些細なことでかんしゃくをおこし、テコでも動かなくなって、そのまま幼稚園を休ませるしかなくなることがあるんです。とうしたらいいでしょう?」

…などという相談を持ちかけられることが、専門家でなくても、あるんではないでしょうか?


******


 以前、少年鑑別所の心理職の臨床心理士の方を講師とするワークショップに出席した際に解説された、生かじりの技法を、私はこうした相談を受けた時に、私流に、いつの間にか使ってみていました。

A1 : 「子供さんがそうやってかんしゃくを起こす、直接の引き金になる出来事(=B1)を具体的に話して下さいませんか?」

 「.......そうですね。私が、出がけに、かかって来た電話に1分出る、くらいの、些細な突然の出来事をきっかけにして、そうなっちゃうとしか言いようがなくて.....」


*****


A2 : 「では、そうしたかんしゃくの直後に、具体的に何をされていることが多いですか?」

 「・・・・・結局、何を言っても泣き叫ぶばかりなので、その日休ませてしまうことが多いんです。そして、お菓子とかをあげて機嫌なおしてもらってます」


*****


 「なるほど。それで翌日からは通ってくれますか?」

 「どうも、そのことを繰り返すうちに、いよいよそういうかんしゃくが増えている気がして、悩んでいるのです。

A3 :  .....わかっているんですよ。これじゃ、幼稚園を休んでお菓子をもらうために癇癪を起こすようになる癖を付けさせているようなものだって。

だから、思わず、

『○○ちゃん、あなたは幼稚園を休んでお菓子をもらいたいからそうやってゴネるんでしょ?』

なんてふうに叱りつけたらもう最悪

B3 : 泣きやむんだけど、もう私のことを一切無視ボーッとして、お菓子にも反応しなくすらなってきて....」


*****

 「でも、お子さんは、そうやって叱りつけられても困惑するだけかもしれませんね。ほんとうは幼稚園に行くのが楽しみなのには変わりないかもしれない」

 「........実は、このことを幼稚園の保育士さんにはじめて相談した時、怪訝な顔をされて、

おかしいなあ??? ○○ちゃんは、普段はほんとうに楽しそうにみんなと遊んでいますよ。ちょっとはしゃぎすぎなのが気になるくらいで』

といわれたので、びっくりしてしまって。私のこと嫌いで、幼稚園では羽根を伸ばしているのかな....とまで思い悩んで。

A2代案: それで、最近、

 「○○ちゃん、幼稚園楽しくないのかな? お菓子と幼稚園、どっちが好き?」
 「こういう時のおかあさんのこと、嫌い?」

と聞いてみたんです。

 そしたら、

 「お母さんも幼稚園もお菓子より好き!」

と言ってくれて。

 ......そういえば、その日以来、かんしゃくを起こす度に、

「○○ちゃん、幼稚園楽しくないのかな? お菓子と幼稚園、どっちが好き?」

って繰り返しすぐに口をついて出るようになりました。

A3' : この前、それを口にしたら、しばらくして泣きやんで、「幼稚園、行く」と言い出して、遅刻なのは承知で送ってあげられたことあったな.......」


*****


 先日の研修会で、これが、Aとは親のアクション、Bとはその結果としての子供の行動のことでA-B-Aをひとまとまりでとらえるというのが厳密な方法論だとわかりました。

 大事なのは、おかあさんが、自分でははっきり気がついていないトリガー(引き金)自分で気がつき、問題行動を予防するのにはどうすればいいか、という悩み方ではなく、むしろ問題行動の後に自分がどう対応するか次第で、子供が悪循環に陥らない解決法に自然と気がつくようにサポートできるかどうかです。

 これは、来談者中心療法のロジャーズの精神と全く矛盾しません


****

 以上、手前味噌で恐縮ですが、私が実際にお会いしたいくつもの事例を参考にして、組み合わせて、脚色してみたものです。

 以前、「訊(き)く」ことシリーズで書いたこととも重なるのですが。

 


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2007/12/07

フォーカシング・ピープルは世界人口のどれだけを占めるか?

 ちょっといじわるな言い方かもしれません(^^;)

 でも、私は、

「すでにフォーカシング学んでいる人たちにとって楽しい有益な交流の場になったのなら、それはそれでいいではなないか」

式の発言を聞くたびに、思わず内心でこのことを連想します(^^;) 

 島国根性、日本的な「身内意識」とまでは言い切りませんが。(....でも言ってる^^;)

 そして、世界には、いろいろな差別や、民族・国家間の争い、紛争地域の住民感情の緩和、刑務所に収監された人たちのメンタル・ケア、終末期医療にフォーカシングを役立てられないかと、身体を張って奔走している人たちがすでにたくさんいることに心を馳せるのです。こうした情報は、Instituteサイトで公開されています。

 そして、2年後の国際会議には、そういう世界の皆さんが日本においでになるのです。

*****

 でも、忘れてはなりません。

 私たちに必要なのは、フォーカシングの布教活動ではないということを。

 なぜなら、私たちは、すでに多かれ少なかれ、フォーカシングが技法として定式化したことをすでに日常の中で無意識のうちにやっているのであって、内的「現象」としてのフォーカシングは、その意味では、徹底徹尾、何人も神聖不可侵な私有財産なのです。

 世界の人たちがすでにひとりひとり所有している所有物です。

 そのことに謙虚であり続けることが、何より、私たち、フォーカシングのトレーナーが決して忘れてはならないことだと自戒しました。

 最後に、島根で独立開業している、有力なフォーカシング実践家、土江庄司さんの言葉を紹介して、結びとさせていただきます:


 私自身「フォーカシングというもの」を伝えることに例え少人数でも四苦八苦していたのですが、「フォーカシングというもの」は存在しない、と思うようになってからちょっと自由になりました。

 個人の中で、あるいは人と人との間で、何か有意義と感じられる進展があるとき、そのメカニズムを全部記述できるのが“フォーカシング言語”なのだと今は捉えています。

 おそらくこれでセラピーも禅も信仰もトランスパーソナルもすべて記述できるのではないかと思っていますし、それがもともとのジェンドリンのねらいではなかったかとも思います。

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2007/12/06

ジェンドリンの全論文がネットで読める(講演も聴ける)

> フォーカシング研究所では、できるだけ多くの人に
> 利用してもらうために、関係のあるインターネット上のサイトに
> たくさん、リンクしてもらうというキャンペーンを
> 行っています。

> 皆さんの中でもホームページをもっていらっしゃる方は、
> ぜひ、リンクをお願いします。

http://focusing.org/gendlin/

 これは、フォーカシングの世界では、皆様おなじみ、大正大学の日笠摩子先生からの、日本フォーカシング協会メーリングリストでの呼びかけです。

謹んで転載させていただきます。

*****

 なお、ここに行けば、ジェンドリンの音声ファイルもあるんですね。

 以前の記事でも、何と、iTunes Storeで無料発信されているものがあることをお知らせいたしましたが、† tangine †サイトの nanaさんは、「ジェンドリンのオンライン図書館より」という記事で、

Gendlin, E.T. (2007, June). Focusing: The body speaks from the inside.

をお勧めになっています。

 音声ファイルへのダイレクトアクセスはこちら

 今回のBGMはこのジェンドリンの声.....ということで。


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2007/12/05

日本フォーカシング協会webSiteのURL変更されています。

http://www.focusing.jp/

....という、シンプルなものなりました。

 当面、旧アドレスからも自動転送されるはずですが、協会に興味のある皆様、これを機会に、ブックマークの修正をお願い申し上げます。

 私のサイト、および職場サイトのフォーカシング協会へのリンクは、主なものは今修正しましたが、古いまま残っているものもまだあるかもしれません。

その際には今回の記事を思い出していただければ幸いです。


*****


 なおこれに伴い、私個人の本部サイトの方のWebデザインやHTML記述の問題点の幾つかを整理していました。Byte的にはかなりのダイエットになっていますが、それが実際の表示スピード向上にどれだけ貢献したかは、もともと重たいページなので自信がありませんが(^^;)

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2007/12/03

「ありがちな」フォーカシングを超えて(第2版)

 患者にとり気がかりで仕方のない症状との「間」作りは、それが達成された場合、重い荷物を下ろしたときのような一種の安堵感が発生することであろう。
 しかし患者にとり困難なことは、「こういうことも困っており、ああいうことも困っている」という困っていることについてひとつひとつを整理して置いておくことができない点[である]。
 [更に、]より困難なことは、困っている自分についてあれこれ評価を[する際に]、大抵の場合、自分の至らなさという内省[に留まること]である。
 その困っている「自分」について優しさをもって接する類の、それを行なう本人に何らかの形で自己援助的である内省自体が困難であるということである。

  (増井武士 「治療関係における「間」の活用」 p.48 文節が長いので、私の判断で切り分けました)

 増井先生の、フォーカシングへのあてこすり(?)は、じっくり読めば読むほど、微に入り細をうがつ域に容赦なく踏み込んでいる。私はそれを、増井先生の、フォーカシング・インサイダーへの、叱咤を込めたラヴ・レターだと理解している。


*****


 「その感じに、やさしく『こんにちは』と言ってあげてみることはいかがですか?」

 確かに、このガイドの提案に対して、

 「......(沈黙)........その感じ自体は、どうも『こんにちは』と今更言われても.....みたいに、そのようにあいさつされると、むしろ不信の態度を向けてきているみたいです。....後ろを向いてしまいましたね、『そいつ』」

........なーんていうことを、早い段階から、しかも深いところから言葉にできるフォーカサーなんて、あまりにも素質が優秀すぎる域の方でしょう(^^;)


******


 え?

 「そういう時は、"splitされたacknowledging"、そして、"feeling about feeling"でしょ?」

...って?

 確かに中級のガイドの定石です。


「あなたの中のある部分は、『こんにちは』と挨拶されることに不信感を感じているのですね」

「そのように『あなた』があいさつすると引きこもってしまう『それ』の様子に、『わかったよ』と声をかけてあげてみてはいかがでしょうか?」


......こんなあたりですね(^^)

 しかし、重篤なクライエントさんの中には、基本的に自我が弱い方も少なくない。つまり、カウンセラーが受容的に接しただけで、その受容的な空気に「呑み込まれて」しまい、(つまり、「取り入れる(introjection)」という自我機能以前!!)、自分の中の自己受容できなさそのものがいわばsplitされてしまうものです。

 これは、カウンセラー側が、ほんとうは受容できない、漠然とした違和感があるのに、その漠然とした違和感に「はっきり気づいておき」、その違和感との適切な「間」を見いだせないまま受容した場合に、クライエントさんとパラレルに生起する相互作用であるというのが私の考えである。

 その結果、フォーカシングのセッションでフォーカサーが体験するのは、一種の「にせフェルトセンス」ということになる。要するに、実はそのフォーカサーは、リスナーの期待するようなフォーカシングをその場ではしてしまえる場合があるのです!!

 この「ニセフェルトセンス」という表現そのものが、増井先生が、この著作以前の頃、一時期よく学会でも公言され、論文でもお使いの表現なのですが(^^;)。


 要するに、

ニセの受容をしたぶん、ニセのフェルトセンスしか、クライエントさんは体験できないだろう」

と公式化できます。


 体験過程理論用語で言えば、およそ、カウンセラーの促しに対して自分の中に生じた違和感として漠然と感じられ、直接注意が向いてもおかしくない側面は、「暗黙の機能」の領域に追いやられ、フェルトセンスとして感じることそのものが困難という人も、かなり精神的に安定した人すら少なくないと私は思っています。

 こうなると、その面接場面を離れると、殊に重い神経症水準の人の中には、面接の一見「受け入れられた」という感覚が日常の中で容易に「脱錯覚」を起こし(私はこれを「セッション反動」と四半世紀前に名付けている)、空しさや、「いつものような苦しさ」の逆襲に耐えられなくなり、治療者に怒りをぶつけないまでも、何らかの行動化や面接をやめたくなる衝動などという体験となるように思われます。

 私はそれを、「逆転移」であり、うまく「活用」するべしという発想は、楽観論過ぎると言うより、クライエントさんを傷つけた上で治療するという、実はこれ自体、得てしてありがちな「相手を傷つけてはじめて受容する」親との関係の反復強迫(治療者とクライエントさんの双方が実は「構造拘束[structure-bound]的体験様式)にはまっていることに無自覚なだけではないかとも、最近感じ始めた。

(ここまで来ると、私は増井先生より手厳しいかもしれない)

 これについては、かなり以前に、中島みゆきの「エレーン」「異国」について書いた時に言及しました。

 カウンセラーの前で「いい子」でしかいられない(いい子でいるという自覚もない)のが、多くのクライエントさんの出発点なのは全く自然なことだと思います。


****


 こうして、フォーカシング陣営への,、「現場臨床家」増井先生のかけるプレッシャーは、いよいよ舌鋒鋭くなっていくのである。


 しかし、ここはまだ、クライマックスではない。

 序の口である(^^)


(続く)


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2007/07/20

フォーマットを学んでもらうことと、実質的に体験過程を促進すること

 「後輩カウンセラー」さんのコメントに更にお応えしてしまいましょう。以下は、この記事この記事の延長で読んでいただくと幸いです。

 技法としてのフォーカシングを教えるための個別セッションと、通常のカウンセリング場面で有効に活用することと、あるいは、フォーカシングをセラピー的に用いる場合とは、力点の置き方が違うところが出てくると思うのです。

 技法としてのフォーカシングを教える場合には、「フォーマットと、その体験的な意味を身につけ、学んでもらう」という側面を重視せざるを得ません。ですから、ある程度公式的な段取りくっきりと使うことにも配慮すべきということにもなります。

 もとより、そうした場合でも、教示の言葉をに、いつでも誰でも同じような言い方をしてしまうのはいかがなものかと思うのですよね。ところが、多くのガイドの方のセッションを見たり記録を読ませたりしていただくと、この点では一本調子であり過ぎると感じることが多い。それこそ「構造に拘束されて」いる(^^;)。ガイド(リスナー)自身が場のフェルトセンスを感じながら、その時のフォーカサーに「ピンと来やすい」形に、柔軟に伝え方を変えていくということがなされていない気がする。


*****


 例えば、フェルトセンスを感じてもらうために、

「では、それについて、あなたの身体に、『どんな感じでいるのかな』とじっくり問いかけてみて、身体からの返事を待ってあげてみるのはいかがでしょうか?」

.......などという教示、最初は意味がわからなくて当然なんですね。

 フォーカシング学習場面ですらそうなんですから、もしこれを、通常のカウンセリング場面の中でいきなり切り出されたら、クライエントさんを当惑させるだけでしょう。

 クライエントさんの側に、カウンセラーの言うことを理解してもらうために「努力を強いる」なんて、それこそクライエント・センタードではなくて、セラピスト・センタードといいますか。クライエントさんが、自身の感じつつあることの流れに寄り添うことをむしろ妨害する弊害の方が大きくなりかねないわけです。

 だから、今の例で言えば、

「その時の居心地、独特のものだったでしょうね」

などとだけ言葉を返して、あとはフォーカサー(クライエントさん)の反応を少し待ってみる姿勢を示す方が、結果的にしなやかな流れになると思うのです。

 相手の人は、ひょっとすると、フェルトセンスにじっくり触れる中から新鮮なびったりの言葉を紡ぎ出そうとする(体験過程尺度 stage 5から6)というところまではいかないかもしれないけど、少なくとも、その時の気持ちについて更に詳しく細やかに言語化しようとする、stage3から4ぐらいのことははじめる確率はかなりあるわけですね。


*****


 以前も書いたかと思いますが、ガイド役(リスナー)の人がフォーカサーに向ける言葉や態度全体が、ガイドの人が、二人のいる「場」全体を感じながら、フォーカサーの人の身になってみてもしっくりしそうに感じられ、「なおかつ」、ガイドの人自身のフェルトセンスにとってもしっくりと感じられる、新鮮な言語化や態度になる必要性があると思えるのです。単に型どおりのことを教示しようとすれば、ガイドの人自身のフェルトセンスが「違和感」を返してくるのは当たり前だと思うんです。

 フォーカシングに少しずつ身につき始めた人にとっては、教示というのが、お互いに共有できる「符丁化」あるいは「隠語化」し始めていると思うんです。「身体で感じてみて」といわれれば、それだけで「ああいうこと」を提案されているのだと、もう、理屈抜きに、フェルトセンスとして(爆)、その暗黙の全体が直感できるのですね。

 しかし、そういう「ツーといえばカー」的な世界の閉じた人間関係の中でのみフォーカシングを学んでいると、それよりはるかに広汎な人間社会では「通用しない」形でしかフォーカシングを身につけていないことになるかと思います。相手に理解してもらおうと思ったら、相手を「フォーカシング教団」というカルトに入信させねばならないのですね(皮肉が過ぎるかもしれませんが)。


*****


 更に言うと、教示というのは、それを受け取る側にとって、その教示の意図を「理解して」、自分自身に適用するという、結構面倒なプロセスを必要とすることになります。

ちょっと突飛な例かもしれませんが、

「今、道の向こうにいる、マクドナルドの看板の下に立っている人を見てください。あの人が私たちと、ここでおち会うことになっている、Aさんではないでしょうか?」

と言うくらいなら、

となりにいるBさんの方に目をやって、今度は道の向こうの方に視線を向け、そちらを指差しながら、

「あの人じゃない? 違う?」

と言う方が、よほど効率的に、Bさんに通じると思うのです。


******


 そうやって「さりげなく」体験過程に触れるレスポンスをしていくだけで、フォーカサーやクライエントさんに、そういう内面へのかかわりへの姿勢が、その後の日常世界でも持続する形で「身につく」のか? と思う読者もおられるかもしれません。

 しかし、それを言うなら、カウンセリング一般において、カウンセリング場面を離れても、あるいはカウンセリングを終結しても、カウンセリングで体験したことが、その後のその人の日常に影響を与え続けるって、何? と言いたくもなります。「何かを」「なんとなく」身体が覚えていて、身についていて、それが日常場面でも以前と違う自分の内面への関わりや他者との関わりにおいても「何となく」変化を引き起こし、影響を与え続け、現実の中で、そうした結果として生じることが微妙に変化し、正のオペラント強化因子となる、とでも説明するしかないかもしれません。

 そもそも、ガイドとしての技法においても、フォーカサーとしての技法においても、自分なりにパーソナライズしていく形で使い込まれないと、ほんとうに身につき、柔軟に日常の中で生かす形にならないはずです。

 そうやって、自分なりに「ものにした」ものこそが、実は他者にも「ピンときてもらいやすい」形で伝え得る資質ともなるともおもいます。

 そうした意味での柔軟性は、日本のフォーカシング界には、残念ながら、まだまだ欠けていると思うのですね。

 ある意味で、各人が、フォーカシングを自分なりに「おもちゃにする」姿勢が足りないとも言いたくなります。むしそ、そうした各人の営みの中からこそ、「普遍性、一般性」は、立ち現れてくるのだと思います。

 続きはこちら

パーソン・センタード・セラピー -フォーカシング指向の観点から- (バートン著 日笠摩子訳)

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2007/07/19

気持ちは副詞にだって宿っている

 昨晩は、仕事を終えた後、都心に出て、久しぶりに、フォーカシングを学んでいる、ある後輩カウンセラーと飲んで、さっき帰りついたばかりなんですけど。あしたは定休日なので、ゆたっとしてます。

 フォーカシングにおいてガイド/リスナー側の体験過程の果たす役割とか、通常の面接場面でのフォーカシングの柔軟な活用とか、そういう硬い話題だけでむやみに盛り上がったのですが(^^;)、そこで思わず口をついて出た話題。

 以前も、「それって、どんな感じなのかな、ってじっくりと注意を向けてみましょう」式のむき出しの教示はできるだけ使わない方がいいのではないかということをここで書きました。そういう言い方って、いわゆるopen questionなんですけど、実は自分の気持ちや感覚についてopen Questionに答えるというのは、問われた側にかなりの負荷をかける状態なのだと思います。

 通常のカウンセリング場面を例にしますと、

 「.....そしたら、彼、『あのことはどうしたっけ?』って、また私にきいてくるんですよ。きのう言ったじゃない!.....て言いたくなって」

これって、体験過程尺度でいうとstage2、話者の気持ちについての具体的な言及はありませんから。

 こういう時に、「そのときあなたはどんな気持ちでしたか?」なんてカウンセラーが聞くのは少し野暮かもしれないと私は思います(^^)

 もし、一言だけ彼女の言葉で投げ返せといわれたら、


カウンセラー:<「また」?>


とだけ返すでしょうね。副詞にも人の気持ちは宿っているのです!!

すると、

「.....ええ、『また』なんです」

『また』なんだ>

「そう、『また』なんです......(沈黙)」


........みたいなやりとりが続くかもしれませんね。でも、これで彼女の気持ちを汲んだことにはなり、彼女はその時の心境を自分の中で改めてしばらく味わってから、再び語り出すかもしれません。


******


 別の方向としては、こういう時、無難で、ちょっと曖昧なところがある、彼女の「身になった」、気持ちを表す具体的な言葉を一つ投げ返す出すだけで十分なことがあるのですね。しかも、その際、相手の気持ちを言い当てることをねらうのではなく、むしろ相手にある程度修正してもらって、はじめて相手の気持ちにぴったりになるようなあたりの言葉を「差し出せる」のがコツ。 

例えば、

 「ムカついたの?」

すると、


「っていうか(ウン).......むかつくといえばムカつくなんだけど(ウン).......なんていうのかな、ええっと、むかつくというより、あきれたっていうか.......空しくなったというのに近いかも」


 この場合、「.......」の部分で、彼女はその時の自分の感じていたこと全体に触れ直して、味わい、自分の気持ちを表す言葉を再吟味しているわけですね。stage 5、立派なフォーカシングです!!

 これ、例えば女友達同士の会話で、「それってムカつくゥ」などと投げ返すのと似ているけど違います。

 一見、日常会話と同じくらいにしなやかな軽いやり取りのように見えて、カウンセラー側がさりげない配慮をした上で成立している、話を深めていくための、相互作用なんですね。

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2007/07/18

来談しているのが「クライエントさん」である 2

 以前同じようなタイトルの記事を書きましたが、少し違った観点から、ケーススーパーヴィジョンの時に、思ったこと(このネタ、もう、ayuと無関係だから、念のため)。

 例えば、親が鬱病みたいなので、ということで相談においでの方がいたとします。すでにその親は医療等適切な援助には一応つながっているんだけど、どう関わっていったらいいのか困っているので相談においでになった....としますね(こういう相談内容でのカウンセリングも、あり得るのです)。

 こうした時に、カウンセリングの内容が、その鬱病の親御さんの状態はどうであり、親御さんにとって、どういうあり方がふさわしいのか、という方向で、面接がどんどん進んでしまうことがあり得ます。

 こういう時、思い出すべきなのも、「来談しているのがクライエントさんである」という原則なんですね。

 つまり、カウンセラーは「鬱病の親を抱えて困っているクライエントさん」の相談をうけているのだということを忘れないこと。親ではなくて、相談に来た娘さんが主人公であり、親についての娘さんの悩みをきいているのだ、というスタンスを見失わないことです。

 「お父さんと関わる上でどういう時にあなたは困りますか?」

 「お父さんと関わっていて、あなたはどういう時に嫌になりますか?」

みたいな問いかけをしていくこと(少なくとも、そういう観点を抱きながらから話を聴いていくこと)も忘れてはならないのですね。

 さもないと、いつの間にか、その相談に来た娘さんを、いつの間にか、お父さんの治療者として関わる方向にのみより一層引きつけ、より一層悩ませる方向になる場合があるわけです。

 例えば、上記の問いかけに対して

「......お父さんのそういう話をきいていると、私なしではやって行けそうにもないような気がして、これからずっとお父さんの面倒を私がみなければならないのかな......という気になってしまうんです。母は亡くなってるし、結婚したお兄さんは全然面倒見る気がないし、そばにいるのは私だけになるんですよね」

 ここで一転して、話が、

「でも、実は最近彼氏ができたので、彼と会っている時は、お父さんのことを忘れて、気が紛れるんです」

という話になり、

「彼と結婚したら、お父さんのこと、どうしたらいいんだろう......」

という話がはじめて語り出されるかもしれないのです。

 こうなると、「鬱病のお父さんと、自分の恋愛との間で板挟みになっている娘さんの悩み

という側面が、一気にクローズアップされてくることになりますよね。いよいよ、悩みの主体は娘さん自身ということになります。

 面接場面に現れていない、第3者についての相談を来談された方から受ける時、その第3者をいかに援助すべきかについてのコンサルテーションも大事ですけど、その第3者について悩んで相談に来た人の全体を見失わないようにしないとならないわけです。

 精神分析的にいえば、父親と娘さんとの間の転移-逆転移的な相互作用が、今度は順送りに娘さんとカウンセラーの間の転移-逆転移的な相互作用にいつの間にかなってしまうだけに留まらないようにすることとも言えるかもしれません。

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2007/06/29

「究極の」フォーカシング指向心理療法とは?

 カウンセラー側が、面接の場の流れ全体をフェルトセンスとして感じながら(そこには、当然、「クライエントさんが」面接の場の流れ全体をどのように感じているかについて、カウンセラーが、クライエントさんの「身になって」感じていく過程も含まれる)、個々の応答や、面接をどう進めるかについての提案を吟味した上で振る舞い続け、更にその結果、そうしたカウンセラー側からの応答や提案を、クライエントさん自身が実感としてどう受け止めているのかについて照合してもらうように促し、その結果を尊重する方向に面接を進めているならば、その面接過程は、すべて、フォーカシング指向心理療法的面接であるといえるだろう。

 そこで「フォーカシング」だとか、「フェルトセンス」という言葉が使われているかどうか、あるいは「それを身体に戻してじっくり感じてみて下さい」などという教示が用いられるかどうかと言うことすら本質的ではない。

 優秀な行動療法家や、認知療法家、プレイセラピストやダンス療法家、ユング派の臨床家が、こうした点で、実質的には、フォーカシング指向心理療法の原則と結果的に完全に一致したセラピーをしていることなど、いくらでもあり得ることになる。

 ある観点からすれば、フォーカシング心理療法的アプローチは、もはや特定の技法体系ではない。道具立てとしては、「なんでもあり」なのであり、「ただの、必要に応じたカウンセリング」なのである。

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「フォーカシング指向心理療法」とは?

「フォーカシング心理療法」のセラピストというのは、カウンセリングのプロセスを、クライエントさんが感じている、言葉にならない「実感」(=フェルトセンス)と「照合」しながら進めるように、絶えず気配りできるセラピスト(カウンセラー)のことである。

 クライエントさんには、自分の実感が求めて行く方向にカウンセリングを進める「主導権」があるわけですね。

 だから、例えば、クライエントさんが、

「きのう、職場で凄い失敗をして、家に帰ってからもそのことがあとを引いて、きょうまでずっと落ち込んだ気分でいたんです」

と話していて、カウンセラーが、

「試しにその落ち込んだ気分のそばにやさしくたたずんであげることはできないでしょうか?」

という提案(フェルトセンスに触れるための典型的な提案)をした際に、

「......あの、今はその落ち込みに触れて行くより、まずは、きのう職場で何があったのかをじっくり話してみたいんですけど」

とクライエントさんが言い出したならば、まずはそのことをカウンセラーは受け止め、優先せねばならないことになる。

 つまり、クライエントさんの、フェルトセンスに今は触れたくないというフェルトセンス(!)を優先するのが的確である。

 こういう時に、クライエントさんに、「ほんとはその落ち込みそのものに触れなおすなんて嫌なんだけど、カウンセラーの先生が求めて来たことなんだから、そのとおりやらないと」という方向に向かわせないための柔軟な配慮ができるか?


*****


 更にいえば、その後の展開で、

「昨日のような仕事上のトラブルを起こさないためにはどうしたらいいのかの対策を具体的に、(カウンセラーの)先生と一緒に考えてみたいんです」

と,クライエントさんが言い出したら、どうするか?

 「なるほど、では、私とあなた、それぞれが、どんな対策が考えられるか、これまでうかがった話全体を感じなおしてみながら、探ってみるための時間をしばらく取りましょうか」

などというふうにして、沈黙の時間を数分持ち、その後で、まずはクライエントさんの対策案を言葉にしてもらい、続いて、その案の「しっくり来るところ」「しっくり来ないところ」を感じなおしてみてもらうことも出来るかもしれません。

 当然、カウンセラー側の案も、クライエントさん側がそれを「しっくりくるかとうか」感じなおしてもらう沈黙のひと時をお取りすることになるでしょう。


.......このくらい、柔軟でなければならないのが、フォーカシング指向心理療法だと思います。


*****


 このようにこの記事で説明してみるヒントになったのが、この本。


パーソン・センタード・セラピー -フォーカシング指向の観点から- (バートン著 日笠摩子訳)

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2007/06/26

「訊(き)くこと」への注釈

大事な点ですけど、そうやって更に具体的に話してもらうように誘い水をかけて、

「今は具体的なことまでは話したくないです」

とはっきり言われたら、それ以上深追いはしないで取り下げる、という原則はもちろん重要だと思います(^^)

いさとなれば具体的なことまで話につきあう用意がある、ということが伝わることが大事で、聞き手の個人的な関心のためだとか、「話さねば始まらない」式の強制と受けとられては意味がありません。

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またもや「訊(き)く」問題 -体験過程尺度との関連で-

 「訊く」のテーマ、ひたすら引っ張ってますが。

 以前、体験過程尺度(Experiencing Scale) という、クライエントさんの話の深まりについて、面接の逐語記録と録音記録に基づき、第3者が7段階に評定する尺度があることについて、架空の実例に基づいて示した。


 その中のStage1からStage4までをとりあえず手短にもう一度紹介すると、


●Stage1:新聞の報道のような第3者的叙述。話者自身(「私」)は登場しない。

●Stage2:話題の主人公は「私」であるが、「私」の気持ちについての明白な叙述はない

●Stage3:「私」の気持ちについても「挿入的に」語られる。

●Stage4:話題はもっぱら「私」の気持ちそのものである。


 「体験過程インタビュー」という手法がある。これは、体験過程を次のStageに高めるための喚起的な問いかけをカウンセラー側がしていく技法である。これに従えば、例えば、


Stage1→Stage2 : 「その時、あなたはどうしていたのか、もう少し話していただけますか?」

Stage2→Stage3 : 「あなたはその時どんな気持ちでいたのか、もう少し話していただけますか?」 

Stage3→Stage4 : 「あなたはその時感じていたその『悲しい』気持ちについて、もっと話していただけますか?」


などといったものが典型だろう。


 これに、 最近述べてきた、私の言う意味での「訊く」という機能を対応させると、この中の前二者、つまり、もっぱらStage1からStage2、Stage2からStage3に相当するクライエントさんの発言を、より詳細にしてもらうといううことである。

 いや、それどころか、stage1のまま、特定の話題について更に詳しく話をしてもらうだけでも、「訊く」ことになるのだ。例えば、「お母さんって、どんな人なの?」と問いかけた結果として、お母さんの過去の生い立ちについて詳しく語ってくれても、それが話者自身や話者自身の気持ちについての言及を全く含まないことがあり得る。しかし、私は、そういうstage1を更に話してもらうだけで、大きな意味がある場合があると敢えて言いたいわけである。

 普通に「身の上話」を対話している場合、少なくともこの中のstage 3までならごくあたりまえに到達できる人が多いため、こうした「体験過程尺度の低いステージが持つ意味」について積極的に検討されることが少なかったようにも思える。

******

 次のような仮定に立ってもいいのではないか? 

「より低い体験過程水準が、カウンセラーとの対話の中ですでに十分に実現されていることが、より高い体験過程水準が面接の中で十分に機能する上で必要である」

 もし、その人が、Stage1からStage3までの「低い水準の」体験過程レヴェルで、その時点で、語り得る話を、カウンセラーとの対話の中でそこそこには共有しないうちに、stage4以上、つまり、具体的感情ついての話を繰り広げることには、実は無理があるのではないか???

 ちなみに、フォーカシング、つまり、自分の中の漠然とした言葉にならない感じに注意を向けながら語る言葉を吟味していこうという姿勢が喚起されている状態は、Stage5である。

****

 実は、このことが、特に、フォーカシングを基本として学んで、現場臨床の技量を高めていくカウンセラーに(そのすべてではないにしろ)、カウンセリングスキルの上で、ある基本的な偏りを生み出す可能性があるのではないか????

 フォーカシングを学んでいると、Stage5に到達しているかどうかばかりに関心が向きやすくなるのである。

 ところが、生産性の高い面接過程ですら、1回の面接の中でStage5に乗る瞬間は、ほとんど全くないか、出てきてもホンの限られた箇所というのは、ごく普通である!!

 それどころか、「フォーカシングは、自分の悩みの細かい内容について相手に話をしなくてもすることができます」とすら吹聴されている(^^;) このことが、フォーカシング関係者に、低い体験過程水準で相手に話をすること、あるいは、そういう話し方をする人間に延々とつきあって聴き手になることを回避する傾向を生み出している場合もあるのではなかろうか???

 しかしそれは、ひょっとしたら、stage4までの対話を十分にうち解けて繰り広げられた上で成立したクライエントさんとカウンセラーの関係性における、十分に安定した「基礎」ないところで更に高い水準を目指してしまうという「無理」を生み出している場合もあるのではないかとも思える。

 体験過程水準は「上げれば」いいものではなくて、「上がる」ことを可能にする、低体験過程水準でのコミュニケーションによる「なじみ」も、ことフォーカシングの「技法としての」習得それ自体を目指すわけではない場合関係性の上で必要であるという仮定である。

 恐らく、これが、通常のカウンセリング的な面接と、最初から「フォーカシング」のフォーマットのもとになされる相互作用の大きなギャップとなっている場合もあるように思う。

 もとより、フォーカシングにおいても、気がかりな事柄そのものについての十分な傾聴は、リスナーにとって本来基本である。何らかの意味で、カウンセリングや心理療法的側面がある形でフォーカシングのセッションを行い場合には、「フォーカシングしてもらうこと」よりも、まずは、フォーカサーの話を傾聴することそのものに時間を費やすばかりになっても、状況によってはやむなしという判断をリスナー/ガイドはできる必要がある。

 しかし、場合によっては、体験過程水準でせいぜいStage2の水準の話を、フォーカサー(クライエントさん)にもっとしてもらうように促すことがむしろ生産的という場合もあることについて、再認識してみるのも意味があるのではないかと思える。

以前書いたこの記事もご参照下さい。


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カウンセラーが、「これを訊いたらクライエントさんを傷つけるのではないか」と感じる瞬間

 前回の「訊(き)く」論再論への更なる補足。

 少なくとも、カウンセラーが、「これを訊いたらクライエントさんを傷つけるのではないか」と感じる瞬間に、それをはっきり「自覚する」(アンのフォーカシング用語で言えば"acknowledge"する)ことは大事ではないかという気がする。

 一般に、

「これを訊いたクライエントさんを傷つけるのではないか」

と感じる時というのは、

「それを聞いて(敢えて文字を使い分けている)しまうと、自分(カウンセラー自身!!)が動揺して(傷ついて!)しまうのではないか」

という恐れが「投影同一視」されたものである可能性は、考量して見る意味があるのではないかと思う。

 「ひいて」いるのはカウンセラーではないかということ。

 クライエントさんが、その,カウンセラーの側の微妙な「引き」を、非言語的に覚知して、それ以上話すのを引っ込めるということは大いにあり得る。

 少なくとも、クライエントさんの側に、そういう「踏み込んだ」話をしようとすると、相手が「無関心な態度を何となく示して来る」という、歪曲された(?)認知(これ自体投影同一視)が日常の中で固執されている可能性はある。

 .....恐らく、これは、多かれ少なかれ、両者の「共謀」だろう。


*****


 .....少なくとも、カウンセラーの側が、

「ここから先まで『立ち入って』話を聞くことに躊躇している自分がいる」

ことをはっきり自覚してしまえば、それでカウンセラーは自己一致しているのである。

 それだけで、カウンセラーからが、更にその件について具体的に話してもらうように促さなくても、どういうわけか,クライエントさんは、そこから先の話を自分から語り出すかもしれない!!

 なぜなら、クライエントさん自身も、その瞬間に、「躊躇している自分」と向き合い、受容する方向に、関係性の中で、何となく、なってしまうから!!

 ........論理的ではないが、そんな気がする。

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2007/06/18

カウンセリングの中期目標:どのカウンセラーからも有効な援助を「引き出せる」クライエントさんになっていただく援助がすでにできているか(第2版)

 クライエントさんとのカウンセリングで「何をめさずのか」?

 どこまでいったら、カウンセラーとして必要にして最低限十分な役割を果たせたのか?

 そういう、カウンセリングの「目標」についてのひとつの逆説である。


「何らかのやむを得ない理由(転居・勤務地の変化等)で、クライエントさんとの関係を終結せざるを得なくなった時でも、クライエントさんが、ある一定水準を満たしたカウンセラーとならば、有益なカウンセリング関係を築き、自分への援助の場として生かすことができるような水準の自我の形成には貢献していること」

 .....つまり、新たに出会うカウンセラーとのカウンセリングの機会を「うまく生かせる」クライエントさんに成長してもらえているかどうかではないか?

 もちろん、これは、クライエントさんとの関係の中で、意識的に「治療目標」として共有する性質のものではないでしょう(^^;)

 しかし、自分のクライエントさんが、「いざとなれば自分でないカウンセラーとも好い関係を作れる」ところまではお手伝いできているかどうかという問いを、カウンセラーは自問し続ける「責任」があると思う。

 カウンセラーから治療的・援助的な力を「賦活」し、引き出す「キュー出し」のコツをわきまえたクライエントさんになってもらえることを暗黙のうちに援助することを優先課題としておくことは、クライエントさんへの最大の専門的サーヴィスだと思う。

 現実には、その人の成熟過程を「最後まで」見守ることなど、現実のカウンセリング関係の中では必ずしも多くないはずである。

*****

 これは、ある、クライエントさんとの面接の継続を終えざるを得ない事態を勤務地の変更で数回後に控えたカウンセラーの方へのスーパーヴィジョンの際に、私の中ではっきり言葉にできたことである。

 これまで、自分が漠然と思い描いており、留意しており、言葉にはできていなかったこと。

 現場臨床的にいえば、クライエントさんの「自我の確立」とか「自立」というのは、取りあえずこの水準を目指していてこそ当然ではないかと。

 自分とそのクライエントさんとのカウンセリング関係が円満な終結まで継続することを前提として、親からの「精神的な」自立などという、雲を掴むような長期目標を掲げるよりは、よほど「具体的」で「現実的」な、無理のない「中期目標」だと思う。

 この考え方は、今後カウンセリングが社会の中でひとりひとりの人にいろいろな形でアクセス可能な援助資源となると想定される中で、カウンセラーが念頭に置くべき、専門家としての基本姿勢だろう。

 クライエントさんにとって一番貴重なのは、必要あればいろんな形でいつでも「利用」できる、カウンセラーなる人種から、最良の援助的な専門的能力を「引き出す」スキル(および、カウンセラーからの「反治療的な」働きかけを「抑止」したり、「無害化」するスキル)ということになろうから(^^;)、それを引き出してくれたカウンセラーが、一番「汎用」の援助をしたことになるのである!!


***** 


 あまりに逆説が過ぎて、ここで私が言わんとしていることにピンと来て下さる方は、カウンセラーの方々でも限られているかもしれないとは思いつつも......

 まして、クライエントさんからすれば、自分が援助を求めようとしているカウンセラーが「自分がカウンセラーでなくなった場合でもクライエントさんが別のカウンセラーとやって行けるように」などという意味のことを書くと、「この人はしっかり引き受けてくれるのだろうか」という不安を呼び起こしてしまうかもしれない。

 私が申し上げたいのは、シンプルなことである。クライエントさん自身、そしてひとりの社会人としてのカウンセラー自身、いつ何時、転居などの不測の事態でカウンセリングの継続が不可能になるかもしれない。そうした事態を常に想定しておく必要があるはず.....ということでもある。

 (もっとも、特に開業カウンセラーの場合、一度ある場所で開業したら最後、通い始めたクライエントさんとに面接の継続性を保証できる形で開業し続ける責任があると考えます)
 
 もう一点は、医師を含めて、援助的専門家に援助を「うまく」受ける力全般を高めることこそ、「街のカウンセラー」の「すき間産業」的意義と信じるが故。

 大事なのは、「できる援助を最大限にする」ことであっても「自分こそがこの人にとって『かけがえのない』援助者としての全責任を背負い込むこと」ではない。

 カウンセラーですら、その人の問題解決と変化と成長の一因子(多くてもたかが168分の1)に過ぎない。

 クライエントさんは、それ以外の膨大な「資源」(resouce)を活用して、はじめて活路を開き、変化していくのである。そうした、クライエントさんの「資源」活用力を高めるアシストをカウンセラーはできているかどうかに自覚的である必要があると思う。

 そのことを俯瞰してこそ、「されど168分の1」としての機能を最大限に果たせるのだと思う。

 こうした発想の基本に影響を与えたものとして、私の場合、中井久夫先生の影響は大きい。

 例えば、意外かもしれないけど、この本。

「治療文化論」
 

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2007/06/14

面接の中で、生まれてこのかた言葉にしたことがない「何か」に言葉を見つけようとしているクライエントさんに、つきあえること。

 架空のカウンセリング(あるいはフォーカシングのセッション)の実例です。


「昨日、そのごたごたがあって以来、私の中にはずっといやな気分があって、寝るまでずっとそれを引きずっていたんです」


などとフォーカサー(クライエントさん)が語っていたとしたら、私は


何か『独特の』イヤーな気分がすっとそこに感じられていたんですね>


とだけまずは言葉を返します。


「ええ、ずーっとあったんです。『それ』は」

<なるほど、『そういう』感じは、ずーっとあった>


ここで私はしばらく沈黙して、相手の方の反応を待っています。短くても30秒は待つでしょう。


「よく『そんなふうな』気分になるんですよ」

<ああ、『そんなふうな』気分にはよくなるんですね>

「ええ.....」


また沈黙です。

こういう場面で、フォーカサー(クライエントさん)が沈黙できる時の多くは、好ましい沈黙であることが多い気がします。「この人は沈黙の中で感じに触れながら、大事な何かをしている」という感触が場の空気からも伝わることが多い。

別の観点から言うと、ひょっとしたら、この人はそういう時の心境や、その日の昼にあったごとごたそのものについて、もっと具体的に話してしまう方が流れ的に自然かもしれない。そういう機会を与えるため、待っているということでもあります。

30秒後。

「もう、うんざり、といいたくなってしまって」

<何か、もう、うんざりといいたくなる>

「ええ」

『そういうふうな感じ』が、何かそこにはある.....>

こういう時、私はわざと「うんざり」という言葉の鸚鵡返しを「更に」繰り返すことは控えて、再び『直接指示語』的な「そういうふうな」といった言葉にまで、伝え返しを引き戻してしまうことすらあります。それは、この人は、「うんざり」という言葉を口にしていますが、それがフェルトセンス(言葉にならないあいまいな感じ)全体をつなぎとめる言葉とまではいえないことも少なくないので、あくまでも、フェルトセンスそれ自体を感じることをその人に維持してもらいことを優先するのです。

間違っても、ここで、


「うんざりという言い方で、ぴったりでしょうか?」


などと問いかけたりはしません!!

でも、しばらくすると、


「......やっぱり、『うんざり』というしかないかなあ.....」


....ほら、自分で照合してますって(^^;)

私は、このへんになって、はじめて、


<どうでしょう? あなたが、きのう、そのことがあってからずーっと感じていた、『その』、何か「うんざり」みたいな感じには、一種独特の、感触というか、質感みたいなものがあると思うんですけど、それを身体の実感として感じてみることはできるかもしれないんですけど.....>


.....などという「提案」を、「控えめに」してみるわけですね。

私は、よほどフォーカシングに慣れた人相手でないと「身体の感じ」という言葉そのものを安易に使いません。フォーカシング関係者にだけしかわからない「符丁」みたいな「暗号」は意地でも使うかと思っているのに近いかも(^^;)


「.....そうねえ、独特の、感じ、あるよねえ.....うーん.....」

<何か独特の感じがそこにはある>

「そう、あるんです.....」

また30秒沈黙。

すると、

「あのー.....」

<何?>

「さっき、身体の実感って言われましたけど、どういうことかよくわからなくて」

<例えば、気分というか、居心地というか、雰囲気みたいなものでいいんですけど>


こういう時、私は「身体の」という点に拘泥されてしまう危険からむしろ一歩引き下がってしまうことが多いですね。「身体の感じ」とは何かについて、「説明して」「わかって」もらおうとするなんて「論外」と思ってますので(^^;)


「......そうねえ、あるよねえ.....独特の『居心地』......」


<何か独特の居心地があるのは確かなんですね>

「.......『うんざり』.....かな、やっぱり.....」

<ああ、『うんざり』かな、やっぱり.....と。言葉にするとすれば>


この瞬間、一見やりとりが元に戻ったみたいですけど、これくらいで焦ったり、それこそ「うんざり」しはじめるようでは、リスナーとしてまだまだですよ(爆)

私もここで「言葉にするとすれば」などと、さりげなく「照合」にあたることをアシストする一言を加えているのをお忘れなく。


「.....いや、『むしゃくしゃする』」

<『むしゃくしゃする』>

「.....そうね、『むしゃくしゃする』の方がいいね.....」

<ああ、『むしゃくしゃする』の方が実感に近いんですね>

<そうです。うん。『むしゃくしゃ』ですね、うん>


.....こうして、結構フォーカサーは自分で照合するものなんです、


このへんでやっとわたしは、


<では、どうでしょう? その『むしゃくしゃ』みたいなものが、身体のどこかを中心として感じられているとすれば、どこら辺かな?と注意を向けてみることはできるかもしれないんですけど....>

「『身体のどこかに』ですか?」

<そう。からだのどこかに、その『むしゃくしゃ』の中心というか、コアみたいなものがある、と仮定してみるわけですね>

「なるほど。ちょっと待ってください.....(30秒沈黙).....あの、『むしゃくしゃ』と関係あるかどうかわかんないんですけど、何かそうやって注意を向けようとしてみたら、何かおなかの辺りに、感じが出てきたんですけど」

<ああ、『むしゃくしゃ』と関係あるかどうかわかんないんけど、おなかの辺りに、何か、『ある感じ』が出てきたんですね>


「ええ.....(1分沈黙).....」


私はこういう時、機械的に、「では、その感じに、ああ、そこにいるのはわかったよ、と声をかけてみるのはどうでしょうか」とか、「では、その感じのそばにしばらく一緒にいてあげてみるのはどうでしょう」などと言い過ぎないようにしています(^^;)


<おなかの辺りの感じは、今も感じられ続けていますか>

「あります......」

<さっきと同じような、ある一定の感触の感触を持つものとして、ずっとそこにあるわけですか?>

「同じ.....ではないけど、さっきのの延長ですね。さっきより何かくっきりしてきた」

<ああ、さっきよりは何かくっきりしてきた>

「......そうです.........『ぐしゃぐしゃ』ですね、『ぐしゃぐしゃ』。」

<『ぐしゃぐしゃ』>

「......うん、『ぐしゃぐしゃ』です。まるでまるめた紙くずのように、おなかの『このへん』(指差す)にあるんですよ」


********


.....とりあえず、こんな調子です。

どんな感じか、言葉にすることを急かすような形にならないための配慮の一端が伝われば幸いに思います。


******


以下の論考をご参照ください。

田中秀男 「直接のレファランス」の「直接の」って? ~「レファランス」と「照合」の異同を見定める~ 日本フォーカシング協会ニュースレターThe Focuser's Focus Vol.7,No.2,2004.

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2007/06/09

明日は「私設心理相談」研修会参加

 明日は、東京・駒込の大正大学で、日本臨床心理士会の「私設心理相談」の研修会があります。

 午前10時には会場に着いていなければならない性格上、今日は夜更かしは自重したいので、「今週のベスト20」発表はまる一日延期、日曜の晩にします。

 私設(開業)心理臨床というテーマで、日本全国から臨床家の皆様が集まる場が、どのようなものになるのか、まさにこの領域の固有の問題について具体的な議論が盛り上がる場となることを期待しています。

 おそらくひとつの大きなテーマになるのは、臨床家の倫理と法律の問題だろうと想像しますが、経営的なたいへんさだとか、新規にこの領域に踏み出す際に、クライエントさんをどう開拓するか、普段の広報宣伝活動をどうしているのか、などという「現実的な」ホンネの部分での意見交換がどんどん出てくる場になって欲しいなと思っています。

 その内容についての感想も、このブログで何らかの形で報告させていただきたいと思っています。


*****


 一般の読者の皆様の目にどう映っているかと思いますが、日本では、純粋に開業だけで生計を維持している臨床心理士はまだかなりの少数派といっていいはずと思います。この辺、欧米の映画とかに出てくる「精神分析医」みたいなイメージをもたれてしまうと全然違うんですよね。

 いつもいいますけど、少なくともフォーカシングを「表看板に掲げて」開業している「常設相談機関」は、日本・精神技術研究所のオープン・プログラムを別にすると、不詳私の「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」日本最初かつ現在でも唯一のはずです。個人的な面接を結構引き受けておられて、そこでフォーカシングを活用されている方は他にもあるかと思いますが.....

 もっとも、いつも申し上げているように、私のポリシーとして、通常のカウンセリングにおいて、私の方からフォーカシングをお薦めすることは全くしていません。これはお題目ではなくて、本当に現実にそうなのです。

 私は、流派や療法の違いによって、カウンセリングの優劣があるなどというのは全くの幻想だし、ある特定の症状だとか病理水準の人にある特定の心理療法が効果的ということすら全く信じていません

 そのカウンセラーにとっての主たるオリエンテーション(拠って立つ基盤)というのは、あくまでも、その臨床家が、専門家として成熟していく上で、いわば「てこの支点」となったものであるに過ぎないと思っています。

 いわば、「町の開業内科医」のようなスタンスとしての「街のカウンセラー」というものがある気がしてならない。クライエントさんの守秘義務を尊重する形で、精神神経科や心療内科の専門病院・クリニックや、地域精神保健、公的な教育相談や児童相談、そして教育機関やスクールカウンセリングと緩やかに連携し、そうした機関とのクライエントさんとの関わりや活用をサポートしつつも、それらと競争関係にあるのではない、敷居の低い開業カウンセリングというのがあり得ると信じています。

 こうした、まだまもなく開業2周年にすぎない私の発想をいかに具体化するか、開業の先輩方の知恵を借りながら、吟味する場になることも、研修会に期待しているのですが。

*****

 【追記】:研修会に実際に参加してみての感想は、こちらの記事を筆頭として、いくつかのトピックを書いてみるつもりです。

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2007/06/08

クライエントさんは自分の抱えている悩みのすべてを話しているわけではない。

 以前、「週に一度、1回1時間、カウンセリングに通っているクライエントさんは、全生活場面の中の、たったの24×7=168分の1の時間しかカウンセリング場面に関わっていないのに、その1時間で、その1週間ばかりか、得てしてそれまでの長い年月をかけて形成された来た自分の悩みについて物語らねばならない立場にある」という、ことを話題にした。

 そして「たかが168分の1、されど168分の1」ということをいかに受け止めておくかということが、カウンセラーの基本姿勢として重要であることを示唆したつもりである。

 しかも、日本の現実では、毎週確実に1時間を継続的にカウンセリングに通うということが、時間的・経済的にみて無理がないケースはごく限られている。その分、何らかの意味で日常の時間とお金と労力をを削っている。それだけの時間をカウンセリングに費やすということだけでも、家族や関係者の理解と協力が必要であり、仮に周囲に秘密のままカウンセリングに通うとすれば、そのことそのものがストレスとなる。

 そして、カウンセリングの場所に通う、あるいは寄り道をするということで1時間を必要としないという恵まれた環境にいる人も稀である。

 私は、こうした事柄全体をカウンセリングのベーシックな「副作用」の基本に置くべき、という考え方を以前示した。

 恐らく、歯医者さんで治療の対象となる歯の疾患の悪化の原因の5割以上は、「歯医者に通うのがめんどくさくて放置した」ことに起因する、というのはけっして大げさな言い方ではあるまい。治療に通うこと自体のたいへんさそのものが、最初に克服されるべき「治療的副作用」であるという言い方は、ひとつの思考実験としてやってみる価値があるはずである。

 カウンセリングルームで待機しているカウンセラーは、カウンセリングルームにクライエントさんが現れたその時を以てしてはじめてクライエントさんとのカウンセリングの開始のイメージを持つ。しかし、カウンセリングにクライエントさんが現れた、それだけで、クライエントさんは、数々の「障害」をやっとの思いで突破し、ひとつの大仕事を成し遂げているのである。


*****


 敢えてひとつカウンセラーの人たちに問いかけてみたいのは、自分が、自分個人の悩み事で、カウンセラーのカウンセリングを受けてみることを具体的に考えたことがあるかどうかである。

 そのようなことは、カウンセラーとしてのプライドに関わる、あってはならないこととお考えだろうか?

 医者であれば、自分が病気にかかれば、他の医者の診察や治療も受けるし、入院もするということに違和感はさほど感じない気もするが。

 いずれにしても、それまで全く赤の他人だった人間に、お金まで払って、自分の抱えた悩みや問題を一からわずか1時間で物語るということが、どれだけたいへんで、葛藤があり、一種不全感を残しやすいものであるか。
 
 カウンセラーにどのような目でみられるか、受け止めてもらえるかを気にするあまり、脳裏に浮かんでも話すのを回避する事柄がどれだけあるか。思わず、たいしたことないかのように話したり、時には見栄を張ってウソを言ってしまう部分がどれだけあるか。ほんとうは、より深刻な問題である可能性を心のどこかで感づいていながら、その問題については全く「かわして」、より解決が平易そうな問題のみを語りたくなる誘惑。

 そして、聴き手の専門家の側が、自分がそうやって思わすバイアスをかけて話した中身の内容だけを「真に受けて」そこに絞り込んで応対してきた時の居心地悪さ。あるいは、自分としてはさして重要とは思えない点にのみカウンセラーが拘泥し、そちらの方の話題にばかりカウンセラーが関心を向けてくるのに漠とした違和を感じつつも話を合わせて1時間終えてしまった時の「偽りの和やかさ」を敢えてくつがえす方向に、面接時間の終わりになって、あるいは次回の面接時に話を逆転させるのに、どれだけの決心とパワーがいるか。

 自分の抱えた問題の全体とそこで生じている心の動きについて言葉にしようとしていく過程で、実は自分がどれだけ問題全体をわかっていないか、混乱しているか、語る言葉を見いだせていないか、あるいは、いざこうやって語ろうとすると、日常の中で感じるような深刻みと切迫感が薄れてしまい、「わざわざこういう場で語るほどのことなのか?」という非現実感に突如襲われることがある。


*****


 .....思うに、真の意味での「クライエント中心」とは、こうしたこと全体に対する共感的想像力の全体を含むものであるはずである。

 それらの多くは、語られる必要が最後までないままかもしれない。無理に引き出す必要もないものかもしれない。しかし......


BGM:浜崎あゆみ/浜崎あゆみ - Secret - until that Day..."until that Day..."
  

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2007/06/01

壺イメージ療法 -「容れもの」「置き場所」を想像してもらう技法- (1)

 さて、しばらく記事の本格更新を無理してしないまま、一息つかせていただくモードでやってきましたけど(それでも昨日280アクセスおいでいただいていたことに感謝します)、そろそろ復活です!!

 「このブログで書いているようでいて、書いていなかったことを書こう」シリーズ。

 私が敬愛する、田嶌誠一先生「壺イメージ療法」について、はじめて、正面から、書いてみます。


****

 
 この「壺イメージ療法」、ある意味では、現場臨床家の間では、フォーカシングよりメジャーです。いわゆるロジャーズ派(来談者中心療法)カウンセリングの流れにあるわけではない人ですら、これだけは現場で必要があれば使いこなしているカウンセラーの方々に結構巡り会えます。

 この技法、フォーカシングとの関連で語られることも少なくないんですけど、むしろ田嶌先生の師である成瀬悟策先生(催眠療法、臨床動作法でも著名ですが)のイメージ療法の流れを汲んで、田嶌先生が独創されたととらえる方が歴史的には正確です。

 この技法について詳しく述べた単著、「壺イメージ療法 -その生い立ちと事例研究-」(監修:成瀬悟策 編著:田嶌誠一 創元社)は、この技法の成立過程と詳しい解説、様々な実践者による詳細な事例報告、そして、ゲシュタルト療法の倉戸ヨシヤ先生、中井久夫先生、増井武士先生、そして我が師、村瀬孝雄を含む豪華キャストによる座談会が収録されており、一冊でこと足りる充実度という点では、現在でも代表的文献といえるはずなのですが.........数年前から、絶版です。

 田嶌先生が、壺イメージに留まらない、イメージ体験一般を含める形で、より幅広い読者層を対象にお書きになった「イメージ体験の心理学」(講談社現代新書)も......困ったことに絶版です(^^;) 田嶌先生ご自身、この現実をお嘆きなんですが。

 もちろん、アマゾンの中古市場で手に入ります。しかし、新書刊の後者はともかく、前者は、ご覧の通りの高値がついています(;;)。....それだけ、臨床関係者で、欲しい人はすごく欲しい本なんですけどね。


*****


 さて、この技法、臨床家一般には、「クライエントさんが面接の中で語る困難な問題や、表出された苦しい衝動、怖いイメージとかについて「封印」するための「壺」を思い浮かべてもらう技法、であるかのように、臨床家の間でもとらえられている場合があります。

 そのような用途にも使えるのですが、田嶌先生が技法体系化した本来のやり方からすると、それは「応用問題」であるに過ぎません。

 以下に、技法の本来の流れについて概説します

(基本的には前述の前者の方の著作のp.55以下に書いてある「標準的手続き」を要約していますが、若干阿世賀なりの示唆も含めています)


1.導入

*リラックスしてもらう(通常は目を閉じる)

*目の前に、心の中のことが少しずつ入った、いくつかの壺(あるいは壺状の「容れもの(瓶・箱・袋など)」が出てくると想像してもらう。

*壺が(ひとつ)出現したら、治療者は「どんな壺?」などと尋ね、その形・大きさ・材質・色などについて言語化してもらう。

*壺のイメージそのものが浮かばない人には「壺があるような感じ」を味わってもらい、「あるとすれば、どんな気持ちか」を言葉にしてもらうだけで十分なこともある。

*それをどこに置いたらいいかを尋ねる
(阿世賀注:自分の前のどの辺という距離感でもいい。左右の位置を優先するクライエントさんもあろう。積み上げるという人もあるだろう。必ずしも真正面ではなくて、斜め前とか真横とかでもいいことを示唆する方がいい場合もある)。

*ひとつの壺(状のもの)についてこれをやってもらったら、他にも壺が出てこないか探してもらう。そして同様に形等について尋ね、置き場所を見つけてもらう。(一個だけのままでもいい)

*(阿世賀注:ひとわたりいくつもの壺について、形等を尋ねた後で、置き場所や並べ順を見つけてもらう方がいい場合と、ひとつの壺ごとに形等を尋ね、置き場所を見つけてもらうことをワンセットにしたほうがいいい場合があるようである。こうした場合、先に置いた壺との位置の相互調整も許容する方がいい場合も多い)

*いくつもの壺と、その置き場所を見つけても、まだ何か、壺という形にならない気分やモヤモヤなどがあるという表明が自発的になされた場合には、それを入れておく壺状のものを敢えて想起してもらうように示唆するとクライエントさんの役に立つことがある。


2.壺に「ちょっとの間だけ」入ってみてもらい、すぐに出て、蓋をしてもらう。

*クライエントさんが「入りたくない」「入れない」という壺には、入らないまま、後述の、蓋をしてもらって続きに進んでいい。

*壺に入れたクライエントさんについては、「どんな感じですか?」と尋ねると、「.....な感じです」「......が見えます」などという答えが得られることが多い(気持ち、身体感覚・壺の中の空気感・雰囲気など)。「何も感じられない」という応答もそのまま受け止める。

*この段階ではじっくり味わう必要がないことを示唆し、その壺の中に感じやイメージを残したまま、壺の外に出てきてもらう。

*蓋については、クライエントさん自身が気持ち的に落ち着ける状態になれるやり方を自由にイメージしてもらう。「栓」のようなものを連想する人、板状の何かを乗せる人、何かで「覆う」というのに近いのがしっくりくる人、蓋を紐などで更に縛りたくなる人など、クライエントさんなりにいろいろ自発的工夫の余地があることを、あまりに先取りしすぎない範囲で治療者側が示唆する方がいい場合もある。「蓋をしないままでいい」という人もそのまま受け止める。

*壺への「入り心地」の実感を参考にして、壺を並べる順序や並べ方を再調整してもらう。

*最初から入ろうとしないままの壺があっていい。多くても2,3個でよく、このへんはクライエントさんと相談して決める。


3.壺の中での感じをじっくりと味わう

*一番入りやすそうな壺を選んでもらい、今度はゆっくりと、長く入ってもらうことを示唆する。

*入れたら、クライエントさん自身がもう十分と思うまで味わってもらう(どのくらい入っているかは、クライエントさんのペースで判断してよく、無理に入り続ける必要はないことの示唆はあっていい)。

*治療者は、「どんな感じですか」と尋ね、気持ちや身体感覚やイメージを言語化してもらう。感じや気持ちが変化したらそれも言葉にして行ってもらっていいことを適切な瞬間に示唆する方がいいことも多い。

*万が一、中から出られないとクライエントさんが訴えたら、出るための工夫についてクライエントさんと話し合いながら工夫する(もっとも、入るまでの段取りが、クライエントさんのペースを尊重した、性急さがないものであれば、滅多にこういう事態は生じない)。

4.壺から出たら、改めて蓋をしてもらう。

*壺を出た後でも不快な感じが残った場合には、
  「同じ壺に繰り返し入り直す」
  「楽に入れた壺に入り直す」
  「その不快感を入れておく容れものを改めて見つける」
などの工夫を、クライエントさんと話し合ってしていく。


5.(特に)不快な体験をした壺については、蓋のしかたや「置き場所」について、クライエントさんが気持ち的に楽になるやり方を丁寧に見つけていく援助をする。

(阿世賀注:例えば、蓋をした壺を桐の箱に入れ、それを耐火金庫にしまった上で、その金庫を土深く埋めたいという人もあるかもしれない。こうした際に「何メートルぐらいの深さか?」などと具体的に尋ねてみたり、「埋めた後の土の表面はどうする?」などと敢えて尋ねてみることが援助的な場合も多い。田嶌によれば、「金庫の鍵は私(治療者)が預かる」などの工夫もありという)


※ 以上、4.-5.を、入ってもいいと思える壺について試みる。


6.次回この面接室に来るまでは、壺を自分で開けたり中に入ったりしないことを約束。


※なお、この技法は、日常現場臨床的に言えば、1.の「壺を思い浮かべ」「蓋をみつけ」「置き場所を見つけてもらう」までの部分だけで十分な効果があることが多く、2.-4.の「壺に入って感じてもらう」部分までやってはじめて意味があるわけではない。2.-4.は飛ばして5.でクロージングするので十分なことが多いことに注意すべきである。

 田嶌先生ご自身も、短いセミナーなどでは、2.ー4.を省略して講義と実習をされる場合も結構おありのようです。

****


 セラピーのキャリアがある人には想像がおつきかと思いますが、この技法が安全に進むかどうかの鍵は、治療者とクライエントさんの関係性にあります。

 治療者が強制したり、誘導したりする形になるのは避けるべきです。クライエントさんのペースに随(つ)き従う態度が重要です。

 そうすれば、クライエントさんや治療者が混乱したり、後味が悪くなるような展開そのものが出てこないもののように思います。この点は田嶌先生も言及されています。「段取り」だけ技法として学んでしまうとしくじるという点では、一見フォーカシングよりも技法的手順がわかりやすいこの技法の場合でも全く共通だと感じています。

 精神分析的に言えば、治療者=クライエント間に「抱え」の構造ができていれば、クライエントさんが体験する壺(=ビオンの言う"container")との関わりのプロセスも、安全なものになる。これは自然の成り行きです(田嶌先生自身、ビオンの概念とについて、最近学会で言及されました)。

 それと同様に、クライエントさんの自発的な「拒否能力」「工夫する能力」「(治療者に)注文をつける能力」(後二者は、田嶌理論の基本概念として著名)の発揮を尊重し、喚起する姿勢は大事です。治療者が「こんな工夫もできるし、こんな工夫も...」などと、具体的メニューを「列挙」するのが「先取り」になり過ぎてもよくありませんし、かといって、反対に、クライエントさんが何か言い出すまでじーっと待ってばかりで「放置」するのも良くないのですね。

 「壺は嫌です。段ボールの箱」といわれて、治療者が「それでは困る」と固執するのも不自然です。あるいは「どこに置く」といわれて「割ってしまいたい」「燃やしてしまいたい」「爆破してしまいたい」といわれたらどうするか? ....私なりにこうしたケースを切り抜けた経験はありますけど、敢えてその実例はここでは示しません。

 そうした時に、治療者側も、最初は当惑しつつも、クライエントさんとの関係性の場の中で、どのように柔軟に、お互いに無理のない解決策に行き着けるかのセンスそのものが問われていると思いますから。

*****

 これは私見ですけど、治療者の側が、頭の中で「このイメージにはこうした意味があるのではないか」などと分析することは、壺イメージ療法の本質とは関係ない問題だと思います。もちろん、クライエントさんが、自発的にそうしたことを感慨として語るのを傾聴し、共有する姿勢は大事ですが。

 また、大事なのは、クライエントさんがその体験をどのように「実感」しているかです。時として生じるのは、出てきたイメージに「カウンセラーの方が」勝手に怖くなって、壺から出るべきだとか、勝手に判断したくなる誘惑に駆られることです。逆に、カウンセラーの側が、イメージの「内容」についての価値判断を勝手にしてしまい「これは大事な、深い次元での体験のはずだから、じっくりやってもらおう」などと勝手に判断するのもマイナスでしょう。

 壺イメージ療法におけるクライエントさん本人の変化は、そのイメージ体験をどのように知的に理解するか、あるいは、内容的に「何を」体験するかとは無関係に生じていくものです。田嶌先生は、これを「体験様式の変化」と読んでたいへん重視しています。この点については、後続の記事で更に具体的に解説したくなるかもしれません。


*****

 ......この項、連載として続きます。

 次回は、この技法の持つ特徴についての私見を述べ、私がこの技法を、普段のカウンセリングや、フォーカシングのトレーニングの中で、具体的にどのように応用しているのかについて、書かせていただくつもりです。
 

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2007/04/30

患者から学ぶ(第2版)

 ケーススーパービジョンにおいて、カウンセラー(スーパーバイジー)は、スーパーバイザー「から」事例の進め方を学ぶのではない。

 カウンセラーのクライエントさんとの相互作用の中からの学びをサポートする存在に過ぎないともいえる。

 その意味では、もし、スーパーバイザーも、スーパーバイジーのカウンセラーや、そのカウンセラーのクライエントさんから新たに学ぶ何ものをも見いだせなかったとしたら,恐らくそこでなされているスーパーヴィションは、偽物の「何か」であるに過ぎない。


*****


※この書き込みは、ケースメントの「患者から学ぶ」(まだ感想が書けるほどには読めているとはいえません)とは無関係な、私個人のスーパービジョン観ですので,念のため。

 ケースメントの「内なるスーパーバイザー」の育成の問題とはリンクするかもしれませんが。

 更にいえば、むしろ、
Jungpsychotherapy
こうした思いを私に抱かせるきっかけは、ユングの「心理療法論」に収められた「心理療法と世界観」という論文にある、

 「患者と治療者の真に治療的な関係は『弁証法的』過程である。さもなければ単なる『暗示療法』であるに留まる」

という言葉からの応用問題として脳裏に浮かんだと理解していただく方がいいでしょう。

 以前も一度引用しましたが、(林道義 訳 p.68 改行、下線はこういちろうによる。):


 世界観は療法家の人生を導き、彼の治療の精神をかたちづくる。それは最も厳密な客観性を持っているとはいえ、何よりも主観的なものであるため、恐らく何度となく、患者の真実に触れて砕かれ、そしてその真実によって新たに再建される。

 すなわち、信念は容易に自信に変わり、そこから悪くすると硬直に変わる。硬直化したのでは生きているとは言えない。信念が強いということは、それが柔軟で修正がきくということであり、あらゆる高度な真理と同様に、信念が皆に認められるのは自らの誤りを認めることによってである。


 ....ゆえに、ケーススーパーバイズにおいても、スーパーバイジーのカウンセラーから、クライエントさんとの関わりの話を聴く中で、スーパーバイザーにも「弁証法的な」新たな発見がなければ、表面的な,通りいっぺんのものになっていると想定できるわけですね。


 なお、この記事もご参照ください。

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2007/04/27

理解「しようとする」と、理解に「近づけない」場合がある

 「理解し『ようとする(try to)(make effort to) 』こと」は「理解するに『至れるようになること』」を必ずしも意味しませんし、「導き出し」もしません。得てして「逆効果」というのが私の認識です。

 『自分の中で』相手の何を理解できていないと感じているのかを細かく「できるだけ詳細に言語化」し、「リストアップ」することまでなら、「確実に」相手への理解を前に進めることに貢献すると私は考えます。

 しかし、相手の話が、得てして、一見テーマと無関係に思われる内容に飛んだ場合ですら、上記のようにして、まずは,「自分の中だけで」理解できない点のリストアップを「更に」重ねて行き、あとは相手が自然に語りたいことを「語りたいがままに任せて」おくと、必ずといっていいほど、「当初のテーマ」について、相手の言わんとしていたことが、「おのずから理解できて来てしまう」糸口が見いだされ、そうした場面で、最小限、ピンポイントで、項目を1つに絞り込んで、相手に疑問点について質問する(私の用語法体系では、これを「訊く」(きく)と呼び、「問う」とは厳格に区別される、より限定的な、他者への働きかけの様式です)。

 そうすると相互了解に達する確率は極めて高水準である。

 これは、ネット場面でも、日常場面でも、治療的面接場面でも「普遍的に」通用する法則と私は認識していますので。

 つまり、逆説的ですが、これが、私の「理解しようとすること」の方法論の基本です。


.......以上、ロテ職人さんのサイトへの私への書き込みからの転載です。

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2007/04/21

こういちろう、楽器の練習をはじめる

 前の記事でも書いたように、どうも、そろそろやっと「退屈」の虫が騒ぎ出したようで(^^;)、いろいろと,これまで手につけていなかった、ローリスク、ローリターン型の構想が動き出しているこういちろうなのである。(経営的には別に追いつめられてもいないと言うか、新たな投資は不要の域で、「追いつめられることが不可能」な構造をすでに作ってしまったのだが。ホントはその結果獲得した、歯が浮くような「社会的身分」(臨床心理士でこれをももってる人は日本ではまだ相当少数派で、これから急激に増えるとは思うが、「先駆け」の一人と思う.....を口にしたくて仕方がない見栄っぱりのこういちろうなのだが、そのためにはあと一枚「公文書」が届く必要があるので、そっちの正式認可を待っている)

街で公開セミナー開いて、仮に聴衆二人でも私はへこたれないと思う。学会の小規模な個人発表なんて、壇上よりもフロアの聴衆の方が少ないなんてこと、ありふれてある。私は発表者としては、幸いそういう目にあったこと一度もないけど)

 これから書くことは、ほとんど振って湧くような事態なのだが、動き出してみたら、かなり意外ではあったが「必然」という気もし始めた。


*****


 幼稚園時代にヤマハの音楽教室に通っていたので、譜面は早くから普通の人より読めた。実は子供の頃から自分で作詞作曲するのが好きだった時期があるという隠された過去がある(だから、楽典は早くから万全で、譜面を書けと言われたら、普通の人よりはよほど書けます)。人前で歌うのは、「ちょっと変」な意味で幼少時より好きだった。

 しかし、音楽の時間、「楽器の演奏」だけは、絶えず「×」だった。ハーモニカもリコーダーも、要するに練習がおっくうな人間だったのである。しかし、クラシック音楽が好きだったので、中学や高校の音楽の歴史の内容なんて簡単過ぎて(そう、あの、「勝手に指揮を始める」という、「あの」タイプの典型だった)、歌はイタリア歌曲ですら音節の区切り方をみっちり練習するし、楽典の完璧さとあわせるとペーパーテストは満点だったので、音楽の成績は「楽器の演奏 ×」を乗り越えて「5」ばかりであった。

 そのあとは、もっぱら「聴く方」一辺倒だったけど、ほんとうは、中学校時代から、楽器の演奏が出来る人たちがうらやましくてしかたがなかったのである。

 実は、以前、音を鳴らす機会が与えられて、そもそも音を鳴らせないことに絶望的な思いを感じた楽器があった。ひょんなことから、その楽器を再び触わる機会を得たこういちろうは、今回は、何と、しばらくいじっているうちに、「取りあえず不快でない域に音を出せる」ことに気がついてしまった。

 やっぱり、「この楽器はこうやって音を出します」という指導があって、ガチガチの状態で、言われた通りにやろうとすると、すくむタイプなのね、私って。


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 生まれてこの方、身体的習熟を必要とするスキルの領域となると、私にはそういうところがある。

 自転車に乗れるようになるのも人より遅かった。親が必死にコーチしようとしても乗れなかったのである。

 ところが、小学校4年生の時、入っていた「郷土クラブ」で、秋になったらサイクリングで片道15キロ以上かけて史跡訪問をするという企画に直面した。

 これは私にとって「万事休す」だった。

 その「自転車遠足」には何が何でも行きたい。

 そこで、自宅の近くの緩い坂を下り、足を添えることから始める自己流の特訓を夏休みの最初に始め、夏休みのうちに、一気に、ちょっとしたサイクリングができる域まで身につけてしまい、それから数年間は、片道数十キロはあたりまえの「自転車乗り」に変貌していたのである。


******

 フォーカシングにしても、初期段階で私は実技を「人に教わって」いない。知らなかった人が聞くと「あんびりーばぶる」らしいのは、私は、師である亡くなった村瀬孝雄先生と、実は一回もセッションを持ったことがないまま(フォーカサー役、リスナー/ガイド役にかかわらず)となったという、知る人ぞ知る事実である。そういう人間が「国際資格認定資格者」になってしまうのだから、見かけ上ほとんど詐欺である(^^;) 


 しかし、かなり以前(20年前)から、全くの初心者に、フォーカシングを「受け身の体験としてはうまく体験させる」技量となると、人一倍高いことこそが、私の「欠点」であった。

 受け身でのセッション体験をしてもらうガイドをするだけなら、全くの初心者相手の成功率は、その後も年々そのテクニックは上達するばかりであり、現在の日本でも「格別に高い」ひとりの筈である。

個人セッションだと、全く知識のない初心者で、遅くとも2回めまでのセッションで十分なフォーカシング体験と感じていただける確率は90%以上であろう。

 この、受身でフォーカシング体験をしていただくだけなら「うますぎる」ことこそが、それと日常やひとりでフォーカシングしようとする際、あるいは普段のパートナーとのフォーカシング・セッションとのギャップにフォーカシング学習者を苦しめる「副作用」を生み出す深刻な事態に私を直面させていたのであり、とっくの昔に、フォーカサーに「自律的に」「無理のないペースで」技量をあげてもらえるサポートという課題にしか関心がなくなっていたのである。

 でも、真の意味で自律的フォーカサーを育てるには、いざとなれば手取り足取りの徹底的にサポートするガイディングの臨機応変な「手練手管」を操れた上で、それをみだりに使わないで済ませ、本人の自発性を優先するというやり方をとれる域に達している必要があるというのが私の考えである。

 そもそも、自分自身のフォーカサーとしての技量、ガイドとしての技量に、それくらいの自己信頼を置いている人間がガイドをしている、という、ただそれだけのことで、非言語的な次元でのフォーカサーの安心感と「抱えの構造」の安定度は基本的に違う筈である。

 私は、その後で、フォーカサーのプロセスへの信頼感、つまり「おせっかいをやかなくても大丈夫」ということを学びさえすればよかったのである。


 でも、以前から思っているんだけど、


自分自身のプロセスにすら信頼感がない人が、

どうして、

「クライエントさんのプロセスを信頼する」ことができるんでしょうか?????


 このことを、パーソン・センタード系(ロジャーズ派)のカウンセラーの皆さんに、敢えて立ち止まって考えてほしい。

 ただ、そうやって「プロセスを信頼する」生き方が、周囲の人にとって説得力あるものにならなければ、意味がないということについては、自戒を込めて付言しておきたい。


*****


 話を「楽器」の話に戻そう。

 ともかく、「さる事情」で、少なくとも「本体」にはお金をかけずに、楽器が目の前にある事態になってしまった。そして、「ともかく鳴らせる」という「ハードル」は越えられそうだという手応えをつかんでしまった。

(.....ということは、少なくとも、音を出すのに「押せばいい」「はじけばいい」「吹けばいい」という、ピアノやキーボードや、ギター、リコーダーではないということである)

 ほんとは、楽器をやるなら旋律と伴奏が当時に可能な楽器をという野心があったのだが、この際それへのこだわりは捨てる。

 旋律楽器である。幸い、賃貸の古い集合住宅なのに、建築年代が古い分、逆に壁が異様にしっかりしていて、テナントばかりの入居者の中でひとりだけ住居にしているという特異性のため、タンノイのスピーカーを遠慮なく鳴らせる域の私の現在の自宅は、この楽器を鳴らすぐらいでは人に迷惑にならない。

 目標:○○の「○○。○。ー○」ぐらいは弾けないものだろうか。あと、ayuのスローバラードとか、どこかに譜面がありそうなものである。

 もんのすごく音色がアナログな楽器で、音を出すだけで酔いそうなので、意外と続くのではないか?


 ........ほとんど答えを言ってるようなものですが(^^)


 これ以上のことは、少なくとも○○の「○○。○。ー○」ぐらいは一応弾けるという既成事実を作るまでは書かないことにする(^^)

 ショパンの夜想曲第2番(もち論これのこと)を弾くことだけを目指して中年からピアノをはじめて成功した人もいるらしいではないか。それならこれもありだ。


*****


 おまけ:

 ayuはある時期まで自転車に乗れなかったという説がありますね。最近の、休憩時間に自転車でうろうろしている映像はDVDのメイキングに収まってます。この自転車でうろうろネタそのものに、またもや余計な尾ひれがついたネット情報が跋扈しているようですが(- - ;)。

 その一方、写真集"uraayu"の撮影のために香港に数年前に行った時、ある晩、ホテルで明け方までギターを鳴らしていた、という記述が、私がすでに2年は前に中古で手に入れた「限定版(DVDつき)」のみの「撮影日記」みたいなものに書いてあるけど、ayuがある程度以上たしなめる楽器があるのかどうか、ということについては、これ以外知識なしです。

 いざとなれば、マドンナおば様なみに、ステージで弾ける域まで「怒濤に練習」しそうな人ですけど。

 

*****


 というわけで、さっき都心での仕事から帰って来てからも、その楽器の「初歩練習」に熱中しているので、今日はブログをこれ以外書かない。

 実は、自分で調律できるのになじめるまでに、それ以前に「半日」かかった。そこそこ絶対音感あるつもりだったんだけども。

 もう、からだ中がいろいろ凝っている(^^;)
 

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2007/04/04

なんでもビョーキで済ませるくらいなら、「太古の昔、そして未来の人類にはむしろ生存に有利な資質」ととらえてみては?(第4版決定稿)

 前の記事で、洗濯機おたくの少年の話を書いたので、これに対する臨床専門家の反応を予想的にシミュレーションして書いてしまうけど、

 「この少年は、自閉症っぽいのではないか?」

 念のために申し上げると、ここでいう「自閉症」とは、以前の、社会的引きこもりの人をみんな「自閉症的」と呼んだ時代の、「自閉症」概念ではない。

 「広汎的発達障害」に含まれる「早期幼児自閉症」と呼ばれる、生後ほんの2,3週間で、母親とのアイコンタクトなどのコミュニケーションの障害が観察可能で、今日では生得的、ないし出産時までの微細脳損傷に起源を持つと仮定されている、カナー症候群とかアスペルガー症候群と呼ばれる診断のことである。

 いわゆる「ひきこもり」の人のかなりの部分は、実は、他の人の気持ちについて過剰なまでに気遣った、気にする側面を持っている。それが空回りするので、周囲の迷惑に結果的になるだけであり、「自分の気持ちにめざめて」、「自分で引き受けられるようになる」までを「静かに見守って」くれる環境ができたりすると、むしろ一見以前よりも「わがままを『責任もって』通す」方向に向かう形で改善して行くことが少なからず見られる。

 これは、ここでいう「発達障害」的な「自閉傾向」があるとされる人たちにの多くに取っては、むしろ一番不得手な周囲へのアンテナの向け方である。

 ダスティン・ホフマンとトム・クルーズ主演の「レインマン」も、こうした「発達障害的自閉症」の「重度の」人たちについて一般の人が認識を深める上で貢献した。

 私は大学院時代、封切り時にマリオンで見ているけど、先輩や周囲に観たという人がなかなか出てこなくてちょっと失望したのをよく覚えている。

 「カッコーの巣の上で」を合宿で院生に見せて下さった、我が村瀬孝雄先生ですら(この作品は、ジャック・ニコルソン演じる主役ではなくて、実は脇役のネイティヴ・アメリカンの男性.....観た人はすぐに思い出せますよね......のアイデンティティ探求こそが、原作から一貫する「真の隠れテーマ」なので、自らが帰国児童で、エリクソンのアイデンティティ論を専門の一つにしていた村瀬先生の関心が深かったのは当然なのだが)、「ほう、どうだったかね?」という関心にとどまっておられて.....

 こうした「早期幼児自閉症」の人たちの中で、比較的社会適応に問題なく成長できた人たちを「高機能自閉症」とも呼ぶ。

 この、「高機能自閉症」のことが、発達障害や幼児の専門家ではない心理臨床家にも幅広く認識され、自分が通常のカウンセリングの中でいつでも接する可能性がある人たちに、この診断を考慮すべき時代に来たことについての認識が一般化したのは、何と5年ぐらい前であるに過ぎない。

 私は、いわゆる「発達」の専門の人たち以外では、比較的、この種の診断の可能性について考慮すべきケースに、ご家族からの相談を含めて、比較的早くから遭遇してきた方だと思う。

 (これをお読みのクライエントの皆さん、私がこのように書くからといって、「自分も実はそのように見立てられているのでは?」と思わないでくださいね。少なくとも現在、ご本人からの相談で、その種の診断を専門家が今後する可能性を考慮に入れる必要があると感じる方はおられません。すでにそのような診断を「医師から告知されている」方自身やご家族とはお会いしていますが)

 それでも私はいわゆる「発達」や「障害」の専門家ではありませんから、勉強不足はまだまだある可能性はあるにしても、でも、いきなり前の記事の少年を、先に述べた意味での、少なくとも軽度の発達障害的「自閉症」の図式でとらえるばかりに終わることには違和感がある、とは申し上げたいと思います。

*****

 私は、「発達障害」をはじめとして、何らかの生得的な要因が疑われるとされたとたんに、「内省的なカウンセリングだけでは不十分(あるいは逆効果)で、生活指導的な訓練なしでは済まされない」という方向に一気にギア・チェンジしてしまう「切り分け方」に相当な違和感があります。

 これは、(「発達障害」とは別次元の診断軸ですが)、たとえば統合失調症やうつ状態を経過した人について、「単なる受容的・共感的な傾聴を中心とするカウンセリングは、ひとつ間違えると症状をこじらせる」という言い方がなされることへの違和感にも通じるのですが。

 最近の私は、「カウンセリング」という枠でお会いする限り、どんなクライエントさんとも基本的には同じようなスタンスでカウンセリングしているという意識しかありません。

 もとより、完全予約制の、料金をいただく開業という形になった時点で、すでに私のカウンセリングルームにおいでになる決心をされる時点で、ある「ハードル」を越える力がある皆様だけがおいでになっている可能性については謙虚でありたいと思っていますが、すでに入院・服薬の経験がある方、通院中の方、あちこちの援助的専門家に相談する経験を重ねた方が少なくないことも確かです。何より、「1時間6千円」というのは、首都圏でJRの主要駅から徒歩10分の開業カウンセリングの立地からすれば、かなり安いほうですし(^^)。

 実は、この「どんなクライエントさんとも同じスタンスでお会いしている気がする」ということは、私の中では、「一見似たような診断が下る可能性がある人たちお一人お一人とお会いする際に、実はまるで違うスタンスでお会いしている気がする」ということとイコールで結ばれてしまいます。

 もちろん私も、臨床心理の専門家として、いわゆる「見立て(アセスメント)」はしていきながら面接しています。この点で私が少なくとも平均水準以上には、多角的な仮説をシミュレーションしながら面接をするタイプだということは、私のもとにスーパービジョンに通っておられる臨床家の皆さんはご存知のとおりです。

 心的外傷的なPTSDや、ASD、状況因性の強い「適応障害」、発達障害のいわば、常に限局化された様態としての「学習障害(LD)」、心身症における身体的治療の大事さや遺伝負因、嗜癖(addiction)における生理学的変化を考慮すべきケースなど、むしろさまざまな可能性を考慮する幅は広いほうだろうとすら思っています

通常ならそこまで考慮しないことすら視野に入れ、関連付けて仮説をたててみるけど、そのひとつひとつにとらわれすぎないタイプということは、このブログの私のものの書き方に顕著に現れているでしょう(^^;)

 そして、カウンセリングだけで援助になるという発想にはむしろ警戒的でしょう。そもそも、仮に週に1回、1時間として、残りの7×24-1時間をカウンセリング場面の外の日常で過ごすクライエントさんにとって、カウンセリング場面での私との関わりは、168分の1の時間に過ぎず、それで自分が何か決定的な援助ができねばと思い込みすぎるのもどうかなと感じています。

 もとより、「たかが168分の一、されど168分の一」ですが。必要がありそうと感じれば、医療への紹介もむしろ比較的早めにお薦めることが少なくないとすら思います。

 .....もっとも、私のクライエントさんは、ある時点で、自分から医療にもかかりはじめることを考慮される方がなぜか多くて、医療にもかかるように「説得する」かたちになることは、最近あまり記憶にないのですが。

 (相談機関に勤務していた当時の方が、クライエントさんの躊躇を超えて説得しようとする「力技」になって、むしろそのことの「弊害」「反作用」を後悔する形になり、クライエントさんとの関係に傷を遺したのではないかと反省することが多かったです。これは、私が組織の一員だったことの影響というより、単に私がまだ未熟だったということかもしれません)

 しかし、私は同時に、「内省的なカウンセリング」と、現実的アドバイスとも見えるものや、ある種の訓練的、適応指導的と分類可能なものがまるで矛盾対立するかのような捕らえ方にもそもそも違和感があるのですね。

 以前も書きましたが、だからといって、私はいわゆる「折衷的」という言い方は好きではないです。そんな、「うまく使い分ける」とも受け取れるあり方をあっさり夢想できるのは、専門性をあまりに「操作的(操縦可能なもの)」としてとらえるオプティミズムとナルシシズムを疑いたくなるくらいで。

 でも「統合的」という言い方も「かっこがよすぎる」(別に村瀬嘉代子先生のことをさしているわけではなく。嘉代子先生も、いわば「方便」としてあの言い方を採用するしかないと思われていて、そう簡単に「統合」なんてできるわけがないというのがご本心と思います(^^)
 

*****


 むしろ、私は、中井久夫先生の「分裂病と人類」「西欧精神医学背景史」(左側のフレームのブックレビューを参照ください)をはじめとする著作に色濃く流れる、

 「多くの『疾病』や『症状』『障害(disorder)』とされているものは、本来ある文化的・社会的状況においては、むしろ種の保存のために有利な形質だったものが、文化的・社会的変化の過程で不適応を生み出す失調要因に転じ、単なる少数者の地位におとしめられていったものである(これはこと精神医学に限定されない)」

 という発想を大事にしたいのですね。

 たとえば、すごく人目を気にする人は、現代の平和な社会の中では生きづらいかもしれない。

 でも、大型肉食獣に狩られるか、草食獣や小動物に気配を察されることなく忍び寄って仕留めないと今日の家族の食料はないという世界に生きていたらどうだろう?

 草のざわめきひとつから,風なのか、獲物なのか、はたまた自分を襲おうとするライオンなのかを識別できる感度なしには生きられない。

 こうした感度が、現代社会の都市空間の人間関係で発揮されたら、「過剰な思い込み」「気にし過ぎ」「気苦労」という形で本人を消耗させるだけになるであろうことは想像に難くないだろう。

 同様にして、槍や弓矢や棍棒や剣で戦う兵士に過ぎなかったら、出会った人間の「表情や物腰」だけで「敵か、味方か」を識別できなければ、次の瞬間の命に関わるのだ。

 猫やイヌは、相手と「鳴き声で対話」したり実際に喧嘩してはじめて相手が自分より強いかどうかを判断しているのではない。あるいは、「つがう」にふさわしい相手を選択しているのでもない(^^;)。

 「気配」で察し、「気」で(非言語的に)戦い、「匂い」で相手の心理状態を掌握するのである。人間の感覚機能はこれらの高等ほ乳類よりかなり退化しているとはいえ、原始生活の中でははるかに鋭敏だったはずだ。

 急激な天気の変化や、「風を読む」力、些細な兆候からその後しばらくの気候変動を予測する力は、都市生活民は、明らかに、熟練した「飛行機乗り」やハイカー、農業・漁業従事者や山あいの住民の「一身具現的」な「勘」にはるかに及ばないだろう。

 あるいは、他の人が疲れたり飽きたり投げだしたりしかねない極限状況で、疲れを知らずに心身を働かせ続け、他人と合議しなくても率先して決断し、具体的な行動に踏み切り続ける「非情の人」(単なる扇動者ではない責任感ある[政治的・文化的・学問的・ビジネス的]革命家や、軍隊の真に優秀な武将や船長タイプ)がいなかったら、混乱した状況でその集団はみな死滅してしまうかもしれない。

 (「平時」になったり、「日常社会」に戻ったり、「陸の丘」にあがったり、「私生活」の面では、、この人たちは、「隠れて棲むことを最善」という規範を禁欲的に守れないで「誘惑に屈する」と、意外と、立ち回りが不器用で、一つ間違うと「独裁者」と呼ばれ、スケープゴートにされやすいのだが。

 シーザーやナポレオン、ドゴールなどといった軍人あがりの政治家が陥ってきた罠だし、天才芸術家や天才科学者、天才起業家が後半生でよくはまり、不幸な寂しい晩年を迎える(^^;.....最近も多いかも.....)

 身体面について言っても、「本態性高血圧」の人は、普段は静かに待機していても、ここぞという瞬間に一気にドーパミンを爆発させて一気に体力を使う切り替えが必要な状況に置かれていたら、その「エンジン起動の高性能さ」は明らかに有利な形質である。


 群れを成して移動し始めると皆一緒について行くばかりだったら、その群れの行く先が致命的に誤っていたら、すべての「個体」がレミングの群れのごとく崖から集団自死を遂げることになる。

 (この、ディズニーの記録映画の捏造疑惑事件で有名な、人口に膾炙したレミングの習性そのものが疑問視されているらしいけど。Wikipediaのこちらを参照。)

 だから、集団からはぐれて、ペースをあわせずに勝手気ままな行動をとって、常識的合理的シミュレーションでは考えられない「あさっての方向に」のらりくらりとマイペースで向かう個体も,少数ながら、むしろ、種のリスクマネジメントの観点から「いなければならない」。それらの「個体」を「落後者」とみなすのは、あくまでも群れの「内側の」個体の「目先の」論理に過ぎない。
 
 「だから」、その「個体」に適した棲息地(仮の避難地)にたどり着けたら、あるいは、時代が変化したら、その人たちこそが次の時代を開く適者の遺伝子を持っているのかもしれない。

 その人たちが決して「遺伝的にも淘汰」されないで生き残るように、人類という種そのものが実はもともと「できている」。


 .......やっとはじめて本格的に書きましたけど、中井久夫先生の医学観の壮大さの本質は、まさにこうした点にも顕われていると思っています。

 このことに『勇気』をもらう人たちはたくさんいると思うし、こうした視点があると、クライエントさんのこれからについて、狭量な視点ではない「大局観」を保ちつつ、一緒に「どっこい生きてる」あり方を探していけるのではないかとも思っているのです。


*****

 ですから、

 「コミニュケーション能力,他者への共感力という点では限界を持ちつつ、他の人たちがそこまで注意を向けないことに執着を持ち続け、普通の人には不可能な域の、直感的記憶力と知覚的弁別力を持つ」

人たちは、人類の存続のためにむしろ「必要」なのではないか。


******


 最近は、経験ある専門家までもが、

「俺って、結構アスペルガーっぽいかな」

「私も、結構ADHD(多動)だった時期がある気がする」

「僕がカウンセラーをやっているのは、結局、社会的に正当化された「人間嗜癖」を維持できる状態をまんまと社会的身分として獲得できたということなのさ」

などと、半分本気で自己認識していることが結構少なくなかったりして(^^)


「そうであってはならない、克服しないと」という境地すら「超越」して。


もとより、

「自分にそういう傾向があっても、重度の症状を抱えた人とは次元が違う」

ことは当然の前提として、

「それでも」そのように語る人たちである。


*****


 つくづく思うのは、心の「健康さ」とは、実は、自分自身や他者の心のいわゆる「不健康さ」に対するキャパシティの深さのことではないかということである。

 そして、自分自身の代にはかなえられなくても、子孫の代の人類には、むしろ大事になるかもしれない遺伝的形質を引き継ぐためだけにでも、自分が「どっこい生きていく」存在意義がある、と考えてみることはできないだろうか?


****


BGMは、

ayuの
浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me"part of Me"
ということで。

(「狙った」つもりは全然なかったんだけど.....)

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2007/03/25

「訊き上手」の勧め -会話下手で困っている人のための、プロカウンセラーのテクニック公開!!-

 学生相談をしていた頃、よく、「周囲の話す話題の輪に入れない」という相談を受けたものである。

 男なら野球やサッカー、女優やタレント、女性だと、ファッションや恋や男性タレントや男優の話とかに、自分は興味も関心もなかったし、今の音楽でどんなのが流行ってるかもよく知らないし、車の話もわかんないし.....というわけである。

 私にしても、親が自家用車のユーザーでなくて私も免許を持っていないせいもあるが、極論すれば、「『あの』マークがついてたらベンツ」「昔のフォルクスワーゲンなら形でわかる」....以上、終わりである。

 ちなみに、私はまだ「エビちゃん」なるもの(蛯原 友里)の動く映像をテレビで観てないとおもう(^^;)

 ちなみに、はっきりいいますけど、(みゆきやユーミンとか、上の世代は「殿堂入り」として)浜崎あゆみと大塚愛とELTと宇多田ヒカルを除いてしまうと、私は今のJ-POPシーンに「全く無知」である。chemistryやゆずの曲すら一曲もidentifyできないし、椎名林檎は「りんごの歌」しか聴いたことがない。矢井田瞳「は」、一枚聴いたことある。島谷ひとみのベスト盤は「持ってる」。要するにBoAや倖田未來すら、耳に入ったことはあるが、恐らく「一曲も」identifyできない。あとはすべて大晦日の紅白歌合戦とその後のMTVCDと、年に一度のa-nationのDVDで「一年まとめて掌握している」だけである(avexに異様に偏ってるけど、それでもこんな調子なのだ)。今度、YUI「という人」のを聴いてみるつもりなのだが。

 これが、クラシックとなると、はっきりいってこの10年新譜をほとんど全く買ってないので、今のアーティストの動向には無知そのものだが、古くはグレゴリオ聖歌やヒルデガルド・フォン・ビンゲンから、少なくともブーレーズやベリオや武満ぐらいまでは(一部民族音楽を含めて)「まんべんなく」守備範囲にしている。基本的に「きらいな作曲家」「きらいなジャンル(管弦楽、室内楽、独奏とか)」というものはありません、みんなそれなりの持ち味で楽しめます、といえるくらいに。言葉の障壁から、歌曲と歌劇はやや手薄です、というくらい。10年以上前にとっくに輸入盤中心にCD1000枚を超えていたわけでして。

 私はクラシック音楽と心理療法と世界史と洋画(そしてかつてのアニメ)を除けば、実は自分の関心を巧妙に「狭く深く」に追い込み、わき目をふらなくていいようにするタイプである。

 確か、浜崎あゆみも、基本的には本来特別な音楽好きでは「なかった」し、実は他の人の音楽を驚くほどに限定してしか聴いていないと、何かで読んだような気がする。Madonnaや、日本で言えば、レベッカ(Rebecca)とかは、確かにある程度早くから意識していたと思うけれども(avex以前のオーディションの時に"moon"を歌ったそうで、これは妙に納得。レベッカは私も以前からLD(!)やアルバムの大半持ってますし、iPod入ってますよん。....まあ、レベッカそのものが、"Love is Cach!"は"Material Girl"のパクリでないかいというくらいにMadonna意識していたと思うけど。....レベッカのライブ記録とかと比較すると、ayuのライブの歌やバンド演奏やダンスが、もはや比較にならない高水準が「当たり前」になったことを痛切に感じますが)


*****


 話が大幅に横道にそれかかった(^^;)。

 このように、いざとなると話すネタだけなら無尽蔵に出てくる私が保証するが、友達の輪の中に入って「話に入っていけない」原因は、ほとんどの場合、「話題についていけるかどうか」とは無関係なのではないかとは断言したい。

 バブルがはじける前に二十代を送った私の世代は、「クライ」「明るい」二分法が、いまからは想像がつかないくらいに猛威をふるっていた。「中島みゆきのファンである」ということは公言するのもはばかられると感じていた人が実際たくさんいたのである。オタクネタを口にするのはかなりの蛮勇が必要だった。

 だが、今や宇多田ヒカルのゲーム好きはみんな知ってて、若いメジャーな女性タレントが、コスプレチックなことをあまり恥ずかしがることもなく、ひとつの趣向としてやれてしまうわけで、その点では、20年前がウソのような状況が実現している。そういう意味では、関心や話題の「ボーダーレス化」が進んでいて、私は若い世代がうらやましいくらいである。

 問題は、「話題の内容」ではない。自分の側の話せる話題など豊富でなくてもいい。

 決定的なのは、「聞き上手」であるかどうかである。


*****


  しかも、
  ここでいう

  「聞き上手」

  とは、
  必ずしも

  「聴き上手」

  のことではない。

  「訊(き)き上手」

  でありさえすればいいのである。


 カウンセラーは「傾聴(Lintenning)」について専門的に学ぶ。

 しかし、現実の日常会話では、実は、「聴く」力と同じくらいに「訊く」センスがものを言う。


 実はこの点を、カウンセラーももう少しふりかえるべきではないかと私は考えている。

 「カウンセラーの先生に話をしても、『ウン、ウン』ときいてくるばかりで、何も言ってくれないんです」

とよくいわれるし、
多くの場合、それは、

 「具体的アドバイスをしてくれない」

という意味に受け止められているけれども、実は、

「カウンセラーは何も『訊いて』くれない」

という点にこそ、核心がある場合が多いのではないかという気がする。

******

 ここでいう、『訊く』とはどういうことか?

 「質問する」「尋ねる」「問いかける」="asking"と言い変えるだけでは、うまく言い尽くせない。

 手元の「広辞苑」には「たずねること、問いただすこと」としか、実際、出ていないのだが。


 例えば、

 「母には、そのことを嫌がられている気がしてならないんです」

という話が進行していたとします。

 「お母さんには嫌がられているんじゃないか......というと?」

と水を向けて、しばらく「聴いて」いても、

 「だって、私は、○○だし、△△だし.....」

という話は繰り広げられても、お母さんに「実際に」どう言われたかの「具体例」に決して話が広がらないとしますね。

 こういう時、話の聴き手は、「現実のところ」どう言われたのか、についての関心をはっきり意識的に伝えることによって、単に話を「聴いて」いる状態よりもさりげなく半歩踏み込んでもいいのだと思います。

 「例えばどんなこと言われたの?」

でもいいんですね。

 すると、実は「お母さんがそのことを嫌がっている」というその人の思いこみが大きくて、実際にはそのことについて拒否された体験があるわけではない、ということが、二人に見えてくる場合もあるでしょう。

 あるいは、実際にどんなふうに言われたかまで話してもらって、はじめて相手の話が、自分が予想していたのとは別の次元での、親との対立なのだということが、いきいきと伝わってきて、

 例えば、軽率に、

 「おかあさんの言うことなんて、気にし過ぎないで、無視、無視、やりたいようにやってしまったら?」

とか、アドバイスして済ませなくて良かった!! ということなど、よくあることでしょう。


 時には、どうアドバイスしたらいいかわからなくなるかもしれない。

 そういう時には、ただ黙り込んでしまうぐらいなら

 「たいへんだね」

 「難しい問題だね」

 「凄いお母さんだね」

などと、ともかく言葉にしてしまう方が、ただ相づちを打つよりはよほど「具体的な」応答だと思います。

 そういうことを、心の中で思っているだけではなくて、実際に相手に言葉にしてしまうことです。
 それだけで、話の「間が持つ」し、相手に、自分のことに関心を持ってくれているという「絆」感が生じる。....いや、あなた自身に、その人と「関わっている」という「手応え」が生じる筈です。

*****

 かといって、私は、面接初回に、機械的な形で、いわゆる「生育歴」「既往歴」「相談歴」などを訊いてしまうあり方には違和感があります。

 「生育歴はどうなっているのですか?」

 ......なつかしい思い出なんですが、ロジャーズ派の佐治先生の薫陶が深かった東大の心理教育相談室に在籍していた当時、年に一度、「五大学」と通称された、東京・名古屋・京都・広島・九州の5大学の教育学部心理教育相談室合同の、合宿形式の事例検討会が、5大学持ち回りで2泊3日で開かれていました。大学院研究生だった私はその催しに3年連続参加させていただいたのですが、その際に、東大の相談室員の事例発表に対して、他の4大学の相談室員から、「実に頻繁に」ぶつけられていたのがこの問いかけでした。

 つまり、当時の東大のカウンセリングの伝統には、「生育歴・来談までの経過」を面接初回にクライエントトさんからひと渡り「訊いて」しまうという「文化」そのものがなかった!! これは、他の4大学の院生の「常識」を覆す事態だったようです。

 「治療目標とは何ですか?」

この問いに困ってしまうのも、東大組でした(^^)

 まあ、面接がどこまでたどりついたら終結かなんていうのを早い段階で設定してしまえるなんてウソで、当初の相談内容が、クライエントさんもカウンセラーも予想もしない方向に展開してこそほんとうのカウンセリング的相互作用だと、私は今でも信じて疑いませんけどね。

 もちろん、その段階その段階で、治療者が「見立て」についての「仮説」を立てること、それに応じて「見通し」についての「仮説」を持っていることは大事でしょう。しかし、それは何回も何回も手直しされ、変化していくのがむしろ自然ですらあるということです。

 それはそうと、私も、今も、生育歴・家族構成・来談までの経過を、カウンセリングの開始の回に「機械的に」訊いていくことは避ける姿勢を保っています。

 面接一回目で、話を自然に聴いていれば、いつの間にかそうした情報のかなりの部分が「自然と」クライエントさんから話してもらっている、という流れになれるのが本来の姿です。

 面接初回は、クライエントさんに最初提示された相談内容にとらわれがちで、ベテランにならないとそうはできないといわれそうですが、今の私の考えでは、カウンセラーが、先ほど述べていた、一般の人の日常会話において全く自然に機能するはずの「訊く能力」をタイミング良く発揮すれば、それほどキャリアを積まないうちにでも、できるひとには十分できるはずという気がしてきました。

 そして、そうした「話しそうで話さないままの」話を、その後の面接の、どういう脈絡で、どういうふうにクライエントさんが話し始めるか、ということそのものが、まさにクライエントさん固有のあり方の本質が伝わって来る、絶好の機会なのだと思っています。

 例えば、「学校を中退した」という経歴が語られているのに、その理由についてクライエントさん自身が自分からは話さなかった場合には、私は焦って「どうして辞めたの」とは訊かないことも多いです。心の片隅にはそのことを置いておきます。

 面接の流れの中で、クライエントさんの方から自然と語られるかもしれないし、カウンセラーとしての私が「なぜ中退したか」を是非訊いてみたくなるタイミングが必ず来るとあっさり信じています。

 そういう「旬」の瞬間にクライエントさんに「訊いてみる」と、場合によっては、面接の展開の上で、クライエントさんにとっても、カウンセラーとしての私にとっても、新鮮で意外な発見となる、予想外の形での、問題の更に核心についての発見を、自然と二人で共有できることが多いようです。


*****


 「あなた、ご実家が経営的にたいへんだといつも話してくれてたけど、具体的に、どんな仕事なさってるの?」

 日常の対人関係でも、いきなり相手の個人的事情を根掘り葉掘り「訊き」すぎるのもどうかと思いますけど、あまり相手の個人的事情を詮索して嫌がられたくないという思いからの「抑制」が効き過ぎているのが現代の対人関係という気もします。


「ね、ね、彼のお母さん、働いてるって言ってたけど、何して働いてるの?」

「え?........私も、そこまで彼に訊(き)いたことないんだけど.......」

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2007/03/24

人生を変えてしまう、本当の洞察と気づきと共に浮かび上がる言葉は

自分が「知って」はいたし、その言葉の一般的・概念的な意味内容は「わかっていた」つもり「だった」けれども、少なくとも「自分自身の」気持ちをあらわすボキャブラリー(語彙/用語法)として「自分からは」使ったことがなかった「さりげない」言葉となることが多い。

 既にこのブログでも紹介した、

「退屈」
「うらやましい」
「口惜しい」

などは、すべて、私にとっては、そのような言葉として立ち現れたものである。


 当たり前の,普通の言葉でいいのだ。

 いわゆる「心理用語」は、こうした世界から遠いことが多い。


 いや、こうした「あたりまえの、普通の」言葉での気づきを数多く体験した人にだけ、心理療法的な諸概念は「生きた」形で自己掌中のものとして体験されるようになっていく、と断言していい。(この記事も参照)


 このことが「全くピンとこない」人で、心理療法家をしている人は、流派に関係なく、いないと信じたいが(^^)

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2007/02/26

いいカウンセリングとは

「私が思っているより、クライエントさん自身に成長する力があったから順調に進んだだけなのかもしれない」

という感慨を、カウンセラー自身が、しみじみと感じられる形でカウンセリングの終結を振り返れる時である。

......もし、そのクライエントさんが、継続的にカウンセリングに通わないままでも、同じような「自力での成長ができた」ことを証明できる根拠がどこにありますか?

 「カウンセラーの力で」、そのクライエントさんが成長できたと、カウンセラーの側が確信できるラインをねらうことなど、おこがましいことであり、そのような水準を必要だと感じるカウンセリング指導者は、その指導者自身が、自らの野心やエゴイズムの問題に直面できてはおらず、教育分析をお受けになる必要があるかもしれない......と思います(^^)

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2007/02/06

扉を開けて

久しぶりに、フォーカシングそのものについて書いてみることにします。

私は、すでにこの記事の中で、

1.個々のフォーカサーの人にとって懇切丁寧な教示やサポートをしていくことと、フォーカサーの主体的・自律的なスキルの向上をいかにして両立させるか。

2.日常とセッションのための場で感じられる「ギャップ」をいかに無理なくフォーカサーの人に統合してもらえるか。

.....この2点が、私が現在フォーカシングのトレーニングをしていく際に一番の課題としていることを、述べてきました。

 この観点から見て格好の実例を、ご本人に許諾いただきましたので、ここでご紹介します。

 すでに「フォーカシング個別指導」という形で月に一度、十数回お会いしている社会人の方です。

*****

 Aさんは、すでに面接室に入ると、自発的に語りたいことがあると語り出し、フォーカシング的に自分の心身をじっくりと感じてみるモードに自分から入られることが多いのです。私は何一つ教示的な言葉は挟まずに、その自然な沈黙の時をフォーカサーが終えられて話を始めるのを待っていました。

 そこで語り出されたのは、

 「この面接室に入ってしまうと、すごくゆったりして落ち着いた気分になって、ここにたどり着くまで感じていた実感が、ほんとうになくなってしまうんですよ。私はその実感の相手をしたいのに。この部屋に入った途端にそうなるんです」

 ガイドとしての私は、それを伝え返した上で、

「そうやってここでは楽になれてしまい、普段の実感に触れられなくなることへの当惑をこの場で話してもらえること自体が貴重なことだと私は思っていますから。
 むしろ、そういう思いを語ってもらえないままセッションを進めてしまった場合のことを想像すると、申し訳なくて、それを語っていただけたこと自体に感謝したいくらいの気持ちです」

という意味の応答をしました。

 私は、自分から、こうした、フォーカシングのセッションを進める上での違和感や壁、不満を言葉にしていただけるフォーカサーを、いつも心から歓迎しています。

****

 それまでも、Aさんの場合には、ホールボディ・フォーカシングになじんでいただく過程で、それを通常のフォーカシングにも拡張し、自分がフォーカシングしやすい「姿勢」や「立場ち場所」に、Aさん自身がこだわるようになって来ていました。

 Aさんが、セッションの際に

「こういうこともやってみていいだろうか?」

と更に応用的なやりかたを提案してくると、私は、その度ごとに興味を感じ、「あなたの実感がそれを求めているのなら、それもいいんじゃないですか?」と、歓迎していたのです。

 そのうちに、Aさんは、同じ感じを、座った状態から、立ちあがって感じ直してみる、とか、すわる場所、立つ場所を変えて感じ直してみる、とか、徐々に姿勢を変えて感じていき、フェルトセンスを感じる上で自分でしっくりくるポーズや場所を見つけていくことを、自然に試みてみる人でした。

****

 しかし、その回、先ほどの「日常の中での感じが面接室では感じられなくなる」ことについてのやりとりに続いて、Aさんの方から、次のように提案された時には、少し、いい意味での「驚き」がありました。

「あの、今からドアの外に出て、感じ直してみたいんですけど.....」

 私は、ほんの少しだけ内面に注意を向ける時間をもらい(せいぜい20秒)、

「1.ドアの開け閉めは、音が出ないように静かにやってもろう
 2.ドアの外では、言葉にはせず、感じを味わってもらい、ドアを閉めてからはじめて言葉にしてもらう

.....というのでどうだろう?」

という提案をしました。

Aさんもそれに同意しました。

そしてゆっくりと立ちあがり、ドアの前に立ち、静かに扉を開けると、扉を開けたまま、ゆっくり「半歩だけ」扉の外に立ち、30秒ほど味わい、また静かに扉を閉めて、戻ってきてから、再び内面に少しだけ注意を向けて確認した上で、はじめて口を開きました。

「あ、一気に戻ってきました。普段感じていた『あの』感じが。一気に身体の中に広がってきて。....今、こうやって座って味わい直してみても、6割ぐらいはその感じは残っていて、味わい続けられますね」


******

 もっとも、私は、こうした例を、単に

「ドアを開けて感じてみる工夫」

みたいに定式化して受け止めていただくことや、

「面接室の外の空間でフォーカシングするのって、当然ありでしょ?」

と受け止められてしまうと、何か、私がこのセッションで感じた小さな「驚き」と、Aさんに思わす感じた「敬意」の本質がが伝わらないように感じています。

 トレーナーである私に、ほとんど毎回のように、セッションの進め方への「違和感」の表明や「新しい進め方」の提案」を自分から私にしてくれてはいたのですが、このセッションでは、違和感の「具体的解決策」全体を、自分で提案するところまでしてくれたのです。

 私はそのことに、同じ「フォーカシングを学んできた者」としての敬意を表したくなるのです。

「セッションの場をリードしている」のは、文字通りフォーカサーの方なんですね。

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2007/01/28

「逆上がりしたい」の正体

 「どうも私はほんとうは「逆上がり」がしたかったようである(^^;)」というタイトルの記事を書いたのが、昨年(2006年)の12月8日である。

 実際の逆上がりへの挑戦は実はまだなのだが、確かに、あのひとりフォーカシングをした時から、私の中の何かが変わり始めたと感じている。以前だと、億劫がってとりかかれなかったこと、徹底してはやらなかったことを、私なりのペースと順序でだが、日常の中でもひとつひとつやってきたし、このブログでもそうだという気がする。

 その辺の変化が、果たしてこのブログを定期的に読んできて下さった皆様にも感じていただけるものなのかどうかは、わからないが。

 フォーカシングや体験過程理論についてのベーシックな書き込みを私なりに重ねてきたのもそういう脈絡の一部。以前だと、「そのへんのことまでなら勝手に勉強すれば。してないのがおかしい」と、今にして思えば「ふんぞりかえって開き直っていた」と言われても申し開きができない内容について、私なりの平易な言葉で消化した上で、何とか「伝えよう」としてきた気がする。

 もとより、現段階でも不十分なもので、例えば、面接の中でのクライエントさんの深まりを示す「体験過程尺度」の評定の基準に関しては、実はその全体を示してはいない。知的な自己分析に過ぎないものを"stage 2"とするという評定基準の識別のしにくさの問題を実は敢えて避けて通っている。しかし、敢えてシンプルで流れとして追いやすい側面について、記事で書いたような仕方で解説してみることも、この尺度を取っつきやすくするための方便として、現実にはなかなかあり得ない、一回の面接の中でstageが刻々と上がっていく架空事例なるものを創作してみたことには、意味があったのではないかと感じている。

*****

 浜崎あゆみの作品評の迅速化や、ライブについての私なりの見解について具体的にまとまった形で書こうとすることすら、そうした「逆上がりをしようとする」脈絡の一部だと思う。はじめてみたら、たいへんな労力がかかるのに、やり始めていた。恐らく、今週末福井から帰ってきた直後、来週には、あの「ライブ論」連載は完結しています。

 そして、「『逆上がり』していくこと」の、取りあえずの到達点が、正式のパンフレットの制作、その発送のための準備、そしてそこに、ほんとうに思いつきで割って入るようにして始まり、一晩で一気に達成された、職場websiteのリニューアルだったように思う。

 これほど、ずっとやりた『かった』のに、億劫がっていたことはなかったのである(^^;)

 これが、私の体験過程のステップが指し示した、「順序」だったのだと思う。

 ,,,,,,というわけで、関係者の皆様への新しいパンフとWebsiteリニューアルのお知らせの郵便の発送を明日から始めます。一気に発送ではなく、増刷しながらの発送ですからお手元に届く日にばらつきがでるかと思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます。

******

 ちなみに、福井から帰ると、ほんとうに大人向け室内用の「鉄棒」的器具が私を待っていることになる(^^;)。「逆上がり」へのご恩返し(?)のつもりである。

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2007/01/07

クライエントさんを勝手に「理解したつもり」になる危険を具体的にどうやって超えていくか -体験過程を深めていくためのカウンセラーの応答(1)-

 受容と傾聴、クライエントさんの言ったことを大事に投げ返してあげるのが、カウンセラーの共感的理解の基本だからといって、それを形だけやっていても、クライエントさんの役に立たないことが多いのは確かです。

 カウンセラーが、その時のクライエントさんの応答が、体験過程尺度上でどの段階にあるかを、刻々とスキャンするつもりで聴いていくと、それだけで面接過程は深まると、先日の記事で書きましたが、それはどういうこととかについて、今回は具体的に書いてみたいと思います。

 それは一言で言うと、クライエントさんの体験過程のstageが停滞したまま堂々巡りし続けたり、むしろ低下しそう「タイミング」を感受して、その瞬間に、ほんの少しだけ、示唆的なさりげない質問や、提案や、応答の上での工夫によって促進されます。

 前回も使った架空実例を材料に、説明してみます。

「母と姉が喧嘩をはじめたんです。姉は『私の買って来たジュース、勝手に飲んだでしょ』と母に言いました。母は最初、『そんなジュースあったっけ?』とか言ってたのに、そのうちに『飲んだかもしれない』とか言い出し、『でもあなた』.....あなた、って姉ですね.......『このジュース、私が買って来たものだから、飲むな、とか、私に言った?』と言い出した。そしたら、姉は「どうしておかあさんはそうやっていつも自分を正当化するのよ!!」と言って突然キレたんですね。それからが大げんかになりました」

 このまま話し続けたら、いつまでたっても、お姉さんと母親の喧嘩の実況中継果てしなく続く危険もあったと思います(^^;)[stage 1]

 「......なるほど、それで、あなたはその時どうしてたの?」

 そのように一声かけてあげてもいいタイミングかもしれませんね。すると、

え、私? ......... 私は、その喧嘩のようすを、喧嘩がはじまる前から最初そばで観ていました。喧嘩が激しくなった時点で、何もいわないまま、2階の自分の部屋に昇り、しばらく座っていたあと、ヘッドフォンで音楽を聴き始めました」

 という話が自然と始まるかもしれない。

 体験過程尺度で言うと、stage 2ですね。「話の主人公は、クライエント自身」

 もちろん、クライエントさんによっては、こうした話へと自然と転換していく人もいるわけです。そういう気配があると判断したら、そのままクライエントさんの言うことを傾聴していていい。

 逆に、「あなたはどうしていたの?」と問いかけても、

「そして、お母さんは.....(と言ったor....をした)」、
「お姉さんは.....(と言ったor....をした)」
「しばらくして、お父さんが家に帰ってきて、そしたらお姉さんがお父さんにその冷蔵庫の件を告げ口して、今度はお父さんと、お姉さんが喧嘩になって.....」

などと、家族の喧嘩の実況中継が続き、クライエントさん自身はなかなか話に登場しないかもしれません。

 つまり、体験過程尺度的に、stage1のままをクライエントさんは維持するということです。

****

 こうした場合に、無理に介入して、stage2に引き上げようとするのがいいとは限りません
 むしろ、カウンセラーの中で、

 「こうやって自分以外の家族の顛末を延々と物語らずにいられないクライエントさんなりの心情が、何かあるのだろうなあ

.....などと、カウンセラーが連想しながら継承するスタンスを自覚的に取れ始めると、それだけで、クライエントさんは、その時の自分の振る舞いや気持ちを少しずつ話すモードにいつの間にか転じることが結構あります。

 でも、場合によっては、切れ目のいいタイミングを身計らって、意識的に、

「....あの、ちょっと聴いてみたくなったんだけど、いいかな? (クライエントさん、うなづく)
....あなたは、その喧嘩の中で、どこにいて、何をしていたのかなと思って。」

 と再度さりげなく水を向けてみることもできるでしょう。
 ほんの少しだけカウンセラーの側から話の腰を折ることについて、クライエントさんの承諾を得た上で、控えめな言い方で水を向けていることに注意してください。

 タイミングを外さなければ、ここでいきなり、

先生は私が喧嘩を止めないのが悪いっていいたいんですか?」

などといきなり問い返されることはあまりないでしょう。

仮にそういわれても、

あなたの中に、喧嘩を止めない自分が悪いという気持ちがあるの?...それとも、喧嘩の被害者は私、とんだどばっちり食らったという思いとかがあるのかな?」

などと、クライエントさんの気持ちを汲み、しかも、クライエントさんが、カウンセラーからのそうした発言を容易に払いのけて、自分なりの「第3の」感じ方を物語れるような状態になるように配慮しなから、控えめに言葉を返すと、クライエントさんの話は、それはそれで、予想もしない、有意義な方向に発展する可能性があります。

****

 こうした時、クライエントさんの話を、まるで映画やドラマを観るようにイメージしながら聴くセンスもあっていいかと思うんです。

 画面は、ひたすら、お母さんとお姉さんを交互にクローズアップ、あるいは二人が対峙するシーンを、短いカットでつないでいく......そうなると、「物語の主人公(面接に来て、話をしているのはクライエントさんですから!!)」であるはずのクライエントさんが画面に現れて来ないのが次第に気になるのが自然なところでしょう。

 1.一瞬でも、「ああ、またはじまった!!」みたいにうんざりした表情のクライエントさんへのゆっくりとしたパンした短いカットが、残り二人の登場人物の背中のあたりに映るだけでも、あなたは納得するでしょう。

 2.あるいは、いきなり勉強部屋にシーンが飛び、階段の下の方からのくぐもった音として母と姉の会話が聞こえ、勉強机で本を読んでいたクライエントさんが、バシン!! と本を閉じて、苦虫をかみつぶした表情で、ベッドに寝っ転がるまでの短いクロスカットが途中から幾つか挟まれても、あなたは納得しますよね。

 3.あるいは、全く別の家の外の住宅街の昼のシーンに飛び、主人公と父親が歩いているシーンになって「そうだったんだ」と本人がつぶやくシーンになって、その後、父親が喧嘩のそばで新聞を見ながら知らないフリしているシーンが一瞬目に入り、再び家の外での父と彼女の対話のシーンに戻れば、、彼女はそこにはいなくて、「実はそういう喧嘩があった」と、父から聞いたことがわかります。

*****

 私が、今の映画の比喩で、何をお伝えしたいか、おわかりでしょうか?

 ただ漫然と、クライエントさんの言うことを頷きながら聴いているだけだと、カウンセラーの側は、容易に、一番ありがちなケースを勝手に想定して、クライエントさんを「理解したつもり」になってしまっていることって、実はたいへんありがちだと思うんです。

 例えば、

 「学校の先生は、私が国立を受験することには反対なの」

という話を漫然と聴いていると、それが、

 1.実際に進路指導の場で教師に言い渡されたことなのか

 2.彼女が教師はそういう考えに違いないと思いこんでいるだけなのか

 3.先生がそのように考えていると彼女が思っも仕方がないとカウンセラーにもすぐに納得できる、教師と彼女との間のエピソードがあるのかないのか

 4.実は彼女自身が国立受験をしたくないのに、親にそれを求められていて、教師を、むしろ、自分が国立を受験したくない気持ちの補強証拠、代弁者として持ち出している可能性

....などが全く考慮されないまま、「教師は国立受験に反対した」だけが面接記録に残る可能性があります。これではカウンセラー側の体験過程尺度がstage 1だったということになります(マジだよ^^;)。

 こうして、事例研究発表は、カウンセラーの側の理解したストーリーのみが、あたかもクライエントさんが語った「事実」、あるいは、クライエントさんの関わる相手が語った「事実」であるかのようにのみ、並んでいく....という形になることがある。 

*****

 そうした意味で、実際に、カウンセラーがそれを実際に口に出してクライエントさんの話の流れに介入するかどうかは別として、その段階でクライエントさんがどういう体験過程水準の話をしているかどうかをスキャンしながら話を聴いていくことは、役に立ちます。

「あれ、この話の中に、クライエントさん自身はいつまでたっても登場しないな」(stage1)
「あれ、この話の中で、クライエントさんは、自分の気持ちについては直接言及しないままだな」(stage2)
「あれ、この話の中で、クライエントさんは、自分の気持ちについて時おり断片的に言及するだけだな」(stage3)  

.....のようなことに、カウンセラーが気がついておくだけでも、面接の流れは自然と異なって、深まってくるのです。

****

 今回は、残りの部分で、stage2 からstage3に向かうかどうか、という場面のみに絞り込んで、この前の仮想事例に基づき、具体的に観てみましょう。

 「私はその喧嘩のようすを、喧嘩がはじまる前から最初そばで観ていました。喧嘩が激しくなった時点で、何もいわないまま、2階の自分の部屋に昇り、しばらく座っていたあと、ヘッドフォンで音楽を聴き始めました」

 ここに、クライエントさんの心情が、暗々裏に語られていると推察できても、体験過程尺度の評定では、自分の感情についてはっきり言葉にしていないということにこだわります。

 このへんは、この尺度について学ぶ初心者が、最初につまづきやすいポイントのようです。

 「喧嘩にうんざりして、独りになりたくて、自分の部屋への階段をを登ったのなんて、みえみえじゃないの。どうしてこれが感情の表明に当たらないのか

と。

 そうでしょうか? そのように理解して済ませた瞬間、クライエントさんの話と気持ちを表面的にだけ「わかった」モードにカウンセラーは入っていないでしょうか?

 ここで、

「そういうのって、うんざりするよねえ

としかカウンセラーが応答しなければ、カウンセラーは、彼女の「愚痴を聞く友人たち」と同じ水準にとどまるわけですね。

最低でも、

「.......うんざりしたの?」

という、問いかけの言葉として発した方がいいでしょう。疑問文はそれだけで、クライエントさんに、そこから

”No,I did not feel......but,.......

口にしやすくなる関係性を喚起します。

 こうした時、クライエントさんが「そう」とうなづいたとたんに、カウンセラーの側で同意が得られたと早合点しないことが大事です。むしろ、カウンセラーの側から口にした言葉を、クライエントさんが、カウンセラーの語る言葉をあまりにあっさりと受け入れる場合にこそ、クライエントさんの気持ちを語れなくしている可能性を疑ってもいいくらいでしょう。

 この前の別の記事でも書いたとおり、カウンセラーの予想通りにのみクライエントさんの話が進むことの方が実はその面接が停滞している指標なのです。

 まずはクライエントさんの反応をじっくりと待つことが大事です。すると、

 「ウン、うんざり...........うーん、うんざりなんだけどねえ.....」

などとした言い方までクライエントさんは言い添えるかもしれません。

この「なんだけど」をしっかり受け止めて、クライエントさんが沈黙して何か言葉を捜している姿勢を汲めるか否かが面接の流れを左右することは珍しくありません。必要があれば、

「うんざりではあるけど......何?」

ぐらいの促しをさりげなく間合いを見てはさんでもいいかもしれません。

 私だと

「その時、何か独特の思いというか、心境だったろうねえ.....」

というふうに、応答していることが少なくないかもしれません。

場合によっては、話の流れが、カウンセラーの促しとはまったく別の方向に飛んだっていいわけです。

「実は本当は自分の部屋で過ごしたかったのに、母親が「おやつあるわよ」といったら一緒にコタツに入ってテレビ見てないと母親が不機嫌になるの。ほんとは一人で自分の部屋にいて彼に携帯でメールしたかったんだ。その時うっかり携帯下に持って行くのを忘れていたの。そしたら、私がいない間にメール入っててさ。お誘いだったの。それにすぐに応えられなかったら、彼は私の家と反対方向に男友達と電車で出発していてね。だから、母親につき合わされたのに一層むかついたの」

......などというふうにして、そもそも、それまでの数回の面接では語られなかった、「彼氏がいる」ということが、さりげなくも唐突に語りだされる展開だってあり得るわけです。

*****

 ただ、最後に言い添えます。

 こうした、ただ漫然とクライエントさんの話を聴くことから半歩だけ踏み込んだ介入は、カウンセラーが、クライエントさんから「情報を集めたい」だとか「わからないとことを正確に理解したい」という思いからなされるべきではないのではないかと私は感じています。

 クライエントさんが漠然と感じつつも、言葉にならないまま通り過ぎようとしていた事柄や気持ちや感覚を、クライエントさんなりに、日常よりも細やかに味わい、吟味する機会をホンの少しだけアシストする援助です。

 そこから何をどう、汲み取り、どのように面接の場で語るのかは、クライエントさんの世界に属する事柄だと思っています。


 なお、ここで述べつつある、体験過程を推進する応答については、ジェンドリンの「体験的応答」という古い論文が参考になります。日笠摩子さんと田村隆一さんの労訳で、TFIのウェブサイトの日本語のページに翻訳が掲載されています。


今回のアフィリエイトは、ちょっと意外性があるかも。でも、なぜ映画の「映像文法」のことを引き合いに出して「カウンセリングにおける理解」のことを語りたくなったか、という観点からすると、ここでこの2作をご紹介したくなる心境の一端は伝わるかもしれません。

 どちらも、映画史に残る、非常に巧みなカメラワークによって、登場人物が、この場面で、実際にはどういう心境でいるのかな? というあたりを、画面での様子からだけでは単純には決めつけられないあたりの含蓄にこそ、持ち味がある映画の代表作でしょうから。

「市民ケーン」(オーソン・ウェルズ 監督・主演)

「裏窓」(アルフレート・ヒッチコック監督)

【追記】:後に書いた、この記事も、私の問題意識のその後の展開として併読下さると幸いです。2つを読み合わせると、ちょうどいいバランスになるかと思います。

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2007/01/02

「オモテ」技法と「ウラ」技法 または収穫逓減の法則 (第5版)

 ある特定の流派の技法だけでどんなクライエントさん相手にも対応できるものではないと思う。

 また、あるタイプのクライエントさんにはこの技法がふさわしいということすら、一般に思われているほどには決定的でもないとも思う。

 同様に、同じクライエントさん相手に、毎回同じやり方で面接を繰り返すことも実はできないのだと思う。

 もし、これらにはまると,必ずといっていいほど、「収穫逓減の法則」に直面する気がする。一回あたりの面接の密度が下がり始めるのですね。

 もちろん、当初は、余計な力みが治療者側にあって、見かけの成果は一見大きいけど、それは結果的にクライエントさんにもいつの間にか、治療してもらうという「大仕事」において無理をさせている場合もあると思います。

 ですから、ある意味では、治療者から見ても「腹八分目」の対応が出来るくらいで、実は一番成果が安定してくる(治療の副作用が生じにくくなる)。

 しかし、ここで私がいいたい「収穫逓減の法則」とは、それとは似ていて異なる。

 むしろ、「成功例」に気をとられるばかりになって、いつの間にかセラピーのやり方が型にはまり、細やかな配慮を喪失して、機械的にルーティン・ワーク化した場合の弊害のことです。

 面接場面において、治療者側も、同じクライエントさんに毎回ごとに「ある新鮮さ」をもって接することが出来なくなるのはやはりひとつの危険信号ではないかと思うのですね。


*****


 もちろん、最低何かひとつの心理療法の技法について、厳密に理解し、しかも、その本質的エッセンスを、単に教科書的ではないパーソナルな次元で「掌握」できていることは大事だと思う。これは偉い先生の講義とかを漫然と聴いているだけでは決して生じないと思う。

 亡き恩師、村瀬孝雄が研究室でしばしば口にされていた言葉を借りれば、「著作と格闘する」努力を惜しまないということ「にも」あたる。

しかし、それだけに留まらないsomethingでもあると思う。


****


 「パーソナルな次元で掌握できる」とは何か。それは、私なりに定義をすれば、「その技法を自分自身に自分で適用して、明らかにそれまでの自分の長年の問題が変化して行くのをしみじみと実感できる」ということである。

 (もちろん、クライエントさんに適用する臨床経験の蓄積でも十分であろうが、例えば、身体障害者や発達障害者向けの技法や行動療法ですら、その技法を自分が受ける立場になってみて、その味わいにある手応えを感じたという経験がない人のことを、私は信頼できそうにない)

 そうなって来ると、次第に、別な流派の考え方やそのエッセンスについて、以前よりも開かれた耳を持ち、自分なりに納得できるように、少しずつなりはじめる気がする。以前は「字面」だけで「わかったつもりでいたことが、いかに浅薄であったかに気がつき始め、突如、「脈絡が読めて」来た感じがするのである。

 そういう経験を重ねるうちに、実は、各流派の現場の「達人」、いや、現場精神科医療の「達人」と言われる人たちがやっていることが、本質的な部分ではみな共通のエッセンスを持っているかのように感じられ始める。

 わかりやすい例でいうと、行動療法の山上敏子先生(2007年まで久留米大学文学部心理学科教授。2008年から福岡市・早良病院)の「暴露反応妨害法」が効果を上げるのは、先生の、クライエントさんへの、いわゆる「共感的理解」のセンスが半端ではないことと、クライエントさんとの「いい関係性」を維持する上での抜群のセンスによって支えられているから、というのは、先生の事例の紹介のライブに接した臨床家の間では,結構知られていることだろう。

 むしろ、行動療法内部での、「山上先生命!!」で技法を学んで来た人の事例発表の方が、何か面接過程がぎこちなくて、「共感的理解」と「関係作り」の点で物足りないと感じたことがある。

 逆に、まだ経験が浅くて、「とりあえず行動療法してみました」という人あたりの方が、行動療法としては荒削りでも、相手への共感と関係作りのセンスによってむしろクライエントさんとの関わりに好ましい展開が生じたのではないかと評価したくなることなど、学会やセミナーで経験したことがある。

 更にいうと、私が参加した場では、それらの発表者にコメントする山上先生のスタンスそのものが、まさしく「受容的・共感的」で、決して批判的な発言にはならないのにも、ちょっと驚かされた。

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 私は、いうまでもなく、フォーカシングを自分のベースラインにしているし、そのことを公言するし、私が少しでもカウンセリング業界で知られているとすれば、実際、「フォーカシングの先生」としてである。そして、自分の開業した、常設相談機関の名称に、日本ではじめて「フォーカシング」という言葉を含めた時点で、まさにエリクソンのいう意味での、臨床家としての「アイデンティティ」の確立は一定の段階に達したと言える。「自他共に認める」というのは、アイデンティティの重要な側面だからである。

*****

 ところが、そういう私は、現実には、面接現場でフォーカシングをクライエントさんに技法として学んでもらうことで成果をあげることの難しさに、誰よりも数多く直面して来たひとりではないかという思いもある。

 学生相談の常勤カウンセラーを務めた数年間で、守秘義務を守る範囲で、ご家族や教職員との連携や、コンサルテーション、大学の他部署や内部機関や外部機関との適切な「分業」と連携、カウンセラー間のチームプレー、相談業務を円滑化する事務的なシステムの重要性、組織全体、学生の皆さんへの広報活動、あるいは相談室運営についていかに意見を聞くかの意味など、いろいろ学ぶ中で、とても、面接室の中で「心理療法としてのカウンセリング」をするカウンセラーでござい、だけではやれない現実を身にしみて体験した。

 キャリアコンサルタントであり、ケースワーカーでもあり、プロデューサーであり、広報担当者でもあり、他の部署の大学職員の「同僚」であり、上司に「従う」存在であり、学内政治家でもあり、事務処理のコツもわきまえるということを、「現場カウンセラー」の分をまきまえつつも,少しずつは身につけないとやっていけないことに気がついた。

 .....その頃には一度体調を崩して、その職場を離れることになるのだが、「独立開業」という、全く別の条件の中で、実はこの頃の経験値がみんな,真の意味で生きているのである。何しろ、ひとりで、「組織としてのすべての機能」を果たす必要があるわけでして。こういう多様な経験値の「一身具現」は、大組織には不可能な、たいへんな「小回りの良さ」を効率的に発揮できることにも、殊に最近、気がついている。

*****

 そうした中で、「一般カウンセリングコース」において、「フォーカシングをこちらからお勧めすることはありません」と最初から宣言して開業するという、たいへんに逆説的な選択をした。

 面接場面の中で、フォーカシングし続けているのは、他ならぬカウンセラーとしての私というのが現場臨床としては適切というベースラインに立ったのである。

 私のフォーカシングに対する基本姿勢は、

「生涯一フォーカサー」

の一言に集約できる。

(南海の野村捕手兼監督ではないけれども....などという言い方からは、時代はあまりに遠くへ来てしまったが)

 私の人生における日々の出来事や、危機の解決にフォーカシングが役立つというベースラインを見失ったら、それは通常のカウンセリング場面での臨床家としてのセンスの伸びが止まるその時だと思い定めているのである。

******

 もとより、学会発表や講演等で接してみると、現場の実力が高いと感じられる臨床家の方は、結果的に、「フォーカシング的」と私にはかんじられる姿勢で面接の場全体を感じ、適切な応答や反応や提案をリアルタイムで吟味しているという点では、見かけのアプローチの違いや用語の違いを超えて、共通のエッセンスを感じる経験が、すでに私の中で蓄積されていた。

 私はそういう時に「それが自分の中でフォーカシングするということです」などとフロアから発言することは、たとえ知り合いだった座長に「フォーカシングの立場から見たらどうですか」などと振ってもらえても決してしない私は、学会で、自分の流派に引きつけるようなコメントの仕方をフロアから「自分で」するのも、なぜかすごく気が乗らないし、ほとんど嫌悪すらしているのである。

 まずは、その人の発表の趣旨に沿ったフレームワークの中で理解しようとした上で、何か釈然としない点について具体的に「追加説明」を求めていくというスタイルがフロアからの質問の作法として正しいと思っている。そのようにしていくと、その発表者の発表内容の問題点があるとすれば、おのずから浮かび上がり、会場全体でシェアできる議論になる筈である。


*****


 よくいわれる喩えだが、

「登山口は別々でも、結局同じ山の頂きに達する」

とは感じている。
 
 これは、最初から、何でも同じくらいにバランスよく学び、それらの中から自分に向いた技法を「選ぶ」とか、「場面場面で使い分ける」とか、「折衷」する、ということと似ていて、まるで違う、それはひとつの、その治療者における、「パーソナルな」統合に至る過程なのだと思う。ユングのいう意味での「個性化」とはまさにこのことであり、むしろその人の壮年期までの「灰汁(あく)の強さ」は次第になりを潜め、いわゆる「個性」がむしろ消えて行くかのようにすら見える現象である。

 厄介なのは、多くの心理療法流派の創始者は、今日に伝わる業績の、技法化として「一目を置かれる」部分を、たいてい人生の前半期に確立してしまっていて、それだけが教科書的に流布していることが多いということである。例えば、「フロイト個人に取って、フロイト個人のために」、精神分析はあのような「終わりなき分析」そのものの発展過程をとるしかなかった筈なのにである。

******

 ここでやっとこの記事のタイトルに引きつけられるまとめの言葉が書ける。

 私もそういう「個人的統合」の中途の段階にあるひとりに過ぎない。こうした段階では、自分が主たるオリエンテーション(拠って立つ基盤)にしている「オモテ技法」を「現場で支えて」いるのは、実はすでに、他の流派でもすでに言われ尽くしている個々の事柄の臨機応変な活用だったことに気がつくプロセスが、少しずつ具体的に実感できる形で進んで行くように思う。

 こうして、自分なりの「ウラ技法」体系が徐々に自覚されて行くのではないか。

 「オモテ技法」は、無数の,得てして治療者自身ですら部分的にしか自覚していない、無数の「ウラ技法」と表裏一体のものなのではないか。

 とりあえずの、仮説です。


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2006/12/30

体験過程尺度入門 -カウンセリングが「深まっている」とは、どういうことか?-(すでに第3版)

「体験過程尺度」という言葉を、このブログですでに何回となく使いました。それについて具体的に解説したことがないので、ここで、できるだけ簡明に解説したいと思います。

 「体験過程尺度」とは、わがりやすく言えば、面接の中で、クライエントさんが語る際の話の語り方の「深さ」について、統計的に処理するための7段階の指標です。

 原則として、面接の当事者(カウンセラー、クライエントさん)以外の、3人の、評定訓練を受けた評定者によって、沈黙の秒数まで記録された逐語記録と録音テープを元に、一定の長さに分割した断章(segment)ごとに、3人の評定者が、断章の面接内での実際の順番すら教えられないまま、合議することなく、各自独立して評定し、あとで評定の平均値と最頻値(mode)について統計処理することになっています。最近では録音のみならず、ビデオテープの録画を用いることも増えました。

 もちろん、録音や録画に、事前にクライエントさんからの許可が必要ですので、多くの場合、協力してくれる一般の方や学生を対象に、目的を明かした上での「研究のための模擬面接」としてデータを取る形で、まずはこの研究をはじめる院生の方が多いようです。

 実は、この尺度は、狭い意味での来談者中心療法だけではなく、およそどんな流派の面接過程についても、上記のような面接の記録が取られている限り、適用可能な尺度であるということは、日本ではロジャーズ派以外の臨床心理研究者への認識が薄いままと思います。例えば、精神分析的面接や行動療法的面接についてこの尺度による統計データをとっても十分な実証研究になるのですが。

 尺度についての細かい「版」の問題はあるのですが、ここでは、どの版にも共通するエッセンスの次元で、架空の具体例を示しながらできるだけシンプルに説明します。

.........

●stage 1

「母と姉が喧嘩をはじめたんです。姉は『私の買って来たジュース、勝手に飲んだでしょ』と母に言いました。母は最初、『そんなジュースあったっけ?』とか言ってたのに、そのうちに『飲んだかもしれない』とか言い出し、『でもあなた』.....あなた、って姉ですね.......『このジュース、私が買って来たものだから、飲むな、とか、私に言った?』と言い出した。そしたら、姉は「どうしておかあさんはそうやっていつも自分を正当化するのよ!!」と言って突然キレたんですね。それからが大げんかになりました」

評定基準:話の中身は、まるで報道ニュースの報告のようである。そこには、そもそもクライエントが登場人物として話の中に具体的に報告されてもいないか、登場していたとしても脇役であり、クライエントの感じた感情についての「具体的な描写」もない。

*******

●stage 2

私はその喧嘩のようすを、喧嘩がはじまる前から最初そばで観ていました。喧嘩が激しくなった時点で、何もいわないまま、2階の自分の部屋に昇り、しばらく座っていたあと、ヘッドフォンで音楽を聴き始めました」

評定基準:話の登場人物の主人公は明らかにクライエント自身となる。しかし、それは、クライエント自身がどのようにふるまったかの行動記述に留まり、クライエント自身の自分の個人的感情についての直接的言及を含まない

*******

●stage 3

「私が聴いていたのはB'zでした。.....先生、B'zって、わかります?(カウンセラー:「名前だけは」と応答).....私はすっと前からファンで、聴いてるんです。......そのうちに泣きたくなって泣き出しました。もううんざりしましたから。そして、床下に向けて一発ケリを入れたんです。(カウンセラーの応答:「立ち上がって?」)......ええ、立ち上がってです。ケリ入れた。思い切って.........すると母の、階段の下の方からの、「みゆき(クライエントの名前)、何やってんの!!」という声が飛んで来て。

評定基準:クライエント自身個人的感情についての具体的な発言(ここでは「うんざりして」)がみられはじめる。しかし、それはあくまでも、挿入句的な発言であるに留まる。

******

●stage 4

「私はその母の声に、一層ムカつきました。だって、楽しんでテレビ一緒に観ていたのに突然喧嘩はじめたのはあんたらでしょうが? と思って。(涙).....うちはいつも「こう」なんです。......でも、私は、そこでどなり返す気力も失せて、ひざを抱えて泣いていたんです。悲しくって。悔しくってこの悲しみを、家族は誰も受け止めてくれなくって。私の悲しみ、っていうのは、こういう気持ちを友達に話しても「よくあることだよ。うちもそう」で受け止められるだけってことでもある。同情してくれてるのは伝わるんだけどさ。感謝してるよ、友達には。でも、話しても「どこででもありがち」で済ませられたら話した甲斐がないってもんでしょ? だから一層悲しいわけ。一層無力感じるわけ。..........これじゃ悲しみの無限連鎖だよ。先生が好きなayuの曲で言うと"Endless Sorrow"って奴。そうでしょ?」

評定基準:個人的感情への挿入句的な言及にとどまらず個人的感情そのものがその時のクライエントの話題の中心になる。

*****

●stage 5

「まてよ....私は『悲しい』のかな?『怒ってる』のかな?......ちょっとまって下さい、先生...(沈黙38秒)...『そうやって、悲劇のヒロイン演じてな!』って冷たい視線を送る、もうひとりの自分がいる気もする。...(沈黙20秒)...私が私に誰より残酷なのかな?....(沈黙18秒).....でも、親も姉貴もあの程度のことで喧嘩するな!! って言いたい私もいる。でも、『それを二人に言ったの? 悪いのは結局言わないお前自身だよ』、で済ませれるのも嫌!! .........(沈黙47秒)..........待って!! それも私自身が自分で自分に言ってるよね。『結局言わないお前が悪い』って....(沈黙29秒...)...結局一番自分に冷淡なのは、私、ってことなのかな?[ため息」...(沈黙40秒)....でも、それだけで済ませるのでいいのかな..........」

評定基準:自分の感情について、そのように受け止めるだけでいいのかについて、自分で仮説を立て、それを自分の実感に照らし合わせて「吟味」する、「探索的」なプロセスが進んでいる。

*****

●stage 6

「........(1分06秒沈黙)........そうか、そうだよね.......そうなんだ。(カウンセラー:「.......何? どうしたの?」) 「おせっかい」過ぎるんだ、私って。バカだね。(カウンセラー:「おっせかい過ぎる」.......何?)........自分自身に誰よりおせっかいなんだよ。バカ、『自分で自分をそうやって追いつめるなっつーの!!』 アホ!! .......私の中に、恐怖の『おせっかいババア』が住んでるの(笑)。いつのまにか、そうだったの。今頃気づいた。........(36秒沈黙)..........そいつ、『千と千尋』の大浴場のボスのババアみたいな顔してる(笑)。美輪明宏だったっけ? あの声やったの。........怖えーよ、そんな顔してたら。てめーが、そんな怖い顔してたら、お前の焼いたおせっかい、誰にもその真意、つたわんねーよ。......バカだこいつは。バカ.....(涙ぐむ).....」

評定基準:心身の解放や緊張の低下と共に、それまでとは全く異なった自己や他者についての認識が言葉にされ、自己に統合されはじめる。

******

●stage 7

「おせっかいババア」は私。.......でも、私自身に対してだけじゃないよ。......うちの家族、結構いい加減なところがあってさ、実は「仕切ってる」の、私なんだ。冷蔵庫。普段から、もう古いものとかないかどうかチェックしてさ、「もーう、捨てなよこんなのー、おかあさん、賞味期限切れてるよ」...とか、うるさいの、私。.......でもおかあさんは「そう?」って言うだけ。結局私が「捨てるよー」って捨てるまで 捨てないの。だから今回のような事件があると誰より腹が立つんだけど。
 普段はろくに勉強もしないままで、家で一番のダメ人間みたいに言われてるけどさ。実は私がこの家族を「支えて」いるの。そこまでしなくてもいいはずなんなだけどさ。「見てれんねえ」よまったく。私って、偉いね。偉過ぎるよ。全然偉くないのに.....(涙)
 ..........友達関係でもさ、私はいつも相談相手にされること多くてさ、人には偉そうに説教たれてる。後輩には、まるで「お姉様」って慕われてる感じ。そうなると、もう、「うざい」って内心感じることもあるけどさ、かわいそうじゃんか。ついついつきあうわけよ。話に。
 .......そうなったら、みんな、私が頼りがいがある強い人間とだけ思い込むじゃんか。言ってもわかんねえよな、私の愚痴。たいしたことないことのように受け止めるよな。通じねえよな。通じねえ.....」

評定基準:ある特定の気づきが、別な状況についても連鎖反応的に気づきを生み出したり、より一般化した形での,統合的な気づきへと進展する。

********

 繰り返しますが、上記の例は、私がこれを書きながら創作した、架空の例です(^^;)

 カウンセリングがいい形に展開すると、クライエントさんの中に、こうした展開が生じてもおかしくないことは、皆様にも「何となく」十分実感できるでしょう。

 こうした「体験過程尺度」をカウンセラー自身が十分会得した状態で実際の面接に臨んでいるだけでも、面接が今どういう状態にあるのかの、面接のライブのただ中での吟味の指標になります。
 そして、その瞬間その瞬間で、カウンセラーとして、何に、どのように応答するかを検討する指標にもなるわけです。
 この、「応答の仕方」についての技法体系のことを、「体験過程インタビュー」といいますが、これについてはまたの機会に。

******

 この,体験過程尺度の研究と,この尺度の使い方の指導者としては、現在関西大学におられる池見陽先生が「文句なく」日本の代表者です。に、一般の皆様向けの平易な図表があります。

 私も、池見先生に「仕込まれた」おかげで、この尺度の「評定者」としては日本で実力あるひとりに入っています。統計処理については自分の大学の先生や先輩に相談して下さい。

 「評定者」としての研究協力への依頼、あるいは、「評定のしかたのアドバイザー」としてでしたら、職場の「ケーススーパービジョン」枠で、院生でしたら割引でご相談に応じます(^^)。

 ただし、自分で評定のための資料はすべてそろえて、研究の方針もしっかり自分なりに立ててから相談してきてね(^^)私は、たったひとりで、院の研究発表会の一番意地悪なコメンテーターがたちが発言する可能性のある「揚げ足取り」のパターンを凝縮してお伝えしようと思えばできますので。
 つまり、実証的研究者の「あら探し」の手口についてシミュレーションし尽くせるぐらいには、他の人の調査研究発表とその際のフロアとのやり取りのパターンについての経験値はあるし、数字と計算そのものには弱いのに、一般心理学における実証的リサーチの際に必要な事柄とは何かだけは、きちっと基礎はわかってます。
 要は、どういう「あら探し」をされるかについての「先取り的な対処」がどこまでできているか(その研究の限界をどこまで自覚しているかそのものを「考察」「今後の課題」の部分で先取り的に示せるか)が、卒論・修論検討会のほんとうの正否なのよん!! 


浜崎あゆみ - I Am... - Endless Sorrow (Gone With the Wind Version)浜崎あゆみ/"Endless Sorrow"
(アルバム"I am..."
所収)

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2006/12/27

「監督」クリント・イーストウッドと浜崎あゆみの共通項

「硫黄島からの手紙」の公式パンフを読んで痛感したこと。

なぜ、あんな大作、しかも日米双方の視点から描く「2部作」として、クオリティをそろえて、連続制作・公開できるのか。


*****


1.一度制作スタッフとの信頼関係を作ったら、できる限りずっと大事にすること。

2.その制作スタッフの「後継者」作りを慎重に、着実に行って、無理のない「新陳代謝」をしていくこと。

3.一度信頼したスタッフたちの主体的な意見に虚心に耳を傾け、参考にしながらも、最終責任は自分の「感性」できちんととる「ボス」であること。

4.「俳優」たちの持ち味を大事にし、自分で考え、試行錯誤させた上で取り組むので、「同じカットの取り直し」をあまりせずに「本番」に臨める。結果的に経費節約、撮影期間の短縮化に貢献する。

5.「編集」こそ楽しい。
そのうちに、
「編集の必要な余計なシーンそのものを最初から撮らずに済ませられる」
雰囲気をスタッフや俳優たちや自分自身に育む、
「相互作用的な場の雰囲気」
が生じる。

6.プレイング・マネージャーである。

7.経験を蓄積し、いい形で発揮する効率がきわめていい。


****


これは、浜崎あゆみにもそのままあてはまることである。

これこそ、本来の意味での、カウンセリングにおけるパーソン・センタード・アプローチの本質である!!

カウンセラーこういちろうにも、ささやかながら、あてはまりつつある......と信じたいのだが(^^)

(「お友達」が、また増えた!!)

******

この最新のライブDVDの「編集者」として、正式にクレジットされてますしね。昔の「ボス」もちゃんと最終日の楽屋に来ているあたり、さりげなくエンディングで見せているあたり、

「どこの誰だ? 『喧嘩別れ』なんて、マスコミで憶測で書いたのは?」

ということを示唆する、さりげないayuの意図でしょう(^^)

****

 ちなみに、この記事は、それこそ「ライブで」書いている即興記事でして、

 この前お約束した、

浜崎あゆみのライブ技量向上の秘密具体的分析

カウンセラーこういちろうの「ライブ面接」は、浜崎あゆみの「ライブ」を体験する中で、どう、結果的に無意識のうちにも「影響され」、「技を盗『んだ』か、という、大風呂敷なネタ)

......の本編は、もう少し後に来ます(^^)

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

HMVジャパン

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2006/12/13

カウンセラーの皆様のための、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の歩き方(^^)

 さすがに記事の数が600を超えて来ると、いくらWeb上のカウンセリング論Indexを作っていても、そのindexそのものが既に260記事なんていうとんでもないことになっているので、そもそもどの記事から私のブログの記事を読んだらいいのか見当がつかないというご意見もいただくようになりました(^^;)

 そこで、今回は、主としてカウンセラーの皆様向けの記事としては、まずはここからという記事を紹介します。

*******

■受容・共感と自己一致の相克シリーズ

相談に来た方の話を「受容しよう」と「がんばる」ばかりのカウンセラーの弊害

「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)

カウンセラーは、クライエントさんの話を「受容・共感」できない方向に、徐々に追い詰められていくことも多い

自分が相手に共感できて「いない」ことを「自己『共感』」すればいいのだ!!

クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと


.........この5作完全な連続した内容になっています。文頭と文末にリンクは張ってあるのでつなげて読めます

 これをお読みになると、ロジャーズ派カウンセリング(来談者中心療法/パーソン・センタード・アプローチにおける「面接場面内でのセラピストの自己一致」とは、実践的にみてどういうことなのかを、噛み砕いて説明したことになっていると、ささやかに自負している連作です。

 精神分析で言う、「治療者の逆転移の活用」というのも、ここで述べたことをアウトラインにすると実は有効に働く筈、と私は感じています。ビオンのいう、治療者が「”container"ななることとか、治療者の"reverie(もの思い)"というのも、実践的に見ればこうしたことだろうと思っています。


*****


 この「受容・共感と自己一致の相克シリーズ」をお読みになった上での方が、


事例検討(ケーススーパーヴィジョン)3部作


が自然と理解していただきやすくなると思います。


「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~

私のスーパーバイズ ~実践編~

スーパーバイザーとカウンセラーの関係は、カウンセラーとクライエントさんの関係の「写像」となる


 まずはこの7編に私のカウンセリング観は集約されていると自負していますので、未読の方はこの順序でどうぞ!!


*****


そして、特に病院臨床系のカウンセラーの皆様で、こういちろうのコアな実力のほどをを検証されたい方には、何と言っても


■特別連載: NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」についての感想

がお勧めでしょう。

 ここまで書いたら、お医者さんとの関係、越権スレスレなのは承知!!

 でも、私のポリシーって、実は、

「病院臨床の臨床心理士との関係より、お医者さんとのダイレクトな人脈作りが肝心」

っていう、鳥ともコウモリともつかない(.....ここで「ケモノ」と書かないところがミソ)、何とも老獪な戦略が基本にありますhappy01



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2006/11/25

速報!! 2009年5月、フォーカシング国際会議、日本の淡路島で開催決定!!(第3版)

 フォーカシング国際会議が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されることになりました。

●公式サイト

 場所は、兵庫県淡路島の北端、明石大橋を渡って十数分の、「淡路夢舞台」にある、淡路島Westin、そしてこのホテルと直接つながった、兵庫県立国際会議場(Wikipediaはこちら)です。

 海を眺望できる、自然に包まれた北淡路の高台にありながらも、日本とは思えない、すべてが完全に「外国人向け高級仕様」の超ゴージャスな外資系リゾートホテルと、これまた窓からの眺望のいい分科会用の小会議室をたくさん備えた国際会議場での体験は、日本に居ながらにして外国旅行の気分も味わえる素晴らしい会場です。

 (団体割引が適用されますので、一泊あたりの食事込み宿泊料金そのものは、施設の「超」ゴージャスさからすれば「予想外なまでに」リーズナブルとなります)。

 茶室や植物園も隣接していますし、京都のお寺とをバスで往復しながらのレクチャー付きの、移動形式の、東洋と西洋のスピリチュアリティの出会いの参加企画などもすでに有力な構想に浮上しています。

 神戸方面からの公共交通の便も、バスが10-20分に1本という、至便の地です。

 主催:フォーカシング国際大会実行委員会(会長:池見陽)
 後援:日本フォーカシング協会(次期会長:吉良安之)
    The Focusing Institute日本コーディーネータ−会

 参加資格は特にありません。フォーカシングに関心のある世界中の皆様に開かれた催しです。

 「会議」と銘打ってはおりますが、単なる国際学会大会というより、むしろ「全世界のフォーカシングに関心を持つ人たちの、年に1度の交流の集い、お祭り」というべきものです。

 これまでも、すでに年一度、18回にわたり、各国のThe Focusing Instituteのコーディネータ有志を主催者とする形で、それぞれの持ち味を生かしながら、北米(アメリカ/カナダの各地域)、西欧各国(イギリス・アイルランド・ドイツ・オランダなど)、中南米(コスタリカ)で開催されて来ました。

 来年、2007年はイスラエル、2008年はカナダのモントリオールでの開催がすでに予定されています。

 学術研究発表というよりは、自由に参加できるさまざまな20近い分科会やパーティー、オプショナルツアーなどを包含する、宿泊形式の数日かけての体験中心複合ワークショップとイメージしていただくといいかと思います。

 フォーカシング体験がない人ですら全く違和感なく参加でき、なおかつ世界各地のフォーカシングの各領域の「最先端」のディープさも体験可能という、何とも懐の広いプログラムとなっています。

 現場心理臨床のみならず、さまさまな経歴を持つ人たちが、各国のさまざまな状況下での教育現場、宗教、開発途上国への支援活動、芸術、民族問題、差別や貧困の問題、国際平和活動、哲学、東洋思想など、独自の観点からアプローチして、フォーカシングを活用しようと情熱を傾ける人たちかいるのだという、それらの方々の生き様とプレゼンス(ひとりの人間としての存在感)に触れるだけでも刺激的な体験です。フォーカシングについての既成概念を覆すさまざまな「発見」と「出会い」に満ちあふれたものになるでしょう。

 そして,世界のフォーカシング関係者は、世界有数のフォーカシング大国になりつつある「日本では」フォーカシングがどのような広がりと展開を見せつつあるのかに、たいへんな関心を抱いています。日本の草の根のフォーカシング・ピープルたちからむしろ啓発される、刺激的な出会いを待ち望んでいます。

 日本各地のフォーカシング関係者からの、自発的な分科会「開催」申し込みも幅広く受け付けます

 すでに来日してワークショップを実施してきたトレーナーの先生方のみならず、「日本では」まだあまり知られていない、欧米(ギリシャ含む)や中南米、イスラエルの、さまさまなジャンルにおけるフォーカシングの実践家や愛好者、数十名以上が来日して下さるものと思います。

 日本からの一般参加者も、流派や経験、専門家であるか否かを問わず、幅広く歓迎し、総参加者200名ほどとなるものと思われます。

 使用言語は日本語と英語を予定しています。

 なお、特に日本では5日間連続で、普段の仕事を休んで、宿泊形式のワークショップに参加するとなると二の足を踏む皆様が少なくないかと思いますが、日程の部分参加も歓迎できる方向で検討中です。

******

 ここ数年、日本からも毎年数名から十数名の参加者が各国での国際会議に参加して来ましたが、ついに3年後日本ではじめて開催することとなり、本日まで開催されておりました「フォーカサーの集い in 島根」で、正式に、有志による実行委員会の発足が決まりました。

 このような大規模な催しですので、国際会議の具体がどのようなものになり、プログラムの具体や参加参加申し込みのシステムなどもこれから検討されて、徐々に具体化されて行きます。

 いずれこの大会のための日本語版・英語版の公式サイトも立ち上げられる予定です。ネット上でのそうした動きが進みましたら、この場でもお知らせいたします。

 (私もすでに実行委員のひとりではありますが、今後は、具体的な開催内容についての情報は、公式サイトに譲りたいと思います。「こんなことも既に公式サイトで正式公表されました」ということをは、折々こちらのブログでも「私的に」お伝えするかと思いますが)

 具体的なお問い合わせは、日本大会公式サイトが立ち上がってから、公式サイト経由でお願い申し上げます。


*******


 ちなみに、当ブログの1年少し前のフォトアルバム、「淡路島縦断の旅」は、実は、大会参加経験がある関東のTFIコーディネーターとして、「会場候補地」を、他のコーディネータの皆様の了解の元に「お忍び視察」(?)させていただいた時のものだったのですね(^^)。実は、この時に、すでに営業の方に会議場を含めた「全施設」を見せていただいていました。

 つまり、すでに2年以上にわたり、日本のコーディネーター会で、2009年のフォーカシング国際会議誘致については検討を重ねて来て、やっと本日から、「国際会議開催」と参加への呼びかけを広めることが可能にになりました(^^)。

 まもなく、このフォトアルバムは「フォーカシング国際会議開催予定地はこんなところ」みたいなタイトルで、分割・再構成いたします(注:あくまでもプライベートな紹介記事です)

 私が参加した、2005年のトロントでの国際会議の写真集「トロントだより」こちら。フォーカシング国際会議が堅苦しくない、ユーモアに満ちた催しなのは、この写真集からも汲んでだいただけるものと思います。


******

追伸:

「フォーカサーの集いin 島根」に参加された皆様、またの出会いを楽しみにしております。

 土江正司さんをはじめとする、島根の「集い」を企画・運営して下さった皆様、盛りだくさんの楽しい日々、ありがとうございました。お疲れさまです。

 明日(26日)は、これらの島根のスタッフの皆様が企画して下さった、出雲の神話の里をめぐるオプショナルツアーに参加します。


           松江より こういちろう

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2006/10/26

生活の中で刻々と実践され、試行錯誤されるフォーカシングこそ意味がある。

 日々の生活の中で、自分の中に、漠然とした言葉にならない「感じ」が生じた時に、それに「気がつき」、センサーをのばして傍受する。

 一切、感じそのものを「変えよう」とか、それは何が原因か、どうすればいいのの答えも探し求めなくていい。

 それでも浮かんで来るいろんな想念は、みんな「そういう考えも、判断も、ありかもね」くらいに、みんな、付箋を付けてこころのどこかにつり下げておく。

 ほんとうは、フォーカシングとは、これだけです。

****

 このことを磨くためには、フォーカシングを「教えてもらおう」と、一切他人に期待しないで、フォーカシングについての既に出ているいろんな著作から「つまみ食い」しながら、自分の人生そのものを舞台として、いろいろ実験するのがいいのかも。

 この、恐ろしく単純なことを、しつこいまでに、自分の中で試行錯誤して繰り返し、フォーカシングが日々の「現実」の中で果たすスキルを磨き続けている人が、今の日本にどれだけいるのか?

****

 トレーナーとしての私は、一度こうした修練を始めた人が、「日常の中で」どんなフォーカシングをしたかの「聞き役」になり、時にはアドバイスしたりする「相談相手」(助言者)に過ぎなくなる。

 フォーカシング学習中のその人は、何かと言うと私の話をさえぎり、トレーナーとしての私への不満やら、フォーカシングへの不信やら、

「今、先生の話を聴いていて、こんな感じが実はしていた」

とか、いいたい放題。


そして、

「今からこのことについての感じに触れてみます」

突如宣言して、

私の前でフォーカシングを始める!!

当然、私は聞き役になる。


「.......あの、座ったままではうまくいかないので、ホールボディ(・フォーカシング)に切り替えます」


どうぞご自由に。


......あ、姿勢を「一気に」そこまで変えない方がいいかも。

 きっとその姿勢にも「何か」そうなりたいものがあるんだと思うけどさ。

 ゆっくりと味わいながら、もう一度最初の姿勢からやってみるのもいいかもしれないと,私は思ったんだけど?


******

.......これが、フォーカシングを学ぶ人への私の援助の、今のところ、理想の形だと思ってます。


Apple Store(Japan)

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2006/10/19

オランダという国が、驚くべき「合理主義」「自己責任」の国であるということ(第2版)

 オランダという国は、プロテスタント中心に当初国が築かれ、国土も干拓による人工なら、国民も亡命者や移民を大量に受け入れる人工国家で,極度に個人主義的な歴史を持っているせいか、スペインからの独立を勝ち取って以降、常に近代の最先端を、良きにつけ、悪しきにつけ、走ってきた国です。

 東南アジアにおける植民地支配の問題は、戦後のインドネシア独立まで、後味の悪いものを残しました(そしてオランダの戦後の国力を一度一気に疲弊させたようです)。

 しかし、日本が鎖国の時代も、直前の島原の乱に幕府側に援軍するという駆け引きを経て、ポルトガルを追い出して、「出島」という長崎のたいへん小さな「人工島」=「人工極小植民地」(明治以後、周囲がみんな埋め立てられて、長崎市街地の中で、その形態の一部が川筋にわかるだけになっていたということは、長崎観光した人なら知らない人とはないでしょう。後日調べたところ、今や「出島再現プロジェクト」がどんどん実現されているとか......)にのみなら居住することが許されるという、日本を脅かさない絶妙の条約によって、日本と西洋との交易を「独占」し続けることができた、唯一例外的な西洋の国として残った。

 そのあたりに、地理的には小国であるオランダが、イギリスやドイツ、フランス(その後一度オランダを占領しましたが「併合」には至らず)、スペイン、ボルトガルを向こうに回して、通商国家として独立を保ちつつサバイバルする「合理主義性」が現れています。

*****

 ある意味では、香港は条約の期限切れをきっかけに手離しても、未だにスペイン側の「ジブラルタル」という海外領土には結果的に固執している、イギリスの方が、ある意味では意固地なまでに、近世はじめと同じ「制海権」に固執している。イギリスの通貨のままで、イギリスの海軍基地で潤う現実で、住民投票の「投票数」を維持し続けているだけともいえます。スペインは今やバスク地方の自治をあそこまで認めているくらいなのに。

 (後日記:もっとも,スペインもジブラルタル海峡の反対側に「セウタ」という領土をもっていることを私は知りませんでした。アフリカ人のヨーロッパへの密入国の拠点とか。いやはや.....)

 本からの知識や滞在者の話を伝え聞く限り、いかに植民地時代の暴虐な海外支配の歴史を背負っていても、イギリスの風土と国民性は大好きだし、ウィニコットを生み、バリントに活躍の舞台を与えた、精神療法史上の業績は決定的だし、イースト・アングリア大学のバートン先生と、彼が率先して生み出した、パーソン・センタードの、今やロジャーズを生んだアメリカにすら存在しない域の専門家教育システムは画期的ですけど(^^)

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 それはそうと、オランダの話に戻ると、「アムステルダムの『飾り窓』」といえば皆さんもご存じのように、オランダでは、売春が国営です。そのようにして、性病やエイズの危険を含めて厳重に国家管理し、「裏の世界の人間」と切り離す方が、売春婦自身や、国民全体のため、という、驚くべき「合理主義的」発想の制度が議会で可決されて、実行され続けてけています。

 これは、カトリック系住民があまりいないからこそ実行できたことでしょうが、日本の北端と南端の距離感覚でいえば、「国内旅行の距離」に、バチカン(ローマ法王庁)はあるわけです。こういう「地政学的」政治のあり方って、日本では想像できない距離感ですよね。

 もちろん、国内にもこの法制化に「違和感」を持つ人はたくさんいるでしょうが、売春婦自身と、性病やエイズ感染の危険,国民全体の利益、そしてそれでも売春する人は「自己責任」の人しか残らないはず、という観点から、「理性的に」受け止めているのでしょう。

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 もう一つ、「飾り窓」ほどには知られていないのは、麻薬の合法的な「喫煙」が認められている種類の範囲が、欧米先進国で最も広い国(のひとつ)ということだと思います。

 これは、私、昨年、カナダのトロントでのフォーカシング国際会議で、「フォリー」という余興の会でのオランダからの参加者(私と同じ国際認定資格を持つ、立派な臨床実績を持つ、年配のコーディネータの著名な先生すら含む)の寸劇でさりげなく演じられ、その時、日本のフォーカシング教師として有名な○○さん(本人の許可いただいてないので、匿名!)から、現場実況中継で「解説」してもらって、私もはじめて知ったことだったりします(^^)

 これでは、オランダでは、麻薬が高価にもならないので「組織」の収入源になりようがない!!

麻薬をたしなむことですら、「自己責任」の国、それがオランダです!

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 ところで、フォーカシング国際会議での、このフォリーという催し、ほとんど「学芸会」といいたくなるくらいに、各国の参加者が「凝りまくり」ます。日本人グループも、休み時間に顔を合わすと、それをどうするのかについての、参加者間の「稟議(りんぎ)」...といっても、何ともイージー・コーイングで、ケ・セラ・セラ(=なるようになるダバないダバさ)な「稟議」でしたが....が重ねられ、気がついたら、私は、いつのまにか乗せられて、日本の「応援団長」の再現をやることになった。

 しかも、中学時代に生徒会で応援団員やらされた実体験あるから、フォリーの「本番」の「舞台の上」では、日本からの参加者すら驚愕させる、応援団長本来の「本格的な」声の出し方でやって、「日本の男性って怖いんですね」という誤解を、国際会議的に(?誤字にあらず)振りまいたのが、他ならぬです


 こういう時に、当時まだ身体のためにアルコールやめていたままの中でも、下手に恥ずかしがらないで、「本気で"playing"できる」あたりに、私に英会話力以外の秘めたる国際人としての可能性が「すでにあった」(???)ことに「自分でも目覚め」はじめたわけですが。


 (これについては、門外不出の、貴重なビデオによる歴史映像資料が関西の某大学研究室に保管されているとのこと)

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 そういえば、トロントの街中でひとりで探索した時も、ちゃんと「指定された喫煙スペース」で煙草を吸っているだけでも、怒鳴ってきたり、数名で明らかに陰口を始める人たちはいました。"smoking"って単語をあそこまで連発されれば私でもわかります。驚くなかれ、チップをけちったせいか、他にも私が店に入る前から悠々と煙草を吸って座り続けている人がいる飲食店の喫煙スペースで、

「あなた、あと10分ね(You are after 10 minnits!)」

という、さすがに私もわかる、凄い言葉を、ウエイトレスさんから浴びました。カナダ人はアメリカ人よりかなりソフトな国民ときいていたのですが。

 私は「分煙」には賛成です。だから、東海道新幹線で喫煙できるのが、グリーン車1両を除くと、両端の4両にまでなってしまったのは自然な流れと受け止めています。吸いたければ喫煙車や喫煙スペースまで歩くし、「喫煙車」でも、子供が乗っていたら遠慮するし、となりに座る人がスモーカーでなさそうな時は「吸っていいですか?」と声をかけることまでします。(これが、がらがらに空いたこだま号の自由席喫煙車しか原則的に乗らない、という、この前の「こだまセラピーの勧め」の記事で必ずしも強調しなかった、ひとつの理由です。

 でも、「喫煙の本人への害は自己責任」という立場です。

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 それにしても。過去、「禁酒法」を敷いたと思ったらマフィアをのさばらせ、未だに「銃を自由に買える」ことには多くの州でこだわったり、今では喫煙者や太り気味というだけであざけりの対象となるアメリカって国の国民の過半数が未だに浸る、子供みたいな「正義か悪か」のalternativeさって何? っていいたくなります。

 食生活が戦後急激にアメリカナイズされたばかりに、和食を離れ、脳卒中と心臓発作のリスクが昔より高くなり、その意味で動物性の油分の取りすぎに用心すべき日本人とは異なり、体質的に、肉食中心文化の欧米人は、「中年以降、一気に太ることへの身体的耐性」が高い人が、比較的多い筈なんですが。

 どうも、いわゆる「アルカイダ掃討のための軍事行動」は、9.11後、初期の段階から、ブッシュ自身というより、外交に弱いフッシュ大統領の足元をみて取り入った、「とりまき」の二人の政治家(副大統領と国務長官だっけ?)が、ニクソン政権、父ブッシュの頃から営々として築き上げた、政治的実権を最終的に掌中にしたいがための、「シビリアン・コントロール」の次元での実権掌握の際の情報操作が原因で、それは、クールに「テロ撲滅に軍事力が必要」と考えるCIAの特殊部隊を指揮する首脳たちからしても、「全く見当違いの形での軍事作戦」の展開という「理不尽」になっていたらしい、というドキュメンタリー「“テロとの戦い”の真相」は、つい先日たまたまNHK衛星放送で再放送で見ました。(こちらも参照)

 実は、その日の晩、私は、「心理臨床学会第25回大会」で大阪にいた!!

 「台風がそれるといいですね」と、懇親会の最後に倉戸大会準備委員長に挨拶した後、台風の進路を気にするあまり、「珍しく」ホテルに帰り着くなりテレビをつけたら、台風情報に続いてこのドキュメンタリーの再放送をやっていたわけですね。

 その「前編だけ」、と自制したのですが、「前編に関しては」思わず見入ってしまい、その結果余計に睡眠時間が減った。

 その結果、翌朝、強引に目覚ましで起き上がって、午前6時のニュースを見た際の、天気予報と学会参加についての「的確な判断力」が失われた.....。しかも疲労困憊していたので、そのまま、何と、フェルトセンスのお導きのままに、難波から近鉄の名阪特急で近鉄名古屋まで「完璧に爆睡」して、少し持ち直し、「名古屋始発のこだま号」に乗り換えた後に小田原で乗り越す心配を「事前に軽減した」形で、小田原乗り換えで大船に帰った.....

......ことの真相とは、これくらいにシミュレーション不能な、小さな「偶然」と私の「体調優先」の積み重ねなのだ。

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......ということで、msnエンターティメントの、"THANK YOU FOR SMOKING(邦題「サンキュー・スモーキング)"という映画についての記事、たいへん楽しく読みました(^^) 「スピンニング」っていうんですね。情報操作のことって。

 そして、ウェブ版毎日新聞の、ネットに関するこの記事には、ちょっと言葉がない........

******

 わかってるの?某サイトの「..........さん」。

 ある人が「見た」「聴いた」現実は、現実のほんの一部分の、勝手な自分に都合のいい拡大解釈ということはいくらでもあるということ。

 それが『スピンニング」ではなくて、「純粋かつ独善的な正義感」の産物だとしても。


 臨床心理士として、自戒を込めて。

*****

 日付変わって、今日は定休日ですから、ここまで書いてしまった.......

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

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2006/10/18

大学学生相談は、狭い意味でのカウンセリングをはるかに越えた領域の「専門性」を求められる

 本日、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトの

「業務内容概略」の、一般の皆様向けのカウンセリングのコースについての解説として、以下の文言を付け加えました。

******

 社会人、大学生およびそのご家族・関係者とのカウンセリング、

大学教職員の皆様や会社・組織におけるメンタルヘルス啓蒙活動、

地域精神医療・保険機関との関わり方についてのコンサルタント、

ストーカー、キャッチセールス、ネット詐欺など、

狭い意味での「心理カウンセリング」にとどまらない、

多様な問題解決のアドバイザーとしてお役に立てるかと思います。

*****

 「大学学生相談」とは、病院臨床水準のアセスメント能力のみならず、上記のような諸問題についての幅広い情報ネットワークについての情報と、それを多様な形で発信するスキルを持ち、必要があれば適切な外部機関をどのように紹介すべきかについて判断できるだけの力量が必要な場です。

 そういう中で、私は5年間、大学学生相談の領域では日本最大規模の学生相談センターのチーフ格を曲がりなりにも勤め上げました(最後にはギブ・アップしましたけどね(^^;))

 このことの「経験値」を本当にバランスよく生かせるようになったのは、開業してからなんだなあ、と、最近つくづく思っていたのですが。


 これって、やっぱり、一般の皆様には説明しないとわかりませんよね(^^)

......と、今頃気づきました(^^;)


 これが、「現場臨床の専門性」だと思ってます!


 私のもとにおいでになるクライエントさんや、スーパーバイジーのカウンセラーさんは、ほとんどの方がご存じですけど(^^)


*****


 これらに加えて、フォーカシングの理論面・技法面・実践面での、偏りのないエキスパート.....であることを、自他共に認めています。


 欠けているのは統計的研究の数値処理能力と英会話力で、原著論文の数の少ないのも確かですが。

.....ということを、日本のフォーカシング関係者は皆さんご存じです。

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本心から行動することとは?

「本心から行動するとは、自分がいる状況についての全体の感じに注意を向け、葛藤する衝動のそれぞれに気づき、その状況に適用される道徳的実際的な原則もわかりつつ、そのことすべてについての自分のフェルトセンスから行動することである」

パーソン・センタード・セラピー「パーソン・センタード・セラピー」(キャンベル・バートン著 日笠摩子訳)p.45より。

太字は訳書でも太字です。

*****

.......このことが本当にできていれば、それだけで、人が、周囲と折り合いつつも、自分を見失わずに生きる道を現実に切り開く上では十分だろう。

 このことをこれだけさらっと書ける、バートンという先生を、私は心から信頼できます。

  私が、この1年半やってきた生き方は、まさにこのことをひたすら追求してのものでした。

 すべてをそれに「賭けた」のです。

 海の向こうの空の下には、こういう人がいるというだけで、私はほっとするのです。

*****

 ほんとうに、基本的なことから、
 ほんとうに、自分の生活そのものに影響を与える形で、
 肥やしになる形で、着実に「学び」、「身につける」

.....とは何なのか???


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2006/10/04

"My Favorite Books"大幅な増補改訂しました。

 主として中井久夫先生の著作中心に、これまでブログ本文の記事としては紹介してきた著作を中心に、「左サイドの常時表示されるコーナーに、大幅に相補しました。

 私が、フォーカシングと共に、25年前から中井先生の著作を支えとして生きて来たといっても過言ではないことが、「単なるフォーカシング教師」「単なるカウンセラー」を超えたスタンスを早くから育(はぐく)み、今日の私のアイデンティティを築き上げてきたことをしみじみと感じる、今日このごろです(^^)

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2006/10/02

薬物療法より精神療法の方が「高尚な」ことである、という誤解

 前の記事の改訂第3版で、

> 薬の配合だけで、
> いわゆる「健康な」状態と同じ状態を作れる
> というのは全くの「幻想」ということです。

という一節を付け加えさせていただきました。

 これだけでは「更なる誤解」を与えかねない....とも感じましたので、以下のことを述べさせていただきます(^ ^)

*****

 私は、上記のことを薬物療法への批判として書いたわけでは決してないのです。

 それどころか、

 「下手な」カウンセラーに
 毎週、1時間、何十回も通うよりは、

 「経験深い」精神科医だけに、薬物療法併用の
 10分間診療で、2週から4 週に1度、数ヶ月通う方がよい場合が多い、

断言したいと思います!!

*****

 これは中井久夫先生や神田橋條治先生の著作に繰り返し出てくる指摘なのですが、いわゆる「こころの病気(私はこの言葉は基本的に好まない、と以前書きました。いわゆる「統合失調症」の妄想状態ですら、だれでも生涯繰り返して「2時間ぐらいずつ」は経験している筈、と中井先生は示唆していたと思います)に出されるお薬の効き目は、純粋の薬理学的・生理学的作用のみでは判定不可能です。

 その薬を出すお医者様の患者さんへの応対のありようと、薬の薬理効果が、ワン・セットになったものなのです。

 このことを、バリントという精神科医は、「医者という名の薬」と名付け、中井久夫先生はこれらの効果が半々ぐらいと思いなさい、と、精神科医向けの著作で繰り返しておられます。

 ....と言っても、ここで私は、個々の患者さんの「体質差」のことを申し上げようとしているのでもありませんし、いわゆるプラシーボ効果(薬そのものの効果ではなく、薬を飲んでいるという安心感がその人を癒している)のことを申し上げようとしているのでもありません(^^)

****

 はっきり申し上げます!!

 もし、「1時間の」カウンセリングやセラピーの方が、「10分の」問診と薬物療法より、何か「高尚な」ことであるかのように考えている、精神科医やカウンセラーがおられたら、私はクライエントさんにお勧めすることはいたしません!! 
 
 本当に「現場臨床」の修練を積んだ精神科医の「2週」に一度、10分の問診は、「平均的」カウンセラーの「毎週」1時間のカウンセラーのカウンセリングやセラピーほど「害はない」!! ....とすら!!!

 (これを、病院の「付属機関」ではない、開業カウンセリングルームのカウンセラーである私が「敢えて」言わざるを得ないこと......完璧に「自分の首をも絞める」かに見える発言ですから!.....に、読者の皆様があっけに取られるのを覚悟で書いています!!)

 いわゆる、カウンセリングや心理療法の方が、「深く」て「高度な」ことである、と言い出す専門家は、「身の程知らず」であると申し上げたいのです!!

 一番信頼ならないのは、

「あなたにはセラピー(カウンセリング)が『必要』です!!!!」

と、自信を持って言い放つ精神科医やカウンセラーです。

 こういうカウンセラーのクライエントさんに限って、新しく通い始めた精神神経科の病院で、

 「以前、○○セラピーを受けていたのですが、むしろ症状がひどくなってしまって」

などと愚痴をこぼされ、「精神医療業界」に、

「だから、臨床心理士のカウンセリングやなんて、役に立たない『気安め』なのさ」

という悪評を振りまいていることが少なくありません(^^;)


 .....もとより、そういう悪評を立てるお医者様の多くは、患者さんの多くに「いつまで通院しても、症状変わらない」と内心思われていたりするものです(^^;;;;)

*****

 要するに、薬物療法と精神療法を、同じはかりにかけて『優劣を論じる』ことほど『空しい』ことはありません(^^;;;)

 「医療」と「カウンセリング」の『優劣の比較』も無意味です。

*****

 ちなみに、心理療法においても、例えば

「『精神分析』よりも『認知行動療法』の方が優れている」

などというような、一般論としての流派間の比較は無意味なんですね(逆に入れ替えても同じです(^^;))

 私は、薬物療法を主とする精神科医の方も、狭義の「精神分析」系の先生も、「ユング派」の先生も、「ロジャーズ派の」先生も、「行動療法の」先生も、そして「フォーカシング」の先生も(^^;)、あるいは「何派」も表明されない先生も、優秀な占い師や「近所のたばこ屋のおばちゃん」ほどにも助けにならないことは、ありふれていると申し上げたいのです。

 そのことに「謙虚な」専門家のみが専門家としての資格がある、と感じています。

 そして、「実際」そういう感じ方ができている専門家の方々こそがクライエントさんにとって、「親兄弟や同僚や友人や恋人」では得られなかった」相談相手、援助者(^^)としての「真の」専門性の持ち主なのだと思います。

 その理想像の体現者として、「例えば」、中井久夫先生と神田橋條治先生がたどり着かれた境地がある、少なくとも、これらの先生が『理想』として指し示した方向を、私たち、後継世代の専門家は、更に前に進めるべきと感じています。

 もとより、一介の無名な精神科開業医や、現場カウンセラー、ケースワーカー、など皆様のなかにこそ、著作や論文も書く暇がない、それらの理想を体現した『地上の星』と呼ぶべき皆様がたくさんおられる気がしています。

 私もとてもまだそうした方々の域には届きません。そうした地域の専門家の方々との出会いの中で、私の方が勉強させていただいてる段階です。.

 しかし、そのような「理想」を描きつつ、日々修練と勉強を続けているつもりです(^^)

....きっと、いつまでも、幾つになっても、そうでしょう(^^)

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2006/09/30

パートン著「パーソン・センタード・セラピー」新刊のご紹介

パーソン・センタード・セラピーキャンベル・パートン著「パーソン・センタード・セラピー ~フォーカシング指向の観点から~」(日笠摩子 訳 金剛出版)という本が出版されました。

この、バートンという先生は、今やロージャズ派カウンセリングの伝統を引き継ぐ世界最大の拠点と言うべき大学である、イギリスのイーストアングリア大学の教育の中核を担う先生。

 イースト・アングリア大学は、世界ではじめての、フォーカシング指向心理療法で学位を認定するコースを持つばかりか、臨床心理専門家養成課程「そのもの」を、徹底的に「パーソン・センタード」のスピリットとプログラムで行う、画期的な教育実践をしている大学です。

 (私は、あるきっかけで、日本にいながらにして、前述の新刊の著作に先んじて、この大学の教育プログラムの実践の具体のすばらしさを知ることができていました。留学先としてお勧めです!!)


 訳者の大正大学の日笠摩子先生(私と同じ、フォーカシングにおけるTFIコーディネータ(トレーナー国際資格養成認定資格者)の資格を持つ、日本に十数名いる中の一人です)ご自身が、

「私にとっては、フォーカシング(あるいはフォーカシング指向心理療法)の、ロジャーズの伝統の中での歴史的な位置づけと、哲学的理論的な背景をわかりやすく教えてもらえた本でした」

という感慨を抱かれた著作とのことです(^^)

 私もまだ「注文段階」なのですが(^^;)、ともかく私はこのバートン先生が「実際にどういう教育をしているのかの素晴らしさの実態」を、何の巡り合わせか、既に実感できる立場にいつの間にかいましたので、

もはや「信用買い」で、この著作をお勧めいたします!!!

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2006/09/27

私なりの減量のコツ(第2版)

 現在、栄養士さんの指導のもとに、ダイエットが本気で「進んでいる」こういちろうです。
 
 あくまでもそこから得られた私個人の教訓:

 A.ストレスがたまったままだと健康なダイエットの習慣はつかない。

.........ストレスたまったまま、ダイエットだけしようとすると、更にストレスが増すだけですので、その反動としての無茶食いは私もとまりませんでした。


 B.パンよりご飯

.........夜食や間食に思わずパン(ましてや菓子パン)を食べると、それだけでもの凄くカロリーと脂肪を摂取することになります。パンの制作には、食パンですらバターが欠かせないことをお忘れなく。

 パンに比較すれば、ご飯そのものは、カロリーがないも同然です。ですから、例えば夜に小腹がすくようなら、同じコンビニで夜食や間食買うにしても、おむすび(もちろん、マヨネーズや肉系のもの以外が具のもの)系のものは、たとえ2コ食べても、パン系より、腹にたまる感じがはるかに残りやすい点でも圧倒的に有利です。


 C.肉を食べるならお魚系のみにする

.............私、ハンバーガーすらここしばらく食べた記憶なしです。


 D.外食でおまけに一つ注文するのは「サラダ」にしてしまう習慣をつける

..............もちろんマヨネーズではない、しそやゆず系のドレッシングしか使わない。


 E.ペットボトル系を買うにしても、夜になったらお茶やコーヒー・紅茶などを決して飲まない

................夜6時以降は、ミネラルウォーター、せめてウーロン茶どまりに統一)。これは、寝入りをよくするコツです。いい眠りは、昼間のストレスを沈静化する最大の特効薬です。 

......実は、睡眠誘導剤がまるで効かない人が、実は夕方以降、この種の「カフェイン」を大量に飲んていたことが大きかった、という、わかってみれば「効果打ち消し当たり前」のことに自分で気がついて苦笑した、という話があります。

********

 私は、これらの生活で、4週間ごとに2キロというペースで全く無理なく「いつの間にか」体重落ち始めました。栄養士さんも驚く優等生ダイエット。煙草の本数まで減りだしてます。

「体質そのものが変わってきたのかもしれませんね」

と栄養士さんには言われました。

 昔好きだったチョコレートも、ほとんど食べなくなっている。

 (私のフェルトセンスが、店先で商品を見ると、「く、食いたくない!!!!)」と拒絶反応起こすのです。

 これはあくまでも私見ですが、今の世の中の「ダイエットサプリ」ブームや健康器具ブームって、結局何なのかな??? 焼け石に水のようなこと、していないかな????.......と、我ながら思うに至った次第。

 人間、身体が軽くなれば運動量増えます!!!

 そうなれば善玉コレステロールも増えます!!

****

 そういえば、私の栄養士さんは、まるで山上敏子先生の行動療法みたいに、

1.「その」クライエントさんのできそうなことから、
2.一ヶ月の『宿題』を、
3.ほんの1,2のポイントに限定して、
4.共同で探して

決める

というやり方なんですね。

 先述のE.なんて、「私が提案した」アイデアで、「栄養士さんの方が」、その後自分自身や、他の事例で参考にしている、とのこと。

いきなり

「一日3食!!」
「外食を減らせ」

とか全然言わない人。

私の食生活生活状況を丁寧に詳細に聴いた上で、

「今度は、パンをおむすびに代えてはどうでしょう?」

だけで、その新たな課題「のみ」実行後、に現実に2キロやせましたものね(^^)

*****

 ここに、流派を問わず、いいカウンセリングが進む場合と似た何かを感じます。

 面接とは、クライエントさんとの「共同作業」です

とか、

 「(クライエントさんと)一緒に考えていきましょう」

ということは、多くのカウンセリング教科書に出てきますが、まだまだその真意を納得しないままに、形だけ言葉にして使ってしまっているカウンセラーの皆様もおられるのではないかと、想像いたします(^^;)。

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2006/09/26

カウンセラーの実践的禁句集 その2

「気にするな」

.......といわれれば余計「気になる」ものです(^^)


「マイ・ペースでやりなさい」

.......「マイ・ペース」が自覚できる皆様が病院やカウンセリングにおいでになるのかどうか?


「ゆっくり休んでください」

.......「生体恒常性」に従って、「必要な」休みの取り方をご存じの皆様は、そもそも通院やカウンセリングにおいでにならないでしょう?

 「ゆっくり休むとしたら、どうすればいいかわからなくなる」人が、おいでになるのです(^^)

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2006/09/23

カウンセラーの実践的禁句集 その1

「また○○したのね」

「私が言ってたのに、やっぱり、○○になっちゃったじゃない」

「そう言うと思っていたんだ」

 最後の一つは、「あと出しじゃんけん」というのだと、カウンセリングの先輩から教わりました。

 この3つめは、今の私も思わず口をついて出ることがありますが(^ ^; ;A

******

 単純にこれをまねする前に、「なぜ、禁句なのか」を自分なりに納得しようとして、納得した場合にのみお使い下さい(^ ~)

******

 やはりヒント出しますね。

.........キーワードは、「相手を支配しようとしないこと」かな?

 その時、それはどんな「正論」でも、「正義」ではなくなります。

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2006/09/01

フォーカシングは「転移/逆転移」すら一気に超え得るはずである。(第2版)

 直前の書き込みを読み返してあっさり気がついたのですが、

 たった2回のカウンセリング(その2回めの1時間だけ)で、


 「実は、前回のフォーカシング・セッションの、終わりの方で言わすに済ませたのは、自分の中に『せっかち』という言葉が浮かび、それがいろんな連想に結びつきはじめた、その中身だ」

 「子供の頃母親が『せっかち』な人で、食事の時もそわそわしていて、落ち着いて飯食べられなかった」

 「自分の彼女が、デートの度に『ふくれる』のは、実は自分が『せっかち』で、観光したり一緒に展覧会に行く時も、さあ、次はこれ、次はこれ、と、彼女のペースにあわせてじっくり『味わう』ことをしていなかったからだなあ。だから別れ際が「じゃあね!!」とさっさと歩き去られてしまい、後のフォローがたいへんだったのだとしみじみ思った」

 「職場でも、上司に、『お前は先を焦るあまり、数は『こなす』が、一つ一つの仕事の仕上げが雑になってる』と先日叱られた」

 「実は、前々回までのセッションの中で、先生(ガイド、トレーナー)が『せっかち』なものだから、[私=クライエントさん.......は]『消化不良』に陥っていた」


 ........これだけのことを、クライエントさんが一気に自発的に語り出すということは,通常のカウンセリング場面では滅多にあり得ないことでしょう。

 『せっかち』というキー・ワード以外の『』内の言葉の多くが、「消化(「こなす」こと)(digest)」に関わる、しかも「日本的な」言葉であることにお気づきでしょうか。要するにこの人は、およそ何に関しても「『せっかち』な早食いで、いつも胃が『もたれて』いた」人だったんでしょう。

 しかも,ガイド(カウンセラー)側にもどこか実際に(つまりフォーカサーの「投影同一視」[(c)メラニー・クライン]ばかりではなく)『せっかち』なところがあるので、「場の雰囲気」を通して、お互いを「環界」((c)バリント ウィニコット)の一部とする中で「共振れ」((c)土井建郎)を起こし、フォーカサーの「身体」という"container"(容れ物)」((c)ビオン 田嶌誠一)を通して生じた「ファントム」((c)安永浩、神田橋條治)としてのフェルトセンスとして現れたのだと思います。

(フォーカサーは、リスナー側個人の体験過程を促進する"container"でもある、ということ、以前どこかで書きましたよね。少なくともこちらこちらを参照)

 「せっかち」というキー・ワード自発的に見いだしたフォーカサーの「気づき」は、

「子供の頃の親子関係」
「異性関係」
「職場の人間関係」
「治療者との面接の場での関係性」

へと自然に拡張する場合が、フォーカシングのセッションでは、かなりありふれた形で生じ得る得るわけです。

(改めて読み返してみて、我ながらぎょっとしました)

 このような、同じような「布置(constellation)」((c)ユング ジェンドリンも使います)にある対人関係についての気づきの連鎖反応のことを、ジェンドリンは、「人格変化の一理論」

ジェンドリン著、池見陽著/編訳、/村瀬孝雄・日笠摩子他 訳 所収)

で、「全面的な適用(grand application)」と呼び、ロジャーズやジェンドリンが開発した「体験過程尺度」(experiencing scale)」という、治療的面接においてクライエントさんが自分の内面に「どのように(how)」関わるかの深さを計る尺度においては、stage 7ピーク値となります。

 (体験過程尺度については、沢山の方々の研究や論文等がありますが、池見陽先生の「心のメッセージに聴く」でのやさしい解説が一番入手しやすいかと思います)

.......このような連鎖反応が生じた場合、「転移」についての洞察を、クライエントさん自らが一気にしてしまっていることになりませんか?

 実は、フォーカシング・セッションにおいては、フォーカサー(クライエントさん)の中のフェルトセンスは、そこでのガイド/リスナーの共にいる「場の雰囲気」「関係性」が反映されたものとしてしか形成されていません。

 ガイドの人の教示のみならず、すべての言語的、非言語的応答も、実は、その場の「関係性」の枠の中でしか生じていないはずです。

 ガイドの人のガイディングや言語的.非言語的応答が、ガイドの人自身の体験過程に開かれたもので、単なるマニュアル的手順ではなく、全くライヴに「自己一致」し続けた「活(い)きた」応答である限りフォーカサーもまた、、フォーカシングの場のただ中で、目の前のガイド役の人との「関係性についての気づき」をライヴで自発的に語り、.親をはじめとする、面接室外での対人関係と二重写しして「まさに体験しつつある自分を体験する」という、転移についての「真の」洞察が一気に自発的に生じる可能性があることになります。

 これが、どういう範囲の人に、どのくらい「安全な形で」生じるかは、まさに、治療者自身の「個人としての」フォーカシング能力がどこまで日常活用され、スキルアップしているかにかかっている、といえると思います。

 ****

「論文で書けばいいのに、いいのか?」(←内なる批評家)

「いいよ。他流派の心理臨床家の顧客さんが増えることに結びつけば。私だけではなく、フォーカシング「業界」全体に


 

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フォーカシングにおける「身体の感じ」とは何か

 「........あの、さっき昼飯食べて来たもので、今,気になるとすれば,胃の辺りに、何か張っている感じがある。.........うーん、それくらいですかねえ」 

 フォーカシグのオーソドックスなトレーニングで、最初の段階で

 「今、自分は申し分なくいい感じでいられるかな? と身体の内側に問いかけてあげてみて下さい」

という教示をガイド(トレーナー)がした場合に、フォーカサー(フォーカシングをする本人。クライエント役(以下、F :と略することあり)が、じっくりと内面に注意を向けた結果、このように述べて来た時(これは,昼過ぎのセッションで、「ごくありふれて」みられる実例です.特定の方の例ではありません)、トレーナーはどう対応すべきでしょうか?

●ガイドA:
「ああ、それではそれはただの身体の感じですから。他には何か気になる感じは出て来ませんか?」

●ガイドB:
「何か、胃の辺りに、『張っている』みないな感じがある(F:........エエ)....それはひょっとしたら、さっき昼飯を食べたばかりだからかもしれないなあ、という気もなさるわけですね。(F:........エエ)....それでは、その胃の辺りの感じに向かって、『ああ、そこいらへんに、そういうふうに、張った感じがあるのはわかっているからね.....』と、声をかけてあげてみて、しばらくその感じと一緒に居てあげてみるのは,いかがでしょうか」


 私は、ガイドAの応答は、「もったいない」というか、少なくともフォーカサーがまさに「今」感じていることの流れに自然に寄り添った応答ではないと思います。

 ガイドBは、その点で、フォーカサーが感じているものにしなやかに自然と寄り添った応答であり、ガイディングです。ガイドAしかできない人には、私はトレーナーの資格を出しません(^^)

*****

 ここで、「その感じに『わかったわかった』と声をかけてみる」とか「その感じと一緒にいて上げてみる」ということもピンとこないフォーカサー向けのサポートの「オプション」がありますけど、ここではそれは略します。

*****

 「その、おなかの感じと、『ああ、そこにそんなふうにあるなー......』みたいにして、無理なく一緒に居てあげられる(or そばにいてあげあられる or 無理なく身体の中に「抱えていられる」)感じですか?」

(F:.......[ 沈黙30秒] .....エエ)

「では、あとしばらく、そのおなかの感じのそばにたたずんであげてみるのはいかがでしょう?.......そして、もし、『とりあえずもう十分一緒にいたあげられたなあ』、とお感じになりましたら、ちょっと手を上げてでもいいですから、何か合図いただけますか?」 


(F:わかりました、やってみます.......[ 沈黙1分30秒] .....[手をあげる]あれ? さっきまでとちょっと違って来ましたね。胃の辺りにあるにはあるんですけど) 

 「ほう、何かさっきまでとちょっと変わって来たんですね」 

(F:ええ、.......[ 沈黙30秒] ....なんというのかなあ、これ......[ 沈黙45秒] ....何か、さっきまでは、「もたれる」というか、そんなふうな感じがあったわけです) 

「はい」 

F:それが何か「溶ける」.......というか、あたたかくなって、やわらかくなって、溶けて行くみたいなかんじになって。 

「ああ、さっきまでは、「もたれる」というか、そんなふうな感じがあったんですね(エエ)。それが、どういうわけか、 何か「溶ける」.......というか、あたたかくなって、やわらかくなって、溶けて行くみたいなかんじになられたわけですね」 

(F:ええ)

「では、その、胃の辺りに向かって『あ、さっきまではさっきまでは、「もたれる」というか、そんなふうな感じがあったんだけど、いつのまにか、 何か「溶ける」.......というか、あたたかくなって、やわらかくなって、溶けて行くみたいなかんじになっちゃたんだね』と、声をかけてあげてみるのはいかがでしょう?」

(F:やってみましょう......[ 沈黙1分30秒] ........うん、その溶けて行くみたいな感じそのものがすごく心地いいです) 

「ああ、その溶けて行くみたいな感じが、何かすごく心地いい」 

(F:.....うん、いいですね、『この』感じ) 

「では、もうしばらくその感じと一緒にいてあげる時間をお取りした方がよろしいでしょうか? 」 

(F:...........あ、じゃ、あとちょっとだけいただきますね) 

「わかりました、どうぞ」 
.
(F:....[ 沈黙1分10秒] .......[手を上げる]) 

「実は、そろそろこのセッションのための時間が終わりに近づいているのですが(設定時間終了5分前)、どうでしょう? その胃のあたりの感じに、『どうもあと5分くらいで終わんなきゃならないんだって。でも、「こういう」感じだったってこと、覚えておいてあげるから、それでいいかな?』と言ってあげてみることもできるんですが.......」 

(F:あ、それ、いただき! ...やってみますね。.........[ 沈黙35秒] .........[突然苦笑].....あの、「あと1分ぐらいつきあえ!!」言われました 

「あ、『あと1分ぐらいつきあえ』と言われちゃったんだ。それじゃ、あと少し,お時間をお取りしてもいいです」 

(F:いただきます(笑).........[ 沈黙1分35秒] .......もう、いいそうです。) 
.
「それじゃ、今日、こういう感じだった、ってこと、覚えておいてあげるからね、と言ってあげてみたらいかがでしょう?」 

(F:そうですね。.........[ 沈黙35秒] .......「覚えておけ!」....と「凄まれて」しまった(笑))

「あ、『凄まれて』しまったんだ」

(F:ええ『凄まれて』.........うふ、ああ、そうか........)

「何かお気づきになったことがあるようですが、1分で話せるようでしたら、お話いただいてもいいですし、そのまま自分の中で味わっていただいてもいいですけど」

(F:それじゃ1分下さい)

「どうぞ」

(F:.......[ 沈黙35秒] ......もう、いいそうです。「サヨナラ」と言ってました

「ああ、もう、『サヨナラ』と言ってくれてた」。

(F:.......実は「私には」心残りもあるんですけど、言われちゃった以上、しかたないので、「じゃ、またね」とは(笑)

「ああ、『いわれちゃった』わけですね。.....で、あなたは、しかたないけど、『じゃ、またね』と。

(F:ええ..........)

「で、あなた自身は終わらせそうですか? もう一度内側にきいてみてもいいかもしれませんが.....」

(F:.......あ、もう大丈夫です。ありがというございました)

「こちらこそ、短い時間でしたが、お相手できて光栄です」

********


このブログ始まって以来、初の、フォーカシングのライブとは「こういうものだ」という公開です

 フォーカシング関係者の皆様は、これだけで十分リアルなセッションでしょうが、これ、念のためにいいます。全くの創作です)

 
*********


 ちなみに、このフォーカシングセッションの一週間後の次の回が、通常のカウンセリングをご希望されて、その内容が

 「実は、前回のフォーカシング・セッションの、終わりの方で言わすに済ませたのは、自分の中に『せっかち』という言葉が浮かび、それがいろんな連想に結びつきはじめた、その中身だ」

 「子供の頃、母親が『せっかち』な人で、食事の時もそわそわしていて、落ち着いて飯食べられなかった」

 「自分の彼女が、デートの度に『ふくれる』のは、実は自分が『せっかち』で、観光したり一緒に展覧会に行く時も、さあ、次はこれ、次はこれ、と、彼女のペースにあわせてじっくり『味わう』ことをしていなかったからだなあ。だから別れ際が「じゃあね!!」とさっさと歩き去られてしまい、後のフォローがたいへんだったのだとしみじみ思った」

 「職場でも、上司に、『お前は先を焦るあまり、数は『こなす』が、一つ一つの仕事の仕上げが雑になってる』と先日叱られた」

 「実は、前々回までのセッションで、先生(ガイド、トレーナー)が『せっかち』なものだから、『消化不良』に陥っていた」

 みたいな、「フォローアップ面接」に、自然となっても,何もおかしくないわけです。


******


 なお、上記の架空事例の、


「ああ、もう、『サヨナラ』と言ってくれてた」。

(F:.......実は「私には」心残りもあるんですけど、言われちゃった以上、しかたないので、「じゃ、またね」とは(笑)

「ああ、『いわれちゃった』わけですね。.....で、あなたは、しかたないけど、『じゃ、またね』と。

の部分、ガイドの応答の方が実はズレていて、フォーカサーによって修正され、その修正を、ガイドが受け止めて、言い直している点に注意。

 これが、この前書いた「弁証法的過程」ということです。

 この記事の続きというか、解説みたいなものは、次の記事をどうぞ。

******

 しかし、ここまでリアルに、フォーカシングセッションを「捏造」できるとなると、もう、「事例発表」できない身体になってしまった.....(^ ^);

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2006/08/30

「経験した者にしかわからない」?(第4版)

 私、この言葉、嫌いなんです(^^)

 どうしても,この言葉を発する人を、押しつけがましくて、傲慢だと感じてしまう。

 (様々な苦しい体験をなさったであろう皆様を読者とする可能性がある、こうした場で、このような「爆弾発言」をカウンセラーがしていいのかと言われるのを覚悟で、最後まで読んでいただければと思います)

 まして、「あなた、まだ人生経験に乏しいから」と若いカウンセラーに口にする「ベテランカウンセラー」なんてサイアクだと思ってます。

 だって、これを言われたら最後、「経験不足」の人間は、「経験していない」んだから、何の反論もできなくなってしまう。

******

 大事なのは、「どんな(what)」経験を積んだかではない。

 「その人が」、「その人なりに」その経験を「どのように(how)」克服していくか。

 その人のその過程に、ひとりの「他者」として「どう」向き合い続けて行くのか、だと思います。

 そもそも、「その人の」積んだ経験と、「私が」仮に類似の経験をしていたとしても、それを、それまでの人生経験の軌跡の中で、「どんなふうに」体験し、「消化」して来たかとなれば、皆異なる筈ですし。

 そして,得てして、そういう経験を、「どのように解決したか」まで、杓子定規に、相手に押し付けようとすることになる。

 その瞬間、もはやその人は、その相手を,自分の「子分」にしようとし始めている、あるいは、自分は「このようにして」救われたんだということを、その「子分」に自分を投影して、再確認、「正統化」(←誤字にあらず。わざとこうしてます)したくなる誘惑に屈しているのではないか?
 
******

 このような「カルト化」の弊害からほんとうに自由なカウンセラー集団って、なかなかいないように感じています。

 人は,確かに、自分と「同類」の人間を見つけたがる。それもおよそ人というものの背負った「弱さ」として「自然と」受容できる方がいいとは感じていますが。

******

 ある意味では、誰でも、その人が悩みから少しだけでも救われたり、解決への突破口を開く過程で、必ずといっていいほど、以前にはなかったような「無理」を自分の中に抱え込んでいるものではないかと思います。

 以前抱えていた「無理」を、単に別の種類の「無理」に置き換えて,「見かけ上」事態に適応し、とりあえずの危機を突破しただけなんです。そしてその「別の『無理』」が、その人自身に,必ず何らかの『副作用』を引き起こしています。

 だから、自分の「解決のやり方」や「癒され方」を他人にそのまま押し付けたら、当然、その人にはその『副作用』の方が強く出る危険があります。

 ましてや、自分は「主体的」にやった解決策を、「受け身に」やらされるとなったら、もう、『副作用』ビンビンかも知れません。
 
*******

 私が、

「『自分の想像通りに』クライエントさんが回復の途上にあると感じるうちは、プロのカウンセラーではない」

「クライエントさん自身も、カウンセラーも、驚くような意外な方向に事態が終息していく場合だけが、いい形でカウンセリングが進んで行くということだ」

「カウンセラーが、クライエントさんのことを『みくびっていたな』と思わず恥じ入る瞬間のないカウンセリングは嘘くさい」

という意味のことを、"7.11 Asega Doctrine"以来繰り返しているのは、今述べて来たような思いがあるからです。

****

Jungpsychotherapy
 ちなみに、こうした思いを私に抱かせるきっかけは、ユングの「心理療法論」に収められた「心理療法と世界観」という論文にある、

 「患者と治療者の真に治療的な関係は『弁証法的』過程である。さもなければ単なる『暗示療法』であるに留まる」

という言葉が、ずっと私の脳裏にあったからです。

 言い換えるならば、クライエントさんとカウンセラーそれぞれの「個性化」の過程が、相互作用的でありつつも、それぞれの中で、別個に( ! )推進した場合のみ、ホンモノである。

 ほんとうの、ユング派のエッセンスとはここにある、と、今でも思っています。

以下、私の大好きな部分を引用(林道義 訳 p.68 改行、下線はこういちろうによる。):


 世界観は療法家の人生を導き、彼の治療の精神をかたちづくる。それは最も厳密な客観性を持っているとはいえ、何よりも主観的なものであるため、恐らく何度となく、患者の真実に触れて砕かれ、そしてその真実によって新たに再建される。

 すなわち、信念は容易に自信に変わり、そこから悪くすると硬直に変わる。硬直化したのでは生きているとは言えない。信念が強いということは、それが柔軟で修正がきくということであり、あらゆる高度な真理と同様に、信念が皆に認められるのは自らの誤りを認めることによってである。

*****

 私の処女論文、

「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 人間性心理学研究  第9号  1991


 15年も前の、ものすごい「若書き」で、今読むと、とても論文の体をなしていると言えないにもかかわらず、

結局、

「処女作にその人の創作活動のすべてが内包されている」

は真実かな? と感じています。


 これは「自慢」だけではありませんよ(^^)

 「未だに」、
 そのことを最大のテーマとして、
 日々の臨床と,
 自分自身の個人としての人生に
 「臨(のぞ)み続けている」存在でしかない
 私自身に、

 「しょーがねー奴ゥ!!」

 と、
 
 「苦笑して」いる
のです(^^;A


 

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2006/08/26

スーパーバイザーとカウンセラーの関係は、カウンセラーとクライエントさんの関係の「写像」となる?

 ケーススーパーバイスを受けているカウンセラーであるあなたが、ケーススーパーバイザーである先輩カウンセラーに「気にいられたい」と思い、「本当はスーパーバイザーの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺しているのだとすれば、

1.あなたのクライエントさんは、カウンセラーであるあなたに「気にいられたい」という呪縛を抜けられず、「本当はカウンセラーであるあなたの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺している可能性が高いと思います。

 あるいは、

2.カウンセラーであるあなたは、クライエントさんに「気にいられたい」という呪縛を抜けられず、「本当はクライエントさんの言うことに違和感や反感を感じている」のに、それを押し殺している可能性が高いと思います。

*****

 スーパーバイザーの先生に、

「先生の言ったとおりにクライエントさんに接したら、事態は余計悪化してしまいました」

と不平を述べた時の、スーパーバイザーの先生の反応に注意して下さい。

A:「それはあなたの言い方が悪かったんだ」

とかいうふうにして、更にカウンセラーであるあなたのやり方を責めてくるか。


それとも、

B:「そうか。きっと、私たち二人は、クライエントさんの言ったことについて、まだまだ検討不足だったのだろう。こういう時、私たち二人が二人ともまだ『見落として』いることがあることが多いと思う。
 あなたがまだここで語ってくれていない事柄の中に、重要な鍵があるのかもしれない。
 これはあなたを責めているのではないよ。私(スーパーバイザー)がある仮説や感想を述べたものだから、その後、あなたが自然と口にしたかもしれないことを私が結果的に話せなくしたのかもしれないからね」

というのに近い反応をしてくれるか。

 後者のタイプのスーパーバイザーに、若きカウンセラーの皆様が巡り会えることを。

 以上、自戒を込めて。

******

この記事もご参照下さい。


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2006/08/23

conscience=意識=良心!!(第2版)

 ながらく、私は、フランス語において、「意識」と「良心」との語が、ともにconscienceであることを不思議に思ってきた。イタリア語にも、スペイン語にも、要するにラテン語に派生したことばなら皆同じである。英語でも、17世紀まで、conscienceで、「意識」と「良心」をともに表わしてきた。consciousnessという言葉は、英国経験論哲学とともに生まれた新しい言葉である。(中略)

 ここからは私の推論であるが、「意識」の中にあるものはすべて「キリスト教徒の正しい行為の証人」すなわち「良心」でなければならない。すなわち、意識の中にあるものは、神に開示できるものでなければならない。(中略)

 「意識していないこと」は、神に答責できないものであり、そういうものが自分の中にあることは大問題である。したがって、無意識は外部に投射される傾向があって、かつては悪魔となり、現在も自己を正義として、「悪」を外部に探す傾向(すなわち他罰性)が著しいのではないか。

Seiouseishinigakuhaikeishi中井久夫 「西欧精神医学背景史」 1999年の追記 pp.221-3)

 中井久夫先生のこの言葉を読むと、いろんな連想が生じます:

*****

「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫(かんいん)を犯したのです」(マタイによる福音書 5-28)

 このイエス様の言葉に「思春期の頃」悩み苦しんだクリスチャンの方、少なくないでしょう。

 でも、聖書を本当によく理解した先達がいたら、次のようにアドバイスされたでしょう。

「『姦淫』=セックスすること、とおもっているのではないですか? 『姦淫』って、要するに『不倫』の肉体関係のことだよ。だから十代の独身の今のあなたが,例えばクラスメートを「オカズ」にしていたとしてもさ、それは『姦淫』ではないの! 何しろ、モーゼの『十戒』にすら「汝、姦淫するなかれ」とあるのだから、『姦淫』=セックスだったら、とっくにユダヤ民族は十戒を授かって百年のうちに滅びてなければならないでしょ?」

と。

 ちなみに、法律用語では、「個人の性的自由を侵害する犯罪」となり、両性の合意によらない、異性への肉体的侵襲」は、セックスまで行かなくても『姦淫罪』だから、意味がかなり異なるのですが。

 不倫であるかないか、あるいは夫婦間であるかどうかとは、全く別の物差しなわけですね。

*******

ヒステリー研究(上)ヒステリー研究(下) 一方、フロイトの有名なヒステリー症例で、家庭教師先の父親に恋愛感情を抱いていることを、フロイトの解釈によって気づかされ、身体の症状も消失した「ルーシー」が、

 「ええ、今でも愛しております。でもただそれだけのことなのです。自分ひとりで好きなことを感じたり考えたりするのは自由ですから」

という境地に達したことは、有名かも。

 このことについて以前書いた時の見解を、今回。全く逆方向に修正します。

 この症例なんて、イエス様の前述の聖句を、むしろ「前向きに」解釈したともいえる状態かも。

「情欲を抱いて他所の父親をみる私は、心の中で不倫してるの。でも私はそれを『自覚(意識)』している。それでいいのよ」

そして、その「自覚」(consciousness)は己れの「良心」(conscience)」に反するものではないし、イエス様もそこまでは確実に許してくださる、と。

*****

 次に、「投影同一視(projective identification) 」という、メラニー・クラインが生み出した(というの、不正確でもお許しを)有名な概念なんだけど、

 これって、要するに、

自分自身の中に生じた「言葉にならないモヤモヤ」を、すべて他人からの好意や愛情、あるいは敵意や攻撃として認知すること

は、みーーーーーんなあてはまる

というふうに理解していれば、およそ生きると言うことは、投影同一視であるということになりますよね。

 つまり、少なくとも私は、いわゆる「帰属理論(attribution theory)」における、

「『原因』の『外部帰属』」=「投影同一視」

とみなすぐらいでちょうどいい、という「極論」を敢えて主張します

 こうなると、他人に向かって、安易に、

「それはあなたの私への『投影同一視』です」

という人間なんて、

「それは私のあなたへの『投影同一視』を『投影同一視』したものだと私は「意識」できないまま、あなたのせいにするという『謀略』をやっていることを『意識』していません!!」

......ではないと言い切れる人なんて、ほとんどいないと思います(何か、R.D.レインっぽくなってきたな。確かレインがこういう無限連鎖に挑んだのは『自己と他者』の中でだったと思う)

 それなら、自分の他者への批判や怒りは、結局すべて自分の『影』への攻撃である、ということになるユングのとらえ方の方が潔いかもしれない。

 私がこのブログでやっている批判的言動は、すべて私の「影」=「私の認めていない私自身」への攻撃に過ぎないかもしれない、くらいには思っている方が謙虚だとは思っています。

 ということは、私の批判に対して、「グサッ」と感じて、自分のあり方について反省を始めた人は、すべて私への「逆転移」に巻き込まれただけなのかもしれない??????

****** 

..............私が今までの部分で言いたいことの、ホントの意図わかりますよね。

「下手に対象関係論を振り回すと、ろくなことはない」

 治療者が、自分は正しいという正当化、逆に相手を批判する武器として、いくらでも濫用できるということです!!!

******

...........私は、今や普段はほとんど対人恐怖的に振る舞うことがなくなった人間ですが、

 フォーカシングを学び始めた一番最初の段階での最大の洞察の一つは、

 「自分が他者と関わる中で生じる『傷つき』とは、すべて私の身体の内側の「ある部分」の傷みとして体験できる」

 ということでした。

そして、

その傷みの原因が何なのか、自分のせいなのか、誰かのせいなのかついて、安易に決めつけることは浅はかである

ということでした。

 少なくとも、

「他人に傷つけられた

と体験するよりは

「私はその人(たち)と私との関わりにおいて、
何らかの意味で『不満』である」

とらえ直してみる癖をつける方が、健康的で生産的だ、

ということでした。

これは、自分が悪いか、相手が悪いかという安易な決めつけを「止揚(しよう)」した次元でのとらえ方です。

私が「私に」不満、ともいえるし、私が「相手に」不満、とも言える。

そのあたりで、
意識(注意=direct reference!!!)
「平等に漂わせて」いると、

突然、
必要なときに、必要なだけの、
自分の力に叶う対処法が浮かび、
場合によっては「ゲリラ的速攻」で、
事態に対処できるようになったのです。

 

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2006/08/14

人は「自己開示」しなくても「自己開示」している!! ~浜崎あゆみの"Daybreak"に寄せて~(第6版)

 私が「自己開示」という概念を「見捨ててしまった」きっかけについては、本部ページの「私のフォーカシング」シリーズ第2部第8話の後編ですでに詳しく書いています。

 あれは、私の「ひとりフォーカシング」の中での、すごく「パーソナルな」スピリチュアル体験として得られた「悟り」みたいなものですから、あそこの後半で書いたことだけでは「腑に落ちない」皆様がいるでしょう。

*****

「石が『自己開示』しますか?」

.....とこういちろう氏が言うのはわかる。でも、言葉にするかしないかで相手の印象がまるで変わることがあるではないか。例えばこういちろう氏がayuファンであるかないかを知らなければ、クライエントさんにも与える印象は異なる。

 石は「自己開示」しないからこそ、深層心理の純粋な「投影」の対象となり、人が石を「観照」して「内的対話」を交わす中で、真の「洞察」を得られることがある、というのも得心できる。

 しかしこういちろう氏はなぜ「中立性」を犯して、石のように「純粋な投影の対象」になることで、クライエントさんの深い心の問題が治療者=クライエント関係に反映するのを妨げるのか?

******

 ......なんてことをなぜコメントで書いてくる人がいないのか、私はずっと不思議だったから、自分でシミュレーションしてしまいます(^^;;;)

******

 この前、私をここ数年唯一「へこませる」ことに成功したのが、かの精神分析の大家、松木邦裕先生だとはっきり書きましたけど、私が松木先生のどの言葉に躓(つまず)いたか、公開してしまいます。

「クライエントさんを汚してはならないよ」

 これは、クライエントさんとの対話の面接の『場』の中で、私が自分が感じたことを(ひとりフォーカシングを通してしっかり吟味してから、ですが)、言葉にして、それをきっかけにクライエントさんに「気づき」のようなものが生じていることについいて、

 「それは、単にクライエントさんが期待している親イメージにすっぽりはまる言葉をあなたが返したのにその人が『迎合した』からであり、そこで陽性『転移/逆転移』状態が『やっと生じた』に過ぎない」

 確かこんなコメントだったと思います(精神分析の専門家の皆様、いかにも「松木節」でしょ?)

 (R.D.レイン風に言えば「共謀」でしょうか? マスターソン風に言えば、「患者の『偽自己』に見事に対応した、.....ええっと、さすがの私も記憶だけでは少し忘れましたが(まだ引っ越し荷物の中!!)、「報酬型部分対象-自己単位」としての「個体化の欲求を抑えた『いい子』の場合だけ見捨てないで、リビドーの備給を与える親」の役割を果たしてしまった、とも説明できるかとも思う)

 これにその時。私は返す言葉がなかったんですね(数年以上前のことです)。

 私も、実はその事例でのクライエントさんとのやりとりがほんとうにプラスのものだったか、確信が心の底でない事例だったから、見事にグサリときてしまったのです。

(ちなみに、この時の事例の具体的な中身は、当日配布して回収した資料でのみ書かれているものです)

 もとより、その傷つきが、実は書物を通して知っていた松木先生なら、私のやり方を理解してくださるだろうという私の松木先生への「陽性転移」が、もろに「錯覚(disillusion")」に終わったからであり、実はその時点で私の中に「妄想的=分裂的態勢(PS)」が生じかかり、「『悪い親』からの攻撃」と体験かねないところだったけど、私ってとっくに「親を自分が破壊して、親が死んでしまうのでないか」という「抑鬱態勢(D)」も経過していることは皆さん、この記事この記事でおわかりでしょうし、それどころか、とんでもない確信犯の「エディプス中年」だということは、今こうして松木先生を「仮想父」にして、書きながらやってる最中ですが(爆)、


 実は、「私が」松木先生のコメントを

 「図星」

とは体験せず、

何か言葉にならない「違和感を感じ続けていた」自分をも

「認めてあげる(acknowledging)」ことができたために、

実は、ほんとうは

「へこんで」

はいても、

「打ち抜かれて」はいなかった

のですね。

*******

「だってさあ、」

.......と、"another part of me"が内側で言い続けていることを私は聴き逃さなかった!!

 「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」

 少なくとも、その日の夜の部の宴会の翌日には、そういう疑問が私の中で生じ始めていたのです。

 そして、数日のうちには、

 「他者が、たとえ無言で『そこに-いる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」

という答えまでは私の中で確信できました。それは今も変わりません。

 これは、私が、実際の師、村瀬孝雄先生以外で、日本人で唯一「心の師」とし続けてきた中井久夫先生からの圧倒的影響で現場臨床に臨んでいた人間だったからこそ可能だったことでしょう。

(私がどのくらい、書物を通してのみで、講演すら拝聴したことがない、中井先生の圧倒的感化のもとにあるかピンとこない人は、中井久夫先生の著作を「頭だけで」読んでいる人だ、と断言します!!)。

 生前の村瀬孝雄先生が、まさに中井久夫先生と深い絆で結ばれていた先生だということは、実は立教で院生をしている時代には気がつかなかったのです。

Nakai1
 しかし、もうひとり、中井先生と縁の深い精神科の先生のもとで私は病院研修を受けたのですが、その先生を囲んでの「謝恩会」の席上で、その精神科医の先生は、私が中井先生の「分裂病と人類」を引き合いに出した「レポート」を学年末に提出したことについて、孝雄先生のいる前で、

「彼ねえ、中井先生の『分裂病と人類』を読み込んでるレポート出してきたの」

 孝雄先生はそれに応えて、

「ほう!! それは珍しいね、それって、一つの『素質』だと思う

更に、先の先生曰く、

「ほんと、そうですよねえ」

と言っていただけたことを私は忘れません。

 これは、私が立派な「S(分裂病)親和者」であることの「お墨付き」を頂いたことになりますから。

 なのに、後に「鬱」にも一度なれたんですから、これはたいへんな経験値ですね(^^;;;;;;;)。

 もっとも、実は私の人格は、精神科医のものの考え方安永浩先生の言う、開けっぴろげで、「今、ここで」の充実感の中に生きる「中心気質」こそベースだな、と最近は感じてます(^^)。

 いよいよ「贅沢な」生き方ですね(^^;;;;;;;;)

(ちなみに、私は「中心気質」については、もっぱら中井先生の本での紹介と、私の古い知り合いでもある、矢幡洋氏の「星の王子さま」の心理学新装版「『星の王子さま』の心理学」でしか知らないままで、上記の安永先生ご自身の本自体はまだ読んでません。ところが、あるサイトで安永先生の本の「目次」をさっき読んでびっくり仰天!! .....すぐ注文して、読みます!!!!.......私がなぜ目次だけで「あわてた」か、わかっちゃう人、いるかなあ......???)

(『分裂病と人類』という本が、いかに「S(分裂病)親和者」に、「したたかにこの世に『棲(す)み』続けて下さいね。皆さんがいるから、現代社会は「最悪の事態」を迎えていないのです」というメッセージのこもった、生きる勇気と希望を与える本かピンと来てない、あの本の読者の臨床家は、統合失調症圏の患者(クライエント)さんと接する上で肝心な「何か」にまだ気づいていない、と私は「断言}します!!!)

******


 ああ、話がまた「虚栄心のコントロール」がない方向に.....

元の脈絡にもどします。

******

 「松木先生、『クライエントさんを汚してはならないよ』といわれたけど、ホントに『汚してない』状態なんてあるのかしら????」

 「他者が、たとえ無言で『そこにーいる』というだけでも、その人に自分が『汚されている』ことに耐えられないなんてこと、例えば「急性期」の統合失調症圏のクライエントさんなら、あたりまえのように、深刻な脅威として体験しているはず」

........というところまでは、私の問題意識として、残り続けたわけです。

 結局、例えば猫なんて、「喧嘩する時」と「さかりがついた時」以外は、普段は「猫同士は」全く「無言で」互いのコミュニケーションを取っているわけです。

(「人間向け」の「ニャーン」は、本来だと大人の猫なら「不安に陥った」時だけの鳴き方が、「人間界」で人間と共存する中で、人間への「どうかお手柔らかに」というメッセージに置き換わったものでしょう。直前でリンクを張った動物行動学者、伊澤雅子先生の研究による限り、群れを作るライオンとチーターいう例外を除くと、ネコ科の生き物は、本来は、人間で言えば、もろ、分裂気質的な「嫌人権」ならぬ「嫌猫権」を行使しながら,一匹ごとに,お互いにできるだけ出会わない形に別の縄張りを持ち、生殖-出産期以外は「ひとりで」行動するものみたいです。それが崩壊したのは、人間社会が「食べ物の食べ残し」「商品にならない魚介類」を大量に投棄しはじめることで、「人口密度」ならぬ「猫口密度」が増加し、「えさ場を共有」するために生じた「文化適応」とのこと!! 「猫集会」も、本来のネコ科にはみられなかった習性とのこと)

 今度は神田橋條治先生にご登場願うと(ああ、なんという「ひけらかし」野郎だ、全く)、

「人はvocal(鳴き声)コミュニケーション以外にverbal(言語の意味内容による)コミュニケーションなんぞを文化として持ったものだから、厄介な存在になった」

わけですね(ちなみに私は「フォーカシング事始め」の「共著者」です。.....ああこれでは、ひとり「虚栄の市(いち)」.....でも、さすがにサッカレーは読んでません、私)。

アフォーダンスについての記事もご参照のこと)

Genbakaranochiryouron_1
 このことを神田橋先生は"「現場からの治療論」という物語"という近刊でもお書きですけど、元はといえば精神医学は対人関係論であるサリヴァンが言ってることですよね。

↓こっちだったかな?

↓こっちにも出てきたと思う。

 いずれにしても、

 サリヴァンの
「パラタクシス的(parataxic)」「プロトタクシス的(prototaxic)」
(=バリントのいう「基底欠損(basic fault)」状態における言語交流)

と、

「シンタクシス的(syintaxic)」(=バリントの言う、「通常の成人言語水準」における交流)、つまり、サリヴァンの言う、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる言語交流

との間には、実は完全な断絶があるのではないと私は思う。

 文字による伝達を別にすると、人間のすべてのverbalコミュニケーションはvocalコミュニケーションと「併用される」ます。

 中島みゆきをはじめとするシンガーソングライターの歌う歌は、メロディーと歌詞とリズムと声の質、すべてが「総合的に」発揮されるからこそ、メッセージとしてのインパクトが強烈になる。

 (もとより、詩が「韻を踏む」とかいう事柄は、一種の間接的vocalコミュニケーションが暗在していると言えます。広い意味での「名文家」の文章には,必ず「リズム」があります。小才ながら、私の文も、私が「話している」つもりで読める人でないと、すーっと入ってきにくい筈です)

 また、いわゆる「非言語的コミュニケーション」を、「言語的コミュニケーション」に、一意的に「翻訳」することは、どれだけ動物行動学者が観察と実証の研究を積み重ねようと不可能なはずである。結局は、動物を「人間化」して意味づけ、理解する「比喩」であることを超えられないと思う。

 まして、生身の人間同士が相対している空間には,必ず固有の「空気の感触」や「匂い」や「息」の「相互伝達」すら存在する!! しばらく同じ空間にいるだけで,湿度や室温すら変化する筈です。

 要するに、「環界(environment)」との絶えざる相互作用の中にしか「個体」は存在しない。バリントが述べたように、

「魚のエラの中にある海水を海の中と問うか魚の中と問うかは愚問である」

(↓こっち「治療論からみた退行」ですけど、中古市場でも稀観本という理不尽が続いていますので、もしこのブログで表示されていたら、臨床家の方、即、買いと思ってください

 松木先生、バリントの正統派クライン派への批判をどうお読みですか? あるいは、サリヴァンをどう理解なさるのか?????

 私たちが有機体(organism(である限り、
 すべての存在と存在は、
 互いに
 「汚しあい」
 「清めあう」かたちでしか、
 存在しませんよ。

 それが
 「汚しあい」になるか、
 「清めあい」になるかすら、

 「紙一重」

 いや、「光」と「影」

 のような関係でしかないのではないでしょうか?????

******

 またもや、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - I Am... - Daybreak"Daybreak"

浜崎あゆみ/I am...4rdアルバム "I am..." 収録 

で締めくくらせていただきました。

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2006/08/12

「すべては偶然なんかじゃなく、すべては必然なコトばかりなのかも知れない」(第3版)

 先週もご紹介した、msnの「のだみ流・働(はた)楽(らく)論!」 の連載、、第12回 「計画された偶発性」の実践(前編)は、に続く、第13回の「後編」も、いよいよ素晴らしい内容です。

> クランボルツ教授は、
> 数百人のビジネスパーソンのキャリアを分析した結果、
> 「キャリアの80%は予期しない偶然の出来事によって
> 形成されている」という興味深い結論を導き出しました。

> 絶世の美女と付き合いたいなら、青山を歩け。

******

 すでにここでも詳しく書いたように、私の生涯そのものが、まるで「神様が仕組んでくれた偶然の積み重ね」めいたところがあります。

 そこでも書いたように、フォーカシングと、当時立教の村瀬孝雄先生との出会いそのものが、ほとんど「神がかり的」な偶然でした。

 更に、その孝雄先生(奥様の嘉代子先生と区別するためにこの言い方で通させていただきます)が、「不本意ながら」東大に引き抜かれてしまうという、更なる運命の転機。

 孝雄先生ご自身は、東大に移られることを「栄転」などとは全く考えておられず、立教の教授として勤め上げることしか考えていなかったのですね。

 そのくらい、学会政治的には無関心、ただ研究者としての己れの良心に誠実でありたいと願うという点では、ほんとうに「永遠の青年」のようなピュアさをお持ちでした。 「だからこそ」、一介の「フォーカシングおたく」に過ぎなかったはずの私を院生として迎えて下さったのだと思っています。

 私が決して忘れない光景。

 「これで私の人生設計はすべて無茶苦茶になった!!」

と、孝雄先生は、立教の研究室で、院生たちを目の前にして、公式発表の場で口にした途端、「号泣された」のです!!

 それは、当時M2だった私にとっても、将来への決定的危機でした。

 「村瀬あっての阿世賀の立教大学院入学」だったのだから!!

 「もし、私が立教に残っていれば、君を博士後期まで面倒見て、研究者としての道を開いてあげられたのになあ.......」

 私が博士後期課程の試験に不合格になった(これは、当時の教授会の「全く適切な」判断だったと思います。残された教授陣にフォーカシングを指導できる先生がおられなかった以上)その日、二人だけの時に、孝雄先生自身が漏らされた言葉です。

*****

 私はここで、孝雄先生自身すら考えも及ばなかった「生き残り策」探しを始めます。
 
 どうして「その時」そこまで勇気が出たのか今も思い出せません。

 「東大の大学院研究生になれないか??」

 この調査は、何と孝雄先生にも内緒、当然「置いて行かれる」他の院生にも内緒の「隠密行動」でした。

 自分で赤門をくぐり、東大大学院の入試課を訪れ、大学院研究生の募集要項を手にする。
 
 基本的には、東大の教育学研究科の教育心理専攻の博士前期課程修了者でないと資格がないことを示唆する内容が、必要条件の「第2項」までには書かれていた。

 ところが、それに続いて、次の「第3項」があるのを私は見落とさなかったのです。

> 3.これらと同じ水準にあると認められる者

 私はこのことを確認した時点で、はじめて電話で、孝雄先生に「東大の大学院研究生になれないか?」と打診しました。

「無理ではないか」

と最初言っていた孝雄先生の電話口の声が、私が、先ほどの「第3項」を伝えた瞬間に突如明るくなります。

「うん、それなら君を連れて行けるな!!」

 私が東大大学院研究生3年間という、実質博士後期満期退学に近い最後の学歴「のようなもの」を獲得し、東大や九大をはじめとする旧帝大系の心理教育相談室出身者と同等のキャリアと人脈という「財産」を手に入れるきっかけは、たったこれだけの、向こう見ずな勇気のなせる技でした。

  「フォーカシング研究者」としての阿世賀は、ここでこの決断をしなくてもこの世に存在したかもしれない。

しかし。

「開業カウンセリングにおいても十分にその能力を発揮できる、現場臨床家」

としての私は、現在、この世に存在しなかったと思います。

その後、村瀬孝雄先生が早世された「逆境」すら、私は「運」に転じてしまいました。

 亡くなった以上、自分の師に甘えられない。でもそれは、師に拘束されないということでもあります。

 それだけ自立心の強い存在になるしかない。

*****

 私の両親の健勝と経済的安定が私を支えた「だけ」ではないか、と感じる方には申し上げたい。

 仮に両親が同じ状態にあっても、私が大学院浪人のまま、ただの駄目社会人でアニメおたくであるに過ぎない人間に留まる確率は、いくらでもあったでしょう? と。

 両親が健勝で経済的に安定していさえすれば夢がかなうほど、世の中は甘いものではないでしょう? と。

 敢えて言います。両親の健勝を支えているのは、実は私がある意味で「逆境に対して不屈」で、すべてを「運」に変える力を発揮してきた「から」、でもあるのではないか?と!!

第3坂で増補:
 
私はアニメファンを決して軽蔑はしていないつもりですし、アニメおたく、即社会人として駄目とか全然思っていませんので、誤解のないように。若いフリーターの皆さんにも、「私にできない生き方をしている」と心から敬意を払っています。

 ayuファンがアニメファンより上級という意識もないです。私がayuの熱烈ファンで、コンサートにも行き、学会発表までしたと知ると、大半が受験秀才であるに過ぎない若い院生たちの大半が「引く」のを学会の場でいくらでも体験してきましたしね

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 きっと、私がayuファンというだけでスーパーバイズを受けようかどうか迷っている人たちがきっとたくさんいるでしょうけど(^^;;;;;;;)、アニメへの詳しさという点だけなら、私が斎藤環先生に全然かなわないのは間違いないです。何しろ直接の面識があり、今ご紹介した本にあたる内容の講演も、ものすごいアニメの図版集付きのパワーポイントのプレゼン付きでお聴きし、エヴァンゲリオンの深層心理私のエヴァ本ですら「とっくに」読んでおられましたから。

「だからさ、今日の講演の企画者の中にあなたがいるとわかっていたから、今日は『エヴァ』ネタ多めにしておいたでしょ?」

私はむしろ、私の存在のあり方そのものを、

「アニメおたくでayuおたくだって、
何にだってなれるかもよ。
私の後に続け!!」

励みにしてもらえれば、とすら、思ってます。

 .....これこそ「傲慢な」言い方に写るかもしれませんけど、私が「おたく」ではあっても「エリート」でないことは、このブログの読者の皆様は、もうおわかりでしょ? 私は一介の「フォーカシングおたく」としての「出自」を決して忘れないつもりです。)

******

 実は、こうした成り行きをまるで「神秘」のように感じていることそのものが、私を最終的には傲慢に陥らせない「謙虚さ」を保たせています。つまり、

「神様は、私がそれにふさわしくないと思われたら、いつでも『容赦なく』私からその役割を取り上げてしまわれるに違いない」

と感じています。

では、「私に」できるのは何か?

自分にその時与えられた状況をすべて「神の意志」とみなして

「必死に『神の声』=『フェルトセンスの声』を聞き漏らさない生き方をすること」

だけなんです。

神(=フェルトセンス)が私に「開業せよ」と命じたから開業しただけです。

私は特定の宗教の信者ではありませんが、神の「臨在」は確信しています。

*****

 なお、「神との対話」とフォーカシングの関係については、スイスの偉大な法律家にして、「幸福論」「眠られぬ世のために」で著名な宗教的著述家、カール・ヒルティについて私が書いたことをご参照下さい。

 この記事のタイトルは、浜崎あゆみの
浜崎あゆみ - I Am... - Daybreak
"Daybreak"
の歌詞より取らせていただきました。

浜崎あゆみ/I am...4rdアルバム "I am..." 収録

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2006/08/05

またもやmsnより:キャリアは先の先まで計画を立てて積むものではない(第2版)

 またもやmsnですが(^^;;;;)、リクルートのフェローである、経営コンサルタント、野田 稔(のだ みのる)さんの、
「のだみ流・働(はた)楽(らく)論!」 の連載、たいへんおもしろいのですが、第12回 「計画された偶発性」の実践(前編)は、「我が意を得たり!」の内容です。

 野田さんは、キャリアを積む際に、早い段階からガッチリとした構想を立てて計画的に一歩一歩のぼっていくあり方に疑問を呈し、スタンフォード大学のクランボルツ教授の「計画された偶発性(Planned Happenstance Theory)の理論を引用します。

 そして、

 「幸せなキャリアとは、ある程度ドリフト(漂流)しながら築き上げていっていい」はず

ということを提唱しておられます。

 これはまさに、私が先日、大学学生相談における「社会的引き籠もり」についての相談が今後減少していくはず(旧来の「社会的引き籠もり」層は、20代後半から40歳前後までに「高齢化」していく)、という記事で書いた内容と、ものの見事に一致します。

 私自身の経歴も、まさに「わらしべ長者」のようなもの、ということも以前お書きしましたけど(^ ^;)

(この記事も参照)

 もとより、「わらしべ長者」というおとぎ話が、単なる「楽天主義」「成り行き任せ」「行き当たりばったり」とは異なる、主人公のある一貫した「判断」と「行動」のパターンの上に成り立つことについては、その続編で、歴史考証を含めて論じてみましたが。

「なるようになるダバないダバさ!!」

のようでいて、実は奥が深い!!

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2006/08/03

カウンセリングの開始とは、実は、クライエントさんの最初の「行動化」である

 私が、この記事の後半や、この記事で、「事例検討会」や「事例研究発表」、「スーパービジョン」というものについて、たいへん手厳しい発言を繰り返していることに、この記事をお読みの、特に経験の浅い、若い臨床家の読者の皆様に大きな困惑と混乱をもたらしている可能性があるかと思います。

 (例によって、これは私の「シミュレーション」ですよ。私は正直にいって、他の方のブログ等を読む時間を今やほとんど全く持ち合わせていません。申し訳ありませんが)。

 事例発表という行為そのものが、治療者自身の「行動化(acting out)」のリスクを負っている、とまでいわれると、これから「業績作り」をしながら、職歴をステップアップする必要に迫られている若い臨床家の方は、そりゃ、むっちゃくっちゃ困惑されることでしょう(^^;)。

 「行動化(acting out)」とは、クライエントさんが、本来治療者との面接の関係「の中で」「内面を見つめながら」解決すべき事柄を、その「枠」を壊して行動して解決しようとすること全般を指します....という言い方をすると、たいていのカウンセラーの方と共通理解が得られるでしょう。

 でも、実は結構曖昧な使い方がされている概念です。例えば、カウンセラーに何も告げないまま他のカウンセラーに相談に行くこと、面接の予約時間を破ること、カウンセラーを異性として好きになり、無理矢理抱きついたり、カウンセラーの帰宅時に「あとをつけていく」などのストーカー行為に走ったり(この問題の深刻さは、あまり表立って議論されていない領域です)、オーバードーズやリストカットなどの自殺企図、「転移」の問題に直面した時、衝動的な性的逸脱行為や飲酒に走ることなど、みんな「行動化」=「よくないこと」とされているのですが、どうも、それらを「クライエントさん側の自我が弱いために引き起こされた、本来好ましくない、カウンセラーにとって迷惑な行動」と位置づけ、「行動化」を起こすクライエントさんはそれだけ病理が深く、手におえない「厄介な」クライエントさんだと位置づけるに留まることが多いのです。

 しかし、それを言い出すのなら、カウンセラー自身がアルコール中毒といわれかねない深酒をしていたり、衝動的で不安定な異性関係を繰り返す癖があったりしたって、カウンセラーの「行動化」でしょ? と私ならいいたくなります。

 クライエントさんが次々とカウンセラーや治療者を渡り歩くこと(セラピスト・ショッピング)が「行動化」というのなら、カウンセラーが次々といろんなカウンセラーにアドバイスを求め、面接の内容までぶちおまけて相談するのも、「ワークショップ・ショッピング」を重ねるのも、見事な「カウンセラーの」行動化ではありませんか!!

 中井久夫先生が看護のための精神医学第2版「看護のための精神医学」等で、クライエントさんのその種の「セラピスト・ショッピング」を「よくない事態」と考えることそのものに敢えて異議を唱え

 「そうやって、幾人もの治療者を渡り歩く中で、患者さんの病理は次第に『弱毒化』されていることが多い」

 という画期的な発言をして、治療者としての自分は、そのクライエントさんの巡回する、たくさんある『寄港地』に一つに過ぎない、くらいのスタンスでいればいいかのごとく示唆しているわけです。つまり、「クライエントさんが行動化を引き起こす責任をカウンセラー側の責任として『抱え込み』過ぎることにも警告を発しているわけですね。

 ただ、今度は、この「行動化の傾向が強いクライエントさんとの面接過程」について、担当カウンセラーが他のスタッフやスーパーバイザーや上司に相談せず、「ケースを『抱え込む』のみになるのはよくない」ということ自体が「カウンセラー教」のドグマになっている。

   中井先生が示唆しているのは、

   「抱え込まずに事例検討会に出せ
   ということではなく

  「クライエントさんがあちこちの治療者を
   渡り歩くのを適当に放置しておき、
   舞い戻ってきたら、相手をするくらいの
   スタンスでいいんだよ」

ということなのである!!

.....ってことは、セラピスト側が、いろんな流派のいろんなセミナーやワークショップ、スーパーバイザーを「渡り歩く」という「行動化」に走ることも、中井先生は許しておられるとみていいでしょう(^^;;;;;;)

 ある観点から見れば、カウンセリングを受けようか迷っている一般の皆様が、

 「問題を自分とその対人関係の当事者の間で解決できる『べき』なのに、カウンセラーのもとに通って、親兄弟や妻や恋人や上司や同僚のプライバシーまで暴露するのはよくないことではないか」

.....と悩み抜き、カウンセリングの門をたたくかたたかないかを、時には何年も躊躇し続ける一般の皆様の心情きわめて健康的なものであり(!)、カウンセラーなんぞに相談することを、ここでいう「行動化」にあたると感じていても、全く当然なんですね!!

 カウンセリングの開始とは、実は、クライエントさんの最初の「行動化」であるという視点に立てば、「行動化」というものへのカウンセラーの視点が柔軟になると思うのですが。

*****

 ちなみに、中井久夫先生、河合隼雄先生、神田橋條治先生、ユングなどといった先達の諸先生方が、自分自身の事例の公表を、少なくとも中年期以降、全く控えておられることは、業界では有名ですよね。ほんとうは、これらの「大先生」でなくても、その治療者がある程度業界に名前が有名になり出したら、事例公表には慎重になるのが的確なのではないかと思います。

そして、実は「無名な」治療者でも、実は共通する問題を抱えているのではないかと。

 クライエントさんご本人の許可を得たとか、終結後数年を経た事例であるかどうかなんて、実は全く表面的な「手続き」問題として処理されがちで、「カウンセラーの責任回避」にクライエントさんを「巻き込む」リスクを犯している面もあることへの配慮が欠けていることが少なくないのではないかとすら思いますよ。

以下、第2回に続きます。

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NPO法人「日本教育審査会」(Jean)の認定カウンセリングルームとなりました。

 ココから、認定カウンセリングルームのみ掲載が許される、湘南フォーカシング・カウンセリングルーム「審査結果」といいますか、紹介スペースにダイレクトリンクします。

 特定非営利活動法人「日本教育審査会(Jean)」とは、広い意味での「家族・子育て支援」といいますか、教育や医療やカウンセリングを含む様々な組織・団体・個人を紹介するためのNPO法人です。
 現段階では関東地方を中心エリアとしていますが、全国展開を目背しているとのこと。

 「私、子供のカウンセリングは専門ではないのですが」と申し上げると、先日このブログでも言及しました、「社会的引き籠もり」の問題の高年齢化の中で、

「18歳以上の家族内で生じている問題に対応してくださるのならば、十分です」

とのお言葉を頂き、ご推薦を謹んで受諾することにいたしました。

******

 この「日本教育審査会」の設立者の方が、このNPO団体を立ち上げるに至るエピソードがたいへん興味深いものでした。
 
 その方は、ある大手の家庭教師派遣会社の「営業担当」だったそうです。ところが、そうやって営業をして廻っていくご家庭で、お母様からその家庭の問題についていろいろ相談を受けるということが度重なり、ついにはその家に上がり込んで、(「家庭教師」ではなくて、家庭教師の「営業」のはずなのに!)引き籠もりの子供さんと直接長時間話し込んだり、一緒にゲームをしたりというところまで「思わず踏み込んでしまう」ことが出てきたそうです。

 そうした上で、そういう不登校の子供たちに「適した」家庭教師を斡旋する契約を取り付けるということを繰り返すうちに、営業成績を上げるばかりか、

  「こういうご家庭の役に立ついろんな機関を
  自分たちで探しまわり、実際にその機関を訪問して、
  信頼できる機関を審査・認定し、紹介する
  ネットワークを作るだけでもビジネスになるのではないか?」

という大胆な発想をするに至り、NPO法人として「独立企業」したとのこと!!

 私は、その大胆な発想設立者の「心意気」に、同じ「独立開業者」として男気を感じてしまった、というのも、この提携に応じた大きな理由です。

 これで私は合計4つめのweb上ネットワークとの連携に踏み切ったことになりますが、ここしばらく、こうした連携の相乗作用の手応えを、徐々にですが、確実に、感じ始めています。

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2006/07/30

ちなみに、今の私が一番思い入れのある中島みゆきの曲は.....

【CD】中島みゆき / Singles II <2004/7/21>中島みゆき/歌でしか言えない"Maybe"です。
中島みゆき - 歌でしか言えない - Maybe

 恐らく、カラオケで今歌えといわれたら、最後まで「冷静に」歌い通せる自信はないですね(^^)

 でも、この歌ぐらい、深い癒しがある曲はないと思いますよ。

Interactivebooks_1
インタラクティヴ・フォーカシング
でいう、

"compassion"(=痛みを-共にする-こと)

極致の曲の一つ
だと思います。

 この歌と、この歌を好きだという人を、どのように受容できるか?

 そこに、そのカウンセラーの力量もろにあらわれると思います。

少なくとも、その場に居続けるのもつらくなる人や、表面的な「同情」の言葉しかかけられないようなら、そのカウンセラーは現場に出る資格はないと、私は確信していますが。

 逆に、この歌を、かっこいい、希望に満ちた歌だ....としか感じない人も、どんなもんでしょうかねぇ.......

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2006/07/23

今後、大学学生相談において、従来の「社会的引きこもり」に相当する学生についての相談は減って行く可能性がある(2)

 さて、やっと、前編の続きですね。

 このことを書こうと思ったきっかけは、大学学生相談事例のケーススーパービジョンをしている間に、いくつかの事例をうかがううちに、私が学生相談の現場を離れて2年もたたないというのに、

「今の大学生は、大学をやめたくなったらけっこうあっさりとやめてしまう」

という事実に気がつき始めたのがきっかけなんです。

 「再受験による救済願望型」=「希望した大学や学部に入り直しさえせすば自分の人生は一気に好転するかもしれないという空想的期待を抱き、『仮面浪人に』走るタイプ」

明らかに減ってきている。.....というか、

1.以前よりも、そういう仮面浪人型の人や、転学・転部試験を希望するタイプの人が、非常に「現実的な」視点に立って、「見通し」を立てて、「計画的に」受験勉強をして、転学・転部を実際に成功させ、その後は「以前よりは」かなり充実した大学生活を送る人が多くなっているようだ。

2.専門的技能を身につけたい大学生が、大学中退して、専門学校等に入り直すことに躊躇を感じなくなってきている。

3.卒業してもフリーターとして生きていくことに全く抵抗感がない学生が、就職課に足を向けないまま、あっさりと卒業していくケースの増加。

4.「大学ぐらいは出ておきなさい」と、保護者の方が、子弟に対して以前ほど執着的に期待し続けないケースが多い。

.......こうした傾向を、感じるのである。

******

 こうなってきた原因としては、

新卒→終身雇用制という企業側の求人のあり方が崩壊しつつある。その結果、

「一度入ってしまえば、あとはレールの上に乗っていれば生涯が保証される」

という幻想の崩壊により、

「レールの上に乗せられて、あとは会社の歯車として働き続けねばならない

という、「呑み込まれ不安」を、従来なら引きこもり予備軍になりそうな人たちが「以前ほど感じずに」済むという、思わぬ「いい『副作用』(?)」を併発したこと。

 つまり、昨日まで安定しているかに見えていた会社がまたたくまに倒産したり、吸収合併される様を知るにつけ、

「人生とは予想がつかない不安定なもの」という認識が当たり前になったこと。

 銀行や地方公務員なんて、20年前なら、「入ってしまえば」これほど安定した身分はないとたいていの人が思っていたはずである。しかし、銀行ばかりではなく、昨今の市町村広域合併の推進に伴う「統廃合の嵐」が来ると誰が思っていたたろう?

 郵政省郵政公社になったし、あのNTTですら、他の電話会社やネットブロバイダとの競争の中で、内部では恐ろしい勢いで試行錯誤の組織再編を繰り返している。国立大学ですら「独立行政法人」として、統廃合、再組織化が進んでいるし、大学教授ですら、ロー・スクールを格好の切り口にして、「年限のある採用」が一般化しようとしており、新たな研究業績を形にできない教員や、まだ常勤講師の立場を獲得できていない若手研究者の「内部就職」を不安に陥れている。

 もとより、そうであるからこそ、フリーターや派遣職員に過ぎない層と、正社員として生き残れる層との賃金格差は大きくなっているわけだが、その「正社員」そのものが、いつ何時「子会社への出向」を言い渡されかねない。

 更に、少子化の波の中で、2007年には大学進学希望者と大学の入学定員がイコールで結ばれるわけである。もはや「それでも」高い学費を払って「そういう」大学に通うべきか?という意識が、高校生やその親の世代に強くなっても当然である。

 こうなると、大学そのものが、旧来の、「象牙の塔」を脱して、具体的な職業技能を教え、キャリア教育を重視する「専門学校化」していくか、あるいは「社会人に門戸を広げる」しか生き残り策はなくなる。

 そうやって「社会人になってもいつでも大学に入れる」傾向が強まったら、いよいよ無理してまで大学に「高卒後」すぐに通う意味は喪失する。

 こうして、一部の研究エリートやエリート官僚、高度専門職養成校を除くと、旧来の日本の「大学」のあり方そのものがものの見事に崩壊する直前の段階なのである。

 もはや、フリーターとして取りあえず社会に出ることが、何の負い目も恥ずかしさもない社会が、目の前に迫っている。100円ショップの隆盛でもわかるように、今や消費財の生産の多くは、アジア全域の安い労働力に依存しているため、同じような品物を買うための物価は実質年々下がり続けていることも、フリーターが取りあえず生きていくことに好条件である。

*****

 ここまでは私が自分で考えられたことなのだが、そこに更に、wikipediaの「ニート」の項(統計資料を駆使した、秀逸なものである)を読むうちに、私の視野になかった重大な事実に気がつかされた。

  「ひきこもり」のひとつの背景にあった、「社会的・対人的スキルの未熟さ」の問題を、何と高校までの学校教育そのものが、すでに掘り崩していたのである。

 先述したwikipedeiaの記事の、「出生年における教育機会の落差」の項をご覧頂きたい。

 パソコン学習が小学校から必須となり、ボランティアや職場体験、企業実習が単位認定される時代。

 もとより、これらの教育ががほんとうに実質的に機能しているかどうかにはいろいろ問題があるだろう。しかし、もし、学校教育の枠内で、こうした社会的体験を持てたら、社会人になることへの不安がかなり緩和されたであろう、「旧来の引きこもり」世代は、かなりのパーセンテージにのぼる、とは言えるのではなかろうか?

 こうして、もはや、斉藤環氏が定義した意味での「社会的引きこもり」は、現在の大学生からはすでに減少し始め、すでに20代後半から40歳ぐらいまでに「高年齢化」された形で存在する時代に、すでになりつつあるのではなかろうか?

*****

 もとより、どのような時代でも、その社会の潮流になじめないで苦しむ人たちは決していなくはならないし、ある意味では、そうした人たちからこそ、次の時代を作る新たな文化的潮流は発信され始めるだろう

 もはや「大学」に何の幻影も抱かない世代から。
 
 あるいは、

 超高齢化社会を迎えた中での、老人たちからこそ。

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2006/07/19

カウンセラーのネット活動についての大いなる誤解に挑戦する!!(第5版)

 恐らく、カウンセラーの皆さんの中には、私がこのブログで、自分の趣味や好みや考え方,感じ方を、しかも「実名で」さらし続けるばかりか、なんと自分が「映像出演」する形で自分のカウンセリングルームの宣伝をしたり、

「自分は『生活の糧を得るために』カウンセラーをしているだけである。だから私の『生計が成り立つ程度』にはお客さんに来てもらわないと困るから、『経営的観点から』宣伝を現段階でこのように繰り広げているのである」

ということまで、公然と書き続けていることに、ある驚き反発を感じておられる方もあるかもしれない。

 実は、これは私がある意味で意識的に選んだ戦略である。

 はっきりいうと、こうしておく方が、私のもとを訪れるクライエントさんにとってセラピーとして有益である、少なくとも「害はない」ということに「確信」があるからである。

 実名で通すことの意味については、実はかなり以前の別の記事で暗示しているのだが、

  私は少なくとも、ネット上で,
  自分がカウンセラーであることそのものを
  「全く伏せて」
  ブログやホームページをやる意志が「ない」人、
  すなわち、
  「匿名で」
  「自分の所属機関も明示せずに」、
  誰でも読めるネット上のオープンなスペースで

  ブログやホームページをやって、
  しかもそこで、
  カウンセリングや精神療法についての
  私見を書くことそのもののもつ、
  ある「危険性」になぜ気づかないのかと思う。

 そういう「匿名の」カウンセラーが語る記事の内容が、思いもよらない、見も知らない全国各地のクライエントさん「たち」

 「実は『自分の』カウンセラーの自分との面接「について」の書きこみである

「勘ぐって」かかるきっかけを与える危険について、皆さんは考えたことがおありですか?

 そのように「勘ぐる」クライエントさんは、皆「妄想的」なのだ、で片付けるおつもりですか?

 恐らく、あなたはひとつ記事を書くたびに、日本中の、最低10数名の「思いもよらない」クライエントさんが、あなたが知りもしない、日本全国、最低十数名の「そのクライエントのカウンセラーさん」に疑惑を向け、それを口にできないままでいて、その「カウンセラーさん」とクライエントさんとの関係をい、いつの間にか混乱させている可能性まで考えたことはないのですか?

 それなら、自分はどこどこの所属機関にいる、○○というカウンセラーだ、と実名まで明示して、自分のクライエントさんたちとの関係の上で「害にならない」し、万が一、害になった場合には自分で責任を取る覚悟で書けることだけを書くべきだ、というのが私の考えです。

********

 さて、自分のクライエントさんとの面接過程を、「本人の同意も得ないまま」「軽率に」ネットに載せることが論外であることは言うまでもありません。
 
 私は、事例めいた話題に触れる際には、必ず「架空の事例」といえるところまで徹底的に換骨奪胎して、一般化し、抽象化しています。

 面接の中で思いつき、クライエントさんに思わず口にしたテーマを、このブログで面接の具体的な脈絡から切り離して書くことは少なくありませんが、そうした場合は、ほとんどのケースで、クライエントさんに、

 「こういう形でテーマをたてて,こういうふうにブログで書くから」

と、おおよそのあらすじまで即興で披露して、クライエントさんの同意を得て、書いています。

 もちろん、「これをネットで書いてしまうのは、自分のクライエントさん(の誰か)に悪影響を与える」危険を感じた場合には、そういう思いが少しでもかすめたら、クライエントさんにもそういう提案はしないし、ブログでも書かないままです。

 いずれにしても、そういう私の提案に対して、
 
「先生の言われたことは、自分と同じような状況にある人に有益だと思いますから、むしろ書いていただける方がいいと思います」

とまではっきり言い出すクライエントさんも少なくありません。

 だから、次の面接の時にクライエントさんから、

 「あ、あのテーマ、実際に書いてくれたんですね。あれから、あれを家のパソコンで読み直すことで,自分が面接した時にやりとりしたことを振り返り、自分なりに更に考えてみる上で役に立ちました

とすら言ってもらえることが結構あるぐらいなのです。

 つまり、私のブログの書き込みは、クライエントさんにとって、ウィニコットの言う意味での「移行対象」としての意味(=面接の時以外でも、クライエントさんと私との間に<絆>があるのだという安心感を与える媒介[medium,複数形で「media=メディア」」]としての意味)を、面接と面接の「間の期間」に持つように、むしろ積極的に配慮しているつもりです。

 もちろん、中には、「あの記事,私のことについて書いたのですか?」

などと、「思いもよらない」クライエントさんが言い出す場合ももありますが、私はそういう時に,正直に、

 「その時は特に君のことは意識しなかったけど,私は私のどのクライエントさんがその記事を読んでもいいし、ひょっとしたら役に立つかもしれないと思うことしかネットで書かないことにしている。だから、君が、私のあの記事から、どういうふうに、自分とも関係があると感じたのかをきいてみたいんだけど、どうかな?

 というふうに「面接を深めるのに役立てる方向に」話を進めます。

 つまり、このブログ、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」と、私の「現実の」湘南フォーカシング・カウンセリングルームの面接室そのものが、ネットのバーチャル空間とリアルタイムで通底し、一体化した形で有効に作用するように配慮しているのです。

 「だから」私は「映像出演」までするし、浜崎あゆみのカレンダーを面接室にむしろ飾る「必要がある」のです。「ほんとにiPod好きなんですか?」ときかれれば、喜んで自分のバッグから取り出してみせます。

 でも、私に迎合して浜崎あゆみを聴き始めたらしいクライエントさんは、なぜか誰ひとりといません。

 音楽の話題になっても,「自分の好みを私の前で押し通す」クライエントさんしか私のクライエントさんにはいません。

 なぜなんでしょうね?

 「うわあ、ネットで書いてる通りの、ほんもののこういちろうさんだ」

と、むしろ安心してもらえる仕掛けにしているんですよね。

 だから、クライエントさんは、安心して、「自分自身でいられる」のではないかと思っています。

*******

 いずれこれはまた別の機会に論じますが、私は、治療者の「中立性」とは、そのクライエントさんなりの、クライエントさんのリアリティを「わざわざ」破壊する、「余計なファンタジー」をかきたてる装置なのだと思っています。

F_tenkai
増井武士先生が、
これに近い見解をお持ちです。
「フォーカシングの展開」(伊藤義美 編)の、
増井先生による、
第8章、「関与的観察としてのフォーカシングの臨床適用」を参照)。

 フロイトが「神経症」の症状を、面接室という場の中での「転移神経症」という「より安全な」ものに一度置き換えて解決するのだ、と言ったのは、実際には、ブロイラーに続いて、フロイト自身が、患者さんの「転移」に無っ茶食っ茶に死ぬほど悩まされ抜いた挙げ句、

 「そうか、この一見やっかいな『転移』をむしろ生産的に生かして治療できるのではないか」

というところまで、「逆転の発想」で「開き直る」に至るプロセスがあって、はじめて言い出せた「逆説」なんですね。

 つまり、「相手の自分に向かってくる力を利用して、しかも安全に相手を投げ飛ばす」というのは、

 実はすごーーーーーく高度なエキスパートにしかできない世界なんです!!

 そして、フロイト自身は、実はこの「転移を生産的に生かす」ことに、生涯の事例の中で,果たして「8勝7敗」あげられたかどうかも怪しいことは、すでに論じ尽くされている通りです。

Balintbasicfault 中井久夫先生が、古典的なフロイト的治療法を、明らかに「リスクが大きすぎる」ものとみなし、

「自分がもしすでに亡くなった欧米の精神分析系の他の医者に患者を紹介するとしたら、ウィニコットかバリントだけだろう」

ということを、バリント「治療論からみた退行」(中井久夫訳 金剛出版 ; ISBN: 4772400842 絶版 ) のあとがきで、はっきりお書きなのに、私も同意します。

**********

 ネットでのカウンセラーの活動についてですが、

 たとえそれが、臨床心理士しか読めない,厳格な入会資格を有するクロースドな会員制のブログであったとしても、そこでなら、クライエントさんについて意見を取り交わしてもいいと安易に考えるのであれば、私は、それを「クライエントさん本人に読まれない」という「防壁」を勝手に作った中で繰り広げられる、治療に有害な、治療者自身の「行動化(acting out)」であると考えます。
 
 それどころじゃあありません。
 はっきり書きます。

 たとえ面接がうまくいかないからといって、
 自分の担当している事例を安易に「事例検討会」、
 ましてや
 (たとえ本人の同意を得たものだとしても)
 学会の「事例研究発表」
に提出する
 という行為そのものが、
 治療者自身にとって、
 クライエントさんとの関係性を破壊する
 "acting out"のリスクを持っている、

ということに、今日どれだけの配慮がなされているでしょうか?

(この問題について、こちらの新記事具体的に論証していきます)

 事例検討会の後、それがほんとうに有益に役立った場合というのは、一般に考えられているより遥かに少ないのではないか、よくて、事例検討会が「無害」だったにとどまるケースが、結構多いと、私は思っているのですが。

 事例検討会「にもかかわらず」、むしろそこで「自分なりの」見直しの機会としてしか「活用しなかった」、主体性のある問題意識を「自分で」育て続けた治療者のみが、最終的に,学会で、クライエントさんが仮に発表のその場にいても喜んでくれそうな域の、ほんとうの成功事例の発表ができていることが多い、と私は感じています。

 少なくとも、私は、他の人のアドバイスに「そのまま」従った結果いい結果を出せた事例の経験を思い出せませんし、私のスーパーバイジーたちも、必ずしも私のアドバイスを忠実に実行「しない」からこそ、「私の想像力を超えた」展開で、いい面接ができていることが多いと思います。

 スーパーバイジーのカウンセラーの方々も、クライエントさんも、私の予想を裏切る、思いもよらない形で「しか」成長して「いかない」から「こそ」真の成長(ユングの言う意味での「個性化」)なのだと思います。

********

 かなり逆説的な問題提起だとは思いますが、意外と、「ホントはそうだよね」と感じて下さるカウンセラーの方も少なくないかと思います。

*********

 ふと思い出しましたが、中井久夫先生って、患者さんが読んでも決して悪影響が出ない文章しかお書きになっていないんですよね。

そして、

    「なぜ精神療法家をしているかと問われれば、
    ただ『日々の糧を得るため』
    と答えられるべきである」

    「患者に高く買われそうになったら、早めに
    自(みずか)ら買い戻せ(discountせよ)」

というのは他ならぬ中井久夫先生の名言の一つである。

 似た表現はこの記事の末尾に示した「あの本」にも出てきますが、そのまた「原典」の論文ぐらい、少なくとも病院臨床のカウンセラーならとっくに読んでいる「べき」なのです。(中井久夫著作集どこか.....ま、いいか、「軽症........について」という「名論文」なんですが.....ぐらいはヒント出しておきますね)。

 これは結果的に,中井先生が「転移」の治療的効用にかなり疑問を持っていることを示唆していると理解するしかなかろう。

 この辺、「面接」即「収入」という、私の現状は、完全に「自己一致」してこの言葉を使えるので楽である。私を「金の亡者」か何かと勘違いした時点で、そういう「治療者」は勝手に私に「陰性転移」、ないし、「投影同一視」を向けているだけである。

 試しに、一回の面接料金6000円(内税!!)で、更に所得税もきちんと納めるためには、週5日働くとして、一回一時間として、一日「平均で」何ケース持たねば経営が成り立たないか試算してみて欲しい。月収手取り40万(ボーナスなし)相当とするために、でいいので。


看護のための精神医学第2版看護のための精神医学 第2版

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2006/07/16

先週の人気記事ベスト20!!(最終確定版)

 @NIFTYココログの、月曜日-日曜日の「先週」記事別アクセス解析機能を使って、客観的データとしてはじき出してみました。

 ただし、トップぺージへのアクセスではなくて、固定リンクでのアクセス率のみから集計しています。

第2版の数値は16日(日)24:00での確定値です。

 今後、毎週月曜にはこの週ごとのランキングを定期連載にしたいと思います。

 このランキングの掲載の結果、まあ、ワールドカップの終了後の連休2日めで皆さんにネットをじっくりと読んでもらう余裕があったのでしょうが(新規記事がないにも関わらず、17日の延べアクセス287)、明らかに、過去の古い記事を含めて、どの記事が読まれるかに、すでに明白に「異変」が生じました。

 もっとも今回は、この記事「初版」を日曜19時頃載せてから5時間の間に生じた影響バンドワゴン効果?)も含まれていることになりますが。

 次回からは、「完全に」日曜24時締めの「先週」ランキングが、1週間、アクセス解析記録として表示されたままですので、忙しければ、月曜でなくとも、翌週の暇な時にいつでも作れます。

 もちろんそれでも「バンドワゴン効果」は残るのですが、いい意味で古い記事を掘り起こして読者の皆様に読んでいただけるのは、私にとっては「過去の遺産」を埋もれさせずに読んでいただき、「新たな読者の皆様の当ブログへの勧誘」を検索エンジンやSEO対策にのみ頼らなくていいので、生産的意味があると思います。( )内は7/16の19:00からの5時間の間に生じた変動です。

********

1.あなたの身近な「町のカウンセラー」を目指しています。(→)

2.フォーカシングは、分野に関係なく、その人が「現場経験」から学び取る力を圧倒的に高める(→)

3.子供との関わりのためのフォーカシングの本、新刊(↑)

4.音抜けが圧倒的に良く、決して低域がダブつかない、究極のオールラウンド密閉型ヘッドフォン!(↓)

5.「死にたい」と言ってもらえること(↓)

6.クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと (↑↑)

7 . 夢フォーカシングについてNEW!

8.「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)(↑↑)

9.「『信』なき理解」(↑)

10.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↑↑)

11.続・『信』なき理解 -援助職の人自身の人間関係の光と影-(↓)

12.目覚めれば午後3時半(↓)

13.プロ・カウンセラーの6つの条件("7.11 Asega Doctrine")(↓)

14.ヘッドフォンと共に過ごした「安息日」(↓)

15.インシュレーターは使わないに越したことはない(↓)

16.単なる「ロールプレイ」より効果的なカウンセラー訓練(↓)

17.真っ白な灰には決してならないうちに、(予告付)(↓)

18 .今週の人気記事ベスト20!!(初版)NEW!

19.あなたの身近な「町のカウンセラー」を目指しています。(への「コメント」(↓)

20.iPod向けヘッドフォン・イヤフォン・小型スピーカーの記事index(↓)

********

こうしてみると、私のページが、現状では、

カウンセラー(およびカウンセラーを目指して勉強中)の方々と、

iPod用のヘッドフォンを探している人、

ピュア・オーディオ・ファン、

向けのサイトであり、

浜崎あゆみ中島みゆきサイトではない!!

というリアルな現実やはり私は直面せざるを得ないのであった(^^;A

 .....まあ、ある意味では、特にこの3週間ぐらい、若いカウンセラーの方に読んでもらうことに、実際私も「一番」力を注いで来ましたので、本望といえば本望そのものの結果です。

 これからも、どうかよろしく!!

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夢フォーカシングについて(第3版)

そういえば、私、このブログで最近、

Dreamfocusing_1
「夢とフォーカシング」村山正治編訳 福村出版

については何度も引き合いに出しつつも、ジェンドリンの「夢フォーカシング」についてはまとめて一度も紹介したことがなかったと気がつきました(^^;A
 
 私の専門とするフォーカシングにおける夢理解は、ユング的、特にドリームワークボスナックの"Dreaming Body"(ボスナック氏来日時に一日セミナーを受講しています)、あるいはエンプティ・チェアの心理臨床ゲシュタルト療法のempty chair(倉戸ヨシヤ先生ご自身をはじめとして、どういうわけか日本人間性心理学会を通して、日本の関西のゲシュタルト療法の関係の諸先生方と親しくさせていただく機会が多かった私です。もっとも、ゲシュタルト療法のワークショップそのものには1回しか出席させていただかないままです)との類似性が高いのですが、ジェンドリンは、

 「夢を見た当人は、日常の中でと同じような仕方で夢解釈をしようとする傾向が強い。だから夢解釈が役立たない(悪夢はただの「反復強迫」に終わる)のだ。それを超えるには、"bias control"をかける必要がある」

と述べ、夢の中の、あまり重要で「なさそうな」登場人物に「なってみて」、その「登場人物」を「演じる」つもりになり、内側から感じてみる、などを推奨しています。

 場合によってはその夢の中にさりげなく立っていた「木」でもいい、とすら。

 まさに自分自身の「影」や「アニマ」に「なってみる」というやり方ですが、精神分析の脈絡に置き換えれば、これなんて、ラッカーの「補足的同一視」の自覚的再体験によって治療者自身の自我の再統合をはかる、ということに当たるのかなと思います。
 
Esprit410hyoushi_1
 なお、ラッカーの「補足的同一視」と、フォーカシングにおける「治療者の逆転移の活用」との関連については、私の先輩に当たる、学習院大学の伊藤研一先生が、現代のエスプリ 410 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編  目次はこちら)の中の伊藤先生自身による論考、「『治療者のフェルトセンス』と『逆転移』」で、詳しく論じておられます。

******

Izanai
公刊された著作に書かれた、
日本人による
夢フォーカシングの実例としては、
「フォーカシングへの誘い」池見陽 編/サイエンス社

における、
関西の代表的フォーカシング・トレーナーである森あい子さんがお書きになった自験例が、「もう、これ以上にわかりやすいものはない」というくらいの、抱腹絶倒の「傑作」です。

 ちなみに、私の本部ページの「フォーカシング入門」のひとつの章で、「夢フォーカシング」についての私自身による解説を試みていますが、そこでこの森さん自身の夢フォーカシング体験の概要を引用させていただいています。

 更に言えば、私自身、夢フォーカシングについての論文を書いています(学術論文寡作の私にしては珍しい例外!!)

阿世賀 浩一郎「夢フォーカシング技法の面接場面への適用に際しての幾つかの実用的示唆」 人間性心理学研究 第11巻 第2号 1993

 更に忘れてならないことを言えば、今現在、日本で一番熱心に「夢フォーカシング」に取り組んでおられるのは、これまた私が大学院時代からの知り合いの、福岡大学人文学部の、田村隆一先生です(私と同じThe focusing Instituteのコーディネーターの資格をお持ちです)。
 私も参加した2005年のトロントでのフォーカシング国際会議でも、田村先生ご自身が、夢フォーカシングの分科会を持たれました。
Focusingworkbook_1 田村先生による、「夢フォーカシング」についての紹介と論考のうち、
一般の方にも入手しやすい文献ととしては、
左のブックレビューにも掲載している、「フォーカシング・ワークブック」
「夢のフォーカシング」という、
4ページに凝縮されたマニュアルがありますし、

Esprit382hyoushi現代のエスプリ 382 特集「フォーカシング」
(村山正治編 目次はこちら)に、「フォーカシングと夢分析 -臨床上の有効性と留意点」
という一章があります。

 最初に言及したジェンドリン自身の著作に加えて、こうした資料や専門家をおあたりになると、なぜ私が、
ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索
「支店」Websiteの方の、「メニュー」のコースごとの詳しい解説で、「夢フォーカシング」コースについて、

フォーカシングを活用した夢分析。
それは、この世に多く出回っている「夢解釈」のように、
「海に浮かぶ」=「おかあさんの子宮の中に戻りたい」
みたいな、
夢の内容から、まるで「辞書を引くように」
答えを見つけるものではありません。
あなたと一緒に、
夢の中でどんな「感じ」でいたかを丁寧に振り返る中で、
あなたもびっくり、カウンセラーの私もびっくり!!
みたいな、
予想もしない答えを一緒に見つけていくものです。
フォーカシングの経験がなくても大丈夫!!
占い気分でやってみたら、
あなたをスリルとサスペンスと爆笑にみちた、
アドベンチャーゲームにご案内します。

などと解説したのか(この「女性誌文体」も私自身が書いた文なんです.....)、おわかりいただけると思います(^^)

*********

 ところで、私は、クライエントさんについての夢はほとんど見ないタチです。
 きっと、むしろ、クライエントさんとは一見無関係な内容の夢の中の「他の」登場人物が、それこそ「共通の布置」を持つ「代理人(?)」として、クライエントさんとの関係性、そして私個人のいろんな人との関係性に関わる「夢作業」として課題を私に突きつけているのでしょうね。

 夢フォーカシングについては、こちらにも詳しい記事があります。

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2006/07/13

あなたの身近な「町のカウンセラー」を目指しています。(第3版)


ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索ispot
会員の皆様、はじめまして。

 神奈川県の大船で「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」を開業しております、臨床心理士(資格証明書↑)の資格を持つカウンセラーの、阿世賀(あせが)と申します。

(「臨床心理士」ですが、「医者」ではありません)

 20年近くにわたる、大学学生相談と、社会人の方を中心とするカウンセラーのキャリアを経て、2005年7月11日に独立開業いたしました(ちょうど1周年!)

 臨床心理士と共に、アメリカに本拠を置く、フォーカシングのNPO国際組織、"The Focusing Institute"から、

  ○フォーカシング・トレーナー
  ○フォーカシング指向心理療法(FOT)セラピスト

更に、

  ○コーディネーター
  (トレーナー、FOTセラピストの養成、資格認定資格者)   

としての国際資格を頂いております。

 フォーカシングを学べる場所は日本各地に数十箇所ありますが、土日、平日問わず、定休日以外、一日8時間開業しており、しかもその相談機関の公式名称そのものに「フォーカシング」を冠した常設相談機関は、不肖私が、「日本初」のようです(2006年7月13日現在)。

*****

 では、私に相談して下さる場合に、その「フォーカシング」という技法だけが使われるのか.....ですって?

 いえ、そんなことはありません!!

 私が開業をする際に心に決めたこと、それは、地域に溶け込む、

   「町医者」ならぬ、

   「町のカウンセラー」

になるぞ!! ということでした。

 「町医者」は、もちろん重たい疾患の場合でしたら、検査や入院・手術のの施設の整った「専門の病院」や「地域の中核となる総合医療施設」、「大学病院」などを紹介するでしょう。

 でも、「町医者」は、とりあえず「内科」の看板を抱えていても、傷の応急手当のような「外科」的な緊急処置もとらねばならないでしょう。「目や耳にゴミが入って取れない」という訴えにも応じなければならない。時には、時間の余裕があれば、孤独な老人の話し相手にもなるのが自然かもしれませんよね。

 実は、「現場カウンセリング」というのも、そのような「町医者」と、似たところがあると思っています。

 現実の医療現場では、特に緊急の場合、

「私は『内科医』だから、『外科』『脳神経外科』『婦人科』がふさわしい方は最初からお断りします」

.....なんてことないでしょ? 

 必要な基本的診察はした上で、患者や家族が必要以上の動揺しないようにいさめた上で、自分で対応できないと感じたら他院への紹介状を書いたり、連絡先は教えるでしょう? 一刻を争うようなら救急医療の手配までしてくれるでしょう。

 これと同じようなことがカウンセラーにも必要だと思います。 

 「ストーカーの被害に遭っているんです」
 「.....それじゃ警察に行きなさい」

 「キャッチセールスにひっかかったようです」
 「....それなら、消費者センターに電話しなさい」

 「リストラの後、仕事が見つからなくて、困っています」
 「....それなら、ハローワーク(職安)に行ったらどうですか?」

だけで終わらせているカウンセラーがいるとすれば、

  「そんなことは、とっくにわかっている」
   はずのその人が、
   なぜ「カウンセリングの」門をたたいたのか

という、「一番大事な」その人の「思い」を見落としていると思うんですよね。

 もちろん、私も、それが適切と考えれば、警察や医療、地域精神保健、消費者センターなどを速(すみ)やかにご紹介しますし、そういう外部機関との関わり方についての「コツ」も伝授いたします。

 でも、恐らくその人は、

  「誰にも相談できない」という、
  「孤立無援」の思い

を抱えて、行き詰まった果てに、まずはカウンセラーの門をたたいた、ということは、決して忘れてはならないと思っています。

******

 あと、もうひとつ、

    なかなかよそでは読めない、
    「ホンネの話」

を書きますね(^^)

 カウンセリングや心理療法、いろんな「流派」「手法」があります。

「精神分析」「分析心理学(ユング派)」「来談者中心療法(ロジャーズ派)」「認知行動療法」「行動療法」「論理療法」「森田療法」「内観療法」「催眠療法」「箱庭療法」「絵画療法」「プロセス指向心理療法」「解決指向(ソリューション・フォーカスド)心理療法」「EMDR」などなど。

 どの療法が「すぐれている」かですって?

 実は、特殊なケースを除くと、

  ある「療法」より、
  別な「流派」の別の「療法」の方が
  効き目がある

なんていうことは「ほとんど全くない」ですよ!!

 どの「流派」を看板に掲げていても、大抵のクライエントさん(相談においでになる方)にとって、

  いいカウンセラーはいいカウンセラー

なんです!!

 おもしろいもので、そういう、各流派の「達人」の域に達したカウンセラーの人同士は、

  「カウンセリングのエッセンス」

のところではお互いに予想外に理解し合えるし、他流派のカウンセラーの方々からも尊敬され、その他流派の「達人」の発言や著作に、感銘を受け、耳を傾け、謙虚に学ぼうとするものなのです。

 私も、まだとても「達人」の域には届きませんが、20年のキャリアの中で培われた「経験値」のすべてを動員して、皆様のお役に立てるように努めるつもりです。

*****

 実は、そういう「現場から学ぶ」経験値を高める上では、「私が」何より「自分個人のための」スキルとして、フォーカシングを学んできたことは、「私にとって」役に立ってきたという確信はあります。

 そして、皆様にとっても、フォーカシングを学び、身につけることは、例えば、

「経営者として」
「営業担当として」
「インディーズの街頭ミュージシャンとして」
「ファッションデザイナーとして」
「理系の研究者として」
「求職中のリクルーターとして」
「コンビュータのSEとして」
「役者として」
「地域の自治会役員として」
「専業主婦として」
「サーファーとして」
「イラストレーターとして」
「運動選手として」
「浜崎あゆみのコンサートツアーの『追っかけ』として」
「牧畜業者として」
「趣味のオーディオファンとして」
「新聞記者として」
「フリーターとして」
「テレビ局のディレクターとして」
「政治家として」

そして、

「カウンセラーとして」

のあなたの「経験値」を、分野に関係なく、

   「最大限に効率よく」

高めるものではないか.....とは、思っています。

(2006/7/12 23:38 記)

================

以上、
ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索
「支店」Websiteの、「メッセージ」という、私が自由に書き換え可能な部分に掲載した文章のタイトルまで、そのまんまの転載です。

*******

 7月11日に開業一周年を迎えました。
 
 その節目に当たり、

この文章ほど、私の経営理念を、現段階で「総括」した文章はない、

という確信が持てました。

 そして、

  なぜこのブログが、
「こういう」何でもありのブログなのか

についても、これ以上の解答はないとも自負いたします。

*******

 なお、私がこの「メッセージ」を書く時に、絶えず脳裏に浮かべていたのが、中島みゆきの中島みゆき/銀の龍の背に乗って銀の龍の背に乗ってであり
中島みゆき - 恋文 - 銀の龍の背に乗って

(アルバム【CD】中島みゆき / 恋文 <2003/11/19>「恋文」
および、スタジオライブDVD、ライヴ!〜Live at Sony Pictures Studios in L.A."Live at Sony Pictures Studios in L A."収録)

であり、しかも正確には、中島みゆき/歌姫 LIVE in L.A.収録のブロモーションビデオの方の映像が脳裏に浮かび続けていたことは、白状しておきます(^^;A

つまり、◆ただいまポイント2倍! Dr.コトー診療所 スペシャル・エディション 1 ◆20%OFF!「Dr.コトー診療所」っぽかったりして?(ちなみに、私はこのTVドラマ,全然観てませんので)

いかにも、過ぎる?
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2006/07/10

フォーカシングは、分野に関係なく、その人が「現場経験」から学び取る力を圧倒的に高める(第2版)

  フォーカシングを、
  「心理療法」や「カウンセリング」、
  「癒し」
  の観点からのみとらえるのは
  「あまりにも狭い」。

  フォーカシングとは、
  人が、この世を生きる上で
  自分の「経験(experience)」から学び、
  それを「消化し」、
  「活用する」力を
  最大限に拡張する可能性を秘めた、

  「現実を生き抜く」ための技能(skill)である。

******


ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索
「支店」Websiteの方は、「メニュー」のコースごとの詳しい解説のアップはすでにアップされましたね( ^ ^ )

(文体が違うって? 臨機応変、これも私の書いたもの「そのまんま」を編集者の方に部分的に切り詰める添削していただいただけですよん!)。

 ところが、何と「メッセージ」の方、まだシステムに不慣れな私の操作ミスのせいか、送信したままネットのブラックホールに吸い込まれてしまったらしいです(^^;A

 そこで、私が、この前、自分で思い浮かんだ途端に「肩の荷が降りた」といいつつ出し惜しんだ後半部分を、ispot用決定稿(7/13追記:記憶を頼りに2度書いたおかげで、むしろ遥かに練り込まれたものになりました)ほどくだけていない表現(???)で、先に公開します。

******

 ジェンドリン自身、ある論文の中で、"economical instinct"=経営的な「勘」と呼ばれてきたものも、実は、その人が、特に技法として学ばなくても身につけていた「フォーカシング能力」そのものではないか、と、明言しています。

 そしてまた、ジェンドリンは、フォーカシングと政治との関わりについても、いくつかの言及をしてます。そこに「茨の道」が待っていることを示唆しつつも。

フォーカシングで経営的に成功できるか?
フォーカシングで政治家として大きな足跡を残せるか?
フォーカシングでワールドカップの名選手になれるか?

 .....そこまでいかなくても、それがどのような分野であれ、その人の可能性が、本人自身驚くような紆余曲折ある展開を経ながらも、実は一番無理がない、足が地に着いた形で、最後には少なからぬ人に理解される形で、その人なりのささやかな花を咲かせるとは思っています。

 なぜなら、経験から学び取り、活用する消化力だけは抜群に高めるから。

 名もなき「地上の星」ぐらいには歴史に刻印されると。

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2006/07/06

続・『信』なき理解 -援助職の人自身の人間関係の光と影-(第3版 画龍点晴的増補!!)

 大好評をいただきました「『信』なき理解」ですが、

  今度はこの問題を、
  クライエントさんとカウンセラーの関係の問題から、
  カウンセラー同士、
  あるいは、看護や福祉、
  地域精神保健等を含む、
  広い意味での「援助職の人間どうし」や、
  「私的な」人間関係

に拡張してみようかと思います。

*****

 流派や個人差によってある程度違いがあるかとは思いますが、一般に援助職に携わる人間は、

  「相手の話をまずは受容的に傾聴し、
   相手を不要に傷つけないように応答する」

のが「習い症」になっています。

 これを、クライエントさんとの関係を離れたら、即座にスイッチを切り替えて、相手に愚痴も言えば怒りもぶつける「普通の」人間関係切り返られるものかとうか?

  援助職に就く人というのは、
  もともと他人の痛みに
  我がことのように「同情」し易く、
  普段の日常の人間関係でも、
  周囲の人の相談相手としても、
  「聴き役」になったり、

  あるいは少なくとも、
  家族や集団の中で、
  相手に不平不満をいわないで
  大人しく「いい子」として
  従順に、
  あるいは、 
  「甲斐々々(かいがい)しく」
  ふるまったり、

  自分を殺して「いじめられ役」
  になっていた人

.......が、(すべてではないですけど)かなりのパーセンテージを占めていることは確かでしょう。

 自分で自分の人生に悩んだり、
自分自身が、「救いがない(helplessness)」人生経験をした教訓を生かして、自分が、人を援助する仕事に就こうと思うようになった人たちが少なくないはずです。

*****

  こういう人が、
  相手のことを受容し、
  傷つけない応対の仕方を、
  更に「職業的訓練」として学んでしまうと
  私生活での対人関係はどうなるか?

****

 .......もう、目に見えていますよね。

 場合によっては、前回書いた、クライエントさんとカウンセラーとの関係より悲惨な状況が待ち構えていることは。

 何しろ、問題は、もはや、

  1時間なら1時間の「『枠』のある面接構造」、
  一日8時間の「勤務時間」
  の外側での私生活の領域なんだから、
  24時間営業、逃げ場がないのです。

*****

 そして、援助者同士の人間関係というのも、職場の中であるか否かに関係なく、一つ間違うと、悲惨な側面を抱え込みます。

   「この人はじっくり話を聞いてくれる」
    からといって、
    それが「相手の本心」からかどうか、
    まるで信頼できない。
    
   だって、
   その話し相手は
   「カウンセラー」
   なんだもの!!

  
   裏でどんな陰口を言われているか、
   わかったものじゃない。
   それどころか、
   自分のいない席では、同僚たちは、

   「あの人は『病気』だ」

   という噂すら立っているのに、
   普段は全くにこやかに、
   「職業的仮面」をかぶって、
   「私にも」、みんなぐるになって

   「何ともないかのような」
   「しらばっくれた」

   顔をしているのではないか????


.........こういうふうにカウンセラーひとりひとりが「お互いに」職場で同僚に「疑心暗鬼」の中で「腹の探り合い」ばかりしていたとしても、

   それはその人個人の「被害妄想」ではなく

   そういう状況におかれたら、
   誰でも陥る可能性がある
   「集団心理的」な
   異常な対人関係の場

であるからだということは、一般の皆様にも、お察しいただけるかと思います。


******


 この問題について、私が知る限り、唯一真正面から取り扱った名著をご紹介します。

Machtvonhelfer
グッゲンビュール=クレイグ著「心理療法の光と影 -援助的専門家の「力」-」

 この方は、ユング派の重鎮のひとりですから、ユング派の用語が多く使われていますが、書かれている内容の「普遍性」に関しては、最低限のユング派用語を理解できる援助的専門家の方は、胸をえぐられる思いをなさるかもしれません。

 スイスのユング研究所の研修生の間では「青本」と呼ばれる、必読の教科書の一つとのことです。

   ここで展開される、
   「傷ついた癒し手」
   という元型をキーワードとする論述は、
   援助職に就く者の内面の暗部(「影」)
   情け容赦なく抉り出すと同時に、
   そうした「影」との戦い、克服の過程で
   はじめて得られる癒しについて、
   すべての「援助職」の人に
   生きる勇気と希望の「光」となり、
   「標(しるべ)の星」ともなる、
   感動的な名著だと思います。

 永らく再販されていなかったこの本の復活を私は心から喜んでいます。

    「私の敬愛する本ベスト5」のひとつ。

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2006/07/05

こういちろう、あの「セーブ王」、角盈男氏と、フォーカシングについて雑誌対談す!!

 突然の爆弾発表です。

 あの、元巨人・ヤクルトで、救援投手として活躍、「セーブ王」として一時代を築いた、角盈男さんとの雑誌対談が実現しました!!

Sumi_san_sign「国際グラフ」という、全国の官公庁や法人、病院や施設の待合室等でしか読めない大判のグラフ誌なのですが、お声がかかってから実際に、あの「角投手」(と、どうしても私の世代はお呼びしてしまう)実際に対談させていただくまでにわずか2日というハイペースでした。

(↑こちらが角さんにいただいた色紙の画像です(掲載許可済み)。

 9月6日刊行の、9月号にB4版縦1ページまるまるつかって、写真入りで対談が紹介されます。

 フォーカシングとはどういうものかについてのの、角さんに聴き役をしていただいての解説では、選手として、またコーチ歴の豊富な角さんとは、「頭での理解」の堂々巡りとは次元の違う、「技能(skill)を身体で覚える」という観点で意外な接点が見つかりました。
 狭いワンルームのカウンセリングルームにわざわざおいでいただいた角さんは、やはりプロスポーツ選手らしく、たいへん大柄な方でした。テレビ等でのご活躍から皆さんもおわかりのように、たいへん親切で親しみやすい「聴き上手」でいらっしゃり、1時間の設定時間があっと言う間に過ぎました。

 あいにくの雨の中、おいでいただきましたことに、「レポーター」の角さんのみならす、記者さん、カメラマンの方にも併せて御礼申し上げます。

 話は独立開業事業を展開する上でのネット活動の意味という問題にまで広がりましたが、どこまで誌面に反映していただけるのか、楽しみにしております。
 

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2006/07/04

事例検討会でのコメントを自分の心理療法流派の宣伝の場にしないように心がけましょう!!

 私は、事例検討会や学会の事例研究発表で、自分の土俵にすぐに引きつける、「流派の他流試合」的なでのコメントの応酬、あまり好きではないのです。

私は,例えば知り合いの座長の先生から「フォーカシングの観点からみて、この事例をどう思われますか」とコメントするように「振って」いただいても(私、それくらいには、そこそこ「フォーカシングの阿世賀」で、少なくとも大学学生相談や人間性心理学の「業界」に流通してます)場合ですら、まずは、発表者の方が使われた流派的・理論的枠組みを尊重したコメントでしか口火を切りません。

  これこそ「フォーカシング的」態度です!!
  「その人の実感にぴったりの言葉
  (ロジャーズの言う
  「内的照合枠(internal frame of reference)」
   をまずは尊重する、
  「リスナー」となること!!

 特に日本心理臨床学会大会なんて、すべての流派のカウンセラーの皆さんが交流できる、

  「日本中の各流派勢揃いの総合大博覧会」

であることこそが「魅力」なんだから、フロア(客席。アリーナ席(^^))の参加者にはいろんな流派の勉強をして来た人がいるはず。そういう場面で、自分の流派の宣伝めいた発言に終始ずるのは了見が狭いと私は思うんですよね。

 どの流派の方も接点をもてるような形でのカウンセリングのエッセンスの次元でのディズカッションこそ、学会参加者の皆さん全員の「おみやげ」になるのです!!
  
 その点で、例えば行動療法の山上敏子先生に対して、一見正反対のアプローチであるかに見えるクライエント中心療法のカウンセラーの皆様の間に圧倒的「ファン層」がいるという現実など、山上先生の懐の深さを含めて、私はすばらしいことだと思っています。

******

 以上、この記事への自己レスからの格上げ掲載に過ぎませんが、お見落としの方も出てきそうですので、敢えて「本文記事」として、若干の増補改訂の上で再アップしました。

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今後の予告!!「続・『信』なき理解」と、浜崎あゆみの新譜"blue bird"論!! (第4版)

 何だか「今後の予定」が果てしなく溜まって行く現実に自分でもあきれてますけと、こうやって「運河への水門を次々増設」して今後に備えるのが、わたしなりの「仕事の上手な仕方」(カール・ヒルティ)です(^ ^)

ということで、「今のところの」優先順位としては、

1.大好評の「『信』なき理解」続編!! 7/6 NEW!

2.浜崎あゆみの新譜マキシ、■送料120円 Bタイプ■浜崎あゆみ■CD+DVD【BLUE BIRD】■'06/6/21発売"blue bird"への感想(ついに掲載!!)。 8/16 NEW!

3.「万国iPod用ヘッドフォン博覧会」への新たな製品のご紹介 7/14 NEW!

の予定です。

もっとも、今週は(嬉しいことに)本業が少し立て込んできましたので、掲載ペースの鈍化が予想されますことをお許し下さい!!

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2006/07/02

「『信』なき理解」

 さて、ついに、,
看護のための精神医学第2版「看護のための精神医学 第2版」(中井久夫 /山口直彦 共著)についての、私なりの感想と、そこからの連想をつづるシリーズの開幕です。

   「『信』なき理解」
    ある種のクライエントさんはさらされている」

という言い方が著作の中に出てきます。

 まずは「この言葉が私の目にとまっただけ」の時点での私なりの感想をお書きします。

*****

「『信』なき理解」とは何か?

いろいろな言い方ができそうな気がします。

   1.クライエントさんの発言や行動について、
    カウンセラーの側が、
    「理解しよう」
    「受容的に受け止めよう」
    とがんばってはいるけれども、
    カウンセラー自身は、
    本当のところは、
    クライエントさんの言動に違和感や嫌悪、恐怖
    あるいは、予後に対して不安を感じているのに、
    理解した「ふり」だけをしてしまうこと。

   2.更に、クライエントさんも、
    カウンセラーのそうした「理解ある」態度を
    「ほんとうに『真に受ける』」か、
    あるいは、
    薄々違和感や抵抗を漠然と感じていたり、
    それどころか
    「全然私の気持ちの
     大事な勘どころををつかんでもらってない」
    とはっきり感じて「いた」のに、
    面接の場のなごやかな空気を壊したくなかったり、
    不満や異論を唱えたらカウンセラーに嫌われたり
    怒られたりしそうなことへの恐怖のために、
    本音を抑えて、表面だけ「理解してもらえたフリ」
    をいつの間にかしてしまっている。
     ところが、クライエントさん自身も、
    この「ほんとうは理解されてない」違和感を
    「抑圧」してしまい、
    「自分は『十分に』理解されている」
    と思い込む方向に、
    「反動形成」、あるいは
    「理想化転移」を治療者に向けてしまう。


  3.その結果、最悪の場合、
    カウンセラーは「理解したつもり」
    クライエントさんは「わかってもらえたつもり」
    という、
    「偽物の相互理解」の「つながり」幻想
    両者に共有される
    
(この「3.」項は、「藤嶽法」の創始者である、三重のカウンセラー、藤嶽大安氏が、すでに2005年の日本人間性心理学会第24回大会発表論文集(こちらを参照)でお書きの表現を拝借しました。)

  4.しかし、この「偽りの蜜月」は、
    何かのきっかけで破綻する。
    「このくらいのこと、
     もういわなくてもわかっているはず」
    と、クライエントさんも、
    カウンセラー自身も思い込んだ結果、
    ある日それが「錯覚("illusion")」であったことに
    双方が直面する、悲劇の瞬間が訪れる。

  5.これをきっかけに、
    クライエントさんはカウンセラーへ
    「猛烈な怒りと恨み」を抱き、ぶつけ始める。

  6.カウンセラーの側は、
    そうした、クライエントさんからの
    「突如の、理屈を超えた怒り」を
    ぶつけられて、
    傷つき、
    途方に暮れ、
    無力感を感じるか、
    逆に、そういうクライエントさんに
    怒りや嫌悪を感じる。

  7.クライエントさんは、この傷つきのために、
    その後別なカウンセラーに相談する際も
    最初から不信感を抱えてしまい、
    すっきりあっさりとは本音を言わなくなる
    傾向が更に強まる。

  8.医者やカウンセラーの方は、その後、
     「このタイプの」クライエントさんだと察すると、
    最初からクライエントさんに「防衛的」
    になり、「苦手意識」が強まり
    「真剣に」クライエントさんの話を聴く
    誠実さを失っていく。

  9.1.に戻る(^^;)

******

 こうなることを防止するのには、ひとつには、クライエントさんの話を「ウン、ウン」とあっさり受け止め、話させ続けるのではなく、小刻みに伝え返しをし、

カウンセラーの側の理解が何かズレていないかを、カウンセラーの側から率先してやさしく小刻みに丁寧に確認していく姿勢が大事と思います。

  「私の言うことが
   何かピント外れだと感じたら、
   あなたは決して遠慮することなく、
   クレームをその場で私につけてね。
   あなたをいつの間にか誤解したくないから、
   早めにクレームもらえた方が、
   私は心からあなたに感謝します

 これは、新しいクライエントさんとカウンセリングをはじめた早い段階で、最近の私はクライエントさんに必ず伝えます。

 そして、私の理解の誤りをクライエントさんに実際に指摘してもらえるたびに、

   「私の理解がずれていたことを
    あなたが、
    率先して言葉にしてくれたことに
    感謝します

とすら時々言い添えます。  

 これ、実は”Focuser as Teacher"で述べたことを、一般面接の中で、カウンセラーの側からクライエントさんにそれとなく促進するための、さりげない工夫であると、気づいていただける皆様、結構あることかと思います。

********

 さて、カウンセラーをはじめとする「援助職」の人が陥りやすい「形だけの受容」が引き起こす、ある意味ではより不幸で深刻な問題について、続編で論じたいと思います。

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2006/07/01

フォーカシング・ワンダーランド!!(第2版)

 日本フォーカシング協会に「メンバー」(年会費3000円)として入会していただければ(加入資格は特にありません)、年4回発行されるニュースレターを購読できます。

 その中の、「ワークショップ情報」のページをご覧になると、北海道から九州、四国まで、日本全国で、フォーカシング関係のワークショップやセミナー、小さな民間の研究会・勉強会や、個別指導に応じてくれる団体や個人が、特定の日時を月一回など決めたものを含めて、一年で延べ100件近く掲載されている情報に接することができます。

 皆様が想像されているたより、よほどフォーカシングを学べる場所は多いでしょ? これに、フォーカシングを研究・実践する先生のいる大学の研究室やゼミや特殊講義での学生たち相手の実践、それらの先生が講師をする「市民大学講座」みたいな催しまで含めると、実数はこの倍に近いと思います。

 スクールカウンセラーや幼児教育・保育関係の方々で、子供との関わりのためにフォーカシングをさりげなく生かしておられる方も、すでに、一般に想像されるよりは遙かに普及していて(「フォーカシング」という名前を使ってないだけなんですね)、かなりの数にのぼります。

*****

 そういう中で、我が「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」は、恐らく東京の日本・精神技術研究所心理臨床センターのオープン・プロガラムを例外として、特定の常設の相談機関が、休業日を除いて、常時「フォーカシングの個別指導」を受け付ける、全国で「唯一の」相談機関ということに現状ではなります。

しかも、私のフォーカシングの指導法は非常に柔軟です。

「フォーカシング個別指導」コースをご希望になる大抵の方は、私をトレーナーとして、まずは通常のフォーカサーとしての体験を積むことをお求めになることがもちろん多いのですが、

Focusingworkbook先日ご紹介した、この著作収録の"Focuser as Teacher"も、
ホールボディ・フォーカシングホールボディ・フォーカシングも、
Interactivebooksインタラクティブ・フォーカシングも、
「藤嶽法」(第一法、第二法)も、
Dreamfocusing_1夢フォーカシングも、
それどころか、
迷う心の「整理学」あくまでも増井先生流」の「こころの整理法」も、
イメージ体験の心理学「あくまでも田嶌先生流」の「壷イメージ法」も、
更には、
土江正司さんの「こころの天気」も、
横山体真先生が最初の開発者で、今では岐阜の蒲生紀子さんが特に実践しておられる「こころの壷」も、
相互スクイグル(ウィニコットが開発した「なぐり書き描画法」)をフォーカシングチックに遊ぶことも、

いつでも「個人セッションで」臨機応変に体験できる
「週5日以上開業、開業時間8時間の、常設の」フォーカシング学習の場なんて、

「日本では他にまだない」

ことをお忘れなく!!

(椅子の都合で、私を含めて6名さままでならグループ指導もできる態勢があり、その場合のグループ割引もいたしますが、さすがに6名となると「寿司詰め」になりますので。)

******

 何しろ、「今日何をやりたいか」そのものを、

 「学ぶ人に」

 最初に

 「ショートフォーカシング」

 してもらって決める、「圧倒的柔軟さ」を誇ります。

 「ショートフォーカシング」とは、「今日私は何をやりたいのかな」と自分の内側に沈黙して2,3分問いかけて、身体からの反応を味わってみてもらうことです。
 「フォーカシングがまだ自分でできている自信がない」方も、2,3分時間をもらって、「あれがいいかな、これがいいかな」と思いを巡らす時間を差し上げるだけでも、貴重な時間と感じていただけるようです。
 まさに、レストランの入り口のショーウインドで、「どれがおいしそうかな? 食べたいのかな?」と迷う時間にあたるものです。

 (この「レストランで何が食べたいか」という喩え話は、日本最初のジェンドリンの直弟子であられ、現日本フォーカシング協会会長をお務めの、関西大学の心のメッセージを聴く池見陽先生が、初心者向けによくお使いの言い方を拝借させていただきました)

最後は「勘」で、えいやっ!!と決めてもらうのでいいのですね。

 「初級」も「中級」もあったもんじゃない勝手気ままさ!!

インターラクティブ・フォーカシングのような、一般には「上級コース」とされるフォーマットですら、フォーカシング未体験の初心者ですら、わくわく「楽しんで」もらえるものにできるんですよね、実は)

 まさに、「フォーカシング・ワンダーランド」!!

******

 これで、一般の皆様からの「通常のカウンセリング」を申し込んでいただくと、「正統派クライエント・センタード」のベースを崩さない(認知行動療法や山上行動療法もたまに混ぜますが)で、私の方からフォーカシングをクライエントさんにお勧めすることには「禁欲」を貫き、そして、医療や法律など、実際的なガイダンスやコンサルテーションもする、

「町の現場カウンセラー」そのものに「豹変する」

のが私のとりえです。

 ちなみに「他流派の」カウンセラーの方からのケーススーパービジョンのお申し込みも、決してお断りしないことをポリシーとしております。

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2006/06/30

フォーカシングを学ぶ人はトレーナーの教示に従い続けねばならないわけではない

 以前の記事で述べましたが、フォーカシングとは、あくまでもフォーカシングをする本人(フォーカサー、自分の問題をみつめる、いわばクライエント側の人)の権利が優先され、トレーナー(リスナー、ガイド)はその「サポーター」に過ぎないということを、如実に表わした、創始者、ジェンドリン自身のの発言を次に引用します:

「教示に従わないための教示」

 「私が示してきたこの方法が唯一、あなたにとって必要だとか価値があるということではありません。もし私がこれが唯一の方法だと言っていたとすれば、私が言ったことは間違いだと皆さんが思ってくださるように望んでいます。

 「また、教示(=フォーカシングの手順の公式的フォーマット)は成文化されてしまうと誤解を避けることができません。あらゆる人に合うような公式はないのです。とにかく、(フォーカシングをする)それぞれの人が独自の方法を見つける必要があります。」

 「あなた自身、そしてあなたのからだ(の内側の曖昧な感じ)そのものに注意を向けてみましょう。(その結果、)健全で広がりがある(気持ちがおおらかになったり、安らいだり、落ち着いた気分になる)体験のみが価値があるものと考えてください。

 あなたの身体の中でおかしな(違和感のある)感じがしたとき、教示に従うのをやめ、少し自分(自身)を取り戻し(、一息ついて)みましょう。 
 
 これらはまさに教示に従わないための教示です。

 ですから、もちろんこの教示(=「教示に従わないための教示」)自身にも当てはまります」


Dreamfocusing_1
「夢とフォーカシング」村山正治編訳 福村出版 第20章 訳書p.164-165より抜粋。(  )内は阿世賀による補足。

*****

 ジェンドリンは、何と、自分の書いたフォーカシングの独習用の教科書(この本はあくまでも「夢」についてのフォーカシングのやり方に特化した本ですが)で、

   自分の技法体系のフォーマットを
   延々説明してきた挙げ句に、

   この短い最終章で、

     「あなたの実感が”No!”というのなら、
     私の教示に従ってはならない

と釘を刺すばかりか、それに更に屋根屋を重ねるがごとく、

 「あなたはこの『教示に従わないための教示』そのものに従わない権利がある」

とまで言い放っているのです。

 この最後の、ほとんど禅問答みたいなジェンドリンの発言の意味、どういうことかですって?

  「あなたが、もし自分の中で違和感を感じる教示でも、興味本位に、遊び心と冒険心をもってチャレンジする自由はあなたに保証されている。でも、それは自己責任でやって、『ヤバイ!』と感じたら自分でやめてくださいね」

ということだと私は理解しています。

   フォーカシングを学ぶ人は、
   ひとりひとりが、
   自分にあった、
   「使い勝手のいい((c)日笠摩子)」形に
   フォーカシングを「創造」し、
   「改良」し、
   「臨機応変に即興で使い分ける」
   権利と自由を持つのです。

 教示通りにやらなくなった時、フォーカシングは、あなたにぴったりの「オーダーメード」の服を「自分で」縫い上げたことになります。

   そのための
   「お手伝い」
   「アイデア『提案者』」であること

それが、わたしのような、フォーカシングのトレーナーの仕事です。

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2006/06/29

ispot加盟、正式運用開始!!(第2版)

 すでにこちらでご紹介した、


ispot ココロとカラダの癒しすぽっと検索ispot

への加盟店としての「出店」OPEN、当初30日の予定でしたが、本日29日に繰り上がりました。

  ispot内の「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」のコーナーは、ここから直接リンクしてもいます。

こちらからの検索も試してみて下さい(現在、リストのトップに掲載中です)。

なお、ispot内の「出店」へは携帯からもアクセスできます。

http://mobile.ispot.jp/s/s-focusing

ispot会員(男性でもOK!!)の方のご利用の場合には料金の1%のポイントがつきます。

更に!!

ispot会員様限定で、

7/31までのご利用(カウンセリングやトレーニング、夢分析等が実際行われた日)の方は、

全コースの料金の1000円引き

を実施いたします!!

日本フォーカシング協会メンバー割引など、他の割引との併用OK!!

 なお、ispot内の私の職場のコンテンツは、数日の内に「更に」増補される予定ですので、お楽しみに!!

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2006/06/25

「ユーミンのデニース伝説 III」、『第2版』公開を敢えてここでご報告します!!

直前の記事、「ユーミンのデニース伝説 III」、第2版を公開しました。

前半は初版のままです。一文字も変えていません。
第2版では、後半に大幅な加筆があります。

初版をお読みの方、どうか「必ず」ご再読下さい。

********

 敢えて付言します。

 初版をアップした後、私の中に残った、微妙な、言葉にならない違和感

    「何なんだ、このモヤモヤは?」

これが、フォーカシングで言う「フェルトセンス」です!!

 フォーカシングが完全に身に付いている私は、こういう時、教示の段取りとか、関係なく、もはや無意識的にフォーカシング状態に入ります。

 すると、生じて来た、忘れていた細部の記憶の蘇り。

なぜ私はあの『母」と『子』、両方を救いたくなったのか」

について、私自身がショックを受けるくらいの「気づき」「洞察」が突然訪れ、

更に、みゆきの

> 私の敵は 私です

という歌詞が唐突に思い浮かんだ瞬間、

私は涙が止まらなくなりました。

これが、フォーカシングを「身につけている」ということです!!

|

2006/06/24

ユーミンのデニーズ伝説 III(第2版)

前作 PartIIも好評で、第1回のアクセスシェアも一気に上位に躍り出たので、このシリーズも平行連載にしましょう(^^)

*****

これは、鳥インフルエンザ、というものが話題となった最初の年のことと記憶します。

「だめよ!! きちんとつけてないと風邪悪くなっちゃいますよ!!」

  内科病院の待合室。

「いや、いや!!」

と泣きわめく小さな男の子。

 男の子が身体をバタバタさせるのを必死に抱え込み、
口にマスクをつけさせようとする若い母親。

 まるで、その男の子の様子を周りの待合室の患者に必死に「隠す」かのように。

 「風邪の方は念のためマスクの装着をお願いします」

と、病院側が、待合室の風邪の患者さんひとりひとりに紙製のマスクを配布するということをしていたのです。

 この様子を知ってか知らぬか、周囲の人は気にもとめていないようなふるまい。病院スタッフも。

******

 私は決心しました。

 その男の子の方に回り込み、腰をかがめて、目と目をあわせて、言いました。

「それ(マスク)つけてると、むずむずして、キモチワルイんだよね」

その子は途端に泣きやみ、じっと私の目をみました。

わたしは、

   「♪じゃーねー♪」

みたいにちょっとその子に手を振って、自分のもといた席にさっさともどります。

 「どうもすみません」

私に振り向いて母親。

*****

 しかし、その後、その子はもう泣くのをやめて、おとなしくしていたのです。

*****

 私は病院からの帰り道で、いろんな連想をしました。

 私は子供相手のセラピーの経験ゼロです!!

 しかし、あんな子供ですら、ほんの一言、その子の「身になって」、共感的な言葉かけをするだけで、あそこまで一変することがあるんだ!!

 むしろ、そういう子供の変化に、私の方が「学ばせていただいた」とすら感じました。

*****

 それにしても、なぜ、それまであの子は泣きやまなかったのか???

 ここからは、私なりの意見です。万が一、そのお母様がこのブログをお読みだったとしても、無礼をお許し下さい。

 お母様は、泣き出し、じたばたする我が子の姿に狼狽していたばかりではなく、

そうやって我が息子が大声を上げて泣いていることが、「周囲の方のご迷惑になる」ことに気持ちをとらわれていた。

 そして、そうやって子供を黙らせることができない母親であることを、周囲の目にどう見られるかという焦りにばかりとらわれていて、子供の気持ちそのものに、子供の身になって共感して一言かければそれだけで子供は落ち着くという、「コロンブスの卵」のあやし方を、狼狽の中で、たまたま思いつけなかったのでしょう。

******

 これ以上のことは、読者の皆さん、ひとりひとりが考えてみてください。

 なお、万が一、そのお母様を傷つけることを回避したいので、この記事へのレスは、別な場所でのレスとしても、ご遠慮下さい。


******
●第2版で追記●

 ここまでの本文は一文字も変えないまま、どうしても私自身で付け加えたくなったことを追記します。

 お母さんも、男の子自身も、この待合室の場の中で「孤立無援」(helplessness)だったんだな、と、自分で読み返していて、ふと思ったんです。

 どうして、むしろ普段はそんなことをするのが苦手な筈の私が、この時に限って、この母子に助け舟を出さずにいられなくなったのか?

 今、思い出したんですよ。

 まわりの患者さんも、病院スタッフも、見てみぬ振りをしていること「苛立って」来た自分の気持ちを。

そして、そうやって見て見ぬ振りをしている連中のひとりに、そのままでは私自身が「なってしまう」ことに、もう、耐えれられなかったからなんです!!!

 ふと思ったんですよね、その時。

 私の田舎だったら、絶対に、誰かが、

  「あらあらどうしたの? 坊や」
  「お母様も大変ですね」

と、声をかけていたであろうこと!!

********

> 私ほんとうは目撃してしまったんです きのう電車の駅、階段で
> 転がり落ちた子供と 突き飛ばした女の薄笑い
> 私驚いてしまって 助けもせず 叫びもしなかった
> ただ怖くて逃げました 私の敵は私です

> ファイト! 戦う君の唄を 戦わない奴らが笑うだろう
> ファイト! 冷たい水の中を 震えながら上って行け

中島みゆき「ファイト!」(アルバム予感「予感」収録)

何より、私は、
私自身を、
そして、
「私の中の」その母と子の、
「味方」をし、救いたかったんです!!
    

 iTunes Music Store(Japan)

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またまた予告!! 中井久夫/山口直彦著「看護のための精神医学」について

看護のための精神医学第2版中井久夫/山口直彦著「看護のための精神医学」

 この、単に看護士のみならず、精神科医や心療内科医、臨床心理士、薬剤士、精神保健福祉士(PSW)、社会福祉士、ソーシャルワーカー等を含む、「援助職」必携の名著として圧倒的評価を獲得した著作を、何と私はまだ読んでいませんでした。 m( _ _ )m

 この本を私もこれから読み進めます。そしてそこから感じたことを、少しずつこのブログでもご紹介して行くことを、ここにお約束します

 日本の、いや、世界の精神医療の「宝」というべき希代の天才精神科医、私も若い頃からたいへんな影響を受けて来た、もはや私が直接「ライブで」そのお姿に接したことがない唯一の「憧れの先達」、中井久夫先生の著作の中の、比較的最近の未読の一冊を「はじめて」熟読するということは、私にとって、ちょっととてつもない「真剣勝負」になるかと思います。

 焦らず、ゆっくりしたペースで進めます。皆様がこの予告を忘れた頃になって、ひょっこりブログの記事として書き始めるかと思います。

 なお、この本は「第2版」を是非お買い求めください。「精神分裂病」が「統合失調症」と改名されたことが、日本の精神医療の今後にどのような影響をもたらすかについての「新たな一章」が追加されている、と、今、前書きだけ呼んで確認しましたので。

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2006/06/22

いかに「外部」の人たちにフォーカシングを広めるか

 自分で言うのも恐縮ですが、前回の記事をお読みいただくと、長年、日本でフォーカシングを学んだり、教えたりしてきた皆様も、この記事が、いかに「オーソドックスな」フォーカシングの教え方についての解説であるかはお認めいただけると思います。

 私は日本的なムラ社会、集団主義にはなじめない人間です。

 率直に言って、そういう日本的な風土が、フォーカシングを教えたり学んだりしている皆様を、フォーカシングの世界の中だけで(更に細分化された)「ムラ社会」を作って自足してしまう弊害にたいへんな危惧を抱いてきました。

 昨年、トロントのフォーカシングI国際会議に出席させていただいて、強烈に感じたのは、欧米や中南米、イスラエルのフォーカシング関係者の、人間的なスケールの大きさとオープンな暖かさが、日本とはまるで異次元のスケールを持つということでした。

 それに比べたら、日本のフォーカシングは、何と「チマチマ」したものにとどまっていることか!!

 こんなことだから、日本のカウンセラーの間では、フォーカシングとはたいしたことがないかのように、実は深いところまで知りもしない半可通のままで「なめられる」のだ!!

 私は、完全な独立開業ですから、学閥とか学会の政治的問題に振り回されなくていいし、すでにフォーカシングの国際資格としては、「コーディネータ」という、「資格認定資格者」という、世界でも100名あまりの人だけが持つ、最上の資格をいただいておりますから、もはや業績作りに窮々とする必要は全くありません。

 ただ、「食って行ける」だけの数のクライエントさんフォーカシングを学びたい皆様スーパービジョンを受けたいカウンセラーの方々に来ていただき、しかもそれがそれぞれの皆様のお役に立っている実感を感じていただける援助となれば、職業人としては、特に何もいりません。

 ですから、遠慮仮借なく、日本のフォーカシングの悪口も率先して書きます。

 しかし、それは、私が、フォーカシングを愛すればこそなのです。

I love Focusing as if to be my 2nd heart.

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2006/06/21

単なる「ロールプレイ」より効果的なカウンセラー訓練(第4版)

 カウンセリングを学ぶ人たちの入門期の実習として「ロールプレイ」というものがあります。

 これは、訓練生のひとりがカウンセラー役になり、もうひとりがクライエント役になって「模擬カウンセリング」をすること、と理解していただくといいかと思います。
 得てしてこれは訓練生同士がカウンセラー役とクライエント役を交換して行ない、終わった後で、お互いに感想を述べあうなどするわけですね。

 恐らく、カウンセラー養成のための研修機関や、講座や、臨床心理系の大学・大学院で、「ロールプレイ」をその課程に含んでいないことは、流派と無関係に決してないはずです。

 (もし「ロールプレイ」を全くカウンセラー養成機関が課程に含めていない場所があったら......(以下略)

******

 この「ロールプレイ」より遙かに強力な、カウンセラー訓練生への「傾聴訓練」の体系を、The Focusing Instituteが国際資格を認定したフォーカシングのトレーナーはトレーニングの際に教え、用いる技能を持っています(.....持っている「筈」です....)

 その代表的なものの一つが、

 "Focuser as Teacher"
フォーカサーリスナー・ガイド役指導者となる訓練法)

といいます。

Focusingworkbook
 詳しいことは、
例えば、
この著作に、
非常に行き届いた解説がなされていますが、以下、私なりに、この訓練の面白みを解説してみましょう。

*****

 フォーカサーがリスナー・ガイドの指導者になる!!

 これは、「クライエントさん」役が「カウンセラー」役の指導者として、しかも模擬面接のライブの中で刻々とコメントを挟んでいくことになります!!!

 これだけきくと、他流派の方は、

    「ギョエー!!!」

と思われるでしょう。

   果たしてそんなことがそもそも可能なのか?

とすら。

 ところが、フォーカシングは、もともと、いわばクライエントさんに当たる人が自分で自分に施す「セルフ・ヘルプ」の技能なんですよね。

(あの、これだけで、「へえ、そうだったんだ」などという感想、臨床心理系の先生や学生さん、持たないで下さいね。このことすら共通理解になっていないとすれば、その大学は.......(以下略)

 あるいは、少なくとも、一般の人が、日常の中で、フォーカサー役と、リスナー・ガイド役を、お互いに役割交換しながらフォーカシングができることをめざしています。
 これを、「フォーカシング・バートナーシップ」あるいは「フォーカシング・コンパニオン」といいます。

Focusing_hyoushi
「フォーカシング」(ユージン・ジェンドリン著)で述べられている通り、フォーカシングの創始者ジェンドリンがフォーカシングに抱いた夢は、フォーカシングを学んだ一般市民同士が、お互いにフォーカシング/リスニングをすることにより、世間のカウンセラーのかなりの部分は不要になり、「失業状態」に追い込まれる社会を作ることです!!

(くどいけど、あの、これだけで、「へえ、そうだったんだ」などという感想、臨床心理系の先生や学生さん、持たないで下さいね。このことすら共通理解になっていないとすれば.......(以下同文)

 ですから、フォーカシングのトレーニングとは、その人が、フォーカサー役とリスナー役、どちらをも、ある程度以上「自律して」発揮できることを目指す訓練であってこそ、はじめて意味があります。

*******

 つまり、ある程度フォーカサーとしてのスキルを自律して身につけた人は、自分自身のリスナー・ガイドにも、「一人二役」で、ある程度なれる人ということななります。

 だから、自分で自分のフォーカシングを進めながら、なおかつ同時に、ガイド・リスナー側に、その傾聴や教示の仕方についての「感想」や「修正意見」を提示するという、マルチタスク能力をすでに持っています。
 いわば、試合中のスポーツ選手が試合の実況のコメンテーターを同時進行させるということができるのです!!

 例えば、

「今のあなたの伝え返しに対して、私は、リスナーとしてのあなたに、私の気持ちを十分汲んでもらえたと感じました」

「すみませんが、もう一度、今の伝え返しを、もう少しゆっくりと、繰り返していただけませんか?」

「私は、私の言ったことの中の『○○』という言葉を、あなたに、そのまま大事に伝え返して欲しかったんですけど。すみませんが、もう一度、『○○』という言葉を大事にしながら伝え返しをやりなおしていただけますか」

「この場面では、何も伝え返しはいりません。ただ、黙って聴いていてくださるだけでありがたいです」

今、私は自分でどうフォーカシングしたらいいかわからなくなっています。よろしければ、あなたなりに、この後どう進めればいいかのアドバイスとなる提案をいただきたいんですけど」

*******

すごい世界だ!!

とお感じの方もあるでしょう。

 でも、こうして、フォーカサーが「注文をつける能力」((c)田嶌誠一)を発揮してくれたら、リスナーは、フォーカサーの注文に応じていけばいいわけですから、実はなのです。

 同様に、実はここで"as Teacher"役の体験を深めた人自身も、それこそ、流派に関係なく、カウンセラー相手にクライエントとしてカウンセリングを受ける際にも、カウンセラーに、gentleな形で自分の意見を言う能力を獲得します!!

 「あの、今、先生がおっしゃったことの意味がよくわかりませんでした。すみませんが、もう一度、少し別の言い方で伝え直していただけますか?」

 「先生、私に2分でいいから時間をください。先生がいまおっしゃったことについて、今、私の中でいろんな思いが生じています。それをじっくり感じて、言葉にできるようにするまで、しばらく沈黙して、待っていていただけませんか」

 こんなことを言い出すクライエントさんがいたら「厄介だ」と感じるカウンセラーや精神科医なんか、私は....(以下略)

 私の考えでは、こういうことを言ってくれるクライエントさんをを「うれしく」感じ、「これならこの人とのカウンセリングは生産的なものになるな」と思えるカウンセラーこそ、真のカウンセラーです!!

     フォーカシングは、
     あくまでも、
     「フォーカサー中心の」技法であり、
     リスナーやガイドは、
     フォーカサーの求めに応じて機能する
     「サポーター」に過ぎない。

 これが、フォーカシングの根底に流れる理念です。
 
 フォーカシングは、ロジャーズの、「クライエント中心療法」の「発展形」のひとつの流れである。

今回の説明で、そのことを実感していただければ幸いです。

 この意味では、親業ゴードンの「親業」もまた、「クライエント中心療法」の「発展形」の、別な流れということになります。

******

私のフォーカシング個別指導においても、私は、その人にある程度フォーカサーとしての力がついてきたと感じたら、何と私の「リスナー」になってもらうことを提案します。

   そして、
   フォーカサーとしての私が、
   ”as Teacher"として、
   もちろん、優しく、ですが、
   訓練生に、.

   「今の伝え返しは私の役に立ったよ」

   とか

   「ここでは、私の語った言葉の中で、
   『△△』だけを、もう一度投げ返してくれるかな?」

   などと指導していくのです。

*****

Interactivebooks
 なお、この、"Focuser as Teacher"を当然の前提として内に含みつつ、
更に進んだステップの訓練として、
「インタラクティブ・フォーカシング」があります。
著作はこちら

 そして、私も共同研究者をしている、「東海フォーカシング研究会」の藤嶽大安氏の「藤嶽法」もまた、相互傾聴訓練としてきわめて効果的です。

 なお、この、「フォーカシングの主役はフォーカサーその人であり、トレーナー(リスナー)はそのサポーターに過ぎない」という問題については、こちらに、更に過激な続編が、創始者ジェンドリン自身の著作からの抜粋を引用する形で展開されていますので、とうかお楽しみに!!

*****

なお、"Focuser as Teacher"については、こちらから、続編の掲載を始めています。

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2006/06/20

ユーミンのデニーズ伝説 II

 先日、都内某所の、あるファミレスで昼飯を食べていた時のお話です。

 喫煙席で 背中は横に長いソファ、でも、正方形の小さなテーブルの向こうに椅子が一つだけ、という、二人で一組になるいすの配置が並んでいたところでした。

 私がソファ側で一人で座って食事をしている時、隣の席の若いサラリーマンが、ウエイトレスさんを呼んで、自分の灰皿を新しいものに交換してもらったのです。

 見ると、灰皿には、彼の吸ったとおぼしきタバコの吸い殻が「3本だけ」しか入っていませんでした。

    「3本で灰皿変えてもらう? 几帳面な人だな」

とぐらいにしか私は最初、思わなかったのです。

*****

 ところがその後の彼の一連の行動に、私は小さな驚きを覚えました。

 まず、自分が座っていた、ソファ側から、同じテーブルの反対の側の席に座り直す。

    「あれ、私の煙が横に流れて、迷惑だったのかな?
     でも、彼もスモーカーなわけだし」

 そして、次に、(彼はアイスコーヒーのドリンクバーだけだったんですが)
 彼は自分の席の側にアイスコーヒーを引き寄せ直すと、テーブル全体を、自分でナプキンできれいに拭いてしまうのです。

    「そうか、待ち合わせかな。
    で、自分は、ソファの「上座」から、
    反対の「下座」に移動した
わけだ」

 恋人との待ち合わせ?????
 ........いや、違う。彼は背広だし、平日だろ、今日。

*******

 彼はそのまま、もうタバコはすわないまま10分は待っていました。
  時計に時々目をやりながらも。

       「そうか!!! 
       営業のサラリーマンの、
       顧客さんとの待ち合わせなんだ!!」

 煙草の灰皿を早めに取り替えてもらったのは「長時間待っていた」と、顧客さんを恐縮させないため。
  上座から下座にわざわざ座り直したのも、相手が「顧客様」だから!!

++++++

 案の定、それから10分後に、いかにも町工場の経営者みたいな、作業服のいでたちの中年のおじさんが彼の前に現れた。

 そして、注文の後、ドリンクバーへとその「顧客さん」が立ちあがる時、その営業風のサラリーマンも自分のグラスを手に同伴した。

+++++++

    「勉強させていただきました。ありがとう。
    先輩の教育がしっかりしていたのかもしれないけど、
    出世することを祈っているよ」

と心の中で思いつつ、私は席を離れました。


*******


なぜ、「ユーミンのデニーズ伝説 II」というタイトルにしたのかに興味をお持ちの読者の皆様は、こちらをどうぞ。

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2006/06/18

流派を超えて、現代日本のカウンセリング・精神療法のあり方を問う

 もはや、わざわざ付言するまでもないかも知れませんが、

    私は、もはや、

    「フォーカシング」を現場臨床にどう役立てるか 

    という観点を「超えた」次元の
    問題提起をしています。

    日本の心理臨床や、精神医療のあり方全体を、
    実は非常に「素朴な」、一現場臨床家の視点から、
    問い直したいだけです。 

 私の目指してるのは、単に

    「『だだの』カウンセラー」

と呼ばれることです。

 .....わかりますよね、「ただの」の含蓄。

 生計のために、「料金は」いただきます(爆)

    「『単なる』街のカウンセラー」

という意味です。

 そこそこ(good enough)に、お役に立てるというふうに、少なからぬクライエントさんに感じていただけ、それと生計が両立する程度の。

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2006/06/17

感謝!! 本日22時40分までに355アクセス!

 今日は午後都心に出て仕事をして、今帰ってきたので、アクセスがどこまで上るかを楽しみにしていました。

 このペースでいくと、恐らく、当ブログ、「カウンセラーこういちろうの雑記張」開始以来、過去2番目の一日アクセス数になるのは確定です。(過去一番目の時はその時は24時間で500アクセス丁度でした)。

 このあと続く予定の、中島みゆきの「予感」論と、浜崎あゆみの”My Story"論は、更に、更にパワフルな内容になるように構想中。今日の行き帰りもガンガンiPodで聴きなおしていてましたし。

みゆき論明日(18日)中にはUPできるでしょう。

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2006/06/16

面接中、クライエントさんは、カウンセラーに対して「感情移入的理解」を向け続けている!!(第3版)

 このタイトルだけで、

............え? あ? ん?

    ぎょええええええ!

と、一瞬の「沈黙」を経て、思えた人は、カウンセリングの基本的な勉強をなさった皆様です(^^)

 一般の皆様向けに説明しますと、日本でカウンセラー教育の基礎の基礎として今でも、多くの場合、大事にされている(はずな)のが、来談者中心療法の祖、カール・ロジャーズ(我がフォーカシングのジェンドリンの「共同研究者」です)が言い出した、

  「セラピーの三要件」

と呼ばれるものです。

......といわれて、さっと答えられない、臨床心理系の大学の、学部の2年生がいたらそいつはモグリといわれてしかたない。あるいは、よほどその大学の先生方のカリキュラム作りに問題があるはず、と断言します。
 精神分析系、ユング系、障害者心理学系、家族療法系、行動療法系・認知療法系の先生が多い大学でも、入門の最初の基礎教養としては当然おしえてしかるべきはず。
 

*******

 ,,,,,,などど、一発挑発めいた言葉で、読者を引きつけといた上で、本題にもどります(確信犯)。

その、ロジャーズのいう、「セラピーの三要件」とは、

.
1.クライエントさんへの「無条件の肯定的関心(unconditional positive regard)」

2.クライエントさんへの「感情移入的(empathic)理解」

3.カウンセラー自身の「純粋性(genuinness)・自己一致(self congruence)」

のことです。

 (ここまで読んでほっとした臨床系の学生さんの多からんことを。ちなみに臨床心理系の学部への編入試験大学院受験をする人は、英語でも覚えておいてね。専門の英語の出題の論文の中であたりまえのようにさりげなく出るかも)

******

 さて、今、ここで問題にしようとしているのは、この3要件のうち、2番目の、

       「感情移入的(共感的)理解」

ですね。

 ロジャーズは、これについて次のように注釈しています。

「ここでいう『感情移入的』理解というのは、あたかも(as if)その人(=クライエントさん)であるかのように、という状態を失わず、(いわばクライエントさんの感情に巻き込まれることなく)、クライエントさんのパーソナルな世界を、セラピストが感じようとすることである」。

 これを、フォーカシング指向心理療法ふうにいいかえれば、

「クライエントさんが、自分で内側に注意を向ければ感じているであろう漠然とした曖昧な感覚(=フェルトセンス)は『どんな感覚』なのかそれ自体を、カウンセラーは『擬似的に』自分の身体で感じてみようとするようなつもりで傾聴すること。しかし、それを、面接のその場でカウンセラー「個人が」感じているフェルトセンスと混同せず『感じ分ける』こともできなばならない」

となるかと思います。

 (これだけで、

「あ、勉強になりました。フォーカシングとロジャーズ派カウンセリングの接点は「そこ」なんだな、とはじめて気づきました」

と感じていただける臨床系の学生さんや、勉強を深めておられる現場カウンセラーの皆様がおられると、私は光栄に思います。)

 ちなみにここまでのことは、このブログで、「受容・共感と自己一致の相克シリーズ」という連作で、もっとかみくだいた言葉で書いてみてますので、その第1回はここからです(注:第2版までより一つ前の記事にリンク張り直しました。その方がわかりやすいので)ご一読ください。

******

さて、ここでもう一度、今回の記事のタイトルに戻りましょう。

面接中、クライエントさんは、カウンセラーに対して「感情移入的理解」を向け続けている

というのが、専門家が読んだら一瞬ぎょっとする「逆説」的問題提起だということは、これで、ある程度幅広い層の皆様にも理解していただけるかもしれません。

でも、よーく考えてみてくださいね。

    面接の、少なくとも初期2,3回の段階で、
    「相手に気を使い」
    「相手にどう思われているのかに注意を向けている」
    のは、
    カウンセラーと、クライエントさんとの、
    どちらが強いでしょう??

 おそらく駆け出しのカウンセラーの頃を別にすれば、たいていの場合、

    クライエントさんの方が、
    カウンセラーに『ほんとは』どう思われているか

に、戦々恐々としていて、当たり前だと思いませんか?

 自分が本当は話したい悩みのことすら

   「ここまで話したら、
   さすがにカウンセラーさんにでも軽蔑されるかなあ」

 とか、迷いつつ言葉を選んでいるでしょうし、

     「あ、私の長年の『秘密』口にしたとたんに、
     カウンセラーの先生の顔の表情が一瞬硬くなった。
     やっぱり、こういう秘密を持つ私を、
     カウンセラーさんは心の中で軽蔑し、
     嫌悪を感じた
んだろうな。
     そのあとは、
     いかにもにこやかに話を聞いてくれたけれども、
     あの一瞬で、
     もう、私は取り返しのつかないミスをした。
     次の面接、何か理由をつけて断ってしまおうか」

こうして、その人は別のカウンセラーを捜し歩く日々をくりかえしていましたとさ。

.........などという例、多いと思います。

 そういうふうに「人の顔色」を気にしすぎ、すぐに嫌われた、あるいは「傷つけた」と思いこんでしまうのが、そのクライエントさんの「病理(嫌な言葉ですが)」といえばそれまででしょう。

 でも、そういう「被害念慮的な対人恐怖」を何とかしたいから、そのクライエントさんはカウンセリングの扉をたたいたはずです!!

*****

  面接のさなかに、

「実は、先生は私のことを心の底では馬鹿にしているとずっとこれまで思って来たんです」

「前回、私は少し見栄を張って、『少し元気になった』と言ってしまったんです。私の中の、先生に褒めてもらいたい気持ちがそれを言わせたんです。だから面接から家に戻って、すごく落ちこみました。先生は、きっと、この前の私が、そうやって『無理して』元気なふりしていたの、実はその場で見抜いておられたようにも感じられてきて、また落ち込んで以前と同じに逆戻りした私をみて、『やっぱり無理してたんだね。仕方ないな。』といわれそうで、ほんとは今日、ここへくるのが怖かったんですよ」

..........みたいなことまではっきり言い出してくれたら、実は継続的カウンセリングとしては「第3クォーター」の深さまで進んで生じることが多いでしょう。

 私は、こうしたことを語りはじめてくれたクライエントさんに、ある厳粛な畏敬と、感謝の念すら感じることがあります。

******

  とにかく、敢えて多くのカウンセラーのみなさまにお勧めします。

     日頃の面接の中で、
     カウンセラーとしての自分の方が、
     クライエントさんに「気を使わせ」続けて
     いないかどうか?

....と、振り返ってみることを。

 これだけで、「転移」「逆転移」とかの概念の「頭での」お勉強より、クライエントさんとの「関係性」の問題の本質的な核心に一気に気がつけるかもしれませんよ。

******

Esprit410hyoushi
 なお、今回述べた、

「面接の最中、クライエントさんもカウンセラーに刻々と『感情移入』している」

という問題について私が論じた初出は、

現代のエスプリ 410 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編 )

所収の、拙論、

「クライエントの体験過程を抱える『容れもの』として機能する技法の試み」

にあります。

 でも、今回の「二番箭じ」の方が、5歳経験を重ねた分だけ、問題の核心に要領よく迫れているかもしれません。

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更なる「割り込み」新作予告!!

 現在、iPodで、ガンガンみゆきとayuの聴き直しをしてます。
 ayuに至っては、浜崎あゆみ/ayumi hamasaki ARENA TOUR 2005〜MY STORY〜昨年のライブツアーのDVDそのものの「封を切って」すらいなかったのです。
 これらを鋭意繰り返してやって、私が今回書こうとしている仮説の検証慎重に進めているので、実際に「予感」論"My Story"論を書き出すことが遅れているのであります。お許しください。

どちらも、私のみゆき論、ayu論としては畢生の大作に仕上がるはず!!

乞う,ご期待!!

********

 そのかわり、またもや予告破りですみませんが、

カウンセリング関係の、しかも来談者中心療法(ロジャース派カウンセリング)のカウンセラーの方がお読みになると、

   「目から鱗(うろこ)」
   「コロンブスの卵」

過ぎて、開いた口が塞がらなくなるくらいの、『寸鉄』のエッセイ」を次に掲載して、当座をしのぎます。

実は、治療者にとってのフォーカシングすでに公刊された著作の中で書いていたのに、このブログで一言も言及してなかったことに、今過去ログチェックしてて気がつき、

   「ああ、もったいないことしてた」

と我ながら思った内容です。

仕事の関係上、そっちの掲載も、夜18-19時頃にずれ込むと思いますので、お許しください。

書いてしまえば、短い内容ですが、恐らくこのブログの今後の個別記事ごとアクセス率「ロングラン」に新たに加わる「名作」になるはずです(と、自分で書いてしまう)

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2006/06/12

カウンセラーこういちろうのライブ映像公開!!

 完全に開き直りました(^^)

 私の開業している、湘南フォーカシング・カウンセリングルームの紹介に、私自身を「映像出演」させることにしました!!

全くの思いつきで、突然作ってしまったのですが(^^;)

 原稿なし、一発撮りの即興で、前後をMicrosoft Movie Makerで切り取ったっただけです。

まさに、面接のライブが本領の「顔のある」カウンセラー.....の、つもりです。

意外と、私の業界では、この種の映像つきWEB宣伝はまだ珍しいと思います。

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2006/06/10

私は「こころの病気」という言葉は大嫌いです(第2版)

 この前、世界中の精神科医(もちろん日本も)が共通語として診断の際に用いているDSM(アメリカ精神医学会診断基準)に頻出する"disorder"という言葉を「失調」と訳すことを提案しました。
 もっとも、中には今日、生まれつきの要因が大きいことがほぼ確定した精神疾患もあります。しかしその人が「現在のこの社会に」適応し、いわゆる「普通の人」との関係の中で更に傷つき、二次的な症状として現れてくるものすら「症状」としてcriteriaに一緒くたに包括されている可能性は否定できませんので、

   いわゆる「発達障害」すら、
  「発達失調」と訳したってかまわない

と思います。

 そして、

     病気とは、本来、

     身体疾患ですら(!)

     「『気』に病んでいる」

という、東洋的な発想の言葉です。
 
 『気』は「気体」ですから、ある個人の内側にのみ、実体として「ある」という言い方が実はできないものです。
 
 その人は,周囲の、みかけは「普通の」人が発散する、悪い「気」を受け止めるレセプター(receptor 受容器)が特に敏感にできているため、

   まるで備長炭キムコみたいに
   周囲の悪い「気」を「吸着しやすい」
   だけなのかもしれない。

 これが、家族療法でおなじみの、Identified Patient(IP 見なし患者)という概念を、家族という枠にすらとらわれずに拡張した、わたしなりの理解です。

 "disorder"を背負っているかに見える人は、その人が接する、社会全体の"order"な人たちとの「関係性」の中においてのみ、"disorder"になっているのです。

 これは、言葉ばかりが有名な、アイリッシュの精神科医、サリヴァンの

   「性格は対人関係の関数である」

という言葉ともつながります。

    相手があってはじめて、
    一見その人個人の「性格」に見える
    
    顕(あらわ)れ
    
    が生じるということ。

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2006/06/09

アドバイスより深いもの ~中島みゆき「寒水魚」によせて~(第2版)

 4つ前の記事への私自身ののコメントの繰り上げ掲載です。

*****

  この世の中には、本気で包み隠さず相談したら、

「どうしてもっと早く相談してくれなかったの?」

と言ってくれる知り合いが意外と多いはず。

 そのように言ってくれないとしたら、その人は、ただの大人の皮をかぶった子供でしょう。

 そして、ほんとうに誠実な聴き手、相談した人間の深刻さが心にに響いた相談相手は、、

「うーん....どう言葉を返したらいいか、ことばにならないよ。ごめん」

と言うかもしれません。

 だから、前もって「アドバイスは期待していない」と宣言しておけ、と少し前に述べたのです。

  相手の話を聴いていて、
  アドバイスを返したくなる時というのは,
  得てして、
  相手の話を聴き続けるのに耐えられなくなった時です。

 ただ相手の話を(上の空の生返事ではなく)真剣に聴くというのは、一番、相手への誠実な好意がないとできないことです。

 すらすらと、

   > 誰が悪いのかを言い当てて、
   > どうすればいいかを

教えようと自信満々で応対してくる人種こそ、人の弱みを食い物にしているか、自分の「人生経験の深さ」に酔って、崇拝者を集めてナルシシズムを満たしているだけの輩です。

   普通の誠実な相談相手が、
   「言葉につまる」ところから先を、
   更に、クライエントさんと「共に」、

    「どうすればいいか」

   を模索するのが、
   プロのカウンセラーだと、私は思っています。

*****

 というわけで,中島みゆきの往年の超傑作アルバム「寒水魚」収録の「時刻表」をお聴きになりたくなった方は、

中島みゆきこちら
からどうぞ。

 幻想的な、ほとんど「象徴詩」といいたくなる歌詞と、すばらしい音程跳躍を繰りかえす、一度聴いたら決して忘れない6/8のメロディの中に,深い喪失感が込めれた、この世のものが歌っていると信じられない域の超傑作「砂の船」
 みゆきの「テーマソング」というべき、8分以上の大作(なのにその長さを全く感じさせない)、永遠の大傑作バラード、「歌姫」
 わさびの聴いた「傾斜」
はすべてこのアルバム初出です。

「悪女」ロックバージョンも、シングルバージョンよりよほど生々しい悲しみに満ちてますネ。

 編曲を含めて、トータルアルバムとしての完成度は、やはりこのアルバム「寒水魚」がベストという気が,今でもします。

【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 寒水魚 (CD) (Aポイント付)

 曲のメッセージは、最近のの方,例えば、
中島みゆき/Singles 2000"singles 2000"の諸曲の方が,更に高い境地と思いますが。

 iTunes Music Store(Japan)

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常識論を超えたところからがほんとうのカウンセリングである(第3版)

 架空の例、しかしありがちな例です。

    「あの人だけは、
    私の仕事上の悩みを聞いてくれるので、
    信じていたのに。

    でも、あるきっかけでわかってしまったんですよ。
    それを逐一上司に告げ口していたのが、
    その人だったってことが。

    その人は昇進、私は左遷です。
    同僚とは「友達」ではなくて「競争相手」だってこと
    わかっていなかった自分が、
    社会人としては甘かったと、自己嫌悪しました。

    「これを教訓に、しぶとくがんばれ」

    と、うちの親も慰めてくれました。

    でも、私はどうしても許せないのです。あいつが。
    あそこまで一緒に飲む時は、
    肩を叩きあって、励ましあったのに」


 こういう相談を受けた時、私は、

  「常識論としては、
   同僚も競争相手だというのはわかるわけですよね。
   自分は競争相手に利用され、敗北した、甘ちゃんだと。

   でも、理屈を超えて、相手を許せない。
   裏切り者め!!
   あの飲み屋での、
   和気藹々とした連帯感はなんだったんだー!!!

   と、叫ばずにはおれず、
   そこから自分の人生が狂った!! 
   という憎しみ、悔しさが、
   どうしても繰り返しあふれ出すんですよね」

などと応じていることが多いと思います。

******

皆さんは、このように言葉を返すことが「優しい受容と共感」と感じますか?

自分のつらさに真正面から直面してもらうという意味では

「非情なまでに厳しい」

とすらお感じかもしれません。

*****

私は、ほんとうのロジャーズ派(来談者中心療法)カウンセリングの「受容」と「共感」は、そのような世界だと思っています。

いわゆる「母性的受容」を遥かに超えた、ある意味で「ごまかし」や「甘え」のない世界です。

でも、そこには、心の底からお互いに向き合い、気持ちを伝えあおうという、オープンで真剣勝負の、相互信頼の関係が生まれて行く。

    カウンセラーは、
    クライエントさんの思いを,
    カウンセラー自身の
    「身体を通して」受け止め、
    「身体から出てくる」言葉で
    応答せねばならない。

    口先だけの「鸚鵡返し」などではだめです。


 このような『真剣勝負』で、

<絆>

がカウンセラーとクライエントさんの間に生まれたところからが、
二人の「共同作業」としての、
ほんとうのカウンセリングです。

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面接に「本題と無関係な話題」は存在しない

「あの、これから話すこと、これまでの話の流れとと関係ない、脇道に入っちゃうかもしれないですけど」

 カウンセリング現場で、クライエントさんが時折口にする言葉である。
 カウンセラーの私は、こうした場合、

「いえ、およそカウンセリングの中で、相談にこられたあなたのような方が、「なぜか」その瞬間に話したくなったことに、一見『話題が飛ぶ』かにもみえる場合に、それが最終的に「無意味な寄り道」に過ぎなかったと感じたことなんて、私は一度も体験したことがありませんから」

とすら言い添えて(実は,このようなことをクライエントさんに話している最中に、メモの上では、「ここまでの話題の長れはどうなっていて、『今』どこに来ているかを再チェックし、話題を転じる「直前の」クライエントさんの発言の流れと構造を「スナップショット」のように心に焼き付け直していることが多い)、クライエントさんが話題を転ずることをむしろ奨励しさえすることが多い。

 私はこうした時、クライエントさんが、まるでそこまで作りかけたジグソーパズルの「ある部分」の構築を離れ、全く別の箇所の断片をとりあえずつなぎ始めるようなイメージを持っている。
 つまり、思いもよらないところで、この、クライエントさんの「別な話題への転換」=「別な部分のジグソーパズルの構築が」必ず、二人とも驚くような形で、そのクライエントさんの(自己)理解を深める方向で「結びつき」始める。

 二つの未完成のジグソーパスルを結びつける「地峡」は思いもよらない瞬間に見つかる。

 それは、カウンセラーである私が、そこまでの話の中で,クライエントさんの人物像や、置かれた状況について、漠然と思い描きつつあった「仮説的認知地図」を見事に裏切り、そうやってこちらの立てようとしていた仮説を攪乱(かくらん)してくれることそのものが、その人の人格の多面性を理解する上での、より精緻で創造的ですらある「補助線」をインスパイアーし始めるのである。

 そして、その「一見脇道にそれた話題」が、必ず、いつの間にか、クライエントさん自身も、カウンセラーも「共に」驚く形で、二人が眺めている未完のジグゾーパズルが、想像していたのと別の全体像を持つものとしてとらえ直され始めるのである。

 こうして、クライエントさんとの「共同作業」は、カウンセラーである私と、クライエントさん二人の両方に取って、スリリングな、ハプニング満載の、「探求ゲーム」の色彩を持ち始める。

 やっと、最近、こういう面接が増えることが多くなりました。

*******

「面接全体の流れを鳥瞰する、第3の目をクライエントさんと自然に共有する」

という、一年前に私が「黄金のトライアングル」と命名した事柄が、やっと、私の面接のライブで、いつのまにか全く無意識のうちにすら、しなやかに実践できる「習熟スキル」の域に到達したということかと思い出しています。

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2006/06/06

「人に迷惑をかけてはならない」の呪縛(第2版)

 「このようなことを親しい人に相談すると迷惑をかけるのではないかと思って」

 カウンセリングの現場でクライエントさんからよく聴く言葉ですが。

 私はそうやって、相手に迷惑をかけたくないその人の気持ちを受け止めた上で、適切と思えた時には、その人に、次のようにはっきり言います。

  「相手の人に、

    『今、話をきく余裕がない時は、
     遠慮なくそのことを言って欲しい。
     別にアドバイスが欲しいわけではないよ。
     話を聞いてもらえれば、
     自分で少し気持の整理ができそうだから』

と、前もってその人に「宣言」して、話し相手になってもらったら?

もし、それでも「無理をして」その人があなたの話を聞き続けたとしたら、その人が悪い。

 その人が『大丈夫だよ』と言ったら、

そう言ったその相手の人が無理して話を聴いてくれているのでないか、などと

   『裏を読まない』

こと。

『額面通りに』相手の言葉を受け取ること。

 『今は話を聴く余裕がない』と自分で言えない人間にも責任があるのだから」

と。

 これは、半分は、フォーカシングにおいて、フォーカシングを何も知らない人に聴き手(リスナー)を頼む時のやり方として、いろんなフォーカシング関連の著作で書かれていることです。


Assertion それに更に、
平木典子先生が、名著「アサーション・トレーニング」
でお書きのことを、
私なりにブレンドしたものです。

******

  「私(カウンセラー)以外に
  心打ち明けられる個人的知り合いを一人は確保しなさい。
   得てして、それは、あなたが

      『その人には迷惑をかけたくない』
      『その人を悲しませたくない』

  と感じている人が適切です。
   きっと、それをきっかけに、
  その人との人間関係が、
  今よりすばらしい、うち解けあったものになりますよ」

*****

 このことを「カウンセラーが」助言しないあまりに、「カウンセラーとの」カウンセリングの成果もなかなか上がらないことって、実は多いのです。

 クライエントさんが,実際にこのことを実践しなくても、ここがカウンセリングの深まる節目になることが多いのです。

 カウンセラーは、「自分だけがこのクライエントさんの救い主になろう」という「悪魔の誘惑」に屈してはならない。

******

 特に、ある特定の人との関係で深刻に悩んでいるクライエントさんの場合、今度はカウンセラーが,そのクライエントさんを援助できないことに「ひとりで」悩み出すという構図は、ありがちです。
 カウンセラーか感じている無力感は、ほんとうはクライエントさんがその特定の人との関係で感じている無力感の「写像」、あるいは、ユング派ふうにいえば、共通の「布置(constellation)」ということになります。
 ほんとうは、クライエントさんの無力感の深刻さに共感できていないのに、表面だけ受容した態度を取ると、それは順送りに、今度は「カウンセラー」の無力感として体験されるわけです。

 (わざと、「転移」「逆転移」という言葉を回避して書いてみています。若いカウンセラーの皆さん、こういう専門語を頭だけで理解してもっともらしい説明して論文書くことだけうまくなるカウンセラーにはならないで下さいね(^^;)。
 いつもこのブログで言ってますが、クライエントさんの本当にお役に立てているかどうかを、指導教授や他のカウンセラーに評価されるかより大事にする覚悟を持てるように)

*******

 ただし、面接ののっけから、「誰か他に相談相手はいないのか?」では、カウンセラーに失望して去らせてしまうだけです(^^;)
 クライエントさんとの相互信頼の絆が十分深くなった、というあたりで、カウンセラーの中に、「この人とならいいカウンセリングが継続的にできそう」という、微妙な慢心が生じるあたりで、ちょっと冷静になって、このことを言っていいかどうか吟味する、というのが一番いいタイミングかも知れませんね(^^)

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"disorder"および、"helplessness"の訳語について

 DSM(アメリカ精神医学会診断基準)における、

   "disorder"

という言葉は通常"障害"と訳されますが、私は、

   「失調」

と訳すべきと考えます。

 "order""dis-"という、「否定」の接頭詞がついた言葉ですからね。

*****

 同様に、

   "helplessness"

という言葉に、心理学の世界全般では、「無気力」という訳語が与えられますが、こっちの方がひどいですね。

 直訳すれば、

「助けが-得られない-こと」

でしょ?

誰からも、どこからも、援助の手が差し伸べられないからこそ、その、

    「孤立無援」

の状況の中で、結果的に、その人は「無気力」になるだけなのに。

「統合失調症」や「認知症」とかは改名しても、これら2つの言葉は放置しているあたりにこそ、患者さん(クライエントさん)のほんとうに「身になった」精神医療やカウンセリングの姿勢があるのかどうかが疑われると思うのですが?

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2006/06/04

その人の日常が変化しないならフォーカシングは意味がない

「フォーカシングのセッションの際にはすばらしい体験を繰り返すのに、
生活に戻ると何の変化もしない人たちがいる。
そういう人は、フォーカシングなどやめてしまう方がいい」

   _____ユージン・ジェンドリン

フォーカシング指向心理療法(上)フォーカシング指向心理療法(下)『フォーカシング指向心理療法』より

こちらもご参照ください

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2006/06/03

邪道の反復が正道をひらく

 前の記事で日本のフォーカシングの現状について思いっきり本音を言ってるのですが、

   「内側のうまく言葉にならない曖昧な感じに触れ、
    しばらくその感じと共にいることができれば、
    あなたはフォーカシングしていたことになる。
    シフトは向こうからやってくるもので、
    コントロールして引き起こすものではない」

 というジェンドリン自身の言葉は、ありのままに真実です。

 「ここまで」を「日常の中で」、5分でも10分でも試してみる習慣さえつければ、フォーカシングは「ひとりでも」「ひとりでに」スキルが向上します。

 そして、ある日突然、フォーカシングのことすら意識していない、思いもよらない瞬間に、「勝手にシフトが生じる」体験をする日がそう遠からず巡ってきます。

 それが、それまでの自分の考え方や感じ方では決してたどり着けなかった「気づき」であり、「洞察」であり、日常の中でのもの感じ方や気分そのものに、ある程度持続的な変化が「生じてしまっている」ことに、自分でもあっけにとられるような体験になります。

 そうした体験をしてしまうと、シフトとはどのようなものか、その後その人は判断を誤ることはありません。

 通勤、通学の電車の中で座っている10分間でもかまいません。寝る前の10分間でもいいでしょう。1週間続けたらどうなるか?

 すべての習い覚えたフォーカシングの教示を一度脇に置き(!)
 虚心に、その時の内側の感じに「ただ」触れ続けてみて下さい
 その感じにぴったりの言葉すら見つけなくていいです。

    途中で感じに何の変化も生じなくてもいいし、
    いつの間にか眠り込んでも結構です。

 翌日目を覚まし、意識がはっきりするにつれて、いつの間にか、昨日までは決して思いつきも感じることもできかなかった物事の捉え方や感じ方が、「なぜかわからんけど」生じて来ていて、昨日までの苦悩がものの見事に吹き払われて、落ち着いたきもちでいられる......そういうウソみたいなことが生じるかもしれません。

 そういう「翌日に繰り越しシフト」みたいな体験を、四半世紀前、フォーカシングを自分なりに「独習」し始めた頃、私は何回となく経験しました。

だから、フォーカシングが、面白くなったのです。


そういう経験を積めば、いずれ、教示通りに自分一人でもフォーカシングをすることができるようになります。それは最終到達段階なんですよね(爆)

******

  ちなみに、このことは、すでに、1987年に、

「日常におけるフォーカシング」 
フォーカシング・フォーラム 第4巻 1号
日本フォーカシング研究会事務局

という、私の公開された処女論考で書かせていただいております。

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2006/06/02

日本のフォーカシング界に敢えて苦言を呈す(第2版)

 私のもとにフォーカシングを学びにくる人から、セミナーやワークショップに出て、周りの参加者のように、言葉やイメージや身体感覚の変化を伴うシフト(深い気づき)の体験が自分に生じないことに、「劣等感」を感じ、さらに「自分は勉強不足か? 自分は欲張り過ぎているのか? そんな簡単に身に付くわけないのに」と、自分を責めてしまっていた、と打ち明けられたことが何回もあります。

 私はそういう時、以前もこのブログで引用したジェンドリン自身の言葉を引用して、

 「うまく言葉にできない感じにちょっとだけでも触れていられたら、それを繰り返すだけでも十分フォーカシングで、後のことは自然と生じるよ」

とか、

 「フェルトセンスは、日常の中での気になることに基づいて形成されるというより、まさにセッションをしている場の雰囲気に基づいて生じてくるものなんだ。あなたはきっとそのフォーカシングの集いの『場の雰囲気』敏感に感じ取って反応しているだけなのかも。

  『こんな場所では出てきたくないよう』

フェルトセンスは訴えていたのかもしれないね。

  『場の安全』とかなんとかいいながら、表面的な「なごやかさ」だけを大事にしていて、実は、フォーカシングを学ぶ人がほんとうに自分の中で関わりたい事柄についてほんとうに受け止めてくれる雰囲気そのものがなくてさ、実はフォーカシングの集いの場に「既に慣れた」常連の人の安全感を脅かさないために、初心者が「突拍子もないこと」を感じていたり、言い出したりするのをいつの間にか抑止して、初心者の心の自由を「スポイル」していることがある気がする。
  そんなことじゃ、今のフォーカシングの世界って、

    「[内輪』の人のための閉じた仲良しサークル」

であることを超えられないのにね。
 フォーカシングの「インサイダー」の人たちは、フォーカシングを身につけることが役に立つかもしれない人たち全体に比べれば、自分たちは「米粒」ほどの存在でしかない、っていう当たり前のことに、もっと謙虚であって欲しいと思う。
 本当にフォーカシングを必要とする、実は敏感なセンスを秘めた人たちをこそ、入り口だけで去らせているのかもしれない」

と。

 すると、

「確かにその場で得られる人間関係には癒されていました。でも、日常での私の悩みは変化しないままなんです。もう、ワークショップとかに参加する,安くはない料金と引き合わないな、と感じるうちに、足が遠のいたんです」

などという答えをいただきます。

 トレーナーを何人育てたかなんてどうでもいいでしょ? そのトレーナーが同じように初心者を本当の意味で受け止めるキャパがあるひとでなければ、それはトレーナー個人の、貴族階級(aristocracy)としての「勲章」の量産であるに過ぎず、むしろいよいよフォーカシングの不評を広めのに貢献する人を量産するだけかもしれない(皮肉が過ぎたらすみません)。

 自分のフェルセンスではななく、経験者やトレーナーに「気に入られる」かどうかを大事にしているうちは、そこでなされているのはフォーカシングではない!!

*******

以上、「標(しるべ)の星」への私のコメントを記事に繰り上げさせていただきます。

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2006/05/28

それぞれの日常を生きるということ(第2版)

 私がこうして「独立開業」していると知ると、皆さん、

「上司もなく、時間にも拘束されず、うらやましい」

とお感じかもしれません。

 そう、幸か不幸かまだむちゃむちゃ繁盛していないので、時間はあります。
 面接の予約時間でない限り、何をするのも自由です。
 だから、音楽を聴いたり、専門とは無関係な、本を読んだり、昼寝をしたり。
 全く勝手気ままな生活と言えば言えます。

 以前にも何回か書きましたが、病気ゆえの退職、療養を兼ねて(私学共済の、月給8割分の傷病手当も出ていますし。もっとも、あと35日分で支給は終わりです)、できることからはじめるという上で、この独立開業というのは、臨床心理士と、The Focusing Instituteの「フォーカシング指向心理療法(FOT)セラピスト」「フォーカシング.トレーナー」、および「コーディネータ」=FOTセラピストとトレーナの養成と資格認定の「国際資格者」であり、それ相応の現場臨床経験は重ねたものの、大学での研究や教育のキャリアはほとんど持たない私にとって、実は唯一「現実的な」道であるに過ぎませんでした。

(私の経歴と資格については、詳しくは職場サイトのここをご覧下さい。)

*****

 でも、毎日、何から何まで自分でやることを一から決めねばならない生活って、自由であるがゆえに大変でもあります。
 雇われる側の人間として、毎日決まりきった仕事の枠の中で、求められているルーティンを果たせばいい『枠』があるということによって、人は生活のリズムを得られ、「深く考えすぎないで」、人生を消化できるともいえるかもしれません。

*****

 このことは、長い闘病生活を経て、社会復帰したクライエントさんとおつきあいする中で、「お互いに」、自然と認めあえる事柄のようです。
 なぜか、自然と、お互いに、お互いの境遇を「うらやましい」と感じ、かつ、お互いの「たいへんさ」にも共感しあえるんですね。

  そのことができた時、
  カウンセラーとしての私、クライエントさん、
  それぞれが、
  やっと、
  普段は「どこか」に置き忘れている「もやもや」の
  存在を、
  自分で認知(ackowledge)し、
  その「もやもや」を
  「無理に解消」しようとしたり、
  答えを出してしまおうと「焦り」もしないまま
  
無理のないペースで、抱え続け、
  少しずつ

   「溶かして(解かして)」

  いけるがままに任せられる。

 カウンセラーとクライエントさんが、「自分のペース」を築いていく過程が各々(おのおの)の中で、やっとはじまるようです。

  セラピストの成長は、
  クライエントさんの成長と,
  同じテンポで、
  相互作用的に進む。

 それを、決してきれいごとではない,生々しい実感として、感じ続けています。

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2006/05/20

私がポラニーの哲学とフォーカシングを関連づけたきっかけ

やっと,ハンガリーのポランニ(ポラニー、ポランニーと表記することもあり)の著書、暗黙知の次元「暗黙知の次元」への私の関心について、1からもう一度書く気持になりました。

実はこの関心は私の中でたいへん古くからあるもので、今を去ること15年前、1992年に刊行された「人間性心理学研究」第9号に掲載された、

「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 

という、私のたった2つしかない「学会誌原著論文」のうち、最初のもので、ポランニを引用して論じたものが、唯一公式に発表したものです。

業績目録を参照下さい)

私がフォーカシングと運命的な出会いをしたのは1982年5月ですから、もう25年、ちょうど四半世紀のつきあいになります(法政大学の学部を卒業した年の卒業直後の5月、市ヶ谷の法政の生協で、ということは、生涯忘れまいとずっと思っていたので、簡単に正確な年月が出てくるのです)。

ポランニとの出会いは、すでにフォーカシングと出会ったしばらく後、恐らく1985-86年頃、本屋でたまたま偶然に、上述の「暗黙知の次元」というタイトルが目に止まり、これはジェンドリンの体験過程理論と関係あるのではないかという直感で手に取った結果でした。

今はついていませんが、当時刊行の紀伊國屋書店の発行の訳本(訳者も違います)

(これ↓)

には「~言語から非言語へ~」というサブタイトルもついていましたし、

ジェンドリンの体験過程理論において、「暗黙の意味(implicit meaning)」「明示的な意味(explicit meaning)」相互作用というのが重要な鍵概念であることはすでに熟知していましたから、

「暗黙知」という言葉だけで思わず私のアンテナが反応して、それこそたまたま当時の紀伊國屋書店の新宿本店で、中身もめくらずにタイトル買いしたのをよく覚えています。

ちなみに、ジェンドリンの体験過程理論についての必読文献が、「人格変化の一理論(A Teory of Personality Change,原書1964)」であることはすでに何回かこのブログでも書いてきました。

この英語原典(後日その表紙をこで、例によってスキャナでご紹介します)の書籍としての入手はもはや困難になっていますが、幸いThe Focusing Instituteのwebsiteで、今もhtmlとpdfファイルの形で全文入手できます。

恩師村瀬孝雄による日本語旧訳も、websiteで入手できます。この旧訳の今も捨てがたいところは、ジェンドリンが「最終的には削除」した、フロイト、サリヴァン、ロジャーズの理論との比較論の長大な部分を、村瀬先生が敢えてお訳しになっていることです。website版にもそのまま収録されています。

話がわき道にそれますが、実はこの「最終的には削除された草稿部分」があるないのとでは、ジェンドリンの体験過程理論そのものの「臨床的理解」に「雲泥の差」がでるはずの部分です。

ところが先に述べたinstitute公開のジェンドリンの原文でもこの部分はカットしたままなので、何と、この「草稿」部分に接することができるのは,現在でも、村瀬旧訳=日本語がわかる人だけなのです!!

(その草稿の部分を村瀬先生がジェンドリンにお返ししたのか、それとも日本のどこかにまだあるのかは、さすがに私も生前の先生にお伺いしないままでした。私もその現物は見せていただいたことはないままです)

ジェンドリンの英語は「ドイツ語で考えた英語」ですから、関係代名詞や、動名詞を正確にどう読み解くかにはかなり困難な個所も多いのですが、私は、研究対象としてフォーカシングにに関心を持つ臨床家は、「人格変化の一理論」の原文を、日本語訳と比較しながらでいいので、目を通すべきと考えています。

ちなみに、この村瀬旧訳が今日本で新たに中古書籍として入手可能かを改めて調べてみましたが、検索不能でした。

この村瀬訳は、若干の改訂の上で、
Ippo
池見陽先生編・解説のジェンドリン論文集、「セラピープロセスの小さな一歩」に収録されていますが、前述のフロイト、サリヴァン、ロジャースとの比較論の部分は掲載されていないことが、私には残念です。

******

話がポランニから離れてしまいましたが、

ポランニにおける、


「暗黙知」

と日本語で訳されている言葉は、英語版では、実は

"tacit knowing"

なんですね。

ジェンドリンの体験過程理論における、

"implicit meaning"

とは全く異なります。

しかし、やはり、理論的にcrossingさせると、興味深い共通項がやはり浮かび上がります。

このあたりについては次回、解説することにします。

*****

なお、なぜ私とポランニ哲学の出会いが1985-6年と「推定」したかと言いますと、

ジェンドリンの2回目の来日の際の東京・中野サンプラザにおけるワークショップが、1987年9月であり、その時、私はジェンリンに直接ポランニの哲学についての見解をお尋ねしたかったのですが、

当時の私は小心者過ぎて

結局、この数日間のワークショップで彼と出来た会話は


「エレベーターはどっちだ?」

「この階の向こう側のロビーです」


だったことを何年も後悔していたからです。


(え? 今の私からは想像できない?

ただの大学院マスター1年目でしたから)

****

ちなみにこの時のワークショップ全体の記録

Fseminor
村山正治編「フォーカシング・セミナー」

として出版されています。

巻末に掲載された、ジェンドリンの奥様、メアリー・ヘンドリックス先生による、

「治療変数としての体験過程レベル」(大田民雄訳)

は、カウンセラーの皆様におすすめの論文です。

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2006/05/12

熟練者による指導の元で、極めて能動的・主体的に技を磨こうという好奇心と探求心のあふれる人間にしか技能は伝え得ないという前代未聞の事態について、こういちろうによって語られる

フォーカシングのトレーナの国際資格「認定資格者」としては、誠に不謹慎とも思える発言からはじめたいと思います。

時々、フォーカシングを学ぶことによって、自分の人生を変えることを、一代決心と覚悟の元に、私の元に現れる方があります。

全く正直に言いますと、私はそういう方に対しては「引いて」しまうことが多いのです(^^;)

そして、

「あ、このタイプの人は長続きしないことが多いもんな」

などと思ってしまいます。

単なる熱心さだけではだめなのです。

この人、フォーカシングを自分で「面白がって」

いずれ私を見捨てて、自分で勝手に、ひとりよがりなまでに探求を果てしなく、懲りることなく続けていき、

私にとってのフォーカシングの理想への道はまだ険しい!!」

と絶えず歯噛みしながらも諦めずに、自分の信ずる方向に技を深め、私を「過去の人」として歴史の彼方に葬り去り、自分こそフォーカシングの歴史を前に進めた者であると自負し、心理臨床に限らずに自分の分野で大立者として活躍し、私を一回ぐらい講演会の講師に呼んで、乏しい家計にささやかな手助けをすることもないまま、私の死を偶然北海道新聞紙上で知り、私の恩も忘れ、往復3万ほどの航空料金を出し惜しみ、葬儀の焼香に訪れることも、中井久夫先生が、我が恩師、故・村瀬孝雄先生に長文の弔辞を持って報いたようなこともせずに、香典を1万円ポッキリしか寄越さないぐらいにならないと、私の立派な不肖の弟子、後継者として、草葉の陰で見守ってはおれず、さもなくば毎晩夢枕に立ってうなしてやって、Dreamfocusing
夢フォーカシングの技を磨かないと生きていられない状況に追い込んで呪ってやるぞ、と半分まじめに思っていま.....

Donquijote
(実は、スペインものの延長として、セルバンテスの「ドン・キホ─テ」を岩波の全巻(6巻組)セットで買って読み出して、半日で第1巻を読破、小説嫌いの彼に珍しく、こんなに読んでいて痛快でおもしろい本に巡り合ったことはないという感動にうち震えていたもので、あの作品のすさまじいマゾヒズムと過剰な饒舌さが、もともとその気(け)があるこの時のこういちろうに乗り移っていたというふうに、拙(せつ)は愚考する)。

(ただ、残念なことに、私はこの続きを続けることができない。なぜなら、ここで写本の続きが散逸しているからである。.....もとい、こういちろうがせっかく書いた原稿を、パソコンのブラウザのタブの操作ミスで、ネット空間の果てしない闇の中に散逸させてしまい(マジ)、すぐにもう一度同じことを一から感興のままに書きはじめる意欲を喪失したためのようである。)

(私がネット空間を通してブルゴスの古書市場から偶然に発見でき、ムーア人に翻訳させた写本の続きに関しては、次の回をお待ちいただきたい)

次の章では、こういちろうによって、テクニ─クスキルの違いについて、ハンガリー人(びと)たる、暗黙知の次元ポランニュイ・ミハイ─なる者と、バーリント・ミハイ─なる、二人のミハイ─の学説を強引に重ね合わせる,新たなる大胆な冒険が語られる)

***

推薦BGM:
サラ・バラス舞踊団「フアナ・ラ・ロカ(愛に生きる)」”Juana La Loca"(VIVIR POR AMOR)/BALLET SARA BARAS

*****

更に広告:

今絶版中の1972年版「ラ・マンチャの男」に加えてこの名作ミュージカルのラインナップなら、この値段は、まだ買ってない人にはお手頃かも知れない。

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2006/05/09

2002年のBalintとフォーカシングについての学会発表、web公開しました。

「フィロバティズムとしてのフォーカシング ~バリントの対象関係論に基づきフォーカシングにおける関係性をとらえる試み~」

(日本人間性心理学会第21回大会発表論文集)

と,発表当日配布したバリントの論文の抜粋です。

どちらも、

本部サイトの「著作・研究論文・学会発表一覧」

職場サイトの「WEB上のカウンセリング論集 INDEX」から常設リンクを張っています。

私の過去の発表のなかでもプレグナントなものをはらんでいながら、その後何となく放置されていたテーマなんですが、私の中のホールボディ・フォーカシングへの関心の深まりのなかで、自然にリンクしはじめたという思いが強いので、今頃になって公開した次第です。

Balintbasicfault_1Thrillsandregressions

この「補足資料」で公開したバリントの2冊の著作は、現在再版未定のままです。多くの心理臨床系の大学院には完備しているし、中古市場でも、すぐには手にはいれないとしても、予約注文していると網にかかる可能性はありますが、私の抜粋だけでも興味をお持ちになる方は少なくないかと思いましたので。

バリントは、専門家の間でも、語られるほどには実は精読されていないと感じています。

****

なお、今年の心理臨床学会での発表は来年送りにしました m(_ _)m

ホールボディ・フォーカシングとの出会いは、私の構想の枠組みそのものからの大掛かりな組み替えの必要を感じさせましたので。

人間性心理学会での「共同発表」のみにしぼります。

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2006/05/02

見捨てないで

どうか、精神科医カウンセラーを、

「見捨てないであげて」欲しい。

*****

そして、精神科医やカウンセラーたちよ、

「立ち-往生」させられること(=生きながらにして、殺されること)を、

光栄に思いなさい。

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2006/04/29

最初はNoの積み重ね(第2版)

ホールボディ・フォーカシング「ホールボディ・フォーカシング」シリーズの延長です。

フォーカンシングでは、

「あなたが」ではなくて、

あなたの中の「その感じ(フェルトセンス)それ自身が」

どう思っているか、どうありたがっているかの聴き手にあなた自身がなることを大事にします。

しかし、これって、難しい課題なんですよね。

ほんとうに、フェルトエンスが、言葉で返事を返してくれるのか?

****

たいてい、最初は、

「言葉を返してはくれない

という返事です。

沈黙の中で、言葉ではなくて、態度で返してきたり、

忽然と、悩みと関係あるかないかわからない、イメージが浮かんだり、

身体の感じそのものが緩んだり、強くなったり、思ってもみない部分の身体の感じに気づける、というかたちをとります。

そうした「反応」すべてが、「返事」なんですよね(^^)

*****

しかし、これでもまだピンとこない人がいるでしょう。

*****

「今、自分の身体の中で、一番注意を向けてもらいたがっているのは何だろう」

気になる事柄や悩みと関係ありそうであってもなくてもいい。

一番「気を引いてくる」身体の感じを見つけてみる。

そして、

「その感じそのものはどうありたがっているのか」を、

身体そのものの動き姿勢の変化として、

表現されていくことを自分で少しずつ『許す』ことをしていく

という道があるわけです。

ホールボディ・フォーカシングではこのことを大事にします。

*****

しかし、これまた、実は結構高度な課題です。

そうした場合に、「両腕を上げていく」ワーク(訳書pp.111,138-9)

が役に立ちます。

正確には、

「からだに『腕があがるのを手伝って』くれるよう、『どうやったら腕があがりやすいか』身体に聞いてみる」

(土井さんの解説の文より)

ということになるのですが。

****

ただ、むしろそれは、

腕を少しずつ上げようとすると、

極論すれば「ミリ単位で」

身体がどのように違和や抵抗を返してくるかに敏感になることなのだ、

と私は感じています。

そっちに1ミリ。.....あ、何か腕が『抵抗』してるな。

それじゃ、こっちに1ミリ。.....あ、さっきの抵抗感はない。『行っていい』ということなのかな?

じゃ、こっちにもう1ミリ。.....え、『やりすぎ』だって?

それじゃ1ミリもどって。......え? 戻るのも『もう違う』って?

じゃ、あっちなわけ?

え、それにはなぜか唐突に腰の方から微かな電撃がきたな。

じゃ、残りは下の方だけなんですが。腕上げろって言われてるのに。

......あ、手首の筋を地面方向にピーンとのばすのはOKみたいね。

でも少し痛いな。

え? あれ、「痛・気持ちいい」感じだから、これはこれで別のOKサインなんだ。しばらくこのまま味わうか。

.......え、もういい? 「この」まんまで一気に10度ぐらい腕全体をあげてもいいって???

まわりのみんなはもっとリラックスしているのに、こんな「硬直」した、腕の上げ方でいいわけ?

....... ??ま、やってみるか!!

え? 「最初に戻れ」、だとぉ!!


******

自分自身からの"Yes"のメッセージに敏感になるには、

まずは、内側からの、さまざまな"No"のメッセージに敏感になることを通してはじめて気づける。

これは、ことフォーカシングに限らないことかと思います。

ひとつだけ、自分の内側からの「赤信号」ではなくて「青信号」が灯っていたら、ともかくその青信号のある場所まで行ってみる。

そしてそこでまた内側の感じに訊いて(きいて)みる。

そのことの果てしない繰り返しの末

頭だけではたどり着かなかった場所こそが、

とりあえずの居場所

ということに気がつくこともあるかと思います。

****

というわけで、「推薦」BGMは浜崎あゆみの


浜崎あゆみ - A Song for XX - Signal"signal"

です(^^;)

(こんな凝った選曲でも直接アフィリエイトがあるとまでは期待してなかった)

アルバムとしては、少しひねってayu−mi−x〈ayu−mi−x|あゆ・み・っくす〉こっちを紹介しておきます。ayuのリミックスは、最近独立したアルバムとして出なくなりましたので、敢えて。

もっとも、この頃のayuは、一度決めたら数百メートルは命がけで直進しかねなかったわけですが.....

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2006/04/17

カウンセラーが「前に-いる」ということ(第2版)

ホールボディ・フォーカシング「ホールボディ・フォーカシングの臨床適用についての現段階でのとりあえずの私見」その2です。

*****

自分ひとりだけで、もの思う(reverie))ことと、

目の前に他者がいて、思っていること、感じていることを話すことの間には、雲泥の差があります。

そこに他者がいても、自分の世界に没頭できることとなると、さらにすごいことです。

母親が炊事洗濯をしている背後で、母親の存在を忘れて、おもちゃ遊びの中で、自分の空想の世界に浸っていられる子供でいられような状態ですね。

Abilitytobealone
これを、

イギリスの精神分析家、

ウィニコットは、

「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」

と呼びます。

(↑ここで掲げた本に、そのものズバリ、このタイトルの論文が収録されています。精神分析系に限らず、カウンセラー必読の本のひとつかな)


これは決して「自閉」ではなく、

母親という「環境」に対する基本的な安全感と信頼があってできることです。

****

さて、カウンセリングは、たいてい椅子に座ってなされています。

カウンセラーとクライエントさんの椅子の配置として、

「一番無難な角度は90度」

ということは誰が言い出したか忘れました。

これだと、それぞれが真正面を向けば、視線をそらさなくても、相手と視線を交わさなくて済むし、

逆に、相手と「距離を詰めて」話し込もうとすれば、お互いちょっとだけ内側を向けばいいわけですね。

(どうかデートの時にもご活用を)

もちろん、90度でも、2つの椅子が近すぎると、相手に不安を与えるでしょう(^^)

間に小さめの、背の低いテーブルがあるといいかも。

背もたれや肘掛けも、ある程度しっかりしたものがいいでしょう。

カウンセラーは、開業するとなれば、椅子をどう選ぶかにも気を使います。

私のカウンセリングルームのはこれですが、

現在のdefault(^^;)の配置は、120度くらいにしてます。

実は回転椅子でして、クライエントさんも、カウンセラーも、その時の気分で身体の向き全体を無意識にも変えられるわけですね。

****

なぜこんなことを前フリとして長々と書くのか?

それは、ホールボディ・フォーカシングを1対1でやる場合、ガイド役とフォーカサーは、1メートル前後離れて向かい合わせに「立って」いることが基本形みたいだからです。

これって、特に日本人にとっては、かなり非-日常的な、他者との対峙のしかたでしょう。

本気でけんかするか、愛の告白をするか、とか(^^;)

*****

もちろん、フォーカサーが望むなら、180度正対でなくてもいいとは思いますが、両者が立っているという基本は崩せないと思います。

なぜなら、ガイド役の人も、「立っている」フォーカサーの人の「身になって」、自分の身体の感覚を「通して」、フォーカサーが感じていることを受け止め、言葉を返す必要があるからです。

そして、実はこうしてガイド役立ってくれているということが、

フォーカサーの「環境」を形成する、場の「守(まも)り」の「枠組み」でもあることは、ある程度体験されると、感じられることも少なくないかと思います。

*****

中には、ガイドの「前に立って」、内面に注意を向けることそのものが、どうにも苦痛という人もあるでしょう。

そういう場合には、

「身体のすみずみの感じに、じっくり聴いてあげましょう。『どういう向きや、どういう姿勢をとりたがっているのかな?...と」

などとガイドは声をかけるかもしれませんね。

この際に、フォーカサーの身体の内側の感じのベクトルが求めている方向に、少しずつ姿勢や向きやポーズが変わりたがっているのを、少しずつ自分に「許していく」というスタンスを取ってもらえるように導ければいいでしょう。

そして、フォーカサー自身の「身体が」

「こういう感じでとりあえずOK」

という反応を返してくれたところで、そのまましばらくその姿勢で内側から味わってもらう。

それは、たとえば、ほんの少しだけ身体の重心を後ろ寄りにする程度でいい場合すらあります。

****

実は、ある程度通常のフォーカシングに慣れた人ですら、これだけで、思いもよらないことが自分の内面と身体の感じに生じはじめることに驚く場合もあるはずです。

*****

この項、更にシリーズ化されるかどうかは、

それこそ、

私の「フェルトセンス」の命じるままに決めます。

*****

ただ、

「最小限、今、このブログで書いておきたかったことは、書いたんじゃないの?」

という「返事」は、今、私のこの世における最高権威から返ってきますので。

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2006/04/16

ホールボディ・フォーカシングの臨床適用についての現段階でのとりあえずの私見(1) [第3版]

またまたホールボディ・フォーカシングホールボディ・フォーカシングについてです(^^;)

ちょうど4月で、臨床心理系の大学や大学院に入ったばかりの、あるいは臨床現場に出たばかりの人に、フォーカシングとはどんなものかを、意識的に入門的なあたりから、このブログでも書いてみたいという思いもあるのですが、

(この約束は必ず果たします。当面は「日本フォーカシング協会」サイト『フォーカシングって何?』私の本部サイト『フォーカシング入門』を読んでください)

どうしても私はその時熱中していることから書かないと”clearing a space”できないタチなので、いきなり応用編の話ばかり書いてるとしたらお許しください。

ただ、これから書くことも、

フォーカシングのみならず、

およそどんな流派の心理療法や、心理テストを『実際の心理臨床現場で』適用する際にも共通する、普遍的な問題意識と絡めた次元で書いていくように努めるつもりです。

*****

ホールボディ・フォーカシングをワークショップ等のワークとして進めるにあたっての最初の教示としては、

ますは集団の参加者に向かって(どうも円陣を組む形が無難のようです)、経験豊富な「ガイド」の人が、

みんな立ち上がった状態で、

「まずは、自分の身体全体が周囲の環境(大地)に支られているという感じをじっくり味わってみましょう」

という実習からはじめることが多いようです。

集団でやっている時には、何となく周りと同じように、身体を楽にして、内側に注意を向けて、何となく味わっていたら、

「あ、こんなあたりでいいのかな?」

と、場の雰囲気に支えられて味わえたような味わえなかったような(?)気分になれる皆さんが多いかと思います。

少なくとも、足の裏が、靴を通してでも床についてる感じを「足の裏で」感じることは無理なくできる方が多いでしょう。

そして、そうやって足から太もも、腰、おなか、背中、肩、首筋、頭というふうに徐々に身体内側の感覚に注意を少しずつ上げていくつもりで向けてみれば、それでけで、

実は人間が『立っている』ということが、それだけでどれだけすごいことか

今更のように、実感を通してお気づきの方も少なくないかと思います。

いかに重力に逆らってバランスを維持するために、身体のあちこちの部分に「負荷」がかかっているか。

筋肉や内臓、関節や首筋など、身体のいろんな部分に、

普段は意識しなかったけど、

いざ実際に感じてみようとすれば、いろんな緊張や無理や痛みが、いろんな質感で、からだのあちこちに感じられていることに気がつける方が少なくないかと思います。

*****

極論すれば、まずはこのことを身体で実感することが、ほんの2,3分でもできて、

思わず「身体のあちこち」に向けて、

「『お前ら』、それぞれ結構しんどい思いして、『俺』を支えてくれとるんだな」

とか、

「でも、しっかりした床の上に『立ててる』時に、『床』はこんなに『私』安心感を与えてくれているんだな」

とかを味わえるなら、

あなたはすでに、ホールボディ・フォーカシングをしていたのです。

この記事の最後の方で、技法としてのフォーカシングの創始者、ジェンドリンが、著作『フォーカシング』で書いてることを私なりに訳し直した部分の表現をわざと借りています)

このような、日常気がつかない内側の微細な感覚への気づきやすさという点で、ホールボディフォーカシングは、座ってやるのが普通の通常のフォーカシングに導入する場合よりも平易かなとすら思います。


座ったままで椅子と接する背中やお尻、膝や足元の感じを内側から感じるよりやりやすい場合が多いばかりか、

通常のフォーカシングの熟練者でも、

「座ったまま」の時とは全く異なった、予想もしない身体感覚に、

「立ったまま」味わうと気がつけることが多いかと思います。

(もっとも、「感じ易(やす)い」ということは、その分体験が「強烈」であるということにも繋がります。「害がないことが一番の治療である」というのはヒポクラテス以来言われ尽くしていることで、神田橋條治先生や中井久夫先生も繰り返されている通りです。この件については次回も触れます)

*****

ところが、そういう集団のワークの中でも、

中には、

立ってしばらく身体の内側に注意を向けてみても、

本音の本音としては、

「自分の身体全体が周囲の環境(大地)に支えれれているという感じをじっくり味わってみよう」????

何なんじゃ、そりゃあ???

という方があるでしょう(^^)

こういう時、欧米での国際ワークショップの参加者だと、

”I can’t understand what you say!!

How may I do?"

とか何とか、集団のワークでも声を上げる人がいるでしょう。

(私の英語の水準だと、とっさに言えるのはこの程度のぎこちない英語でしょう、笑って許して!!)

しかし、欧米人でもシャイな人、まして日本人だと、

指導者が指示したとおりに「感じられない」自分をまずは「責める」か、

何となく「感じられたフリ」をしてしまうんですよね(^^)

おそらく、

”If you ever need help with something, feel free to ask.”

(さすがにこれはネットで調べました)

とか「言って」もらえても、更に心苦しく思い、萎縮したりして(^^)。

*****


広い意味でのカウンセリングの場の中で、

わからないこと、ピンとこないことをクライエントさんが「遠慮しながらも」口にできる、

というだけでも、

実は「すごい」ことなのです!!

それができたら悩み相談には来ない!!」

という来談者の方が多いことをお忘れなく!!

カウンセリング経験を少し積んだら、話し過ぎたり、カウンセラーに不平を言うクライエントさんより、黙ったままだったり、何でも「はい、はい」うなづくばかりのクライエントさんの方が、会っていて「しんどい」ことに、否応なしに気づきます(^^)

******

この種の問題について、

九州大学の田嶌(たじま)誠一先生(名前知らない若い臨床系の学生さんは、これを機会に、この名前を決して忘れず、九大以外の人も、この先生の「ライブの」集中講義やセミナー、ワークショップは見逃さないように!!)は、

クライエントさんの

「注文をつける能力」

と命名しています。

フォーカシングでも、フォーカサーは、ガイド役の人に受身に従うだけではなくて、

「すみませんが、そのように言われても私にはピンと来ないんですが......」

「今言われたこともう一度言ってください」

「私が何を言いたいのか、私の内側ではっきり言葉になるまで、しばらく黙って、待っていてもらえませんか?」

などといろいろ注文をつけてもいいのです。

そして、ガイド役たるもの、むしろこういう言葉が出てきたら、動揺したり、しどろもどろでいろいろ説明するのではなく、むしろ、

「ほう、この人はちゃんと私に『注文つけて』くれるんだ。よかったよかった」

なでと「内心」「静かに」思えるくらいでないと!!

*****

これ、クライエントさんの相手をするカウンセラー一般に求められることです。

というか、

「そのように言われたらむしろ『ラッキー』なんだ。歓迎すべき事態なんだ」

というくらいのつもりで、普段からクライエントさんの相手をしていたら、

なぜか、

クライエントさんが、そういう不平や苦情や注文を「いつの間にか」口にしやすい「場の雰囲気」が生まれます。

*****

実際、カウンセリングの「現場」で、

クライエントさんの少なからずに、

ここで問題にしている「ホールボディ・フォーカシング」を体験してもらおうとすれば、

「自分の身体全体が周囲の環境(大地)に支えられているという感じをじっくり味わってみてもらう」

という最初の段階ですら、

いかに「高度な」課題であるかに治療者は気づくはずです。

「足が地に付いて、支えれているいる感じって、先生がどう喩(たと)えをあげて説明して下さっても、わかんないです。申し訳ないんですが」

と言ってもらえたら、カウンセラーとしてのあなたはクライエントさんに、心の中で、自然と感謝できるくらいになってから、現場で「ホールボディ・フォーカシング」を試してみてください。


*****

この件、次に、「ガイド役がフォーカサーの『正面に立っている』ことの意味」という観点から続きを書きます(^^)

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2006/04/14

フォーカシングとは、実はシンプルなものである(第3版)

私の本部ホームページ冒頭に掲げた一句、

”There is no authority above his/her own felt sense on earth.”

(地上に自分のフェルトセンス以上の権威なし)

というのが、私なりにたどり着いたフォーカシングのエッセンスであり、

フォーカシング的な生き方だということは、

以前にもこのブログでお書きしたかと思います。

****

一見傲慢不遜な言葉だし、正直に言って、現在の私が、これを完璧に実践しているかどうかとなると、必ずしもそうではないと思いますが、

人生の決定的な瞬間の「多く」において、少なくとも自らのフェルトセンスからのメッセージに「全く反する」行動は取ってこなかった、

それゆえに、今の今、さまざまな重荷と十字架を背負いつつも「生きていられている(Suvivalできている)」のだ、という思いには変わりありません。

それこそ、さまざまな失敗は重ね、「取り返しのつかないこと」をしてきたという「痛み」と「悼(いた)み」は抱え続け、時々それは改めて疼(うずき)出し、あらためてじっくり味わいなおすことも多いのですが、

その「味わいなおし」そのものが、すでに「癒し」であり、変化と成長の厳粛なプロセスなのだと感じています。

そういう意味では、「私のフォーカシング」シリーズで繰り返した通り、

「我が青春に悔いな~し!!」

なんですよね。

もとより、フェルトセンスに「従う」ということかどういうことか体得されていないと、「似て非」なるものになります。

まあわかりやすく言えば、自分の「奥底からの実感」に忠実ということなんですが、

それが、最近再三ご登場願う「内なる批評家」、改め、「内なる『突っ込み』君」とどう違うかという点で「聴き違えない」ようになれるかどうかです。

****

ちなみに、これまた最近再三ご登場いただくホールボディ・フォーカシングケビンさんの「ホールボディ・フォーカシング」にも、次のように書いてあります。

「私は、私たち自身の内側にあるものこそが、どんな権威よりも、私たちの人生を癒すために必要な多くのことを知っているということを繰り返し確かめることができました」(訳書pp.2-3)

この「権威」の中には、フォーカシングの指導者すら含まれます。

そのことわかってないと、フォーカシングは、フォーカサーではなくて、フォーカシングの指導者のみを癒すための「代理フォーカシング」に成り下がります。

******

なお、私は、フォーカシングの「指導」と、「通常のカウンセリング」を、完全に別のものとみなしており、

「フォーカシング学習をクライエントさんにこちらからお勧めすることはない」と、カウンセリングルームのサイトで明言しました。

これは、

1.私のカウンセリングルームにおいでになったら、フォーカシングを学ばねばならないと、皆さんに誤解していただきたくないこと。

2.一般の方への現場カウンセリングは、特定の技法を適用すればいいというものではなく、その方のお話をうかがう中で、共同作業していく「コラボレーション・ライヴ」であると私は考えていること

のためです。

ちなみに、ケーススーパーバイズの場合ですら、私はその方が主に学んでこられた流派を問わず、実際にお引き受けしています。

詳細は「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」のサイトをご覧ください。

****

もちろん、通常のカウンセリングの際にも、クライエントさんを前にして、カウンセラーとしての私自身の中では、絶えず「場の」感じに触れつつ、フォーカシングしながら、クライエントさんの感じているであろう「言葉にならない思い」まで、クライエントさんの「身になって」味わい、共有しようとし続けています。

そして、次に何を言葉にするか(しないか)を、私自身のフォーカシングの中で吟味し、

クライエントさんに、その時、あるいは長期的に見て、どんなお手伝いができるか、フォーカシングしながら思いをめぐらし続けているのですが。

****

最後に、フォーカシングの草案者、ジェンドリン自身の、その人がフォーカシングができているかどうかについての

「最も端的な定義」

と私が長年考えているものををご紹介。

IF DURERING THIESE INSTRUCTIONS SOMEWHERE YOU HAVE SPENT A LITTLE WHILE SENSING AND TOUCHING AN UNCLEAR HOLISITIC BODY SENSE OF THIS PROBLEM,

THEN YOU HAVE FOCUSED.

It dosen't matter whether the body-shift come or not.

It comes on its own.

We don't control that.

Focusingoriginal
(Gendlin,E.T.,"Focusing",Bantam Books,1981 p.45
ISBN 0-553-27833-9)

ここまでの教示を(自分に)にしていく間のどこかで

(気がかりな)問題をめぐって、

はっきりしない身体すみずみの感覚が感じられ、

しばらくその感じに(内側から)さわり、感じてみることが、

ほんのちょっとの間でもできたならば、

あなたはその時フォーカシングをしていたのです。

身体の感じに変化(シフト)が生じてきたかどうかは気にしなくていいんですよ。

そういう変化は「向こうから」自然と生じてくるもの。

ガイド(トレーナー、リスナー)である私や、フォーカサーであるあなたが「操縦して」、そういう変化の感覚を生み出すわけではないんです。

[上記の訳、第3稿で更に手を入れています]

Focusing_hyoushi
「フォーカシング」 ユージン・ジェンドリン著p,74に該当しますが、敢えて私自身で訳し直してみました。

フェルトセンスに変化をもたらす「内的な導き手」は、フェルトセンスそれ自体であり、あなたはそれに気づき、それを感じることを自分に「許す」主体でしかありません。


***


「この部分の訳、変です。抜け落ちている単語もあるし。これじゃ誤解されますよ」

と、共訳者の故・村瀬孝雄先生にご注進した、大学院入りたての、もう21年前になる、若き日の思い出がよみがえります。

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2006/04/12

「Web版 臨床心理士に出会うには」にやっと「ホントに」全文掲載されました!!

ここから、『神奈川県』で検索して、2ページ目です。名称をクリックすれば、一定のフォーマットに則(のっと)った、詳しい案内の単独ページが開きます。

神奈川県だけで、現在「2ページ」あることをお忘れなく!!

*****

どうも、これに掲載されてないと、

「こいつ、ほんまに臨床心理士か?」

湘南フォーカシング・カウンセリングルームは、ほんとうにこの世に『実在』するのか?」

実は怪しげな出逢い系サイトなのではないのか?

と、まだ疑って、迷っている皆様がおられるような気がしてしまって(^^;)


*****


ほんとうに、私との「コラボレーション・ライブ」が、あなたの人生にとって一回6000円+交通費の価値があるかどうか?

お試しになっていただける皆様が増えることを心待ちにしております m(_ _)m


*****


もとより、「臨床心理士」とは、ただの資格です!!

(それになるために必死に勉強したり苦労している皆様には申し訳ないですが)。

以前も書いたように、およそ「資格」とは、コネなしでも求職活動したり、開業するための「オープンな」パスポートであることにこそ意義があります

もちろん、来談されるクライエントさん「に」お役に立ったと感じていただけるかどうか、

そしてそれで「食べていける」かどうかは


> あとは君しだい

(浜崎あゆみ"Startin'")


です。!!

(これ、若いカウンセラー志望の皆様へのエールのつもりです)

*****

(今、■送料120円■浜崎あゆみ CD+DVD【Startin’/Born To Be...】 06/3/8このayuのアルバムの3曲がいつも頭の中でBGMとして鳴ってるのです)

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私が「ホールボディ・フォーカシング」を「発見」した日のこと(第2版)

さて、ホールボディ・フォーカシングホールボディ・フォーカシング についての、取って置きのエピソードを、遂に公開します(^^)

私、今年(2006年)3月末に、東京女子大学でケビンとポールのワークショップに出て、ケビンをガイドに参加者の前でワークさせていただくという光栄を得るまで、

日本でも、

(東京女子大学の近田輝行先生、(ケビンの本の中にも名前が出てくる)宮川照子さん、そして上記のケビンの本のすばらしい翻訳とやさしい解説の土井晶子さん(全体の半分におよぶ長さ。当然、ケビンの「共著者」とも呼ばれるにふさわしい)をはじめとして、ホールボディ・フォーカシングの日本での普及に情熱を燃やして、ワークショップ等もなさっている方々もあるのですが)、

昨年(2005年)の

カナダ、トロント(ケビンの住んでいる場所でもある)での国際会議の時も、

(もちろんケビンと、例によって私のすんごい英語で、「ある非常に密度の濃い立ち話」(内容を聞いたら卒倒する人が約1名日本にいるかも...。もっとも、もうケビンから話してもらってるかも)はしましたが)、

誰からもホールボディ・フォーカシングについて教わっていなかったし、

他人のパフォーマンスもみたこともなかったし、

簡易マニュアルを読んだこともなければ、

ポールと土井さんの本も、「全く」めくっていなかったわけですね

(などというと、当日の参加者で、私のワークを見た人も「あっけ.....」かもしれませんが)

***

ちなみに、「ワーク」というと、まるで私がトレーナーやガイド役をやってたみたいですが、ホールボディ・フォーカシングは、ガイド役の人に完全に受け身ではできません。

ケビンは、では、私の前で何をしていたか?

(向かい合わせに、1メートルもない感覚で、2人とも、立って対面しているわけですね)

私の身体の中に生じているであろう微妙な感じの変化(必ずしも目に見える変化ではないかも知れない程度の)を、刻々と、私の「身になって」感じたことを、ほんとうに時々、静かに言葉にして投げ返してくれただけでした。

そのケビンの「ホールボディ・リスニング」の応答の感度の凄さ

これはさすがにこの技法の草案者、そしてそれを何よりまず「自分の」過酷な苦しみのために、「使い込みに使い込んで」きたケビン(この事実はあとで本を読んではじめて知りました)にしてはじめて可能な域の、

最小限なのに、何とも繊細な応答で、それが私の「環境」の一部になっていてこそ成立したコラボレーションなのは確かです。

ホールボディに限らす、フォーカシングのすべての技法が実はそうなんですけど、主役はフォーカサーです。

私はフォーカサーをやったわけですけど、いわゆる「脱同一化(disidentification)」

つまり、自分の「身体の」感じに注意を向ける主体としての「私」がしっかりそこにいないと成立しない

という点では、普通のフォーカシングより「ごまかしが効かない」とすら私は感じます

(あくまでも個人的見解ですが)

そのへんに、前々回の記事で私が強調した、

「自分の身体『が』どうありたがっているのかを感じつつ、身体に生じるものを私が『許す』」

という、ケビン自身強調しているポイントがあります。

ケビンは、何と旧約聖書の創世記の冒頭の天地創造すら持ち出して、

神様が

「光あれ」

といっただけでは、神様の心の中のイメージとして世界(光)が創出されただけであり、

「すると、光が差した。

神はそれを見て、よしとされた

というふうにして、

そこに生じてくるままに生じてきたものの存在を、神様が「許す」

という経過が大事だったのでは? 

と、カトリック信者としてのスピリチュアルな思いを込めて書いています。

この「許す」という言葉の特別なニュアンス、伝えるのがなか難しいのですが、

日本フォーカシング協会メーリングリストに、

昨年(2005年)の正月頃、

まだ私が完全な療養生活で臥せっていた頃に書き込んだことを、

一部省略しますが、

言葉をまったく改変しないで

転載してみたいと思います。

(以下引用)

****

元日の夜になって目覚めたのですが、


この時


「あっさりと『自分で』起き上がるな」


という、身体からのメッセージを感じました。


「意識的に」起き上がるな、と言うのです。

「意識的に」ではなく、徹底的に、「身体の命じるままに」動いたらどうなる?


***


そしたら、それからの30分くらい、すごいことになりました!!

まずは寝たまま、手足や胴体が、ゆっくりと動くがままに任せる。

すると、自分では意識的には取ったことがない、すごいポーズを、身体は私に次々と要求してくるのです。

時にはすごい力でその姿勢で踏ん張ることを求められたり。

あるいは、重力との兼ね合いでバランスを取るのがむちゃくちゃ難しい姿勢を求めれれたり。

掛け布団を身体に挟み込んだままだから初めて可能な力の入れかたしたり。

これは、絶対たたみの上では出来ません!! すべって危険だと思います。

袋状の、木綿の敷布団のシーツという、すごく「摩擦抵抗」が強いものの上だから出来る。

*****

私は、身体が動こうとする方向を、少しでも「先取り」して意識的に動こうものなら「危険だ」と直感しました。

身体の指し示すベクトルを、ほんの少し「後追い」するくらいのつもりでやらないと!!

さもないと、身体が不用意に滑ったりして、自分の体重で手足をくじく危険すら犯している!!

念のために言いますが、一度身体の筋を伸ばすポーズを一度数秒取ったら、自然と「弛緩した」体勢にもどり、「一息」つく、というリズムそのものを「身体が」自然に作ります


***


私は、20年位前、一回だけ、カイロプラクティックの専門家に施術してもらったことがあります。その時にしか体験したことがないくらいに、次々と、脊椎をはじめとする身体の節々が」すごく大きな音でカキッと鳴って、ずれが補正されていきます。

この調子で、自(おのずか)ら(また「やまとことば」!)、ともかく仰向けになって起き上がる方向になるまでですら十数分。ともかく立ち上がるまで更に数分、立ち上がってから、どんでもない姿勢でバランスを取ることを繰り返し求められて10分。

やっと、「このへんで終わっていい」という体からの指令が出ました。

*****

(引用終わり。以上、focusing-net 書き込み5720[2005/1/3]より転載)

*****


私は、

「おお、これは凄い発明をした。『阿世賀法ボディワーク』とでも名づけよう」

とまで調子に乗って書き込んだら(^^;)

「あの、それって、『ほとんど』ホールボディ・フォーカシングです」

と、訳者・解説者の土井さんからすぐに書き込みのレスをいただきました(^^;)

****

,,,,,今にして思えば、私が1年数ヶ月前に書いたことを、ここでそのまま公開することは、私がこれまでこのブログで弄した多弁全体よりはるかに、ホールボディ・フォーカシングそのものを、自分のために「身につけたい」皆様のために、「誤解を生じさせる」以上に「お役に立てる」と感じましたので、ここに紹介します。

*****

「おい、自慢話もええかげんにせえや!!」

と、私の中の「内なる批評家」、

改め、

相棒の「内なる『ツッコミ』君

が言ってまいりますが(^^;)、

私の中のフェルトセンスが

「私」を通して、

皆様に、こうしたことをお伝えしたいのは、

フォーカシングに熟練し、

それを自分の生活に役立てたいと、もがき苦しみつつも、

徹底的に「興味本位」で、自分の身体を「実験材料」にして、

「いけるところまでいこう」

というところまでフォーカシングで人生を「真剣に」遊んでしまえるならば、

そうした人間同士は、

いつの間にか、

似たような「創意工夫」を「自分で」創出してしまい、

それを、つまらぬ「先駆者の巧名争い」なんかせずに、

「お互いに」シェアして、

より高次のものに「練磨しあえる」だろう

ということです。

****

日本も、そうした「創意工夫」の提案国になれるはずです。

幾人か、すでにそれを、私より積極的に編み出しつつある方たちがいます。

私は、その方たち、その世代のための、「繋ぎ役」をしていく、トリックスターとしての
Erlciddvd
エル・シドであることが、天命なのだと、思っています。

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2006/04/11

自分の臨床家としての能力が伸びたと感じる時(第3版)

前の書き込みまで、

私の悪いクセの

「孤高の」「悲劇の」「天才」フォーカシング実践者気取り

が、また暴走気味になってしまいましたm( _ _ )m

(などという言い方を平気で言い足すことでさらに「馬脚」をあらわしてしまって平然としているあたりが、いよいよ困ったもんだと、私の中の「内なる批評家」は思っているようですが(^^;)

******

私に限らず、カウンセラーって、実は多少なりともナルシストで、「小山の大将」が多いと思っています(^^;)

「理解する」ということが、理解された側の人間が「理解してもらえた」と感じなければ無意味なのと同様に、

カウンセラーを「評価」するのは、どこまでも個々のクライエント(=顧客)さんであり、

指導教授でもスーパーバイザーでも職場の上司でも医者でもないと、

常々思っております。

それを「転移」「逆転移」やら「投影同一視」やらの言葉を巧みに使って言い訳するのがうまいカウンセラーにだけはなりたくないものです(^^)。

敢えて言うと、自分のカウンセリングが失敗した自己嫌悪に浸ることそのものも、

カウンセラーの「思い込み」の「勝手な自己完結」であり、

ナルシシズムの裏返しでしかない。

実は、このことを体験的に自覚していれば、まさに「転移」の問題の本質がすでに「そこそこ」わかっているということになるかと思っていますが。

(「陽性転移」や「陽性逆転移」を含めて)。

「あ、自分はこの人とのカウンセリングがうまく進んでいると勝手にうぬぼれてるな。馬っ鹿じゃねえの?」

「あ、クライエンとさんの『行動化』が自分のせいだと自己嫌悪してやがんの!! あのさ、クライエンとさんの全人生は自分次第だなんて思い込んでるわけ、アホかお前は!!」

などと、舞いあがったり、落ち込んだりしてしまう(これ自体はカウンセラーも人間だから仕方ないですよね)その後で、さほど時がたたないうちに、自分で自分の「滑稽さ」を笑い飛ばした上で、

不死鳥のように「復活」し(^^)、

それでも「腹を据えて」、「虚心に」、次の面接に向かい合う、

カウンセラーはそれしかできないし、

それさえしていれば、

「こ、これは、

ほ、ほんとうに、

クライエントさんのお役に(前より)少しは立てたかな?

こわいよー!!

「思い込み」や「夢」であってくれればいいのに!!

そんな現実には耐えられない!!」

と、

ある「畏怖」と共に、

「自分の身体『が』感じること『を』

自分『に』

『許して』あげられる」

日が来る気がします。

****

(この最後部分の表現、ホールボディ・フォーカシングの基本概念のひとつなんだけど、

この言葉に理屈ぬきでノックダウンされることを、「自分で自分に『許して』あげられる」人こそ、

フォーカシングが「身についている」人です。

「フォーカシング」を「学んだ」ことがあろうとなかろうと。

*****

「....などと、

また、『謎かけ』に走るぅ~」

という、

「内なる批評家」、というより、「内なる『突っ込み』君」の声。

そう、「内なる批評家」陛下という守護霊(!)が、毎日自分に死刑を言い渡し、鞭打ちで責め苛(さいな)むような存在から、

漫才コンビの「突っ込み」のように、

「自分」に向かって自由にふるまってくれることを、自分で自分に許してあげられることで、

「立て直し」ができることを、自分で自分に許してあげられること(おい、「お前」、わざとしつこく繰り返してるだろ)が「多い」方向に、

徐々に「進化」するものだと。

*****

フォーカシングを身につけていると、

「悲しいことに」(と敢えて書きます)

すべての人生経験から、その時点での自分ができる範囲のものを、消化吸収し、すでに「学んでしまっている」自分

を自分で愛(いとおしみ)、育(はぐく)みつつ、許してあげられるようになるみたいです。

もう、以前の自分には戻れないのね。

でも、それは、普通の意味での「大人になることの悲しさ」とは少し違います。

普通の意味でのそれには、

「内なる、子供のままの、傷ついた自分」への、少しずつの「癒し」

伴わないことも少なくない。

「体験過程が推進する」とは、そういう点で、普通に言う「成長」とは似ていて違う何かなのだと思います。

でも、

ほんとうに

「悲しいことに」

なんですが。

>あの日はとおく、
>美しく
>すっと守っていよう

*****

>あの頃の僕らのように ひたすら無邪気に
>笑っているのは 難しくなっても

>今なら わかる事がある
>今なら 見えるものがある

BGMは、くどいけど、やっぱりこれしかないです。

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*****

今の部分引用だけではぴんとこないかもしれないけど、

浜崎あゆみの歌詞にある、

空々しいありふれた「人生の応援歌」を超えた「何か」。

ほんとうは、すごく「悲しい」、「悼(いた)みに満ちた」歌なんだと思いますよ。

この件の続きはこちら

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フォーカシング指向心理療法」を日本臨床心理士会は「心理療法」とみなしていなかったらしい(第2版)

なぜ掲載が遅れているのかといいますと、

請求した申し込み用紙の

「実施している援助技法やアプローチ」

十数項目の選択肢に、

"EMDR"まであるのに、

「フォーカシング指向心理療法」

が含まれていなかった(!)のに、

私がゴネて、むりやり選択肢を「増設」してもらう

ということをやってしまったせいもあるんです(^^;)

*****

すでに、日本心理臨床学会学会誌、「心理臨床学研究」で、

Key Wordとして、

「フォーカシング」

という用語は

「箱庭療法」

に次いで2位のヒット率を誇るみたいですけど、

実は学会の本音はこんなあたりなんですよね(^^;)

まあ、私が、日本初の「フォーカシング」を常設相談機関の名称に公然と掲げた最初の人間に過ぎないくらいだから、仕方ないんでしょうけど。

(でも、日本にはTFI認定の「フォーカシング・トレーナー」および「フォーカシング指向心理療法セラピスト」の国際資格を所持している人間が50名はいる現実があるのです!! それで開業して「食っていこう」としている人間がまだ私しかいないって、もう無茶苦茶「異様な」事態というしかないではないですか。

これじゃ、そういうトレーナー同士が時々集まってお互いに「癒し」の場を作る「貴族階級」を構成しているだけで、

この人たちは「フォーカシング」そのもので「癒される」ことを求めているにすぎないどころか、

「フォーカシング」を名目とした「場の」人間関係に癒されている
としかみられなくても仕方ない。

このギャップを何とかしないと、フォーカシングとその関係者全体が、

ただの

「裸の王様」

「『小』山の大将」

的自己満足

に浸っている人間だと、他流派のカウンセラーにみられていても仕方ないです!!

****

「学術研究」と「臨床現場」の、この「圧倒的ギャップ」は何なのか????

****

この秋の人間性心理学会大会で私が敬愛するアン・ワイザー・コーネル先生とシンポで対談なさる、関西大学の池見陽先生(詳しい情報はネット上ではこちらからの検索が便利でしょう)、

そして、今度の心理臨床学会大会ワークショップで「フォーカシングの臨床適用」について講師をなさる日笠摩子先生

をはじめとする日本のフォーカシング関係者の皆様、

この、壮絶なギャップをかかえた「現実」を

共に「嘆き哀しみ」、

共に「戦おう」ではありませんか!!

(これ、本気で書いてるんですよ!!)

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「データ更新中につき、しばらくお待ちください」

.......まで検索で表示されるようになりましたね(^^;)

何か私が急かしてるみたいで

(実はこうやって暗黙の急かしてるんです!! 担当者の方、ごめんなさい)

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2006/04/10

「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」の「Web版 臨床心理士に出会うには」への掲載・途中経過続編

前項で予告した

「Web版 臨床心理士に出会うには」への掲載ですが、

今のところ、「名称」と「アクセス」だけはすでに一覧表に並んでいるみたいですね。

今のところ、「神奈川県」で検索して「2ページめ(!!)」のトップに並んでいることに自分でも気づいていませんでした。

ほんとうは、このページの「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」をクリックすれば、一定のフォーマットに従った、業務内容の紹介が掲載されている独立したページにアクセスできるようになります。

それまでは、業務内容については、直接「こちら(私の運営するサイトそのもの)」をご覧下さい。

*****

なぜ、今、わざわざここまでお書きするのかというと、@nifttyココログの新規記事のpingサーバーへの送り先がいつの間にか増えていて、「この記事からの」新規の訪問者の皆様がおられる可能性があるからです。

このブログ「カウンセラーこういちろうの雑記帳」についてのとりあえずの解説はこちらにありますので、初訪問のお客様、ご参照ください)

****

このブログの、カウンセラーのブログらしからぬ、とらえようによっては「傲慢不遜」で、クライエントさんを傷つける危険すら犯しているかもしれない内容は、むしろこういうブログにするから「こそ」私をカウンセラーとして信頼して下さる方があると確信しているからなのです。

もとより、これまで書いて来たことの中に、自分でもやり過ぎたとか、いろいろ後悔したり自己嫌悪にかられる内容も含まれています(私はそれに気づかないほど鈍感ではないですよ)。

*****

ただ、敢えて重要な、ひとつの思いをここで書かせて頂きます。

ウェブ上の活動と、実際カウンセリングに来て頂けるかどうかは切り離したいと思います。

過去、実際にこのブログでコメント等を書き込んだ方と、私は、カウンセリングルームで直接お会いしたことは、「まだ一度も」ありません。

*****

すでに過去の人生経験の中で、カウンセラーや精神科医というものへの不信感の塊になった人にこそ、関心を引くサイトを目指していろいろ試行錯誤しています。

まだまだ日々成長しつづけている段階ですが、これからもどうかよろしくお願いします。

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「Web版 臨床心理士に出会うには」でまもなく検索可能になる.....はずです

「Web版 臨床心理士に出会うには」は、

日本臨床心理士会運営による、日本全国のカウンセリングを受けられる組織・個人の検索サイト。

私の「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」もまもなく検索可能になるはずです。

(何日後かわかりませんが、アクセス可能になったらまたお知らせしますね)

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2006/04/07

「世界と恋に落ちる」技法

ともかく従来の関係性論には、まるで真空の中に自我やらsplitされた部分対象やらが浮いていて、「場の空気」やらた「気配」すべて主体の投影であるかのような人格図式論になってはおるまいか。

私はここである意味で、物理的・生理学的な実在論に立ち返ってみたい。しかも「宇宙空間ははエーテルに満たされている」という前近代的な宇宙観にたちもどろう。

(バリントも本のどこかで、マジに「エーテル宇宙論」を引き合いに出して、「四大元素」的な空間という「前ー対象」との関わりをベースしした、独特の対象関係論」あの、「友好的な広がり」という海の中でお魚のように生きていることを「あたりまえ」と思っている人々が多いので、「対象との空隙」を真空であるかのように感じて「生き(息)づらく」なっている人たちに、自由に泳ぎまわれる「水」として支える空間を醸成するの治療者のあり方を論じたのである。こっちが「息切れ」しない余力を確保しつつ「泳がせられる」までが大変ですが)

場を共にするは、同じ「地面の上に」立ったり座ったりしているということなのだ。そして同じ空間の空気を吸っているということで、それは相手の吐き出した呼気すら吸い込んでいるということである。我々は空気という媒体を伝染してくる音を聞くことで相手の発する「音」を覚知することがはじめてできている。

相手の体温の変化は即空気を通して私の体温調節にも影響しているはずであり、相手の皮膚や呼気から発散される湿っぽい空気を我々は実に浴びなければならない。場合によっては相手の唾の飛沫やら、あいての体臭すら吸引しており、特別な場合を除き、それら、大地と空気という媒体を通してしか他者とかかわっていない。

長野でのayuのライブで久々に自覚的に再体験したのだけれども、ステージに大仕掛けの華々しい衣装でayuがスポットライトを帯びて登場したその瞬間、ビックハットの空間には、一気にむっとするような妖しい「匂い」が立ち込めた。

そこにいる聴衆男女のフェロモンの大放出の、ほんとうにむわーっとしたすごく濃い「におい」である。香水の匂いなどではない。ほんとに、若い男女の毛穴から一気に噴出す、フェロモンとしかいいようがない。

もしこの匂いが日常空間で漂おうものなら気持ち悪い悪臭というしかない、動物的な匂いである。

そういえば、昔、映画館でも、場面がラブシーンとかになると、いつも「この」においが猛然と立ち込めたのを思い出した。

************

ホールボディ・フォーカシングでまず多くの場合立ち上がって感じるように求められている、大地のなかに支えられtりる「環境の」感覚とは、そうした空気の湿り気やかすかなにおいや室内の響き全体に支えられている自分の身体内部外部すべての感覚に身を委ねるということである。

それが、

大地にしっかり足をつけた感触を「足場」(枠)にしながら、からだまるごとそういう「世界」に身をひたし、その一ひだ一ひだのディティールを、「身体内部感覚」を含めた「五感を総動員して」まんべんなく「体感」する、ということなのだと思う。

これが、ケビンの「相棒」、ポール・ハウシルトが発したという

本の帯にもある、

「世界と恋に落ちる」

という過激なあおり文句につながるのである。

(このポールという人、芸人でも絶対食っていけるパフォーマンスの天才であることは、日本ではその片鱗しか見せていない。その、参加者を遠慮なくサカナにして繰り広げられるアメリカ風の、30分ぐらいなら即席で満場を一気に巻き込むトーク・ライブノそのアブナさについていけなくて、TFI国際会議行きをやめてしまった日本人すらいるとのことだが、実は繊細そのもののプレゼンスを秘めたデリケートな人である)


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というわけで、アフィリエイトは、ややなつかしの、伝説の作品でいきましょう!!

DVD トップをねらえ! Vol.2 <送料無料>トップをねらえ! Vol.2

(ああ、なんと言う不親切な解説なんだ。だから私の世代の特権で私の自慢のおまけをつけよう)

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2006/04/06

PiotrowskiにおけるM反応の定義

「立っている」それどころか「寝ている」であろうと、とにかく

「なんらかの意味で『筋肉の緊張』が感じられているはすの」『姿勢』として明言されれば、たとえそれが「静止」していても、立派な『M反応』である」

そして、まさにこのPiotrowskiの解釈を捨てがたく感じ、ラージM反応の多さとフォーカシング・アビリティの高さの関連について『体験過程と心理療法』の解説で示唆したのが、我が師、故・村瀬孝雄である。

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一緒にい続けるにはいつの間にか持続的にこちらも動き続けて行くに任せるしかない場合がある

これから当分、ホールボディ・フォーカシングについてすでに体験的に知っている人間にしかピンとこないかもしれないことを、お読みになる大抵の皆様には「不親切に」過ぎるほどに、「備忘録的に」時々書く為にこのブログを使うことをお許しください

(項は切り離しますが、ayuについてやオーディオ系についてもこれまで敢えて自制していたネタが、その中に「無秩序」に「乱入」すると予想されます。私の現在のオーディオ装置(予想外にシンプルですが、一種媚薬的な音の世界です)の全容と、そこに込めたポリシーの全面公開も考えていますし)

*****

「フェルトセンスとちょうどよい案配で「共に居続ける」ためには、身体そのものが結果的に少しずつ動き出してしまうことによってはじめて可能な場合がある」

このことをはっきリ指摘した点で、ケビンはアンを越えた領域に突入したそうに思える。

ただし、このことと、身体を「意識的に」動かすことや、無意識のままに動きに委ねることとの違いをほんとうに体得する前に、ホールボディ・フォーカシングは「身体が動く」ものという先入観を一度持ってしまうとむしろ厄介かもしれない。

敢えて堅い言葉を使うと、フェルトセンスというものそのものが一種の「ベクトル的」『志向性』を暗に内包しているものとして体験されることが多いことは間違いない。

それが身体の重心の掛け方のコントロールの全く自然な延長として実際の動きにもなってしまうという方が近いかもしれない。

****

あと、ケビンは、

1。grounding......自分が大地を通して「身体全体」が「世界」に「支えられている」感じ

をまずはベースラインとして十分体感できるように求める

ワークショップの通訳では「まわりに」と訳されていたけど、これは平易にしているようで、全くの「誤解」を与えるリスクの方が大きい気がする。

「『まわりに』支えられている」

では、

「周りの人に」

と言う意味に「しか」、

たいていの日本人は受け取らないではないか!!

そういう意味での「まわり」生きづらさ(「息」辛さ!)を感じてる人がカウンセリングにくるのではないか?

ワークショップに来ている人は世間の人とは違う、純粋な人、あるいは聖人ででもあるかのような幻想を振りまく訳語を私は取りたくない。


「環境に」という言語が難解なら、シンプルに「大地に」と意訳する方がいいくらいかもしれない。

本当は、バリント風に言えば、「地水火風」すべてとしての「環境」全体に支えられている感覚なのだろう。

これら「四大元素」の中で唯一、objection(抵抗、反発)のある個体であるところの「大地」の感覚を一番キーになる支えとすることそのものが、ある意味で、実は外界に対して開放系の水分とやわらかい組織でしか構成されていない、いわば「液体袋」同然の危うい「かたち」しか保ち得ない人体の感覚を味わうベースとして大事なのだ。

いわば大地を味わうことの反作用のようにして、まさに重力に逆らいながら、内蔵を支える骨格と筋肉とそこに張り巡らされた神経全体の不安定のなかにも統合を維持している「身体性」の精妙さへの信頼そのものを実感として支える上での「枠」が生まれるのだと思う。

その大地の上にかろうじて這いつくばることなく直立歩行して生きているに過ぎない人間同士の「関係性」などを基盤にしようとするからおかしなことになるのだ。

同じ大地に支えられ、かついろいろ苦労しながら引力に無理な抵抗をしながらかろうじて調和を保っている生き物であるに過ぎないことをそれぞれに体感しあっているというベースの上にしか「人」と「人」との関係性など論じ得ない。

幸い「大地」という言葉は「地面」などという無愛想な訳語に比べても、「自然の風景」の連想と結びつき易く、輪郭がないけれども実は生きて(息して)いくのに不可欠な風(=空気)や湿り気(=水気)全体を結果的に感受させてくれるという点でも「実用的に」好都合な訳語ではなかろうか。

****

1.この「大地に」支えられた「身体全体」という感覚、

そして、

2.身体への「まんべんのない」感覚-する-こと

3.そして、私流に言葉にすれば、その「身体全体の」感覚の中に生じてくる「局所的な感覚」の「所在」を認知して、それがその「生き場(行き場)」を自ずから在るがままにを許してあげて
おくこと

この3つを3重構造、およびこれら3つに交互に「平等に漂う注意」を向け続けるとした点、にケビンの技法の大きな鍵がある。

しかし、後2者のためには、実は、最初の「大地に」支えられている身体全体をじっくり味わうというベースラインをしっかり味わえることこそが決定的なのである。

私はこの最初の部分を集団でワークした際、その直前までは気になっていた身体の局所的な痛みなどは、消えはしないものの。背景に退き、全く思いもよらない「別の」身体の部分に、それまで感じたことがなかったような質の局所的な非常な苦痛が鮮明化してくることに当惑した(しかしこうしうたことがむしろごく普通であるとケビンも書いていることを後で知ることとなる)。

次のようなことが私にワークの現場で生じたのだ。

「頭痛」は気にならなくなり、左腕の付け根の強烈な凝りと痛み。まるで左腕だけが別の生命体として「ちぎれかかりながら」機能しているような。

それに耐えかねて、午後のデモ・セッションに私は遠慮なく志願することにしたのである。

私の身体が、私がこれまで体験したことがないような形で、私の心身の苦痛を体験しているという感覚は、それほどに「斬新な」ものだったのである。

それはケビンとのたった10分ほどのセッションで、身体に「何か」がはじまった。収拾し始めた。

*****

しかし、それは「はじまり」に過ぎなかった。

私はそれから一週間、ほとんど寝たきり状態で、背中の敷き布団の接している面に「支えられている」感覚、むしろそれを「苦痛に」感じている「部分」それぞれを認めてあげながら、身体のあちこちにに刻々と手を変え品を変えて生じるさまざまな生理学的な変化の感覚を次々とただ味わい。受け止めていく過程に「身を委ねる」しかなかったのである。

そして、やっと3日前になって、唐突に気分的には、長らく体験したことのない安堵と静けさに「抜けた」(身体の一部には、厄介な症状が丸一日続いたが、家にいる限りは特に困らない症状だった)

そして、タンノイの前に落ち着いて座って

「ああ、これがこの家で味わいたかった念願の居心地だ」

としみじみ感じながら、音楽を静かに流しながら1日かけてケビンの本を読んだ。

(さすがにこういうときはayuはかけません。クラシックです)

****

書いてあること、すべては、私の体験したとおりだった。


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2006/04/05

ホールボディ・フォーカシングこそフォーカシングの現段階での極北を含んでいる!!

とりあえずは、左サイドの書評欄の「檄文」を参照ください!!

(一度これくらい書かないと先に進めない!!)

ホールボディ・フォーカシングホールボディ・フォーカシング -アレクサンダー・テクニークとフォーカシングの出会い- 著者:ケビン・マケベニュ /土井晶子 出版社:コスモス・ライブラリー /星雲社

とりあえず、これも参照。

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年度はじめの辞

ここしばらく、自分のライフスタイル全体をこれまでとは異次元のものに変えていく必要に迫られ、ネットの方もお留守になるばかりか、職場への電話連絡などでも、ご迷惑をおかけした皆様が決して少なくなかったようで、ここにお詫び申し上げます。

その過程で、今後人生で繰り返し出会うことはまずないかもしれないくらいの、いろいろなことを「しのぎ切り」、気づかされることになりました。

おそらくそれについては、私の責任で書ける範囲のことは、ここでむしろ皆様とシェア(共有)させていただきたいと思います。

******

もっとも、その結果として生じた現状は、体調の(空前の乱高下の末の)安定であり、新たな幾人もの人との出逢いであり、新たな興味と関心の対象との出逢いであり、私の専門とする心理臨床へのスタンスの変化であり、フォーカシングについての新たな可能性との出逢いでもありました。

それについては折を見て、少しずつ何らかの形で、ここで言葉にしていけそうな気がしています。

自分がこれまで書いてきたことを、「今の」自分がどう「とらえなおして」いくか。まるでばらけたパーツをもう一度くみ上げてみたら、ずいぶん違う形でその部品が再利用される形になるかもしれません。

それは「片手間」ではできない、「手間隙(てまひま)」かかることになりそうです。


相変わらず、このアルバムが今一番しっくりくる私です。

●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)浜崎あゆみ/Startin’/Born To Be...(DV...浜崎あゆみ/Startin’/Born To Be...

このアルバムに収められた3曲目,"teens"、何とTRFのカバー曲なんですが、これぞまさに今のayuの心情であり、過ぎ去った時代を振り返る私の思い、そして、これから星空の下、私と同じ時代を共に生きるかもしれない人たちに捧げたい、大事なものが含まれているとおもいます。

"HEAVEN"とこの曲のアコースティックバージョンを長野でナマで聴いたとき、コンサートの後半で(!!)バラードを歌うときのayuのライブでの魂を揺さぶるインパクトと精妙さがここまできたか、「これはもう録音媒体には収まらない」と感じました。

■送料無料+10%OFF■浜崎あゆみ DVD【ayumi hamasaki COUNTDOWN LIVE 2005-2006】3/23発売今年のカウントダウンのDVD、つい先日聴きましたけど、おそらくayuの過去最高の「記念碑的」ライブ記録でしょう。

紅白の直後に、たった一回の取り直しの効かないライブで、最後までここまで完全燃焼しても燃え尽きない彼女。

こんな彼女に何がしたんだろう? 

ここまで、あまりにも抜きん出た領域に突き抜けて、それでも走る余力を残した彼女は、

なのにもう、「何かを背負った重さ」から解放されているのだ。

これは、騙されたと思って、買って決して損はしません。

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2006/03/15

5万アクセスを2日前に突破していました

このブログ「カウンセラーこういちろうの雑記帳」、おととし(2004年の12月19日にスタートしましたが、おととい、つまり、2006年3月13日(月)に5万アクセスを達成していました。今(3/15 am5:40)現在
、50257です。総記事数でいうと、「この」記事が330番め、1年4ヶ月弱かかったことになります。

今月に入って、私の生活の中でのエネルギーの振り向け方が大きく変わったため、ほとんど更新していないにもかかわらず、連日100数十アクセスして下さる方が途絶えない中で達成された数字です。1週間に1000アクセスのラインは決して割り込まなくなっていましたので、時間の問題ではありました。

アクセスの数そのものにはもはやあまり拘泥していませんが、

私の、時として傲慢にも、挑発的にも見える「カウンセラーらしくない」ブログを読んでくださってきた皆様、

トラックバックやコメントを返して下さった皆様、

そして何かの「ご縁」で、この記事が最初のアクセスになった皆様を含めて、

ありがとう。

そして、これからどう変化するかかわからないけど(?)、ともかく続けてはいくでしよう。

よろしくお願いします。

******

BGM(といっても私の心の中の)はやっぱり、浜崎あゆみの"alterna"でした。

私は【CD】HEAVEN/浜崎あゆみこれに収録されたアコースティックバージョンのリミックスが、しみじみ聴けてます。

(この曲には独特の思い入れができてしまいました)

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2006/03/02

「一社会人として」私が望むこと

ひとりの開業カウンセラーとして、

クライエントさん一人一人に、

何らかの意味のあるお手伝いをしてもらえたという「手応え」を感じて頂ける形で、

【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 寒水魚 (CD)「米を買う」(中島みゆき「時刻表」)

ことで、

生計を立てられるようになることだけです。


****


繰り返しになりますが。

●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)浜崎あゆみ/(miss)understood(通常盤)それ以外は、

「すべて飾りだった」(浜崎あゆみ"alterna")

と、「改めて」気がつきました。

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2006/02/17

「歴史」が、たいていの若い世代にとって「暗記科目」に過ぎない現状では.....(第6版 「エル・シド」の項大増補!!)

「侵略」であろうと「進出」であろうと、どっちでもいいでしょ?

といいたくなります。

そういう「言葉尻」が問題になるという背景には、

「歴史教育についての『統一見解』を『国家の責任』で作り、『国民に教育』する義務がある」

ということが「自明の前提」として含まれているわけですね。

......ということは、「歴史教科書批判」をしてくる国も、「それへの対応を迫られる国」も、

およそ、

「『正しい』「公教育」というものを『政府が検閲』し、正しい認識を『与える』べきである」

という大前提を、

政府も国民の多くも、暗黙のうちに受容してしまっている、

「不精な」国民・国家

なのだと、私は判断します。

*****

歴史上のどんな事件でも結構です。

例えば「トゥール=ポアチエの戦い」としますね。

西暦732年に、イスラム教徒国家が「フランク王国」にそれ以上進入しようとするのを食い止めた、という意味で、イスラム教国家の、ヨーロッパ大陸「西側からの」それ以上の「進入=進出=侵略」を不可能にした、世界史上の重大な転機がかこの戦いであることには変わりがありません。

しかし、恐らく日本の「大学受験生」なら、

1.この時のフランク王国がまだ「メロヴィング朝」であり、「カロリング朝」ではないこと

2.この時のフランク王国の実質的な支配者が「宮宰」(摂政のようなもの)の「カール・マルテル」であり、いわゆる「シャルルマーニュ大帝{カール1世)(追記参照)」ではないこと

(追記:私は正確には、これでは「シャルル『大』大帝」になることを知っている。「シャルル大帝」か「カール大帝」か「シャルルマーニュ帝」か、単に「シャルルマーニュ」にしないとおかしいのは知っている。しかし、それこそ、この「カール(シャルル)」帝へは、法王からの「ローマ帝国皇帝」の王冠を捧げられ(ゲルマン人初?)、孫3人に、今日の「ドイツ」「フランス」「イタリア」の原型となる形で国を分割相続する伏線となり、「カロリング朝ルネサンス」といわれる、旧ローマ帝国の学問・文化を積極的に復興することへの積極的貢献など、ラテン(旧ローマ帝国)系とゲルマン系を統合した意味での「中世ヨーロッパ」世界の「とりあえずの」確立において政治的・文化的に果たした役割のあまりの「巨大さ」から、「唯一無比の」の「カール」という意識が無茶強いので、「確信犯的に」、この、屋根屋を重ねる言い方を「好んで」いる(^^;)。

ちなみに、彼の祖父、いわゆる、「カール・マルテル」は、イスラム教徒軍勢のイベリア半島を越えた本格的侵入に)『鉄槌』かました『カール』」と言う意味で、後の時代の人が読んだことに由来。世界史的に大事なのは、何より「祖父(マルテル)」と「この人(大帝)」を混同しないことであろう)

3.この戦いを、「ローランの歌」で有名な、778年の「ロンズウォーの戦い」における「カール大帝」の「バスク人への」勝利と混同しないこと

4.しかしこれらの戦いの後にイスラム教国家が、即、イベリア半島から消滅したのではなく、「レコンキスタ」の完全な成功は、何とスペイン(カスティーリア王国)による1492年のグラダナ陥落までかかっていること。

..........ここまで掌握していれば、私の大学受験時代、私立文系の最難関といわれた、早稲田政経学部の世界史の要求水準を満たしていたでしょう。

(「以下の記述の中から、間違っているものを選べ」的設問の「引っ掛け」選択肢になりそうなのは、これらのポイントです)


(この20年の間に、偏差値の数字と受験学力との関係は「ものすごい大暴落」を起こしていて、当時の早稲田の政経合格に必要な水準の「受験勉強」など、今の日本の「どの」大学でも求めていない、「とてつもない」域であったことを忘れてはなりません)

ちなみに、「ローランの歌」は、これら「すべての」混同に加えて、イギリスの「アーサー王伝説」(6世紀から8世紀にかけて成立)における「円卓の12人の騎士」の伝説すら「一緒くたに」なって、しかも11世紀の「十字軍派遣」を背景に成立した叙事詩であります。

(以下アーサー王関係商品のリンク)
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ですから、この「ローランの歌」成立当時(のヨーロッパ人は、もはや自分たちの過去の歴史を「その程度」にしか掌握していない、まさに『歴史認識』における「中世の暗黒時代」にあったという点では、もはや同時代のイスラム教国家の歴史家の高度な客観性に全く歯が立たない状態だったみたいです。

(ただ、イスラム教国家側の王の武勇を賞賛する内容も含まれているので、ダンテの「神曲」が、ムハンマド(モハメット)が地獄に落ちた醜い悪者として描写されたためにイスラム教国家でも「禁書」扱いになっているのと同様な扱いは至っていないようです。

*****

ちょっと年号だけはwikipediaで再確認させていただきましたが、ロランの歌岩波版の「ロランの歌」の訳者の解説の部分まで読めば、こうしたことはほとんど全部掌握できます!!

副読本として、シャルルマーニュ伝説ブルフィンチの「シャルルマーニュ伝説」があれば一層パーペキです!!

なお、はっきりバラしますけど、「中世初期のフランク王国とイスラム勢力との関係」というのは、私が(後で詳しく述べるようなきっかけを経て、中学時代から関心を深めてきた特別「興味の深い」領域だから、wikipediaの助けだけで、即席でこの程度に仕上げられるという「だけ」のことですから(^^;)

*******

歴史的「叙述」というものには、およそどんな場合でも、その時代の「政治状況」や「国民的偏見」から自由になれません。

まして、歴史上の登場人物や階層、民族が「どういうと意図で」のそのように行動したか、という時限になると、結局、その歴史叙述をする人の「世界観」ばかりか、個人としての「価値観」や「もののとらえ方」によって再構成された「物語」であることとを私は決して越えられないと思います。

歴史や政治とは、どの時代のどんな特定の「事件」だけをサカナにしても、このような、羅生門芥川の「藪の中」(=黒澤明のジェネオン エンタテインメント 羅生門 デラックス版映画「羅生門」に陥ることに目覚め、人からの受け売りや新聞やテレビの報道を妄信しないことが大事だ、ということに気づき、自分なりにいろんな情報をいろんな次元で探したり、場合によっては「事件の現地や史跡や博物館の展示」に足を運んででも、「自分なりに」視野を広げることそのものに「醍醐味がある」のです。

そのことに目覚めさせないような、そんな「歴史教育」なら、無意味です。

例えば、「世界史」の時間の1ヶ月間が、例えば「トゥール-ポアティエ間の戦い」という一つのテーマに絞って、生徒ひとりひとりにネットや図書館とかを駆使して勝手に調べさせ、

先ほど述べたような、「果てしないくらいに無尽蔵な」当時のさまざまな社会的現実や事件との連鎖反応的関連について何でも自分なりにレポートにまとめ、「どんな方法で」それをプレセンテーションしてもいいとします

例えば、●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)ジョン・ウィリアムズ/アルハンブラ宮殿の思...ギター曲の「アルハンブラ宮殿の思い出」を弾いてみせる生徒がいてもいいし、

ひとりの生徒の提案で、何なら3コマ分ぐらいブッ通しで、映画、「エル・シド」の鑑賞会をしてもいいではないですか。

*******

エル・シド「エル・シド」は、私が子供の頃、偶然、テレビで見て、ともかく、スペインでの、イスラム教徒との戦いということだけは当時の私にもわかりまました。

迫り来る圧倒的な数の「海を渡って来た」イスラムの大群の脅威を前にして、自分の城で瀕死の身体でありつつ、「スペインの『英雄』であることを「一身に引き受けた」、エル・シドの、何とかスペインを守りたいという強烈な使命感と「今、生きて戦いに赴ける身体ではない」ことへの「断腸の思い」がひたひたと伝わって来たのだけは覚えていました。

そして、ラストシーンの記憶は失われていたのに、見終わった直後、とてつもない「衝撃」をうけたことだけは「身体が」覚えていました。

(そういう彼を支える妻の役って、ソフィア・ローレンだったんですね。主人公役がパラマウント ホーム エンタテインメント 十戒 スペシャル・コレクターズ・エディション「十戒」ベン・ハー コレクターズ・エディション <初回限定生産>「ベン・ハー」と同じ人(=チャールトン・へストン)なのは子供の私にもわかりましたが)。

私の、広い意味での、中世のヨーロッパ西方でのイスラム国家との戦いに関心を持つ「原点」が実はこの映画です

ただ、当時の受験参考書や百科事典水準の史料では「エル・シド」の名前を見つけられなかったもので、

この戦いは「トゥール・ポアチエ」か? あ、違った

あれ、「ロランの歌」の「ロンズウォー」でもないな?

いつ、どこでの戦いなんだ〜!!

などと模索するうちに、

フランス建国の父「とされる」、メロヴィング朝の「初代の王」クロヴィスからはじまる中世初期から中世末期に至る、ヨーロッパ人と、イスラム教勢力との「ヨーロッパ西方での」ぶつかり合い全体が「特別な」興味の対象としてどんどん育っていったのです。

******

一方的に出来合いのマニュアルに基づく歴史の流れを「通史的に」教える(これだけなら、受験勉強のためなら、講義より、参考書一冊読む方がよほど情報量多くて手っ取り早い)のではなく、

生徒各人が各人なりに歴史を「おもしろい」と感じる切り口を見つける「きっかけ」を作り、

通説や世間のその事件と関連する事項への「常識的理解」への疑問符、

立場が違えば状況が違って見える可能性

その歴史上の登場人物や民衆の心情への「感情移入的理解」のさまざまな可能性.......

,,,...などなどに気づかせるきっかけになれば、

それ以上立派な「歴史教育」(それどころか、「社会」や「政治」への、各自なりのもののみ方を養う訓練)はないと思います。

私は、その領域に詳しい人が、「私を」さらに納得させてくれることを言ってくれたら、たとえそれが小学生の言うことであったとしても、「敬意をもって」拝聴するつもりです。

そういう「出会い」がなければ、人生って楽しくないじゃないですか!!

******

日本史だと、これが「南北朝」時代への別格的な関心ということになりますが。

何しろ私は『小沢昭一が選んだ 恋し懐かしはやり唄』「青葉茂れる桜井の」(「大楠公」)を小学生にしてフルコーラス歌えましたし、今でも歌えます!!

日本の「軍歌」のほとんども、もし歌詞カードがあれば歌えます。

当時の政治は政治として、これら戦前の文部省唱歌や軍歌を避けて、日本の音楽史を語らないと、「卑怯」だとすら思います。

日本神話を「教え『ねばならない』」という考えには反対ですが、

自国の神話や伝説について個人個人が学ばないでいるとすれば、『もったいないなあ』と思うし、少なくとも、口語訳古事記『古事記』なんて、素晴らしい『文学作品』だと思いますが。

(図説地図とあらすじで読む古事記と日本書紀この本なんて日本神話と大和朝廷がほんとうに安定するまでの歴史/文化/社会/文学についての入門書として、偏らないさまざまな見地からの理解への道を開く、図版盛りだくさんの、簡潔ですごく読みやすいたいへん上質の『記紀』入門書です)

これらを教えるだけで『右』とみられる場に教師がいるのなら、その先生、わかいそ過ぎますね。

*****

もとより私個人は、政治的には「ある意味では急進的、でも現実主義的慎重さを失わない『リベラリスト』」そのもののつもりです!!

*****

でも、靖国神社隣の「昭和館」は時間をかけてじっくり見ました(政治的な中立性を十分に保った展示がなされています)。

弘前城の場内展示された「仇討ち」の資料の話はこの前の記事のコメントの最後の方で書きましたし、

私の友人が住む、水戸を訪問した際、常盤神社でも、歴史上の事実としての「黄門様」の解説や自筆の手紙の文面を読めたのは楽しかったですね(^^)

そろそろ偕楽園は梅の季節でしょうか?

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2006/02/11

とことん興味本位であることが本当に「身につき」「使いこなせる」」(+ iTunes Music Store の隠れ技、公開!!)(第9版)

最近一時期の書き込みのペースが落ちたとお感じの方もいるかもしれませんが、別に本業が忙しくなって来たからではありません(^^;)。

「顧客さん」を「増やすために増やす」つもりでのネットへの投資はあまりし過ぎたくないし、マジ、体調の関係で、もし今の2倍のクライエントさんが来たらまだ身体が持たないでしょう。

むしろ、当面書きたかったことを「やっと」かなり書き尽くしてそれなりに満足したというのが大きい気がします。

*****

本業そのものは「ぼちぼちでんな」というところで、時間が空いた時は、読書などの、ある意味では「先行投資」的活動の方が多いでしょうか。

ちなみに、その多くは歴史書や日本/世界問わず、歴史関係の20世紀半ば頃の代表的かつ独創的な研究者の著作か、日本語訳だけど「超古典」に属する「原典」ですね。

例えば、今の今、並行してかわるがわる(! )読んでるのは、まずは、

gariasebki
カエサルの「ガリア戦記」

キリスト生誕を遡ること50年前、「紀元前」に、実際戦争の将軍をやったカエサル(シーザー)「本人が」刻々と「戦況報告」としてローマの元老院に送ったものをその直後に本人が推敲したと考えられている!!

古典ラテン語の代表的教科書であり、その簡潔な、主観を排した文体は「歴史記録の鏡」とまで言われる。

キリスト教以前の政治家がどういう倫理観で、すでにローマの脅威になりつつあった「ゲルマン民族」および、ゲルマン民族とローマとの板挟みにあった、今で言うフランスにあたる地域の「ケルト民族」をはじめとする「先住民」という、異世界の族長や将軍たちと、実際戦闘に入る前に、どのような賭け引きや裏交渉をしたのかまで生々しく伝わる、統計的数字にも誇張がない、カエサルその人が、恐ろしく「醒めた知性」の持ち主だったことが伝わる、ある意味で凄い本である。

欧米人の根底にある異文化相手の国際政治観/戦争観を、古代最高の軍事制度システムを持った「超大国」の、これまた最高の現実主義的「政治的/軍事的知性」を持った人間が、自ら書き残しているという意味で、この本など、今の時代にこそ、日本人に読まれるべきだろう。

なお、「ケルト民族」は、こうしてローマに支配が及ぶ中で、今で言うフランス中部あたりからブリテン島や今で言うフランスの辺境地区などに本格的に移住。

【Rock/Pops:エ】エンヤEnya / Watermark (CD) (Aポイント付)エンヤの音楽で一気に日本でも脚光を浴びたケルト人(=実はローマ人にとっての「ガリア人!!」)は「イギリス由来の」ものでは「ない」のだ。wikipediaによれば、インドに近い中央アジアから移動して来たケルト人そのものが先住民を制服し、現在フランスの中央部にあたる地域を占領し、一度定住したたのである。

その「一部」が「将軍」カエサルをはじめとするローマ帝国の拡張もあり、以前から進出していたブリテン島とアイルランドに「本格的に」移動し、先住民をまたもや征服して定住、そして更に後から流入して来たアングル民族、サクソン民族に支配の優位を明け渡す、しかし、イギリス/アイルランドをはじめとして、今もケルト語系の言語を日常語とする層が、何十万人もいるのである!!

実は、文字文化を当初持たなかったケルト人が、ローマの進出の中で世俗化し、方言化したラテン語を早くから話しはじめた場所にこそ、例の「中世ロマンス語」圏の成立が始まるのである!!

keltojinnnogariasenkiちなみに、ケルト人の立場で史料を読み込み、ローマから「侵入される」過程をとらえてみた、
「ケルト人のガリア戦記」(原修二 著) という本、届きました。図版も豊富で、ケルト人側だけではなくて、ローマ側の文化や政治機構についても客観的、かつ、劇画タッチの図版盛りだくさんの視覚的に訴えるやり方で解説してある、「ガリア戦記」の副読本としてこれ以上考えられないくらいの絶対のお勧め本

***

次に、

sezokushijindante
アウエルエルバッハの「世俗詩人ダンテ」と、

ブルフィンチのシャルルマーニュ伝説「シャルルマーニュ伝説」です。

コーラン(上)改版コーラン(中)改版コーラン(下)改版井筒俊彦訳「コーラン」はいつ届いてもいいはず。

私にとって「世界史」って、受験勉強ではなくて、そういう興味本位の読書で形成された「好きなもの」です。ただ、なぜか、「歴史小説(ふうのもの)」はほとんど読んだことないです。


でも、気がついてみると、後にイスラム教の影響も強く受ける「南ヨーロッパのロマンス語地域」という一点で、私の最近の読書傾向は「交差」してます
ね(^^;)。

ほとんど「ロマニスト」です。

「ロマンティスト」ではなくて、

「『ロマンス語系』文学研究者」のことらしい。

上述のアウエルバッハの本は、『神曲』はヒルティの影響でとうの昔に手元にある(「天国編」は読まないまま)ので、「ダンテ関係」ということで「勘」だけで楽天ブックスで選んだんだけど。

実は今世紀最大の「ロマ二スト」の処女出版らしい。しかし、これを「楽しく」読める人は相当歴史や哲学思想に「ロマン」を感じて自分から接して来た人だろうと思う。

でも、精神分析の精神分析の方法(1)ビオンの翻訳に比べたら、私には遥かに、遥かに「楽しい」本です。訳者の、かつて心理臨床学会の個人発表で座長をお願いした藤山直樹先生、ごめんなさい(^^;))

*****

大長編ローマ人の物語(1)「ローマ人の物語」で著名な、「学者」の書いた「学術書」ではなく、「歴史教養書」の部類と思われる著作活動を続ける塩野七生も、すでに2年ぐらい前に読んだコンスタンティノープルの陥落「コンスタンティノープルの陥落」だけ。


「ガリア戦記」とか、なぜこれまで私が読んでなかったのがむしろ不思議なくらい。

歴史(上)歴史(中)歴史(下)ヘロドトスの「歴史」

(ギリシャ時代、ペルシャ帝国滅亡後に、当時の中近東地域を「実際に」訪ね、当時のクフ王のピラミッドやスフィンクスの印象、ミイラの製法までこと細やかに書いている。まだクレオパトラよりずっと前の時代、今日の「風化が進む前の」スフィンクスやピラミッドを実際に見ているのである!!)
ゲルマーニア改訳タキトゥスの「ゲルマニア」

(これもローマ時代当時、実際にケルマン民族地域をを旅してはいないが、当時「蛮族」と見られていたゲルマン人を含む北部ヨーロッパ人への敬意を持って書かれた)、
インディアスの破壊についての簡潔な報告ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

(これまた、何とコロンブスの航海に「同乗」した宣教師という同時代人による、宣教師であるにもかかわらず、披征服民へのスペインの政策を批判し、変えさせようとする政治運動を実際に続けた当事者による「現地報告」)

とかは、高校時代にとっくに読んでるのに。

.....あ、そうか!! 見地を多角的にするには、

中世イスラムの歴史家、イブン=ハルドゥーンの古典的歴史書、

歴史序説(1)「歴史序説」も注文しておこうかな)

****

何か、「ひけらかし」みたいで気が引けますけど、

こういう本をいつも「楽しんで」読む人間が、学校教育の枠にはまらない面があったことは、想像して頂きたくて。

私はこうした「歴史好き」と同じようにして、浜崎あゆみや中森明菜や松田聖子やクラシック音楽や鉄っちゃんやアニメをや実写映画を、

そして「フォーカシングを」

「楽しんで」いるだけなのです。

そして、そういうふうにして(強制ではなく)自分の好奇心のままに「身につけ」た時、人はそれを、「仮面」としてではなく、自分が主人公となる形で「身につけ」られるのだと思います。

「優等生」の中に囲まれているのが、苦手で、もの足りないし。エリート主義者でもない、

自分がなりたいものになってきた(注:ただし現在進行形)その成り行きで、現在ただの「在野の一臨床家」をしていることに心から納得している私の心境をお伝えしたいだけです。

これが、「健全な」自己愛を育んだまま、強迫性ともまた別な探究心を失わず、「時には」したたかかつ自由に、「社会的ペルソナ」を使い分けることそのものを「遊んでしまう」生き方、ということになるかもしれません。

そこには、劣等感コンプレックスの裏返しとしての、みせかけだけ自分を「人より上位の」人物に見せたい欲求など(時には生じても)、

結局、

「ズル」や「カン二ング」で動くのは『つまんない』や」

という気持ちの方が勝ってしまい、

「ね、ね、僕、すごいでしょ?」

と、まわりに無邪気に「ほんとは」思わず口走りたい、3,4才の頃の私が、ただその上に「経験値」を積みあげると同時に「年食った」だけの存在として、そこにいるのだと思います。

(直前の部分、第3版と第4版で表現を大きく変え、タイトルも変えさせて頂きました。今の今、「はじめて」言葉にできたことです)

そして、

浜崎あゆみが、今、

「みんなに見せたい『景色』」

とは、

そのことではないかと。

「オリジナリティ(originality)」って、

「本来的、始源的」

ということであり、

「人と違う」

ということとは本来関係ないんではないか?


(以上、第5版で追加)


******

さて、話題を変えます。

「検索ページ上位掲載率増加」のための対策にも、信頼できる「大手の2社」に投資していますが、それも「むやみな掛け金」ではないんですよね。金を積めばもっとアクセス数増えるのはわかってます。

楽天から得られる「楽天通貨=ポイント」の収益は、私は次第に何をどのように、どのようなやり方をして、楽天を通して(通さずに)買うと、「必要な、今後絶対投資した見返りがあるもの」を買えるか、のコツが見えてきました、

もっとも、もう、本以外はこれからの自分の生活に必ず役立ち、「減価償却」できるか(税理士事務書取り仕切ってた父が、私が母親の胎内にいる頃から、何千回、何万回も、繰り返し口にする中から「理屈抜きにしみ込んでいた、「経営用語」である)という観点から揃えたかったものは揃えたので、むしろ楽天での買い物額自体は一時期より落ちているでしょう。

アフィリエイトは、自分が紹介したい商品を紹介しているだけですから「料率狙い」はほとんど全くしません。(「一カ所だけ」意識的に本部トップページでやってます)


ところが、楽天の方、気がつくと、やり方次第で結構ぎょっとするポイント還元が得られる「からくり」も自分なりに見えて来た気がするのです。

(例えば、毎月、小額でいいから各コーナー「満遍なく」利用するとか。私は「ゴルフ」と無縁なので「倍率5倍」までしか持っていけないのが残念ですが)

いきなり「ひと月○万ポイント」に跳ね上がって来て、驚いているのです。

こうした「どっと還元された」分については、どうしても読んでみたいけど価格の関係で先送りしていた本(中古市場/フリマも点検する)や、「効果」確実で継続購入することにした消耗品(消臭剤とか)のまとめ買いなど、「確実な先行投資」にむしろ「手堅く」使っています。

*****

CDは、ayu以外で、よほどの高音質で聴きたい場合を除いては、すでに繰り返し触れるようになったiTunes Music storeでまずは探すように急速に変化しました。

ただ、もともとクラシックはかなり偏ってるし、J-POP系はアーティストによってある人とない人の格差が、今の段階では日本人向けには極端で、まだ日々刻々とレパートリーを増やしている段階ですね。

でもこのレパートリーの幅の問題が「ある程度」解決した瞬間、

若い世代は

「音楽を聴くためにiPodを多少無理してでも買う」

時代に雪崩式に一気に流れ込む

かもしれません。

中島みゆきはCD高めのままなのに、何と"Singles""singles II"以外「全部」あります。30年かけた30数枚のフルアルバム、そして新譜のシングルまで「すべて」があります。

みゆきは本質はアルバム・アーティストですが、有名曲でもなぜかアルバムにないシングルのみの曲(例えば「「誘惑」)があるので、「全曲購入」に恐らく10曲ぐらい足りないのかな?

あと、ライブの「夜会」シリースは別です。あれは、今や、映像が残っている限り、DVDの映像で売りに出されるべき思います)

浜崎あゆみは、1stと2ndのフルアルバムの内それぞれ何曲かはまだですし、リミックスとベストアルバム、シングルCD時代のB面曲、一部のマキシシングルにしか納められていない曲を除くと「すべて」あります、何より、新発売の"(miss)understood"すら買えてしまう

(ちなみに、「CDの場合」、このアルバムに収録された曲でマキシシングルで先行した曲、すべてリマスタリングされ、音質は向上し、楽器間のバランスとかも再吟味されて統一感が出るようになってますから!! そして、曲順とかにも明らかにそこのひとつの「コンセプト」が与えられている。そして、アルバムでしか聴けない曲にこそayuの本音がストレートに出ているのは今回も同じ。

つまり、ayuも本質は「アルバム・アーティスト」です。だから、今後フルアルバムに「必ず」マキシのプロモーションビデオが収録されるとならば、焦らないならマキシではCDのみで、DVDとセットのを買わないままフルアルバムを待つのも手です。

しかし、ayuの場合は、PVが曲のメッセージを「補完」していることが多いので、ayuの「神髄」に「リアルタイムで」迫りたい人、ayuのためなら出費を無理してもしていいというに人は、今後も、シングル段階での「(CD+DVDのセット買い」がおすすめです)

*****

ITunes storeの話題に戻ります。

このように、最新フルアルバムまでラインアップに既にある浜崎あゆみとは対照的に、同じavex所属でもはや売れるCD枚数も浜崎あゆみより上かもしれず、曲のアレンジ、ライブでのパフォーマンスに至るまで、すでにayuと異質な存在感を歴然と示している、「ほんもの」のアーティスト(本人はこの言い方、好まないでしょうが)である、大塚愛の場合だと、■送料無料■大塚 愛 CD+DVD【LOVE COOK】12/14同時期発売の最新3rdフルアルバム、まだiTunes Storeで出し惜しんでますものね。「ブラネタリウム」もシングルですらまだ。

(この違いは何かというと、浜崎あゆみは満単位の会場での、かなりハードな日程のコンサートツアーでほぼ満員になる「集客力」が今もある(「追加公演」すでに公示されましたものね)ので、「CD では稼がなくていい」、でも大塚愛は、ライブでもお客さんを楽しませる才能はあるが、もっと小さめな会場向きだし、結果的にもチケットでは浜崎あゆみより「稼げない」ので、新作をCDでしか買えない期間を長期化して、CDの売り上げから収入を得たいという、avexのまことに健全な企業戦略の結果生じた違いに過ぎないでしょう)

ちなみに、レコード会社は別だけど、iTunes Storeでダウンロードでき出したら、確実にNo.1ダウンロート数を築くはずの「世界にひとつだけの花」という切り札を持つSMAPは、まだ登録ゼロです!! 会社とAppleの交渉がまだまとまらないのでしょう。

iTunes Store圧倒的に強いのが、「英米音楽、しかもクラシック『以外』系」であることは言うまでもないことのようです。何しろ、「日本の」ストアにはまだPVは一曲も置いてないので、第4世代iPodのビデオ機能は「合法的には」(!)活かせないままなわけです(パソコン用AVソフトで署名な某社は、すでに公然と「コピーソフト」を出してますが)。

しかし、トップページではなくて、「パワーサーチ」の方に回ると、何と倍以上の「隠れジャンル」検索があるんですよ!! これはどの国のiTune storeであるかを「越境した」データベースのようで、日本円で、JCBで、最初のダウンロード契約を国別とかでやり直さなくとも、そんまま購入できてしまいます(たたし、値段設定が日本円ですっきりしてますから、恐らく日本版ではアクセス不能な曲はたくさんあるのだと思います。iTuneを「英語版として」セットアップして、AMEXやMasterのカードで英語で登録するとどうなるかは、まだ実験してませんが(パソコンを2台持っていて、OSも同じにして、ダウンロードした曲のファイルの「置き場所」さえ共有してしまえば、論理的には日本版とアメリカ版、いや、ドイツ版すら動かせるはずで、そうなればクラシックのレパートリーもよほど広いかもしれませんが(^^)、まだやってません。

でも、現状でも、"Germann folk"とか、「日本人の多くに未開の広野」が、首都圏の巨大な輸入盤屋さんをたよらなくても、ともかくそのジャンルの代表的なものはあるみたいです。

****

そういう中で、今私が突如関心を持った「ある」音楽ジャンルが、前回述べた「○○○(中略)○○」です。

などと、「この」ネタ、まだ先送りにして練り込んでからにするつもり!!

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2006/02/05

「資格」とは、「コネなし」で社会的に「就労活動」する上の最低限の保障となる「パスポート」であるに過ぎない、とも考えられる(第4版)

再び「資格制度」についてなんですが、

たとえそれが「国家資格」であったとしても、それが「就職活動」をする上での「決定的切り札」にはなり得ない

ということは、専門学校や大学の卒業前に就職活動した人なら、みんな身にしみて感じておられることだと思います。

今や留学した経験とか、TOFELでの得点すら、国際的な仕事をする上で「ないよりまし」程度のものだ、ということも、それらの経験や高得点をお持ちの方はご存知でしょう

(どうしても語学力が必要なら、会社に入れてから会社の経費で「研修」で仕込む方が効率がいいと「企業」もわかっているのです)

「資格さえあれば食っていける」というのは、例えば弁護士や、医師のような超高度な資格の場合ですら、「幻想」といっていいわけですね。

******

ある臨床心理士の人と、資格がどうであるかとカウンセリングの実力は無関係、という話で盛り上がったことがあります、

しかし、その人が次の話を始めた時、私は心の中でその人を「軽蔑」しはじめ、凄い「興醒め」を味わいました。

「私の元でみっちり学んでいたその人、臨床心理士ですらなかったんだけど、『よいスクールカウンセラーを捜している』という学校の校長先生に、私が「この人なら大丈夫です」と紹介したんですよ、そしたらやっぱりその人、その後その学校ですごく評判のいい『スクールカウンセラー』として活躍しているくらいだからね」

(あのさー、それって、まるであなたの手柄話にしか聴こえないんですけど。それに、要するにその人、自分でその学校に志願したわけでもないんでしょう? もし、それなら、あなたがそういう立派な弟子を育てたことを自慢する資格も一応あるかもしれないけど。それに、それって結局、あなたの「コネ」が効いた、という話でしょう? 「コネなし」でも最低限の就労資格の「パスポート」として「売り込みに使える」ことが、『資格』の存在意味じゃないかしら?)

私は、もう、疲れていたので、このことをその方に言葉で言い返す気力も無かったし、

「『やっぱり』この先生は、『ここ』が限界で、クライエントさんの『この種の』問題すら超克できるカウンセラーを、育てることできないでいるんだよな〜 自分が「セクト主義」の反体制気取りに過ぎない「小山の大将」だって、はやく気付いてほしいのになあ」

なんて、よほどの覚悟と適切な「場」でないと、面と向かって、こちらから言葉にできませんものね!!

(注:以前も一度使った、「山の大将」、とは私の「新造語」です。「実は『世間が狭い』のに、自分を崇拝する人を身の回りに集めて自己満足している、その崇拝者たちの真の自己実現を疎外すらする人のこと」を指します。もちろん「固有名詞」ではありません!!)

その「結構『業界』で著名な」先生と、その弟子の方に、この記事が目に入ることを念じつつ

*****

BGMは、自戒の念を込めつつ(^^;)

そして我が福岡が生み出し、教育実習生としてわが母校に赴任、全生徒の前での体育館での「教生先生(=教育実習生)」とのお別れ会で、「目の前でギターを弾き語りした」はず、と、元クラスメートから伝え聞いて、私ははっきり記憶になかった(^^;)、
海援隊『あんたが大将』かの武田鉄也さんの名曲、『あんたが大将』でした(^^;)

この歌は、私の高校時代からの「代表的」カラオケレパートリーです(^^)

(別に体育館で目の前で武田さんが歌ったらしいのがこの曲、ということではありませんよ。でも、この曲、最初はアルバムにの中の一曲だったのに、ラジオでのリクエストを通してどんどん人気が出て、シングルカットに至ったという、ほんとうにリスナーが名曲として「発掘」したエピソードは結構知られているかも

カーペンターズのThe Carpenters『Top Of The World』”Top of the World"もまずは日本のファンの間で人気が出て国内限定でシングルカット、そして本国でもシングルカットという、ファンが見出した「名曲」であることは、
karen
私の読んだ伝記に、

「本人たちも日本で火がついたことに驚いた」

と明言されています)


******


さて、「あんたが大将」に立ち返りまして、


"ストレートに言わせてもらっちゃあ、何ばってん、

(中略)

parhaps ,may be,あんたにゃ、わからんめーもん!!”

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2006/02/04

「医療心理士」と「臨床心理士」と「医師」についての資格問題の記事、重要な増補改訂

前回の、上述の問題についての記事本日改訂の「第3版」で、重要な増補改訂をしましたので、是非お読みください。

これは狭い意味での「資格相互間の問題」ではなく、

「資格を所持すること」、

そして、

およそ「法的にみて」人を指導する立つ権限を持つこと

全体についての、

私なりの「倫理観」と「実践」具体的に述べた、重要な書き込みのつもりです。

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2006/01/31

フォーカシングの基本にある、ジェンドリンの体験過程理論についての「画期的な」業績がWebで公開されています。

技法としてのフォーカシングの背景にある、

ジェンドリン体験過程理論の成立過程と、理論の理解についての、

日本人による「画期的な」業績、全文がネット公開されています。

著者は、田中秀男さんです。

*****

1.ジェンドリンの初期体験過程理論に関する文献研究(上) −心理療法研究におけるディルタイ哲学からの影響−

2.ジェンドリンの初期体験過程理論に関する文献研究(下) −心理療法研究におけるディルタイ哲学からの影響−

3.「直接のレファランス」の「直接の」って? −「レファランス」と「照合」の異同を見定める−

*****

田中さんご本人によれば、

「1.と2.は、ジェンドリンが、

・大学院時代にどんな哲学を専攻していたのか、どんな目的意識を持って、哲学から臨床の世界に飛び込んだのか。

・哲学科で培った思考法を心理療法研究の変数の取り方にどのように適用したのか

・哲学科で培った思考法を心理療法理論の理論化にどのように適用したのか

について、あつかったものです。

扱った文献は、 ジェンドリンの修士論文・博士論文、シカゴ大学内部資料などです」

******

以上、田中さんご本人の承諾の上で、日本フォーカシング協会、メーリングリスト、"focusing-net"への田中さんご自身の書き込みから紹介させて頂きました。

ANAエコ割_あなたらしい旅しませんか?_125*125

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2006/01/30

ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史)(第5版)

グラド プレステージシリーズ【税込】 SR325I(GRADO) [SR325IGRADO]【0127アップ祭2】GRADO SR325I

私の愛用する「iPodで使っている」ヘッドフォンの中の「横綱」をついに紹介します。

この製品のアフィリエイトを張っている楽天Joshin Webさんは、ネット上で売っているヘッドフォンの選択という点では、ちょっと他に類例を見ないセンスで商品を選んでいます。既に私が紹介したヘッドフォンの幾つかもここに含まれています。

でも、いつもここで買っているわけではなくて、ほとんどはお店で実際に試聴しないと私はヘッドフォン買わない主義なんですよね。

ホントに比較的最近になって、私が他の店でiPodで(!)試聴して合格点を出した製品の多くが取り上げられていることに、アフィリエイト・リンク探す過程で気がついた、という順序なんです


*****

学生時代(まだアナログ全盛の頃です!!)から非常に長い間、今はすでにとっくに製造中止となっている、ゼンハイザーの「黄色いイヤパッドの」ミドルインピーダンスのオープンエア.....といっても、かの名器410(だっけ?)でないあたりが、私のチョイスの、「絶対に自分の耳しか最後には信じない」ところですが......を、製品が自然に壊れるまで(要するに、振動板が経年変化でへなへなになってまともな音がしなくなるまで.)愛用していました。柔らかめの、ビニールに近いブラスチックの製品なのに、1000円もしないイヤパッドの交換さえし続ければ、例えば、誤って踏んづけるとかしても(^^;)、ちょっとやそっとでは壊れない製品で、この超シンプルな原理での「柔構造的堅牢さ(????)」はもはや今のゼンハイザーにはないものです(^^;)

でも、その私が、学生時代から、

「ゼンハイザーを凌駕するとすればベイヤーだな」と、

お金がないのに、自分の耳「が」うらやましがっていたのは確かです。

ゼンハイザーが「モニター的」というより、「音の演出のうまさ」で酔わせるというのは全然変わっていないあたり、凄すぎる「ブランドの誇り」、全然変わってない!!

そういう意味では、「年代物の」グッチとかを大事に使い続ける、「本物のブランド志向」の女性の皆様のお気持ち、理解できます。

つまり、時代が変わって、デジタル全盛、そしてiPod旋風の今に至るまで、この2社、音のポリシーの基本は「頑固一徹なまでに」変わっていないわけです!!

*****

私は、中学1年時代(1973年ですね!!)に、父親からのお下がりの「会話録音用」モノラル携帯カセットレコーダー(そうですね、「新書版サイズ」で厚さ4センチぐらいだったかと。マイクは内蔵されていない)に、「片耳のクリスタルイヤフォン」で、交響曲を聴いていた(!!!!)という、

ウォークマン登場より「遥か以前」からの「モバイルオーディオ愛好者」

です!!!

これはどiPodを語るにふさわしい人物は、滅多なことではいない!?

父親は、特に音楽好きではなくて、オーディオマニアでもない。チューナーとアナログブレーヤー内蔵のアンプでスピーカーだけはセパレートできるシスコン(という言葉もなかったろうと思う)で歌謡曲や軍歌や演歌を聴く程度の人間でした。

ただ、当時はビクターからでていた8枚組の、豪華な装丁の「クラシック音楽全集」(何しろ、この前書いたように、カラヤンを排斥しようとしたヴァイオリン名曲集ハイフェッツの「メン・チャイ」「ツィゴイネルワイゼン」(ここでは敢えてこれらが少しずつ聴ける抜粋盤を紹介しました)とチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番ルービンシュタインの「チャイコの1番」ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」/シューベルト:交響曲第8番「未完成」ミュンシュの「運命/未完成」(「未完成」はものすごい名演と今でも思ってます)【音楽CD】美しく青きドナウ~ウィーン・フィル・シュトラウス・コンサートカラヤン/ウイーン・フィルのワルツ集が含まれる!! 私のクラシック音楽との出会いって、今から思うと凄く高水準のものだったことになります)、 

そして、この前紹介した【音楽CD】アンセルメ/ビゼー:《カルメン》《アルルの女》アンセルメの「カルメン組曲/アルルの女組曲(ただし後者は抜粋)」と、「ウィーンフィルの10人の偉大な指揮者たち」という1枚ものオムニバスのLP(これに該当するもには今は出ていないみたいなので、ウィーン・フィルハーモニーと名指揮者たち新装版タイトルがそっくりの本(写真集みたいです)をご紹介)、

さらに、これはさすがに「ロンドンレコード(キング)」に発売元が移ってからの。【音楽CD】チャイコフスキー:組曲《白鳥の湖》/情景(第2幕) ワルツ(第1幕) 小さな白鳥た...カラヤン/ウィーン・フィルの「白鳥の湖」「くるみ割り人形」組曲抜粋

さらに、なぜかSPで「庭の千草」と「ソルヴェークの歌」が入った奴、

そして、通信販売の「ソノシート」で4枚組の。たしか、クルト・ヴェスという指揮者とベルリンなんとか交響楽団の「新世界交響曲」全曲、

以上、クラシックは持っていたんですね。

でも、親がそれを自発的に聴いていた記憶はないです。

ただ、『マドンナの宝石』フィドラー/ボストンポップスの「ベルシャの市場」をかけてくれと私が繰り返しせがんでいた幼き日の記憶はあります。

そして、中学1年の時、学校の音楽の時間で聴かされた、先述のビゼーの組曲「アルルの女」で、完全にクラシック音楽に突如目覚めます。

「そういえば、うちにもあったな」と。

だから、アルルの女は、主人公フレデリばかりではなくて、私にとってもFemme Fatale(ファム・ファタール=その女と出会った為にその男の人生が悲劇に至る「宿命の女」)なんです!!

もっとも、「幸せな」出会いであり、何の後悔もありませんが(^^)

父も、実はそれまでは、私が自分でステレオ(「ステレオ」=一体型の装置全体を差す)で「レコード(=LP、EPの円盤のこと)をかけると怒っていたのですが、私がクラシックファンになった途端に自由にさせてくれ、「あ、この音じゃ、針がもうすり減ったんだ、買って来てやる」といろいろ世話を焼いてくれる始末。

そういう、私の「自発的興味」にはひたすら「阿吽の呼吸で」「投資する」親でした。思春期以降、何かを押し付け、命令してくることは皆無。まさに「空気のように」私を助けてくれたのです

今でも.....かな? でもさすがにこの歳にして「直接の仕送り」「借金の肩代わり」とかは全くないですよ。

楽天への「投資」と楽天からの「利益還元」および「借り入れ」「返済」でバランスとってます(マジ!!)。

「アフィリエイトの現金収入」は「リンクシェア」さんのがそれでも一番多いかも。要は「楽天社会主義経済(???)」が私の経済の「結構」重要な部分です。正直なところ、このブログでアフィリエイトした商品の9割は、「すでに自分が同等品持っていた商品(たいていJ-POPや異常に偏った「洋楽」やクラシックのCD、DVDや本)、あるいは「持ってもいない」商品です。職場および自宅から歩いていけるヤマダ電気大船店の方が楽天より(更に、交通費が数百円かかるヨドバシより)安いパソコン関連や家電商品はそっちで、できるだけ「現金一括で」買って、「ヤマダの(ヨドバシの)」ポイント還元を「最大限に」生かすし、JCBカードのポイントも今やみんな楽天で「5倍で交換」できちゃうし、いわゆる「100円ショップ」も頻繁に器用に使ってます。

なぜか「米の蓄え」は1,2年分ではすまないくらいにある(これこそ「こういちろう最大の謎」かも)。服は紳士服量販店で「しか」買わない。中島みゆきやayuの旧譜コレクションのかなりは中古で集めたもの。1000枚を越すクラシックCDの大半は一番円高の頃(10年くらい前?)に輸入盤あさりしたもの。世界史は「気がついてみたら」学年どころか全国模試2桁の順位。国語はこれまた「なぜか」共通一次198点。今普段乗ってる自転車は楽天フリマの落札品。出張時の宿も楽天トラベル楽天トラベル(旧「旅の窓口」)経由で安いのや早割のしか探さない。東海道新幹線はこだまの自由席、小田原乗り換えしか普段は使わない(「滅多に隣に人が座らない」快適さ!! のぞみに追い抜かれるためのほとんど各駅の長い停車時間は、電波は絶対強い場所だし、「使い放題のモバイル」に最適環境!! すし詰めの指定席に「たった1,2時間早く着くために」乗るメリット、ストレス増やすだけで何もなし)。夜行寝台は料金同じのB「個室」の早期予約こそ最高!!福岡への帰省はそりゃもちろんスカイマークの早期予約が最近は多い!!

 「だから」(どこが!!)楽天の「画像表示可能なアフィリエイト商品リンク」に興味を引かれてこのブログ始めたんですよ。いずれにしてもライブドアでなくてよかった(爆))

*****

話をもとにもどします。

それくらいの筋金入り

「音楽を『イヤフォン』できいて持ち歩く

先駆者の大学生時代まで。

当時は当然CD規格そのものがまだ「なかった」わけで、秋葉原のオーディオの店(当時は完全に「オーディオの街」でした)では、数台のアナログブレーヤーを音源としてスイッチ切り替えで試聴できるという、現在では想像もできない売り場の光景がありました。

その10年間の間に、かの「携帯カセットプレーヤ」としてのSONY「ウォークマン」がはじめて開発され、それまでのヘルメットみたいな(^^;)ヘッドフォンが急速に軽量指向となりました。

これに、日本ばかりか世界のヘッドフォンとマイクロフォンの老舗の専業メーカーすら振り回され、危うく「軽量型薄利多売」路線に巻き込まれかかった不幸な時代が始まるのです。

コンデンサー型高級「イヤ・スピーカー」(「ヘッドフォン」と呼ばれることをかたくなに拒否していた(爆))で「あの」スタックスですら、

「携帯用コンデンサー型、電池式超小型アンプで中継するイヤフォン」という、ぶっ飛んだ領域に手を出したわけです。

音はスタックスの本道を行く大型コンデンサー型イヤ・スピーカーと比較すると

「まあ、一応健闘はしているけどねー」

でしたが(^^;)

スタックス コンデンサー式イヤースピーカーシステム【税込】 SR-001MK2(スタツクス) [SR001MK2...何と今もその機種、型番すら同じまま、「現役商品」です!!

この店でなくても、ヨドバシにすら置いてありますよ!!

(こういうあたりが、日本のメーカーにはあり得ないこと)

*****

さて、グラドのヘッドフォンの話でしたね(^^:::)

ジャンルは選びません。

そして、もののみごとに「後面開放型」だから、個室寝台でもない限り、とても他人のいる電車や飛行機の中では聴けません。

ブラグもステレオ標準ブラグのみですから、ステレオミニプラクへの変換プラグは自分で買って下さいね。プラグアダプターSONY PC-233Sこの機種のような、表面がプラスチック製やビニール製ではない、金属削り出しのものがお勧めです。

更にその筒状の表面にフチルゴムを2、3重くらいに巻き、表面がそのままではべたつくので、ティッシュを一巻きして余分をちぎってしまうと、しばらく使っているうちに、ティッシュの白さがフチルゴムの黒さに同化して、べたつかなく見栄えもそこそこに仕上がります。

こうすると、金属の鳴きが止まり、しかもプラスチックやビニール皮膜のものよりずっと音が澄んだものになります。

(しかし、そうなると、iPodで聴くとなると、ヘッドフォン端子から10センチは「固形物」が張り出すわけですから、てこの原理でへし折らないように用心して下さい。もっとも、力学的に見て、「ミニジャック端子が」折れるだけで、落としでもしない限り構造が堅牢そのもののiPod側のイヤフォン受け入れ端子はこわれないだろうと思いますが、万が一はあり得ます)。

あと、「振動板が凄く繊細そう」ですから、置き場所や持ち運び、尖ったものと接触しないようには細心の注意を!!

ちなみに、振動板のことを別にすれば、イヤパッド以外、すべてアルミ削り出しですので、並みの製品以上に堅牢です。

頭へのかけ心地ですか? 

軽いし、装着していることを忘れるくらい、「耳当たり」も自然です。

私は、「他の」ヘッドフォンに付属していたビロードのきんちゃく状の袋に入れて、一昨日までの四日市行きにも持参しました。

だから、危険を全く冒したくないなら、

自分の部屋でiPod音楽を聴くための製品と割り切った方がいいでしょう。

*****

(もうわかりましたよね、「音楽性は凄く違う」けど、「音楽を聴きながら」人ごみや電車へ「外出する」際に最高の機種と私が考えているのがどの製品か。

消去法でわかりますけど、「その製品」については敢えて直接書かずに、この、知る人が日本では「一層」限られているであろう製品の紹介を持って、代えさせて頂きます)

*****

ただ、Joshin Webさん、あの宣伝文句じゃ、クラシックファンがそっぽを向きますよ!!

もの凄いのは、少なくともiPod直結で聴く限り、

ロスレスかAACか、それどころかコピーするCDの音源が新しいか古いかすら全く関係なしに。異様なまでの生々しさですべての音楽ジャンルが聴こえることです。

アナログ時代の、しかも70年代ぐらい録音された、特に優秀録音といわれていたわけですらない、「マルチ録音の」オーケストラ曲を聴いてみるとわかります。

木管楽器のソロが、決して「音像肥大」せずに、適切なサイズで、間接音成分やホールトーンまで、信じられない「臨場感」で聴こえること!!

アコースティック音楽についても、恐ろしく繊細にして、恐ろしく解像度が高く、同時にバリバリのハードロックまで、迫力満点で「熱く」聴けます!!

.......というのが適切な宣伝文句でしょうね。

******

新品は一見少し音がハードに堅く聴こえる人もあるかと思いますが、2,3日の鳴らし込みで、ayuの最新アルバムも、まるで「現実のライブすら超えるくらいのライブ感」で、激しく、しかも繊細に(!)聴けると私は感じてますが!!

もっとも、例えば、浜崎あゆみ MaxiCD【Fairyland】同じマキシシングル収録なのに、実は"alterna"の方が"fairyland"より「遥かに」音がいい、どいうことまで容易に聞き分けられてしまいます(^^;)

要するに、デジタル録音で、録音時点での、マイクやコンソール、音のチューニングやミキシングに問題があると、それはむき出しで露呈されるようです。

その意味ではデジタル録音のスタジオでのモニタリングにおいても最高の機種の一つでしょう。

古い録音でアナログへのリマスタリングが「平均的」水準に達しているものの方がよく聴こえるわけです

******


もとより、現段階では、フルサイズのiPodの第2-第4世代機で、しかも「補助バッテリー付き」であってもなくてもいいから)家庭用電源から「切り離して」聴いた場合に限定した感想です。

しかし、これで、パソコン本体はWinでもMacでもいいから持ってるとして、

一番値段の高いIPod最新機種とあわせても実売10万前後

という、信じられないコスト・パフォーマンスことになります。

私の場合、これを超える音楽体験は、知人の紹介で、さるオーディオショップの試聴室で、LINNをはじめとするヨーロッパ最高級のビュア・オーディオの組み合わせ(1000万に乗っていいたかも....)でクラシックを聴いてみた時だけだということ。

*****

ただし、

以前書いたことを繰り返します。


「あなたの耳が」

確かに凄いと感じたときだけ買って下さい。


私は、ただの「情報源」になりたくはありませんので。

AVアンプへのリンク

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2006/01/18

直前の、ストーカー関連の記事の「続編」のほう、装いも新たに大増補改訂

直前の、ストーカー関連の記事「続編」のほう、装いも新たに大増補改訂し、タイトルも改めました。

特に若いカウンセラーの皆さんは、「絶対に」勉強になるので、読んで下さいね!!

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2006/01/15

ストーカーの記事、必ずコメントのやりとりまで読んでくださいね(^^)

ストーカーの記事、必ずコメントのやりとりまで読んでくださいね(^^)

必見ですよ!!

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フォーカシングしながら文を推敲すること

直前の記事、ほんの数十分の間に、どんどん「改訂版」を私が繰り出したのを「リアルタイムで」「ライブで」お楽しみいただいた方が、今回は、日本フォーカシング協会メーリングリスト"focusing-net"への私の書き込みによる勧誘/動員なしで(! .....もう、「動員」かけなくても1日300アクセス手堅くなりましたから)100名弱おられたかと思います。

どんどんユーモラスになり、しかも最後には世界全体の抱えた普遍的問題にまで拡張しましたでしょ?

これが、

自分の中の「言葉にならない曖昧な感じ」=「フェルトセンス」と「照合」しながら

(=フォーカシングしながら)

文章を書く

ということでして、

"Thinking at the Edge"(「=曖昧な感じの輪郭の部分で考える」、略称"TAE")

という、創造性開発技法として、

今現在の、ジェンドリンが"Work in Progress"で体系化しようと取り組んでいる事柄なんです。

興味のある方は、英語ですが、ジェンドリン自身の草稿です。こちらをどうぞ!!

****

もっとも、私はこの技法、2,3回日本でのワークショップに出たんですが、全然なじめません(爆)。

まどろっこしくて、もう(^^;)

私は、「ナチュラル”TAE”イスト」過ぎるんでしょうね!!

この技法をわざわざ「技法として」学ばなくてもいい!!

(この点だけはすでにジェンドリン自身をも「超越している」のかもしれない)

日本では、少なくとも関東圏では、村里忠之先生や、近田輝行先生が、この技法の権威です。私の100倍詳しいです!!

*****

でも、私は、子供の頃から、ともかく長い文章を書くのは得意でしたが、

エンドレスの行き先不明のラビリンス(迷宮)に迷い込み、

「ここはどこ? 私はだれ?」

にいつもなって、「完結した」文を書けませんでした。

でも、「普通の」フォーカシングを学ぶ中で、急速に、まとまりのいい、起承転結のくっきりした文章を、「これだけの」クオリティを「毎回」そろえて「連発」できるようになったのは確かです。

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直前のストーカーの記事について、重要な追加説明をしましたのでお読みください

直前のストーカー心理の記事について、重要な追加説明を「第3版」でしましたので、「必ず」お読みください!!

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ストーカー「加害者」の心理(第4版)

なぜストーカーをやめられないで苦しむのか?

それは、相手が「死んでしまう」という心配から逃れられないからです。

*****

「え? ストーカー『被害者』がそうだというのならわかるけど?」

と思われる方が多いでしょうね(^^)

もちろん、『被害者』にもこのことが当てはまるんですけどね!!

自分が相手(ストーカー)との関係を「断ち切った」ら、相手が自殺しはしないかという不安から逃れられないので関わり続ける悪循環にはまる。ここまでなら常識論でしょうから。

でも、本当に『現場臨床』経験豊富な、精神分析系(特に「対象関係論」系)、あるいは「プロセス指向心理学(POP)」のカウンセラーの皆様なら、私のこの「加害者」心理の説明に頷(うなずい)て下さるはずです。

***

そして、当のストーカー「加害者」をやめられなくて「悩んでいる」皆様(「悩めていない」人は別です)約30%は、

私のこの説明に「絶句」して

共感して、ちょっとだけ「救われた」思いをなさってくださると、

私はシミュレーションしますが、いかかですか?

******

現在、すでに、いわゆる「ストーカー法」という法律があります。

その趣旨はよく理解できるのですが、おかげで、少しでも相手にしつこく言い寄ると「犯罪者」にされてしまう危険があることで苦しむあまり、逆に自殺してしまう人が「実際に」出てしまうという「副作用」があると思います。

ストーカー「加害者」、およびその「予備軍」への救済・援助(prevention)という観点から、カウンセラーは何ができるか、真剣に検討しないと、回りまわって、いよいよ日本の「出生率」は下がるかも知れませんよ(^^)。

中島みゆきなんて、日本一のストーカーになってしまう(^^;)

少なくとも、一層「恋愛音痴」を増やしますよね。

もっとも、「恋愛のしかた」まで、大学の1年生向けの基礎講義科目に加えなんかしたら、もはや若い世代の「管理」のし過ぎすぎでしょうし(^^;)

要するに、「人権を守る」という美名のもとに、先進国の世界人類はどんどん「過保護」になる=「管理」される、という副作用を背負っているわけで、これはほんとうに、答えを見つけるのに「いたちごっこ」の難しい問題ですよね!!

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2006/01/14

再びフォーカシング関係者、およびある特定の「元」かすかな関係者に(改訂版)

私にどのように返事を(ここにおいでにならなくても、個人メールとかでも)しようかとか、あまり考え過ぎないでくださいね。

皆さん一人一人が、

「自分にとって、フォーカシングって何なんだろう」

とフォーカシングしてみる機会になれば、ジャンヌ=ダルク阿世賀は「今回の」使命を果たしたことになります(^^)

****

他流派のカウンセラーの皆様、これくらいに真っ正面から、自分の所属する流派のことを真剣に思いやっている、「国際資格『認定』資格者」少なくともひとりはがいる、というだけでも、フォーカシングというものに、一度真剣に関心を向けてもらえると、ありがたいです。

恐らく皆さんの大半は、フォーカシングの「上澄み」しかご存じないから。

(それにしても、私の『絶望し続ける』『空虚さと向き合う』能力って半端じゃないでしょ? いわゆる『ボーダー』の人が私とトラブルを起こすことが今やないのはこの力のためと思います)

すべては『空(くう)』であるというのは、仏教の教えにありふれているし、旧約聖書の「詩編」にも「空の空」ではじまる有名なのがありましたよね。

そういうのを「ペシミズム(悲観主義、厭世観」という言葉でひとくくりにする学者は「馬鹿たれ」です。

これこそ、もっとも「肯定的」で「前向き」な生き方です。

浜崎あゆみはそのこと理屈を超えて「体得」し、まさにそのままの生き方をしているので凄いですね。
もう「N君」おいてけぼりをくらってあたりまえです!!

同じ境地に中島みゆきもいますね(最近、だいぶみゆきのここ20年の歌を聴き込んで来たから、確信になりました)

******

どこかの誰かさんみたいに、このことを「トランスパーソナル」という言葉を一回も使わずに語って来たのが私です(^^)

「あの」サイトにはあの日以来私が「ほんとうに一度も」踏み込んでいないことぐらいアクセス解析できている技量の方ですよね(^^)

フロイトの本「2冊」読んだくらいで精神分析を否定するのは、ayuの曲2曲だけ1回聴いてayuを批判するのと同じと気付かなかった。

そして、精神障害の人を平気で「壊れている」とネット上でも、私の目の前でも言い続けた。きっと、親御さんが「そうだった」んだと、掲示板読んでたかなりの数の人が「憶測」してますよ。

そして、危ない精神分析PTSD概念を吹聴したハーマンを批判した本(あれしか読んでないくせに)の著者、矢幡洋さんが、私が一番古くから個人的な付き合いがある臨床心理士だって、いいましたっけ? 

あの人が私のエヴァ本の「プロデューサー」なんですってばさ!!

もう、自分がただの、身の回りに「崇拝者」を集めてるナルシスティックな人格「ナルシスト」「『小山』の大将」だったことに目覚めてるかな?

それから、あなたは「向精神薬」への偏見のかたまりでした。

それなら、大酒飲みはやめたらいかが?

「酒は百ヤクの長」(誤字にあらず)

といいますでしょ?

あなたの脳細胞は、お酒になしには成り立たなくなっていたはずです。どこがちがうのですか???

だから、私は、あなたから「いいとこ取り」だけさせてもらって、縁を切ったんです。

これからは、「第2のあなた」にだけはならないように心してネット活動します。

1日のアクセス数が1000に達したら、その時点でこのブログは閉じて、過去ログのみの表示にする、とは他の記事のコメントで書きました。これは皆さんにも約束します。


「解釈なんてどのようにでもできる」なら、過去ログ「当然」今もそのままですよね?

もし、今更書き込みに来たり、個人メールよこしても、すべて無視、アクセス不能の設定にさせて頂きます!!

以上、「こーちゃん」より!!

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2006/01/13

私は野心家ではないつもりです

今日はさすがに、母が当面安心なことを確認できた反動で、人並みに遅れた心労がきたみたいなので、クライエントさんの予約が空白なのをのを幸い、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」「臨時休業」して休ませてもらってます。


今日(13日)ご予約やお問い合わせの電話、ファクスを頂いた方、申し訳ございませんが、お返事は明日までお待ちください。

ちなみに「職場のホームページは、職場でしか更新しない」という原則を貫いておりますので、事前に何の告知もしないままであることをお許しください。

*****

こっちのブログだけ読んでると、まるで日本フォーカシング協会内部での「派閥闘争」が存在し、それを私が"acting out"してここで書いてるみたいに見えるでしょうから。

私は、いかなる意味でも、社会的・制度的な意味で、自分がトップになることはむしろ避けたいと心から思っています。

そんなことをしたら、我が恩師、村瀬孝雄先生のように「早死」しますから。

「政治家」としてはその程度の器であると自分を見限っています。

****

私の父も、「決して組織の中でトップにならず」、いわば「剣術指南役」としての分をわきまえることによって、そこそこの財を成したあとでの「引退生活」に入るという、絶妙な世渡りをして来たおかげで、今も「超頭脳明晰」なパワフル親父でいます。

福岡県久留米一の大マンションの管理組合、経理担当監事(これまた「ナンバー1」を巧妙に回避している)なんか引き受けたものだから、今でも「勤勉に働き続けて」ますが、国内/海外旅行や、何とバレエのファンになって、美と神秘のプリマ シルヴィ・ギエム【GNBC-4001】=>18%OFF!美と神秘のプリマ シルヴィ・ギエム世紀のプリマ、シルヴィ・ギエム「ボレロ」を2回も見ているってんだから驚きましたが。

学歴は旧満州国のハルピンでの旧制中学1年の夏休みに、終戦と共に終わりましたが、その満州からの引き上げの際に馬賊に教われて「殺された」祖父は地元の小学校長、今も90代でかくしゃくとしている兄(私から見たら叔父)も、戦前の「早稲田大学」を出ています、

大正生まれの母も、生まれてからの入院歴ゼロ、旧制「高等女学校」出ですから。だから、「脳力」(誤字にあらず)は高い血を引いてるんですよね。

ただ、その父がそういう生き方ができたのも、仕事の陰で母に甘えることができていたから。

そのことへ父の自覚不足が、母が倒れるという「ここぞというところ」で道を間違えそうだったので、臨床家の息子は、そういう「家族力動」を見抜いた上で、明学学生相談センター時代に鍛え上げれた「現場臨床家」としての「危機介入」に踏み切りました。

そういう判断を「30秒後」に電話をかけ直すまでに間に「一瞬で」できるようにならないとならないのが、人の「こころ」だけではなくて「いのち」を預かる「現場臨床」というものなのです。

「事例検討会に出して」「スーパーバイザの意見を聞いて」なんていう、悠長なものではないのです。

先輩「開業カウンセラー」の皆さん、あなたはそこまで「腹をくくって」仕事できてますか?

***

私は、ひとりの在野の現場臨床家として、「米を買う」ことができる以上のことは望みません。

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"responsibility"="response ability”

"responsibility"(責任)とは、

"response ability”

つまり、その相手に対して「責任」ある「返答」や「反応」や「態度」を取れる、

「責務」=● 浜崎あゆみ ”Duty ”CD (2000/9/27)"duty"

を果たすことが「できる」、ということですよね。

それ以上ではなく、それ以下でもない。

TSUTAYA online

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2006/01/12

生まれてはじめて父親に説教しました(タイプミス修正/リンク増補版)

昨日(11日)夕方、父から、母がめまいを起こして倒れたという知らせを受けました。

「内科医に来てもらったら、特に異常なしと言われた。仕事が一区切りして数日中には脳神経外科医にも連れて行く」と。

私は

「うちの家系は心筋梗塞か脳卒中でしか死なないんだから、できるだけ早く病院に行ってくれ。佐治守夫先生がそういう展開を経てくも膜下で亡くなったのを忘れられない。決して安心するな」

と答えて一度は電話を切りました。

しかし、私はそれから「自分のフェルトセンス」からの、「猛然たる抗議」を受けました。

そして電話をかけ直して言いました。

「今日(11日)だけは親父に説教させてもらう。

『優先順位が違う!!!』

仕事投げ出してでも、お母さんを明日「脳神経外科の」病院に連れて行け!!

親父も、お母さんのこととなるとシミュレーション能力の客観性を見失うみたいだね。

私を安心させるためにも、それがベストでしょ?

人の生死に関わる『専門家』としての警告だ!!」

*****

今日(12日)午後、父親から、

「脳の検査3通りしてもらったが、異常なしだった。ただのめまいだったようだ」

との返事をもらいました。

*****

こうした展開の中で、昨日(11日)からの書き込みを書いたのです。

でも、書き出す前から私のフェルトセンス「が」私に語り続けていたのです。

「お母さんのことはもう心配しなくていい」

と。

「だから」書いたのです。私はそれを「後悔」してはいません。

私は激情にかられて昨日(11日)から今日(12日)の記事を書いたのではありません。

不思議なくらいに冷静な気持ちで、過去最高の内容の記事(コメント)の幾つかを書いたと思います。

睡眠も、今日(12日)は職場の定休日でしたから、その父からの返事の電話で起こされるまで、「見事に爆睡」していました(^^)。悪夢一つなく。


「人は自分自身への十字架を背負えればいい」

とは、父親からその連絡を受ける直前(11日)に、あるクライエントさんとの別れ際に、ふと口をついて出た言葉でしたから。


現状では、書くのはどっちみち、時間の問題でしたでしょうから。

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2006/01/11

自分自身の十字架さえ背負えば十分なんです(コメント更に大幅追加!!)

人は、自分自身の十字架さえ背負えればいいのだと思います。

親の分や、

子供の分は、

背負い込まないように。

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フォーカシング関係者へ

ジェンドリンを「父」としたり、メアリー・ヘンドリックスやアン・ワイザーを「母」として、その「寵愛を得よう」とするのではなく、あなた自身がジェンドリンに、アンに、メアリーになり、それをどこかで超えた「何か」になってください。

別に「ナンバー・ワン」でなくてもいいのです。

「オンリー・ワン」でいいから。

SMAP/世界で一つだけの花 


フォーカシングのコミュニティなんて、世界全体からすれば「米粒」でしかないことを忘れないように。

******

自分がもしサハラ砂漠の砂の一粒に過ぎないと想像してみてください。

「ちょっとこわい.....でも、それはそれで心地いいかも」

と思える人は、そこそこ幸せなのかもしれない。

> 僕たちはただの点でしかなく
> すべてでもあって

(浜崎あゆみforgiveness"forgiveness")
 
TSUTAYA online

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2006/01/10

夢はきっとかなう? -浜崎あゆみ”Pride”に寄せて-(第3版)

私が大学院に入った頃、フォーカシングは(今でもそうですが、今よりずっと)カウンセラーの間でも知られていませんでした。

(今は、「フォーカシング」と「体験過程」について最低限数行ぐらいは書けないと、臨床心理士資格試験の1次試験向け受験勉強としては、明らかに不十分です。つまり、若い「臨床心理士」がフォーカシングについて「何も知らない」というのはモグリです.....と断言します)」

focusing_hyoushi
左サイドの"My Fovorite Books"でも紹介している、ジェンドリンの著作、「フォーカシング」の項でも書きましたが、私にとっては、フォーカシングとの出会いは、それこそ、電撃が走る「運命の出会い」でした。

法政大学市ヶ谷校舎の大学の生協(今はきっとすでに2回ぐらいは店舗改築してて、当時の見る影もないのでは?)で立ち読みしていただけなんですから。

それまでも、おととしだったか、亡くなられた、小此木啓吾先生の著作を入門書とする形で、精神分析の本はかなり読んでいたし、自由からの逃走新版「自由からの逃走」で著名だった、エーリヒ・フロムの本は当時出ていた訳書を全部読んでいました。

(フロムの本で私の一番のお勧めは、"Man for Himself"(当時の翻訳タイトル「人間的自由の本質」です。すでに絶版、図書館で探してください)。

今とは違い、ユングには何かピンとこなかった。

なのに、このジェンドリンという人は、私が読んできた「すべての」心理学者が見落としていた事柄について見事に捕らえている!!!

「言葉にならない曖昧な『感じ』そのもの(=フェルトセンス)が一番大事なんだ!!」

これは、私にとっては、それこそ「ニュートン力学」から「アインシュタインの相対性理論」への跳躍に匹敵する「パラダイム」の変換、心理療法の世界における「大革命」としか思えなかったのです。そのことに気づくのに、ページをめくりだして5分もかからなかったんですね。

しかし、その時の私は、臨床心理の他大学の大学院を受験して落第したばかりの、一大学院浪人生(法政や早稲田や都立大学の正規の聴講生はしていました)に過ぎなかったのです。

そして、何とすでに「先ごろ」受験したばかりの立教におられる村瀬孝雄先生が、前述の訳書にも共訳者として名を連ねる、日本のフォーカシングの第一人者知らないまま、「一回目」の大学院受験を立教ですでにしていたことに気づいて呆然としたのです!!

****

それからの3年間は、先日書いたような、実験心理や行動主義心理学などを含む、心理学全般についての私の学力が独学で上昇して、村瀬先生「以外の」立教研究室の先生方が、

「阿世賀の合格、やむなし」

と「根負け」するまでの我慢比べ(爆)になったわけです。

*****

そこまでが凄かったですよ。2年目の村瀬先生を含む教授会面々を前にした面接で、私は、

「どうして私を合格させないんだ!!」

と叫んだくらいです。

*****

これ、「思い込み」がそれだけ強かったとか、「自信過剰のナルシスト」だからではないのです。

私なりにその段階で日本人の研究者が書いたフォーカシングの論文に目を通してみたら、

「そもそもジェンドリンの著作を『きちんと』読んでいたらこのような『誤解』をするわけがない」

という水準のものばかりであることに気がつき始めていたからでした。

それは私にとっては悪い「冗談」としか思えない状況でした。

たかが一大学院浪人の私が、当時の日本のフォーカシング研究者「全体」よりもジェンドリンを正確に理解している「らしい」

こんなことが許されていいのか!!!

(これは、ある種の「恨み」と「悲しみ」「呪詛」すら秘めた感情です。だって、ことフォーカシングに関しては、ほんとうに「甘える」ことができる「先達」が誰もいないということですから)

私は、その時点で、自分が思いもよらない「十字架」を背負わされたことに気づき始めていたのです。

まさに、● 浜崎あゆみ ”Duty ”CD (2000/9/27)"duty"ですね(^^)

****

この段階で、私は目標を「ステップアップ」し始めていました。

「ここまでは、日本中の研究者に『馬鹿馬鹿馬鹿!!」

と叫びたくなるくらいに「予想外にあっさり」クリアーできた。

もう、日本のフォーカシングの『研究者』として大成するだけでは『つまらない』。

ただのフォーカシングの「トレーナー」にとどまるのも「嫌だ」。

『現場臨床のカウンセラー』としても、第一線で活躍できることを目指そう!!

そこまでたどり着けなかったら、フォーカシングそのものが「無意味」である。

しかし、フォーカシングの可能性は必ず「現場カウンセラー」として役立つものを秘めている。

たとえジェンドリン自身がそこまでたどり着けなくても、私は「そこ」まで目指す!!

精神分析が、フロイト以降、メラニー・クラインやバリントやウィニコット、ビオンなどによって更に発展して行ったように。

フォーカシングを「輸入学問」にさせてたまるか!!

もちろん、日本や世界のフォーカシング研究者や実践家のさまざまな挑戦の中で、「私にとって」ほんとうに刺激的で、可能性を秘めたアプローチはどしどし「参考にする」し、そういう人たちとはお互い刺激し、切磋琢磨しあう「ライバル」関係にすすんでなろう。

でも、何より最後には、「自分の」試行錯誤、そう、私自身が「フォーカシング」を重ねる中で、フォーカシングそのものが刻々と「更新」されていくはずだ!!

「南海の」野村捕手ではないけど、

「生涯1フォーカサー」

であり続けよう.....と。

****

夢を見続けるには、

安易に妥協せず、

(少なくとも心の中では「不満な自分」を認めてあげて(aknowledging))

「絶望」し続けられる「能力」が必要なのです。

(この部分、絶望「しない」能力、と書いていないことがミソです)

時には、妥協した「フリ」だけして、ゲリラ戦的に「チャンスをうかがう」方が効果が゙ありますが(^^;)、

「ミイラ取りがミイラにならない」ようにするのもたいへんです。

そのためのコツは、「自分の盲目的な信奉者になる」弟子を決して作ろうとしないことだと思います。

(私は「さる筋」からの情報で、ジェンドリン自身がそういう考えであることを知っています。単に自分の「寵愛を受ける愛弟子」になろうという人を遠ざけ、他の人には「あの人にはオリジナリティがないから」と本音を漏らす人だということを。私はそれでけで、「自分の限界を踏み台にして、自分の死屍(しかばね)を『食って』、踏み越えてでも、更に先に進め」と本音のところでは思っている人というだけで、ジェンドリンを尊敬します)


私は、見込みがある人ほど、ある意味で「突き放し」ます。

その人自身が、「その人自身」の十字架を背負うことを願って。

****


BGMは、■送料無料 初回盤■浜崎あゆみ CD+DVD【(miss)understood】 06/1/1【11/30発売 新作CD】浜崎あゆみ /Bold&Delicious/Pride(CD+DVD)<2005/11/30>浜崎あゆみの”Pride"でした。

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2006/01/09

今日は現段階で320アクセス超えてます!!

普通だと、土曜日曜、祝日や連休は落ちるんですけどね(^^;)

22:10現在で320超えてます。

週間アクセス2000の安定化は目前です!!

多くの人が帰省してるから、年末年始はアクセス200を割らないようにするのがやっとで、おかげで記事の更新連発で切り抜けるしかなかったんですが、逆に「ご新規様」においでいただくいいきっかけにもなったようです。

ともかく、

「こいつは何なんじゃ?????」

と感じてくださり、RSSリーダに加えて頂ければ光栄ですので(^^)

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カテゴリー再構築は60-70%は進みました

すでに「♪黄桜〜」「サンダーバード」はパーペキです(^^)

意外に遅れているのは、昨年カナダトロントでのThe Focusing Instituteの国際会議に出席した時(フォトアルバムはこちら)の報告とか、心理臨床学会人間性心理学会参加報告だったりします。

だって、「お客様」新規誘致への効果という点では、とっくに「関係者」は読んでいてくださってるだろうから、後回しでいいのです!!

でも、現状でも、凄く「使い勝手のいい」ブログになってきたんじゃないかと思います(^^)

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2006/01/07

浜崎あゆみの"Bold & Delicious"(第3版)

A:「あーあ、ayuも倖田來未のまねで、『エロかっこいい』路線で稼ぐしかなくなるところまで落ちぶれたわけ? もう、しょうがないんじゃない? それとも、そこまで男に最近飢えてるのかよ」

B:「私、ayuだけは、こんな露骨なエッチな歌書かないって思ってたのに!! 凄いショック!!」

C:「みんな、そんなにayuをいじめないで!! 私、ayuがどんな歌を作っても、一緒についていくの!!」

****

D:「おいおい、みんな勘違いしてない?

ayuは、最近のコンサートで、聴衆が受け身で、ayuが必死に盛り上げようとしてもノッて来ないのに物足りない思いをしてたんじゃないかな。

だから、

『そんなにじーっと<マグロみたいに>横たわって、あたしが<上に乗っかって>イカせてあげるの待ってるんじゃないの!! あなたはあなたりに「あなたの」を<おッ立たせて>、ayuと一緒になって<make love>しましょ! その方が<ひとりエッチ>より、よっぽど楽しいよ!』

と歌いたくなったわけ!! 

だから、コンサートの冒頭でayuと一緒にこの曲を恥ずかしがらずに大声で合唱したら、ayuも大喜びだと思うよ」

*****

E:「それにしても、この曲、凄く斬新だと思う、背後の女性コーラスのコード進行なんて凄い!! ここまでくると前衛音楽だよ。ビートルズ/サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド ビートルズの「サージェント・ペパーズ...」の域にayuは達したと思う。

 あるいは、ラトル/リーヴィング・ホーム〜故郷を離シェーンベルクやハンガリーのバルトークやロシアのストラヴィンスキー、の、ほとんど無調に近い合唱曲とか、

burugarianvoice
あの大関琴欧州関の出身の、
ブルガリアン・ボイスを思い出しちゃう。ハンガリーとかブルガリアってのは、東ヨーロッパの中でも端っこだから、すごくアジアっぽいところもあってさ。だからこれはayuがまさに「ワールド・ミュージックの境地に達した、記念碑的な曲だと思う」

F:「お前、知識ひけらかす割には見事に的を外してるな。これはゴスペルの様式を借りたの!!このカウントダウンのライブDVDが何よりの証拠だ!! それだけのことよ!!余計な深読みはするなっつーの!!」

G:「失礼ですが、あなたは本当のアメリカのスピリチュアルな音楽の世界をご存じないようです。ゴスペルというジャンルを、すべて、アフリカン・アメリカンの人たちが大声で合唱して,ソロの歌手と掛け合いするものだと思っておられませんか? 

 実はロックやラップそのものといっていい音楽スタイルでも、「インスピレーショナル」(inspirational)、つまり、「霊感を吹き込まれた音楽」という分類がiTunes Music Storeの「パワーサーチ」に行かれるとあるんですよ。

 つまり、その歌い手が,宗教的なメッセージを「はっきり」うちだしているかいないかが肝心で,曲の様式・形式とは無関係なんです。

 例えば、BeBe &CeCe Winansのような、そのジャンルを標榜している歌手たちがお歌いになれば、サイモン & ガーファンクルの BeBe & CeCe Winans - Heaven - Bridge Over Troubled Water「明日にかける橋(Bridge Over Troubled Water)」すら、あくまでも「宗教的な歌」ということになります。

 浜崎あゆみさんは確かに,日本でイメージされているゴスペルの典型の様式を「借りて」いらっしゃるのでしょうけど、そこに込められたメッセージはまた別にあって,借りにスピリチュアルといえたとしても,キリスト教のそれとは違う次元の、もっと普遍的な人と人との関係を、浜崎あゆみさんは..........」. 

****

ayu:「.....あ"〜ン、もう!!

 『♪じれった〜い じれったい』!!

((c)中森明菜)


 そんなご託並べてる暇あったら、
 誰なのよ、最初は ?!」

●浜崎あゆみ“Bold&Delicious/Pride(DVD付き仕様)”CD+DVD(2005/11/30)
浜崎あゆみ - Bold & Delicious/Pride - Bold & Delicious

■送料無料 初回盤■浜崎あゆみ CD+DVD【(miss)understood】 06/1/1
浜崎あゆみ - (miss)understood - Bold & Delicious

****

こういちろう:「はい! 今度のツアーいくこと急遽決めたからね!! そしてこの曲を君と一緒に大声で客席から歌って、回りの若いの、巻き込んでやるから!!

TSUTAYA online

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2006/01/03

そろそろ帰省からお帰りの常連読者の皆様、わずか数日の間の新規記事の多さにビビらないでくださいね!!

裏を返せば、年末になるまでは、私がそれなりに、本業のカウンセリングの仕事も「していた」ということの証左でもあるかと思います(^^)。

私って、食って寝て、ブログの記事さえ書いていればよい状況に置かれたら、これくらい文章書いたり、ブログの再構築作業が出来る人だったりする(^^;)

カテゴリーの再構築って、ブログのおもて側の表示に全く立ち寄らすに、コントロ−ルパネル側からだけでできる作業なので、今日なんて、普通の日よりも、「自分自身によるアクセス回数」ほとんどないはずなのに、午後8時台ですでにアクセス数200楽々突破しました!!

ありがとうございます。


*****


アクセス解析をすると(以前も書いたけど、このアクセス解析って、「どなたが」アクセスして来たかまで特定できないので、ご安心を)、

この中の数分の1は、明らかに、@niftyココログトップページから、新たにおいでいただいた方々です。

私のブログの記事に、少しでも興味を持って、来て頂いただけでも感謝いたしします。

****

私のブログの大まかな内容とポリシーについては、半年近く以前、やっとpingサーバへのトラックバック機能を活用し始めた時に書いた、当時の皆様への改めてのご挨拶の文章がすでにありますので、それを持って代えさせて頂きますので、よろしく。

****

まだ、カテゴリーの再構築は、数パーセントの進捗度でして、全体への反映にはほど遠い段階です。少しずつ無理のないペースで進めていきますので、ブログ内でのカテゴリー検索のあまりにも不完全な現状を、どうかお許しください。

どれだけ膨大なカテゴライズ増設に吹き切ったかは、

↓こちらをご覧になればわかりますよね(^^)

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新春お年玉企画!! blog 「カウンセラーこういちろうの雑記帳を「最初から」読みたい方のために

この@niftyのココログの、3フレーム縦割り設定にした時の、左サイドへの「バックナンバー」の表示のされ方の性質上、かなり古い記事(1年前に過ぎませんが)の検索が「一見」しにくくみえます。

実は左の「バックナンバー」という文字の部分さえクリックすれば、果てしなく過去に遡って「月別/カテゴリー別のリンク集」に出ます。

(...ということに、私も今気づいたばかりだったりして(^^;)。1年やって今日はじめて「スキナー箱のネスミ」の「試行錯誤」を経てに気がついた。はっとその可能性を「洞察」しただけ、ネズミよりは利口かもしれない

*****

まあ、それでも、私のブログ「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、敢えて「最初の記事」から順に読んで、私の成長の跡をたどりたい、という「奇特な」読者の皆様のために、感謝を込めてサービスします。

この記事(2004/12/19)が創刊号です。

当時はブログで何をできるのかほとんど無知なまま、まだカテゴリー分けもしていませんが、興味のある方はどうぞご活用下さい。

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2006/01/02

ブログのカテゴリー分けをより具体化させる形に徐々に更新していきます(第10版)

@niftyのココログって、一度凝り出したらカスタマイズがし放題に近く、しかも文の長さにも制約がないので、ある程度HTMLタグを自分で打ち込めるくらいのホームページ制作能力があれば、凝り出したら切りがないのが特徴です。

同時に複数のカテゴリーをいくつ指定してもいいし、オリジナルカテゴリーも無尽蔵に作っていいみたいなんですよね(^^)


私のブログって、私の文章の「ワープ」的越境能力をとことん駆使してやろうという方針ですから、一つの記事について10幾つものカテゴリーを設定するという「荒技」を駆使してきました。

しかし、現在の@niftyココログのシステムからすれば。例えば「心理学」「心理療法」「精神療法」「カウンセリング」「開業カウンセリング」「サイコセラピー」「セラピー」などというふうに微妙な表現の間の違いでも、例えばこれらの言葉と「ヘッドフォン」との間にある差異と同じくらいに、「意味論的差分」の上で等価的/並列的に別のカテゴリーになってしまうことにもなります。

私はこれを、インターネットが「フラットランド」と呼ばれるものであることの「諸刃の剣」の側面についてのひとつの理解であると思っています。

ちょっと難しい言葉でいうと、「階層的分類」というものには、実は凄く個人的な側面があり、どうしても、誰もが納得する分類分け(パソコン風に言えば、「ツリー構造」)などあり得ないということになります。

その意味では、実はカテゴリーのパーソナライズを、完全に増えるに任せて野放しにしている@niftyのココログの方針は、「現実主義的に見て」、無難でしょう。さもないとクレームの山に忙殺されてしますでしょうから。

****

もっとも、記事をアップする前に、内容から自動的にカテゴリー「候補」を選び出し、作者に表示するまでなら、単語のデータベースとかと連動させれば、今のサーバー管理コンピュータでも容易にできるでしょう。

もっとも、アップロードまでのトラフィックがいよいよ渋滞する危険は高いですが(^^;)

しかし、今のコンピュータは、まだ、文章の本格的な「意味論的解析」という点では、まだ開発の歴史の初期段階なのは確かでしょう。最優秀といわれる自動翻訳ソフトの現状をみればどなたもお分かりですよね(^^)

「心理療法用語をまるでひとつも使わずに」カウンセリング関連の奥深いエッセイを仕上げるなんて、少しキャリアをつめば、ある程度できるようになりますから。


******

いずれにしても、私のブログ、カテゴリーの設定の個別化・具体化・パーソナライズという点では、これまでほとんど手を付けていない分、新たな読者の皆様を増やし、読みたいタイプの記事を過去に遡って検索して頂くには実に不便な状態だったと思います。

なんらかの意味でカウンセリング・マインドに関わる記事については、敢えて「手作業で」、「ウェブ上のカウンセリング論集 index」を制作してあり、右側(この点改訂)のテーブルの、ずずずず〜っと下の方に常設の入り口があります(以外と気づかれてなかったりして)。

でも、これじゃ、純粋の音楽系、例えば「J-POP」や「歌手別」の検索や、「オーディオ系」の記事は、はみ出してしまうわけですよね。


*****


そこで、本日、オリジナルカテゴリーの大量設定に踏み切りました。

先ほど述べたような理由で、極論すると、「心理療法」「精神療法」「サイコセラピー」「セラピー」という用語の間の違いですら、これらの言葉と「ヘッドフォン」「HDCD」という言葉の間にある差異意味論的「差分」の上で「等価」というのでやむなしというのが@niftyココログの「方針」(個人の「パーソナルな世界観」を尊重する開かれたネットワークを目指す限りこの方針はぜひ守り続けて来ださい!!)のようである限り。

私は敢えてこれらの「同義」の言葉を並列的に別のカテゴリーとして登録することに決断しました。

カテゴリーのリストがかなり長大化することは、どうか皆様お許しください。

なお、この記事で「だけ」、今後私が普段使用するカテゴリー「ほとんどすべて」にリンクを張っています。@niftyココログの「標準カテゴリー」の中で、ここにに含まれていないのは「ギャンブル」「スポーツ」「ファッション・アクセサリ」「グルメ・クッキング」など、ほんの幾つかということになりますが、こらら幾つかのカテゴリーですら、過去すでに適切と判断して使ったことがあります。

「ギャンブル」で意識的に私がどの記事でリンクを張ったか、すぐに思い当たる方は、相当ディープなこのブログの読者の方ですね(^^)

しかし、こういう「告知記事」でそこまで含めるのはそのカテゴリーの読者に迷惑なだけと考えて、敢えて今回は外しているだけです。

普段はもっとすっと短いので、どうかご安心を、

******

もっとも、私のブログの場合、個々の記事について、カテゴリーの再分類をするのは、なにしろこれが1年ちょっとなのに、すでに272件、しかも長い文が多い私のブログの性格上、とても一気にはできません。

最近の、しかも皆さんの関心を引く度合いが高そうな記事からカテゴライズの再構築をボチボチしていきますので、どうかじっくりお待ちください。

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2005/12/28

「思い込みが過ぎる」ことを、実社会を生きるしたたかなシミュレーション能力に「変換」させよう!!(第5版)

さて、対人恐怖気味の人の陥りがちな、認知と行動の特性は、一言で言えば、

1,「最悪のシミュレーション」「楽観的なシミュレーション」

二つしかしないこと。

2.シミュレーションばかりして、現実の行動としては、ひどく受身で消極的であることにあります。

具体的に例を上げると、

ある典型的なオタクファッションをした人が、街を歩いていて、通りすがりの2人の女の子が、すれ違いざまに

「嫌ねぇ」

といわれたように「聞こえて」、ズキンと傷ついたとします。

さあ、彼の頭の中で何が始まるか?

******

{仮説1}あ、やっぱりこんな風体でこんなむさい顔立ちしかしていなかったら、オタクだと「見破られるん」だ

→「自己嫌悪」

あるいは、

「どうせ俺はオタクだよ!!」という「自己嫌悪的開き直り」、

あるいは

「最近は典型的なオタクファッションではない、むしろ凄くカッコのいい人とか一流企業に勤めるバリバリのスーツ来たビジネスマンがオタクのことなんていくららでもあるのに、認識不足ですね。ああいう人たち

という、「話題のすり替え型開き直り」(その人がほんとにファッションに凝る時や、一流企業に勤めているのなら、当然こう思う資格アリですが)

*****

{仮説2}いや、あれは僕についての話ではないはずだ、空耳か、そうでなくても、僕ではなくて、きっと僕とは全然関係ない女友達の噂話か何かずっとしていて、通りすがりざまに「嫌ねえ」の部分だけ聞こえただっただけなんだ。

→世間の人がいちいち自分なんかに関心向けるわけないよ。そういう思いに一瞬でもとらわれた僕の方が、実は「自意識過剰」なだけなんだ」

******

{仮説3}仮にあの女の子たちが僕のことを指して「嫌ねえ」と言ったのだとしても、僕は特に何の「損失を被(こうむる)わけではないではないか。通りすがりのあの人たちと僕は2度と出会わないかもしれない

ましてや、僕は決して浮浪者のような風体をしていたわけでもないから、10分後には彼女らの脳裏から忘れ去られ、喫茶店での話題に種にもならないだろう。

むしろ、ああいうことを言われたと「感じる」たび、傷ついて半日も落ち込んでしまう自分の方を「困った奴っちゃなあ~」と『苦笑』しながら笑い飛ばせるぐらいが、自然なあり方なのではないか」

*******

さて、今のを読んで、あなたはどう感じますか?

A.「そこまでいろいろ考えるわけ? 疲れる奴っちゃな~」

B.「僕は{仮説1}の最初のところでいつも堂々巡りしていた。こんなにいろんなとらえ方が可能とは気づかなかった。視野が広がり、参考になった」

C.「そういうふうにいろいろと考えてみると、『その時』は少しは気が楽になるんだけど、結局、気がついてみると自己嫌悪の堂々巡りに舞い戻っちゃうンですよ。『似たような』場面に遭遇すると、また半日ぐらい落ち込んでしまって、出口がないんです」

私は、多かれ少なかれ、感想はこの3つのパターンのどれかに当てはまる確率、70%とシミュレーションします。

*****

思い込みに走りやすい人というのには、実は「ものすごい脳のパワー」の持ち主である可能性があると思います。
そのパワーが、いわば「エンジンは優秀」でも、それを車軸に伝達する部分やハンドルなどの他の部分がそのエンジンの性能に追いつかないでいるために、「レース完走」できないFIマシンみたいなものと考えればいいと思います。

いわば、シャッターが下りたガレージの中でのアイドリングだけしかできないうちに、一酸化炭素中毒になってバテるようなものですね

そのエンジンのパワーをもっと「有効活用」することは、かなりの場合に可能なのではないかと思います。

ですから

一方の極

「一度『特定の』思い込みにとらわれると、ひたすらそっちの方向に突っ走る、『硬い心』だけど『ガラスのようなもろさ』と背中合わせのタイプの人」

がいて、

他方の極には、

「一つだけではなくて、さまざまなシュミレーションを、

白、黒、抹茶、赤、青、黄色、金銀パールプレゼント!!(古い)

とばかりにあれこれ考え直してシミュレーションしてみることをどこかで『楽しむ』境地に達するばかりか、

「しかし私のシミュレーションは、私がただの不完全な生身の人間である限り、決して完璧では「ない」に違いない。

でもそいれでもいいじゃん!! 自分のシミュレーションを超えた思ってもみない事態に直面するたびに、僕の「経験値」は上がり、次の場面では更にシミュレーション能力に磨きがかかるわけだから、「予想外の展開」大歓迎だ!!

シュミレーションを超えたことが次々起こるにどのように対応していくか、こそ、人生の「スリル」だし、生きる「醍醐味」ではないか

........とまで開き直れる、

「柔軟で臨機応変で、数手先まで様々なシミュレーションをしては現実に行動し、刻々と修正していく、実は『タフな』タイプ」

を両極端にしているのではないかと思います。


 今の部分を読んでいて、宇多田ヒカルの宇多田ヒカル - HEART STATION (Mastered by Tom Coyne) - Beautiful World"Beautiful World"の、


どんなことでもやってみて
損をしたって、少し経験値上がる


という歌詞を思い出された方もあろうかと思います(^^)

宇多田ヒカル/HEART STASION

 後者の『タフなタイプ』はこあ~いですよ。

一見お人よし(状況を観察し、掌握するために、まずは「場の雰囲気」に逆らわないで多角的に「サーチ」をかけるから)、ところがいざとなると、数手先まで、普通の人か考えないような可能性までシミュレーションして、ことに臨むから、何が起こっても冷静、

しかも予想外の展開になったらいよいよ、

「自分の実力を伸ばすチャ~~~ンス!!」

といよいよ元気になり、むしろ醒めたまなざしで、脳力100パーセント「やっと」使いはじめる余裕を残している。

創造性が高いし、他者への共感能力も高い。

そして、

いざとなると、

涼しい顔して、「権謀術枢」の限りを尽くす、隙のない「策士」

となる。


******


もちろん、

このようになれるためには、何か不可欠な"something"かあるのではないか?

というのは認めます。

でも、一方には、

「これを読んだだけでもモヤモヤが少し晴れて元気が出てきた」

と感じて下さる読者の方も少なからずいることを、私は信じています。

******

以上、BGMは、浜崎あゆみの浜崎あゆみ INSPIRE【DVD付き】-CD-〔送料無料キャンペーン中〕GAME"GAME"/INSPIRE"Inspire"

および、少し渋いところで、PSY・Sのアルバム、
「ミント・エレクトリック」
の冒頭曲、

"Simulation"

でお送りしました(^^)

******。

こういう「ゲーム」や「シミュレーション」を『空しく』感じる人と、『人生のスリル』と感じる人の違いは何か?


このことこそ、ほんとうの"something"なんですよね!!


私は、「シミュレーションし尽した

という

「自己愛的引きこもり(ユング風に言えば、「孤高」に酔う「自我肥大」)を「超え」、

自分の「孤高」意識の背後にある「寂しさ」に直面しつつ、

その寂しさに「もう一人の自分」が、やさしく『自己共感』できること

と、

「何か」関係あるはず、とは思います。


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2005/12/25

「相手自身」への嫉妬からはじまる恋もある(自分の中の「嫉妬君」もいたわってあげたらどうでしょう?)

この記事は、ここで頂いたコメントへのコメントとして書いたものの改訂版です。

(このやり方をすると、コメントしていただいた方が私のレスへの再コメントしにくくならないかという心苦しさもあるのですが、どうかお許しください。再コメント、あるいは他の方の新たなるコメント、歓迎しています)

*******

昨晩はイヴにも関わらず、現在の私としては夜までかなり忙しい日だったもので、思わず中森明菜 / AKINA NAKAMORI 20th ANNIVERSARY BEST (CD) (Aポイント付)中森明菜のCD流しながら寝入っていて、深夜起き出して、この記事の原型になるコメントを書いていました。

(なせ明菜かって? 先日の記事

「禁句」

という言葉をタイトルにしたからだったりする(^^;)

(もちろん、中森明菜の歌は「禁句」ではなくて「禁区」です。わざとこうしたあたりに作詞者の感性が光っていますね.。

もっとも、この曲は上記のCDには入ってませんので、久しぶりに「禁区」をききたくなった方は中森明菜/Recollection-中森明菜スーパー・ベスト-(2CD)こちらをどうぞ)

営業時間午後から夜までなので11時に起きれれば徒歩10分のオフィスにたどり着くので、どうしても一般の人と生活時間自体に「時差」ができてます
(^^;)

*******

「嫉妬」とか「羨望」というのは、ある意味で複雑でどろどろとした感情で、自分でもそれを直視するのが最も嫌な感情の一つと思います。

恋愛に限らず、恐らく人と人との感情的ないさかいの大半には「嫉妬」という感情が絡んでいる、

ととらえて説明しようとほとんどそれだけで説明可能なくらいですよね。

極端にいえば、戦争すら「嫉妬」を原理として生じていると説明することも容易だし、

恋愛や友達付き合いですら、「この人は私にない何かを持っている」という。隠れた「相手自身への」妬ましさを背景として生まれることがあると思います。

自分にないものを相手が持っているという「幻想(思いこみ)」が「お互いに」うまくかみ合うと、同性でも、異性でも、妙にかみあう深い人間関係になることがありますよね。

二人で行動すればお互い弱点を補い合える、みたいな「相互補完的な」同盟関係といいますか。

あるいは、一方が他方をうらやましく思っていて、その相手の方は、そうやって自分を「うらやんでくれる」その人によって自分の「ナルシシズム」が満たされるのでつきあう、という場合も、同性、異性問わずあるでしょう。

でも、こういう関係って、その裏側に「相手を自分の弱点を補うために「『利用』したい」というエゴイズムや、その相手とつきあうことによって相手と同じレヴェルにまで自分を引き上げてもらいたいというエゴイズム、あるいは、相手を自分の「崇拝者」にし続けナルシシズムを保ちたい、などという、どろどろとした思いが隠れている場合があると思います。

.....で、ちょっとでも「均衡」が崩れると、一転して険悪な関係になってしまう

(そういうきかっけの多くは、「うらやましがる」側が相手と「本当」に対等になりたい、あるいは「自分なりの」自己実現をしたいと「目覚めた」時におこる気がします。)

*****

私の若い頃の恋愛の対象は、あとから振り返ってみると、相手が「女性として」魅力的であるかどうか以上に、相手へのそういう「ねたみ」が実は常に隠れていた気がします。

私は心理学科の学部を出ていないゆえのコンプレックス、現場臨床に出るのが周りより少し遅かったコンプレックスがあったので、「学部からずっと心理学科に通っていた」人、「既に現場臨床の体験がある」女の人にばかり好意を感じ、求愛したりしてばかりいました(^^;)

つまり、恋愛感情は、全部「階級上昇」の野心と結びついて、相手を「利用」したいだけのものだった、ということに次第に気づいていき、そういう自分の「あさましさ」に凄い自己嫌悪に落ち込んだ時期があります。

でも、そういう自分の「あさましさ」に自分で直面し、気づいたから、「人頼み」ではだめで、結局ある意味で「孤独な」努力の中で理想の自分に近づくしかないんだ、と思えるようになった気がします。

*****

今も、例えば、私は、「現場臨床」にこだわっていて、少なからぬ「大学のカウンセリングの先生」より社会の生身のクライエントさんと接した経験量も多く、しかもそうしたクライエントさんとの具体的な関わり方の職人的な経験値は高いという自負はあるし、単に「大学の先生」であることより「現場のカウンセリング」で一人一人のクライエントさんに適切な援助ができることの方が価値が高いんだ、と、ほんとうに思っているわけですね。

常勤カウンセラーとして大学に勤めている時の「デスクワーク」(毎年大学全教職員と、全国の他の大学の学生相談室に頒布するかなり分厚い「報告書」を作るだけでも大変な作業量でした)から解放され、カウンセリング「だけ」を仕事にしていいことに、ある開放感すら感じています。

20年も専門の世界にいれば「臨床心理系」の大学の先生の「実情」がいろいろ見えて来てしまって、そんなにうらやましい境遇ではないよなあ

(「現場」から遠くなる、大学組織内部でのいろいろな雑用にいよいよ忙殺され、講義の準備や自分の研究の時間の確保すら大変になるetc,)

......と、ある程度親しい大学教員の知り合いには、むしろ心からの同情といたわりすら感じることがあります。

*******

ただ、それでも残る、大学の先生に「嫉妬する」唯一の点

それは、「経済的安定性」です。

私もこれまで大学の「常勤」カウンセラー(教壇に立つ必要はありませんでした)だったから、学会参加などの「研修費」はそこそこ出ていた。それが全部「自腹」となった時点でそのことそのものに「う”〜〜〜」と思ってしまいました。

それに、体調等の病気での休職を経ての辞職でしたから、「私学共済保険の任意継続」での傷病手当が出続けているので何とか借金背負わないでいられるけど、まだ回復途上の体調なのに少なくとも今の2倍は稼げないと本当の安定ラインに届かないんですよね。

だから「経済的安定性」に対する「大学の先生」への嫉妬心だけは今も時々もたげます(^^;)

でも、ひょっとしたら、私が、そうやって最初の1年ぐらいは「そこそこ」クライエントさんに来てもらえれば借金なしで開業を始められ、デスクワークの代わりにこうしてネットで書きたいことだけ書き、カウンセリング「だけ」していればいい境遇になったことに、

(身近な人からはそれでも「ハラハラしながら」見守られているとも思いますが)

「うらやましいよな」という目でも見られているんだろう
な、と思います。

******

ちょっと自分のことばかり書きましたけど、

私は敢えて、

「嫉妬」なんてどんな人間にもある「全く自然な」感情で、

「醜い」

と感じてしまうと

「自分の中の「嫉妬君』」

に対して、

「かわいそうな仕打ち」

をしていることにならないかな、と今では感じています(^^;)


『嫉妬君』

そのものが、まるで生身の一人の人間が皆そうであるように、

「邪悪な」だけではなくて、「切実な思い」を秘めた存在

のように思えて来たのです。

そうやって、自分の中の「嫉妬クン」に「共感」と「同情」すら感じ始め、それを、それこそ「ありのままに(♪それこそ禁区!)」許してあげたい気になりました。


そうなったら、不思議ですね。

さらっと「うらやましい」と相手のことを思える状態に、

「嫉妬君」そのものが「生まれ変わった」のですよ。


このあたりになると、頭での理解とかを超えた「悟り」みたいなものです(^^;)

でも、この「悟り」で、私はその「悟り」が得られる前の時点より、明らかに人との関わりに開かれた方向に転じたと思います。

私の、30歳ごろの、人生の大きな節目だったと思います。

........としか言えないんです。ゴメンなさい

*****

最近になって私はみゆきの曲をいよいよ改めて本格的に聞き直すようになったのですが、

最近出たセルフカバーアルバムの「いまのきもち」にも入っている、

「横恋慕」という曲、

もろに「恋敵」への、ある意味で凄くどぎつい挑発的な歌なんだけど、同時に、実はその女性への共感すら含めたやさしさのある曲と感じられるようになりました。

「本当は私と彼との問題なのに、あなたを巻き込んでごめんね」、という、もはや単なる「嫉妬心」を「昇華」した「いたわり」の歌として、少なくとも「今の」みゆきはとらえているだろうな、だから、再録音する気になったのだと思っています。

「横恋慕」はそれでもどぎつくてついていけないという人には、かつての「妹分」の友人に恋人を取られた恨みを感じながらも、でも彼女の成長への思いやりすら込めた、いかにもみゆきらしい歌、

【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 愛していると云ってくれ (CD)「玲子」

をどうぞ。これも、「いまのきもち」に収録されています。

******

みゆきって、恋愛に傷つく今の若い「女の人」への深いいたわりを抱いてるんですよね。

それは中島みゆき/歌姫 LIVE in L.A. ◆20%OFF!「囁く雨」のプロモビデオを見ると嫌でもわかります。

ちなみに、このDVD、同時収録されてるプロモビデオが「歌姫」「銀の龍の背に乗って」「地上の星」という、曲としてもMTVとしても傑作ぞろいの感動もので、わずか1600円ですから、超お買い得商品です

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2005/12/22

「クライエント中心療法」=「お客様は神様です」カウンセリング!!(第3版)

さて、前の記事の「改訂版」(^^;)で、思わず追加した一言から、まずは、「予定外の」在庫一掃セール」を、ウォーミングアップ的にはじめましょうか!!

前の記事改訂版で、


> 実は、私の書いてるカウンセリング系の文章って、
> 実は一般の方や,
> 「潜在『顧客(=クライ「ア」ント」さん)』層」


を対象にしているだけではなくて、特に「『若い』カウンセラー」を読者層として想定している、と明言しましたので、この部分からだけで「2題」、私としては短めのを書けます(^^)

(もうひとつはこちら

*******

私が、クライエントさんになるかもしれない人たちのことを「顧客(層)」と表現することがこれまでも平然と繰り返されていることに、ある種の「違和感」があった方はあるかもしれません。

では、「顧客」の英訳は何ですか?

...........

"client"

じゃないですか!!


ただし、日本ではなぜか、

ビジネスの世界では「クライ『ア』ント」、

カウンセリングだけが「クライ『エ』ント」

と使い分ける文化が定着しただけなのです。

私は、クライエントさんを目の前にしていなくても、「クライエント」とだけいうと何か人の名前を呼び捨てにしているみたいなのが凄く嫌なので、これまで「業界内部」でも、口語で話す時にも「クライエントさん」という言い方を好んできました。

最近は、いっそのこと「お客様」とする方が、「的確な」日本語訳ではないかとすら思っています

少なくとも、最近医療業界で使われる「患者様」という言い方の方が無理な響きがあると常々思ってます。

ただ、ある意味では、医療業界の方が、自分たちは「サービス業」である、という意識の成熟が日本ではほんの十数年の間に進んだと思います。20年前に比べたら、多くの医者や受付、看護婦さんたちはすごく親切丁寧ですよね、大病院の多くは、銀行のフロアみたいな雰囲気になりました。

ここには、インフォームド・コンセントという概念の普及、保険料自己負担分引き上げなどと共に、都市部では病院が増えすぎてきて「競争」の時代に入ったことが大きいと思います。

(もっとも、夜間救急医療の体制は相変わらず問題だらけの地域が少なくないようですが)

*****

話を元に戻しますが、

だから、相談に来られる方は、「クライアント(依頼人=顧客)」=「お客様」なんですよね!!

つまり、「クライエント中心療法」とは、

(日本語では、".....-centered"とか、".......-oriented"という言葉のニュアンスをなかなか伝えられないのですが)

文字どおりに理解すれば

「お客様は神様です」カウンセリング

と受け取るのが正しい!!

*******

これって、ジョークみたいだけど、実はそうではないと私は感じるようになりました。

つまり、日本のカウンセリング業界は、いい意味での「サービス業」精神がまだ欠けている、その点ではひょっとしたら良質の病院以下ではないかと感じ始めたのです。

そういう問題意識の具体については、実はこのブログのあちこちで明言し、あるいは明言されないけど言外に、あるいは「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」のシステム上のポリシーとして、具体化させて来た「つもり」ですので、ここでは敢えて繰り返すことをご遠慮し、むしろ読者の皆様のご判断にお任せしたいと思います。

ただ、一言。

日本の「商売」でいう「お客様」と、欧米のビジネスでいう「顧客」に対する意識に当然違いはあります。それはそれぞれ長所短所があると思いますが、

少なくとも日本でもいえることは、いくら「お客様は神様です」と言っても、

お客様がその商売で代価として得られる「サービス」には、
多少の融通はあっても、

やはりある一定の「枠」がある

ということ。老舗のよくできた女将さんなんて、お客の無茶な注文には、「丁重」かつ「にこやかに」。しかし「有無を言わさぬ冷静さと威厳を持って」お断りするだけのすばらしい「オーラ」がありますよね。

(恩師、故・村瀬孝雄先生の奥様でした、大正大学の村瀬嘉代子先生老いを生きる、老いに学ぶこころ(先生の近著です)なんて、そういう「老舗の女将さん」的「オーラ」がものすごい先生と思います。クライエントさんには聖母のごとく気を配り、「お店の番頭や丁稚」には震え上がるぐらいに厳しい(^^;))


そういう厳しい「サービス業精神」の修練のためにはそれこそカウンセラーを「老舗」の旅館や料亭、ホテルに「実習」に行かせる方がいいのではないかとすらお思います。

そう、● 千と千尋の神隠し DVD(2002/7/19)「千と千尋」みたいに!!

****

浜崎あゆみが浜崎あゆみ DVD【Ayumi Hamasaki Arena Tour 2003-2004 】10%OFF+送料無料コンサートライブの最後で見せる、ほんとうに深々とした腰を折った長いお辞儀は、ライブを知っている人には有名です。

ayuぐらい、観客の応援あっての自分なんだということに謙虚な歌手は珍しいと思います。

一方でスタッフには震え上がるくらいに厳しい「女将」だろうというのも想像がつきます(^^;)

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2005/12/21

「ほんとうの自分」をさらさない権利は、万人に保証されねばならない。さもなければ、他者との「本当に深い」心の絆なんて生まれない。(第2版)

先ほどの記事の、更に追い打ちを、みゆきとayuでかけますね(^^)


>黙っているのは卑怯なことだと おしゃべり男の声がする


なるほど、「アサーティブ」なことは大事ですよ。

でも、


> 確かな思いは感じるのに ねぇうまく言葉にならない


ことなんていくらでもあります。

自分の気持ちにぴったりの言葉、しかも人に「伝わる」言葉が容易に見つけられないから、みんな悩み、困惑するんですってばさ。


> 上着を着たまま話をするのは 正気の沙汰ではないらしい


「心を開いて」、「本当の自分をさらせ」

と、カウンセラーにいわれると、まるで「脅迫されている」ようにも感じるのにね。

話を受容されればされるほど、カウンセラーと自分の境目がはっきりしなくなり、カウンセラーに自分をすべて「呑み込まれる」ような不安を感じる人もあるかもしれない。

「ほんとうの自分」をさらさない権利は、万人に保証されねばならない。

そうでないと、他者との「本当に深い」心の絆なんて生まれません。


> 脱がせた上着を拾って着るのは 賢いことらしい


そうやって人の心を「守って」いる、大事な「偽物の自分」を引きはがしておいて、そのあとは何もうまく対処できなくて、クライエントさんの症状を一層悪化させて、

クライエントさんはそういう自分を取り繕って

「カウンセラーを」傷つけないように、慇懃に、「別れの言葉」を述べて立ち去っただけなのに、

つまり、本当は傷つきながらも、カウンセラーを「見限った」だけなのに、

それを「重篤なケースの成功事例」と位置づけて、「学会発表」までして、

自分の「業績」にしてしまうような

「臨床心理学者」

ばかリでないかと思えてきてしまって、

別のカウンセラーに相談しようとしても、

「不信感と猜疑心」だけが先立ってしまって、いよいよ心を開けなくなるんだよね。


*****


i以上、

中島みゆきの”裸足で走れ”【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 親愛なる者へ (CD)(アルバム「親愛なる者へ」冒頭曲

浜崎あゆみのNo way to say“Original Mix”"No way to say"浜崎あゆみ/Memorial address(アルバム"Memorial Address"収録)

よりの引用でした。


*****


何より、自戒と、過去の臨床家としての「私」への反省を込めて。

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「ほんとうの」自分、「ありのままの」自分、どちらもカウンセラーの方からは使うべきではない「禁句」である(第4版)

のっけから何とも挑発的な発言ですが、


「ほんとうの」自分、

「ありのまま(あるがまま)」の自分、

という言葉を「カウンセラーが」「自分から進んで」使うのを聴くと、

私は「虫酸がはしる」タイプです!!


(もちろん、クライエントさんがこれらの言葉を使う分は何とも自然なことだし、

ayuをはじめとする歌の中で使われる分は全然気にならないのですが(注1))

なぜなら、「本当の自分」「ありのままの自分」でありなさいと「あっさり」言われることぐらい、

クライエントさんを悩ませ、「絶望させる」言葉はないはずなのに、

それを「無神経に」使えるカウンセラーの神経を疑うからです。


******


クライエントさんの非常に多くは、

まさに「本当の自分」とは何か、

「あるがままの自分でいること」とは何か、

ということに苦しんで来たのです。


なのに、カウンセラーの方から、クライエントさんに取っては「絶望的」に感じられている「理想」をまたもや指し示すことでクライエントさんを「苦しめない」であげてほしいのです。

クライエントさんの苦しみに、カウンセラーが、

それこそ「ほんとうに」共感していたら、

「カウンセラーの側から」これらの言葉を口にするのは憚(はばか)られるくらいの思いにかられるのが自然なような気がします。

*****

「本当の自分」「あるがままの自分」とは何か。


「あるがままで」いられなくて、

「本当の自分」がわからなくて、

まさにそのことで苦しんでいて、

その一方では、世間からは「自分探し」そのものがビョーキ、みたいな声すら聴こえて来て、

もっと「まったり」生きろ、とわかったような口をきく「某社会学者」とかもいて、

でも「今の自分の現状に「苦しんで」いて、そういう自分からぬけ出したいと思っているのに、

そういうことでなやんだりすることそのものが問題なんだ、ビョーキなんだ、

みたいに、「評論家やカウンセラー」や「学者は世間を見たような気にな」り、教え諭してくるのにも気持ちは揺るがされるし、

なのにそういう連中はそれを「口にする」だけで「米を買って」いるし、映画やドラマの類いは「はじめから答えを教えてくれる」だけなのに、そんなの「みんな嘘」、物語の世界だけのこととしか思えないのに、それに振り回されてしまう。


(細かく典拠は示しませんが、中島みゆき/Singles 2000 【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 寒水魚 (CD)【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 愛していると云ってくれ (CD)【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 大銀幕 (CD)中島みゆきのいろんな歌の歌詞からの引用です)


そういうクライエントさんの苦しみに、

世のカウンセラーよ、

下手なお題目を唱える暇があったら、ともかくまずは実際に、具体的に寄り添いなさい!!

*******

(注1)
ayuが歌詞の中で「ほんとの自分」「本当に欲しいもの」「あるがままに」という言葉使う時は、実は非常に複雑で真摯な思いを込めていることが多い。詞の前後のどういう脈絡で出てくるかに注意して来ださい。

ただ、個人的には、ayuもこれらの言葉に頼らないで、自らの「言葉にならない何か」の、ayuなりの言語化にもっとチャレンジしてほしいのですが。ayuの詩は、時として「難解」と感じさせるほどの不器用さ、で自分の言葉で語ろうとする。最近またその「難解度」が久しぶりに上がって来てます。よくぞこれに曲がつけれられたと「見え」かねないところこそむしろ魅力なのですが。

(みゆきだと、ほとんど「リズムにのせた言葉遊びの魔術師」といいたくなる時ありますけどね。本人も中島みゆき/Singles 2000"SE・TSU・NA・KU・TE”という曲の詞の中で書いてますけど、「キザな」までに「科白をきめる」ことの達人です。

> 上から読んでも 下から読んでも よのなかばかなのよ
【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / おかえりなさい (CD)(世迷い言)

とか

> ゆうこあいこりょうこけいこまちこかずみひろこまゆみ 中島みゆき /Singles(あの娘)

とか。

みゆきは、既に「あるがまま」とか「ほんとうの自分」という言「むき出しで」使うのなんて「ケッ!」というタイプかなと思います。誰よりそのことで悩んで来たからこそ安易に使わない、使ったとしてもかなりひねくれた皮肉になったりする。

むしろ「ほんとの自分を偽らざるを得ない女心」を、すばらしい等身大の詩情をもって、時にはものすごく「開き直って」歌って共感を得て来た歌手と思います。

ユーミンも意外とその種の曲が多いのではないかということはこの前言及しましたよね)

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2005/11/14

人には、他人を「誤解」し、他人について「思い込み」を抱く権利と自由がある(増補第3版)

相手に「正確に」気持ちを伝えたい。

他人に「ほんとうに」わかってもらいたい。

他人の気持ちや意図を「誤解」したり、勝手な「思い込み」で攻撃したり非難して、相手を傷つけたりしたくない。


これらの感情は、全く自然なものだと思います。


*******


しかし、私はこれを機会に、敢えてひとつの「逆説的な」宣言をしたいと思います。

他人を「誤解」したり、勝手な「思い込み」でものごとを判断して「自己完結」してしまう自由と権利は万人に保障されねばならない.......と。

「お互いに相手の真意を理解しあえなければならない」

これは確かにひとつの崇高な理想かもしれない。

でも、この「ドグマ」に縛られた時、むしろ人と人との間に果てしのない悪循環が始まる危険もあるのではないか?

*****

そもそもあなたは自分の「気持ち」や「行動の意図」をすべて正確に理解している自信はありますか? ないでしょう?

それなら、他者の「ほんとの気持ち」や「動機」「意図」とかについて「正確に」「偏見なく」捜し求めようとすることは、はじめから果てしない泥沼に陥って当然ではないでしょうか。

人とは、自分や身近な人や他人や世界の森羅万象について、適当なところで「思い込んで」いることで、はじめて「安定した自我」を抱いて日々を過ごせる程度の、不完全な生き物でしかないのではないか?

もちろん、「思い込み」を乗り越えて、「現実」と出会おうとすることにより、確かにその人の他者認識や世界観や相互理解を深まることもあります。

しかし、それですら、『その人の』「体験過程」のステップが一歩前に進んだということに過ぎない

*****


もとより、いわれのない差別や偏見や、ありもしないデマで苦しまされ、場合によっては殺されるにいたった数多くの人々の歴史、そして今も続く抗争は悲しいものであり、そうしたことが生じないようにするための相互理解への努力は大変貴重なものです。

しかし、実は、

「自分の理解には結局限界があり、どこまで言っても一面的なものでしかありえないのかもしれない」

ということを認められる人が増えた時、はじめて人は、何とか「共存」できるものなのかもしれません。

******

特に、相手の心を、自分の気持ちへの「的確な理解」に向かわせようと「強制」し始めた時、人は結局その人の心を乗っ取り、その人の心を自分の心の「延長」として扱おうという「悪魔の誘惑」の領域に踏み込んだのかもしれない。

「誤解を解く」ことを諦めること、

「相手の意図を誤解したままかもしれない形で相手との関係を終わりにする」ことで、自分が「加害者」になったままになることを引き受けること。

これしか、無駄な傷つけあいのない、平和的な「別れ」と、事態が自然と収まるところに収まる形での「再出発」をはじめられないことは、あるという気がするのです。

******

この「逆説」を敢えて私が語ることの意味が、皆様に「ある程度」「多少は」理解してもらえると信じつつ。


> 憎むことでいつまでも あいつに縛られないで

> ここにいるよ いつまでも
> ここにいるよ うつむかないで

> 空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
> 君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる


小原孝『空と君のあいだに』中島みゆき/Singles 2000中島みゆき「空と君のあいだに」より。

このみゆきのアルバムの「愛情物語」という曲の歌詞を、私の書いたこととひきつけて読み込むと面白いかもしれません。


*****

人を「誤解する」自由のないところに、「相互理解」や「相互への信頼」は育たないと思います。

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2005/10/26

音で「見る」こと ~「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」体験記~

実は予約していた竹節さん(先日当ブログへのコメントも下さったので、お礼を込めて名前をお出しします)が急用で出られなくなったとのことでしたので、入場券を譲っていただき、本日、広尾のドイツ大使館となりで開かれている「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」に、事前にその日の仕事の予約は入れないようにして、行ってまいりました。

これは、真っ暗な部屋部屋を、視覚障害者の方の案内で、杖を頼りに約1持間巡り歩き、いろんな体験をするというもの。橋や階段があったり、ホーム際の点字ブロックがあったり、ついには真っ暗闇のバー(当然、注文に応じる人もみんな真っ暗の中で作業してます)で乾杯までするという、アトラクション性を持たせた、視覚障害者の体験世界を疑似体験する啓発的な場を、一般の人たちにも幅広く体験してもらおうという企画で、今や世界のあちこちで開催されているようです。

関西地方で開催された際参加されたフォーカシング仲間が、いろいろご自身の体験をfocusing-netで書いてくださっていたことが予備知識的にも幸いしたのでしょうが、ほとんど何の当惑緊張ももなく、さらりと体験できてしまったのには自分でも驚きました。

私が興味深かったのは、結局何より耳のステレオフォニックな反響音がたよりになるということ。人がどっちを向いて話しているかもちゃんと聴覚的に感じられるし、杖というのは、床の状態や段差を測るためというより、自分で杖を突く音を響かせることによって、その反響から残響から空間の大きさや広がりを、まるで「目で空間を測定するように」体験できるということでした。

普段からそれなりに凝った装置で音楽を聴きなれていることで「同相」の音と「逆相」の音(FMでスピーカのとかのザーという音を流して片チャンネルの端子をブラスマイナス逆ににつなぎかえると容易に体験できます。要するに片方のスピーカーが同じ音を1ミリ前に張り出して鳴らしている瞬間に、反対のスピーカーは逆に1ミリ後ろに引っ込んで鳴らしている。これは音の定位を独特の形で歪ませ、不自然によじれた音空間を作ります。自然音もあちこちに反響する中で「逆相」成分が生まれます))が入り混じり反響する中に生じる「空間プレゼンス」に敏感になっていたのも幸いしたかもしれません。

間に人が立っていれば、音は単にソフトになるばかりか、ちょうど人間サイズの独特のやわらかい音響吸収・反響体の両側から「回りこんで」来るのが、壁との反響の関係で聞き分けられます。

においにも自然と敏感になりますね。

また、フォーカシングになじんでいたせいでしょうか、「身体内部」感覚がもともと鋭くなっていて、自分の手足や指が今どこにあるのか、全く外れないのです。

たとえば暗闇で杖を持った右手の人指し指に左手の親指をくっつけようとしても全く期待通りの場所にくっつけられます。グラスを口元に運ぶのにも全く狙いが外れず、中のジュースがどれくらい傾ければ開けた唇にどのくらい流れ込むのかも完全に掌握できました。

中にはグラスを歯にぶつけたり、鼻に流し込んでしまおうとした人もいたようですが(^^;)

というわけで、フォーカシングなじんでいる人は、「身体内部感覚」に敏感な分、目が不自由な皆様の感覚の仕方に一般になじみやすいのでは、という仮説すら立てたのですが。

ともかく、面白い体験でした。視覚障害者の方は「たいへんだなあ」というより、目が見える私たちと違う形で、周囲の世界を鋭く体験し、視覚という「意味情報」に依存しない分、世界を『濃厚』に「身体で」浸って味わっておられるのではないかとすら、感じました。

我々にも、目を頼りにしている分、普段は味わい逃している「豊穣な体験世界」が、実はいつも自分を包んでいるのだと。

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2005/10/13

クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと

さて、ここから延々続いてきている、「受容・共感と自己一致の相克」シリーズ、前回からの続きです。

(やっぱりこのシリーズの新作を載せた後が、一番アクセス数の反応がいいもんな~)


*******

前回、クライエントさんに「共感しようとがんばる『自分』」と「共感しようとしても感じられる、違和感や苛立ちなど、クライエントさんに対して生じてくるnegativeともいえる感情を抱く『もう一人の自分』の両方を、カウンセラーが、自分の中でどちらも「俯瞰して」眺めて、「対象化」し、

「どちらの気持ちも自然だよなあ、『共感』できる」

と静かに自己受容、自己『共感』して見つめる第3の視点を確保できるだけでも、カウンセラーの中の葛藤は静まり、それこそまさにロジャーズの言う「自己一致」そのものなのではないかと述べ、

そういうカウンセラーの自己一致の達成は、カウンセラーが何も言語化しなくても、カウンセラーの非言語的なメッセージや態度が、2人の「場の雰囲気」を通して「空気伝染」し、数十秒から2,3分の沈黙の後に、クライエントさんもそれまで自分を縛っていた「何か」ほどけ出して、ほとんど無意識のうちに、本人自身それまであまり重大と考えていなかった、一見話が脇道にそれるような形で、むしろカウンセラーがクライエントさんに共感を深める上で結果的に決定的ともいえることを語り始める中で、二人の絆が深まる糸口が見つかることが実は多いということを書きました。

(これくらい「前回のあらすじ」をここで書いておかないと、ちょっと時間が空きましたものね)


******

さて、このことの応用形として、カウンセラーとしては「中級篇」かもしれないことを次に書くと約束していました。

「中級篇」というのは、ここまで私が書いてきたことを全く自然なものとして面接現場でできるようになる前に、以下のことにチャレンジすると、一見似たようなことができたかに見えて。実はクライエントさんにはまだ早すぎる「勇み足」となり、弊害がでることもあるからです。

「『害がない』ことこそが一番の治療である」

確か中井久夫先生神田橋條治先生が繰り返されてきた「逆説的」名言です。

あまり新しい技法の活用への「色気」に乗らないことです

私の中には、実は、この「色気」に屈しようとしている時の自分への厳しい「嗅覚」があります。

.......ということはその「色気」に屈して、痛い思いをしたことが私自身何度となく重ねてきたからこそ成立した「嫌悪条件づけ」のようなものが出来上がっているに過ぎないということなんですが(^^;)。

逆に、

「おい、ここでそんなことクライエントさんに言って大丈夫かよ!!」

と私の内なる声(内なる「批評家(critic)」とフォーカシングの世界では言います)がどれだけかびすましく、一見合理的な理由付けで引きとめようと、私のはるか上空から、

進め!

絶対命令が聞き取れたら、「御心のままに」一気に突っ走る、そしてそういう時はなぜか失敗しない、「ジャンヌダルク」こういちろうなんですが(^^;)

(ミラ・ジョヴォヴィッチ主演、リュック・ベッソン監督の「この」映画は、カウンセラー、特に精神分析系の人にはお勧め!!)


*****


などと余計な薀蓄はこれくらいにして、その「中級篇」の具体とは?

クライエントさんに共感できない自分を「もう一人の自分」として「内なる<第3の視点>から」、静かに「自己共感」するところまでは同じです。

次に、そこで感じている自分のクライエントさんへの「共感できなさ」のモヤモヤした感じに、感覚的にぴったりの手短なことばをじっくり捜します。

「え? それって、面接の最中に、カウンセラー自身が自分の内面にフォーカシングはじめちゃうわけ?」

そういうことになりますが、フォーカシングを一人フォーカシングが自分の現実生活に役立つぐらいにまで身につければ、あなたも必ずできるようになります!!

(クライエントさんとの話が沈黙に入った瞬間でもいいですが、慣れてくると、クライエントさんの話を聴き、伝え返しをすることをしながら「マルチタスクで」このことをできるようにもなります)


例えば、その結果カウンセラーの内面に浮かび上がってきたぴったりの言葉が

「いらいらする」

だったとしましょうかね。

カウンセラーも、クライエントさんの発言に「いらいらする」ことがあるのだ、とここではっきり書いてしまうことそのものに反感に近いものすら感じる方が、同業者の中にもあるかもしれません。しかし、私は、いわゆる「カウンセラー的な」、やさしく、美しい、達観して、人の心のことなら何でもわかっているような言葉を書き連ねるあり方そのものが大きらいなもので。むしろ「自分を含めて、人の<心>とはそんなに容易にわかりえない"something"だからこそ、生きた生身のひとりひとりの人間に宿る、尊重に値するものと思っています。つまり「わからない」「共感できない」「理解できない」ことを自分の中で認めるところから、はじめて、自分や他者の<心>に寄り添い、交流する糸口が生まれるのです。)


さて、

「いらいら」しながら話を聴いているカウンセラーとしての私がそこにいる。

ある意味では、クライエントさんに「いらいら『させられて』いる」と感じている私がいる。

その「いらいら」をクライエントさんのせいにする(attribute)形で決め付けるのはよくないのはいうまでもあるまい。

「この人、やっぱり『ボーダー』ね。こうやって治療者を巻き込もうとする」

・・・・・なーんて内側で連想する「気休め」はじめるカウンセラーなんて最悪ですね。

その瞬間に、上っ面はどんなに受容的でも、カウンセラーである「あなた」の体が発散する「気」が、クライエントさんに「見捨てられ体験」をひきおこしはじめていたりして(などと、少し「中級篇の」皮肉^^;)

****


1.しかし、「この」クライエントさんが、「私」をいらいら『させる』形でしか、今は私に伝える術(すべ)をもたないのだとしたら?


そういう発想をするだけで、また少し、カウンセラーである私の中に、少しの「心の余裕」が増加します。

******

2.次に、

ひょっとしたら、「この」クライエントさんは、

家族や親しい友人やそれまでのカウンセラーとも

私が今、「こんなふうに」感じているような形で、

相手を『いらいら』させる結果、関係が悪化するという

「堂々巡り」

をしてきたのではないか、


仮定して、感じてみる。


これでまた、カウンセラーの中に、クライエントさんへのむしろ「同情心」すら感じる余裕が、さらにできます。


*****


3.更に、


「クライエントさんが、こんな不器用なやり方で、まわりに伝えたいのに、結局果たせないで来た<思い>って、何だろう?」

と、クライエントさんの「身になった」感情移入的フォーカシングを虚心にしてみる。

例えば、


『わがまま』?


........うーん、何か違う。


『頑(かたく)な』?


........お! かなりいい線行ってるけど、あと一息欲しいナア.........


『頑固』


........うん、こっちの方がいい!!

たいてい、カウンセラーの中でほんとうにしっくりくる言葉は、こうした、2,3回の試行錯誤の過程で出て来るんですよね(フォーカシング一般がそうですけど)。

次に、そういう試行錯誤のプロセスで「棄却された」言葉すら活用する!!


*****


4.なぜ『わがまま』ではだめで、『頑固』だとOKなんだろう」

と、カウンセラーは再び自らのフェルトセンスに問いかける。


「..........『頑固』っていうと、何か、本人が自分の意志で、石のように動かない、っていうエネルギー溢れる「何か」が含まれている気がする。そういう含蓄は『わがまま』だけでは感じにくいような........」


実はこの「ぴったりの言葉を捜す過程で棄却した言葉(ここでは『わがまま』)を、最終的に選択した言葉(ここでは『頑固』)と比較する形で味わい、最終選択した言葉の固有の含蓄を更に深く見出す技法は、私もまだ既成のフォーカシングの技法書では読んだことがありません。

これを機会に『差分的照合』と命名し、著作権主張しておきますか! (c)阿世賀浩一郎

もっとも、この技法の先駆に当たることは、他ならぬ私自身が、13年も前の駆け出しの頃に「学会誌処女原著論文」でに書いているのですが。

(「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」 人間性心理学研究  第9号 1992 研究業績目録参照)


******


5.こうした比較の中でさらに鮮明に浮かび上がった、この『頑固』という言葉ではじめてしっくりくる固有の感覚の質を、カウンセラー自身の身体に、そして面接現場の場の雰囲気に響かせるつもりで味わう。


......まあ、面接のやり取りを進めるただ中で(!)、カウンセラーが、こうしたことをマルチタスクで、あるいは沈黙の中でのショートフォーカシングとしてやっていたら、それは「場の雰囲気」として「空気伝染」して、そのころにはクライエントさんとのやりとりは、「どういうわけか」生産的なものに変化しているでしょう!!

『頑固』という言葉そのものは結局クライエントさんに語られないままなのです。


仮に言葉にするとしても、それは、ちょうどいいタイミングがくるまで、「クライエントさんに無理なく伝わる言い方」を更にフォーカシングして探して、暖めておきます。

それは例えば、

「あなたの話を聴いていたら、あなたの中に、どうしても守り抜きたい『何か』があって、それを、デン!と座って、必死にかかえて『守って』いるような気がしてきたんだけど」

という言い方になるかもしれません。


思わす、これを書いている「今」、ayuの、


> ガラクタを守り抜く腕は どんなに痛かったことだろう
> 何を犠牲にしてきたのだろう


と、

浜崎あゆみ/A BALLADS "TO BE"

の歌詞が思わず浮かびましたが、

私はこういう時、


「あなたayu知ってるかな」


といって、一節歌ったりするんです。

すると、思わす目頭を熱くし始めるクライエントさんも、時にはいます。


*******


以上、実はすべて、過去の経験からシミュレーションした、「架空の例」です。

そっくりそのまま「ああ、自分とのカウンセリングだ」と当てはまるクライエントさんはいないはず。

でも、自分とのカウンセリングも、「これに似た」形で進められていたのかな、と、思い返すクライエントさんは少なくないかもしれませんね。


私のカウンセリングの現状での「到達点」を、これでまるごと、ありのままに公開したことになります。

(論文にもしないうちに、もったいない? 一応著作権主張しておこう (C)阿世賀浩一郎


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2005/10/04

自分が相手に共感できて「いない」ことを「自己『共感』」すればいいのだ!!

さて、「受容と共感」と「自己一致」の相克シリーズ前回の続きです。

前回は、クライエントさんを受容できなくなっていくカウンセラーの内面を赤裸々に暴露しすぎて(^^;)世間一般の人へのカウンセラーが人格者であることへの幻想を打ち砕き、がっかりさせてしまったかもしれませんが、

(え? 「それはとっくにお前(こういちろう)がとっくにこのブログで散々やっているだろうって?)

カウンセラーは「聖人」ではありません!!

むしろ、普通の人がプロとしての職人芸を磨いたものなんです。

むしろ、その「職人芸」の実際に感心してもらえることを私は目指しています。


****


実は、前回書いたようなところまで、カウンセラーははっきり「自覚しないまま」、ただ、やみむもに、我を忘れてクライエントさんを受容しよう、しようとがんばっていることが多いんですね。

だから、このブログをお読みのカウンセラーの皆様も、私のコメディタッチのカウンセラーの内面描写を、むしろ爆笑しながら


「そうそう! そうなんだよな~」


と、それこそ「共感しながら」読んでくださったものと信じます(^^)。


*******


では、どうすればこのジレンマから抜け出せるか?

答えはある意味でシンブルなんですよ。


「カウンセラーとクライエントさんは、自分と別の人格を持った個人なんだから、相手の言うことにすべて共感できないのは当たり前だ


という前提に立つことです!!


ただ、普通の人と違うのは、そうやって「相手に共感できない自分」「対象化」して、「自分の中にもそういう『共感できない』部分が『いる』」ことを、共感を持って(爆)、静かに「自己受容」するスキルを磨ける、という点にあります。


「今私は、一方で、クライエントさんの気持ちに寄り添って理解しようとしている、そういう『私』の気持ちって、当然だよな、『共感』できる」

「でも、もう一方で、クライエントさんの言ってることに、むかつき始めている。そりゃ、前回に続いて、今度はどのように死にたいかまで詳しく話し始めるんだものな。『こっちが必死に心配しているのに、何だこいつは』といらだち始める、『もうひとりの私』がいて、これも当然だし、『共感』できる


この時点で、カウンセラーは、自分の気持ちに正直になれています。

つまり、「自己一致」できているんです!!


*****


不思議なもので、カウンセラーが、そうやって、自分の中の『二人の自分』の両方に共感できた時点で、カウンセラーの気持ちも楽になり、心にある種の余裕すら生まれます


「ま、あとしばらく、クライエントさんの言い分を聴いていると、共感の糸口となること、話してくれるかもな」


・・・・・・驚くべきことに、これはそれから「数十秒から数分のうちに」、現実になることが多いです!!

クライエントさんが、それまで話していなかった、予想外の話題を突然話し始め、それを聴いたら、以前より、クライエントさんの心境に、実際、「共感」しやすくなるのです。

面白いのは、クライエントさんの側には、そんな重要なことを話したという自覚はなく、「何となく」話題をそちらに向けたという自覚しか、少なくとも当初はないことです。

しかし、その「何となく」の「余裕」を、クライエントさんに生み出したのは、実は、さっきまで「受容できないものを受容しようと必死にがんばっていた」カウンセラー自身が、さっきのような「自己共感」の段取りを内面で進行させて、「余裕」を取り戻したことが、カウンセリングの「場の雰囲気」を通して、クライエントさんに「空気伝染」したからではないかと、私は考えています。

「空気伝染」というのは、半分ジョークですが(^^;)、人と人とは、非言語的な「気配」でコミュニケーションしている部分が、実は一般に思われているより大きいのではないかと思います。

早い話、カウンセラーが「強情なまでにがんばって」話を無理して聴いていたら、クライエントさんも「強情に言い募る」と思いませんか?

***

さて、次回は、このカウンセラーの「共感できない自分」の自己受容を、さらに積極的に「活用」して、面接を生産的にするコツのことを書きましょう。そこまでくると、カウンセラーとしては「中級編」の技能に属することですが。


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2005/10/03

カウンセラーは、クライエントさんの話を「受容・共感」できない方向に、徐々に追い詰められていくことも多い

さて、カウンセリングにおける受容・共感についての入門編であった前回の続きなんですが。

受容・共感していくつもりで話を聞いていくと、カウンセラーであるあなたは、必ずといっていいほど、途中で、ある葛藤と壁にぶつかります。

クライエントさんが、あなたが受容も共感もしにくいことを話し始めるわけです。

例えば、やや極端な例で言えば、


「死にたくて、その方法を色々考えているんですよ」


「実は、私は同姓のほうを好きで、性転換手術を真剣に考えてお金を貯めています」


なんてその典型です。


そこまで行かなくても、

「大学を辞めてしまいたい。この大学の人たちってちゃらちゃらしている奴が多い。あんな連中ばかりじゃ友達もできない。授業も退屈で。やはり第一志望だった大学に入りなおそうかと、仮面浪人を考えています」


なんて話を聴いていたら、あなたの中に、思わず


「どこの大学だって似たようなものだよ」
「友達ができないのは、あなたの受け身な性格のせいもあるのでは?」
「まじめな学生や、いい先生とまだめぐり合えてないだけだよ」
「友達が大学でできなくったって、バイト先とかでいい友達にめぐり合えればいいじゃないか。実際私はそうだったし」
「辞めることで高い入学金や授業料、アパート代とかを払ってくれた実家の親に申し訳ないと思わないのかしら」



などなどという、いろんな思いがあなたの中を駆け巡り、それが、


「クライエントさんの言うことは、まずは『受容・共感』して聴いてあげないと」


という、カウンセラーであるあなたの中のドグマ(「カウンセラー教」の、神聖にして犯さざるべき「絶対的教義」)葛藤を起こし始めるかもしれません。

*****

こういう時、とりあえず無難な切り抜け方は、

カウンセラーとしても受容・共感しやすい切り口から、クライエントさんに更に詳しく話してもらう方向に促すことです。


「そんなに死にたくなるようにつらいんだ。そのつらさについてもっと話してくれる?」
「自分が男(女)であることへの違和感って、どういうあたりから感じ始めたの?」
「授業がつまらない、って、たとえばどんなふうに?」


こうやって、クライエントさんに事情や状況を更に詳しく話してもらうだけで、クライエントさんがそれまで語っていなかった、カウンセラーにとっても予想外の、受容・共感しやすいエピソードが語られ始めることも少なくありません。


*********


しかし。こうした「更に詳しく話を聴くこと」で、クライエントさんに共感しやすい接点が見つかる場合ばかりとは限りません。


聴けば聴くほど、いよいよ受容・共感「しにくい」話を繰り広げ始めるクライエントさんも沢山います!!


あるいは、前回の面接で、理解しあえる接点が見つかったと思ったら、次の面接ですべては振り出し、ということもあります。

例えば、今度は、自分がどのように死のうとしているかについての具体的な計画をいよいよ延々と具体的に話し始めるかもしれません。


カウンセラーとしてのあなたは、正直うんざりし、無力感すら感じながら、

それでも「負けてたまるか!」とばかりに、

(おいおい、あんたはクライエントさんと「勝ち負け」争ってるわけ?)>


「このクライエントさんを受容・共感してみせる!!


という使命感に燃え

表面上はニコッとした優しい顔で、

がんばって話を聴き続けるかもしれません(^^;)


あるいは、


「こういう『希死年慮』が強いクライエントさんは精神医療との連携を考えるべきである」


という方向に一気に考え出すかもしれません。

(半分皮肉なの、わかりますよね)


*******


なにか、こういうあけすけな次元で、カウンセラーの葛藤をリアルに書いた文献ってあまりない気がしてきました。

書いている私自身、面白くなってきたので、当初と「予定変更」します。


わざと、少しずつ、長期連載にして小出しに書いていきましょう。

次回、請うご期待!!


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2005/10/02

「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)

さて、前回の、カウンセリング場面で、クライエントさんを受容・共感することと、カウンセラー自身が「自己一致」していることをどうやって両立させていくかについて、私がカウンセリングの現場で用いている技法について具体的に説明していきます。


まずは、「共感的理解」についての、私なりの入門講座からスタートします。


*****


私は、「共感」ということは、一般に考えられているより、はるかに精緻な事柄と思っています。

これは、すでに"7.11 Asega Doctrine"のなかでも、その中の「プロ・カウンセラーの第3の条件」として書いていることにもつながるのですが、

例えば、恋人に振られて「傷ついて」いる人がいるとして、その人に「共感的理解」を示すとは、とういうことを指しますか?


1.同情深げに、ともかく相手の話を「うん、うん」と聴いてあげることでしょうか?


なるほど、自分の意見を差し挟まずに、まずは相手に話したいだけ話させてあげること、それは「受容的傾聴」の基本です。

現実の友人関係とかでは、相手の話途中でさえぎって自分の意見を述べたり、

「あたしの場合はね~」

......とかいう調子で、「自分の」失恋談義に「すり替えて」しまう(^^;)とかが普通です。


カウンセラーは、まずはそういう聴き方を「超える」ことができねば「存在意義」はありません。


ただ、できれば、一方的に、「うん、うん」というだけで延々黙って聴いているのではなく、

時々、「クライエントさんの身になって」、自分の解釈や意見を差し挟まずにクライエントさん自身が使ったキーワードはそのまま大事にしながら、要点だけでも「伝え返し」をして、カウンセラーの理解と、クライエントさんの伝えたいことにズレが出てきていないかを照合することは大事です。

今、「クライエントさんが使ったキーワードはそのまま大事にしながら」と書きました。

例えば、クライエントさんが

「悔しくて」

という言葉を使ったところについて、カウンセラーが不用意に、

「腹が立って」

置き換えてしまうのは、実質的には無害なことも多いですが、時には、それだけでも、いつのまにかクライエントさんとの間に気持ちの溝ができてしまうこともあります。

ただし、こういう「言い換え」の微妙な危うさ、カウンセラーが体験的な実感として理解していないうちに、ただ「相手の言ったことをそのまま『鸚鵡返し』する」ようなことをドグマのようにカウンセラーの卵に教え込むのは、クライエントさんにカウンセラーが、非人間的な、ただの「鸚鵡返しロボット」のように感じさせてしまい、話を「聴いてもらっている」気がしない状態に陥らせる危険があります。

カウンセラーは、クライエントさんの気持ちに「触れようとする」という基本姿勢を失ってはならず、言葉の上での「理解」や「言葉の返し方」の技術講座になっては意味がありませんから。

この辺の勘所をつかむには、カウンセラーがフォーカシングをフォーカサーとして学ぶ経験を積み上げると、その「塩梅(あんばい)」が体験的に身につきます。

一言で言えば、カウンセラーがクライエントさんに同じ言葉で伝え返しをするのは、クライエントさんにその言い方で自分の実感にぴったりか照合してもらうためだけではなくてカウンセラー自身が、自分の身体にそのクライエントさんの言葉を発声しながら「響かせる」ことによって、クライエントさんへの「感情移入的なフェルトセンス」カウンセラーの中に「擬似的に」喚起するための手助けである、と私は考えています。

このことはたしかすでに治療者にとってのフォーカシング「現代のエスプリ 治療者にとってのフォーカシング」のどこかで私は書きました。

*****


2.「共感的理解」とは、クライエントさんの失恋体験とカウンセラー自身の失恋体験と重ね合わせて、その傷つきを共有することでしょうか?

カウンセラーとクライエントさんの心は、パソコン同士がネットワークでつながっているようにつながっているわけではありませんので(^^;)、クライエントさんの感じている「傷つき」を、カウンセラーに「転送」するわけにはいきませんよね。

その意味では、カウンセラーは、クライエントさんの話の内容や話しぶり、声の調子、身体言語などから受け止められるものを、自分の想像力と感受性を総動員して、自分の過去の類似の体験の時に自分がどんな「感じ」になったかとも重ね合わせながら「擬似的に」追体験しようとするしかありません。

場合によっては、クライエントさんが振られるまでの、具体的なエピソードとか、その時その時の思いを、さらに詳しく話しをしてもらうように、クライエントさんに促さないと、カウンセラーは、十分なリアリティと臨場感のある形で、クライエントさんの失恋の傷つきを「追体験」して「感じ取ろうとする」ことはできないかもしれません。

しかし、忘れないでくださいね。

どこまで行っても、カウンセラーの「失恋体験」と、クライエントさんの「失恋体験」は、別のものだということ。

私が、北山修先生の3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)ザ・フォーク・クルセダーズ/戦争と平和「あの素晴らしい愛をもう一度」を引き合いに出した、「黄金のトライアングル」で述べたように、

> 同じ花を見て 美しいといった二人の

感じていた「美しさ」すら、実は「同じ」体験ではないのかもしれない。

まして、あなたの「花(恋愛体験)」とその人の「花(恋愛体験)」は別々のものでしょう?

でも、カウンセラーがそのことを謙虚にわきまえながら、なおも、クライエントさんの失恋体験の話を共感的に傾聴し続けている時、クライエントさんの間に、ある独特の「絆」が生まれ始めることが多いのは確かです。

******

次回は、この、受容と・共感的理解が、できなくなって行く方向に追い詰められていく、現場カウンセラーの赤裸々な現実を暴露しましょう。


(うーん、書き始めてみたら、この一連のテーマ、かなりの長期連載になりそうな気がしてきた)


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2005/10/01

相談に来た方の話を「受容しよう」と「がんばる」ばかりのカウンセラーの弊害

特に、カール・ロジャーズのクライエント中心療法的なカウンセリングの教育を受けたカウンセラーの陥りがちなジレンマは、

クライエントさんを受容しよう、しようと「がんばる」

ばかりとなり、

クライエントさんを「受容できない」カウンセラーとしての自分を、まだ「未熟だ」と責め苛(さいな)む悪循環にはまりやすいことです。

これが、もともと、他の人の顔色を伺い、本音を出せず、自分の気持ちを押し殺して順応する傾向が強かった人がカウンセラー修行を始めた場合、どうにもならない行き詰まりを生み出すことがあります。


私は、


カウンセラーの、クライエントさんへの共感的理解とは、『努力』して『達成』するものではなく、

カウンセラー自身が、

ありのままの自分=ありのままの「世界」

に開かれていれば、『向こうから自然とやって来る』ものではないか


と感じ始めています。


*******


このように言うと、少しカウンセリングを勉強した人だと、


受容、共感だけではなくて、カウンセラーが「自己一致」していること、

つまり、自分の経験と感情に開かれた、自分に正直でいられることと両立しないとならない、

とは、ロジャーズが「治療の3要件」として述べている。

そのことでしょ?」


とお感じかもしれません。


なるほど、私は、これまで言い習わされてきた言い方で言うところの、

「カウンセラーの自己一致」

「共感」「受容」のジレンマという問題について述べているつもりです。


では、現実のカウンセリング場面で、カウンセラーとしての「あなたにとって」、自己一致する、とは、どのようなことですか?


例えば、クライエントさんの語ることがあなたにとって不快なときに、


「あなたのそんな話を聴いていると嫌な気分になります」


と告げることですか?

それをやったら、今度は「受容」の方の条件が満たされなくなりますよね?


「自己開示」

という言葉が最近安易に使われる傾向がある気がします。

私がこの言葉がうさんくさくて大嫌いだ、ただの美辞麗句に過ぎないと感じているあたりは、

「私のフォーカシング」第1部最終回でも書きました。


> 石が『自己開示』しますか?
> 空の星が『自己開示』しますか?


などという挑発的な言い方で。

ひとは「そこにーいる」というだけで、すでに自分の存在を世界に曝(さら)しています。


これは先日、心理臨床学会での青山学院大学の北村文昭先生「カウンセリングにおける身体性」と題するご発表で、アフォーダンスと関連付けて述べられたことを会場で聞かせていただいた私が報告した時にも、北村先生自身のご発言からを引用したとおり、

「『非』言語的コミュニケーション」とは、ほんとうは「顛倒した」言い方であり、「身体性を持ってそこに存在し続けている」カウンセラーとクライエントさんが、まず先に「そこに-共にーある」

ここからは私の感想も入りますが、カウンセラーとクライエントさんの「言語的相互作用」なんて、その身体性の上に「乗っかってる」やり取りに過ぎないわけですね。

敏感なクライエントさんは、カウンセラーの語る「意味内容」と、声の調子やそぶり、漂わせる雰囲気が「一致していない」ことを、何となく察知しているものです

もとより、クライエントさんによっては、すごい、歪曲された形でそれを「意味づけ、カウンセラーの『本心』を決め付けてくる」ことも多いのですが、それはクライエントさんの生育暦や素質のせいばかりではなく、その火種は、必ずカウンセラー自身も、たいてい「見え透いた、形だけの、薄っぺらな受容」という形で蒔いています。

私は、クライエントさんが、えらく根の深い、ある種のボーダーライン性や妄想性を持つ場合は、「薄っぺらの」受容、あるいは「無理を重ねた」受容しかしなかった「歴代」カウンセラー、精神科医によって、「引き出され」、「増悪された」繰り返しの結果の可能性があると思います。

だから、私は、みゆきの中島みゆき/Singles 2000「空と君のあいだに」を引き合いに出して、


> 君の心がわかると、たやすく誓える男(=カウンセラー)に
> なぜ女(=クライエントさん)はついていくのだろう、そして泣くのだろう

といいたくなるわけです。


*****


では、私の考える、実際の臨床現場での、真の「受容・共感」と「自己一致」との共存とは何か?

それについては、続編で論じます。


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2005/09/19

私のスーパーバイズ ~実践編~

さて、一気に、スーパーバイズ論、後編。

湘南フォーカシング・カウンセリングルームでやっている、実際のケーススーパーバイズ(ケーススーパービジョン)の手法を公開してしまう、ということをこれからやってみます。

*****

幸いにして、というか、私にスーパーバイズを求めにこられた方は、若い方が多く、現場でのカウンセリングのケース量もまだそんなに多くない方が、多いです。そして、特定のケーズについて、せいぜい数回の面接の展開について助言を求められることが多い。

そこで、ここでは、そういう若いなりたてカウンセラーへの、クライエントさんとの面接回数がまだ少ない場合を前提に書いてみましょう。

ケースたくさんになると、ケーススーパーバイズや事例検討会のための、面接記録のまとめなおしそのものが、忙しい中、膨大な手間と労力がかかる作業になってしまうんですよね。

私はできればその種の「ケース提出者」」になることはもうあまりやりたくないです(^^;)。

でも、まだ持ちケースが少ないうちに、特定の事例について細かくまとめなおし、検討する機会を持つことはたいへんな勉強になります。

*****

私は、基本的にはスーパーバイジー(助言を求めに来たカウンセラーさん)のニーズを伺い、それに沿った進め方を柔軟にとるつもりです、何なら、ケース記録のまとめなしで、口頭で、気になるケースについて思いつくままにお話になってもかまいません。

しかし、「スタイルは先生に任せます」と一任されたら、ケース記録を作って来れる方には、次のような要請をします。


1.クライエントさんの語ったことについてだけではなく、その時クライエントさんに、カウンセラーとしてのあなたがどう応答していたかも、要所要所でいいから、書いてきて欲しい。

.......よく、事例検討会や、学会の事例発表とかで、クライエントさんが言ったことばかりを延々と書き連ねて来る方が居ます。

あの~、カウンセラーとしての「あなた」は、「そこに-いた」わけでしょ? そして何らかの反応をしたわけでしょ? その結果としてクライエントさんの反応の展開がこうなった、という相互作用の過程全体を振り返る必要があると思うんですけど、といいたくなります。

中には、

「私はここでこのクライエントの治療者への負の『転移』感情について『解釈』した」

とだけ書いてあったりする。

あの~、その「転移感情の解釈」とやらを、どういうタイミングで、どういう言い方でしたんですか?

私は、面接場面全体が彷彿としてリアルに伝わってくるような事例提示が、「どんな流派でも」必要だと思っています。


****


2.できれば、クライエントさんのやり取りのさなかにカウンセラー自身が感じていた漠然とした居心地や、色々な連想も、思い出せる範囲で書いてきてもらうと助かる。

(例えば、

「ここで私は、『しまった、動揺して、苦し紛れにこんなこと言ってる!』と感じていた」

とか、素朴な書き方で十分)


つまり、面接をしながらのカウンセラーの内面の「実況中継」も書いてきてもらうと助かるのです。

もちろん、それを訊いてみたくなったら、書いてきてもらってなくても、私は、スーパーバイズのその場で尋ねますが。


****


次に実際のスーパーバイズの場で、スーパーバイジーのカウンセラーさんと、私がどんなやり取りを進めているか、です。


1.適当な、あまり長くはならない区切りで止めて、


「ここまでの部分で、あなた自身、この面接の展開を、今、どう思う?」


これに対して、例えば、


「この部分で自分がこんな言い方をしなくてもよかったかなと思います」とスーパーバイジーさんが言うのなら、


「じゃあ、どういう言い方をすれば、もっとよかったと思う?」


「うーん......」

とスーパーバイジーさんが考え込み、ためらいがちに自分なりのアイディアを見つけ、語りだすのを私はじっと待っています。


私も、自分の中で、「どんなふうに対処するのがもっとよかったか」を探して、見つけようとしていくのですが、スーパーバイジーさんより先にそれを告げることはしません


不思議ですが、こういう、沈黙しながら共に考え、感じてみる時間を、スーパーバイジーさんと共にすると、スーパーバイジーさんは、決して、というのに近い確率で、「どうにも頓珍漢な」改良案とかは言い出しません

それどころか、私が自分で考えていたのとはまったく別のアングルから、私も感心するくらいの新鮮な改定案を提示してくることもすくなくありません。最悪でも、”2nd choice"というか、「次善」の策、あるいは「『害のない』」案を出してきます。


*****

3.次に、そのスーパーバイジーさんなりのアイデアとその長所を具体的に感想として述べ、それについて多少やり取りをした後で、まるでおまけのように、

「あなたのもいいけど、私なら、例えば、こう言葉を返したかも」

と、私の考えていた答えを伝えます。


そして、

「でも、私のの方がいい、という意味ではない。面接にはカウンセラーその人のあり方に応じたいろんな対処があるし、どんなカウンセラーでも、一回の面接で、すべて最良の応答なんてできてないから」

とか、言い添えます。


*****


4.こんなことを、例えば、


「この部分で、クライエントさんはどんな気持ちでいたんだろうね?」

「この部分で、もっとよく対応できたと感じるのはどの部分?」

「この部分で、あなたが結構うまく対応できたと感じるとすれば、どの部分?」

「この部分では、何が面接の展開の鍵だったと思う?」


みたいなバリエーションで繰り返します。


****


つまり、スーパーバイザーの私が「どうすればいいか」を教えるのではなく、可能な限り、スーパーバイジーのカウンセラーさん自身に、自分の面接を、丁寧に感じなおし、しかも自由な発想で振り返り、答えを見つけるように促すのです。

私はこれを


「スーパーバイジー・センタードのスーパーバイズ」

と呼んでいます。


このやり方は、そのカウンセラーの中に、早い段階から、

自分なりの「内なるスーパーバイザー」

つまり、「カウンセラーとしての自分」「クライエントさん」の面接の相互作用全体「俯瞰」し、冷静に、しかし「両者」に思いやりをもちながら(!)見守る、「第3の目」を育成するための訓練のつもりです。


あと、現段階では詳しい説明までは控えますが、私なりのこのスーパービジョンのスタイルの成熟に、「藤嶽法」と、インタラクティヴ・フォーカシングの影響があることを書き添えさせていただきます。


*****


こうして、話題は、唐突なまでに

「黄金のトライアングル」論

それどころか、実は、カウンセラーの「守護霊」育成論

へど回帰可能なのですが、

そこまで一気についてきていただけるのは無理かなと思うので(^^;)、今日はこの辺にします。


******


最後に一言。若い臨床家に。


何がクライエントさんのためになるのかを、自分自身で、試行錯誤しながらでいいから、クライエントさんと共に感じ、考えられるカウンセラーを目指してください。

「大先生」や、指導教授や、スーパーバイザーに「気に入られる」かどうかを、クライエントさんを大事にすることより大事にしている段階からは、早く卒業しなさい。

そうでないと、あなたのクライエントさんは、カウンセラーである「あなた」に「気にいられ」たい、という「呪縛」を超えられず、ほんとうの、その人なりの成長を、あなたは援助できないでしょうから。


さもないと、あなたはそのクライエントさんがカウンセラーになるためのモデルしか提供できないことになるでしょう。そんな「ネズミ講的構造」にはめさせることばかり多いカウンセラーにはならないでくださいね!!

だから、"7.11 Asega Doctrine"で、

「先生のように、カウンセラーを目指すことにしました」

あまりに多くのクライエントさんに言わせ始めたら、あなたはプロじゃないと、書いたんです。

「カウンセラーになりたい」なんて言い出すのは、100人に一人の変わり者でいいんですよ。


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「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~

欝についての記事に続いて、精神医療とのカウンセラーの付き合い方についての私見を書かせていただいたら、これまたどっとこのブログの瞬間最大アクセスが急上昇しました。

そこで、ここで一気に、以前このブログでも書くとお約束した私の「スーパーバイズ」観について書きましょう。

(今日は休日ですから、実はさっきの記事を書いてからすぐに昼寝をしていましたので、決して『働け過ぎ』ではありません!!


*****

一般の方のためにまず説明しますと、「ケーススーパーバイズ(ケーススーパービジョン)」とは、カウンセラーが、自分のクライエントさんとのカウンセリングの過程について助言を受けるために、経験豊かなカウンセラーに、一定の時間と時刻を決めて、一定料金を払い、多くの場合、ある程度継続的・定期的に相談することをいいます。

これに対して、カウンセラーがますは自己修養するために、自分の流派の先達をカウンセラーとして、実際に「本物の心理療法」をみっちり継続的に受けること「教育分析」といいます。

日本では、この「スーパーバイズ」「教育分析」ということがごっちゃになされていることがまだ少なくなく、クライエントさんとの関わり方について助言を受けに来たカウンセラーが、

「このクライエントさんとうまく行かないのは自分の性格にまだ未熟なところがあるためだ」

という「自虐的」モード(!)にはまりやすいのですが、

私は「スーパーバイズ」「教育分析」は、本来、別人の先達に、切り離して受けるのが正しいという考え方に立っています。

だって、(少し厳しいことを言うようですが)プロって、結果がすべて、「自分の性格がまだ至らないからだ」といくら弁解しても、言い訳にならないでしょ? 

「スーパーバイズ」とは、あくまでも、すでにプロの(あるいは、プロになりつつある)カウンセラーが、自分のカウンセリングの技量を磨くための場です

その一方、「教育分析」は、本当に情け容赦なく自分が「クライエントになって」自分を見つめなおすことです。

カウンセリング技量の向上と、カウンセラーの人格的成熟、この二つには、当然切り離しえない側面もあります。しかし、どちらが主で、どちらが「背後で暗黙のうちに結果的に伸びていくこと」なのかは、はっきり区別する「別の設定」がある方が生産的と思います。

もっとも、教育分析家とスーパーバイザーの考え方があまりに異質だと、若いカウンセラーの皆さんは混乱するだけになるとは思いますから、そのあたりは先輩や指導教授と話し合って決めるのがいいかもしれませんね。

「ケーススーパーバイズ」が先で、「教育分析」は後から始めるのでも、何も問題ないと思いますよ。「完璧に成熟した、性格的欠点のない人」なんてこの世に居ませんから、改めて自己修養の必要を感じた時点で「教育分析」を始めるのでも一向構わないと思います。

ついでにいいますと、「スーパーバイズ」も、「教育分析」も、大学の自分の直接の指導教授には受けないのが、正しいあり方です。社会的に直接の「上下関係」にあるもの同士では「本当の修行」になりません!! 時には別の流派の先達に教育分析やスーパーバイズを受ける方が効果的なこともあります。


******

さて、助言を求められるカウンセラーは「スーパーバイザー」と呼ばれますが、特別にそのための資格があるわけではあません。敢えて言えば、助言を求めに来たカウンセラー(「スーパーバイジー」といいます)が「臨床心理士」なら、「スーパーバイザー」も「臨床心理士」でないと、臨床心理士としての資格更新(5年毎)のための研修「実績」と認定されない、というくらいでしょうか。

実は、私、開業の時に、開業の先輩に、

「スーパーバイザーになるには何か資格認定協会に特別な書類を出して選考を受ける必要があるんでしょうか?」

とお尋ねしたんですね。そしたら、

「特にない」

とあっさり言われて拍子抜けしました。

というわけで、実は今現在、私の最大のお得意様は、実は、ケーススーパーバイズを求めて来られる若い臨床心理士やその卵の皆さんです!!(^^) これは私にとっても意外な展開でした!!

私は、フォーカシングの研修暦があるなしとは関係なく、「流派を問わず」、スーパーバイズをお引き受けしています

流派に関係なく共通する、カウンセリングのエッセンスというものの基本を学んでもらうことが可能と信じているからです。


その、私のスーパーバイズの具体的な進め方は、少し長い文になってきて、ここまでは心理臨床の世界では入門的な常識(のはず!!)と信じてますので、記事を別立て、初の「前・後編」にします。


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2005/09/17

「藤嶽法」グループフォーカシングについての共同発表について

今日は「第3土曜」ですが、この日は月に一度だけにしている、都心の九段南にある日本精神技術研究所心理臨床センターフォーカシングの個別指導担当する日として現在も残してます。

もし、どうしても大船ではなくて、月イチ、原則第3土曜でいいから、都心で私のフォーカシングの指導を受けたいという方がおありでしたら、私の名前指名で結構ですので、日本精神技術研究所に直接申し込んでください。

私はこの月イチの機会に、都心でしかできないできない用事(例えばアキバでしかできない買いものとか)を集約することにしてますので、実質一日がかりになります。

もっとも、最近は、楽天とかの通販で安いものを見繕うことが多いので、私の行動範囲の「北限」は、川崎のヨドバシということが多いのですが(あそこは品揃えはいい。東急ハンズとなると、川崎店はワン・フロアだから横浜店にはかないませんが。ちなみに、アキバに「殴りこみ」をかけた(?)ヨドバシにはまだ行ってません)。

いずれにしても、こうしたわけで、さすがに大きな更新はおやすみです。

今日は、次男の誕生日のプレゼントを買いに帰りがけ東戸塚のトイザらスに寄って、今しがた帰って来ました。


*****


さて、今度の学会での「もうひとつの発表」について、このブログの「本文」では言及していなかった気がするので御紹介。

四日市で月に一度,藤嶽大安さんという、自ら「藤嶽法」という、独自の実に緻密なグループフォーカシングの技報を生み出した人を中心とするフォーカシングの研究会に参加することを数年続けてます。この方も、僧侶(地元の名刹の跡取り)にして、私立中高一貫の教師カウンセラーとして、たいへん忙しい生活をされています。

このグループの方たちとの発表が、今度の人間性心理学会での「もうひとつの」発表。連名発表者だったらいくつもかけ持ちできます。

この勉強会のため、ほぼ確実に月イチ、しかも泊り込みの日や、皆さんの都合でわずか2週間後が次回なんていう時もありますので、私にとっては何と都心よりも四日市の方が親しみのある土地になってます。

この藤嶽さんたちグループも、私にとって掛け替えのないフォーカシング仲間です。

この「藤嶽法」というグループフォーカシングの技法は、学校教育現場、生徒やご家族とのカウンセリングなと、いろんな適用範囲は考えられますが、私の思うに、カウンセラーの「共感能力」の訓練(研ぎ澄まされた、端的で、手短で、クライエントさんの心に本当に届く、共感的応答の訓練)としては、シビアだけど、無茶苦茶力がつくトレーニングになります。

詳しいことは、共同発表であるため、私だけの責任では、実際の学会発表前には紹介できませんが。

ただ、パワーポイントのプレゼンテーションは、今年は私だけの個人発表よりも、藤嶽さんたちとの共同発表のほうで、「凝った」ものに仕上げました。まだもう少し最後に手を入れる必要あるんですけど。

ただ、長年の共同作業の中で、私も多大な刺激受け続けて来た藤嶽さんの名前と、「藤嶽法」フォーカシングというものがあることは、ネットの検索でも引っかかるようになって欲しいという思いを込めました。


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そうそう、以前書きましたっけ、人間性心理学会大会は、会員でない一般の方も「臨時会員」として参加費を払えば、大半の行事に出席できます。

私の発表は、藤嶽さんたちとの連名共同発表の次ですが、内容的にも連関しています(敢えてそうプログラムするように準備委員会に要請したのですが)。

この「連続発表」は、9月24日土曜日の午前9時30分から計2時間、九大の箱崎校舎、202教室です。

去年は、私のayu自主企画を観たいがためだけに結構高い参加費を払ってくださった学生さんがいましたね。本当にありがたかったです。

あれから「いろんな経緯」を経て「こうなっちゃった」けど、今もこのブログを観に来てくださってるのでしょうか。

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2005/09/13

ブログ「こころの天気を感じてごらん」のご紹介

島根県に、土江正司さん、という日本における中堅のフォーカシング指導者として、もはやフォーカシングの世界では名前を知らぬものはないという粋に達した方がいらっしゃいます。

インドで正式にヨガの修行をして、跡継ぎでも入り婿でもないのに僧籍を持たれ、セラピー的なグループやワークショップで、中国地方中部のみならず、最近では全国でお呼びかかかる粋に達した方。

私にとってはまだ未開拓な、スクールカウンセリングや、子供相手のフォーカシング、グループフォーカシングの分野では、日本の最先端を走り続ける方として、尊敬もし、互いに切磋琢磨しあう、私のもっとも大切なフォーカシング仲間の一人です。開業カウンセリングの先輩でもあります。

フォーカシングの枠にとらわれない、幅広い関心と実践経験をお持ちで、「動とツッパリの『ジャンヌダルク』阿世賀」に対して「『静けき』存在感でいつの間にか周囲をまとめる」タイプ。東洋思想への造詣の深さにもかかわらず、日本フォーカシング協会の国際交流グループリーダーもお務め。

大学に関与しない在野型フォーカシング研究実践家として、私の最大の「ライバル」であり、同時になくてはならない「同志」とも思っています。

特に、「こころの天気」となづけた、大人にも子供にも使える、描画によるフォーマットを持つ技法は、その平易さもあって、日本中の教育現場で関心を持たれ、国際的にも知られています。

「私のフォーカシング」第2話でも少しだけ紹介させていただきました。

この方が、自ら「こころの天気を感じてごらん」と題するブログを開設されました。

「こころの天気」の描画の交換のみならず、フォーカシングに限らず、日々のいろんな思いをつづるページになさるおつもりと伺いました。

このブログの発展を心からお祈り申し上げます。

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2005/09/11

「黄桜」TVCMのことを吹奏楽をやった人は必ず一度は連想する

昨日は怒涛の書き込み更新で、ほとんど強引に、一日230アクセスを達成させていただきました。まもなく週間アクセス1000件は確実に達成されます。ありがとうございます。

いずれにしても、昨日はちょっと専門的なネタも多くて、一般の方にはついて行きにくかったかもしれません。

そこで一休み。

「私のフォーカシング」シリーズ最新作、「『黄桜~』と神を超えた存在と金鉱掘り」のwebsiteで、なぜ黄桜 呑 1.8L清酒「黄桜」イギリス民謡組曲/English Folk Songs吹奏楽のCDを、

吹奏楽経験者じゃないとここでこの2つを並べている意図はわかんないかも」

というコメントつきで、アフィリエイトリンクしているかのネタばらしをしますね。

もっとも「黄桜」の河童のアニメのCMは、最近は放映されていないみたいなので、十代の人だともうわかんないかも。

でも、私や、私の少し下の世代の人は、吹奏楽の名曲として名高い、イギリスの作曲家、ヴォーン・ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」の第1曲をの冒頭を聴いたら、一瞬プッ(^^)と「ふき出した」経験をたいてい持っているはず。

だって、

「♪ 河童っぱ、ルンぱっぱ~」

っという黄桜のCMソングと全く同じ始まり方を、(確か調性も同じでは?)ほんの数秒ですが、するからです。

吹奏楽やっててこの「イギリス民謡組曲」を演奏することにあこがれなかった人はいない、実際演奏した人も山のように居るはすというくらいの曲。CMの曲を作った人が無意識のうちに影響受けてる可能性高いです。

黄桜の歴代CM集は公式にwebsiteで映像公開されてますので、懐かしい世代の方はどうかご覧になってみれば?


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いずれにしても、「イギリス民謡組曲」はクラシックを普段聴かない人でも、一度聴いたら、その郷愁を誘うメロディのとりこになる、実に親しみやすい曲です。

吹奏楽というと、「星条旗よ永遠なれ」をはじめとする勇壮な曲のイメージが強いでしょうが、それはアメリカの吹奏楽の場合でして、イギリスやフランスの吹奏楽は、吹奏楽団の音自体が、恐ろしく繊細で透明で、人の心に優しく響くんです。

まして、イギリスの民謡調のメロディは、実は日本と同じ、いわゆる「四七抜き」の五音音階なので、日本の民謡を聴いているかのような理屈抜きの郷愁を誘います。【音楽CD】もういちど聴きたいクラシック・・癒し「グリーンスリーヴス」もそうだし。

それは、かつてTVの「○曜映画劇場」のエンディングで流された、同じイギリスの作曲家、ホルスト:組曲「惑星」ホルストの組曲「惑星」の第4曲「木星」中間部のメロディを、ある世代以上の人は、曲名すら知らないまま耳に刻み込んでいるのと同じなんですよね。

ホルストの惑星の「木星」のメロディにいたっては、突如1昨年再ブレイクしました。

そう、平原綾香 Jupiter-CD-●平原綾香 “Odyssey”CD(2004/2/18)平原綾香の"Jupiter"ですね。

このネタの更に続きこちらにあるので、どうぞ!!

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2005/09/10

グノーシス主義の神概念との接点が、私のフォーカシングにはあった!!

さて、やっとこれで、本日の「大更新」の締めくくりというべき、「私のフォーカシング」シリーズ最新作、「『黄桜~』と神を超えた存在と金鉱掘り」補足解説というか、後日談になります。

このフォーカシング、「神様」「誰に見守ってほしいですか」という、私のフォーカシングの新教示をぶつける、という、とてつもない暴挙に及んでいるわけです。

すると、神様は、何と、

「私の創造したこの宇宙の外側にも、『誰か』がおられる気がしての」

とおこたえになります。


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ところが。つい先日、故・秋山さと子先生がお書きのユングとオカルト「ユングとオカルト」という本をたまたまめくっていたんですよね。この本は、ユングの思想の背景にあるグノーシス主義についての解説書です。

そしたら、概略すると、次のようなことが書いてありました:(p.40以下)

「グノーシスという言葉は、ギリシャ語の知識を意味する。しかし、この知識はこのコスモス(こういちろう注:ひとつの、統合され、調和を持った、全体性を持つ宇宙。対義語は「カオス(混沌)」)における人間についての知識ではなく、我々の存在を超えたコスモス外の神々の行為に対する知識である」

(中略)

「人間の生活の場は、幾層もの天に囲まれた土牢のようなものであり、それぞれの天球を支配していて、人間との間を隔てている星の神々が邪魔をする。(中略)365の天球によって、この地球は囲まれているとする者もあった。(中略)この監視人たちは、しばしば旧約聖書による神の名前で呼ばれていたが、ここでも、ユダヤ教の唯一の至高神である神の概念は覆されていて、その神は真の神ではなく、神性は持つが下級の霊的存在とと考えられている」

(以上、太字はこういちろうによる)


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私のフォーカシングの中で出会った神様みたいな神様像は、ギリシャ時代からあった、普遍的なものなんですね。

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アフォーダンスと洞察の接点

再び心理臨床学会の興味深い報告より。

仁愛大学の駒米勝利先生(ロジャーズ派カウンセリングについての研究と大学学生相談の世界で著名)を座長とし、

青山学院大学の北村文昭先生の「カウンセリングにおける身体性」と題するご発表。

北村先生は、本来実験心理系の研究者で、臨床にも長年携わっておられた、キャリアのある先生ですが、何と心理臨床学会でははじめてのご発表!!

認知心理の世界では有名な、ギブソンの「アフォーダンス」という概念をキー・ワードにして、できるだけ従来の臨床心理学のの専門語を使わず、とことん「ご自身の言葉で」事例報告を発表をなさろうという、論文集の文面に私はいたく共感し、この、一見別次元の「アフォーダンス」概念と臨床との出会いについてのご発表に出席することに「チャレンジ」したのです。

実は、私自身が、以前精神分析対象関係論で特異な位置にある、ハンガリー出身のバリント(左のブックレビュー参照)の「フィロバティズム」概念とフォーカシングの関連について人間性心理学会で発表したとき(私の著作・発表リスト参照)、姫路獨協大学の實川幹朗先生から、突然この「アフォーダンス」との関連について質問され、うまく答えられずに、その後自分なりにアフォーダンスについて調べたけど「腑に落ちる」に至らなかったという経緯があり、そのとき以来ひきずるモヤモヤを、この先生の発表が解決してくれるのではないかという期待もあったのです。

それは見事に当たりました!!

アフォーダンスを、理屈だけできくと、たとえばこんなふうになり、よくわからなくなってしまうのですが、例えば、真ん中に消失点のある4本の放物線を結ぶかのように大小の長方形を重ね書きすると、人にはそれが「奥行きのある通路」のように知覚されます。この図版を大スクリーンに「傾けて」表示すると、それに伴い人間の身体的重心の安定度が失われることが重心計で確認できるそうです。

これと同様に「社会的アフォーダンス」というものがあると北村先生は考えました。人間のコミュニケーションは、実は非言語的・身体的な次元での相互認知による次元こそが基本にある。「『非言語的』コミュニケーション」という表現そのものが実は「倒錯した」用語法であり、言語的コミュニケーションなど、実は身体的コミュニケーションの上に乗っかっているものに過ぎない。

クライエントさんと、カウンセラーが、身体性をもって「そこに確かに居続けている」という基盤の元になされる身体認知的な相互作用こそ面接の基本にある。

そして、身体が表現しているものと、言語的な相互作用に一種の調和のようなものが相互に承認(compliment)された時、カウンセリングでも「おのずから」相互理解が進展する。

このことの説明を受けた瞬間、ギブソンの古典的な立体透視図版が、私には「ほこら」のように見えました。

「ほこら」=「洞」、つまり「洞察」であり、「見通し」が持てること、

です!!

実際、いわゆる「病態水準の重い」クライエントさんと面接していると、クライエントさんの「身体言語」と、「言葉として発している意味内容」のズレに、私たちカウンセラーは翻弄されます。

死にたくなるような傷つく経験をしていることを「言葉では」語っているのに、表情や身体のかもし出す雰囲気「けろーっ」と、何でもないかのよう。摂食障害やリストカッターの女の子に多いですね。

おいおい、そんなにけろっとしてるから、男たちや周りの女友達はあなたが傷ついていることに気づかないで、ひどいことを平気で無神経にするんだよ、といいたくなる。

ふっと、そんなことを思い出させてくれました。

實川先生、やっと、先生が、バリントのいう「魚にとっての水になる」ということとかと、「アフォーダンス」概念をひきつけたくなったのが、「少し」わかったような「気がしました」。

(これこそ「錯覚」かもしれませんが(^^;)

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「黄桜~」と神を超えた存在と金鉱掘り

「私のフォーカシング」シリーズ新作、

「『黄桜~』と神を超えた存在と金鉱掘り」

を、「第2,5回」という半端な数字で公開しました。

時期的に第2回と第3回の間ということを忘れていたための窮余の策です(^^;)

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これも、今度の人間性心理学会の発表にいたる伏線のひとつですが、

私のフォーカシングへの姿勢がどんなものか、その本質を示していると思います。

この内容については、詳しい関連事項解説・後日談を、更にこのブログの続きの箇所に加えましたのでご参照ください。

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2005/09/09

今後大学院生の方のスーパーヴィジョン、6000円に割引します

今回の心理臨床学会で、いわゆる「指定校大学院」(臨床心理士の資格の取れる大学院)で、カリキュラムの一部として必要な「ケーススーパーバイズ」について、大学内部の心理教育相談室等の養成機関だけではスーパーバイザーがまかなえない大学院が少なくない現状について伺いました。

そこで、湘南フォーカシング・カウンセリングルームの「ケーススーパーバイズ」、従来1時間半9500円とさせていただいておりましたが、研修中の大学院生については、「原則」6,000円まで値引きすることに決断しました。

それぞれの大学の助成金のありようなどに応じて、詳細は更なる値引きケースも検討させていただきます。

希望される場合は、大学教務課や指導教授の先生との話し合いの上で、事務手続き上必要な書類等を整備した上でお申し込みください。

なお、「すでに」臨床心理士の方(大学院でも博士後期課程在籍の方にはおられるかも)、従来通り9500円とさせていただきます。

私の場合、どの流派の方であってもスーパーババイズはお引き受けします!! 何しろ行動療法行動療法(2)行動療法(3)山上敏子先生の「行動療法」の大ファンですらありますから。

ただ、私自身には子供のケースの担当暦はない、ということはご承知置きください。

フォーカシングをスーパーバイズそのものに活用することも、ご本人が特に希望しないかぎリ、いたしません。

何より、クライエントさんのの話を聴き、クライエントさんとどういう関係作りをするか、という、カウンセリングのエッセンスそのものを若い方にお伝えできればと思っています。

ちなみに、私の現状でのお客様も、なぜか一番料金が高い「ケーススーパーバイズ」が一番多いことに面食らってます。それだけ、若い臨床家の皆さんが、懇切丁寧な、マン・ツーマンの指導者探しに困っておられるということなのでしょうか。


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私なりに、私のスーパーバイズの方法論も見えてきました。

まさに、以前ここで書いたような、

寒水魚みゆきの「時刻表」の、

「誰が悪いのかを言い当てて、
 どうすればいいかを書き立てる」

ような、単にアセスメント(診断)だけがうまくなるようなやり方の対極にあります。

また、「治療者個人の自己分析」の援助としての「教育分析」とも一線を厳格に引いたものにしていくつもりです(そういうご希望が強い方は「フォーカシング個別指導」の一般コースに回っていただきます)。

これについても、現時点での私の模索中のスーパーバイズのスタイルを、このブログで近日公開することをお約束します。

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2005/09/06

心理臨床学会自主企画は「心理臨床における『間身体性』」に参加

幸い京都は雨が一日小ぶり程度でした。風もなし。
心理臨床学会初日は、夕方からの自主企画の一つ、シンポジウム形式の「心理臨床における『間身体性』」という分科会に参加しました。

企画者はミンデルのプロセス志向心理療法の日本における大家、藤見幸雄氏、ユング派のポスナックのDreaming Bodyの技法に造詣の深い岸本寛史氏、司会者は、来談者中心療法の祖、ロジャースの再評価やトランスパーソナル心理学、そして学校教師カウンセリングの世界で精力的な活躍を続ける諸富祥彦氏、話題提供者としては、これらの方々に加えて、フォーカシングの世界でも代表者の一人、学生相談の世界でも実力者である吉良安之氏も加わり、更に、身体性や「気」の問題をはじめとする独創的な研究領域をもつ濱野清志氏、という、「その筋」の人からすればオールスターキャストに近い面々。120名の参加者。

心理療法的相互作用において、流派を超えた共通の問題意識としてしだいに浮かび上がりつつある、治療者とクライエントとの「体験共有」という現象を、単なる「間主観性」という枠組みを越え、「身体性」次元での共有というスケールでとらえようという意欲的な企画。

実はこれはまさに私が今度の人間性心理学会で私なりの見地からとらえて発表しようと思っていたテーマそのものであり、それらについて共通認識を持てる「仲間」についにめぐり合えたという思いで、フロアから、「湘南フォーカシング・カウンセリングルームの阿世賀です」と真っ先にコメントし(しっかり大舞台での宣伝活動している)、

「単なる治療者の逆転移」とかcontainerいう観点からとらえると『二者関係』の泥沼にはまる危険がある」

とか、ついには天を指差し(!)

『守護霊フェルトセンス』との三者関係として捕らえ、治療者とクライエント、両者を俯瞰する『内なるスーパーバイザー』双方が共有した場合にこの相互作用は安全に進む」

と、「黄金のトライアングル」という言葉こそ出し惜しんだものの、もろ、人間性心理学会の発表のさわりそのものを数分間披露することになりました。

その後これらの先生方やその教え子の皆さん、関係者と京都の町に飲み会に繰り出し、いろいろ本音の話をできたのを嬉しく思っています。

特に開業の先輩でもある藤見先生からいただけたアドバイスや、外側から見た日本のフォーカシングの世界への印象についてのお話を伺えたことに感謝します。


*******


う”ー、2次会まで付き合って風呂入ったらこんな時間だ。

明日の午前にも、私が参加してみたい催しがひとつあるんだけど、果たして起きられるか?

ちなみに、名刺は30人ぐらいにはお渡しできました(^^;)。

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2005/09/04

フォーカシングの新技法が誕生する瞬間のドキュメント

http://homepage3.nifty.com/asega/focusing/myfocusing_c1.html

「私のフォーカシング」シリーズ、第3部 第1話をupしました。

これで「第3部」だけはとりあえずの全体像を見せました(もちろん、今後の、「このあとの」新作追加の可能性もあります)


今年の人間性心理学会の個人発表で公開する新技法「誕生の瞬間」のドキュメントです。

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2005/09/03

フロイトと海綿の対話

http://homepage3.nifty.com/asega/focusing/myfocusing_c3.html

またもや、「私のフォーカシング」シリーズ新作公開です。

タイトルだけでは全く内容想像つきませんが、

これまた、私の今度の人間性心理学会大会発表

そして「黄金のトライアングル」論

と、抜き差しならない関係にある内容です!!

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2005/08/14

カウンセリングがうまく進んでいる時とは? ~黄金のトライアングル~

答え:

カウンセラーと相談にこられた方が、実際には向かい合って座っていても、気持ちの上では、45度から90度の角度でたたずみ、二人の「前にある」相談に来られた方の「悩みの全体」を、まるで二人がお互いに「全く同じ」気持ちや感じ方をしながら「味わい、眺めつつ」語り合っている「かのような」気分に「お互いに」なれる瞬間が面接時間の「かなりを」占めるようになった時です。

こうなれば、たとえその時点で、カウンセラーも、相談に来られた方も、悩みや問題の具体的な解決の方向が見えて「いなく」とも、遠からず、二人とも満足の行く 、思ってもいなかった出口にたどりつける可能性が高いです。

つまり、いわば細長い二等辺三角形の鋭角の頂点に、相談に来られた方の「悩み」があり、そちらを二人で、少し距離を置いて「一緒に眺めて」いるような状態ですね。

(わかりやすいようにあとで図を補足します)

要するに、

> あの時、同じ花を見て
> 美しいと 言った二人の
> 心と心が 今は もう通わない

のではなくて、ある程度以上の出現率で「通い合う」状態で「あり続ければ」、そのカウンセリングは、絶対にいい方向に向かいます。

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音楽の教科書にも載り、もはやかなりのお年寄りを除いては、日本中で知らない人は珍しいだろう、日本のフォークの歴史に残る記念碑的作品、

「あの素晴らしい愛をもう一度」

オムニバス/青春歌年鑑’71 BEST30●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)中澤裕子、後藤真希、藤本美貴/FOLK SONGS 3●3000円以上購入で全国送料無料!(一部地域除)
NOTHING/大人へのパスポート

などなど、オリジナル以外に、若い世代の歌手もカバー・バージョンをいくつも出していますし、

あの「エヴァンゲリオン」庵野秀明監督の初実写映画、ラブ&ポップ村上龍原作、ラブ&ポップ 愛蔵版 ◆20%OFF!「ラブ & ポップ」のエンディングで主役の女の子たちが○○を行進していく印象的なシーンでも、その子たちによって歌われてます。

(今週からはじめると宣言した「エヴァ」ネタとは、もちろんこのことではありません。まあ、「前ふり」にはなるかなという思いもほんの少しはある)

*******

実は、この歌を、カウンセリングや精神療法の世界で論じたのは残念ながら私ではありません。

何と、この歌を作詞し、歌っているにもかかわらず(?)、その後イギリスに留学、今や日本の精神分析の世界で第一人者となった、九州大学教授、「北山修」その人なんですよね。

そして、ご自身の著作、幻滅論「幻滅論」(みずず書房)の、クライマックスといえる箇所で、ここぞとばかりに、著作権所有者ご本人がこの歌詞を引用し、大論陣を張るという、他の誰にも不可能な、なんともうらやましいこと(?)をなさっています。

北山先生.......どーしても私なんかはこうお呼びしてしまいます。北山先生、去年の心理臨床学会での先生のワークショップで、フロアから3回も長い質問して、先生を困らせたのはこの私です(^^;)

(実はこのブログに実に繰り返し「北山修」で検索しておいでの方がいるので、その方が同一人物とは限りませんけど、ひょっとしたらフォーカシングにも縁の深い九大の北山ゼミの学生さん・院生さんあたりじゃないかとも思い、勝手に伝言を依頼します)


*****

さて、北山先生は、「幻滅論」で、私にも負けないくらいに予想外の脈絡からこの歌詞を引っ張り出します。

江戸時代の浮世絵に描かれた母子像に、たとえば月だとか花火だとかを一緒に見ている姿が、ひとつのパターンとして多い、ということに北山先生は着目します。

子供はお月さんとかを指差してたりもするわけですね。

おそらく、こういう場面で、まだ言葉が話せない子供だったとしても、

「あー」

とか何とか叫び月を指差し、お母さんが、

「あ、お月様、きれいねえ」

とか会話をしているかもしれません。

こうした瞬間、母親と子供は、まさに

「同じものを見て、同じように感じている」

一体感の世界にいます。

こうした経験の繰り返しが発達早期の親子関係に決定的な意味を持つ、などということは、北山先生が留学されたイギリスで盛んな「対象関係学派」と呼ばれる精神分析の流派の人たち、たとえば精神分析の方法(1)ビオン(Bion)とかが、アルファとかベータとかcontainerという小難しい用語を使って説明しているのですが、北山先生は、いかにも日本を代表する作詞家らしく、「日本語で考える」臨床心理・精神医学の樹立の大切さを訴え続けています(その点では、「甘え」の構造新装版「甘え」理論の土井健郎先生の流れを汲むともいえます)。

そこで、これらの浮世絵の構図をもとに「共同注視」という、北山先生独自の概念を生み出したわけです。

つまり、母子の何かの対象への「共同注視」が生じている時には、

あたかも

「同じ花を見て」、

同じように

「美しい」

と感じている「かのような」状態が生じている。


****

ここで大切なのは、単に母子両方が「美しい」と感じるかどうかではないということです。

二人ともお互いに、

「同じような」感触、「同じような」質感の「美しさ」

として

感じ、味わい、体験している

という、

「共同幻想(illusion)」

がもてるかどうか、ということです。

これは、お互いの勝手な思い込み、「錯覚」かもしれない。

でも、その「錯覚」こそが、人と人との<絆>の原点です。

哲学の世界で、仮に同じ色刺激、それこそ、”FF 00 00"としてデジタル記号化して共有できる色についても、
Aという人が体験している「赤」と、Bという人が体験している「赤」がはたして「同じ」体験なのか、ということは、古典的な認識論の命題です。

まして「美しい」とか「悲しい」とかいった、人間のものの感じ方そのものをあらわす体験を「共有する」とはいったいどういうことなんでしょう。

人が他者から切り離された実存的「個」としての自我を持つということは、まさにそのような感情体験の「共有」という「幻想(illusion)」が壊れ、それは「錯覚」だったのではないかという「幻滅」にも耐えていかねばならないということでもあります。

「脱錯覚」「幻滅」どちらも英語で言えば"disillusion"です。そして北山先生の本のタイトルが「幻滅論」であり、そこで北山先生が言わんとしている意味での「幻滅」とは何かということと、深くかかわりあうことになります。

jochohattatsu
"disillusion"とは、イギリスの対象関係学派の中でも、特に最大の大家というべきウイニコット(Winicott)にとって決定的な鍵概念です。

過度に単純化しすぎる危険を敢えて冒せば、人が「他者」から切り離された「個」として生きる上で避けがたい、他者とかかわりにおけるこうした「幻滅」体験が、特に赤ん坊時代の母子関係で深刻な傷としてのみ残るか、それとも「確かに『思い込み』が壊されて傷つくこともあるけど、少なくとも相手によっては、そして理解し合おうというという探索(まさぐり)の過程がお互いにうまく噛み合えば、

たとえそれが、

「一瞬の接点」

であったり、あるいは

「お互いの感じ方が『どのように違うか』わかりあえた」

などという逆説的な「共有」であろうとも、

「時には」可能なのだ、自分にも生み出せるのだ、という「わずかな希望と人間信頼」であろうと、人が生きていく支えとなることがあるのだと私は思っています。

カウンセリングの場とは、カウンセラーと相談に来た方が、

「同じ花を見て、同じ『美しさ』(悲しさ、大変さ....)を感じている」

と感じられる、「共同注視」の「黄金のトライアングル」体験を、共に築き上げていく、共同作業の場だと思います。

当然そこには、お互いの勝手な「思い込み」→「幻滅」から生じる「小競り合い」もあるかもしれません。

そういう危機を何度もしのぎ切って、「以前よりは」お互いに理解しあえた、という小刻みなプロセスをどこまで積み上げられるか。

これは、カウンセラーと、来談に来た方との「真剣勝負」です。

しかし、それをいくつも乗り越えて、カウンセラーとの<絆>を維持できるところまで辿り着けたとしたら、きっと、現実世界での恋愛とかでも、同じ「思い込み」→「幻滅」というつらい体験のくり返しの輪から抜け出せるのではないかと思います。

......というと、劇場版NEON GENESIS EVANGELION -DVD-〔送料無料キャンペーン中〕劇場版「エヴァンゲリオン」での葛城ミサトが最期にシンジに伝えた

「私も、『ぬか喜び』と『自己嫌悪』の繰り返しだった。それでも前に進めた気がする」

というセリフに通じるものだと思うのです。

はっきり言って、エヴァンゲリオンの深層心理拙書「エヴァンゲリオンの深層心理」(Amazonはこちら)は、書き終わってみれば、このことを言いたいがために書いたみたいなものでした。

そして、やっと最近になって、そういう相談に来られる方双方の「思い込み」と「幻滅」の振幅にある程度耐え切れ、支え切れることも増えてきたかな、くらいです。

*****

この『黄金のトライアングル』(一般には「治療同盟の成立」といわれることの、更なるエッセンスのつもりです)については、この後も形を変えて書いていきます。

例えば、フォーカシングの祖、ジェンドリンの先輩格の共同研究者、日本のカウンセリングの流れに大きな影響を残した、来談者中心療法の祖、ロジャーズ選集(上)ロジャーズ選集(下)カール・ロジャーズ入門カール・ロジャーズ「治療の3要件」として掲げた、

「感情移入的理解」
「無条件の肯定的関心」
「治療者自身の自己一致」

かすべて共に達成された状態はまさにこの状態だともいえます。


******


更に言えば、フォーカシングを「ひとりでも」できるようになるには、「内なるクライエント」としてのフェルトセンス(言葉にならない曖昧な感じ)、「内なる来談者中心療法セラピスト」として、フェルトセンスに、注意と関心を向け、フェルトセンスからのメッセージを傾聴しようとする「私(I)」との「内的な二者関係(Annのいうinner relationship)」だけではなくて、

「内なるコーチ」「内なるスーパーバイザー」としての、公平なまなざしを持つ「3人目」「脱同一化(disidentification)」して存在し、「内なる『黄金のトライアングル』」=「内なる三者関係」が必要ではないのか。

focusingnyumonfocusinhguide
ここまでなら、

「それは、
この著作や、

この著作、

そして、

やさしいフォーカシングこの著作で、

Ann Wiserが、

「内なるリスナー」と「内なるクライエント」とが

脱同一化(disidentificate)された

"inner relationship"形成

としてのフォーカシング論を展開する際に述べた、

「Larger "I"(より大きな『私』」

という概念に通じるのではないか、

といわれるかもしれません。

しかしAnnは、私の理解では、アンは確かに、前二者を「包含する」あるいは「俯瞰する」視点として取らえているとはいえるかもしれませんが、
「三者関係」として位置づけてしまうことはしていなかったように思います。

(敢えて「内的なトライアングル状の<三者関係>」として位置づけることにどのような意味があるのか? それは、「内的な互いの役割が自由に入れ替わってしまうことがあり得る」という観点を導入できるからなのですが、これについては、おそらく8月下旬中には「ホームページ本部」「私のフォーカシング」久々の「新作」として発表となる実例を読んでいただかないと、何を言いたいのか見当もつけてもらえないでしょう。請うご期待!!

*******

更なる仮説を提起します。

フォーカサーとリスナー(ガイド)が別々にいる、2人でやるフォーカシング・セッション(フォーカシング・パートナーシップ)でも、実はこの各々「内なるスーパーバイサー」=「内的な3人目」を二人が「共有」できているというillusionが必要なのでないか???

そこには、フォーカサーの「私」、リスナー「私」、双方の「内なるス-パーバイザー」のillusionとしての「共有地点」という、もうひとつの「黄金のトライアングル」の存在を仮定するということになります。

ここまでくると、おそらく世界のフォーカシングの世界でも最前衛といっていい発想(はっきり言って、今年の私の人間性心理学会第24回大会での個人発表の中身にもろにかかわります!!)かもしれないものにもつながります。

それらをすべて「包括して」図にするとどんな形になるか? これは、focusing-netの読者にはすでに公開しましたが、学会発表で使うことになる図版いきなりPDF FLASHPAPERで、ついに転載しました!!


*******

kanjakaramanabu更に屋根屋を重ねて、
精神分析的対象関係論の領域での最新の潮流で言うと、
オグデンの「第3主体」論

とか、

ケースメントが、「患者から学ぶ」で書いた、

「内なるスーパーバイザー」

ともリンクし始め、

まさに、流派を超えて、およそ心理療法の分野における最先端の議論にすらなるはず、

という、壮大な構想が私の中にはあります。


******


「エヴァ」ネタ解禁も、これだけではもちろん終わりません!!

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2005/08/01

「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」の「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしく

えーっと、永らくの読者の方には何をいまさらということになるんですけど、実は「プラス」コースにアップグレードした時点でいろいろ高度な設定ができ,RSSリーダやらpingサーバーの設定、更新通知などの機能をぜんぜん生かしていなかった、ということに気がつき、これを機会にご新規様もおいでになるかと思いますので、改めてこのブログについて紹介させていただきます。

私、阿世賀浩一郎(あせが・こういちろう)は、神奈川県の大船で「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」という名前で独立開業している臨床心理士(心理カウンセラー)です。

しかし、根っから性格がクロスオーバーしてまして、心理やカウンセリングの話がいつの間にかayuこと浜崎あゆみ、中島みゆき、ユーミン、ELTなどのJ-POP、それどころかクラシック音楽の話題にすり替わったり、iPODの音質向上対策の話になったり、社会保険の任意継続制度の話になったり(未だに毎日1件はこの用語で検索してこのページに確実にお見えになる方、いるもんなあ)、アニメの話になったり、鉄ちゃん系の話題になったり、英語ができないままの無謀な海外旅行の話になったりします。

本部の個人WebSite、「阿世賀浩一郎のホームページ」に行けば、野猫ウォッチャーに凝った時期もあることがお分かりになります。

そういう自分の節操のなさを、実はいろんな検索用語にひっかかり、予想外の分野からの「お客様」の増加にもむすびつけようというせこい魂胆もないとはいいません!!

しかし、お読みいただければわかりますが、実際には、カウンセリングや心理療法の本質について、私がup to dete に感じていること、換言すれば、フランスの現代音楽作曲家・指揮者のピエール・ブーレーズの言葉を借りれば"Work in Progress"、つまり、まだ目に見えぬ、曖昧な「何か(something)」としてしか感じられないもののcompleteに向けて、ひたすらギリギリ限界の思索の試行錯誤を、遊びながら、かつ心身をすり減らしながら構築していく、"Thinking at the Edge(TAE)"の「実験現場」を公開しているのであり、しかもそれが生半可な「有名」心理学者や精神分析医の大半よりもスリリングで新鮮で生き生きとした文章で綴られていると自負してもいます。

というわけで、興味をもたれた方は、半年分たまっているバックナンバーを読んでみてください。


*****


恒例、今回の「強引アフィリエイト」ネタ。

ピエール・ブーレーズの指揮で私が一番好きな、【音楽CD】ストラヴィンスキー:バレエ《ペトルーシュカ》(1911年原典版)バレエ《春の祭典》ストラヴィンスキーの「春の祭典」「べトルーシュカ」がひとつ。ほんとは私、旧盤の方が好きです。

もうひとつは、私が専門としていてトレーナー養成・認定国際資格を持っている「フォーカシング」という技法こそ、マジに、まだ自分の中ではっきりしない、言葉にならない心身のモヤモヤ、まさに"something"との対話を深め、その人独自の完成に導く技法である、ということと関連付けて、もろ、【Rock/Pops:ヒ】ビートルズBeatles / Abbey Road(CD) (Aポイント付)The Beatles の"something"です。

これはこじつけでも何でもなく、今年5月に出席したトロントでのフォーカシング国際会議で、会議最後の「フォリー」と呼ばれる、いわば「打ち上げお楽しみ会」で、フォーカシングの名教師として著名なAnn Weiser女史が、ホントに歌ったのです!!

もっとも、途中から、だんだん曲がおかしくなり、恐らくAnnさんのお好きなオペラのコロラトゥーラのアドリブに化けていってしまったのですが(^^)。

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2005/07/27

「こころ相談.com」に掲載されました

「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」を、全国のカウンセリングルーム検索サイト「こころ相談.com」に掲載させていただきました。

kokorosudancombanner1


「湘南フォーカシング・カウンセリングルームの記事はここにあります。

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2005/07/18

プロ・カウンセラーの6つの条件

> 誰が悪いのかを言い当てて
> どうすればいいかを書き立てて
> 評論家やカウンセラーが米を買う

> 迷える子羊は彼らほど
> 賢いものはいないと思う
> 後をついてさえ行けば何とかなると思う

> 見えることとそれができることは
> 別物だよと 米を買う


これは、【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 寒水魚 (CD)中島みゆきの「寒水魚」というアルバムに入っている「時刻表」という歌の歌詞の一部です。今から20年以上も前の、年間売り上げ1位の大ヒットアルバムの中に収録されている曲なのですが。

カウンセラーという職業をして、しかもこうして「開業」という形で、主なる収入をカウンセリングそのものに依存して、まさに「米を買う」ことになる種族にとっては、まことに耳の痛い歌詞なんですが。

ただ、今も大のみゆきファンの私も、この「時刻表」の歌詞については、

「みゆきさん、まだ若かったね。

世間の人に『カウンセラー』って人種がそう映るのはわかるし、

結構そんな『評論家』気取りの、
社会や家族や人の心の「分析」だけをして、
実際には何の解決にも結びつかない助言をするだけで、
繰り返しお金を払って相談に来た皆さんを
最終的には失望して去らせてしまうような、
役立たずのくせして、
ええかっこしいの、
詐欺師すれすれの『カウンセラー』も
今もいるのはわかるけどさ。

自分が今もそういうカウンセラーになっていないかの

『自戒の言葉』として、
みゆきさんのこの唄、
すごく大事にさせてもらっているけどね」

と言ってあげたくなってしまいます。

*****

カウンセラーが、相談に訪れる皆様の話さえ聴けば「どうすればいいか」が「見える」、そして皆様がカウンセラーのアドバイスの「後についてさえ行けば、何とかなる」ような、悩みを解決「できる」対策をお伝えできるような存在かというと、何か違うなあと私は感じます。


*****


実は、たいていの場合、私たちカウンセラーよりも、相談に来られる皆様の方が、実は人生経験が「豊富」なのではないかと私は感じています。

私が体験したこともないような生い立ちを経て、
私が体験したことがないような家族関係、人間関係の中に置かれてきて、
私より壮絶に傷つくような恋愛を繰り返して、
私が学んだこともないような勉強をして、
私が体験したことがないような社会経験をして、
私がやれと言われたら、

「この役立たず!!」

と上司や同僚から叱り飛ばされそうなバイトやお仕事をなさっている。

私は、そういう皆さんのお話を、

心から

「すごいなあ」
「とても私なら耐えられないなあ」

と、ある意味で「感心」したり、

「ひえー、たまらん!!」

とビビったりしながら、

やっとのことで聞き続けることが精一杯なんです。


極論すれば、

「自分より人生経験が『豊富』な皆さんのお話を、聞き続けることから『逃げないでいられる』プロフェショナル」

が、『カウンセラー』という「専門家」の、最低限の第1条件なんだと感じています。


******


そして、

そういう、皆さんからのお話を、何十人、何百人もの方から繰り返しうかがううちに、

カウンセラー自身はそういう人生経験を「他人(ひと)様」から伺うという「人生経験」としてしか重ねていないのに、
まるでそうした皆さんすべての人生経験をまるで「自分が」してきたかのような「錯覚」に陥り、

「人間と人生のことなら何でも知っている」

という

『思い込み』と『傲慢』に陥る、

<悪魔の誘惑>

に負けないこと、


これがプロのカウンセラーであることの第2の条件です。


****


次に、例えば、

「彼氏に裏切られて、別の彼女がいて、傷ついている」

という相談をしてきた人がいるとしますよね。

でも、

その女性がどんな人で、
どんな人生経験を重ねてきたかとか、
彼氏がどんな人かとか、
どんな裏切られ方をしたのかとか、

みんな個々のケースで違いがあると思うんです。

まして、そこで「あなた」が感じている、

「傷つき」

ととりあえず名前をつけた、
心と身体の止まらない「痛み」の

「質」と「感触」

は、

「別の人が」彼氏に裏切られた時の

「傷つき」

同じ「感じ」であるかどうかわからない。


更に言えば、

ある人が感じている「傷つき」の「感覚」そのものを、
まるで携帯の写メールで写真を交換するみたいに、
他の人に伝えることはできない。

いったい他の人の心の痛みが「わかる」って、何なんでしょう?

「わかった」つもりになった時、
それは話を聞く側が、
勝手に自分なりに想像した

「思い込み」

としての「痛みへの『共感』」でないと、

誰が言えるでしょう?


またもやみゆきですが、

> 君の心がわかると たやすく言える男に
> なぜ女はついていくのだろう そして泣くのだろう

Singles 2000(『空と君のあいだに』)

ここでいう

「男」「カウンセラー」に、

「女」「相談に来られる皆様」

置き換えて、

これまた、私の自戒の為の『座右の銘』にしているんですけど。


つまり、

「あなたの気持ち、わかります」と安易に言わない能力

そして「その方にとって」、それはどんな気持ちなのかを、
ひょっとしたら辿り着けないかもしれないゴールをめざして、
どこまでも「虚心に」、
安易に「以前お会いした方たちのお話」と重ねて「型にはめて類型化」することなく、
新鮮な形で
聴き続ける能力、

これが、プロカウンセラーの第3、第4の条件です。


*****


そのこととつながるのですが、

相談に来られた人の話を何回も聴いていくうちに、

「まさかこの人にこれだけのことができるとは」

とか、

「まさかこの人にこれだけのことが言えるとは」

と感心させられるばかりか、カウンセラーである私が思わず

「私、いつの間にかこの人のことを『みくびって』いたな。申し訳なかったな」

と感じさせられるような瞬間が全然出てこないカウンセリングって、成果があがっていないことが多い、というのが私の経験から言えることです。

つまり、

「相談に来た人から、
カウンセラーの方が、思わず『恥じ入りたく』なるようなことを話してもらえること。
 そして『恥じ入っている』自分を認めることができること」

が、(変な言い方ですが)、プロのカウンセラーの5番目の条件です。

****


最後に、「第6の条件」ですが。


「先生のおかげで助かりました、ありがとうございました」

と面接が終わって何年たっても感謝されたり、

「先生にあこがれて、私もカウンセラーを目指すことにしました

と言われることがあまりに多いようなら、そのカウンセラーは「失格」だと私は思っています。

いつの間にか、忘れ去られるくらいがちょうどいいんですよ。


今度は突如ユーミン(松任谷由美)ですが、


> 感謝して別れるのは 小説だけ

(「ハートブレイク」 VOYAGERアルバム"VOYAGER"より)

*******


このように、

「プロとしてのカウンセラー」の「理想」を思い描いている私

(「理想」ですから、ちょちゅう私もこれらの条件を逸脱する自分に情けなくなります)

でよろしければ、

どうか私が、

「米を買う」

ためのお金を払っていただけないでしょうか(^^)

*******

以上、まもなく、私のカウンセリングルーム、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」のWebSiteの冒頭に掲げることにした、

「私のカウンセリング観」のエッセンス、

別名、

"7.11 Asega Doctrine"

です。

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2005/04/13

安易に共感されると人は自分自身でいられなくなる 〜中島みゆき「エレーン」「異国」「空と君のあいだに」に寄せて〜

一昨々日まで、学会での共同発表の練り込みのための草案作成のために丸一日自分の頭が冴えた状態に追い込んでワープロに向かい、その足でその共同発表者の方たちとの勉強会のために新幹線で泊まりがけで出張していたことの反動もあって、さすがに「ダムに少し水がたまる」ための一休みが必要でした。

修理されてきたパソコンを、最低限の日常使用に耐えるまでバックアップから復帰させるのにもエネルギー使いましたし(以前なら一息で以前と同じ使用状態まで復帰させたのに、そこまでせっかちにならないでいられるのは、最近の「省エネ」が板につき強迫モードになりにくくなった私の進歩かもしれません)。

私の場合、仕事柄、要は、wordとメールソフトが以前と同じ状態になれば最低限パソコンは「復活」したといえますので(ホームページは、mac miniに設定した、これまたアカデミック・パックを滑り込みで購入しておいたMacromedia Dreamweaver MX 2004 日本語版Dreamweaverで更新中)

昨日はそれでも医者に通うために外出せざるを得ず、そのとき、3週間ぶりぐらいに「落とし物」やらかしました。メインのカードとして使っているJCB。何とこの数ヶ月ほどで4回目の「廃止」→「新番号で再発行」だったりする。少しでも心に余裕を失ったまま具体的行動をすすめようとすると、すぐにこの「忘れっぽいのは素敵なことです」病が復活します。

もう我ながら「あ、また無理してる」というサインぐらいにしか思わなくなりましたが。

****

おとといのことなですが、関東は雨。例によって昼過ぎまで、ぼけーっと布団の中で自由連想できるのを楽しんでいました。

おとといはなぜか、focusing-netのある参加者の方が書き込んでくれていた、みゆきの「エレーン」の歌詞のことばかり考えていました。

みゆきのアルバム【J-POP/歌謡曲:な】中島みゆき / 生きていてもいいですか (CD)「生きていてもいいですか」に収録された、最後から2つ目の歌ですね。

****

この方が文字で書いてくれ、何度も読み返して味わうまで、

私はこの歌が「いたみ」の歌であること

をあまり意識していなかったです。

つまり「痛み」であるだけではなくて「悼み」の歌であることを。

アルバム「生きていてもいいですか」はLP時代から持っていたひとつだったのに。

ものすごい辛辣な風刺の効いた「キツネ狩りの歌」は私のお気に入りだったし、「蕎麦屋」の「知ったかぶりの大相撲中継」が流れる中友人に呼び出されて蕎麦を食う中でのやりとりも好きだったし、最後の「異国」の描き出すstrangerとしての痛みの驚くべき噴出ぶりには鳥肌が立ち、そう滅多に気軽にとても聴けないものを感じていたのに。

この「エレーン」の歌詞にも出てくる「生きていてもいいですか」という言葉を、ayuの●浜崎あゆみ “LOVEppears”CD(1999/11/10)"immature"にはじめて出会い、


>僕らはきっと幸せになるために生まれて来たんだって
>思う日があってもいいんだよね

という歌詞を聴いたときに、ふと思い出しこそしたものの、この「エレーン」という歌が「悼み」の歌という、一番大事なことを聴き逃していたのを恥じ入りました。

***

そして、

    > 行く先もなしにおまえがいつまでも
    > 灯りの暖かに点ったにぎやかな窓を
    > ひとつずつ のぞいている

という部分が、そのまま、

「次の歌」である


    > 百年経っても私は死ねない


と歌う


「異国」につながっている、

「対(つい)になっている」歌なんだ


と気がついた時、私は、本当に、これまでにないくらいにみゆきの歌詞に「戦慄」しました。


「異国」がそれまで感じていたより更に数倍壮絶な歌に思えはじめた。


「エレーン」で、「この世に残された者」の視点にたち、

empathy(あたかも自分のことのように相手の感じている「感じ」そのものを味わおうとすること)

compassion(相手の苦しみを、自分個人の苦しみと重ねて共にしようとすること。この二つの微妙な差異、わかります? 共にこの前ご紹介したInteractive Focusingの基本概念)

を極めたかに見えた次の歌で、

「異国」で「あの世にも行けない」魂の痛みにそのものに己れを重ね、同化を試みる!!


「みゆき」は、まずは、その女の人を見送る人間の一人という立場からのempathyとcompassionで曲を書き、

続いて今度は「異国」で「この世をさまよい続ける『幽霊』」に「同一化」する視点で曲を書き、そこに自分の生きる痛みを重ねるという、逆方向のアプローチをしたのだ。

「だから」

このアルバム最後の2曲の前に、インストルメンタルの歌のない曲をはさみ、この2曲を「切り離した」のに違いない。

****



この女の人が、例えば酒とかで身を持ち崩した果てに病死したのか、自死なのかは描かれていない。

でも、


「自殺者が増えたら学校や会社の評判の上で困るから」


とか、


「自殺者を出すと治療者自身のナルシシズムが傷いてしまうから」


という次元でのものに実は突き動かされていることが少なくないかと思える


「自殺防止への取り組み」


とかが、何か「汚らわしい」もののようにも思われた。

***


そして、私は、カウンセラーという人種がいつの間にか発散しやすい、

「似非受容的な空気」

に常に不信の念を抱いている自分のことを思いました。

クライエントさん自身が心の底で感じている「痛み」をまるで真綿でくるんで「麻酔をかけてしまう」ような次元での「受容」の浅薄さを。

クライエントさん自身もその痛みにもろに「直面」はできないかもしれない。

でも、他人がそれに単に「麻酔をかける」ような次元での「受容」や「共感的理解」しかしなければ、クライエントさんは「本当の自分」を無視されたとやはりどこかで感じるのではないか。

少なくとも、カウンセリングをはじめる中である種の「被害妄想性」を強めるような人は、実はそのカウンセラーの表面的な「わかったつもり」「理解したつもり」が生み出した「医源性」の被害妄想なのかもしれない。

必要なのは、「相手に理解されている」ということなのではない。

人は、相手が自分のことを「理解していない」とか、「冷たい、拒否的な態度を取られる」ことには、実は結構耐えられるのではないかと思う。

そういう周囲の態度の結果、「自分が自分でいられなくなること」にこそ、人は絶望するのではないか。

だから「ただ、そこにいる」だけの人物は必要なことがある。

その人は、無理にこちらを理解しようとすらしないまま、ただ、自分の中で、相手に共感できる自分と、相手に実は共感できずに違和感すら感じている自分をあるがままにそれぞれacknowkedgeし(認めてあげ)ながら、そこにいる。

ある意味では、自分の中の、相手への「共感できなさ」への敏感さ、そしてそういう「共感できない自分」をありのままにackowledgeできることの方が、相手に「共感しようとすること」より大事なのかもしれない。

相手を「理解できねばならない」というドグマに縛られているからこそ、相手を理解できないと動揺するのではないか。

ある意味で、その人を、より深く理解しようという方向へ導けるのは、その人自身だけであるし、それは、その人の「権利」ではあっても「義務」ではない。

その、その人自身が「自己理解を深める『権利』」を行使するための単なるお手伝い、それがフォーカシングのスキルを「人に伝える」ということなのではないか。


その人がほんとうにそういう「個体化」「個性化」の道をほんとうに歩き出し始めたとたんに、その人への「やさしい心遣い」をむしろ「撤収」し始めるような、そんなカウンセラーは、この世にはたくさんいる。クライエントが自分に取っての「いい子」でなくなると、リビドーの備給を取り下げてしまうのである。


*****

何かまとまりがつきませんでしたが、


「相手のことを理解できない、共感できない自分」を静かに認めてあげられるカウンセラーをめざしたい」、

と、思った次第。

これは、ひとつの「逆説」です。

> 君の心ががわかると たやすく誓える男に
> なぜ女はついていくのだろう そして泣くのだろう

          (中島みゆき/Singles 2000「空と君のあいだに」より)


この「女」をクライエントさんに、「男」を「カウンセラー」に置き換えてもいいかな。

「ポプラの枝にな」り、「ここにいるよ」だけでほんとうはいいことが少なくない。

でも、「ポプラの枝のように」のみ、人と「共にいる」のは、一番難しいことの一つかもしれない。

もとより、自戒を込めて。


***


今の今まで、やっと開封する気になった、みゆきお姉様の中島みゆき/ライブ!Live at Sony Pictures Studios in L.A.-初回盤ロサンゼルスでのスタジオ・ライヴのDVDをを堪能していました。

やっぱりこの迫力は半端じゃない。

ayuライヴでおなじみの、小林信吾さんがキーボードで出てますね。                 

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2005/03/15

Interactive Focusing Therapy(第3版)

ジャネット・クライン著
Interactive Focusing Therapy

「インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー
 カウンセラーの力量アップのために」

 諸富祥彦監訳、前田満寿美訳  (誠信書房)

が、やっと出版されたとのことです。


 このホームページではこれまで言及しませんでしたが、従来のフォーカシングの応用形として開発された、Interactive Focusingには、大変興味深い点があります。

*****
*****

 まずは、インタラクティヴ・フォーカシングそのものについてご紹介させていただく前に、「通常の」フォーカシングの場の構造について説明させていただきます。

 普通のフォーカシング・セッションだと、自分の中の曖昧な感じ(フェルトセンス)にぴったりの言葉やイメージを見つけるのはフォーカサー(自分の内面に触れ、フォーカシングをするその人)自身なんですが。リスナーないしガイドは、そのフォーカサーの話を傾聴し、共感的な伝え返しをすることと、教示をフォーカサーに提案することが役割として固定されたまま、1セッション」を通して行います。

 セッション時間は、(15分、30分、45分、成り行き任せ(^^;)など、その場の状況にあわせて自由に設定可能。少し慣れてくると、短いなら短いなりに、まとまったセッションとして体験できるスキルが身につきます。

 その人の内面が深い問題を抱えている場合には、45分などという長い設定時間の方がいいかもしれませんね。しかし、時間の設定を「ある程度」事前に明確にしておく方が、面白いことが起こる場合もあることは、この記事でのセッションの実例で、お分かりですよね(^^;))

 フォーカサーがA、リスナーがBだったとすると、この後で、「役割交換」して、フォーカサーがB、リスナーがAという形でセッションを進めることができます。まるで野球の「表」と「裏」、昔のアナログレコードやカセットテープのA綿とB面をひっくり返すようなものですね。このような役割交換を自在にできる関係を「フォーカシング・パートナーシップ」あるいは「フォーカシング・コンパニオン」といいます。

 そして、まさにこのような、リスナーとフォーカサーのどちらの役割も取れるスキルを同時に磨いていくことが、フォーカシングの学習の基本形なのです!!

 つまり、フォーカシングのスキルを身につけたものが仮に集団として10人いるとすれば、その10人同士が、双方の合意が成立したら、全く自由な組み合わせで臨機応変にセッションを持てる状態が理想とされているのです。

 中には、他の2名のセッションをただその場にいて共有する「オブザーバー」もいる3人組、4人組がいて、順送りに役割交代したりしてもいいし、ずっとオブザーバーで通したい人はそれでもいいでしょう。中には、その場の中でひとりフォーカシングを始める人がいてもいい。極論すれば、これらのいずれもしないまま、他の人たちのセッションは邪魔しないで、「何となく」そこにいる「だけ」の人だっていてもいいと思います。

 そうやって、フォーカシングの「専門トレーナー」が全くグループにいなくても、その時集まったフォーカシング・ピープルが、自由に相手を選んでフォーカシング/リスニングをお互いにできる、とか、プライベートに会ったり、電話やデジカムなどを通して、双方の折り合いがついた時に、日常の中で、臨機応変にパートナーを見つけるといった、自主的コミュニティを形成することすら目指しています!!

 これが、ジェンドリンが当初考えた、「チェンジズ」という共同体のあり方なのです。そして、フォーカシングの学習を公教育にすら取り入れ(!!!)それにより、本格的な専門家にカウンセリングを受けなくても通常はこと足りる、地域社会を作れないか、という、壮大な社会革命構想がジェンドリンの中にはありました。

 要するに、フォーカシングの「トレーナー」というのは、そういうコミュニティを広め、初心者に、個別で、あるいは小グループでコーチする専門家であり、フォーカシング・ピープルの、いざという際の「顧問」みたいな立場に過ぎないわけですね。もちろん、トレーナーが自分個人の問題解決のために、トレーナーではない人をガイドとしてセッションを持つことも気兼ねなくできるのが望ましい(^^)

  「フォーカシング指向心理療法」セラピスト(FOT)は、カウンセリングや心理療法の中でも、クライエントさんにフォーカシングを生かしたセラピーができる上に、より広範な「現場臨床家」としてのスキルも臨機応変に使える「専門家資格」と思っていただければいいかと思います。

(少なくとも、トレーナー、FOTであり、なおかつ、TFIコーディネータ(「資格認定」資格者)としての私個人の要求水準はその水準です)。

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 実は、フォーカシングのオーソドックスな練習では、早い段階から、フォーカサーとリスナーの役割をどちらも体験し、どちらのも熟達することが望ましいとされていることについては、他流派の方々には現状ではほとんど知られていないかもしれませんね。

 つまり、まずはフォーカサーとして経験を積み、その後でリスナー・ガイドとしての訓練を積む段階に進む、とは限らないのです。

 ....まあ、フォーカサーの体験全くなしに、いきなりリスナーやガイドのだけを訓練だけをを積むことは不可能、とは申し添えます。

(この点も意外と現状では誤解があるかなと思います。フォーカシングの教示は、フォーカサー体験がない人が、マニュアル的に使いこなすことはできない、とは、敢えて「断言」しておきましょう。それは、車の運転を実際「熟練」していない人が、本の勉強だけで自動車学校の教員になれない、というのと同じことです)

 更に付け加えると、フォーカサーの側が、すでにある程度自律したフォーカサー/リスナーとしてのスキルを持っていれば、リスナー体験がほとんどない人ですら、そのフォーカサーの注文に応じてリスナーの役割を果たしていくことが十分可能です。これについては、詳しくは、"Focuser as Teacher"についての記事をご参照下さい。

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 さて。インタラクティヴ・フォーカシングの話題に戻りましょう。

 インターラクティヴ・フォーカシングでは、まず、フォーカサーのことを、ストーリーテラー(語り手)と呼びます。

 そして、仮にAとBという、二人でやるとするならば、まずは最初にどちらがストーリーテラーをやり、どちらがリスナー(聴き手)をするかを決めます。

 場の空気で自然と決めてもいいですが、それこそ二人がそれぞれ自分の内面にフォーカスし「自分が何をテーマに話をしたいか」「自分が先にやりたいか」「後でもいいか」を、共に同じ場でショートフォーカシングした上で決めるのが、フォーカシング・ピープルなら理想的だし、その方がその後のプロセスも深まるかと思いますが。

 そして、ストーリーテラーの語りに対してリスナーが丁寧な伝え返しをし、その伝え返しで修正して欲しい部分があればストーリーテラーはリスナーにその旨「注文をつけ」、リスナーは更にその注文に応じて伝え返しを修正するというプロセスをじっくり進めます。

******
 
 その後で、「二重の共感のひととき(double empathic moment)」と呼ばれる、インタラクティヴ・フォーカシング独特の内面に注意を向ける時間を取ります。

すなわち、ストーリーテラーは、今自分が語ったことについての自分のフェルトセンスを内側で味わう。

 同時にリスナーの方は、いわばストーリーテラーの「身になって」、ストーリーテラーが感じている「であろう」フェルトセンスを、あたかも自分の中に生起するフェルトセンスであるかのように「擬似的に(as if)」」感じてみるつもりになり、それの全体に感覚的にぴったりな手短な(!!!)言葉や句やイメージ(できれば「たったの一言のみ」、イメージ説明になっても長く所要30秒ぐらい以内で言語化できるくらいかな)を見つける時間にするのです。

 この「二重の共感のひととき」は、少し時間を取ってじっくり進めるつもりの方がいいです。二人のうちの一人の方が、早くその時のフォーカスを終えても、もう一人が終わるまで、じっくり待つ「余裕の態勢」が必要です。2,3分、時には5分、この部分だけでかかってもおかしくないでしょうね。

******

 そして、次のステップでは、リスナーの方から先に、そうやって見つかった「ストーリーテラーの身になって」感じてみた結果出て来た言葉やイメージを、手短にストーリーテラーに投げ返すわけですね。

 その後で、ストーリーテラーは、自分が感じていたフェルトセンスと、そのリスナーからの言葉を照合し、自分としてはどんな感じであったか、リスナーからの言葉やイメージのどこか自分にはぴったりで、どこがぴったりでないか、さらには、リスナーの応答は自分にとっては意外なものなんだけど、ストーリーテラーとしての自分の中に、予想もしない新鮮な気づきを生じさせたかなどを、リスナーに投げ返すわけです。

 リスナーは当然、そのストーリーテラーの発言についても、丁寧な伝え返しをし、ストーリーテラーにと修正をしてもらいながら、受け止めていきます。 

******

 もちろん、ストーリーテラーにとっては、「二重の共感のひととき」の後のリスナーからの、スト-リーテラーの「身になった」つもりの応答が、完全にぴったりということばかりではありませんし、ぴったりな応答ができないリスナーが、即、「悪い」わけではありません!! この点誤解しないでください。

 むしろ、その「ズレ」をお互いに共有し、補正・拡充しあうことで、お互いの、まさに「間主観的に」共有できる理解と共感の世界が広がることになります。

 先ほど書いたように、時には、ストーリーテラーの方が、リスナーからの意外な応答に「そうか、そんな捉え方もあったか」と、シフトが喚起されむしろ触発されて自己理解が進むこともある。

******

 そしてここで、「役割の交換」です。

 つまり、Bがストーリーテラーになり、Aがリスナーとなる。Bは、先ほどまでは「禁欲」(?)していた、ここまでの流れの中で、「B個人が」感じていたフェルトセンスに,改めてフォーカスして、Aに傾聴してもらうことができるわけですね。

 以下は、AとBの役割交代で、上記のプロセスを繰り返します。

******

 必要なら、そして時間が許し、A,B,双方が望むのであれば、こういう「A面」と「B面」のやりとりを、それこそ野球の攻守交代のように、何往復か、繰り返して進めていけます。

 そうなると、お互いの相互理解が、どれだけ深まるか。
 
それは独特の深みのある、かけがえのない経験として体験されます。

*******

 さて、カウンセリング場面でも、日常の中でも、共感とか、同情とか相互理解とは、相手のことを勝手に「わかったつもり」になって、その「思い込み」を相手に押し付けることに留まっていたり、実は相手の自分への理解に微妙なズレがあっても、「わかってもらった」つもりになって、あとで孤独と疎外感に悩んだり、相手の「ピンとこなさ加減」に感情的に抗議したりして、泥沼になったりしいてることが多いのではないでしょうか。

 そして、心理臨床現場カウンセリングにおける、クライエントさんへの「理解」や「共感」は、まさに、カウンセラー側の勝手な「思い込み」を権威でもって押し付けられることにクライエントさんが「甘んじている」だけのことが、現実にはいかに多いことか!!

 この点で、カウンセラーにとって、相手への「理解」とか「共感」とは何かを根源から問い直し、そのセンスを磨く訓練としても、このInteractive Focusingは実に強力なトレーニングとなります。

 また、人間関係の悪化した、親子、夫婦、カップルなどの調停にも使える可能性があるということにもなります。非常に創造的な「家族療法」的アプローチにもなるわけですね。

私は、左の”My Favorite Books"に出てくる、「現代のエスプリ 410 治療者にとってのフォーカシング」のひとつの章の中で、日本におけるこのアプローチの導入者、宮川照子氏の協力の下に、日本で始めて公刊されたマニュアルを出版させていただいたのですが、今回は開発者自身の原著の翻訳です!!そして、宮川さんがその後深められたご自身なりの工夫も紹介されています。

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 もちろん、私も開業後、このInteractive Focusingのトレーニングもメニューに加えています。

 実は、通常のフォーカシングにまだほとんど全くなじめていない方でも、私がついてますので(^^;)、十分にこの技法の醍醐味を体験していただけるかと思います!! 

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2005/02/06

ディック・ミネ、「瀬戸の花嫁」を叱るの巻

どうも、原稿やら雑用やらでホームページを留守にしていた割には、この数日、アフィリエイトしているリンクの利用者の方は逆に多くいらっしゃって、誠に感謝しております m(_ _)m

今日は、少し文化人類学的話を前ふりにしましょう。

実は、このブログ左の欄のブックレビューの、「岩波講座 宗教」第5巻の、我が敬愛する田嶌誠一先生の論考にものっけから出てくる話なんですが。


自分を自身を悩ましていた「悪霊」を鎮魂し(?)、癒す能力が高まると、その「悪霊」は、必ず「守護霊」へと変容して、自分を守ってくれる最大の味方になります。そういう人は、シャーマンとして、地域社会で尊敬される存在になることも稀ではない、ということは、どの文化圏にも見られます。

ただし、一度「守護霊」とのそういう関係を築いたら、得てして人は慢心に流されやすくなり、ちょっとでも油断すると、「守護霊」は再び「悪霊」のふりをしてその人を「試練」でもって悩まし、「守護霊」との関係をもう一度丁寧に大事にするように「教育的制裁」をかけてきますので、その「守護霊」からの「教育的制裁」を甘んじて受けて、「守護霊」からの信頼を取り戻さねばなりません。

さもないと、その人自身が、他の人に対して「にせ守護霊」という名の「悪霊」をばら撒きまくる、一番厄介な「にせシャーマン」になってしまいます。

つまり、一度「守護霊」との関係を築いたら最後、「本物のシャーマン」として絶えず耐えず「守護霊」からの「試練」に耐えて精進に励むか、「偽シャーマン」として、世間からも救いの道を求めるものを悪の道に引きずり込み、たぶらかす怪しげな存在とみなされ、「本物のシャーマン」すらそういう「偽シャーマン」と同じ程度の存在でないかという世評を生み出して迷惑を賭ける存在になるかの、「2つにひとつ」の人生しか歩めないのではないかと思います。

....で「偽シャーマン」によって植え付けられた「悪霊」から人を再び救い出すだけで「本物のシャーマン」は日々手一杯となるのでありまする。



以上、何より自戒を込めて。

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今述べたことについて、ユングは、「自我と無意識」(レグルス文庫)で、



「自我肥大」の危険

という言い方で書いています。

(訳者のひとり、渡辺学氏による「前書き」がご自身のHPにアップされていて、これだけでも読み応えがあります)

これは、一言で言うと、その人の意識と無意識の対話が進み、影やアニマからのメッセージと円滑な相互作用がはじまると、その人は、以前より内界、外界からのメッセージに敏感になり、以前なら気がつけなかったことまでどんどん気付けるようになるという体験をするようになります。

「共時性」的な体験(一見偶然のようでいて、何か必然的な摂理が働いたかに思える出会いや事件との遭遇)」もやたらと増えると感じられる。

そうなると、その人は、世界の摂理がみんな見通せるかのような錯覚と傲慢に陥る。これをユングは『自我肥大』といいます。

しかし、ユングの考え方によれば、「意識(自我 ego)」というのは、どこまでいっても、「自己(self)」という、巨大な恒星、とても全体を汲みつくすことなど一個人に不可能な心の領域の周りをまわる小さな惑星に過ぎないので、こうした「自我が自己を覆い尽くせたかのような」錯覚や傲慢には、必ずバランスを回復させるための、無意識のうちでの「補償」作用が始まる。

例えば、現実の他者の上に投影された形での、以前より深い次元での「影」や「アニマ」からの誘惑や、トラブルに巻き込まれるなど。

これはその人が更に成長するための試練にもなる代わりに、一歩間ま違えると、その人自身の破滅や、その人自身がいつの間にか「善の仮面をかぶった悪」として、たとえば悪しきカルト宗教の教祖になったり、有名だけど、実はクライエントさんの人生に悪影響の方を強く残すことが多い、厄介な「著名セラビスト」になったりする引き金となるわけです。



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それこそ、ゲーテのファウスト(第1部) ( 著者: ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ / 池内紀 | 出版社: ...「ファウスト」ファウスト(第2部) ( 著者: ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ / 池内紀 | 出版社: ...のはじめの方、「世界のすべてを極めつくした」ものの、空しさに駆られて自死を選ぼうとするファウスト博士の前に現れた、悪魔メフィストフェレスの誘惑に当たるもの(この悪魔、神様と、ファウストについて「賭け」をする、というあたりが序幕で描かれるわけですが)。

ユングは実は「ゲーテのご落胤の孫である」という噂が絶えず、ユングもそれを敢えて否定はしなかったというのは結構知られた話ですが、

どうか、「ファウスト」だけは、みなさん、手塚治虫の漫画版だけでもいいから(私も最初はそこから入りました)、目を通すことをお勧めします。

手塚治虫は、若いころに「ファウスト」、晩年に、確か未完に終わったネオ・ファウスト (1)「ネオ・ファウスト」ネオ・ファウスト (2)