今日は所用で、同じ久留米市内の草野町まで向かうことになった。
草野町には「筑後草野」という九大線(久留米-日田-由布院-大分)の駅があるが、目的地はひとつ手前の善導寺駅の方がずっと近い。
そこで、おぼろげな記憶をたどっても最低25年(帰省時の大学生時代と思うから)、実に四半世紀ぶりに久大線に乗って行く事にした。
久大線は、あの、特異な容貌を持つ、JR九州を代表する観光列車、特急「ゆふいんの森」がデビューして以降、一日に特急5往復などという、思いもよらないくらいの目玉路線になってしまった。
久留米-日田間は、福岡大都市圏への乗り継ぎ通勤も可能な「通勤・通学路線」としての性格もある程度重視するようになり、久留米大学前駅に続き、今年(2009年)久留米高校駅が開業する形で、最寄りの学校近くに新駅を増設、久留米と日田の間には、日中閑散時間帯でも、最低で1時間に1本ほほ定時には、ワンマン運転の各駅停車が確実に走るようになった。
並行して走る国道210号線の西鉄バス(本数はそちらの方が多いが)よりかなり割安感がある。
町村大合併の影響で、旧浮羽郡田主丸町まで久留米市に合併されたため、日田までの区間の3分の2弱が「久留米市」ということになった。
この区間の久大線の沿線は、駅近くこそ真新しいアパート群が立ち並ぶようにはなったが、駅さえ離れてしまえば、断層が斜めに隆起した「傾動地塊」と呼ばれる独特の造山運動によって生じた、耳納(みのう)山地の、東西ほぼ直線的に標高差があまりないまま連なり、平野部から急峻に屏風のようにそそり立つ山々を車窓の南側に眺めながら、筑紫平野の農村地帯の中をのどかに進んでいく。
思いもよらないくらいに、私の30年前の記憶と全く等質の光景に浸ることができた。
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ただひとつだけ昔と決定的に違うこと。
JR九州の車両の多くに共通することだが、たとえ各駅停車のワンマンカーといえども、どうしてここまでヨーロピアン・テイストの、統一的な美学がある、モダンな車両になってしまっているのだろう?ということだった(^^;)
↑南久留米駅ホーム
↑善導寺駅ホーム
↑木目調にこだわる車内。
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そして、善導寺駅に降り立つと、反対側からやってきたのは・・・・
特急「ゆふDX2号」(博多行き)であった。
「ゆふいんの森」の車両は博多駅や久留米駅で、帰省時にここ10年来何回となく遭遇したが、現行の「ゆふDX」車両をナマで見たのははじめてであった。
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ところが・・・・・
たいむすりっぷ!!
・・・・・お食事中の皆様、申し訳ございません m(. ̄  ̄.)m
善導寺駅のお手洗いです。
奇跡のような、昭和30年代温存の光景。
関東に住んでいる時には、日本全国ローカルに随分あちこち旅したものですが、ホームや駅舎は昔ながらの原型をとどめていても、お手洗いだけは改良を重ねているところが少なくない中で、これには、
「感動した!!」
このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。
おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、
・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m
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もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。
しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない。
このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・
つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います il||li _| ̄|○ il||li
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この問題を一気に解決し、
そういうページが、実はずっと以前から存在します!!
●阿世賀浩一郎のホームページ/index
開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。
かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・
そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。
恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。
同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。
そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。
しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。
しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。
今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。
ご当地ブログ、「カウンセラーこういちろうの久留米探訪記」の方、さりげなーく、地味に、一日20-30アクセス程度ですが、意外と確実に更新しています。
外出の時にはいつでも、高性能の方のカメラつき携帯を持参していて、外出するたびに何かを撮っているという状況、実はまだ紹介していない写真の方が多いくらいです。
ともかくまずは、私が高校生まで過ごした時点で親しんでいた場所の再訪を中心に、史跡や様々な公共施設、観光名所、出身校(!)などを紹介し、地道に、久留米地域全体の写真データベース化の野望を実現して、地域社会にささやかな貢献をしたいと思っております。
まだこのブログで紹介していない最近の分は、
●久留米大学医学部
●西鉄花畑駅とキムラヤ花畑店
● 西鉄久留米駅東口
● 篠山城(久留米城)跡
●あかつき幼稚園
・・・・・と、何とも渋いラインナップですが、最後の幼稚園は、私の43年前の出身園ですね。クラウンドの位置が変わり、田んぼばかりだった周囲が、広大な久留米中央公園として見事に整備されたものの、当時と園舎の建物どころか配色にも基本に変化がなかったことに、30数年ぶりに目にした時、言いようのない感動がありました(^^) こういう点で、この40年間の間に大改築しないままってこと、なかなか今の日本ではないことだから。
ちなみに、クラシック・バレエのファンの人に向けて言うと、この幼稚園は、「あの」人気ダンサーと、意外な関連があるのですよ。詳しくは記事参照。
「第12回 乳幼児てんかん研究会国際シンポジウム」(5/9-10 福岡県久留米市)、まだ1日めが終わったばかりですが、何しろ会場が私の自宅から徒歩でもほぼ直進15分、自転車でだと5分しかかからない、久留米大学医学部の筑水会館ですから、朝からフル参加してきたのに、余裕綽々なので書いてしまおう(^^)

↑学会会場入り口の掲示
私がお医者さんの学会に出るのは2回目である。1回めは日本心身医学会で、何と連名発表までしている(業績一覧参照 ^^;)。当時若かった、私を引っ張り出してくださった井出雅弘先生と大林正博先生は、心療内科の世界では大立者におなりなので、恐縮の至りです。
しかし今度は、「コメディカルの人たちにも積極的に参加して欲しい」という主催者の先生の特別な計らいで、コメディカル特別料金5,000円(2日間のランチボックスつき)という大盤振る舞いに便乗させていただく形となった。
私は発達障害の専門家でもないし、てんかんに至っては素人、唯一てんかんのプロ(?)と言えるのは、私自身が、抗うつ薬を、本来抗てんかん薬として開発され、気分スタビライザーとしての認可も降りたデパケン(バルプロ酸ナトリウム)に切り替えたことで一気に快方に向かった患者体験としてだけである。
そして、まだ作用機序が未解明らしい、「どうして抗てんかん薬が双極性障害に効くのか」について、何か最新情報をダイレクトに得られないかというのが本当の参加の動機だったわけであります(^^)
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この国際シンポジウム、原名を、
The 12th Annual Meeting of the Infantile Seizure Society
International Symposium on Epilepsy in Autism Spectrum Disorders and Related Conditions (ISEASD)
つまり、
「第12回幼児期てんかん発作についての年次大会:てんかんの、様々な自閉症スペクトラムと関連事象との関わりについての国際シンポジウム」
というタイトルにピンと来ない心理の専門家の方すら少なくないかと思いますので、今回の学会で、"Autism and Epilepsy:Historical Perspective"(自閉症とてんかん:歴史的視点)という基調講演された、Roberto Tochmann博士の発言を元に少し解説。
てんかんが、一種の脳波異常放電であるという学説が主流になったのは、1920年代に脳波計が開発されて以降、1930年代に入ってからです。
それまでは、血流に関する血管の異常という説が有力でした。この「脳波異常」の発見と共に、クレッチマーの偉大な業績にみるような、「統合失調症」「躁うつ病」と並ぶ「三大精神病」と呼ばれていたてんかんの臨床研究は、精神科医の手から、神経生理学者の手に委ねられるようになりました。
もっとも、現実の現場臨床では、少なからぬ場合、精神科医がてんかんを診断したり、投薬する現実に変わりがなかったにもかかわらず・・・です。
てんかんという疾患において厄介なのは、単に大発作を起こして倒れるなどといったことではなく、多くの場合乳幼児期に最初の発作を起こし、それと共に知能や記憶力の障害、運動能力や対人関係能力の発達も阻害されること、そして、発作という脳の異常放電の繰り返しの結果として、脳や神経系、身体的な運動機能そのものに、不可逆的な障害がむしろ引き起こされていく悪循環が進むのが経過観察されることそのものでした。
更に、てんかん発作は、思春期から20歳ごろに、「第2の」発作頻発のピークを迎えることも観察されていました。これによって、心身が再び急激に発達を始めるその時期に、知能や運動機能や衝動コントロールの障害がむしろ悪化し、退行(神経症の一時的退行とは異なります)すらはじめること、特にそれが、乳幼児期に最初の発作を確認できなかった人たち(見落とされた可能性もあるが)において、予後がよくない展開を招くことが多いことにも気づかれていくことになります。
その一方で、1943年にカナー、1944年にアスペルガーの手によって、それまで「幼児分裂病」と呼ばれていた疾患の中から、言語能力や対人共感能力(非言語コミュニケーション能力)の独特の障害を持つことを基準に、「早期幼児自閉症」という疾病分類が形を成していきます。
それが、単なる失語症や知能障害、脳性まひ(ダウン症)とも異なる、独特の発達上の障害であり(「高機能自閉症」の存在など、知能の遅れは必然ではない)、慎重な鑑別が必要であること、生活上のさまざまなサポートや訓練が、これらの人たち、および家族向けの固有な形で必要であること、そして、少なからぬケースにおいて、脳波異常も観察され、てんかん発作の既往歴を持つ人も少なくないことにも徐々に気がつかれて行きます。
しかし、それでも、早期幼児自閉症は、長期間にわたり、非常に発生率の低い発達障害と見なされていて、そうした状況は1990年ごろまで変わりませんでした。1960年-70年ごろには、統合失調症と並び、反精神医学や「家族病因説」が優勢だった時代だったということもあります。
それが一気に急展開したのは、膨大な臨床的行動観察と、それを基にした心理テスト・行動観察マニュアルの進歩、診断基準(criteria)の詳細化の中で、「注意欠損・多動性障害(ADHD)」「レット症候群」「学習障害(LD)」など、発達障害に様々なサブ・グループことが認識され(いわゆる自閉症スペクトラム ASD)、ICD-10とDSM-VIで相次いでそれらの成果が国際診断基準として反映した、1990年代になってからでした。
シナプスにおける神経伝達物質についての神経生理学的・化学的研究の精度が上がり、更にそこにDNA解析に伴う詳細な遺伝学的研究が照合されるようになった時、こうした成果は一同に会して、更に大きなうねりを起こし始めます。
こうして、ニューロンの間の物質代謝と、そこに関わる遺伝子の特定がひとつずつ進むいう次元で、詳細に、てんかんと自閉症スペクトラムの類似性と鑑別についての関心が大ブレイクしたのは、21世紀突入という、「汎・発達障害主義」とすらいえる、幼児精神医学と発達心理学の大革命と機を一にしてのことだったのです。
ところが、DSMでは今でもてんかんについての記載が全くない、神経医学との「棲み分け」状態を維持しているため、殊に心理の専門家の間では、「発達障害」にはにわかに関心が高まっても、それをてんかんの問題と結びつけることはひどく立ち遅れているという不均衡が、今現在も続いていることになります。
少なくとも、てんかん発作の経歴ある人に、発達障害になる人が統計的に有意に多いこと、発達障害の人にてんかんの発作が反復されると、その人の言語・非言語コミュニケーション能力ばかりか、きちんと調律された運動能力や衝動コントロール能力の発達が阻害され、殊にレット症候群に顕著に見られる、いったん獲得した知的・言語的・対人相互作用的能力の低下という「退行」すら生じることは、もはや統計的には明らかな現実があります。
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私が今回口頭発表の中で一番刺激的だったのは、アイスランドのEdvald Saemundsen博士による、国内の全児童を対象とする定期健診と治療のカルテを活用した、"Epidemiology of ASD and Epidelepsy"と題するリサーチでした。
小さな島国にわずか32万人しか人口しかないけれども、スカンジナビア諸国らしい高福祉国家(おかげで、世界的大不況の今、国家破産の危機と戦っているのはニュースでおなじみ)であるアイスランドには、数十箇所に及ぶ、無料の公立の小児科医療とカウンセリングのセンターが置かれています。この点ではイギリスと同じくらいに、国民の医療とメンタルヘルス問題を国が「抱え込んで」いるわけすね。
このことはひとつ間違うと、イギリスでの認知行動療法だけの優遇という弊害と同じような「1984年」的管理国家の弊害のリスクも背負っているわけですが、その分無駄のない緻密な予算配分で政策を行なえるメリットはあります。また、リサーチで統計を取る際に、「サンプル調査」なんていう生ぬるいものではなくて、統計的には圧倒的な信頼性のある、「全数調査」を、そんなに圧倒的な研究調査費用をつぎ込まなくても可能にしているわけです(調査の対象となる、その病院やセンターをを受診・利用するというだけで、いろいろなバイアスがかかってしまう可能性を排除できる)。
こうして抽出された、てんかんの患者さん、自閉症スペクトラムの患者さんは、国全体で数百名にも満たない数字となる。
そこから出された結論。
「少なくとも、自閉症スペクトラムとてんかんという診断に関して、別々の(独立)変数とみなすことを有意味とする統計的根拠は何も見出せなかった」
・・・・控えめな言い方ですが、これは、てんかんと自閉症スペクトラムが、全く共通の「神経生理学的・遺伝的要因」×「認知=言語的要因」×「社会=行動的要因」のもとで生じている可能性を示唆するものです。
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1日目の最後の基調講演、アメリカのデンバーからおいでの、本来はてんかんが専門で、シナプス受容体におけるGABA受容体についてのスペシャリストであるAmy Brooks-Kayal博士の、"Epilepsy and ASD:Are There Common Developmental Mechanisum?"に至っては、最新(1ヶ月前のものすら含む)の遺伝学的・神経生理学的実験リサーチを縦横無尽にレビューしながら、更に過激に走りました。
てんかんと自閉症スペクトラム(ASD)の、発達上の障害の背景に、共通の神経生理学的な基盤があるとすれば、それは何か?
1.シナプス可塑性(Synapic Plasticity)
シナプスは、ある一定条件のもとで興奮し、神経伝達物質をシナプスの間で交換するうちに、興奮や抑制について、ちょうどいい形にコントロールできる方向へと、シナプスの組成そのものを別の形に自己変化させていく力があるという最新の学説を「シナプス可塑性」と呼ぶそうです。この可塑性が有効に機能しないと、その個体の安定した心身の発達そのものがありえない(運動機能の中枢的統御もつかさどるから)。
しかし、このシナプスの可塑性そのものが、神経受容体が何らかの理由(例えばてんかん発作!!)でノックダウンされた時、その結果をむしろ悪循環的に反映させていく形で硬化する可能性も秘めている、諸刃の剣でもあるそうです。
神経の興奮や抑制に関してのアンバランスな回路がその人の中で固定化されて「自己増殖」していくわけです。こうした回路の中には、デパケン(バルプロ酸ナトリウム)がもっぱら作用するとされる、GABA受容体における神経伝達物質代謝の不安定化も含まれています。
少なくとも、てんかん発作の際に、GABA受容体はアップ・レギュレーションしてしまい、そのことへの反動として柔軟性が失われ、生涯にわたる自発性低下などの要因となる可能性は、動物実験と、シナプス内部の電子顕微鏡次元での化学物質バランスの観察から推測できる仮説とのこと。
この結果生じる脳の異常興奮が、今度は更に、ひとつの方向としてはてんかん発作の発生を「促す原因」となり、もうひとつの方向としては、自閉症スペクトラムに特有な認知障害(過覚醒など)を生み出す可能性がある。
つまり、この2つの一見別の「障害」は、実は、少なくともその途中のプロセスのかなりの経路においては、全く同じ病態生理学的機序で生じている可能性も否定できない。
2.「脆弱性遺伝子」(fragile X)
これは、ニューロンから伸ばされる神経繊維の質そのものを悪くするものであるらしく、当然、神経の興奮や抑制の質の悪化を招きます。しかもRNAに4%が転写される形で遺伝的に継承されていく。
3.ARX遺伝子の突然変異(mutation)がシナプス可塑性を奪う引き金になる場合がある。
4.神経細胞における結節性硬化症(Tuherous Sclerosis)の進展
これは、この障害は進行性であることが遺伝的にも証明されており、特に点頭てんかんとの関わりが注視されている。
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このBrooks-Kayal博士が、さりげなく「抑うつ」だとか「自発性低下」という言葉を口にされ、GABAのスペシャリストであるのをいいことに、質問タイムに質問したら他の方の時間を奪いそうだったので、講演終了後に、敢えてお声をおかけして、例によって「すごい英語」でお尋ねしました。
「先生がGABAのスペシャリストと見込んでお尋ねします。双極性障害に、抗てんかん薬が有効なのは知られている通りですが、私は、自閉症スペクトラムと、てんかんと、双極性障害を同じ機序でとらえるgrand theoryが今後展開されるのを期待しているのです」
女史はほほえみ、
「そうね。てんかんの人の30%は双極性感情障害でもあるしね」
・・・・これを伺えただけで、私はこの学会に参加した意義がありました。
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↑ なお、この日のランチボックスと同時通訳機(限られた催しのみ)リースの提供は、デパケンでおなじみ、協和発酵の医薬でした(^^)
(このボールペンももらえて喜んでいる、開き直ってミーハーな私)
●2日めの催しへの感想→
●その前に昼食タイム!! という方へ→
日本建築界の大御所、菊竹清訓(私の高校時代の学友の父)設計による。
高さ91m、地下2階、地上20階。
ある時期まで九州一の高層ビルだった。
JRでも、西鉄でも、福岡市から筑紫野市近辺を過ぎて、筑後平野が見渡せはじめると、20キロは遥かかなたからそそり立って見えて来る、久留米のシンボルである。

↑上のほうにあるUFOのように張り出した部分が、よりによって市議会会議場。
その上の最上階はカフェテラスで市民の憩いの場。展望台にもなっている。

当然、筑後地区随一の眺望を誇るのだ。

↑画面を奥を斜めに横切って、向こうの山並み(脊振山地)に吸い込まれていく高架の鉄路は、2011年開業予定の、九州新幹線、久留米ー新鳥栖-筑紫トンネル(11.6キロ。九州新幹線最長)までの工事中の線路である。トンネルを抜けると、そこは福岡市だった・・・となるわけで、久留米からわずか12分の最短ルートとなる。鉄ちゃん向けに言いますと、このパノラマは久留米市役所ビルでしか味わえません(^^)
●久留米市庁舎(建築のページ-Architecture Guide-)
(いずれも「カウンセラーこういちろうの久留米探訪記」サイトより)

↑高良玉垂宮参道 二の鳥居。歩いて登山して参拝なさる方のみならず、ここからが絶好のトレッキングコースでもあります。
もっとも、残念ながら、30数年ぶりに、
●こういちろう、キジネコ軍団のリーダーとして高良山にツーリングして、打ち上げ宴会で盛り上がるの巻 (こういちろうの夢日記)
に一気に再チャレンジすることまでは、高良山の山の神様と対話した結果、取りやめました(^^;)

↑ 実は今回は、まさにこの高良山を取り囲む「結界」としての、「高良山神籠(こうご)石」のある箇所までは登り、下り坂のライダー気分はそこそこ堪能したのですが。
(ともに、「カウンセラーこういちろうの久留米探訪記」サイト)
・・・・実は今日は、やっとGWらしくアウトドアの一日になってまして、ここで紹介したのはまだ序盤に過ぎないのですが、写真の紹介の仕方にいろいろなトピックを織り込む予定で、写真整理と仕込みが必要なので(基本的には完全に予定を立てて、記事の内容まで想定して、計画的に写真を撮って掲載していってますが)24時までに間に合ったのはこの2つの記事だけです(^^)
最近の私が、こうやって30年ぶりのUターンをしてきた故郷、福岡県久留米市についての記事をたくさん書き出していることは、読者の皆様、お気づきかと思います(^^)
このブログでそうした記事を書くことは、今後も重視したいのですが、この際だから、ネットの世界におけるご当地コミュニティを、もっと大事にしたいと思って検索したら・・・・
ありました!!
●久留米の地域情報ポータルサイト 久留米タウン(by e-まちタウン)
このサイトそのものが「e-まちタウン」という全国的規模のサイトの一部なんですけど、システムがしっかりしているので早速登録。
ええい、こうなったらこのサイトでもブログ新設だ!!
・・・・・というわけで、突貫工事でとりあえず誕生させたのが、
でっす。
こういちろうは、いくつサテライトブログを立ち上げれば気が済むのかといわれそうですが(^^;)
この「久留米探訪記」サイトでは、
私が久留米に帰郷してこの半年間の間に撮り貯めた未公開の写真のみならず、今後、運動も兼ねて自転車で再訪するであろう、かって知ったる久留米の町並みや史跡や名所や自然、そして、私にとっては新しい、浦島太郎のようにして体験する、新しい久留米の姿について、このサイトとは別のコンセプトで、ボチボチと気軽に取り上げて行きたいと思っています(^^)

↑未公開写真のひとつ、櫛原天満宮境内。太宰府天満宮を知っている人だと、境内の配置や置いてあるもの(御神牛とか)が似ていることに気がつかれるかと思います(^^) でも、そのひとつひとつに、大宰府にですらない、「苔むした」魅力ってありますでしょ?
・・・・・こうして、運動へのモチベーションを無理やりにでも維持する、行動療法家としてのこういちろう(?)であった(^^)
久留米の旬のつつじシリーズ第3弾です(実は前の回の写真もすでに増えてますよ)。
今回は、今朝散歩してきた、久留米市寺町界隈です。私の家から徒歩5分ぐらい。
この土地には、江戸時代から、城下町のお寺さんが集められていました。そういう古くからの風情が比較的残っていて、この季節から秋にかけての週末には、結構ハイカーの人たちで賑わいます。
西鉄久留米駅西口から北上、蛍川通りとクロスする交差点から、今回の写真集を始めましょう(次第に私の家に近づく方向になります):
まずは、蛍川通りとの交差点から寺町通りにほんの少し入ったところにある、何ともさりげない、中華チマキと肉まんのお店、知味斉をご紹介。

ご覧のように、何ともささやかな間口と面積の店舗なんですが、土曜日の朝9時半の段階で、お客さんこそ私一人でしたが、お店の中では次々とせいろでチマキや豚まんを蒸していく活気が感じられ、昼ごろにはかなりのお客さんが立ち寄られるのだろうなというのが伝わりました。
「知味斉(ちみさい)」という名のお店は、実は中華家のお店としては全国に散在しています。ある意味では中華系ではありがちな名前に属するみたい。「知味斎」という字を書く大きなチェーンもありますが、ここでご紹介するのは、久留米ラーメンの老舗、西鉄花畑駅近くにあった同名の店に由来する、全国にも名前が知れ渡り、遠方からおいでの方も多い(ウェブサイトの掲示板をご覧になるとわかります)、知る人ぞ知る老舗です。
私は10年近く横浜近郊に住んでいましたので、中華街の肉まんの名店はいくつか知っていますが、そういう場所のに比べると、肉まんはややあっさりめ、そう、ベトナム料理の生春巻きをどこか連想させるあっさり感がある気がします。西鉄久留米駅から徒歩5分でたどり着けますが、時間がない方は十分に場所の下調べをしておいてください。東西を走る蛍川通りから来る人にも目に入りやすいのぼりを立てていますので、そののばり目印にするといいかもしれませんね。
ちなみに「売り切れ御免」のお店ですので、その点もご注意ください。
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↑この店の辺りから北に向けての、両側にお寺が軒を並べる、あまり広くはない通りが寺町です。

週末、土曜日の朝ということもあってか、通りにこうしたのぼりを次々に立てていく、町内会有志の皆様(?)がおられました。
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さて、そうやっていくつかのお寺を左右に見ながら北上していくと、徒歩2,3分で、久留米を代表する寺院のひとつ、庭園で有名な遍照院にたどり着きます。
●遍照院(㈱サンセレモ 寺社探索)
1622年の開山だから、筑後国久留米藩21万石の城下町でも、江戸時代初期、大坂の陣で戦功があった藩祖有馬豊氏が丹波国福知山から転封されて来て2年後に遡り得る古いお寺に属するが、このお寺を有名にしているのは、「寛政の三奇人」のひとりといわれた高山彦九郎の墓(国指定史跡)があるからである。
高山彦九郎といっても、かなりの日本史ファンでも今では思い浮かばないかもしれない。しかし、京都の京阪三条駅前=三条大橋のたもとで土下座のようなことをしている銅像」がその人、とまで説明すると、思い出してくださる人も結構あるかな?

↑この銅像を、京都観光の際に観た人は結構多いと思います(^^)
戦前の国定教科書では、吉田松陰の先駆者、つまり、ペリー来航よりかなり以前、外国船が日本沿海にそこそこ出没しはじめたばかりの頃の、尊王・謹王運動の初期、日本中を説いて回った「伝道者」のような存在として、この三条大橋からの皇居望拝のエピソードが描かれ、戦争終結までの数十年に関しては、日本でこの名前を知らない人は珍しかったくらいの「偉人」あつかいだったとのこと。
●頼山陽 高山彥九郎傳現代語訳(日本漢文の世界)
しかし、次第にそうした活動に、この段階では朝廷をあくまでも幕府の管理下に置こうとしていた、未だ強大な幕府からの締め付けが加わるようになり、久留米の地に生涯3回目に立ち寄った際に、自刃して果てた。

↑私が幼稚園の頃から、通園途中にその前を通り過ぎる際に、言い様のない怖さがふと兆す瞬間があった、市指定史跡「高山彦九郎終焉の地」(遍照院から北東400m)の写真。
彦九郎がその終焉の地を久留米に選んだのは、その頃の久留米には、少し時代を下ると、水天宮総本宮の神官にして、京都蛤御門の変の長州藩の実質的総大将になった真木和泉守など、その後の尊王の志士の重要な活動舞台となるだけの土壌があったことと関連することだけは間違いない。時の有馬家藩主が将軍から嫁を迎えるという事態がなかったならば、久留米は薩長土肥と並ぶ倒幕と明治維新の「5番目の」立役者になったことはほぼ間違いないと歴史家は語る。
彼は一種の扇動的デマゴーグだったともいえる。幼少時から周囲からのひどい扱いに耐え忍び、「太平記」を読んで感銘を受け、勤皇の遊説士となったいきさつには、周囲に流されずに孤高と保ち、彼なりの理想に生きる、強烈な分裂気質パーソナリティを感じさせる。
頼山陽が書き残したように、大名をはじめとする自分よりも身分が上の者にも、礼節を貫きつつも媚びへつらわず、一度心を許した知り合いには心を開き、深く交わる対人関係様式、更には、どうして突如自分の腹に刀を突き立てたのか、イマイチ理解不能な振る舞いなども、分裂気質パーソナリティの特性を見事に描き出している生々しさがある。
頼山陽の父は江戸や京都・大阪のあちこちで繰り返して彦九郎の遊説活動に接し、頼山陽は幼少時に繰り返し父からその時の体験談を聞かされていたということなので、彼の証言は、伝記としては、伝承に塗(まみ)れる以前の「リアル彦九郎」のプレゼンス(存在感)を、実に生き生きと伝えた、準一級史料といえると思われます。
さて、ここに付属している庭園は、実際には戦後に整備されたもの。
百年公園の品種よりも、少し渋めの花の色なのも、歴史のなせる技でしょう(^^)
*****

↑自宅近くまで帰り着いた時に見つけた、石垣の間に慎ましやかに咲いていた、いかにも野生のすみれの花。
何か、私のカウンセリングルームのポリシーを象徴してくれるようなので、公式サイトのトップページの下段にも掲示することにしました(^^)
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