行動療法

2010/02/10

「病気になる前も、病気になってからも、病気が回復してきても、どういうわけかやってしまえないままでいること、何かありませんか?」

 この問いかけを、私は、医療に通院中でもあるクライエントさんに、最近時々思いついたようにしてみるように、いつの間にかなっていた(^^)

 この問いへのクライエントさんの答えっていうのは、クライエントさんの人生にそそり立つ大きな壁・・・・・などにはならず、クライエントさん自身、改めて思い返してみて、今さらのように気がつくような、一見ささやかなエピソードが多い(こちらとしては、別に、そのように仕向けたつもりもないのだが)。

 例えば・・・・(これは架空の例である)

 「実は、一人きりで飲み屋とか居酒屋やバーとかで飲んだことって、ないままですね」

 だからと言って、実際に一人きりで飲みに行けば人生全体の活路が広がる筈だ、などと私は勧め過ぎないように用心している。

 ただ、まさにその程度のことを思いつきでやってみる気になるかならないかぐらいのところに、人生が堂々巡りするか、少しずつ螺旋状に前進している手応えが出てくるかの違いがあるのかもしれないですよ・・・・などという示唆はしてみる。

*****

 すると、「実は、別のこのこともできないままで・・・」という、これまた一見全然別の、それまでの面接場面で一度も語られたことがなかった脈絡に、クライエントさんの方から話題が飛ぶことが多い。

 しかも、もしそれを聞かせていただけないままだったら、クライエントさんについて、何か基本的なところで「ひとり合点」したままになって、たいへん申し訳ないことになりかねなかったことに感謝せずにいられないくらいの事柄へと「飛ぶ」ことが多いのである。

*****

 ・・・・・これは、私なりに思いついた、「ミラクル・クエスチョン」である。

 いわゆるブリーフセラピーや解決志向心理療法の本に載っているかとうかは不勉強にして確認しないままですが、これらの流派のカウンセラーの先生方も、タイミングを外さなければ「効きそう」だと納得してくださることかと存じます。

*****

 なぜこの問い掛けが意味を持つのか?

 説明不要で直感でき、納得された一般読者の皆様も少なくないかとは思いますが、野暮を承知で(^^;)、理屈をつけてみましょう。

  1.  「病気がなかなか回復しないので」自分の活路が開けないでいるのだという、クライエントさんの認知スタイルに、全く自然に、新たな開かれた視点を提供する機会になるため?
  2.  その人を病気に「至らせた」それまでの生育歴上の問題点、病気を「長引かせた」要因、病気からの回復過程に入ってもなかなか活路が開けないできた要因を、その人なりの統合的な視点から、実感をくぐらせて、共通の布置 (constellation)のもとに理解できる洞察をもたらす?
  3.  しかもそれが即、今後の具体的な無理のない、スモール・ステップでの行動指針の獲得にも繋がるため?

 ・・・・・まあ、こういったところであろうか。

*****

●BGM:ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番 第2楽章 エミール・ギレリス(p.) クルト・マズア/ソビエト国立交響楽団(Live) beethovenpianiconcertono5.mp3 (10036.0K)

 ↑ ベートーヴェン ビアノ協奏曲第5番「皇帝」 第2楽章 エミール・ギレリス(ピアノ)/クルト・マズア/ソビエト国立交響楽団(ライブ)

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2009/12/24

サンタクロースは子供の肥満を促進する

という研究が発表された・・・・と、一昨日東京に日帰り出張した時、コンビニか何かで流れていたラジオのニュースで聴きました。

 つまり、あのでっぷりとしたお腹とクリスマスの甘いお菓子が「条件結合」して、子供たちを間食にや甘食に走らせるので、サンタももっとダイエットさせたイメージで描かれるべきである・・・・という。

 欧米の実験心理学者の研究って、時々、こういうトンデモすれすれのがありますが(^^)

 サンタは実は男性の姿をしつつも、実は「おふくろさん」的母性の元型の理想的投影を受けていると思うので、深層心理学的にみても、そりゃ無茶な暴論だと思います。

 それはそうと、私が海外出た一回はハワイで、5月でした。調べたところ、真珠湾(アリゾナ・メモリアル)というのが日本人向けのツアーで組まれることはないのが不満で、当時の連れ合いの提案もあり、公営バスを乗り継いで訪問したら、ちゃんと日本語の同時通訳器も安価で(注:初稿で無料と書きましたが、確かに数ドル払いました)貸し出ししてくれるし、もちろん日系人が多いということもあるのでしょうが、全然アメリカ人観光客たちに白い目ではみられませんでした。

 私もハワイに行くからには日本人として真珠湾を訪問するのがむしろ礼儀だと賛同したのですが、行く前はちょっと勇気がいりました。でも、案ずるより産むが易しでした。

 沖縄には、最初の独身時代(?)に、日本心理臨床学会大会で、観光も兼ねて8日間滞在して毎日国際通りで飯を食い、本島は北端の辺戸岬以外すべてまわり尽くしましたが、これが12月。

 気温28度でこっちが汗を流しながらソフトクリーム食べて南部戦跡をめぐっているそばで、現地の人たちは毛糸の帽子をかぶり、セーターを着ているのですね(^^) 冬にはコタツも出すとか。

 毛糸の帽子は、緯度のせいで日射が強いからという理由で売りつけられた(?)のをよく覚えています。

 いすれにしても、ハワイも沖縄も、もう一度じっくり滞在したい。

 ほんとうはオーストラリア大陸横断鉄道にも乗りたい私です。

●Indian Pacific in the Blue Mountains(YouTube)

*******

 以上、kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)の、「ハワイのクリスマス」というエントリーへの私のコメントの転載です(^^)

 ・・・・・クリスマスネタはこの後にこれこれに続きます(^^)

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2009/12/19

「減価償却」できればよし!!

 これまた、特に久留米に私が帰ってからは、星飛雄馬に対する、中日コーチ移籍後の星一徹の如き、経営の「鬼軍曹」と化しつつも、実は私への精神的溺愛が全然止まっていない、久留米一のスーパー経理職人とうたわれた我が父から、子供の頃から聞かされ続けた定番の台詞である。

 ・・・・ほんと、幼稚園時代から「げんかしょうきゃく(原火焼却?)」とか「すいとうちょう(水筒長???)」、「げんせんちょうしゅう(源泉超臭?)」という魔法の呪文を日々浴びせられながら育ったのだが。

 ここでいう、父が時々比喩として連発してきた「減価償却」とは、本来の意味よりもかなり幅広くとらえて欲しい。

 「一端購入した物品は、そこへの投資のもとを取るまでじっくりとしつこく使い切ればそれでよし

 という、ある種の堅実なプラス思考の実践哲学である。

*****

 「乗りかかった船」という言葉があるが、特にうつ病をはじめとする気分障害圏の人は、自分の自発的衝動からものごとをやった(買った)結果、それを周囲に承認されなかったり、思うように行かなくなると、一転してすごく自責的になり、「自分の内発的な欲求」に基づく行動全般に否定的になりやすい。

 そうしたことを繰り返すうちに、「周囲にうけいれられているかどうか」の方が圧倒的な行動規範になり、自分の内発的欲求(Want)とは何かということ自体つかめなくなる。

 その後遺症として、回復期に至っても、自分から何かを始めて、少しでも周囲と摩擦を起こすと、突如それを白紙撤回してあっさりとやめてしまう傾向にとりつかれやすい。

 それは、端から見ると「のんきで気まぐれで無責任な気分屋」のようにすら見えかねないが、実は本人の中では、内発的な欲求の芽生えを感じると、それが容易に「周囲からの拒絶や無関心」を内在化した超自我と結合してしまい、むしろ「不快な、振り払いたい、自分の中から除去したい感覚」としてしか体験できないという、不幸な条件反射が成立している、非常に苦しい堂々巡りなのである。

 なのに、家族からは「どうせまた長くは続かないよ」「また余計なものを買って」などと、冷ややかな目で、はじめからみられる。・・・・もう、悪循環である。 

 こうした人に対して、私は、この父からの言葉、「いっそのこと、減価償却するつもりでやり続けてみたらどうだろう?」をプレゼントすることがある。

 これは、「一度始めたことはやり通せ」などという、ありふれた道徳規範とは似て非なるものである。

 これは架空の例ですが、買うつもりのなかった服を衝動買いした女性が、買った後、急に自責的になり、それを返却しようかと悩んでいたとします。

 私は、

「その服は今でも気に入っているのですか?」

と尋ねます。

 それに対して、女性が、「ほんとうに欲しくてたまらないくらいに好きだったし、今も気に入っていることには変わりがない」との気持ちをはっきり語ったら、

 「それなら、その好きな服を着て、自信を持って外を出歩くと、思いもよらない新しい出会いを引き寄せるきっかけとなるかもしれない。それともあなたはそれを清算して、前の自分のままに戻ることを選ぶのですか? 前向きに減価償却してみようとしてもいいと思いますよ」

などと提案してみるわけですね。

*****

 こうした人たちは、いわば精神的な「過食嘔吐」状態にはまり込んでいるわけです。摂食障害についてご存知の方には知れ渡っているかもしれませんが、単なる「過食」よりも「過食嘔吐」の方がよほど厄介な事態にはまり込んでいます。

 ほんとうにかなえられたいのは、自分の内発的衝動への、親や交際相手からの、静かな、節度ある共感的承認と受容なのだと思います。しかし親の態度そのものは容易に変え難いわけですね。

 こうした時、仮に最初は代理満足でも何でもいいから、まずは(精神的)「過食」状態を受容してしまうというアプローチ、ありだと思うのです。もとより、そのことで本人がほんとうに「満たされて」いるのか、「味わえて」いるのかについての共感能力を治療者はセンサーとして失ってはなりませんが。

 

そうやって治療者が親の代わりに「見守って」いたら、あら不思議、いつの間にか、ほんとうに欲しいものだけを、直感的に選び抜いて買う方向に本人は自然と軌道修正し始めるんですよ。

 本人自身が、自分なりの試行錯誤の中で「経験から学ぶ」能力が賦活されるのです。

 

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2009/12/04

「現実」と「理想」という二項対立そのものが無意味である。

 今そこにすでにある現実の状況に、ほんの薄皮一枚、1ミリ分だけアシストを重ねて、気がついたらいつの間にかリアルが変化していた・・・・というようなリアリズムしか、今の私は信じていない。

 これこそ、極度に洗練され、手になじみきった場合の、認知行動療法やABA療法の戦略それ自体である筈だ。

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2009/12/01

NHKクローズアップ現代「自殺と“闘う”~イギリスの国家戦略~」

 日本における自殺者は、1998年以降、11年連続3万人以上が続いている。

 しかし、日本の精神医療は、医者は昼間は数十人の患者さんの診察を抱え、夜間に大病院で待機する看護士も、入院患者の急変等の事態が想定できるため、電話で話をきく以上の対応は難しいところが多いという。

 鳩山政権は、先月、自殺対策緊急戦略チームを結成、年の瀬から3月までの短期的な対策として、失業者や多重債務者に向けての相談窓口については対策をとることにしたが、実際に自殺に至る人の3分の1以上は精神疾患をを背景としているのに、それに対する対策はそこには含まれてはいない。

 ある統計によると、実際に自殺した人が、それまでに何らかの相談機関を訪れている率は(精神科以外の医療を含めて)72%にも及ぶという。

*****

 イギリスでは、ブレア政権当時、精神疾患や自殺による国益の損失が実に280億ポンド(約4兆5千億円)にのぼるという試算が出され、心臓病・がんとならぶ3大疾患として位置づけ、精神医療に関わる予算を一気に1.5倍にまで引き上げた。

 一方、統合失調症等で入院させたものの、症状がむしろ悪化する現実に憤った家族たちが、「精神疾患者も、地域で治療や教育・支援を受ける権利がある」という運動を起こしていく。

 そうした中で国家的な取り組みとして確立して行ったのが、全国300もの拠点に、医師、看護士、ケースワーカー、キャリアカウンセラーなどが24時間体制で配置され、ひとりひとりの患者さんに、それら複数の職域のスタッフが関わる「早期介入チーム」を置くセンターを作っていくことであった。そこにはかかりつけの家庭医や、警察すら含む緊密な連携が形成されている。

 そこでは、「アウトリーチ(積極的介入)」と呼ばれる手法が重視される。すなわち、チームを組んだ医師や看護士の方から家庭を訪問して対応するのである。住んでいる家や建物(例えば何階に住んでいるか)がわかれば、どういう形で自殺する危険があるかも掌握できる。

 自殺企図が強まった患者さんからの電話で、訓練を受けた看護士が、他の住民に本人の疾患を悟られないように、「私服で」訪問し、しばらく話を聴くうちに本人は落ち着いた例などが紹介されていた。

 統合失調症者の社会復帰においても、散歩するとか買い物に行くなど、小さな行動ステップを積み上げ、徐々に外出できるように援助するなどをするのであるが、何とその際にソーシャルワーカーが「付き添う」ところからはじめる場合もあるらしいのである。

 こうして、イギリスでは自殺率の増加に歯止めがかかったという。

 ここからは私の感想だが、こうしたアプローチは、個人のプライバシーの世界に公的機関が非常に細やかに積極介入するスタイルである。担当者と当事者の間の信頼関係の樹立に細やかな配慮が行き届いた場合に、はじめて社会的に受け入れられるものになるのではなかろうか。

******

 いずれにしても、それぞれの資格を持った専門家が妙なメンツにこだわっている段階は、日本もそろそろ卒業して、連携チームを組んで協働できるステップへと早く進めねばならないだろう。

 そのためには、制度が上から変わってくれるのを待っていても仕方がない。

 臨床心理士もまた、進んで越境的な「行動する臨床心理士」へと、ゲリラ的に、草の根レヴェルから変容していける底力を見せないと、それこそ何らかの法制化の際にお高くとまった使い物にならない人種と見られるのがオチであろう。

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2009/10/05

10月4日付け読売新聞日曜版「本よみうり堂」に掲載された、精神科医、春日武彦氏による「『病気の押し売り』を検証」と題する書評記事への感想 (第7版)

 さて、昨日の晩に予告した「お題」について書くことにしよう。

【追記】 : この春日氏の書評の全文がYOMIUYI ONLINEで読めるようになリました(直接リンク)。

冨高辰一郎/なぜうつ病の人が増えたのか
クリストファー・レイン/乱造される心の病

 書評の対象になったのは、この2冊である。

*****

 春日武彦氏の文章というのは、時として独特の屈折したシニカルさがあると思う。

 例えば、過去のご本人の著書のタイトルのつけ方にしてもそうだ。

 「問題は、躁なんです」 ・・・・・鬱ばかりが論じられ、躁鬱病の問題についての一般向けの著作が当時少なかったので啓発書として書きたかった意図はわかるが、だからといって、それこそこんな「軽躁的な」タイトルをつけてふざけているあたり、週刊誌の見出しじゃなかろうがといいたくなる。

 「ロマンティックな狂気は存在するか」・・・・・・新書化される前のモト本を私は若い頃に読んでいる。小説や映画で描かれるような「ショックのあまり『気がふれて』おかしくなる」という現象は現実にはあり得ないことについて書かれた本。
 内容的にはもっともなことが書かれているので、啓発書としての意味はあるが、そもそも精神科医がお書きになる本で「狂気」という言葉をむき出しで使う本は、実は滅多にない。
 日ごろ実際に精神病の人たちと接している臨床医の先生の多くは、その人たちとの関わりがどれだけ大変な場合があっても、同時に、そうした人たちの実存のプレゼンスに接していると、ある独特の「厳粛さ」を感じずにいられなくなることが少なくないようだ。

 そうした意味では、春日氏の言葉運びには、現実の精神病者への、ある「酷薄さ」が感じられることが、本書に限らず少なくないように思える。

 ・・・・結局、上から目線なのだ(実は読者に対しても)

 それがいい意味でのウィットとして機能する場合にはいいのだが、ちょっと今回の書評は、彼の「無神経さ」という側面があぶりだされたもののように思えてならない。

*****

 「うつ病が急増しているといわれる。(中略)実際、1999年から2006年までの6年間の間に、うつ病患者は2倍以上に増えている。99年から患者数が急増しているのである。ではその年に何があったのか」

 このことが、冨高氏自身の発想の原点にあったことは、Amasonのサイトですでに確認済みである。

 春日氏は、社会情勢の変化(1999年は確かにバブル崩壊の年である)、若者層を中心とした精神構造の変化がその原因であるという論調が多いことを示唆した上で、

 「しかしそれでノイローゼ患者が増えたというのならばともかく、うつ病患者が2倍にも膨れ上がるものなのか」

 この言葉が冨高氏の原著にある言葉なのか、春日氏の表現なのか不明だが、ノイローゼにだって「鬱症状」は得てして存在する。

 更に先までシミュレーションすれば、「ノイローゼ」はあくまでも心因性であり、狭義のうつ病とは「内因性」である兆候が明確に認められねばならないなどと、春日氏がこの私のブログ記事を読んで下さったら、言い出す可能性があるかな?

 しかし、DSMからはすでに「神経症」という診断項目が消えた。これには一面で理由あることなのだと思う。

 そもそも神経症の概念は、19世紀ヨーロッパで、主として中産階級を相手にしていた精神科医の間で、「内因性精神病」とは分化させた概念として定式化されたものである。そこにはクレペリンやブロイラー、シャルコー、ジャネ、フロイトなどの多大な貢献があるわけだが、その時代に「典型例」として抽出された「神経症」像が、特に第2次世界大戦後の経済成長に伴う国民全体の経済水準の上昇を契機として大衆全体に広まる過程で、「典型例」にあてはまりにくい「非定型化」が進行したことと関連する。

 「非定型」とされたものが、次第にその細部の特性や治療法が分化・明確化してとらえられるようになり(それが「診断学」というものであろう)、それぞれ固有の診断分類として分化していくことは、医学全般に共通することであり、それをすべてDSMの操作的定義・マニュアル指向の弊害に還元することにはちょっと無理がある。

*****

さて、続きに進もう、

 「99年は、本邦でSSRIと呼ばれる新型の抗うつ剤が導入された年である。ニュータイプの抗うつ薬の売れ行きと、うつ病患者の急増は相関している。だが新薬登場でうつ病患者が減ったというのならばともかく、逆に増えたとはどういうことなのか」

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

と続けている。

 冨高氏が、日本以外の、アメリカやヨーロッパ諸国でも、SSRIが認可された時を境にうつ病患者が急増した統計データも示してくれているかどうかに関心がある。

 統計を持ち出す場合には、常にこうした発想法が必要であることは、私もこのブログで、薬物療法と認知行動療法との併用だけではなく、他の流派の療法との併用を施行した場合という「対照群」の統計があるなら見たい、さもないと、単に認知行動療法の人たちが実証データを取るのがお好きな(まさに、プ ロモーションがうまい!)「だけ」ということになるのに、誤解を与えますと常々申し上げている通りである。

 もとより、「1995年ごろには欧米でSSRIへの評価が下がりはじめたので、日本が特にプロモーションのターゲットにされた・・・・というあたりの論が冨高氏の著作の方で展開されている可能性あり!とシミュレーションしますが。

****

 次に、先述の、

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

 SSRIになって製薬会社(正確に言うと、日本の製薬会社ではなくて外資系の製薬会社である)の販売促進プロモーションがいかに活発になったかという問題については、ネットをあさればいくらでも話題にされてきたことである。

 特に、パキシル(パキセロチン)の発売元であるグラクソ・スミスクライン社の広報活動と不利な情報隠蔽体質に関しては悪評ぷんぷんたるものがあることは、検索すればいくらでも情報源があるが、私は敢えてここで、加藤忠史氏による「躁極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」すでに書かれていることから引用したい。

 (この本は、基本的には双極性障害「1型」を主眼とした著作であるが、すでにご紹介してきた内海氏の本を読む前に読んでおくと、内海氏の本がやや難解だという印象が大幅に薄らぐと思う。また、後半部分で展開される、世界最先端水準の脳生理学、神経化学、DNAレヴェルでの遺伝子上の実証研究の当事者という、加藤氏の、現場臨床医とは別のもうひとつの顔で描かれている部分が、私には滅法読み応えがあった。そして、これからいくつか例を挙げるように、冨高氏が著作の中で書いているはずのことのいくつかをすでに「先取りして」書いているのである)

 以下、紫色の部分は「加藤氏の」この著作からの引用です: 

「それどころか、これらの新しい抗うつ薬が、うつ病にほんとうに効くのかどうかということまで、最近議論になってきておりまして、ちょっとその話題を紹介したいと思います。

 実は、抗うつ薬をうつ病の方に処方して、効いたかどうかを調べた臨床試験の結果は、論文になっているものといないものがあるのですね。

 そこで、アメリカにFDA(食品医薬品局)という薬の認可をなどを行っている部署があるのですが、そこの論文開示請求を出して、論文になっていないパキセロチン(パキシル)の臨床試験を出してもらった、という研究があります。

 そこで再解析したところ、論文にされていない臨床試験は、みな効果がない結果に終わっていました。論文になっているのは、効果があるものだけだったのです。それで、これはバイアスがかかっているのではないかという研究結果が論文として報告されました」(pp.177-8)

 加藤氏は更に続けて、その後の論文で、パキシルは中症から重度の患者ではプラセボ(偽薬)よりもやはり有効だったけれども、その効果はわずかで、軽症例では効果に差がないというものが公表されていることを示しています。

 更に加藤氏は、アメリカの臨床試験の厄介な問題についても言及しています。

 「アメリカではこういう臨床試験に参加した人に報酬を払うのです。報酬が出るとなると、お金だけがほしいといういう人もいまして、こういう臨床試験をいくつも掛け持ちする人が出てくるわけです。

 たくさんの臨床試験に偽名で参加して、報酬だけもらいながら薬は捨ててしまう。そして医師には、うつらしい症状を話しながら治ったふりをする。そういう人たちがいるのです(中略)。[これでは、]効くべき薬に[統計調査上の]差が出ません。飲んでいないのだから差が出るわけがない」(p.179-80)

 ちなみに、こうした治験では「二重盲検」というやり方を採ります。これは、担当する医師にも治験患者にも、それが偽薬なのか、ほんとうの薬かどうかが知らされないままなのです。恐らく個々のタブレットにつけられた製造番号みたいなものだけで識別できる形で、治験の研究者は統計処理をしていくのだと思います。

 ・・・この辺に関わる問題のある程度は、今回の書評の対象になっている2冊の本で言及され、しかも更に詳細に報告されている可能性はあるかと思います。

*****

 さて、この「製薬会社のプロモーション」の問題を考える際に、ちょっと視点を変えますと、実は同時に考えねばならない重大なテーマがあるはずです。

 それは、「薬価」の問題です。これは医療機関が国に保険適用について申請する際の公定基準なのですが、建前上は、薬剤の開発・研究費用、そしてそれが新薬であることが算定基準になっており、改訂される際には下がることになっています。

 ジェネリック(後発医薬品。同じ成分の薬を他の会社が製造することが許可された薬)の場合には、研究開発費がない分だけ、薬価は当然より低く押さえられることが多い。

 これはまわりまわって、競争原理が働くわけで、オリジナルの製造会社も薬価をある程度下げるべく、申請を国にせざるを得ない方向に誘導することになります。

 この「薬価」というのは、業者からの仕入れ価格そのものを規制するものではないために、そこで「利ざや」を稼ぐことが可能です。きっとこのあたりも、書評で紹介された本の中で紹介されている問題なのだろうと思います。

 もとより、心ある現場の医者は、もう、単純明快に、実際に効くか効かないかだけで薬の選択を判断するものです。そういう点で、プロモーションなんぞには全く惑わされず、自分の臨床眼と、患者さんの反応、信頼できる医師同士の情報網だけをたよりに薬を選んでいるはずです。

 このあたり、例えばkyupinさんがサイトでお書きになっていることは、ネット界では最も突っ込んだ次元でのもののひとつであると私は信頼しています(kyupinさんのパキシルを含むSSRIへのスタンスは、この記事この記事にもよく表れています)。

 薬価が高い薬を処方する際に、敢えて「申し訳ない」とはっきり口にしてくださる先生もいます。

*****

 それにしても、もし私がこの2冊の本で言及されていると嬉しいと思っているのは、そもそもなぜSSRI(特にパキシル!)の薬価があそこまで高いのかという問題それ自体です。

 SSRIは、本国でも価格が基本的に高い薬なのですが、単順に経済的に考えて、もし「薬価」を法外に高くせざるを得ないやむをえない事情があるのであれば、特に保険制度を民間に依存しているアメリカでは、「プロモーション活動」に巨額の投資をせざるを得なくなるだろうということになります。

 それとも、最初からそのプロモーション費用を「回収する」見込みまで立てて、「薬価」が高くなるようにいろいろ偽装したということまでありでしょうか?

 このへんのあたりのからくりまで、2冊で追求されていれば、興味深いのですが。

*****

 次に、特に冨髙さんの本で、「鬱症状」の病態によって、使用する薬を変える必要性についてどこまで踏み込んだことをお書きになっているのかについても関心があります。

 Amazonの書評欄を見ると、本書の中で、「再発予防のためのリハビリの重要性」だとか、「(SSRI以外を含めた)多種多様な抗鬱剤の効果の程がわかる」とのことなので、この点はあまり心配しなくてよさそうである。

 ひょっとしたら、うつ病と誤診されやすい双極性障害II型において、リーマスや抗てんかん薬、場合によっては非定型薬、更には睡眠誘導剤が役に立つことについても言及されているだろう。

 そして、薬物療法だけではなくて、医者の小精神療法やカウンセラーによるカウンセリングが連動していること、更には家族や雇用者側の対応についてまで踏み込んでくれていることを期待したい。

 なのに、こうした観点は、春日氏の「書評」にはぜーんぶ抜け落ちているのである!!

****

 薬品会社のプロモーションが会社に与える影響問題についてもう一点述べると、例えば、今や双極性障害II型が鬱病と誤診され、抗鬱薬の処方だけだと、むしろ双極性障害2型の素質を「開花」させてしまう・・・・当然治療は膠着状態になることの危険の問題は、お医者の間でかなり認識が深まっているようだ。

 このことは、新たにおいでになったクライエントさんから「投薬暦」をうかがう度に感じさせられる。

 そういう中で、リーマスやデパケンの需要は以前よりもかなり高まりつつあると思えるのだが・・・・果たしてこれもまた、薬物会社のプロモーションの結果として生み出された、新たな流行に過ぎないのでしょうかね?

 ところが、これらの薬の薬価は、三環系抗うつ剤並みに安い。更にどちらもジェネリックは出ていますし。利ざやの稼ぎようはほとんどないと思います(^^;)

 私が言いたいのは、個々の製薬会社の個々の薬に関して、治験のあり方、副作用の問題、プロモーションのあり方が問題にされてしかるべきだけれども、十把ひとからげな医療不信を煽る発言は、患者を不安に陥れるばかりで危険だということです。

 本来抗てんかん薬だったデパケンが双極性障害の治療薬になることなど、製薬会社には当初思いもよらないことで、臨床現場の経験値に出発して統計を取ってみた論文が出発点になっているようで、脳内での生科学的作用という点では未解明のまま、治験に基づき、双極性障害への適用も慎重に認可されたようである。

 (薬の保険適用申請においては、個々の薬について認可されたある特定の(いくつかの)疾患にしか受理されないという原則があるのです。だからデパケンなどの抗てんかん剤が、双極性障害への気分スタビライザーとしての処方をも認可されるまでに更に数年かかっているのです)

 先述の加藤先生のご著書によると、やっと最近になって、抗てんかん薬が双極性障害の人のニューロンの生化学作用に与える影響についてのとりあえずの「仮説」が立てられた段階のようです。

 最初胃腸潰瘍薬だったドクマチールもまた、その後統合失調症やうつ状態の改善に役立つことが「発見」されました。この薬は、すでに日本で最初に販売されて30年経過という、恐ろしく息の長い古株の薬で、さすがに今では「主薬」として用いられることはあまりないでしょうが、抗うつ薬だけでは鬱症状の改善に効果が出にくい時、薬物療法に秀でたお医者様が、副剤として処方されるケースがままあることも結構知られているかと思います。

 要するに、良心的なお医者さんは、製薬会社の宣伝を、鵜呑みにしないばかりか、製薬会社の側に、「この症状でも効果があるので、国に保険適用の申請を出せ」というプレッシャーを与える側の存在でもあるという、双方向性はある程度機能しているいうことです。

*****

 さて、いよいよ、今回のクライマックスなんですが。

 「これはメタボリック・シンドロームと同じ構造である。以前だったらただの『小太り』が、今で病院受診や保険診療の対象となる。早期治療といった考え方もあろうが、いたずらに多数の『病人』が作り出されたとも言えるだろう」

  この部分は、冨高氏ではなくて、書評の春日氏の言葉であろう。

 これじゃ、うつの患者さんを傷つけるばかりではない。成人病と鬱のどちらか重いかなどという比較論はもちろんできないと思う。でも、成人病予防検診によって慢性の病にならずに済んだ人がどれだけいるであろうか? そして何より、「小太り」の人を侮辱していると受け取れる発言になっている。

 リアルタイムに面と向かってユーモラスに語る時と、文章として書く時では人に与える印象がどれだけ違うか、もちょっと気を配って欲しい。例えば、「ちょっとおなかが出ている人」とするだけでもニュアンスは変わる。

*****

 春日氏の「書評の」先の部分:

 「ただ啓発運動が逆に病気でないものを掘り起こしているといった視点もある。『病気の押し売り』と評され、うつ病以外に小児の躁うつ病、男性型脱毛、性機能障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、軽い高コレステロール血症などが欧米では批判されているらしい」

 Amasonの書評を読む限り、このテーマは、書評の対象となった2冊で共に論じられているようである。

  またもや加藤先生のご著書「双極性障害」に戻らせていただくと、実はすでにこの本で、「小児思春期の躁うつ病」問題について、第2章第4節全体(pp.47-51)を割いています。

 特にアメリカでは、一時期、ほんの3,4歳の子供まで双極性障害と診断され、薬物療法の対象になるケースが結構あったようです。

 加藤氏は、これに対して、大人の双極性障害に適応が認められている薬を、臨床試験なし子供たちに使うことができるアメリカの現状を危惧しています。

 2歳の時に「いつもそわそわして走り回っている」との理由で診断を受け、検査の結果、3歳になった直後に、ADHDすら飛び越して双極性障害と診断され、非定型薬、気分安定剤をはじめとする1日10錠もの薬を飲んでいたそうです。そして4歳になって、薬の過剰摂取が原因で亡くなって、両親が第1級殺人罪として起訴され、両親側は医師の指示に従っただけと主張したという事件があったとのこと。(CBSドキュメントによるとのこと。探せば今でもサイト上に何かあるかな?)

 ADHDへの「精神刺激剤」投与の経験がある人に小児期の双極性障害発症が生じやすいという研究があることも紹介されています。

 そして極めつけは、次の事件。ここも加藤氏の著作よりの引用:

 「小児双極性障害の診断増加に中心的な役割を果たし、こうした子供に対する抗精神病薬治療を境に先駆けて提唱していたのは、ハーバード大学のビーダーマン教授でした。最近、小児性双極性障害の権威である同教授とその同僚が、製薬会社から多額の現金を受け取り、大学に報告していなかったという事実が報道されました(2008年6月8日 ニューヨークタイムズ)」

 どうも、この事件のことは、冨高氏の著作でも言及があるらしいことはAmazonで確認済みです。

 日本では、基本的に子供の精神医療に薬物療法を施行することにはたいへん慎重な先生方が多いですし(一時期ほど、「ADHDにはリタリン」という一本調子もなくなってきたのでは?)、ADHDをはじめとする発達障害についても、細やかな目で診断できる専門家が急激に増えています。

 私が発達障害のお子様を待つご家族からおうかがいする範囲でも、教育現場での対応について、まだいろいろ問題があるのは確かなようですが、当事者のご家族の活動などもあり、少しずつ変化してきているようです。セラピー的にもプレイセラピーや行動療法、家族全体のケアという方向性が定まってきているので、アメリカのような「子供の薬漬け」は生じそうもないのですが。

 何かというと、「日本の(精神)医療は欧米よりも遅れている」といわれますが、実際には、最近の経営淘汰的な面や医師確保の面を別にすると、オバマ政権の下、やっとのことで公的保険制度の設立に手をかけつつあるアメリカに比べれば安定しているともいえます。

 アメリカの病院事情も、実は非常に悪いようですし。フロリダ州には「産婦人科」病院が実は一軒もないという凄い話も。

 薬物療法についても、アメリカは、先端的であると同時に、極端に走りやすいともいえます。逆に、一度何かに対する「アンチ」がはじまると、これまた逆の極端の論調が出やすい。

 精神医療において、アメリカにすぐに追従する形にならないという点では、むしろ一種の安全装置として機能している面もあると思うのですが、そのへんを冨高氏自身がどう具体的に論じているのかどうか。 

****

 いずれにしても、 さすがに春日氏も、

「製薬会社陰謀論になりかねず、また早期治療の重要さという点においてもデリケートな問題である

とは言い添えてはいる。

 しかし、おしまいは、

「『まだ病気ではない』と『もう病気かもしれない』の間には、莫大な利益が埋もれているのである」

・・・・と、またもや少し無神経な言葉が出ている。

 ・・・・結局、春日先生、最後まで、薬物療法以外の人的資源や精神療法に関しては一言も触れないまま、あたかも薬物療法がすべてであるかのように「病気」の話をしているという、最大の自己矛盾に陥っている。

 我々は、健常者でも、病気でもある以前に、人間である。

 この春日氏の、書評の対象となった2冊の著者の側には、患者(とされた人)に対する、そうした目線がありそうで仕方がない。

*****

 最後に、ひとつ、決定的に重大な問題に触れておこう。

 レーン氏の著作の原著"Shyness"のAmason英語版サイトまで読みに行って気づいた、「驚愕すべき」事柄。

 それは、レーン氏の原著が、あくまでも、単なる内気な人が、特に「社会不安障害」というレッテルを貼られる過程を告発しようとした著作であるということである。

 なるほど、ある種の「社会不安障害」や「強迫性障害」について、SSRIが適応されることは事実ではあるのだが、春日氏が、この本がうつ病を主なるターゲットに据えたものではなくて、「社会不安障害」がメイン・ターゲットであることについて、ただの一言も言及しなかったということは、もはや、医者としての良心のかけらもないばかりか、ある種の情報操作に加担しているといわれても仕方がないように思われても仕方がない。

 結局、私が、この読売の書評欄に添えられた原書のタイトル"Shyness"に気づいた時点で懸念した勘はあたっていたようにも思う。

*****

【追記】

 以上の文章に全く変更を加えないままでの(嘘だと思う人はgoogleのキャッシュでも何でも参照なさるといい)実際読んだ上での書評は、冨高氏の本はこちら、レイン氏の本はこちらです。

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2009/09/23

双極性2型障害は、旧来の「躁うつ病」とは全く異なる疾患である・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」 書評 (第3回)

  内海健先生の「うつ病新時代」への書評、前回に続く第3回です。

  この著作についての連載は、ほんとうに思い出したように続けられると思います。

 ともかく、私がこれまで読んだ本で、折りしろをつけたページ数が過去最高・・・・といいますか、つけなかったページの方が2,30ページしかないという、とんでもない読み甲斐を感じている著作なので・・・・・

*****

 この連載(それどころか、更にその「見切り発車予告編」というべき私の私論そのもの)において、「双極性障害II型」とはどんなものか、特に、昔から存在した「躁うつ病」、すなわち双極性障害「1型」とどう異なるのかについての具体的解説抜きではじめてしまった点、一般読者の方には不親切であったかと思います。

 以下、内海氏の著作の内容から適宜要約しながら解説してみましょう:

 「典型的な単極性うつ病と、いわゆる躁うつ病、つまりは明確な躁病相うつ病相が交代する循環性精神病の狭間に、その両者に還元できない、独自の病態(p.24)」があることが認識されはじめたのは、1970年代になって、主として北米大陸においてである。

 一言で言えば、「うつ病相に、軽躁病相を併せもつ気分障害」の一群が認識されたのである。

 しかし、これだけでは、双極性2型を、単に「躁状態がさほど酷くない躁うつ病」とだけでとらえられてしまう可能性がある。

 実際、II型についての解説書の多くは、「本格的な躁状態のように、社会生活や対人関係に著しい障害をもたらすところまではいかない水準に留まる」などという表現を使いがちである。

*****

 この点で、ひとつの集大成を成し遂げたのが、1983年に、「双極スペクトラム障害」概念を提出したアスキカルである。

 「スペクトラム(spectrum)」という用語が入るのは、従来「気分変調症(dysthymia)」「気分循環症」、そして「双極2型」障害と呼ばれてきた病態が、ひとつの連続体を成していることを指す。

  「スペクトラム」ないし「スペクトル」という言葉に私たちは学校教育の現場で一度は接している可能性がある。少なくとも私の世代に中学の理科の時間では、プリズムによる太陽光の分光投影の実験を通して「虹は決して7色に分かれてはおらず、連続的な色の変化であり、色とはそもそも光の周波数の違いであり、太陽光にはそれだけ多種多様な周波数が同時に含まれているということなのだ」ということを教わった。それを思い出していただければと思う。

  「彼はまず、従来『抑うつ神経症』ないし『神経症うつ病』と呼ばれてきた慢性の抑うつを示す疾患に、双極性の気分変動を示す群を見出した。

 この病態は、その名が示すように、従来、内因性ではなく、神経症性、あるいは性格的な要因の強いものとされてきた。

 アスキカルはそこに内因性の変動を認め、REM睡眠などの生理的な指標も内因性気分障害の病態と同じ傾向を示すと報告した」(p.26)

 以前もお書きしましたが、私がお会いしてきた「双極性2型」ないし「気分変調性障害」と診断された皆様の中には、どうも、全身の筋肉を弛緩させてりラックスさせる、抗不安薬の機能を合わせもつタイプの睡眠誘導剤だけでは熟睡できない方も少なくないようである。

 (まして、双極性2型障害の診断がふさわしい人に、気分スタビライザーなしで、古典的な抗不安薬だけしか処方していない例は、最近さすがに減ってきたはずだ。ところが、私が久留米に移ってお会いしたクライエントさんの中には、通院暦数年、3件連続で気分スタビライザーも抗うつ剤の処方も全くないまま、抗不安薬中心の処方が続き、1年ほど前、4件めにしてやっと気分スタビライザーを核、本格的睡眠導入剤も加えた形への処方大変更がなされ、はじめてかなりの程度安定されて、お抱えになっていた現実の諸問題・・・誰から見ても深刻なストレスの供給源、現実環境の中での悪循環的相互作用といえる水準のもの・・・の解決のために、カウンセリングというものも受けてみようという決心をされて、お探しになったそうである)

 つまり、お医者様が、その人に適合した具体的な薬の組み合わせで、脳そのものの活動を睡眠に誘い込むタイプの「本格的」睡眠導入剤と、気分スタビライザーを併用する処方をされていた場合にはじめて、ある程度気分の波を穏やかにできているケースが少なくないようである(三環系抗うつ剤やある種のSSRIは、使いどころを間違えれば、双極性2型の人の軽躁のそもそもの始まり誘発するリスクが高い

 ・・・・こうしたことも、「REM睡眠などの生理的指標の点でも内因性」というアスキカルの指摘と重なるのかもしれない。

*****

 いずれにしても、特に北米大陸では、双極性スペクトラム障害は、単極性うつ病と、すでに対等な有病率を持つと推測されているそうである(p.27)。

 (このことと、アメリカを中心に吹き荒れた、子供から思春期の事例に対する過剰な「双極性障害」診断の不要なまでの連発というスキャンダラスですらある問題・・・これについては、加藤忠志著「双極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」のpp.47-51に詳しい・・・は切り離してとらえるべきであろう。)

 本格的な躁うつ病(1型)は、人類太古の昔から存在するにもかかわらず、両者の数分の1しか実数はいない。

*****

 いずれにしても、内海氏は、双極2型を、単極性うつ病と双極1型(躁うつ病)との間の単なる中間形ととらえるような折衷的な考え方に異議を唱えている(p.29)。

 それどころか、

  「双極性II型障害は、『うつ病』や『躁うつ病』という明確な臨床概念が、かえってその明確さによって隠蔽してしまったかもしれない、そうした気分障害の多様性を担っているのである。

 この第一の発想の中には、実は『純粋な単極性というものはない』、という考えが含まれている。

 気分障害である以上、多寡はあるにせよ、何がしかの双極性の成分が含まれている。

 すなわち、『汎双極論』である。

 それゆえ、双極スペクトラムとは、[単極性]うつ病とは異なった類型を指すと同時に、理屈の上では、[単極性]うつ病をもその中に包含するものである」(p.30)

 ・・・・こうして、内海氏は、現代のうつ病論の機軸そのものを、古典的なメランコリー型うつ病から双極性2型を範例とする方向に「コペルニクス的転換」をするという試みとして、本書の基本方針を位置づけて、第1章を終えている。

******

 さて、「躁」と「軽躁」とは単に量の違いではなくて、質の違いでもあるという点について、もう少し具体的に述べて行きたい。

 DSM-IVにおける「躁病エピソード」と「軽躁病エピソード」の診断基準の違いはほんの数項目である。具体的に言うと、長大なB項に続く残りの3分の1、C.D.E.(F)項にのみ記載されている。

 これらの中ではっきりとしたコントラストがあるのは「躁病エピソード」のD項=「軽躁病エピソードのE.項」のみである:

  •  気分の障害は、職業的機能や日常の社会活動または他者との人間関係に著しい障害を起こすほど、または自己または他者を傷つけるのを防ぐために入院が必要であるほど重篤であるか、または精神病性の特徴がある(躁病エピソードのD.項)
  •  エピソードには、社会的または職業的機能に著しい障害を起こすほど、または入院を必要とするほど重篤ではなく精神病性の障害はない(軽躁エピソードのE.項)
 

 ・・・・ここでいう入院が必要というのは、もし入院治療をしなかったら、1週間以上、本人を家庭や社会に放置できない水準の、本格的な「躁状態」が持続する懸念があるということである。

 もとより、内海氏は、このDSMの診断基準が、結局「程度の差」で本格的な躁と軽躁を区別しているだけであることに大いに限界を感じている(p.37)。

 ちなみに「精神病的」なものの有無というのは、軽躁の場合には、幻覚幻聴、明確な妄想状態などは生じず、現実吟味能力もある一線を保っているということである。

 内海氏もこの点は原則的に支持しているようだ。

****

 そうした中で、「躁」と「軽躁」の質的な鑑別指標のひとつとして内海氏が掲げるのは、観念や思考の「転導性」=「移ろいやすさ」である(p.40以下)。

 心理学を学んだ人が「転導性」と聴くと、ピアジェの児童期発達論における「転導的推理(trunsductive reasoning)」という概念を思い出される人もあるかもしれない(「私が幼稚園から帰ったから日が暮れる」・・・の類の、物事を具体的だが表層的な連続性などから理由付けること)。

 しかし、ここで内海氏が言わんとするいう「転導性」というのはピアジェのそれと少し似てもいるが、かなり異なる。 

 躁状態の場合、「観念放逸」と呼ばれる、話や行動が前後の脈絡が全然ない飛び方をする。そこには生産的なものは何もない。

 ところが、軽躁状態では、転導性は必ずしも明確ではない。軽躁状態でも微細な観念放逸や転導性がある場合もあるとクレペリンが観察してることを内海氏は否定はしないものの、軽躁を躁から区別する、より実践的なポイントとして、

「まとまった作業を遂行できること」

を掲げている。

 「場合によっては、注意が散乱するどころか、むしろしつこいと思われるくらいに、ひとつのことに執着する場合もある。

 他方、躁状態で成功することはほとんどあり得ない。(中略)軽躁では、場合によってはある一定の成果をもたらすことがある(pp.41-2)

 このあたりは、この内海氏の著述の後ろに続く、症例A(pp.42-5)の部分をお読みいただくと明確になるはずだが、もちろんここではそこまで紹介しない。

 ただ、内海氏がこの症例の後に次のように述べている点には触れておこう:

「この事例で見られるように、軽躁では観念放逸に代表されるような、転導性はみられない。もしあったら、相手をひきつけるような「魅力的で委曲に富んだ企画書」など書けるべくもないし、計画を遂行していく粘り強さなどは求めるべくもない」(pp.45-6)

*****

 軽躁状態の指標のびとつは、その軽躁のさなかにあっては、本人にとってはそれが「普通で順調な状態」と認識されつつも、周囲の人から見ると、やや「多弁で元気がよ過ぎ」かな?・・・というふうに感じられる形で、自他の実感の間にギャップが生じる状態だということである(こちらの記事参照)。

 センスのあるお医者さんは、この実感上のズレを、本人を傷つけることなく納得させ、患者自身が、いわば時計の目盛りを少しずらすかのようにして、自分の調子の実感に補正をかけてモニタリングする習慣をつけるように促すことを、もはや〇〇療法などという大袈裟なものではない、「小精神療法」として、さりげなく診察の際に紛れこませておく実力すらあるようだ。

 このあたりの、本人にとっては軽躁こそいい状態、理想状態ですらあるという感じ方のことを、内海先生は、「軽躁とは、自我違和的ではない」と表現している(p.49)。

*****

 さて、今回のおしまいに、内海先生が双極2型の精神療法のポイント(p.154以下)として述べている部分の中から、この「軽躁状態」の「躁」とは異なる固有の「質」という観点と関連しそうな部分をまとめておこう:

 「双極II型障害では、ある程度踏み込んだ精神療法が必要である。(中略)

 彼ら彼女らは、「支持的[supportive]」といわれる対応では物足りないと感じる。(中略)通常この類型の人たちは強い刺激を必要としている、通り一遍の対応では彼ら彼女らにとって隔靴掻痒[=かゆい所に手が届かない]のごとくとなる。(中略)

 より積極的な見方をするなら、BPII[双極性II型]に対しては、精神療法は実質的な効果を持ちうる。

 俗に「うつ病者は病気から学ばない」という。ひとたび回復すれば、何ごともなかったかのように、現実に戻って行く。それゆえ、同じところで躓き、再発を繰り返す事例もある」(pp.154-6)

 よく、鬱に関して、「それまでとは生き方を変えましょう」的な啓発運動が成される傾向があるが、これは古典的なメランコリー型単極性うつ病の人たちに対しては大事なメッセージかもしれない。

 つまり、ひとつには、今述べられていたように、古典的な鬱の人は、ひとたび回復すると、以前と同じライフスタイルに立ち戻り、再発する場合も少なくないことに歯止めをかけるという意味で必要かもしれないということである。

 もうひとつには、古典的な鬱の人は、組織や権威や集団のもたらす価値観への安定的な帰順意識も強いので、こうした呼びかけを「押し付けられた」ものとは感じにくい可能性もあろう。

 (ところが、双極性2型の人だと、もともと変化に富んだスリリングな人生を歩んできた人が多いので「何を今更!」と思うか、あるいはもう一度軽躁的チャレンジをはじめるという形で「誤解する」きっかけになるか、それとも、他人や権威から「変われ!」といわれることに反発するかのいずれかになる可能性が高いと思う。このあたりの話題は第4回で書くつもりである)

****

 そして内海氏は、古典的なうつ病域の人が経験から学ばないのと比べる形で、次のように締めくくっている:

 「BPII[双極2型]では、罹病中に経験したことは、よきにつけ、あしきにつけ、その後にも刻印される。

 実際、精神療法の効果は、回復後にも持続しているし、回復後も精神療法は有効である。」(p.156

 

(第4回につづく)

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

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2009/09/12

それにもかかわらず、セッションを前に進めている主役はクライエントさんである -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (4 完結)

 日本人間性心理学会第28回大会における、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第4回、今度こそ完結です(^^)

*****

 前回の終わりの方で述べた、「メタ・コミュニケーション」次元でのやり取りとして、クーパー氏は次のような例を持ち出した。

 子供時代に親からひどい虐待を受け、現在も社会不安障害的な症状に苦しんでいるクライエントさんがいたとする。

 この種の人物へのセラピーの場合、虐待を受けたときの記憶を繰り広げて探索して話していってもらう(exploring)ことが求められることが少なくない。この人もまた、それまで受けたセラピーではそうしたことを散々やってきた。

 果たして、このクライエントさんに、今回もまた、そのような自己開被的なやり方を取ってもらう必要があるのだろうか?・・・・

クライエントさんは語った:

 「私はもうフラッシュバック(災害時や虐待などのトラウマ的な経験の記憶が、突如、圧倒的なリアリティでその人の中に蘇ることを不意打ち的に繰り返す体験)に悩まされてはいないんですよ」

セラピストは問いかける:

 「虐待について整理するために、そのことに戻ってみる必要を感じておられますか?」

クライエントさんは応えます:

 「そこまで行きますかねえ? それって、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」

セラピストは続けます:

 「あなたからの[対人恐怖を改善するにはどうすればいいかという]問いかけが、その[過去の虐待]問題と、どのくらい関連していると、あなた自身が、感じているのかどうかに関心を持っていたんです。私たち二人とも、その2つのことが関連しているかどうかなんて、実は何もわかってはいないんじゃないかと」

クライエントさんはしみじみ応えます:

 「・・・・・・ほんとうはわかっていないんですよね、それって・・・・・理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖問題と、つながっていないのかも」

 クーパー氏はこの展開について次のように解説する:

  • (クライエントさんの不安の種になっている問題の原因や対処について)、他の可能性も点検してみること。
      ・・・・・・[家庭での親との関係だけではなくて]学校で恥をかかされた経験と関連している可能性は?
      ・・・・・・[親に限らず]、誰かががっかりしたり、「審判」を下して来る(judge)ことへの恐れと関係しているのかもしれない。

などなど。

 こうした流れの中で、このクライエントさんは、

 「・・・・・私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
 だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」 


 しかし、セラピストは、この方向にだけ安易に話が流れないように、更に次のようなことを述べていきます。

 「私たちは、あなたのそうした、人前で話すことのたいへんさについて、こうして話し合って来ているわけですけれども、でも、もっといろんな[とらえ方や解決法の]可能性があるのだと思いますよ。

  •  ・・・・・ひとつ言えることは、あなたのこれまでの人生の中で起こったことのおかげで、それがすごく厄介なことになってしまっていて、それがあなたをひどく押さえ込んでくるし、ほんとうに不安にさせるんだろうということです。
  •  ・・・・・もうひとつは、あなたがこれまでにやってきたことの中で、あなたが全然不得手で、ひょっとしたら諦めてしまった方がよかったようなことすら、たくさんあったのかもしれない。
  •  ・・・・・もうひとつあり得ると思いますよ。・・・・・さっきあなたがお話になったこととも関連して来るんですけど、あなたの中で[現在]悪循環のサイクルにはまってしまっている気もする。つまり、必ずしも過去の酷い体験が原因になっているとは限らない場合もあります。
     あなたは、[そうした過去の痛手によって]人前で話をせずに済むようにしてしまったばかりではなくて、そうやって実際に人前で話をしないことによって、ますます人前で話すのが怖くなってしたのかもしれない。ほんの少しでも、人前で話をすることを始めてみたら、まさにあなたが言われたように、『実はそんなに大したことではなくて、結構何とかなる』と感じられたのかもしれませんね」

 このように言葉の上でだけ読んでいくと、まるでセラピスト側が一気に畳み込んで誘導しているようにすら見えるかもしれない。

 しかし、私が思うに、セラピストは、かなり長い沈黙を挟みながら、クライエントさんの様子や非言語的な反応を絶えず確認しつつ、ひとつずつ、控えめに差し出すような言い方で、言葉を紡ぎ出して行ったのではないかと想像できる。

 (この「多面的アプローチ」との共通項が多い、フォーカシング指向心理療法において、「新たな提案は、押し付けにならないように、クライエントさんが簡単に振り払えるような形で、控えめに差し出されねばならない」ことを、ジェンドリンが繰り返して強調していることからの憶測である)

 クライエントさんは応える:

 「まさにそう思っていたんですよ。これって、私の中でいつの間にか習慣化していた行動パターンなんじゃないかって」

*****

 この事例(パワーポイントファイルでは、pp.47-9の”Session3”)を読んでいると、この内容が、ほとんど認知行動療法だ、いや、論理療法っぽくもあるな、ABA(応用行動分析)の影響もありそうだ、PCA(パーソン・センタード)でなりながら、ここまで指示的(directive)なやり方ってあり?とお感じの、専門家の読者の皆様もありそうである。

 私の理解する限り、忘れてはならないのは、次の2点である:

  1.  クーパー氏の「多面的アプローチ」は、個々のセッションの小さな局面局面(micro-steps)においては、クライエントさんに提供可能な技法は何でも柔軟に活用するものであるということ。
  2.  しかし、このセッションの展開は、実はクライエントさんの実際の発言にあくまでも付き従っていく形でのみ進行し、クライエントさんの自己決定権を尊重していること。

     つまり、

    •  「私はもうフラッシュバックに悩まされてはいないんですよ」
    • →「それ[子供時代のトラウマ体験について振り返ること]って、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」
    • →「理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖]問題と、つながっていないのかも」
    • →「私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
       だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」

     ・・・・・これらの発言の展開そのものは、クライエントさん自身が語り出した流れである。
     セラピストは、それに付き従って行き、その都度、メタ・コミュニケーション次元で展開を整理しなおし、

     「このあと、このような別メニューも可能ですが、いががなさいますか?」

    ・・・というような調子で、

    クライエントさんがひとつの方向に誘導されてしまい過ぎ、自分のことを「早急に」決め付けてしまい過ぎないように、その後の進行について「吟味しなおし」、「自己決定」する機会を与えるように、用心深くサポートすらしている
    のである。

     (フォーカシング指向心理療法的に言えば、セラピストが、「セッションをどう進めるのか」そのものについて、繰り返して、クライエントさんのフェルトセンス(実感そのもの)に照合してもらう機会を提供するのと、何かしら類似している)

 この観点からすると、この事例は、セラピストとクライエントさんのメタ・コミュニケーションの次元では、見事なまでに「クライエント中心(PCA)的」であるということになるだろう。

 もっとも、例えば非常に熟達した認知行動療法のセラピストに、こうしたクライエントさん尊重のセンスが透徹しているであろうことを私は信頼したい。

 また、例えば、日本における「暴露反応妨害法」の最高の権威のひとりである山上敏子先生の行動療法における行動計画の立て方が、まさにこれに匹敵する高度な「メタ・コミュニケーション」スキルを駆使したものであることを、私は先生のワークショップに参加して、事例を拝聴する中で、しみじみと味わっている。

*****

 クーパー氏は、この"Session 3"の事例とは別に、他のクライエントさんとの"Session 4"の事例も呈示した。

 その事例も、やはり子供時代に深刻な家族からの被虐待経験を持ち、現在陥っている悪循環の行動パターンについても検証し、ご本人もその日の面接の時点ではそのことに満足していた。

 しかしその次の回の面接で、その人は切り出したという:

 「先週のセッションで、私の[悪循環の]行動パターンのことについてお話しましたけど、私はその悪循環の中で、ほんとうに、今、身動きできなくなっている自分にも気づかされたんです。
 [ここからは、パワーポイントにはない、クーパー氏口頭での補足]・・・・ですから、やはり私は、このセラピーの場で、お父さんとの間にあったことについて、じっくり取り扱っていく必要があるように思えてきたんです」

 クーパー氏は、このようにして、前者の事例とは一見正反対の展開になっても、それはそれで全く自然な成り行きであると述べ、

 「この2つのケースのどちらが的確な展開だとか、重いクライエントかなどということは軽率に言えるはずもない。
 大事なのは、こうした展開を経て、クライエントさん自身が、今の自分がセラピーの中で何を必要としているのかを明確にしていくことができるということ」

 と強調した。

*****

 パワーポイントの印刷用図版には、なぜか省略されていることが残念なのだが、クーパー氏は、「多面的(pluralistic)アプローチ」と比較するための典型として、

  • 「古典的(classical)な」クライエント中心療法(明らかに、教条主義的(dogmastic)でかたくな(rigid)な・・・・というニュアンスを込めていると私は思う)
  • 「マニュアルチックな」認知行動療法(こっちの方は逆に、「高次元の」認知行動療法ならば、柔軟で、クライエントさんの主体性を損なわない筈という含みを感じる)

を持ち出し、

X軸=非支持的(non-directive)←→支持的(directive)
Y軸=メタコミュニケーション水準において、多面的(pluralistic)←→決まり切っている(monistic)

というグラフ上にマッピングした。

 すると、「多面的(pluralistic)アプローチ」X軸の非支持的(non-directive)←→支持的(directive)の両側の領域に広がりつつ、なおかつY軸側では、多面的(pluralistic)領域に幅広く分布する長円形の分散(?)を成す。

 ところが、「古典的(classical)な」クライエント中心療法「マニュアルチックな」認知行動療法はというと、X軸側では正反対の陣営なのに、Y軸側・・・つまり、メタコミュニケーションの次元で見ると、「決まり切っている(monistic)」という点では同じ穴のむじなである・・・・・という、イギリス的ウィット効かせまくりの表現をなさっていた(^^;)

****

 この後、「多元的アプローチ」の観点からのリサーチのあり方についてのいくつかの提案がクーパー氏からなされたが、このブログではその部分の報告は割愛したい。

 その後、フロアとのディスカッションを経て、2時間の、大変に密度の濃い特別講演は終了した。

****

 学会大会翌日の懇親会に現れたクーパー氏に、私は例のごとく(^^;)、大学院出とはとても思えない英会話力で話しかけ、前半半分はかろうじて自力で、後半部分は、そばにおられた、九州産業大学の平井達也先生に手伝っていただいて、多少なりとも講演の感想を具体的にお伝えする機会を持てた。 

****

 ブログの記事としては、たいへん堅苦しい内容だったかもしれませんが、流派問わず、幅広い層のカウンセラーの皆様、臨床心理学研究者の皆様ににお伝えしたく、筆を取った次第です。

 (この連載 終わり)

※この連載(第1回)はこちらから始まっています。

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2009/09/10

面接場面でのメタ・コミュニケーション自体を話題にする -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (3)

 ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第3回です(^^)

 すでに連載第1回で述べたように、クーパー博士は、本来非指示的(non-directive)で、面接場面での、クライエントさんの主体性と自己決定権を最大限尊重するはずのクライエント中心療法的アプローチ(パーソン・センタード・アプローチ[PCA])そのものが、もしクライエントさんに、その治療者に対して唯一期待し得る心理療法の技法となった場合に、それが、メタな次元では、クライエントさんが、クライエント中心療法に従うように強制されるという、セラピスト側からの「指示性(directive)」のある関係性転倒してしまうという、究極の逆説を提起した。

 カウンセリングにおいて、クライエントさんに何の成果もあがっていないように見える場合にも、面接だけはずるずると繰り返される場合があることはよく知られている。

 クーパー氏は、こうしたケースのことを「クライエントが面接を引き伸ばす(defer)傾向」と名づけ、「PCAを押し付けられた」場合、すなわち、クライエントにPCAアプローチが適していなかったにも関わらず、治療者側からのPCA的な介入を受け入れて(私なりに言い換えると、受け身に「甘受して」「甘んじて」いたに過ぎないことの示唆ではないかと述べた。

 心理セラピーにおける治療者とクライエントさんとの相互作用を見つめるに当たって、「メタ・コミュニケーション」の次元を重視することが大事であるということになる。

 具体的には、セラビー初期の段階で、

  • 「セラピーに何を望んでいますか?」
  • 「あなたは、私たち(セラピスト)が、どのようなことができるかもしれない(may)と感じていますか?」
  • 「これまでの経験の中で(そこにはそれまでのセラピー経験も含まれる)、あなたにとって、役に立ってきたことや、役立たなかったことは何ですか?」

などというテーマで、じっくりと話を聞いておくことが重要であるとする。

 また、面接の各回のはじめにも、

  • 「今回のセッションで何を得たいですか?」
  • 「今日は何を話し合ったら役立ちそうですか?」

などと率直に問いかけておくことも大事だとクーパー氏は述べた。

 パワーポイント上には書かれてはいないが、

「このような話し合いが十分なされないまま、漫然と面接が繰り返されることは、治療同盟上の傷を深めるだけだ」

・・・・クーパー氏はそこまで明言した。

*****

 クーパー氏らの教育・研修活動によって、すでに現在、最初から多元的アプローチに熟達すべく臨床専門教育を受けたカウンセラーが、育ち始めているという。

 そうした臨床実践家は、PCAに限らず、精神分析でも、認知行動療法でも、行動療法でも、様々な臨床実践の多種多様性の中から、その時の個々のクライエントさんに適した方法を提案できる能力を備えていくことが目指されている。

 つまり、クライエントさんが、セラピーから望むものを得ることをサポートするような実践である。

 (これが、クライエントさんが望むがままのものを差し出せる、無制限なまでの「何でも屋」になれ!ということとは異なることは、すでに第2回で述べた)

 そこに必要になってくるのは、「より拡張され、高められた次元で(enhanced)、メタコミュニケーションをしていく」ということだと、クーパー氏は論じる。

 そうした面接の実際では、そうした、治療者-クライエント間の「メタ・コミュニケーション」次元での話題が頻繁に出てくることになるはずだという。

 具体的に言うと、セラピーでクライエントさんが望むことやしたいことを、治療者がクライエントさんに確かめたり、それについての対話を進める場面が、かなりの頻度で出てくるはずということである。

 例えば、

 「確かに、私たちは、この時間帯に、この話題について話し合おうと決めていたわけです。私たちの間で、その話題の意味について理解を深めるような分かち合い方ができるかどうか[が肝心なん]ですよね。

 ・・・・・ちょっと思ったんですけど、その話題について、私の方から、いくつかの具体的な質問をして差し上げた方が、あなたの役に立ちそうですか? それとも、[そうした私からの質問なんて邪魔で、]あなたにとって話す必要があることを話してもらうことに時間を使った方がよろしいでしょうか」

などといった、セラピスト側からの問いかけを挟むことなどがそれである。

*****

今回で最終回にしたかったのですが、この部分、長さの割にはへヴィーとも感じましたので、残りの部分を更に分割して、次回に続く・・・・とさせていただきます。

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2009/09/09

メタ次元で「クライエント中心的」でありつつ、各流派の心理療法を、セラピーのひとつひとつの局面ごとに、柔軟に有効活用すること -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (2) [第3版]

 日本人間性心理学会第28会大会の特別招聘講師、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第2回である。

*****

 今回は、博士が実際に「多面的心理療法」を臨床現場で具体的にどのような形で実施するのかの方法論について述べたい。

 すなわち、治療者とクライエントの関係性というメタ次元で、クライエントさんの主体性と自己決定権を尊重する「クライエント中心(PCA)的」でありつつ、心理療法の諸技法を柔軟に使い分け、有効活用するための方法論である。

 クーパー氏は、基本的な仮説として、次のようなものを提起する:

「心理的な困難には、多数の原因があるだろう。

 ・・・・すべての用件にあてはまるような『正しい』セラピー方法は、ひとつではなさそうである。

 ・・・・異なる時、異なるプロセスが、異なる人の役に立つ」

(Cooper & McLeod,2007)

 そのためには、ある特定のクライエントさんとの間で進行しつつあるセラピーのプロセスを、個々の局面としてとらえて概念化する枠組みが必要だという。

 クーパー氏のいう「多面的アプローチ」は、あるクライエントさんにはクライエント中心療法が向いている、別のあるクライエントさんには認知行動療法が向いている、などと、単に、クライエントさんによって、セラピー手法を「使い分ける」というような「大まかな割り振り方」の域を完全に超えている、遥かに緻密なものなのである。

 詳しくは、大会準備委員会サイトにまもなくアップされるであろうパワーポイントファイル日本語版(講演時に配布されたものに更に大幅な修正がなされるとのことである)の図表31ページ以下の流れを追っていただくのが望ましいが、簡単にいうと、次のような項目を列挙して、矢印で相互関係を図示してある。

  • 目標(Goal)・・・・クライエントさんは、具体的に何がどうなることを求めているのか(セラピスト側が勝手に設定するのではない点が大事である)。
     例えば、「自尊感情を高めたい(自分にもっと自信をつけたい)」「お母さんとの関係をもっとうまくやって行きたい」「嗜癖的な習慣を止めたい」などといったことが、面接の中で、クライエントさんが求めていることとして、具体的に浮かび上がってくる可能性があるかもしれない。
     これらの「目標」は、互いに関連しあっているかもしれないし、別々の次元でとらえる方がいい場合もあることになる。
  • 課題(Task)・・・・クライエントさんのために、何ができるかについての、「一般的な方向性」のことを指す。
     例えば、「自己理解を深める」「具体的な場面での問題解決スキルを高める」など。
  • 【方法(Method)・・・・これは更に、「クライエントさんの(面接場面での具体的な)活動」と、「セラピストの(面接場面での具体的な)活動」に別れる。
     ここで大事なのは、面接場面でセラピスト側が何をするかが最終的に重要なのではなく、クライエントさんが何を選択をするかを尊重する「共同作業」としてなされていくことである。

 クーパー博士が具体例として掲げたのは、同一のクライエントさんの中に次のような系列が同時に構成要素としてあるケースである(p.33以下)

  • 【目標1】自尊感情を高める
    • ←【課題1】もっと自己受容できるようになる
    ←【クライエント側の行なう方法1】否定的な思い込みを覆すこと
     ←【セラピスト側が行なう方法1】
      否定的な思い込みに立ち向かう[ように促す]
      (恐らく、論理療法や認知行動療法、行動療法に近いアプローチであろう)

    ←【クライエント側の行なう方法2】自分についてオープンに語る
     ←【セラピスト側が行なう方法2-1】受容する
     ←【セラピスト側が行なう方法2-2】傾聴する(上記2つはクライエント中心療法的であろう)
     ←【セラピスト側が行なう方法2-3】質問する(「具体的な話題を引き出す」という意味ではなかろうか?)

    • ←【課題2】自分の中の肯定的な特質をリストアップする

  • 【目標2】お母さんともっとうまくやっていく

(以下略)


 ブログの表示能力の限界があるのでわかりにくいかもしれませんが、これは【目標】を頂点とするツリー構造のようにして、末広がりに枝分かれさせる形で、←【課題】←【クライエントの方法】←【セラピストの方法】を構造的に概念化する試みである。

 これらの構造は、セラピスト側が一方的に整理し、デザインし、具体的な方法を押し付ける形になってはならず、セラピー過程の実際の個々の具体的局面の中で、クライエントさんとセラピストの間の「共同作業」として形成され、試みられ、修正されていくことが重視されている。

 セラピー空間における変化の過程で、クライエントさんが「アクティブな行為者」として機能できるように援助するのがセラピストの務めということになる。

 そのためには、セラピスト側が、「どうすれば自分がクライエントさんのお役に立てそうか?」ということについて、クライエントさんにオープンに問いかけ続ける姿勢が必要となる。

 例えば、鬱状態のクライエントさんに対して、「多面的アプローチ」のセラピストだと次のように問いかけるかもしれない。

T:「鬱を改善する上で、あなたにとって、これまでどんなことをするのが役に立ちましたか?

C:「運動することです」

T:「ではどうやったら、運動する機会を増やせるのでしょうね?

 このようなやり取りを進める中で、クライエント自身も、それどころかセラピストの側ですら(!)思いつきもしなかった、予想外の、「コロンブスの卵」的な改善のための方法が見つけられるかもしれない。

 たとえば、そうしたやり取りを進める中で、その鬱のクライエントさんが、いつの間にか、「自分の現状について、誰かに、もっとオープンに話してみてもいいのではないか?」ということに気がついていく・・・・などという展開も、大いにありである。

****

 もっとも、こうした際に、クライエントさんの希望を訊く中で、そのセラピストにとって、できることとできないことがあることをも率直に伝えることが必要であることも、クーパー氏は強調している。

 例えば「自分が何をどうすればいいか」を逐一導いて欲しい、などとクライエントさんに言われたら、(中井久夫先生流に言えば)「治療者は、クライエントさんに自分を高く買わせてはならず」、それは自分には無理だということもフランクに伝えることが大事だということのようである。

 この点に関連して、フロアから池見陽先生が質問に立ち、

「そのクライエントさんに適切なアプローチが治療者としての自分の技法の引き出しをはみ出してあり、より適格者がいると感じた場合、他のその技法専門のセラピストに紹介する場合もあることも、クーパーさんの射程に入っていると理解していいのか?」

とお尋ねになった。

 クーパーさんの応えは”Yes, of course!"(「もちろんそうです」)であり、クライエントさんがある特定の課題実現について援助してもらうために、他の流派の専門家に手助けしてもらうことも十分に選択枝の中に組み入れるべきであると明言された。

 (池見先生が危惧されたのは、恐らく、聴衆であるカウンセラーたちが、いろいろの技法を学ぶのはいいけれども、「自分だけで何でも抱え込んで」セラピーを進める必要があるかのように理解しまいか? という思いではなかったろうかと、私は想像する)

*****

  次に、クーパー博士は、「多面主義アプローチ」をとるセラピストが、他のセラピストに対して取るべき立場について、次の3点を述べた。

  •  PCAの流れそのものが現在多様性を帯び、さまざまに分化した技法やアプローチが試みられているが、その時の個々のクライエントさんにふさわしい形でカスタマイズ(特化)された、[私なりに言い換えると、「テイラー・メイド」で「一品料理」化した]ひとつひとつのセラピー実践は、あくまでも尊重して、異論を挟むことはしない。
  •  しかし、「教条的で独善的(dogmastic)なパーソンセンタード性」には立ち向かっていく。
  •  PCAのセラピストが、他の流派のセラピーの諸原則や諸技法に対して、一定の的確な評価を持てるように促す役割とる。
     流派を問わず、セラピー領域が、ひとつの包括性を持つ文化であり、諸流派のセラピスト同士がお互いに適切に認めあって行けるような動きを擁護する。
     むしろ、積極的に、各流派の無用な対立(認知行動療法[CBT]のみが「国定」心理療法になってしまったイギリスでは特に顕著らしい・・・・英文だが、この記事などをお読みになると想像がつくだろう)に対する積極的な調停者の役割を果たす。

*****

 残りは、第3回にまわします。

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