嫉妬

2011/10/17

ストックホルム症候群 -水樹奈々 自伝「深愛」について-

「ストックホルム症候群」という概念がある。誘拐や監禁の被害者が、極限状態の中で犯人に同情や連帯感を抱くようになることであり、1973年にスウェーデンのストックホルム市で起きた銀行強盗において、1週間に及ぶ立てこもりの末に人質が解放されたが、その後、元人質たちが犯人をかばう証言をしたり、警察を非難したりしたほか、元人質の一人が犯人と結婚するに至ったことで注目され、この名が付けられた。

「まるでストックホルム症候群みたいだね」・・・水樹奈々が自分と「先生」との関わりを知り合いに告白した時に言われた言葉だそうだ。

堀越高校芸能科は、所属事務所があることが入学の条件である。彼女の才能を認め、上京して面倒をみることを引き受けた「先生」との二人暮らしでの生活は、厳しいレッスンと同時に、彼女のためなら、会社が倒産しても「自分名義の事務所」を立ち上げてまで面倒を見る熱心さがあった。

その「絆」が同時に「しがらみ」であり、「束縛」でもあることの辛さを心から受け入れるまでに、彼女は数年の歳月を必要とした。そこには「第3者」との関わりが必要だった。

どういう領域でも、密接な「愛に満ちた」師弟関係と言うのは、常識人が一歩踏み込んで聞いたらびっくりするような歪んだ側面を抱え込んでいるものである。

そして、そもそも、そうした「先生」との関わりの様式は、彼女の実の父との関わりが「反復強迫」されたものに他ならないとも言える。

演歌三昧の父から、生まれながらにして「紅白に出場する演歌歌手になること」を期待され、日常生活を拘束されて練習漬けの日々の中で育った彼女の生育歴は、まるで「巨人の星」の一徹と飛雄馬との関係性をなぞるかのようである。

それに加えて、子供時代から歌がうまいと遥かに年上の地元の演歌好きたちに言われて育った「オトナ子供」の彼女は、小学生の頃、周囲から浮いた「変な子」であり、普通の子達から見れば、嫉妬も入り混じった形でいじめの対象ともなることはごく自然な成り行きだろう。思春期に入る前の普通の子供というのは、ある意味では残酷なリアリストである。決して彼女の被害妄想ではない。

ただ、そうした父や「先生」の溺愛と厳しさが、彼女に芯の強さを植えつけたことも、また事実だろう。

本書は、奈々さんが、語り得る範囲で、本音の自分をありのままに描き出した本だと思う。

声優を目指す人達への、先輩としての十分なメッセージにもなっている。

=======以上、私のAmazonレビューの転載========

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2010/10/16

"Durch Leiden Freude!! -のだめカンタービレ in ヨーロッパ 後編-

 いきなりドイツ語でスミマセン(^^)

 クラシックファンの方でしたらおなじみでしょう。

 

 「苦悩を経て歓喜へ」・・・ベートーヴェンのモットー。

 「ドゥルヒ・ライデン・フロイデ」と読めば、日本語発音のカタカナ標準ドイツ語としてはほぼ十分でしょう。

のだめカンタービレ in ヨーロッパ [DVD]

※ ↑ 【要注意】 すでに述べましたが、セル版は「前後編」二枚組のようです。お間違いなく!! 二重に買わないで下さいね!!

 「パリ編スペシャル」後編は、前編とは打って変わった、ウェットなストーリー。

 ここまで千秋とのだめのロマンスが「全面に」押し出されることは、ここまでのドラマ化部分では皆無
でしたね。

 しかもそれが、パリ留学後、のだめの前に立ちはだかることになる、演奏家として成長する上での最大のスランプの問題と完全にシンクロさせて描かれている。

 原作の圧縮もかなりあろうかとは思いますが、これは、驚くほど高度なドラマ作りです。

 うーん、パリ編でつまづいたと感じる人たちもいるらしいですけど、ここで描かれている男女の機微は相当踏み込んだものがありますよ。これは視聴者が十代のうちは、ちょっとまどろっこしくって、イライラするかもしれませんね。

 ・・・・まあ、そのあたりは、これ以上具体的には触れずにサラリとかわすのが、今年50歳にもなった、人生いろいろのおじさんの節度ということにしておきましょう(^^)

*****

 さて、恒例、音楽(演奏)を大真面目に評論する、当ブログのポリシー、続けさせていただきます(^^)

 やっとのだめ作曲、「もじゃもじゃ組曲」の実物が「聴け」ました(^^)

 敢えて言うと、エリック・サティ(ドビュッシーと同じ頃にパリで活躍)の「官僚的なソナチネ」あたりを思わせる気まぐれさがある、実はマジに遊び心満載の、単純なようで実は凝ってる曲です。

 パリ・コンセルヴァトワールのオクレール先生が関心を示すのも、全く自然ですし、ここで先生のダメ出しが忽然として止まる・・・という物語設計は卓抜です。

 サティの、「官僚的なソナチネ」という珍曲(?)を聴いてみたい方は、以下のアルバムに含まれています:

高橋悠治/サティ:ピアノ作品集(2)

↑ 高橋盤、昔は、誰もこの世に知らない人はいないであろうくらいにメロディは有名な、サティのスマッシュ・ヒット、「ジムノペディ」第1番、および、これまた絶対誰でも耳にしている、ワルツ「ジュ・トゥ・ヴゥ」と抱き合わせだったのに、今は分割されてる・・・少しその意味では、お勧めを遠慮気味にするしかなくなったか(^^;)。

******

 それにしても、いくら孫・Ruiの演奏への「屈折しまくった嫉妬」があったとしても、この「後編」前半でののだめの演奏は、本当に生彩がない演奏で、聴いているだけでかわいそうにマジになります。・・・でも、そう演出すること自体が、絶対にこのドラマには必要だったのです。

 ・・・・う、このように書いてしまうと気づきました。のだめの演奏の個々の曲の演奏評を、今回は全面的に控えてしまう方が、まだご覧になったことがない皆様への心配りでしょうね(^^)

*****

 ただ一点。この点だけは重要な物語理解上の解説。

 特にヨーロッパ人の場合、クラシック音楽の背景として、「教会音楽」に日常的に馴染んでいることは圧倒的な裾野を生み出しているのであり、これは日本人がクラシック音楽を学ぶ際のひとつの大きなギャップになること。その点で、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の使いどころが見事!!

(これは、茂木さんのアドバイスで、原作を「敢えて」意識的に変えている部分だそうですね)

 指揮者ならずとも、ピアニストにですら、アナリーゼ(曲の分析)や音楽史の勉強がどれだけ大事かという点について、日本とヨーロッパの音楽教育に、確かに圧倒的な落差があるらしいこと。

 マジに、コンセルヴァトワールの教育スタイルの再現に近いのだと思います。

*****

 さて、物語の最後に、またもや千秋君による、ブラームスの「交響曲第1番」が、「パリでの」演奏として登場します。

 このオーケストラの実態は、実は「プラハ放送交響楽団」という、チェコの首都プラハで、チェコ・フィルの次の格式があるオケです。

 一般に、ヨーロッパの「放送交響楽団」というのは、オペラ座のオーケストラとか、コンサート専門のオケに比べると、独自の「色」を強く出さないようにする伝統があるかと思います。

 (それでも、ドイツの放送交響楽団の頂点というべき、バイエルン放送交響楽団まで上り詰めると、特にクーベリック時代は独自の音色が濃厚にあり、いかにも南ドイツの音色+チェコ出身のクーベリックの音でしたが)

 でも、劇場版「最終楽章」前編の記事でも書きましたが、チェコのオーケストラの音色は独特の柔らかく融け合う伝統があります。

 ただ、それを、ドヴォルザークのスラブ舞曲とか、本当に民族色が強い曲をやる時だけ、独特のすすり泣くような弦の音色を意識的に出して、「扇情的」にもできるんですが。

 あくまでもそれはスメタナやドヴォルザークの一部の曲で意識的に打ち出すだけのこと。その「お国もの」での「泣き節」を控えると、まろやかさが全面に出る

 (この点では、プラハと目の鼻の先のあるはずのヴィーン・フィルの音色の方が、実はドイツ・オーストリアの楽団全体の中でも「異端児」・・・ある意味で「19世紀最後の頃のウィーンのままの重要無形文化財」的音色といえます)

 さて、チェコのオケの音色は、今述べたように、本来くすんだ音色でもありますが、バリバリの北部ドイツのオケ(例えばベルリンやハンブルク)、いや、中ライン地域(ボンとかハノーファー)の硬質さだったら、とても「のだめ」のための「パリでの演奏」の吹き替えには使えません。かつてインバルが常任をしていたフランクフルト放送交響楽団でも何かやりにくそうですね。バンガリーのオケとなると、また別の独特の歌いまわしと鋭さが混じる。

 その意味で、この、ラストのブラームス一番の演奏、またもや「やらかし」ましたね。

チェコのオケフランス風の音色で、ドイツのブラームスを弾かせる」という芸当。

 TVシリーズの時の演奏が、どっしりとしたドイツ風の演奏だったのに、この演奏での「千秋君」は、流麗で、フランス風の演奏へと、すでに随分変化(?)しています。

 千秋くんも、プラティニ・コンクールのあとで、シュトレーゼマンに世界中を引っ張り回されるだけではなくて(爆)、どんどんフランスになじんでいるのでしょうか?

 このパリ・スぺシャルでの指揮者までは私の調査ではまだ不明です。

 TVシリーズ版は、東京都交響楽団の当時の常任指揮者、デプリースト自身と判明。あの世代の「重鎮」指揮者なら、アメリカ人でも、ハンガリー亡命者のショルティに近い音色の、重厚なドイツ的音の指揮者、少なくなかったかと。

*****

 今回のおしまいに。

 繰り返して書いて来きましたが、ともかく演奏の隅々まで、確信犯で曲の解釈まで「原作通り」をナマの音にするという奇跡を、果てしなく追求している点では相変わらず、化け物じみた奇跡の実写フィクション映像作品としか申し上げられません。

 それどころか、「のだめ」実写シリーズを、小さな外部スピーカーでいいでうから、全部通して鑑賞すると、非常に「正統的」なクラシックの演奏とはどういうものかの「座標軸」になる「耳」自体が育ちます。間違いなく!!

****

 さーて、残るは「最終楽章」後編!!(・・・・と原作アニメ版は更に余力があれば・・・という遠い射程で)

 実は、これはまだ新作DVD扱いで、私がレンタルョップに出向いた時は、「全部貸し出し中」でした!!

 ・・・・・だから、何日後になるかの保証はできません(^^;)

****

 ・・・以上、「のだめ」ワールド大航海シリーズ、6回めでした!!

 (エンディングBGMとして、お好きな「ラプソディ・イン・ブルー」をお流し下さい)

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2009/12/19

「リア充の科学」 (第2版)

 恐らくニコ動貼り付けるのは初めてですが、ともかく内容の摩訶不思議な完成度と、読者のつっこみコメとのコラボ含めて、いやに納得してしまったもので(^^)

 肖像権もへったくれもありませんが(^^;)

●【ニコニコ動画】リア充の科学

【第2版で追記】

 これはこれでいい意味で笑えたので追加。初音ミクの力借りてるとはいえ、こういう曲を作れる人のセンスはうらやましい。

【ニコニコ動画】【初音ミク】 リア充爆発しろ! 【オリジナル曲】

 おまけで、某所で見つけたこの図版も妙に納得した(^^;)

Netculturetable

 今日はこのあとにお仕事が詰まっているこういちろう。

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2007/08/24

「怪談」の感想

 私は同じ中田監督の「リング」は観ていないのだけれども。

 まず一声。

 意外と怖くなかった(^^;) 

 豊志賀事件に絞り込んだことは、現実的に見て、やむを得ないだろう。

 映像は非常に美しい。ただ、私からみると、何か「クリーンアップされた」美しさ。

 俳優の演技も、適者適役。
 ayuのエンディングも映画に綺麗にはまっている。

 しかし、何か"something"を感じない。


*****

 ひとつ目としては、何かわからんけど、豊志賀(黒木瞳)と新吉(尾上菊之助)の出会いに、「突然の出会い」というより、「出会わせた」といいたくなるぎこちなさを感じるのである。

 原作では、豊志賀は男を遠のけるタイプとして明晰に描かれている。しかし、映画では、なぜこんないい女が旗本や大商人のお妾なんかにさせられずに済んでいるのかようわからんような(^^;)。映画ではどっちかっていると、豊志賀の方が積極的に新吉を誘っているようにも私は感じた。

 あと、お賤(瀬戸朝香)がただの悪女になっていて(瀬戸朝香は非常にはまった演技をしていて、彼女のせいでは全くない)、新吉と腹違いの妹であることを知っていて、しかも最後は生き残ってしまっていると受け取れる描写。ラストを盛り上げるためには、ああいう大立ち回りが必要だったのはわかるのだが。

 まあ、こうしたことは、原作を知っているから気になるのかもしれないが、私個人は、どこかで、恋愛というものの背負った「影」を、もっと人間の「業」を背負ったもの(男も女も)と感じていて、怪談というものを、もっと背筋が寒くなる泥臭いものと感じているからかもしれない。やはり、ホラーと怪談は何か別物ということか。

 あるいは、私の方が、子供の頃テレビでその種の作品を見た後何日も続く、電気を消して眠れなくなったり、暗がりが怖くなったような、そういう「怖さ」のようなものを再体験できることを、期待しすぎてしまうのかもしれない。

 意外にも、そういう次元での怖さは、「となりのトトロ」の、サツキがメイを背負って、停留所でまっているシーンとか(稲荷のおキツネ様の石像とか)は、実感として思い出させてくれるのである。 

2007/08/04

「真景累ヶ淵」、読み始める。

 以前も紹介しましたが、公開された映画「怪談」(監督:中田秀夫 主演:尾上菊之助・黒木瞳)のテーマソングがayu様の浜崎あゆみ - glitter / fated - EP"fated"なわけです。

 この映画の原作は、初代三遊亭圓朝の怪談噺(ばなし)、「真景累ヶ淵」(しんけい・かさねがふち)です。

 王子のきつねさんが、この怪談噺の背景にある「羽生村事件」について、実に詳しくレポートしてくださっています。(ここからどうぞ)。私も原作読み始めて、映画に予定されている範囲まで「踏み込んだ」ところ。

 基本的に、円朝の高座の筆記録ですから、言葉遣いは平易です(明治20年頃の文字起こしなんですよ)。岩波版は現代仮名遣いです。現在とはいろんな意味で言葉の使い方が違いますが、それは注釈なしでも「勘」で意味が汲める範囲ですから、古文・文語が苦手という人も特に困ることはないでしょう。

 映画的表現としてはさぞ「こってり」やりたいシーン(幽霊だけでなくて、男女の機微や濃厚ラブ・シーン)とかは、原作では実にあっさり描写されてますので、映画でそれをどう描くかという「予習」的に読むのもお勧めです。

●「怪談」公式サイト

2007/03/24

人生を変えてしまう、本当の洞察と気づきと共に浮かび上がる言葉は

自分が「知って」はいたし、その言葉の一般的・概念的な意味内容は「わかっていた」つもり「だった」けれども、少なくとも「自分自身の」気持ちをあらわすボキャブラリー(語彙/用語法)として「自分からは」使ったことがなかった「さりげない」言葉となることが多い。

 既にこのブログでも紹介した、

「退屈」
「うらやましい」
「口惜しい」

などは、すべて、私にとっては、そのような言葉として立ち現れたものである。


 当たり前の,普通の言葉でいいのだ。

 いわゆる「心理用語」は、こうした世界から遠いことが多い。


 いや、こうした「あたりまえの、普通の」言葉での気づきを数多く体験した人にだけ、心理療法的な諸概念は「生きた」形で自己掌中のものとして体験されるようになっていく、と断言していい。(この記事も参照)


 このことが「全くピンとこない」人で、心理療法家をしている人は、流派に関係なく、いないと信じたいが(^^)

2007/03/23

気持ちを表わしたり聴いたりする際に、五感を「主語」とする言葉を使うこと。「やまとことば」に敏感であること。(第2版)

●相手に自分の気持ちについて話をしてもじっくりしてらった筈なのに、相手が、「話してすっきりした」という安堵感を感じている様子がない時。

「何か、話してしまったら、むしろ後味(あとあじ)が悪い感じでもあるのかしら?」


●一緒にいる人にくつろいだ様子が見られず、打ち解けた様子に欠けているかに思われた時。

「何か居心地が悪いの?」
腰が据わらないの?」
なじめないの?」


●その人の気持ちについてもっと深く感じてもらい、具体的に言葉にして欲しい時。

×......「どんな気持ちだった?」
×......「どんな感じだった?」
○......「どんな『心地(ここち)』だった?」
○......「その時の気持ち、もう少しじっくり味わいなおして、言葉にしてみることができるかも」


****


 日本語の文法のひとつ特徴的な点は、英語であれば「目的語」であるはずの言葉を、「は」「が」という、「主語」として表現すること(ができること)が少なくないということです。

 わかりやすい例をあげると、

「頭-が-痛い」

とはいっても、

「私-は-頭に-痛さ-を-感じている」

("I feel some pain in my head.")

と言ったら、何か翻訳調で堅苦しい、不自然な言い方になっています。

 これは、ちょっと広げると、

「雨-が-振る」

英語だと

"It rains."

ですよね。


 さりげないことですが、 日本語では、

「頭-が-痛い」=「頭-が-痛い(-と-訴えている-ことに-私は-気づく)」

というふうに、体の部分部分が自己の「主体」として振舞うことを当たり前のように使う言葉の世界に生きています。

 そして、それは今では「比喩」だと思われていますが、実は身体的な直接体験として文字通りに受け止めなおすと、生々しい実感を伴う言葉として体験しなおせます。

「胸-が-悪い」=「胸-が-嫌だ(-と-訴えている)」

「虫-が-好かない}=「(私-の-腹-の-中-に-棲(す)んで-いる)虫(-のようなもの)-が-「嫌だ」(-と-訴えて-いる)」

「腹-に-据えかねる」=「それ-を-腹-の-上-に-据えようとしても-腹-が-そうされるのを-嫌がる」

「腕-が-なる」.....ほんとうに、「指をポキポキ鳴らして」待ち構える人は一部でしょうが。

(←わかる?)

中国語は、「主語」「動詞」「目的語」が明快なぶんだけ、実は欧米語に近いわけです。


*****


 「フォーカシングでシフトを引き起こす言葉には『漢語」よりも『やまとことば』が多い」

 これは、私が大学院に入った当時に、師の故・村瀬孝雄に進言して以来、師によって吹聴していただいた法則です。

 このことは、実は体験的にはすごく当たり前の摂理なのに、はっきりと注目されることはありませんでした。

 なぜなら、フォーカシングの英語の文献では、事例などの翻訳でも、これらの言葉はえてして「漢語」の「熟語」としてしか訳されない運命にあったからです。

 そして、更に悲しいことに、心理用語の多くは「漢語」の「熟語」として翻訳される習慣がつきました。

 おかげで、カウンセラーの頭脳は、「漢語」「音読み文化」に汚染され、感性の貧困とあたまでっかちと杓子定規な「パターン主義」に直面していると思います。

 しかし、現実の臨床面接場面では、

 「嫉妬」、というより、「妬(ねた)ましい」
 「羨望」、というより、「羨(うらや)ましい」
 「愛情」、よいうより、「愛(いと)しい」、「愛(いと)おしい」
「退屈」、というより、「つまらない」
「後悔」、というより、「悔(くや)しい」、「口惜(くちお)しい」
「脱錯覚(disillusion)」、というより、「醒(さ)める」
「無力感(helplessness)」、というより、「拠(よ)る辺(べ)ない」(=依存できる相手や場所がない=助けが得られないこと=”help-less-ness")

 後者の言い方を面接の中で自然と言葉にできる人の方が、自分の気持ちに実感のレヴェルで深く触れながら話していることが多いわけですね。

 私は面接初期から、そういう話し方の傾向が強いクライエントさんだと、それだけで安心します(^^)


 これらのうちの前者の言い方は、仮に中国語そのものにそのままの熟語がなくても、少なくとも読みは、いわゆる「呉(ぐ)音)」か「漢音」に大半は遡れる「音読み」系列なわけです。

 しかし、時代的に意味は変容しても、日本土着の身体的言語感性は、後者、「やまとことば」の系列の「訓読み」文化の中にこそ、現在も、多くの人にあると思います。

 「訓読み」の世界の独特なところは、それは「万葉仮名」のように、漢字の音に「やまとことば」を単に当てたものではなく、むしろ逆に、その漢字の中国語の発音にはまったく存在しなかった音を、漢字の意味にあてはめて「意訳」したという点かと思います。おかげで、表意文字性を強く持つ漢字を細かく使い分けることによって、「やまとことば」は、更にデリケートなニュアンスを使い分けられる表現型になったわけですね。

たとえば、

「降る」
「経る」
「振る」
「古」い

......みんな

「ふる」

なわけです。

「生きて」
「活きて」

(いきて)

も 同じようでいて、違う。

 この前使った、

「住む」
「棲む」

では、同じ

「すむ」

でも、かなりニュアンス違いますよね。

 自分の気持ちを言い表す時に、「熟語」を使うのではなくて、それをもう一度「やまとことば」に置き換えて「訓読み主体」で更に言い換える習慣をつけるだけでも、人とのコミュニケーションは深いものになる可能性は十分あると思います。

 このブログでも、私のそうした「訓読み」=「やまとことば」用法への「言い換え」のこだわりは、実はあちこちで発揮されているわけです(^^)


*****


「愛している」
「好きだ」

というより、

「君のことを『愛(いと)おしく』感じるんだ」

の自然に口にできたら、告白の言葉としては「効く」かもしれない!!


「自己愛」とかいうとネガティヴに響くけど、

「自分のことを『いとおしめる』か」

と言ってしまうと、あまり嫌な響きはないと思います。

2007/02/07

映画「マリー・アントワネット」「女王フアナ」、あるいは浜崎あゆみの「成熟」について(第2版)

 この映画と比較してみるとおもしろいのが、ヴィセンテ・アランダ監督のスペイン・ポルトガル・イタリア合作映画「女王フアナ」(2001年制作)である(解説サイトはこちらなど)。

原作本。フアナについては、かなり前にこれこれも読みました。


 フアナは、カスティーリア(スペイン)女王、イザベルの娘。イサベル女王は、あの、イベリア半島最後のグラナダ王国を陥落させてレコンキスタ(キリスト教徒の失地回復運動)を完成させ、コロンブスを新大陸に送り、大航海時代のスペイン繁栄の礎を築いた女王である。
 フアナは、イザベルのしくんだ政略結婚で、ハプスブルグ家のブルゴーニュ(現在のティジョンを中心とする、フランス北西部の狭義のブルゴーニュ地域のみならず、今のオランダ・ベルギー、ルクセンブルグなどのフランドル地域から、アルザス・ロレーヌなど、フランスとドイツの辺境地域を含んでいたと思ってください)公、フェリペ王子のもとに嫁ぐ。
 情熱的で美男子のフェりペにフアナはすぐに惚れ込み、二人は最初仲むつまじく暮らし、子供にも恵まれるが、フェりぺに愛人がいることが発覚、フアナは、フェリペと愛人に異様なまでの嫉妬心を向け始める。王や王子が愛妾をもつことは当然とみられていた時代、フアナのヒステリックなふるまいは宮廷では異様なものと映り、「王女は狂っている」という噂が、実際よりも誇張されて貴族社会に広がる。
 皇太子だったフアナの兄、フアンの急死。更に次の皇位継承者の姉の死が生じ、カスティーリアのしきたりに則り、母、イザベル女王の死後、皇位継承権は、思いもよらず、フアナのものになる(フェリペは「共同統治者」を名乗りたかったが、「王の配偶者」(王配)としてしか認められなかった。
 スペインには、ハプスブルグ家の血をひく男子が王室の血を継いでいくことに対して内部抗争があり、ハプスブルグ家と結んだスペイン勢力は、フアナの情緒不安定を理由にフェリペを摂政にしようと企む。
 ところがそのフェリペも、伝染病で若くして急死してしまう。フアナはその衝撃で精神状態を更に悪化させ、やっと「自分のもの」になったフェリペの棺を家来たちに引かせて、スペインの荒れ野をさまようという奇な行動を取り、その後40年、修道院に幽閉される。その後も、時々フェリペの棺を訪問することを許され、ミイラ化した亡骸に接吻するという行動を繰り返したという。
 フアナの女王としての身分は保たれたが、その間に、息子のカルロス5世が摂政として実質的な権力を握り、神聖ローマ帝国とスペインを併せた巨大国家の長として君臨することとなる。

 ...このように歴史を紐解くと、「十代での政略結婚」「尾ひれのついた噂の中で政治的に利用される」「若くして幽閉生活へ」という点で、マリー・アントワネットの生涯と妙に重なるところがある。夫がプレーボーイだったという点ではフアナは対照的だが。

 そして、共に時代に翻弄され、スキャンダルまみれになった「悲劇の王妃」「悲劇の女王」は、実は、王族というには「あまりに普通の若い女の子」だっただけではないのか、という視点から描き出している点でも、この2つの映画には共通項がある。

 更に言えば、フアナは、修道院に幽閉された後も、ヨーロッパ制覇の野望に燃えて新大陸から得られた富をひたすら戦争につぎ込むだけのカルロス5世の支配に反対するスペイン貴族たちの反乱にも巻き込まれるなど、後半生にも波乱があるのだが、映画「女王フアナ」は映画「マリー・アントワネット」同様に、「ドラマチックな晩年」をクライマックスとして描くことへの、観衆への期待を見事に裏切るかのような時点で、突如エンディングを迎えてしまうのである。

*****

 ソフィア・コッポラ(もちろん大監督フランシス・コッポラ」の娘)の「マリー・アントワネット」、「期待はずれ」という感想に接することが私は今のところ多い。それでも自分の目で見て納得しないと気が済まないのが私であった。

 なるほど、いくらソフィア・コッポラとの数年前の映画では評判だったとしても、主役のキルティン・ダンストは、いくら14歳で結婚するアントワネットを演じるには今や少し苦しいかもしれない。どうしても少しカマトトっぽく見えてしまうのね。「数年前には」ハイティーン向けのテレビドラマで人気があったにしても。
 同じようにスペインのハイティーン向けのテレビドラマで人気絶頂だったフアナ役、ピラール・ロペス・デ・アジの「映画初挑戦」と比較してしまうと、分が悪い。

****

 余談ですが、今の浜崎あゆみだと、うまくすれば「十代の高校生でっす!!」という演技をさせようとしても無理がないのだ。この人の場合、特に"I am..."から"Rainbow"の頃は、実際以上に背伸びしていたと思うし、メイクも嫌に大人びていた。でも、ほんとうは今でも156cmで、思春期体型に近いことは、ナマのayuを間近で観れた人(あるいは私のように双眼鏡で視野いっぱいに拡大してayuの3Dでのプレゼンスを味わったことがある人)ならご存じのはず。

 そして、何かおととしの「人間臭くいたい」発言のちょっと前の頃から、ほんとうに見かけ年齢が逆に若帰ったようにも思える。これはメイクのせいだけではなくて、本人の精神的変化が自然と現れているのだと私は感じている。ホントに「等身大」になってきたし、そうやって「等身大」になることこそがayuの「更なる成熟」だったという逆説を私は感じてます。
 だから、シークレットインソール気味の、ヒールの高いロングブーツさえ脱いでしまい、等身を本来の形に戻してしまえば、メイクと演出と演技次第で、10歳はサバを読むことが今でも全く不可能ではない(褒めてるんです。念のため)。

 そのあたりの効果が絶妙に発揮されているのが、"momentum"のPVにおける、ティーンの女の子とも妖精とも受け取れてしまう、「雪の中ayu」の名演技である(明らかに、意識的に底の薄いブーツ履いてると思う)

 ......"momentum"のPVについては、も一回書きます。

*****

 話を元に戻すと、映画「マリー・アントワネット」は、意識的に現代的なものを織り込んだ、音楽と靴とケーキを別にすると、実は歴史考証の上ではほとんど「何も」おかしなことは描いていないのです。この映画を観た時点では、映画の原作のフレイザーの方の伝記はまだ全く読んでませんでしたが、ツヴァイクの伝記だけによってすら、この映画にはほとんど矛盾する描写は出てこないのですね。この段階で、フレイザーの伝記が、ツヴァイクの伝記に敢えて挑戦するような内容ではなく、一致点の方が多いだろうことは、想像がつきました。

(今、フレイザーの方を半分ほど読みかけてますけど、基本的には、思ったよりずーっと「同じ路線」なのです。歴史の予備知識に自信がない人には、そのあたりまでやさしく解説するフレイザー、文章の「濃さ」と迫真性と辛口度という点では、ツヴァイクというところでしょうか)。

 結婚宣誓の文書のアントワネットのサインが「あんなふうになってしまった」のも、史実ですし(^^)、あの、贅沢三昧の時期のアントワネットの頭の上の、もの凄く盛り上り、いろんな模型が刺さっているファッションは、同時代に書かれた肖像画やツヴァイクの伝記の描写そのもの。

 プチ・トリアノンに映ってからの「ナチュラル &スローライフ」志向への切り替えが、当時のルソーの「自然に帰れ」の「最新流行」にそのまんま乗った「だけ」の「贅沢の一種」なのも、ツヴァイク描かれている通り。宮廷の中では、アントワネットのこの段階での「ナチュラル指向」ファッションは明らかに「浮いて」いて、旧弊な宮廷人からは眉をひそめられたそうです。でも、そもそもああやってお金をかけて「農民ごっこ」をしていた夫人は、他の貴族にもいっぱいいたのですね。なのにアントワネットだけそのことを取りざたされるのは、彼女がファースト・レディだったからに他なりません。

 史実と異なるのは、

.1..パリの「女たちのヴェルサイユ行進」の結果、国王一家がヴェルサイユからテュイリー宮殿に移動するまでのいきさつ(1789年10月5日)で、宮殿のバルコニーの下で待つ群衆の前に最初に姿を現わしたのは、夫のルイ16世の方で、実はその時点ではルイは文句なくそのことで喝采を浴びた。
 まだ革命のこの段階では、市民の大半は、ルイ16世の廃位とか殺害なんて思ってもいない。確かロベスピエールすらまだ王党派だった。政治的扇動の上でも、そこまでねらうほどの急進共和主義者ははまだ多くなかった。「王が公平な議会制立憲君主制に同意してくれれば十分」「悪いのはみんな『浪費の女王』アントワネット」というのが大勢だった。ルイ16世に「期待」してもいたのである。
 だから、ルイ16世がバルコニーに立つだけでは民衆はおさまらない。次に、あの「諸悪の根源」「世紀の悪女」アントワネットを出せー!! というムードだった。ツヴァイクの評伝を読む限り、むしろ、アントワネットがバルコニーに立つことの方が、投石や、狙撃による暗殺などの危険がよほど高い中で、彼女は敢えて決断してバルコニーに出たのである。しかも、映画でのように民衆に頭を下げることすらせず、黙って立ちつくすだけで、怒号の民衆を「気で圧して」沈黙させたらしい(アメリカ独立戦争に義勇軍を率いて参加した民衆の英雄、ラファイエットがすぐに王妃の隣に立つという機転を利かせたことで、「王妃万歳!!」の歓声が沸き起こるのだが)

(後日記:この部分、これは、映画の中で全く出てこない、後の事件、つまり、テュイリー宮殿に移った後の、1791年6月の国王一家の国外逃亡の失敗(ヴァレンヌ事件)、その更に後の、1792年8月10日、今度はテュイリー宮殿が再び大群衆と義勇兵に取り囲まれて、国王一家が議会に避難した後、宮殿で生じた、近衛兵の発砲を引き金とした義勇兵と民衆による、宮殿に残っていた人たちの大虐殺(「8月10日事件」)を経て、王権停止の議決、ダンプル塔に国王一家が幽閉されるまでのいきさつと、私の頭の中でごっちゃになっていたようです。m(_ _)m )

 ちなみに、ルイ16世は、ルイ15世より王として頼りないと言ってしまうのは不公平みたいです。元をたどれば、先代のルイ15世が統治数十年の長きにわたりる治世において、愛妾との生活にうつつを抜かして政治にあまり関与しなかった間に、パリの貴族階級全体の爛熟と社会経済の困窮はゆっくりと準備されていたのだし、ルイ16世も、ルイ15世が溺愛し、帝王学をみっちり仕込まれた王太子が急死したものだから、皇位継承権が「繰り上がって」しまっただけ。しかもルイ15世そのものが病気で急死したもので、予想以上に早く18歳で王位に就いた。
 つまり、帝王学を学ぶ余裕もないままに、あまりにも早くフランス王国の「負の遺産」を背負い込んだ不運な人であり、そんなに迷妄ではない、真面目でそこそこ善良な人間だったのである。
 庶民の暮らしの現実をあまりにも知らなかったとも言えるが、この点は大抵の貴族と五十歩百歩である。プレイボーイと正反対であったが、女性に宮廷を牛耳られる構造はすでに先代のルイ15世の時代に確立していたとも言える。ちなみに、錠前作りは、ブルボン家代々の修行だったらしいし。狩りが何より好きというあたりは、劣等感の裏返しとはいえ、男らしくもあったといえる。「国王の狩りの勇姿は観に行く価値がある」という証言が残っているそうだが、おべっかばかりではないようだ。.....性格は、確かに、少しアスペルガー的ですらあるとは思いますが。
 アントワネットの濫費についても、アントワネット自身の出費ではなくて、アントワネットの取り巻きたちがピンハネした利益、貴族や僧侶身分の裕福な層の濫費の問題が、ひとりのよそもののオーストリア女に押しつけられ、スケープゴートにされたという側面を考えれば、傾国の原因の氷山の一角。
 ちなみに、アントワネットの母親のマリア・テレジア女王にしても、まさに「かかあ天下」そのものの存在だったし、若い頃は賭博好きだったらしい。自分のそういう「負の側面」がアントワネットに受け継がれている兆候があったればこそ、あれだけ手紙で口やかましく説教したのである。
 アントワネットも、上の姉が死んだので、大国への王妃候補として繰り上がってしまったという点では、ルイ16世と同じ状態で、甘やかされていた末娘として、王妃にふさわしい修行は、フランスへの縁談が具体化した時点で「ドロ縄式」になされはじめたものだった。「この子の欠点は、集中力がなくてその時の気分だけでパッと反応すること」ということを母親(マリア・テレジア)ははっきり見抜いていた。
 アントワネットの知能そのものは高くて、目の前にいる人間への直感的判断応力と決断力には秀でていたことは間違いないし、ほんとうに革命の進行の中で追い込まれていくと、公的な発言の場での機転と隙のない切れ味の良さが出てくることは確かである。
 処刑される前の裁判での弁論など、すでに相当やつれていた筈(子宮がんが疑われるらしい)なのに、2日間、一日10時間以上の法廷の緊張に耐え抜き、自制心を失わず、自分を陥れようとするエベールや証人たちを完膚無きまでに隙なく論破していることは公判記録に明白に残っている。要するに「はじめに死刑ありき」だから通じなかっただけで、アメリカあたりへの第3国への国外追放処分というあたりが妥当な判決だったと、数年前にフランスで行われた「模擬裁判」の結果、90パーセント以上の陪審員が判断したらしい(以上、フレイザーの伝記より)。
 ユング風性格類型論的に言えば、主機能外向的感情型(物事を好き・嫌いで判断する)副次機能は感覚型(つまり、目の前にある対象への審美眼はあるが、背後に隠された可能性は見抜けない=事態の「直観」的洞察力には欠ける)、エゴグラムで言えば、FC(自由な子供)優位だが、CP(批評的な親)やAC(順応的な子供=いい子)の低さに比べれば、A(成人的な現実性)は平均水準以上、というところか。世間の現実は知らない分経験値が低いのでAの潜在的高さが生きないだけである。
 まあ、二人とも「あなたら国一番のVIPなんだから、よほど用心しないと、ていのいいスケープゴートにされちゃうよ」という先読み的政治的現実感覚という点では、全くもって無防備だったとは言えると思います。
 映画で描かれているように、最後のパリ外出時のオペラ座見物での聴衆の反応が以前とまるで違っていたことに危機感を覚えつつも、「気がついたら宮廷に出入りする人が減っていて」、バスチーユが陥落しても危機感なし、前述の、パリから女たち中心の大群衆が行進して来るその日まで、ルイ16世は「いつも通り」狩りにでかけ、アントワネットもプチ・トリアノンで、農夫の姿で物思いにふけっていたというのは確かですが、そのくらいに、ベルサイユはパリの現実から実感的にも離れていたわけです。あのへんは、ほとんど「ツヴァイクの」伝記での語り口が、映像でそのままダイレクトに見事に表現されているといってもいいでしょう。
 でも、それは、世界中に、家のドアを一歩外に出れば、いつ犯罪に巻き込まれてもおかしくない現実が生々しく待っている地域がたくさんあるということなど実感できない、たいていの日本人の「無防備さ」と何も変わらないとも言えるかと思います。

2.どうして、ルイ16世の不能の原因が「○○○○」だったからに過ぎないこと、アントワネットの兄のフランツ2世がわざわざフランスまでやってきたのが、男と男の仲で、その「治療」を勧める目的だったからということを描いていないのかはちょっとわかんない。
 むしろ、映画を観る人が「誤解」するのは、お母様のマリア・テレジアから手紙で「もっと積極的に迫れ」と要請されたのに、「あのくらいしか」ベッドで誘惑しないアントワネットの描写が「物足りない」と感じてしまうだろうこと。アントワネットは「耳年増」で、女友達には話を合わせていたかもしれないけど、実はすごい「オクテ」だったのは歴史的事実のようです。ほんとうに夫とフェルセン「しか」男性経験がない可能性が高い。
 「レズビアン」という噂が立ったのは、まさにアントワネットがまだサリヴァンのいう「前思春期段階」的な同性との親密さの域に留まったまま、みかけだけ背伸びしていたから。そして、この映画、映像文法の上では、満たされぬ性欲そのものというより、昨今日本で話題の(--;)「子供を産む機械」としての期待のプレッシャーに加えて、問題に「私の友達やおじいさま(ルイ15世)は今頃えっちしてるのにぃ!!」という、周囲からの疎外感のフラストレーションがアントワネットを追い詰めていくさまを、正攻法で表現している。
 これがそのように見えないのは、ひとえにキルティン・ダンストのプレゼンスのせいであろう。てめー、演技やメイクや演出によっては「初々しく」見えない点ではayu様にまるで及ばぬ。こういうのは、中井久夫先生ふうに言えば「こころの産ぶ毛」を保ったまま成熟できるかどうかという、半ば天性の問題だから.....
 この点で、『女王フアナ』を観ると、フアナが、まだ精神的には幼ないままの状態で、手練れの「プレイボーイ」のフェリペ君に、会った早々「初夜を迎える宮廷儀式」すらすっ飛ばして30分もかからずに陥落されてしまったおかげで、アントワネットとは逆に、むしろ、宮廷でのすべての社会的ストレスが性的ストレスの悶々に「置き換わる」方向で尖鋭化したんじゃないのか? というあたりを、フアナ役のピラール・ロペス・デ・アジは、うまく演じきっている気がする。こういうあたりは、もうおじいさんに近い老練な監督さんの方が演技指導もうまくいくのだろうと思う。

 あと、「せっかくベルサイユでロケしたのに」という言い方は、かつて「ベルサイユの薔薇」実写映画版(私は観ていません。でも、雑誌の記事のグラビアとかの記憶はあり。俳優は皆西洋人です)も、ベルサイユでロケされたのに、そういう映画があること、たいていの人、記憶すらしてないということを念頭に置かないと、「返す刀でバッサリ!!」ということになるわけでして。
 私は、ベルサイユでロケしているのに、それがまるであたりまえのことであるかのように描かれてしまうからこそ、この映画は意味があるのだと思います(^^)。ルイとアントワネットにとって、それは「あたりまえの日常」だったのだから。幻想と追憶の彼方にある世界、みたいな変なオーラがないことにこそ、この映画の意義なのです。

******

 でも。私の結論としては、問題をキルティン・ダンストの限界に還元したくはない。あるいは、ソフィア・コッポラの監督としての技量の限界故の不徹底さにも(それもあるかもしれない気がするが)。

 ひとつには、実は、予告編のイメージとのギャップで損してないかな、とも思うのだ。

 あの予告編だと、まるでこの作品の基調が、

「ちょっとキッチュな、コメディタッチの作品」

を期待させてしまう気がするのだ。

(予告編は、映画スタッフとは別の人が作るのが通例とのことですが)

 実際には、むしろ叙情的で、淡彩で静かで透明な、パーソナルなトーンが中心の作品という気がする。むしろ、多くの衣装だけが古めかしいことにミスマッチ感覚が出てしまうくらいでいいのだ。

監督は「マリー・アントワネットは、実は、なぜかセレブな家に生まれちゃっただけの、中身は現代の普通の女の子と何も変わりがないティーンの女の子なの」ということこそ、描きたかったことなのだろうし、彼女の実像はホントにそうみたいなのである。
 ブレイザーではなくて、すでに75年前に書かれたツヴァイクの伝記のサブタイトルそのものが「一平凡人の肖像」というのだけれども、彼女が全く「中庸の女性」であり、歴史があのような悲劇的運命に追い込まなければ全く平凡で無名な王妃に終わったろうということこそ描こうとしていることなのである。

 ルイ16世が「家庭の父」としては十分に愛情あふれる存在であり、そういう「家族人としての夫」との関係においては、アントワネットも十分に満たされているばかりか、ベルサイユを離れてから、テュイリー宮、更にタンプル宮と、より自由度のない、狭い空間に幽閉され、ルイの王権が制限されればされるほど、ルイとアントワネットの一家は、ささやかではあるが親密で暖かい家族関係という点では、ベルサイユ時代よりも幸せですらあり、実際にこのファミリーに接した看守をはじめとする周囲の人間は、「フランス人民を苦しめた諸悪の根源」というマスコミや政治家のまき散らしたイメージと、そのあまりの「普通の幸せな家族っぽさ」のギャップに当惑し、巻き込まれれ、いわゆる「王党派」ではなくても、思わずこの一家に善意に同情的に振る舞ってしまうところがあったことも確かなようである。
 このあたりは、(映画では出てこないけど)逃亡がヴァレンヌで発覚して、パリに帰還する際の、監視役として馬車に同乗した国民公会の特使2人(ひとりはバリバリのジャコバン派闘士の筈)が王室一家のアット・ホームぶりに巻き込まれていくあたりの、ツヴァイクの語り口は、そのまま映画にできそうなくらいのコメディーである。ジャコバン派闘士さんは、何と回想録で、ルイ16世の妹のエリザべートに愛を向けられたという思いこみを綿々とロマンチックに書き連ねたことで死後も恥をさらし続けている。
 逃亡の行きがけなんて、実際に馬車が走り出せばほんとうに家族的なピクニックのようなノリだったらしい(本人たちの意識にそうやって危機感がなさ過ぎたことも、失敗の一因なのだが。計画をあそこまで準備した、フェルゼンさんはさぞ空しかったことだろう.....この人、行く国ごとに愛人を増やしていく、当時の社交界空前のプレイボーイだったけど、監獄の中のアントワネットとも文通を続け、救出作戦を練るくらいの、アントワネットになくてはならない相談相手、心の友であり、ほんとうにアントワネットのためとなると東奔西走、尽くしに尽くし、アントワネットの理想の「白馬の騎士」そのものとして生きたことは史実である。

 このへんまで映画のノリのままで描くこともできただろう。もっとも、そうなると3時間の超大作にする必要があったろうし、それは今の時代には不可能だろう。

*****

 しかし、この映画は、それを遡る、ベルサイユからチュイリー宮殿への移動、夕日のベルサイユを観ながら馬車が走り出すシーンでエンドとなる。

 でも、まさにその、夕日をのベルサイユを観ながら、ルイとアントワネットが「あの会話」を交わせたところで、この映画のメッセージはすでに十分完結していたとも言えるだろう。

 この映画では、二人の宮中での食事の場面が、同じアングルで繰り返し出てくるが、その執拗な繰り返しが、このラストの二人の会話に収束した時点で。

 この瞬間、やっと、ルイとマリーは、ほんとうに「出逢えた」。

 フェルセンは、「マリー」にはじめて恋の炎をともした、ひとときの夢のようなできごと、白馬の王子様、という薄っぺらい存在感だけで作品舞台から退く。この映画では、それでかまなわないのだ。

****

 ちなみに、『女王フアナ』が、フェリペの死の後、先に述べた、フアナ伝説のクライマックスと言うべき、「亡き夫の遺骸の棺桶を引かせての荒野の放浪」(それについてのもっとも有名な絵がこれです。凄み、ありますよ。wikipediaの画像ファイルへのリンクがスペイン本国版からはたどれて良かった)すらさらりと暗示するだけで、THE ENDに向かうのも、全く同じ理由かと思う。


****

 BGMは、ayuの浜崎あゆみ - Startin'/Born To Be... EP - teens (acoustic version)"teens"にしておきます(^^)

 それこそayuのアルバム”My story"のアルバムオリジナル曲、"(miss)understoood"
"Secret"の時期のたいていの曲がそのままOKと感じますが。

****

 なお、この2005年のライヴの冒頭で、ayuは明らかに自分をアントワネットになぞらえています。.

 私が実際に2回も体験している、"teens"のライヴでのayuの、CD版を超越した名演は、こちらです。

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

2006/09/02

500番目の記事:大いなる幻影とただの日常(第2版)

 文字の世界がファントム(幻影)界です。そしてこの本はファントムであるわたくしのこころが文字を介して、ファントムであるあなたのこころに語りかけているのです。いえ「語りかける」とは音声言語の領域なのですから、語りかけるふりをしているのです。

 つまり事実としては、文字言語でのコミュニケーションであるものを、音声言語でのコミュニケーションに似せようとしているのです。

 そのためには、

1.語り言葉風の文章にする

2.同じ内容をくり返すことで、
  各章の間で内容が少しずつ重なり合うようにする。
  そうすることで、文章の区分けを乗り越えて、
  濃淡のような一連の語りのような雰囲気を作る。

3.日常体験を例にあげる、などの工夫をしています。

Genbakaranochiryouron_1_1 事実としては文字言語でありながら、
読んでいるあなたの内側で音声言語として再イメージ化されて、
事実としての語りへ内部変換され、
からだの世界まで伝わるようにと願っているのです。


...............神田橋條治 "「現場からの治療論」という物語" 第3章冒頭 p.39より

******

 2,3日前から、特に夕方から明け方にかけては,関東地方はめっきり秋めいてきましたね。

 この記事が、当ブログ、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」通算500番目の書き込みです。

 かなり長文の、毎回完結型の,ブログとしてはある程度かっちりしたスタイルの記事が多かった私の場合、結構(相当?)多めのアップ数かと思います。

 私の場合、既成の情報を整理して紹介したり、時事ネタで書くことが少ない人間。カウンセリング系にしても音楽系にしても、何より私の「感じ方」「考え方」を、いかに私なりに表現するかの、いわば「構想ノート」みたいなものをそのまま現在進行形で公開しているようなもので、その意味では「雑記帳」というタイトルそのもの。

 記事を順番に続けて読んでいただくと、仮にテーマが別の内容に飛んだかに見える場合ですら、そこに「暗黙の思考の連鎖」があり、あたかもすべてが仕組まれた「伏線」であるかのようにすら感じられてしまうことが、手に取るように伝わる「ような気がする」ところがあるんではないかと思います。

 もっとも、内容が専門的過ぎ、越境ジャンル性が高いので、ついていくだけでたいへんで、そこまで感じ取っていただけない皆様も少なくないであろうことは想像に難くありませんが。

 その一方、恐らく、私の文章に「はまってしまう」ひとにぎりの読者層を生み出してしまったはず、とは感じています。

 恐らく、心理臨床系の大学の研究室によっては、「若い学生への刺激が強過ぎる」と、「禁書」扱いになったのではないかとマジに想像します(^^)......あの、インターネットはどこでも観れるし、それなしでは研究も成り立たない時代になっているはずなんですけどね。

*****

 マジに、一件だけ、「内容証明つき」で抗議してきて下さった、結構著名な先生がおられました。

 この先生、何をここまで力んでおられるのかな?
 いや、何に「怯えて」おられるのかな? 

 たかだか一日平均アクセス数300のささやかなブログです。

 私はちょうど11年前に個人ホームページをはじめました。あのwindows95による、インターネット大衆化の黎明期にです。当時のインターネット環境で、パソコンにど素人の私が、パソコン買って2ヶ月めに、ホームページなるものを、我もしてみむとてするなり、というわけですが(^ ^)

 それから、パソコン通信、メーリングリストなど、様々な媒体を活用してみる中で、この媒体の「怖さ」と同時に、「裏事情」も、私なりにささやかに、ですが、見えて来てしまったところがあります。

 つまり、インターネットには現状では「実際の社会的影響力」はまだまだ乏しいのに、、どうもそこに「巨大なファントム」がそびえたって見えるものらしいということ。まるでそこにものすごい力があるかのように。

 でも、これはネットに限らず、およそ「現場」の最前線に出て長期間接してみれば、多くの領域でそんなものでしょう。小泉首相だって、ブッシュ大統領だって、そして浜崎あゆみさんたって、「ただの人」なんだなあという感慨を感じるかもしれませんね。

 そうやって、ある意味で、人やものごとが、すべてささやかで平凡な日常の積み上げに過ぎないと気がついて行くこと、それが、ある意味で「癒し」であり、「成熟」なのではないか、と,私なりに感じています。

 ユングも、フロイトも,確かそんなふうなことを言ってましたよね。
 
 言ってた通りにご本人が生きていたかどうかは,わかりませんが、「気づいて」はいた筈だと思います。

 そして、自分という「ファントム」を目の前にして、弟子たちがわけもわからぬ感情的闘争や、派閥争いをはじめるのを、さみしそうな目で見ていたのではないかと思います。

 「でも、これって、私が蒔いた種なんだよね」

と思いながら。


 こころという「ファントム」は、自由を、束縛と逆境の中でしか体験できない。

 しかし、人は時々、"A=A"である世界に回帰するという、往復運動を繰り返す人生を、最後まで送り続ける。

Henyonoshocho

ユングの「変容の象徴」という、私が心理の世界に入って一番感動して読んだ本のメッセージを,私なりに、今、言葉にしたら、そうなります。

*****

タイトルは、

「大いなる幻影とただの日常」

としましたが、

「大いなる日常とただの幻影」

と入れ替えてみて、

どちらも味わうあたりが「バランス点」かなと思います。

*****

推薦BGMは、


【Aポイント付】中島みゆき / 臨月 (CD)みゆきの「夜曲」
中島みゆき - 臨月 - 夜曲
(アルバム 「臨月」所収)

浜崎あゆみ/Memorial address [CD+DVD]ayuの"forgiveness"
浜崎あゆみ - Memorial address - Forgiveness
(アルバム"Memorial address"収録)

にしたいと思います。

******

それでも,

次章においては、ドン・キホーテの、荒唐にして無稽なる、新たなる旅立ちの物語が語られる......

......かもしれない(^^)

******

大いなる幻影(DVD)LA GRANDW ILLUSION(1937)「大いなる幻影」←※私,この映画について,タイトル以外何も知らないまま、上記の記事,書きましたので念のため。 

より以前の記事一覧

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