伝統音楽

2010/10/16

"Durch Leiden Freude!! -のだめカンタービレ in ヨーロッパ 後編-

 いきなりドイツ語でスミマセン(^^)

 クラシックファンの方でしたらおなじみでしょう。

 

 「苦悩を経て歓喜へ」・・・ベートーヴェンのモットー。

 「ドゥルヒ・ライデン・フロイデ」と読めば、日本語発音のカタカナ標準ドイツ語としてはほぼ十分でしょう。

のだめカンタービレ in ヨーロッパ [DVD]

※ ↑ 【要注意】 すでに述べましたが、セル版は「前後編」二枚組のようです。お間違いなく!! 二重に買わないで下さいね!!

 「パリ編スペシャル」後編は、前編とは打って変わった、ウェットなストーリー。

 ここまで千秋とのだめのロマンスが「全面に」押し出されることは、ここまでのドラマ化部分では皆無
でしたね。

 しかもそれが、パリ留学後、のだめの前に立ちはだかることになる、演奏家として成長する上での最大のスランプの問題と完全にシンクロさせて描かれている。

 原作の圧縮もかなりあろうかとは思いますが、これは、驚くほど高度なドラマ作りです。

 うーん、パリ編でつまづいたと感じる人たちもいるらしいですけど、ここで描かれている男女の機微は相当踏み込んだものがありますよ。これは視聴者が十代のうちは、ちょっとまどろっこしくって、イライラするかもしれませんね。

 ・・・・まあ、そのあたりは、これ以上具体的には触れずにサラリとかわすのが、今年50歳にもなった、人生いろいろのおじさんの節度ということにしておきましょう(^^)

*****

 さて、恒例、音楽(演奏)を大真面目に評論する、当ブログのポリシー、続けさせていただきます(^^)

 やっとのだめ作曲、「もじゃもじゃ組曲」の実物が「聴け」ました(^^)

 敢えて言うと、エリック・サティ(ドビュッシーと同じ頃にパリで活躍)の「官僚的なソナチネ」あたりを思わせる気まぐれさがある、実はマジに遊び心満載の、単純なようで実は凝ってる曲です。

 パリ・コンセルヴァトワールのオクレール先生が関心を示すのも、全く自然ですし、ここで先生のダメ出しが忽然として止まる・・・という物語設計は卓抜です。

 サティの、「官僚的なソナチネ」という珍曲(?)を聴いてみたい方は、以下のアルバムに含まれています:

高橋悠治/サティ:ピアノ作品集(2)

↑ 高橋盤、昔は、誰もこの世に知らない人はいないであろうくらいにメロディは有名な、サティのスマッシュ・ヒット、「ジムノペディ」第1番、および、これまた絶対誰でも耳にしている、ワルツ「ジュ・トゥ・ヴゥ」と抱き合わせだったのに、今は分割されてる・・・少しその意味では、お勧めを遠慮気味にするしかなくなったか(^^;)。

******

 それにしても、いくら孫・Ruiの演奏への「屈折しまくった嫉妬」があったとしても、この「後編」前半でののだめの演奏は、本当に生彩がない演奏で、聴いているだけでかわいそうにマジになります。・・・でも、そう演出すること自体が、絶対にこのドラマには必要だったのです。

 ・・・・う、このように書いてしまうと気づきました。のだめの演奏の個々の曲の演奏評を、今回は全面的に控えてしまう方が、まだご覧になったことがない皆様への心配りでしょうね(^^)

*****

 ただ一点。この点だけは重要な物語理解上の解説。

 特にヨーロッパ人の場合、クラシック音楽の背景として、「教会音楽」に日常的に馴染んでいることは圧倒的な裾野を生み出しているのであり、これは日本人がクラシック音楽を学ぶ際のひとつの大きなギャップになること。その点で、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の使いどころが見事!!

(これは、茂木さんのアドバイスで、原作を「敢えて」意識的に変えている部分だそうですね)

 指揮者ならずとも、ピアニストにですら、アナリーゼ(曲の分析)や音楽史の勉強がどれだけ大事かという点について、日本とヨーロッパの音楽教育に、確かに圧倒的な落差があるらしいこと。

 マジに、コンセルヴァトワールの教育スタイルの再現に近いのだと思います。

*****

 さて、物語の最後に、またもや千秋君による、ブラームスの「交響曲第1番」が、「パリでの」演奏として登場します。

 このオーケストラの実態は、実は「プラハ放送交響楽団」という、チェコの首都プラハで、チェコ・フィルの次の格式があるオケです。

 一般に、ヨーロッパの「放送交響楽団」というのは、オペラ座のオーケストラとか、コンサート専門のオケに比べると、独自の「色」を強く出さないようにする伝統があるかと思います。

 (それでも、ドイツの放送交響楽団の頂点というべき、バイエルン放送交響楽団まで上り詰めると、特にクーベリック時代は独自の音色が濃厚にあり、いかにも南ドイツの音色+チェコ出身のクーベリックの音でしたが)

 でも、劇場版「最終楽章」前編の記事でも書きましたが、チェコのオーケストラの音色は独特の柔らかく融け合う伝統があります。

 ただ、それを、ドヴォルザークのスラブ舞曲とか、本当に民族色が強い曲をやる時だけ、独特のすすり泣くような弦の音色を意識的に出して、「扇情的」にもできるんですが。

 あくまでもそれはスメタナやドヴォルザークの一部の曲で意識的に打ち出すだけのこと。その「お国もの」での「泣き節」を控えると、まろやかさが全面に出る

 (この点では、プラハと目の鼻の先のあるはずのヴィーン・フィルの音色の方が、実はドイツ・オーストリアの楽団全体の中でも「異端児」・・・ある意味で「19世紀最後の頃のウィーンのままの重要無形文化財」的音色といえます)

 さて、チェコのオケの音色は、今述べたように、本来くすんだ音色でもありますが、バリバリの北部ドイツのオケ(例えばベルリンやハンブルク)、いや、中ライン地域(ボンとかハノーファー)の硬質さだったら、とても「のだめ」のための「パリでの演奏」の吹き替えには使えません。かつてインバルが常任をしていたフランクフルト放送交響楽団でも何かやりにくそうですね。バンガリーのオケとなると、また別の独特の歌いまわしと鋭さが混じる。

 その意味で、この、ラストのブラームス一番の演奏、またもや「やらかし」ましたね。

チェコのオケフランス風の音色で、ドイツのブラームスを弾かせる」という芸当。

 TVシリーズの時の演奏が、どっしりとしたドイツ風の演奏だったのに、この演奏での「千秋君」は、流麗で、フランス風の演奏へと、すでに随分変化(?)しています。

 千秋くんも、プラティニ・コンクールのあとで、シュトレーゼマンに世界中を引っ張り回されるだけではなくて(爆)、どんどんフランスになじんでいるのでしょうか?

 このパリ・スぺシャルでの指揮者までは私の調査ではまだ不明です。

 TVシリーズ版は、東京都交響楽団の当時の常任指揮者、デプリースト自身と判明。あの世代の「重鎮」指揮者なら、アメリカ人でも、ハンガリー亡命者のショルティに近い音色の、重厚なドイツ的音の指揮者、少なくなかったかと。

*****

 今回のおしまいに。

 繰り返して書いて来きましたが、ともかく演奏の隅々まで、確信犯で曲の解釈まで「原作通り」をナマの音にするという奇跡を、果てしなく追求している点では相変わらず、化け物じみた奇跡の実写フィクション映像作品としか申し上げられません。

 それどころか、「のだめ」実写シリーズを、小さな外部スピーカーでいいでうから、全部通して鑑賞すると、非常に「正統的」なクラシックの演奏とはどういうものかの「座標軸」になる「耳」自体が育ちます。間違いなく!!

****

 さーて、残るは「最終楽章」後編!!(・・・・と原作アニメ版は更に余力があれば・・・という遠い射程で)

 実は、これはまだ新作DVD扱いで、私がレンタルョップに出向いた時は、「全部貸し出し中」でした!!

 ・・・・・だから、何日後になるかの保証はできません(^^;)

****

 ・・・以上、「のだめ」ワールド大航海シリーズ、6回めでした!!

 (エンディングBGMとして、お好きな「ラプソディ・イン・ブルー」をお流し下さい)

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/01/23

「もうひとつの私の人生」TimeLine版、登場!!(第2版)

 この記事で言及した、私の大学生の頃の「白日夢」の体系を、そのまんま紹介する上で、@niftyのTimeLineサービスがいかに使い勝手がいいか、気がつきました。

 これ、歴史小説とか、年代記的ファンタジーを構想していく上で、ひどく興味深いメディアかもしれない。書き込める人をひろく一般に開放したり、数名の共同制作にすれば、もう、むっちゃくっちゃエキサイティングなコラボレーションでクリエイティビティを発揮するではないですか!!



さあ、皆さんも、これで自分だけの物語を作ろう!!


*****


 ちなみに、この内容、浜崎あゆみさんが登場しますが、これは私が後に(.....おいおい^^;)実際に浜崎あゆみファンになったからつじつまをあとで合わせたのではないのです。私の昔からの妄想にあまりにぴったりな歌手がayuだったから、ayuを好きになったというほうが正しい(きっぱり)

 彼女の浜崎あゆみ - I Am... - Dearest"Dearest"が本来、「犬夜叉」のエンディングでもあったということを知ったのは、ayuファンになって一年近く経ってからでして、その時は物凄いショックを受けました。「彼女」は「人気アニメ」のエンディングを歌って有名になる人でないと困るのに、マジにそうだったからです(^^;)

 ちなみに、この「もうひとりの私」の世界では、現実のayuが大活躍を始めた西暦2000年に、もう一人の私は享年40歳で不慮の死を遂げることにもともとなっていました

 それに免じて、この「パラレルワールド」で、私が「彼女」を残して先に死んでしまうという結末に至るあたりまで、敢えて「浜崎あゆみ」という名前を使うことを、ファンの皆様、同じayuを愛する同志として、どうかお許しください。

 ayuと同世代か、もう少し上のayuファンの男性諸君、一度もそういう妄想をしたことがないとは言わせませんぜ!!


******


 なお、この中の個々の記事をクリックすると、私の好きなクラシックの名曲の私の好きな名演奏へのAmazon推薦リンクにもつながっているわけです。どうかご活用を!!

2007/03/15

"Is anyone listening?"

「みんな口だけじゃないの!!」

彼女は叫ぶ。

背後には世界中の政治家たちの映像が、「話し続けるのをとめられた形で」映し出される。


"Don't....... speak........"


そして、"Sorry"が歌われる時、

彼女のメッセージは明確に、これ以上明確さがありえないほどに、ステージから伝わるのだ。


映し出される、

"Is anyone listening?"

の字幕。


これには参った。


彼女の繰り返し誇示する、あの猛々しいまでに魅惑的な美しさの恥丘以上に(^^)


******


「私、いつも友達の中で、話の聞き役、相談を受ける役にまわっていて、自分でも聞き上手だと思うんです。だから、カウンセラーに向いていると思うんですけど」

.....ああ、この20年、何回聴かされたことだろう.......


........違うんだけどなあ。

 天性の聞き上手は、カウンセラーに「向かない」と言わないまでも、本当の、カウンセリング的な人の話の聴き方を身につけるのに、実はすごく苦労する運命を荷なっているのに。

 逆に、私のように(爆)、実は人に話を聴いてもらいたくてしかたがない人間の方が、「カウンセリング的な聴き方」をすごく意識的に学ばないとならないので、一度break throughすると、ことの本質に気づきやすいのではないかと思う。


 私は、人に「気を使って」話をしてもらわないと、すぐに「傷ついて」しまうような、日本のカウンセラー集団の、得てしてありがちな現実が、はっきりいって大嫌いである。

 自己主張的な文化をベースに持たなかった日本人のカウンセリングが、すぐに何か変な矮路(わいろ)にはまり込むのも、仕方ないのかなと思う。

 カウンセラーに、クライエントさんの方が「気を使っている」という、変なありように。


*****


 その点、Madonnaは見事だ!!

自己主張的でないと生きて行けないアメリカ社会で、


  "Is anyone listening?"


と訴えるのだから!!


Madonna : The Confessions Tour(DVD+CD)


******


 これが、この前の記事の、私なりの、答えなんですが(^^)

 ちなみに、msn=毎日のこの記事も参照(意外なリンク?)


******


 ちなみに、Madonnaについて私がこのブログで言及するのは確かはじめてですが、実は私、ayuよりずうーっと早く、Madonnaには親しんでいたりして。ほぼ「同時代」でしょうね(^^)

 この人も、ayuと同じで、声が随分「胸声」から「腹声」に移行していたんですねえ.....しかも、アンコールでやっと、昔の「胸声」に近い声使って、観衆を喜ばすなんて、もう、余裕というしかない。

 でも、若いよ!! 昔よりも素敵でないかい?

 そして、圧倒的なショーマンシップと、メッセージの直裁な訴えの強さ。ダンサーと演出のクオリティ。観ていて呆然とします。

ただ、この3枚で止まってました。だから,ブランク大きかったんですけどね。

 なお、"Sorry"は、このアルバムに入ってるみたいですね。未聴ですが。

iPodにも、「初號饑」からすでに,入ってます(^^;)

******


 ayu様、今頃、騎手のカッコして、男にまたがってたり、よっちゃんに代わってステージの中央でギター弾いてたりしませんよね(^^)

 偉大なる「おばさま」ですよね。


(みゆきを「お姉様」にしたので,今後こう呼ぶことにします。

結婚歴も

「日米恐怖の年齢不詳女性シンガーBig3」

のなかでだたひとりあるから、これでいいでしょ?)

HMVジャパン

2007/03/12

自分を見つめ、味わい直すために携帯写真を撮る.......「投影法」ならぬ、「風景取り入れ法」?

 私は少なくとも若い世代の人のようには携帯文化に親しんでいない。IMEの性能の良さで知られているシャープの製品を使っているが、この前も書いたように、あの文字盤だけで日本語と半角ローマ字が入り組んだ文を書くのはもの凄く苦手だ。だから、サブ携帯として、ZERO3の愛用者だったりもするのだが。

 写真にしても、プリクラがすでにある時代に青春期を送ることをなかったこともあってか(実はプリクラ流行の直前に、「身分証明書自動撮影機」でカップルが写真を撮るささやかな流行りがあったということをご存じの方がどのくらいいるだろうか?)、あの、携帯を使ってツーショットやセルフショットを撮って「送りあう」文化というものは結局自分が自然には入り込みにくい世界だと、今のところは感じている。

 でも、カメラ付き携帯の普及と、その高性能化が、特に旅行などではない、さりげない日常の中で「ひょいと取り出して、思わす写真を撮る」文化を促進したことだけは間違いないだろう。各新聞の読者報道写真コンテストの入選作に携帯写真によるものが一定の割合で含まれているのが当たり前の時代となるのも当然だろう。

 デジカメ文化の到来は、「フィルムがもったいない」という感覚を希薄にした。失敗はすぐに消去できるからである。更に、カメラ付き携帯のSDカードなどのメモリー容量の圧倒的増大は、まる1日、数十枚以上、高画質の写真をとること程度では、全くもってへこたれない水準のものとなった。数日間の旅行で、かなり高画質でめいっぱい写真を撮り続けても、1GB-2GBのSDカードがいっぱいなどにはまずはならないわけで、私など、それこそ、SDカードに撮りためた写真を整理するのが億劫なまま放置してしまいかねないくらいである。むしろ、観光旅行などでは、充電が残っているかどうかの方に気をかけないとならないことは、皆様お感じのことと思う。

*****

 そうやってバリバリ写真を撮るようになると、自分が被写体として何を選ぶ傾向があるのかということを再確認するだけで、自分という「人間」そのものが自分なりに何となく見えてくることがある気がする。

 自然風景写真がむやみに多い人もあるだろう。建物のデザインが気になると思わず撮る人もいるだろう。通りがかりのお店の看板そのものや、店先に出してあるさりげない装飾が気になる人もあるかと思う。

 別にそれをねらって探し回っていなくても、猫(私のサイトでもやってますが、msnの関連記事はこちら)や鳥が視野にたたずんでいたら思わず撮る人もあるだろう。

 先日、クライエントさんと話していてたまたま気がついたのは(この内容、ご本人のご承諾を受けて書いています)、私には、店で出された料理の写真を撮るということがないということだった。あれだけ自分のフォトアルバムだと鉄道車両はあるのに。

 そこから振り返ってみて、私の中に、食に関しては、執着に乏しいところがあることに、改めて気がついた。毎日同じとまで行かなくても、3日間でメニューをローテーションできれば、お決まりの場所で、お決まりのメニューが3食(実はたいてい「2食」だが)続いても、滅多にそれでフラストレーションにはならない。せいぜいおかずと主食のローテを少しずらせば、十分変化と感じられる。

 お酒にしても、例えば、ビールとなると、「普通のビール」「黒ビール(好き)」「バドワイザー」「オリオンビール」......これ以上細かく識別する必要を感じない(^^;)......ドライ系、生系、などという区別すら味覚だけでしているかどうかすらも怪しい。

 なのに、音楽を聴くとなると、iPodとヘッドフォンにあそこまで執着を燃やすのである。それこそ付属ヘッドフォン以外にお金を使うことなど思いもよらない人たちがたくさんいるのは承知である。

 こうして、

「私は、料理の写真をそもそも『撮ったことがない』

でも

「この世の中には、自分のする食事の写真を撮る人たちが山のようにいる」

ということに気がついた時、私は自分の性格を、自分で、改めて再点検できた気がしたのである。

*****

 少し観点を変えると、旅行に出て、風景の写真を「そこに自分や同行者の背景としてでない形で」撮ることがほとんどない人たちがいる。風景の写真ばかりで、自分の(自分との)写真をあまり進んで撮ってくれないということだけでもめはじめるカップルとか、実は結構あるのではなかろうか。

 一方は、いつもとなりにいてくれる「その人」をそんなに頻繁に撮らなくても、相手への思いは当然あると思っていて、要所要所で一緒に写真を撮れば、それで十分、むしろ、「二人で行った場所」そのものの風景写真だけでも、二人がその時どんな思いでそこにいたのかを思い出せる記念となると思っていたりする。その写真を見ている「二人」は、写真の中ではなく、その写真を見る「となりに」いることにこそ価値があるわけである。

 ところが、他方は、極論すれば、「自分を撮ってくれない」=「自分を愛してくれていない」、「ツーショットを撮らない」=「ホントは二人でいるのが楽しくない」にすら突っ走る。そして、「風景写真なんて、絵はがきやガイドブックやパンフにあるではないか」とまで言い始めたりする人すらあるかもしれない。

 でも、もうひとりにとっては、テレビや雑誌でよく知られたその風景を「自分のカメラ」で撮っていないと、そこに「現実に」ふたりが行った記念にならないではないか、と感じるわけである!!

*****

 ここでは、どちらがどんなタイプの「性格の」人間で、どちらが「好ましい」か、などという議論はするつもりはない。

 たとえそこに映っているのが本人ではなく、風景であっても、食べ物や動物や同行者であっても、自分が撮った写真を媒介にするだけで、自分なりに「自分」というものが、一層「味わい深く」見えてくる可能性がある。

 ......そういう、あたりまえのことを、写真を普段あまり撮らなかった人が、敢えて携帯という媒体で、少しだけ積極的にやってみるだけでも、自然といろんな気づきのきっかけになるのではないか????

 ......そう、カウンセラーに見せる必要もないのである。

 これを生活の中での小さな「行動ステップ」として、クライエントさんに提案したらどうなるか?

******

 私はこれを、心理テストにおける「投影法(projective method)」 および、中井久夫先生の「風景構成法」をモジって、「風景取り入れ(introjective)法」などと仰々しく名付けようかと思った。

 しかし、.......まてよ、こんなシンプルなことなら、とっくに実践されて来ている方々の団体すら存在しておかしくない筈.....と思ってネットで調べたのです。

すると、

●日本フォトセラピー協会

●日本写真療法家協会

という2つの組織が活動されていることを、不勉強ながら、はじめて知りましたので、ご紹介させていただきます。

*****

 なお、デジカメや携帯は、あくまでも「ツールの選択肢」に過ぎない。

 それを、どんな瞬間に、どんな形で、クライエントさんに提案したり、カウンセラーの自己点検・自己修養のために活用するか、その臨機応変なセンスと、その前提としての、クライエントさんとの関係性構築のセンスの中で、はじめて意味を持つことは言うまでもないだろう。

 すべての「技法」はそのようなものに過ぎない。

 私の考えでは、例えば、「技法としてのフォーカシング」も、携帯と同じような「ツール」であるに過ぎないとすら思う。

 .......そのことを伝えたくて、この記事を,、こんな形で書いています。

2007/02/25

受験生の受難は必至だって、わかる人には聴かなくてもわかるのにな.....(および、「モスキート・トーン」「オーディオ機器のエージング」について)(第4版)

恒例、msn=毎日新聞サイトより。

センター試験:リスニング機器、性能劣るのを承知で採用

 この記事、

 音質面では、採用されたプレーヤーについて「一世代前の音声圧縮法」とし、競合プレーヤーは「最近の標準的な圧縮法で音楽の再生にも用いることができ、音質は優れている」と記している。

 再利用については、採用プレーヤーは「記録方式が独自でパソコンの入出力と互換がなく、再利用に大きな障害となる」と記述。競合プレーヤーは「パソコンと互換があり、デジタルカメラなどのメモリーに利用できる」と優位性を認めた。

 「ここまで」上から読めば、オーディオマニアだったら、採用プレイヤーのメーカー、わかっちゃうんですよね(^^;)。

 恐らく「採用さなかった」のは、

仮説1.シャープ
仮説2.パナソニック。

(パイオニア、東芝もありだけど,確率的には上記の2つかな)

のマイクロソフト.wmv系音声圧縮。

「値段が高過ぎるので,最初から検討から除外された」のは、Apple=iPod系(AAC形式)かもしれない。
 もちろん、「理不尽な不採用」を食らったのがMP3系の可能性もあるけど、サードパーティのいろんなメーカーが安い製品を出したMP3系製品より、ソニー独自のMDやATRAC3plusの圧縮形式の製品の方が「高い」って印象があるもので......

 そして、いずれにしても、AACもWMVもMP3も「国産の」音声圧縮フォーマットではない。そして、多くの携帯のメモリーがminiSDカードないし SDカードの時代に、メモリースティックもソニーだけだけの規格だから。こういう「すべて自社独自規格」路線で生き残ろうと思ったら、Apple=macクラスのクオリティと洗練がないと「割高でも信頼される」という形で支持を維持できないのに....。

 そのAppleすら,intelのCPU導入のタイミングを間違えず、むしろそれをプラスに生かして,今後の対windows系陣営への拡大戦略という点で、根っこのところで有利に展開できる布石を打った(携帯市場への参入だけが、特に対日本戦略という点ではリスキーなんだけどb、そのことは十分わきまえてしか今後も事業展開しないだろう)

 それにしても、選考にあたる文部省のお役人さんに、ちょっとまともなオーディオファンがいれば.....。はっきりいって、すでに数年以上前から、ソニーは、モバイルを含む音響機器の分野では迷走し続けてます!! .....どうもそれが「音だけではなくなってきた」のが、ゲーム界でのPS2から一転してのPS3の苦境だったりするのかな.......

******

 ソニーの音響技術者の人たちって、普段からどんな装置で音を聴いているのかしらと思う。CDやMDの規格を生み出した頃の過去の栄光にしがみついて、他社の装置を謙虚な耳でいろいろ聴いてみる姿勢がないのか????

 更にいえば、「1年で使い捨てるのではなく、3年はリサイクルすれば?」という参考意見がついたという点は、ほとんど、「税金を払ってる国民を愚弄するな」の世界です。こういう点からこそ「予算引き締め」すべきなのだ。

 新品でも、初期故障、ないし、初期の作動不良の確率と、最初はきちんと動作して、使用開始から一年後に壊れている確率は、どっちが高いかなんて、よほどプアーな製品でない限り、はっきりしてます。1年後ちゃんと作動するかどうか再検査をメーカーに委託したとしても、新品購入よりは安いはずでしょ。

 ......となると,リサイクルを前提に立てば、少し値段が上でも、「ソニーでない方」を選んだ方が安かったりするのは当たり前。いまだにソニーというだけで「いいメーカー」というブランドイメージが国の役人さんにあるとすれば、あの,現在の経済市場でのソニーの評価がどうなってるのか、その背景に、製品に関するどのようなユーザーの評価と,販売戦略の格差が生じているかとか、政府は「何も知らないまま」とはいわせませんけど....に,尽きます。国の経済感覚はもうどうしようもないのでは???

 以上、最近のソニーの製品を「自分なりに使い込んで」「自分の耳で比較して」、それでも気に入っている人まで批判するつもりは『全く』ありません!!

******

 あと、参考までにいいますと、日本語よりも、英語の方が、「子音」の周波数特性成分が高い周波数帯域にあります。リーダーやグラマーの成績ならかなりいい人でも、日本人が英語の特にネイティヴの人の「ヒアリング」となると,最初の壁を突破するのが結構たいへんなのは、普通に日常に言葉を話す時に、その「子音」帯域への感受性と識別力が経験的に自然に訓練/学習されいく環境にない以上、やむを得ないかと思います。

 平均的英語教師の皆様の発音も、この子音周波数の違いまで完全にネイティヴの人並みということはないと思います。私はミッション校出身でしたから、何人か外国人の英語の先生がおられましたが、日本に来られたばかりの、今思えば完全に「米語」発音の先生の、全く平易な内容の英会話の問いかけが、話す言葉が出ない以前に、何回か繰り返してもらっても、そもそも発音がまるっきり「聴き取れない」ことにかなりショックだった記憶があります(直前の日本人の先生が、正反対に、古風なまでのキングス・イングリッシュ発音("either"を絶対に「エイザー」に近い発音でお読みになる)だったのでなおのことだったんでしょうけど。

 そのへんを「聴きやすく」「弁別しやすく」なるか否かを重視する形で、欧米の音声圧縮形式、そして機器そのもののチューニングは当然のごとく作り込まれます。

 ちなみに、この子音成分への敏感性という点だけ取り出すと、これまた母国語の子音の性質に拠るのでしょうが、ドイツ系の音響機器メーカーのものが一般にみてすごく水準高いのです。

 ヘッドフォンでいえば、なぜかAKGには趣味があわないのですが、ベイヤー、ゼンハイザー、B&O、そしてまだ日本ではあまり普及してませんが、UlTRASONE、そしてオランダですが、フィリップスの製品系列の中に、声の生々しさと、息づかいを含めた空気感の生々しい再現という点で、日本製品にはない「はまっちゃう」音の製品を「どれか」見つけられる可能性は高いのです。

 映画のセリフ、いや、地上波テレビで昔のモノラルのアニメの「日本語の」セリフでもいいので、イギリスやドイツ系のスピーカーの「バランスのいい音(値段は無関係)」を聴かれると、その「生々しさ」に、初体験のときからぎょっとすることになる場合もあると思いますよ。私が30年以上前のタンノイスピーカー(いつもお書きするように「スターリング」)を使い続け、テレビの音声や映画まで、このAV対応まるでなしの2チャンネル再生で満足しているのか???? 生々しいんですよ。声の帯域が。それと、「音から音への移ろい」みたいなものに敏感。映画館の空気だけは、ドルビーサラウンドなしでも結構再現できるのです。

 BOSEやJBLは、アメリカ系の、全く違う基準での音作りですが、やはり質的には全く次元が違うけど、「子音成分にこだわった生々しさ」はある(ピーク成分の置き方の発想がヨーロッパ系とは全く異質にしても)と思うし、「ジャズやアメリカのハードロックははJBLでないと」という人のお気持ちも理解できます。

 不思議と、オーディオの世界となると、フランスのメーカーが「全く」かすんでしまうのも、フランス語という言語の性質と関係あると思います、イタリア製や北欧製の方がまだ高級市場では結構「知る人そ知る」の製品群があります。ただ、これらの国々はヘッドフォンは自社開発しないことが多いので。

******

 ちなみに、17キロヘルツの「モスキート・トーン」のことがいろいろ話題になるようになりました。例えば、Pc Viewサイトのこの記事

 「モスキート・トーン」とは「一般に大人になると聴こえなくなる周波数帯域」の音のことです。私も30歳過ぎから聴こえなくなりました。

 蛍光灯がずっとついているときの「シーーーーーン」という感じの音が近い帯域。これはもちろん、英語やドイツ語のヒアリングに決定的な子音の周波数帯域よりは、かなり上です。

 でも、この問題についての現時点での紹介記事の多くは、大いなる誤解を引き起こす危険に満ちています。

「CDの周波数帯域が高域20kHZまでになったのは、人間の耳の性能がそうだからと教わったけど」

→「そんなら、中年のオーディオオジさんには17kHZすら「聴こえていない」のだから、その人たちの語る蘊蓄には全く意味がないのでは?」

 それをいったら、楽器の演奏者だって、歌手だって、CDやPAを操作する技術者だって、オーディオエンジニアだって、30歳過ぎたらみんなお払い箱にすべきなの?

 ......になるわけでして。

 なるほど、17KHzの音「だけ」を流されたら、30歳過ぎた人はまず「聴こえ」ません。ところがどっこいギッチョンッチョン、「聴こえてもいる」のです(^^)

 わかりやすいのは、いわゆる低周波騒音。今度は逆に20Hz以下なので人間の耳には「聴こえない」のに、なぜ健康被害になるのだと思いますか???

 17kHzのモスキート・トーンであっても、一定以上の音の大きさで延々聴き続けたら、若者にも「大人にも」ものすごいストレスになる筈なんです。

 いわゆる聴覚器官の「刺激域」の外側の音を、人間の「身体は」何も感受していないわけではない。脳細胞そのものは、内蔵は、骨は、直接その振動を受け止めているはず、と考えてみればわかりやすいでしょう.

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 だから、実は、例えば大人の「耳の」周波数帯域である20Hz-16kHz以外の周波数特性の部分に、変なピーク成分があったりする音響機器は、実際に耳で聴いているよりもはるかに「大きな音」を「身体で」受け止めている可能性があります。これじゃ身体に変調が生じてあたりまえ。少なくとも聴いているうちに疲れて来て当たり前なんですね。

 ヘッドフォンでも、中級以上の製品になると、スペック上、高域が30kHZまで周波数特性が伸びているものがたくさんあります。こうした機器の中で秀逸製品、しかもエージングをきちっとやって十分慣らし込まれた製品の音は......意外でしょうが、新品を買った直後を別にして高い音が決してキンキンうるさく「ない」はずです!!

 むしろ、なんでかしらないけど、音の広がりの空間のスケールが大きくて、ホールに響く残響や、間接音成分、ピアノのタッチ、歌手の歌い回しが繊細に響く。一般的にいうと、透明感と音の解像度、ステレオ低位の細やかさが増して、ふと、機械の音を聴いているのを忘れて、ヘッドフォンの外からの音と勘違いする.....

 そういう、「これみよがしではないさりげなさ」、「機械の音を聴いていることを意識しないで済む」という方向に聴感上はむかうはず。

 なぜなら、自然界には、その可聴帯域外の周波数の音が、「全く自然な周波数特性」で存在するから。自然界の周波数特性は0Hz-無限Hzでしょうから!!(そりゃそうだ!!これこそA=Aのトートロジー(同義反復。前期ウィトゲンシュタインはこの点では正しい)。

 ただし、人間が存在する通常の環境における物理学的周波数帯域の「高域上限」はあるかも。電子や原子の振動以上の帯域なんてないでしょうからね!!

 これらの周波数の中で、人間の「心身機能全体に」何らかの影響が「ない」周波数帯域ってのがほんとはどのへんか? までくると、まだ科学的に真相は究明されず、いろんなオカルトまがいの似非科学が流通している段階でしかないのではなかろうか???

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 更に、オーディオ機器の「エージング」について触れます。

 エージングとは、音を繰り返し鳴らし込む過程で、アンプやCDプレーヤーの中の様々な部品、ケーブル、スピーカーなどの音を発生させる部分が電気的に、あるいは物理的に「使い込まれて」装置本来の性能を発揮できる方向に少しずつ「馴化して」、しなやかな、うるささのない方向に音質が変化して行くこと、あるいは、それを意図的に促進することです。

 論理的には、ある『寿命」を経過すると、今度は電子部品や機器のサスペンションや可動部分、スピーカーのコーンそのものの性能の自然劣化がはじまることにもなります。でも、部品に良い質の素材を吟味した良い設計の製品だと、この「マイナスのエージング」はなかなか生じないまま、いわば年代物のワインやウイスキーみたいな「熟成」がどんどん進むことになります。どんどん「オトナの音」としての持ち味が出てくるわけですね。

 ところが、たいていの人が聴く音楽ジャンルは偏ってますし,本当にバランスいい録音は少ない。
 だから,音楽をただ大量に聴き続けているだけでは,エージングのスピードとバランスはいびつなものになります

 (意外にも、ayuの最近のCDなら、ayuの片耳難聴をサポートして来たスタッフの耳が凄くいいんでしょう、もともとオーディオ的にひどく凝り性な上に、最近のayuのレパートリーは、アコースティックからテクノ、ハードロック系まで一枚のアルバムにすごい多様性で入っていて、ともかくバックのバンドの曲ごとのアレンジのひねり具合とパートの重ね方が壮絶の域、なのに欧米の超一流クラスの音作りの洗練に比べると「冒険的に過ぎる」スリリングなミキシングバランス(^^;A)なので、エージング効果は高い筈です。マジに、ayuを聴くようになって、うちの装置はクラシックすらウェルバランスになる方向に向かい続けて来たのである)この,音の複雑性と多様性、周波数レンジの広さという点では、今でもavexで,制作コスト「特別扱い」以外の何者でもないと思う....。もとより、その最近のayuのアルバムを気持ち良く聴けるところまでエージングするには、どうしたらいいの? となると,以下の内容を読まれたし)

 理想としては、ジャズもクラシックも、バリバリのジャーマン系トランス・ミュージック(これ,特に高域の周波数特性、のっけから自然にない人工音だから、とんでもないパルシブなこと,特に本国ドイツ盤のマスタリングでは平然とやります)も、ワールドミュージックの太鼓の音も、教会堂の音も、波打ち際などの自然界の様々なサウンドも、SLやF1やジェット機の発進の生録音,高域成分に独特の美しさのあるグラス・ハーモニカ(音階に調節された多数の水を入れたワイングラスとかの縁を指で濡らしてならす、あれのこと)の音や古い大仕掛けのオルゴールの音、梵鐘の音、尺八の音、雷の音も、花火の音も。

 そして、それこそ17kHZのモスキート・トーンや低周波の一定周波数のピンク・ノイズの、それぞれ1分程度の持続音、およびそれらの周波数特性を波を打つようにゆっくり行き来する音、同じくその周波数の音を徐々に1分ぐらいかけて減衰していくサンプル、更にすべての周波数の音が同時にランダムに響く音=「ホワイト・ノイズ」と呼ばれるもので、チャンネル設定されていない、画面は「砂漠」状態のときのテレビの「ザーッ」という音をもっと広帯域に広げたと思ってもらうといいでしょう)さらに、手を「パン!!」とたたく時のような瞬発的な"clap音"の繰り返し。そして左右のチャンネルをわざと逆相にした音(これは,スピーカーケーブルのつなぎかたの極性の確認だけではなく、ステレオアンプのチャンネルセパレーションに関わる回路にとってはエージングの意味があるだろう)

 ......ゼイゼイ(^^;A

 これくらいの、広帯域の良質な録音のサンプルだけを集めた一枚のCDとかを「通して」再生すると、エージングは高スピードで万遍なくすすみ、新品の機器ばかりではなく、既に長年使い込んだ音響機器でも、この種のCDを「数回通して」鳴ら込んだだけで、アンプやスピーカーやCDプレーヤーの音が「ドラマチックに」音が整い、美しくなることがあります。まるで、汚れとほこりだらになっていた眼鏡をきれいに拭いた後の「見える」爽快感に似ています。
  
(ただし、近所迷惑にならないように(1分間ずーっと、"ピーーーーー””ボーーーーーー””キュイーーーーン””ドン!!」,更にそれの繰り返し.......ってな具合なので,音楽が微かに聴こえるのなら平気な隣室の人も怒鳴り込んでくる危険はある(^^;)),機器を逆に痛める危険を回避するために、ボリュームをあげ過ぎないことに注意!! このあたりは,この種のCDに録音されたナレーションで口をすっぱくして「おせっかいなまでに」次のトーンを出す前に「事前警告」してくれますが。

 この種の「オーディオ・チェックCD」とか「XLO CD」「Burn-in CD]と呼ばれるものは、いわば機器の潜在力をめいっぱい活性化させる「虎の穴」の特訓じみたCDなので、ずーっと真面目に聞いていると怒濤のように神経が疲労するので(波の音や花火の音に、ほれぼれと身を任せ、「自然界にはこんなにすばらしい音の世界があるのに,音楽に熱中しているだけではもったいないな」と思わず感動したりもすんですけど、念のためにいますと、ヒーリングCDとかに入っているそういう自然音は,必ずしも高品質の録音のものばかりではありません)、適当に、CDプレーヤーをリピートに設定してリスニングポジションを離れてほっとくぐらいでいいです。

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 この種のCDは,何と、iPodやその対抗製品群、MDプレーヤーにコピーしても、エージング効果が鮮明に出ます。当然ヘッドフォンにも!!

 私は、すでに20年は前に買った、"The sheffield/XLO Tests & Burn in CD"とい製品宝物にしています。そしてiPodに、トラックをセレクトしてですがロスレスでコピーして、 iPodやヘッドフォンに「寝起きの悪さ」を感じた時には、機器に「活を入れる」ために活用していますいます(このCDタイトルを読んで、懐かしい思いにかられた古くからのオーディオ・ファンの人、少なくないでしょう。↓これですねね)

Burnincd

 現在発売されているこの種の"Burn-in CD"を探してみましたが、

Burn-In-CD:EMZ zounds Power Disc

XLO/Reference Recordings Test&Burn-In CD RX-1000

が楽天で見つかりました。後者はHDCD用ですが,恐らく普通のCDプレーヤーでの再生もできます。

 あと、高級なオーディオ機器の中には、この種のCDが製品とセットでついているものもあるみたいですなので,特にCDプレーヤーやスピーカー、ヘッドフォンの部門に目を光らせてみるのもいいかもしれません。

(後日記:ULTRASONの高級機になると最初からこの種のCDついてるみたいです。"From a northern place"(by "Blue Yuta"氏)というブログ(私なんか、てんでかなわないくらいの「ヘッドフォン専門Site」ではないか!!)のこのベージのぐぐぐーっと下の方の記事参照。けっこうエージング後の音の変化について、私の述べたこと,私よりディープなマニアの方が裏付けて下さる内容と思います)

.....最近、この種の、音楽再生機器の「エージング」問題についてのまとまった情報、あまり見かけないので,この記事も,当ブログの「意外な長期ヒット記事」になっていくかも......

1.今週のセール(週替わり)

民族主義・ユートピア主義の超克(第5版)

 私にとって、「成熟とは何か」と問われれば、答えは割とはっきりしている。

 すでにこのブログでも何回か言及していることなのだが、

「自分のものの感じ方や判断の仕方が、実はある種の思い込みや先入観に基づくものではないかということに謙虚であり、以前の見解を修正したり撤回したりすべきと判断できたら潔くそれを実践すること」

.......である。

更にもうひとつ付け加えれば、

 「およそ人間のシミュレーション能力というものには限界がある。自分がどこまで緻密にさまざまな可能性について仮説を立てたとしても、現実には必ず自分のシミュレーションを超えたような事態はあっさりと生じる。最善を尽くしてシミュレーションをしつつも、それすら覆されることを当然と考え、むしろ自分のシミュレーションを超えた事態に直面できることこそを「天が与えた祝福、成長の機会」としてうけとめることができる必要がある。でもこれは、最初から何もシミュレーションしないとのは、雲泥の差がある、現実への前向きで柔軟な姿勢である

ということ。

 さらに言えば、私の中には、ある種の「懐古的ユートピア主義」へのものすごい警戒心がある。つまり、「昔はよかった。そこには調和的でよりすばらしい世界があった」「現在はそのことに比べると悲惨である」というタイプのものの見方への警戒心がある。すべての「復古主義」をうさんくさいと感じているのだ。

 「今の日本では古き良き日本が失われた」

という言い方を私は基本的に好まない。戦乱になると武士たちが略奪の限りを尽し、婦女子は強姦して刺し殺すのがあたりまえだった時代。自分の上司が死んだら「殉死」するのが美徳とされた時代。飢饉になったら最悪の場合人間の肉すら食べた時代。町のある一定の個所には斬首刑になった犯罪者の首が当たり前のようにさらされていた時代。武士の機嫌を損ねたらちょっとしたことで、裁判すらなしに切り捨てられても誰も文句が言えなかった時代。キリスト教の布教をちよっと前まで奨励していたのに、数十年後には一転して信仰を捨てなければ死罪になった時代。口べらしのために生まれた子供をすぐに絞め殺したり、娘を女郎屋に売り飛ばした時代。

*****

 日本でも、ちょっとした家柄であることを示すために、武家の系図はなぜかさかのぼるとたいてい源氏か平氏か藤原氏=まわりまわって天皇家の流れを組むことになっている。実際に政略結婚でそういう古い家柄とのつながりで箔をつけた例もあろうが、たいてい、それ以前から、そういうご先祖様がいることになっているのだ。

 これはヨーロッパでも似たようなもので、ホメロスの「オデュッセイア」に集約された古代ギリシアの歴史は、先住民族だった「トロイア人」に対して勝利を上げていくというとこそにみーんな収束していく。

(検索しているうちに出くわしたこの本未読ですが、ちょっと興味を感じる)


、つまり、ギリシャ=ローマ文化の中心地から支配されていた地域が独自の力を貯え、地中海沿岸地域と拮抗する政治力や武力を持つ国家として成長を始めると、必ず、「祖先はトロイ人の英雄だれそれ」という方向に年代記は脚色されることにより、「自分たちはギリシャ・ローマよりも実は古い歴史と文化の後継者なのだ」という逆転ホームランで権威付けしようとする。

 不思議なもので、ヨーロッパには、自分たちを古代メソポタミアやエジプト文化の末裔であるという権威つけのパターンは存在しない。対ペルシャ、対エジプトという形で自らのアイデンティティを主張する伝統は、ユダヤ民族の独占物になっていたように思える。

 要するに、「キリスト教的ヨーロッパ」の世界観においては、ペルシャもエジプトも「東国」ないし「アジアの一部」として一括して捕らえられてしまうのである。こうなった背景のひとつには、中東諸国が、中世初期までにあれよあれよという間に、イスラームの政治的・文化的枠組みに包括されたものとして受け止められたことも大きいのだろう。

 そして更に、ヨーロッパの場合には、ゲルマン民族の侵入「以前」の、地中海沿岸を除く、中・北部ヨーロッパの歴史の空白を埋めるために、「トロイア人」にとって代って、今度はケルト人」「ケルト文化」という概念が、全く都合のいいように埋め草として、ある時代から「忽然と」使われるようになる歴史がある。

 純粋の「ケルト文化」として位置づけられるものがあるとすれば、一万数千年まえの青銅器文化の時代までさかのぼるしかないのに.....である。

 スコットランドの文化が、独自のアイデンティティをもつものとして称揚されはじめるのは、何と、スコットランドが実際にイングランドに政治的に統合された1707年以降のことである。単なる「地酒」としてそれまでは外国人に見向きもされなかった「スコッチ・ウイスキー」がひとつの国際的ステータスを徐々に確立していくのはこれ以降の時代である。

 それどころか、今や「スコットランド」のイメージの典型となっている「タータン・チェック」は、実は昔から織物が作られているヨーロッパ地域では、最もシンプルな織り柄として広範な地域で作られていた模様であるに過ぎないし、バグパイプにしても、ヨーロッパのいろんな国で中世から使われていた楽器で、別段スコットランド由来でないことは、西洋の古い絵画や音楽の歴史をひも説いた人には周知の事実。

 さらに言えば、あの男性の着用するキルトというスカートめいたもの(現在のファッションの世界では意味が拡張されていますが)は、実はイングランド人が、スコットランドの自分の鉱山の採掘所で労働者の作業着として便利なので「発明した」品が、比較的短期間に、まずは他の類似の現場にも「便利だから」という理由で広がっていくという歴史の浅さしか持っていない。

 それらがスコットランド民族のアイデンティティの象徴であるかのように「普及する」きっかけは、イングランド(グレート・ブリテン)王ジョージ4世が、1822年(!!)に、イングランド王としては数代ぶりにスコットランドに公式に行幸する際に、その公式行事のイベントの総プロデューサーとなった、大作家、ウォルター・スコットが、ジョージ4世に、タータンチェックのキルトといういでたちで行幸させ、公式行事に参加する貴族たちにもこのスタイルでレセプションに現れるように「要請した」ことがまんまとあたって、タータンチェックとキルトの大流行が中流階級以降に一気に生じて以降のことである。「氏族ごとにはるか昔から受け継がれたタータン・チェックの柄がある」という「伝統」も、実はこの時を境に、すでに産業革命の流れに乗って紡績工業が発展し、仕立て屋が商売繁盛させるためのセールス・トークとして「ねつ造された」過去の歴史ということになる。

 ヨーロッパの民族衣装における地域性というのも、実は、18世紀に勃興した「民族主義」という「新しい」潮流と、産業革命によって衣類や織物が量産できるとうになってから、はじめて「実現された」商業主義の出会いの産物ということになるらしい。それ以前は、一般庶民は、ヨーロッパのどこに行こうと似たり寄ったりの、「貫頭衣」のようなワンピースに近いものを着用していたにすぎない。布地を作ること、手に入れることそのものがたいへんな時代の庶民(特に農民)の衣服なんてそんなものである。

 そもそも「民族主義」は、あくまでも、近世以降、ヨーロッパ列強による帝国主義的な覇権の争いの中で、それに屈した地域の中ではじめて形成されてくるものなのである。しかもその出発点は、むしろ征服した側の民族や国家の側からの一種の懐柔策、あるいはいわば「辺境ロマンチシズム」のファンタジーのようにして形成され始める。征服された側の人たちがそれを自分たちのアイデンティティとして積極活用しはじめた後で、支配者側は、大慌てでその民族の象徴の文化....もとはといえばプロデューサーは自分たちなのに.....の弾圧をはじめる。その時点で、古代からの誇り高き民族の「神話」が、あたかも昔からの言い伝えのようにして歴史の断片から半ば「ねつ造され」ることになる。

 そもそも「国民国家」という概念そのものが、いわばフランス革命以降、18世紀以降に成立するものであるにすぎない。フランス革命あったればこそ、神聖ローマ帝国に属する小さな領邦国家群にすぎなかった地域に「ドイツ民族主義」が勃興する。それまでは、ハプスブルグ家をはじめとするヨーロッパの王室の公用語は、フランス語だったのである。

 そういう中で、ドイツ・ロマン主義が興隆するし、長らく忘れ去られていた「ニーベルンゲンの歌」(ワーグナーの「ニーベルングの指輪」はその焼き直し.池田理代子さんのコミック版があるとは知らなかった)も「再発見」される。グリム兄弟は童話集を出版するが、実は童話集の多くの素材が、実際にドイツの民衆の言い伝えを採取してまとめられたというのは真っ赤な嘘で、せいぜい、貴族の娘たちあたりから聞いた話にグリム兄弟が大幅に創作を加えたのが真相らしい。

 先日言及した「赤ずきんちゃん」にしたところで、長らく、より成立年代が古い、シャルル・ペロー作のフランス語版の童話の方が、より古い「民俗学的」採集にもとづく古い形とされたグリム童話版の焼き直しにすぎない長年思われていたが、実際にはペロー版の方が早く成立し、それを「脚色」したのがグリム兄弟でなかったか、という方向に学説は逆転して動いているようである。グリム兄弟は、実際、その後ドイツ語の純化をすすめる「国家政策」に大きな働きを果たすのだが。

 同様のことは、ゲール語=ケルト文化固有の「古代叙事詩」としての「歴史的大発見」とされ、ロマン派の文学や劇音楽の運動で、国境を越えて多くの作品に影響を与えた「オシアン」において、「これは民俗学的フィールドワーク」の産物ではなく、古代ゲール語から「翻訳」したジェームズ・マクファーソン自身が、周囲のスポンサーの期待に応えるために思わずやらかしてしまった、大部分が「創作」にすぎないものはないかという嫌疑がかかり、今日ではそちらの説の方が有力で、いつの間にか岩波文庫からも「オシアン」の翻訳は消えてしまい、今や古書市場ですら見つけるのがかなり困難な作品になってしまった。

 いずれにしても、近代にいたるまで、戦争において、兵士とは、金を稼いだり戦利品(人間も含む!!)を獲るために、あるいは、むりやり徴用されて(場合によっては、兵士を集めるために「意図的に」借金の返済という状況に騙されて追い込まれて)集められた兵士が、領主ないし傭兵隊長(あるいは奴隷にとっての「市民」)の命令に従い働くに過ぎない存在であり、「国のため」に戦う(ないし国の現政権打倒のために)戦うというイデオロギーそのものが、近代の産物であるにすぎないのである。

 そういう意味では、「『フランスを』救うために」戦ったジャンヌ・ダルクなどは中世の「異端児」そのものであり、現実には、歴史的経緯の上でも、実際の政治情勢の上でも異様なまでに複雑に入り組み、いとも簡単に「寝返り」を繰り返した、イギリスとフランスの諸侯の政治ゲームに利用され、スケープゴートにされるのは半ば宿命的だったともいえる。

(だから100年前後も「だらだらと」続くのだ!!究極には「国」と「国」とのたたかいではなく、地理的に現在のフランスとイギリス(イングランド)にあたる地域の諸侯の、果てしない「合従連衡」の時代としかいいようがないのだから)。

 そして、その後の時代を含めて、いかなる時代も、「純粋な愛国心」の持ち主というのは、「少数派の変人」であったに過ぎないともいえる。私利私欲と支配のためか、背に腹は代えられずに日々の糧を得るためか、煽動者であることそのものを生きるか、扇動されることを「消費」する、その時点ではいわばローマのコロセウムの観客であるに過ぎないか、徴用され、支配され、搾り取られ、犯され、人殺しをさせられ、殺されたり不具になるまで支配者の犠牲になるか。それだけである。


*****


 このようにして、「我々は過去に素晴らしい文化を持っていたんだ」という伝統主義そのものが、むしろ後の時代にねつ造された「ユートピア」を過去に投影したものにすぎない、ということは、世界的な現象として残念ながらかなりの程度見られる。おそらく、日本国内の「固有の地域文化」「伝統」といったもののかなりの部分にも、そうした面があるのは、残念ながら事実だろう。

 わが故郷、久留米を代表する名産品、人間国宝の機織りを輩出した「久留米絣」は、ほんとうに幕末ごろに井上伝というひとりの女性の創意工夫の中から生まれた、比較的歴史の新しい「久留米の伝統工芸」であるにすぎないことは、幸いにして地元では小学生でもきちんと学んでいる(はずである)。しかし、ほとんど同時代的に、絣の製法は、日本各地にうまれたものというのも現実なのである。

 福岡の「黒田節」と、雅楽の「越天楽」そして、「君が代」が、基本的には同じ系列の流れにある可能性が高いことは、以前も書いたかと思います。

 それにしても、相変わらずこの水準ですからね。最近の新しい用語「だけ」取り入れてかっこつけていい気になってるだけではないか。この、お茶目な道化もの!!

 もとよりこれは、現実の文部行政には無知蒙昧、もとい、初心者としての新鮮な気持ちで臨んでおられるトップの大臣さンだけのことで、文科省の官僚さんもしらけ切っているし、全国の教育委員会や校長先生方の中には、良識的かつ現実的な方も「地上の星」としていくらでもおられるでしょうから、例えば私がスクールカウンセラーを志願したとしても、採用して下さる奇特な自治体はあると思います(^^)。

 批判するにしても、自画自賛するにしても、ある組織・団体に属する存在を上から下まで「単一民族国家」、もとい、「同じ考えを持った等質集団」と思い込むことそのものが「全体主義的」ファンタジーですからネ!!

.......なーんてことを,採用面接ではおくびも出さないのがオトナです!!

(このウイットに「笑える」人だけが、私と関わってくれればいいの!!)


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 話が拡散しそうですけど(^^;)、私はもちろん未来を楽観する「予定調和的進歩主義」の持ち主ではありません。でも、あるひとつの技術やメディアの登場が、人間の人間性を一層すさんだものにして、自然破壊を広げ、人心をすさませ、人類の滅亡を早め、子供の教育にマイナスになる、式の論調は基本的には「大嫌い」です。

 たとえば、私のような開業カウンセラーは、携帯電話の普及によって、家族や職場の人たちのことをクライエントさんが気にせずに申し込んだり、打ち合わせができるという点ではむしろほっとしています。

 はっきりいって、ネットや携帯電話の発達によって、以前より「構造化された」カウンセリング関係の維持が難しくなったと感じているようなカウンセラーは、そのカウンセラーの方が携帯やネットという媒体の活用法について未熟な水準に甘んじているだけか、あるいは、クライエントさんとの信頼関係を、一定の節度のもとに形成できない程度の、「優柔不断な未熟さ」にとどまっているだけです。

 なるほど、ネットにはさまざまな誘惑の火種があります。しかし、たとえば家に押し掛けるセールスマンやギャッチセールス、アイスクリームをわざとくっつけておいて親切を装うスリのグループや、荷台に乗せたままの客の手荷物を渡さないうちに走り去るタクシーの運転手、通常の電話での勧誘、いや、会社のビジネスにおけるフェイス・トウ・フェイスの交渉の中ですら、いくらだって詐欺まがいの勧誘の魔の手はあって当然ではないでしょうか? 

 実は、そうした連中の中から相手の本性を見抜き、「そうはいきませんよ」とやんわりとうまくけん制して相手にその気を失わせたり、いざとなれば強い態度で拒否したり、次の約束をすっぽかしたり、無視したり、まっしぐらに逃げる!! などの眼力と実践的対処法の育成という点では、「メディアが何であれ」基本的には同質のもののような気がします。

(《註》:ここでいう「メディア」とは、「マスメディア」とか「通信手段」いう意味にとどまらない。ここでは、直接の面と向かったやりとりすら含む、相手との交渉や出会いのchannelの様式全般をさす。"medium"という言葉本来の意味に戻る。だから「媒介なし」とか「偶然出くわす」も「メディア」の「一様式」である)

 人間って、新しい技術やメディアには、勝手に、バラ色の未来か、堕落させる誘惑の「どちらか」を見てしまいやすいものだと思います。

 あるいは,過去の伝統や、昔ながらの失われた生活様式に、今は失われた「人間性」とか、残酷さ、「野蛮さ」の「どちらか」を見てしまいやすいものだと思います。

 そして、いつの時代も、その時点での「現在」の視点から、その両方を繰り返して来たのです!!

 しょせん、私にとっても、インターネットは「ただのメディア」です。インターネットを使う方が余計にもうかるだとか全然思っていない。儲けのうまい奴は、どんな「媒体」を活用してもうまいし、「うまくなる」し、最後にはそのことに溺れて「没落する」のではないか? 

そして.....地道に普及させるしかない対象は、ネットを通しても地道にしか広がらない。

 どうも私は、「書く能力」という武器は持っているし、大人数を相手に即興で場の雰囲気を妨げないようにコントロールしながら意見を言う能力も伸び続けているみたいなので、媒体もまだインターネットがない時代なら、雑誌や機関誌なんかに投稿するか、自分で手紙や「覚書」の頒布や、演説をしまくる私がいただけ、という違い「だけ」でしょうね(^^;)

*****

 私の方針はある意味でシンプルです。まずは、私とのカウンセリングやフォーカシングのトレーニングに「代価に値するだけの」意味があったと感じてくれる人を「ひとり」生み出す。

そして「2人目」を生み出す。

「3人目」を生み出す。

 そうこうしているうちに、私の側にも、多くの人に対して同水準の援助を維持できるだけのスキルと経験が蓄積され、それにちょうど見合うぐらいに顧客さんも増えていく。

 そうこうするうちに、顧客さんの口コミがはじまり、そして私の訓練を受けた人たち同士の横のネットワークも、堅実に成長する。「どこに出しても通用する」人たちを!!

 私は最初から、私に依存しなくても、その人なりの主体性をもって、生活のただなかでフォーカシングをかなりの程度活かせる水準の人、自立して、主体的にトレーナーの活動をできる水準の人を、少数精鋭で、一人ずつゆっくりと増やすことしか考えません。

 そうやっていくうちに、中には、私よりも、「天性の素質として」、グループワークの形で集団に指導するのが向いている人たちも含まれてくるだろう。私はそういう弟子たちから「学び」、「協力を受ける」形でしか、「裾野を広げる」スキルを身につけられないかもしれないが、それはそれで、一番地道な発展の手順ではないのか。

 それしか、健全な形で、それぞれの地域や業種の中で、核となって、フォーカシングを有効活用でき、指導できる人たちを増やしていく手立ては存在しない!!

 ある意味で、古いタイプの職人の天性であることは、私の宿命のように思う。

******


 さらに言えば。

 フォーカシングとは、人が、自分自身の気持ちと向き合い、それを言葉にして、受け止めていくことすら、いかに大変なことかということへの厳粛なまでの謙虚さと、「敬意ある自己信頼」(これは単なるナルシシズムとは雲泥の差がある事柄)にたどり着くためのひとつの道なのだと思います。

 自分自身との関係においておやしかり!!

 まして、たった一人の他者と、限られた瞬間にお互いに確かに気も市が通じ合えたと感じられることは、いよいよ厳粛な「奇跡」であり、感謝に値する事柄なのだと思ます。

 そしてそれは、ひょっとしたら、身近な、ある程度慣れ親しんだ「日本人」同士がほんとうに絆を築くことも難しさは、生まれも育ちも文化も言語も異なる外国の人の「ひとり」と、「ある限られた場で」形成される「理解しあえた」と思えることの難しさと、ほとんど何の違いがない水準の領域かもしれない。

 軽率に「日本的な」フォーカシングなどという言葉を口にすることで、フォーカシングとは名ばかりの、単に周囲への「気を使い」方がへたくそで場になじめない人(そういう人たちこそ,フォーカシングの潜在的な強力なユーザなのに)を暗黙のうちに排除するような、フォーカシングとは名ばかりの「えせフォーカシング」に換骨奪胎されないことを、私は心から祈ります。

 もともと日本的な世渡りがうまい人だけ、そして、そういう人たちの「ご機嫌を伺う」ムラ社会追従者道徳としてのみ「センスを磨く」域に留まるフォーカシングの普及など、

「くそくらえ!!」

である!!

 なお、たまたま今はフォーカシングのことだけを例に挙げていますが、これらのことはおよそすべての心理療法流派においても,本質は同じでしょう)

 いえ、およそすべての職業、いや、すべての媒体、すべての制度が、何か他のものよりも「便利だ」とか「効果的だ」と思い始めた瞬間に陥る悪魔の誘惑です。

 できるのは何か? 自分の「現場」という、てこの支点を立脚点として、自らの限界を真っ正面から見つめつつ、創意工夫を重ねていくことでしかない。

*****

 少なくとも、私は、

「ドイツ文化固有の」フォーカシングの在り方、だとか、

 そんなことがフォーカシングの国際的な場で論じられたりテーマになったことがあるなどとは記憶しません。


 まずは「あなたの」フォーカシングの世界を作ることを。

 「日本人」であることは、あなたのアイデンティティの構成要素の一部であるに過ぎない。

 どうせあと、50年もしたら、日本も、少なくともアジアのいろいろな国の出身者が共存する社会になるでしょう。EUならぬ「アジア共同体」の一部として、共通の貨幣を使っているかもしれない。

 そういう時に外国からの移住者を排除するための極右政党の人身をまとめるためにフォーカシングが用いられていないことを心から祈るものであります。

(こういうのが、この前の記事で書いた、「真意」を汲んで欲しい、私のウィットのつもりなんですが)


私は、実は何一つ、「独創的な」ことはやっていません。
しかし「私の」フォーカシングをしています。

人は、結局、今、この瞬間に最善を尽くす以外の生き方はできない。

どこまでも、愚直であれ!!


※推薦ミュージックビデオ(やっとこの傑作PVもiTunes Storeに入った!!):
浜崎あゆみの
momentum"momentum"
(アルバム"Secret"収録)


*****

●参考資料

原聖/「<民族起源>の精神史 -ブルターニュとフランス近代-」)
「高橋哲雄/スコットランド 歴史を歩く」

「シュリーマン旅行記清国・日本」

ハリー・ レヴィン/「ルネッサンスにおける黄金時代の神話」

2006/07/14

音抜けが圧倒的に良く、決して低域がダブつかない、究極のオールラウンド密閉型ヘッドフォン!!(第4版)

HEADPHONE(ヘッドフォン)STANTON(スタントン) DJPRO3000STANTON(スタントン)/ DJ PRO 3000

 さて、忘れた頃にやってくる「万国iPod用ヘッドフォン大博覧会」、続編です。

 しかも、この製品の紹介ぐらい、「意表を突きまくった」チョイスはないことだろうと思います。

(それより、あの、ディープなカウンセリングの記事を書く「こういちろう」のブログだよね......と、最近からの読者の皆様、愕然としないで下さいね。私のブログのあり方そのものが「意表を突きすぎて」いる???

 もっとも、以前すでに、ピカリングのOEM供給のVESTAXDM-01を紹介したくらいではありますから。

 昔、アナログカートリッジで著名だったメーカーのかなりの部分が、ヘッドフォンの制作に比重を移すことで生き延びたケースは、、日本では、オーディオテクニカ、外国ではSHURE(シェアー)が典型です。

   要するに、
   「針先の振動をコイルで電流に変換する技術」
   と、
   「電流をヘッドフォンの小型スピーカーという、
    実際の音の振動に変換する技術」

どちらもコイルが絡むわけで、しかもそこには、単なる音響工学を超えた、職人的な音のセンスの伝統が決定的です。何しろ、耳たぶの形や耳道は人によってまるで違う

 ...が、もともと、アナログDJ用の、要するに、ターンテーブルの「逆走に強い」「乱暴にビックアップを上げ下げされてもびくともしない」針の構造を持っていたスタントンピカリングが、現在もアナログカートリッジやプレーヤーを含む、現役バリバリのDJ用品総合メーカーであり続けている、というあたりになると、実は、DJに興味のある人(秋葉原でも、特別な大型店でない限り、「DJ用品専門ショップ」に通う人)か、アナログ再生に今でも関心を向けているオーディオファンしか、もはや視野に入っていないことが多いということになるかと思います。

 まして、スタントンピカリングアナログカートリッジ「クラシック向きではない」という評価が、少なくとも昔は高かったので、いよいよプロ・アマ問わず、DJの世界でのみ著名という構造が定着し、それを、こともあろうにiPodを聴くためのヘッドフォンとしての選択範囲に入れるなどという発想は、通常はないと思います。

****

 さて、今回ご紹介のSTANTON(スタントン)/ DJ PRO 3000に話を戻しますと、

   この機種、何と日本では
   11,000-13,000円
   の価格で売られています!!

 大抵の「高級」iPod用ヘッドフォンやイアフォンより安いわけですね!!

   ところがどっこいぎっちょんちょん、
   驚異の音です。

 クラシックからロック、トランス・ミュージック、浜崎あゆみを含むJ-POP、昔の歌謡曲やフォーク、古いアナログ録音から最新のデジタル録音まで何でもOK!!

 いわゆる、 アメリカの「ウェストコースト」サウンドそのものであり、ある意味では、湿度の低い「サラリとした」音です。

  この点では我が愛器、GRADO(グラド)/ SR325I(ただしそちらはものの見事な後面開放型)が持つ、音の移ろいに大変敏感な繊細な生々しさ緻密さと両立する、圧倒的なパワーと「熱さ」、とはかなり異質なのですが、

    両チャンネル間の音場空間の
    細やかな端正さ(位相特性の良さ)、

    低音が決してボンボンいわない、
    ハイスピードでタイトにゴリゴリと押してくる
    エネルギー感のすばらしさ

という点では、大抵の密閉型の常識を覆します

 クラシックですら、録音が古いものは古いなりの周波数帯域の狭さを実感させつつ、でも、ものすごい解像度で、独特の品格のある音の世界を作ります。

「ドンシャリ」に全然ならないんですよ!!

******

 ちなみに、音量にあわせて左右についた青色ダイオードがチカチカ発光する仕掛けがついています。しかしこれはスイッチでON/OFFできます。発光させても音が変わる感じがまるでしないのは見事です。

 インピーダンスを3段階に切り替えるスイッチもついていますが、これは中間の標準のままで、iPodでは耳が痛いくらいの音量が出ますので、いじらなくてもいいはずです。

 ちなみに、フライホイール部をベッドバンドの中に折り畳んで小さく収納できますけど、基本的にはかなり堅牢な構造の部類でしょう。ただ、「重く」はないけど「軽い」と言う部類にはいれられません。私のグラドの方が堅牢度は高いのに軽量で、頭への圧迫感は低いです。でも、耳を覆ってしまう密閉型大型ヘッドフォンの中では、これでも軽い部類でしょう。この辺はさすが、DJがかなり身体を動かしながら機械の操作をすることを考慮していますね。また、ヘッドフォン本体へのケーブルを根っこから着脱して別にできます


******

 欠点をいくつか上げます。

 1.標準装備の、ステレオ標準ジャックからミニジャックへの変換プラグがあまり上質ではない。ビニール系のペナぺナした音に私は感じます。

 この点については、以前ご紹介したように、テクニカやソニーやビクターから出ている、オール金属削りだしタイプの変換プラグに、、スーパーの台所・水廻り用品売り場や、TVアンテナケーブル売り場で「防水用テープ」として売っている程度の、あまりベトベトしない[UT-19] 融着テープ 19mm×1M「ブチル(自己融着)ゴム」テープを、

   「分厚く」
   「何重にも」
   「引き延ばしながら」

巻き、表面がべとつかないように、ティッシュか布で巻いて「鳴き止め」加工を自分でなさったものがお薦めです。

Henkanplug
 以前の記事ではその実物はお見せしなかったので、今回は私のを写真にとってお見せします。

 ちょっと写り具合の関係で、ブチルがむき出しすぎに見えるでしょうが、私が使ったブチルが柔らかめのものだったので、ティッシュを二枚重ねのまま、数日ごとに更に3、4重巻いてということを、最初の1ヶ月は続けました。黒いゴムは「ティッシュを透かして」見えてるだけで、実際には手も汚れません。

 でも、ブチルの中にティッシュは数ヶ月単位でいえば、長期間のうちに次第に「沈み込んで」いきます(^^;)し、これからは夏場の温度上昇で柔らかくなることも考えられますので、月に一度ぐらいはティッシュを更に上から巻く作業は必要かもしれないし、尖ったものがぶつかると、そこからブチルがしみ出して、他のものを黒く汚す危険はあります。

 まあ、そこまでするか? は、

     「マニアの世界」

と割り切ってくださいね(^^;)

 表面をこれ以上加工すると、今度は「その素材の」音が出る可能性があります。ビニールテープとかの方がよほどのりがはみ出して汚くなるんですよ。私の予感では、ブチルゴムの表面にとかを巻くと、仮に音が変わっても、少なくとも嫌な音には変化しないだろうと思います。

 ブチル巻かなくてもオール金属削り出しのブラグの方が音がすっきりするのはわかるかと思いますので(そんなら最初からそう書けって? でも、高域に輝きが出過ぎ、低域も引き締まらない可能性はあります)

*****

欠点その2:

  密閉型のはずなのに,
  外への音漏れかなり大きい

イヤパッドが少し堅めなんですよね。

少なくとも、例えば、

新幹線の中で、隣に座っている人に迷惑をかける可能性、

●夜行寝台の個室でないB寝台車で上下や向かい側の人寝るのに迷惑をかける可能性

はあるでしょう。通勤電車や、国内線の(....というか、乗客の多くが仮眠をとる「長距離国際線」では「ない」)飛行機の中や、街頭では、耳掛け型やオープンエアよりは「よほど」シャリシャリした音漏れ少ないので大丈夫とは思いますが。

*****

あとは、ヘッドバンドにデカデカと描かれた、

STANTON

の、ロゴマークを、

ファッションの一部だい!!」

開き直れる度胸

がすべてです。

ともかく、私の常用ヘッドフォンに一気にのし上がった逸品です。

2006/05/12

熟練者による指導の元で、極めて能動的・主体的に技を磨こうという好奇心と探求心のあふれる人間にしか技能は伝え得ないという前代未聞の事態について、こういちろうによって語られる

フォーカシングのトレーナの国際資格「認定資格者」としては、誠に不謹慎とも思える発言からはじめたいと思います。

時々、フォーカシングを学ぶことによって、自分の人生を変えることを、一代決心と覚悟の元に、私の元に現れる方があります。

全く正直に言いますと、私はそういう方に対しては「引いて」しまうことが多いのです(^^;)

そして、

「あ、このタイプの人は長続きしないことが多いもんな」

などと思ってしまいます。

単なる熱心さだけではだめなのです。

この人、フォーカシングを自分で「面白がって」

いずれ私を見捨てて、自分で勝手に、ひとりよがりなまでに探求を果てしなく、懲りることなく続けていき、

私にとってのフォーカシングの理想への道はまだ険しい!!」

と絶えず歯噛みしながらも諦めずに、自分の信ずる方向に技を深め、私を「過去の人」として歴史の彼方に葬り去り、自分こそフォーカシングの歴史を前に進めた者であると自負し、心理臨床に限らずに自分の分野で大立者として活躍し、私を一回ぐらい講演会の講師に呼んで、乏しい家計にささやかな手助けをすることもないまま、私の死を偶然北海道新聞紙上で知り、私の恩も忘れ、往復3万ほどの航空料金を出し惜しみ、葬儀の焼香に訪れることも、中井久夫先生が、我が恩師、故・村瀬孝雄先生に長文の弔辞を持って報いたようなこともせずに、香典を1万円ポッキリしか寄越さないぐらいにならないと、私の立派な不肖の弟子、後継者として、草葉の陰で見守ってはおれず、さもなくば毎晩夢枕に立ってうなしてやって、Dreamfocusing
夢フォーカシングの技を磨かないと生きていられない状況に追い込んで呪ってやるぞ、と半分まじめに思っていま.....

Donquijote
(実は、スペインものの延長として、セルバンテスの「ドン・キホ─テ」を岩波の全巻(6巻組)セットで買って読み出して、半日で第1巻を読破、小説嫌いの彼に珍しく、こんなに読んでいて痛快でおもしろい本に巡り合ったことはないという感動にうち震えていたもので、あの作品のすさまじいマゾヒズムと過剰な饒舌さが、もともとその気(け)があるこの時のこういちろうに乗り移っていたというふうに、拙(せつ)は愚考する)。

(ただ、残念なことに、私はこの続きを続けることができない。なぜなら、ここで写本の続きが散逸しているからである。.....もとい、こういちろうがせっかく書いた原稿を、パソコンのブラウザのタブの操作ミスで、ネット空間の果てしない闇の中に散逸させてしまい(マジ)、すぐにもう一度同じことを一から感興のままに書きはじめる意欲を喪失したためのようである。)

(私がネット空間を通してブルゴスの古書市場から偶然に発見でき、ムーア人に翻訳させた写本の続きに関しては、次の回をお待ちいただきたい)

次の章では、こういちろうによって、テクニ─クスキルの違いについて、ハンガリー人(びと)たる、暗黙知の次元ポランニュイ・ミハイ─なる者と、バーリント・ミハイ─なる、二人のミハイ─の学説を強引に重ね合わせる,新たなる大胆な冒険が語られる)

***

推薦BGM:
サラ・バラス舞踊団「フアナ・ラ・ロカ(愛に生きる)」”Juana La Loca"(VIVIR POR AMOR)/BALLET SARA BARAS

*****

更に広告:

今絶版中の1972年版「ラ・マンチャの男」に加えてこの名作ミュージカルのラインナップなら、この値段は、まだ買ってない人にはお手頃かも知れない。

2006/04/13

再びエル・シッドについて(第6版 ピダルの著作の刊行年確定版)

Erlciddvdエル・シドについて、
更に続きですが、

史実としてのエル・シド(エル・シッド)については、
Elcidbookエル・シッド・カンペアドル
(著者:ラモン・メネンデス・ピダル 1950) 以上の著作はないでしょう。

スペイン本国でも、ヨーロッパでも、イスラム教圏でも、ここまで歴史的評価が混乱し、揺れ動いた人物は稀とのことです。当時中南部に小国分立してたイスラム教徒から金品を巻き上げるただの盗賊騎士団の頭領だったという見解から、ヨーロッパ的な歴史観における「レコンキスタ」(つまり、本来キリスト教徒の土地であったイベりア半島を「侵略」していたイスラム教徒を「追い出す」までの歴史過程における聖なる英雄、いわば「ヨーロッパの西側における私設「十字軍」みたいな存在として祭り上げられたり、あるいは「スペイン」民族主義の象徴、更にはスペインが「つい四半世紀前まで」フランコ独裁体制にあったことからくる(若い人の中には、「へえ、そうなんだ」という人もいたりして)、歴史の流れの中で、いいように利用されて、誹謗されても来た人物なのです。

しかし、アーサー王伝説とかとは異なり、まさに中世後期に忽然とタイムスリップしてあらわれた「古代の伝説的英雄」みたいな人ですので、実は同時代の『現在進行形」的文献的記述が、スペイン(当時のレオン=カスティーリア王国)王室に残る公式の文書から、エル・シードの歌「我らがシドの歌」をはじめとする、すでに彼の死の直後に成立した吟遊詩人の伝承の記録や、イスラム圏を含めた年代記における、その武勇と戦略についての賞賛すら含む記述等を含めて、山のようにあるそうです。

現在進行形的な情報が、いかに主観に歪められがちかは、現実の「今の」歴史が証明しているでしょう。しかし、良きにつけ、悪しきにつけ、歴史はそういう「誤解」と「思い込み」の中で動くものですから。

エル・シドが、一騎士としても抜きん出た人物で、戦略家としても有能、裁判官としても、ローマ法、「フェロ」と呼ばれる、王室と地域諸領主との間の慣習法)にも精通して公正な裁判を行うだけの明晰な知性を持ち、王室に対して発言力があり、多くの政敵に嫉妬され、謀略の中でも生き延び、志半ばで死ぬしかなかったものの、現実に彼と関わり、彼の姿を観た人々に取って、忘れがたい「何か」を発散し、彼なしでは世界史、少なくともスペイン統一までのあり方が変わり、それは、コロンブスによるアメリカ「発見」以降の「大航海時代」がどのようにはじまるかにも影響したろうと言いたくなるのは確かです。

そこから「歴史」と「伝説」を丁寧に選り分ける膨大な作業を費やし、学術書「エル・シッドのスペイン(1929)」をまとめた時点で、数百年続いたエル・シッド論争に終止符が打たれたとまでいわれたそうです。

更に、第2次世界大戦後、ピダルは、この著作に基づきつつも、スペインのアウストラル蔵書のために一般向けに書きおろしたのが、この「エル・シッド・カンペアドル」なのですが、これですら、今時1500円というのが嘘みたいな、ヘヴィーな2段組の「大著」ですよ。ここまで公平で多角的で、学術的正確さを期しつつ、歴史読物としても読める歴史書は稀でしょう。

ただ、いきなり読むと、スペイン史(というか、イベリア半島におけるキリスト教圏とイスラム教圏の矛盾に満ちた、長い「抗争」と「共存」「相互影響」の歴史が頭に入ってないと、ついていけないでしょうから、上に紹介した、映画「エル・シド」を先に観てからにして下さい。

この映画の脚本家がその時点でどれだけ卓抜な歴史認識をもっていたかもわかります。もちろん、史実を強引に「圧縮して」いるし、エル・シドを実際より「いい人」にして、影の側面はある程度切り捨てているとは言えますが、それでも。ここで描かれた「歴史をほんとうに動かした人」の存在感の生々しさ。そこでくり広けられた政治的駆け引きのシビアさ。脚本家の「歴史的洞察力」が当時としては半端ではなかったのは確かしょう。ピダルの原典は1950年に出版されています、それを十分に活用しているようにも思えます。

まあ、映画のエル・シドと現実のエル・シドの違いは、このブログでイメージされる私と現実の私ぐらいの落差しかないかも(爆)

チャールトン・ヘストンの真の代表作は、「十戒」でも「ベン・ハー」でもなく。この作品です

この人、その後全米ライフル協会の会長なんかに祭り上げられなかったら、もっと光栄に満ちた老後を迎えているでしょうに。

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