対象関係論

2010/10/21

少年は本当に神話になりつつあるのか? -ヱヴァンゲリヲン 新劇場版 破-

 私にとって、「エヴァンゲリオン」(以下、新字体で統一します、お許しを)とは、もはや手を触れてはならない、禁断の地になっていました。

 これは決して大袈裟ではない話です。「エヴェンゲリオン」との出会いとその後の成り行きで、「リアルワールドでの」私の人生に大きな転機が生じました。

 そして、それは筆舌に尽くし難い、今も私が背負い続ける、人生の悲劇の重荷と深く結びついています。

 ほんとうに、大袈裟ではなく、そうなのです。

 私の人生がマジに背負うしかない「十字架」として、この作品は、本当に「残酷な」までに横たわっています。

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

 新劇場版の「序」は公開時に映画館で観ましたが、いくら背景等をデジタル処理しなおしていても、新作シーンの少なさ(若干「補完計画」への伏線張りはしたものの)と、TVシリーズの物語上の編集の「重心度」や「カット割りのテンポ感」に、どうしても違和感が残りました。

 この水準なら、わざわざ「新劇場版」として公開するに値しないとすら。

 

*****

 さて、ずっと「のだめカンタービレ」系で記事を走らせてきましたが、「最終楽章」後編がいつまでもレンレッド・アウト(?)状態の中、ふと、「破」を観てしまうという「賭け」に出てしまおうか」・・・と思い立ちました。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.【通常版】 [DVD]

 これは、正直、驚きました。

 TVシリーズの「全面改訂版」「完全に動画新作」ですね。

 新キャラである、真希波・マリ・イラストリアスも存在感あるキャラクターですが、アスカやシンジ、レイ、それどころかゲンドウに到るまで(!)「性格設計」の基本を一からやり直した。

 庵野さんのこの十数年における作家としての成熟が、如何に目覚しいものであったかがビンビンと伝わります。

*****

【・・・・・以下、壮絶な「ネタバレモード」です!!】

 アスカの方がシンジをめぐってレイに焼きモチ焼きまくりなのは微笑ましいし(信じられない光景・・・)、料理修行に励み出し、ゲンドウを皆との食事に誘うレイなんて仰天の域。

 「食べ物を作ること」の意味というのが物語の重要なキーになっている。

 第3新東京市の日常風景描写も、もう、ここまでやるかという徹底度。どこまで作品世界の設定を緻密にすれば気が済むんでしょうね(^^)

*****

 更に言うと、TVシリーズで言う「参号機」(第9使徒)事件(18・19話)・・・・対象がトウジからアスカに置き換わるという衝撃的な展開が1つ目のクライマックスです。

 私は上記拙書「エヴァンゲリオンの深層心理」で、ここでのゲンドウの残酷な命令を「全面支持」するという、当時は非難轟々の作品解釈をしました。

 私の書いた本ですから、当然著作権者は私自身ですので、全面的に引用しちゃいましょうね。

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 ゲンドウは、シンジの[「人を殺すよりはいいよ!!」という]言葉を聴いた瞬間に、シンジへの命令を諦めて、ダミープラグに情け容赦なく切り替えているのである。

 このような事態において、シンジが取るべきだった、彼には見えていなかった正しい選択肢は何だったか。それは、迷うことなく先制攻撃を仕掛け、エヴァ参号機の動きを完全に封した上で、パイロットの乗るエントリープラグを救出する。エントリープラグの救出を取るか、シンジの初号機がやられないうちに参号機を破壊するかの二者択一に迫られた場合には、迅速な決断をして、涙を飲んで、エントリープラグもろとも参号機を破壊することを選択する。これしかなかった筈である。

 シンジが参号機を攻撃しなくても、そのままでは使徒に乗っ取られた参号機は更に破壊と殺戮を続け、どんな手段を取ってでも誰かが破壊せねばならなくなることは目に見えていたはずだ。しかも、シンジの乗る初号機を使う以外に参号機を行動不能に陥らせ得る手段はない。[参号機]パイロットへの精神汚染の進行を食い止めるという点から観ても、パイロットを長時間、使徒に乗っ取られた機体に乗せたまま放置するのは得策ではない。シンジ自身の初号機にも粘菌状の使徒がまさに侵入しはじめていた。

 ・・・・結局、シンジが参号機への攻撃を先延ばしにしてプラスになる要因はなかったのである。厳しい見解であることを承知で言えば、シンジは、自分が「他人を傷つける存在」になるのが許せなかっただけだ。自分のナルシシズムが傷つけられるのが嫌だっただけであり、本当には参号機パイロットのことは気にかけてはいなかったのである。[父親に褒めて欲しかったという]自分中心の行動原理でしかエヴァに乗ってはおらず、参号機パイロットを含めた人々の命を守るために戦うということが、本当にはわかっていなかったシンジの、これが限界だった(p.91-p.92」

 ・・・・今、自分で改めてこの箇所を打ちなおして自分でゾクゾクしてしまいました。

 私は、拙書刊行時の、今から13年前の段階で、この「参号機事件」をここまで「観切って」いたのだ!!・・・・という深い感慨です。

 どうです? 新劇場版、まさにこの点で観客を絶対誤解させない展開に、実際に描かれています。

(・・・まさか、庵野さんご自身に拙書をお読みいただいていたとすれば光栄の至りですが、少なくとも斎藤環先生は、直接お伺いしたところ、本書読ん下さってましたからね。・・・・)

 そして、この事件の直後のシンジの反応がTVシリーズと劇場版では公然と異なります。

 シンジは、父ゲンドウへの「反抗期」に、決然と突入するのです!!。

 そして、第2のクライマックス、第10使徒との戦いにおいて、ゲンドウに向かって、

  「僕はエヴァ初号機のパイロット、碇シンジです!!」

と宣言する時、TVシリーズと同じセリフなのに、説得力がまるで異なるカッコよさがあるんですね。

 そして、シンジは、「代わりがある」レイではなくて、「かけがえのない」レイを救うためにこそ全力を尽くす!!

 このしなやかに流れる物語展開の説得力・・・・これこそ、庵野さんの十数年が獲得したものなんだと思います。

****

 戦えるチルドレンが4名と設定されたことで、TVシリーズと異なり、3機のエヴァで使徒と戦うシーンが増えているのも注目点。

 二者関係ではなくて、三者関係になった時に、人間ははじめて社会的存在になる。エヴァ搭乗者相互の「チームプレー」がTVシリーズより遥かに前景に出ていることになる。これもいいい。

 物語全体が、「プレ・エディプス的(ボーダーライン的堂々巡り)」ではなくて、「エディプス・コンプレックス克服指向」で決然と進行している。

・・・not be advanced?

No,they are being advanced!

*****

 「人類補完計画」の実体も少しずつ見えてきた気がします。

 Nerv内部でも地域支局によって思惑が違う・・・つまり、ゼーレとの距離感と接点が異なる「派閥構造」がある・・・と受け取れる伏線展開も、今後に向けて興味深いですね。

 私の推定では、以下の3つの勢力の抗争状態が、この「新劇場版」の物語世界には隠れているという「仮説」を取り敢えず立てておきます。

  1.  「神」そのもの(?)・・・・地球に増殖した人類を始めとする生命体の発生そのものを、宇宙における「突然変異」とみなし、地球に次々と「使徒」を送り込み、地球を混沌とカオスの死の星に回帰させようと目論む主体。
  2.  「ゼーレ」・・・・「セカンド・インパクト」そのものがゼーレによって実は引き起こされたもの。その目的は、汚れきった地球を完全浄化して、「神」との「聖なる合一」=「死」を志向している
     =彼らが目指す「サード・インパクト」。
     カヲルはあくまでも「ゼーレの側が」今後送り込む???
  3.  Nerv(の、少なくとも日本支部最上層部)・・・・「セカンド・インパクト」前の地球を取り戻すことを一方で志向するが、その地球とは、必ずしも清浄なばかりではない、食物連鎖もあれば、人の生き死にもある、生々しい環境の中での、清濁併せ呑む、生活臭のある「生(せい)」である。
     そして、その実現のためには、「セカンド・インパクト」後に生まれた「チルドレン」世代の"evolution"=更なる「覚醒」が大きな足がかりになるとみなしている。
     それが、彼らが目指す、ゼーレとは別の「サード・インパクト」であり、ゲンドウたち「旧世代の」人間の上層部のほんとうにコアな人間は、そのために自分たちが「捨て石」になる覚悟のもとですでに生きている。

・・・・・さて、どこまで当たるかな?

*****

 大事なのは、「セカンド・インパクト」で生まれながらに遺伝子に先天的な変化が生じている層=チルドレンしか「エヴァ」搭乗候補生はいないという伏線があるはずということです。

 だから、例えば「セカント・インパクト」直接被爆者であるミサトは絶対エヴァには乗れない。ミサトにすでに子が出来ててその子が13歳(・・・・あり得ないですが)なら、その子については話は別・・・というふうに了解できるかと思います。

 ただし、レイが、シンジの母、ユイが実験中エヴァ機体に事故で融合された後救出された「遺伝子」から生み出されたクローンであるという隠れ設定は、TVシリーズの頃のままと私はやはり感じています。この点で、他の「チルドレン」とは別格であり、彼女が”Q"に入っても特別なキー・パーソンであることは揺らがないでしょう。恐らく、ゲンドウと運命を共にして宇宙の藻屑になっちゃうか、地球の大自然と一体化するというあたりではないかと。

*****

・・・・・・なーんてことを、実質13年エヴァから離れていた私、一瞬にして「寄り道」して「補完」しておくのでした(^^;)

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2010/10/20

「のだめカンタービレ」アニメ版(日本編)、丸一日で制覇!!(第3版)

 ・・・え? 前回の記事最後で書いたことと、スケジュールがまるで違うって?(^^;)

 仕方がありません。

 「最終楽章」後編のDVDレンタル開始は10/7でしたから、お店には「貸出中」の空しいケースが、ずらり並び続けていました(T T;)

 ところが、アニメ版日本編は、全8巻=全23話、置いてあるじゃないですか!!

のだめカンタービレ VOL.1 (初回限定生産) [DVD]

 こうなったら、私の、遅れてきた「のだめ」ワールド完全制覇に向けての大航海の寄港地の順序を一気に変更しよう!、という即決でした。

*****

 アニメのTVシリーズを全部の回を観るのは「天空のエスカフローネ」本放送(1996)以来何と14年ぶり(!)、ましてやDVDという形で一気に観るなんて、生まれてはじめて、しかも丸一日でぶっ通しで鑑賞完了!!・・・という、のだめの発揮する、あのピアノ練習の集中力並みの力技でした(^^)

 でも、すでに実写版は「最終楽章」後編を残して全部観て、全部ぶっ飛ぶべき傑作と感じたあとで、もうどっぷり首まで「のだめ中毒」にはまってますから、何とも気軽に、私にとっての休日の昨日(10/19)、飯と風呂だけは、のだめや千秋と異なり、きちんと中休みして遂行しながらですが(爆)、何ともさらーーーーっと、23話見通してしまいました。

*****

 裏を返すと、実写版とは少しテイストが異なる魅力があると十分に感じ、ひたすら引きこまれて行った。

 国産初のTVシリーズアニメ、「鉄腕アトム」本放送をライブで観て、高校で「ヤマト」ブーム世代=恐怖の「1960年生まれ組」アニメファンという、一番年季が入った層(しかも、かつて「アニメージュ」「OUT]の投稿常連だった超ディープ層)で、大人になって、エヴァ本、「エヴァンゲリオンの深層心理―自己という迷宮」まで出した私が、あっさり満足したということです(^^)

 もちろん、TVシリーズの予算の範囲内で作られた制約というのは勘定に入れてます。でも、それは、演奏シーンの動画がもっと流麗に「全部」動いて欲しい、という、超贅沢な不満点だけなんですね。

***** 

 演奏音源に関して、基本的には実写版の使い回し+αで確保できたという、リサイクルのメリットもあったでしょう。しかし、実写版TVシリーズの放映終了から僅か三週間も立たないうちにアニメ版第1話が本放送され始めていたと知って呆然。

 このスケジュールだと、アニメスタッフは、実際には実写ドラマを実際に見て参考にしていないことになる(茂木さんの「内幕本」で、ドラマ編の編集作業は、実際には、放送前日も、徹夜で進行していたと明言されていますので)。

 ・・・・ということは、私がこの段階で立てた仮説通り、原作そのものが実に完成度が高かった、そして、可能な限り原作のテイストをそのまま映像化するという高度な要求水準を満たしたという「だけ」のこと(でも、それは誰も予想し得ない水準の「そそり立つ壁」へのチャレンジだった)・・・というに尽きるでしょう。

 もとより、実写版の、あそこまで切れのある、当時画期的に斬新だった筈の演出のもとで、「生身の人間」(一瞬だけ人形^^;)である上野樹里さんや玉木宏の演技の才能溢れる役者魂、更に言えば、他の多くの俳優さんたちを含めて、本物の演奏家に混じって全く違和感のない「演奏シーン」を完璧に演じ「ドラマのフジテレビ」だからこそ可能な、トレンディでインパクトあるテイストで味付けられていた「凄み」のようなものは、アニメ案は比較しようもない。

 しかし、ドラマ版より結果的に長尺にでき、さらりと映像で描ける分、実写版では省略されたエピソードや登場人物まで描いてくれている(結果的に原作の演奏曲目のより忠実な再現に近づいている、実写版にはない長所もあることになります。

*****

 具体的に」原作へ忠実度がドラマ編を上回った例を幾つか上げれば:

  •  ちゃんと、ベートーヴェンの「英雄」交響曲が、Sオケの初演奏曲として出てきます。
  • シューマンおたくの私からすれば、モーツァルトのオーボエ協奏曲の前にちゃんと、我が溺愛の「マンフレッド」序曲を「演奏」してくれているだけで目の幅涙(T T)でありまする。

 「マンフレッド」序曲って、かなり通のクラシックファンでも聴いたことないままの人、少なくないかと思いますが、往年の、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルによる、おどろおどろしいインパクトに満ちた、伝説の巨匠的「超演」ライヴ録音(1949年、ただしモノラル録音)があります。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/ベルリン・フィル/シューマン:交響曲第4番,マンフレッド序曲

 ちなみに、神格化されている名指揮者、ヴィルトヴェングラーの私生活の実態こそ、まさにミルヒー(シュトレーゼマン)そのもの。つまり、無類の女好きだったそうで、意外にも、フルトヴェングラーこそが、シュトレーゼマンのモデルとみて、ほぼ間違いがない筈です(^^;)

 アニメ版で「演奏」されていたのは、この序曲の冒頭から2分ぐらいだけでしたけど、冒頭の、シューマンが敢えて「切分音(小節をまたいで、シンコペーションで半拍れで延々音をつなぐ、一種の「後打ち」メロディ。シューマンの作曲において独壇場の、特異な緊張感を生み出す「得意技」である)」で開始した序奏部の意図をきちんと掴んだ、よい解釈の「演奏」ですね(^^)

 (・・・なお。この「切分音」の扱いの不徹底さという点では、上述のフルトヴェングラー盤の作品解釈は、「楽譜との対話不足の(・・・・おいおい、どこかで聴いたような物言い平気で私はしてるな・・・)」、古えの巨匠だから許される、気ままなまでに特異な「のだめ」的奔放性を持つ(?)即興型のスリリングな演奏スタイルです。少なくとも千秋の作品解釈のあり方からは遠いので念のため・・・・)

  •  そして、大マジ、私が演奏曲で所有しておらず、聴いたことなかったのは、「あの」、エルガーのバイオリンソナタだけです。

 つまり、千秋の母方の叔父さんと全く同じで、「威風堂々」と交響曲、チェロ協奏曲と「朝の挨拶」、「エニグマ(謎)変奏曲」「序奏とアレグロ」までしかリスナーとしてのレパートリーはなかった。

 ・・・待てよ、千秋の伯父さんは、序曲「コケイン」および序曲「南国にて」とバイオリン協奏曲の聴取歴がない(私はCD持ってる)分だけ、私の方が伯父さんより勝ち!!・・・・クラシックCD1000枚だけは、いくら引越ししても「財産」として所持し続けて来た私ですから。

 でも、確かに、作曲年代からすれば古風といえば古風ですが、実にエルガーらしい、美しい曲だと思います(^^) いい曲知ること、できました!

  •  のだめちゃん、コンクール本選で、シューマンのソナタ2番とベトルーシュカの前に、ちゃんとモーツァルトのピアノソナタ第8番イ短調を弾いていた実際の演奏(?)も聴けて、よかったです。いい演奏ですね(^^)

*****

 そうそう、OPの絵コンテ幾原邦彦さんがお描きになったものなのですね。

 懐かしいです。

 皆様、驚かれるかも知れませんが、私は、幾原さんが監督した、「劇場版セーラームーンR」(1993年。「エヴァンゲリオン」の先駆と断言していいい「超傑作」ですね!)について論文を書き、学会発表までしてます(つまり、学会発表で公然と映像を映写しました。「学術的な発表」なので、これは「著作権に抵触」しません)。

 それどころか、その時書いた論文を「東映動画気付」で幾原さんにお送りし、幾原さん直々のお返事を手紙で頂くという光栄を得ました(^^)。

 何か、「のだめ」関連記事では、私は完全に「千秋様」化し、「俺様」キャラになってますね・・・・お許しを。

*****

 但し、このアニメ版、オーディオ的観点から言わせていただくと、DVDで視聴した限り・・・ですが、アニメ版、明らかにドラマ版と同じ音源です。

 (ご存じないのだめファンのみなさまもあるかも知れませんが、演奏シーンに関しては、既発売CDなどの「既成音源の流用」はされていません。すべてこのドラマ化とアニメ化のために新たに収録されたものです)

 それにもかかわらず、このアニメ版、実写ドラマ版の地上波デジタルの音声より、音の生々しさがかなり落ちます

 これは、DVDの方が地上波デジタルより実は音質が劣る特性を規格上もともと持つが故なのか?

 それとも、アニメ版のイコライジングが実際に「かまぼこ状」になっているのか?

  1.  更に可能性を言えば、「敢えて生々しさをアニメ版では消す」ための意図的な「音響演出」としてのイコライジングなのか?
  2.  それとも、アニメの音響スタジオ機器そものが実写ドラマの音響スタジオ機器のクオリティを持たないのか?
  3.  最後には、音響スタッフの「耳の感度」のセンスの良さの違い?

・・・・まで疑えます。

 少なくとも私は先日「パリ・スペシャル」のDVDの音を「聴いて」いる。それは非常に上質な部類と思いました。

 つまり、Dolby5ch収録でない「テレビドラマ」としては、クラシックの実際のコンサートライブのBSハイビジョンでの放送と、音質面で全く引けを取らないと感じました。

 たとえ再放送でも、最初からハイビジョン規格でデジタル収録されたソースの画質や音質劣化は、原理的にあり得ないと想定できますので、いよいよ「アニメ版の方がイコライジングが平板になっている」と推定でき、確実な失点かと思います。

 つまり、実写ドラマのほうが、アニメ版より、のだめやオケの演奏の仕上がり具合の違いが、アニメより生々しく「聴き分け」られるわけで、アニメ版はその点で、「理屈抜きの、実感を通した説得力」という点で損をしている可能性を指摘したいのです。

【追記10/10/20】:

 敢えてドラマ編DVDを試しに一巻だけ借りてきて視聴しました。同じ録音ソースの筈なのに、音の豊穣さと間接音成分の広がりが、アニメ版とは全く異次元です。

 これで、DVDソースで同じDVDプレーヤで聴き比べた以上、アニメ版のイコライジングの「かまぼこ型」的平板さは残念ながら明らかですね。

****

・・・などと、「そこまで言うか?」の薀蓄(うんちく)を書かせていただいたあたりで、私の「のだめワールド」航海日誌、第7回の筆を置きたい思います。

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(初回生産限定盤)(DVD付)

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2010/02/20

「労(ねぎら)い」と「労(いたわ)り」・・・日常の中で、小さな健闘を讃えるということ

 国母選手の例を持ち出すまでもなく、今の日本人というのは余裕を失い過ぎて、他の人の「問題行動」を批判することには過敏だが、その人を「認める」とはどういうことかという点での具体的なスキルを見失いつつあるのではないかと感じる。

 こういう点では、高度成長期にまで社会の中核にいた人間の方が、全く自然のこととして身につけていた人が多かったのではないか?

 成果主義と「自己責任」とやらの嵐の中で荒んだ側面のようにも思う。

 その人なりの「奮闘努力」へのささやかな「労い」にあたる言葉を、自分の方から、相手に、あと半歩だけ、進んでかける。

 形式的な「お疲れ様」「ご苦労様です」に留めず、その相手の人の具体的な状況への心配りを込めて(私は「気配り」という言葉は個人的には好まない。何となく、「相手に嫌われないために」というニュアンスを感じるというか、日本語として「軽く」「形骸化」したと思うので)、さりげなく、「生きた」言葉を、手短でいいから、臨機応変に差し出す。ただそれだけのことである。

 こうした心配りさえ受ければ、十分に日々の日常の辛さや単調さをある程度報われたと感じる若い世代は少なくないのではないかと思う。それなりに自分を律して、単なる「近頃の若いものは・・・」ではなくなり、年長世代に敬意すら払うようになるだろう。まずは年長世代が、ある「品格」を若い世代に示せねばなるまい。

 実は、こうした「その」相手を労る具体的な言葉かけのこまめさは、単に「反対給付」を得るため、つまり、自分の方も労っていらいがたいためだけにすることではない。最近、繰り返して書くけれども、「反対給付」を下手に当てにし過ぎると傷つく思いや徒労感が待ち受けているだけかもしれない。 自分がした分だけ相手もして返してくれることを期待するのは、それ自体は全く自然な感情であるとはいえ、度が過ぎればそれもまた相手への「甘え」であると受けとられても仕方がなかろう。

 むしろ、私は次のように言いたい:

 人に労りの言葉を具体的にかけてみるのを習慣化することは、実は「自分自身に」労りを向けるための練習だと思うといいのではないか。

 たとえ仮に他者からどれだけ傷つく仕打ちを受けたとしても、人はそうした自分を傷つけた相手に自分を同一化させ、その相手の態度を自分の中に摂り入れた時点で、人は、誰でも、誰よりも自分に残酷な「もう一人の自分」を内側に飼うことになる。

 現実の他者の誰よりも、まずは自分を責め、自分の細やかな心の動きを「自分で」ないがしろにしはじめる。

 そうした挙句に、不用意に人に怒りをぶつけたり、投げやりな発散の仕方に逃避することにもなるという順序で捉えてみたらどうだろう?

*****

 もとより、私は「理想が高すぎる」という言葉は、有害無益としか感じていない(このことについては、いずれ、ロジャーズが「理想自己」と「現実自己」の関係をどう捉えていたかに基づいて解説してみたいと思っているが)。

 自分自身に対する内なる過酷な審判者もまた、自分自身の一部であり、「労って」あげられるに越したことはない存在である! 

 自分自身の「ある部分」に憎しみと怒りばかりを感じていたら、「その部分」もまた、自分にいよいよ過酷な応酬をしてくる存在となるであろう。その存在と、自分の内なる「ご意見番」ぐらいの存在とになるくらいに友好関係を結べるに越したことはない。

 フォーカシングの名教師、アンさんのいう"inner retationship(内的関係性)"とはそのようなことである。

*****

 こうした「自分自身への労り」を持てるようになること、そのためにまずは人を労れるようになることを、私は、ひとりぼっちの個人の「自己責任」として押し付けるつもりはない。

 まずは、他ならぬ私自身が、そうした(自分や自分が関わる他者への)労りを見失わない存在として、可能な範囲内で自覚的に生きようとすることからはじめるしかないことは、十分に承知しているつもりである。

アン・ワイザ-・コーネル/すべてあるがままに(Radical Acceptance of Everything)―フォーカシング・ライフを生きる

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2010/02/14

相手の気持ちを「察した」言葉ばかり返していると、相手はこちらの気持ちを「察し返し」てはくれなくなる。

 この点についても得てして誤解があるように思う(実質、前の記事の続きである)。

 自分が相手に気を使ったり、相手の身になって、相手の気持ちにしっくり来る言葉を見つけてあげようとばかりしていても、それ相応のことを、相手の側は「反対給付」としてしてくれるわけではなく、「湯水のように浪費する」のみなのである(バリント的に言えば、オクノフィリア的退行ばかりを相手から引き出す)。

 つまり、相手への「気遣い」は、相手からの「気遣い」を「引き出し」はしない。

 相手の側に、人を気遣う能力がすでに開発されていた場合にのみ、「ちょっとしたキュー出し」で「気遣い」は帰ってくる
のだと見定めた方がいい。

******

 では、どうすれば、相手はこちらへの依存性を無自覚に増幅させることなく、自律的になり、こちらのことを「気遣って」くれるようになるのか?

 非常に逆説的に響くかもしれないか、まずは私が、相手の前で、私のことを「気遣った」ものの言い方をし続けていることである。

 つまり、私の方が、自分の実感の中からしっくりと来る、「生きた」言葉を紡ぎ出し続けていることである。

 これは、単に自分が頭で「考えた」ことを何でも口にすることとは似て非なるものだ。単に感情的になることでもない。相手の前で自分の語る一言一言が、いわばフォーカシングの中で紡ぎだされる新鮮な言葉そのものになることである。

*****

 以前もお書きした、「自分の(あるいは相手の)フェルトセンスは場の空気の影響のもとにしか成立しない」という法則が、今回は逆適用できる。

 つまり、そうやって紡ぎだされた私の言葉は、相手のフェルトセンスの状態への「暗々裏の配慮」すら内包された形でしか生起して来ないので、相手を「傷つける」危険は予めかなりの程度予防された言葉しか「浮かんでこない」ことが期待できるのである。

 そして、相手は、そういう、自分の実感から物事を語ろうとする私の自分自身への態度そのものを「モデルとして取り入れる」。

 ロジャーズふうに言えば、「無条件的なpositiveな自己への関心」を向けるカウンセラーがまずは先に「関係の場の中に」存在する必要がある。

 それなしに、カウンセラーの、クライエントへの「無条件的なpositiveな関心」そのものが存立し得ない。

 なぜ私が、一人でフォーカシングできる人間だけが、適切なトレーナー(リスナ・ガイド)となれると繰り返してきたかの核心はここにある。

*****

 いずれにしても、カウンセラーの「中立性」の原則(ロジャーズは、これにあたることを実は一言も述べていない。むしろ精神分析由来の言葉ではないか?)というのは、クライエントをリアルワールドを生きる一人の人間として、少しずつ自由に面接の場の中でも振舞わせることには全く貢献しないことになる。

 カウンセラーが自分を殺して受容・傾聴の姿勢をとるだけにとどまればとどまるほど、クライエントさんもまた、自分を殺して、カウンセラーに対する受容と共感的傾聴の姿勢を取る(!)かもしれない。

 そういう、クライエントさんからの感情移入的理解によってカウンセラーとして支えられていることに無自覚すぎるカウンセラーが少なくない気がする。

 (いや、どんなカウンセラーだって、クライエントさんからのそういういう支えと協力があってこそ、カウンセラーとしての力を発揮できているのかもしれないことへの、クライエントさんへの感謝の念を日頃から抱くべきである。お客様(=クライアント)は神様です!!

 あるいは、カウンセラーの受容や共感が本物だとしても、ただそういうカウンセラーへの退行的依存を深めるばかりとなり、クライエントさんは面接場面の中では満たされてもリアルワールドでの変化は何も生じないままとなるかもしれない。

 そのうちに、カウンセラー(聴き手)の方が何かわかのわからぬ消耗に襲われるようになり、思わず表面的な受容と共感でふるまってしまう瞬間が来る。たいていその時をきっかけに、クライエントさんとの「擬似信頼関係」は大きな危機に陥るのである。

 私は、「分析の隠れ身」と「自由連想」とやらで転移や投影をわざわざ促進して「徹底操作」した場合にはじめて深い人格変化が生じるという発想は信じられない。それは安易に心の「生体解剖(vivisection)」をやりたがることへの誘惑に過ぎないと思う。

 「やむを得ずして生じてきた」転移や投影に治療者がどう気づき、どう扱うかは大事であるが、それは単なる解釈や直面化の問題ではなく、治療者内部に生じてきた逆転移(容易に言葉にならない、巻き込まれ感)を治療者自身が自分の内部でどう消化できるかがその大前提である。

 現在の精神分析の好ましい潮流が指し示しているのは、そうした方向性であると私なりに理解している。

*****

 このように説明して来ると、こういうネットの場でも感じたことを実感にぴったりな言葉にしていくスタンスをとり続ける、私のようなカウンセラーが、実際にはクライエントさんの主体的自立に幸いにしてお役に立てていることが少なくないらしいのか、多少なりともお伝えできたことになるとも思います。

※関連記事はこちら

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2010/01/21

NHK クローズアップ現代、「 “助けて”と言えない ~共鳴する30代~」

 正確にはこの番組はホームレス問題についての「続編」である。

 前回登場した入江さん(仮名 32歳)の姿が見られなくなった。どうしていたかというと、結局生活保護受給申請にに踏み切り、月に79.940円を受け取るようになって、やっと路上生活ではなく、ネットカフェで寝泊まりできるようにはなっていたのである。

 それ以前は、2日に一個、100円のおにぎりに切り詰めつつも、食費を切り詰めた分、洗濯をはじめとした身奇麗さには気を配っていた、二枚目といっていい方で、確かに当時のたたずまいでも誰もホームレスとは思わないだろう。

 現在も求職活動は続けているが、「住所がない」ことのために容易に働き口が見つからない。

 この、彼が前回の番組で発した、「(結局は)自分が悪いんです」という言葉がネット界では大反響を呼んだ。共感のメッセージが満ち溢れたのである。

 現在30代になった人たちは、就職戦線が大変厳しい中、「自己責任」と「成果主義」を刷り込まれて社会に巣立った人たちである。

 「助けて」と言えないのだ。心を開けないのだ。言ったらおしまいだと思っている。

 経済情勢の中でそうやすやすとは業績が上がらなくても、全部「自分のせい」と思い込む。中には、親に介護が必要になったのに、介護休暇の申請ができないまま無理をするうちに退職したり、うつ病になった人の例も紹介されていた。

*****

 

しかし、ホームレスの人の大半は、別に天涯孤独な身の上ではない。実家があり、親もいるのだ。

 ゲストの、作家、平野啓一郎氏は語る:

「別に親子関係が希薄になったとばかりはいえないのではないか。むしろ、幼児期から築きあげた親の前でのイメージを崩したくないのだ」

 だから、再び社会人として稼げるようにならないと、実家には本当のことは話せない・・・・

 北九州でホームレスの人たちのためのNPOを運営している奥田知生(ともや)さんは語る:

「自己責任は大事だが、それはあくまでも社会が個人への責任を果たしてから、はじめて強調すべきことのはず。今の時代、「絶望」や「希望」が、自己完結した世界の中で語られ過ぎている。希望とは社会的なものであり、人との関係の中で初めて抱けるものであることに気づいて欲しい」

 私も、多くのクライエントさんとの関わりの中で痛感するのは、

自信がない
→自信がない自分が悪い
→自分で自信をつけねばならない
→自分で自分に自信をつけられない自分が悪い
→・・・・

・・・・という果てしない悪循環の上で、やっとカウンセリングを受ける気になった人のあまりの多さである。

 中には、「どうしてそこまで自分に自信がないんだ?自信を持てよ」などと親しい人や恋人から繰り返し言われて、更に自己嫌悪して、「私は相手のお荷物になっているのに、情けをかけられているだけの存在ではないか?」と思い詰めて行き、ひとつ間違うと、それまでの人との絆ですら切れるに任せかねない人すらいる。

 確かに、他人が自分に自信をつけてくれるとか、地位や身分や何かの成功が自分に自信をつけさせてくれると単純に言っていいかというと、決してそういうものではない。

 自分のいだいている自己イメージと、具体的な他者がいだいている自分へのイメージが、かなり深い次元でまで一致している、しかもそこに継続的な連関性があるという確信が得られた時に、人はある安定を獲得する。エリクソンがアイデンティティということを言い出した際の、本来の意味はそういうことである。

 しかし、それは、孤立した人間どおしの「思い込み」の次元での表層的なものにとどまっていては、その人を結局のところ追い詰めるだけなのだ。

 我々は真空の宇宙を漂う孤立した惑星のような自我を築くにとどまるべきではない。バリントふうに言えば、地水火風といった「形のない、自分を包み込んでくれるもの」を介して、互いに「息=ギリシャ語でいう「プネウマ」=たましい」の交流をして、相互に浸透しあっている時、はじめて「やさしさにつつまれた」社会に生きていると感じるのである。

 平野氏はこうも付け加えた:

 「法律で制定された国からの給付となると、税金をいやいや取り立てられた人のお金を分けてもらっているという後ろめたさを感じるのだと思う。むしろNPO団体への寄付などを通して、『お互い同士で融通しあう』感覚になれば多少は気が軽くなるのではないか。寄付の形であれば所得税控除にもなるし」

*****

 なお、NPOに寄付して大丈夫かという思われる方もあるかもしれないが、NPOに対する会計監査は大変に厳しく、問題があれば実に厳格に解散命令が出る。収益は上げていい。しかし、NPOをやめる時にはNPOの収益や備品はすべて寄付することでしか処分できない。

 私の居住する地域近郊でも、最近4つものNPOがそうやって解散処分を受けているくらいである(地域のNPO研修会で学んだことである)

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2009/11/27

通算2000番目の記事 : バリント著「治療論からみた退行(Basic Fault)」

 ハンガリーに生まれ、フィレンツィに師事し、その後ドイツに渡り、更にイギリスに移住した、精神分析的対象関係論の大家、マイクル・バリント(ハンガリー読みにすると、姓と名が日本と同じで逆転するので「バーリント・ミハイー」)は、日本ではもっぱら故・土井健郎先生の「甘え」理論を国際的に紹介し、「甘え」理論との類似性で「一次的対象愛」という概念が精神分析系の専門家の間で人口に膾炙しているに留まる。

 しかし、バリントの真の集大成、主著というべき著作は、中井久夫先生の、もはや「原著を越えた超訳」とまで呼ばれる邦訳で、知る人ぞ知る、「治療論からみた退行」(原題:"Basic Fault")である。

マイクル・バリント/治療論からみた退行

 今、「超訳」と申し上げて置きながら、いきなりこのことに言及するのは気が引けるが、中井先生と縁が深い山中康裕先生が、たしか雑誌「こころの科学」で本書を紹介するにあたって、中井先生が、"Basic Fault"を「基底欠損」と訳し、その訳語が日本で普及してしまったことに対してだけは、敢えて唯一注文をつけておられる。

 山中先生曰く、「"fault"というのは地学でいう『断層』のことであり、何かが『欠けて』いるというのとは随分ニュアンスが異なるのではないか」。

・・・・ ごもっともな指摘である。

 「基底欠損(Basic Fault)」という概念を一言で説明するのはたいへん難しい。日本ではそれをまるでボーダーライン的心性と同一視するかのような理解がされがちだったように思う。

 確かに、バリントは本書の中で、「基底欠損」を、プレ・エディプス期の問題として位置づけてはいる。しかし、その切り込み方が、メラニー・クラインとも、マーラーの分離個体化理論を援用したマスターソン(「青年期境界例の治療」)とも異なる、独自の視点を持っている。

 私のみたところ、「基底欠損」の理論は、単なるボーダーライン性よりも幅広い現象を内包しているように思える。控えめにみても共通部分を持った、すっかりとは重なり合わないベン図のような構造になるのではなかろうか?

 バリントは、ウィニコットと共に、アンナ・フロイトの創始した「自我心理学」とも、「クライン正統派」とも一定の距離を維持する「独立学派」のひとりと呼ばれる。

 確かにウィニコットとの接点はたいへん大きい(それどころかビオンとの接点ですらバリントは本書で明言している!)。そして本書の「仮想敵」は、後述するように明確にメラニー・クラインであり、クラインへの批判に紙数を割きすぎたのが、少なくとも日本人の読者にはまどろっこしいのではないかと、訳者の中井先生ご自身が解説で感想を漏らしておられる。

 だが、ウィニコットの諸著作が日本でも熱心に読まれるのに比べると、バリントが本書で展開した独自の理論と治療的示唆に関心を持つ人は少数派であろう。

 そうなった最大の原因は、バリントがすでに先行する著作、「スリルと退行」の中で確立していた独自の新造語、オクノフィリアフィロバティズムという概念が、本書においても、更に発展された形で鍵概念とされていることが一見難解だと感じさせられることが大きいかと思う。

マイクル・バリント/スリルと退行

*****

 この2つの鍵概念についての概説に入る前に、バリントがなぜクライン理論にあそこまで反発したかという、本書の前半で展開される内容について私なりに概説したい。

 クラインやウィニコット、バリントは、神経症より重篤な事例に関連して、フロイト以降に展開され、プレ・エディプス期の早期対象関係を重視した、広い意味での「精神分析的対象関係論」に属することには変わりがない。

 広義の「対象関係論」とは、噛み砕いていえば、現実の「外的」他者の態度の摂り入れ(introjection)としてのみ人の自我形成過程をとらえるのではなく、個人内部での、一種の内的ファンタジーとしての「内的な」他者=「内的対象」との関係形成過程を重視する立場である。

 こうした観点は、実はフロイト自身もある程度予見し、示唆していたことでもある。そして何よりユングが「内なる他者」としてのアニマ・アニムス・影などとの交流過程を重視した先達なのだが、どうも対象関係論の人たちは、ユングを先達とみなすことは回避する傾向があるようだ。

 しかし、クライン正統派の場合、現実世界に存在する「外的対象」としての養育者の持つ意味が明確化されない「独我論」ではないかという批判は早くから生じた。

 そこで、ウィニコットは「内なる養育者」との関係と、「外的な他者」との関係を統合的に説明しようといいう方向性を強く打ち出し「錯覚(illusion)」「脱錯覚(disillusion)」という概念を巧妙に媒介とし、幼児の外界との一体化という「錯覚」に巧妙に応える時期から、次第にそれを遅延化させ、「脱錯覚」へと導き、信頼できる他者との成熟した関係性を確立する上での"good enough mothering"=「そこそこいい養育者」、あるいは「環境としての養育者」についての理論、あるいは養育者自身の代理、他者との継続的な関係性の媒介物ともいえる「移行対象」の理論、あるいは、親密な他者と共にいながら、それぞれが自分の世界に没頭できる能力形成が果たす役割を表現するための逆説的概念、「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」、そして、ここでは概説しないが、「遊ぶこと(playing)」が治療関係で持つ意味などを次々に考察した。

 ウィニコットのこれらの最重要理論のほとんどは、

情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書 第 2期第2巻)

遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

・・・・この2冊だけで掌握可能である。

 バリントは、ウィニコットとは別の切り口から、プレ・エディプス段階における「内的対象関係」と「外的な他者との関係性」が果たす役割について統合的に考察しようとしたのである。

 このようにして、正統クライン派とも一線を画することをはっきり表明した分析家の一群を、フロイト以降の精神分析の領域で、狭義の「対象関係学派」あるいは「独立学派」と呼ぶ。

*****

 さて、前置きが非常に長くなったが、いよいよバリントの中核概念である「フィロバティズム」と「オクノフィリア」について概説しよう。

 バリントがクラインを批判する最大の立脚点は、「対象(object)」という概念それ自体にある。クライン理論は、対象関係=他者との関係を、まるで真空の中に浮かんでいる完全に自主独立した二つの固形的「物体」との間の相互作用のようにとらえているのではないか? 「対象(object)という概念それ自体の中に"objection"=「反発性がある」、輪郭が鮮明な「固体」的なものという含意があることにバリントは注目する。

 我々は、成熟してから後ですらも、ある意味で「前-対象(pre-object)」的な係わり合いの中にしか生きていないのではないか。ここでいう「前-対象」とは、バリントにおいては、もはや人間以外のすべての諸事象との関わり全般にまで拡張される。

 つまり、世界の諸事象と「調和的=相互浸透的渾然体」として融合されたあり方でしか存在していないという側面を背景として、現実の他者との関わりも考えるべきであるというのがバリントの視点である。

 そもそも「空気」がなければ人間は窒息することなど、普段は忘れているではないか?

 「魚とって、エラの中に存在する水が果たして『環界』なのか、魚の『内部環境』なのかを問うことに何の意味があるのだ?」と。

 これは「独立した自我を持つ主体」同士の交流を成熟した対人関係様式としてとらえる、欧米的な個人主義的な自我観を自明の前提としている人たちにとっては、何とも難解でぶっ飛んだ論の進め方に感じられたであろう。欧米で、正確に理解できた精神分析流域の専門家は稀れではなかったと推測できる。

 しかし、バリントには、東洋的な色合いも強く残した故国ハンガリーの血への基本的な共感が失われてはいなかったのだろう。

 人も万物もすべて同じ地平で眺めるという、非キリスト教的(いや、ユダヤ教やイスラム教にもそうした視点はない)=異教的な感性が脈々と受け継がれていたのであろう。

 ところが、数学・物理学・経済学の分野で名高いフォン・ノイマンをはじめとする数々のノーベル賞級科学者、科学哲学者ポランニから、指揮者(ライナー、セル、ショルティ、ドラティ)・作曲家(バルトーク)・音楽家(ブダペスト弦楽四重奏団)まで、非常に優秀な人材を一気に輩出した、第1次世界大戦後の長期にわたる度重なるハンガリー動乱の連続(1918-1956)の下での亡命ハンガリー人の知的階級の多くは、異国のでサバイバルのために、非常にタイトで厳格な方向のにのみ自分の技能を研ぎ澄ますところがあった気がする。クラインもその一人であろう。

 バリントがその道を歩まなかったのは、師、フィレンツィが、フロイトの時間厳守、中立性の原則を打ち破り、ついには心労で命を縮めた治療法の潜在的可能性を引き継いで完成させることを生涯の使命としたことが大きいようである。

*****

 さて、プレ・エディプス期において問題があった人="Basic Fault"を潜在的に抱えた人は、治療的面接場面が進むと、独特の退行様式を取り始める。

 それが「オクノフィリア」と呼ばれる現象である。

 オクノフォリアは、対象との全き融合の幻想が維持されることを求める。しかもその際に、対象と自分の間に「空隙」があることを「恐怖」する(「オクノフィリア」というギリシャ語をバリントが創出した背景)。

 その結果、対象が、自分の欲求を絶えず気遣い、先回り的に配慮してくれて「あたかも鍵穴に鍵をぴったり合わせてくれるように」対応してくれないと我慢がならないという状態になり、治療者を徹底的に翻弄する。そこにはすでに「通常の成人言語水準でのやりとり」は無力化する。

 治療場面のみならず、家族など親密な関係を持つ人物相手に、こうしたオクノフィリア的心性を顕わにする人たちは決して稀れではない。子供が少しでも「気が利かない」と逆上し、子供をいつまでたっても自分を補完する存在としてしか取り扱わない親など典型であろう。こうした親は、実は子供の方に際限なく「甘えて」いる現実に無自覚なままなのである。

*****

 ところが、この世には、「世界との完全な調和的一体感」を指向する点ではオクノフィリアと同じだが、全く正反対のアプローチを身につけた一群の人たちがいる。

 その人たちは、自らの持てる身体的技能(skill)を極限まで磨き上げ、古代ギリシャ以来「四大元素」と呼ばれたもの、すなわち「地(土)・水・火・風(空気)」をすべて自分の味方につけたかのような錯覚と万能感の中に生きている。

 これら4つの対象は、輪郭がはっきりせず、自由に形状を変容させ、対象を「包み込む」ことができるという点に特徴がある。

 典型的なのは、飛行機乗りやレーサーを一方の極とするスポーツ選手、演奏家、曲芸師などであろう。

 私流に言えば、「キャプテン翼」の「ボールは友だち」の世界である。「自分が」ボールを巧みに操っているのではない。「ボールの方が(そしてそれを包む空気やクラウンドの土の状態が)、まるで自分に『協力してくれている』かのような錯覚の世界にある。

 彼らにとっては、世界とは自分にとって「友好的な拡がり(frendly expanses)」として通常は機能してくれる。

 一般の人からすると危険でスリリングすぎる活動に身を投じることこそ、彼らの生の充実感、世界との一体感を支えている。中途半端なややこしい「社交的な」関係なんてほんとうはできるだけ回避したいくらいなのだ。

 (もっとも、フィロバティックな心性を持つ人の中にもオクノフィリア的心性は存在することをバリントは言い忘れてはいない。安心して深い絆を形成できる人物に「見守って」いてもらえていることが支えとなっていることが多いというのだ)

 一芸に秀でたスキルで世を渡っていくという点からすれば、非常に幅広い職種の人が含まれることだろう。アニメーターだって、ある意味ではカウンセラーだってその種の人間であろう。

 このような存在のあり方を「フィロバティズム」と呼ぶ。

 フィロバティズムを生きる人にも弱みはある。自分のスキルに故障が出た時。心身が燃え尽きた時。あるいは突然の気象の変化や機器の故障が生じた時、彼らは失調するばかりか「事故死」の危険と隣りあわせということにもなるのだ。

 自らが死や破滅と隣り合わせの生き方をしていることに、誰よりもフィロバティズムを生きる人たち自身が気がついている。それゆえに、安心してくつろげる、気の置けない対人関係も、限られた人たちとでいいいから大事にしようとするはずだと、私は思う。

*****

さて、バリントが、治療関係において必要なのはどういう関係であるかについて述べた部分を引用して終わりとしたい:

========引用はじめ========

 分析の場における沈黙の意味には二つあるだろうということには皆同意していただけると思う。ひとつは恐ろしい空虚という戦慄的な体験をしている場合である。空虚は疑惑に満ち、敵意に満ち、拒絶に満ち、攻撃性に満ちている。前進を阻む沈黙であり、結局不毛に終わる沈黙である。しかしまた、沈黙がおだやかな静かな調和体験の場合もある。平和と信頼と受容という雰囲気である。つまりおだやかな成長の時期、統合の時期でもありうるのだ。分析家にもっとも必要なのは、今向かいあっている沈黙がどちらの型なのかを識別することである。

 フィロバティズム的偏向をもつ技法においては、おそらく、解釈をわずかしか用いないだろう。特に退行した患者に対する時はそうなるだろう。分析者はたえず患者を見て、[次の]どちらの態度をとるべきか考えるだろう。すなわち、個別的な対象の役割をとり、退行した患者を安全な距離が見守り、この冷静で客観的な視座からことばで綴った解釈を与えて理解を求めるのがよいのか、あるいは自分も「友好的広がり」の一部と化して、何一つ要求せず、ただ息をしているだけの存在としてあり、患者に欲求が起こればさっそく役に立とうとする構えだけは持ちつづけるのがよいのかを考えるのである。(中略) 最大の危険は、この技法が患者にあまりに多くをゆだね、早すぎる時期に大きすぎる独立性を押しつけることであろう。 (中略)

 [もう]ひとつはオクノフォリックな方法であって「患者の手をとって」ゆく方法である。どうしてこの動きをしてあの動きをしなかったのかを一貫性を以て解釈してゆくことである。ここに内在する危機としては、患者が分析家を理想化してこれを寛大で慈愛こもった人物として取り入れるように誘導する恐れがある。こうなると患者の自由が制限されて、理想化された対象が処方し許容してくれる範囲から出られなくなってしまう。

 自由とは、私の考えでは「友好的広がり」の再発見のことである。それはフィロバティックな世界の中にあって、成人的なスキルを身に付けることを要求するものであるが、その背後には、何も要求せずに抱きかかえてくれる一次愛の世界が控えている。誤解されると困るので、「友好的広がり」の再発見があらゆる対象を完全にあきらめることを意味するものではないことを言っておかねばならない。

 そうではなくて、それはただ、[オクノフォリックな]絶望的なしがみつきをやめて対象から一定の距離を置いて独りで立つ能力すなわちスキルを身につけるだけのことであり、そしてそうすることは対象を「正しい釣り合いにおいて」眺め、「真のパースペクティヴ」の中で対象を獲得するために必要なのである。

 新規蒔き直し(new beginning)時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。分析者は存在していなければならない。分析者は高度に可塑的でなければならない。あまり抵抗してはならない。破壊不能性を示さねばならない。これは確かなことだ。また一種の相互滲透的調和渾然体の中で分析者と共に生きることを患者に許容しなければならない。(中略) おおよそ、友好的物質という、一点の曇りない調和体だけがあり、その中から対象が成立する以前の体験である。

 [退行の]良性形では、患者はさほど外的行動[を治療者に「してもらう」こと]による満足を求めず、それよりも外的世界を活用して自己の内面の問題に前途の途がひらけること、私の患者のことばを借りれば”自分自身に到達できるようになること”をそっと認めていてほしいと希う。(中略)

 認識されるための退行(中略)では、あたかも大地や水が己れの体重を安んじてあずける者を支え返してくれるように、患者を受容し支え荷うことを引き受ける周囲の人々のいることが前提である。物質としての治療者は抵抗してはならない。引き受けねばならない。あまり摩擦を起こしてはならない。患者をある期間受容し荷い、自分は潰れないことを示さねばならぬ。境界線を越えないぞとつれなく言い通してはならない。患者と自分との一種の渾然体の発生展開をゆるさねばならない。

 以上はすべて、患者に同意し、関与し、巻き込まれることを意味するが、必ずしも具体的働きかけをする意味ではない。ただ理解と寛容だけでよい。ほんとうに大事なのは患者の内面つまりその心の中でさまざまの出来事が生じうる条件を維持し創造することだ。[分析者は患者を積極的に荷おうとはせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。すなわち患者のために存在し、またそうされることにあまり抵抗を感じないで患者に使用されることである。

 我々は立居振舞(behavior)、空気(climate)、雰囲気(atmosphere)などのことばを使うが、これらは皆、漠然としたカスミのかかったような、画然たる境界を欠くものを指すことばで、(中略)にもかかわらず”雰囲気””空気”というものは存在し、感じ取られ、しばしばことばでの表現を要しない。(中略)

 ”洞察”とは的を得た解釈の結果生まれるものだが、洞察が生まれるにふさわしい対象関係が創出されたならば、その結果は一種の”感じ(feeling)”である。

”洞察(insight)”が視覚と対応するとすれば”感じ(feeling)”は触覚と対応する。すなわち一次関係かさもなくばオクノフィリアである。

 ある一種類の対象関係に硬直的に固執すべきではなく、いつでも患者とともにオクノフィリア的とフィロバティズム的の両原始世界を往復する心構えが必要であり、時には両世界の彼方の一次関係まで行く心構えがなければならない。(中略)

 解釈は、分析者が「患者は確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。こういう時に解釈を与えないことを不当な要求あるいは刺激と感じるだろうからである。(中略)

 仮に分析者が以上の条件の大部分を留保ぬきで誠実に満たすことができれば、ここに新しい関係が生まれ、それによって、患者は、自己の精神構造の欠損あるいは瘢痕形成の原因となったそもそもの欠陥と喪失の悔みと悼みをある形で体験できるようになる。その悼みは、現実に愛する人の喪失や、内的対象への打撃あるいはその破壊という、メランコリー[抑うつポジション]特有の事態が原因で生じる悼みとは全然別物である。

 私がいま頭に抱いている悔み悼みとは、自分自身の中に欠陥・欠損があるという動かしえない事実に対する悔みであり悼みである。(原注:この悼みは、元来基底欠損に対する過剰代償として生じたらしいナルシシズム的自己像を断念すること[こういちろう注:世界との、他者との全き調和の断念。自己のスキルに対する万能感の断念…とも読解できよう]と関連した悼みである。(中略)

  分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈によって維持できるならば、患者と分析者の共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である。

========引用おわり========

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2009/10/31

「ハウルの動く城」におけるハウルと火の神の関係

 昨日とりあえず書いてから、一晩眠って、少しだけ、この作品を観る上での鍵となる部分について、私なりの理解を解説したくなりました。

(楽天ブックス)

※以下、完全にネタバレです※

 終わりの方の、子供時代のハウルとソフィーが遭遇するシーンから読み取れることに焦点を絞って、私なりに解説してみたいと思います。

 この作品世界では、魔女という存在が人の「心」を奪い取ってしまうということが繰り返してモチーフとして登場します。

 映画の前半から観ていると、繰り返し反復されるパターンとして明白なのは、空から流星群のように、青白い光の玉が降り注ぐ時というのは、この国の王室付き魔法使い(というより、もはや実質的支配者ですね)、マダム・サリマンが、人の心を誘惑し、「心を奪い取る」ことで「使い魔」にしてしまう、まさにその時なのですね。

 つまり、ハウルはある段階で確かにサリマンが校長をしていた魔法学校に入学し、修行を積んだのは確かでしょうが、実はそれ以前の子供時代の早い段階で、サリマンに「目をつけられ」、すでに魂を奪い取られていたのだと思います。

 ところが、ハウルが、こうして魂を奪い取られる瞬間に、どうも他のケースとは異なることが生じたようです。

 つまり、ハウルが青い光の球を飲み干したケースに限って、ハウルの「心」を実際に仮託した対象は、その瞬間に生み出された(?)、火の神カルシファーに対してだったのですね。

 つまりここですでに、ハウルとカルシファーの間に交わされたという「契約」の本質が十分絵解きされています。

  1.  ハウルはカルシファーに自らの魂を仮託する。
  2.  ハウルはカルシファーの炎にエネルギーを備給する責任を負う。
  3.  カルシファーは、その代償として、ハウルの言われるがままに魔力を使ってあげねばならない。

 恐らくこの3か条が、ハウルとカルシファーの間の契約内容です。

 このことが、マダム・サリマンに対するハウルの「相対的な」自立性(完全に自由にはなれないのですが)が、かなり早い段階から確保できていたことを示唆します。

 そして、その、(ユング風に言えば)グレートマザー(大母)的なサリマンに、単に飲み込まれてはしまわないで、ハウル自身の「自我(ego)」を形成、維持する上での心の支えとなっていたのが、時空を越えて表れたソフィーと、ソフィーからの「約束」だったということになります。

 ソフィーは、結果的に、前思春期以降のハウルのおぼろげな記憶の中で、女性像の元型(つまり、アニマですね)として機能し続けていたことになります。

 アニマというのは、男性に内在する「内なる女性」ですが、実はアニマを「対象化」して思い描き続けられるから、男ははじめて男としてのアイデンティティを形成して行ける、社会的な仮面としての「ペルソナ」(ハウルがいくつもの変名を持つことに象徴される)も形成できるともいえます。

 もっとも、ハウルにも手痛い失恋の経験があった。つまり、ハウルですら、「アニマの投影」の対象としてふさわしい現実の女性を見誤ることはあったようです(見かけが二枚目過ぎるから、女性ととりあえず付き合うまでは、魔法使いであることを巧妙に隠した次元でなら、あまり苦労はなかったろうと思われます(^^;)

*****

 いすれにしても、ハウルは「カルシファー=を自由に操れる存在」まさに、この前「魔女の宅急便」論で書いたように、バリントの言う「地水」という、「前-対象」的なもののうち、何と2つも味方につけている(飛べますしね)。

 こうして、ハウルはフィロバットに分類できます。

 (フィロバティズムを鍵概念とするバリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。)

*****

 今回は、ユング的理解も加味してみましたが、ここで書いたことでしたら、故・河合隼雄先生の「ユング心理学入門」の第8章「アニマ・アニムス」を中心とする章で十分参考書になると思います。

河合隼雄/ユング心理学入門

(楽天ブックス)

・・・・こういう言い方が少し偉そうに響いたかもしれませんがお許しを。

 私はユングの畢生の大作のひとつ、「変容の象徴」を、若き日から心理学書ベスト5に入る溺愛をしてきた、意外とユングおたくな人間なので。

(楽天ブックス)

*****

 なお、ユングの著書(論文集)の中では、以前もご紹介しましたが、現場臨床家の人には「心理療法論」が、一般にはあまり知られた本ではないですが、流派を超えて、刺激になるかと思います。

 絶版しているようですが、中古市場で容易に入手できます。

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2009/10/28

BOY MEETS GIRL -「崖の上のポニョ」とバリントのオクノフィリア- (第2.10版)

 これは高校時代に留学した経験がある若い友人にうかがったのだが、

「アメリカではティーンである自分たちのことをいつも大人扱いしてくれたから、すごく気持ちがよかった」

とのことである。

 なるほど、欧米では、思春期に入ると、「大人予備軍」としてティーンエージャーを扱う文化があるのだと思う。

 ところが日本はどうか? 子供が徐々に大きくなり、「純粋無垢さ」を失い始めると、むしろそのことに苛立ち、どのように取り扱うかに困惑する親世代が今でも多いのではないか?

*****

 この映画の中にも、そういう「父親」が登場する。

 (・・・・・以下、完全にネタバレに突入します・・・・・)

 名前をフジモトという。彼は、汚濁に満ちた人間界が嫌になり、今や、海中に珊瑚の邸宅を持つ、魔法使いのような存在として生きている。

 彼は壮大な「人類補完計画」、もとい、「地球再生計画」を持っている。

 「命の水」と呼ばれる精製された海のエッセンスのようなものを抽出し、それを井戸の中である臨界量に達させた時に、一気に「生命の大爆発」が生じ、古生代カンブリア紀の海洋生物の楽園が復活することを夢見ているのだ。

 すでにそれを実現するためのプランテーションとしての、結界で守られた「牧場」をもっており、そうした古生代の生物たちに囲まれて、大事に育てられているのが、彼と、海の女神、グラン・マンマーエの間に生まれた娘たちなのだ。

*****

 ふとしたきっかけから、その中の一番お姉さん格の一匹(ひとり?)が、普通の海辺に迷い出ることになり、海辺の崖の上に住む少年、宗介に助けられる。

 彼女が閉じ込められたガラス瓶を宗介が割る際にできた小さな傷を彼女がなめて癒した時、彼女の中で「人間の血で劣等遺伝子が覚醒(以上、父フジモト談)」してしまい、急激な人間化の兆候が見られはじめる。

 宗介は彼女にポニョという名前をつけ、彼女もそれを気に入る。

*****

 しかし、ポニョは結局フジモトの差し向けた波の使い魔によって再び父の「竜宮城」に連れ戻される。

 彼は人間になりたがって言うことを聞かなくなった「ブリュンヒルデ(=ポニョ)」が気に入れない。

 「命の水」の力で、彼女を再びもとの「無垢な」姿に引き戻してしまう。

 彼は、一見エコロジー主義者に見えるが、実のところ、自分と関わる対象すべてが自分を快適にしてくれるように操縦しようとする、裏返しの支配欲の塊なのである。

 まるで、自分が鍵穴で、の方が自分にしっくりとあわせてくれる形にならないと気がすまない。

 彼は自分以外の対象が自分に「膚接」してくれることを求めている。相手との関係の間に「隙間」を感じると、まずは相手の方を自分に合わせてくれるように振り回す。

 相手が、自分の気持ちを完全に「察して」先回りして行動してくれないと、もうそれだけで耐え難いわけであり、相手が自分からは独立した自我を行使し始めたら、片っ端からその目を摘み、自分のためだけの存在にしようと操作するである。

 もとより、これは実はそれだけ相手の存在に自分が依存して、はじめて自分を支えているということであり、故・土井健郎先生が使った本来の意味での「甘え」の状態のバリエーションであるとも言える。

 実は親の方が子供に「甘える」という世代間逆転状態が背後では進行しているのだ。

 このような形で退行する人たちのことを、この前の「魔女の宅急便」の記事でもご登場いただいたハンガリー出身のイギリスの精神分析家、バリントは「オクノフォリア」と呼ぶ。

バリント/スリルと退行

バリント/治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

 (この前の「魔女宅」記事でもご紹介しましたが、この「ポニョ」記事を、当ブログにおいでになり、最初にお読みの方があるかもしれませんので、改めて、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFへのリンクを呈示させていただいておきます。興味のある方はこちらからご覧下さい。更に、バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。)

 前回ご紹介したフィロバティズムにしても、オクノフォリアにしても、成熟した個と個の対象関係という観点からすると「退行的な」状態である点では共通している。

 ただ、フィロバットは、人間以前に、自分を包む空間全体を「お友だち」にしてしまえるまで自分のスキルを磨き上げる孤高な存在なのに対して、オクノフィリアは、空隙そのものを恐怖する。そして、自分が技を磨くのではなくて、周囲の人間の方をコントロールして従わせようとするのだ。

 フジモトは、決して、自然の海水に身を委ねてのびのびと安心していられる存在ではない(だからフィロバットではない)。むしろ自然のままの海を穢れたものだとしか感じていない。

 しかし、ポニョの成長は、自然の海水に触れたからこそはじまったのが現実なのである。

 そして、フジモト自身は、魔力で結界を生み出した中での純化された人工的な「命の水」領域を、海の中でもヘルメットのようにかぶりながらしか存在し得ない。

 それはまるで・・・・・人工的な「羊水」で満たされた「子宮空間」を持ち歩いているかにも見える(もとより、それはいい意味で人に若さを取り戻させる魔法でもあるようだが)。

*****

 ポニョは再び脱出を敢行する。魔法が使える彼女の血は、海に大嵐を巻き起こす。そして今度は、彼女は、ほんとうの人間の少女の姿になっていた。

 宗助の家庭が、お互いを対等に名前で呼び合う、近代的核家族の理想の姿であるかのように描かれているのも興味深い。母親リサは、勤勉で機転が利く職業人であり、同時に十代の娘のような感情の奔放さももっているが、宗介をいい意味で早くから大人扱いし、厳しい時は厳しいが、権力的でない諭し方を心得ており・・・・・同時に、まだ5才の息子の寂しさへの思いやりも失わない。

 勤務先の老人介護施設に、天候がおさまった一瞬の隙を突いて、海沿いの道を車で救援に向かう際に、母親のリサは、宗介とポニョを同乗させることを選ばなかった。町中が水没し、停電する中で、どれだけ潮が満ちても水没しない丘の上の家に、今も明かりがともる家(自家発電できるのだ)があることがどれだけ大事かを言って聞かせる。

 「遠くに行ってしまう母親」との間に大きな「距離(間隙)」が横たわる・・・・宗介にとってのオクノフィリア誘発的試練である。しかし、リサはそうした宗介の不安を十分に汲んだ上で、「きっと帰ってくる」と、離れても失われない信頼の絆を結ぶのである。(リサ自身は、あのドリフト運転、ものの見事にフィロバット的ですが)

*****

 ・・・・・・・これ以降のストーリーについては言及しないでおこう。

 (それでも、この映画を見て「わかりにくかった」皆様にとっては、随分とすっきりとさせる整理を試みたつもりですが、いかがでしょう?)

 だだ、これだけは言い添えたい。

 この作品、一見、5歳の幼児を主人公にしているかに見えるけれども、実際には、もう少し年上の"boy meets girl"の物語に他ならないように、私にはどうしても映る。

 だから、BGMは、敢えてひねって、TRF - WORKS -THE BEST OF TRF- - BOY MEETS GIRLTRFとしましょう。

 歌詞はこちら

 (ほんとうにアニメ作品でこの曲をエンディングとして使ったのは、「赤すきんチャチャ」ですが^^)

*****

 そして、「魔法を失う」という問題については、私自身のアニメ評論のデビュー作(心理臨床系大学院への合格を面接時に確信した日に書き、2ヵ月後月刊"OUT"誌上に掲載された、

●魔法という名のモラトリアム(1986年2月29日執筆)

をご参照ください。

崖の上のポニョ [DVD]「崖の上のポニョ」 特別保存版 [Blu-ray]

******

【第2版での追加】

 ポニョに本来父親フジモトが与えていた名前、「ブリュンヒルデ」といえば、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」で、主神ヴォータンの娘、ワルキューレ(女戦士)の一人(物語全体の実質的ヒロインです)であることを、クラシックファンなら否応なしに連想する。

 フジモトが「ブリュンヒルデ!」とポニョに呼びかけた瞬間に、「ああ、もうこのオジサン、勝手に自分の夢想の世界に酔ってるな・・・・」と苦笑できる仕掛けになっているわけです。

 ブリュンヒルデは永い眠りから王子ジークフリートによって目覚めることになっているわけで、宮崎さんはやはりストーリー的にも影響受けていますよね。

 この映画の一番有名な「あるシーン」が、もろに「ワルキューレの騎行」張りのBGMですよね(wikipediaが「ワルキューレの騎行」そのものであるかのように記述しているのは誤り・・・・BGMの久石譲さんが「ワークナー風に」作曲したのではないか? ・・・・・でも、ううう、私、歌劇には比較的弱くて、とても上演に4晩かかる「指輪」の音楽の全体なんて思い出せないから、ワーグナーの「指輪」の中にある、他の部分の音楽をそのまま引用した可能性も否定できない・・・・)

 まずは、オーソドックスに、映画「地獄の黙示録」でも使われた、ハンガリー出身の名指揮者、Berit Lindholm, Birgit Nilsson, Brigitte Fassbaender, Claudia Hellmann, Helen Watts, Helga Dernesch, Marilyn Tyler, Sir Georg Solti, Vera Schlosser & Wiener Philharmoniker - Wagner: The Ring (Great Scenes)故・ゲオルク・ショルティ指揮、ヴィーン・フィルの抜粋盤をご紹介しておきます。

ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」~オーケストラル・ハイライツ

 あと、個人的には、「指輪」の管弦楽のみによる抜粋としては、全然「歌劇的」ではなくて、とことん「純音楽」としてのタイトな仕上がりを重視した、無茶苦茶にオーケストラの性能が高いのがわかる、これまたハンガリー出身の往年の名指揮者、ジョージ・セル指揮/クリーヴランド管弦楽団のが、隠れた名盤としてお勧め。

 もちろん「ワルキューレの騎行」入ってますけど、何よりKlaus Tennstedt & ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 - Wagner: Orchestral Excerpts from Operas - Gotterdammerung (Twilight of the Gods) : Dawn and Siegfried's Journey to the Rhine「 夜明けとジークフリートのラインへの旅」(リンク先はテンシュテット盤)が、こんなに「スポーティー」で「爽快な」演奏はセル盤の他にはありません!!

【追記】:このセル盤、何とBlu-spec CDでリマスターされて再発されているではないですか!!(限定盤です。普通のCDプレーヤーでも聴ける筈です)

Blu-spec CD ワーグナー:ニーベルングの指環(ハイライト)

(楽天はこちら)

 ワーグナー、特に「指輪」が苦手だった私の印象を根底から覆した、「ワーグナー嫌い」にお勧めの名演奏です。ほんとうにお勧め!!

 YouTubeは、本家、バイロイト祝祭歌劇場での、ピエール・ブーレーズ指揮、パトリック・シェローによる歴史的名演奏を貼り付けておきます(^^)

●Wagner - Die Walküre: "The Ride of the Valkyries" (Boulez)(YouTube)

Shop.TOL

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2009/10/21

やさしさに包まれたなら -「魔女の宅急便」とバリントのフィロバティズム-

 キキは突然飛べなくなった。

 最大の引き金は、依頼人のおばあさんがせっかく孫娘のために心を込めて焼いた包み焼き・・・しかもその完成のためにキキも古い薪オーブンを稼動させるお手伝いをしている・・・を、突然の雨にずぶ濡れになりながら届けた先の孫娘の反応、

「だから、いらないって言ったよ。あたし、このパイ嫌いなの」

との言葉と共に扉が冷たく閉ざされたことだった。

 キキは下宿先のオソノさんの心配りもあって一度は立ち直る。しかし、せっかく初デートに出かけたトンボの友達に「あの孫娘」が含まれていると気がついた時、突如豹変して家にひとりで帰ってしまう。

「ジジ、私、どうかしてる? 素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」

 ところが、ジジはただの普通のネコのようニャーと応えるのみ。ジジはすでに恋人のメス猫ができてから、関心がそちらに向かい始めて以来、「普通のネコ化」が徐々に進行していたようだが。

 しかし、ジジの言葉が解せさなくなったことに気がついた瞬間、キキは嫌な予感に襲われ、箒(ほうき)にまたがってみる。

 魔法の力が、ほんとうに弱くなっている。

 それでも飛ぼうと繰り返し試みるうちに、旅立ちの際に母から譲り受けた箒そのものが折れてしまう。

 こうして、キキは完全に、故郷との「つながり」の証し、(人語を解するジジと母の箒)、すなわち、精神分析的対象関係論のウィニコットが言う「移行対象」を喪失する。

ウィニコット/遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

(楽天ブックスはこちら

 生まれ故郷から大都会に舞い降りた段階から、何か人との間に、独特のよそよそしい「隙間」を感じることが時たまあることに当惑し続けていたキキの慢性的なストレスは、ついに限界に達したのだ。

 キキの生まれ育った故郷とは、我々の少なからぬ部分が、遥か彼方の幼児期に体験していた、世界との幸福な一体感、まさに「やさしさに包まれた」頃の体験世界の理想化された象徴である。

 (・・・・それにしても、宮崎駿さんの、キキのくるくる変わる感情の移り変わりを画面上だけで表現し切れてしまう力は、今観直しても、とてつもない域ですね)

****

 キキに救いの手を差し伸べてくれたのは、すでに偶然の縁があった、夏の間は森に住む、絵描きのウルスラだった。

 ウルスラは、前にキキに会った時の印象に触発されて、一枚の絵を描きつつあった。しかしキキに当たる少女の顔の部分の表情がどうしても決まらないで、その絵をやめてしまおうかとすら思い悩んでいた。キキ自身をモデルに写生することから立て直しを図りたくてしかたなくて、なかなか再来しないキキに会いに行ったというのがほんとうのところだろう。

 ウルスラはキキを写生しながら思わず口にする:

「あんたの顔いいよ。この前よりずっといい顔してる」

 落ち込んでいたキキは、恐らくこの言葉に内心きょとんとしたことだろう。

「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなる」

 寝る前の語らいの中で、ウルスラは口にする。

「そういう時、どうするの? ・・・・私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」

と、思わず尋ねるキキ。

「そういう時にはじたばたするしかないよ。画いて画いて画きまくる」

「それでもうまく行かなかったら?」

「画くのを止(や)める。散歩をしたり、景色を観たり、昼寝をしたり、何もしない。・・・・そのうちに、急に画きたくなるんだよ」

「なるかしら?」

「なるさ。・・・・私も絵を画くのが面白くって仕方がなくて始めたんだけど、ある時、画いた絵が気に入らなくなった。誰かの真似に過ぎないって気がついたんだよ。どこかで見たことあるってね。自分の絵を描かなくっちゃ!ってね。・・・・でも、その後、少し前より、絵を描くってこと、わかったみたい」

 ・・・・このウルスラのセリフ全体が、宮崎さんの経験談それ自体であり、肉声そのものであることはつとに知られているだろう。

 「魔法って、呪文を唱えるんじゃないんだね」

 「うん、血で飛ぶんだって」

 「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血、神様かだれかが与えてくれたんだよね・・・・おかげで苦労もするけどさ」

 ウルスラが、夏場は森の中でひとりで生活し、冬場は都会ではなくても、すでに開拓された田園地帯か何かで生活するという、森と平地との間「辺境人」的性質を持つ存在であることは興味深い。

 精神科医の中井久夫先生が、壮年期の二大名著、姉妹作というべき「分裂病と人類」「治療文化論―精神医学的再構築の試み」で強調するところによれば、洋の東西を問わず、古来、森の中とは人間界から切り離された「異界」であり、森の中に独居する、「薬草を栽培する老婆の文化」は、地域共同体の辺縁に置かれつつも、地域治療文化の大事な一部として暗々裏に統合されていた。

 それがいわゆる「魔女狩り」の対象とされるのは、実は中世のことではなく、宗教改革以降の近世初頭以降の出来事であることは、実は誤解されがちなことである。

 ところが、ヨーロッパにおいて、多くの宗教者や社会改革家(急進的な「世直し」をしようとする人たち)、そして近代の「力動的」精神医学の基礎を築いた大家たちの故郷は、非常に多くの場合、こうした「すでに切り開かれた平地」と「森」の辺縁地域の出身者が多いことを中井先生は指摘する。

 フロイトの出身地然(しか)り。ユングの出身地然り。精神分析が発展を遂げたヴィーンそのものが森の都に他ならない。

 ウルスラが、この物語の中で、図らずも魔女であるキキの癒し手として機能できたのは、ウルスラ自身が、そのような俗世間と森の世界の「境界人」的側面を強く持っていたからではないかと思われる。

 これはこじつけでもなんでもないと思う。

 宮崎さんだって、思っているはずだ。アニメーターなんて、世間の桧舞台に立つのは実はおかしくて、もっと「ひっそりとした」「地味な」商売だったはずなのに・・・・と。

*****

 さて、この作品に限らず、宮崎作品の飛行シーンは、他の誰も真似ができない域のものであることはよく言われるとおりである。

 そのことの最大の秘密は、実は宮崎さんが、飛行を支えているのは空気に他ならないということに徹底的にこだわっているためだと思う。

 日本のアニメは、「宇宙戦艦ヤマト」の時代から、宇宙空間を中心に飛行シーンを描くことに特異的に発展したために、この「空気があっての飛行」ということに対する感性がアニメーターの間でほんとうには熟成されないままになりがちだった。

 振り返ってみれば、これまで宮崎さんが関与した作品の中で、宇宙空間を舞台にしたものが、果たして一本でもあったろうか???

 飛行機乗りは、そうやって「大気を味方につけ」ないと飛行機を操れないことを嫌というほど知っている。

 そして、更にはその大気との関係と共に重要なのは、飛行するための道具としての「機体」と操縦者が、自分の体の延長であると感じられるところまで「一体化」できるかどうかである。

 この「魔女宅」のクライマックスシーンにおいて、故障し、大破した飛行船にぶら下がったトンボを助けんがためにキキが活用したのは、たまたま通りがかりの清掃夫のおじさんが持っていた、ありきたりのデッキブラシだった。

 キキがこのデッキブラシの操縦に手こずったのは、スランプ脱出直後の初飛行のためばかりではなかろう。更に、単に箒の場合とは勝手が違うというだけですらなく、心を込めて魔女が手作りしたハンドメイドではなくて、量産型の既製品だったからに他ならないだろう。

 おかげでその「機器」との「対話」が成立しにくいのだ。「人馬一体」にはほど遠い。

「こら! いい子だから言うこと聞いて!」

「まっすぐ飛びなさい! 燃やしちゃうわよ!」

 このような、「モノ」に過ぎない筈の対象に身体ごと「潜入(dwell in)」して、試行錯誤の身体的「対話」を重ねて、はじめて高度な習熟スキルとして自在に操れるという点が、単なるマニュアル的な「技術(technique)」と習熟的な「技能(skill)」の違いであることは、ハンガリー出身の科学哲学者、マイケル・ポランニ(ポランニュイ・ミハイー)の「暗黙知の次元」 で詳しく述べられている。

 そして、このような、多くの人にとっては身の危険を犯すスリリング過ぎる活動(曲芸や楽器の演奏やスポーツなども含まれよう)に没頭する人たちのことを、ハンガリー出身のイギリスのもうひとりの精神分析の大家、マイケル・バリント(バーリント・ミハイー)は、「フィロバット」と呼んでいる。

バリント/スリルと退行

バリント/治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

 (このバリントの2大名著はまたもや再販されない状態に入ったみたいなので、この件については、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFとしてサイトに載せ続けているので、興味のある方はこちらからご覧いただきたい)

 「フィロバット」的人物=「フィロバティズム」が優勢な人物においては、はっきりとした輪郭と「固形の」性質を持った、「反発(objection)性」がある、自分からは独立した「対象(object)」との関わりに生きているのではない。

 古代ギリシャから言われてきた四大元素、すなわち、「土」「水」「火」「風=空気」という、自由に形状を変え、流動的で、対象を「包み込む」こともできる「前-対象」との友好的(frendly)な関係の中に生きている。

 バリント自身の言葉を借りれば、「魚にとっての水のごとき」環界との友好関係信頼していられないと、自由闊達にそのスリリングな能力を発揮できないのがフィロバットなのだ。

 突如別のアニメ・コミックを引き合いに出せば、「キャプテン翼」の名言、「ボールは友だち」の世界である。

 観ている人は、サッカー選手がいとも鮮やかにボールを「操って」いるかに見えるかもしれない。しかし、選手の主観は正反対のはずだ。まるでボールの方が自分のために最大限の協力を惜しまないかのようにして自発的に協調してくれているという感覚のはずである。

*****

 ところが、このフィロバディズムを生きる人たちは、自分をつつむ外界との圧倒的な信頼感・一体感に亀裂隙間が生じると、たいへんな危機を迎える場合がある。

 キキが陥った「飛べなくなる」状況は、まさにその典型だろう。あの孫娘が冷たく扉を閉じた瞬間、キキとキキを包む「世界」全体の間に深刻な「壁」と「亀裂」「隙(す)き間」が立ちはだかったのである。

 キキはもはや心から自由に「呼吸」することができない状態に陥った(風邪を引いた)。そして、せっかく心が通い合ったかに見えたトンボが、「あの孫娘」とも友達であると知った瞬間、トンボも「向こう側の世界」=「同じ空気を吸ってはいない存在」ではないかという疎外感に一気に引き込まれ、キキは自ら心を閉ざしたのであろう。

 (確かにそれはキキのひとつの思い込み・・・いかにも思春期的な・・・に過ぎず、エンディングではこの孫娘と二人が親しく会話しているシーンが挿入されてすらいる! これは単にキキが有名人になったからだけではなくて、その後交流するうちに孫娘の人間の全体像が見えていなかったことにキキも気づいたのではなかろうか)

*****

 不幸にしてそうでない人もいるが、多くの人は、全く天真爛漫に、世界との一体感に浸り、心安らかに浸っていられたかすかな記憶のようなものを抱えて生きている。

 そのさりげない記憶の世界でその人を「包んで」いる「やさしさ」とは、必ずしも人からのやさしさではないはすだ。

 陽の光、何げない風景の一つ一つ、それどころか室内の家具調度のひとつひとつ、つまり、自分を包む「世界」全体が、自分をやさしく見守ってくれているかのような体験だったのではないかと思う。

 (私がそのことをはっきり思い出した時の記録は、先述の学会発表時の論文集の本文の方にエピソードとして記載している。そちらもPDF化してあるので、興味のある方はこちらをご覧いただきたい)。

****

 さて、「魔女宅」のエンディング・テーマは、ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)の初期の名曲、荒井由実 - ミスリム - やさしさに包まれたなら「やさしさに包まれたなら」である。

 こちらからリンクをたどっていただいて、歌詞をもう一度丁寧に読みなおしていただくと、ある事実にお気づきになるかも。

 ここに登場する「やさしさ」で包んでくれる存在の「正体」(?)とは、実は恋人ですらなく、生身の人間ですらなく、世界そのものだということ。

*****

 そして、きっと、

> 大人になっても、奇跡は起こる

のである。

*****

 ところで、エンディングをよく観ると、キキの乗っている箒は、掃除夫のおじさんに「必ず返します」と言った筈のデッキブラシのままなのである。

 トンボが作りつけてくれた鋳物の看板ですら、デッキブラシ姿ですよね。

 これは単に「事件」を解決した象徴だからとか、縁起かつぎ(?)などではなくて、ひょっとしたら、キキ自らが「選択した」行動だとも思えるのですが。

 このあたりの意味、考えてみるに値すると私は思えてきました。

*****

 この記事への「あと書き」がこちらにあります。

 【追記】:この記事の姉妹作(?)となった、「崖の上のポニョ」論はこちらです。

 バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。

魔女の宅急便 [DVD]

MISSLIM(「魔女宅」で使用されたのと同じ、テンポの速いバージョンが収録)

●王子のきつねさんサイトでユーミンの代表曲のYouTubeをまとめたエントリーへのリンク

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