フロイト

2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2009/11/27

通算2000番目の記事 : バリント著「治療論からみた退行(Basic Fault)」

 ハンガリーに生まれ、フィレンツィに師事し、その後ドイツに渡り、更にイギリスに移住した、精神分析的対象関係論の大家、マイクル・バリント(ハンガリー読みにすると、姓と名が日本と同じで逆転するので「バーリント・ミハイー」)は、日本ではもっぱら故・土井健郎先生の「甘え」理論を国際的に紹介し、「甘え」理論との類似性で「一次的対象愛」という概念が精神分析系の専門家の間で人口に膾炙しているに留まる。

 しかし、バリントの真の集大成、主著というべき著作は、中井久夫先生の、もはや「原著を越えた超訳」とまで呼ばれる邦訳で、知る人ぞ知る、「治療論からみた退行」(原題:"Basic Fault")である。

マイクル・バリント/治療論からみた退行

 今、「超訳」と申し上げて置きながら、いきなりこのことに言及するのは気が引けるが、中井先生と縁が深い山中康裕先生が、たしか雑誌「こころの科学」で本書を紹介するにあたって、中井先生が、"Basic Fault"を「基底欠損」と訳し、その訳語が日本で普及してしまったことに対してだけは、敢えて唯一注文をつけておられる。

 山中先生曰く、「"fault"というのは地学でいう『断層』のことであり、何かが『欠けて』いるというのとは随分ニュアンスが異なるのではないか」。

・・・・ ごもっともな指摘である。

 「基底欠損(Basic Fault)」という概念を一言で説明するのはたいへん難しい。日本ではそれをまるでボーダーライン的心性と同一視するかのような理解がされがちだったように思う。

 確かに、バリントは本書の中で、「基底欠損」を、プレ・エディプス期の問題として位置づけてはいる。しかし、その切り込み方が、メラニー・クラインとも、マーラーの分離個体化理論を援用したマスターソン(「青年期境界例の治療」)とも異なる、独自の視点を持っている。

 私のみたところ、「基底欠損」の理論は、単なるボーダーライン性よりも幅広い現象を内包しているように思える。控えめにみても共通部分を持った、すっかりとは重なり合わないベン図のような構造になるのではなかろうか?

 バリントは、ウィニコットと共に、アンナ・フロイトの創始した「自我心理学」とも、「クライン正統派」とも一定の距離を維持する「独立学派」のひとりと呼ばれる。

 確かにウィニコットとの接点はたいへん大きい(それどころかビオンとの接点ですらバリントは本書で明言している!)。そして本書の「仮想敵」は、後述するように明確にメラニー・クラインであり、クラインへの批判に紙数を割きすぎたのが、少なくとも日本人の読者にはまどろっこしいのではないかと、訳者の中井先生ご自身が解説で感想を漏らしておられる。

 だが、ウィニコットの諸著作が日本でも熱心に読まれるのに比べると、バリントが本書で展開した独自の理論と治療的示唆に関心を持つ人は少数派であろう。

 そうなった最大の原因は、バリントがすでに先行する著作、「スリルと退行」の中で確立していた独自の新造語、オクノフィリアフィロバティズムという概念が、本書においても、更に発展された形で鍵概念とされていることが一見難解だと感じさせられることが大きいかと思う。

マイクル・バリント/スリルと退行

*****

 この2つの鍵概念についての概説に入る前に、バリントがなぜクライン理論にあそこまで反発したかという、本書の前半で展開される内容について私なりに概説したい。

 クラインやウィニコット、バリントは、神経症より重篤な事例に関連して、フロイト以降に展開され、プレ・エディプス期の早期対象関係を重視した、広い意味での「精神分析的対象関係論」に属することには変わりがない。

 広義の「対象関係論」とは、噛み砕いていえば、現実の「外的」他者の態度の摂り入れ(introjection)としてのみ人の自我形成過程をとらえるのではなく、個人内部での、一種の内的ファンタジーとしての「内的な」他者=「内的対象」との関係形成過程を重視する立場である。

 こうした観点は、実はフロイト自身もある程度予見し、示唆していたことでもある。そして何よりユングが「内なる他者」としてのアニマ・アニムス・影などとの交流過程を重視した先達なのだが、どうも対象関係論の人たちは、ユングを先達とみなすことは回避する傾向があるようだ。

 しかし、クライン正統派の場合、現実世界に存在する「外的対象」としての養育者の持つ意味が明確化されない「独我論」ではないかという批判は早くから生じた。

 そこで、ウィニコットは「内なる養育者」との関係と、「外的な他者」との関係を統合的に説明しようといいう方向性を強く打ち出し「錯覚(illusion)」「脱錯覚(disillusion)」という概念を巧妙に媒介とし、幼児の外界との一体化という「錯覚」に巧妙に応える時期から、次第にそれを遅延化させ、「脱錯覚」へと導き、信頼できる他者との成熟した関係性を確立する上での"good enough mothering"=「そこそこいい養育者」、あるいは「環境としての養育者」についての理論、あるいは養育者自身の代理、他者との継続的な関係性の媒介物ともいえる「移行対象」の理論、あるいは、親密な他者と共にいながら、それぞれが自分の世界に没頭できる能力形成が果たす役割を表現するための逆説的概念、「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」、そして、ここでは概説しないが、「遊ぶこと(playing)」が治療関係で持つ意味などを次々に考察した。

 ウィニコットのこれらの最重要理論のほとんどは、

情緒発達の精神分析理論―自我の芽ばえと母なるもの (現代精神分析双書 第 2期第2巻)

遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

・・・・この2冊だけで掌握可能である。

 バリントは、ウィニコットとは別の切り口から、プレ・エディプス段階における「内的対象関係」と「外的な他者との関係性」が果たす役割について統合的に考察しようとしたのである。

 このようにして、正統クライン派とも一線を画することをはっきり表明した分析家の一群を、フロイト以降の精神分析の領域で、狭義の「対象関係学派」あるいは「独立学派」と呼ぶ。

*****

 さて、前置きが非常に長くなったが、いよいよバリントの中核概念である「フィロバティズム」と「オクノフィリア」について概説しよう。

 バリントがクラインを批判する最大の立脚点は、「対象(object)」という概念それ自体にある。クライン理論は、対象関係=他者との関係を、まるで真空の中に浮かんでいる完全に自主独立した二つの固形的「物体」との間の相互作用のようにとらえているのではないか? 「対象(object)という概念それ自体の中に"objection"=「反発性がある」、輪郭が鮮明な「固体」的なものという含意があることにバリントは注目する。

 我々は、成熟してから後ですらも、ある意味で「前-対象(pre-object)」的な係わり合いの中にしか生きていないのではないか。ここでいう「前-対象」とは、バリントにおいては、もはや人間以外のすべての諸事象との関わり全般にまで拡張される。

 つまり、世界の諸事象と「調和的=相互浸透的渾然体」として融合されたあり方でしか存在していないという側面を背景として、現実の他者との関わりも考えるべきであるというのがバリントの視点である。

 そもそも「空気」がなければ人間は窒息することなど、普段は忘れているではないか?

 「魚とって、エラの中に存在する水が果たして『環界』なのか、魚の『内部環境』なのかを問うことに何の意味があるのだ?」と。

 これは「独立した自我を持つ主体」同士の交流を成熟した対人関係様式としてとらえる、欧米的な個人主義的な自我観を自明の前提としている人たちにとっては、何とも難解でぶっ飛んだ論の進め方に感じられたであろう。欧米で、正確に理解できた精神分析流域の専門家は稀れではなかったと推測できる。

 しかし、バリントには、東洋的な色合いも強く残した故国ハンガリーの血への基本的な共感が失われてはいなかったのだろう。

 人も万物もすべて同じ地平で眺めるという、非キリスト教的(いや、ユダヤ教やイスラム教にもそうした視点はない)=異教的な感性が脈々と受け継がれていたのであろう。

 ところが、数学・物理学・経済学の分野で名高いフォン・ノイマンをはじめとする数々のノーベル賞級科学者、科学哲学者ポランニから、指揮者(ライナー、セル、ショルティ、ドラティ)・作曲家(バルトーク)・音楽家(ブダペスト弦楽四重奏団)まで、非常に優秀な人材を一気に輩出した、第1次世界大戦後の長期にわたる度重なるハンガリー動乱の連続(1918-1956)の下での亡命ハンガリー人の知的階級の多くは、異国のでサバイバルのために、非常にタイトで厳格な方向のにのみ自分の技能を研ぎ澄ますところがあった気がする。クラインもその一人であろう。

 バリントがその道を歩まなかったのは、師、フィレンツィが、フロイトの時間厳守、中立性の原則を打ち破り、ついには心労で命を縮めた治療法の潜在的可能性を引き継いで完成させることを生涯の使命としたことが大きいようである。

*****

 さて、プレ・エディプス期において問題があった人="Basic Fault"を潜在的に抱えた人は、治療的面接場面が進むと、独特の退行様式を取り始める。

 それが「オクノフィリア」と呼ばれる現象である。

 オクノフォリアは、対象との全き融合の幻想が維持されることを求める。しかもその際に、対象と自分の間に「空隙」があることを「恐怖」する(「オクノフィリア」というギリシャ語をバリントが創出した背景)。

 その結果、対象が、自分の欲求を絶えず気遣い、先回り的に配慮してくれて「あたかも鍵穴に鍵をぴったり合わせてくれるように」対応してくれないと我慢がならないという状態になり、治療者を徹底的に翻弄する。そこにはすでに「通常の成人言語水準でのやりとり」は無力化する。

 治療場面のみならず、家族など親密な関係を持つ人物相手に、こうしたオクノフィリア的心性を顕わにする人たちは決して稀れではない。子供が少しでも「気が利かない」と逆上し、子供をいつまでたっても自分を補完する存在としてしか取り扱わない親など典型であろう。こうした親は、実は子供の方に際限なく「甘えて」いる現実に無自覚なままなのである。

*****

 ところが、この世には、「世界との完全な調和的一体感」を指向する点ではオクノフィリアと同じだが、全く正反対のアプローチを身につけた一群の人たちがいる。

 その人たちは、自らの持てる身体的技能(skill)を極限まで磨き上げ、古代ギリシャ以来「四大元素」と呼ばれたもの、すなわち「地(土)・水・火・風(空気)」をすべて自分の味方につけたかのような錯覚と万能感の中に生きている。

 これら4つの対象は、輪郭がはっきりせず、自由に形状を変容させ、対象を「包み込む」ことができるという点に特徴がある。

 典型的なのは、飛行機乗りやレーサーを一方の極とするスポーツ選手、演奏家、曲芸師などであろう。

 私流に言えば、「キャプテン翼」の「ボールは友だち」の世界である。「自分が」ボールを巧みに操っているのではない。「ボールの方が(そしてそれを包む空気やクラウンドの土の状態が)、まるで自分に『協力してくれている』かのような錯覚の世界にある。

 彼らにとっては、世界とは自分にとって「友好的な拡がり(frendly expanses)」として通常は機能してくれる。

 一般の人からすると危険でスリリングすぎる活動に身を投じることこそ、彼らの生の充実感、世界との一体感を支えている。中途半端なややこしい「社交的な」関係なんてほんとうはできるだけ回避したいくらいなのだ。

 (もっとも、フィロバティックな心性を持つ人の中にもオクノフィリア的心性は存在することをバリントは言い忘れてはいない。安心して深い絆を形成できる人物に「見守って」いてもらえていることが支えとなっていることが多いというのだ)

 一芸に秀でたスキルで世を渡っていくという点からすれば、非常に幅広い職種の人が含まれることだろう。アニメーターだって、ある意味ではカウンセラーだってその種の人間であろう。

 このような存在のあり方を「フィロバティズム」と呼ぶ。

 フィロバティズムを生きる人にも弱みはある。自分のスキルに故障が出た時。心身が燃え尽きた時。あるいは突然の気象の変化や機器の故障が生じた時、彼らは失調するばかりか「事故死」の危険と隣りあわせということにもなるのだ。

 自らが死や破滅と隣り合わせの生き方をしていることに、誰よりもフィロバティズムを生きる人たち自身が気がついている。それゆえに、安心してくつろげる、気の置けない対人関係も、限られた人たちとでいいいから大事にしようとするはずだと、私は思う。

*****

さて、バリントが、治療関係において必要なのはどういう関係であるかについて述べた部分を引用して終わりとしたい:

========引用はじめ========

 分析の場における沈黙の意味には二つあるだろうということには皆同意していただけると思う。ひとつは恐ろしい空虚という戦慄的な体験をしている場合である。空虚は疑惑に満ち、敵意に満ち、拒絶に満ち、攻撃性に満ちている。前進を阻む沈黙であり、結局不毛に終わる沈黙である。しかしまた、沈黙がおだやかな静かな調和体験の場合もある。平和と信頼と受容という雰囲気である。つまりおだやかな成長の時期、統合の時期でもありうるのだ。分析家にもっとも必要なのは、今向かいあっている沈黙がどちらの型なのかを識別することである。

 フィロバティズム的偏向をもつ技法においては、おそらく、解釈をわずかしか用いないだろう。特に退行した患者に対する時はそうなるだろう。分析者はたえず患者を見て、[次の]どちらの態度をとるべきか考えるだろう。すなわち、個別的な対象の役割をとり、退行した患者を安全な距離が見守り、この冷静で客観的な視座からことばで綴った解釈を与えて理解を求めるのがよいのか、あるいは自分も「友好的広がり」の一部と化して、何一つ要求せず、ただ息をしているだけの存在としてあり、患者に欲求が起こればさっそく役に立とうとする構えだけは持ちつづけるのがよいのかを考えるのである。(中略) 最大の危険は、この技法が患者にあまりに多くをゆだね、早すぎる時期に大きすぎる独立性を押しつけることであろう。 (中略)

 [もう]ひとつはオクノフォリックな方法であって「患者の手をとって」ゆく方法である。どうしてこの動きをしてあの動きをしなかったのかを一貫性を以て解釈してゆくことである。ここに内在する危機としては、患者が分析家を理想化してこれを寛大で慈愛こもった人物として取り入れるように誘導する恐れがある。こうなると患者の自由が制限されて、理想化された対象が処方し許容してくれる範囲から出られなくなってしまう。

 自由とは、私の考えでは「友好的広がり」の再発見のことである。それはフィロバティックな世界の中にあって、成人的なスキルを身に付けることを要求するものであるが、その背後には、何も要求せずに抱きかかえてくれる一次愛の世界が控えている。誤解されると困るので、「友好的広がり」の再発見があらゆる対象を完全にあきらめることを意味するものではないことを言っておかねばならない。

 そうではなくて、それはただ、[オクノフォリックな]絶望的なしがみつきをやめて対象から一定の距離を置いて独りで立つ能力すなわちスキルを身につけるだけのことであり、そしてそうすることは対象を「正しい釣り合いにおいて」眺め、「真のパースペクティヴ」の中で対象を獲得するために必要なのである。

 新規蒔き直し(new beginning)時期における分析者の役割は、多くの点で一次物質あるいは一次対象の役割に似ている。分析者は存在していなければならない。分析者は高度に可塑的でなければならない。あまり抵抗してはならない。破壊不能性を示さねばならない。これは確かなことだ。また一種の相互滲透的調和渾然体の中で分析者と共に生きることを患者に許容しなければならない。(中略) おおよそ、友好的物質という、一点の曇りない調和体だけがあり、その中から対象が成立する以前の体験である。

 [退行の]良性形では、患者はさほど外的行動[を治療者に「してもらう」こと]による満足を求めず、それよりも外的世界を活用して自己の内面の問題に前途の途がひらけること、私の患者のことばを借りれば”自分自身に到達できるようになること”をそっと認めていてほしいと希う。(中略)

 認識されるための退行(中略)では、あたかも大地や水が己れの体重を安んじてあずける者を支え返してくれるように、患者を受容し支え荷うことを引き受ける周囲の人々のいることが前提である。物質としての治療者は抵抗してはならない。引き受けねばならない。あまり摩擦を起こしてはならない。患者をある期間受容し荷い、自分は潰れないことを示さねばならぬ。境界線を越えないぞとつれなく言い通してはならない。患者と自分との一種の渾然体の発生展開をゆるさねばならない。

 以上はすべて、患者に同意し、関与し、巻き込まれることを意味するが、必ずしも具体的働きかけをする意味ではない。ただ理解と寛容だけでよい。ほんとうに大事なのは患者の内面つまりその心の中でさまざまの出来事が生じうる条件を維持し創造することだ。[分析者は患者を積極的に荷おうとはせずに、水が泳ぐ人を支え、大地が歩む人を支える具合に荷い支えるべきであるということ。すなわち患者のために存在し、またそうされることにあまり抵抗を感じないで患者に使用されることである。

 我々は立居振舞(behavior)、空気(climate)、雰囲気(atmosphere)などのことばを使うが、これらは皆、漠然としたカスミのかかったような、画然たる境界を欠くものを指すことばで、(中略)にもかかわらず”雰囲気””空気”というものは存在し、感じ取られ、しばしばことばでの表現を要しない。(中略)

 ”洞察”とは的を得た解釈の結果生まれるものだが、洞察が生まれるにふさわしい対象関係が創出されたならば、その結果は一種の”感じ(feeling)”である。

”洞察(insight)”が視覚と対応するとすれば”感じ(feeling)”は触覚と対応する。すなわち一次関係かさもなくばオクノフィリアである。

 ある一種類の対象関係に硬直的に固執すべきではなく、いつでも患者とともにオクノフィリア的とフィロバティズム的の両原始世界を往復する心構えが必要であり、時には両世界の彼方の一次関係まで行く心構えがなければならない。(中略)

 解釈は、分析者が「患者は確かに解釈を求めている」と確信できる時に限り与えるべきものである。こういう時に解釈を与えないことを不当な要求あるいは刺激と感じるだろうからである。(中略)

 仮に分析者が以上の条件の大部分を留保ぬきで誠実に満たすことができれば、ここに新しい関係が生まれ、それによって、患者は、自己の精神構造の欠損あるいは瘢痕形成の原因となったそもそもの欠陥と喪失の悔みと悼みをある形で体験できるようになる。その悼みは、現実に愛する人の喪失や、内的対象への打撃あるいはその破壊という、メランコリー[抑うつポジション]特有の事態が原因で生じる悼みとは全然別物である。

 私がいま頭に抱いている悔み悼みとは、自分自身の中に欠陥・欠損があるという動かしえない事実に対する悔みであり悼みである。(原注:この悼みは、元来基底欠損に対する過剰代償として生じたらしいナルシシズム的自己像を断念すること[こういちろう注:世界との、他者との全き調和の断念。自己のスキルに対する万能感の断念…とも読解できよう]と関連した悼みである。(中略)

  分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈によって維持できるならば、患者と分析者の共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化である。

========引用おわり========

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2009/11/05

「乱造される心の病」におけるレーン氏の論の進め方の一例

 前回の補足として、クリストファー・レーン著、「乱造される心の病」の中で、フロイト自身の「精神分析入門」の引用を基にして、レーン氏がどういう論の展開をしたかの部分を具体的にご紹介したい。

 以下で出てくる、フロイトからの引用箇所は、新潮文庫版の日本語訳から引き写したものであることが注で明記されている。

 レーン氏が実際にフロイトの直接引用をはじめる少し前の箇所から引用をはじめたい(pp.213-4 傍線は原文の傍点)。

========以下引用===========

 これまで述べてきた、社会恐怖に対する神経精神医学的、認知行動的、精神力動論的アプローチの違いを考えると、晩年のフロイトが、自ら進んで生物医学を強く信頼するようになったのは驚きかもしれない。彼は「将来は、特定の化学物質を使って、精神に関与するすべての器官にエネルギー量やその備給に直接働きかけられるようになるだろう」と認めている。

 この言葉は、不安を引き起こす心理学的要素を優先させても、不安の生物学的、更には社会的な実証の重要性が低くなるわけではないことを明快にするのに役立つ。単に不安の要素の順序が入れ替わっただけなのである。人前で話をするときに感じるような心臓が激しく鼓動する不安と、人に生来備わっている「闘争-逃走反応」は、いずれの場合にもアドレナリンが体内を駆け巡るのには違いはないが、心理学的には異なる。したがって、両者を混同してはならない。混同してしまうと、演説的不安をあまりにも大袈裟に表現し、不安は外的な脅威や危険からも生じることがあるという事実を見落としてしまう。精神分析の見地からは、このような脅威(及び、内なる内的な要因)の認識は異常ではなく、精神分析学の真の目的となる。

========以下引用===========

 ・・・・・あの、レーンさん、なぜ「この部分」でフロイトを「こういう形で」引用したのですか?????

 私には、「フロイトが未来の薬物療法の可能性にある意味で期待をかけていた」こと、安全な新薬が開発されればフロイトだって喜んで活用したろうことをむしろ示唆することで知る人ぞ知る箇所(フロイトの一時期の「コカイン」礼賛のことをレーン氏はどう考えているのだろう??? 知らないのか????)を引き合いに出しながら、同時にそれを無視するという、わけのわかんない、ほとんど苦し紛れと言われても仕方がないことをレーン氏が書いている気がしてならない。

 ・・・・・・実は、こうした「論理的でない」部分が山のようにある本なのです。

 以前に書いたことを改めて申し上げますが、私も、個々の製薬会社のプロモーション活動への膨大な投資に疑問があるという点については、何ら異論は差し挟むつもりはない。

 問題は、このレーンという著者に、「ほんとうの学問的誠意」がないことだ。

 膨大な情報やインタビューを駆使しているかに見えつつ(個々の事実は事実として正しかったとしても)、実は、「ある一定の論調」にひたすら誘導する、週刊誌やテレビの質のよくないルポルタージュやドキュメンタリーのようなのを延々と読まされる羽目になる本です。

 この本にいろんな栄誉を与えたアメリカのマスコミのレヴェルって、結局その程度なのねといいたくなる(^^;)

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2009/11/04

「乱造される心の病」は英文学者ではあっても、結局医学や心理のアマチュアの書いた、トンデモ本スレスレ水準だと思う。(第3版)

 前と後ろから攻めて3分の2読みましたけど......

 もうだいたいのところはつかめました。

 2009年10月4日付読売新聞における春日武彦氏による本書の書評は、まるで本書がうつ病と診断されている人について書かれた本であるかのような誤解を与えかねない記述になっているが、本書の実態はそうではない。

 この本はあくまでも、単に内気(原題:"Shyness")な人が、特に「社会不安障害」という診断に祭り上げられる過程について告発する意図で書かれたものである。

 しかも原著者は精神医学の専門家ではなく、気鋭のジャーナリストですらない。英文学者である。amazonの英語版サイトで星ひとつの人の酷評ぶりはすさまじい。

 「この本は教養課程キャンパスの象牙の塔の中で広まっているように思える、奇妙で、反科学的なパラノイアの典型です」(Gina Pera氏)

 結局、純情なまでの「フロイトおたく」の英文学者が、「正義の」力動精神心理学(=「フロイトの」精神分析。しかもかなり単純化されている)の旗の下、クレペリンに始まる「伝統的精神医学=脳科学主義者=薬物療法推進論者」の系譜という「悪の枢軸」を「仮想敵」として仕立て上げて、熱心にいろいろ調べて書いた、「まずは結論ありき」の本である。

 フロイトを引用する時の意図も、時々あまりに強引に自説に好都合な形になっている(それは、素直に読めば、「フロイトは将来の薬物療法の可能性に期待をかけていた」ことを示唆する筈の、「精神分析学入門 (中公文庫)」で書かれたフロイト自身の叙述を引用した、p.213以下で顕著に明らかとなる)。

 DSMを「脳科学=薬物療法的」観点からのみとらえるのは強引。むしろそこから一定の距離を取ることに腐心している面もある。

 むしろ、DSMが良きにつけ悪しきしつけ、行動主義的な「操作的定義」であり、特定の見地からの「原因論」に立ち入らないことを目指したとみるのが正道のはずである。

 薬物療法を使う医者が、まるですべて生得的な脳の問題としてしかとらえていないかのような「極論化」が行き過ぎている。心理的・社会的要因を無視する精神科医はそう滅多にいないと思う。

 つまり、医者が、DSMに「基づいて」診断や治療を「決めて」いるというのは、もはや「都市伝説」の領域に近い。

 心ある医師は、DSMが「診断基準」としては全く表層的なのを承知で、「共通語としての診断名」をDSMから慎重に「あてはめている」だけのことである。

 (もっとも、どういうわけか、本書では、統合失調症と「重たいうつ病」についてだけは、同じ論理では斬り掛らない。もうこの段階で「内因性精神病」概念の確立者としてのクレペリンを肯定していることになる「自己矛盾」があるのだが)

*****

 更に、裕さんのサイトふうに(^^)、翻訳の誤りを指摘すると、pp.41-42に出てくる「フランスのピエール・ジャネット」は、もちろん「ジャネ」が正しい。

・・・・ああ、フロイトの先駆者である筈の「力動心理学の雄」のジャネ様に何たる仕打ち。

(ジャネのフロイトの先駆者としてのあまりの重要性については、エレンベルガー(エランベルジェ)の「無意識の発見」(中井久夫訳)の上巻に詳しい)

エレンベルガー/無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史

*****

 読んでいるうちに、精神分析系の人なら、大学院生の皆さんでも、内心(^^;;;;)な本だとお思いになるんじゃないかと。

 ひ・い・き・の・ひ・き・た・お・し

*****

 ●Amazonにレビュー掲載 しています。

 ★★にしているのは、著者レーン氏の旺盛な資料収集や取材量に敬意を表して★ひとつ余計につけたというだけのこと。

 冨高氏の著作の方を、その誠実さに敬意を表して★★★プラス2分の1とみなしていただいていいくらい、というのが本音です。

【第2版で追補 09/11/8】:

 Amazonレビュー版、本書を読み終えた段階で、更に推敲を重ねて、密度の高いものに練り上げました。

【第3版で追補 09/11/10】:

 Amazonレビュー版更に更に練り上げて、「止めを刺して」おきました(^^)

 この、長文のクリティカルなレビューが、なぜかすんなり掲載できた裏話をひとつ。

 Amazon日本版のレビューでは、"Amazon"あるいは「アマゾン」という言葉が入っていると、それだけで掲載されないフィルターがかかっているようです。これは煽りや議論のフレーム化を防止する対処なのでしょう。

 ところが、私が初稿をアップした時、私はいつの間にか、amasonとミスタイプしていたのですね(^^;) あとになってそのことに気がつき、その部分を"amazon"ないし「アマゾン」と打ち直して再アップしようとすると、その場合にだけ更新が反映されないことに気がつきました。ですから上記の「禁止語フィルター法則」は間違いないと思います。

 他の箇所は、一度掲載された以上は、どれだけ、どのように書き換えても瞬時で受け付けてくれます(^^;)

*****

 本論の続編、レーン氏がフロイトをいかに恣意的に引用し、自説に都合のいいように解釈しているかの典型例の指摘はこちら

クリストファー・レイン/乱造される心の病

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2009/10/21

やさしさに包まれたなら -「魔女の宅急便」とバリントのフィロバティズム-

 キキは突然飛べなくなった。

 最大の引き金は、依頼人のおばあさんがせっかく孫娘のために心を込めて焼いた包み焼き・・・しかもその完成のためにキキも古い薪オーブンを稼動させるお手伝いをしている・・・を、突然の雨にずぶ濡れになりながら届けた先の孫娘の反応、

「だから、いらないって言ったよ。あたし、このパイ嫌いなの」

との言葉と共に扉が冷たく閉ざされたことだった。

 キキは下宿先のオソノさんの心配りもあって一度は立ち直る。しかし、せっかく初デートに出かけたトンボの友達に「あの孫娘」が含まれていると気がついた時、突如豹変して家にひとりで帰ってしまう。

「ジジ、私、どうかしてる? 素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」

 ところが、ジジはただの普通のネコのようニャーと応えるのみ。ジジはすでに恋人のメス猫ができてから、関心がそちらに向かい始めて以来、「普通のネコ化」が徐々に進行していたようだが。

 しかし、ジジの言葉が解せさなくなったことに気がついた瞬間、キキは嫌な予感に襲われ、箒(ほうき)にまたがってみる。

 魔法の力が、ほんとうに弱くなっている。

 それでも飛ぼうと繰り返し試みるうちに、旅立ちの際に母から譲り受けた箒そのものが折れてしまう。

 こうして、キキは完全に、故郷との「つながり」の証し、(人語を解するジジと母の箒)、すなわち、精神分析的対象関係論のウィニコットが言う「移行対象」を喪失する。

ウィニコット/遊ぶことと現実 (現代精神分析双書 第 2期第4巻)

(楽天ブックスはこちら

 生まれ故郷から大都会に舞い降りた段階から、何か人との間に、独特のよそよそしい「隙間」を感じることが時たまあることに当惑し続けていたキキの慢性的なストレスは、ついに限界に達したのだ。

 キキの生まれ育った故郷とは、我々の少なからぬ部分が、遥か彼方の幼児期に体験していた、世界との幸福な一体感、まさに「やさしさに包まれた」頃の体験世界の理想化された象徴である。

 (・・・・それにしても、宮崎駿さんの、キキのくるくる変わる感情の移り変わりを画面上だけで表現し切れてしまう力は、今観直しても、とてつもない域ですね)

****

 キキに救いの手を差し伸べてくれたのは、すでに偶然の縁があった、夏の間は森に住む、絵描きのウルスラだった。

 ウルスラは、前にキキに会った時の印象に触発されて、一枚の絵を描きつつあった。しかしキキに当たる少女の顔の部分の表情がどうしても決まらないで、その絵をやめてしまおうかとすら思い悩んでいた。キキ自身をモデルに写生することから立て直しを図りたくてしかたなくて、なかなか再来しないキキに会いに行ったというのがほんとうのところだろう。

 ウルスラはキキを写生しながら思わず口にする:

「あんたの顔いいよ。この前よりずっといい顔してる」

 落ち込んでいたキキは、恐らくこの言葉に内心きょとんとしたことだろう。

「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなる」

 寝る前の語らいの中で、ウルスラは口にする。

「そういう時、どうするの? ・・・・私、前は何も考えなくても飛べたの。でも、今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」

と、思わず尋ねるキキ。

「そういう時にはじたばたするしかないよ。画いて画いて画きまくる」

「それでもうまく行かなかったら?」

「画くのを止(や)める。散歩をしたり、景色を観たり、昼寝をしたり、何もしない。・・・・そのうちに、急に画きたくなるんだよ」

「なるかしら?」

「なるさ。・・・・私も絵を画くのが面白くって仕方がなくて始めたんだけど、ある時、画いた絵が気に入らなくなった。誰かの真似に過ぎないって気がついたんだよ。どこかで見たことあるってね。自分の絵を描かなくっちゃ!ってね。・・・・でも、その後、少し前より、絵を描くってこと、わかったみたい」

 ・・・・このウルスラのセリフ全体が、宮崎さんの経験談それ自体であり、肉声そのものであることはつとに知られているだろう。

 「魔法って、呪文を唱えるんじゃないんだね」

 「うん、血で飛ぶんだって」

 「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血、神様かだれかが与えてくれたんだよね・・・・おかげで苦労もするけどさ」

 ウルスラが、夏場は森の中でひとりで生活し、冬場は都会ではなくても、すでに開拓された田園地帯か何かで生活するという、森と平地との間「辺境人」的性質を持つ存在であることは興味深い。

 精神科医の中井久夫先生が、壮年期の二大名著、姉妹作というべき「分裂病と人類」「治療文化論―精神医学的再構築の試み」で強調するところによれば、洋の東西を問わず、古来、森の中とは人間界から切り離された「異界」であり、森の中に独居する、「薬草を栽培する老婆の文化」は、地域共同体の辺縁に置かれつつも、地域治療文化の大事な一部として暗々裏に統合されていた。

 それがいわゆる「魔女狩り」の対象とされるのは、実は中世のことではなく、宗教改革以降の近世初頭以降の出来事であることは、実は誤解されがちなことである。

 ところが、ヨーロッパにおいて、多くの宗教者や社会改革家(急進的な「世直し」をしようとする人たち)、そして近代の「力動的」精神医学の基礎を築いた大家たちの故郷は、非常に多くの場合、こうした「すでに切り開かれた平地」と「森」の辺縁地域の出身者が多いことを中井先生は指摘する。

 フロイトの出身地然(しか)り。ユングの出身地然り。精神分析が発展を遂げたヴィーンそのものが森の都に他ならない。

 ウルスラが、この物語の中で、図らずも魔女であるキキの癒し手として機能できたのは、ウルスラ自身が、そのような俗世間と森の世界の「境界人」的側面を強く持っていたからではないかと思われる。

 これはこじつけでもなんでもないと思う。

 宮崎さんだって、思っているはずだ。アニメーターなんて、世間の桧舞台に立つのは実はおかしくて、もっと「ひっそりとした」「地味な」商売だったはずなのに・・・・と。

*****

 さて、この作品に限らず、宮崎作品の飛行シーンは、他の誰も真似ができない域のものであることはよく言われるとおりである。

 そのことの最大の秘密は、実は宮崎さんが、飛行を支えているのは空気に他ならないということに徹底的にこだわっているためだと思う。

 日本のアニメは、「宇宙戦艦ヤマト」の時代から、宇宙空間を中心に飛行シーンを描くことに特異的に発展したために、この「空気があっての飛行」ということに対する感性がアニメーターの間でほんとうには熟成されないままになりがちだった。

 振り返ってみれば、これまで宮崎さんが関与した作品の中で、宇宙空間を舞台にしたものが、果たして一本でもあったろうか???

 飛行機乗りは、そうやって「大気を味方につけ」ないと飛行機を操れないことを嫌というほど知っている。

 そして、更にはその大気との関係と共に重要なのは、飛行するための道具としての「機体」と操縦者が、自分の体の延長であると感じられるところまで「一体化」できるかどうかである。

 この「魔女宅」のクライマックスシーンにおいて、故障し、大破した飛行船にぶら下がったトンボを助けんがためにキキが活用したのは、たまたま通りがかりの清掃夫のおじさんが持っていた、ありきたりのデッキブラシだった。

 キキがこのデッキブラシの操縦に手こずったのは、スランプ脱出直後の初飛行のためばかりではなかろう。更に、単に箒の場合とは勝手が違うというだけですらなく、心を込めて魔女が手作りしたハンドメイドではなくて、量産型の既製品だったからに他ならないだろう。

 おかげでその「機器」との「対話」が成立しにくいのだ。「人馬一体」にはほど遠い。

「こら! いい子だから言うこと聞いて!」

「まっすぐ飛びなさい! 燃やしちゃうわよ!」

 このような、「モノ」に過ぎない筈の対象に身体ごと「潜入(dwell in)」して、試行錯誤の身体的「対話」を重ねて、はじめて高度な習熟スキルとして自在に操れるという点が、単なるマニュアル的な「技術(technique)」と習熟的な「技能(skill)」の違いであることは、ハンガリー出身の科学哲学者、マイケル・ポランニ(ポランニュイ・ミハイー)の「暗黙知の次元」 で詳しく述べられている。

 そして、このような、多くの人にとっては身の危険を犯すスリリング過ぎる活動(曲芸や楽器の演奏やスポーツなども含まれよう)に没頭する人たちのことを、ハンガリー出身のイギリスのもうひとりの精神分析の大家、マイケル・バリント(バーリント・ミハイー)は、「フィロバット」と呼んでいる。

バリント/スリルと退行

バリント/治療論からみた退行―基底欠損の精神分析

 (このバリントの2大名著はまたもや再販されない状態に入ったみたいなので、この件については、私の学会発表時の添付資料としての2冊の抜粋がPDFとしてサイトに載せ続けているので、興味のある方はこちらからご覧いただきたい)

 「フィロバット」的人物=「フィロバティズム」が優勢な人物においては、はっきりとした輪郭と「固形の」性質を持った、「反発(objection)性」がある、自分からは独立した「対象(object)」との関わりに生きているのではない。

 古代ギリシャから言われてきた四大元素、すなわち、「土」「水」「火」「風=空気」という、自由に形状を変え、流動的で、対象を「包み込む」こともできる「前-対象」との友好的(frendly)な関係の中に生きている。

 バリント自身の言葉を借りれば、「魚にとっての水のごとき」環界との友好関係信頼していられないと、自由闊達にそのスリリングな能力を発揮できないのがフィロバットなのだ。

 突如別のアニメ・コミックを引き合いに出せば、「キャプテン翼」の名言、「ボールは友だち」の世界である。

 観ている人は、サッカー選手がいとも鮮やかにボールを「操って」いるかに見えるかもしれない。しかし、選手の主観は正反対のはずだ。まるでボールの方が自分のために最大限の協力を惜しまないかのようにして自発的に協調してくれているという感覚のはずである。

*****

 ところが、このフィロバディズムを生きる人たちは、自分をつつむ外界との圧倒的な信頼感・一体感に亀裂隙間が生じると、たいへんな危機を迎える場合がある。

 キキが陥った「飛べなくなる」状況は、まさにその典型だろう。あの孫娘が冷たく扉を閉じた瞬間、キキとキキを包む「世界」全体の間に深刻な「壁」と「亀裂」「隙(す)き間」が立ちはだかったのである。

 キキはもはや心から自由に「呼吸」することができない状態に陥った(風邪を引いた)。そして、せっかく心が通い合ったかに見えたトンボが、「あの孫娘」とも友達であると知った瞬間、トンボも「向こう側の世界」=「同じ空気を吸ってはいない存在」ではないかという疎外感に一気に引き込まれ、キキは自ら心を閉ざしたのであろう。

 (確かにそれはキキのひとつの思い込み・・・いかにも思春期的な・・・に過ぎず、エンディングではこの孫娘と二人が親しく会話しているシーンが挿入されてすらいる! これは単にキキが有名人になったからだけではなくて、その後交流するうちに孫娘の人間の全体像が見えていなかったことにキキも気づいたのではなかろうか)

*****

 不幸にしてそうでない人もいるが、多くの人は、全く天真爛漫に、世界との一体感に浸り、心安らかに浸っていられたかすかな記憶のようなものを抱えて生きている。

 そのさりげない記憶の世界でその人を「包んで」いる「やさしさ」とは、必ずしも人からのやさしさではないはすだ。

 陽の光、何げない風景の一つ一つ、それどころか室内の家具調度のひとつひとつ、つまり、自分を包む「世界」全体が、自分をやさしく見守ってくれているかのような体験だったのではないかと思う。

 (私がそのことをはっきり思い出した時の記録は、先述の学会発表時の論文集の本文の方にエピソードとして記載している。そちらもPDF化してあるので、興味のある方はこちらをご覧いただきたい)。

****

 さて、「魔女宅」のエンディング・テーマは、ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)の初期の名曲、荒井由実 - ミスリム - やさしさに包まれたなら「やさしさに包まれたなら」である。

 こちらからリンクをたどっていただいて、歌詞をもう一度丁寧に読みなおしていただくと、ある事実にお気づきになるかも。

 ここに登場する「やさしさ」で包んでくれる存在の「正体」(?)とは、実は恋人ですらなく、生身の人間ですらなく、世界そのものだということ。

*****

 そして、きっと、

> 大人になっても、奇跡は起こる

のである。

*****

 ところで、エンディングをよく観ると、キキの乗っている箒は、掃除夫のおじさんに「必ず返します」と言った筈のデッキブラシのままなのである。

 トンボが作りつけてくれた鋳物の看板ですら、デッキブラシ姿ですよね。

 これは単に「事件」を解決した象徴だからとか、縁起かつぎ(?)などではなくて、ひょっとしたら、キキ自らが「選択した」行動だとも思えるのですが。

 このあたりの意味、考えてみるに値すると私は思えてきました。

*****

 この記事への「あと書き」がこちらにあります。

 【追記】:この記事の姉妹作(?)となった、「崖の上のポニョ」論はこちらです。

 バリントの「治療論からみた退行」についての総論を、こちらで書きました。

魔女の宅急便 [DVD]

MISSLIM(「魔女宅」で使用されたのと同じ、テンポの速いバージョンが収録)

●王子のきつねさんサイトでユーミンの代表曲のYouTubeをまとめたエントリーへのリンク

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2009/10/05

10月4日付け読売新聞日曜版「本よみうり堂」に掲載された、精神科医、春日武彦氏による「『病気の押し売り』を検証」と題する書評記事への感想 (第7版)

 さて、昨日の晩に予告した「お題」について書くことにしよう。

【追記】 : この春日氏の書評の全文がYOMIUYI ONLINEで読めるようになリました(直接リンク)。

冨高辰一郎/なぜうつ病の人が増えたのか
クリストファー・レイン/乱造される心の病

 書評の対象になったのは、この2冊である。

*****

 春日武彦氏の文章というのは、時として独特の屈折したシニカルさがあると思う。

 例えば、過去のご本人の著書のタイトルのつけ方にしてもそうだ。

 「問題は、躁なんです」 ・・・・・鬱ばかりが論じられ、躁鬱病の問題についての一般向けの著作が当時少なかったので啓発書として書きたかった意図はわかるが、だからといって、それこそこんな「軽躁的な」タイトルをつけてふざけているあたり、週刊誌の見出しじゃなかろうがといいたくなる。

 「ロマンティックな狂気は存在するか」・・・・・・新書化される前のモト本を私は若い頃に読んでいる。小説や映画で描かれるような「ショックのあまり『気がふれて』おかしくなる」という現象は現実にはあり得ないことについて書かれた本。
 内容的にはもっともなことが書かれているので、啓発書としての意味はあるが、そもそも精神科医がお書きになる本で「狂気」という言葉をむき出しで使う本は、実は滅多にない。
 日ごろ実際に精神病の人たちと接している臨床医の先生の多くは、その人たちとの関わりがどれだけ大変な場合があっても、同時に、そうした人たちの実存のプレゼンスに接していると、ある独特の「厳粛さ」を感じずにいられなくなることが少なくないようだ。

 そうした意味では、春日氏の言葉運びには、現実の精神病者への、ある「酷薄さ」が感じられることが、本書に限らず少なくないように思える。

 ・・・・結局、上から目線なのだ(実は読者に対しても)

 それがいい意味でのウィットとして機能する場合にはいいのだが、ちょっと今回の書評は、彼の「無神経さ」という側面があぶりだされたもののように思えてならない。

*****

 「うつ病が急増しているといわれる。(中略)実際、1999年から2006年までの6年間の間に、うつ病患者は2倍以上に増えている。99年から患者数が急増しているのである。ではその年に何があったのか」

 このことが、冨高氏自身の発想の原点にあったことは、Amasonのサイトですでに確認済みである。

 春日氏は、社会情勢の変化(1999年は確かにバブル崩壊の年である)、若者層を中心とした精神構造の変化がその原因であるという論調が多いことを示唆した上で、

 「しかしそれでノイローゼ患者が増えたというのならばともかく、うつ病患者が2倍にも膨れ上がるものなのか」

 この言葉が冨高氏の原著にある言葉なのか、春日氏の表現なのか不明だが、ノイローゼにだって「鬱症状」は得てして存在する。

 更に先までシミュレーションすれば、「ノイローゼ」はあくまでも心因性であり、狭義のうつ病とは「内因性」である兆候が明確に認められねばならないなどと、春日氏がこの私のブログ記事を読んで下さったら、言い出す可能性があるかな?

 しかし、DSMからはすでに「神経症」という診断項目が消えた。これには一面で理由あることなのだと思う。

 そもそも神経症の概念は、19世紀ヨーロッパで、主として中産階級を相手にしていた精神科医の間で、「内因性精神病」とは分化させた概念として定式化されたものである。そこにはクレペリンやブロイラー、シャルコー、ジャネ、フロイトなどの多大な貢献があるわけだが、その時代に「典型例」として抽出された「神経症」像が、特に第2次世界大戦後の経済成長に伴う国民全体の経済水準の上昇を契機として大衆全体に広まる過程で、「典型例」にあてはまりにくい「非定型化」が進行したことと関連する。

 「非定型」とされたものが、次第にその細部の特性や治療法が分化・明確化してとらえられるようになり(それが「診断学」というものであろう)、それぞれ固有の診断分類として分化していくことは、医学全般に共通することであり、それをすべてDSMの操作的定義・マニュアル指向の弊害に還元することにはちょっと無理がある。

*****

さて、続きに進もう、

 「99年は、本邦でSSRIと呼ばれる新型の抗うつ剤が導入された年である。ニュータイプの抗うつ薬の売れ行きと、うつ病患者の急増は相関している。だが新薬登場でうつ病患者が減ったというのならばともかく、逆に増えたとはどういうことなのか」

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

と続けている。

 冨高氏が、日本以外の、アメリカやヨーロッパ諸国でも、SSRIが認可された時を境にうつ病患者が急増した統計データも示してくれているかどうかに関心がある。

 統計を持ち出す場合には、常にこうした発想法が必要であることは、私もこのブログで、薬物療法と認知行動療法との併用だけではなく、他の流派の療法との併用を施行した場合という「対照群」の統計があるなら見たい、さもないと、単に認知行動療法の人たちが実証データを取るのがお好きな(まさに、プ ロモーションがうまい!)「だけ」ということになるのに、誤解を与えますと常々申し上げている通りである。

 もとより、「1995年ごろには欧米でSSRIへの評価が下がりはじめたので、日本が特にプロモーションのターゲットにされた・・・・というあたりの論が冨高氏の著作の方で展開されている可能性あり!とシミュレーションしますが。

****

 次に、先述の、

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

 SSRIになって製薬会社(正確に言うと、日本の製薬会社ではなくて外資系の製薬会社である)の販売促進プロモーションがいかに活発になったかという問題については、ネットをあさればいくらでも話題にされてきたことである。

 特に、パキシル(パキセロチン)の発売元であるグラクソ・スミスクライン社の広報活動と不利な情報隠蔽体質に関しては悪評ぷんぷんたるものがあることは、検索すればいくらでも情報源があるが、私は敢えてここで、加藤忠史氏による「躁極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」すでに書かれていることから引用したい。

 (この本は、基本的には双極性障害「1型」を主眼とした著作であるが、すでにご紹介してきた内海氏の本を読む前に読んでおくと、内海氏の本がやや難解だという印象が大幅に薄らぐと思う。また、後半部分で展開される、世界最先端水準の脳生理学、神経化学、DNAレヴェルでの遺伝子上の実証研究の当事者という、加藤氏の、現場臨床医とは別のもうひとつの顔で描かれている部分が、私には滅法読み応えがあった。そして、これからいくつか例を挙げるように、冨高氏が著作の中で書いているはずのことのいくつかをすでに「先取りして」書いているのである)

 以下、紫色の部分は「加藤氏の」この著作からの引用です: 

「それどころか、これらの新しい抗うつ薬が、うつ病にほんとうに効くのかどうかということまで、最近議論になってきておりまして、ちょっとその話題を紹介したいと思います。

 実は、抗うつ薬をうつ病の方に処方して、効いたかどうかを調べた臨床試験の結果は、論文になっているものといないものがあるのですね。

 そこで、アメリカにFDA(食品医薬品局)という薬の認可をなどを行っている部署があるのですが、そこの論文開示請求を出して、論文になっていないパキセロチン(パキシル)の臨床試験を出してもらった、という研究があります。

 そこで再解析したところ、論文にされていない臨床試験は、みな効果がない結果に終わっていました。論文になっているのは、効果があるものだけだったのです。それで、これはバイアスがかかっているのではないかという研究結果が論文として報告されました」(pp.177-8)

 加藤氏は更に続けて、その後の論文で、パキシルは中症から重度の患者ではプラセボ(偽薬)よりもやはり有効だったけれども、その効果はわずかで、軽症例では効果に差がないというものが公表されていることを示しています。

 更に加藤氏は、アメリカの臨床試験の厄介な問題についても言及しています。

 「アメリカではこういう臨床試験に参加した人に報酬を払うのです。報酬が出るとなると、お金だけがほしいといういう人もいまして、こういう臨床試験をいくつも掛け持ちする人が出てくるわけです。

 たくさんの臨床試験に偽名で参加して、報酬だけもらいながら薬は捨ててしまう。そして医師には、うつらしい症状を話しながら治ったふりをする。そういう人たちがいるのです(中略)。[これでは、]効くべき薬に[統計調査上の]差が出ません。飲んでいないのだから差が出るわけがない」(p.179-80)

 ちなみに、こうした治験では「二重盲検」というやり方を採ります。これは、担当する医師にも治験患者にも、それが偽薬なのか、ほんとうの薬かどうかが知らされないままなのです。恐らく個々のタブレットにつけられた製造番号みたいなものだけで識別できる形で、治験の研究者は統計処理をしていくのだと思います。

 ・・・この辺に関わる問題のある程度は、今回の書評の対象になっている2冊の本で言及され、しかも更に詳細に報告されている可能性はあるかと思います。

*****

 さて、この「製薬会社のプロモーション」の問題を考える際に、ちょっと視点を変えますと、実は同時に考えねばならない重大なテーマがあるはずです。

 それは、「薬価」の問題です。これは医療機関が国に保険適用について申請する際の公定基準なのですが、建前上は、薬剤の開発・研究費用、そしてそれが新薬であることが算定基準になっており、改訂される際には下がることになっています。

 ジェネリック(後発医薬品。同じ成分の薬を他の会社が製造することが許可された薬)の場合には、研究開発費がない分だけ、薬価は当然より低く押さえられることが多い。

 これはまわりまわって、競争原理が働くわけで、オリジナルの製造会社も薬価をある程度下げるべく、申請を国にせざるを得ない方向に誘導することになります。

 この「薬価」というのは、業者からの仕入れ価格そのものを規制するものではないために、そこで「利ざや」を稼ぐことが可能です。きっとこのあたりも、書評で紹介された本の中で紹介されている問題なのだろうと思います。

 もとより、心ある現場の医者は、もう、単純明快に、実際に効くか効かないかだけで薬の選択を判断するものです。そういう点で、プロモーションなんぞには全く惑わされず、自分の臨床眼と、患者さんの反応、信頼できる医師同士の情報網だけをたよりに薬を選んでいるはずです。

 このあたり、例えばkyupinさんがサイトでお書きになっていることは、ネット界では最も突っ込んだ次元でのもののひとつであると私は信頼しています(kyupinさんのパキシルを含むSSRIへのスタンスは、この記事この記事にもよく表れています)。

 薬価が高い薬を処方する際に、敢えて「申し訳ない」とはっきり口にしてくださる先生もいます。

*****

 それにしても、もし私がこの2冊の本で言及されていると嬉しいと思っているのは、そもそもなぜSSRI(特にパキシル!)の薬価があそこまで高いのかという問題それ自体です。

 SSRIは、本国でも価格が基本的に高い薬なのですが、単順に経済的に考えて、もし「薬価」を法外に高くせざるを得ないやむをえない事情があるのであれば、特に保険制度を民間に依存しているアメリカでは、「プロモーション活動」に巨額の投資をせざるを得なくなるだろうということになります。

 それとも、最初からそのプロモーション費用を「回収する」見込みまで立てて、「薬価」が高くなるようにいろいろ偽装したということまでありでしょうか?

 このへんのあたりのからくりまで、2冊で追求されていれば、興味深いのですが。

*****

 次に、特に冨髙さんの本で、「鬱症状」の病態によって、使用する薬を変える必要性についてどこまで踏み込んだことをお書きになっているのかについても関心があります。

 Amazonの書評欄を見ると、本書の中で、「再発予防のためのリハビリの重要性」だとか、「(SSRI以外を含めた)多種多様な抗鬱剤の効果の程がわかる」とのことなので、この点はあまり心配しなくてよさそうである。

 ひょっとしたら、うつ病と誤診されやすい双極性障害II型において、リーマスや抗てんかん薬、場合によっては非定型薬、更には睡眠誘導剤が役に立つことについても言及されているだろう。

 そして、薬物療法だけではなくて、医者の小精神療法やカウンセラーによるカウンセリングが連動していること、更には家族や雇用者側の対応についてまで踏み込んでくれていることを期待したい。

 なのに、こうした観点は、春日氏の「書評」にはぜーんぶ抜け落ちているのである!!

****

 薬品会社のプロモーションが会社に与える影響問題についてもう一点述べると、例えば、今や双極性障害II型が鬱病と誤診され、抗鬱薬の処方だけだと、むしろ双極性障害2型の素質を「開花」させてしまう・・・・当然治療は膠着状態になることの危険の問題は、お医者の間でかなり認識が深まっているようだ。

 このことは、新たにおいでになったクライエントさんから「投薬暦」をうかがう度に感じさせられる。

 そういう中で、リーマスやデパケンの需要は以前よりもかなり高まりつつあると思えるのだが・・・・果たしてこれもまた、薬物会社のプロモーションの結果として生み出された、新たな流行に過ぎないのでしょうかね?

 ところが、これらの薬の薬価は、三環系抗うつ剤並みに安い。更にどちらもジェネリックは出ていますし。利ざやの稼ぎようはほとんどないと思います(^^;)

 私が言いたいのは、個々の製薬会社の個々の薬に関して、治験のあり方、副作用の問題、プロモーションのあり方が問題にされてしかるべきだけれども、十把ひとからげな医療不信を煽る発言は、患者を不安に陥れるばかりで危険だということです。

 本来抗てんかん薬だったデパケンが双極性障害の治療薬になることなど、製薬会社には当初思いもよらないことで、臨床現場の経験値に出発して統計を取ってみた論文が出発点になっているようで、脳内での生科学的作用という点では未解明のまま、治験に基づき、双極性障害への適用も慎重に認可されたようである。

 (薬の保険適用申請においては、個々の薬について認可されたある特定の(いくつかの)疾患にしか受理されないという原則があるのです。だからデパケンなどの抗てんかん剤が、双極性障害への気分スタビライザーとしての処方をも認可されるまでに更に数年かかっているのです)

 先述の加藤先生のご著書によると、やっと最近になって、抗てんかん薬が双極性障害の人のニューロンの生化学作用に与える影響についてのとりあえずの「仮説」が立てられた段階のようです。

 最初胃腸潰瘍薬だったドクマチールもまた、その後統合失調症やうつ状態の改善に役立つことが「発見」されました。この薬は、すでに日本で最初に販売されて30年経過という、恐ろしく息の長い古株の薬で、さすがに今では「主薬」として用いられることはあまりないでしょうが、抗うつ薬だけでは鬱症状の改善に効果が出にくい時、薬物療法に秀でたお医者様が、副剤として処方されるケースがままあることも結構知られているかと思います。

 要するに、良心的なお医者さんは、製薬会社の宣伝を、鵜呑みにしないばかりか、製薬会社の側に、「この症状でも効果があるので、国に保険適用の申請を出せ」というプレッシャーを与える側の存在でもあるという、双方向性はある程度機能しているいうことです。

*****

 さて、いよいよ、今回のクライマックスなんですが。

 「これはメタボリック・シンドロームと同じ構造である。以前だったらただの『小太り』が、今で病院受診や保険診療の対象となる。早期治療といった考え方もあろうが、いたずらに多数の『病人』が作り出されたとも言えるだろう」

  この部分は、冨高氏ではなくて、書評の春日氏の言葉であろう。

 これじゃ、うつの患者さんを傷つけるばかりではない。成人病と鬱のどちらか重いかなどという比較論はもちろんできないと思う。でも、成人病予防検診によって慢性の病にならずに済んだ人がどれだけいるであろうか? そして何より、「小太り」の人を侮辱していると受け取れる発言になっている。

 リアルタイムに面と向かってユーモラスに語る時と、文章として書く時では人に与える印象がどれだけ違うか、もちょっと気を配って欲しい。例えば、「ちょっとおなかが出ている人」とするだけでもニュアンスは変わる。

*****

 春日氏の「書評の」先の部分:

 「ただ啓発運動が逆に病気でないものを掘り起こしているといった視点もある。『病気の押し売り』と評され、うつ病以外に小児の躁うつ病、男性型脱毛、性機能障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、軽い高コレステロール血症などが欧米では批判されているらしい」

 Amasonの書評を読む限り、このテーマは、書評の対象となった2冊で共に論じられているようである。

  またもや加藤先生のご著書「双極性障害」に戻らせていただくと、実はすでにこの本で、「小児思春期の躁うつ病」問題について、第2章第4節全体(pp.47-51)を割いています。

 特にアメリカでは、一時期、ほんの3,4歳の子供まで双極性障害と診断され、薬物療法の対象になるケースが結構あったようです。

 加藤氏は、これに対して、大人の双極性障害に適応が認められている薬を、臨床試験なし子供たちに使うことができるアメリカの現状を危惧しています。

 2歳の時に「いつもそわそわして走り回っている」との理由で診断を受け、検査の結果、3歳になった直後に、ADHDすら飛び越して双極性障害と診断され、非定型薬、気分安定剤をはじめとする1日10錠もの薬を飲んでいたそうです。そして4歳になって、薬の過剰摂取が原因で亡くなって、両親が第1級殺人罪として起訴され、両親側は医師の指示に従っただけと主張したという事件があったとのこと。(CBSドキュメントによるとのこと。探せば今でもサイト上に何かあるかな?)

 ADHDへの「精神刺激剤」投与の経験がある人に小児期の双極性障害発症が生じやすいという研究があることも紹介されています。

 そして極めつけは、次の事件。ここも加藤氏の著作よりの引用:

 「小児双極性障害の診断増加に中心的な役割を果たし、こうした子供に対する抗精神病薬治療を境に先駆けて提唱していたのは、ハーバード大学のビーダーマン教授でした。最近、小児性双極性障害の権威である同教授とその同僚が、製薬会社から多額の現金を受け取り、大学に報告していなかったという事実が報道されました(2008年6月8日 ニューヨークタイムズ)」

 どうも、この事件のことは、冨高氏の著作でも言及があるらしいことはAmazonで確認済みです。

 日本では、基本的に子供の精神医療に薬物療法を施行することにはたいへん慎重な先生方が多いですし(一時期ほど、「ADHDにはリタリン」という一本調子もなくなってきたのでは?)、ADHDをはじめとする発達障害についても、細やかな目で診断できる専門家が急激に増えています。

 私が発達障害のお子様を待つご家族からおうかがいする範囲でも、教育現場での対応について、まだいろいろ問題があるのは確かなようですが、当事者のご家族の活動などもあり、少しずつ変化してきているようです。セラピー的にもプレイセラピーや行動療法、家族全体のケアという方向性が定まってきているので、アメリカのような「子供の薬漬け」は生じそうもないのですが。

 何かというと、「日本の(精神)医療は欧米よりも遅れている」といわれますが、実際には、最近の経営淘汰的な面や医師確保の面を別にすると、オバマ政権の下、やっとのことで公的保険制度の設立に手をかけつつあるアメリカに比べれば安定しているともいえます。

 アメリカの病院事情も、実は非常に悪いようですし。フロリダ州には「産婦人科」病院が実は一軒もないという凄い話も。

 薬物療法についても、アメリカは、先端的であると同時に、極端に走りやすいともいえます。逆に、一度何かに対する「アンチ」がはじまると、これまた逆の極端の論調が出やすい。

 精神医療において、アメリカにすぐに追従する形にならないという点では、むしろ一種の安全装置として機能している面もあると思うのですが、そのへんを冨高氏自身がどう具体的に論じているのかどうか。 

****

 いずれにしても、 さすがに春日氏も、

「製薬会社陰謀論になりかねず、また早期治療の重要さという点においてもデリケートな問題である

とは言い添えてはいる。

 しかし、おしまいは、

「『まだ病気ではない』と『もう病気かもしれない』の間には、莫大な利益が埋もれているのである」

・・・・と、またもや少し無神経な言葉が出ている。

 ・・・・結局、春日先生、最後まで、薬物療法以外の人的資源や精神療法に関しては一言も触れないまま、あたかも薬物療法がすべてであるかのように「病気」の話をしているという、最大の自己矛盾に陥っている。

 我々は、健常者でも、病気でもある以前に、人間である。

 この春日氏の、書評の対象となった2冊の著者の側には、患者(とされた人)に対する、そうした目線がありそうで仕方がない。

*****

 最後に、ひとつ、決定的に重大な問題に触れておこう。

 レーン氏の著作の原著"Shyness"のAmason英語版サイトまで読みに行って気づいた、「驚愕すべき」事柄。

 それは、レーン氏の原著が、あくまでも、単なる内気な人が、特に「社会不安障害」というレッテルを貼られる過程を告発しようとした著作であるということである。

 なるほど、ある種の「社会不安障害」や「強迫性障害」について、SSRIが適応されることは事実ではあるのだが、春日氏が、この本がうつ病を主なるターゲットに据えたものではなくて、「社会不安障害」がメイン・ターゲットであることについて、ただの一言も言及しなかったということは、もはや、医者としての良心のかけらもないばかりか、ある種の情報操作に加担しているといわれても仕方がないように思われても仕方がない。

 結局、私が、この読売の書評欄に添えられた原書のタイトル"Shyness"に気づいた時点で懸念した勘はあたっていたようにも思う。

*****

【追記】

 以上の文章に全く変更を加えないままでの(嘘だと思う人はgoogleのキャッシュでも何でも参照なさるといい)実際読んだ上での書評は、冨高氏の本はこちら、レイン氏の本はこちらです。

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2009/09/28

児童福祉施設での施設内暴力

 この言葉を聴いて、皆様は何を連想されるだろうか?

1. 「施設側の職員が入所した子供たちに暴力を振るう」

・・・・・これはこれで由々しき問題であり、現実に存在し、あってはならないことである。

2. 「入所した子供が、他の子供に対して、職員の目の届かないところで、陰湿な形で暴力をふるう」

・・・・・これも歴然と存在する。その中身は、とてもこのブログで具体的にご紹介できないくらいに陰惨な性質のものである。

 しかし、もうひとつ、現状ではあまり問題にされていない、凄まじい次元のものがあるのだ。

3. 「入所した子供たちが、集団で職員を袋叩きにする」

 こうしたことは、例えば少年院などの、法的に厳重なシステムがある空間では、まだしもそれを制御するシステムが機能する。

 ところが児童施設という「福祉」の領域に突入してしまうと、この問題について、誰が、どういう形で介入し、単に個々の入所した子供への対応を超えて、施設の態勢そのものの改善に向けてのチームワークを生み出すのか、そのための方法論はまだまだ未整備らしい。

 この領域に、敢えて臨床心理士の立場で取り組み、「安全委員会」方式という手法を編み出し、更に、こうした問題意識を持つ施設間の全国的ネットワーク作りに現在力を入れておられるのが、私の敬愛する、九州大学の田嶌誠一先生である。

 田嶌先生の、この、施設内暴力問題への取り組みは、福祉の領域にも様々な波紋を巻き起こし、毀誉褒貶著しい状況にあるという。

 しかし、先生は言われる:

 「まずはこの問題について賽を投げることが私の役割。それに対して様々な立場から色々な意見が出るのは当然のこと。そうやってこの問題についての事態が動き出し、いろいろな人が知恵を絞り、相互のネットワークが全国的に機能すようになれば、私のとりあえずの役割は果たしたことになると思っている」

*****

 更に次のようなお話もうかがった:

 「今の時代、臨床家の養成は、だんだん『専門学校化』している気がしてならない。それでは、単にすでにフォーマットがあるスキルを身につけた一団が生み出されるだけだ。

 しかし、そもそも、<臨床>とは、草創期においてはそうしたものではなかったはずだ。フロイトをはじめとして、まずは「<現場>での現実に具体的問題ありきであり、それを何とかしようという試行錯誤を重ねる。その取り組みは同時代の既成の専門家からは胡散臭い目で観られる。

 そういう「新たな問題意識そのものの開拓者精神」を育み、それまでに存在しなかったフィールドを掘り起こすことが、本来、大学という場でこそ成されるべきことなのだが」

*****

1103_2  すでに日本心理臨床学会第28回大会の会場の図書コーナーでご覧になった会員の皆様もあろうかと思いますが、田嶌先生が、この「施設内暴力」の問題を冒頭で取り上げる形で、この10年ほどの、不登校・引きこもり・大学学生相談・スクールカウンセリング・強迫症・など、様々な領域での具体的な実践の軌跡をまとめた新著が刊行されました。

 Amasonにも入荷 しました!!

●田嶌誠一:「現実に介入しつつ心に関わる -」(金剛出版)
ISBN:978-4-7724-1103-5

 目次だけ拝見しましたが、近年の「心理臨床学研究」の田嶌先生のご発表や論文でおなじみの、あの、「節度ある押し付けがましさ」をはじめとする、田嶌先生の生み出した用語も満載の本のようですね。

【追記】:その後、光栄なことに、田嶌先生ご自身にこの本を贈呈いただきました。感謝いたしております。近日中に、僭越ながら感想をこのブログで書かせていただくつもりです(09/10/30)

*****

 以上、昨晩、田嶌先生と福岡で直接お会いしてうかがったお話でした。

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2009/09/17

周囲の人は双極性障害2型の人の「気遣い」にどれだけ助けられているかに気がつかない・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」 書評 (第2回)

 さて、内海健先生の「うつ病新時代」への書評、前回に続く第2弾ですが・・・

 今回の内容は、もっぱら、本書の第6章、「同調性の苦悩」の内容からのご紹介です。

****

 スイスのオイゲン・ブロイラーという精神病理学者(精神分裂病=統合失調症という疾病概念の提唱者。フロイトの初期の擁護者としても著名)が、統合失調症の人と躁うつ病(単なるううつ病ではありません)の人の病前性格を比較するために、前者を「分裂性性格」、後者を「同調性格」としてとらえることを提唱しました。

 ここでいう躁うつ病の病前性格としての「同調性」というのは、世間一般で言う「協調性」ということと一見似ていますが、実はもう少し厳密な定義がなされています(このへんがあいまいなまま人口に膾炙し、一般的な解説がネット上でも流布しているようですので用心してください)。

 ここでいう「同調性」というのは、単に周囲に溶け込むだとか、「場の空気を壊さない」(今風に言えば"KY"ではない)ということではないようです。

 「協調性」という言い方をする場合、暗に、社会性を確立するための、単なる「処世術」として、あるいは対人スキルとして「身につけて」しまえる筈のもの・・・・という含蓄がある気がします。

 (これに対して、特に「コミュニケーション障害」という言い方は、暗に発達障害を含意するので、言葉の扱いは慎重にすべきですが、ここではこの問題に深入りしないでおきます)

 しかし、ブロイラーの発想を更に深化・発展させた、フランスのミンコフスキーという精神病理学者は、この、鬱病者における「同調性」について、著書「精神分裂病―分裂性性格者及び精神分裂病者の精神病理学」の中で、次のように述べていることを内海先生は紹介しています。

 「ミンコフスキーによれば、分裂性と同調性は単なる性格標識ではなく、むしろ個々の特徴の間隙に位置して、それぞれの特徴に独特の色彩を与え、環界に対する個々の態度を規定するものである」(p.130)

 ・・・・・さすがにこれだけでは読者には何がなんだか?でしょうから、私なりに内海先生の本から理解したことを元に平易に解説してみましょう。

 ここでいう「環界に対する個々の態度を規定する」というのは、自分という存在が、外の「世界」との関わりにおいて、どういう様式で存在するかという、非常に実存的な次元での根底的な存在様式の違いということです。

 統合失調症の人は、発症すると「世界との生き生きとした接触」の感覚を喪失します。これを更にドイツのブランケンブルクという人が「自明性の喪失」という概念で発展させました。

自明性の喪失―分裂病の現象学

 「自明性の喪失」とは、わかりやすくいえば、般の人が日常を生きていくうえでは「当たり前すぎる」ことの「当たり前さ」加減が全然ピンと来なくなるということです。

 具体的な例として、このブランケンブルクの著作の中でつとに著名な、アンネ・ラウの症例での患者自身の発言から引用しよう:

 (以下の引用は、ま@しーまんさんのサイト、「神経生物学的脳機能障害の研究My 統合失調症研究 統合失調症とは 認知脳科学的、神経情報科学的アプローチ」の中の、「寡症状分裂病(単純分裂病)の事例」というページから引用させていただきました

 「…誰でも、どう振る舞うかを知っているはずです。誰もが道筋を、考え方を持っています。 動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、誰もがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。・・・(中略)・・・ 他の人たちはそういうことで行動しているんです。そして誰もがともかくもそんなふうに大人になってきたのです。考えたり行動の仕方を決めたり、態度を決めたりするのもそれによってやっているんです…。」

****

 さて、このような意味で、周囲とのかかわり方がまるでわからなくて困惑するといった存在様式は、実は、うつ病圏の患者さんの周囲との関わりのあり方から、一番遠いものなのである。

 うつ病になりやすい人は、周囲の人が何を感じていて、何を求めているのかを「察する」共感的センサーが敏感であり、しかもそのセンサーの精度は、その人が健康度が高いうちには驚くほど的確で、分裂質の人のような「思い込みの暴走」「関係念慮」には容易には陥らない。自分と関わる相手との適切な距離感を保ちながらも、その場その場にふさわしい「気配り」を実際に行動として取って行くことが実に上手である(内海氏の著作のp.139参照)。

 この「気配り上手」のことを、この内海氏の著作では「他者配慮」ないし「対他配慮」という言葉で表現していることが実に多いことは、この本をお読みの読者の参考になるかもしれない。

 鬱になりやすい人持つ「同調性」とは、単に周囲に迎合するなどという浅薄な次元で「協調性」のことではなく、このような、敏感なセンサーに基づく細やかな対人配慮のことを指すことを改めて強調しておきたい。

 こうした前提で、再び内海氏の著作からの引用に戻ろう:

 「端的に言うなら、[鬱病になりやすい人の]同調性とは、環界と共振・共鳴する原理である。それ自体において、病理性が希薄である。分裂性が、のちにミンコフスキーによって引き継がれ、『現実との生ける接触の障害』という形で、統合失調症(分裂病)の基本障害として結実したのに来比べれば、はるかに健全な原理であるようにみえる。

 しかし、同調性も、行き過ぎれば病的なものになりうる。そのことについて、ミンコフスキーは、同調性格者は『[躁状態とうつ状態の]波にさらわれる結果、自我を確立し、進歩するための地歩を固めることができない』と指摘している。(中略)

 同調性とは、自己が世界と関わりを持つための不可欠の原理であるが、その一方で、自己を押し流し拡散する危険を孕(はら)んでいるのである」(pp.139-40)

****

 さて、いよいよやっと、双極「2型」の人固有の対人関係特性とその失調の話に入れる。

 連載の今回は、その中の、今述べてきた「同調性」に関する側面のみを取り上げよう。

 「双極II型性障害、とりわけ若い事例では、相手が何を考えているのか、大抵のことはわかるという。余裕のあるときには、先を見越して対応ができる。二手三手先まで読む。[ところが、]具合が悪くなると、今度はそれが裏目に出る。読みすぎ、気を使いすぎ、疲れてしまう。相手も自分と同じくらいに[こちらの気持ちを]読めるのではないかとと思い、合わせ鏡のような一人相撲になる。

 また、皆がうまくいっているのか、どこかで諍(いさか)いが起きていないか、ということも、重要な関心事である。そして大抵、彼女らの勘はあたっている。おそしてみるまに、対人関係の相関図が、頭の中に描かれる。

 こうした特性は、彼女らが生まれ育った家族での関係が反映されている。彼女らは、おしなべて甘えべたである。親に甘えるというよりは、むしろ親が彼女らに甘えてきた、と言った方が適切である。

 この関係は、家の外でも再現される。彼女らの多くは頼られる。明白な場合もあれば、目立たぬ形を取る場合もあり、あるいはスケープゴートとして機能を果たしているときもある。(中略)

 この頼られることは、彼女らの生きがいでもあるのだが、抑うつの時には大きな負担となる。(中略)

 双極性II型障害の事例がきまって言うことは、「悩みを持ちかけられる」ということである。そして最も苦手なことが、「他人の悪口を聞かせれること」である。(中略)ある患者はこのことについて、「影で他人の悪口を言うことは、私の悪口もどこかで言っているということになります」と説明した。論理的に聞こえるが、むしろ相手に対する直感的な洞察なのだろう」(p.151)

****

 今回の最後に、では、こうした、双極性II型の人たちへの精神療法において何を大事にすべきかについて、特にこの「同調性」関連で内海氏が述べている部分から引用したい:

 「どのような精神療法にも共通することであるが、患者が自分の問題に気づき、そしてそれに対応するためには、その問題を単に欠点として自覚するだけでは十分とはいえない。

 ・・・というより、それでは患者は浮かばれない。症状であれ、性格の特性であれ、それらは両義的であり、[=環境への不適応の要因になるともいえるが、同時に、その人なりにうまくやっていく上での『強み』でもあり]、かならず評価すべきところがある。

 ましてや、双極性II型障害[の人]が持つ他者配慮は、肯定されてしかるべきでものである。
 この利他的なあり方の中に、ただちに偽善、おせっかい、支配、自分本位などを読み込むべきではない。それは通常人が自らを投影しているものである。
 
同様に、他人の顔色をうかがう小心さ、過度の傷つきやすさ、拒絶への弱さなどになどの脆弱性に還元してすませるべきでもない。

 仔細に日常のあり方、そしてそこにいたる生き方を見てみれば、彼ら彼女らの「けなげさ」「かいがいしさ」を感じ取ることができるはずである。

 他人への配慮や気遣いをしつつ、彼らが奮闘してきたこと、
 彼らによって支えられた人たちがいること、
 そして
 誰もそれを評価しておらず、にもかかわらず、患者に依存し、患者の気遣いを湯水のように消費してきたこと、


そうしたことにに共感が示されるべきである。

 少なくとも、他者への尽力に役に立ったのであり、意味があったのだということを、治療者は繰り返し与えて返してしかるべきである。

 このあたりのへの共感性が持てないと、この疾病に対する治療は、ちょっと難しいかもしれない
(p.161)

(第3回につづく)

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2008/09/19

相手のためにとがんばり過ぎるカウンセラーは未熟である?(第2版)

 これ、カウンセラーの間でよくいわれることなんですけど。

 確かに、自分ができそうにないことについては、少なくとも、その件に関してより経験を積んだ専門家や専門機関を紹介するのは当然のことと思います。

 でも、タイトルで書いたような捉え方に、私の中には一抹の違和感がある。


 では、いつになったら、そのカウンセラーはそれまでの守備範囲を超えたところまでアプローチに習熟するんでしょう??? 

 少なくとも、外部機関への適切な紹介の仕方に習熟するんでしょうか?


 そういう事柄について通りいっぺんの研修を受けたらOKなのか?

 いちいちスーパーバイザーが許可するのか?


*****


 それに、いくらマニュアル的に、危機介入や、外部機関への紹介の仕方について学んでも、そうやって、カウンセラーがそれまで未経験だった領域に踏み出す必要性は、現場ではどしどし押し寄せます。

 そういう時に、冷静、かつ、クライエントさんとの関係性を大事にしながら対処できるかなんていう次元まで、とても日本のカウンセラー養成の現場で教えてくれてないじゃないですか。

 「カウンセラーは、自分にできないことは断ってばかり来る。他所へまわれと突き放す」

という、一般のクライエントさんの声に、受け身なまでいいとはとても思えません。

 そういう時のカウンセラーの言葉が冷たく響くのはなぜか?

 マニュアル通りに話しているだけだからです!!


 そういう次元でこそ、現に、カウンセラーの評判に差し障っているというのに。


 カウンセリングの歴史を前に勧めて来たのは、いや、医療の歴史を前に勧めて来たのは、名もなき現場の開業臨床家である。


 フロイトですら、そうだったということ。


 思わず、村瀬嘉代子先生が講演で語られた言葉を思い出す:

「クライエントの役に立つことを、とにかく考えなさい」

****


 以下の記事ご参照を:


●当時の外科医はマッチョで非情な「大工職人」だった -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論1

●「皆さん、手術の前には手を洗いましょう」の創始者、ゼンメルワイスの苦悩 -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論2 (未完のままですが)


 

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