精神分析

2011/10/17

ストックホルム症候群 -水樹奈々 自伝「深愛」について-

「ストックホルム症候群」という概念がある。誘拐や監禁の被害者が、極限状態の中で犯人に同情や連帯感を抱くようになることであり、1973年にスウェーデンのストックホルム市で起きた銀行強盗において、1週間に及ぶ立てこもりの末に人質が解放されたが、その後、元人質たちが犯人をかばう証言をしたり、警察を非難したりしたほか、元人質の一人が犯人と結婚するに至ったことで注目され、この名が付けられた。

「まるでストックホルム症候群みたいだね」・・・水樹奈々が自分と「先生」との関わりを知り合いに告白した時に言われた言葉だそうだ。

堀越高校芸能科は、所属事務所があることが入学の条件である。彼女の才能を認め、上京して面倒をみることを引き受けた「先生」との二人暮らしでの生活は、厳しいレッスンと同時に、彼女のためなら、会社が倒産しても「自分名義の事務所」を立ち上げてまで面倒を見る熱心さがあった。

その「絆」が同時に「しがらみ」であり、「束縛」でもあることの辛さを心から受け入れるまでに、彼女は数年の歳月を必要とした。そこには「第3者」との関わりが必要だった。

どういう領域でも、密接な「愛に満ちた」師弟関係と言うのは、常識人が一歩踏み込んで聞いたらびっくりするような歪んだ側面を抱え込んでいるものである。

そして、そもそも、そうした「先生」との関わりの様式は、彼女の実の父との関わりが「反復強迫」されたものに他ならないとも言える。

演歌三昧の父から、生まれながらにして「紅白に出場する演歌歌手になること」を期待され、日常生活を拘束されて練習漬けの日々の中で育った彼女の生育歴は、まるで「巨人の星」の一徹と飛雄馬との関係性をなぞるかのようである。

それに加えて、子供時代から歌がうまいと遥かに年上の地元の演歌好きたちに言われて育った「オトナ子供」の彼女は、小学生の頃、周囲から浮いた「変な子」であり、普通の子達から見れば、嫉妬も入り混じった形でいじめの対象ともなることはごく自然な成り行きだろう。思春期に入る前の普通の子供というのは、ある意味では残酷なリアリストである。決して彼女の被害妄想ではない。

ただ、そうした父や「先生」の溺愛と厳しさが、彼女に芯の強さを植えつけたことも、また事実だろう。

本書は、奈々さんが、語り得る範囲で、本音の自分をありのままに描き出した本だと思う。

声優を目指す人達への、先輩としての十分なメッセージにもなっている。

=======以上、私のAmazonレビューの転載========

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村

2011/06/24

格差社会の中での自分探しとフォーカシング(togetter)

このtogetterは、坂井 素思・岩永 雅也 (編著) 「格差社会と新自由主義」を読んで、経済学・社会学的見地から今の日本の生きづらさと解決の方向性について考えさせられ、引き続き、池上正樹(著)「ドキュ メント ひきこもり -<長期化>と<高年齢化>の実態-」を読んで感じた、世代や社会人経験を問わず、自分のあり方について熱心に内的に追求する層 こそ引きこもり=永遠の失業者に陥る現状に刺激を受けて、今度はそうした現代の「自分探し」の堂々巡りの解決のための具体的方法論としてのフォーカシングの可能性という、カウンセラーとしての私の専門領域での実践活動に到るまでを紹介するという、かなり越境領域的なツイートの連鎖です。

フォーカシングの名教師・アン・ワイザー・コーネルさんの"Radical Acceptance of Everything"(邦題:「すべてあるがままに」)で述べられた諸見解について、私なりに噛み砕いた紹介にもなっています。

途中、唐突にテーマが 変わるかに見える部分があるかと思いますが、繰り返して読み返していただければ、私の思考と連想の過程が浮かび上がるかと思います。

こちらからどうぞ。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2011/05/31

虐待と精神医学 1 (Togetter)

 昨日の続きとも言えますが、今回は、著作「うつは薬では治らない」で知られる、上野玲さんにもご参加いただきました。4者入り乱れての、しかし生産的な対話になったと思います。

 

こちらからどうぞ。



blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2011/05/25

故郷を求めて -NHKスペシャル:「虐待カウンセリング 柳美里 500日の記録」-

 作家、柳美里さんの息子さんへの虐待問題は、彼女がそうせずにいられなくなる心情を自身のTwitterで赤裸々に発信していることにネット上ではとっくに毀誉褒貶の嵐が吹き荒れていたことは私は知らなかった。

 子供に虐待をする親は、得てして、親自身が子供時代に虐待を受け、更に親の親もまた・・・という不幸の連鎖があることは結構知られていることかと思う。

 彼女がそのカウンセリングの過程の「一部」(録音のみの公開となった部分もある)をこうして映像で公開したのは、彼女が私小説的な作風の作家だからこそ許されたことだろう。

 ただ、先取り的に書いてしまうと、そういう「有名作家の被虐待児」として育った、ドキュメンタリーにもなったことを「今後」背負って生きていかねばならない、これから思春期に入る息子さんのことを思えば、彼は同じ過ちを繰り返さないとしても、それだけでたいへんだろうなあとは思う。

*****

 彼女は、15歳で家出、31歳でシングルマザーとなる。彼女は完璧な母親を目指した。そうこうするうちに、息子が食べ残しをするだけでも激しい怒りを感じるようになる。

 歯磨きに一日5回、計3時間費やさせないと気が済まない。さもないと歯ブラシで喉を突いたという。

 息子と適切な距離を取らないとやっていけないのはわかっていた。そういう中で、虐待専門のカウンセラーのカウンセリングを受けるようになる。

 (敢えてカウンセラーの先生の名前はここでは伏せる。ただでさえNHKスペシャルが放映されてその名が知れ渡り、翌日からは相談が殺到したことが想像できるからである、カウンセラーでも、精神科医でも、その名が知れ渡り過ぎると、どうしてもキャパを超えはじめる。クチコミで久留米一人気が集まった精神科クリニックが3分診療に追い込まれた現実がある。ほんとうの名医は宣伝されることを避け、精神科クリニックとは思えない佇まいのひっそりとした外観の建物で、精神科ということを表記しないままで営まれている場合もある)

*****

 まずテーマとなったのは、父親との関係である。パチンコ屋の釘師であり、しつけと称して彼女に暴力をふるった。彼女の母は教育熱心だったが、彼女はそれに反抗し、家出や自殺未遂を繰り返した。

 母に繰り返された暴言は「産まなきゃよかった」であり、「殺して責任を取る」と包丁を持ち出されたこともあったという。

 カウンセラーは問いかける:

 「お父さんからなされていたのは、『虐待』ではないですかね?」

 ここで「虐待」という言葉をもらって、彼女ははじめてそれを受け止めることができた。

 「私が悪いことをしている時に殴られるのだと思っていた」

 カウンセラーは答える。

 「かなり洗脳されてますね」

******

 番組はここで一度柳さんのことを描くことから離れ、カウンセラーの所属組織が主催する「親子連鎖を断つ会」よいう、集団カウンセリングの参加者のひとりのことを取り上げる。

 「親はやさしかった」

 だが、Aさんは、

 「『やさしい』って、どんな感じですか?」

・・・と問いかけられる、沈黙し、当惑する。「やさしい」という言葉にフィットする「実感」の方は探しても見つからないのだ。

(当ブログの読者の皆様は、ふと、フォーカシングのことを連想してしまうだろう)

 カウンセラーは更に言葉を吟味する。

 「お母さんのこと、『好き』だった?」

 こうして彼女は、「親に対しては『気持ちが動かない』ことに気がつく。

 カウンセラーは解説する。

 「『悲しい』、『寂しい』を抱く場面で何も感じていないということなんです。そして、そういう、『葬られた』感情が今度は子どもに向けられることになる」

 Aさんは、継母から躾と称する虐待を受けていた。

 父からは、

 「家の雰囲気が悪いのはお前のせいだ」と、よく、突然叩かれた。こうなると、もう、何が悪いのかわからない。

 どこまで気を使い、どこまで尽くせばいいのかわからない。

 Aさんの子供は不登校になったが、そういう息子に、彼女は暴力を振るうようになり、時々寺で気持ちを落ち着かせるしかなくなった(番組では、その寺の住職に再会する場面が描かれている)。

 集団カウンセリングの中で、虐待の記憶が蘇るにつれ、彼女は、幸せそうな家族を見ると吐き気を感じるようになる。会に参加しようとすると、死ぬしかないという思いが生じ、自傷行為に走る。足の裏の指の皮を、歩けないくらいにひりひりするまでめくっていったという。自己処罰行為である。

 なぜ自分は虐待されたのか? 親戚を回って調べ始めたという。

(こういう展開を知ると、カウンセリングが単に密室の中で進行するものではなく、現実世界の中での他者との無理のないところとからの新たな関係形成が両輪になる必要があることが示唆できる。自分探しは、具体的に過去の現実と、勇気をふるって、白紙で向かい合おうとするなかでしか進行しない)

 継母は、実は子を産めずに離婚された経歴を持っていた。

 父は、大病を患い生活が苦しかった。そのため子供を望んではいなかった・・・そうしたことがわかってきた。

 それを知らされると、「自分が悪い」という感情がなくなっていったという。

 「ずっと操られていた。全く『自分』を生きていなかった」

 そのことが、Aさん自身が子供の成長を見守れないことにもつながったのだと。

 「親からの『卒業』」。

 それ以来、子供と適切な距離を取り、感情を抑え、大目に見ることができるようになっていったという。

 結局、息子さんは、不登校から抜け出し、大学を卒業、プログタマーとして働いているという。

 Aさん曰く、「4年がかりでした。ペット感覚だったんですね」

*****

 さて、柳さんのカウンセリングのその後の展開を見よう。

  カウンセリングを始めて1年が経過していた。

 柳さんは、両親と久しぶりに会って対話してみようと思うように徐々になっていた。

 しかし、実際の母との対話には動き出せなかった。

 「お母さんとの対話に動き出すことはリスクは伴うかも」

・・・とカウンセラーが示唆すると、柳さんは、

 「壁を壊したら母も私も決壊してしまうのではないかと怖い」

 この頃から、柳さんの精神状態は不安定になる。それを思わすTwitterで発信した。

 フラリと家を出て、帰ってこないこともあった。

 以前は忠実だった息子は反抗的になり、他方、お手伝いさんには退行して甘えるようになった。

 「私には、母を『お母さん』とつぶやいたことはありません」

*****

 カウンセラーは、まずは父の過去を直接聴いてみることを柳さんに勧める。

 「娘であるあなたには知る権利があるんじゃないでしょうか?」

 柳さんは、父と久々に面会するのが怖かった。

 父はすでに72歳であった。

 面会の場に現れたのは、飄々とした学者風の好人物そうですある父の姿。

 だが・・・・

 父は、

 「娘(柳さん)を『虐待』したことはない」

・・・・とばかり。

 (画面のその様子は、言い訳をしているというより、ほんとうに記憶がない、乖離しているかのように私にはみえた)

 3回目に会った時、柳さんは、迷った挙句に、言葉を紡ぎ出すようにして、次の質問を父に向ける。

 「人生に何か悔いはありませんか」

 父は答える。

 「僕は出世したかった。学問を学んで。知らない人がいないくらいに有名になりたかった」

 柳さんは問い返す:

 「そうなれなかったのが一番の悔い?」

 父は、やっと、多少の感慨を込めて返事をする:

 「悔いは、そういう僕のせいで家庭が壊れたのだとすれば・・・・柳もたいへんみたいだね。それも僕の責任じゃないかと思う」

*****

 折も折、父の姉の十三回忌が営まれた。柳さんは敢えて法事に参列した。父のことを更に知りたい思いがあったから。

 「私は、父の娘というタガにはめられているんです。42歳ではなくて。まるでお地蔵さんになって立ってるみたいに、『怖い』になる」

 その法事の中で伝聞したんのは、以下のようなこと。

 柳さんの父はギャンブルにのめり込み、それに愛想を尽かして母は家を出た」。ところか今度は母自身が虐待を振るう側に回った。

 (ここで柳さんの15歳の頃の写真が画面に映る。私が驚いたのは、現在の柳さんとほとんど変化のない顔立ちだったことだ。実際彼女はまだ子供のままなのである!)

*****

 そして、ついに、老いた母が面接室に現れる時が来た。

 母が「大丈夫」という言葉を面接室に入って思わず繰り返すことにカウンセラーは気づく。

 「本当は大丈夫ではなかったのでは?」と問いかけるカウンセラー。

 母の母は継母だった。

 「一番肝心なことは口にしたこともありませんよ」

 「過酷・・・としかいいようがない」

 母は、2回だけでカウンセリングを拒むようになる。

*****

 柳さんは、自分の親の生い立ちを知らないことに気がつく。そして、父の生い立ちを知るために、父と一緒に、父の生まれた韓国の故郷に行ってみたいと思うようになる。

 カウンセラーもその旅に同行する。

 この条件で、その気になれたのだ。

*****

 父の故郷、山清(サンチョン)。

 父の語る思い出話は、小学校時代のこと。

 薪(まき)を打っていた。それで生計を立てていた。

 実は、父の父は資産家だった!!

 日本でも成功した、

 だが、韓国に戻り、一気に転落した。梁の中の竹林に掘っ立て小屋を立てて、薪を売った。家族総出で田畑を耕した。

 兄嫁に会いに行く。

 兄嫁は、日本で生まれ、父4歳の時に結婚した。以下、彼女の話:

 父の父は怖い人で、すぐに叩く人だった。兄嫁の夫も叩かれた。それどころか尻に刃物を刺されたこともある。

 「自分より子は優れていないとならないのに、、息子は自分より落ちる。そんな息子は竹槍で殺す」

 そういう父(父の父、兄嫁の義父)の言うとおりにしないと怖かった・・・という。

*****

  こうした中で、柳さんの中に、次のような感慨が生じる:

 「今まで父に対する時は子供のままでいる気がしていた。でも、子供だった父の姿が見えてくると、そういう子供の父がかわいそうだと思えるようになってきた

 カウンセラーは付言する:

 「それは、柳さん自身の中の子供の部分への『かわいそう』という感情にはつながらない?」

 柳は応える:

 「・・・・かなしい」

カウンセラー;「柳さんの中で、初めてお父さんに関することで感情が動いたみたいですね」

柳:「自分と父の土壌は、地続きのようでいて地続きではないんだ」

*****

 この後、柳さんの子供への接し方に徐々に変化が現れる。

 息子が塾の入試で不合格になっても、柳さんは落ち着いていられた。

*****

 このあとは、このエントリーの冒頭で「先取り」して書いたように、柳さんと息子さんのかかわりの変化は、まだはじまったばかりであり、これから、ひと山もふた山もあるであろうことを示唆して、番組は終わる。

*****

 ・・・すでに放送されて一週間以上立っているが、私は録画したものを見返して書いているんではない。番組を見ながらの速記録を再現しているだけである。多少の言葉の相違があってもお許し頂きたい。

 だが、これはそのまま私の面接記録のとり方のスタイルである。彷彿とさせる再現力に一目置いていただければ幸いである。

 単に面接を終えてからの記録なんて、肝心なことはほとんどそぎ落としているものだ。

*****

 NHKスペシャルの詳しい紹介は、私のブログの定番であり、きっと多くの読者に読んでいただけるであろうと思う。私は画面込みでの「再現」に専心し、あまり主観的な感想はのべないままでいようと思う。

 ただ、それでも付言したいのは、単に「虐待の連鎖」などというふうに図式的にのみ教科書的に習い覚えるだけでは、とてもとてもこういうカウンセリングは進められないだろうということだ。

 彼ら、彼女らは、薄皮一枚剥がせば深い人間不信をかかえて生きてきている。表面的な受容や、さりげない仕草だけで容易に安定した関係は崩れるであろう。

 それどころか、こうした人達と面接する中で、そうした「負の連鎖」がカウンセラーをはじめとする援助者の日常にまで影響する可能性は大変高いことを肝に銘じるべきと思う。援助者自身の家庭で、思いも寄らない件で少し諍(いさか)いが出るとか、施設内でいつの間にか、利用者に暴君的に振舞ってしまうなど、大いにあり得ることを覚悟すべきである。

*****

 私は、やや子煩悩過ぎる父母のもとに生まれたが、不思議と父に「褒められた」記憶がない。それは、多感な頃に中国大陸で終戦を迎え、一家没落に耐えて経理の超人となった父の生育歴と大いに関わると思う。

 おのれのことをあまり話さない寡黙な父だが、それでもいくつか、私の子供時代に、辛辣な大陸時代から引き上げ(父の父は馬賊に銃殺されている)、戦後初期のエピソードは伝えてくれていた。故郷久留米に帰った今も、ポツリポツリとそうした言葉を聞けている。

 まさに、父と土壌は繋がっているようでいて、違う時代を違う土地、関東で30年生きた。

 父と共有する「土臭さ」、祖父の代までの教養の高さの「血」を受け継いでいるlことそのもの(ただし学歴とは無関係に父の広範な読書パワーは驚異の域)を、誇りに思う一方で、父とは違う、でも父にも「よくやったな」と言ってもらえる人生を、私なりに故郷久留米でこれから創りあげたいと思っている。

 そうそう、最近、大工の娘にして女学校を出た、大正生まれの母が笑いながら電話口でこぼした言葉。

 「私は女学校時代、国語だけは成績優秀やったけんね」

・・・・はじめて聞いた話。

 ここに、漢字の書き取りと古文の品詞分解以外は、何の努力もせずに、共通一次テスト200点満点だった息子がいるのだが。  

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2010/10/21

少年は本当に神話になりつつあるのか? -ヱヴァンゲリヲン 新劇場版 破-

 私にとって、「エヴァンゲリオン」(以下、新字体で統一します、お許しを)とは、もはや手を触れてはならない、禁断の地になっていました。

 これは決して大袈裟ではない話です。「エヴェンゲリオン」との出会いとその後の成り行きで、「リアルワールドでの」私の人生に大きな転機が生じました。

 そして、それは筆舌に尽くし難い、今も私が背負い続ける、人生の悲劇の重荷と深く結びついています。

 ほんとうに、大袈裟ではなく、そうなのです。

 私の人生がマジに背負うしかない「十字架」として、この作品は、本当に「残酷な」までに横たわっています。

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

 新劇場版の「序」は公開時に映画館で観ましたが、いくら背景等をデジタル処理しなおしていても、新作シーンの少なさ(若干「補完計画」への伏線張りはしたものの)と、TVシリーズの物語上の編集の「重心度」や「カット割りのテンポ感」に、どうしても違和感が残りました。

 この水準なら、わざわざ「新劇場版」として公開するに値しないとすら。

 

*****

 さて、ずっと「のだめカンタービレ」系で記事を走らせてきましたが、「最終楽章」後編がいつまでもレンレッド・アウト(?)状態の中、ふと、「破」を観てしまうという「賭け」に出てしまおうか」・・・と思い立ちました。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.【通常版】 [DVD]

 これは、正直、驚きました。

 TVシリーズの「全面改訂版」「完全に動画新作」ですね。

 新キャラである、真希波・マリ・イラストリアスも存在感あるキャラクターですが、アスカやシンジ、レイ、それどころかゲンドウに到るまで(!)「性格設計」の基本を一からやり直した。

 庵野さんのこの十数年における作家としての成熟が、如何に目覚しいものであったかがビンビンと伝わります。

*****

【・・・・・以下、壮絶な「ネタバレモード」です!!】

 アスカの方がシンジをめぐってレイに焼きモチ焼きまくりなのは微笑ましいし(信じられない光景・・・)、料理修行に励み出し、ゲンドウを皆との食事に誘うレイなんて仰天の域。

 「食べ物を作ること」の意味というのが物語の重要なキーになっている。

 第3新東京市の日常風景描写も、もう、ここまでやるかという徹底度。どこまで作品世界の設定を緻密にすれば気が済むんでしょうね(^^)

*****

 更に言うと、TVシリーズで言う「参号機」(第9使徒)事件(18・19話)・・・・対象がトウジからアスカに置き換わるという衝撃的な展開が1つ目のクライマックスです。

 私は上記拙書「エヴァンゲリオンの深層心理」で、ここでのゲンドウの残酷な命令を「全面支持」するという、当時は非難轟々の作品解釈をしました。

 私の書いた本ですから、当然著作権者は私自身ですので、全面的に引用しちゃいましょうね。

7296d0b28fa020f5ec717110l_sl500_aa3

 ゲンドウは、シンジの[「人を殺すよりはいいよ!!」という]言葉を聴いた瞬間に、シンジへの命令を諦めて、ダミープラグに情け容赦なく切り替えているのである。

 このような事態において、シンジが取るべきだった、彼には見えていなかった正しい選択肢は何だったか。それは、迷うことなく先制攻撃を仕掛け、エヴァ参号機の動きを完全に封した上で、パイロットの乗るエントリープラグを救出する。エントリープラグの救出を取るか、シンジの初号機がやられないうちに参号機を破壊するかの二者択一に迫られた場合には、迅速な決断をして、涙を飲んで、エントリープラグもろとも参号機を破壊することを選択する。これしかなかった筈である。

 シンジが参号機を攻撃しなくても、そのままでは使徒に乗っ取られた参号機は更に破壊と殺戮を続け、どんな手段を取ってでも誰かが破壊せねばならなくなることは目に見えていたはずだ。しかも、シンジの乗る初号機を使う以外に参号機を行動不能に陥らせ得る手段はない。[参号機]パイロットへの精神汚染の進行を食い止めるという点から観ても、パイロットを長時間、使徒に乗っ取られた機体に乗せたまま放置するのは得策ではない。シンジ自身の初号機にも粘菌状の使徒がまさに侵入しはじめていた。

 ・・・・結局、シンジが参号機への攻撃を先延ばしにしてプラスになる要因はなかったのである。厳しい見解であることを承知で言えば、シンジは、自分が「他人を傷つける存在」になるのが許せなかっただけだ。自分のナルシシズムが傷つけられるのが嫌だっただけであり、本当には参号機パイロットのことは気にかけてはいなかったのである。[父親に褒めて欲しかったという]自分中心の行動原理でしかエヴァに乗ってはおらず、参号機パイロットを含めた人々の命を守るために戦うということが、本当にはわかっていなかったシンジの、これが限界だった(p.91-p.92」

 ・・・・今、自分で改めてこの箇所を打ちなおして自分でゾクゾクしてしまいました。

 私は、拙書刊行時の、今から13年前の段階で、この「参号機事件」をここまで「観切って」いたのだ!!・・・・という深い感慨です。

 どうです? 新劇場版、まさにこの点で観客を絶対誤解させない展開に、実際に描かれています。

(・・・まさか、庵野さんご自身に拙書をお読みいただいていたとすれば光栄の至りですが、少なくとも斎藤環先生は、直接お伺いしたところ、本書読ん下さってましたからね。・・・・)

 そして、この事件の直後のシンジの反応がTVシリーズと劇場版では公然と異なります。

 シンジは、父ゲンドウへの「反抗期」に、決然と突入するのです!!。

 そして、第2のクライマックス、第10使徒との戦いにおいて、ゲンドウに向かって、

  「僕はエヴァ初号機のパイロット、碇シンジです!!」

と宣言する時、TVシリーズと同じセリフなのに、説得力がまるで異なるカッコよさがあるんですね。

 そして、シンジは、「代わりがある」レイではなくて、「かけがえのない」レイを救うためにこそ全力を尽くす!!

 このしなやかに流れる物語展開の説得力・・・・これこそ、庵野さんの十数年が獲得したものなんだと思います。

****

 戦えるチルドレンが4名と設定されたことで、TVシリーズと異なり、3機のエヴァで使徒と戦うシーンが増えているのも注目点。

 二者関係ではなくて、三者関係になった時に、人間ははじめて社会的存在になる。エヴァ搭乗者相互の「チームプレー」がTVシリーズより遥かに前景に出ていることになる。これもいいい。

 物語全体が、「プレ・エディプス的(ボーダーライン的堂々巡り)」ではなくて、「エディプス・コンプレックス克服指向」で決然と進行している。

・・・not be advanced?

No,they are being advanced!

*****

 「人類補完計画」の実体も少しずつ見えてきた気がします。

 Nerv内部でも地域支局によって思惑が違う・・・つまり、ゼーレとの距離感と接点が異なる「派閥構造」がある・・・と受け取れる伏線展開も、今後に向けて興味深いですね。

 私の推定では、以下の3つの勢力の抗争状態が、この「新劇場版」の物語世界には隠れているという「仮説」を取り敢えず立てておきます。

  1.  「神」そのもの(?)・・・・地球に増殖した人類を始めとする生命体の発生そのものを、宇宙における「突然変異」とみなし、地球に次々と「使徒」を送り込み、地球を混沌とカオスの死の星に回帰させようと目論む主体。
  2.  「ゼーレ」・・・・「セカンド・インパクト」そのものがゼーレによって実は引き起こされたもの。その目的は、汚れきった地球を完全浄化して、「神」との「聖なる合一」=「死」を志向している
     =彼らが目指す「サード・インパクト」。
     カヲルはあくまでも「ゼーレの側が」今後送り込む???
  3.  Nerv(の、少なくとも日本支部最上層部)・・・・「セカンド・インパクト」前の地球を取り戻すことを一方で志向するが、その地球とは、必ずしも清浄なばかりではない、食物連鎖もあれば、人の生き死にもある、生々しい環境の中での、清濁併せ呑む、生活臭のある「生(せい)」である。
     そして、その実現のためには、「セカンド・インパクト」後に生まれた「チルドレン」世代の"evolution"=更なる「覚醒」が大きな足がかりになるとみなしている。
     それが、彼らが目指す、ゼーレとは別の「サード・インパクト」であり、ゲンドウたち「旧世代の」人間の上層部のほんとうにコアな人間は、そのために自分たちが「捨て石」になる覚悟のもとですでに生きている。

・・・・・さて、どこまで当たるかな?

*****

 大事なのは、「セカンド・インパクト」で生まれながらに遺伝子に先天的な変化が生じている層=チルドレンしか「エヴァ」搭乗候補生はいないという伏線があるはずということです。

 だから、例えば「セカント・インパクト」直接被爆者であるミサトは絶対エヴァには乗れない。ミサトにすでに子が出来ててその子が13歳(・・・・あり得ないですが)なら、その子については話は別・・・というふうに了解できるかと思います。

 ただし、レイが、シンジの母、ユイが実験中エヴァ機体に事故で融合された後救出された「遺伝子」から生み出されたクローンであるという隠れ設定は、TVシリーズの頃のままと私はやはり感じています。この点で、他の「チルドレン」とは別格であり、彼女が”Q"に入っても特別なキー・パーソンであることは揺らがないでしょう。恐らく、ゲンドウと運命を共にして宇宙の藻屑になっちゃうか、地球の大自然と一体化するというあたりではないかと。

*****

・・・・・・なーんてことを、実質13年エヴァから離れていた私、一瞬にして「寄り道」して「補完」しておくのでした(^^;)

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2010/10/20

「のだめカンタービレ」アニメ版(日本編)、丸一日で制覇!!(第3版)

 ・・・え? 前回の記事最後で書いたことと、スケジュールがまるで違うって?(^^;)

 仕方がありません。

 「最終楽章」後編のDVDレンタル開始は10/7でしたから、お店には「貸出中」の空しいケースが、ずらり並び続けていました(T T;)

 ところが、アニメ版日本編は、全8巻=全23話、置いてあるじゃないですか!!

のだめカンタービレ VOL.1 (初回限定生産) [DVD]

 こうなったら、私の、遅れてきた「のだめ」ワールド完全制覇に向けての大航海の寄港地の順序を一気に変更しよう!、という即決でした。

*****

 アニメのTVシリーズを全部の回を観るのは「天空のエスカフローネ」本放送(1996)以来何と14年ぶり(!)、ましてやDVDという形で一気に観るなんて、生まれてはじめて、しかも丸一日でぶっ通しで鑑賞完了!!・・・という、のだめの発揮する、あのピアノ練習の集中力並みの力技でした(^^)

 でも、すでに実写版は「最終楽章」後編を残して全部観て、全部ぶっ飛ぶべき傑作と感じたあとで、もうどっぷり首まで「のだめ中毒」にはまってますから、何とも気軽に、私にとっての休日の昨日(10/19)、飯と風呂だけは、のだめや千秋と異なり、きちんと中休みして遂行しながらですが(爆)、何ともさらーーーーっと、23話見通してしまいました。

*****

 裏を返すと、実写版とは少しテイストが異なる魅力があると十分に感じ、ひたすら引きこまれて行った。

 国産初のTVシリーズアニメ、「鉄腕アトム」本放送をライブで観て、高校で「ヤマト」ブーム世代=恐怖の「1960年生まれ組」アニメファンという、一番年季が入った層(しかも、かつて「アニメージュ」「OUT]の投稿常連だった超ディープ層)で、大人になって、エヴァ本、「エヴァンゲリオンの深層心理―自己という迷宮」まで出した私が、あっさり満足したということです(^^)

 もちろん、TVシリーズの予算の範囲内で作られた制約というのは勘定に入れてます。でも、それは、演奏シーンの動画がもっと流麗に「全部」動いて欲しい、という、超贅沢な不満点だけなんですね。

***** 

 演奏音源に関して、基本的には実写版の使い回し+αで確保できたという、リサイクルのメリットもあったでしょう。しかし、実写版TVシリーズの放映終了から僅か三週間も立たないうちにアニメ版第1話が本放送され始めていたと知って呆然。

 このスケジュールだと、アニメスタッフは、実際には実写ドラマを実際に見て参考にしていないことになる(茂木さんの「内幕本」で、ドラマ編の編集作業は、実際には、放送前日も、徹夜で進行していたと明言されていますので)。

 ・・・・ということは、私がこの段階で立てた仮説通り、原作そのものが実に完成度が高かった、そして、可能な限り原作のテイストをそのまま映像化するという高度な要求水準を満たしたという「だけ」のこと(でも、それは誰も予想し得ない水準の「そそり立つ壁」へのチャレンジだった)・・・というに尽きるでしょう。

 もとより、実写版の、あそこまで切れのある、当時画期的に斬新だった筈の演出のもとで、「生身の人間」(一瞬だけ人形^^;)である上野樹里さんや玉木宏の演技の才能溢れる役者魂、更に言えば、他の多くの俳優さんたちを含めて、本物の演奏家に混じって全く違和感のない「演奏シーン」を完璧に演じ「ドラマのフジテレビ」だからこそ可能な、トレンディでインパクトあるテイストで味付けられていた「凄み」のようなものは、アニメ案は比較しようもない。

 しかし、ドラマ版より結果的に長尺にでき、さらりと映像で描ける分、実写版では省略されたエピソードや登場人物まで描いてくれている(結果的に原作の演奏曲目のより忠実な再現に近づいている、実写版にはない長所もあることになります。

*****

 具体的に」原作へ忠実度がドラマ編を上回った例を幾つか上げれば:

  •  ちゃんと、ベートーヴェンの「英雄」交響曲が、Sオケの初演奏曲として出てきます。
  • シューマンおたくの私からすれば、モーツァルトのオーボエ協奏曲の前にちゃんと、我が溺愛の「マンフレッド」序曲を「演奏」してくれているだけで目の幅涙(T T)でありまする。

 「マンフレッド」序曲って、かなり通のクラシックファンでも聴いたことないままの人、少なくないかと思いますが、往年の、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルによる、おどろおどろしいインパクトに満ちた、伝説の巨匠的「超演」ライヴ録音(1949年、ただしモノラル録音)があります。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/ベルリン・フィル/シューマン:交響曲第4番,マンフレッド序曲

 ちなみに、神格化されている名指揮者、ヴィルトヴェングラーの私生活の実態こそ、まさにミルヒー(シュトレーゼマン)そのもの。つまり、無類の女好きだったそうで、意外にも、フルトヴェングラーこそが、シュトレーゼマンのモデルとみて、ほぼ間違いがない筈です(^^;)

 アニメ版で「演奏」されていたのは、この序曲の冒頭から2分ぐらいだけでしたけど、冒頭の、シューマンが敢えて「切分音(小節をまたいで、シンコペーションで半拍れで延々音をつなぐ、一種の「後打ち」メロディ。シューマンの作曲において独壇場の、特異な緊張感を生み出す「得意技」である)」で開始した序奏部の意図をきちんと掴んだ、よい解釈の「演奏」ですね(^^)

 (・・・なお。この「切分音」の扱いの不徹底さという点では、上述のフルトヴェングラー盤の作品解釈は、「楽譜との対話不足の(・・・・おいおい、どこかで聴いたような物言い平気で私はしてるな・・・)」、古えの巨匠だから許される、気ままなまでに特異な「のだめ」的奔放性を持つ(?)即興型のスリリングな演奏スタイルです。少なくとも千秋の作品解釈のあり方からは遠いので念のため・・・・)

  •  そして、大マジ、私が演奏曲で所有しておらず、聴いたことなかったのは、「あの」、エルガーのバイオリンソナタだけです。

 つまり、千秋の母方の叔父さんと全く同じで、「威風堂々」と交響曲、チェロ協奏曲と「朝の挨拶」、「エニグマ(謎)変奏曲」「序奏とアレグロ」までしかリスナーとしてのレパートリーはなかった。

 ・・・待てよ、千秋の伯父さんは、序曲「コケイン」および序曲「南国にて」とバイオリン協奏曲の聴取歴がない(私はCD持ってる)分だけ、私の方が伯父さんより勝ち!!・・・・クラシックCD1000枚だけは、いくら引越ししても「財産」として所持し続けて来た私ですから。

 でも、確かに、作曲年代からすれば古風といえば古風ですが、実にエルガーらしい、美しい曲だと思います(^^) いい曲知ること、できました!

  •  のだめちゃん、コンクール本選で、シューマンのソナタ2番とベトルーシュカの前に、ちゃんとモーツァルトのピアノソナタ第8番イ短調を弾いていた実際の演奏(?)も聴けて、よかったです。いい演奏ですね(^^)

*****

 そうそう、OPの絵コンテ幾原邦彦さんがお描きになったものなのですね。

 懐かしいです。

 皆様、驚かれるかも知れませんが、私は、幾原さんが監督した、「劇場版セーラームーンR」(1993年。「エヴァンゲリオン」の先駆と断言していいい「超傑作」ですね!)について論文を書き、学会発表までしてます(つまり、学会発表で公然と映像を映写しました。「学術的な発表」なので、これは「著作権に抵触」しません)。

 それどころか、その時書いた論文を「東映動画気付」で幾原さんにお送りし、幾原さん直々のお返事を手紙で頂くという光栄を得ました(^^)。

 何か、「のだめ」関連記事では、私は完全に「千秋様」化し、「俺様」キャラになってますね・・・・お許しを。

*****

 但し、このアニメ版、オーディオ的観点から言わせていただくと、DVDで視聴した限り・・・ですが、アニメ版、明らかにドラマ版と同じ音源です。

 (ご存じないのだめファンのみなさまもあるかも知れませんが、演奏シーンに関しては、既発売CDなどの「既成音源の流用」はされていません。すべてこのドラマ化とアニメ化のために新たに収録されたものです)

 それにもかかわらず、このアニメ版、実写ドラマ版の地上波デジタルの音声より、音の生々しさがかなり落ちます

 これは、DVDの方が地上波デジタルより実は音質が劣る特性を規格上もともと持つが故なのか?

 それとも、アニメ版のイコライジングが実際に「かまぼこ状」になっているのか?

  1.  更に可能性を言えば、「敢えて生々しさをアニメ版では消す」ための意図的な「音響演出」としてのイコライジングなのか?
  2.  それとも、アニメの音響スタジオ機器そものが実写ドラマの音響スタジオ機器のクオリティを持たないのか?
  3.  最後には、音響スタッフの「耳の感度」のセンスの良さの違い?

・・・・まで疑えます。

 少なくとも私は先日「パリ・スペシャル」のDVDの音を「聴いて」いる。それは非常に上質な部類と思いました。

 つまり、Dolby5ch収録でない「テレビドラマ」としては、クラシックの実際のコンサートライブのBSハイビジョンでの放送と、音質面で全く引けを取らないと感じました。

 たとえ再放送でも、最初からハイビジョン規格でデジタル収録されたソースの画質や音質劣化は、原理的にあり得ないと想定できますので、いよいよ「アニメ版の方がイコライジングが平板になっている」と推定でき、確実な失点かと思います。

 つまり、実写ドラマのほうが、アニメ版より、のだめやオケの演奏の仕上がり具合の違いが、アニメより生々しく「聴き分け」られるわけで、アニメ版はその点で、「理屈抜きの、実感を通した説得力」という点で損をしている可能性を指摘したいのです。

【追記10/10/20】:

 敢えてドラマ編DVDを試しに一巻だけ借りてきて視聴しました。同じ録音ソースの筈なのに、音の豊穣さと間接音成分の広がりが、アニメ版とは全く異次元です。

 これで、DVDソースで同じDVDプレーヤで聴き比べた以上、アニメ版のイコライジングの「かまぼこ型」的平板さは残念ながら明らかですね。

****

・・・などと、「そこまで言うか?」の薀蓄(うんちく)を書かせていただいたあたりで、私の「のだめワールド」航海日誌、第7回の筆を置きたい思います。

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(初回生産限定盤)(DVD付)

新品価格
¥2,360から
(2010/10/24 20:45時点)

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村

2010/02/20

「労(ねぎら)い」と「労(いたわ)り」・・・日常の中で、小さな健闘を讃えるということ

 国母選手の例を持ち出すまでもなく、今の日本人というのは余裕を失い過ぎて、他の人の「問題行動」を批判することには過敏だが、その人を「認める」とはどういうことかという点での具体的なスキルを見失いつつあるのではないかと感じる。

 こういう点では、高度成長期にまで社会の中核にいた人間の方が、全く自然のこととして身につけていた人が多かったのではないか?

 成果主義と「自己責任」とやらの嵐の中で荒んだ側面のようにも思う。

 その人なりの「奮闘努力」へのささやかな「労い」にあたる言葉を、自分の方から、相手に、あと半歩だけ、進んでかける。

 形式的な「お疲れ様」「ご苦労様です」に留めず、その相手の人の具体的な状況への心配りを込めて(私は「気配り」という言葉は個人的には好まない。何となく、「相手に嫌われないために」というニュアンスを感じるというか、日本語として「軽く」「形骸化」したと思うので)、さりげなく、「生きた」言葉を、手短でいいから、臨機応変に差し出す。ただそれだけのことである。

 こうした心配りさえ受ければ、十分に日々の日常の辛さや単調さをある程度報われたと感じる若い世代は少なくないのではないかと思う。それなりに自分を律して、単なる「近頃の若いものは・・・」ではなくなり、年長世代に敬意すら払うようになるだろう。まずは年長世代が、ある「品格」を若い世代に示せねばなるまい。

 実は、こうした「その」相手を労る具体的な言葉かけのこまめさは、単に「反対給付」を得るため、つまり、自分の方も労っていらいがたいためだけにすることではない。最近、繰り返して書くけれども、「反対給付」を下手に当てにし過ぎると傷つく思いや徒労感が待ち受けているだけかもしれない。 自分がした分だけ相手もして返してくれることを期待するのは、それ自体は全く自然な感情であるとはいえ、度が過ぎればそれもまた相手への「甘え」であると受けとられても仕方がなかろう。

 むしろ、私は次のように言いたい:

 人に労りの言葉を具体的にかけてみるのを習慣化することは、実は「自分自身に」労りを向けるための練習だと思うといいのではないか。

 たとえ仮に他者からどれだけ傷つく仕打ちを受けたとしても、人はそうした自分を傷つけた相手に自分を同一化させ、その相手の態度を自分の中に摂り入れた時点で、人は、誰でも、誰よりも自分に残酷な「もう一人の自分」を内側に飼うことになる。

 現実の他者の誰よりも、まずは自分を責め、自分の細やかな心の動きを「自分で」ないがしろにしはじめる。

 そうした挙句に、不用意に人に怒りをぶつけたり、投げやりな発散の仕方に逃避することにもなるという順序で捉えてみたらどうだろう?

*****

 もとより、私は「理想が高すぎる」という言葉は、有害無益としか感じていない(このことについては、いずれ、ロジャーズが「理想自己」と「現実自己」の関係をどう捉えていたかに基づいて解説してみたいと思っているが)。

 自分自身に対する内なる過酷な審判者もまた、自分自身の一部であり、「労って」あげられるに越したことはない存在である! 

 自分自身の「ある部分」に憎しみと怒りばかりを感じていたら、「その部分」もまた、自分にいよいよ過酷な応酬をしてくる存在となるであろう。その存在と、自分の内なる「ご意見番」ぐらいの存在とになるくらいに友好関係を結べるに越したことはない。

 フォーカシングの名教師、アンさんのいう"inner retationship(内的関係性)"とはそのようなことである。

*****

 こうした「自分自身への労り」を持てるようになること、そのためにまずは人を労れるようになることを、私は、ひとりぼっちの個人の「自己責任」として押し付けるつもりはない。

 まずは、他ならぬ私自身が、そうした(自分や自分が関わる他者への)労りを見失わない存在として、可能な範囲内で自覚的に生きようとすることからはじめるしかないことは、十分に承知しているつもりである。

アン・ワイザ-・コーネル/すべてあるがままに(Radical Acceptance of Everything)―フォーカシング・ライフを生きる

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ 

2010/02/14

相手の気持ちを「察した」言葉ばかり返していると、相手はこちらの気持ちを「察し返し」てはくれなくなる。

 この点についても得てして誤解があるように思う(実質、前の記事の続きである)。

 自分が相手に気を使ったり、相手の身になって、相手の気持ちにしっくり来る言葉を見つけてあげようとばかりしていても、それ相応のことを、相手の側は「反対給付」としてしてくれるわけではなく、「湯水のように浪費する」のみなのである(バリント的に言えば、オクノフィリア的退行ばかりを相手から引き出す)。

 つまり、相手への「気遣い」は、相手からの「気遣い」を「引き出し」はしない。

 相手の側に、人を気遣う能力がすでに開発されていた場合にのみ、「ちょっとしたキュー出し」で「気遣い」は帰ってくる
のだと見定めた方がいい。

******

 では、どうすれば、相手はこちらへの依存性を無自覚に増幅させることなく、自律的になり、こちらのことを「気遣って」くれるようになるのか?

 非常に逆説的に響くかもしれないか、まずは私が、相手の前で、私のことを「気遣った」ものの言い方をし続けていることである。

 つまり、私の方が、自分の実感の中からしっくりと来る、「生きた」言葉を紡ぎ出し続けていることである。

 これは、単に自分が頭で「考えた」ことを何でも口にすることとは似て非なるものだ。単に感情的になることでもない。相手の前で自分の語る一言一言が、いわばフォーカシングの中で紡ぎだされる新鮮な言葉そのものになることである。

*****

 以前もお書きした、「自分の(あるいは相手の)フェルトセンスは場の空気の影響のもとにしか成立しない」という法則が、今回は逆適用できる。

 つまり、そうやって紡ぎだされた私の言葉は、相手のフェルトセンスの状態への「暗々裏の配慮」すら内包された形でしか生起して来ないので、相手を「傷つける」危険は予めかなりの程度予防された言葉しか「浮かんでこない」ことが期待できるのである。

 そして、相手は、そういう、自分の実感から物事を語ろうとする私の自分自身への態度そのものを「モデルとして取り入れる」。

 ロジャーズふうに言えば、「無条件的なpositiveな自己への関心」を向けるカウンセラーがまずは先に「関係の場の中に」存在する必要がある。

 それなしに、カウンセラーの、クライエントへの「無条件的なpositiveな関心」そのものが存立し得ない。

 なぜ私が、一人でフォーカシングできる人間だけが、適切なトレーナー(リスナ・ガイド)となれると繰り返してきたかの核心はここにある。

*****

 いずれにしても、カウンセラーの「中立性」の原則(ロジャーズは、これにあたることを実は一言も述べていない。むしろ精神分析由来の言葉ではないか?)というのは、クライエントをリアルワールドを生きる一人の人間として、少しずつ自由に面接の場の中でも振舞わせることには全く貢献しないことになる。

 カウンセラーが自分を殺して受容・傾聴の姿勢をとるだけにとどまればとどまるほど、クライエントさんもまた、自分を殺して、カウンセラーに対する受容と共感的傾聴の姿勢を取る(!)かもしれない。

 そういう、クライエントさんからの感情移入的理解によってカウンセラーとして支えられていることに無自覚すぎるカウンセラーが少なくない気がする。

 (いや、どんなカウンセラーだって、クライエントさんからのそういういう支えと協力があってこそ、カウンセラーとしての力を発揮できているのかもしれないことへの、クライエントさんへの感謝の念を日頃から抱くべきである。お客様(=クライアント)は神様です!!

 あるいは、カウンセラーの受容や共感が本物だとしても、ただそういうカウンセラーへの退行的依存を深めるばかりとなり、クライエントさんは面接場面の中では満たされてもリアルワールドでの変化は何も生じないままとなるかもしれない。

 そのうちに、カウンセラー(聴き手)の方が何かわかのわからぬ消耗に襲われるようになり、思わず表面的な受容と共感でふるまってしまう瞬間が来る。たいていその時をきっかけに、クライエントさんとの「擬似信頼関係」は大きな危機に陥るのである。

 私は、「分析の隠れ身」と「自由連想」とやらで転移や投影をわざわざ促進して「徹底操作」した場合にはじめて深い人格変化が生じるという発想は信じられない。それは安易に心の「生体解剖(vivisection)」をやりたがることへの誘惑に過ぎないと思う。

 「やむを得ずして生じてきた」転移や投影に治療者がどう気づき、どう扱うかは大事であるが、それは単なる解釈や直面化の問題ではなく、治療者内部に生じてきた逆転移(容易に言葉にならない、巻き込まれ感)を治療者自身が自分の内部でどう消化できるかがその大前提である。

 現在の精神分析の好ましい潮流が指し示しているのは、そうした方向性であると私なりに理解している。

*****

 このように説明して来ると、こういうネットの場でも感じたことを実感にぴったりな言葉にしていくスタンスをとり続ける、私のようなカウンセラーが、実際にはクライエントさんの主体的自立に幸いにしてお役に立てていることが少なくないらしいのか、多少なりともお伝えできたことになるとも思います。

※関連記事はこちら

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ

2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう- (第2版)

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥る場合があるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、いわゆる「アスペルガー」タイプの皆さんの少なからず場合にあてはまりそうだ)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないから(^^)。

 自分のことを振り返ってみるとどうだろう?

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 
メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログへにほんブログ村

2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

blogram投票ボタン
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
携帯アクセス解析
ビジネスブログランキング
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 心理カウンセリングへ
にほんブログ村 音楽ブログへにほんブログ村

より以前の記事一覧

コメント・トラックバックについて

  • このブログのコメントやトラックは、スパム防止および個人情報保護の観点から認証制をとらせていただいております。これらの認証基準はかなり緩やかなものにしています。自分のブログの記事とどこかで関係あるとお感じでしたら、どうかお気軽にトラックバックください。ただし、単にアフリエイトリンク(成人向けサイトへのリンクがあると無条件で非承認)ばかりが目立つRSSリンク集のようなサイトの場合、そのポリシーにかなりの独自性が認められない場合にはお断りすることが多いことを、どうかご容赦ください。

最近のコメント

はてなブックマーク


最近のトラックバック

last.fm


フォーカシングの本1

フォーカシングの本2

フォト
2012年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

banner

  • 携帯アクセス解析
  • Google Sitemaps用XML自動生成ツール
  • Firefox3 Meter
  • ブログランキング・にほんブログ村へ

ブログパーツたち

  • track feed カウンセラーこういちろうの雑記帳
  • アクセス状況
    アクセス解析

カテゴリー