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2012/01/02

インタラクティブ・フォーカシング 技法の実際

ジャネット・クラインの開発した、インタラクティヴ・フォーカシングが、通常のフォーカシングとどう異なるかについてのまとめはこちらの記事で書きましたが、今回は、インテラクティブ・フォーカシングの技法が、具体的にどのようなものかを詳しく書いてみましょう。

以下に述べるのは原則として二人組仕様ですが、これは3人以上でも可能であることについては詳しくは後述します。

*****

1.ふたりともまずは、リラックスできるすわり心地を見つけて、注意を体の内側に下ろしていき、今の自分が気になっていることは何かなあ?・・・と問いかけ、身体気分の不全感からの応答を待つ。

2.それらの中から、今、セッションの場の中で取り上げたいことをひとつ選ぶ。そして、そのことについて、せいぜい2,3分間で話せるくらいに、自分の中で取りまとめる。

3.どちらが先に話し手(ストーリーテラー。インタラクティブ・フォーカシングでは「フォーカサー」という言葉を用いない)になるのかを決める。他方は聴き手(リスナー)である。

4.ストーリーテラーは、リスナーに向かって、自分の置かれた状況や気になること、それについての思いを、先述のように2,3分程度で話していく。
 その際に、リスナーは、折をはさんでストーリーテラーの話を、自分の身体に注意を向けなら傾聴し、ストーリーテラーに伝え返しをしていく。
 ストーリーテラーは、リスナーの伝え返しがピンと来なかったり間違っていれば、遠慮なく修正し、リスナーはそれに応じて伝え返しをやり直す。

・・・・ここまでの所要時間は、リスナーからの伝え返しとスターリーテラーからの修正に応じるところまで含めると、10分前後で終わっているはずである。

5.このあと「二重の共感の時(Double Empathic Moment)」と呼ばれる部分に進む:

a.ストーリーテラーは、自分が今話したことについて、身体の曖昧な実感(フェルトセンス)に照合しながら、じっくり味わい直す。

b.リスナーは、「ストーリーテラーが」どのようなフェルトセンスを感じているのかについて、あたかも自分がストーリーテラーになったかのような気持ちで、ストーリーテラーの「身になって」、フェルトセンスを醸成していく(阿世賀はこれを感情移入的フェルトセンスと呼んでいる)。
 この際、リスナーは、できれは「ひとつの単語、ないし2,3の語句、ひとつのイメージ」をストーリーテラーに投げ返せばいいところまで吟味する(これは非常に重要なポイントである)

6.この後、まずは、リスナーの側から、吟味しておいた言葉やイメージを、ストーリーテラーに告げる。

7.ストーリーテラーは、リスナーが提示した語句やイメージを、自分のフェルトセンスと照合する時間を取る。

8.そして、ストーリーテラーは、リスナーの提示した言葉やイメージが、どこがどのように自分のフェルトセンスとしっくり来たか、新たな気づきに結びついたか、どこはしっくり来なかったかを投げ返す。

リスナーは、それを傾聴し、伝え返しを挟んでいく。

9.次は、リスナー側が、スターリーテラーのここまでのプロセスを聴いていいて「自分個人として」どんな印象はを持ったかについてストーリーテラーに投げ返し、それまでのストーリーテラーが今度はリスナーに回り、伝え返しをしがら傾聴する。

※この段階で、そでまでのストーリーテラーとリスナーの「役割交換」が成立するわけで、ここから今度は「(野球のイニングふうに言えば)攻守交代」して、4.ー8のプロセスを進めていくことが可能である。

 そして更に、時間が許せば、更に「2回」のイニングに進むといった形で、交互に進めて行くことも可能である。

※9.までのプロセスを「片道(single wing)だけ」進める形で、10.以降の終結のための段取りに進むことも可能。

※また、9.の後で、それまでのリスナーが、「全く新たな自分の話題」について、それまでストーリーテラーだった側に、今度はリスナーとして傾聴してもらいながらプロセスを再開することも可である。1-2.の段階で想起していたネタのままでもいいし、その時点とは別のテーマになっても構わない。

10.4-9.までを「役割交代」しながら進めて、双方の合意が得られれば、二人とも再びそれそれ自分の内面に注意を向け、

a.セッションはじめと、自分自身についての感じ方がそう変わったか。

b.セッションのはじめと、相手についての感じ方がどう変わったか。

を味わう沈黙のひと時を取る。

11.10.で感じた内容についてお互いに交換する。

12.今、ここで、相互作用的なかかわりができたことについてお互いに感謝する。

***+**

・・・・以上で、2人組のインタラティブ・フォーカシングのフォーマットはおおよそ解説したことになる。

******

なお、インタラクティブ:フォーカシングは2人ではななく、3人以上でも可能である。
a.b.c.3人の場合を想定すれば、

a.ストーリテラー b.リスナー c.オブザーバー
b.ストーリテラー c.リスナー a.オブザーバー
c.ストーリテラー a.リスナー b.オブザーバー

の順序で回していくことができる(それまでリスナーだった人に次にストーリーテラーになってもらうことが原則である点に注意)。

こうした3人以上のやり方を「ラウンドロビン・フォーマット」と呼ぶ。

******

こうしたやり方の効能については、やはりもう一度、こちらの記事に立ち返っていただければ幸いである。

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2010/11/16

池見 陽 著「僕のフォーカシング=カウンセリング」評

 以前にも、知人に「見せていただいた」段階での「ご紹介」記事を書きましたが、自分で実際「手に入れて」感想をお書きするまで、随分時間が空きました(^^;)

 池見先生が徹底的に「自分の言葉で」お書きなのに非常に好意を持ちました。そうでないと「人に伝わらない」のです。

池見 陽/僕のフォーカシング=カウンセリング

 鹿児島でのワークショップへの旅立ちから大阪への飛行機での帰着までの、池見先生の内面を含む「実況中継」をメイン・ストーリーにした、池見先生の、早過ぎる「自叙伝」みないな雰囲気で一貫してますね。

 驚いたのは、参加者8名全員に公開フル・セッションを行なうために鹿児島に行かれたという、そのやり方です。「ライブ・セッション」をして見せてはじめて関心を持ってもらえるわけというのは私も同意見、早々に「ペアになってやってもらう」ばかりでは上達しません。

 更に言えば、カウンセリングにおける受容とか共感についての「大学での講義」や模擬面接、事例検討会、あるいは単なるグループ・集団型のワークショップだけでは伝わらない次元のものが「迫って」くる印象です。

 本書でお書きになっておられますが、楽器の演奏でもスポーツでも基本の「型」があるし、それに馴染んで「身につけて」いること基本前提です。しかしそれを現実のパフォーマンスとして「プレイ」する時には無意識のうちに縦横無尽に使いこなせないと本物にならない。

 そういう「アドリブの仕掛け」まで解き明かしてくれているあたりが、これまでのフォーカシング関連の著作を超えた、たいへんな功績だと思います。

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2010/02/20

「労(ねぎら)い」と「労(いたわ)り」・・・日常の中で、小さな健闘を讃えるということ

 国母選手の例を持ち出すまでもなく、今の日本人というのは余裕を失い過ぎて、他の人の「問題行動」を批判することには過敏だが、その人を「認める」とはどういうことかという点での具体的なスキルを見失いつつあるのではないかと感じる。

 こういう点では、高度成長期にまで社会の中核にいた人間の方が、全く自然のこととして身につけていた人が多かったのではないか?

 成果主義と「自己責任」とやらの嵐の中で荒んだ側面のようにも思う。

 その人なりの「奮闘努力」へのささやかな「労い」にあたる言葉を、自分の方から、相手に、あと半歩だけ、進んでかける。

 形式的な「お疲れ様」「ご苦労様です」に留めず、その相手の人の具体的な状況への心配りを込めて(私は「気配り」という言葉は個人的には好まない。何となく、「相手に嫌われないために」というニュアンスを感じるというか、日本語として「軽く」「形骸化」したと思うので)、さりげなく、「生きた」言葉を、手短でいいから、臨機応変に差し出す。ただそれだけのことである。

 こうした心配りさえ受ければ、十分に日々の日常の辛さや単調さをある程度報われたと感じる若い世代は少なくないのではないかと思う。それなりに自分を律して、単なる「近頃の若いものは・・・」ではなくなり、年長世代に敬意すら払うようになるだろう。まずは年長世代が、ある「品格」を若い世代に示せねばなるまい。

 実は、こうした「その」相手を労る具体的な言葉かけのこまめさは、単に「反対給付」を得るため、つまり、自分の方も労っていらいがたいためだけにすることではない。最近、繰り返して書くけれども、「反対給付」を下手に当てにし過ぎると傷つく思いや徒労感が待ち受けているだけかもしれない。 自分がした分だけ相手もして返してくれることを期待するのは、それ自体は全く自然な感情であるとはいえ、度が過ぎればそれもまた相手への「甘え」であると受けとられても仕方がなかろう。

 むしろ、私は次のように言いたい:

 人に労りの言葉を具体的にかけてみるのを習慣化することは、実は「自分自身に」労りを向けるための練習だと思うといいのではないか。

 たとえ仮に他者からどれだけ傷つく仕打ちを受けたとしても、人はそうした自分を傷つけた相手に自分を同一化させ、その相手の態度を自分の中に摂り入れた時点で、人は、誰でも、誰よりも自分に残酷な「もう一人の自分」を内側に飼うことになる。

 現実の他者の誰よりも、まずは自分を責め、自分の細やかな心の動きを「自分で」ないがしろにしはじめる。

 そうした挙句に、不用意に人に怒りをぶつけたり、投げやりな発散の仕方に逃避することにもなるという順序で捉えてみたらどうだろう?

*****

 もとより、私は「理想が高すぎる」という言葉は、有害無益としか感じていない(このことについては、いずれ、ロジャーズが「理想自己」と「現実自己」の関係をどう捉えていたかに基づいて解説してみたいと思っているが)。

 自分自身に対する内なる過酷な審判者もまた、自分自身の一部であり、「労って」あげられるに越したことはない存在である! 

 自分自身の「ある部分」に憎しみと怒りばかりを感じていたら、「その部分」もまた、自分にいよいよ過酷な応酬をしてくる存在となるであろう。その存在と、自分の内なる「ご意見番」ぐらいの存在とになるくらいに友好関係を結べるに越したことはない。

 フォーカシングの名教師、アンさんのいう"inner retationship(内的関係性)"とはそのようなことである。

*****

 こうした「自分自身への労り」を持てるようになること、そのためにまずは人を労れるようになることを、私は、ひとりぼっちの個人の「自己責任」として押し付けるつもりはない。

 まずは、他ならぬ私自身が、そうした(自分や自分が関わる他者への)労りを見失わない存在として、可能な範囲内で自覚的に生きようとすることからはじめるしかないことは、十分に承知しているつもりである。

アン・ワイザ-・コーネル/すべてあるがままに(Radical Acceptance of Everything)―フォーカシング・ライフを生きる

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2010/02/14

相手の気持ちを「察した」言葉ばかり返していると、相手はこちらの気持ちを「察し返し」てはくれなくなる。

 この点についても得てして誤解があるように思う(実質、前の記事の続きである)。

 自分が相手に気を使ったり、相手の身になって、相手の気持ちにしっくり来る言葉を見つけてあげようとばかりしていても、それ相応のことを、相手の側は「反対給付」としてしてくれるわけではなく、「湯水のように浪費する」のみなのである(バリント的に言えば、オクノフィリア的退行ばかりを相手から引き出す)。

 つまり、相手への「気遣い」は、相手からの「気遣い」を「引き出し」はしない。

 相手の側に、人を気遣う能力がすでに開発されていた場合にのみ、「ちょっとしたキュー出し」で「気遣い」は帰ってくる
のだと見定めた方がいい。

******

 では、どうすれば、相手はこちらへの依存性を無自覚に増幅させることなく、自律的になり、こちらのことを「気遣って」くれるようになるのか?

 非常に逆説的に響くかもしれないか、まずは私が、相手の前で、私のことを「気遣った」ものの言い方をし続けていることである。

 つまり、私の方が、自分の実感の中からしっくりと来る、「生きた」言葉を紡ぎ出し続けていることである。

 これは、単に自分が頭で「考えた」ことを何でも口にすることとは似て非なるものだ。単に感情的になることでもない。相手の前で自分の語る一言一言が、いわばフォーカシングの中で紡ぎだされる新鮮な言葉そのものになることである。

*****

 以前もお書きした、「自分の(あるいは相手の)フェルトセンスは場の空気の影響のもとにしか成立しない」という法則が、今回は逆適用できる。

 つまり、そうやって紡ぎだされた私の言葉は、相手のフェルトセンスの状態への「暗々裏の配慮」すら内包された形でしか生起して来ないので、相手を「傷つける」危険は予めかなりの程度予防された言葉しか「浮かんでこない」ことが期待できるのである。

 そして、相手は、そういう、自分の実感から物事を語ろうとする私の自分自身への態度そのものを「モデルとして取り入れる」。

 ロジャーズふうに言えば、「無条件的なpositiveな自己への関心」を向けるカウンセラーがまずは先に「関係の場の中に」存在する必要がある。

 それなしに、カウンセラーの、クライエントへの「無条件的なpositiveな関心」そのものが存立し得ない。

 なぜ私が、一人でフォーカシングできる人間だけが、適切なトレーナー(リスナ・ガイド)となれると繰り返してきたかの核心はここにある。

*****

 いずれにしても、カウンセラーの「中立性」の原則(ロジャーズは、これにあたることを実は一言も述べていない。むしろ精神分析由来の言葉ではないか?)というのは、クライエントをリアルワールドを生きる一人の人間として、少しずつ自由に面接の場の中でも振舞わせることには全く貢献しないことになる。

 カウンセラーが自分を殺して受容・傾聴の姿勢をとるだけにとどまればとどまるほど、クライエントさんもまた、自分を殺して、カウンセラーに対する受容と共感的傾聴の姿勢を取る(!)かもしれない。

 そういう、クライエントさんからの感情移入的理解によってカウンセラーとして支えられていることに無自覚すぎるカウンセラーが少なくない気がする。

 (いや、どんなカウンセラーだって、クライエントさんからのそういういう支えと協力があってこそ、カウンセラーとしての力を発揮できているのかもしれないことへの、クライエントさんへの感謝の念を日頃から抱くべきである。お客様(=クライアント)は神様です!!

 あるいは、カウンセラーの受容や共感が本物だとしても、ただそういうカウンセラーへの退行的依存を深めるばかりとなり、クライエントさんは面接場面の中では満たされてもリアルワールドでの変化は何も生じないままとなるかもしれない。

 そのうちに、カウンセラー(聴き手)の方が何かわかのわからぬ消耗に襲われるようになり、思わず表面的な受容と共感でふるまってしまう瞬間が来る。たいていその時をきっかけに、クライエントさんとの「擬似信頼関係」は大きな危機に陥るのである。

 私は、「分析の隠れ身」と「自由連想」とやらで転移や投影をわざわざ促進して「徹底操作」した場合にはじめて深い人格変化が生じるという発想は信じられない。それは安易に心の「生体解剖(vivisection)」をやりたがることへの誘惑に過ぎないと思う。

 「やむを得ずして生じてきた」転移や投影に治療者がどう気づき、どう扱うかは大事であるが、それは単なる解釈や直面化の問題ではなく、治療者内部に生じてきた逆転移(容易に言葉にならない、巻き込まれ感)を治療者自身が自分の内部でどう消化できるかがその大前提である。

 現在の精神分析の好ましい潮流が指し示しているのは、そうした方向性であると私なりに理解している。

*****

 このように説明して来ると、こういうネットの場でも感じたことを実感にぴったりな言葉にしていくスタンスをとり続ける、私のようなカウンセラーが、実際にはクライエントさんの主体的自立に幸いにしてお役に立てていることが少なくないらしいのか、多少なりともお伝えできたことになるとも思います。

※関連記事はこちら

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2010/01/19

伝説の学会発表、「浜崎あゆみとスピリチュアリティ」完全公開!!(Ver.1.48)

 YouTubeで、浜崎あゆみさんのプローモーションビデオ全作品公式に公開されました(何と、貼付けも自由です!! avexの太っ腹さに感銘をうけました)。

 これを期に、日本人間性心理学会第23会大会(於:文教大学)の自主企画として私が催した、「浜崎あゆみとスピリチュアリティ」のパワーポイントファイル全体をウェブ上で公開することにしました(YouTubeの該当曲やその他の映像への個々のリンク付きにバージョンアップ!!)。

●浜崎あゆみとスピリチュアリティ  -プロモーションビデオにみるその精神の軌跡-(阿世賀浩一郎のホームページ)

学会大会論文集に掲載した文章こちらでそのまま閲覧できます。

*****

 なお、私が確かめたところ、どのブラウザでも「一応の閲覧」はできますが、ブラウザ上でスライドショーまでできる、完璧な再現(ワン・クリックごとの文字の出方まで忠実に再現できる)のは、Internet Explorer8、およびそれをレンタリングエンジンとする(=Trident系)、Lunascape、Grani(動作が軽快なので超お勧め)などに限定されます。

 もっとも、困ったことに、Windows版FirefoxのオリジナルのGeckoエンジンとは、文字表示上、かなり相性が悪いようです。文字が折り重なる現象が見られます(^^;)

 しかし、IE Tabというアドオンの追加をして、ブラウザの左下隅に表示されるFirefoxのシンボルマークをクリックして"e"マークに変更すると、その後は何の操作をしなくても、IEと全く同じ使い心地になります(^^)

 以前も書きましたが、このアドオンを追加インストールすれば、Firefoxを使ってのMicrosft updateにも対応出来てしまうのですね。

 それ以外のブラウザは、画面はほぼ適正に表示されますが、いずれの場合も、左側のフレームから1ページずつめくっていただくことで対応できます。 

 このやり方で、Google ChromeやWindows版Safari,Operaの場合は画面自体は、「小さく」て「静的に」ですが、綺麗に表示されますよ(^^)

*****

◆Ver.1.01→Ver.1.05の修正点(10/01/17 15:04)

  • IE系ブラウザのスライドショーでクリックだけで次のページに移行しない箇所の問題をとりあえず解決しました(ただし、各ページの「リンク先のページ」を一度クリックしてしまうとスライドショーには回帰できません。これは仕様上やむを得ないことのようです)。

◆Ver.1.05→Ver.1.06の修正点(10/01/17 18:00現在)

  • 途中に他の場所のファイルが2枚紛れ込んでいたので削除しました。もし文章の全くないページが出たら、もう一回クリックしたら表示されるのが私のプレゼンの意識的仕様です。

◆Ver.1.06→Ver.1.17の修正点(10/01/17 19:59現在)

  • すべての動画をYoutubeの埋込み動画表示として表示することに対応しました!! それに伴い、Windows Media Playerの呼び込みによる,wmvファイルの再生そのものを廃止しました。

◆Ver.1.17→Ver.1.48の修正点(10/01/18 14:17現在)

  • YouTube動画を一件追加 しました。
  • YouTube埋め込み動画とリンクテキストが折り重なって表示されないように調整しました。
  • 全ページにプレゼンの際のメモを記入しました。
  • アルファベットの全角文字を半角に修正しました(まだ見落としがあるかもしれません)。

◆現バージョン(1.48)でも残る問題点(10/01/18 14;17現在)

  • なぜが今回の段階で、YouTube動画への「テキストリンク」の一部が表示上文字化けに転じました。もっとも、リンクそのものは適切に機能します。

 おそらくMacユーザーの皆様の場合だと(これもまたブラウザ間格差が予想できます)、OSの使用フォントそのものの違いの関係で、文字表示がはみ出したり隠れたり、重なるなどの見づらさがあるかもしれないことを、どうかお許しください。スライドショーは機能しないと思います。

*****

●浜崎あゆみ / Dearest ~Acoustic Piano Version(YouTube)

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2009/12/23

「肉食系」的なやさしさ (第2版)

・・・・・というものがある気がしてきた。

 それは、いわゆる「草食系」のやさしさとは何か次元が違うのだけれども、今の日本(の特に若い男性)に、再度賦活されていく必要があり、それが今後の日本の舵取りの鍵を握ると思えるのである。

 Wikipediaによれば、「草食系男子」というのは、200610月に深澤真紀が『日経ビジネス オンライン』で連載している「U35男子マーケティング図鑑」(2007年に『平成男子図鑑』として単行本化)で「草食男子」として命名されたのがことのはじまりであるとのことだが、私はその原典やその後に続いた著作を読んでいるわけではない。

 しかし、広い意味で女性一般の方は何らかの意味で「肉食系」の側面を発現し続けて来た人が多い(これは見かけ上大人しめであるかどうかとは無関係。そのことに気づかないでいる男性がいるとすればちと御目出度すぎる)ものだから、余計に浮かび上がってきた現象ではないかと考えている。

 そして、私なりのネットフィールドワークの結果到達したのは、(数年前の小林よしのり信者がたくさんいた頃はまた別かもしれないが)、少なくともここ2,3年のネットのプチ〇翼の若者は、実は揃いも揃って「草食系」である、いや、「草食系男子」の心性と非常に親和的なものとしてプチ〇翼というスタンスが、非常に広範な若者に、ネットでこの種の発言をする匿名ピープルよりも相当に裾野が広い形で浸透しているというのが私の結論である。

 彼らはもはや、例えば小林よしのりや石原慎太郎に当たるような特定の「頭目」を押し立てることすらしない。フラットランド化したネットの2次情報,3次情報をシェアするだけで群れている、徹底的に「顔のない」集団である。

 ・・・・ちなみに私は"SPA!"を離れる以前の「ゴーマニズム宣言」の愛読者で、感想をしきりと送っていた人間であり、その頃のよしりん氏に「八王子の阿世賀浩一郎は凄い! 参考になる」と、コマの欄外でコメントされ(今刊行されている単行本のバージョンにも載っているかどうかは確認していない)、公式「ゴー宣」本にかなり長い感想文が実名で載っている人間である。

 "SPA!"との関係を辛抱し切れなくなったところで、小林氏はあるバランス感覚を喪失したというのが私の意見だが、それでも、「新しい歴史教科書をつくる会」との関係を絶つ時でしたか、「日本のこの種の人たちがアメリカとの関係ということになると急に態度を変えるのが納得がいかない」という趣旨の発言をしたことに関してはある共感を覚えた。

 ちなみに、よりのり氏も私と同じ福岡県出身である。最近の私のネット上での物言いに、思想それ自体というより、発言スタイルの点で、時々「ゴー宣」調のノリが無意識のうちにも出てしまってるあたりに我ながら苦笑している。福岡県人独特の、いざとなると嵩(かさ)にかかって斬り込む、直裁な「喧嘩節」の伝統という点では共通のルーツなのかなと(^^)

 宮崎哲弥さんが久留米出身で、今年初めて久留米で講演会を開いた時のことはこちらの記事で書きましたが、そういえば、今、自民党内部を引っ掻き回す発言をしている舛添要一さんも、(その政治姿勢にすべて賛同するわけではないが)北九州(八幡)出身の苦労人だものな・・・

*****

 実は、そういう、「いざとなると嵩(かさ)にかかって攻め込む」気概をむき出しにできる人間にしか発現しない、「肉食系のやさしさ」というものがどうもあるようだ、という気がしてきたのだ。

 少なくとも私の中で、明らかに、そういう意味での、潤いある「やさしさ」と「包含力」、むしろ「献身性」ですらあるものが、ここしばらくの間に、特にリアルワールドにおけるクライエントさんやオフィシャル・プライベートを含む人間関係の中で発現してきている気がする。

 それは決して「暑苦しくて」「脂肪分が多い」、「押し付けがましい」ものではないようなのだ。それは、狩人をしていない時の豹の母親が子供たちに対して示すような、何かそういう質の、静かな「母性」に近いもののようにすら思う。

*****

 それとどこまで関係あるかどうかわからないのだけれども、昨日東京に日帰り出張した時に、ANAの機内誌、「翼の王国」12月号を読んでいたら、「日本"山水”探訪記」というグラフィック特集で、「熊本・鹿児島編」として、「南九州の空と土」という記事に大部が割かれていた(pp.40-63。文・絵:堀越千秋 写真:阿部雄介)。

 装飾古墳として著名な熊本県山鹿市のチブサン・オブサン古墳、延々と続く謎の地下トンネル遺跡として著名な玉名郡菊水町の「トンカラリン」、鹿児島県南九州市川辺町の「清水(きよみず)磨崖仏群」、熊本県人吉市の青井阿蘇神社、熊本県上益城群山都町の、江戸時代を代表する潅漑用水道路の要というべき、古代ローマの水道橋を思わせる、時々の放水で著名な「通潤橋」などが取り上げられていた。

 それらの記事を眺めている時に、私は何ともいいようがない次元での、ほとんど元型的な次元での「血の共感」を覚えずにはいられなかったのである。

 すでに何回も書いてきましたが、福岡市から南に向かい、大野城市のあたりの地峡を越えて筑紫平野に入り、筑前の国から筑後の国に入り、更に筑後川を渡ってしまった久留米に入った途端に、同じ福岡県でも、古代からの文化の質は一変して、むしろ熊本県とも通底する「中九州」文化圏の北限に位置した土地ととらえる方が自然である。

 厳密には博多弁と久留米弁はかなり異なり、久留米弁はアクセントが明瞭ではないという点では日本の方言の中でも特異な位置を示す。(わかりやすくいえば「橋」と「箸」の音韻上の区別というのは、久留米人は学校教育を経ないとできるようにならない)。

 その「異様に平坦に」流れるような早口は、我が郷土の生んだ、本名「蒲池法子」さんに、実例をお示しいただこう(^^)(この番組、放送された時に観た記憶があります)

●松田聖子の久留米弁 その1(YouTube)

●松田聖子の久留米弁 その2(YouTube)

 ・・・・・私は父親が「大陸育ち(標準語圏)」だし(かなり久留米弁を戦後身につけましたが、母親の「ネイティブな」古式ゆかしき久留米弁ほどではない)、私自身は「久留米附属」(「久留米大付設」ではありません。聖子さんの確かお兄さんが「付設」出ですよね)という、教員養成大附属小中学校という、地域社会とは切り離された中で成育し、更に30年も関東暮らしをしたので、とてもとても聖子さんのように鮮やかなギアチェンジができる人間ではありません(^^)

 でも、私が「異様に早口でのっぺりした標準語」で延々と話す時があることは、ライブこういちろうをご存知の、特に同業者の皆様は、時々、ついて行けなくお困りのことがあろうかと思います(^^)

*****

 ・・・・話を本題に戻すと、久留米南部地域というのは、大和時代の豪族、磐井の乱(525年)でも日本史に名を残すように、ヤマト政権からは独立性が高い、ダイレクトに大陸側(新羅と書かれていますが)との交渉を維持した勢力が、かなり後の時代まで維持された土地柄です。

 記紀の世界で「熊襲(くまそ)」とされた民(ヤマトタケルの征伐神話からすれは一応2世紀頃に相当するが、これはどうみても「前倒し」の可能性が高いが)は熊本県球磨地域に一応同定されている。一応、「熊襲」よりも、その勢力はしぶとく残ったことになるとも言えるわけである。

 いくら当時までのヤマト王権の正当化のための歪曲ありとはいえ、「磐井の乱」を伝えた日本書紀は、物語的な古事記と異なりまだしも歴史書としての体裁がしっかりしており、編纂時から遡っても「200年未満」の時点で起きた事件についての著述には、何らかの史実の裏づけは濃厚と思える。

 私自身は、邪馬台国九州説は根拠薄弱という立場です(オーソドックスに、奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)を卑弥呼の墳墓とみなしたい)が、大和地域よりは、黒潮に乗った東南アジア、南洋地域、中国南部、そして朝鮮半島寄りの経路で中国北部との頻繁な交渉がダイレクトに早期から形成されていたであろう九州の持つ政治的独立性は、実際には九州北部沿岸のごくごく一部の地域を点と線でつなぐ形でしかヤマト政権の安定した覇権を置き得ない状況に、少なくとも663年の白村江の戦いの直前の頃まではあったのではないかと思います。

 なぜ天岩戸伝説を日向の高千穂峡天孫降臨の神話を同じく日向の高千穂峰(もっとも、前者には異説がある)に同定しなければならなかったのか? これもそれだけ南九州にもともと強大な勢力があり、それを実際の歴史上は大化の改新(646)以降、天智・天武朝の頃にやっと臣従させた上で、その地域の神話(むしろ朝鮮か南方由来)と中国神話を加味して歴史を「数百年遡って塗り直す」だけの必然性があったればこそでしょう。

*****

 いずれにしても、久留米以南の中九州・南九州文化圏には、ちょうどヨーロッパ諸国が、ローマ帝国以前の原住民やゲルマン民族の歴史をキリスト教で塗り消し、地下に潜伏させたのと同じように、後のヤマト政権が上塗りして完成された「ヤマト民族主義」を一皮向けば、より古い層の元型的な無意識の世界が容易に溢れ出す地域性というものが潜伏しているのではないかと思います。

 それが、幕末における薩摩や佐賀を中心とする倒幕・維新勢力、あるいは真木和泉守ら、久留米の勤皇の志士に活躍の舞台を与える原動力にもなり、筑豊炭田で鉱夫たちが使う地下足袋の大量生産に起源を発する、ブリジストンの創業者、石橋正二郎(鳩山金脈の元はここにある!)をはじめとする日本の主要ゴム3社の発祥の地を久留米とし、そして、今日に至るまで、井上陽水、武田鉄矢、チェッカーズ、松田聖子や浜崎あゆみをはじめとする芸能界から、政治に至る様々な人材を関東に送り続ける、過激なまでの「上京指向」の人材バンクとして福岡が機能し続ける原点にあるのだと思います。

 私も、そのような福岡の久留米が生んだ「異能者」(?)として、関東での30年をむしろ「踏み台にして」、今後、地元久留米に根を張って、はじめて「地に足が着いた」形で、50代という一番脂が乗り切ったこれからの10年、身体が衰えを感じないうちに、本来のパワーを発揮し尽くせることを祈っています。

 BGMは、「エヴァンゲリオン」の、高橋洋子による、高橋洋子 - 魂のルフラン/心よ原始に戻れ - EP「魂のルフラン/心よ原始に戻れ」 以上にぴったりなの、ないでしょ?

そして、高橋洋子 - 残酷な天使のテーゼ 2009VERSION - EP「残酷な天使のテーゼ」もまた、久々に「封印を解いて」聴き返して、「肉食系の母親」の歌なんだとつくづく感じて、ふと目頭が熱くなったこういちろうである・・・・

 私がこのブログで、ずっと封印してきた、過去の軌跡、「エヴァ」。

・・・・・というわけで、もはや私には1円の稼ぎにもならない(・・・・あ、アフィリエイトで中古買ってもらうと少しはポイントになるのか・・・・)本の宣伝も久々に(^^;)

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

*****

 更に、まさに我が母校に教育実習においでの際に、リアルのお姿を拝見した、「武田先生」に捧げる(?)、海援隊 - Acoustic Live ~君の住む町へ~ - 母に捧げるバラード「母に捧げるバラード」(Live)

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2009/12/19

「減価償却」できればよし!!

 これまた、特に久留米に私が帰ってからは、星飛雄馬に対する、中日コーチ移籍後の星一徹の如き、経営の「鬼軍曹」と化しつつも、実は私への精神的溺愛が全然止まっていない、久留米一のスーパー経理職人とうたわれた我が父から、子供の頃から聞かされ続けた定番の台詞である。

 ・・・・ほんと、幼稚園時代から「げんかしょうきゃく(原火焼却?)」とか「すいとうちょう(水筒長???)」、「げんせんちょうしゅう(源泉超臭?)」という魔法の呪文を日々浴びせられながら育ったのだが。

 ここでいう、父が時々比喩として連発してきた「減価償却」とは、本来の意味よりもかなり幅広くとらえて欲しい。

 「一端購入した物品は、そこへの投資のもとを取るまでじっくりとしつこく使い切ればそれでよし

 という、ある種の堅実なプラス思考の実践哲学である。

*****

 「乗りかかった船」という言葉があるが、特にうつ病をはじめとする気分障害圏の人は、自分の自発的衝動からものごとをやった(買った)結果、それを周囲に承認されなかったり、思うように行かなくなると、一転してすごく自責的になり、「自分の内発的な欲求」に基づく行動全般に否定的になりやすい。

 そうしたことを繰り返すうちに、「周囲にうけいれられているかどうか」の方が圧倒的な行動規範になり、自分の内発的欲求(Want)とは何かということ自体つかめなくなる。

 その後遺症として、回復期に至っても、自分から何かを始めて、少しでも周囲と摩擦を起こすと、突如それを白紙撤回してあっさりとやめてしまう傾向にとりつかれやすい。

 それは、端から見ると「のんきで気まぐれで無責任な気分屋」のようにすら見えかねないが、実は本人の中では、内発的な欲求の芽生えを感じると、それが容易に「周囲からの拒絶や無関心」を内在化した超自我と結合してしまい、むしろ「不快な、振り払いたい、自分の中から除去したい感覚」としてしか体験できないという、不幸な条件反射が成立している、非常に苦しい堂々巡りなのである。

 なのに、家族からは「どうせまた長くは続かないよ」「また余計なものを買って」などと、冷ややかな目で、はじめからみられる。・・・・もう、悪循環である。 

 こうした人に対して、私は、この父からの言葉、「いっそのこと、減価償却するつもりでやり続けてみたらどうだろう?」をプレゼントすることがある。

 これは、「一度始めたことはやり通せ」などという、ありふれた道徳規範とは似て非なるものである。

 これは架空の例ですが、買うつもりのなかった服を衝動買いした女性が、買った後、急に自責的になり、それを返却しようかと悩んでいたとします。

 私は、

「その服は今でも気に入っているのですか?」

と尋ねます。

 それに対して、女性が、「ほんとうに欲しくてたまらないくらいに好きだったし、今も気に入っていることには変わりがない」との気持ちをはっきり語ったら、

 「それなら、その好きな服を着て、自信を持って外を出歩くと、思いもよらない新しい出会いを引き寄せるきっかけとなるかもしれない。それともあなたはそれを清算して、前の自分のままに戻ることを選ぶのですか? 前向きに減価償却してみようとしてもいいと思いますよ」

などと提案してみるわけですね。

*****

 こうした人たちは、いわば精神的な「過食嘔吐」状態にはまり込んでいるわけです。摂食障害についてご存知の方には知れ渡っているかもしれませんが、単なる「過食」よりも「過食嘔吐」の方がよほど厄介な事態にはまり込んでいます。

 ほんとうにかなえられたいのは、自分の内発的衝動への、親や交際相手からの、静かな、節度ある共感的承認と受容なのだと思います。しかし親の態度そのものは容易に変え難いわけですね。

 こうした時、仮に最初は代理満足でも何でもいいから、まずは(精神的)「過食」状態を受容してしまうというアプローチ、ありだと思うのです。もとより、そのことで本人がほんとうに「満たされて」いるのか、「味わえて」いるのかについての共感能力を治療者はセンサーとして失ってはなりませんが。

 

そうやって治療者が親の代わりに「見守って」いたら、あら不思議、いつの間にか、ほんとうに欲しいものだけを、直感的に選び抜いて買う方向に本人は自然と軌道修正し始めるんですよ。

 本人自身が、自分なりの試行錯誤の中で「経験から学ぶ」能力が賦活されるのです。

 

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「おい、しっぽを振れ!」

 これは、私の父親が、相手を侮辱的に軽蔑する時の「最終兵器」として、用いてきた言葉である(小声で、完全に相手に白けきったような調子で言う)。

 子供の頃、私がいじめを受けたりしてめそめそしている時、父がこの言葉を、「やさしさ」を込めて「逆説的に」つぶやいてくれた時の声は、今も私の耳底から離れない。

******

 ちなみに、私が使う最大限の最大級の皮肉は、

「私が自分の人生に失敗した時、あなたは『それみたことか!』とあざ笑う、いっときの快楽と癒しに身を委ねることができます。その快楽と癒しを提供して差し上げたのは私だということぐらいには、その時、少しは感謝していただけるとありがたく存じます。どうかローマのコロセウムの『外野席の』観客としてお楽しみくださいませ」

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「協調性」についての誤解

 「協調性」とは、断じて、周囲の目を気にするあまり「単に控えめにすること」ではない。

 人と積極的に、新たな「関係をつけ」、「切り拓く」能力である。

 その際に必要なのは、単に「相手に嫌われないか」という行動原理ではない。相手がその日常(生活、家庭、職場)の中で、どういう心境と実感で生きているのかに対する感情移入的想像力を最大限に駆使して、相手のニーズを想定し、それに応えようという方向で、むしろ自分から相手に「声をかけていく」ことなのだ。

 もとより、いつも言うように、他者の気持ちに対する人の想像力など結局はたかが知れている。実際に他者の言い分を訊けば、自分の思い込みは容易に脱錯覚させられる。

 しかし、そこから先、相手の言い分をきいて対話し続ける時、はじめて相手との対等な絆と連帯と協働の世界が「リアルに」築かれ始めるのである。

 それこそが、他者との絆を「信じる」ための自己投企である。

 もはや、自分の「空想の世界」での他者配慮の一人相撲で堂々巡りする、「一応集団の中に入れてもらっている中での孤独」に、別れを告げよう。

*****

 BGMは、中島みゆきの中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - 本日、未熟者「本日、未熟者」

●本日、未熟者(YouTube)

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