自分史

2009/07/05

July 1stならぬJuly 5th(第2版)

 今日は九大西新パレスでの北山修先生の講演会に行ってきた。

 福岡市早良区西新は、私の出身校、西南学院高等学校があるところ。

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 約四半世紀ぶりに行ってみたら、当時のチャペルは「西南学院博物館」の名の元に残っていたけど、校舎は少し離れた場所に移築になっていた。

 大正時代に作られた、このチャペルのレンガ造りにデザインを一致させる形で、周囲の西南大学関連の施設がみんな同じようなレンガ造りの外観に統一していたのには感心した。


*****


 講演会の内容については後日ご紹介するとして。

 講演会が終わった後、久しぶりに百道(ももち)の浜まで歩いてみようかと思った。

 私が在学していた当時は、高校のグラウンドのちょっと外まで出ると砂浜だった。

 それがそれから15年もたたないうちに、海岸線は埋め立てられて、ウン百メートル先になり、ベイエリアのビル群の向こうに人工海浜が作られるという「福岡市のお台場」というしかない土地に変貌していた。

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↑このグラウンドの向こうの松林の向こうがすでに砂浜だったと思いねえ。

 その砂浜に、大相撲九州場所の時は各部屋の合宿所があり、お相撲さんたちが稽古をしていて、高校の校舎の周りの道でよくすれ違ったものである。

(遠くに見えるタワーがベイエリアにそびえ立つ福岡タワー。タワーのすぐ右隣(手前の大きいのに非ず)高層ビルがテレビ西日本フジテレビ系列なので、そこまでお台場に似せるか!! といいたくなるくらいだが)

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↑今度は海岸側からみたテレビ西日本社屋と福岡タワー。

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 ↑人工海浜の突端にある、海の中道海浜公園行きの観光船乗り場(マリゾン)より振り返る形で撮影。すでに結構海水浴客があふれていました。ドーム状に見える大きな施設は、もちろんソフトバンクホークスの本拠地、福岡ヤフードームである。その手前に鋭くそそり立つのがシーホークホテル。

●far away(王子のきつねOnline)

 ↑このページに行くと、航空写真で、どのくらい海岸線が沖に移ったかわかります(^^)
 この写真の段階ではまだ福岡タワーも人工海浜もできていません。

 ↓ですから現在の地図をおまけします。

大きな地図で見る

 浜崎あゆみの出身も早良区でして(西新より少し海から離れた六本松地区。私が高校を卒業した直後にayuは生まれている)、幼い日に離婚をきっかけに離れ離れになった父親との数少ない記憶の地が百道の浜だとのこと。

 実は、年齢的に見て、ayuの幼児期の百道の浜は、埋め立てより前の「昔の」海岸線だったはず・・・・ということにはなるのですが。

浜崎あゆみ - Rainbow - July 1st浜崎あゆみ/July 1st
 
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2009/07/04

宮崎哲弥氏、久留米に「たがみ書店」や「リズムレコード」がなくなったことを嘆く

 さて、先日の記事でご紹介した、久留米青年会議所主催の、久留米出身の評論家、宮崎哲弥氏の講演会(正確にはパネルディスカッションと対談)、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」、面白かったので、早速速報を書きましょう。

 会場となった久留米のホテルの大広間は、開始30分前の段階でほとんど満席、主催者発表で660名。

 おおおおーっ、日本心理臨床学会大会でもここまで早々に人が集まってる催しはそんなにはないぞ!! 

 いくら青年会議所とそのバックボーンにある商工会議所の動員力、そして宮崎氏に知名度があるとはいえ、福岡県南部最大の30万都市、久留米のパワーをこれだけ実感できたことは、帰郷してほぼ1年の間にはじめてのこと。早めに整理券予約をしておいてほんとうによかった!!

 宮崎さんは、久留米で生まれ、予備校時代までを久留米で育っている。私と2つ違いの方である。これまでも久留米での講演依頼もあったとのことだが、実際に引き受けたのは今回がはじめてとのこと。

 宮崎さんがマスコミの表舞台に登場したのは、オウム事件における若者心理について意見を求められることがきっかけだが、あの上祐氏も宮崎氏と同い年、今では久留米市に編入された地域の生まれである。


 「最近は政治や経済の評論家とみられてしまうことが多くなったけれども、もともとは若者文化問題や宗教問題から出発した存在に過ぎないので」ということをまず最初に前置きされた上で、司会者に促されて、話は「地方分権」問題へとまずは向かいました。


 「東国原知事や橋下知事、全国知事会の発言や提言で、地方分権問題に関心が集まるきっかけとなることはいいことだが、今度の総選挙の争点として見た場合、果たして『地方分権』問題が一大論点とすべき事柄なのであろうか?

 まず優先すべきなのは、日本全体の景気底上げ対策であり、それが一定の効果を示さないうちに、単に地方に『権限』と『財源』の委譲を、今、行うだけでは、地域間の格差がひたすら広がるだけになる。地方分権そのものはこれから推進されていくのがふさわしいし、実際勧めていく潮流は動かないであろうにしても」


(司会者:国のそうした政策を単に待っているのではなく、地方の側からできることは何かないでしょうか?)


 「いったん景気の底上げがなされた後、それをどのように維持し、展開させるかは各地方の自己責任ということになるだろう。

 『内需拡大』という言葉がよく使われるけれども、地域内部における『内需拡大』のサイクル、つまり、その地域内での需要に応える形で、その地域で生産し、その地域で消費活動をするという良循環のサイクルが拡大・成長する必要がある。

 そのことが成立するためには、「ここ」にしかない魅力、言い換えれば、「ここ」に住まないと得られない「唯一性」のようなものが、住民に魅力として感じられる必要がある。

 久留米もそうした地域自立性の高い経済圏として長年発展してきた歴史を背負っているはず。父祖から受け継いだそうした地域固有のアイデンディディをどのように展開していくかが肝心だろう」


*****


 話題はここで一度地域経済の問題を離れ、教育問題に転じることとなる。


今の時代ほど、世代ごとの情報環境が劇的な格差と隔絶を持つ時代は、かつてなかったと思う。

 私の久留米での中高生時代は、ちょうど、テレビゲームが、ゲーセンから家庭内ゲーム機へと一気に転換する時期と重なった。

 次の世代は、インターネットに接続されたパソコンによるコミュニケーションを身につけているという意味で、上の世代とは大きくコミュニケーション様式が異なっている。

 更に次の世代は、今度はケータイ文化という、大人から見るといよいよわからないコミュニケーション様式を備えている。

 これほどのコミュニケーション様式の世代感の隔絶は、人類史上かつてない次元のものなのではないか。

 この結果、家庭内の価値観伝達機能はほとんど機能しなくなってしまう危機に瀕している。

 以前ならば親の背中から学ぶ、ということがまだしも通用した。親と子の「個体間接触」から子供は学んだ。そして本やテレビを通して、親からの価値観とは異なるものを学んでいた。

 しかし現在の若者は、遠隔地のネット上の匿名の他者という、個としての存在がたいへんあやふやな存在に、あたかも身近な他者であるかのように依存しながら価値観を形成していく。

 単に背中を見せるだけの親など、価値伝達機能を果たす上では、存在しないのも同然なのである。

 これは子供との関係に限らない。自分から言葉でコミュニケーションをとろうとしなければ、相手にとって自分は存在しないも同然で、自分からどんどん離れていくことになりかねない、そんな時代なのではなかろうか」


 司会者から、倫理や道徳の問題について振られて、


 「『天知る、人知る、我知る』という言葉かある、『天』とは、お天道さまが見ているそ、ということで、『人』とは地域社会の目のこと。しかし私は、『人が止めるから駄目だ』だけでは今の時代不十分なのだと思う。『そういうことをやっていて、おまえ自身が恥ずかしくないか』という個人倫理の形成が大事ではないか。個人倫理の形成は、個人としての自我形成と表裏一体のもののはずである。


 司会者から、現在の私たちの知識が情報の渦に巻き込まれている点について問われて、


マスメディアであろうと、ネットでの口コミであろうと、それを鵜呑みにしないことがまずは大事なのではないか。まずは疑ってかかること。この、疑ってかかる力が、今、弱まっている気がする。

 まずは自分の常識と照合すること。実体験と照合すること。今の時代、情報の渦の中で、何が実体験なのかわからなくなっているは確かだが、たとえ自分の判断がいろんな常識に毒されているとしても、人はそれを基に『健全な懐疑』をしていくしかないのだと思う。

 新聞に書かれていることであろうと、たとえ信頼できる親友が語ることであろうと、『何かこの話はおかしくはないか?』と違和感を感じたら、心の中でいじくりまわしてみることだ。

 多くの詐欺や悪徳商法の勧誘とは、そうした身近な人間への信頼感につけ込むものであることを思い出してみてもいいかもしれない。そのような、親しい間柄での対面的な人間関係ですら、自分で吟味していく必要があるのだ。

 そうした積み重ねが、個人として強くなる自我形成なのだと思う」


 ・・・・・この部分なんて、私も、激しく同意!! の域ですね(^^)


*****


 ここから休憩を挟んで第2部、「久留米の地域、そして可能性」に入ります。

 司会者から、まずは、久留米の明治通りを中心とする旧市街地のさびれようについての言及がありました。

 この件については、私も、


●にほんじんは、せんそうのしかたをしらない?


・・・・・という、見かけ上物騒なタイトル(?)の記事で詳しく触れました。

 久留米市の商業的中心は、かつては一面の水田とレンコン堀だった、合川地区の「ゆめタウン久留米」を中心とする、高速道路のインターチェンジ近くの、ショッピングモールの一群に、この30年の間に、見事に奪われているわけですね。

 こうした前提を聴衆がみんなわかっているという前提で、以下の部分をお読みください。


「私は高校時代まで、たがみ書店リズムレコード(共に明治通りに並行して今も存在する久留米最大のアーケード街、「久留米一番街」を代表する、久留米最大の書店とレコード店だった)に足繁く通っていましたが、もう今はないんですね。


 リズムレコードって、奥に扉で仕切られた、色々試聴できるクラシックコーナーがありましてね。私はそこに足繁く通って、店長にクラシック音楽の手ほどきを受けたんです」


 ・・・・・わ、私も同じです・・・・・

 きっと、2歳違いの私も、宮崎さんを宮崎さんと気がつかないまま、同じ店内で何回も遭遇しているはず・・・・


 「先ほども言いましたけど、まさにたがみ書店やリズムレコードには、この久留米にしかない固有の文化というものがあったと思う。そういう、他にはない、「ここ」にしかない、豊穣な経験の場となることが必要なのだと思います。

 ところが、今、地方で進んでいるのは、全国どこにでもあるような、メガ・ショッピングセンターができることなんですね。

 もちろん、コンビニ文化にもインフラとしての意味があります。どこに行ってもほぼ同じ品揃えの商品が手に入るということの。

 でもそれだけだったとしたら、なぜ『この』地域に住まうのか? という『唯一的なもの』がないままなんです。

 久留米に生まれ、成長し、死ぬことの意味と魅力が大事。そのためには、久留米の中で生産したものを久留米にいて消費することに意味を感じられないと。

 地方都市を単に「ミニ東京」化することばかりが進んで行っては、この町で生きていくことの意味がわからなくなる。そして、例えば福岡(市)に需要を奪われるばかりということになるわけですね。
 
 結局、『制度的な』地方分権ばかりではなく、『マインドの』地方分権こそが本質なのだと思います。

 最近、プロ野球の球団も地域が応援するという方向が強まっています。若者音楽の分野でも、ミュージシャンが、有名になって、ヒットチャートに乗る様になっても、自分の拠点となる出身地域から離れないまま活動を続けるというケースが増えています。ヒップホップグループにも、「この町」を大事にするメッセージを発信し続けながら全国区になることが生じている。

 そうやって、自分の生まれ育った街から離れたがらない若い人たちが増えてきた。そういう若い子たちの後押しを地域がしていくことが大事で、そうした意味で地域の青年会議所の果たす『黒子』としての役割は大切だと思います。

 こうしたことをしていくためには、単なる利潤追求の市場経済原理のどこかで対抗していく必要も出てくるはず。でも、それこそが『地方主権』ということだと思う。

 そうでなければ楽しくない。この町にいて『楽しい』と思えるかどうか。主人公は一般の久留米市民なんだと思う。

 久留米で生まれたのが必然で、久留米で死ぬのが必然であると市民が自然に感じられるような地域づくりになることでしょう。私も、引退したら久留米で死にたいと思うかもしれませんので、その時は不肖の息子をどうか迎えてくだされば」


・・・・・・久留米に30年ぶりに舞い戻った私の心に響く締めくくりでした。

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2009/06/29

抗うつ薬で眠くなるのは「副作用」? -そもそも「副作用」という概念をどうとらえるか-

 しばらく前にご紹介した、精神科医、泉谷閑示氏の「8人に1人が苦しんでいる! うつにまつわる24の誤解」シリーズの中の、

●クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界――「うつ」にまつわる誤解 その(10)

で、いくつかの点で重要な示唆が示されているのでご紹介したい。


> もし患者さん自身が、クスリの使用に何らかのためらいや後ろめたさを持っている場合には、「クスリに頼っている」のではなく、「クスリを活用している」のだと捉え直していただくことが必要になります。

 この件に関しては、私も何回か取り上げてきました。


●心に効く薬と「眼鏡」のように付き合うサイボーグ

●薬物治療の能動的な主体であれ!!


 治療をお医者さんや薬に単に「委ねている」という意識だけが強いうちは、薬というものは安定した効き目を発揮しにくいように私は感じています。

 薬というのは、それを飲みさえすれば、すべての悩みや問題を解決してくれるほどには「便利な」ものではない。しかし、うまく活用すれば、自分の「身を守る」ために、大きな働きをする「武器」なんです

(敢えてこの物騒な言い方を使わせてもらいます)。

 「武器」の使用には、常に「危険性」が伴います。また、使い方については、自分の身体になじませるための相当な訓練が必要です。

 医者に相談することもなしに、服薬をやめたり、調整したり、ましてや個人輸入の薬を飲むことは避けるべきですが、それでも、薬を「使いこなす」主体は自分自身、参謀が「医者」なのだ、という意識があるだけで、こころに影響する薬の効き目にかなりの差が出てきて、薬との無理のない「同盟関係」が成立することが少なくないことは、敢えてお伝えしておきたい事柄です。


*****


 そうした観点からの延長として触れてみたいのが、薬の「副作用」という概念です。

 ありがちな「副作用」への誤解は、薬の中の「毒の成分」が身体を害することである、というものかと思います。

 しかし、少なくとも現代の高度な化学合成技術で作られた薬の場合、薬に「不純物」に過ぎないものが組み込まれ、毒性を発揮するということは、もはや考えにくい水準に達していると思います(かつての薬害エイズ事件を例外として)。


 以下に、「副作用」についての、より重要な次元での視点だと私に感じられているものをいくつか取り上げてみたいと思います:、


1.ある症状を緩和しようとする薬の効能が、ある均衡した効き目のレヴェルを超えると、今度は逆方向の症状を引き起こす場合?

 このタイプの例としては、過緊張や不安や対人恐怖を緩める抗不安薬の多くが、気分を楽にして、リラックスさせてくれる筈なのに、それを通り越して、「ボーっとしてしまう」「集中できない」という悩みを引き起こす場合です。

 ところが、この種のケース、その人のその時の心身状態にとって薬が多すぎたということであり、少し少なめに量が調整されれば済むのか? というと、そんなに単純に解決しないことが多いことは、服用を経験した皆様の少なからぬ部分が体験した現実かと思います。

 しかし、それが抗不安薬の効能の「限界」であるとばかりいえるのかどうかと、私は感じています。
 
 そういう皆様には、実は多少の休養が本当に必要な時なのかもしれません。

 多少の休養を取ってみると、その後再び以前の生活に復帰しても、同じ量の抗不安薬が、今度は、気分を落ち着けてはくれても、ぼーっとさせてり集中力を低下させたりはしなくなることなく、活動への支障になりにくい状態が結構持続することに拍子抜けする皆様もあろうかと思います。

 こうした時、休息を取らずに、ただ抗不安薬をあれこれ代えてもらったり、服用量を増強してもらおうとばかりすることは、むしろ悪循環の引き金になることも少なくないでしょう(筋のいいお医者さんなら、こうした点で間違った判断はなされないことかと思います)


 同じように、睡眠導入剤を飲んで、以前よりは眠れるようになっても、朝寝覚めが悪いという場合、薬が強すぎる=薬の効能が朝まで残っているからそうなっている・・・・ということは、昔の睡眠薬ならともかく、最近処方されている新しいタイプの眠剤の場合には考えにくいかと思います。

 むしろ、単に睡眠の改善補助だけではどうにもならないくらいに、その人の心身の疲労やストレスが慢性化し、(例えば)うつ状態の入り口に立っているためとみる方が自然でしょう。


 更に例を挙げれば、鬱の診断を受けて、「抗うつ剤」の飲み始めた初期の心身の反応として、むしろ余計に欝になったと体験される皆様も非常に多いです。そしてしばらくすると今度はやや躁的になる人も稀ではない。その後また押ち込み気味になるわけですが、こうした心身の変動に耐えながら、抗うつ薬が安定した効き目になるまでの苦労は患者さんにとって結構たいへんな場合が少なくありません。

 こうしたことを引き起こすのは、薬が心身になじむまでの初期副作用ともいえることも多いいのでしょうが、私は、その段階での心身の基本的な消耗が薬の効果を「暴れさせる」のではないかという思いを、最近強くしています。


 いずれにしましても一般的に言って、「薬の効き過ぎ」での「副作用」であると本当に見なしていいケースは、多くの人にそう感じられている程には多くないのではないかとも思います。

 敢えて言えば、「心身が過剰に疲労しているので、薬が効き過ぎる」という言い方はできるかもしれませんが。

  薬という「リトマス試験紙」を身体に投入してみることではじめて自分の実感として、はっきり意識的に受け止めるが可能になった、慢性的な心身の消耗なのかもしれません。

 ・・・・こうした可能性も含めて、お医者さんと更に話し合ってご覧になることをお勧めします。

 多分に逆説的な言い方なのは承知ですが、薬が「効き過ぎる」という体験は、その人が長年「抑圧」してきた辛さに「気づかせてくれる」きっかけとしての「効能」を持ったのだ、と肯定的に受け止めてもいいのかもしれません。

 もう一度繰り返しますが、十分に休養がとれ、実際に心身が慢性的な消耗からある程度回復してくると、薬が「効き過ぎる」のではなくて、「ちょうどよく」なくことも少なくないのですね。

 身体に、薬を「生かす」体力が回復するのかもしれないと思います。


*****


2.その物質の投与は、ある症状の緩和に確かに貢献する。しかし、その物質が、症状とは一見無関係な、生体の別の機能のバランスを崩してしまう。

 多くの薬は、肝臓に負担をかけます。緑内障を亢進する可能性がある薬が少なくないことも知られているでしょう。ドグマチールは、女性の月経をいったん止めてしまう場合がありますし、湿疹もよく見られます(飲むのをやめると再開するという点では全く心配が要らないそうです)

 同じSSRIでも、過食や便秘や肥満を引き起こしやすいタイプ(パキシル)や、下痢を誘導しやすいタイプ(ジェイゾロフト)があるなどについては以前書いたとおりです。

 これにはかなりの体質差があります。

 恐らく、厳密な意味での、狭義の「副作用」というのはこうした領域のものを指すとみておくのがいいのではないかと思います。

 しかし、やはり、心身に十分な休息が欠けていると、こうした身体面中心の症状すら、一層亢進しやすいのも確かかと思います。

 どんな身体症状でも、心身症としての側面はありますので。


*****


3.その薬の効能は、病気の治療や症状の軽快という観点からすると十分に発揮されているのだが、その人がその薬によって期待している改善の効果の「理想像」とズレているために、その人が薬の効能を自己受容できないでいる「心身自己不一致」状態を、薬の「副作用」と見なしている場合。


 この3.のケースは、そうやって薬の効き目が指向している身体そのものの「安定状態」と「頭」での理想的な治癒のイメージが「心の中で」葛藤しはじめるという、一種の二次的な神経症状態にはまり込んでいることになります。

 例えば、躁的な過活動傾向の面を持つ人が、抗躁剤や気分安定薬(気分スタビライザ。「抗不安薬」と混同してはならないことはこのサイトで繰り返し書いてきました。リーマスやデパケン)を服用すると、薬を飲む前のように、勢いづいたら止まらない、気分は高揚して頑張り続けられる・・・・というふうには、「なれなくなる」わけですね。

 躁的な人は、自分がそうやって躁状態で頑張れていた時にはじめて社会的承認を受けや収入を確保できるような活動ができていたという思いが強いので、心の中で、薬のこうした効き目と「喧嘩(葛藤)」状態になりやすい。

 もっとも、実は躁的な人は、実は単にルンルンで活力あふれ、湯水のようにわきあがる発想や、ものごとを享楽するこを「楽しめて」いるかというとそうではないわけです。そうした人の心中には、躁的状態の只中においても、自分が独特の抜き差しならない「何か」に衝き動かされているという悲愴感に近い何かがブレンドされて「いた」ことに、少なくとも後から振り返ってみると、ご本人は気づけることも少なくないようです。

 躁状態というのは、ご本人にとっても、ある意味では「苦しい、牢獄のような」体験であり、だからこそ、更に活動をエスカレートさせる形で「破局に陥らせる」という手段で「抜け出そう」とする結果を、一部のそうした方々に招きやすいとすらものだとすらいえます。

 でも、人間の意識的自我というのは、そうした十分の心の中の複雑にブレンドされた綾のようなものをシンプルに割り切りたがるところがあります。つまり、躁状態、過活動状態の時
の「苦しさ」の方は意識から抑圧してしまいやすいのですね。

 こうして、「気分安定薬を飲んだら、昔ほどやる気が出なくて働けなくなった」ことに苦しむばかりか、(お医者さんとのコミュニケーションや信頼関係が良好でないと)、「気分安定薬の『副作用』で以前のようには働けない。薬を代えられないか」と訴える皆さんも少なからず出てくることになります。

 気分安定薬のデパケンは、単剤処方(恐らくリーマスとの併せ技の場合も含む)だと、少なからぬ人の場合(特に双極性II型寄りの診断を受けた人の場合)、躁と鬱の間のプラスマイナスゼロではなくて、マイナス1くらいのごく軽度のうつ状態のあたりで、躁鬱の波が静まる形になりやすいようです。その、ごく軽度の抑うつ感が、デパケンを飲みだす前の調子のいい時には可能だった活動水準にもはや至れない自分に対する悲哀感のようなものを呼び起こしやすいように思います(デパケンは量を増やしすぎると、むしろ欝を深める場合があるらしいこともお伝えしておきます)。

 でも、実は、その人は、そうした過活動状態にはまっては、何らかの意味で行き詰る(仕事を辞めるなど)ことを一定周期で繰り返してきたケースが多いわけです。

 デパケンを飲んで心身に無理が生じない水準のライフスタイルをリラックスして自己受容してしまうことになじむと、その制約の範囲では、存外に安定してコツコツと仕事ができます。

(他ならぬ私がそのタイプで、一日8時間労働を週4日以上やれといわれれば絶対に心身がつぶれると思います。しかし、こうしてほそぼそと開業している限りは、まあ、湘南時代に比べても、今の方が多少はましなカウンセラーとして活動できているかなとは感じています)

 
******


 ・・・・・などと、いつの間にか、私自身の考え方の方ばかりをどんどん書いてしまいましたが,、ここで、このエントリーで本来私が一番紹介したかった、泉谷さんの見解について紹介します。

=========以下引用==============

抗うつ剤を飲んだら眠くなったのは副作用か?

「抗うつ剤を処方されて飲んだけど、すぐに眠気がひどく出たので、自分には合わないと思って飲むのを止めました」

 薬物療法開始時に、このような理由で服薬を中止される方がいます。しかしこれは、副作用が出て薬を中止したのだから適切な判断だった、とは言えないところがあるのです。

 以前から使われていた古典的なタイプの抗うつ剤(三環系や四環系と呼ばれる種類)では、確かにそのような可能性もあることは否定できませんが、近年主に使われている新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRIといわれる種類)では、古典的なタイプでしばしば問題になったような副作用(眠気、口の渇き、排尿困難など)がかなり改善されており、眠気が副作用ではなく「作用」によって生じた可能性も大いにあると考えられるのです。

 治療を受け始めるまでは、患者さんは慢性的な精神の緊張状態にあり、内部にはかなり蓄積した疲労を抱えているものです。そこに、抗うつ剤が投与されたことによって、精神の緊張が突然ゆるみ、蓄積していた疲労が一気に噴き出してきて、それが眠気として顕在化することは珍しくありません。

 ですからこの眠気は、むしろ望ましい変化の現われである可能性も大いに考えられるわけです。

 この点についての見分けは専門医でなければ難しいことも多いので、独断による服薬の中止はリスクが高いと言えるでしょう。


=========引用終わり==============


 SSRIを飲んだ後で「眠気」が出る場合、実は十分な休息が取れないまま無理をし続けていた状態に働いた、薬の「主作用」の現れであらわれである可能性があるというのは、私自身の過去の経験と全く見事にマッチングします。

 更に私は現在も眠剤代わりにデジレルを少し飲んでいます。デジレルはSSRI誕生までの過渡期の中間的な薬で、今は主剤として使われることはほとんどなく、SSRIや気分スタピライザを飲んでいる人に「睡眠導入剤代わりに」使われる用途が多いかと思います。

 ところが、この薬を飲んですぐに眠くなる(私はほんの20分もかかりません)のは、私がやや無理を重ねた時期と一致しています。しかも、そうした消耗期に飲むこの薬の飲み心地は、何か独特の、「脳や胸の辺りに少し不快な」感じもつきまとう。

 無理をしなくなると、この薬を飲んでも、そうした「いやな感じのする眠気」はなくなって、単に「気持ちがストンと落ち着く」かな・・・というぐらいの、全く不快感のない、水みたいな薬になってしまうんですね。そして、特にこの薬に頼ったという自覚なしに、無理なく眠れるようになります。

 こうした、さまざまな身体的な指標に敏感になって、薬といい同盟関係を結んで、無理のない範囲で仕事をして、慎ましやかなライフスタイルを静かに送るのが、今の私のささやかな満足でしょうか。

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2009/06/25

アニメで男女の普通の悲恋物語を描けるのは押井さんだけか? -人狼-

 このDVDに関しては、実は何年か前に購入していながら、封を切らないでいた。ちょうどいいタイミングなので、やっと観てみる気になった。

人狼 JIN-ROH [Blu-ray]


 もっとも、この映画においては、押井さんは、原作と脚本のみである。しかし、押井さんといつも仕事をしてきたスタッフたちの手により、実に見事に押井ワールドが構築されている。ある意味で、「総合的なバランスのよさ」という点では、押井作品の中でも出色の完成度といっていいのではなかろうか。

 もっとも、ある独特のいびつさ、バロック的ともマニエリズムといいたくなる側面というのも、彼の作品の独特の魅力なのだが・・・・ベートーヴェンだって、作品としては無茶苦茶にいびつであり、作品発表直後は批評家に叩かれまくったものだ。

 そして、ベートーヴェンが、ピアノの性能向上をはじめとする最先端の楽器をいち早く採用し、それまでの古い楽器では描き切れないものを無理やり楽譜に詰め込んだのと同様に、押井さんの作品には、最先端のアニメ技術を予算的に可能な範囲で、まるで「船の甲板の板まで引っ剥がして薪にくべるようにつぎ込む(精神科医、中井久夫先生が自著、「西欧精神医学背景史」について「あと書き」で語った表現)」ために生じる、画面として観た際に生じる独特の不整合感・・・・旧手法と新手法の「きしみ」のようなものがひっかかりを残すのも、やむを得ない。

 押井さんの作品が古典になった時、こうした面をどうこういう批評はもはやあまりなされなくなっていくはずである・・・・まさに、ベートーヴェンのごとく。


*****


 公開されたのは、"GHOST IN THE SHELL"(1995)の後の時期にあたる2000年である。この公開年から考えれば、CGを全くに近く使わず、セルアニメの手法のみで、しかもここまで贅沢に豊穣に描き切った、その画面の醸し出す雰囲気は、作品世界の、昭和30年代後半のパラレルワールドのレトロな空気とも見事にマッチして、何とも贅沢な映像体験をさせてもらっているという思いを強くする。なかなか、ここまで、セル動画や背景画に一切の手抜きなしの均質性というのは、現実には体験したことがない。

 物語世界については、結局、国の警察機関内部とセクトとの間での人間関係に閉ざされおり、そうした組織の論理が前面に打ち出されているため、それだけで「作品世界が閉じている」云々と言い出して、この映画に入れないという人も結構あるのだろうと想像する。しかし、そのことだけで、この映画を「作家性優先」だとか「オナニー映画」などと言い出す人は、どんなものかなあ・・・・と、率直に言って、思う。性急に「自分の願望」を満たしてくれない映画を単に「気に入らない」というだけならばともかく。

 この作品世界にほとんど相似の現実は、第3世界にいかに満ち溢れていることだろう。自爆テロ、どこまでが一般市民でどこまでがテロリストかわからない世界、一国の中で警察や軍事機構が複雑な構造を持ち、互いに権力争いしている世界・・・・・実は「ありふれた」現実ではないか。

 押井氏は、自らの学生運動体験(その中での恋愛体験?)へのオマージュをも込めながら、そうした世界の現実を、パラレルワールドの日本に招聘し、観客の目に突きつけただけだとすらいえる。

 そして、何らかの意味で組織や団体やグループに加入しているもの同士が出会う時、まさにここで繰り広げられているようなことが生じているのだ。これは我々が幼稚園や小学校時代から積み上げてきた、社会との軋轢の歴史である。組織の論理に憑依される人々。構成員の間の内部闘争、建前と本音、権謀術数、「社会正義のための(ヒューマンな)」組織の内部ですら進行する冷酷な非人間性と闇、裏切りや嘘。秘められた恋と、それを不条理な思いを抱きつつも断ち切る(断ち切られる)ようなことは、人生の中で少なからぬ人が身近に遭遇してきた現実のはず。武器や殺人がなく、主人公のように無敵のスペシャリストではないというだけのことであろう。

 そのことを思う時、この映画は、辛口だが、何とまっとうな、男と女の出会いと別れの物語ではないかと思う。それを描くのに、ヌードシーンはワン・シーンも不要なのだ。

 これだけ、「ごく普通の」大人の感受性を維持した「成熟した」アニメ映像作家が、日本のどこにいるだろう?

 (そういう人を知らないだけかもしれないが。・・・・・敢えて言う、宮崎さんだとは、私には思えない。宮崎さんは、社会的要請によって、必死に「大人の代表」を演じなければならなくなった、絶えず「背伸び」を強いられてきた、「永遠の少年」のように感じられて仕方がないのだ。押井さんの方が、「等身大」のままでいられている。「だから」ジブリに後継者が育たないのだ! 押井さんの方が、この作品の監督の沖浦さんをはじめとして、結果的に、後進を順調に育てているように見える。そうした人たちは単なる押井さんの劣化コピーにはならないないだろう)

 押井さんより9歳年下だが、昭和35年生まれであるおかげで、この作品の中で描かれている風景が、幼児期の「テレビを介さない」記憶として残っている世代として。

 押井さんだって、このくらい「普通の」脚本を書く時は書くのである。

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2009/06/24

待つ女 -スカイ・クロラ-

 この押井守氏の劇場版アニメーション映画を、男と女の物語として十分味あわずして、この映画について、ちまたにあふれる、「変わらない現実をどう変えるか」云々の物語として理解しようとするのは、この映画の苦味を、澱(おり)まで飲み干して味わうことにはならないのではないかと思う。

 ・・・・・もちろん、少なくとも、ある一定の年齢層に達した観客のかなりの部分は、そのことに十分に気がついている筈であるが。

 以下、恒例、原作についての予備知識なしの人間が、一回観た段階での感想として書くので、もし何か重大な勘違いがあってもお許しいただくとして。



【以下、物語の核心に関わるネタバレありです】

スカイ・クロラ (通常版) [Blu-ray]


*****


 主人公、函南優一の基地への着任を待ち受けていた、草薙水素(すいと)。彼女は、永遠に「待つ女」である。戦闘で死なない限り永遠に子供の姿のままで生き続ける「キルドレ」である彼女は、その永遠に続く変わらない日常を打破してくれる「男」をひたすら待ちわびる無力な存在に過ぎないとも言える。

 この、ゲームとしての戦争を果てしなく続けることを「平和のための保険」であるという共通合意が成立した近未来世界の、果てしなく淀んだ「大いなる日常」を崩すためには、決して負けることがない、しかもキルドレではない「大人」の操縦士とされる、「ティーチャー」を撃墜することによってしか達成されない。

 水素は、かつてその「ティーチャー」と男女の仲になり、一子を設けた。その「娘」は、確実に成長し続けているのであるから、「ティーチャー」がキルドレではないということ自体は虚構ではないと見なしていいのだろう。

 水素も、その「ティーチャー」を自らの手で撃墜しようとすることがある。しかし、それは決して果たされない。しかも、「ティーチャー」の側が、彼女に限っては決して「止(とど)めを刺して」はくれないという「生殺し」状況もあるのではないかと想像できる。

 キルドレには、過去の記憶が非常に曖昧な形でしか存在しないようである。子供時代の記憶というものは決して作中で語られることはなかった。もっとも、戦闘員として必要な技能に関しては例外である。これは、キルドレが、遺伝子操作によって作られたクローン的な存在で、必要な記憶や技能のみが、後で「疑似体験」的に植えつけられている可能性を示唆するものだろう。

 ただ、どうもキルドレ(少なくとも大半のキルドレ)の場合、「エヴァンゲリオン」の綾波レイのように、「私には代わりがある」ことそのものを自覚している存在ではないようだ。

 「攻殻機動隊」の世界観ふうにいえば、彼ら/彼女らには、個体としての「ゴースト(こころ)」が確かにあるのである。出生から現在に至るまでの人生のストーリーは曖昧なのに、一回限りのものとしての人生という認識までは奪われてはいない。そのこと自体がある意味で残酷であるとすらいえる。

 キルドレは、複製品としての、さまざまな擬似情報にばかり囲まれて育った、私たち(以降)の世代の暗喩であるようにも思われる。共有する子供時代の記憶といえば、「あの頃ああいう番組が流行っていたね」だとか、テレビの向こうで繰り広げられていた戦争や事件の記憶が大きな部分を占めている。

 現実の私たちにとって幸いなのは、(特に私ぐらいの年齢になると痛いほど感じるのだけれども)、自分が年月を経るにつれて否応なしに変化して来ていることに気がつけていることだ。「若い頃」とは変化しつつある自分と、日々直面し続けることになる。もっとも、それは決して単なる衰えなどではなく、感性と知性のバランス感覚がよくなるという体験として、少なくとも私には体験されている。

 そして更に、自分の人生のタイムリミットを意識していられる。「本当の衰えや死が訪れるまでに、自分に何ができるのか」という意識が、大きな支えになっている。もう、若い頃のように、1歳2歳の歳の違いなんてどうでもいい。かつて共に時を過ごした者が、それぞれ自分の人生を歩んでいるのをみても、いちいち動揺しにくくなっている。

  
*****


 「あなたには、生きて欲しい」

 この言葉を函南がつぶやき、水素がはじめて大粒の涙を流した時、函南がこのあとどのような行動を取るのかは、水素にも、そして少なからぬ観客にも予感できたはすである。

 その後の函南の出撃と、それを見送る水素の様子は、映画で繰り返し描かれてきた「特攻隊の出撃」映像をなぞるかのようである(もとより、押井さんは、自分の描き方が、まさにそうした過去の映像作品の複製的表現であることを、確信犯的に自覚していたはずだ)。

 コックピットの中の函南の表情はいつになく涼しげにすら見える。編隊の他のクルーを全員引き返させ、「ティーチャー」に一人で挑みかかる時、彼は全力で戦い「ティーチャー」を撃墜するつもりでいたろう。少なくとも「刺し違える」つもりでは。

 ・・・・・しかし、彼には、「特攻隊員」に死後贈られる栄光すら存在しない。

 なぜなら・・・・


****


 水素は、相変わらず、「待つ女」だった。

 このことに立会い、そうした彼女に幻滅した観客が、この作品世界をどう引き受けるか(どう引き受けないか)にこそ、押井さんが込めたメッセージがあるのだと思う。

 「あ、この映画(この男、この女)この程度か。つまんないや、他にもっとおもしろいのないかな(いないかな)」

と感じた時点で、その人は、水素のダークサイドを無自覚に再演し、そこに引き込まれているともいえる(^^;)

 少なくとも水素の中には、過去の男たちとの思い出は生き残っているようだ、仮に彼女自身がが過去に撃墜されて、再生されたクローンとしての履歴も持つとしても、彼女の「ゴースト」は完全には死に絶えてはいないように思える(彼女だけは、この点で「特別扱い」なのかも。このへん、原作の設定は知らないが)。

 前の男は、「殺してくれ」止まりだった。

 次の男は、「お前は生きろ」という言葉をかけてくれ、自ら「世界を変える」決戦に飛び立ち、命を散らした。

 更に次の男は?・・・・・あと一歩ステップを刻むかもしれない。


・・・・・素子は素子なりに、未来への希望をつないでいるのではなかろうか。

 娘がどんどん大きくなる「現実」を見据えながら。


 そして、何度「命を散らした」かに見えても、我々自身の中に、クローンが再生するかのような「再生」の機会があるのだと思う(きちんと「養生」すれば、めぐってきます(^^))。

 まあ、「再生」するたびに、遺伝子の一部が更に損傷を受けて、老化は進んでいるかもしれないけどね、記憶の多くは、キルドレたちよりは遥かに維持されているであろうし(^^)  

 神経繊維のネットワークの方は、歳を重ねても成長できるのだよ。


●goo映画 こういちろうによるレビュー


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2009/06/21

「ツレがうつになりまして。」原作も読みました。

 私としては自分から進んで買ってまで読むつもりはなかったが、たまたまうちを訪れた親父が、恐らくNHKのドラマ(私の感想はこちら)を見て原作を買って読んだ上でと思うが、私の住処に置いて行っていたので、正編・続編とも、一気に読めてしまった(^^;)

 原作のメインのストーリーの大半は、ドラマ版で、十分な肉付けの上で語りつくされていると感じた。風吹ジュンの演じた女医さんは、ドラマのオリジナル・キャラみたいですね。

 視聴者によっては、単純な漫画の線だから耐えられたのに、実写ドラマでリアルに演技されると、自分が鬱だった時の体験が蘇って辛かったという感想もお持ちの方があったようですね。

 ただ、私が鬱患者の立場から見た場合、ドラマ版が原作よりも秀でている点がある。それは、原作では、鬱の患者さん自身が読んだら、うつのツレさんと言葉を交わすテンさんの一つ一つのコトバが、無神経に刺さるような性質をかなり秘めていたように思える。そうした面はドラマ版では払拭されているということだ。

 この点で別に原作者を責めるつもりまではない。原作の「続編」の方になると、そういう「鬱の読者自身に無神経に刺さりかねない」側面が、きれいに感じられなくなっている。これは「正編」を出版して読者の反響を得てみて、はじめて気が付ける性質のものだったろうと想像できるので。


*****


 原作を読んではじめて、ツレさんが、クラシック音楽で特にでロシアものファンであり、私と同じようにヘッドフォンで細かく音楽を聴くタイプだったことを知った。

 こうした音楽すら聴く気になれなくる時期が、実際、ツレさんにとって一番うつが酷かった時期と重なるのだが、確かに、鬱がひどくなると、最後には自分が一番好きだったものすら楽しめなくなるものである。「音楽好き」だった人にとってはむしろ音楽は耐え難くすらなる時期があっても何もおかしくない。

 私も、そうした時期は巧妙に音楽ジャンルを乗り換えたり、結構音楽を遠のけて過ごしたりしてきたように思える。

 私にとっても、音楽というのは「能動的に聴く」もののようで、BGM的な「ながら聴き」は基本的には苦手なようだ。

 この半年ぐらいの間に気が付いたのは、今の私の場合、「音楽」よりも「映像」の方が遥かに癒されるということだった。ことに、「映画作品」というのは古今東西、ジャンル無関係な形で、音楽の場合ほどにも対象を選ぶことなく、スーッと作品世界に入り込んで味わえるようであり、いったん作品世界に入り込んでしまえば、その直前まで感じていた神経の高ぶりや疲れも吹っ飛んで、ただただ身を委ねて癒されてしまえるようである。

 たとえ、アクションでもミステリーでもホラーでも、重厚歴史モノでも、なーーーんでも「癒し」なのだということに。

 一番無理なく自然に、脳内のセロトニンが増え、「海馬が潤いを取り戻す(?)」気がしてならない。

 (私の場合、ジャンル無関係に「セロトニン」増加優位のようで、「アドレナリン」や「ドーパミン」分泌ではないのである。私とはそれだけ「映像の中に、リアル現実の日常に身を浸すのと同じようにどっぷり淫する」タイプなのだと思う。これって、実写映画とアニメ映画に基本的な差異を認めない、押井守さんの作風との一致度が高くて当然というべきか?)

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とっくに「電脳化」しているこういちろう? -劇場版「甲殻」について:続編-

 押井守さんの、劇場版「攻殻機動隊」2部作に関する感想の補足である。

 第1作、"GHOST IN THE SHELL"が最初に公開されたのは、1995年、つまり、Windows95発売の年である。


 このOSの発売ではじめて、インターネットは多くの人にとって身近な存在になりはじめた。もっとも当時は、「常時接続回線」を個人で所有する人など超例外だった。さすがに電話機の受話器を使った「音響カプラ」の時代は脱していたにしても、多くの個人ユーザーは、低速のモデムを一般電話回線につなぐ形。プロバイダ料金も従量制だったので、特定のページを閲覧している間は通信を切るということもしていた記憶がある。

 しかし、当時のパソコンの新規ユーザー層の少なからぬ部分にとっては、パソコンとは基本的には"stand alone"に使用するものであり、電子メールを使用する際、パソコン通信に関心がある人たちを別にすると、「インターネットを介してて、ユーザーが常時接続的につながっている」という感覚そのものがなかったわけである。

 今でこそ、"GHOST IN THE SHELL"で描かれた、「大抵の人が、(自分の脳に埋め込まれた)端末を通してネット世界につながっている」という状況は、身体の埋め込み端末こそないものの、インターネット機能が発達した携帯電話と向かい合うようにして日々を送っている現実との落差はぐっと小さくなり、今の現実のちょっとした暗喩の物語・・・・ぐらいで受け止めることができる。

 しかし、"GHOST IN THE SHELL"が、14年前の作品であることを思い起こす時、この作品が、いかに時代を先取りしていたかに、ちょっと呆然としてしまうのである。

 もとより、押井さんが、更に数年前、劇場版「パトレイバー」第1作で、当時はまだほとんどの人にとって未知の用語だった、「汎用OS」だとか、普段は沈黙していても、一定の条件が揃うと、一斉に凶悪な機能を発動をする「コンピューターウィルス」や、今日でいう「ハッキング」の問題を取り扱ったのが、何と1989年であるから(^^)

***** 

 さて、「攻殻」の作品世界の中では、

「自分の経験や記憶(恐らく、DNA情報なども)など、自分を自分たらしめているもののすべては、ネットの中に常時保存され続ける」

という趣旨のことが何回か語られるが、私のように、まさに1995年から個人ウェブサイト(「阿世賀浩一郎のホームページ」は当時の原型そのままのコンテンツを今も含みます)を立ち上げてきた人間からすると、こういちろうという人間の体験や記憶や思考のかなりの部分が、すでにネット空間に蓄えられているのだと、妙に生々しく実感できる。

 私の場合、原則として、仮にハンドルを使ったとしても、リアルワールドでの私と同一視されるのは一向かまわないという立場でしかネット活動をしてこなかったから、なおのことである。

 

前の記事にひきつけて言えば、ひょっとすると、すでに、私の『ゴースト』そのものが、ある程度はネット空間の中にも自律した存在として跋扈できるpresenceを、(ささやかながら)獲得でき始めているのではないかとすら思う。

 つまり、こういちろうはすでに、素朴な次元で、十分、ヒロインの「草薙素子(もとこ)」的な意味での「電脳化」した存在様式を持った存在なのではないかということ(^^)

 もっとも、こういちろうは、素子のように、無茶をし過ぎて、生身の身体の方を吹っ飛ばされ、「脳核すら失う」形で、電脳空間を基本的な住処とし、時々必要に応じて「擬体」を使い分けるような存在にはならず(爆)、生身の人間として、この世に「どっこい生きて」い続けるであろうこと。

 生身のカウンセラーとして、この世に存在し続けるわけだし、フォーカシングのトレーナーとしての私も、もっとその存在を、リアルワールドに「露出」していけるようになることを、じっくりと目指していますので(^^)

*****

 ところが、もし仮に、日本のフォーカシングの世界における私についてのイメージというものがあるとすれば、この10数年来、それはほとんど、ネットを介して形づくられたものにならざるを得なかった(クローズドなメーリングリスト、"focusing-net上での活動を含めて)。

 私が実際にフォーカシングのセッションを、フォーカサーとして、トレーナー/ガイドとしてどう行なうかをライブ体験している層は、実はほんのほんの例外的な一部の人たちでしかないのにね(^^) 

 そういう意味では、フォーカシング関係者は、現在も、私のネット上の『ゴースト』に踊らされている人たちが今も少なくないのかなとすら思う(^^)。

 そこに映し出されている『幻』は、果たして、「こういちろう自身のこころ」なのか? それとも読者の「こころ」を写し出す、投影的な『鏡』なのか?

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2009/06/19

「ゴースト」と「ファントム」 -押井守と神田橋條治の共通項-

 ・・・・というわけで、長年の封印を解き、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」二部作をやっと観終わったばかりです(^^)

 第1作"Ghost in the Shell"の方は、その長期の封印の間にVer.2.0になって、大幅なCG化に留まらない、すべてのシーンの手直しがなされていたみたいでしたし。


 予備知識ゼロでぶっ通しで観たわけですが、観てよかったですね。今の押井さんのを観たら、少し頭が痛くならないかと勝手に思い込んでずっと億劫がっていたんですけど、押井さんの硬質のリリシズムの世界って、やはり私には「癒し効果」の方がよほど強かったんだ・・・・と、何を今更ながら感じた次第coldsweats01

 押井守さんというと、私にとっては、「うる星やつら」TVシリーズの中の超異色作、「みじめ、愛とさすらいの母?!」(第101話)を本放送で観た時点で圧倒的に熱狂し、この回の拡大バージョンというべき劇場版第2作「ビューティフル・ドリーマー」、は、映画館で見た回数18回という私にとっての最高記録を保持しています。(この件についてはこの記事参照)

うる星やつらDVD vol.20(「みじめ!愛とさすらいの母?!」収録 うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]

 その後、「天使のたまご」を経て、劇場版「パトレイバー」の2本で、止まっちゃってたんですね。後を追うのが。

 今回、この2本を見て、これらの作品の延長線上に、押井さんはやはり押井さんであり続けたまま、それらを全部総合しつつも、なおも前を進んでいるのを感じて、むしろほっとする、故郷に帰ったかのような思いすら感じました(^^)

*****

 予備知識なしで観て、最初に何より驚いたのが、この「攻殻機動隊」の作品世界の世界観というのが、最近私が改めてご紹介してきた、精神科医、神田橋條治先生の考え方と実にいろいろと「かぶる」ことに気がついたことなんです。

 この近未来の世界では、人体に及ぶ「電脳化」と「サイボーグ化」が、多かれ少なかれ、人々に進行しています。

 ここでいう「電脳化」とは、神経にネットに接続する端末が埋め込まれていて、思い切ってわかりやすく言えば、無線LANで常時接続されているような状態にあるということです(個体によってその性能に落差はあるし、高度な情報セキュリティの問題や膨大な情報のやり取りをするとなると、首の後ろの端子を外部機器に接続するやり方がとられるようですが)。

 これによって、人は言葉を話さなくても対話できるし、資料を観たり読んだりしなくても、脳に直接情報をインプットできる。情報検索したければ、もはやパソコンを立ち上げ、インターネットブラウザを開けなくても、例えば、いろいろな格言を見つけ出して、臨機応変に口にすることなども自由自在である(おかげで、第2作、「イノセンス」は、古えのことわざや格言やアフォリズムの山となってむやみに格調高いセリフが多い)。

 自分の体験したことや感じたこと全体をパソコンに「バックアップ」することもできることになる。つまり、脳内に刻み付けられたその人のパーソナルな体験世界全体・・・その人の人生の痕跡すべてが「外部記憶媒体」に記録されていくことにもなる。

 しかしこれは、自分の思いや記憶や体験のどこまでが「自分自身」のものなのか、それとも、ネットを通して取り込まれた情報による「疑似体験」なのかの境界が曖昧化し、「本当の自分とはどこにあるか」と悩みだしたらキリがない状態に置かれているということでもある。

 更に、ネットを通しての「ハッキング」が生じると、自分の体験ではないものが植えつけれて、他人により「捏造」された過去を本当の過去のように思い込まされたり、戦いの中で目に見えてもいないものを見えたと錯覚させられて(見えるはずのものを見えないとされる方も当然可能)、混乱させられる可能性もでてくることになる。

 そうした、「電脳化」と完全に一体化したものとして身体の「サイボーグ化」を位置づけ、「もはや自分の本来の生身の身体がほとんど残っていない存在」と人間が化した時に生じる可能性がある、アイデンティティーの危機の問題も同時に取り扱えているのが、この作品の実に興味深い点だと思える。

 さて、では、ここうやって、身体的にも、脳に及ぼされる情報、蓄積された体験という観点からしても、どこまでが「自分固有のものか」という境界があいまい化した時、最後に頼りにするものはいったい何なのか? 

 人工知能(これには他人の記憶の複製が使われる)を備えたアンドロイド(この作品世界では「ただの『人形』」という言い方がなされる)と人間の違いはいったい何なのか?

 「私の『ゴースト』が、そうささやくのよ」

・・・・主要登場人物二人が、一かバチの決定的な判断を迫られた時に繰り返しつぶやく「決め台詞」である。

フォーカシングを学んできた私には、「私のフェルトセンスがそうささやくのよ」という感覚にひどく通じるのが嬉しかったが)

 『イノセンス』に付録としてついている「解説ビデオ」(!)に頼らなくても、この『ゴースト』とはどのようなものか、映画を見ていく中で漠然と察することができる作りになっているので、この言葉に明快な定義を与えないままのほうがいいとすら私は感じるが、

 「まるで幻に過ぎないかのように曖昧で不確かに感受できるだけだけれども、その人の奥深くに隠れていると感じられる、<こころ>のようなもの(が指し示す方向性)

のようなもののことを指しているようにも思われた。そしてそこにはどうも、命をつなごうという生命体の本能のようなものが関与しているような描かれ方であった(この本能が、時として残虐で利己的なダークサイドを持つことすら、「イノセンス」では描かれているが)

****

 こうしてみてくると、ここでいう、「ゴースト」としての「こころ」という発想は、神田橋先生の思想を知るものにとっては、神田橋先生の「ファントム(幻影)」としての「こころ」という思想を、嫌が上でも思い出させる側面が出てくる。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

 もとより、神田橋先生が、こころを「ファントム」であるという時には、もっぱらその否定的な面が強い。つまり、自分自身の「思考」や、様々な外部からの「言語的情報」(そこには、精神医学や臨床心理学者の専門的な分析や解釈も含まれる)や、言葉で表現できる「価値観」によってこねくりまわされ、その人を惑わすだけの存在なのに、何かすごく大事なものであるという「幻想」として「実体化」している「こころ」という概念の徹底的な「価値の引き下げ」こそ、神田橋先生がまずは意図しているものなのだ。

 そして、人間が「コトバ文化」の虚妄から解放され、動物には備わっている生体恒常性に従うかたちで生きていく状態をある程度回復していくことをこそ、神田橋先生は理想としている。

 厳密に言うと、この点では、「攻殻」の作品世界観と神田橋先生のそれとの間には方向性のズレがあるかもしれない。

 押井氏の場合には、そうやって電脳ネットワークにまみれ、情報の渦に巻き込まれ、更には一切の生まれついての生身の身体をすべて失っても、サイバー空間の中で、固有の「個」として存在し続ける「ゴースト=ひとのこころ」との交感の可能性にすら期待をかけているのであるから。

 もっとも、物語の中に「神の次に完璧なのは(人間以外の)動物だ」という意味のセリフが登場するし、一見ストーリーと無関係だが、重要な存在感を持つものとして主人公の愛犬が克明なまで描かれていること、更には、

孤独に歩め
悪をなさず
求めるところは少なく
林の中ののように

という『阿含経』の一節が、「イノセンス」を象徴するメッセージであるという観点からすると、押井氏の世界観と神田橋先生の世界観のめざす方向性は、意外と同じまなざしなのかもしれない。

*****

 いずれにしても、私は、まだ『ポニョ』見てませんけど、

「神経症の現代に贈る・・・・」

・・・・うんぬんというキャッチフレーズを、押し付けがましくて、うっとおしく感じ(^^;)、

そのくらいならば、『イノセンス』に出て来るセリフ、

「『ゴースト』があるからこそ、人は狂気にもなれるし、精神分裂にもなれるんだ!!」

というメッセージの方が肌にあう人間のようである。

※続編はこちら

「スカイ・クロラ」評こちら「人狼」評こちらにあります。

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2009/06/17

睡眠障害の女子高生、ひとみのケース -劇場版「エスカフローネ」-

いつも眠いの。

私、ヘンかな?
どうしてるかな?
何か疲れてるのかな・・・・

みんな元気だよね。
私はダメだよ。
だから眠るの。

眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。

私が消えても、
何も変わらない。

 その少女は、授業をサボって、屋上で横たわり、放心していた。

 ただ放心していたのではない。

 その少女の傍らには、親友に宛てた一通の手紙。

「私 死にます。
 さようなら。

     ひとみ」

 その手紙の傍らには、脱いだ靴まできちんと揃えられて置かれているではないか!

 

神崎ひとみは、死に切れなかったのだ!!

****

 その手紙を発見した友人は、

「そんなやり方で死なないでよ。
友だちとして恥ずかしいから」

 ひとみは、やや自嘲的に、言葉を返す。

「死なないわ。
生きてるよ。
このまま歳取って、
ばーちゃんになって、
死ぬ時が来るまでは生きてるよ」

友だちは、それにもめげずに提案する。

「明日街に行く約束したの、覚えてるよね?
 行こうよ! ひとみ!」

 この子だって、ひとみの「遺書」にぎょっとし、心配しなかったわけでもないだろう。

 ただ、ひとみの身になって、ひとみの目線に立って、ひとみの悩みを受け止めることはしんどかったので、こういう軽い受け流し方をしただけのことだ。

 彼女にとっては、まったりと続く「大いなる日常」の中で、自分と一緒に、ひとみの気持ちが「何となく」癒され、紛らわされていくことに期待をつなぐことしかできなかったのだろう。


******

 だが、二人が街で、一見無邪気に楽しいひと時を過ごした後、友人がひとみに、マジに心配する言葉をかけた時、ついに二人の間に亀裂が生じる。

「私マネージャーだし、ひとみが辞めちゃっとこと、顧問の先生にどう伝えたらいいの?」

・・・・・などと、あたかもマネージャーとしての自分の都合を優先するかのようにして、ひとみに言葉をかけたのが、彼女の最大のミスである(^^;)

(これじゃ、ただでさえ人を払いのけたい心境のひとみにとって、自分が思いやってもらっているとはいよいよ感じようがないの!!)

 ひとみは一気に払いのける。

「いいよ、私のことなんか。
 鬱陶(うっとう)しいよ。
放っといてよ! 私のこと!

いやなヤツ!」

 友人は、

「そっか、私、寄るところがあるから。
 じゃ、明日、学校でね!」

と、そそくさと立ち去るのみ。

(だーかーら、そういう返事そのものが、ひとみを更に傷つけ、疎外するのだよ)

 ひとみは更につぶやき続ける:

いやなヤツ。
消えちゃえよ!
いやなヤツ。

友だちを傷つける、
いやなヤツ。

だから私を・・・・
(消してしまいたい)

 ここで、セリフの意味が、巧妙にすり替わっていく。 

 

恐らく、ひとみは、単に友だちに傷つけられたと感じていたのではないのだ。

 同時に、友だちを傷つけた自分が「いやなヤツ」だとも感じている。

 そういう形でしか存在し得ない、人との関わり全体が「鬱陶しく」なり、この世から自分が消えてしまえればと感じているのだろう。

*****

 この、過眠に陥った、すでに十分に欝への道をまっさかさまに進んでいる女子高校生、ひとみの前に、突如、異世界からの召喚がかかる。

「そう、消え去ればいい。

 悲しきこの世界を、
 すべてを消し去る」

 この声の主、フォルケンは、異世界、ガイアにおいて、ある王国の長兄だった。しかし、占いによって王位継承権は義弟のバァンに定められた。

 そのことに怒り狂ったフォルケンは、父母を殺し、宮殿を、王国を破壊し尽くし、今や巨大な空中要塞から、ガイアのすべての国を隷属させようとしている「黒竜族」の首領である。

 フォルケンは、自分のすべての悲しみを自分が王位継承者になれなかったことに起因すると感じており、かつて一度ガイア全体を破壊し尽くした伝説の「鎧」、エスカフローネを復活させて、自分もろともガイア全体を消し去ることを唯一の望みとして生きている男である。

 そして、エスカフローネをガイアに覚醒させるのに必要な触媒、「翼の神」が、こうしたフォルケンの心情にシンクロする潜在力を持ち、自分の世界から「消えてしまいたい」とも念じていた、ひとみだったのだった。

*****

 こういう登場人物が作品に登場すると、

「そんなに絶望しているのなら、周囲を巻き添えになんかせずに自殺したらいいのに」

と感じ、感情移入しにくいと感じる皆さんが必ず少なからずいるかと思う。

 このことの謎を解く鍵は、フォルケンとシンクロしているひとみの側が、すでにつぶやいている。もう一度紹介:

眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。

私が消えても、
何も変わらない。

 このことそのものが、すでに空しいのである。

 

だから、周囲の人を、誰彼となく、巻き添えにする。

 こうして、さまざまな無差別殺傷事件のことを連想することにもなるが・・・

(ちなみに、このフォルケンに蹂躙された民は、「アバハラキ」と呼ばれている。当然「秋葉原」のアナグラムであろう。そこに深い意図はなかったろうし、この映画は2000年に製作されたものであるが・・・・)

******

  ここでこうして紹介してきたのは、2000年に公開された、劇場版アニメーション、"Escaflowne"の最初の方のシーンである。

 この劇場版制作の元になったTVシリーズアニメ、「天空のエスカフローネ」(1996)は、「人魚の森」を例外とすると、今までのところ、私が最後に通して観たテレビアニメである。

 このアニメについては、テーマソング、「約束はいらない」を中心として、このブログでもすでに以前にもご紹介したことがある。

↓名オープニングと思ってるから、再度掲載。HQ再生だと画質十分にいいですよ(^^)。
●天空のエスカフローネ OP(YouTube)

 世は「エヴァンゲリオン」テレビシリーズ放映終了直後、「エヴァ」ブーム沸騰の最中だった。

 そうした中で、この作品は、シリーズ構成:河森正治(マクロス)、キャラクターデザイン:結城信輝(ファイブスター物語)、音楽に菅野よう子、溝口肇、BGM演奏はワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団、その他の強力布陣を最大限に生かし、固有の美学と味わい・・・・流麗さと気品と清澄さとオープンな空気・・・・を持った作品として、忘れられない記憶になっている。

 日本でに留まらず、ヨーロッパをはじめとする海外での放送で、狭い意味でのアニメファン層を超えてたいへんな人気が出て、TV放映ジャパ二メーションへの欧米社会での評価全体を当時再興したというのも、頷ける気がする、

 感性がいい意味でユニバーサルで、批評家やマニア層にだけ受けるタイプではないのね、この作品。対象年齢層も幅広く、しかし、何か、ただそれだけではない"something"で魅惑する。

 この作品のような清澄でさわらかな空気の広がりとスケールと上品な風格をもち、夢とファンタジーのある作品が、今もテレビの幅広い層が見られる時間帯に放映されているといいんだけどね・・・・

****

 TVシリーズから数年を経て、劇場版が作られたということについては、アニメからほぼ離れていた数年間全く知らず、昨年ごろ、YouTubeを通して知った。

今販売してるのはブルー・レイだけ?

●劇場版エスカフローネ ファーストシーン(YouTube)

↑この冒頭シーンだけでも、TVシリーズに比べると遥かにハードな空気が漂い、いつか全編見てみたいと思っていた。

 私はこの数年、ともかく自分からはアニメを自分から進んではあまり観たくない心境になっていた。「エヴァンゲリオン」で単行本まで出して、コミットし過ぎ、距離を置きたくなっていたということも大きい。

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

 そうした中で、いきなりのDVD購入で、圧倒的に賛辞を惜しまない心境に達したのか「時をかける少女」だったこともすでに記事にしたことがある。

(同じ細田守監督のこの夏封切りの劇場アニメ、「サマーウォーズ」は観ると思います。劇場用特報(60秒の。予告編ではなく)で、田舎を舞台にした映像に、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」を華麗にフューチャーしたミス・マッチの妙だけで、本編で使うのかどうかわかんないけど、センス的に、もうたまんないねえ!!)

 先日、ふと、そろそろ少しだけ、再びアニメ「解禁」していいのではないかとも感じた。

 まず、観ようと思ったのが、「エスカフローネ」だったわけです。この作品なら、重厚過ぎもしないし、巨匠然ともしておらず、マニアックに過ぎない内容のはずだから、「慣らし運転」にちょうどいいだろうと(^^;)

(・・・・・同時に借りてきたのは、私がここ数年一番観るのを億劫がっていた、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」2部作だったりして・・・感想はこちら

*****

ところが、蓋を開けてみたら、劇場版「エスカフローネ」。ここまで全編の作風や設定がTVシリーズと違っているとまでは思っていなかった。

 おかげで、こうして、予想外に重厚な記事にできつつあるわけある(^^;)

 シビアな世界観。そもそもひとみの性格をここまで変容させるのは大胆な決断だったと思う。

 1時間半強の劇場アニメとして、無理なく描ききれる形にストーリーも設定も整理されている。CGの使用はごく控えめで、劇場用とすればあと一歩ハイグレードな作画も当時の水準で可能ではあったろう。

 しかし、TVシリーズについての予備知識皆無で観ても十分に堪能できる佳作に仕上がっていると思う。

 日本での公開は限られた上映館だったらしく、劇場で見た人は限られているようだが、海外各国で公開され、フォン層を更に増やしたというのも納得である。

****

 どうも、ネット界では、惜しくも早くして亡くなった近藤勝也氏監督のジブリアニメ「耳をすませば」を「鬱アニメ」と呼ぶ風習があるらしい。

『耳をすませば』が鬱映画?(教えて!goo)

 ここでのやり取り全体にいろいろ苦笑してしまったけど、この映画を観ている側の方が映画の中の青春の描き方に勝手に落ち込んでいるというケースが少なくないようなので(その程度で軽々しく鬱なんていう言葉使うなよな~coldsweats01)。

 その点からすれば、この劇場版「エスカフローネ」は、TVシリーズと比較した時、このひとみとフォルケンという、劇場版では一番の鍵を握る登場人物二人が、こぞって似たような鬱状態として描かれているとは言えるかと思います。

 その分、劇場版では、バァンの位置づけがやや地味になったともいえるかもしれない。しかし、ある観点からすると、バァンの方が、絶えず皇位継承者としての重圧を身に帯びて生きてきた孤独な武人であるという観点からすると、執着気質的で、古典的な鬱病の病前性格の持ち主であったともいえるかも。フォルケンとひとみのほうが「新型うつ病」的のようにも思えます。

 そして、バァンは、ガイアという世界で、個人的人間関係の如何に関わらず、生きる目的と責任を背負っているという点が、フォルケンやひとみとは好対照な存在なのだ。

 戦いの後、ひとみをガイアに引きとめさせているのは?・・・・バァンとの個人的な絆を失いたくないという思いだけだったろう。

 これが、TVシリーズの、心地よい余韻に満ちた終わり方(↓)とは好対照なまでの、非常にあっさりとした形で、ひとみがガイアから地球に呼び戻されてしまう、ややビターなラストシーンの背景にある、この作品の世界観なのではないかと、勝手に妄想している。

↓これが「テレビシリーズの」ラストシーンです。
●Escaflowne- Ending Scene Credits(YouTube)

 劇場版のラスト、あれは決して、フォルケンの夢の実現と同じことがひとみに生じ、ひとみが消滅したと同時に、地球も消滅した!!・・・・などというブラックなラストではないとは思います(^^;)

 ひとみがちゃんと地球に帰り、別れたバァンとの絆を大事にしながら生きているらしいことは、エンディングテーマで、きちんと歌われていますしね(^^)

*****

 ・・・・・以上、恐らくこういちろうによる、このブログでこれまでで一番本格的なアニメ評論のエントリーでした!!

 最後に、やはり「サマーウォーズ」の宣伝にも協賛しましょう!!

●【公式】『サマーウォーズ』 時をかける少女監督の最新映画 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)

↓こっちにはチャイコフスキーの音楽は出てきていませんが。
●サマーウォーズ 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)

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2009/06/16

「眠らないままでいよう」とする衝動を語った鬱の人

 不眠(正確には入眠困難)という現象は、一般に、「本人は眠りたいのに、どうしても寝付けないことに苦しんでいる状態」というふうにとらえることを、暗黙の前提にしているようにも思える。よりわかりやすくいえば、「寝つけないことに苦しんでいる」という状態である。

 もっとも、「夜遅くになっても、時間を気にせずに、何かの活動をを眠らないままやり続けたい(はじめたい)」という場合もあるだろう。これは一般に「夜更かし」と呼ばれる。

 もう1ついえば、「明日の朝までにやらねばならないことがあるので、眠い目をこすりつつ、嫌々ながらも、その作業を張り続ける」という場合もなる。これを「不本意ながらの徹夜覚悟の作業」などと名づけることもできよう。


*****


 ところが、ある、回復期のうつのクライエント、Aさん(男性 通院治療 投薬中 午後のみアルバイト勤務の日あり)の話を聴くうちに、私は、もう1つのタイプの「夜、眠らないまま起き続ける」状態がある気がしてきた。

 それを私は、「眠らないままで起きていようとし続けることへの、わけのわからない誘惑」と名づけることにした。


(以下、Aさんご本人の承諾の上で、事実の改変を交えながら書いて行きます)


 Aさんは、理系の大学卒業後コンピュータ業界で働いていたが、数年で鬱になって退職した。長身で、細身の男性である。

 自分なりに心理の本は結構読んでいて、自己分析能力・言語化能力に非常に長けている。繊細だが、非常に知性の高い方という印象がある。

 Aさんは、睡眠導入剤の処方はすでに数年受けていて、その効き目を十分に感じていた。ところが、ここしばらくのうちに、「眠りにつくのが遅くなる」傾向と共に、少し鬱が戻ってきたかなと不安を感じていたのである。


 Aさんは言う。


私の場合、世間で言う『入眠困難』というのに当てはまるのだろうか? と思えてきたのですよ。

目が冴えてしかたがないから起き続ける』というのとはまるで違う気がしてきたんです。疲れ切っているのは凄く自覚しているし。

 眠る前に、例えば本を読みたいとか、ウェブをしたいとか、そういう具体的な何かをしたいという思いが勝っているわけでもなくて。

 ・・・・自分でも説明がつかないわけですから、このへんを、お医者さんにうまく伝えたことなんて一度もないことに、気がついたのです」


・・・・と。


 Aさんに言わせれば、むしろ「自分を眠らないままでいさせようとする」わけのわからない衝動の方が先にあり、そうやって起き続けるのは何か手持ち無沙汰なので、何かやることを探し始めるらしい。

 例えば、TVで深夜時間帯の番組を見たりする。すると、そのうちに1,2時間で気分は落ち着いてくる。さすがにそのあとは眠りにつきやすくなることもあるが、場合によってはそれでも済ませれない。またしても「眠らないままでいさせようとする」衝動がつき上げてくることもあるとのこと。

 Aさんに言わせれば、「夜が明けてから、何かの活動をしていくことが不安だとか嫌なのかなとも考えてみたが、自分としては、こうしたことの繰り返しのせいで、昼間いい調子で活動できないことの不満の方が大きい」という。


*****


 なぜAさんの訴える現象に私が関心を持ったのかというと、彼の話を聴くうちに、今にして思えば、他ならぬ私が、数年前に、鬱になる直前の時期に、まさにこうした「自分を眠らないままでいさせようとする」衝動に衝き動かされる中で消耗し、うつ状態にどんどん近づいていく悪循環にはまったようにもまざまざと思えてきたからである。

 そして更に、私の中に、もっと昔の、ひとつの記憶がよみがえった。

 Aさんに、「私の連想を話してみていいいか?」と断った上で、以下のことを口にしてみた。


 私が若い頃から「鉄っちゃん」だったことはこのサイトでもカミングアウトしているとおりで、しかも、今はどんどん減っているブルートレイン(寝台列車)のファンである。

 「私は若い頃寝台特急に乗る時、せっかく寝台券を買っているにもかかわらず、夜通し、カーテンの隅を開けて、外の景色を見続けようとしていることが多かったんです。もちろん、明かりの消えた寝台車からだからこそ味わえる夜の車窓の景色に魅せられていたことは確かなのですが、とてもそれだけでは説明がつかないものがあって。中学生の頃からそうでした。・・・・・今、お話をうかがいながら、あなたのいう、『眠れないままで起きようとし続ける誘惑』というのと共通の何かが、その頃の私の中で突き上げてきていたような気が、してきて」

Aさんは、


「確かに、私のと相当似ているかも知れませんね」


とうなづいた。


*****


 そしてAさんは、更に次のように話し始める。


「まるで、自分の中のもう一人の自分が、『寝ずの刑』を自分に課しているかのようなんですよ」。


 これを口にしてしばらくして、Aさんはは突如苦笑します。


 「・・・・・今気がつきました(笑い)。

 その、『眠ずの刑執行人』自身もまた、自分も眠いにもかかわらず、目をこすりながら、サディスティックなまでに、鞭をふるい続けているんですcoldsweats01

 そして『私』もまだ、マゾっぽいくらいに、その『眠らずの刑』を、甘んじておとなしく受けている。

 ・・・・・・二人とも寝起きを共にする時間帯は同じなんです(^^)。ですから、二人して日に日に疲れていくんですね。・・・・・ほんとは、刑執行人の方も、サドというよりマゾなんだといますよ(^^)

 ・・・・・話していて、ちょっと楽になってきました。まるでコメディー映画のワン・シーンを見ている気もしてきて」


 私はここで、アン・ワイザーさんのフォーカシング技法(「フォーカシング ガイド・マニュアル」) における「2つ以上のものが出てきた時」(訳書pp.107-9)に、それぞれを「認めてあげる」にあたることを提案する。


「では、あなたの中の『寝ずの刑』の『刑執行人』の方にも、

『あなたも眠たいのに、たいへんですね』

と、労(いた)わってあげるようなつもりで言葉をかけてみるのはいかがでしょうかね。

 ・・・・・・・・そして、刑を『甘んじて受けて』いる側の『もうひとりのあなた』にも、労わりの思いを向けてあげるつもりで」


*****


 Aさんはそれを味わった後、更に次のことを口にした:


 「確かに、『眠らないようにする』ことは、どこか自分に対する処罰じみていますね。

 "punishment".........私は何を罰しているのかな・・・・・・・

 ・・・・・・ちょっと言葉にするかどうか迷いましたけど、先生が男性だがら率直に思い浮かんだことをいいます。

 中学生の頃、マスターベーションをしていて、もう全然快感を感じなくなっても、それでもサルのようにヌキ続けた頃のことを思い出しました。

 とっくに『空砲』になっても、それでも繰り返す・・・・『あんな』感じなんですよ。この『自分を罰する』かのように『眠りにつかせない』感覚は。

 もっと大人になってふと振り返ったことがあるのですが、マスターベーション、少なくとも「やり過ぎ」の域のそれって、実は性的な快楽を自分で得て、満たされるための行為ではなくて、むしろ自分の中にある、いきいきとした衝動性というか、感覚に開かれた形でものごとを楽しむ感性みたいなものを、片っ端から『芽を摘んでいく』ための行為のように思われ始めたんです。つまり、マスターベーションは『去勢行為』だって。

 今の私は、いったい私の中の何を『去勢』しようとしているのかな・・・・・とか、連想してしまったんですよ。

 私は、私の中で成長しようとしている、ある健全なエネルギーの芽生えを「摘み取ろう」という衝動に屈している気もする。

 『眠らないままでいようとすること』で、自分の中のそういう芽生えを『磨耗』させ、『すりつぶして』しまおうとすらしているような。

 「摘み取らない」ままでいると、私自身怖いのかもしれない。

 それは・・・・・

 まだ社会復帰途中の私は、実は自分の中に、すごい「孤独」や「疎外感」を感じているんです。そしてそれを癒したい・・・・という性急なまでの衝動も隠れている気がするんですね。そういう「孤独感」「疎外感」を癒したいという衝動と、まともに直面してしまうのが怖かったということでもあるのかな? という気もしてきました。

 それは中学生の頃の孤独にも通じる気がします。とても女性とつきあえるようにはなれないという劣等感もってましたし。自分の孤独をひしひしと感じたくなかった、だから、無感覚になるまでヌキくった・・・・それはいえるかと思いますね。

 でも、それだけでもなくて・・・・・私の中に、すでに何か、あるんですよ、本当はもっと積極的にバン!! と打ち出してしまいたい方向性が、芽生えはじめてきている気もするんです。

 確かに、今の私にはそれを焦ってやろうとしたら、とてもそれをやっていくだけのエネルギーはまだないと思います。そういう点では性急に動き出さない自重は大事かと。

 でも、そういう「芽生え」を自分の中で大事に育てたいとは思います。安易に「眠らないままでいさせようとする」ことで、自分を無感覚にしてしまい、芽生えを「摘み取ろうとする」去勢の誘惑みたいなのには屈しないでね。

 これからは、この「眠れないままでいさせようとする」誘惑を自分の中に感じたら、明かりを消して、きちんと床につくことにします。

 本当は眠くてたまらないんだから、「目が冴えて眠れない」というふうにはならない予感がしますしね」


 最後に私は、Aさんに、

お医者さんにも、そのような「眠らないままでいさせようとする」自分がいるみたいだ・・・・という思いを、丁寧に伝えてみたら? これまでの眠剤以外に頓服の眠剤の処方とかがあるかもしれない」

と提案した上で、終わりとした。


****** 


 一週間後に訪れたAさんは、

「実はあの3日後、念のためお医者さんで頓服の眠剤の処方をもらいには行ったのですが、実は試しに1回使っただけで使わずじまいで終わってます。

 ・・・・といいますか、あの面接の後、もう、その日の晩になったら、例の『眠れないでいさせようとする衝動』の方が、おとなしくなって、沈黙してしまっていたんです。

 まるで、そういう『眠れないままでいさせようとしている』もう一人の自分が、『私』に、その存在を気がついてもらえ、『私』に認めてもらえたことだけで、ほっとしてしまったと感じているらしいんですね。

 「やれやれ、やっと、俺の存在、俺の思いに気がついてくれたか」

みたいにして(笑)

 だから、『彼』は、もう、自分の存在に気がついてもらうために、夜な夜な、暗に主張し続ける必要はないようなのです。

 刑執行人の『彼』もほんとうは眠かったんですからね(笑)


 ・・・・・で、私のウツ友で、同じように少しずつ社会復帰し始めている彼女がいるんですが、彼女に、カウンセリングでこんなことに気がついたんだ・・・・と話したら、次のようなことを言われて。

 『あなたと電話していると、なかなか電話を切ってくれないのが気になっていたの。名残惜しいのはわかるし、名残惜しいのは私も同じ。あなたも、『私も眠い時がある、もっと私にも気を使え!!』という訴えをあなたなりに理解して、配慮してくれることも増えていたのは感じていたし』

『でも・・・・今の話を聴けてよかった気がする。私、鬱がひどくなりかけたのに頑張って会社に通い続けていた頃、そうした仕事の後で友達との飲み会に朝まで付き合うみたいな、すごい無茶なことをせずにいられなかった時期がある。

『だから、あなたの『眠らずにいさせようとする』誘惑みたいなものって、私のあの頃のと、すっかり同じではないかもしれないけど、十分実感が想像できる気がする。私の知っている世界だと感じられるよ』

『そして・・・・最近のあなたって、もし、途中で性急に電話を終わりにしてしまったら、その後何かアブナイんじないか?・・・・みたいに感じるところがあったの


・・・・彼女がそう言ってくれたんですよ」


 Aさんは続ける:


 「私はそうやって、彼女が僕のここしばらくの『何か』に気がついてくれていて、陰ながら配慮してくれていたことそのものに、心からの感謝を感じて・・・・・もちろん彼女にその思いを伝えましたよ・・・・・、更に肩の力が抜け、ゆったりと過ごせるようになりました」


*****


 Aさんの中の「眠れないでいさせようとする」衝動を鍵とする「負のスパイラル」はともかくも止まった。

 この日の面接の中で、それまでAさん本人の中でもはっきりしていなかった、これから焦らずに形にしてみたい「それまで思い浮かばなかった、いずれはっきり打ち出してみたい社会参加の行動」についての構想の一端も話していただけたのですが、現在進行形の内容なので、そこには触れないままにさせていただきます。

 
 「私と同じような鬱の皆さんが、不眠について考えていく上で、何か新鮮な一石を投じるものになれば嬉しい」と、進行中の面接過程に関して、ここまで開示することを快く許してくださったAさんに心から感謝申し上げます。


*****


 なお、こうした展開を読んでいると、専門家の皆様の中には、Aさんの中に、一種の「強迫性」の因子が強くあるとお感じの方も少なくないかもしれない。

 確かに、そのようにとらえてみることは妥当だと思えますが・・・・

 実は、Aさんは強迫性障害を意識した投薬治療もずっと受け続けているし、すでに示したように、非常に知的な方で、論理的、かつ感受性に豊んだ話し方ができる人であり、精神分析についても自分なりの読破し、ご存知なので、自分の「強迫性」について内省する力はすでに十分すぎるほど高度なのである。

 ご自身を「鬱にはなったけど、もともとは分裂気質的じゃないか。男性とでも、親密な付き合いは苦手で、『同性愛ショック』じみたところがある気もする。それが先生との面接に影響しないか心配なんですけど」とまで、面接初期に自己分析されていました(^^)

 Aさんにとって必要だったのは、もはや強迫性についての分析や解釈ではなかったのだと思います。更に、薬物療法の支えもあった。

 Aさん自身の中ですでに暗々裏に感じられ、進行している、悪循環を引き起こす負のスパイラルのなりゆき(sequence)について、Aさんなりの形で、新鮮な実感上の気づきとして、無理なく生じていくこと、そして、そうした自分の全営みを自然と愛しめるようになることそのものだったのだと思う。

 私は、Aさんのそうしたプロセスにさりげなく付き従って、最小限のアシストを差し上げ、共にし続けたに過ぎない。

 結果的には、しなやかに進んだ認知行動療法やABA分析、解決指向アプローチにも通じる側面があるかとも思いますが、こうしたあり方が、私の、普段使いの「フォーカシング指向心理療法」的な現場面接の典型と感じていただければ幸いです。


*****


 なお、この面接は現在も進行中ですので、このエントリーに関しては、コメントを受け付けない設定にさせていただきますことをお許しください。



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2009/06/13

OKWaveの過去記事を使って「フォーカシングQ&A」を再活性化する?!(第2版)

 OKWaveという、日本を代表するQ&Aサイトをご存知の方も少なくないかと思います。

 ここに登録すると、利用可能になる機能の一つが、「すでに回答締め切りになったエントリーに直接リンクを張る形でブログ記事を書く」設定でして、ココログもそれに対応しています。

 これは恐らく、本来、そこでなされた回答が自分の感じていた疑問の解決に役立った・・・・という記事を積極的に書いてもらうための機能なのだと思います。

 しかし、これはもう1つの利用法が可能になるのですね。

「すでに回答が締め切りになった質問についても、自分ならどう回答するかを、自分のブログにリンクを張って書いてみることを便利にしてくれる」

 幸い、OKWaveサイトの個々の質問エントリーの側に、こちらからのトラックバックのようなものが自動的に飛んでしまうような機能などはないので、いわば「外野で勝手に」そうした試みも可能になるわけです。

 一歩間違うと、万が一質問者や回答者がブログの記事を読みに来てしまうと「すでに過去にやりとりは終了しているのだから今更蒸し返して欲しくない」という苦情が寄せられる危険があるかとは思いましたが。

 しかし、それを敢えて私の責任で、フォーカシング関連の質問に限定してやってみることにしました。

 舞台は、私の3つの@nifty系ココログサイトの中で常に日陰の道を歩んできたcoldsweats01「フォーカシングQ&A」サイトに限定します。

 OKWaveで検索してみたら、「フォーカシング」についての質問(もちろんカメラ関連を除外)がいくつか見つかったのです。

 質問と回答を読むうちに、(おせっかいかもしれませんが)質問者も、回答者も、随分と心細い状況下で、暗中模索でフォーカシングを学んでいるのではないかという思いが生じてきてしまいました。


******


 読んでいて、時として若干無責任だったり高飛車な回答ではないかと感じたものもあります。

 例えば、臨床心理系の院生だろうと思える回答者が、一般のフォーカシングを学び始めたばかりの質問者向けに、学術的な厳密性を説くことがどれだけ「上から目線」の高慢な態度に読み手に写るか、少し想像してみればわかるはずcoldsweats02。でも、恐らく回答者には悪意はなく、むしろ日本のフォーカシングの現状が抱えている経験の貧しさのひとつの現れであるとは思いました。

 もう1つのタイプで私を憂いに陥れたのは、「どんなカウンセリングがいいでしょう?」みたいな質問に対して、明らかにフォーカシングの正統的教育を受けたことはない、他の流派のカウンセラーのサイトに「フォーカシングをお勧めします」と誘導しているような回答者(そのサイトの主催者か、関係者である可能性が当然疑われるわけで・・・)の記事がいくつかあったこと。

 私の知る範囲では、NLP(神経言語プログラミング)のセラピスト訓練の中で、フォーカシングを「独自の形で」盛り込んでいる団体があるようで、少なくともその中のある団体の訓練は、正式のものからすればかなりの簡略版ですが、そこそこの水準のものでした(実際その団体の幹部の方の実力を拝見したことがありますし)。

 しかし、本家のThe Focusing Institute認定のフォーカシング・トレーナーに会えることを幅広く公開している例が日本でまだほとんどない現実の中(日本に公認トレーナーは少なくとも150名以上はいるのです!!)、そうした「兼業」サイト(?)にばかりリンクが張られているのは、やはり何かおかしなことです。

 これは、TFIトレーナー側がこうした質問サイトに乗り出し、自ら頑張るしかないことです。

 もちろん、TFIのトレーナーに学ばなければフォーカシングを学んだということにならないというわけでないことは、言うまでもありません(^^)

(そもそも、読者の期待にこたえる読み応えのあるフォーカシングのサイトが日本に幾つあるでしょうか? ・・・私は大いに挑発したい!! フォーカシングを学んだ若い人たちよ、この前の国際会議で刺激を受けた人たちも多いことだろうし。専門家も非専門家もどんどん勝手にやってみなさいよ。・・・・え? そんなこと勝手にやったら、指導教官の目が怖い? それなら最初から匿名で立ち上げればいい。mixiとかのSNSのクローズドなスペースにすでにあるのもしれないけど、いつまで「地下にもぐって」いるんだね? いつまでたっても「フォーカシング」で検索かけたら私のサイトだらけになる現状が異常なのだ。突如こっちからコメントで挨拶に訪れたりすることは控えるつもりだから、いい意味で好きにやって欲しい


*****


 恐らく若い人も少なくないであろう、そうした回答者の中に、私のようなトレーナー資格認定資格者が肩を並べては、若い人たちもやりにくいだろうとは感じます。

 また、そうした質問者や回答者が、私と直接フォーカシングセッションを持った人である可能性すら、匿名である以上わからないわけですね。極端な場合、そこで苦情を言われているのが私とのフォーカシング・セッション体験の苦情かも知れない。

 ・・・・でも、それはそれでいいと開き直ることにしました。
 
 今の私なら、どのようにそうした質問に答えるか、という点で良心的であろうとのみしてみるつもりです。

 もちろん、これをきっかけに、「フォーカシングQ&A」サイトへの新たなご質問もお待ちしていますよ(^^)


******


 今のところ、次の2編を掲載しています:
 
●フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (長文です) -OKWave


●日常での簡単な自己感情の判断方法。フォーカシング。 -OKWave


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2009/06/12

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第3話(第2版)

 これで全3話完結です。(第1話) (第2話)

 最初の方に出てくる、風吹ジュンさん演じるお医者さんの言葉:

「動物は調子が悪ければ、じっとしているだけ。
でも、ヒトは言葉なんていうものを持っているから考えてしまう」

 この前半は私が鬱をとらえる上でのモットーで、このサイトの記事の中でも似たことを何回か言及したことがありますし、先日「こころ相談.com」のインタビューでも使わせていただきました。

 ことばが生み出した「こころファントム(幻影)」の問題というのも、先日ご紹介した神田橋先生の著書の鍵概念ですが、実は、別に鬱についてと限定して先生はお語りだったのはないのですが、「動物は調子が悪ければ、『元気がなくなり』、じっとしているだけ」という言葉に私が出会って、心引かれたきっかけも、この本なんですね(・・・・と、やっと「元ネタ」を明かします)。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念


******


 以下、しばらくこのドラマの展開からは離れますが、このブログをお読みになればお分かりのように、私もまた言葉に淫した人間そのもの、完全主義者ですし、理屈っぽいし、旺盛な文章力と関心ジャンルの広がりという点から見て、かなり「スーパーマン」じみた存在として読者の皆様にも感じられてしまうのではないかとも思います。

 もっとも、私の場合にはこのドラマのツレさんのような、「メランコリー型うつ病」の典型に近いと思われるタイプではなくて、躁鬱的なものが(躁状態の方は目立たない形で)合質している、いわゆる「双極性障害II型」です。

 完璧主義とすごい気分屋でてきとーな部分、感情のままにふるまう部分、事務的な仕事を几帳面にやることが何よりも苦手で、消耗度が人より高い面を、欝なる遥か以前の思春期から併せ持っているかと思います。でも、基本に「人間好き」な面を強く持っているから、カウンセリングという仕事が性に合ったのだとも思います(今でも、私のことを学者やライターがあっていると思っている人は、私の本質が全く見えていないと思う。私の本領は、生身の人間がいる「ライブの」場面。更にうつ病から脱するにつれて、それはいよいよ明確になってきた手応えはああります)

 双極性障害親和的な躁鬱気質と、メランコリー型の単極性鬱病と親和的な執着気質は実は全く別のものであり、両者のライフスタイルの違いを軽んじてはならない(投薬も全く異なりますし)ことについてもすでにご紹介しました

 私は中井久夫先生の「分裂病と人類」を学生時代に読んで感銘を受けて以来、自分をS親和者的=分裂気質的と思っていましたので、自分が医者に「鬱」と診断された時にはかなりの驚きがありました。ちなみに私に「非定型薬」を出す可能性を考えた医師は全くいません(わかるひとにだけわかればよろしい^^)。

 その後SSRIから気分安定化薬のデパケンに切り替えてからはじめて症状が劇的に改善したわけですが、それ以降、自分を、以前ならば全く思いもよらない、「躁鬱気質」の脈絡でとらえなおしてみることをはじめてみたのですね。そうすると、今後の自分のライフスタイルとして一番無理がないのではないかとすら思え始めた。

 ドラマ後半で登場した、ツレさんの「あ・と・で」のモットー、すなわち、

せらない」
「(自分は決して)く別ではない」
きることから」

というのも、これでも以前よりは相当板についてきたかなとも思っています。


 このドラマのこの回でも描かれているように、鬱には波があり、もう大丈夫かと思ったら突然ぶり返すこともごく普通です。そのことに本人も家族も動揺したり落胆したりしがちです。

 しかし、本当は、波があるのが普通である、という前提に立ち、波がないことのほうがおかしいという前提で、人間や動物が、四季の移り変わりや、年毎の旱魃や長雨に対応するために、五感を働かせて刻々とチューニングし、そこそこに無理のないラインで生活できていくことの方が自然なのだと思います。

 ある観点からすると、人間が高性能を維持して故障のない機械になれることこそ理想の労働力とみなされ、日々の生活においても、一年中空調の聴いた部屋の中で、季節の収穫と無関係に同じようなものを食べられて当然と思い込み始める中で、退化し、鈍くなり、自分を年から年中同じ状態にあるかのように欺くのがうまくなったことの裏返しとして、自分の置かれた状況の変化に不感症になり、無理を無理と感じなくなり、鬱の準備状態にはまっているのに、まだそのことに気がつかない人も増えたのかなとも思います。

 今の私は、以前よりも、自分の無理の兆候や、逆にややハイになっている兆候、そして、欝っぽくなっている兆候にはるかに敏感です。

 一度鬱という病に本格的に陥ってしまった皆様の中には、そうした自分の些細なまでの敏感さそのものにむしろ苛立ちを覚え、むしろそれに振り回されて困っている方たちもたくさんおられるかと思います。

 でも、その敏感さが、むしろしなやかで柔軟な、新たなライフスタイルをあなたに導くための羅針盤にもなるはずです。

 羅針盤とは、どっちが北でどっちが南かを見失わないためのものです。多少、航路から外れてきたなと気がついたら、その段階で航路を「完全補正」するのではなく、風向きや地形や気象や波の状態も配慮しながら、そこそこ回り道をして目的地に向かうのも大事な「航海術」かと思います。

 そうした皆様に、その羅針盤を共に見守って、航海を共にしてくれるような人たち(専門家・非専門家問わず)との出会い(出会いなおし)がありますことを。

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2009/06/08

「フェルトセンスに問いかける」教示についてのヒント(第2版)

 フォーカシング技法において、ジェンドリン自身のオリジナルな技法(『フォーカシング』)において「第5の動き(movement)」として位置づけられているのが、フェルトセンスに「問いかける(asking)」の教示です。

 フォーカシング技法とは、別に、


第1の動き:空間づくり(clearing a space)
第2の動き:フェルトセンスをつかむ
第3の動き:フェルトセンスにとりあえずフィットする言葉やイメージを見つける(get a handle)
第4の動き:フェルトセンスと、見つけ出した言葉やイメージを響き合わせる(Resonating)


という段取りを順々に進めていき、その後で、この、フェルトセンスに「問いかける(asking)という部分に進んではじめてシフト(気づきと身体的ナな緩み)が生じ、その成果を、

第6の動き:受け止める(receiving)

で受け止めて完成! といったものではないことは、これまでこのブログでも繰り返し申し上げてきました。

 自分の中にその時の自分のフェルトセンスに直接注意を向けられることに気がついたら、わざわざクリアリング・ア・スペースをやらないままに、早速フォーカシングを進めてもいいのです。

 そういう形でフェルトセンスに関わろうとしても、何かうまくいかないで、心を乱すいろいろな何かがありそうだと気がついた時点で、クリアリング・ア・スペース・・・・今の自分を不調にしている気がかりについて、ひとつひとつ確認して脇に積み上げていく、「たな卸し」作業に立ち戻ってもいいのです。

 クリアリング・ア・スペースを進める中で、「そうか、自分にとっての今の本当の気がかりはこのことだったんだ!」と、思いもよらない新鮮な形で「気がつける」だけで心が大きく解放されるということも珍しくないわけで、その場合には、いかなり、ジェンドリン法で言う、6.「受け止める」に進んでも何も差し支えもない。

 フェルトセンスにぴったりの言葉やイメージが見つからなくても、「この」感じ、などという直接指示語で、本人にとってその感じをつなぎとめ続けるのに何も苦労しないのなら、それ以上、ぴったりの言葉やイメージ探しに過剰に強迫的にこだわることは、百害あって一利なしです。

 そして、アン・ワイザーさんが、自分の技法を形成する際に、「フェルトセンスと共にいる」ことを重視し、独立した教示とし、フェルトセンスに何かを引き起こそうとする、ありがちな性急な誘惑に乗らないままでいたほうが、変化が自然と生じるべき時に生じる(そのセッションの中ではっきりとした気づきが生じることはなくてもいい)事を重視したことは、画期的な業績でした。

(もっとも、ジェンドリン自身フェルトセンスのそばにしばらくの間じっくりと留まってみることの重要性は、繰り返し、繰り返し強調しているのです。簡便化されたショート・マニュアルなどでは抜け落ちてしまいがちなだけのことなのです)

****


 アンさんは、フェルトセンスとの「内的な関係作り(inner relationship)」を重視しましたので、ジェンドリンのオリジナル技法で言う、「フェルトセンスに問いかける」を、オプショナルなものとみなし、あまり重視しません。

 日本では、アンさんのトレーニングの影響が濃いために、そもそもジェンドリンの「フェルトセンスに問いかける」という教示を実際にセッションで普段使いしているフォーカシング・トレーナーや学習者がかなり少ないという印象があります。

(公開ライブ・セッションを拝見した限り、唯一の例外が、ジェンドリンの直弟子である池見陽先生で、私が拝見した時には、当意即妙のセンスで柔軟にaskingを使って、フォーカサーのプロセスに無理のない小さな刺激材を供給しておられました)


****


 今も述べましたが、このaskingの教示そのものが、実は、フォーカシングのプロセスが、第4の動き(ここまでが繰り返しなされるうちに展開が生じることも多いです)まででは、何かあと一歩プロセスが進まないときの、小さな刺激剤的な提案としてなされるものに他なりません。

 フォーカシングの技法の発展史に詳しい若手研究者にきいたところ、このaskingの技法そのものが、ジェンドリンの教示体系の中では、一番最後の段階で付加されたものであるようです。

 つまり、そもそも、必要不可欠ではない。敢えて言えば、料理の最後にお好みでふりかけてみる香辛料程度のもの、つまり、食卓テーブルの上の「スパイス」です。

 しかし、「スパイスこそが料理の成否を決める」という人もいるでしょう(^^)

 そして、こうしたスパイスには何通りもお好みの品が取り揃えられているわけです。他の人がスパイスとしてあまり使わないものすら、フォーカシングの学習者やトレーナーごとに、色々工夫して、調合して、臨機応変に使い分けるストックがあっていいわけですね。

CM : 楽天市場「スパイス」関連商品


*****


 ジェンドリン自身が『フォーカシング』の中で、この「問いかける」の教示について詳しく説明しているのは、第9章「何もシフトしない時は」です(邦訳pp138-146)。この部分で例としてあげているものは、意外とそっけないまでのリストだったりします(^^;)

「これは何だろう、いったい全体?」(阿世賀訳:「ほんとのところ、それって何?」

「この核心は何か?」

「それが最悪だとどうなる?」(誤訳。「その(感じの)中の何が最悪なの?」)

「一番悩まされているのは、それらのうちのどの2,3点なのか?」

(↑【注】何ともこなれない訳である。
"What are the two or three things about it that trouble me the most?"
・・・・・私なりの意訳案:
「あなたにとって一番厄介だと感じている事柄をそこまで行き詰まらせているのは、実は、そのことと関係した、いくつかの一見些細な事柄かもしれません。そういうものがあるとすれば何でしょうか?」)

「それの下に何があるか? それは何をしているのか?(阿世賀訳:そこでは何が進行しているのか?)」

「 それについて何が起こったら私にとっていいのか?」

「いい気持ちになるにはどうなったらいいいのだろう?」


*****


 この教示を使う際に重要なのは、この問いを、リスナー/ガイドは、フォーカサーに、この質問に頭で考えて答えを返してもらうために発しているのではないということです。

 むしろ、フォーカサーが、自分のフェルトセンスに対して、こうした問いを投げかけてみて、しばらくそのまま佇(たたず)んでみることを提案しているに過ぎません。

 すると、最初は非常にかそけき形で、そしてしばらくするうちに思いもよらない方向へと、自分のフェルトセンスが変化しする場合もなります。

 それが2,3分以内に生じない場合には、あっさりとその問いかけは諦めてしまい、他の教示を試してみるか、あるいは、フェルトセンスと再び共にいる態勢に戻るくらいの、「ちょっとした試み」というセンスが肝心でしょう。

 フォーカサーの側から、

「何か、この後の私のプロセスを進めるために役に立ちそうな教示を、2,3提案していただけませんか」

などとヘルプを出されたタイミングで、いくつかメニューとして、控えめに提示する・・・みたいな関係性がすでに形成されている中で活用されるのが、一番成功率が高いようです。

 つまり、フォーカシングをどうすすめるかに関して、ガイド側にまだ依存している度合いが高いフォーカサーに安易にaskingの教示を提案すると、成功率が低く、仮に見かけ上そこでプロセスが動いたとしても、本当の意味でフォーカサーのプロセスに寄り添わないままとなり「セッションの場の中でだけのシフト体験」となり、フォーカサーの日常の体験過程のプロセスとしっくり溶け合わないというリバウンドを背負った、「早すぎた、突出しすぎのシフト体験」になることが多いというのが、トレーナーとしての私の反省でもあります。

 ですから、実は、askingの教示が重宝するのは、意外にも、セルフ・フォーカシングの場面であるということも、私の経験からいえます。


*****


 そして、この教示は、フォーカサー自身が、まだ自分でフェルトセンスとの相互作用(対話)を先に進めていこうとしている最中に、リスナー/ガイド側からの性急な介入としてなされるべきものではありません

 セッションの経過に、焦っている、せっかちになっている、不安になっているのは、フォーカサーなのか、むしろリスナー自身のほうなのか、ということをきちんと「感じ分けて」ください。

 リスナーの側が自分の中に「焦っている自分」を見出せれば、それを自分の中で「認めてあげて(acknowledging)」みるだけでも少し余裕が取り戻せるばかりか、驚くべきことに、リスナーの側がそうした内的作業を終えた直後に、まるでそうしたリスナー側の余裕感の回復が「空気伝染」するかのようにして、フォーカサーのプロセスが自然に無理なく動き出すこともごくありふれたことです。

 それでもなお、フォーカサーが自分と格闘して堂々巡りになっていと感じられ、ただそれをリスニングし続けるのは「何かが違う!!」というメッセージがリスナーの内側から響いて柄来るようなら、もはや教示の提案をあれこれ工夫するとかリスニングするといった態勢にのみこだわるのがもはやふさわしくはないのかもしれない。

「・・・・・ちょっとといいですか?(などと断りを入れた上で)・・・・さっきから、自分の内側の感じと必死に格闘しておられるあなたの様子が伝わってきます。ただ、そのご様子を拝見していていて、そのことがおつらくなって来ているのではないかとも感じられてきました。もっとも、今のままであとしばらく自分なりに思う存分内側と関わっていろいろ試してみたいと言うお気持ちがあるのでしたら、喜んでおつきあいします」

などと、リスナー側が自分の気持ちを、アサーティブに率直に伝える方がいい場合もあるかと思います。


*****


 さて、さきほど例を並べましたが、askingの教示というのは、実はフォーカシング技法の中では、本には書かれていない無数のバリエーションがあり、フォーカシングを学ぶ一人ひとりが、自分にとってのお気に入りのasking教示のレパートリーを「道具箱」に蓄えておいていいものです。

 「ジェンドリンのこのasking教示の具体例を私は意味がそもそもわかんないし、うまく使えたことがない」

 としても、そのことは別に気にしなくてもいいことです。

 もとより私のように25年もやっていれば、普段は全く使わないaskingの教示が結構効いた!! という経験が出てきていて、そもそも本に書いてあるフォーカシングの教示で使ったことがないものはほとんどまるでないという事態に結果的になっています。

 しかし、私はそもそも、フォーカシングを学ぶ最初から、自分にとってその存在意味がピンと来ないフォーカシングの教示は全然使わず、使える教示だけ日常の中で使い込み、それだけではうまくいかなくなった時に、はじめて「頭では覚えていた」フォーカシングの教示を、苦し紛れに使ってみて、予想外に活路が開けるという経験の繰り返しのなかで、フォーカシングの技法の幅を広げてきた人間です。

 そして、そうした際に、教示や技法というものが、その場でふさわしい形に、柔軟にカスタマイズされていく必要性があることを身に染みています。

 そもそも、ガイドをはじめる際に、「いつも使っている、なじんでいるはずのやり方」ではじめようとして、身体が違和感を訴える場合には、もう、それだけで、恐らく、そのままでは、フォーカサーの援助になるガイディングをできる態勢にないと判断しています。

(そうした時にどうやって私が解決するのか・・・・というのは、企業秘密です^^; 最近やっと発見した「コロンブスの卵」ですが、これは私のもとにフォーカシングを学びにおいでの方だけにお明かししています)


*****


 私個人としてお勧めのaskingの教示は、


「その感じの下の方(beneath)に、もうひとつ別の感じの層が隠れていると仮定してみてください。そこらへんは、どんな感じでしょう?」


というものです。

 英語に詳しいフォーカシング学習者にこのことを伝えると、


「単に、『下にあるのは何?』といわれても、何ことなのかピンと来なかったと思う。でも"beneath"ならピンとくる!! "beneath"って前置詞そのものに、「・・・・に隠れて」「・・・・の裏に」みたいな含蓄があって、表面の皮みたいなものの下にあるものっていうニュアンスだから」


と言ってもらえました。

 その人にとって、それまで必死に関わろうとしていたフェルトセンスは、容易に名前もつかないし、その感じのそばに佇んでいることもなかなか難しい、でも、その人の人生の長い期間にわたってずっと暗々裏に感じ続けてい「いた」けれども、自分の存在のありようを根本的に不自由にしていた、文字通りの"background feeling"でした。

 そのフェルトセンスの"beneath"にその人が見出し、感じられた感じというのは、それまで直接その感じに触れて味わったことがない、たいへん新鮮なフェルトセンス体験で、実にあっさりと、大きな気づきの引き金になったようです。

アルク


*****


 ジェンドリンのaskingの教示集にある

「このことの核心(crux)は何?」

というのも、ピンと来にくく、フェルトセスからではなくて、頭で考えたことを答えそうなものなのですが、これについては、私は、フォーカシングのガイドを学ぶ人に、時には、次のように説明してみています。


「私は、これを、曖昧で漠然とした広がりを持つフェルトセンスが、いわばゆで卵の白身黄身のような二層構造を持つと仮定してもらい、その中の黄身の部分の感じを感じ分けてもらう・・・・ぐらいのつもりのものだと理解しています。フェルトセンスを更に細やかに感じてみてもらうための刺激剤のバリエーションなんですね。だから、私は、

『その感じの奥の方に、その感じの源泉(あるいは泉の吹き出し口)のようなものがあると想像してみてはいかがでしょう? その源泉のあたりの感じはどんなものでしょうか?』

などという言い方で使ってみることがあります」


 ・・・・・この話を聴いていた学習者は、この話を聴いているさなかに、すでに、その時の自分の中のフェルトセンスの「源泉」をいきいきと新鮮に見出し、身体で感じていました(^^)


*****


 もうひとつ、これはジェンドリンの『フォーカシング』には書いてないけれども、実は私なりに、同じジェンドリンの『夢とフォーカシング』の「質問」項目からアレンジしたaskingの例。

「その感じそのものになってみるということもできるかもしれません。誤解なきように言いますけど、これはその感じに浸りきるということとは違います。あなたは、子供のための舞台演劇で、その感じのを、子供のために、大げさに誇張しながら、喜劇的に演じるつもりになるのです。これなら、どんな怪物でも、不快なものでも、その役になりきって感じてみるのは、あまり抵抗ないかもしれません」

 あるフォーカシング学習者が、

「もうすでに何日も『この』感じの相手をしてみたんですけど。その感じは絶対に私に口を聞いてくれないんです!! 一緒にいるだけで、私ももういやなんです!!」

と訴えた際、その人に上記の「感じになってみる」提案したら、その場でその人はやってみて、すんなりと次の展開が生じました(^^)


*****


 ・・・・・このように、カスタマイズが大事です!!


 あと、一般論として申し添えれば、フォーカサーとしての自分に試してみて、効き目がまだ実感できない教示を、ガイディングの際に使うと、そのわずかな「おぼつかなさ」はフォーカサーに伝染し、プロセスを停滞させると思ってください。

 「おぼつかない教示」でも、フォーカサーがそこから成果を上げられるとすれば、それはフォーカサー自身の力に助けてもらっているというだけのことです。

 もとより、いつも書きますように、およそこの世の中のカウンセラーに、クライエントさんからの感情移入と思いやりと忍耐によってはじめてカウンセリング関係が可能になっているわけではないほどにすばらしいカウンセラーは、実は存在しませんが(^^;)


*****


 なお、フォーカシング技法についてのウェブ上の入門としては、すでに定評をいただいている、私の


●フォーカシング入門


をご参照ください。

 これまで、まさにasking以降の部分が欠けていたのですが、この記事をもって、取りあえず補完したものとさせていただきます(^^)


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2009/06/07

我が内なる藤原紀香との対話

 この記事では、敢えて、「楽屋ウラ」をさらす内容にします。その理由は後で書きますが・・・・

 こういちろうは今も模索している。我が故郷、久留米という地域に根ざしたカウンセラーになることを!!

 (繰り返すが、そうした地域活動の全貌をここでお書きすることが必ずしもプラスの意味にはならないばかりか、まるですべてを「営利的宣伝活動」のように誤解される火種になりかねないので、詳しいことについては触れないままにしておきますね)

 そうした中で、ある、意外性のある、面白そうな地域活動が新たに見つかったその日の、私の中に生じた困った反応。


 「うん、それ、似合ってるよ。かっこいいよ。やってみたら?」


と知人にも言ってもらえたのだが、何か私の腰が重い


 私の中の「内なる批評家」ならぬ「内なるプロデューサー・顧問軍団(^^;)」もまた、


「どうしたのさあ? こういう頃合いのが見つかるのを待っていたんじゃないの?」

「君は『出戻り』の久留米市民(^^;)なんだからさあ、地域とのダイレクトなパイプに乏しいわけだし、自分からそれを探さないと」

「ネット全国区の活動として、鬱の患者さんの医療との関わりについて、ネット上でどれだけ力説してもさあ、そのカウンセラーが福岡県の久留米なんていう日本の辺境(おいおいcoldsweats02)にしかいないと気がついた時点で、10人の読者のうち9人がため息をついてしまうよ。だから活動には地域とのとバランスがやはり大事なわけ」

 
・・・・・などと、次から次へと「好意的なアドバイス」を雨あられと降り注がせるのである!!


*****


 後になってみると、どうしてもっと早くあのことに取り掛からなかったのか? と反省したくなる事柄が山のようにあるのが普通の人間であろう。

 フォーカシングでは、その人固有の体験過程のステップというものを大事にする。もしあることを進めていくことについてフェルトセンスが肯定的な身体感覚を返してくれない場合には、何か体験過程のステップの途中を「飛ばして(skipして)」、無理に前に進もうとしている時であり、少しだけでもそのフェルトセンスからの違和の声に耳を澄ますと、そこまでで自覚的に気がついてもおらす、十分な対応をしていなかった、本当はその段階でまずは必要な、先に解決すべき課題が見えてくることも少なくない。それは、そこまで気づいてしまえば、むしろ客観的な問題解決の戦略としてみても、「装備の充実」の上で効果的な戦略の発見につながることも少なくないのである。


*****


 さて、この時の私が、ちょっと時間を取って、内側の違和感にしばらく耳を澄まして返ってきた返答は、何とも身もふたもない一言だった。 


「だって、・・・・・やだもん!!


 ・・・・・な、何という不謹慎なことをいうのだ!!

 しかし、そもそも私は、現実の対人関係の中で、何かの誘いに逡巡する際に、ここまでストレートで端的かつ理屈抜きに、嫌な気持ちを相手に伝えたことはないことに気がついた。

(このブログの記事の私の書きぶりからもご想像いただけるように、私はとかく理屈をつけずにいられない人間なのでcoldsweats01

 何か新鮮ですらあったのだ。私の中に、こういう、理屈抜きに何かを嫌がり、表明したい部分が確かにあるということに。

 そこで、その新鮮さをまずは身体に響かせてゆったりと味わうことにした。


*****


 すると、その「やだもん!」の声の主が、私のイメージの中であっさりと実体化した!!


 ・・・・・藤原紀香である。


 しかもそれは、現在放映中のドラマ、「ツレがうつになりまして。」の中に登場する、不器用でグータラで、何かというとホゲーっとテレビを見ていることが多かった、化粧の薄い、あの藤原紀香なのであるcoldsweats02


 (どうして嫌なの?)

・・・・・と、その「ツレうつ版」紀香に問いかけてみる。

すると、「彼女」は、しばらく、「gawkうーーーーーんtyphoon」と考え込んだ挙句、突然大きく目を開けて答えたのだ!!


flairご褒美が欲しいのheart!!」


・・・・・は?


「ご褒美。そうなの、ご褒美。・・・・・別に収入になることじゃないとやりたくないとか、そんな意味じゃないの。ご褒美なのよheart04 。私だってこれだけ(漫画描いて)好きなことで頑張って来たの!! だ・か・ら、そのことを受け入れて、ほめてくれて、認めて、形にして欲しいってことなのよんheart04

(以上、藤原紀香口調で読むように)


*****


(・・・・・よ、要するに、現金でなくていいんだな?)


「そうね。好きなことでなければ、現金もらえてもイマイチつらいかもね」


(わかった。「ご褒美がある」形での活動というのを、現実的にどう実現していくかは次の課題でいいか?)


「いいよぉokheart04・・・・・でも、何かとりあえずのご褒美、ちょうだいheart01


(わかったsweat01・・・・取りあえず「応急処置」はするdash


 ・・・・・こうして。

 こういちろうは、その日のスーパーの買い物で迷った挙句、冷凍食品の、たこ焼き48個入りお徳用パックで手を打ったのであった(^^;)


 大丈夫である。紀香、もとい、こういちろうは、何かというと自転車で数キロ移動することを苦にしないことが板についた結果、相変わらす久留米ラーメンを週2回は食べているにも関わらす、2週間前よりもさらに体重2キロダイエットに成功。20年来未曾有の領域に突き進みつつある。


******


 私がここで、自らのずぼらさをさらすのを承知で、フォーカシングを学ぶ皆様にお伝えしたかったのは、「フェルトセンスからはっきりと返事をもらえる」とはどういうことかについて、予想外に実体験の上では曖昧な学習者が少なくな現実を感じているからである。

 そういう人に欠けているのは何か?

1.フェルトセンスからの返答が、もう、自分で聴いていてもあきれるくらいの「じょーもないcoldsweats01」次元でのもの(として少なくともはじまるもの)であることが少なくないことに気がついていないのでは? もっと、まじめくさった、いかにもセラピー的に見て「カッコいい」、「癒しにあふれた」そういう返事が自分の中から生じてくることだけを待ち望んでいませんか? 普段使いのフォーカシングとは、もっとぐーっと庶民感覚あふれる、ホンネ次元むき出しなものなのです。人に体験談として話しても全然カッコよくないような中身の(^^;)

2.そもそも、ここで私が体験した、「やだもん!!」「ご褒美が欲しい」というフェルトセンスからの返答に感じた「驚き」「新鮮さ」を共有できるようなセンスをお持ちの方がリスナーやガイドをしていないと、フォーカサーの中にこうしたフェルトセンスとの縦横無尽な内的関係性も喚起されない気がします。リスナーやガイドの訓練を受けている、あるいは自分で技を磨いている皆さん。皆さんは、フォーカシングに、変な意味でまじめすぎるのではないかと、ちょっと振り返ってご覧になるのはいかがでしょうか?


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2009/06/06

ドライアイスと10円硬貨

 子供の頃、(いや、大人になっても?)多くの人が、何回かはやったことがあるだろう、暇つぶしのような遊び。

 アイスクリームを買ってきた時についてくるドライアイスに、恐らく最初は、アイスクリームを食べる金属製のスプーンかフォークか何かを押し付けてみる。すると、スプーンを通して伝わる体温のせいで、押し付けた部分が、ドライアイスが二酸化炭素に気化する際の、独特のプスプスという手応えが帰ってくる形で、みるみる、押し付けた形のままにへこんでいく。

 このことが面白くなって、ふと、財布から10円硬貨などを取り出して、ドライアイスに硬貨の面ごと押し付けてみた人もあるだろう(わずか1,2ミリの厚さを通して指の体温が、しかも銅という熱伝導に優れた材質を通して伝えられるので、これはすこぶる効率がいい)。

 すると、たいした力を入れなくても、ピリピリという音を立てて、ドライアイスに硬貨は沈み込んでいき、硬貨の刻印の形の鏡像が、見事にドライアイスに「刻印」されることになる。

 (長時間このことをやりすぎると、指が凍傷になる危険もあります・・・・・と注意書き)


******


 私がフォーカシングを学びはじめた25年前の頃、フェルトセンスに触れることについて、時折、「ドライアイスに硬貨を指で押し付けていく時のような体験だ」と周囲にもらしたことがあることを、ふと思い出したのである。

 そこに私が込めたかった含蓄というのは、恐らく、次のようなものだ。

 フェルトセンスにしばらく触れているだけで、フェルトセンスの質そのものが何らかの緩みや肯定感を持つものに変化していく。

 最初は「凍えるような」、何か危険な感覚に思えたものが、むしろ「気持ちのいい冷たさ」を味わう、好奇心に満ちた「スリル」体験となる。そして心の中の何かが少しずつ「解けていく」。

 必要なのは、まさに硬貨をドライアイスに押し付けるのに必要なのと同じくらいのかすかな力の入れようで、意識的、能動的、主体的に、一度つかんだフェルトセンスに、ただ注意を向け続け、「触れ続ける」こと。

 あとは、そのことのために日常の限られた数分間に意識的に取り組むだけで、一見はっきりした気づきや洞察が生じなくても、気がついてみると「指で硬貨を押さえたドライアイスの部分には、以外に深いトンネルが、まるで地下鉄のトンネルのシールド工法のようにして、掘り進まれていく。

 掘り進まれていく際のかすかなプスプス・ピリピリという「進捗感」の手応えを受け止めているだけで、何かが「掘り進まれていく」のである。

 大事なのは「しばらく触れてみる」、ただそれだけ。


*****


 昨日の記事で、

「すべてのことには、時がある」

と書いた。


 だとすれば、マジシャンのそうなフォーカシング・トレーナーではない、ひとりのフォーカサーとして、日々実践できる「個々の人間の自由意志の及ぶ範囲の努力」とは何なのか?

 フェルトセンスに触れ、共にいる、ただそれだけの主体性・能動性・自律性を発揮し続けること、それだけで、最低限いいのかもしれない。

 「今日は昨日までよりフェルトセンスに触れてみるのが難しい」という体験ですら、実は、逆説的な意味で、フェルトセンスに「触れた」体験なのである。

 「何か、昨日よりも心の余裕を見失っているのかな?」と用心できるだけでも、すでに意味がある。


 そう。ドライアイスに10円玉を押し付けてみる以上の労力は、フォーカシングには必要ないはずなのだ。


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2009/06/05

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話

○鬱になると、以前だとさらさらと何気にできたことがひどく不器用になり、失敗しやすくなる。

○「事務的な」書類を書くことというのは特に億劫になりやすいので、そうした書類をなかなか書けないことを「簡単な筈でしょ?」などと突き放した形で急かす形にならないように家族は要注意。

○特に休職した直後の時期など、何かひとつの行動をやろうとしたら、本人も気がつかないうちに、ほとんど「ストップモーション」にはまり、気がつくと同じ(座った)姿勢のままで数時間経過していた・・・・などという経験は結構見られるかと思う。

○うつとは「心の病気」という言い方をしない方がいいと私も思う。ただ、ドラマでのように、「脳の病気」という言い方でも抵抗感がある人もあろうかと思う。私個人は「脳の心身症」という言い方を好んでいる。「脳の慢性のストレス性の消耗による障害」ぐらいの意味である。

○「自分はイグアナにも劣る」というセリフは決してコメディではない。確か中井久夫先生の本に「自分はイモムシにも劣る」と罪責感に浸る患者さんの例があった。

○ドラマで描かれているように、鬱状態が強い時には、アナウンサーのような単調な声の番組の方が心が休まるというのはある意味で真実であろう。エモーショナルな揺れが大きい音楽というのも結構負担になるものであり、意外とクラシック(特にオーケストラ曲)があわないというのは、本来クラシック好きの私の経験。随分長く、好きなはずの音楽そのものを遠ざけた時期もあったと思う。

○患者さん以上に、患者さんと密接なかかわりがあるパートナー(配偶者、恋人、親等)の方が、実は否定的思考の持ち主であることは、実は結構多い。パートナーのそういうマイナス指向の部分すらケアし、包み込むようにしてやさしく支えて「いた」のが、実は「うつになる前の」その人だった・・・・という構造は、確かに頻繁に観察される気がする。

○欝の回復には波があり、本人も周囲も思いもよらない形で「ぶりかえす」ことを繰り返す中で徐々に軽快して行くことが多い。そのことに、本人や家族は振り回されやすい。一喜一憂し過ぎないで、一緒に、潮の満ち引きを揺れることができるかどうか。

○うつの人を直接支える側の人の方が、いつの間にか無理をしがちになりやすいので、そういう支え手が安心できる相談相手が公私共にいることは大事である。


・・・・以上、思いつくままに。


※第1話についてはこちら

※第3話(最終回)についてはこちら


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2009/06/02

「こころ相談.com」で、うつ病の時のこころの状態についてのインタビュー記事、掲載していただきました。

 少し以前から予告させていたいておりましたとおり、本日、開業カウンセリングルーム検索サイト、「こころ相談.com」の「こころインタビュー」コーナーに、「うつ病の時のこころの状態」と題しまして、インタビューを掲載していただきました。

 PDFファイルの形式で、この記事を独立して読んでいただき、保存することも可能です。

A_btn056_2067_001.pdf

 今の時代らしく、skypeを通してのインタビューでした。

 校正段階での私のいろいろな注文に丁寧に答えてくださる形で、かなり長時間のインタビュー内容を、読みやすい、美しいレイアウトで編集してくださった、担当者のHさんに感謝申し上げます。

 このブログでずっと展開してきた、精神医療と鬱の患者さんとのかかわりに対して、一介のカウンセラーが何ができるかというテーマの、現段階での集大成にできたかと思います。

 ご意見、ご感想も、お待ち申し上げております。

*****


 「こころ相談.com」は、日本を代表する、全国の開業カウンセラー検索サイトであるのみならず、さまざまな企画を立てて、登録カウンセラーにエッセイ等の執筆の機会を与えてくれ、一般の皆様が、心理カウンセラーひとりひとりの持ち味に触れる機会を提供し続けている、ネット界で得がたいサイトであると思っています。

 まだサイトをご覧になったことがない皆様、一度アクセスしてみてはいかがでしょうか。




こころ-e-フェア


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2009/06/01

NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について(第3版)

 本日(6/1)19:30に放送された内容に基づいて、速報します。

 SSRIの副作用として稀に見られる、衝動性・暴力性誘発という問題について踏み込むと言うことは事前に知っていましたが、それでも全体としては、当ブログでも大々的に連載を組み、ご愛読いただき続けている、3/7放送のNHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」の補足的・復習的続編という色彩が強いだろうとは思っていました。

 その意味では、番組の構成的にも全く予想通りに進行してしまって、押さえて欲しかったポイントはほぼすべて押さえてくれ、前回の番組で誤解を招きかなかった側面(認知行動療法だけを積極的に描きすぎていた面)はうまく調整されていたと思います。

 医者や臨床心理士や看護士にとどまらず、栄養士すら含むさまざまな役割のスタッフが、皆、患者さんをケアし、見守る援助資源であり、誤診や状態の変化に対応できるチーム医療の上でいかに重要かを改めて強調していた点についても好意が持てました(薬を必要以上に出さないことは大事ですが、この番組後半で紹介されていた事例が、画面を見る限り、入院治療である点に注意すべきかと思いますし、薬物療法をやはり大事にしている点も見逃すべきではありません)。

 また、番組内でも繰り返しテロップすら出して強調されたのは、この番組を観て不安にかられるあまり、自分だけの判断で薬にやめてしまうと非常に危険なので、疑問があればお医者さんに相談してください、ということでした。これも適切な配慮でしょう。


*****


 さて、今回の番組の前半で中心として取り上げられたのは、先述の、抗うつ、SSRI)が、人によっては、攻撃性や衝動性を誘発する副作用が出る可能性があることを、この4月に、厚生労働省が、製薬会社に注意書きとして掲載することを義務付ける通達を出したという点でした。

 日本では、SSRIの投与が現実の衝動的な暴力事件と因果関係を厚生省が正式に認定されたケース事件はまだ4件しかありません。

 この番組でも紹介された、1999年の、機長を殺害し、精神鑑定の結果無期懲役に減刑された、全日空61便ハイジャック事件で、抗うつ剤大量服用による心神耗弱が無期懲役への減刑理由となったことはかなり知られているかと思います。

 全日空事件に関しては、そもそも、通院していた医者の当初の診断も理解しかねる(統合失調症ではなくて、この段階では詐病していた疑いがあることは当時も報道されたかと)し、結果として出されていた薬のリストを見ると、医者ではない、限られた知識の私の目から見ても、もう、どういう判断でこうした薬がここまで大量に出ていたのか、目を疑う内容が列挙されていますので、判決のように「『抗うつ剤』の大量服用の副作用」だけ認定したというのは何か腑に落ちないといいますか、医者の診断と投薬のあり方そのものが大きく問われる事例と思えてならないあたりが、今回の番組では不十分な描き方と思えますが、その部分を詳しく描きすぎても番組のバランスを崩したでしょうから、敢えてクレームをつけるに及ばないかと思います。

 そして、アメリカの、あの「コロンバイン高校銃乱射事件」(1999年)の犯人のひとりもまた、犯行直前に、大量のルボックスを服用していたことが、この番組で紹介されます(wikipediaによれば、犯人の遺族からの製薬会社の告訴による訴訟においては、薬との因果関係は立証されなかったものの、2002年にこの薬はアメリカ国内では販売中止になっているそうです)

 アメリカでは、すでに2004年の段階で、SSRIがその副作用として攻撃性を誘発するか可能性があることを注意書きに明記する命令が製薬会社に出されていました。


*****


 もとより、こうしたSSRIが攻撃性を誘発する副作用を人によっては発揮する可能性については、こうした大犯罪事件のみならず、数多くの、もっと地味な犯罪・警察沙汰の事件、そして現場医療の中で気がつかれた患者さんの衝動性の高まりなどの行動変化についての、少なからぬ症例に基づいて浮かび上がってきた事柄です。

 番組では、日本での2つのケース、すなわちパキシル投与後、言動が攻撃的になり、ついにはコンビニに包丁を持って強盗に押し入り、現金20万円を奪取した事件、そして、配偶者を殴って10針の傷を負わせた事件という、2つの事件における、診断と投薬の過程の問題点が、ご本人と家族への取材映像を含めて紹介されていました。

 前者のケースは、投薬開始後早い段階から、家族に対して衝動性・攻撃性が増していたにもかかわらず、医者は、まずはパキシルを3倍にまで2段階かけて増量し、その段階で「効かないから」という訴えを受けて、一転して投与全体を中止。それから数週間後には再び、かなりの量の投与を再開、更に増量(当初の4倍)という、実に頻繁な投与量の増減がなされていた点が、番組で、重要な問題点として指摘されました。

 SSRIを飲むことを「急にやめてしまう」ことは、実は非常に危険であり、身体面でのリバウンドの危険も大きいばかりか本人を更に不安定にする引き金ともなるのです。ですから、患者さんが勝手な判断で飲むのをやめてしまうことは是非避けるべきです。お医者さんの指導の下で徐々に減薬していった上で、別の薬等の治療に置き換えて行くのが適切です。

(私自身、お医者さんが何を思ったかパキシルを突如全部やめてしまってデパスのみに置きかえるという、常識はずれの処方をしてきて、その際に身体がどのくらいリバウンド食らうかの恐ろしさを体験しています)
 
 もうひとつの後者のケースは、すでに以前もご紹介したように、実は双極性障害の「うつ状態」のはずなのに、単極性障害とのみ誤診され、気分調整剤ではなくてSSRIのみが中心的に処方されたケースでした。この患者さんは、おかげで躁鬱の波が余計に悪化するというパターンにはまって、奥さんに暴力を振るってしまったのですね。

↓「NHKスペシャル」で用いられた図の再掲です。今回の番組で掲載されたのは「双極型障害Ⅰ型」についてのもので、躁状態方向への波の振幅も高まっていたので、少し違う図になるのですが、参考までに転載します。
Bp2b_2
Bp2c_2

 この番組の中で、単にSSRIそのものに不安や緊張の低下と同時に、衝動性抑制の神経伝達物質代謝まで緩んでしまう作用を起こす可能性の示唆にとどまらず、お医者さんの側に、適切な診断の下で、薬を的確に使いこなせていない未熟さがまだ見られることが大きな原因であることを強調していた点は、重視すべきでしょう。


 この取材に応じ下さった患者さんお二人が異口同音に語った事柄が印象的です。


「そういう時には、まるで自分が自分ではないみたいな、独特の感じなんです」

「何かにムカついてきて、イライラが高まる時のイライラとは全然違うものなんですよ」


****


 今回の番組の中で、ゲストの医療ジャーナリストの小出五郎氏は、日本の薬事法における、薬の副作用についての国への報告システムの問題点を指摘していました。製薬会社や大病院からそうした副作用報告を吸い上げるパイプは制度として整備されているのですが、個々の医師(開業医を含む)や患者・家族から、そうした、薬の副作用についての情報を、たとえ曖昧で確証がなくてもいいから吸い上げるまでの公式のシステムが制度的に存在しないそうです。 

「副作用情報はいったい誰のためのものかということです。何よりまずは患者さん、そしてご家族にとってなくてはならないはずのはず。そうした情報を専門家と共有するためのネットワークの整備が制度的にも急務」

というのが、小出さんが最後に強調した点でした。


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こういちろうは計画性があるのか? いきあたりばったりか?

 企業秘密もある(!)ので、私がすでに現在具体的に進行中のプロジェクトだとか、開業以外の手堅い多角的な収入源確保についてすでに何が実現され、どういう「営業」やら一種の兼業リクルート活動をしているかとか、年単位で実現をめざして模索している大きな具体的な企画(ふたを開けてみたら、「やっと『それ』を実現する気になったのね」といわれるだろうなあ・・・)をここで書いていないのは自明のことである(^^;) ものによっては、早すぎる告知が関係者に迷惑をかける場合もあるのだし。

 そして、ある意味で、私のブログの記事が、3月から現在までという、これまでにない、非常に長い期間、記事を書くペースも質も変動がないどころか、むしろテーマやスタイル的に集約・洗練され、集中力に全くむらがなくなり(なのに、文体がいい意味で軽くなり、以前ほど「くどく」なくなって、あっさりしてきたことにお気づきの人もあるだろう)、読者層すら無理なく絞り込んできているともいえる。

 記事を書くたびに、非常にコンスタントな形で、私がそれまでの自分よりも一歩ずつ先に進んだ、新境地といっていい見解へと進んでいく(まさに私のカウンセラーとしての体験過程のステップが刻々と刻まれていく)安定した手応えも大きい。

 時々、思い出したようにオーディオ系や音楽系の記事を入れるのは、ベスト20に今も居座るそうした記事がきっかけでおいでいただく方が今も少なくないことへのサービスでもあるし、同時に、「こんな記事をカウンセラーが書いているわけね」と気づいていただくきっかけとしての、定期的な「顧客誘致活動」として位置づけてもいる(^^) ニフティニュースに気が向くとコメントするのもそのためです。


 こういちろうの人生に、ここまで力まない、安定感がある時期は到来したことはなかった。

 プライベートでも、随分と穏やかで安らかな生活スタイルでいる。


 だから、今は、私を、決してせかすな。

 これ以上、ペースを変える必要をお求めなさるな。

 い・ら・ぬおせっかい。

 また鬱になりそうではないか(^^;)


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2009/05/31

適度にそううつ的な人こそ、これからの時代を生き延びる適者である?

 うつ(しかも躁鬱系)の人が本来備えていたはずの健全な適応能力とは?

 ひとつのことが長続きせず、飽きてしまったら、その時無理なく好奇心を向けることができる別の対象へと、関心がどんどん移ろっていく、そういう性質だと思います。

 これは、その人がサバイバルする上での、ひとつのとりえであり、能力なんですよ。

 このタイプの人は、まず、何かに一度興味を持つと、好奇心のままに一気にその対象に没頭します。つまり、ぐぐぐーーーっと、その対象に一気に肉薄するところまで、無理のない範囲で動けてしまうわけですね。

 この、思い立ったら最後、とりあえず対象にアプローチを一気にかけてしまうアクセス能力は、現実場面の中でも、もし、その時のその人の「勢い」がなければ超えられなかったハードルを一気に越えさせてしまい、その人の世界を一気に広げさせてくれるという効能があります。

 更に言えば、このタイプの人は、興味を失った対象からは実にあっさりと離れるという「能力」を持っています。人と関わり続けるのに疲れたら、ひっそりと引きこもる「能力」も持っています。不必要にこだわり続けることはしないわけですね。例えば、興味を失った異性と、「相手を傷つけたくない」などと、いろいろ考えすぎてしまった挙句に、変な「義理」感(?)から形だけ付き合い続けるということはしない。これって、お互いのために好ましい離れ方なのかもしれない。

 でも、一度関心を失ったものは永遠に投げ出してしまうとは限らない。むしろ、「時が満ちて」、無理しなくてもそのことに取り組めるようになった状況が(外的にも)整ったあたりで、余裕を持って、自然に、そのことに本格的に取り組み始める。

 このタイプの人は、(本来の天性に従う限り・・・ですが)、焦るあまりに、性急に無理な努力を積み上げることはしない。自分にそれだけのキャパができたり、外的状況がそれにふさわしくなった時点(例えば、景気が少し上向き、求人が再び増え始めたそのタイミング)で、本人の興味が一致したら最後、スルスルスルーーーーって、その絶好のタイミングを生かして、なだらかな坂を駆け下りるかのようにしてステップアップするという、こうしたセンスがない人から見たらあまりに抜け目がないと思えるほどのふるまいをやすやすとやってのけます。

 こういうタイプの人、「集中力に欠ける」とか、「コツコツと粘り強い準備や努力ができない」などと、否定的にとらえるばかりになると、その人は容易に失調して、まさにうつにはまる危険な状態に向かい始めるのではないかとも考えられます。

 専門的に少しだけ難しい言葉で言いますと、「躁鬱気質」の人間を、無理やり「執着気質」な人間に改造しようとすると、失調するということになります。

 ところが、日本は、悲しいまでに、執着気質的なコツコツとした努力だとか、ひとつのことについて営々と職人的な技を積み上げてキャリアを築くことを尊ぶ風土がある。

 でも、こうした意味での勤勉を尊ぶ職業倫理なんて、不況なだけではなくて、それまでの社会システムそのものが揺らぎだしている今のような時代においては、どれだけ人の目に見えない努力を重ねてもあっさりと首を切られる可能性のあるわけでして、むしろうつ病の人を大量生産するメカニズムだと断言したいです。

 むしろ、「適度に」そううつ的に生きる人たちの方が、会社と心中するまで自分に目隠ししたまま会社にしがみつくこともしないし、好奇心の赴くままに新しい出会いを生かそうとする、でも、自分がそれを好きかどうかという点で見誤ることがないという意味で、サバイバルの上では適者ですらあるはずと思います。

 
・・・・・こうした思いも込めて、少し前のこの記事も書きました。


 参考書としては、いつもながら、中井久夫先生の名著、「分裂病と人類」ですが、中井先生はこの本の中で、執着気質的な人と躁鬱気質的な人を対比するという観点からはほとんどはっきりと言及していません。その点は、私がこの本と出会って30年にしてやっと最近になってたどり着けた、私なりのこの本の「消化吸収」の過程かな?・・・・ともささやかに自負しています。

分裂病と人類 (UP選書 221)

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2009/05/30

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第1話、十分に内容があったと思います。(第2版)

 今、やっと昨日の第1話(毎週金曜日22時より放送)を観ました。

 私は原作を知らないままです。

 むしろ予備情報全くなしでぶっつけで観ようと思っていましたし、原作との比較論にも今後も一貫して無関心を通すことをあらかあじめお断りしておきます。

(追記:・・・・・ところが、その後原作を人から譲ってもらったために、原作の感想も結局は賭けることになります。こちらをどうぞ。)

 細部に至るまで、非常にリアルに描かれているし、俳優さんも適材適所で好演だと思います。

 藤原紀香さんの、最初登場した瞬間に彼女であるとは全く見えない、アイラインなし、ノーメイクでぼさぼさ頭、これだけはネットで情報ありましたけど、記者会見の動画や番組宣伝用のスナップ写真などでは、ドラマの映像を実際観た際の、その強烈なプレゼンスはほとんど伝わりません。ここまでやると、視聴者を幻滅させることを覚悟で彼女の「素顔」を見せる役者魂!に敬服するのみです。

私の中には「ルパン3世」の峰不二子の化身みたいなイメージが強かったので、かなり強烈。でも、おバカで、かわいくて、無力で、でも魅力的です。


●ドラマ「ツレがうつになりまして。」NHK公式サイト


*****


 うつの人を抱えたご家族恋人によく見られがちな光景である、そうした周囲の人自身がうつ的になっていく(あるいは、潜在的なうつがあぶりだされる)という悪循環のジレンマと、その血みどろの克服の中で、お互いに少しずつ癒され、生き方が変わっていく過程もきちんと描かれそうですね。

 うつって、うつになったご本人が単に「回復する」だけのプロセスで済ませれるものであることは実は少ないのです。その人と関わる周囲の人との間の「システム」そのものが変化すること、ひいては、その家族やカップルが帰属していた社会との接点の「システム」も変化することが、連鎖反応的に、見かけ上はほんの少し、シフトする必要があることが多い。

 ご本人がうつから「回復する」ことだけを家族や企業が「期待している」状態というのは、悪循環を維持する牢獄の最たるものです。ご本人は、果てしなく泥海の中でのたうつことになりやすい。これは、システムズ・アプローチに心得がある臨床家には俯瞰できているはずのことのようです。(このことも先日の児島先生の講義の中で示唆されていたのですが)

 そして、実は、そうした、うつの方を包む「システム」の重要性の最たるものは、当然医師との関係性です。

 このドラマの中では、理想的なお医者様と最初から出会えたという前提で描かれていくようです。

 しかし、現実には、医師の一治療者としての実力は別としても、まずは、患者さん、ご家族とお医者さんとの間のコミュニケージョンに隙間風が吹いていることがいかに多いか。そして、それが治療過程の停滞の決定的因子であることがいかに多いか。

 患者さんを包む一番ベーシックな社会的援助システムである筈の医者との関係そのものがきちんと歯車がかみ合っていないならば、うつの人が空回りし続けてもやむをえない、これは自明なことなのではないか?

 我田引水ですが、この「お医者さんとのかかわりのサポート」という領域こそ、私が地域の開業カウンセラーとして、ここしばらくの間に非常な問題意識に目覚め、研鑽を積み、特化して展開させてきた大事な領域です。

 実はこれが単なる「アドバイス」(コンサルテーション)ではなく、むしろセラビーそのものであるという認識に目覚めたことは先日にもお書きしました。

 これについては、このブログで度々お書きしてきた、不肖、私の見解を、「こころ相談.com」で、総括的に、ロングインタビューの記事にしていただけることになりました。すでに最終校正作業終了。今週中に公開です。


*****


 ドラマの方、いずれにしても、第1話がこの水準なら、今後の展開には、もうあまり心配がいらないかと思いました。


 そうそう。風吹ジュンさんが演じるお医者さんが自転車乗りなのにはびっくりしてしまった、自転車乗りカウンセラーのこういちろうです(^^)

 
【追記】

 後で確認したところ、このドラマの監修者は、NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」で番組出演され、メインのコメンテーターをお務めだった、日本うつ病学会理事長、野村総一郎先生です。

※続く第2話についてはこちらです。

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いきなり本丸に大砲を打ち込もうとするのではなく、外堀を埋めていくこと

 これは、この不況下でリストラされ、なかなか再就職が決まらない知人に思わず口にした言葉である。

 その人の場合には、サーカスの曲芸団員あるいはジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」のロケットよろしく、自らが砲弾になって本丸まで届かず(ないしは外れて)砕け散るパターンを取っている気がしたのだが。


 「別に、やろうとする職務内容で『妥協』して、やりたくもないこと、充足感がないことを地道にやることを求めているつもりはないよ。

 僕がいう、『外堀を埋める』というのは、自分の目指すターゲットと一見関係ない事柄であってもと、仕事でも、プライベートでも、興味を持ったら、無理のない範囲で、ともかく手を出してみる、やってみるということのつもり。

 そうやって、自分の周りにある、移動の自由を阻むぬかるみみたいなものに、足でザッ、ザッと周囲の土を寄せて、ともかく埋め立てていくみたいなことを、思いつくままに、できる範囲で少しずつやってしまう。

 そうするうちに、いつの間にか、城のお堀にかかるいくつかの狭い橋を攻略しないと次のステージに進めないと信じている多くの人たちとまともに競り合うのとは別の形で、いつの間にか、お堀の、誰も気づかない、いつの間にか乾いた土盛りの部分を越えて、城内の意外なところに、「ゆるい坂をぐるっと回り込んで」侵入できていて、本丸の裏口あたりをうろついていろいろ観察して過ごしていたら、働き手を求めている思いもよらない役人と遭遇して、そこでもフランクに堂々としていたら、実は城の周りのいろんな状況や風景をこいつは良く知っているな、ということになって、存在意義を認めたもらえることもあるかもしれない」


 その人にそういうことを言いたくなったその時の私は、実は、他ならぬ私自身が、そういう「あちこちからの、的中率の低い大砲射撃」がやはり必要ではないか? という焦りをやや感じていた時期だった気もします。

 でも、これまでの自分に道が開けた時は、たいていの場合、そういう、なんとはなしにあちこち外堀を埋めていくということを無理せずにやって行った時であったことを思い出し、実は相手ではなくて、自分を諭すかのように、口にした気もします。


  たとえそれが目指す本丸と、全く無関係の事柄への関心であり、

  目標からの逃避であるかにすら見える場合ですら、

  あなたが自分の中のその関心のままに一歩を踏み出した時、

  それは回りまわって、「あなたの」外堀を埋めることに、どういうわけか、つながるようになります。


 ・・・・以上、最近は、花壇の手入れと、ちょっとだけ料理に目覚め始めたこういちろうより。


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2009/05/26

場の安全を守るために、新規にコメントする人に厳しい要求水準を求めすぎるのは

ちょっとどうなのかなあ?

 ・・・・これは、メンヘル系・心理系に限らず、いろんなジャンルの、いくつものサイトをあちこち訪問させていただく中で、時々感じることなんです。

 そのサイトをずっとROMしている多くの人にとって、その、まだ場に不慣れな人のコメントの、悪意が全くない、果たして落ち度といえるかどうかも怪しい次元での「不心得」に対して、サイト運営者や常連が、どう柔軟に、傷つけない形で対応して、「自制を求めて」いるかどうかの方にこそ、注意が向くということです。

 ROM読者が我が身に置き換えて(同一化して)感じてみるのは、そうやってサイト運営者や常連から糾弾される側の人間の心境だったりするわけですねcoldsweats01 


明日は我が身か? 

このサイトには書き込むまい。

大人しくしていよう。


 こうして、そのサイトは、ほんとうに幅広い人たちに開かれた、でも「そこそこの」安全感はあるサイトにはなれなくなるのです。窮屈なだけのね┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~


 繰り返しますけど、これは特定のサイトへの感想ではありません。

 いくつものサイトに感じてきた「ダブルバインド」構造です。


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2009/05/24

こういちろうはいかに短期療法に入門したか(後編) -ライブ・コンサルテーションという名のケース・スーパービジョン-

 前編の続き、第82回日本産業衛生学会における、日本短期療法学会元理事長、長崎純心大学教授、児島達美先生による、産業保健領域(EAP)における短期療法的アプローチの具体について報告したい。

 児島先生が、講演の後半の1時間を費やしたのは、「ライブ・コンサルテーション」と呼ばれる形式でのケース・スーパービジョンのデモンストレーションだった。
 
 コンサルテーションとは、クライエントにあたる人物とカウンセラーの直接の一対一の面接ではなく、むしろ問題を抱えた人物=いわゆるクライエントと関わる、援助的側面を持つ当事者(カウンセラー、上司、家族、配偶者、友人など)に対して、専門家が、クライエントさんにいかに対応するのかについて助言する場合を指す。

 (私の書いたこの記事における分類をご参照ください)

 助言する専門家のことをコンサルタントと呼び、助言を受ける人物のことをコンサルティーと呼ぶ。

 つまり、コンサルテーションにおいては、通常のカウンセリングとは異なり、クライエント/クライエントに関わる援助者(コンサルティー)/助言する専門家(コンサルタント)・・・という三者関係が布置されていることになる(クライエントさん自身はその場に同席しなくても)。

 これは、クライエントさんとの面接過程について、カウンセラーが、更に経験あるカウンセラーに有料契約で助言を求める、ケーススーパービジョンと呼ばれる枠組み基本的には共通である。つまり、

スーパーバイザー=コンサルタント
スーパーパイジー=コンサルティー

と読み替えて、一応差し支えはない。


 ただ、ケーススーパービジョンにありがちな光景は、

1.スーパーバイジーが綿々とケース記録を読み上げ、(ああ、聴いていると退屈!!)

2.スーパーバイジーは、クライエントさんの病理や面接過程についての分析や考察を、あくまでもスーパーバイジーの中での「思い込みの物語」としてとうとうと語り、

3.どのようにケースがうまく行かないのかについて、スーパーバイジーは、自分の未熟さについて、ひたすら自虐的で内罰的な自己分析を重ね、

4.・・・・かと思うと、今度は、「クライエントさんの自我水準がボーダーラインだからうまくいかない」「担当医がデリカシーに欠ける応対をクライエントさんにしてくれていない」などという「外罰的な」責任転嫁に転じ、

5.そうしたスーパーバイジーの防衛のヨロイを更に突き崩さんとばかりに、スーパーバイザーの先生は、スーパーバイジーがまだ気がついていない問題点を洗い出し、詰問し、

6.もしそれがグループスーパービジョンだったら、他に参加者も、スーパーバイザーの先生に「同一化」して、他の人の事例の「揚げ足の取り方」にだけ習熟の技を磨き、

7.結局、そうやっってスーパーパイジーが語った、主観的で都合のいい切り取られ方をした面接の報告という「フィクション」に基づいてなされた、一面的で主観的で、人のことはなんとでもいえるけどねえといいたくもなる、意外と無責任であてずっぽうで思いつきに過ぎないな「見当違いの」助言が、スーパーバイジーに雨あられと降り注ぎ、

8.そうした助言に従って面接場面でクライエントさんに向かって動いてみようとしたら、スーパービジョンを受ける前よりも、クライエントさんとの関係は余計に混乱し、収拾がつかなくなり、

9.カウンセラーは、いよいよ自分の感性と判断で、腹を据えて面接に臨めなくなり、

10.そういうカウンセラーの自信なさげな様子を、クライエントさんは、たよりなく感じて、カウンセラーに更に苦情を言ったり、罵詈雑言を重ねたり、ついには無断キャンセルにして来なくなったり、相談機関窓口に「カウンセラーさんを変えてください」と電話を入れたりして、いよいよカウンセラーはアイデンティティーの危機に陥り、

11.次のケーススーパービジョンで、1.から7.までをもう一度繰り返して、更にスーパーバイザーの叱正を受けたり、壮絶な自己嫌悪のトラウマを深め、

12.そうこうするうちに、「こんなスーパーバイザーに指導を受けているから自分は駄目になったんだ」と内罰から外罰に転じ、

13.気を取り直して、そのカウンセラーは、別の「もっと優秀な」スーパーバイザーを探して、

14.以上、1.から13.を2回も3回も4回も繰り返した挙句、

15.今日も新たなスーパーバイザーを求めて、路頭をさ迷うのでした。


・・・・・という現実が、ちまたに見られるわけである(^^;)


*****


 そういう、ありがちなスーパービジョンと、児島先生のような達人によるライブ・コンサルテーションは何が違うか。

1.仮に事前にケース記録をまとめてきたとしても、コンサルティー(助言を受ける人)は、それを読み上げるのではなくて、あくまでもライブで話せる範囲で、今、クライエントとの関わりで生じている行き詰まりや、何を解決したいのかを物語る。コンサルタント側も、その内容について、文書等を含めて、事前に一切予備情報を受け取らない。

2.コンサルタントは、事例に対する助言をするというよりも、いわば「ある人との対人関係に悩んでいるクライエント」に応対するかのように、短期療法的な面接過程そのものを、コンサルティーとの間で繰り広げていく(そこには、間接的に、コンサルティ自身をクライエントの身に置いて役割交換をした上での、間接的だが体験的な技法の学習を暗々裏に促すという側面が内包されることになる)。

3.短期療法の性質上、それは「問題の原因探し」的な探求や分析ではなく、コンサルティーが「今、何に、どう困っているか」「これからどうしたいのか」という点に絞ってやり取りは勧められていく

4.私の見たところ、コンサルタントは、コンサルティーの発言を受容的・共感的に受け止め、コンサルティーの発言の流れを押しとどめて水を差すことはむしろ回避しているが、さりげなく話しに水を向ける際に「あなたはそれをどう感じ(思い、考え)ましたか」などと内省を深める方向に焦点を絞るのではなく、「それで、あなたは、クライエントさんにその後どう振舞いましたか」などという、その人の認知・思考・行動面での「問題解決」のありようの話題を引き出そうとしているように見えた。

5.しかし、そうした際に、はた目から観て、そのコンサルティの問題解決様式に一定のかたくなな固着があり、クライエントさんとの間に悪循環的な相互作用があっても、コンサルタントである児島先生はそれをすぐさま指摘して修正を促すことはしていない。まるで、そうしたコンサルティーの認知の固着や、相互作用的な悪循環が繰り返し自然と浮かび上がり、コンサルティー自身が、その悪循環について暗々裏に少しずつ気づき始めるまでは、むしろそうした悪循環パターンそのものを思うがままに自由に語らせ、ふるまうに任せ、それをやさしく「抱える」ようなスタンスで応対されているかのように感じた。この点での児島先生の、どっしりとした、安心感を漂わせた、少しユーモアすら漂わせたプレゼンスには、臨床家として、大いに見習うべきものを感じた。

6.こうした流れの中で、まるで「時が満ちた」間合いを見計らうかのようにして、児島先生は、「ところで、○○さん、ちょっと次のようなことを、今、ここで試してみてはどうかと思うんですけど?」というような調子で、コンサルティーに、独特の「思考実験」のようなものを提案する。それは独特の意外性があり、まるで、面白いゲームに誘(いざな)うような問いかけである(後で知ったが、こういうのを「ミラクル・クエスチョン」というんですね。)


*****


 この部分から、実際に目の前でなされたライブ・コンサルテーションの内容をご報告するのがふさわしいだろう。

 クライエントさんは、企業に勤める中年のサラリーマンであり、うつ病で、休職と復職を繰り返してきた。産業医は、ともかく毎日会社に通うことが習慣化することを、EAPカウンセラーであるコンサルティーに求めている。しかし、クライエントさん自身も激務に復帰することに不安を抱いているし、その一方、上司の自分への対応に不満を抱いてもいる。コンサルティーは、そうしたクライエントさんにどのように対応していくのが援助的かに、さまざまな迷いを抱き、時にはクライエントさんに色々反論したり意見したくなる衝動と戦ってもいる。

 ・・・・・この水準までなら、EAP(従業員援助プログラム)領域でのサラリーマンの復職支援として、非常に典型的な状況ですから、個人が特定できる心配は全くないかと思います(^^;)


 さて、児島先生は、上記の1.から5.にあたるやりとりが、20分ほどかけて進んできたあたりで、水を向けるわけですね。

6.「どころで、今、ここまで私たちがこの場で繰り広げてきたやりとりを、○○さん(クライエントさんの仮名。その場でつけてもらうあたりも興味深かったが)が、実は私たちのうしろの「このへん」にいて、みんな聴いていたと想像してみるのはいかがでしょう? ○○さんは、どんな感想を言ってくれると思いますか?

 コンサルティーのAさんは答えます:

「そうですねえ、うーん・・・・・・○○さんは、いつでも、私との面接の後で、お礼を言ってきます。きっと、いままでの私の話を聴いていても、『いえいえ、カウンセリングは十分に役に立っていますから』などと、答えてくださるのではないでしょうか?・・・・・・(沈黙)・・・・・・・でも、ほんとうのところ、そのように感じてくださっているかというと、自信がないんですよ」


 児島先生は、もう一度、類似の質問を投げかけます。

「なるほど・・・・・・それでは、今度は、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?


「きっと、『いえいえ、本当に感謝していますから』と言ってくださるとは思うんですが・・・・・・(この後、Aさんに思い出された、関連事項についての記憶については割愛します)」


 児島先生は、更にもう一度(!)、類似の質問を投げかけます。

「なるほど・・・・・・それでは、もう一度やってみましょう、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?

「・・・・・・どうも私は、○○さんが実際に示している態度や言っていることを、額面どおり信じられない、ほんとうは、凄く違和感や欲求不満をを感じているのに、それを言えないまま溜め込んでいるはずだとどうしても感じてしまうんですよ。そして、私は、そうした○○さんの求めにどう答えていいか、困惑してしまっているようですね」


 ここで児島先生は、突如、ご自身の経験談を問わず語りにお始めになります:


「私が若い頃、スーパーバイザーの先生に事例の報告をしている時、『クライエントさんの本当の気持ちがわからない』ということをふと漏らしたんですよ。そうしたら、先生が次のように言われたのが凄く印象的でした。

『クライエントさんの本当に気持ちを確かめることって、それほど重要なことなのかね?』

 そのように言われたことが、私の頭の中に意外なくらいに残り続けていましてね。そうこうするうちに、クライエントさんの言葉の「ウラを読もう」という構えが私の中からいつの間にか抜け落ちていったみたいでね。・・・・・気がついてみると、そういう私の側のスタンスの微妙な変化みたいなものが、何となくクライエントさんに面接室で伝わるようになって行ったんじゃないかとも思うけど、クライエントさんも感じたままに私の前で思ったことを言ってくれているなと思えることがいつの間にか増えて、面接の力みが、いい意味で抜けて行った気がしているんですよ」


 これを聴いていた、コンサルティーのAさんは、ふと思い立つように、次のように語りだします:

「先生のお話を聴きながら、私が○○さんの言うことを「信じられない」のはなぜかなあ?・・・・と思いを巡らせていたんですが・・・・・いま、ふと、思い浮かんだのは、そもそも私のほうが、○○さんに、感じたままのこと、思ったままのことを全然言っていないじゃないか?・・・・・って」


******


 フォーカシング的に言えば、児島先生が3回繰り出した問いかけ(私が質問タイムに確認したところ、この質問は、短期療法の世界で「関係性の質問」と呼ばれるもののバリエーションンだそうである)は、フォーカシング技法でいう「フェルトセンスに問いかける(asking)」と実に似通った質問である。

 フォーカシングの場合には、内的な対象としての、フェルトセンス=身体の感じそのものからの応答を誘発するものであるのに対して、児島先生のなさったのは、その場にいないクライエントさんと、イメージ上で対話するという形でこそあれ、外的な現実の他者、しかも3人目の他者がどのように応答してくるかという実験である点に重要な違いがある。

 しかし、例えば、フォーカシングで、

ガイド:「何かが『引っ込んで』いる・・・・・そういう言い方でしっくりくるかな? とお腹の感じに尋ねてあげてみたらいかがでしょうか」

フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・『一応はいいよ』と答えてくれています」

ガイド:「なるほど、『一応はいよ』と答えてくれているんですね。それでは、『何かがそこに引っ込んでいるんだね、わかったよ、そこにいるのは』みたいに声をかけてがげてみるのはいかがでしょう」

フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・何か感じが変わってきました」

ガイド:「・・・ほう、・・・・というと?」

フォーカサー:「・・・・・さっきまでは、引っ込まないでいると傷つくので、やむなく引っ込むという感じで、きゅうっと締まるような苦しさが先にたっていたんですけど・・・・・・どういうわけか、さっき、「そこにいるのはわかったよ」といってあげてみたら、その部分が何か緩んで、少しずつ暖かくなってきたんです。・・・・・おや?「いやいや、引っ込んでみているのも結構いいものだよ」とまで言ってくる(笑い)」


・・・・などという展開が生じる時の、体験過程のステップの刻まれ方とあまりに似ていると思えたのです。


 別の質問者が、「児島先生が途中からご自身の体験談という形にされたことが印象的でした。そこにもひとつの大事な意味がありそうだと思ったのですが?」と水を向けると、

 「こういう時に『それはひとつの気づきですねえ』なーんていうふうに、上から押し付けるようなあり方はどうかな?と思っています。コンサルティーにとってそれがこのライブ・セッションの中ではっきりと定着した理解になるかどうかなんて、本当に大事なことなんでしょうか? だから、私は、自分にもそういうことがあったんだよ、という、コンサルティと同じ目線での経験談という間接的な示唆にとどめて、そこから何を汲み取るかは、お任せしてしまいたいと言う気持ちもあったんだと思います。・・・・ここまで説明してしまうと、これ自体があと付けの理屈っぽくなりますけど」


 ここで更に、司会もなさっていた島根大学の足立智昭先生(同じ島根の、「こころの天気」で著名な土江正司さん・・・・フォーカシング関係者にはおなじみ・・・・・の盟友でもあります)が、


「児島先生は、ここで、ご自身のスーパービジョンの先生という「4人目」をライブセッションの場の中に呼び込まれたということが大事なのではないでしょうか?」


という絶妙の示唆をして下さいました。

 コンサルティーのAさんも、


「これまでの事例検討を受けて一度も味わったこともない不思議な体験をしました」


と感慨深げでした。


 思うに、同じ事例を、ありがちな精神分析系の事例検討会が扱えば、「転移」や「逆転移」、「投影同一視」などという用語が果てしなく飛び交うにかかわらず、

「この事例って、むずかしい事例だよねえ・・・・」

という徒労感が、参加者全体の中にどよーんと覆い尽くすことが必至の事例だったと思います。


 その意味で、この「公開ライブ・コンサルテーション」、わずか40分ほどでしたが、まさに「奇跡(ミラクル)の40分」、短期療法の真髄を見せていただけたと感じております。

 改めて、講師の児島先生、事例提供者のA先生、この企画をご準備くださった、産業衛生学会産業心理技術研究会のスタッフの諸先生方に、厚く御礼申し上げます。



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2009/05/23

こういちろうはいかに短期療法に入門したか(前編)

 このタイトル、「こういちろうによる短期療法入門」などというあまりにおこがましい形を避けたことがミソです(^^;)

 今朝方の記事に書いたように、私はバラの本の速読と、今回の日本産業衛生学会総会の催しでの、児島達美先生のレクチャーと、ライブ・コンサルテーションを通して、全くはじめて短期療法や解決指向心理療法について知ったというのが現実である。

 この、実質的「ワークショップ」では、単に短期療法についてのものではなく、産業保健活動(EAP)における臨床心理士の果たす役割というテーマと密接に関わりあっており、それは短期療法の本質と切り離しえない側面があり、それについてもいろいろ感想を述べたい気持ちもあるのだが、内容が錯綜しかねないので、、今回のこのエントリーでは、敢えて、短期療法それ自体の魅力という方向性から、以下のことを書いてみたいと思う。


*****


 短期療法(ブリーフセラピー)というと、「セラピーを短期間で終わらせる療法」というふうにとられかねない。確かに「時間制限心理療法」という、最初から12回のセッションに限定する約束で行なう心理療法が、今日言う意味での「短期療法」の先駆みたいにして存在するんだけど、実は、この「時間制限心理療法」の「外面的な」設定についてだけが教科書的な知識として広まったおかげで、短期療法は、クライエント中心療法や精神分析的技法などの、長期間かけて人格の変容を促す技法を主に学んだ人たちから、不要な偏見にさらされることになったように思える。

 念のためにいうと、「短期療法」というのは、ある特定の心理療法流派というより、一群の心理療法流派が共有する特性を総括したグループ分けのようなものと見たほうがいいようだ。

 代表的なものとしては、狭い意味では、

ミルトン・エリクソンの心理療法
○神経言語プログラミング(NLP)
○MRIアプローチ
○解決志向(指向)心理療法
○家族療法のうちのいくつかの流派
○ナラティブ・セラピー

こうしたあたりを指すことになり、広義に解釈される場合には、

○論理療法
○認知行動療法
○応用行動分析

などまで枠を広げることになるようだ。

 しかし、児島先生のレクチャーとデモに接して痛感したのは次の点である。

短期療法とは単に心理療法の分類でもなければ流派でもない

 むしろ、現実の臨床実践(コンサルテーション)場面で、クライエントさんや、クライエントさんと関わる当事者(家族や上司)、そしてカウンセラーという3者が、いかに不毛な堂々巡りを(それぞれの中で、それぞれの相互間で)し過ぎることなく、悪循環的な相互作用を脱し、良循環的相互作用の関係に転じることを、無理なく、自然に、しかも現実的に必要な「そこそこの」水準で成し遂げていくか、そしてそのことのために、最小限の介入でありながら、使えるものは何でも使うというスピリットに基づいてなさていれば、それは短期療法的アプローチである。

 ・・・・・このように定義するのがアクティブでリアルな理解だ!! ということだった。


どうも、

「効率性」
「過去でなくて現在をテーマとする」
「洞察や気づきではなく、問題解決重視」

などという言葉を下手に振り回すと、実は短期療法についての誤解を広めるだけだとすら感じました。

 短期療法の中でも、クライエントさんは深い気づきや洞察は体験することは決して珍しくはないですし、クライエントさんを単に受身に服従させるだけの効率性重視など、まがいものの、一番唾棄されるべき短期療法のあり方だと見なされている気がします。

 もとより、洞察や気づきが生じることを自己目的的に礼賛することは短期療法ではあり得ないわけですが。


*****


 いずれにしても、上に述べたベースラインを踏み外してしまったならば、認知行動療法の名の下になされる場合ですら、「短期療法」の名に値しないし、逆に、ある「フォーカシング指向心理療法セラピスト」によって、この点をしっかり押さえて実践されていれば、「フォーカシング指向心理療法」だって、立派な「短期療法」であるといえるのである。

 恐らくこのことは、ひとつの独立した技法体型としてのフォーカシングのトレーニングのことしか知らず、フォーカシング指向心理療法を、単にそれを現場臨床場面に適用・応用したものであるかに過ぎないようにまだ思い込んでいる人には、全く気づかれない、思いもよらない事柄かもしれない。

 フォーカシング指向心理療法は、いったいこれのどこがフォーカシングなのか、ほとんど痕跡をとどめないくらいに解体され、カスタマイズされ得るのである。そしてそれがブリーフ・セラピー的な技法と自由に行き来できるところま到達したら、熟達したブリーフ・セラピストの実践と、全く判別不能の域になってしまうだろう。

 私は、児島先生の発言や、ライブ・セッションから。そのことを痛烈に感じ取ることになる。

 
*****


 興味深い人には興味深いテーマでしょうから、私がここまで書いたことまででとりあえずアップしてしまい、児島先生のレクチャーとライブ・セッションからの具体的ご紹介は「後編」にまわしたいと思います。

 ・・・うう、児島先生が言われた次の教えに一番反する順序で紹介してしまったのかもしれないcoldsweats01


 「先に理屈をつけて、特定の方法や技法を学んでも、結局身につきませんからね!」


 ・・・・「はじめにブリーフセラピーありき」で、ブリーフセラピーをどんな形で、どんな領域で、どんなクライエントさんに適用できるか、などと考えて学んでいるううちはモノにはならないわけです。

 同様に、「はじめにフォーカシングありき」で、フォーカシングをどんな形で、どんな領域で、どんなクライエントさんに適用できるか、などと考えて学んでいるううちはモノにはならないわけです(^^;)。



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豚骨ラーメンちょっちゅう食べても脱メタボ・減量できる?

 本日、これからまだ外に出てひとつやることがあるこういちろうですが、今日久々に体重計に乗ってみる機会がありました。

 少なくとも過去20年で一番低い数値でした(^^)

 もうちちょっとで、夢の「王台割れ」に到達ですが(何十キロ台かは秘密)

 昨日の学会で久々に会った知り合いからも、「ずいぶんスマートになられましたね」とのお言葉を頂き(^^)

 この数ヶ月、久留米の豚骨ラーメンにはまっていて、それ以外を含めて、以前よりも脂っこいものが好きになっているにもかかわらず、私のいろんな検査数値の中で唯一イエローだった血中中性脂肪濃度もイエローを脱して、メタボ体質から遠ざかりつつあります。

●ラーメンカロリー算出表

↑のはずで(しかも大砲ラーメンの昔ラーメンのひいきで、いつも替え玉せずにいられないの)ですがcoldsweats01

 大船時代と違い、職場オフィスと自宅が同じになったにもかかわらず、更には自炊のままなのに、外出頻度は遥かに増加、自転車でちょっしゅう、久留米の郊外、ゆめタウンより向こうの東合川の量販店街まで飛ばしていることも大きいでしょう。

 もう少し資金的余裕ができたらコアリズムに挑むという噂もある???


Selfportrait090509
↑2週間前の近影

 
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2009/05/19

女性から見て一番理解しがたい、純情な男性の心理とは?

 かつて若き日の私もそうだった!! ということを前もって宣言してから以下の内容を書かせていただきますが(^^;)

 多くの女性から見て、男性(特に純情な男性)から求愛を受けた際に、一番理解しがたい事柄のひとつは、


「お友達でいましょう」


という言葉を、どうしても額面どおりには受け取ってくれないということだろう。


 つまり、男性(の中の少なくともかなりの部分)は、求愛することに不慣れなうちは、


「自分の愛を受け入れて、自分を気に入って、交際してくれる」


か、さもなくば、


「求愛してきた自分などは歯牙にもかけず、むしろ求愛されたことを汚らわしくすら思い、それ以降口を聞く気にもなれず、生涯にわたり交流の道は閉ざされる」


という両極端のシミュレーションしかせずに、清水の舞台から飛び降りるつもりで求愛してしまうものなのである。

(女性にもそういう人はいると思いますが、男性の方がこうした「一がバチか」の思いでの求愛パターンを、結構年齢を重ねてもやらかしてしまう傾向があると思います。少なくとも私の知り合いの何人かの一般の女性に、何かのついでに尋ねてみることを繰り返してきましたが、その結果、大いに賛同してもらってきました(^^;) 要するに、不倫の誘いにすらそういう傾向があるということで・・・・)

 冷静に考えてみれば、


「悪い人ではないけど、つきあっていいとまでは思わないなあ」


という感じ方を求愛された側が持ったとしても、求愛された側の身になってみれば、全く当然かと思えるわけで、そういう場合、自然の帰結として、


「お友達のままでいたい」


という言葉が口に出ることになります(^^)

 ところが、男の方は、その「ぬるま湯」のような扱い(そう感じるんだよ!!)の持続に結局は絶えかねて、


「どうして潔く僕を斬り捨てて楽にしてくれないんだーーっ!!」

とばかりに、ストーカー呼ばわりされる危険を重ね、その結果、


「つきあいたくはないけど、いい人」


という、未来へのかすかな希望すら打ち砕く、玉砕への道をひた走り、

当初の自分の希望(?)どおりに、彼女にしっかりと嫌ってもらえ、当面口すら聞いてもらえなくなる存在になり遂(おお)せるのです!!

 こうして彼は、あの懐かしい、孤独という、心安らかな境地へと再び回帰するのであったとさ。


 心理学の世界では、このような現象を、「自己成就的予言」(Self-fulfillment of Prophecy)、またの名を、

やっぱり俺の思ったとおりだった」って言ってるけど、ホントは、そういう結果を招き寄せたのは、あなたのその後の行ないのせいでしょうが!(^^;)現象

といいます(^^;)


****


 なぜ、男の方が、こういう「お友達でいましょう」が普通じゃん? という発想法に立ちにくいのか?

 意地悪な人は次のように分析するかもしれない。

 すなわち、男の場合、よほど女性に交際を申し込まれた実績がある人や、心にもなく女性からの求愛に答えてしまったあとのたいへんさが身に染みている人を除いては、俗に、


「据え膳食わぬは男の恥」


と呼ばれる、非常に卑しい感情に流されることへの誘惑が大きく、「お友達でいましょう」などという、寛大に相手と距離を置く言葉など、思い浮かびにくいのかもしれません。

つまり、「異性と、お友達の関係で、そこそこの節度をわきまえつつ個人的に交際する」というスキーマ(認知の枠組みのようなもの)が、自分自身の側の態度としても、未成熟のままのことも多いということですね(^^) 

 自分の態度や特性として思いつけないものは、他者の(自分への)態度や特性の認知の際にも思いつけない。これを社会心理学では、「内包特性理論(implicit personality theory)といいます。

 もちろん、この世の中には、最初は相手の熱愛にほだされてはじまり、そのうちに相手への深い愛が育つことなど、男女に関係なく数多いことは言うまでもありません(^^)


*****


 なぜこんなことを唐突に書いたのかですって?

 実は、この、周囲を見回せば(自分の過去を振り返れば)ありふれた煩悩の果てのドタバタ劇にこそ、まさに、認知行動療法がテーマとしている、その人の思考と行動のパターンの「無自覚な硬直性」(「歪み」という言葉は嫌いですので)の典型的なパターンがあるかなと思ったから。

 「秋までに、認知行動療法とフォーカシングの比較論を連載する」と約束したことを忘れていないことを示すための、ひとつの伏線です(^^)

 このあと、遠からずはじめる、こういちろうによる「フォーカシング的認知行動療法入門」のための「肩慣らし」のつもり(^^)


 そうそう、興味のある方は、とりあえず、私の旧作の中でも代表作と感じているもののひとつ、


●「思い込みが過ぎる」ことを、実社会を生きるしたたかなシミュレーション能力に「変換」させよう!!


を、そろそろ復習していただいておいてもいいかも。


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※なお、このネタを読んで、こういちろうが最近振られたとか思う人間がいたら、あまりに勝手な思い込みである。少なくともこのネタを昨晩屈託なく語り合った相手はいるようである(^^;)

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2009/05/18

「私はフォーカシングができているのでしょうか?」

 先週開催されておりました、「第21回国際フォーカシング会議in淡路島」は、参加者数300名近くを集め、無事、成功裏に終了したことを、大会準備委員会メーリングリストでの池見陽準備委員長のご報告を通して知りました。

 久留米への移住問題を抱えていたことと、申し込み当時の体調・経済(^^;)不安定要因も考慮し、ご迷惑をおかけしないために、私は残念ながら参加を見送る選択をしましたが、多くの若い院生の方が参加されたとうかがっています。

 会場となったウェスティン淡路は、ある意味で「日本にいるのを忘れてしまう」くらいの、すべてにおいて国際規格のリゾートホテルです。明石海峡を越えた、比較的「孤立性の高い」場所にあるこの地は、日本人参加者にとっても、外国からおいでになる方と同じくらいに「異国に来ているかのような」錯覚に陥れる場所だったはず。関西空港からのアクセスも良く、神戸の市街地や京都や姫路に足を伸ばすアクセスにも恵まれていましたしね。

 実は、池見先生の提案を受け、候補地を最初に下見をして、選定の段階で積極的に関与した私が注目したのは、この地のそうした無国籍性でした。

 「日本にいるのにもかかわらず、あたかも外国の国際会議に出席したかのような擬似体験になること」

 敢えて、外国からの参加者を「ジャポ二ズム」に引きずり込みたくなる誘惑から意識的に遠のけ、日本からの参加者と外国からの参加者が対等にコミュニケーションできる場を設定することが、私の深謀遠慮だったのです。

 だって、例えば、「ドイツ的フォーカシングのあり方」なんていう話、聴いたことありませんでしたからネ!!

 お医者さんに比べると、臨床心理系の国際会議に参加する機会は、日本ではあまり多くないかと思います。そうした中、体験された貴重な経験を、殊に若手の臨床研究者の皆様、現場カウンセラーの(・・・をめざす)皆様、どうか、今後への刺激として是非生かしていただければと思います(^^)


*****


 昨日も、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」をささやかに開催しました。そうやって国際会議で刺激を受けた若手の皆様が、九州の福岡県の久留米という、日本の中でひどく偏った土地にいる私ですが、今後うまく利用してくださることを歓迎いたしております(^^)

 昨日も感じたのですが、大船での「学ぶ会」時代から常々感じていたことをひとつ書いてみましょう。

 表題の、

「私はフォーカシングができているのでしょうか?」

 という質問を、こうした催しの中で頻繁にいただきます。フォーカシングを学び始めて数年以上を経た方からも結構うかがうことです。

 私はそうした問いに接するたびに、「なぜこうした問いが繰り返されるのか?」ということに思いをめぐらせて来ました。

 いくつかのことを述べてみたい心境です。

1.フォーカシングがあなたにとって成果を上げているのかを判断できるのは、あなたの実感だけです。フォーカシングを先に勉強してきた人やフォーカシングのトレーナーがそれについてどのように答えてくるかをすべて脇において、あなたの実感だけで判断していいのです。

2.仮に、体験過程のステップが前に進むということについて、的確に観察し、判断する方法論があったとします。そして、その基準に基づくと、あなたの中にステップが生じていたことになるらしいことが「理解できた」としますね。でも、それがあなたにとって何か言葉にならない違和感や欲求不満をもたらしたり、確かに自分のもの見方、感じ方が「落ち着いた」とか「変化した」とか、「その場に居やすくなった」という実感を感じさせてくれないままだとしたら、それはあなたにとってどんな意味があるというのでしょうか??

3.ジェンドリン自身、どの著作かで、「フォーカシングだけが人生に役立つわけではない」という、ある意味でひどく当たり前のことを書いていたと記憶します。フォーカシングでうまく成果が上がらなければ、たとえばちょっと休憩したり、ストレッチしたり、音楽を聴いたり、ひとりになってみたり、そうしたことを自由にやっていくのは全く自然なことです。

 毒舌に響くかもしれませんが、今回の国際会議や、あちこちで開かれているフォーカシングの集い(私の主催するものをも含む)やワークショップに参加してみて、それまで抱いていたフォーカシングへの関心がむしろ醒めてしまったり、幻滅してしまった人すらあるかもしれない(この世にある「イベントへの参加」とは、ayuのライブ体験から新装開店のスーパー、異性とのデートまで含めて、およそそのような参加者を「ある一定の比率で」含むはずのことでしょうし)。

 そうした時に、フォーカシングと関わることを一度止めてしまったりしてみるのも健全な選択でしょう。ただ、あるひとつの場での、一回の印象で、その対象や相手についての判断を生涯にわたって恒久的に決め付けてしまうことだけはしないで欲しいなあ、というのが、私の自然な思いでもあります。


*****


 こうした一般論を書いた上で、それでも敢えて、当初の問いかけに答えてみましょう:

1.フォーカシング技法において、教示というのは、あくまでの刺激剤であるに過ぎません。一つ一つの教示がピンとこなかったとしても、それはフォーカサーとしてのあなたの責任では全くありません。

 教示の進行と関わりなく、体験過程のステップは、セッションの中の、いつ、どこでも刻まれ始め可能性があるのです、それは「向こうからやってくる」ものであり、「引き起こす」ものではありません。

 いや、敢えて言いましょう。

セッションが終わった後の雑談の中で、
ふと、ひとりでお手洗いに立った時に、
帰り道の電車の中で、
夜寝る前に、
数日後、職場の中で、

突如ステップの進行が実感できることなど、ありふれているということを。

「お告げ」は、その人がその人が何をしているかなんかにお構いなく天から降ってくるから「お告げ」らしいのかも。教会でのミサの祈りのさなかにではなく(^^)

 フォーカシングのセッションのただ中で、自分がシフト体験できないとならないなどという思い込みは、むしろ捨ててしまう方がいいと思います。そうした思いは、フォーカシングの集いの「優等生」として認められたいという「煩悩」に過ぎないとすら思い定めてもいいかもしれない。


2. フォーカシングに伴う身体の感じや居心地や気分の変化というのは、それが一見かすかなものだったとしても、一度体験してしまえば、生じたかどうかについて迷うことは生じません。

 それが持続性に乏しい、短時間の変化や安らぎに過ぎず、しばらくたつと移ろい去ったり、見失うことはよくあることです。

 そういう時には、そうした変化や安らぎや変化が生じた少し前のところまであなたの記憶と実感のビデオを巻き戻してみるのはいかがでしょうか。

「ここまで」は以前と同じ、「こんなふうな」感じだった、「ここ」で、思いもよらないきっかけで「こういう」感じやイメージや連想が自分の中に生じて、その後で、自分の身体の感じや居心地が「こんなふうに」変わった。 

 そのときの実感が、仮に今はかすかな痕跡、ないし余韻のようにしか「再現」できなかったとしても、こうした「反芻(すう)的な味わいなおし」を何回か繰り返してみるだけで、それをしないよりは、その後に何かいい影響が残るものです。

 「反芻する」うちに自然と実感がよみがえり、更なる続きのプロセスが勝手にはじまることもありふれていますし、少なくとも次にセッションを持つ機会があった時、前回の続きをやろうと全く意識しなくても、セッションの展開がいつの間にか前回の続きになってしまい、少しだけ前回より先まで展開するなどという可能性を増してくれるかと思います(^^)


******


 日本のフォーカシング関係者の大半の皆様、私と最後にお会いしてから2年近く立っておられる方がほとんどかと思います。皆様もきっとお変わりかと思いますが、私もまた、皆様の記憶の中にあるこういちろうとはどんどん別人になってきているかと思います。

 そうしたあたりの片鱗は、ネットでの私の文体のトーンまで含めて、実は現れているとお気づきの方もあるかもしれませんが(^^)

 再びお会いできる日を楽しみにしております。

*******


「久留米でフォーカシングを学ぶ会」次回は、普段どおり、第2日曜日、6/14に開催の予定です。

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「久留米探訪記」はさりげない更新を続けているのだ。

 ご当地ブログ、「カウンセラーこういちろうの久留米探訪記」の方、さりげなーく、地味に、一日20-30アクセス程度ですが、意外と確実に更新しています。

 外出の時にはいつでも、高性能の方のカメラつき携帯を持参していて、外出するたびに何かを撮っているという状況、実はまだ紹介していない写真の方が多いくらいです。

 ともかくまずは、私が高校生まで過ごした時点で親しんでいた場所の再訪を中心に、史跡や様々な公共施設、観光名所、出身校(!)などを紹介し、地道に、久留米地域全体の写真データベース化の野望を実現して、地域社会にささやかな貢献をしたいと思っております。

 まだこのブログで紹介していない最近の分は、

●久留米大学医学部
●西鉄花畑駅とキムラヤ花畑店
● 西鉄久留米駅東口
● 篠山城(久留米城)跡
●あかつき幼稚園

・・・・・と、何とも渋いラインナップですが、最後の幼稚園は、私の43年前の出身園ですね。クラウンドの位置が変わり、田んぼばかりだった周囲が、広大な久留米中央公園として見事に整備されたものの、当時と園舎の建物どころか配色にも基本に変化がなかったことに、30数年ぶりに目にした時、言いようのない感動がありました(^^) こういう点で、この40年間の間に大改築しないままってこと、なかなか今の日本ではないことだから。

 ちなみに、クラシック・バレエのファンの人に向けて言うと、この幼稚園は、「あの」人気ダンサーと、意外な関連があるのですよ。詳しくは記事参照。

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2009/05/16

最近ayuネタ書いていないので。

 それにしても、私がかつて日本人間性心理学会の自主シンポジウムで使わせてもらった以下の映像、


●Ayumi Hamasaki / 2004 interview : Super TV
(YouTube)

本日現在、世界の134,647名様にご覧いただき、ごく若い頃のものを除くと、浜崎あゆみのインタビュー関連投稿の中では、今もトップクラスのアクセス数を維持していることには感謝申し上げます(^^) 英訳とかも、随時、コメントする参加者が私よりもいい訳で勝手に進めて下さっているようで。


●関連記事:

* 浜崎あゆみによる、インタラクティブ・フォーカシングの実例!!
(当サイト)


*****


 おまけで、ayuがまだ若い頃にテレビで歌った他の歌手の持ち歌2つ。



●Ayumi Hamasaki - Raspberry Dream
(YouTube)

 ayuファンの間では、彼女がオーディションとかで結構Rebeccaの曲を歌っていたことは知られているかと思います。確かに若い頃の彼女のイメージとNokkoはどこかかぶるところがあると思う。


●Ayumi Hamasaki - Hold on Me
(YouTube)

 小比類巻かほるというだけで懐かしくなるアラフォー世代(アラファイブだろって? 負けといてくれ!!)のこういちろうですが(一時期アニメの主題歌ずいぶん歌ってくれてたし)、ayuが歌うというのは、小比類巻さんのキーが意外とアルトだから意外性があるともいえるけど、ayuの声で聴いてみたい他の歌手の名前を5人上げろといわれれば、私は含めたかもしれない(^^)

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2009/05/15

「なかのひと」大変動?!

 「なかのひと」で判明する年齢分布に、このゴールデンウィーク明けから大変動が生じました。

Nakanohito_b_081021
↑2008/10/21

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

Ws000000
2009/05/15

 10代後半から20歳ごろにピークがあるという、ayuサイトであるという以外自分でも説明がつかなかった状況が一変、同世代の40代が文字通り中心になったのですね(^^)

 恐らく、今年は私がayuの新ツアー観覧を見送り、新アルバムについてもまだ言及していないということが、ここまで怒涛の変化を生み出しているのかと思います。

もうひとつには、私のサイトの最近の看板が、この記事に代表される「鬱」問題であることが大きく影響しているんだろうかと。

 でも、私のコンテンツって、全体としてみれば、やはりアラフォーの読者層のためのものだと思いますし、これで、いいのだ。

 それにしても、結構硬派の文体のはずなのに、相変わらずのこの女性読者上位はいったい何なんでしょうね???

 日本の女性はいったい何を私に求めているのだ(爆)


↓「フラジール」がなぜここにあるのは、こちらの記事参照。

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2009/05/13

自分を「いいカウンセラー」だと感じさせ、医者を「悪者」にしたくなる誘惑[第3版]

 すでにこのサイトでも何回も言及してまいりましたが、特にうつ傾向のある皆様について、医療機関との係わり合いが本当にかみ合わないまま、薬物療法も真価を上げられないでいる方々が少なくないことを、日々の面接で痛感しています。

 通院中の患者さんでもあるクライエントさんは、お医者様と、短い時間しか接触できず、思っていることのごく一部分だけを、しかもお医者さんに説得力ある形になるとは限らない表現でしか伝えることができないという、果てしのない堂々巡りにに陥っていることが、非常に多いのです。

 開業カウンセラーは、クライエントさんに、お医者さんに何をどう伝えると、そうしたコミュニケーションが円滑に運ぶのかについて、具体的で的確な助言をしていくという役割を積極的に果たすべきというのが私の信念です。

 これについての代表記事が以下の記事であることは、繰り返してご紹介して来ました。


●5分診療の神経科・心療内科の現実といかに対処するか(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)


 実は、このことそのものが、クライエントさんが、お医者さんに限らず、およそ自分と関わる「重要な他者」との関わりの中で生じている悪循環に気がつき、改良していく上で役立つ、認知行動療法ないしABA応用行動分析のミニ・トレーニングとしての性格を秘めているとも思っています。

 つまり、お医者さんとの関わりの改善に役に立てば、次は、家族や友人、同僚や上司との関わりにも、その良好な相互作用様式が、ある程度自然と「汎化」していくことも期待できます。

 薬物療法という「魔法の杖」を携えたお医者さんは、クライエントさんが、家族や同僚や上司や友人や恋人に自分悩みや苦しみをわかってもらえない「鬱憤」と「一発大逆転の切なる希望」を託される存在です。

 多くのクライエントさんにとってお医者さんとの間に生じている、コミュニケーションの「通じなさ」の葛藤は、多くの場合、そのクライエントさんが、職場や家族や友人・恋人との間で体験している、コミュニケーションの「通じなさ」の苦しみが、非常に集約された形で現れている象徴的な場面なのではないかと思います。

 このことを抜きにして、薬物療法か心理療法か、医者かカウンセラーかという二者択一的な議論をしてしまうことは全く不毛であり、むしろ、クライエントさんの状況の改善のためには多くの専門家の支えが多角的に得られるのは望ましいこととみなし、カウンセリングと薬物療法が「相乗効果」を上げるために、カウンセラーサイドから、個々のケースに即して何ができるかを具体的に積み上げることこそが必要と思われてなりません。

 ある特定の人との深い関わりからだけではなく、いろんな立場にある多くの人から、少しずつ、必要なだけの手助けを得られるということ、それこそが、実は自立し、成熟した人間のあり方かと思うのです。

 お医者さんの側に責任を押し付けることも、お医者さんをカウンセリング的なかかわりを不十分にしかしてくれない存在として批判することも、実はクライエントさんへの具体的な援助といえないと確信しています。

*****


 カウンセラーとしての私の前では、凄く素直で、心を開いた対話が成立するなクライエントさんなのに、医者を前にすると、ほんとうに些細な行き違いをきっかけに、通えなくなってしまうクライエントさんが、これまで少なからずおられました。

 私はそれを、医者の側のカウンセリング的感性の不足のためとみなすというのをすでに止めています。

 むしろ、私の前で、そのクライエントさんを「いいクライエント」にしてしまった分だけ、医者の前では「扱いづらい患者」としてふるまうという「リバウンド」を、私のクライエントさんとの関係作りが「生み出して」しまっているのだと判断するようになりました。

 精神分析の人ならば、対象の"split"(分離)という言い方をするかもしれません。しかしこの言い方は、安易に用いられると、クライエントさんの「ボーダーライン的」心性に問題を還元する誘惑を内に秘めている気がします。

 それはたいへんおこがましいことなのではないか? 実は、カウンセラーとしての私の方が、クライエントさんに対して、splitした部分対象=「良き援助者」としてのみ接してしまおうという誘惑に、先に屈していたのではないかということを、きちんと見つめるべきだと思うようになったのです。

 何のことはない、医者の方を悪者にしてしまうように、クライエントさんが医者(家族)ではなくて自分を信頼するように、カウンセラーとしての私の方が、無意識的には「仕向けて」いたのです。

 そのことに気がついて以来、私は、クライエントさんが、医者にも私にも「同じ程度に」信頼と疑念を抱き、しかもそうした疑念や疑問や不平や苦情を、カウンセラーである私に、うまく具体的に表出できるクライエントさんになってもらえるように促す勘所が、ある程度つかめて来たと感じています。

 そもそも、信頼関係とは、相手に不信や疑念をぶつけてもらえる関係のことだと思います。

 このことと関連する形で、私の最近の、ある意味で逆説が過ぎるとも受け取られかねないけれども、今後「代表作」のひとつとして徐々に読者に認めてもらえるはずと、ささやかに自負しているエントリー、


●適度に不安定で健全な不信関係


を、ご再読頂ければ幸いです(^^)


 もっとも、私のスタンスに関係なく、クライエントさんにとって、基本的に「そこそこいい」(good engughな)お医者さんであると認識され続けているお医者さんもおられます。そういうお医者さんには、きっと私も今後まだまだ学ぶべき、治療者としてのあり方があるのだろうと思っています。

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2009/05/12

「ゆとり教育」が人を受け身にする?

コネタマ参加中: 五月病、どうやって乗り切る?

 私に限らず、今どきのカウンセラーの多くは、「5月病」などという言葉を耳にすると、何を今更、その言葉で説明して済ませるのかという思いにかられる人が多いかとは思う。

 しかし、ゴールデン・ウィークを終えて、4月はじめに見定めた目標を喪失し、何となく意欲が落ちているのを感じる皆様は、新入生や新社会人の皆様に限らず、多い季節かと思いますので、あえて旬のネタということで・・・


●「ゆとり世代」成長意欲高いけど…受け身 どう接すべき?(msn=産経)

============リンクが切れてたら===============

今年の新入社員は職場にこまやかなフォローを望むゆとり世代-。人材育成サービスを展開するウィル・シード(東京都渋谷区)が、4月入社の新入社員を対象に実施したアンケートで、こうした傾向が浮かび上がった。

 ◆スキルアップ期待

 この調査は、同社が顧客企業に提供している新入社員研修の受講者のうち1938人を対象に3月末から4月中旬にかけて実施した。

 それによると、会社に期待することの質問では「自分の能力の向上機会」がダントツで57.5%(複数回答)の人がこの答えを選んだ。次いで多いのが「適正な評価」で30.1%だった。また、上司・先輩に望む指導スタイルを二者択一で聞いたところ、「細かい指導をしてくれる」が65%で、「任せてくれる」の35%を圧倒。「こまめに声かけしてくれる」も63%と、「話しかけたときに対応してくれる」の37%を大きく上回った。

 ◆人間関係に不安

 仕事をしていく上で不安に感じていることは、「上司・先輩との人間関係」が53.1%(複数回答)と最多で、以下、「専門知識・スキルが足りない」(41.6%)、「求められる職務への適性があるか」(28.8%)、「失敗してしまわないか」(20.0%)と続いた。自分が一人前になれると思う期間は「1~3年以下」との答えが41.0%を占めた。

 ウィル・シードはこの結果から、今年の新入社員の大きな傾向として、「成長意欲が高い一方で、“受け身”“様子見”の姿勢が強く表れると予測される」と分析。第2土曜日が休みとなった1992年前後に小学校に入り、「ゆとり教育」を受けてきた世代の特性と断言してしまうことはできないが、入社時に抱いたイメージと、現実の職場が乖離(かいり)していると不平・不満を抱くことが想定されるとしている。

 □ 上司が接する時間作ろう ウィル・シード 池谷聡氏

 成長意欲は高いものの、受け身の姿勢が目立つ「ゆとり世代」の新入社員。職場の上司・先輩はどう接すべきか、ウィル・シードで社員研修プログラムの開発を担当している池谷聡(ただし)・人財育成カンパニー副カンパニー長に聞いた。(原誠)

 ◆独自の発想伸ばす

 ――「ゆとり世代」とは

 「昨年の新入社員が小学校に入った年に日本のゆとり教育に大きな転換が起きた。それまではスパルタ式も含めて何度も繰り返し訓練する反復学習で土台を作り、その上に応用をのせるという教育方針だったのが、個性を重視し、子供が興味を持つことや独自な発想をコーチング的に伸ばしてやる方向に変わった。私たちはその年の前後に小学生になった世代を『ゆとり世代』と定義している」

 ――「ゆとり世代」の特質は

 「『主体的な受け身』と表現できる。ゆとり教育は結果的に、学校がテーマを与え、その中から選ばせる形になったので、自ら何かを手に入れるという経験がないままに育った。勉強でも何でも一生懸命に取り組むのだが、テーマを与えられないと動きだせない。ものが豊富にあり、一人部屋も与えられて育ったという社会的背景も影響。他人とコミュニケーションして人間関係を築きあげていくことが苦手だ」

 「携帯電話の登場で、電話でも知っている人とだけ話をすればいいようになった。小学校から大学まで限られたコミュニティーの相手とだけコミュニケーションしてきたので、相手の立場を考えようとせず、自分の伝えたいことは他人に簡単に伝わると思っている」

 ◆仕事以外の話も

 ――上司はどう対応すべきか

 「昔のように『背中を見てついて来い』というのは難しい。新入社員ときちんと接する時間を定期的に設けて信頼関係を築くことが大事だ。実際には企業の現場では、上司が忙しさにかまけて、新入社員との話し合いを後回しにしがちだ。ゆとり世代は、忙しそうにしている上司や先輩に異常に気を使うので相談することが苦手だ。ところが、上司は『なぜ相談しない』と思ってしまう。家族のことなど仕事以外の話もして、信頼関係を築いた上で、だめなことはだめとはっきり言うべきだ」

【会社概要】ウィル・シード

 2000年7月に創業。企業向け人材開発・教育プログラムと学校向け体感型教育プログラムの開発・提供が2本柱。企業向けは大企業を中心に約350社に提供しており、毎年、延べ約2万人の新入社員を研修している。社長は船橋力氏。資本金は1000万円。


============引用おわリ===============


 「ゆとり教育」というのは、本来、

1.ひとりひとりが主体的な問題意識を持ち、
2.自分から、様々な機会や人間関係のチャンネルを切り開いて、
3.焦りに振り回されすに、じっくりと多角的に、自分なりの見地を築き、多様な問題解決方法論やスキルを獲得する

ためのものだったと私は理解している。

 しかし、現実には、ここで説かれているように、テーマを人から与えてもらえないと能動的には動けない人間を生み出してしまったとすれば、いささかさびしいというしかない。ほんとうは、自分で自分をコーチングできる人間が育たないとならないのである。

 ただ、次のことは言いたい。

 人間、「あなたの好きなようにやっていいんだよ」だとか、「やりたいことをやりなさい」とだけ言われてしまうと、むしろ「突き放された」、それどころか「放置された」「見捨てられた」と感じて不安になり、途方にくれてしまうものである。

 特にこれは、まだ自分が社会でどのように通用するか見当もつかず、大人社会への参入が承認されるかどうかにビクビクしている若い世代においては、なお一層見られることだと思う。

 先行世代に求められているのは、「関心を持ちつつも見守ってくれている」ということが具体的に伝わってくるような「聴き手」のあり方のように思う。

 そうした聴き方においては、単に「うん、うん」とうなづくだけではなく、かなり具体的に話を引き出そうとするような積極的な関与が必要であろう。

 ただし、そうやって積極的に「訊(き)き出そう」とする過程で、聴き手が当然すでに知っていると思っていることを先取りして具体的に問い質(ただ)されると、自分の無知に萎縮したり、プライドが傷つけられたと感じやすい。

 たとえば、福祉の仕事に就きたいという高校生に、「介護福祉士」「精神保健福祉士」「社会福祉士(ソーシャルワーカー)」の中のどれになりたいの? などという質問を性急にかつ不用意に浴びせようものなら、まるでカタツムリの目玉をつついて、角を引っ込めるどころか、殻の中に胴体全体を引っ込める引き金になりかねない。

そのくらいに、若い人とは、それこそ、"fragile"なものである。

 しかし、

♪引っ込めながらも考えた
♪何の負けるか今に見ろ
♪大きくなって皆のため
♪お役に立って 見せまする 見せまする

・・・・と、この「お山の杉の子」という歌が作られた、戦後の焼け跡時代と同じような「背伸びしてでも何かをやってやる」という、いい意味でのど根性は、先行世代が、単に「背中を見せる」にとどまらない形で、今の不況の世にあっても、決して保身にだけは走らない形で、「先輩」としての前向きな生き様をさらし、更に、後につつく世代を、「同志」として、前向きに真摯に扱う中で、はじめて伝えられていくとは信じたい私ではある。

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Every Little Thingの"Graceful World"と"fragile"

 王子のきつねさんが、Every Little Thingについてかなり以前にお書きの論考3本を再度紹介されています。みんな力作です。

●Every Little Thing(ELT)三部作(王子のきつねOnLine)

 その記事に対するコメントとして私が投稿したものを、若干省略の上でご紹介:


============引用はじめ===========


 ELTについては、初の海外旅行だったハワイに行った時、機内のポピュラーチャンネルに偶然遭遇した"Graceful World"が出会いだったことは、自分のブログでも書いたことがあります。

 歌詞と共に、途中でマイナーになるあたりのベースの音の進行に新しさを感じて、それを聴きなおしたいばかりに、時差ぼけがいよいよひどくなるのを承知で眠らないまま1時間ほどで番組が繰り返されるのを待ち構えていました(^^)

 でも、この曲、ELTのシングルの中でもそんなにヒットした方でhないし、PVのラストも何か意味シンになっていて、歌詞の内容と意識的に矛盾するものにしている。

 あとでELTの曲をさらうううちに気がついたのは、少なくともこの頃のもっちんは、こういう「自分探し」系の歌詞を、しかもここまで高らかに書くことは、ちょっと珍しい時期に突入していたのではないかと。

 メンバーから五十嵐さんが抜けた直後の、ひとつの試行錯誤過程なのか、それともドラマのタイアップを意識しての意に沿わない歌詞になってしまったのかとも思います。

 もっちんの唄う表情も冷たいままで。

 ただ、この曲の、

Fulfill your Dreams この先にどんな試練が待ち受けていようとも
目を背けずにいて欲しい 幸せはほら目の前にある

という部分に、私は「万感の思い」を賭けて、その後の自分の激動の人生(?)に乗り出したというのも確か。

 そういうあり方が、悲劇や犠牲を伴わないわけがない・・・・というあたりまで「見越した」PVだったとしたら、予想外に深みがあったということなのかもと、思っております(^^)

●Graceful World PV(六间房视频 6.cn)

(中略)

 "fragile"は名曲ですねえ(^^)

「傷つきやすさ」と訳せるタイトルに響きもいいし。

ちなみに、自分のサイトでついおととい書きましたけど、自閉症と深く関係することが判明した遺伝子の中に、

"fragile X"

と名づけられたものがあると知りました(^^)

こちらを参照:

●第12回 乳幼児てんかん研究会国際シンポジウム 1日めの報告

 この遺伝子があると、ニューロンの間の神経伝達物質の興奮と抑制のバランスが壊れやすいそうです。

 それが、その人を「過覚醒(hyperarousal)」状態にしてしまう。つまり、内的な刺激・外的な刺激を普通の人の何十倍もの強度で体験する。

 新鮮な、不意打ちの体験がみんな耐え難いパニックになるので、毎日、同じ生活習慣を頑固に変えられなくなる(常同行動といいます)あたりは、映画「レインマン」で、トム・クルーズが、重度自閉症の、ダスティン・ホフマン演じる兄の好きなテレビ番組を、毎日大陸横断のドライブ中に見せるのにどれだけ苦労したかのエピソードでもおなじみです。

レインマン (アルティメット・エディション) [DVD]


 こうなると、人は環境や他者との接触から引きこもるわけですね。「鈍感」だからではなく、不均衡に「敏感に過ぎる」神経を生まれ持ってしまっているがゆえに。

 これが、世間一般でいう「傷つきやすさ」などとは超異次元の、いかに凄い心の世界かは、自閉症についての専門書を読んでいただくもらうしかありませんが。


===========引用終わり=============


●fragile PV(YouTube)


↓「フラジール」って、女性ブランドだと知人に聞いたので、柄にもなくですが、思わず追加(^^;)

CDやiPodの音楽を楽しめるコンパクトオーディオ【送料無料】amadana(アマダナ)デスクトップオーディオ2

↑音は聴いていません。でも、iPodオーディオ系の商品の中で、デザインセンスがしっかりしていて、女性にも向いているなと思ったので。このamadanaブランドは、デザインセンスが興味深い。
SAL pocket video camera
↑つい最近、携帯ビデオカメラ(ビデオカム)として、こんなコンパクトでキュートな商品も出しました("SAL" 今のところ直販のみ)。

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「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、5月は17日(日)開催です。

 以前の告知に少しだけ手を入れて再掲いたします(^^)

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回は、通常より1週遅れて、5/17(日)に開催します。

兵庫県淡路市でのフォーカシング国際会議(5/12-16)、残念ながら私は今回参加できませんが、スタッフの準備の皆様の、ただならぬご尽力は、準備委員会のメーリングリストを通して、陰ながら応援申し上げておりました。ご盛会を心からお祈り申し上げております。


(ここからは、会議の準備を最後までお手伝いできず、参加も見送るしかなかった私からの、フォーカシング・ピープルへの最大限の、ウィットを込めたエールと思ってお読みください!!)  


 残念ながらこの会議に参加できなかった皆様、この「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」があります!!

 いや、これを期に、世界のフォーカシング・ピープルの皆様、フォーカシング国際会議のアフター・オプショナル・ツアーとしてどうぞ。

成田・関空から久留米へのアクセスについては、なぜかこちらにむやみと詳しい英語解説があります(^^;)

 なお、JR新神戸駅から博多駅のアクセスについては、省略させていただきますことをお許しください。

 以上、久留米大学から徒歩10分久留米フォーカシング・カウンセリングルームより(^^)

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