クラシック音楽

2009/07/04

宮崎哲弥氏、久留米に「たがみ書店」や「リズムレコード」がなくなったことを嘆く

 さて、先日の記事でご紹介した、久留米青年会議所主催の、久留米出身の評論家、宮崎哲弥氏の講演会(正確にはパネルディスカッションと対談)、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」、面白かったので、早速速報を書きましょう。

 会場となった久留米のホテルの大広間は、開始30分前の段階でほとんど満席、主催者発表で660名。

 おおおおーっ、日本心理臨床学会大会でもここまで早々に人が集まってる催しはそんなにはないぞ!! 

 いくら青年会議所とそのバックボーンにある商工会議所の動員力、そして宮崎氏に知名度があるとはいえ、福岡県南部最大の30万都市、久留米のパワーをこれだけ実感できたことは、帰郷してほぼ1年の間にはじめてのこと。早めに整理券予約をしておいてほんとうによかった!!

 宮崎さんは、久留米で生まれ、予備校時代までを久留米で育っている。私と2つ違いの方である。これまでも久留米での講演依頼もあったとのことだが、実際に引き受けたのは今回がはじめてとのこと。

 宮崎さんがマスコミの表舞台に登場したのは、オウム事件における若者心理について意見を求められることがきっかけだが、あの上祐氏も宮崎氏と同い年、今では久留米市に編入された地域の生まれである。


 「最近は政治や経済の評論家とみられてしまうことが多くなったけれども、もともとは若者文化問題や宗教問題から出発した存在に過ぎないので」ということをまず最初に前置きされた上で、司会者に促されて、話は「地方分権」問題へとまずは向かいました。


 「東国原知事や橋下知事、全国知事会の発言や提言で、地方分権問題に関心が集まるきっかけとなることはいいことだが、今度の総選挙の争点として見た場合、果たして『地方分権』問題が一大論点とすべき事柄なのであろうか?

 まず優先すべきなのは、日本全体の景気底上げ対策であり、それが一定の効果を示さないうちに、単に地方に『権限』と『財源』の委譲を、今、行うだけでは、地域間の格差がひたすら広がるだけになる。地方分権そのものはこれから推進されていくのがふさわしいし、実際勧めていく潮流は動かないであろうにしても」


(司会者:国のそうした政策を単に待っているのではなく、地方の側からできることは何かないでしょうか?)


 「いったん景気の底上げがなされた後、それをどのように維持し、展開させるかは各地方の自己責任ということになるだろう。

 『内需拡大』という言葉がよく使われるけれども、地域内部における『内需拡大』のサイクル、つまり、その地域内での需要に応える形で、その地域で生産し、その地域で消費活動をするという良循環のサイクルが拡大・成長する必要がある。

 そのことが成立するためには、「ここ」にしかない魅力、言い換えれば、「ここ」に住まないと得られない「唯一性」のようなものが、住民に魅力として感じられる必要がある。

 久留米もそうした地域自立性の高い経済圏として長年発展してきた歴史を背負っているはず。父祖から受け継いだそうした地域固有のアイデンディディをどのように展開していくかが肝心だろう」


*****


 話題はここで一度地域経済の問題を離れ、教育問題に転じることとなる。


今の時代ほど、世代ごとの情報環境が劇的な格差と隔絶を持つ時代は、かつてなかったと思う。

 私の久留米での中高生時代は、ちょうど、テレビゲームが、ゲーセンから家庭内ゲーム機へと一気に転換する時期と重なった。

 次の世代は、インターネットに接続されたパソコンによるコミュニケーションを身につけているという意味で、上の世代とは大きくコミュニケーション様式が異なっている。

 更に次の世代は、今度はケータイ文化という、大人から見るといよいよわからないコミュニケーション様式を備えている。

 これほどのコミュニケーション様式の世代感の隔絶は、人類史上かつてない次元のものなのではないか。

 この結果、家庭内の価値観伝達機能はほとんど機能しなくなってしまう危機に瀕している。

 以前ならば親の背中から学ぶ、ということがまだしも通用した。親と子の「個体間接触」から子供は学んだ。そして本やテレビを通して、親からの価値観とは異なるものを学んでいた。

 しかし現在の若者は、遠隔地のネット上の匿名の他者という、個としての存在がたいへんあやふやな存在に、あたかも身近な他者であるかのように依存しながら価値観を形成していく。

 単に背中を見せるだけの親など、価値伝達機能を果たす上では、存在しないのも同然なのである。

 これは子供との関係に限らない。自分から言葉でコミュニケーションをとろうとしなければ、相手にとって自分は存在しないも同然で、自分からどんどん離れていくことになりかねない、そんな時代なのではなかろうか」


 司会者から、倫理や道徳の問題について振られて、


 「『天知る、人知る、我知る』という言葉かある、『天』とは、お天道さまが見ているそ、ということで、『人』とは地域社会の目のこと。しかし私は、『人が止めるから駄目だ』だけでは今の時代不十分なのだと思う。『そういうことをやっていて、おまえ自身が恥ずかしくないか』という個人倫理の形成が大事ではないか。個人倫理の形成は、個人としての自我形成と表裏一体のもののはずである。


 司会者から、現在の私たちの知識が情報の渦に巻き込まれている点について問われて、


マスメディアであろうと、ネットでの口コミであろうと、それを鵜呑みにしないことがまずは大事なのではないか。まずは疑ってかかること。この、疑ってかかる力が、今、弱まっている気がする。

 まずは自分の常識と照合すること。実体験と照合すること。今の時代、情報の渦の中で、何が実体験なのかわからなくなっているは確かだが、たとえ自分の判断がいろんな常識に毒されているとしても、人はそれを基に『健全な懐疑』をしていくしかないのだと思う。

 新聞に書かれていることであろうと、たとえ信頼できる親友が語ることであろうと、『何かこの話はおかしくはないか?』と違和感を感じたら、心の中でいじくりまわしてみることだ。

 多くの詐欺や悪徳商法の勧誘とは、そうした身近な人間への信頼感につけ込むものであることを思い出してみてもいいかもしれない。そのような、親しい間柄での対面的な人間関係ですら、自分で吟味していく必要があるのだ。

 そうした積み重ねが、個人として強くなる自我形成なのだと思う」


 ・・・・・この部分なんて、私も、激しく同意!! の域ですね(^^)


*****


 ここから休憩を挟んで第2部、「久留米の地域、そして可能性」に入ります。

 司会者から、まずは、久留米の明治通りを中心とする旧市街地のさびれようについての言及がありました。

 この件については、私も、


●にほんじんは、せんそうのしかたをしらない?


・・・・・という、見かけ上物騒なタイトル(?)の記事で詳しく触れました。

 久留米市の商業的中心は、かつては一面の水田とレンコン堀だった、合川地区の「ゆめタウン久留米」を中心とする、高速道路のインターチェンジ近くの、ショッピングモールの一群に、この30年の間に、見事に奪われているわけですね。

 こうした前提を聴衆がみんなわかっているという前提で、以下の部分をお読みください。


「私は高校時代まで、たがみ書店リズムレコード(共に明治通りに並行して今も存在する久留米最大のアーケード街、「久留米一番街」を代表する、久留米最大の書店とレコード店だった)に足繁く通っていましたが、もう今はないんですね。


 リズムレコードって、奥に扉で仕切られた、色々試聴できるクラシックコーナーがありましてね。私はそこに足繁く通って、店長にクラシック音楽の手ほどきを受けたんです」


 ・・・・・わ、私も同じです・・・・・

 きっと、2歳違いの私も、宮崎さんを宮崎さんと気がつかないまま、同じ店内で何回も遭遇しているはず・・・・


 「先ほども言いましたけど、まさにたがみ書店やリズムレコードには、この久留米にしかない固有の文化というものがあったと思う。そういう、他にはない、「ここ」にしかない、豊穣な経験の場となることが必要なのだと思います。

 ところが、今、地方で進んでいるのは、全国どこにでもあるような、メガ・ショッピングセンターができることなんですね。

 もちろん、コンビニ文化にもインフラとしての意味があります。どこに行ってもほぼ同じ品揃えの商品が手に入るということの。

 でもそれだけだったとしたら、なぜ『この』地域に住まうのか? という『唯一的なもの』がないままなんです。

 久留米に生まれ、成長し、死ぬことの意味と魅力が大事。そのためには、久留米の中で生産したものを久留米にいて消費することに意味を感じられないと。

 地方都市を単に「ミニ東京」化することばかりが進んで行っては、この町で生きていくことの意味がわからなくなる。そして、例えば福岡(市)に需要を奪われるばかりということになるわけですね。
 
 結局、『制度的な』地方分権ばかりではなく、『マインドの』地方分権こそが本質なのだと思います。

 最近、プロ野球の球団も地域が応援するという方向が強まっています。若者音楽の分野でも、ミュージシャンが、有名になって、ヒットチャートに乗る様になっても、自分の拠点となる出身地域から離れないまま活動を続けるというケースが増えています。ヒップホップグループにも、「この町」を大事にするメッセージを発信し続けながら全国区になることが生じている。

 そうやって、自分の生まれ育った街から離れたがらない若い人たちが増えてきた。そういう若い子たちの後押しを地域がしていくことが大事で、そうした意味で地域の青年会議所の果たす『黒子』としての役割は大切だと思います。

 こうしたことをしていくためには、単なる利潤追求の市場経済原理のどこかで対抗していく必要も出てくるはず。でも、それこそが『地方主権』ということだと思う。

 そうでなければ楽しくない。この町にいて『楽しい』と思えるかどうか。主人公は一般の久留米市民なんだと思う。

 久留米で生まれたのが必然で、久留米で死ぬのが必然であると市民が自然に感じられるような地域づくりになることでしょう。私も、引退したら久留米で死にたいと思うかもしれませんので、その時は不肖の息子をどうか迎えてくだされば」


・・・・・・久留米に30年ぶりに舞い戻った私の心に響く締めくくりでした。

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2009/06/25

アニメで男女の普通の悲恋物語を描けるのは押井さんだけか? -人狼-

 このDVDに関しては、実は何年か前に購入していながら、封を切らないでいた。ちょうどいいタイミングなので、やっと観てみる気になった。

人狼 JIN-ROH [Blu-ray]


 もっとも、この映画においては、押井さんは、原作と脚本のみである。しかし、押井さんといつも仕事をしてきたスタッフたちの手により、実に見事に押井ワールドが構築されている。ある意味で、「総合的なバランスのよさ」という点では、押井作品の中でも出色の完成度といっていいのではなかろうか。

 もっとも、ある独特のいびつさ、バロック的ともマニエリズムといいたくなる側面というのも、彼の作品の独特の魅力なのだが・・・・ベートーヴェンだって、作品としては無茶苦茶にいびつであり、作品発表直後は批評家に叩かれまくったものだ。

 そして、ベートーヴェンが、ピアノの性能向上をはじめとする最先端の楽器をいち早く採用し、それまでの古い楽器では描き切れないものを無理やり楽譜に詰め込んだのと同様に、押井さんの作品には、最先端のアニメ技術を予算的に可能な範囲で、まるで「船の甲板の板まで引っ剥がして薪にくべるようにつぎ込む(精神科医、中井久夫先生が自著、「西欧精神医学背景史」について「あと書き」で語った表現)」ために生じる、画面として観た際に生じる独特の不整合感・・・・旧手法と新手法の「きしみ」のようなものがひっかかりを残すのも、やむを得ない。

 押井さんの作品が古典になった時、こうした面をどうこういう批評はもはやあまりなされなくなっていくはずである・・・・まさに、ベートーヴェンのごとく。


*****


 公開されたのは、"GHOST IN THE SHELL"(1995)の後の時期にあたる2000年である。この公開年から考えれば、CGを全くに近く使わず、セルアニメの手法のみで、しかもここまで贅沢に豊穣に描き切った、その画面の醸し出す雰囲気は、作品世界の、昭和30年代後半のパラレルワールドのレトロな空気とも見事にマッチして、何とも贅沢な映像体験をさせてもらっているという思いを強くする。なかなか、ここまで、セル動画や背景画に一切の手抜きなしの均質性というのは、現実には体験したことがない。

 物語世界については、結局、国の警察機関内部とセクトとの間での人間関係に閉ざされおり、そうした組織の論理が前面に打ち出されているため、それだけで「作品世界が閉じている」云々と言い出して、この映画に入れないという人も結構あるのだろうと想像する。しかし、そのことだけで、この映画を「作家性優先」だとか「オナニー映画」などと言い出す人は、どんなものかなあ・・・・と、率直に言って、思う。性急に「自分の願望」を満たしてくれない映画を単に「気に入らない」というだけならばともかく。

 この作品世界にほとんど相似の現実は、第3世界にいかに満ち溢れていることだろう。自爆テロ、どこまでが一般市民でどこまでがテロリストかわからない世界、一国の中で警察や軍事機構が複雑な構造を持ち、互いに権力争いしている世界・・・・・実は「ありふれた」現実ではないか。

 押井氏は、自らの学生運動体験(その中での恋愛体験?)へのオマージュをも込めながら、そうした世界の現実を、パラレルワールドの日本に招聘し、観客の目に突きつけただけだとすらいえる。

 そして、何らかの意味で組織や団体やグループに加入しているもの同士が出会う時、まさにここで繰り広げられているようなことが生じているのだ。これは我々が幼稚園や小学校時代から積み上げてきた、社会との軋轢の歴史である。組織の論理に憑依される人々。構成員の間の内部闘争、建前と本音、権謀術数、「社会正義のための(ヒューマンな)」組織の内部ですら進行する冷酷な非人間性と闇、裏切りや嘘。秘められた恋と、それを不条理な思いを抱きつつも断ち切る(断ち切られる)ようなことは、人生の中で少なからぬ人が身近に遭遇してきた現実のはず。武器や殺人がなく、主人公のように無敵のスペシャリストではないというだけのことであろう。

 そのことを思う時、この映画は、辛口だが、何とまっとうな、男と女の出会いと別れの物語ではないかと思う。それを描くのに、ヌードシーンはワン・シーンも不要なのだ。

 これだけ、「ごく普通の」大人の感受性を維持した「成熟した」アニメ映像作家が、日本のどこにいるだろう?

 (そういう人を知らないだけかもしれないが。・・・・・敢えて言う、宮崎さんだとは、私には思えない。宮崎さんは、社会的要請によって、必死に「大人の代表」を演じなければならなくなった、絶えず「背伸び」を強いられてきた、「永遠の少年」のように感じられて仕方がないのだ。押井さんの方が、「等身大」のままでいられている。「だから」ジブリに後継者が育たないのだ! 押井さんの方が、この作品の監督の沖浦さんをはじめとして、結果的に、後進を順調に育てているように見える。そうした人たちは単なる押井さんの劣化コピーにはならないないだろう)

 押井さんより9歳年下だが、昭和35年生まれであるおかげで、この作品の中で描かれている風景が、幼児期の「テレビを介さない」記憶として残っている世代として。

 押井さんだって、このくらい「普通の」脚本を書く時は書くのである。

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2009/06/21

「ツレがうつになりまして。」原作も読みました。

 私としては自分から進んで買ってまで読むつもりはなかったが、たまたまうちを訪れた親父が、恐らくNHKのドラマ(私の感想はこちら)を見て原作を買って読んだ上でと思うが、私の住処に置いて行っていたので、正編・続編とも、一気に読めてしまった(^^;)

 原作のメインのストーリーの大半は、ドラマ版で、十分な肉付けの上で語りつくされていると感じた。風吹ジュンの演じた女医さんは、ドラマのオリジナル・キャラみたいですね。

 視聴者によっては、単純な漫画の線だから耐えられたのに、実写ドラマでリアルに演技されると、自分が鬱だった時の体験が蘇って辛かったという感想もお持ちの方があったようですね。

 ただ、私が鬱患者の立場から見た場合、ドラマ版が原作よりも秀でている点がある。それは、原作では、鬱の患者さん自身が読んだら、うつのツレさんと言葉を交わすテンさんの一つ一つのコトバが、無神経に刺さるような性質をかなり秘めていたように思える。そうした面はドラマ版では払拭されているということだ。

 この点で別に原作者を責めるつもりまではない。原作の「続編」の方になると、そういう「鬱の読者自身に無神経に刺さりかねない」側面が、きれいに感じられなくなっている。これは「正編」を出版して読者の反響を得てみて、はじめて気が付ける性質のものだったろうと想像できるので。


*****


 原作を読んではじめて、ツレさんが、クラシック音楽で特にでロシアものファンであり、私と同じようにヘッドフォンで細かく音楽を聴くタイプだったことを知った。

 こうした音楽すら聴く気になれなくる時期が、実際、ツレさんにとって一番うつが酷かった時期と重なるのだが、確かに、鬱がひどくなると、最後には自分が一番好きだったものすら楽しめなくなるものである。「音楽好き」だった人にとってはむしろ音楽は耐え難くすらなる時期があっても何もおかしくない。

 私も、そうした時期は巧妙に音楽ジャンルを乗り換えたり、結構音楽を遠のけて過ごしたりしてきたように思える。

 私にとっても、音楽というのは「能動的に聴く」もののようで、BGM的な「ながら聴き」は基本的には苦手なようだ。

 この半年ぐらいの間に気が付いたのは、今の私の場合、「音楽」よりも「映像」の方が遥かに癒されるということだった。ことに、「映画作品」というのは古今東西、ジャンル無関係な形で、音楽の場合ほどにも対象を選ぶことなく、スーッと作品世界に入り込んで味わえるようであり、いったん作品世界に入り込んでしまえば、その直前まで感じていた神経の高ぶりや疲れも吹っ飛んで、ただただ身を委ねて癒されてしまえるようである。

 たとえ、アクションでもミステリーでもホラーでも、重厚歴史モノでも、なーーーんでも「癒し」なのだということに。

 一番無理なく自然に、脳内のセロトニンが増え、「海馬が潤いを取り戻す(?)」気がしてならない。

 (私の場合、ジャンル無関係に「セロトニン」増加優位のようで、「アドレナリン」や「ドーパミン」分泌ではないのである。私とはそれだけ「映像の中に、リアル現実の日常に身を浸すのと同じようにどっぷり淫する」タイプなのだと思う。これって、実写映画とアニメ映画に基本的な差異を認めない、押井守さんの作風との一致度が高くて当然というべきか?)

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2009/06/17

睡眠障害の女子高生、ひとみのケース -劇場版「エスカフローネ」-

いつも眠いの。

私、ヘンかな?
どうしてるかな?
何か疲れてるのかな・・・・

みんな元気だよね。
私はダメだよ。
だから眠るの。

眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。

私が消えても、
何も変わらない。

 その少女は、授業をサボって、屋上で横たわり、放心していた。

 ただ放心していたのではない。

 その少女の傍らには、親友に宛てた一通の手紙。

「私 死にます。
 さようなら。

     ひとみ」

 その手紙の傍らには、脱いだ靴まできちんと揃えられて置かれているではないか!

 

神崎ひとみは、死に切れなかったのだ!!

****

 その手紙を発見した友人は、

「そんなやり方で死なないでよ。
友だちとして恥ずかしいから」

 ひとみは、やや自嘲的に、言葉を返す。

「死なないわ。
生きてるよ。
このまま歳取って、
ばーちゃんになって、
死ぬ時が来るまでは生きてるよ」

友だちは、それにもめげずに提案する。

「明日街に行く約束したの、覚えてるよね?
 行こうよ! ひとみ!」

 この子だって、ひとみの「遺書」にぎょっとし、心配しなかったわけでもないだろう。

 ただ、ひとみの身になって、ひとみの目線に立って、ひとみの悩みを受け止めることはしんどかったので、こういう軽い受け流し方をしただけのことだ。

 彼女にとっては、まったりと続く「大いなる日常」の中で、自分と一緒に、ひとみの気持ちが「何となく」癒され、紛らわされていくことに期待をつなぐことしかできなかったのだろう。


******

 だが、二人が街で、一見無邪気に楽しいひと時を過ごした後、友人がひとみに、マジに心配する言葉をかけた時、ついに二人の間に亀裂が生じる。

「私マネージャーだし、ひとみが辞めちゃっとこと、顧問の先生にどう伝えたらいいの?」

・・・・・などと、あたかもマネージャーとしての自分の都合を優先するかのようにして、ひとみに言葉をかけたのが、彼女の最大のミスである(^^;)

(これじゃ、ただでさえ人を払いのけたい心境のひとみにとって、自分が思いやってもらっているとはいよいよ感じようがないの!!)

 ひとみは一気に払いのける。

「いいよ、私のことなんか。
 鬱陶(うっとう)しいよ。
放っといてよ! 私のこと!

いやなヤツ!」

 友人は、

「そっか、私、寄るところがあるから。
 じゃ、明日、学校でね!」

と、そそくさと立ち去るのみ。

(だーかーら、そういう返事そのものが、ひとみを更に傷つけ、疎外するのだよ)

 ひとみは更につぶやき続ける:

いやなヤツ。
消えちゃえよ!
いやなヤツ。

友だちを傷つける、
いやなヤツ。

だから私を・・・・
(消してしまいたい)

 ここで、セリフの意味が、巧妙にすり替わっていく。 

 

恐らく、ひとみは、単に友だちに傷つけられたと感じていたのではないのだ。

 同時に、友だちを傷つけた自分が「いやなヤツ」だとも感じている。

 そういう形でしか存在し得ない、人との関わり全体が「鬱陶しく」なり、この世から自分が消えてしまえればと感じているのだろう。

*****

 この、過眠に陥った、すでに十分に欝への道をまっさかさまに進んでいる女子高校生、ひとみの前に、突如、異世界からの召喚がかかる。

「そう、消え去ればいい。

 悲しきこの世界を、
 すべてを消し去る」

 この声の主、フォルケンは、異世界、ガイアにおいて、ある王国の長兄だった。しかし、占いによって王位継承権は義弟のバァンに定められた。

 そのことに怒り狂ったフォルケンは、父母を殺し、宮殿を、王国を破壊し尽くし、今や巨大な空中要塞から、ガイアのすべての国を隷属させようとしている「黒竜族」の首領である。

 フォルケンは、自分のすべての悲しみを自分が王位継承者になれなかったことに起因すると感じており、かつて一度ガイア全体を破壊し尽くした伝説の「鎧」、エスカフローネを復活させて、自分もろともガイア全体を消し去ることを唯一の望みとして生きている男である。

 そして、エスカフローネをガイアに覚醒させるのに必要な触媒、「翼の神」が、こうしたフォルケンの心情にシンクロする潜在力を持ち、自分の世界から「消えてしまいたい」とも念じていた、ひとみだったのだった。

*****

 こういう登場人物が作品に登場すると、

「そんなに絶望しているのなら、周囲を巻き添えになんかせずに自殺したらいいのに」

と感じ、感情移入しにくいと感じる皆さんが必ず少なからずいるかと思う。

 このことの謎を解く鍵は、フォルケンとシンクロしているひとみの側が、すでにつぶやいている。もう一度紹介:

眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。

私が消えても、
何も変わらない。

 このことそのものが、すでに空しいのである。

 

だから、周囲の人を、誰彼となく、巻き添えにする。

 こうして、さまざまな無差別殺傷事件のことを連想することにもなるが・・・

(ちなみに、このフォルケンに蹂躙された民は、「アバハラキ」と呼ばれている。当然「秋葉原」のアナグラムであろう。そこに深い意図はなかったろうし、この映画は2000年に製作されたものであるが・・・・)

******

  ここでこうして紹介してきたのは、2000年に公開された、劇場版アニメーション、"Escaflowne"の最初の方のシーンである。

 この劇場版制作の元になったTVシリーズアニメ、「天空のエスカフローネ」(1996)は、「人魚の森」を例外とすると、今までのところ、私が最後に通して観たテレビアニメである。

 このアニメについては、テーマソング、「約束はいらない」を中心として、このブログでもすでに以前にもご紹介したことがある。

↓名オープニングと思ってるから、再度掲載。HQ再生だと画質十分にいいですよ(^^)。
●天空のエスカフローネ OP(YouTube)

 世は「エヴァンゲリオン」テレビシリーズ放映終了直後、「エヴァ」ブーム沸騰の最中だった。

 そうした中で、この作品は、シリーズ構成:河森正治(マクロス)、キャラクターデザイン:結城信輝(ファイブスター物語)、音楽に菅野よう子、溝口肇、BGM演奏はワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団、その他の強力布陣を最大限に生かし、固有の美学と味わい・・・・流麗さと気品と清澄さとオープンな空気・・・・を持った作品として、忘れられない記憶になっている。

 日本でに留まらず、ヨーロッパをはじめとする海外での放送で、狭い意味でのアニメファン層を超えてたいへんな人気が出て、TV放映ジャパ二メーションへの欧米社会での評価全体を当時再興したというのも、頷ける気がする、

 感性がいい意味でユニバーサルで、批評家やマニア層にだけ受けるタイプではないのね、この作品。対象年齢層も幅広く、しかし、何か、ただそれだけではない"something"で魅惑する。

 この作品のような清澄でさわらかな空気の広がりとスケールと上品な風格をもち、夢とファンタジーのある作品が、今もテレビの幅広い層が見られる時間帯に放映されているといいんだけどね・・・・

****

 TVシリーズから数年を経て、劇場版が作られたということについては、アニメからほぼ離れていた数年間全く知らず、昨年ごろ、YouTubeを通して知った。

今販売してるのはブルー・レイだけ?

●劇場版エスカフローネ ファーストシーン(YouTube)

↑この冒頭シーンだけでも、TVシリーズに比べると遥かにハードな空気が漂い、いつか全編見てみたいと思っていた。

 私はこの数年、ともかく自分からはアニメを自分から進んではあまり観たくない心境になっていた。「エヴァンゲリオン」で単行本まで出して、コミットし過ぎ、距離を置きたくなっていたということも大きい。

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

 そうした中で、いきなりのDVD購入で、圧倒的に賛辞を惜しまない心境に達したのか「時をかける少女」だったこともすでに記事にしたことがある。

(同じ細田守監督のこの夏封切りの劇場アニメ、「サマーウォーズ」は観ると思います。劇場用特報(60秒の。予告編ではなく)で、田舎を舞台にした映像に、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」を華麗にフューチャーしたミス・マッチの妙だけで、本編で使うのかどうかわかんないけど、センス的に、もうたまんないねえ!!)

 先日、ふと、そろそろ少しだけ、再びアニメ「解禁」していいのではないかとも感じた。

 まず、観ようと思ったのが、「エスカフローネ」だったわけです。この作品なら、重厚過ぎもしないし、巨匠然ともしておらず、マニアックに過ぎない内容のはずだから、「慣らし運転」にちょうどいいだろうと(^^;)

(・・・・・同時に借りてきたのは、私がここ数年一番観るのを億劫がっていた、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」2部作だったりして・・・感想はこちら

*****

ところが、蓋を開けてみたら、劇場版「エスカフローネ」。ここまで全編の作風や設定がTVシリーズと違っているとまでは思っていなかった。

 おかげで、こうして、予想外に重厚な記事にできつつあるわけある(^^;)

 シビアな世界観。そもそもひとみの性格をここまで変容させるのは大胆な決断だったと思う。

 1時間半強の劇場アニメとして、無理なく描ききれる形にストーリーも設定も整理されている。CGの使用はごく控えめで、劇場用とすればあと一歩ハイグレードな作画も当時の水準で可能ではあったろう。

 しかし、TVシリーズについての予備知識皆無で観ても十分に堪能できる佳作に仕上がっていると思う。

 日本での公開は限られた上映館だったらしく、劇場で見た人は限られているようだが、海外各国で公開され、フォン層を更に増やしたというのも納得である。

****

 どうも、ネット界では、惜しくも早くして亡くなった近藤勝也氏監督のジブリアニメ「耳をすませば」を「鬱アニメ」と呼ぶ風習があるらしい。

『耳をすませば』が鬱映画?(教えて!goo)

 ここでのやり取り全体にいろいろ苦笑してしまったけど、この映画を観ている側の方が映画の中の青春の描き方に勝手に落ち込んでいるというケースが少なくないようなので(その程度で軽々しく鬱なんていう言葉使うなよな~coldsweats01)。

 その点からすれば、この劇場版「エスカフローネ」は、TVシリーズと比較した時、このひとみとフォルケンという、劇場版では一番の鍵を握る登場人物二人が、こぞって似たような鬱状態として描かれているとは言えるかと思います。

 その分、劇場版では、バァンの位置づけがやや地味になったともいえるかもしれない。しかし、ある観点からすると、バァンの方が、絶えず皇位継承者としての重圧を身に帯びて生きてきた孤独な武人であるという観点からすると、執着気質的で、古典的な鬱病の病前性格の持ち主であったともいえるかも。フォルケンとひとみのほうが「新型うつ病」的のようにも思えます。

 そして、バァンは、ガイアという世界で、個人的人間関係の如何に関わらず、生きる目的と責任を背負っているという点が、フォルケンやひとみとは好対照な存在なのだ。

 戦いの後、ひとみをガイアに引きとめさせているのは?・・・・バァンとの個人的な絆を失いたくないという思いだけだったろう。

 これが、TVシリーズの、心地よい余韻に満ちた終わり方(↓)とは好対照なまでの、非常にあっさりとした形で、ひとみがガイアから地球に呼び戻されてしまう、ややビターなラストシーンの背景にある、この作品の世界観なのではないかと、勝手に妄想している。

↓これが「テレビシリーズの」ラストシーンです。
●Escaflowne- Ending Scene Credits(YouTube)

 劇場版のラスト、あれは決して、フォルケンの夢の実現と同じことがひとみに生じ、ひとみが消滅したと同時に、地球も消滅した!!・・・・などというブラックなラストではないとは思います(^^;)

 ひとみがちゃんと地球に帰り、別れたバァンとの絆を大事にしながら生きているらしいことは、エンディングテーマで、きちんと歌われていますしね(^^)

*****

 ・・・・・以上、恐らくこういちろうによる、このブログでこれまでで一番本格的なアニメ評論のエントリーでした!!

 最後に、やはり「サマーウォーズ」の宣伝にも協賛しましょう!!

●【公式】『サマーウォーズ』 時をかける少女監督の最新映画 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)

↓こっちにはチャイコフスキーの音楽は出てきていませんが。
●サマーウォーズ 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)

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2009/06/05

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話

○鬱になると、以前だとさらさらと何気にできたことがひどく不器用になり、失敗しやすくなる。

○「事務的な」書類を書くことというのは特に億劫になりやすいので、そうした書類をなかなか書けないことを「簡単な筈でしょ?」などと突き放した形で急かす形にならないように家族は要注意。

○特に休職した直後の時期など、何かひとつの行動をやろうとしたら、本人も気がつかないうちに、ほとんど「ストップモーション」にはまり、気がつくと同じ(座った)姿勢のままで数時間経過していた・・・・などという経験は結構見られるかと思う。

○うつとは「心の病気」という言い方をしない方がいいと私も思う。ただ、ドラマでのように、「脳の病気」という言い方でも抵抗感がある人もあろうかと思う。私個人は「脳の心身症」という言い方を好んでいる。「脳の慢性のストレス性の消耗による障害」ぐらいの意味である。

○「自分はイグアナにも劣る」というセリフは決してコメディではない。確か中井久夫先生の本に「自分はイモムシにも劣る」と罪責感に浸る患者さんの例があった。

○ドラマで描かれているように、鬱状態が強い時には、アナウンサーのような単調な声の番組の方が心が休まるというのはある意味で真実であろう。エモーショナルな揺れが大きい音楽というのも結構負担になるものであり、意外とクラシック(特にオーケストラ曲)があわないというのは、本来クラシック好きの私の経験。随分長く、好きなはずの音楽そのものを遠ざけた時期もあったと思う。

○患者さん以上に、患者さんと密接なかかわりがあるパートナー(配偶者、恋人、親等)の方が、実は否定的思考の持ち主であることは、実は結構多い。パートナーのそういうマイナス指向の部分すらケアし、包み込むようにしてやさしく支えて「いた」のが、実は「うつになる前の」その人だった・・・・という構造は、確かに頻繁に観察される気がする。

○欝の回復には波があり、本人も周囲も思いもよらない形で「ぶりかえす」ことを繰り返す中で徐々に軽快して行くことが多い。そのことに、本人や家族は振り回されやすい。一喜一憂し過ぎないで、一緒に、潮の満ち引きを揺れることができるかどうか。

○うつの人を直接支える側の人の方が、いつの間にか無理をしがちになりやすいので、そういう支え手が安心できる相談相手が公私共にいることは大事である。


・・・・以上、思いつくままに。


※第1話についてはこちら

※第3話(最終回)についてはこちら


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2009/04/26

完璧な天使であるか、燃えるゴミとみられるか  -「マイ・フェア・レディ」のダークサイドとしての「市民ケーン」-

 恋愛において、例えば女性は、男性に、すばらしい魅力的な愛情深い女性だと惚れ込まれ、尽くされ、愛おしまれるか、それともファム・ファタール(悪女。ドン・ホセにとってのカルメンのような、男を利用し、もてあそぶ「運命の女」)とけなされるかという両極端を行き来するジェットコースターの振幅にどこまでつきあえるか(=ひとつのスリルとして楽しめるか、あるいは耐え忍べるか)がその展開を決めることが多いのではないかと思う。

 男はといえば、女性から「白馬に乗って現れた王子様」とみられるか、それとも「私の身体(容貌、財産、主婦的機能etc.)だけが目当てだったのね!」とみられるかの振幅のシェットコースターの乗り心地をどこまで乗りこなせるかであろう。

 ところが、人は恋愛において、このような、自分にとって相手が「善」か「悪」かという振幅に耐える(乗りこなす)というモデルに基づく経験値だけでは、とても説明がつかない傷つきを、体験することがある。

 わかりやすいのは、「史上最高の映画」とまで呼ばれる、オーソン・ウェルズの、「市民ケーン」において、ウェルズ演じる新聞王・ケーンの2番目の妻となる、スーザンの陥った地獄である。

 彼女は、大統領の姪である先妻を差し置いての不倫という大スキャンダルを経て、ケーンに選ばれた。大邸宅ザナドゥで何不自由のない生活を与えられるばかりか、歌手志望だった彼女のために、ケーンは、頼まれてもいないのに大オペラ劇場を建設する。

 しかし、スーザンの大根ぶりは半端ではなかった。それでもただひとり彼女に拍手をし続けるケーンの異様な姿。

 しかもケーンは、スーザンがもう舞台に立つのをやめたいと少しでも言い出すと、突如、理解不能なまでに烈火のように怒り出す。

 それはまるで、ケーンの胸の中の巨大な水晶の玉が砕け散り、スーザンの体中に突き刺さる衝撃を、わけもわからないままひたすら耐え忍ぶしかないような衝撃となる。

 この衝撃が繰り返されるたびに、スーザンの身体には、少なくとも軽度のPTSD水準と言っていいトラウマが、降り積もるように蓄積される。

 このこと自体、今日の概念で言えば、「モラルハラストメント」そのものなのだ。

Q&A モラル・ハラスメント―弁護士とカウンセラーが答える見えないDVとの決別

 だが、それは、ケーンの「滑稽なものではあるが献身的な深い愛情」という形で、幾重にもオブラートに包まれてしか、周囲の人間には感知されない。

 でも、スーザンは内心思っていたはずだ。

 自分は、「完璧な天使」として彼の思うがままに改造されることに甘んじるか、さもなくは、全く無価値な、それこそ肉体交渉のあとのティッシュみたいな無価値・・・いや「無」そのものとして突如さらりとゴミ箱に入れられてしまうかの、二者択一を突きつけられている!!

 こんなザナドゥの地獄に幽閉されるくらいなら、夫に、財産目当てのファム・ファタールとして罵(ののし)られる方が、百倍幸せとすら、彼女は感じていたかも。

 人は、「相手にとっての善」か、「相手にとっての悪」かの振幅にはまだしも耐えられる。

 しかし、

 「相手にとってのすべて」か、それとも「相手にとっての無意味」か・・・・の振幅には耐えられない。

 後者のような対人関係様式しか相手に提示できない人のことを、真の意味での「ナルシスト」(自己愛人格障害)と呼ぶ。

 つまり、ケーンこそ、映画の中で描かれた、史上もっとも強烈な自己愛パーソナリティなのだ。

 そこには、「自分にとっての完璧な操り人形」か、雨の中に打ち廃(すて)られた、もはや省みることもない「廃棄物」という形でしか、パーソナルな人間関係を結べない人間の、ほんとうに底知れない孤独の世界が口を開けている。

ayumi hamasaki ASIA TOUR 2008 ~10th Anniversary~ [DVD]
(↑今の部分を書いていて、思わずayuの"marionette"のビジュアルを連想したので。)

 ケーンにとっての、唯一例外的な、この世における人との絆として信頼できる「移行対象」(ライナスの毛布)、それが、生みの親のもとでの少年時代の遥かな記憶を今につなぐ、「ばらのつぼみ」だった。

 しかし、その「ばらのつぼみ」という宝物は、誰にもそのパーソナルな価値を再発見されることなく、まさにただの燃えるゴミになってしまうのである。

 こうして、映画の物語をみる観衆(の中の、孤独なナルシシズムへの免疫を幸いにして形成でき、しかも、柔らかい皮膚と心の産ぶ毛を失わないまま「サバイバル」できた、幸いなる人たち)にのみ、亡きケーンの体感していた空しさの核心は共有され、癒されて、この映画は終わるのだ。


市民ケーン(1941) - goo 映画


*****


 ここまで書けば、「マイ・フェア・レディ」のコックニー訛りの花売り娘イライザをレディにしようとしたヒギンズ教授のダークサイドがケーンであることを、これ以上説明しなくてもいいでしょ?


市民ケーン [DVD] FRT-006

マイ・フェア・レディ [DVD]

マスターソン/自己愛と境界例

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2009/04/02

「写真屋さん」とかけて「カウンセラー」と解く、その心は?

 新年度を迎え、新卒者の入社式が行なわれた直後になりましたが、2010年度新規採用を目指しての就職活動をなさっている皆様は、過酷な経済情勢の中で、たいへんな不安を抱えて活動されている頃かと思います。

 さて、本格的就職活動となれば、駅やコンビニ近くにある証明書用の写真自動販売機ではなく、ここ一番、写真屋さんで、プロの技で写真を撮ってもいたい、そのためなら、定額給付金をつぎ込んでも惜しくないという皆様もあるでしょう。

 さて、そうした際に、あなたは、写真屋さんに、どんなふうに連絡を取っていますか?


 ♪ピロロロロ♪

 はい、○○写真館です。

「......あのォ、.....写真。」

(写真屋に電話してるんだから、写真についてのことだと当然わかっているだろー)

「いつ、あいてますかア?」

(少なくともDPE(現像やプリント)を頼もうというのではないことは想像できる。写真を「撮って」欲しいんだね)

「いくらですか?」

(目的は何のための写真で、サイズと枚数とご予算はいくらなんですか?)

 .....ここではっと気がつく写真屋の店主。


ところでお客様、お名前をうかがってよろしいでしょうか?

........

 ここまで電話の相手をしてきた、設計士の資格を持ち、一流企業で勤続十数年を経て脱サラした写真店主が、「このお客さんが就活中だとしたら?」と想像した瞬間に、


「お前は、すでに、落ちている!」


と内心つぶやいたかどうかは、皆さんのご想像にお任せしたい。


******


 この写真屋さんに行く前に就活の皆さんがビビり過ぎないために申し添えるならば(^^;)、実際に就活の若い人がお客さんとしてあらわれた時、いろいろセッティングしながらよもやま話をしていると、就職活動についてのさまざまな不安を語り出すことが少なくなかったそうである。

 自分はカウンセラーではない。でも、

 ともかく、ますは話をじっくり聞いてあげないと。

 自分はひとりの社会人経験者としてしかアドバイスできないけど。


 それにしても、何ともはや頼りなげな、あるいは「勘違い」している若者が多いことか。

 服装も、挨拶も、メイクも、髪型も。


 そして、どうすれば人に伝わる、わかりやすい話し方ができるか。


*****

 そういうことを繰りかえすうちに、

 写真屋さんの中に、

  これらすべてを最初からワン・セットにしたコース料金を設定したら?

というビジョンが少しずつ形を成されていく。


*****

 
 今や、福岡県の筑紫野市(JR鹿児島線二日市駅から徒歩5分)にある彼の写真館には、東京から飛行機に乗って、就活写真を撮ってもらおうとやってくる学生まで現れるようになったという。


 「気がついてみたら、同じ年には、同じ大学から何名も偏ってお客様が来るの。毎年別の大学に変っていくんだけどさ。口コミってことだね。就活報告会で私のことを取り上げてくれた卒業生もいたらしくてさ」


 ロマンスグレーで、服の着こなしもかっこいい、48歳の彼は微笑みながらつぶやく。


●ハートフルスタジオ ミッキー

http://studio-mickey.com/


*****


 私の中学時代の一番の親友、白石嘉毅君がその人である。

 彼は先日、私の自宅に突如30年ぶりにアポなしでやってきた。

 (紹介すると約束したのに、記事遅れてゴメンなさい!!)


 私のクラシック音楽への関心は、彼と共に過ごした日々の中で育まれた。


 彼は今や、フラウト・トラベルソ(フルートの古楽器)を、日本屈指のプロ奏者と合奏する腕前。

 福岡市で開かれる、諸外国からのバロックの一流奏者のコンサートのプロデュースにも関与している。


 何しろ、かのクイケン三兄弟のダチだそうだから。


 (......といえば、クラシックの古楽器によるオーセンティックな演奏に関心がある皆様は、ずずずーーーっと引いてしまうだろうと思う)
 


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2009/03/16

今回の番組を「ネットでは常識水準」と言ってしまうことの副作用 -NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(ボーナス・トラック2)- [第2版]

  番外編、 その1に続いてその2です。 


 今回の番組における双極性II型と気分調整剤の取り上げ方そのものがまだ一面的であるとお感じの方が、ネット内外、専門家・非専門家を問わずたくさんおられることは承知しております。

でも、

  ●問題点1: 「ネットでは常識水準」という発言を読んでいると、そういう皆様はすでに「事情通」の部類に属するように私には思われてしまえて(^^;)

「この番組で描かれた水準の内容をこれまで知らなかった、今更この番組に感心している人たちは、無知過ぎる」と、「事情通」のプライドがある人が、実は「多数派」であるのはまちがいないネットユーザーを愚弄しているかのように感じる人が少なからず(決して少数派ではなく)いるはずです(^^)


  ●問題点2: 「ネットではこのくらい常識だ」という論調を読んでしまうと、この番組を観ないで済ませ、詳しい内容を知りたい、自分なりに判断してみたいと感じる人たちの「意欲を削ぐ」だけとも思います。


  ●問題点3:  ネット上での、専門家と思われる皆さん「ここで描かれているほど単純ではない」という一般論を述べることは、読者にとって今更何か役に立つと言えるのでしょうか??? 

 私が思い当たる、専門家のこうした発言の効用は、すでに自分への医療に納得している患者さんに、この番組を観たことをきっかけとして生じた不安を軽減するということです。

 しかし、その一方で、専門家のこうした水準に留まる発言の副作用(!)は、一般のネットユーザーの少なからぬ部分に、

  「結局こうやって、専門家たちは責任回避しているんだ」

と感じさせたり、

  「医者は結局自分の処方は実際に繰り返し診察し、薬の効果を確認しながら進めているので大丈夫だと言い訳したいのだ。カウンセラーは結局、自分は医者ではないのでといういつもの責任回避、あるいは保身に走るのだ」

と、ため息を伴う無力感の堂々巡りを感じさせるj可能性は決して低くはないということです。

 敢えて我田引水すれば、私は私のネット上でのスタンスが、現実世界での私のカウンセラーとしての評価に影響する可能性を、私なりに引き受け続けてているつもりです。

 そして、私は、ものごとへの姿勢として、

「初心に帰って、一度頭を真っ白にして、番組や著作を正確に読み解こうとする」

というスタンスを自分から買って出る「専門家」がいなければならないことを確信しています。


*****


 そして、そういう意味で、専門家に逃げ場を与えず、患者さんを起点に、現実の社会行動を促すといった「そこそこ絶妙な」効果を、ひょっとしたら製作サイドか予想もしなかった形で(^^;)発揮する効能がある点で、

この番組そのものが、社会全体への「薬」として計算外の効能がすでにあった

と感じています。


*****


 評論家的にはいびつで不完全な作品との評価を当初受けていた映画や音楽が、長期的には名作と認められるのもありふれたことです。

 ドグマチールが最初胃腸薬の一種として開発され、気分調整剤デパケンが最初抗てんかん薬だったわけです。


 歴史は繰り返す。


........え? 少し次元が違っている? ^^;)


(以上、ボーナストラック2 終わり。ボーナストラック3はこちら




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2008/10/21

「風のガーデン」こそ近年のテレビドラマの頂点!!(.....「篤姫」も実にいい) 〔第6版〕

 ●お読みになる方へのご注意●

 この記事で私が用いている時間軸は、あまりに飛躍がありますので、ついて行けなくなる可能性があります。ご注意ください(^^)

 でもこうやって書かないと、リアルな私の感性がネットを通しては伝わりようがないことにようやく気づきました(^^)

******

 9/30のドラマ開始記者会見後、10月5日(日)の緒形拳さんの「肝癌破裂」による急な訃報によって一躍「時のドラマ」となった「風のガーデン(フジ系 木 22:00-22:54)」

 このドラマは、緒方さんの訃報抜きでも、私が子供時代から大人のテレビドラマを「ジャングル大帝」「ウルトラQ」と同列で当たり前のように見て来た40年来の経験の中でも、映像文法や演出術、実は現段階での医療の水準、実際に病院内にいるすべての専門家や患者さんから見ても考証に耐える内容を持っていて、「いくらでも現実に生じている水準」でのリアリティを極め抜いていると思う。

 はっきり書くけど、まさに「今」の男女の機微も「常識」も、このドラマで描かれている水準だと、私は日々実感しながらあたりまえに生きている。(マジ)

 そのことを語り尽くすために、この記事は、「とてつもない回り道」をします。


*****


  この作品の真のキーワードは「癌(がん)」ではない!!

 私は「白い巨塔」といえば、1966年版映画1967年版TVドラマ1978年TVドラマ版をすべて観ることが出来た世代であり,この作品を「風のガーデン」の源流とみるというのは、あまりにも筋違いどころかとんでもない勘違いとしかみていない。この「風のガーデン」では、医大という世界の腐蝕を描いているのではないからである。

(1978年以降のドラマ化は、観てもいないし、内容も何も知らない)

 もちろん、田宮二郎と違って、中井貴一個人は、まずもって「鬱病」とは無関係であるし(^^)


*****


 私自身、尿管結石(結石そのものは実際には「音波による爆破〔=体外衝撃波結石破砕術〕」で「粉砕」された)の「胴体全体の」各種輪切り撮影検査過程(素朴な言い方!)で浮上した、胆囊(たんのう)の内部の突起が、良性ポリープで当面手術の必要がないけど「今は5ミリ。これが1センチに育ったりでもしたら、半端じゃないことになるから」という「最終」診断されるまでの過程(わずか2,3年前)で、このドラマで描かれている「検査」を恐らくすべて受けたことがある。(

 鬱の本格治療に入る前には首から上だけのCT-MRIも受けている。


*****


 この映画で描かれつつある発達障害(「岳くん」は「知的障害」でだけはあまりに不十分な捉え方!)の描き方が超リアルであること認めざるを得ない関係者は多いと思う。

 老人の認知症ですら、そんなにおかしな描き方ではない筈だ。緩和ケア終末期医療のリアリティは、私はつい去年(2007年)まで、親族(わたしの母方のおば。92歳で2007年永眠)について、久留米に帰省する度にお見舞いに行く形で体験したことがある。

 叔母は最後の5-6年には、ついに、帰省した私の顔を見た時に私を思い出せているのかどうかも曖昧な水準の認知症になりました。

 いずれにしても、第1話冒頭で大滝秀治さん(!)が演じた水準のものも、「あるタイプ」の「ある段階」の患者としてみたら典型そのものとおもいます。


*****


 私も、ここ数年、鬱病という現実の中でどれだけ何回死を意識したかわからない。中井貴一(「ぶぞろいの林檎たち」第1シリーズ(1983)からのファン)演じる白鳥貞美は、いろいろな意味で、「等身大の私」の心境に近い。

  (ドラマの少なくともここ(2話)までの展開の中の貞美センセには、まだ鬱の形跡はない)。

 二人の息子たちとはすでに数年音信が途絶えてもいるし。実質的な離婚(ドラマの貞美先生は奥さん死亡)の後に何名かの女性(かなりの年下含む)と「つきあって来た」のは確かですし(^^;) 

Sadami_1_2
↑疲れ果てたこういちろう、もとい、中井貴一(^^)


 白鳥雅美の恋人の無名歌手、氷室茜(23)役を、主題歌を歌うばかりか、ドラマの中でも見事な弾き語りをしている平原綾香さんが、何と初の女優挑戦で見事な存在感でこなし続けている。

 彼女の2003年平原綾香 - Jupiter~平原綾香ベスト~ - Jupiter"Jupiter"でのデビューは18歳の筈。

 だから、ドラマ収録の「昨年(2007年)で実年齢=23歳の役。

 彼女自身がサックス奏者で、音楽家一家の生まれというのは有名でしょうが、バレエが「超本格」だったのを除き、俳優としての演技(訓練)の経歴はこのドラマまで,全くのゼロのようですね。

Nakai_and_ayaka
↑中井貴一の恋人「役」は、マジに平原綾香さん(24歳)


 更に言えば、キャンディーズのランちゃん(伊藤蘭=53歳!!)中井貴一の愛人役(ドラマの中では45歳!)

 中井貴一のチェロもまた、地デジの画像/音声レヴェルで細かく見ても、本人が弾いているとしか思えません(私のmacパソコンはすでに対応!!)。


*****


 そもそも緒形拳さん(71歳。ドラマの中では75歳)は、NHK大河ドラマ「太閤記」(1965年)(!)からのおつきあいであった(私は記憶の彼方から大河ドラマを見て育った。マジにはじめてストーリーを意識したのは「太閤記」からでっす。満3歳から記憶があり、東京オリンピック(1964)のテレビ中継(開会式や東洋の魔女の記憶が十分ありますから)。そうとくれば、もちろん、「弁慶の仁王立ち」といえば緒形拳さんのそれ(1966年 私5歳)が私の弁慶イメージを作った。

 「ケネディ暗殺(1963)」こそ「記憶にない」けど、「ジョンソン大統領」「北京政府」「北爆(1965年)」という言葉がNHKニュースで繰り返し普通に使われていたのをよーーく覚えている(田中角栄首相就任が小学6年生になって程ない、まだ11歳の時(1972年7月)という世代をなめてはいけない)

 (私は、1960年生まれの48歳!!=中井貴一よりちょうど1年前の9月生まれ!!)


*****


 「長女」役の黒木メイサは、やっと顔と名前が一致した。

 我が最愛のNHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」(2001)以来というタイムスパンが私の側にあったため、このドラマでは5話までしか出演しない、二神香苗役の国仲涼子ちゃん(.....29歳)を最初identifyできなかった(^;;)

*****

 弟(白鳥 岳)役の少年が、あくまでも演技として演じているのはすぐに気がついたが、とてつもない役作りを周到に重ねた「天才子役」に違いない、と連想した。

 私は、今(2008年)から5,6年前、大学学生相談の領域で「広汎性発達障害(ADHD、学習障害(LD)、アスペルガー障害を含む)」の大学学部学生(!)と当たり前のように接した最初のひとりである。単なる知的障害と、「広汎性発達障害」の違いについて精神科医に叩き込んでもらえた先駆的最前線にいた。

 (この今から5,6年前の時点で、中学生までの児童生徒を相手にするスクールカウンセラーなら、この障害について学ばずにはいられなかった事柄ですら、その世代の「子供たち」がもはや大学にまで「普通に」入ってくる「瀬戸際」あるいは「序盤」という事態が生じ「ている」ことをほとんど誰も予期していなかった)。

 数年後の今(2008年)は、広い意味での「発達障害」や「自閉症スペクトラム」について、「大学」学生相談のカウンセラーで当然知ってないとやれない時代になった。こういう学生たちは、単に「学力不足」と安易に混同されては、たまったものではない。

 もっとも、臨床心理士会の研修会水準ですら、「発達障害」の研修会があれば誰も誰もと押し寄せる現象は、この1,2年である(^^;)。

 .......そういう経験から、容易に、「岳くん」の障害について「見立て(assesment)」が出来たのである(敢えて世間のカウンセラーの皆様を試したいので、これ以上の正解は伏せる)。ちなみに、役中の「岳」くんは施設でかなりいい教育を受けた結果としてあのようにふるまえると見立てるのが一番リアルであろう。

 岳君を演じる役者、それがあの「神木隆之介」だということは、私の「親友」からきかされて知る始末(^^;)

  私の方が、その親友に、神木君が完璧に演じる障害について、すでにドラマの中で「描かれて来ている」山のような根拠を解説する必要が生した。親友は普通の社会人だから、これは止むを得ないのだが。

 ドラマの映像と神木君の演技の中でこれだけ「大盤振る舞い」ですでに「暗示」されているのに気づけないなら、もうこれからの時代、教育者やカウンセラーは務まらない。

 敢えて言えば、神木君の演技力は、「レインマン」 (.....うう、どうしてこの、私が大学院生として、日本公開時点で映画館からパンフかかえたまま研究室に戻って、故・村瀬孝雄先生に「すごくよくできてます」と報告した映画(1988 日本公開1989)が今から19年前の映画になってしまうのだろう)におけるダスティン・ホフマンのそれに劣らないどころか、ずっとずっと高度かも? とといいたい域なのだ。


*****


 ちなみに、私にとっては倉本聰「富良野シリーズ」初体験である(いよいよ年齢不詳 ^^;)

 (ああ、俳優名と役名の「誤字」をなくすためにネットでいろいろ調べたではないか!!)


*****


 私の今のテレビ俳優を知っている水準なんてそんなもので、最近CMにもたくさん出てる「篤姫」のヒロインの名前をやっと「宮﨑 あおい」さん(22歳....だが彼女は既婚者である)覚えることが出来ただけでその「親友」に爆笑されたくらいである(^^;) 

 さて、「篤姫」も、大河ドラマの歴史に残る傑作と思ってます。「風のガーデン」とは別な意味でドラマとしてよくできてます。もう繰り返し飽きるほど「幕末維新もの」大河ドラマとして観て来た世代としてみても、「画期的」に近い。

 会話は一見あきれるほどに現代的な面があるのに、時代劇の文法にも忠実、かつ、驚くほどに「史実の裏付け」があるわけです。

 完璧に、「 於一→篤姫→天璋院」と「肝付尚五郎→小松尚五郎→小松帯刀(清廉)」の視線から歴史を眺め続けていることを含めて。小松帯刀(清廉)はほんとうにあのくらい「若かった」のですよ!!

 脚本がよくできているのは、作中の天璋院さまが「わからぬangryと真面目につぶやくのは「マジにわからない場合だけ」であるということ。

 ........以上のウンチクは、「貞美先生」が「歌詞志望の23歳の女の子、茜」に酒場でささやく(上の写真のシーン直前「フランス語」についてのジョークのような意味でのジョークでは全くない


*****

 
【このネットのこういちろうファン向け(?)「超裏話」】

 最近このネットに時々登場させる私の「親友」は、似ている女優といえば、大げさでも美化でもなく、マジに、国仲涼子さんでっす。

 涼子ちゃん(独身だし、「ちゅらさん」ファンの世代だ、許せ)の現在の「実年齢」と限りなく近い(^^).....このドラマでの二神香苗=涼子ちゃんは、役の上では23歳という「無茶苦茶初々しい」設定の役柄だけど、このドラマで「二神香苗ちゃん」にときめいた皆様、涼子ちゃん現実にはもう29歳です。

 想像して下さい。実は出会いから一年半、何と関東から九州への移住すら障害になっていないで継続できている、「中井貴一」(=役中も現実もほとんど私と同い年)と実年齢相応(^^;)の「国仲涼子」との深ーーーーーい、「真剣な」、おつきあいを(^^)

Nanae_and_sadami_2
↑こういちろうとその人が「盗撮」されたら確実にこう見える.....もとい、中井貴一(現在47歳)と国仲涼子(現在29歳)(^^;)

 もっとも、涼子さんは、
Ryoko
↑2009年1月公開の映画「感染列島」記者会見より。公開段階でも30歳になってないまま、このお姿らしい(^^)

 「私の涼子さん」が、私に、畏れ多くも、ノーベル賞の「益川教授」に似ていると言ってくれたのである.......

  先日、彼女に『私は「緒形拳」ではなくて、よほどドラマの中の「中井貴一」だけど「緒形拳」でもあるよ』と言ったら、リアルに納得してもらえた(^^???)


******


 このように書くくらいだから、まだドラマで描かれていない、現状で掌握可能な「風のガーデン」の設定まで、私は調べられる限り調べ尽くしています(きっぱり)。

 そして、さすがにそこのあたりになると、すでにこのドラマにどっぷりとはまりまくっているその彼女にも内緒にして、楽しみを奪わないようにしているのです(^^)


*****


 今度、四半世紀前(25年前、私は当時23歳)の時点、小此木啓吾先生の「モラトリアム人間の時代」が出版された頃の新聞やマスコミの用語と文体のままでひとつのカウンセリング記事を書くという大冒険をしてみますので、皆様、お覚悟のほどを(^^;)


追伸:どうだ!! 今の段階でこれ以上内容誤字年齢の修正できるか(^^) 

......ちなみに誰もクレーム入れて来てないですよん。もちろん「親友」からも(爆)


【第6版での追記】 彼女は、

「私は平気だけど、こうちゃんが気分が違う時に読み直した時の方が心配だよ(^^;)」

とのこと(^^)v



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2008/09/24

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 《2008/9/25 19:08更新》

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2008/09/11

ひとりでフォーカシングをやろうとすると途中で寝てしまう人へ

 タイトルで示したことは、大船時代にも「学ぶ会」や「個別指導」の際にたくさんいただいた訴えです。

 ひとりでフォーカシングする場合、自分のなかに、ガイド役とフォーカサー役を意図的に解離して同時に維持せねばならないので、試み始めた頃は、いつの間にか注意が他にそれたり、眠ったりというのは、実にありがちなことです。

 そうした自分を責める必要は何もありません。

 いつの間にか注意がそれたり、その気がかりや身体感覚についてのいろいろな連想や思い煩いに流されていた場合には、

 「その事柄(その身体の感じ)をめぐっては、そうやっていろいろな思いがあるわけね」

 そうした思いの一つ一つに、

 「自分の中のある部分には、そうした思いもあるんだね。なるほど、もっともだね、わかったよー」

 と声をかけて、ひとつひとつ挨拶して、認めてあげていくことをまずはしてあげてみること。

 そうした上で、

「そうしたこと全体を、からだはどのように受け止めているのかしらね?」

と、身体感覚全体に問いかけてあげて待ってみると、しばらくするうちに、身体のどこかが反応してきます。

 その曖昧な感覚そのものと、しばらくそばに居てあげればいいのですね。

 その感じは「どんな」感じか、ぴったりの言葉(フェルトセンスのハンドル)を捜そうと、焦る必要もありません。そうした言葉は自然と向こうから浮かんできます。


******


 そして、途中で寝てしまう場合ですが。

 私が常々繰り返しているとおり、気がかりについての、曖昧な身体の感覚、あるいは、自分の状況や存在のあり方とどこかで何か結びついているかに感じられる縛とした身体の不全感に、直接注意を向け、しばらくその感じと無理なく共にいられたならば、あなたはその時すでにフォーカシングしていたのです、

 そういう感じを自分の中に見つけた途端に(あるいは見つけつつある最中に)睡魔に襲われ、いつの間にか寝入ってしまうということは、実は全く自然な現象だと思います。

 そうやって寝てしまうのは、自分がその気がかりや漠とした身体感覚に、それまでどれだけ悩まされてきたかの証とも言うべきでしょう。まずは休息が必要なのです。

 そして、新たな機会に、

 「あの時つかみかけたあの感じはいまはどうかな?」

というふうに、内側に注意を向けてみると、以前よりは簡単に「その感じ」にアクセスできることも少なくないかと思います。

 そうしたことを繰り返していくと、日常のなかで、特にフォーカシングをしようという意識がない場合ですら、その基本的には同じ感触と質感の不全感が、今も自分に訴えかけてきていることを自然に気がつけるようになります。

 日常の中であなたが一度関心を持って声をかけたりした相手がいたとします。その時には、相手はやや無粋な反応しかしなかったとしてもに、繰り返し軽く挨拶だけでもしたいたら、いつの間にか、その人のほうから、あなたに何か声をかけたそうな視線は繰り返して帰ってくるようになることがあるでしょう?

 自分のフェルトセンスへのアクセス性が高まるということは、そのような、人間関係において少しずつなじみになるのと同じような性質を持っているのですね(^^)

 そうこうするうちに、きっと、ある晩、「二人」の心は通じ合い、真剣にお互いに向き合え、言葉を交わせる条件が、無理なく整うのです。


*****


 以前も書きましたが、フェルトセンスとの関係作りは、やはり、恋愛の比喩を使うとわかりやすい場合がある(^^)


 BGMは、バッハのカール・リヒター - J.S. Bach: Organ Works - Wachet auf, ruft uns die Stimme, BWV 645, "Sleepers, Awake"「目覚めよと呼ぶ声が聴こえ」BWV 645、ということで......

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2008/08/31

新・先週の人気記事ベスト20 リニューアル!!

 「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例だった、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、再開します!!

 ただし、ランキング集計方法を大幅に改め、今回以降、@niftyココログにある私のすべてのブログの総合ランキング20位までを、PCサイト携帯サイトに分けて、独立した記事として掲載することとします。

*****

 このようにするのは、ブログ形式で全体を構築していくことにした「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトのアクセス数が徐々に伸びていて、しかも、そちらのサイトに改訂の上アップした、この「雑記帳」サイトの記事に基づく記事が、すでにかなりのアクセス数を見せ始めたからでもあります。

 今後、徐々にこのサイトの往年の(?)人気記事が、新サイトの改訂版記事〈そちらの方が余計なリンクもなく、文章も練りこんでいますし)にアクセス数を徐々に奪われていく可能性もあり、そうなった時、「雑記帳」サイトのアクセス数やランキングそのものを変容させていく可能性も高いでしょう。


******


 ひとつ宣言しますと、カウンセリングルームサイトの方には、余計な裏話などを掲載することはありません

「カウンセリングルーム公式サイト」として、常時読んでいただけるのに値する内容を徹底的に選抜・吟味します。

 「雑記帳」ブログで書いた記事が、新サイトに掲載する予定の記事の草稿という場合もありますし、一気に同時掲載の場合もあるでしょう。

 しかし、「雑記帳」ブログでの記事にオリジナルを残し、原則として版の更新や修正は新サイト側だけで進めることになるかもしれません。

 カウンセリングルームサイトで新記事を出す時には、この「雑記帳」ブログで、その記事のURLだけでもリンクして紹介し、新サイトからのトラックバックを「雑記帳」ブログに飛ばします。

 そうした際に、新サイトでは書かなかった裏話も紹介するかもしれません(^^)

 つまり、この「雑記帳」サイトは、まさに私のプライベート・サイトとして使い分けることwを始めることになります。

 それでも、カウンセリングや心理療法、いうまでもなくフォーカシングについての、かなり思い切った「実験的」な記事や、浜崎あゆみをはじめとする音楽関係やiPodをはじめとするモバイルオーディオ、社会問題の記事などの領域越境的なコンテンツ、日記的な内容は、この「雑記帳」で今後も量産していくつもりです。

 このサイトがカウンセリング一辺倒になるのではないかと「ご心配の」(「安心しておられた??」)皆様、雑記帳は永遠に雑記帳の奔放さを維持します!!

 今は新しいカウンセリングルームを立ち上げたばかりなので、カウンセリング系の記事を集中的に書いているのですね。

*****


 なお、今後、

この雑記帳の記事については【雑記帳】

「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトの記事については【開業サイト】

と略記することにします。


どうかよろしく!!

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2008/07/22

私が普段何を聴いているかは(第2版)

Last,fmの、kasega1960 ラジオステーションを聴いて下さい(^^)

 ソフトをインストールして(win用、mac用あり)、さっきのページの「マイ・ライブラリを再生」で聴くと、外部の人にも、Last.fm側のにファイルがある曲なら、ですが、全曲聴ける曲は聴けるみたいです(^^)


 こういう、外部からオープンアクセスな仕様があるとは知らなかった(^^;)

(上の書き方、誤解招くかな? ファイル交換ソフトではないので、念のため。曲名から割り出しているみたいで、別のアルバムの別テイクのこともあるようです)

 J-POPとクラシックと古めのアニメ音楽が混在する摩訶不思議なラインアップですが。


 ●追記:7/16バージョンアップで、JASRACとの契約が成立したため、 日本語版でもRadioやStationがサイトやAudioScrobbler上から再生可能となったのは確かなようです(wikipediaより)。

 しかし、「マイ・ライブラリを再生」で全曲再生できる曲がひどく現状では偏っているようですね。ayuはリミックスの一曲だけ、みゆきは皆無、BeatlesやCarpentersは、何回も再生するうちに徐々にラインナップが増える気がする。日本のでは、倉木麻衣や愛内里菜はかなりの曲を再生できます(7/24記)。

 

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2008/03/23

ウルトラセブンとロベルト・シューマン

 あまりにも有名な、「ウルトラセブン」最終回の、「この」シーンですが。

 ここで使われているのが、ドイツロマン派の作曲家、ロベルト・シューマンの、ピアノ協奏曲イ短調Op.54の第1楽章であることは、特撮マニアの皆様ならご存じの方も多いですよね。

 以前、シューマン専門サイト、「ロベルトの部屋」をやっていた人間として、私の推薦盤をチョイスしておきます。

 実際に「セブン」で使われたのは、往年の名盤として名高い、

●リパッティ(p)/カラヤン/フィルハーモニア管弦楽団(EMI)

です。

 確かに一世を風靡した名演奏なんですけど、如何せん、1948年のモノラル録音です。

 そこで、ステレオ盤の方をチョイスすると、

●リヒテル(p)/マタチッチ/モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団(EMI)
●アルゲリッチ(p)/アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団(TELDEC)
●グルダ(p)/アンドレーエ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(DECCA)

iTunesにもいくつかありますが、

Martha Argerich, Mstislav Rostropovich & National Symphony Orchestra Washington - Schumann: Piano Concerto Op.54; Cello Concerto Op.129 - Piano Concerto in a Minor, Op.54: 1. Allegro Affettuosoアルゲリッチ(p)/ロストロポーヴィチ/ワシントン・ナショナル交響楽団
Clara Haskil, The Hague Philharmonic Orchestra & Willem van Otterloo - Schumann: Piano Concerto in A Minor, Waldszenen & Kinderszenenハスキル(p)/オッテルロー/ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団(モノラルですが音はいいです)

あたりを、取りあえず。

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2008/02/11

単なるおたくは「領域越境」できない

 私は、「何でもおたく」ですので(^^;)、おたくの長所と欠点を知り尽くしています。

 おたくの最大の欠点は、自分の縄張りとしている領域以外の人たちに認められたり、率直に交流することを回避する点です(^^)

 これを乗り越えるのは、他領域のおたくの人とどん欲にコミュニケーションし、盗めるものは盗みまくること。

 そして、そういう「島宇宙」をつなぐ存在にまで、自分を高めることだと思います(^^)

(この最後の部分は、宮台真司さんにインスパイアーされての表現です)

 私の尊敬する、学生相談時代の師(スーパーバイザー)、岡昌之先生(東京都立大学。「心理臨床学研究」の編集者として名前はご存知のカウンセラーの方も多いかと)曰く、

 「万巻の書を読め!!」

 ここには、「ジャンル無関係に」と言う含蓄があります。

 更にいえば、世間の動きに関心を持ち続け、若者の風俗にフィールドワーク的にコミットして興味を抱き、女性ファッション誌まで読みあさり、J-POPに通逸し、それこそ例えばayuのライブに行ってみるぐらいでないと、大学学生相談の現場カウンセラーとしては失格だろうと個人的には思ってます(^^)

 その一方で、ゲーテに親しみ、相談室の中でアナログプレーヤーでクラシック音楽を心から堪能する(これ、岡先生の東大駒場学生相談所時代の伝説的な相談室の風景)くらいでないと!!


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 以上、セーイチさんのブログのエントリー、「外れた解釈」への私のコメントより転載。

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2008/01/23

「もうひとつの私の人生」TimeLine版、登場!!(第2版)

 この記事で言及した、私の大学生の頃の「白日夢」の体系を、そのまんま紹介する上で、@niftyのTimeLineサービスがいかに使い勝手がいいか、気がつきました。

 これ、歴史小説とか、年代記的ファンタジーを構想していく上で、ひどく興味深いメディアかもしれない。書き込める人をひろく一般に開放したり、数名の共同制作にすれば、もう、むっちゃくっちゃエキサイティングなコラボレーションでクリエイティビティを発揮するではないですか!!



さあ、皆さんも、これで自分だけの物語を作ろう!!


*****


 ちなみに、この内容、浜崎あゆみさんが登場しますが、これは私が後に(.....おいおい^^;)実際に浜崎あゆみファンになったからつじつまをあとで合わせたのではないのです。私の昔からの妄想にあまりにぴったりな歌手がayuだったから、ayuを好きになったというほうが正しい(きっぱり)

 彼女の浜崎あゆみ - I Am... - Dearest"Dearest"が本来、「犬夜叉」のエンディングでもあったということを知ったのは、ayuファンになって一年近く経ってからでして、その時は物凄いショックを受けました。「彼女」は「人気アニメ」のエンディングを歌って有名になる人でないと困るのに、マジにそうだったからです(^^;)

 ちなみに、この「もうひとりの私」の世界では、現実のayuが大活躍を始めた西暦2000年に、もう一人の私は享年40歳で不慮の死を遂げることにもともとなっていました

 それに免じて、この「パラレルワールド」で、私が「彼女」を残して先に死んでしまうという結末に至るあたりまで、敢えて「浜崎あゆみ」という名前を使うことを、ファンの皆様、同じayuを愛する同志として、どうかお許しください。

 ayuと同世代か、もう少し上のayuファンの男性諸君、一度もそういう妄想をしたことがないとは言わせませんぜ!!


******


 なお、この中の個々の記事をクリックすると、私の好きなクラシックの名曲の私の好きな名演奏へのAmazon推薦リンクにもつながっているわけです。どうかご活用を!!

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2008/01/09

もうひとつの私の人生(^^)

セーイチさんのブログのコメントで、私が中学時代に「実際少し交際した」上で失恋して以来、ずっと抱いていた白日夢をカミングアウトしています。

http://purely0307.blog79.fc2.com/blog-entry-199.html#comment1073

 このコメントをしたセーイチさんのエントリーと皆さんのコメントそのものが興味深いもので、その脈絡で2度目は読んで下さい(^^)

 この白日夢を読むと、私のいろんなことが納得いくかもしれない(^^;)


 ayuのファンになることすら、予定されていたできごとなのでっす(^^)


 ・・・・・ちなみに、この白日夢の詳細を、「のだめ」「ピアノの森」に続く作品を探しておられる出版社にお売りしてもいいです(爆)  

  実は中編小説にすぐに書けそうかけそうなくらいに、個々のシーンや台詞、そして一種のメタフィクション構造、および、語り手の登場人物によって、芥川の「藪の中」のように物語が異なって見えてしまう様式まで、詳細そのものに妄想体系が確立してますので。

 詳しくはこのページをご覧下さい(よくここまで公開するね全く^^
;)

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2008/01/02

プレートル/ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートは新鮮だった。

 クラシック部門も年始め。

 2日の夜にウィーンから生中継された、ニュー・イヤー・コンサートは、フランスの大家、ジョルジュ・プレートルによる指揮。

 スタジオゲストは、横浜にあるウィーン菓子の専門店として著名な、Konditorei Neues(コンディトライ・ノイエス。一部商品についてはネット注文もできます。あまりお高くない商品です)のオーナーシェフ、野澤孝彦さん。

 ニュー・イヤー・コンサートの歴史でも、フランス人指揮者による指揮はもちろんはじめて。どうも近年、アバドとマゼールとメータではもう新味はないと感じていたところに、思いもよらぬ老大家の登場。マリア・カラスの数多くのオペラ名盤での指揮でも知られる。

 たいへん新鮮で、透明感あふれ、ウィーン・フィルも乗りに乗った、優れた名演奏。その意味では2002年に我らが小沢征爾が振った時の名演以来ではないかと思う。

 この催しが、商業主義やエージェントにのみ翻弄されない、新鮮で意外な人選を今後もしていってくれることを今後も期待したい。

 

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2007/12/16

私はのだめは全然知らないのだが.....

 「ピアノの森」のファンなのはすでに書きましたが。

 それでも、「のだめカンタービレ占い」、こういちろう、行きまーす!!

 フランツ・シュトレーゼマンという指揮者が作中人物として登場すること以外、何もしらない。

 それでも、皆さんに楽しんでもらうために。


のだめカンタービレ 占いキャラクター占い(キャラ占い)

*****

結果:

あなたの性格はフランツ・フォン・シュトレーゼマンにとても近いですが、一方で黒木泰則的な面も持ち合わせているようです。

あなたのフランツ・フォン・シュトレーゼマン度は98%です。

外見・ルックス:
あなたの外見は野田 恵(のだめ)とミナコ・モモダイラ(理事長) のちょうど中間地点あたりのようです。
あなたの野田 恵(のだめ)度は53%です。

相性:
黒木 泰則への理解が足らない様子。もう少し黒木 泰則のことを気にかけてみては。
あなたと黒木 泰則との相性は30%です。

Nodamesoukanzu

Nodameseibun

 ・・・シュトレーゼマンと縁があるのかないのか、はっきりして欲しい(^^;)

ClassicatcomicJeno Jando - classic@comics Vol.1 ~ コミックで出会った名曲たちclassic@comics Vol.1 ~ コミックで出会った名曲たち"

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2007/11/28

浜崎あゆみとベートーヴェン(第2版 聴覚障害について追加)

 今朝、夢を見た起き抜けにいろいろ連想するうちに思ったこと。

 ayuは、ほんとうに、姿の見えないファンとの交流(もちろん、ライヴでの顔の見える交流を含めて)に、生き甲斐を見いだしていて、ファンに向けて語る言葉は真摯なものなのだろうということ。

 そして、私のネット活動だってそうなんだ、ということ。

 何かメダカがクジラに共感するような大げさなたとえなんだけど、私の中でcrossing(交差 ジェンドリン用語)したから。

 今回の夢の中には登場しなかったけど、ayuさんは私の夢の中にひょこひょこ登場するほとんど唯一の有名人です。すごく「日常的な舞台で」登場する傾向があるのは以前も「ayu様降臨」で書いた通り。


******


 ......で、さっきまで、現代の最も天才的な巨匠ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニの演奏でMaurizio Pollini - Beethoven: Piano Sonatas, Op.2ベートーヴェンの最初の3つのソナタ(Op.2 No.1-No.3)を聴いていて思ったんだけど。

 ベートーヴェンって、実はすごく偏屈な人でもあったけど、実はものすごい執着気質的でもあり、ひとつの動機から曲をどのように発展させるかという技能に関しては、キャリアの初期から、とてつもない域に自分を磨き上げていた。

 ハイドンから受け継いだ古典派の様式感覚に、モーツァルトの天才性のきらめきに自分なりにインスパイアされ、むしろ、古典派を飛び越して、むしろバロック様式の執拗な繰り返しや、饒舌さ、即興性との近縁すらあり、それを「伸縮する時間感覚」と仮に名付け、それはハイドンにはほとんどないものというのが、昔、シューマン専門コーナー、「ロベルトの部屋」で展開した私のベートーヴェン論の要旨なんだけど(現在残しているアーカイブではそこまで入ってないかも?)。

Pollini_beethoven_op2いかにもイタリア人によるギリシャの乾いた空気の中で大理石の彫刻のようだけど、若い頃よりずっと柔軟性を増した、ポリーニの「第3番ハ長調」ソナタの華麗な演奏を聴いていて思ったのは、このソナタ、ベートーヴェンの初期作品では、その圧倒的ゴージャスなピアノの響きという点では別格

 凄い技巧を要する点では、やはりリヒテルやポリーニの演奏は見事なものだと感じると同時に、後の作品に比べるとまだ未整理で饒舌過多かもしれないけど、奔放に走りそうになるのを見事に構造化していくあたりの、実に細やかな転調を繰り返すあたりに、ベートーヴェンのすでに肌に染み付いた厳しい作曲技能を思い知らされる、たいへんな力作だと思った次第。こんなピアノソナタ、これ以前に誰も書けなかった。

 そして、ベートーヴェン一代で尽い終た、ピアノソナタこそピアノ曲の中心という時代は、彼のソナタの最初から最後までそうだったのだと、改めて思い知らさせれた。

Beet8hokanでも、例えば、第3楽章や第4楽章の中間部(別な作曲家の手で編曲されてドイツリートにもなってます。何とヘルマン・プライの独唱版がアルヒーフのLP(archiv 2533121)にかつてあったのね。私これ若い頃にFMで聴いてます)など、初々しいコケティッシュな魅力に満ちた部分もあるので、おすすめ。

(このプライ盤の映像資料は、"ユニバーサル真空管アンプ 「富嶽」とその仲間達のページ
by かずさん"
このページより)


*****


 で、私が思ったのは、こういう崩れそうで崩れない厳格さというのが、実は私の持ち味かもと思ったの(^^;)

 ayuも、ブレない!!(^^)


*****

※第2版で追加:(08/01/07)

 浜崎あゆみの片耳難聴が報じられてから、この記事までアクセス数、増えています。ベートーヴェンも耳が聞こえなくなったのは著名ですから、目ざといネットサーファーは検索おかけになるのかも(^^)

 それが何より証拠には:
Ranking080108

 以下に書くことは、医者ではない私の、限られた情報からの推測です。

 しかし、臨床心理士ではありますので、目まいや耳の難聴、変な音が聞こえるというクライエントさんからの訴えについての一応のアセスメント(見立て)が出来ねばならない立場での専門性はあります。

 以下、王子のきつねさんサイトで書いたコメントをそのまま転載します:

 恐らく聴神経腫瘍ではないでしょう。「avexの大事な商品」である限り、脊髄検査まで受けているはずだし、平衡感覚の障害はayuについては聞いたことありませんよね。

 外リンパ瘻なら、それこそ、最初のコンサートツアーの第1幕と第2幕の間のayuの2000年の入院期間に手術できたのでは?

 その意味では、メニエール病の可能性の疑いは今も捨て去られていないのではないでしょうか。

 いずれにしても、今後ayuが突然目まいで倒れたとか、ステージでバランスを失ってしまったということがあると、黄信号でしょう。

 あれだけダンスができるというのも、実は平衡感覚の点でのハンディを克服しての、並々ならぬ努力の産物なのかも。

 要は内耳における、水がたまるなどの所見がすでにあるかどうかです。こうなれば平衡をつかさどる三半規管に影響が出て当然です。

 さもなければ、平衡感覚の障害には至らないという点で、診断確定できないままなのかもしれません。

 ひょっとしたら、ベートーヴェンの遺体解剖の際に得られた所見のように、むしろ「聴神経の萎縮」の方なのか、それとも器質的な変化の所見なしかのどちらかでしょうね。

Archiv_2アルヒーフ ニュー・ベスト50 
※アフィリエイトにはならないが。



HMVジャパン

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2007/11/20

アメリカの作曲家、サミュエル・バーバーのこと(第2版)

 バーバー(Barber)と言っても理髪店ではない。1910年から1981年まで生きた、アメリカの作曲家である。

 日本では、本来、3楽章からなるエマーソン弦楽四重奏団 - Ives & Barber: String Quartets - Adagio for Strings, Op. 11: II. Molto adagio「弦楽四重奏曲」の第2楽章として書かれたものを、オーケストラの弦楽用に自身が編曲した「弦楽のためのアダージョ」のみが突出して知られている。

 この、「バーバーのアダージョ」は、映画「プラトーン」(オリバー・ストーン監督)で使われたことによって、クラシックファンのみならず、多くの人にポピュラーなものになった。そしてクラシックの名曲集的なCDの定番収録曲になった。

 しかし、アメリカ以外では、この作曲家に注目する人が少なく、日本でも入手が容易なナクソスレーベルにまとまった「管弦楽曲集(交響曲・協奏曲なども含む)があるのを除くと、Amazonですら、入手可能なCDはかなり限定される。まして、バーバーのみで一枚まとめたCDとなるとほんの限られた範囲でしか入手できない。

 そうした中で、Amazonですら手に入らないバーバーのCDを、私は数年前、フォーカシング国際会議でカナダに行った時に、帰り道のトロント・ピアソン空港の売店で衝動買いしていた。

Bestofbarber"The Best of Barber"(米Terac CD80632 HMW Japan一般価格¥1,565)

 このアルバムは、たいへん選曲が優れている。

 弦楽合奏版の「弦楽のためのアダージョ」を冒頭に置く。

 そして、クラシック通には知られている、特に第2主題から経過句にかけてのからみつくようなチャーミングさが親しみやすい、Detroit Symphony Orchestra & Neeme J?rvi - Barber: Symphonies Nos. 1 and 2, The School for Scandal Overture & Adagio for Strings - The School for Scandal, Op. 5: Overture演奏会用序曲「悪口学校」。アイルランド出身のリチャード・ブリンズリー・シェリダンの喜劇に基づく。

 原題は("The School for Schandal"なので、「スキャンダルの学校」の方がいいかも? 

 イギリスでは、シェイクスピアに次いで上演回数の多い著名な喜劇とのことで、内容のクオリティは大変に高い、上流社会の風刺劇のようだ。これ以上戯曲についての解説は読めないままでの推測だけど、曲想は決して皮肉や辛らつなウィットやあてこすりを連想させるものではない。むしろ「反骨の恋のスキャンダル」みたいな空気を何となく感じる。

 松田 弘子さんによる上演日記をつづったサイトで、ティーズル令夫人という16歳の少女の役について「松浦亜弥みたいな声で」と、演出家から指示が出たとある。

 「そうあの方(老婦人)、お酢と水割の牛乳だけで生きてるんですのよ、馬に引っ張らせてコルセットの紐をおしめになって。こないだ、その馬が暴れて止まらなくなっちゃって、ハイド・パークまで引きずられてあやうく胴がちぎれて死にかけるところだったんですって」(わたなべなおこ版戯曲による)。

 この曲の固有の美しいメロディーにはこの少女のイメージが重ねられているのか??? もっとも原作の岩波文庫版(再販未定)があるので、シェイクスピアは好きな私も、今度そっちも読んでみようかと思う。いずれこの件は補足したい。

 さて、さっきのCDの紹介の続き。

 このCDでは、更に、かなり著名なバイオリン協奏曲ピアノ協奏曲の特定の章、オーケストラつき歌曲を経て、「アダージョ」にラテン語のミサ曲の詞をつけたHarry Christophers & The Sixteen - Barber: Agnus Dei - An American Collection - Agnus Dei合唱曲「アニュス・デイ(神の子羊)」という、珍しい曲で終わる。

 CDの構成は実に優れており、バーバーの全体像のコンパクトな入門の一枚として、これ以上のCDはないだろう。演奏者も、スラットキン/セントルイス響をはじめとして一流で、録音もテラークらしい、潤いに満ちた生々しさがある。

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 一方、Samuel BarberiTunesで手に入るのは、このCDとはほとんど重複しない、限られた曲だが、Barberpianosonataetcピアノ・ソナタ(これは珍しく2種類登録されているが、John Browningの方をお薦め)やチェロ・ソナタ(この曲はブラームスっぽい)など、室内楽・器楽系が多いので、先ほどのCDを補完する「衝動聴き」にはもってこいである。

 自身、コンサートにはほとんど立たなかったが、ピアニスト・バリトン歌手でもあったことから、管弦楽曲のみならず、ピアノ曲・歌曲の分野にも佳作が多い(歌曲はiTunesにはないが)。

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 彼の曲は、ある意味ではかなり保守的ともいえるが、非常に透明でウェットな、しみじみとした曲が多く、私にとっては、同世代のアメリカの作曲家、コープランドやアイヴズよりははるかに身近である。意外と、ラヴェルの響きに近いと感じるが、大曲はもっと構成的で、ドイツ的伝統に根ざしているが、決して晦渋にならない。

 特に、アメリカの作曲家は苦手、という方にこそ、おすすめ。

 なお、ピアノソナタに関しては、先述のBrowningの演奏の方が個人的には好みだが、「ピアノ独奏曲集(Piano Solo Music)」と題した、ナクソス・レーベルのDaniel Pollack - Barber: Complete Published Solo Piano MusicDaniel Pollack盤も、なかなか聴いていて癒される小品がたくさん入っていて、お薦めである。

 これから、海外廉価盤で出ている交響曲、協奏曲も全曲聴いてみるつもりである。購入はHWM Japanサイトが一番幅広く対応しているようである。

HMVジャパン

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2007/11/09

椎名林檎「唄ひ手冥利 巻之壱」etc.(クラシックの原曲紹介つき)[第3版]

 さて、林檎なんだけど、すでに1st「無罪モラトリアム」は中古盤入手して聴きましたし、いろいろすでに言葉にできそうなこと貯まっててきているけど、あとに回して。

 林檎は、ayuと同じで「アルバム・アーティスト」という観点から眺めるとおもしろそうだという予感は、iTunes Storeを渉猟した時点で感じたことだったが、アルバムの2枚目以降は積み残しの現状でも、それは当たっていたと思う。

 そういう中、変化球だけど、iTunes Storeにも他のアルバムと同様に入っていない、カバー集、「唄ひ手冥利 巻之壱」からここでは取り上げましょうか。

 どうもこのアルバムは、ベストアルバムを作りたいという会社の意向に抵抗した挙げ句に作られたようだが、やっつけ仕事椎名林檎 - 絶頂集 - やっつけ仕事(^^)ではない。曲目を知った時点で、なぜこの曲のあとにこの曲が.....と感じ、かなりぶっ飛んだ凝ったカバー集になると想像していた。

 何しろ、シューベルトの「野薔薇」(この曲についての私の蘊蓄は私のこの記事を参照)やノルウェイの作曲家、グリーグの「君を愛す」のドイツ語による歌唱。特に「君を愛す」は、原曲を知る者として、クリスタルな編曲がすばらしい。

 そして、NHK「みんなの歌」のおかげで(「りんごのうた」とは無関係)、ある世代以上の人で聴いたことがない人はほとんどいないはずの「小さな木の実」

 (ロシア民謡あたりと勘違いされそうな憂愁の曲想ですが、フランスのビゼーの「美しいパースの娘」という歌劇のアリアが原曲。「アルルの女」のメヌエットとして著名なフルートの名曲もこの歌劇の別のアリアが原曲。 「みんなの歌」バージョンの歌詞でiTunes Storeにあるもの......としては、少しオールドなジャジーだけど、畠山美由紀の畠山美由紀 with ASA-CHANG&ブルーハッツ - わたしのうた - 小さな木の実これしか選択肢がないの(^^;) ビゼーの原曲の方が、男の声だけど実は意外と雰囲気ある。それは後ろの部分で紹介)

 それらと、「枯葉」「木綿のハンカチーフ」や、ジョン・レノンやカーペンターズが同居する選曲は(詳しくはWikipedia参照)、ある意味でまさにそう。

 もっとも、このブログのように、次の記事がどんな記事になるか予測不能の感性の私は、この点は結構あっさり受け入れられたというか、この人の感性のある側面に楽々シンクロできたのだが(^^;)

 しかし、同時に、林檎の正統派的幅の広さを認識させられもした。ドイツ語、何ともしっかりしている。"o"にウムラウト(上に点2つ)の、「イ」とも「エ」とも日本人には聞こえる発音が全くきちんとしているし、その一方で、「枯葉」なんて完全にシャンソン風に歌いこなそうとしているし。日本人に聞えない(^^)

 太田裕美のファンだった私にも違和感のない「木綿のハンカチーフ」だったし、そこに、彼女自身の曲で繰り返していた、育った福岡(百道小や、初ライブをやったという西新ってのは私の通った高校の周辺ではないか。もとより、私が高校生の頃、林檎はayuと同様にまだ前世におられた)から上京の際の恋人との別れというテーマが重なり、うまい編曲になっている。

 朱里エイコの曲も、歌い口をいつもと微妙に変えて、ホントに朱里エイコタッチに聞こえた。


*****


 そして、これは林檎やひっきー(宇多田ヒカル)のファンはご承知の人も少なくないでしょうが、この二人の対等なデュエットが、ライナーノーツ的にはさりげなく、一曲入っているわけで。ライブで「東芝ガールズ」として共演したとかの情報は知ってましたけど、ちゃんと正式にCDに収まっているとは知らなかった。

 私が、ある時期までビートルズとオリビア・ニュートン=ジョンと共に、洋楽(^^;)で数少ない聴き込んでいたアーティスト(でも同時代ファンというには若干遅れている)である、カーペンターズの私の好きな曲のひとつ、カーペンターズ - Carpenters: Gold - Greatest Hits - I Won't Last a Day Without You"I won't last a day without you"である。これは、かなりオーソドックスに原曲を生かしつつ、現代日本の心象風景に読み替えもした、というあたりのアレンジかな。

 なお、カーペンターズをベストで買うなら、iTunesにも入っている、"Gold: 35th Anniversary Edition"これがやはりベストでしょう.


*****


 ちなみに、クラシック系の原曲をお探しの方は、
Dietrich Fischer-Dieskau & Gerald Moore - Schubert: Schwanengesang; Lieder - Heidenr?slein, D. 257 (Op. 3/3): Sah ein Knab' ein R?slein steh'n「野薔薇」
Elisabeth Schwarzkopf/Gerald Moore - Songs You Love - Melodies of the Heart Op. 5: Ich liebe dich (Andersen transl. Holstein)「君を愛す」

 「野薔薇」と「君を愛す」は、フィッシャー=ディスカウ、そして、シュワルツコップフという、ドイツリート歌手として男女それぞれの大御所の定番です。


Royal Philharmonic Orchestra & Sir Thomas Beecham - Bizet: The Fair Maid of Perth - The Fair Maid of Perth: Act 2:13 Serenade「小さな木の実」

 元のタイトル「セレナード」。ビゼーの歌劇「美しいパースの娘」で歌われているそのままです、男声なんですね、本来は。.....iTune Storeでも古い録音がひとつしかヒットしない曲で、欧米でより日本で知られることになった曲の可能性が高く、この曲を発掘した「みんなの歌」スタッフはものすごい慧眼です。最初にレジタティーヴォ[(叙唱・・・語るように歌う、前置きの部分]がかなりあってから、やっと、おなじみのメロディになります。

******


 いずれにしても、ayuとひっきー、そして林檎の3人が、2000年に入ってからあたりの「別格的」女性アーティスト、という、ある意味でありふれているかもしれない認識は十分確立してしまった私である。

 林檎もこれから頻繁に聴くのは間違いない1人に入ったと感じてますが、林檎のオリジナル曲については、少なくとも「勝訴ストリップ」の中古が届いた段階で.....ということで。


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【増補】

 ......といいつつ、それでも暫定的に、林檎聴き始め1週間の人間が、おこがましくも、お薦め書いちゃうか!! 

 私のチョイスとして、今のところ、林檎に「入門」するなら、
椎名林檎 - りんごのうた - EP - りんごのうた「りんごのうた」
はもう別格として、デビュー曲の椎名林檎 - 幸福論 - EP - 幸福論「幸福論」シングルバージョン。この曲の中に、すでに林檎調のすべてが隠れているのに、最初は気づかれにくいので、免疫形成に向いている。

 典型的林檎タッチのアクティブな曲としては椎名林檎 - 罪と罰 - EP - 罪と罰「罪と罰」椎名林檎 - 真夜中は純潔 - EP - 真夜中は純潔「真夜中は純潔」椎名林檎 - 本能 - EP - 本能「本能」

....というのが、数日聴き込んできた上での無理のないチョイスかな???


 林檎の提供曲としては、ともさかりえともさかりえ - 少女ロボット - EP - 少女ロボット「少女ロボット」も、林檎の個性の刻印が明瞭な曲と思います。これは東京事変 - 少女ロボット - Single - 少女ロボット「東京事変」時代になって、林檎本人も歌ってますが。

 そして、前の記事でも触れたけど、個人的に不思議に惹かれたのが、歌詞だけ前に読んじゃうとメロディーの清澄さに驚くけど、更に歌詞を深く味わうと、やはり「この」メロディーになるんだ!! と、林檎の心境を妙に納得した、「モルヒネ」ですが、これはiTunes Storeにありません(^^;)。

 Apple Store(Japan)

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2007/10/16

マリー・アントワネット処刑の日にちなんで

 この記事で紹介したCDを再度紹介しておきます。

 ウェルサイユの調べ ~マリー・アントワネットが書いた12の歌/
ドゥセク作曲 : 朗読つきピアノ組曲「マリー・アントワネット処刑」

 池田理代子(ソプラノ・朗読・ライナーノーツ) 蒲谷昌子(ピアノ) KKCC-3010


 「ベルばら」の原作者、漫画家の池田理代子さんが、1995年に音大に入りなおして声楽を学び、今はオペラやミュージカル、コンサートの舞台にも立つソプラノ歌手としても活躍していることをどのくらいの方がご存知だろうか? 

 このCDの前半はマリー・アントワネット自身による作曲とされる歌曲12曲を池田さん自身がフランス語で歌っている。詳細は上述の、以前に書いた記事参照。

 後半は、ドゥセクの朗読つきビアノ組曲だが、アントワネットが投獄されてから処刑されるまでの9つの情景を、ナレーションをはさみながら9曲つなげたものである。(ドゥセクは革命前の、アントワネットを含む王室との親交を理由にフランスには居づらくなり、イギリスに活動の拠点を移し、アントワネットの処刑の直後にこの曲を作曲している。つまり典型的な「王党派」とみられていたということになる)

 だたしこの録音では、ナレーションをすべて「ベルばら」原作の該当シーンに置き換え、池田さん自らがアントワネットに扮して朗読している(当然日本語)点に特徴がある。池田さんの朗読は、むしろアニメのオスカル役の田島令子さんの声に近いタッチとも受け取れるが、なかなかうまい気がする。

 こうした、標題音楽的な器楽曲は、当時決して珍しいものではなかった。ベートーヴェンの「田園」交響曲からして、実は類似の「田舎の生活」をテーマとした表題音楽がすでに山のように作られていた中で作曲されたので、発表当初「ああ、またこのパターンの曲か」と、さほど人々の注目を引かなかっただけである。

 曲想は、まるでベートーヴェンの頃の古典派音楽を「堅実に」学んだ作曲家なら、このように表現するだろう、といいたくなる、古典派的であり、適度にドラマチックな書法である。ベートーヴェンやモーツァルトが「超Aクラスの」somethingを持った大作曲家として歴史に残るには、このような類似の書法の「Aクラスの」作曲家.....ただし、後世はあまり聴かれなくなる.......が、同時代にはたくさんいて、人気を博していたとみる方が自然なことのようにも思う。

 つまり、すべてをモーツアルトやベートーヴェンが作り上げたわけではなく、同時代の曲から多くを吸収し、さらに時代を突き抜けた「何か」をそこに含ませられるかどうかの違いが、後の時代にまで「天才」と呼ばれるかどうかの違いであろう。

 でも、「ベルばら」の名シーンの、原作者による朗読に、アントワネット処刑直後に同時代の作曲家がつけた劇音楽が時代を超えてひとつになったと思うと、普段クラシックと無縁の人すら、結構楽しめるかとおもいます。


映画「マリー・アントワネット」(キルスティン・ダンスト主演)

Siouxsie & the Banshees - マリー・アントワネット (オリジナル・サウンドラック)オリジナル・サウンドトラック)

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2007/10/01

ステンカ・ラージンについて(第4版)

ヴォルガの流れは果てしなく続いていました。
ステンカ・ラージンは、手下たちと一緒の舟に乗っていました。
麗しいペルシャの姫に彼はご満悦。
でも、手下たちがそれを誹謗(ひぼう)していることに、ラージンは気づきました。

そこで早速、ラージンは、姫をヴォルガ河に放り投げました。


 「ヴォルガ、ヴォルガ、
 生みの母、
 ヴォルガ、
 ロシアの河よ。
 贈り物を受け取ってくれ。
 これがドン・コサックからの美しい贈り物だ」

Stenkara_2


* どうしてステンカ・ラージンはペルシャの姫をボルガ川に投げ込むのか
     (サイト「ロシア民謡の謎を追う!」)

そして、ラージンは、更に叫びます。

 「お前たちはなぜ沈んでいる?
 さあ、フィルカよ、
 踊ってくれ。
 皆で陽気に歌い、
 姫の冥福を祈ろう。」

(一般に日本で唄われている与田準一による訳詞とメロディはこちら。)

Don Kosaken Chor, Iwan Assur & Serge Jaroff - Meisterst?cke - Stenka Rasin

【注】ステンカ(ステファン)・ラージンは、ドン河を中心として活躍した「ドン」・コサックの首領。皇帝に対して反乱を起こし、最後に処刑されたた「ステンカ・ラージンの乱」(1858)を通して、民衆のヒーローとして様々な伝説を生む。補遺ーローとしてドン・コサックはヴォルガ河を経由してカスピ海を南下し、ペルシャを侵略した。この「姫投げ」のモチーフは、キリスト教以前のロシアの自然崇拝における母なる川への生け贄という異境的儀礼の名残りでもあると推測される。

 なお、歌詞中のフィルカとは、ステンカ・ラージンの娘のことを指すだろうとのこと。

 (........以上、伊藤一郎著「マーシャは川を渡れない -ロシア民謡の中の文化-」による。)


******


 私は、子供の頃に、このロシアの歌(ドミートリー・ニコラエヴィチ・サドフニコフ作詞)の日本語訳(直訳)をはじめて読んだ時の異様な感慨と同じ感じに襲われるたびに、

すてんか らーじん!!

と心の中で叫ぶようになりました。


 もっとも、私は、手下たちの「嫉妬」を察しての、ラージンの行為だとのみ、ずぅーーーーっと、勘違いしていました。でも、私の感じたわけのわからない衝撃は、生け贄儀礼の残照と理解する方がよほど実感とフィットします。

 これが私の太古的・元型的表象(???)の具現化、すてんか・らーじニズムの原点です。

 直前の記事参照。

 続編こちらにあります。

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msn産経化(?)

 郵政公社開始以上にネット界での話題かもしれない。

 私はmsnに最初に告知が出た、数ヶ月前のその日に気がついていたのだが、マイクロソフトは何を考えているのか、日本でのマイクロソフトやWindows系パソコンのシェアにすら影響しないかすらと感じた人は少なからずいて、とっくに議論が山のように出た事柄とは当然認識している。

 ちなみに毎日新聞側は、毎日jpサイトを今日から新規開設している。

 ともかく、日本の「ネット」社会の、報道に対する意識についての歴史的(?)実験かもしれない。他のマスコミが報道するかどうかが、みものである。

 私のブログでは、この記事を参照。(とりあえず)。

 BGMはもちろん宇多田ヒカル - Beautiful World / Kiss & Cry - EPこのアルバムの一曲目です。


*****


 かつて小林よしのり氏が「参考になる」と誌面のはじっこで明言した「八王子の阿世賀浩一郎」(当時)によるすてんからーじん!!イズム宣言の運営・執筆する、当サイトより!!

Stenka Rasin!!


 最後に、

ファンファーレ!!  Eder Quartet & Dmitri Shostakovich - The Very Best of Shostakovich - Festive Overture(ドミートリイ・ショスタコーヴィチ/祝典序曲)

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2007/09/09

ライトノベル (今日のテーマ)

BlogPet 今日のテーマ ライトノベル
「ライトノベルを読んだことはありますか? 読んだことがある方は好きな作品を教えてください。」
 ライトノベルって、定義が曖昧みたいだけど、最近のは読んでません。
 
 新井素子の「扉を開けて」田中芳樹の「銀河英雄伝説」をライトノベルと呼んだら、違和感ある人少なくないでしょうが。共に愛読書でした。

「銀英伝」は重厚で立派な「仮想歴史小説」。まだお読みでない方は、タイトルに惑わされないで。海千山千の歴史小説ファンでも、その底知れぬまでに重厚な「歴史の捏造」ぶりに仰天すること間違いなし。ほんとに世界史に通じた作家が書いていると感じさせる、史書の風格が桁外れ。これはSFではない。ガンダムの歴史構造にもここまでの風格はないと思う。後に、10年がかりで全ストーリーがアニメ化されて、完結からすでに10年経ちましたが。

Nielsen アフィリエイトは、少しひねって、最初にアニメ化された時点で凄く印象的な使い方をされた、デンマークの作曲家、ニールセンの交響曲第4番「不滅」の、私の愛聴盤。カラヤン盤ではないところがミソ。ブロムシュテットの、ひたすらタイトな演奏でこそ得られる曲の本質(写真は交響曲全集盤のもの)。

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2007/07/31

続・映画「ピアノの森」について。

 映画「ピアノの森」についての続きです。

 原作全巻(今出ている14巻まで)、一気に読み終わりました。

 

 その上で映画を判断してみると、エピソードの整理や曲の変更を含めて、1時間40分という、映画館の上映でこのラインを超えるかどうかでロードショーの収益の分かれ目になりまねない範囲の中で、原作を生かして、ほぼめいっぱいのことを表現し尽くせたと判断していいと思う。

 修平君のお父さんを写真としてしか登場させず、ばっさり切ったのも、やむを得ない割り切りだと思う。森の端の表現についても、夏休み映画として、小学生が団体さんで見に来ることまで考えれば、あれが目一杯かもしれない。亜里砂を出していないもの、同じような割り切りとしてやむなしだろうか。

 ピアノについては、前の記事で書いた、コンクールでの海の演奏にパンチが欠けるという点を除いては、文句なし!!「子犬のワルツ」をうまく弾けなかった時点での海の演奏も、原作だけではわからない域まで具体的に形にしてくれたと思う。

 サントラ盤の演奏も、篠原敬介さん作曲BGMのチェコ・フィル/プラハ・ドヴォルザークホールでの演奏は、響きがたいへん美しく、文句なし。コンサートのシーンでは、海=アシュケナージさんの演奏、映画ではエコーをかけすぎて損をしたところもある気もする。他のシーンでは文句なしと感じるし。

 ほんとうにアシュケナージさんが宗介や海のピアノに適任だったかどうかは微妙とも思うけど、アシュケナージさんがN響監督という関係もあり、日本滞在期間を有効に生かせるという意味では、贅沢な、普通なかなかできない協力者としての人選だと思う。続編を作って、ショパンコンクールへと話が展開することになれば、アシュケナージさんは更に生きると思う。

「バラード集」「24の前奏曲」にいてはアシュケナージさんの(いずれも旧盤です)が今でも一番好きである。

 しかし、続編となると、修平のお父さんやらセロー先生やら、ショパン・コンクールのライバルやら、いろんなピアニストの演奏が目白押しになってしまい、それをどう処理していくかが問題となる気もする。


****


 原作14巻まで読む限り、誉子と冴の関係がどこで絡むか興味深い。誉子は現段階では海にパーペキ片思いなので分が悪いかな。でも海って、ふたりをあっさり見捨てて遠くに行ってしまいかねないキャラという気もする。(連載のその後読んでないので、勝手に書きます(^^;)

 いずれにしても、音楽ものの原作としては、90%以上、その可能性を実現できた映画だと考えたい。

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2007/07/28

ピアノ (今日のテーマ)

BlogPet 今日のテーマ ピアノ
「子供の頃、ピアノを習ったことがありますか?また、ピアノで弾いたことのある曲は何ですか?」
(Sponsored by 映画「ピアノの森」7月21日全国ロードショー

幼稚園時代にヤマハの「エレクトーン」教室には通っていました。そうした中で印象深かった、「かわいそうなこねこ」というタイトルの曲が、シューマンの「子供のためのアルバム」(「子供の情景」ではなくて、誰でも絶対聴いたことがある「楽しい農夫」が収録されている)の一曲、「最初の喪失」と知るのは大人になってシューマンなら何でも聴くモードになってからの巡り会いでした。

 

 恐らく私が弾いた一番高度な曲は、モーツァルトの「そり遊び」止まりだと思います(^^)

 

 あとはひたすら、後年の「耳年増」です。

 

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2007/07/27

アニメ「ピアノの森」について(第4版)

 さて、お約束の「ピアノの森」でっす。


●以下、核心にまでは迫らないけど、そこそこネタバレ注意!!●

 念のために言いますと、一色まことさんの原作、連載開始時からの評判の高さは知っていましたが、モーニングでの連載再開直後の数回だけしか実際には読んでいません。

 私は、アニメに限らず、原作ものの映画は、映画として自立しておもしろいかどうかを重視することにしています。その上で、原作の持ち味で映画に生かせたかもしれない部分を想定するという思考法を取ることが多い。それこそ、「ナウシカ」にしたところで、原作に思い入れがある人は、当初いろいろ不満がある人が多かった、という現実があるわけで。 

 そこで、映画を観た後で、原作のおおよそのストーリーの流れや原作時に演奏されたとされている曲名は掌握し(私がこれまで聴いたこともないクラシックのピアノ曲が出てくる心配はまずない域のクラシックファンですから)、ネットのあちこちでの評価も読んだ上で書いています。さすがに原作を実際に読んでから(5巻までのストーリーに当たるそうで)というのでは、up to dateでなくなりますから。これから原作も注文して、それを読んだ上での感想も後で書きます

******

 まず、ストーリーとしての「一本の独立した作品」としてのまとまりという点では、平均以上だろう。ただ、アニメ「時をかける少女」オリジナル作品としての魅力よりは、やや「穏健」な印象。アニメ「時かけ」は、私の世代のようにNHK「タイム・トラベラー」と原田知世の大林宣彦監督作品映画のどちらにも思い入れがある世代でも、それらや原作とどう違うかなど、この際どうでもいいやと感じさせる、ある意味では「過去の映像化なんて知らないよ!、原作はアイデアの素材なのだ」とまで開き直れる。「自立したオリジナル劇場映画作品」として十分堪能だけの"something"あった。私の「アニメ「時かけ」評はこちら

 その意味では、「ピアノの森」の場合、原作を知らなくても十分楽しめる域とは思うが、"something"はどうだろう? きっと、(私はほんの一部分しか読んだことないのに、過去の類似の経験から想像して言うと、)少なくとも原作ファンの「熱狂的ファン層」はいろいろ言いたくなるだろうと想定できた。.


*****


 修平が森ではじめて耳にする海(かい)のオリジナルの曲が、もろ、ドビュッシーもどきの曲(ひどい!! と別サイトでいわれちゃったけど、これ、褒めてるつもりです.....浅い次元ではない完成度!!)。確かこれは、この映画のためにアシュケナージが弾いた演奏だが、深みのある音色でなかなか聴かせる。「もどき」曲としては実に良くできた曲だと思うが、原作ファンにとってはこれではイメージが違う人もいるかな

(追記:原作第1巻今読了。CDも到着。映画でのオリジナル曲は期待を裏切らない、ベストの水準と認定!! ここでのアシュケナージさんの演奏は素晴らしいと思う)

 全体のキーになる曲を、モーツアルトのK.310,イ短調ソナタ(以前は第8番とされていたが、最近は第9番としている場合ものあるので要注意!!)にしたのは、これはこれでいいのではないかと思う。(調べたところ、原作では別のシーンで出てきたそうで)。クラシックを聞き慣れない人でも、このソナタは、はじめて聴いても多くの人にインパクトがある、「後をひく」曲だと感じさせるだろう。一見シンプルな曲なのに、そこにここまで一聴してデモーニッシュ(悪魔的)な深みを感じさせる曲はそう滅多にないと思う。主人公の海が、第3楽章について、「1回で聴いて覚えた」というのは、すごく自然に(?)理解できる。演奏の天才が作曲の天才に触発されるというのには、いかにもと思わされる、「強い曲」なのだ。

 有名な「トルコ行進曲」付,K.331ではピンと来にくいモーツァルトの「意外な」魅力に気づかされ、この曲なら原曲全体を聴いてみたいという気になりやすい。個人的にも、モーツアルトのビアノソナタの中で、いや、ピアノ作品全体と観ても普段から一番繰り返して聴く曲のひとつ。だから、映画を通しても、出てくるシーン1回1回の演奏の質の違いが私には受け止めやすく、そういう点で、この映画は演奏そのものにまで、作中の登場人物の個々のシーンでの心情が「演出」されているのはわかる。監督さんはクラシックになじみのない人だったらしいけど、音のスタッフにそういう点を考慮できる人がちゃんといたのだと思う。

 私はシフ盤やタッキーノ盤(どちらも現在アマゾンでも楽天でも入手無理)になじんでいますけどMaria Jo?o Pires - Mozart: Piano Sonatas K. 310, 333 & 545 - Piano Sonata No. 8 in A Minor, K. 310: III. Prestoではピリス盤ということで(.....あれこれ試して、やっと検索できた!!)。この「映画の」空気に一致するのはこの演奏が一番かなと思います。清廉だけどテンションが高い。ピリス自体がボーイッシュなところがある人だし(少なくとも録音した頃は)。

 この曲ではクールド盤もおもしろい。

 ともかく、モーツァルトのソナタの時のクールドくらい、「何なんだ?!」と感じる演奏は滅多にないだろう。このイ短調ソナタの場合も、「冒頭の音」からして異色な扱いです。ピアニストが自分の音の世界をとことん一貫するという意味では、「ピアノの森」精神に通じる演奏家も。クラシックの曲がみんな同じに演奏に聴こえる人には、このアルバム全体がお薦めです。

 原作のK.280,ヘ長調ソナタは、これに比べると独特の深みこそあるけど、その深みとは、かなり「通好み」の陰影だと思う。これを機会に聴きなおしてみたけど、上述のクールド盤(この曲も同じCDに収録)は、この作品の陰影のダイナミズムをくっきりと聴かせるという意味で、この曲をはじめて聴くのにもベストかも知れない。

 ライバル、"ウェンディーッ!!" 誉子のコンクール課題曲をバッハのイタリア協奏曲の終楽章にしたのは、原作ではどうだったかかはわからないまま書いてるけど、私はよかったと思う。バッハの鍵盤曲の中では一番ゴージャスな聴き映えがする曲だし、誉子の代りに実際に演奏している若手の人のも、スピーディーで音の粒のそろった、いかにも若手らしい演奏だし。私はピアノではクルダ盤を愛聴してます。


曽根麻矢子 - バッハ: イタリア協奏曲, フランス風序曲 - イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971 Prestoでは敢えて、本来のチェンバロでの曽根麻矢子さんの演奏
にしておこう。


*****


 「イタリア協奏曲」ついでにいうと、結構「専門家的に」喜んで笑ったのは、海が誉子に緊張解消法として提示したやり方(あれって、原作では、別のシーンでもともとは阿字野 壮介センセーが海に暗示したやり方らしいですね)って、フォーカシングの世界では、メアリー・マクガイアが論文で書いている技法を思い出させる部分があって。大学院時代に個人的に全文訳出したことがある。

 私はそこで、原文の"solid place"「確かな居場所」と訳したけど、実は、まあ映画で描かれたような場所を思い浮かべることです。まさに、「そんな場所や記憶はない」という人に、「それでも、日常のさりげない場面で、どこかあるのでは?」と、うまく水を向けると、まさに「ああいう場所」でだけはほっとしている自分がいるうことを思い出したりするのである。

 そういう、さりげなさと「意外性」のある現実場面が浮かぶことに意味があるのです。


*****


 一色さんの「出直しといで!」やいくつかの短編は全部連載当時に読んでますけど、彼女の作風って、泥臭い場面ではむっちゃくっちゃ泥臭い、破天荒、そして結構シビア、という特性がありと思うんだけど、その点でいうと、きっと「大人しい」と思う人があると思います。かーちゃんの勤める歓楽街のシーンありますけど、かーちゃんが、さりげなく、金回りが良さそうな怖いおにーさんと一緒にいるあたりで、彼女がどんなきわどい生き方してるか暗示してますけど(初代「ガンダム」で、アムロの再会したおかーさんが男連れなのをさりげなく描いていたのを思い出す「本放送世代」だが,,,,)、原作では遙かにきわどい描写を重ねていることは容易に想像がつく。小学生とかも観ることを考えての限界でもあるのだろうけど。

 ラストのコンクール予選シーンでの、海の暴走に関しては、私はあのアドリブ程度では納得しないぞ。ルール違反やるなら、私も当然予選通過させない!といたくなる。原作との比較をしなくてもね。よほど、誉子や修平の演奏シーンの方が、コンクールで勝ち残るのは、いかにもこういう演奏だろう(いい意味でです)、と納得できてしまう気はする。全部アシュケナージさんが弾いてはならないのだ!!

 私がこの映画から勝手に想定すると、阿字野センセーのピアノは、Emil Gilels, Kurt Masur & State Symphony Orchestra - Beethoven: Piano Concertos Nos. 1, 2 - Concerto for Piano and Orchestra No. 1 In C Major, Op. 15: III Rondo (Allegro Scherzando)エミール・ギレリスばりの、外面的ではないが、構築的でしかも奔放でsolidなテクニシャンのイメージになる。アシュケナージさんとはかなり異質の(^^;)

(上記のギレリスのライブは、以前から紹介しようと思っていた、高校時代にFMでエアチェックして以来、「隠れた」名演と思っていたのだが、なぜこういうのはiTunesで日本でも買えるのだ???)

 でも、全体としてのまとまりには破綻がないし、登場人物の心境の動きもまったく自然には描かれていて、1時間40分で描くのにはちょうどぴったりのサイズにまとまっていて、一本の劇場作品として、十分良作と感じた。演奏の質を含めて暫定★★★★。

 声優さんにも海役の上戸彩さん含めて、私は違和感がないです。「時かけ」の方が、露骨に下手な人がいた気がする。あと、ピアノ演奏シーンは、ホントに画面と音が自然に一致していた。アシュケナージさんの演奏をビデオで撮って、手書きで動画を起こしたといパンフにはある。

 あと、動画はしっかり細やかに作ってるけど、原作の一色さんの描線のつややかな美しさを感じる側面の再現は、どうなんだろう???? 先ほど書いた、「泥臭さ」との落差あっての美しさという点では、十分に表現されているのか???

 でも、この記事の最初に掲示している「サントラ盤」(ホントのサントラ盤は「これ」です!!)、この記事書くのに届くの間に合わなくて、まだ未聴だけど、映画館でも「聴く」上でベストのポジションで観てますから(^^)、最良のこのサントラCDが独立したアルバムとして高水準なのは、まず間違いないでしょう。


*****


 これ以上は、原作の少なくとも5巻までは読んでから、書きましょう。

......あと、「時かけ」について、私なりに追加したいことがあるけど、別の機会に。

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2007/06/23

宝物(今日のテーマ)

BlogPet 今日のテーマ 宝物
「あなたが大切にしている宝物ありますか?」
「物」でなくていいというのなら、結局、他ならぬ私自身がフォーカシングを使いこなせること....ということになるかと思います。

そんなに魔法のように人生の課題が解決するわけではない。しかし,結局、自分をこれ以上深く見つめさせてくれ、ものごとを深く味あわせてくれるものはない。

私のフォーカシングの「最終兵器」的使い方は、寝る前に、自分の中の漠然とした言葉にならない感じそのものを十分につかみ、それとただ共にいる形で,いつの間にか寝てしまうのでよしとすることなんですね(^^;)

 そうすると、たいてい、とんでもないくらいに奇想天外な夢を見ることができる。

 意識的にフェルトセンスをつかんだ上でいつの間にか寝入ってしまう時と、それをしないままに夢を見る時とでは、夢の生産性の質が違うとははっきり感じてます。世の中に、自分が「覚えていられる夢を見たい」という願望を意識的にかなえることができるテクニックは、あまりないと思いますが(^^) フォーカシング身につけている人みんながそうかはどうかはわかりませんけど。

 ちなみに「フォーカシングしながらいつの間にか寝入る方が、それをしないまま眠り込むよりマシ」という主張は、私がフォーカシング業界に文章でデビューした、「日常におけるフォーカシング」フォーカシング・フォーラム 第4巻 1号 日本フォーカシング研究会事務局 1987で、つまり、ちょうど20年も前にすでに書いていることです。

 目が覚めて来て、その余韻をじっくり味わうだけでも、自分の中の「何か」がまだ果てしなく生産的な活動をして、自分の人生と全身全霊で戦い、味わえる森羅万象を味わい尽くそうとしているのはわかります。

 自分の心とからだはまだこんなにも必死にいきいきと活動し、体験を消化しようとしている。しかもその内容と展開のバラエティと新鮮さは、どこまでも果てしないもの。

 仮に昼間の現実生活が膠着し,活路が見出せない時でも、夢の中では、スリルとサスペンスに満ちたファンタジックなRPGが毎晩一からライブで生成されているみたいなものです。起きてから夢でよかったとほっとするくらいにスリリング過ぎる内容のことも多いのですが(^^)

 これだけ含蓄の多い夢を連発で見続けられる限りは、私の心身はまだ可能性に満ちていると思えてしまう....

****

 そういう、フォーカシングとの「パーソナルな」絆が強過ぎることが、私に人に頼ることに対する消極性や,外的な行動面での抜本的な思い切りのなさを生み出してはいまいかとすら思う時もありますけど。

 でも、「自分の(自分のための)」フォーカシングに対するある種の「片意地さ」(早い話、自分以外の「誰も」その点では信じていないとすらいえる)ってのが、結局私の最後の「砦(とりで)」という気はします。

 その私なりのフォーカシングへのこだわりと折り合えるところにしか、私の未来は開けないでしょう(^^)

 それまでは、しぶとく「生き延びる」と思います。


****


 あと「物」的に言えば、書物で言えば、結局、中井久夫先生の著作が、最後には一番虚心に読める、癒される著作群と感じます。

 そして、すでに10年近く前に1000枚を超えていたクラシックのCD群。そしてそれを新鮮な形でiPodで聴きなおせる、遂に出会った究極のお気に入りヘッドフォン、ALESSANDRO(アレッサンドロ) MUSIC SERIES PRO(「今現在は日本に「入荷済み」の店はない??? あればめっけものです。ここで「予約注文」はしてますが)ということになりますでしょうか。

 音の質は、敢えて言えば「すごくスピード感があって透明度も高く、分解能もいい、しかもタンノイのスピーカーのような音」。プラスティック系の部品で作られた部分がほとんどなく、フライホイールがマガボニー削りだしであること、UHPLC銅線がそういう音の印象に相当影響しているはず。弦やヴォーカル、ピアノの音の、ボディのしかりとした繊細な生々しさは、滅多にない水準でしょう。でも、「やわらかい、おだやかな」音ではない。

このヘッドフォンの最近気がついた使用ノウハウ追加。付属の延長ミニブラグを使う場合は、ステレオ標準ブラグとそれを差し込む標準ジャック側の内側を、少量の接点復活材で「これでもか!!」というくらいに磨き上げること!! 銅メッキによると思える緑青の青さが綿棒などに全くつかなくなる域までそれをやると、驚くほど透明度が向上するのである。基本的に音楽ジャンルはオールラウンドで、本場ドイツのトランス・ミュージックとかの解像度と瞬発力もたいしたものですが、アナログマスタリングのクラシックのCDが、ほんとにアナログレコードを思い出させる繊細なニュアンスがiPodで聴けることがあります。マスタリングが冴えない古いCDと思っていたものほど,このヘッドフォンを通すと驚く新鮮さになることが多い。
 

Alessandro

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2007/06/02

こういちろう、プログレに挑む!!

 壺イメージ療法についてのカウンセラーらしい解説を唐突に放置して(壺に入れて置いておいて?)、少し前から準備していたネタの方を唐突に始めるこういちろうであった。

 ひとつの記事を無理して完成させず、未完のままup、並行して別の記事を書いてしまうというスタイルを多少試してみるつもりである。読者には「途中までではないか!」と迷惑かもしれないけど、ちゃんとタイトルで「未完」と表示しますのでお許しを!!


*****


 .....ということで、唐突にプログレである。しかもリック・ウェイクマンである。イエスのキーボード奏者として著名なお方。

 こういちろうが唐突にリック・ウェイクマンについて書くに至る伏線そのものが、恐らくこの人のファンからしても非常にコアな、「独創的な」(?)ルートを経ている。

 次のアルバムを実際に聴いた、持ってるという人はかなり珍しかろうから(^^;)


Arthr_bandaOs Mitos E Lendas Do Rei Arthur E Os Cavaleiros Da Távola Redonda / Banda Sinfônica Jovem Do Estado De São Paulo

 ブラジルのサンパウロのオーケストラなんですね。だからポルトガル語。

 なんでこんなのを買ったかというと、その当時、歴史好きの私は、アーサー王について調べることに凝っていまして、楽天の検索で「アーサー王」でヒットした。確かそのページには解説めいたものがほとんどなくて、オーケストラで描いたアーサー王関連の音楽というのも、ひとつぐらい買っておいていいかも....くらいの軽い気持ちだったのである。きっと現代音楽の人かなんかのだろうと(まあ、すっかり外れではなかったともいえるが....)。

 ところが聴いてみてぎっちょんちょん。

 これは何だ????

 この、時代がかった、大げさな響きは?

 映画音楽????

 ......にしては、途中で英語の歌詞が少しだけ入る。

 これは、きっと、英語圏の、相当有名なロックバンドのアルバムをそのままオーケストラ・バージョンにして演奏するという試みなのだろう。 それにしても、ブラジルでは何とも奇抜な試みをやるな。クラシックに聴衆を引き込むにはこんな試みも必要なのだろうか?

 ライブ録音で拍手も入る。クラシックのオーケストラとしてみたら、ある意味で何とも荒っぽい演奏だが、ドラムスもバリバリでえらく情熱的でド迫力。聴衆には受けるよなあ....

 ......実は、これがオリジナル・アルバムに忠実な、ライブにおける再現」であると気がついたのは、数日前、全く偶然に、wikipediaでだったりする。

.......こっちがオリジナル・アルバムですね。

(中古の値段が表示されてるけど、輸入盤の新品は1400円台です)。

 ジャケットかっこいいので、もう少し大きいのを載せましょ。

Arthur


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 ブログレについての、私の数日前までの認識は恐ろしく貧困であった。

 「要するに、ビートルズのアルバム、"Abbey Road"を元祖とする、曲がやたらと長くて、クラシックとも融合した、何やら『芸術的な』ロックの潮流」

 .....一応間違ってはおるまい(^^) 

 ビートルズだけは、大学院生の頃から、CDアルバムみんな揃えて、聴き込んでいたので。

 では、プログレの代表的なバンドをあげろと言われても、浮かんでも来ないし、聴いたこともない。

 ......え? ピンク・フロイドがそうなんだ。.....聴いたことがない!!

 豚さんが空を飛んでるジャケットは、高校時代に、FM雑誌の新譜の広告で見た記憶だけはなぜか鮮烈に残ってるけど。

アニマルズ / ピンク・フロイド (←調べたら、これのことです。豚さん小さすぎて見えない?
それじゃもっと大きいの ↓ .....こっちはまだ聴いてません)

Animals


*****


 リック・ウェイクマンへの動機づけがなぜ出てきたのかのもう一つの理由はというと、


「ブラームスの交響曲第4番第3楽章をなぜかシンセでやってる演奏」

を、中学のお掃除の時間になぜか1回だけ流れて(恐らく放送部員がゲリラ的に流したのだろう)、その記憶が妙に鮮烈に残っていて、ウェイクマンを調べていたらイエスのことに行き当たるわけで、イエスの代表的名盤とされる"Fragie"(こわれもの)にそういう曲("Cans and Brahms")があると知ったので、これは30年ぶりにやっと聴けるぞと思ったのが大きい。(今聴いたら、「多重録音でよくがんばったね!!」と一応言ってあげたくなる、今からすれば何とも素朴な水準ですが、これが忽然とロックのアルバムに入っているとは思いもよらず)


*****


 更に言うと、実はすでに別の経路でも、私はこの人の音楽に接していたことに気がつく。

 私が、ケン・ラッセル監督の、クラシックの作曲家をテーマにした伝記もの(?)映画のシリーズはほとんどみんな観ていることは以前お書きしたと思いますが、「リストマニア」という、リストをロックスターに見立てるという映画を昔観てまして、その音楽担当(映画で歌っている人ではない)がリックだったとのこと。

この映画のサントラCDの方は今も入手可能のようです(聴いてませんが、ご参考までに。

*****

.......で、結局、リックのアルバムのどれ一番気に入ったかというと、「アーサー王」の方は、オリジナル版のキーボードの凄い演奏力には驚き、デジタル以前の時代に、よくこれだけの音響空間を作り上げたこだわりの凄さ、そこに漂う、いかにもイギリス人的なノーブルな気品にはある種の感銘を受けました。

 でも、私にはどうしてもこの曲、かっこいいけど、「誇大妄想スレスレの無意味なまでの壮大さ」を感じてしまうとことがある。それを生み出した、アーティストとしてのただならぬ執念には脱帽もするけど、なるほど、アルコールにはまっちゃう人だよね、という、独特の"addictional"な「過剰さ」も伝わる気がして。素直に浸れない(もの凄い赤字を出してオケ雇ったそうですね)。

 むしろ、よりシンプルなセッションで、贅肉をそぎ落としたタイトさのある、ある意味でジャズ的なフィーリングも強い「ヘンリー8世と6人の妻」の方が、何やらジャンルわけ不能だけど、時代を超えても聴き継がれそうな、ずっと聴き返せる「滋味」のようなものを感じています。

(しかし、 iTunesに拠る限り、これも分類上は「ロック」になるのか........???)


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 ちなみに、ブラームスの交響曲第4番の原曲ですけど、私は、フルトヴェングラーの異様にうねうねと熱っぽいライヴ演奏と、ワルターの均整の取れた演奏の両方を愛してきました。アメリカのオケのせいか、それでも第3楽章はかなり響きが華やかですね。

HMVジャパン

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2007/05/25

「トラスティベル」.....クラシック音楽とRPGの融合

 MSNビデオのここにいくといくつかのCM画面がかなり長く観れます(IEVer.6以上のブラウザでないと入れません)。

 XBOX360ですか.....。ここまで画面が美しいと、従来のゲーム顧客層ではなくて、ゲームと無縁だった、かなり年長のクラシック愛好層をいきなりXBOXの新規顧客として開拓できるかも。音もブーニン使ってるわけで。

 ショパン主人公のとRPGというのは、一見唐突な取り合わせだけど、こういうのもあっていいと思う。ゲームへの高年齢層への認識を変えていきます、きっと。

 これから当面の私って、ひたすらがめつく「儲け続け、貯め続ける」モードを維持しないとならないタイミングなので、分割でもとても手を出せない「自制心」がいる。残念だが......

●「トラスティベル」公式サイト

ソフトのみゲーム機本体つきプレミアムパック

トラスティベル

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2007/05/24

シンガーソング(今日のテーマ)

BlogPet 今日のテーマ シンガーソング
「あなたがカラオケや鼻歌で歌う十八番はなんですか?」
 もっちろん私はayuですってば!! "A song for ××"ではじめて、"immature"から"SURREAL"が、あまり私が歌うと周囲に迷惑な時用の「ダイエット定食コース」でありまする。周囲にあわせて"SEASONS"でまるくおさめることにすることもあります。ayuの曲のうち「歌えない」のがせいぜい10曲ぐらいだろうか??? 恐らく最近だと、"HEAVEN"や"momentum"を加えたくなるでしょうが......

 でも、鼻歌となると、クラシックも多いですね。

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2007/04/29

ここ数年観た「映画」の最高傑作 -時をかける少女-(第2版)

「時をかける少女 」(監督:細田守 声の主演:仲里依紗)

 前の書き込みで思い出せませんでしたけど、私が「最後に」観た新作アニメは、高橋留美子原作の「人魚の森」のテレビでの放映でした(^^;)

 

 このアニメ化そのものが、作画に多少のばらつきこそありますが、秀作と言っていいものだと思います。このテレビ放映の際のavexのCMが,私とayuとの運命の出会いです。

ayumi hamasaki RMX WORKS from SUPER EUROBEAT preaents ayu-ro mix 3

ちなみに、このお店、このCDをCCCDって解説してるけど、そうではありません。ayuのユーロビートのリミックスCDは、すべてCCCDでもHDCDでもないのですが。.......いずれにしても、私とayuとの出会いはのっけがユーロビートだったんですね。

 それはさておき。


*****


 今回のアニメ版「時かけ」ですが、総合的に観て、私がこの数年観た、アニメのみならず、「映像作品」の中で、最高傑作であり、こういちろう超おすすめの一本であると断言いたします。

 .....といいますか、私の観て来た「全アニメ作品」の中で、私がもっとも評価したいし、感激し,楽しんだ作品のひとつであり、この水準に到達した実写映画は滅多にお目にかかれないとまで感じます。

 まず、「エヴァ」でおなじみの貞本義行さんのキャラクターデザインがベストマッチ。

 本格的に劇場仕様アニメを見るのは5年ぶりぐらいなものですから、完全に「浦島太郎」化しているのでしょうが、完全デジタル作画と思える背景美術の繊細な空気感だけでも、私には新鮮そのものでした。

 最初はキャラクターの動画だけが平面的なのがいやに気になりました。でも、それに見慣れてくると、いわゆるアニメキャラチックな美しさはさほどないけど、表情をはじめとする演技のさせ方の動画が、むしろ古典的ともいえるリミテッドアニメの持ち味をこそ逆利用したやり方でですけど、非常に行き届いており、繊細な感情表現が、ベストの水準でしょう。

 そして,何より充実しているのは、脚本ではないかと思います。これをそのまま実写で演じさせてもイケるだろうといいたくなる,心情表現の圧倒的な緻密さとデリカシーですね。しかもそれがつくりものめいてなくて、いかにも、今どきの高校生のメンタリティと感じさせる、適度にラフな「活きた」セリフ回しになってもいる。

 でも、これ,アニメでないと、ここまで登場人物の感情をいきいきと表現できなかったことも間違いない。

 私としては、何と言いますか、今の中学生や高校生がこの作品を観ても,胸がいっぱいになるくらいに感動し、笑い転げてもくれるのなら,日本の未来は十分明るいと思えます。

 そして,私のいない間に(おいおい、そこまでいうかお前)、日本のアニメ文化が、全く順調に成長している証しを、充実した手応えで感じさせていただきました。

 この作品を観る限り、日本のアニメは、十分に、私の期待した方向「にも」どんどん前進し続けていますね(^^)


****


 それにしても、主人公のおばさんの「魔女おばさま」は、主人公がタイムスリップする度ごとに、彼女の話を一から聴いていたことになるわけで、「カウンセラー」としてご苦労様です(^^)

 タイムトラベラーのカウンセラーは、こりゃ,重労働だな(爆)


 でも、何となく、彼女にも実はかつて「主人公と同じような経験」がある可能性を暗示しているあたりがニクいニクい!!


 .....ちなみに、こういちろうの計算を超えたところで、関連記事はこちらに続く。


******


【追記】見終わってからやっとケース裏側の解説を読むぐらいにまっさらな形で観たのですが、この映画、昨年の封切り時は全国で6館のみで上映と知って、呆然としました。

 その後、8ヶ月のロング・ランヒット、日本アカデミー賞アニメ部門をはじめとして、国際的にもいろんな受賞歴を既に持つと知って、ほっとしたところ。

 .......しかし,この映画を最初6館でしか配給できなかったというのは......日本の映画配給業界の審美眼/鑑識眼って、どうなってるんだ????


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《注》:以前も一度書きましたが、私は大学院時代から10年ほど、「アニメージュ」「OUT」の読者欄の常連として、それこそ「阿世賀 浩一郎」の実名で次々掲載され、ついには読者代表としてアニメージュで対談し、グラビア掲載されたという経歴「も」持っています。

 例えば「となりのトトロ」や劇場版「パトレイバー」第1作のアニメージュ読者欄の感想の第1号は私なのですね。

 こうして,実名を貫いていると,自分の人生が、ささやかながら「フォレスト・ガンプ」化するのが楽しくもある、セレブではないこういちろうなのだ。


*****


●おまけ●

 私はもちろんNHK少年ドラマの「タイム・トラベラー」の同時代ファン。まだ小学校5年生ぐらいだったと思うけど、数年後の高校生の世界に胸ときめかせました。

 そして、大学生時代のアニメファンになってからは、大林宣彦監督、原田知世主演の「時をかける少女」の洗礼を受けている。大林監督の美学に圧倒的に酔わされたことは、私のその後の実写映画観に圧倒的な影響を残しました。

 ちなみに、原田知世さんのピクチャーレコードも確か持ってたと思う。その内容を含んで収録されているのがこのCDですね。愛聴盤。

 そして、この映画の原田知世さんが歌った主題歌の作詞作曲は言わずと知れたユーミンで、ユーミン自身による歌唱を収めたアルバム、"Voyager"は、個人的にはユーミンの最高傑作アルバムと思ってますが、これもLP時代からの愛聴盤ですね。

 更に、私は未聴ですが、今回のアニメ版主題歌は奥華子による「ガーネット」。挿入曲「変わらないもの」も収録。

 そしてこの2曲収録の奥華子のアルバム、"TIME NOTE"

 映画の中で使われたピアノ曲はバッハのゴルトベルク変奏曲、


そして、(.....ぜいぜい......)

原作本

.......お、終わった。。。。。。


******

 実は全然終わってなくて、アニメ版「時かけ」についての追記はこちら。

 そして、この映画を機会にファンになった奥華子さんの記事がたくさん続くことになります。

*****


 更なる追記:ちなみに(まだあるのか、おい?.......)、ブログランキングの検索でこの記事においでいただいている方がそこそこあるようです。ありがとうございます。この作品への他の若い方の感想をお読みになる上でも役立つかと。

株式会社ぽすれん

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2007/04/18

ayuの口パク疑惑がそもそも変なのは

ayuのライブはバンドの「生演奏」なんでして(^^;)

いわゆる「打ち込み」.....リズムまでプログラミングされた上で流している曲はごくごく一部なんですが。

 どうやってayuの声のカラオケをリアルタイムでシンクロさせるのだろう?

 そんな技術を操作できるのは、ライブ・ミュージシャン以上のライブ演奏力がある、コンピュータ操作者が必要である。

 「CD制作」の際には、今やどれだけでも声を加工できる時代ですが。

 クラシックのCD録音ですら、恐らくその恩恵に預かっている例は少なくない。

 男女二人の人間の声の合成してひとりの声にしてしまえる、というのは、例えば映画「カストラート」でも知られた通り(封切り時に劇場で見て、CDも持ってます)

(←映画)(←CD)

 そりゃ、「合いの手」ぐらいのフレーズは、シンセのサンプリングでキー1本押せば鳴るようにできますが。

 前田さんのドラムスも「エア・ドラムス(???)」ってか?(爆)

 シンセも、少なくとも2人がかりで必死にライブで弾いているのだが。

 厳密に言うと、曲のテンポやリズムの呼吸は「毎回」違うわけですね。


 .....さすがにこのネタはこのくらいにしましょう(^^)

 

 

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2007/04/13

ayuの口パクを「擁護」する「知ったかぶり系」の人たちは

私のこの記事を読んだ上で、実際にコンサートに行って、化けの皮をはぐくらいの「蛮勇」をふるいなされ。

 ストーカーとかまでしないのなら、「実際に現場に出て、虚像を引きはいでやる!!」ぐらいの人の方が、将来見込みがあるな。

 指揮者カラヤンも、ナチ党員だったことをはじめとしていろいろ毀誉褒貶ある人だけど、

 「コンサートのリハーサルに潜り込んで密かに観察している奴がいたら、見て見ぬふりをするつもり」

という発言をしているインタビューが残っている(結構知られていると思う)。

 これは、まあ、警備の人が見つけ出したらカラヤンに訊くこともせず、あっさりつまみ出しちゃったかもしないけど、カラヤン自身は本気でそう思っていたのではないかと。


このDVDにカラヤンのさっきの発言入っていたかどうかは改めて確認してません。BSで見た内容ですが。

******

●追記

 このサイトはayuファンでない人もたくさんおいでになるサイトですので、情報のリソース(中継増幅元)を示します。

「あゆ」香港公演で 歌の3分の1「口パク」説

 ここの読者「コメント」まで読んでもらうと、ネットで「知ったかぶり系」によって「どのようにして」風説が広まるか、それを「どうすれば」簡単に止められるかがよくわかるかと(爆.)

 ......皆さん、「妄想」というより、非常に確実性の高いひとつの「推理」に走りたくなることでしょう(^^;)
 でも、その「証拠」はどこにもないんだよ~ん!! あのサイトがIPアドレスという「個人情報漏洩」しない限りは。


「現場」での「参与しながらの観察」(サリヴァン)
こそ命!!

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2007/04/03

今敢えて、ayuの"I am..."について(第2版)

浜崎あゆみ/ "I am..."(AVCD-17037)浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me

1. I am...
2. opening Run
3. Connected
4. UNITE! "Original Mix"
5. evolution "Original Mix"
6. Naturally
7. NEVER EVER "Original Mix"
8. still alone
9. Daybreak
10. taskinlude
11. M "Original Mix"
12. A Song is born
13. Dearest "Original Mix"
14. no more words
15. Endless sorrow "gone with the wind ver."
(シークレットトラック)."flower garden"


 ayuの4枚目のフルアルバムCD。

 ベートーヴェンの音楽的変遷について、「エロイカ的跳躍」という言葉がよく使われる。第3交響曲、「英雄」が書かれて以降のベートーヴェンの作風の大きな変化のことを指すわけである。

 それとの比較でいえば、浜崎あゆみのアルバムの歴史には、「”I am..."的跳躍」という現象が歴然と存在した、というのが私の理解であり、実にいろいろな意味で、ayuが思い切って新たな方向性を打ち出した、記念碑的アルバムであると私は考えている。


****


《寄り道》:「英雄」交響曲の、私の好きな代表的名盤として、全く異なるタイプの3つの演奏を掲げておく。

 一つ目が、「ウラニアのエロイカ」として知られるフルトヴェングラーの1944年の歴史的演奏。刻々と変化するテンポ、曲の高揚と沈静が完全にめくるめくドラマとして完結する、奇跡の完成度の白熱のライヴ。なのに、フルトヴェングラー自身が、戦後、レコード化したアメリカのウラニアという会社を相手に訴訟を起こして販売中止に追い込み、ソ連で勝手に発売されたLPが高値で取引された時代を持つ、曰く付きの録音。しかし、そういう「幻の名盤」のオーラをはぎ取って、容易にCDを入手できるようになってかなりたっても、この演奏の「伝説」は今も一向に衰えない。私は、そんな有名な演奏とは全く知らないまま、最初に聴いた演奏がいきなり「これ」でした。これはたいへん「やばい」事態というか、この曲は「こういう曲」だというイメージが私にできあがり過ぎているのである。実はベートーヴェン演奏で、フルトヴェングラーのものを本当に私が別格視するのは、これと、コンラート・ハンゼンをビアニストにした、「ピアノ協奏曲第4番」のみです。「バイロイトの第9」にすらごだわりはありませんので。

 ワルター/コロムビア管弦楽団

 怒濤のごとき灼熱のフルトヴェングラーとは正反対。ピュアーでヒューマンなロマンあふれる演奏。それが、アメリカのオケの響きのヨーロッパ的ではない側面を補ってあまりある演奏。すでにステレオ録音の時代に入っています。

カラヤン/ベルリン・フィル

 カラヤン3回目の全集のもの。ひたすら流線型で快適な響きですが、意外かもしれませんが、フルトヴェングラーでないとすれば、ここまで「逆に徹底的な」演奏を私は好んで聴いてきました)。


*****


 では、"I am...."的跳躍とは何か?

 それを的確に短い言葉で表わすことは難しい。

 確かに言えるのは、この跳躍を果たす直前の曲が、3rdアルバム"Duty"浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me制作時に最後に作られた、独創的な名曲、浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me"SURREAL"であり、"SURREAL"が、ayuにとって、「敢えて崖っぷちから飛び込む踏み切り台」というべき曲だったということである。

 "SURREAL"の次のリリースが、当アルバムに収録された"M"である。この曲からしばらくの間、ayuは唐突に、CREAという名前で作曲も手がけた曲を立て続けに連発する。

 アルバム"I am..."にも、「すべての作詞・作曲 浜崎あゆみ」と明記されているが、厳密には、専門の作曲家との共作の曲もあり、そして、唯一の例外として、小室哲哉の単独作曲による”A Song is born”も含まれている。

 この、CREA作曲の曲をどうとらえるかは人それぞれであろうが、私は実際には普段はほとんどそのことを意識しない。誰に作曲してもらおうと、ayuの歌には如実にayuの刻印が刻まれているとしか思えないからである。

 しかし、この時期、自らが曲作りを主導するリスクを背負う中で、ayuが自己の作風の変化と「進化(それこそ"revolution")」を一気に突き進めたということは間違いないだろう。

 こうして、"M"→"evolution"→"NEVER EVER"→Endless sorrow→”unite!"→"Dearest"までリリースされ、その時点ではじめてアルバム"I am..."の制作に取り組んだようである。

 実は、ayuのアルバムで頻繁に見られる現象は、そうやってシングル(マキシ)リリースされた曲と、アルバムで新たに発表された曲に、すでににある「ステージの違い」があり、その「ステージの違い」の中に包含された形で「アルバムの構成曲」先行発表の諸曲を改めて聴きなおすと、曲のイメージそのものが様変わりして受け止められてしまうことが多いということである。

 このことは"Duty"の場合にも言えることで、わかりやすくいえば、"vogue""far away""SEASONS"という「絶望三部作」と、それ以外の曲ではすでに「ステージ」が違い、"End of the World"""audience""duty"などといった曲は、確かに"SURREAL"と"M"との間に重大な跳躍があるものの、むしろ"M"→"evolution"→"NEVER EVER"→Endless sorrow→”unite!"→"Dearest"までの漸進的な変化過程の脈絡でとらえる形で、敢えてアルバムを超えて「ひとまとまり」のものとしてみてみると興味深いところがある。

 すでに多くの人に語られてきていることではあるが、"I am...."期のayuに特徴的なのは、「ロック指向の顕在化」である。これを、私は、ライブコンサートをきっかけとして、恒常的バンドメンバーとして、小林信吾氏のみならず、よっちゃんとエンリケという日本を代表する二人のギタリストを活用できるようになったことがひとつには影響していると私は考えているが、もちろんそれだけではないとは思っている。

 いずれにしても、この「テクノからロック指向への大胆な切り替え」は、実際にはアルバム"Duty"の"End of the World"にはじまっている。この曲はその年のカウントダウンでしかステージに載っていないが、身をよじるような赤裸々なインパクトがある、シンコペーションリズムが研ぎ澄まされた、独特の「怖さ」を秘めた曲である。

 こうした、テクノ性よりロック性が「顕著に優位」な曲は、"NEVER EVER"→"unite!"とリリースされていき、アルバム登場曲の中では"Naturally"が更に加わることになる。

  これらのうち、コンサートに欠かせない"unite!"は別格とすると、「まさか」と思っていたステージでの再演が、今年初めのカウントダウンで実現して、客席の私が狂喜したのが、"NEVER EVER"だった。三拍子系のリズムでとことんロックするという点でも異色のこの曲、曲もステージでの演出も好きな曲のひとつだったので(^^)

****

 一方、"M"は、バラード系の要素を持ちながら、ロック性も強烈、メロディラインやリズムも一筋縄ではいかない、非常に個性的な曲である。これに続く"evolution"の持つ斬新なリズムでのテクノとロックの融合、そして舞台映えする、コンサートに欠かせない祝祭性を持つ曲と並び、曲の緻密さと集約性の高さと独奏性の高度な調和という点では、浜崎あゆみの曲の歴史で格別な次元の2曲であることは間違いない。

 私としては、これに更に直前の"SURREAL"を加えた「三部作」とみなしたい誘惑が強くある。これは音楽的密度と独創性のみならず、実はこの3つの曲のプロモーションビデオが明瞭に「三部作」だと断言できる、象徴表現上の連鎖を多角的にはらんでいるためである。

 これについての解説は、画面がないと「無意味」な(できれば歌と動画であることが更に望ましい)ので、実はサイト上では一度も言及しないままだが、私の日本人間性心理学会での自主企画(および「フォーカシングでの集い」における再演)のプレゼンテーションにおいては、プロモーションビデオのスクリーンでの映写と共に、パワーポイントを駆使してこの点を細かく検証し、実際に観た「歴史の証人」」20数名ほどには、とても思いこみとは言えない説得力あるものとして大好評だった。

 これは学術研究であるがゆえの著作権の制約からフリーだからこそ可能だったもので、ここでも公表するつもりはないが、いずれavexの公式許諾を得て、「図版付きの学術論文」化をまずはすることが私の夢のひとつである。

*****

 これらに加えて、このアルバムの独創性を際立たせているのは、冒頭曲、
浜崎あゆみ - A BEST 2 -BLACK- - part of Me"I am..."
である。伴奏なしに歌いだされるこの曲を、ジャンル的にどう分類したらいいだろう? 王子のきつねさんのご指摘を待つまでもなく、あえて言うと、この歌詞とメロディは「演歌」に分類するしかない。しかし、それを支えている編曲は、エスニックな香りもあるテクノ・ロックともいえる。いや、最終的にはそうした分類そのものを完全に虚しくさせてしまう、唯一無二の独創性のある、かけがえのない特別な音楽世界というべきだろう。

 この曲を最初に聴き、歌詞に込めたayuのあまりにも苦しいメッセージを受け止めた時、少し前から関心を掻き立てていた浜崎あゆみは、私にとって、鳥肌立つ特別な「邂逅」と感じさせる存在にはじめてなったのである。

 .....私の「某サイト」との出会いはそのあとのことだった(^^;)


*****


 そして、ある意味で、この曲への、とりあえずのayuの吹っ切れた"reply"として、"part of Me"を私が位置づけていることは、ここに明言しておきたい。

 "I am..."から引きずってきたayuの中の怨霊は、やっと成仏したのである。

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2007/03/26

こういちろう、フランス語苦手なのに挑戦!!

.......といっても、音楽を「聴く」方です(^^)

Belinda Carlisle:voila(ベリンダ・カーライル/フレンチ・ソングブック)

 ほんとに理屈抜きの衝動買いです(^^;)

 GO-GO'sという、女性だけのロックバンドで初のビルボードアルバムチャート1位を獲ったバンドのリードボーカルとして一世を風靡するものの、本人の麻薬中毒等もありバンドを解散、結婚後にソロ・シンガーとして再起、"Heaven is A Place On Earth"という曲で再びヒット・チャート1位、ジョージ・ハリスンとの共演曲を出すなど活躍。その後フランスに移住、このアルバムは10年ぶりのもので、10年間の間にフランスで聴き続けたフランスの歌への感謝を込めたアルバムとのことです。ブライアン・イーノをキーボードに迎えるなど凝った趣向で作られたアルバムとのことです。ちなみに、この人、私より2つ上(最初得た情報、なぜか間違ってたみたい)。

 私はシャンソンのあたりとなると無知そのものなので、このアルバムに収められた曲の3分の1(4曲)ぐらいしか聴いたことない曲だったけど、かつて、楽器を知らない女の子たちで勢いで作ったバンドで、しかも他のパートを他の人に先にとられたので、仕方なくヴォーカルをやってたらあっさり商業ベースからお呼びがかかった女性ロックバンド出身なんていう経歴は全然想像できないくらいに、渋くて貫禄のある歌声。きっと、純粋のフレンチの愛好者からすれば、発音や音楽の質にいろいろ感じるところがあるんだろうけど、私には、そこそこ現代的なアレンジを含めて、全く抵抗感なく楽しめています。

 「だけど今、音楽業界でやって行こうと思えば注意しなくてはいけない----女性の場合は特に用心しなくてはならないの」

 「アメリカのファンはアーティストの変化をなかなか受け入れようとはしないけれど、ヨーロッパのファンはオープンだから」

 .....アーティストの変化をなかなか受け入れないのはアメリカばかりではありませんですよね、ayu様。

 「変化を恐れるなら、離れたところで見ててよ」(浜崎あゆみ - (miss)understood - alterna"alterna")

とか歌うしかなくなるわけでして(^^;)

 ***

 私は、クラシックでも、フランスものはドイツものほど聴きませんけど、ベルリオーズ、サン・サーンス、ドビュッシー、ラヴェルあたりは相当まんべんなく聴きます。

 今回は、ちょっと凝ったフランス音楽入門チョイスとして、ラヴェルの弦楽四重奏曲を掲げておきます。このセンスは、クラシック普段聴かない人にすら、すっと入れる人、少なくないと思います。特にスケルツォにあたる楽章とかAlban Berg Quartet - Great Recordings of the Century: Debussy, Ravel, Stravinsky - Works for String Quartet - String Quartet in F Major: II. Assez Vif - Tres Rythme(アルバン・ベルク四重奏団)

 CDは敢えて、少し古い、あまり「フランスチック」ではないかもしれないけど、クリアーなジュリアード弦楽四重奏団の演奏をセレクトしました。

*****

 もうひとつ追加。

 ラヴェルの弦楽四重奏曲より相当メジャーな曲ですけど、フランクのバイオリンソナタローラ・ボベスコの、たっぷりとした響きのヴァイオリン演奏で。

 この曲の第4楽章の、ピアノと「対話」するカノン風の主題、もし知らない人がいたら、クラシック普段聴かない人でも、圧倒的に酔わされる「名旋律」と思います。これを使って歌詞をつけて歌にしようとするポピュラー畑のミュージシャンが出てこないのが不思議で仕方ないんだけど。

 古澤巌×高橋悠治 - フランク:ヴァイオリン・ソナタ - フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 第4楽章 Allegretto poco mossoこのメロディですね。バイオリニストを古澤巌さんに変えましたけど(^^)

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2007/03/25

「訊き上手」の勧め -会話下手で困っている人のための、プロカウンセラーのテクニック公開!!-

 学生相談をしていた頃、よく、「周囲の話す話題の輪に入れない」という相談を受けたものである。

 男なら野球やサッカー、女優やタレント、女性だと、ファッションや恋や男性タレントや男優の話とかに、自分は興味も関心もなかったし、今の音楽でどんなのが流行ってるかもよく知らないし、車の話もわかんないし.....というわけである。

 私にしても、親が自家用車のユーザーでなくて私も免許を持っていないせいもあるが、極論すれば、「『あの』マークがついてたらベンツ」「昔のフォルクスワーゲンなら形でわかる」....以上、終わりである。

 ちなみに、私はまだ「エビちゃん」なるもの(蛯原 友里)の動く映像をテレビで観てないとおもう(^^;)

 ちなみに、はっきりいいますけど、(みゆきやユーミンとか、上の世代は「殿堂入り」として)浜崎あゆみと大塚愛とELTと宇多田ヒカルを除いてしまうと、私は今のJ-POPシーンに「全く無知」である。chemistryやゆずの曲すら一曲もidentifyできないし、椎名林檎は「りんごの歌」しか聴いたことがない。矢井田瞳「は」、一枚聴いたことある。島谷ひとみのベスト盤は「持ってる」。要するにBoAや倖田未來すら、耳に入ったことはあるが、恐らく「一曲も」identifyできない。あとはすべて大晦日の紅白歌合戦とその後のMTVCDと、年に一度のa-nationのDVDで「一年まとめて掌握している」だけである(avexに異様に偏ってるけど、それでもこんな調子なのだ)。今度、YUI「という人」のを聴いてみるつもりなのだが。

 これが、クラシックとなると、はっきりいってこの10年新譜をほとんど全く買ってないので、今のアーティストの動向には無知そのものだが、古くはグレゴリオ聖歌やヒルデガルド・フォン・ビンゲンから、少なくともブーレーズやベリオや武満ぐらいまでは(一部民族音楽を含めて)「まんべんなく」守備範囲にしている。基本的に「きらいな作曲家」「きらいなジャンル(管弦楽、室内楽、独奏とか)」というものはありません、みんなそれなりの持ち味で楽しめます、といえるくらいに。言葉の障壁から、歌曲と歌劇はやや手薄です、というくらい。10年以上前にとっくに輸入盤中心にCD1000枚を超えていたわけでして。

 私はクラシック音楽と心理療法と世界史と洋画(そしてかつてのアニメ)を除けば、実は自分の関心を巧妙に「狭く深く」に追い込み、わき目をふらなくていいようにするタイプである。

 確か、浜崎あゆみも、基本的には本来特別な音楽好きでは「なかった」し、実は他の人の音楽を驚くほどに限定してしか聴いていないと、何かで読んだような気がする。Madonnaや、日本で言えば、レベッカ(Rebecca)とかは、確かにある程度早くから意識していたと思うけれども(avex以前のオーディションの時に"moon"を歌ったそうで、これは妙に納得。レベッカは私も以前からLD(!)やアルバムの大半持ってますし、iPod入ってますよん。....まあ、レベッカそのものが、"Love is Cach!"は"Material Girl"のパクリでないかいというくらいにMadonna意識していたと思うけど。....レベッカのライブ記録とかと比較すると、ayuのライブの歌やバンド演奏やダンスが、もはや比較にならない高水準が「当たり前」になったことを痛切に感じますが)


*****


 話が大幅に横道にそれかかった(^^;)。

 このように、いざとなると話すネタだけなら無尽蔵に出てくる私が保証するが、友達の輪の中に入って「話に入っていけない」原因は、ほとんどの場合、「話題についていけるかどうか」とは無関係なのではないかとは断言したい。

 バブルがはじける前に二十代を送った私の世代は、「クライ」「明るい」二分法が、いまからは想像がつかないくらいに猛威をふるっていた。「中島みゆきのファンである」ということは公言するのもはばかられると感じていた人が実際たくさんいたのである。オタクネタを口にするのはかなりの蛮勇が必要だった。

 だが、今や宇多田ヒカルのゲーム好きはみんな知ってて、若いメジャーな女性タレントが、コスプレチックなことをあまり恥ずかしがることもなく、ひとつの趣向としてやれてしまうわけで、その点では、20年前がウソのような状況が実現している。そういう意味では、関心や話題の「ボーダーレス化」が進んでいて、私は若い世代がうらやましいくらいである。

 問題は、「話題の内容」ではない。自分の側の話せる話題など豊富でなくてもいい。

 決定的なのは、「聞き上手」であるかどうかである。


*****


  しかも、
  ここでいう

  「聞き上手」

  とは、
  必ずしも

  「聴き上手」

  のことではない。

  「訊(き)き上手」

  でありさえすればいいのである。


 カウンセラーは「傾聴(Lintenning)」について専門的に学ぶ。

 しかし、現実の日常会話では、実は、「聴く」力と同じくらいに「訊く」センスがものを言う。


 実はこの点を、カウンセラーももう少しふりかえるべきではないかと私は考えている。

 「カウンセラーの先生に話をしても、『ウン、ウン』ときいてくるばかりで、何も言ってくれないんです」

とよくいわれるし、
多くの場合、それは、

 「具体的アドバイスをしてくれない」

という意味に受け止められているけれども、実は、

「カウンセラーは何も『訊いて』くれない」

という点にこそ、核心がある場合が多いのではないかという気がする。

******

 ここでいう、『訊く』とはどういうことか?

 「質問する」「尋ねる」「問いかける」="asking"と言い変えるだけでは、うまく言い尽くせない。

 手元の「広辞苑」には「たずねること、問いただすこと」としか、実際、出ていないのだが。


 例えば、

 「母には、そのことを嫌がられている気がしてならないんです」

という話が進行していたとします。

 「お母さんには嫌がられているんじゃないか......というと?」

と水を向けて、しばらく「聴いて」いても、

 「だって、私は、○○だし、△△だし.....」

という話は繰り広げられても、お母さんに「実際に」どう言われたかの「具体例」に決して話が広がらないとしますね。

 こういう時、話の聴き手は、「現実のところ」どう言われたのか、についての関心をはっきり意識的に伝えることによって、単に話を「聴いて」いる状態よりもさりげなく半歩踏み込んでもいいのだと思います。

 「例えばどんなこと言われたの?」

でもいいんですね。

 すると、実は「お母さんがそのことを嫌がっている」というその人の思いこみが大きくて、実際にはそのことについて拒否された体験があるわけではない、ということが、二人に見えてくる場合もあるでしょう。

 あるいは、実際にどんなふうに言われたかまで話してもらって、はじめて相手の話が、自分が予想していたのとは別の次元での、親との対立なのだということが、いきいきと伝わってきて、

 例えば、軽率に、

 「おかあさんの言うことなんて、気にし過ぎないで、無視、無視、やりたいようにやってしまったら?」

とか、アドバイスして済ませなくて良かった!! ということなど、よくあることでしょう。


 時には、どうアドバイスしたらいいかわからなくなるかもしれない。

 そういう時には、ただ黙り込んでしまうぐらいなら

 「たいへんだね」

 「難しい問題だね」

 「凄いお母さんだね」

などと、ともかく言葉にしてしまう方が、ただ相づちを打つよりはよほど「具体的な」応答だと思います。

 そういうことを、心の中で思っているだけではなくて、実際に相手に言葉にしてしまうことです。
 それだけで、話の「間が持つ」し、相手に、自分のことに関心を持ってくれているという「絆」感が生じる。....いや、あなた自身に、その人と「関わっている」という「手応え」が生じる筈です。

*****

 かといって、私は、面接初回に、機械的な形で、いわゆる「生育歴」「既往歴」「相談歴」などを訊いてしまうあり方には違和感があります。

 「生育歴はどうなっているのですか?」

 ......なつかしい思い出なんですが、ロジャーズ派の佐治先生の薫陶が深かった東大の心理教育相談室に在籍していた当時、年に一度、「五大学」と通称された、東京・名古屋・京都・広島・九州の5大学の教育学部心理教育相談室合同の、合宿形式の事例検討会が、5大学持ち回りで2泊3日で開かれていました。大学院研究生だった私はその催しに3年連続参加させていただいたのですが、その際に、東大の相談室員の事例発表に対して、他の4大学の相談室員から、「実に頻繁に」ぶつけられていたのがこの問いかけでした。

 つまり、当時の東大のカウンセリングの伝統には、「生育歴・来談までの経過」を面接初回にクライエントトさんからひと渡り「訊いて」しまうという「文化」そのものがなかった!! これは、他の4大学の院生の「常識」を覆す事態だったようです。

 「治療目標とは何ですか?」

この問いに困ってしまうのも、東大組でした(^^)

 まあ、面接がどこまでたどりついたら終結かなんていうのを早い段階で設定してしまえるなんてウソで、当初の相談内容が、クライエントさんもカウンセラーも予想もしない方向に展開してこそほんとうのカウンセリング的相互作用だと、私は今でも信じて疑いませんけどね。

 もちろん、その段階その段階で、治療者が「見立て」についての「仮説」を立てること、それに応じて「見通し」についての「仮説」を持っていることは大事でしょう。しかし、それは何回も何回も手直しされ、変化していくのがむしろ自然ですらあるということです。

 それはそうと、私も、今も、生育歴・家族構成・来談までの経過を、カウンセリングの開始の回に「機械的に」訊いていくことは避ける姿勢を保っています。

 面接一回目で、話を自然に聴いていれば、いつの間にかそうした情報のかなりの部分が「自然と」クライエントさんから話してもらっている、という流れになれるのが本来の姿です。

 面接初回は、クライエントさんに最初提示された相談内容にとらわれがちで、ベテランにならないとそうはできないといわれそうですが、今の私の考えでは、カウンセラーが、先ほど述べていた、一般の人の日常会話において全く自然に機能するはずの「訊く能力」をタイミング良く発揮すれば、それほどキャリアを積まないうちにでも、できるひとには十分できるはずという気がしてきました。

 そして、そうした「話しそうで話さないままの」話を、その後の面接の、どういう脈絡で、どういうふうにクライエントさんが話し始めるか、ということそのものが、まさにクライエントさん固有のあり方の本質が伝わって来る、絶好の機会なのだと思っています。

 例えば、「学校を中退した」という経歴が語られているのに、その理由についてクライエントさん自身が自分からは話さなかった場合には、私は焦って「どうして辞めたの」とは訊かないことも多いです。心の片隅にはそのことを置いておきます。

 面接の流れの中で、クライエントさんの方から自然と語られるかもしれないし、カウンセラーとしての私が「なぜ中退したか」を是非訊いてみたくなるタイミングが必ず来るとあっさり信じています。

 そういう「旬」の瞬間にクライエントさんに「訊いてみる」と、場合によっては、面接の展開の上で、クライエントさんにとっても、カウンセラーとしての私にとっても、新鮮で意外な発見となる、予想外の形での、問題の更に核心についての発見を、自然と二人で共有できることが多いようです。


*****


 「あなた、ご実家が経営的にたいへんだといつも話してくれてたけど、具体的に、どんな仕事なさってるの?」

 日常の対人関係でも、いきなり相手の個人的事情を根掘り葉掘り「訊き」すぎるのもどうかと思いますけど、あまり相手の個人的事情を詮索して嫌がられたくないという思いからの「抑制」が効き過ぎているのが現代の対人関係という気もします。


「ね、ね、彼のお母さん、働いてるって言ってたけど、何して働いてるの?」

「え?........私も、そこまで彼に訊(き)いたことないんだけど.......」

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2007/03/24

この世にまったりなじめない人たちの映画

 今日は仕事もしてるのに、一向にブログでの創作意欲が衰えない、困った日だ(^^;)

 先日DVDで観た映画の中からセレクトして、感想を書いてしまおう。

「アルタード・ステーツ」(ケン・ラッセル監督 ウィリアム・ハート/ブレア・ブラウン主演)

 私が大学院生の頃に観た、懐かしい映画を久々に観てみた。

 "alterd states"とは心理用語で言うところの、「変性意識状態」のこと。催眠なども含まれる。ちなみに、フォーカシングは「変性意識状態」に入り込んではおりません。行ってもその少し手前までです。本人の自我の側のコントロール能力を決して手放しませんからね。

 この映画で登場するのは、タンク状の水槽の中にヘルメットをつけて浮いているという、一種の「感覚遮断」状態における変性意識状態。この映画が作られた当時、リラクゼーションとしてアメリカで結構流行っていたらしい。

 この映画で役を演じるに当たって主演の二人はホンモノの「実体験」をしたそうだが、この映画で一躍スターダムにのし上がったウィリアム・ハートは、パニック状態になって散々なめにあったそうである。ブレア・ブラウンのほうは、「素晴らしい体験」だったそうだ(^^;)。

 この映画、私にとっては、最初観た当時から、「SF映画」という意識がほとんどなかった。設定を荒唐無稽というのはやさしいと思う。しかし、この映画の魅力は、ウィリアム・ハート演じる脳科学者の、真理を追い求める圧倒的情熱の背後にある、深い次元での「この世へのなじめなさ」と、妻のヒヒ学者の女性を中心とする、周囲の、秀才ではあるけど、「まったりとした日常に溶け込んでいる人たち」との間の心の隙間の描き方であり、それがどのようにして和解していくかという点だろう。

 しかし、今回は、更に「夫婦の間の機微のドラマ」という方向で読み込んでしまったのは、私の年輪のなせる技と言うしかない。

 もっとも、私個人は、少なくともフォーカシングと出会って以降、「まったりとした日常を味わう」感性への自己肯定がどんどん賦活されて行ったようにも思う。もちろん「キリストの磔刑」の幻に困ったりしない(爆)

 ある意味では私にとって、ちょっと願望充足的な映画であるといわれても仕方ないかなとも思う。ただ、ラストの展開で暗示されているように、ほんとうは主人公の体験している世界というのは、実は誰の心の中にも隠れている世界であり、それを呼び覚まされることへの本能的な恐怖感から、拒否的になるという面はあるのではないかとも思う。

 彼のプロセスにまがりなりにもつきあい切れれば、こうして彼は「日常」に帰ってくる。そして、むしろ他の人を日常につなぎ止める癒し手としての力すら獲得できるのではないか。

 (ああ、どうしても自己弁護じみてくるなあ......)

*****

 ケン・ラッセルの映画は、ある観点からすると、あまりにもお手本通りの精神分析チックな象徴主義を、ややけばけばしく露骨に表現するところがあるから、嫌いな人は嫌いだろうと思う。さすがに3Dデジタルアニメーションを駆使する以前の特殊効果は、素朴で懐かしいものを観ている気がしてきてしまう。

 でも、私は、ケン・ラッセルは結構好きでして、私としては珍しく、かなりの作品を観ています。

 「どぎつい」ところがあるけど「しつこく」はないのがこの人の持ち味かと思う。この人、「エルガー」を皮切りに、「マーラー」「リストマニア」「チャイコフスキー」など、次から次へと、エキセントリックな解釈の、クラシックの著名作曲家の伝記もの映画に取り組んだということもあるのですが。

「マーラー」は、私の溺愛する、交響曲第6番「悲劇的」がテーマソングみないな扱いです。

 この映画で使われているのは、ハイティンク指揮のコンセルトへボウの旧盤で、私には健康的でピュアすぎるんだけど、ケン・ラッセルはこれでなければダメだそうで。

 あと、ある意味でこの映画にも通じる、「この世への生きづらさ」を抱えた人たちの物語として読めてしまう中に、

「未知との遭遇」も私は含めてしまうし、

私の溺愛する作品のひとつ、

「パリ、テキサス」

も位置づけられることになるかと思います。女優さんではナスターシャ・キンスキーのファンだと以前も書きましたけど(私は少しボーイッシュな面も隠し持つ猫型女性に惹かれるようである)。それだけではなく、ラストの「ハーフミラー越しの対話」のシーンの深い印象を私は忘れることができません。

株式会社ぽすれん

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2007/03/19

みんなみんな生きているんだ友だちなんだ!! -茂木健一郎さんの記事によせて(1)-

 しばらく前に、たまたまWikipediaで見つけた「クオリア(Qualia 感覚質)」概念とフェルトセンスとの関連についての、とりあえずの私見を書いたが、この「クオリア」の研究者である茂木健一郎さんが、この@niftyココログの著名ブロガーのお一人とは、「ココログセレブ」で特集が組まれるまで存じ上げていなかった。

 ここでは、「クオリア」概念いついては、興味深いのだが、まだ不勉強なのでさておき、茂木さんのこの特集での発言の興味深かったところについて述べてみたい。

*****

 のっけから、

> 「固定リンク」。それがブログの大発明!?

という小見出しが立てられている。もうこれだけでうれしくなってしまうこういちろうであった。


 つまり、各記事ごとに個別のURLがつくかつかないか、ということです。掲示板で日記を公開しても固定リンクがないのでどんどん記事が流れていってしまう。アーカイブ性がないっていうのかな。つまり、それまでは僕自身も読者もどこに何が書かれているのかわかりにくかったんですよね。

 ブログにはコメントやトラックバックといった機能もありますが、一番の大発明は『固定リンク』という機能にあると思います。要するに、記事単位で互いにリンクを貼ることができるようになったということですね。その機能があったからブログに移行したんです。 


 そう、この「アーカイブ(書庫)」性というのが、ブログのひとつの持ち味なのだ。

 私は、ご覧のとおり、ayuからトムとジェリーからiPodオーディオからフォーカシングから現場臨床カウンセラーのあり方への愚痴まで、まったくノンジャンルに気ままに記事を書いている。ひとつの記事の中でayuとフォーカシングとアニメとオーディオ関連と歴史の内容が混在してしまうことなどザラである。

 もう少し細かく整理して述べた方が読者にわかりやすいとは時々思うし、

「いっそのこと再構築して、カウンセリングとフォーカシング関係のサイトとしてわかりやすく整理したほうがアクセスも伸びますよ」

.......と、あるマスコミ関係のプロの方から再三アドバイスいただいていたりもする(^^;)

 しかし、私は、確かにあるわかりやすさは必要だと思うし、余裕があれば、ジャンルごとに記事を分割して書こうと「これでも」努めているつもりなのだけれども(^^;)、それでも、

ayuとフォーカシングが同居しているからこそこのサイトなのだ!! 

という基本スタンスを変えるつもりはまったくない。

 私は、カウンセリングが、世間の日常と切り離されて論じられるのが嫌いだ。

 ましてや、フォーカシングが他流派や現場カウンセリングや独立開業カウンセリングの経営的現実と切り離されて論じられることなど、「論外」と思っている。

 なぜなら、カウンセリングは、ごく普通の社会の中で具体的に生を享けたひとりひとりの人が、その人なりに社会に「棲息する」(中井久夫先生ふうにいえば、「世に棲む」)あり方への援助以外の何者でもないからである。

 (中井先生の名作論文のひとつ、「世に棲む患者」は、中井久夫著作集(岩崎学術出版)第5巻収録だが、現在古書市場でも稀観本のようである。たいていの大学の心理臨床系大学院のある図書館に在庫とは思いますが)

 今、「棲息する」という言い方をしたが、これは決してカウンセリングの対象になる人たちを差別しているつもりはない、私なりの用語法である。

 それこそ、私自身もまた、地球に「棲息」し、「寄生」している一個の生命体に過ぎないという認識の上で用いているつもりだ。

 そういう「棲息物」全体への大いなる連帯と共感と同族意識の上に成り立つものなのである。

 つまり、私は、野良猫や溝鼠やボウフラにも、浜崎あゆみやマドンナに対するのと同じ連帯意識を持つ(^^)

 それは「どっこい生きてる」ということなのである。

 これを読んでいて、

こっちではなく、

こっちを連想してほしいのだけれども(.......ああ、いつもながらのひねくれた衒学的なマニアック変化球( ^ ^;A

 ちなみに、私はかつて「ぽんぽこ」の舞台になっていた町田市町田回廊の山の中の某大学に勤務し、裏道で実際に行き返りに狸ばかりか狐や(恐らく捨てられた)フェレットとも遭遇していたのだが(最近は猪がでるそうで)、それは置いといて。


******


 実はこの「どっこい生きてる」ネタは、まさにこの記事を書き出してから思いついた「即興」である。

 こうした「即興」で、当初書こうとしていた内容とはまったく別の方向に思考が膨らみ、タイトルまで変えてしまったりすることは、私の記事ではごくありふれている。しかもそれが、当初書きたかったことを見失ってしまう(missing)のではなく、たいてい当初の構想を統合しつつ、より進んだ内容に再統合することへと現在進行形で結びついていく。

 この種の、ハプニングをすべて生かしてしまう「ライブ性」こそが、どうも私の発想には欠かせないことのようである。

 そもそも、そういう「ライブ感覚」がなければ,現場カウンセリングは成り立たない。


 その意味で、ブログという媒体の即時性は、私にとっても重要だ。

 そして、頭の中のアーカイブの検索が自動的に始まり、

「そうか、このことについては関連事項もすでに書いたな」

.......と思い出し、茂木さんの言われるがごとく、とっさに「相互リンク」を張ってしまうわけである

(.......こうして、ちゃんと話の脈絡は見失わないのであった.....(^^:A


 それをフォーカシングでは「体験過程の推進(carry forward)」というのだが、これまた脇に置いといて。


*****


 コメントを読んだり、トラックバックをたどっていくと自分の勉強になることが多いんです。10人が僕のブログを読んだとすれば、その10人それぞれの異なった読み方になるんですよね。たとえば作家の村上春樹さんは、『読者が自分の作品を読んで誤読されたものの総体が自分の作品なんだ』と言っています。ブログの場合は誤読とまでは言いませんが、自分の日記がさまざまな形で読まれることを知ることにより、刺激を受ける。

 
 私のayu関連記事について、

「ここまでくるとayuへの片想いのラブレターだ。関係者や本人に取材してみようとしたことがあるのか」

.......というご意見もいただいた(^^;)

 しかし、私はそういう「片想いの思い込み満載」の文でどこまでいけるかにチャレンジしている(爆)

 ....というか、もし仮にayu自身(ないしayuスタッフ)がこのブログの記事を読んで下さっても(最もラディカルなayuサイトの一つを自負してますから、少なくともavexの「ネット監視担当者」の探索網には引っ掛かってると思う)、まさにそのような「勝手な思い込み」が書かれていることこそ、ayu(スタッフ)は面白がってくれるだろう確信しているからである(きっぱり)

 だって、

(.....この、「だって、」の時点でこの先を予想できた読者は、かなりのayuファンですが、きっと何人かいるよね)

ayuは、

「自分が絶望を歌ったつもりのところに、
君(聴衆)はきれいな花を見つけたりする」

高らかに歌い上げているからである!!

浜崎あゆみ - I Am... - Flower Garden"flower garden"

 思い込みの危険を冒さないところに理解の糸口などない。こちらも参照)

 思い込みを避ける人は、実は「知ったかぶり」に「安住」しているだけだ。

 「脱錯覚(disillusion)」のスリルこそ、生きることの醍醐味である!!


 もとより、それが自分が傷を受けるだけならともかく、相手に傷を追わせないように努めるだけの思いやりは必要と思ってますが(^^;A

↑この脈絡でこの作品を紹介すな!! という声が聴こえて来るかもしれませんが、原作、傑作だと私は思ってます。まだアニメ版は観てないのですが。この作品を「マジに」けなす人より、「アブナいなあ...」と言いつつも、「心から」爆笑できる人の方が、私はオタクとして好きだなあ.....)


****


「もし夏目漱石が生きていたら、彼はブログを使って小説を書いていたのでは?」

「ブログというのは『不特定多数の読者への贈り物』であり、誰もがそういう意識で書くべきだと僕は考えています。有名人のブログなどでよく見られるのは、片手間に書いているような文章だけど、『もっと本気で書いてほしいな』と僕は思いますね。多くの人はブログというものを甘く見ている気がします。そんなに甘いもんじゃないですよ、ブログというものは」

 全面同意!!


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 .......と、ここまででかなりの長さにもなったし、茂木さんについての記事の前編と後編でトラックバックを分割するとちょうどいいので(^^)、こちらも前編と後編にしてしまいましょう。

 まだ、未読なんですが、茂木さんの著作や関連グッズ(監修されたもの)もここで紹介させていただきます:

脳とクオリア -なぜ脳に心が生まれるのか-

脳を鍛える!パソコンでできるみんなの脳力トレーニング

「やわらか脳」

脳に快感 アハ体験! (PSPゲームの監修)

「ひらめき脳」

茂木健一郎のモーツァルト・モード (CD監修)

プロフェッショナル仕事の流儀(6)


 私の専門とももろにかぶりますので、寄り道せずに、これから、まずは「脳とクオリア」を読んでみようかと思っています。

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2007/03/16

ベートヴェンの「運命」交響曲にもろに影響を与えたフランス革命期の作曲家がいた!!

 随分先延ばしになっていた、マリー・アントワネット関連の最後のネタです。

 ウェルサイユの調べ ~マリー・アントワネットが書いた12の歌 [池田理代子(ソプラノ・朗読・ライナーノーツ) 蒲谷昌子(ピアノ) KKCC-3010]

 「ベルばら」の原作者、漫画家の池田理代子さんが、1995年に音大に入りなおして声楽を学び、今はオペラやミュージカル、コンサートの舞台にも立つソプラノ歌手としても活躍していることをどのくらいの方がご存知だろうか? 

 完全に「余芸」の域を超えているのである。漫画家として功なり名を遂げた後の第2の人生の歩み方として、きわめて興味深いものがある。虚構の世界を超えて、現実の世界でステージに立つというところまで突き抜けるのは、並大抵の努力ではなかったはずである。

 彼女は、2005年末に出したこのCDで、マリー・アントワネット自作とされる歌曲12曲の歌唱と、ボヘミア出身で革命直前のフランスで活躍した作曲家、ドゥセクの、朗読つきピアノ組曲「マリー・アントワネット処刑」の朗読を担当している。

 マリー・アントワネットの歌曲は、すでに海外にも多少の録音はあったが、12曲もまとめてというのは世界初だったらしい。池田さん自ら執筆のライナーノーツによれば、不慣れなフランス語の歌唱の習得を含めて、さまざまな協力者を得て、万全の体制でこの企画に臨んだようである。協力者・指導者への丁重な謝辞が個別に列挙されているのも、慎ましい謙虚な姿勢で、たいへん好印象である。


*****


 さて、マリー・アントワネット「自作の」歌曲といっても、メロディから伴奏まですべてアントワネット自身が作ったというわけではなく、お付きの音楽教師による「大幅な補作(^^;)」を経ているのは間違いないようである。もとより宮廷でこれらの曲の何曲かを歌手として披露した可能性はあるらしい。

 もとより、アントワネットの「音楽教師」というのが半端ではない。グルックという、古典派を代表するオペラ作曲家である。グルックはアントワネットのオーストリア時代から、フランス時代にまで親交があり、何と、母マリア・テレジアとマリーの間の往復書簡の伝達者として頼まれたこともあるらしい。そして、フランスの歌劇界を巻き込んだ「ブフォン論争」といわれる、様式上の対立に、当然グルックの後ろ盾となったアントワネットが与えた影響は芸術史上に残るものとなった。

 ひょっとしたら、マリー「自作の」歌曲の中のどの曲かが、グルックの補作を受けていることは大いにあるだろう。今日、2,3のオペラとその序曲、バレエ音楽、そして、そうした挿入曲のひとつだった、フルートをソロとする「妖精の踊り」以外はほとんど聴かれなくなった作曲家だが、私の手元にあったバレエ音楽集(↓)の様式と比較しても、その可能性は結構ある気がした。

(追記:ちゃん今も売ってた!!)

 そこには、モーツァルトからベートーヴェン初期のころの、古典派の音楽語法が、実に「堅実に」反映されている気がするのである。裏を返すと、そこには、モーツァルトやベートーヴェンのような天才的な閃きはない。でも、古典派様式に熟達した「音楽教師」なら、当然こういうスキルを習得していたはずと感じさせる「堅実さ」はあるわけである。

 だから、確かに歌詞はフランス語なのだか、ちょっと聴くと、むしろドイツ古典派のような様式感の曲が多いことになる。しかし、モーツアルトがパリへの演奏旅行で、フランスの音楽様式に大いに触発されていたり、ハイドンがロンドンに渡って成功を収め、オペラとなればイタリアの作曲家がドイツ・オーストリアでもフランスでも大きな影響を振るった時代である。この前書いたように、ヨーロッパに民族主義と国家主義の潮流が鮮明になるのはまさにフランス革命を通してである。ヨーロッパの王室や貴族社会はみんな「親戚同士」みたいなものだった。その後イメージされるような「フランス的な」音楽というものは、当時まだ成立していないともいえる。

 ただ、ここに収録されている「マリー・アントワネット自作」とされる歌曲の中に、何曲か、アントワネット自身まったく「感知しない」、それどころか彼女の処刑後の時代の作品としか思えない様式のものも含まれているのも確からしい。つまり、「贋作」されたか、あるいは「この曲はアントワネットが作った」という「伝説」が自然発生的に後から形成されたものもありそうとのこと。そういわれると確かにそのようにも聴こえてくる。

 私はフランス語歌曲は苦手なので、十分な評価ができる立場にないかもしれないが、池田さんが十分すぎるくらいの下準備の元に周到に録音したであろうことは伝わる演唱の水準だとは思える。一部、歌いにくそうな部分があるが、曲そのものにぎこちない無理があるためとも思える。

*****

 さて、後半は、ドゥセクの朗読つきビアノ組曲だが、アントワネットが投獄されてから処刑されるまでの9つの情景を、ナレーションをはさみながら9曲つなげたものである。(ドゥセクは革命前の、アントワネットを含む王室との親交を理由にフランスには居づらくなり、イギリスに活動の拠点を移し、アントワネットの処刑の直後にこの曲を作曲している。つまり典型的な「王党派」とみられていたということになる)

 だたしこの録音では、ナレーションをすべて「ベルばら」原作の該当シーンに置き換え、池田さん自らがアントワネットに扮して朗読している(当然日本語)点に特徴がある。池田さんの朗読は、むしろアニメのオスカル役の田島令子さんの声に近いタッチとも受け取れるが、なかなかうまい気がする。

 こうした、標題音楽的な器楽曲は、当時決して珍しいものではなかった。ベートーヴェンの「田園」交響曲からして、実は類似の「田舎の生活」をテーマとした表題音楽がすでに山のように作られていた中で作曲されたので、発表当初「ああ、またこのパターンの曲か」と、さほど人々の注目を引かなかっただけである。

 曲想は、まるでベートーヴェンの頃の古典派音楽を「堅実に」学んだ作曲家なら、このように表現するだろう、といいたくなる、古典派的であり、適度にドラマチックな書法である。ベートーヴェンやモーツァルトが「超Aクラスの」somethingを持った大作曲家として歴史に残るには、このような類似の書法の「Aクラスの」作曲家.....ただし、後世はあまり聴かれなくなる.......が、同時代にはたくさんいて、人気を博していたとみる方が自然なことのようにも思う。

 つまり、すべてをモーツアルトやベートーヴェンが作り上げたわけではなく、同時代の曲から多くを吸収し、さらに時代を突き抜けた「何か」をそこに含ませられるかどうかの違いが、後の時代にまで「天才」と呼ばれるかどうかの違いであろう。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調の終楽章の変奏曲には、明らかにロマン派の先触れのにおいがして、変奏のひとつが、「ラ・マルセイエーズ」に似ていることはよく知られている。そしてこの曲は、20番の二短調協奏曲とともにベートーヴェンにも愛され、自身のビアノ協奏曲第3番ハ短調(私の大好きな曲である)に深い影響を与えている。彼らもフランス革命時代の空気を吸っていた時代の子であり、なおかつそれを超えていたという「だけ」のことともいえるだろう。


*****

 しかし、そうした「Aクラス」どまりだった同時代の、今日ほとんど演奏されない作曲家の中にも、

 「あ、あの。この人がベートヴェンにもろに影響を与えたということぐらい、もっと振り返られてもいいでしょ?」

という域の人が確かにいるようだ。

 フランスの作曲家、メユール(Méhul)がそうである。

 1763-1817の生涯であるから、ベートーヴェンの1770-1827からすると、わずか数年の「先輩」である。1756-1791のモーツアルトからすると、わずかに後輩。

 特に、この作曲家の交響曲第1番と第2番が、ベートーヴェンに「もろに影響を与えた」可能性というのは、たいへん興味深いテーマである。

 こういうマイナーな作曲家となるとレパートリーが豊富な、上記の香港ナクソス・レーベルのCDを今回初めて聴いてみたのだが(わずか1000円!! ただ、入荷に時間がかかった。それがこの記事の遅れの主要な原因である)、誰もがこの2曲を聴くと唖然とするはずである。

 まず第1番。第3楽章の舞曲楽章はテンポが速めで実質スケルツォなのだが、主部がすべて弦楽のピティカートで演奏される!! トリオ(中間部)の、上昇する小刻みな音階中心の部分も、何とはなしにどこかで.....そう、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」第3楽章である。

 さらにショッキングなのがこの曲の第4楽章である。あの「ミミミドー」の「運命の動機」そのものが聴こえるどころか、それが執拗に繰り返されて展開されていくあたりは、「運命交響曲」の第一楽章をどうしてもイメージさせる

 ただし、それが、まるでモーツァルトのト短調交響曲(第40番)のような、やや女性的な、「疾走する悲しみ」として、「なで肩」でセンチメンタルに展開され、ベートーヴェンのような「剛性のあるダイナミックな伸縮体」としての性格を持たないだけである。

 この第一交響曲そのものが、ソナタ形式として非常に構成的にしっかりした第一楽章をはじめとして、ハイドンやモーツアルトの古典派様式を非常に「堅実に」身に着けた上で、革命期のフランスにしかなかったであろう、ある独特の情緒性とロマンチックさが匂いたつという点では、むしろ少し後のウエーバーやメンデルスゾーンの先取りとすらいいたくなるところがある。

 実際、この曲を再発掘して「再初演(?)」したのは、ゲバントハウスでメンデルスゾーン指揮によるものであり、メンデルスゾーンと朋友シューマン自身が、ベートーヴェンの第5交響曲との類似に注目する発言をしている。

 交響曲第2番の方が、明朗な曲想で、ハイドンあたりとの近縁を感じさせるが、第1楽章の冒頭の序奏の音階上昇は、それこそベートーヴェンの、