精神療法

2009/08/09

人がバイトを始める時

 ある若い世代の人と対話を、ご本人の承諾の上で取り上げたくなった。

 「自分は高校生の時、なぜバイトを始めたのか」という話。

 その人は、 

 何かが欲しいけど、小遣いが足りなかったから・・・・でもなく、

 友だちがバイトしていたので自然と誘われた・・・・とかでもなく、

 「自分を汚したくなったのだと思う」

と言い出したのである。

自分を「世間の垢にまみれさせて」みたかった。 「物が欲しかった」というより、自分の身体が、大人社会に「使われる」という感覚を体験したかった。自分を世間に「消費させて」みたかった・・・・そんなことを話してくれた。

 私は、この人の少しユニークな語り口を興味深く思いつつ、私なりにその人の「身になって」感じてみて(!)

「今聞いていて思ったのは・・・・・・大げさに響くかもしれないけど、あなたはその時、大人社会に自分の身を供物(くもつ)として『差し出して』みたくなった・・・・みたいな心境だったようにも聞こえたけど」

と言ってみた。

 ここでいう「供物」という言葉には、宗教的儀式における「生け贄(にえ) Sacrifice」というニュアンスも含めたつもりだったが、その人は十分にそれを察してくれたようで、笑いながら、

でも、死ぬつもりはなくて(^^)

それでも死なないで生き残ることができる私の『いのち』があると信じたかったからこそなんだと思います。そうやってでも残るのが本物の自分なんじゃないかみたいに感じていた気がします」

と応えてくれた。

*****

 ここまでお読みの皆様は、

「要するに、自分がともかくも世間で通用するかどうかを試したかった、そうやって自分の殻を破りたかったという若者心理のことだろ?」

・・・・とあっさりお感じになり、ここでのやり取りを何かひどく大袈裟だなあとお思いかもしれない。

 でも、思い出して欲しい。

 あの、「一歩を踏み出した」日の、ナイーブな自分のことを。

 ・・・・・守られたぬくぬくとした殻を破り、敢えて自分で自分を「誕生」させる決心をするということは、ある意味で死を賭したものであるということ。


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2009/07/28

単に「無理をしなくていいんだよ」と言われても、鬱の人は・・・・

 欝状態に陥り、仕事も辞めて、しばらく投薬を受けながら休養を取っていて、小康を取り戻したと思えた人が、「少しは働き始めてもいいかな」と思って、まずは、限られた日に限られた時間だけ、負担も少なそうなバイトを始めることから社会復帰の道を探るという形をとることは、言うまでもなく、非常に多い。

 しかし、ことはなかなかうまく運ばないものである。

 例えば、以前の自分であれば何なくやり遂げることができたと思える作業で、予想外に消耗する。

 注意力が乏しくなっていて、些細なことでミスをしやすい。

 特に、同時に幾つものことに気を配るということがうまくできなくなっていることに自分でも驚いてしまう。

 結構普通に業務をできているかなと思ったら、まるで「魔がさす」かのように、いとも簡単に、ものを置き忘れたり、必要なものを持っていくのを忘れるなどが生じる。

 最初の2,3時間は調子よく業務をやれても、思いもよらないぐらいに早い時間が過ぎると、突如、怒涛のように疲労が襲い掛かる。

 職場環境は悪くない。同僚も上司も結構いい人たちである。

 なのに・・・・数日仕事を続けるうちに、朝、起きてみると、重苦しい気分の中で、「もう、仕事に行けない!!」という、強烈な思いが押し寄せてくる。

 それでも頑張ってしばらく通い続けたものの、ついに力尽きる。

 こうして、バイトをやめる決断をする。

***** 

 一度鬱になった人の困惑するひとつの現実は、欝になる前までのような形で、「自分がどのくらい無理をしたら、どのくらい疲れるのか(=どのくらい「無理が効く」か)」「一度疲れたら、どのくらい休息を取れば、そこから回復するのか」という、実感的な経験値に基づくシミレーションの「勘」が、まるであてにならなくなるということである。

 「結構やれている」という状態が数日ないし1,2ヶ月続いても、それが瞬く間の間に崩れ去り、以前の欝状態に舞い戻る場合もある。

 そうなってくると、もう、自分の中の何を判断基準として自分の活動水準を制御したらいいのか、まるでわからなくなる。そういう人も少なくないのである。

 お医者さんは、「私はこれからの一週間、働いても大丈夫でしょうか?」ということに直接答えを出してくれる存在ではない(その人がよほど無理をしていることが明白な場合は別であろうが)。

 こういうことが度重なると、

「自分は実は結構やれるはずなのに、やらないでいるだけではないのか」

「でも、またはじめてみて、この前と同じように結局無理になって働けなくなってしまったら?」

という2つの気持ちに挟まれたディレンマの中で、どのように自分のスタンスを定めたらいいのか、悶々とした状態になり、休養しているはずなのに心は休まらないという宙ぶらりんな状態のまま日々を送ることそのものが更に辛くなっていくのである。

 このようにして生じたきた鬱っぽさを、私は「本態としての鬱」ではなくて、「鬱状態をどのようにして生きていくか」というストレスから生じた二次的な鬱」としてとらえている。実は、この二次的な鬱状態の方に、より大きく振り回されていると言えそうな人が少なからずを占めているのではないかという気がする。

****

 さて、先ほどのようにして、始めたバイトを中断せざるを得なくなった人に対して、家族は「無理はしなくていいよ」と言ってくれたとしましょう。

 恐らく家族は、それなりの善意と思いやりをもって「無理はしなくていいよ」と口にしたのであろう。しかし、その人は、そうした家族の対応にむしろ気持ちの通じなさ疎外感を感じて、死にたいとすら感じ始める・・・・・そうしたことは、確かに少なからずあるのではないかと思う。

 なぜなら、その人は、今度こそと思って仕事を始めてみたのに、もろくも崩れ去るしかなかった自分に深い絶望と「無念さ」を感じているのである。その人は、そうやって仕事の再開を志した時の自分、しかし実際に始めてみると、抗し難い力で自分に生じてきた「もう働きたくない」という思い、そしてその挫折の無念、そうした経過全体から生じた「心の痛み」そのものを、身になって「共にして」くれること(com-passion)、思いやってくれる相手をこそ、周囲に求めていたのである。

 話し手には突き放す意図はなかったとしても、 「そういう経過になることはよくあること」「そうなっても仕方ないね」とだけ言われてしまうと、まるで、ひとりだけ見捨てられ、諦められ、打ち捨てられ、放置されているかのようにしか感じられないのである。

 こうして、その人は、いよいよ死にたくすらなってしまうわけである。

 私はこれを、うつの人にありがちな認知特性の問題に還元するに留まることに違和感を覚える。ご本人の実感の世界に身をおいて共有しようとすれば、我が身にでも生じかねない思いであることを、かなりの程度汲み取れるはずだからである。

 非専門家である家族にまで多くの責任を負わせることはできまい。しかし、少なくとも、うつの人に接する援助的専門家なら、医師でも、カウンセラーでも、まずはこうした次元で気持ちを丁寧に汲むことから降りてはならないだろう。

 鬱とは、単に欝状態になった人個人の内側にあるものではない。その人と接する具体的な人間との相互作用の中で生じている悪循環現象総体である。

 脳内で神経伝達物質の代謝異常の問題が確かに生じているにしても、それは「原因」であると同時に「結果」なのだ。本来ならばかなり適切な筈の薬物が投与されていたとしても、医師やカウンセラーの日ごろの面接での態度次第でその効き目は大幅に異なったものになることは言うまでもないことである。

 これは、「〇〇療法」以前の問題であろう。

 そして、これは何もうつ病に限った話ではないことも、察していただけるであろう。

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2009/07/27

カウンセラーの自己受容あって、はじめてクライエントさんを受容できる。

 カウンセラー自身が、一個人、一生活者としての自分の中に生じる様々な矛盾した思いや葛藤や感情、行き詰まり感、自分でもはっきりと直面したくないもろもろの課題や思いや認識に日々気づいていき、たとえそれに具体的な解決策は見出さなくとも、静かにそれらを味わい、認めてあげ、自己受容することがでてきること。

 このような、自分自身に対する「風通しのよさ」のようなものを自分で実感できていてはじめて、カウンセラーは、クライエントさんたちが語り出す様々な葛藤や矛盾する思い、自分でも認めたくない自分の心の動きを静かに受け止めながら傾聴できるであろう。

 さもなければ、カウンセラーは、クライエントさんが語りだした事柄(語りだそうとしていた事柄)をなんらかの意味で「遮る」存在になる。たとえそれが形の上でどれだけ受容的な傾聴をしていても、一見些細な言葉の端々や声の調子を通して、クライエントさんに、何か「伝えがたき壁」を感じさせる存在になるであろう。

 それをすべて、クライエントさん側の投影や転移(要するに、ひとり相撲)の問題に還元できるわけではない。

 カウンセラーもまた、クライエントさんたちの語りによって、何らかの意味で「揺らされる」存在であるに過ぎない。いい意味で「揺らされて」いること(これは「動揺する」こととはまるで違うことだ)は、むしろクライエントさんとの相互作用の場においてはむしろ必要なことであろう。

 先日亡くなった土居健郎先生が言われていた、「共振れ」とは、まさにそのことを指すものであろう。

 いい意味で「揺れされ」得る心の余裕は、カウンセラー自身が、自分自身に対して防衛的であるうちは確保できない。

単に「揺らされまい」とだけしたら、恐らく、カウンセラー個人が日常で体験する心の「揺れ」を味わい、受容する感受性すら鈍磨し始める可能性すらあるのではないか。

 これは単に、教育分析(教育的カウンセリング)の場などの限られた場で「すっかり解消してしまえる」ような性格のものではない。

 そうした個人としての葛藤を、心を開いて語れる相手をカウンセラーは確保できているのが望ましいことは言うまでもない。

 しかし、最後の最後に勝負を決めるのは、カウンセラー自身の、日頃からの自分との関わり方の問題だろう。

 話し相手に、いつ、どこまで、何を語るかを思い定めるのも、自分自身なのであるから。

・・・・・以上、自戒を込めて。

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2009/07/25

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(7)

 前回の続きです。

Stage4.語り手がそこまで語った全体についての聴き手の側の印象を言葉にしてみる

 Stage3までのやりとりは、もう一度Stage1にまで戻って、話し手の話の様々な局面について自然と展開が広がる形で繰り返されることが少なくないのですが、そうしたやりとりが自然とひとまとまりがついてところではじめて、話し手の話を聴いていた私の側が、そうした話にどういう印象を持っていたかを語ります。

 すでに述べたように、私はここまでの展開の中で、話し手の「身になって」自分の中に感情移入的フェルトセンスを刻々と醸成していくモードと、話し手の話を聴いた私の側にどんな思いや違和感や身体感覚が生じていくかに刻々と気づいて受け止めていくモードという、2重の仮想身体を抱えているつもりで、その2つをはっきりと内側で区別しながら傾聴し続けています。

 しかし、こうした2重のモニタリングを維持しながらstage3までを丁寧に進めて来ていた場合、私が当初は感じていた、語り手への違和感の多くは氷解する方向へと、語り手はいろんなことを話してくれていることが多い気がします。

 この私の中での「氷解」を決定的に進めるのは、私がその違和感を「早まって」(?)口にすることではないのですね。stage3で、そこまでの相手の話の全体について、相手の身になった言葉やイメージを返してみた後で、話し手がそれを自分の実感と照合しながら、更に語り勧めてくれる中ではじめて聴けた話に、しっくりと感情移入できるという形で生じることが少なくないようです。

 ですから、私は、stage4において、「最初に」感じていた違和感にまで遡って言葉にすることはほとんどありません。そこまで話を聴いて来て「どうしても残る」違和感については触れることも多いのですが、そうした際にも、「あなたから何かまだ肝心なところまで話を聴けていないから(あるいは、あなたの側では「伝えたはず」だけど、聴き手である私の方が 肝心な点を受け止め損なっているので)、私の側がそうした違和感を感じているだけではないか」といったことを、言外に示唆するか、直接伝えることが少なくないですね。

 こうしたスタンスを維持する限り、こうした私のstage4水準での表明を受けて、更に語り手が反してくれることは、更に理解を深め合う方向へと進むことこそあれ、語り手の側に、私に何かが「通じなかった」「受け止めてもらえなかった」という方向に留まることは少ないと感じています。

 要は、私が語り手に返した事柄について、語り手の側がピンとこなかったら、いくらでも修正を入れてくれていいというスタンスが伝わるかどうかだとも思えます。

*****

 こうしたstage4水準での応答において、「語り手の体験していること(とその際に生じているもろもろの感情)が、聴き手である私の過去の体験(とその時の感情)とどこかで「通じ合う」かのように自然と感じられた」ということを伝えることも少なくありません。

 しかし、私はそうした時に、「あなたがそういう体験の中で感じたことと安易に重ね合わせ過ぎる形になることは私も望まない。これはあくまでも私の側が勝手に重ね合わせたことであるに過ぎない」というメッセージも必ず同時に付け加えます。

 ちまたにありがちな、「そういうことって、あるよねー」式の、安易に自分の体験に引き付けた「理解し、共感したフリ」のエールの送り方が、相手自身が体験している状況と個人的な感情に更に付き合うことを妨げる浅薄なものであるかを重視したいためです。

*****

 さて、ここでやっと、先日の「久留米でフォーカシングを学ぶ会」というグループの中で、主催者の私が、会の最初に実際に試みたこととの関連に話題を戻せます(^^;)

「まずは、この場にこうして座ってみて、皆さんひとりひとりが、今、どんな感じで座っているのかな・・・というのを、ちょっとだけ味わってみる時間を取りたいと思いますが、いかがでしょうか?」

(この問いかけの際に私が付加した、さまざまなアングルからこのことを試してむることができることについての具体的な提案の細目は、こちらの記事をもう一度参照してみてください)。

 数分が経過し、ひとりひとりの参加者から、「あくまでこの場で参加者の皆さんとシェアしたい事柄だけでいいので」と伝えた上で、その数分間の沈黙の間に体験していたことを語ってもたったのですが、ひとりあたり2,3分からせいぜい5分でした。

 私は、ひとりの参加者の話を聴くごとに、こうして述べてきたstage1からstage4までの応答次元をすべて含めた形で傾聴し、応答することを意識的に進めていったのです。

 つまり、ひとりの参加者の話を聴いていて、私がその参加者の話を「身になって」聴いていて生じてきた、参加者の実感にしっくり来そうな言葉やイメージを手短に呈示し、それについてやり取りし(stage3)、それに続いて、私の側の感想や、私の体験との接点(と、私に感じられたもの)についての控えめな呈示と、それに基づくやり取り(stagae4)まで、その参加者と進めるということを、コンパクトに進めたわけです(その参加者とのやり取りをしている間、他の参加者はあくまでも静かにそれを聴いています)。

 その結果得られた参加者からの振り返りの感想が、以前お書きしたように、

  「シェアリングの中で他の参加者の方が自分の体験の中で感じていたことを聴いていく中で、それを自分の実感と自然と照合するプロセスが進んで行き、そうしたグループの場の空気に助けられて、自分の身体の内側からの反応をしっかりと確かめられた」 

となったことを、私はたいへん興味深く思えました。

 これは、個々の参加者と主催者であるとの間で繰り広げていた、お互いの実感を照合する相互作用のプロセスが、他の参加者が自分の実感に触れ、再吟味していくプロセスに、ほとんど非言語的な次元で、ひとつのモデルとして影響を与えていたということかとも理解できるとも思えます。

****

 もう一度繰り返しておきますと、ここで述べてきたことは、私のカウンセリングおよび、プライベートな人間関係で真剣に相手の話を聴く時の傾聴と応答の様式として当たり前になってきていたことを、これを機会にまとめなおしてみたものです。

 もちろん、このことを常に完璧に実現できているわけではなくて、こうしたススタンスが崩れることもあります。 

 そして、ネット上で文字だけでコミュニケーションをする場合には、こうしたやり方まではほとんど使っていません。電話など、音声だけのやりとりでも、不十分にしか発揮できないように思います。

 ここでは、実例を呈示しないままに説明を進めてきたので、読者の中には、どういうあたりのことを指すのかつかみづらいと感じた皆様もあるかもしせんが、一度ここでこうしてまとめておくことが、今後私にとって、今後何かの際に役立ちそうだという予感に導かれるまま、とりあえずの見取り図として書いてみた次第です。

(とりあえずこの項終わり)

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2009/07/19

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(5)【第2版】

 前回の続きです。

Stage2.感情移入的なフェルトセンスからの応答を、挿入的に最小限織り交ぜる場合

 話し手が話すことが、かなり込み入った感情について、断片的に次々と繰り出される形になり、しかもその込み入ったひとつひとつの表現をたどって応答していくと、何かしら几帳面過ぎて、語り手の語る話の流れをむしろ妨害して、むしろ、語り手がとりあえず口にしたに過ぎない表現の枝葉末節に語り手を拘泥させるきっかけになりそうな時、私は、語り手の、せいぜい30秒から1分程度までの語りの中に語り手が込めていた気持ち全体(表情や語調を含めた全体)をとらえることになりそうだけれども、語り手自身は使わなかった言葉を、語り手の身になってちょっとだけ感じてみて、そっと差し出すことがあります。

 これは、私の応答の中で、せいぜい10%から20%しか占めません。前述の、語り手の用いた個人的含蓄の深そうな言葉をそのまま大事にした応答、すなわち、「ベースラインモード」の合い間合い間に、ごく挿入的にしか用いられない形になるのが自然だと思います。

 むやみに使いすぎると、語り手は、自分自身の言葉で内面に注意を向けながら物語ろうという自然な内的道筋を見失ってしまいやすいからです。

 これは、一見、ロジャーズ版の技法でいう「明確化」だとか、「要約」といわれる返し方に外見上は類似しているのですが、私はそうした際に、私なりに言い返して投げ返す応答が、語り手本人が込めてそうな含蓄を、単に一般化、平板化しかねない言葉に置き換われないように、細心の注意を払います。

 私は、これを、聴き手である私の側の「感情移入的なフェルトセンス」を活用した、最小単位の「代理フォーカシング」のようなものとして位置づけています。

 多くの話し手は、こうした言葉を伝え返した時、

A: 少しはっとするような調子で、

  「そう!〇〇です」

などとその言葉を繰り返し、その後の話の流れでは、私の差し出したその言葉を、自分の言葉の一部として取り入れて全く自然に使い始めるか、

B:「〇〇というより・・・・そうですね、◇◇というほうがいいかな」

などと、自分なりの言葉に置き換えて、更に自分の話の続きを、さっきまでよりは少しだけ生き生きと展開していくことが多いです。

 そして、現実には、どちらかというと、この中のBパターン、つまり、私の差し出した言葉は話し手本人の実感に響く、新たな言葉に言い換えられて、はじめて、その後の話を展開する上でのキーワードとして動き出すことの方が多いように思います。

 私が「代理フォーカシング」して差し出した表現は、話し手本人の実感と自然と照合されて、反して本人が、ひとりだけではなかなかたどり着けなかったぴったりの表現を見つけ出すための照合体、あるいは触媒としてそこそこ機能していれば、それで十分なのですね。

 こうしたことが円滑に機能する言葉は、そこまでの部分で、聴き手としての私が、「ベースラインモード」、すなわち、語り手が使った表現や言い回しだけを慎重に使い続け、なおかつその言葉を私自身の身体に響かせる中で、語り手の身になった「感情移入的フェルトセンス」を刻々と形成する中て語り手の実感世界に徹底的に寄り添うことを続けた中から、最小限必要と感じられた場合にのみ「差し出された」言葉だからこそ、語り手にとって「当たらずとも遠からず」の表現となり、語り手も、それが実感上しっくりと来なかったら、自分の言葉に置き換えてしまうことを、全く自然にできてしまうのだと思います。

 こうした際に、聴き手が、話し手の身になって、身体を通して出てきた言葉を提示しないと、話し手の側もそれを再び自然と身体ごとで感じている実感をくぐらせて照合するということが生じにくく、単に「頭で」もっともそうかどうかだけを「判断」するに過ぎない次元へと引き戻しがちなようです。

*****

 (この水準での活用の場合、滅多に生じないことですが)、もし万が一、私から差し出したその表現に、話し手側がひどく戸惑ってしまったら?

 その時には、話し手がその直前に話していたことを、話し手自身が使った言葉を大事にしながら、ある程度もう一度投げ返してあげるところに立ち戻る方がよく、聴き手の方から、次から次へと、更に別の言い方を新たを繰り出すことなく、再び「ベースラインモード」の傾聴に戻る方がいいように思います。

 少なくとも、聴き手の側から使った表現に、聴き手の側だけがこだわり続けるパターンにはまることは、できるだけ避けた方がいいと思います。

****

 なお、このstage2で行なった水準での、聴き手としての私の感情移入的フェストセンスを活用した言葉の返し方をする場合には、語り手の話の流れを妨げない自然さを最大限尊重するため、後述のstage 3以降の場合のように、「今、あなたがどんな心境なのかなと私なりに感じてみて出て来た、私なりの言葉(イメージ)なんだけど・・・・」ということまで、語り手に予め断った上ではじめて語り出すだすことまでは、通常だと、あまりしません。

 慎重を期したい時には、「こういうこととして受け止めていいのかな? つまり・・・・」ぐらいの前フリをさりげなく入れますが。

 ・・・・・こうして理屈だけで説明すると、どのあたりのことをすることなのか見当がつきにくい方もあるかもしれません(^^;) しかも、話の場の場のライブでさりげなく使っていくことが多いので、その場で面接記録を取っていても残らないくらいの次元のものなのですね。

****

 ちなみに、私は面接記録を、面接のただ中で取るタイプです。

 そういう際に、できるだけ、語り手自身が自発的に用いた表現と、私が、今述べてきたstage2水準で提示した言葉を区別できる表記になるように工夫しています(具体的に言うと、前者は「 」入り、後者は< >入りで記入します)

 面接が終わってから記録を取ると、得てして、話し手が使った、個人的に含蓄を込めた言葉(フェルトセンスのハンドルに当たる言葉)を、聴き手である私の側が、平板で一般的な表現に置き換えてしまいがちです。

 前回述べたことを繰り返しますが、同じような意味だからと言って、話し手の実感に響かない別の言葉に置き換えてしまうと、話し手がその言葉を媒介として伝えようとしていた含蓄の大半は見失われます。

 ところが、聴き手にとっても、語り手自身の表現というのは、やり取りをしているその瞬間を遠ざかるにつれて、記憶に残りにくくなるものなのです。

 ところが、面接場面での相互作用の核心部分は、そうした、話し手自身が使った言葉や表現をどのように聴き手としての私が受け止め、ここまで述べてきた「ベーシックモード」と「聴き手の身になった言葉での伝え返しを最小限していく」水準での応答を、話し手がどのように自分の中で自然と再吟味して、新たな言葉を紡いでいくかという、たいへんミニマムな水準での相互作用のステップの進展の繰り返しの中で築、実にさりげなく築き上げられていくことのように思えてなりません。

 面接の流れがちょっと袋小路になった時に、語り手がさっきまで話していたパーソナルな脈絡にもう一度立ち返ってみるように促すことが役に立つことがあります。そういう時に、「さっきまで、そういう時には〇〇だと感じる・・・とお話しでしたが」と、話し手自身が使ったvocal(音声的)な言葉を具体的に再提示して差し上げると、語り手は、先ほどまではつかんでいて、いつの間にか見失っていた、自分の体験過程に触れながら言葉を紡ぐ軌道を、再び取り戻せる場合があります。

 そういう際に、話を聴きながら刻々とメモし続けてきた話し手の言葉を活用できることの意味は大きい気がしています。

(続く)

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2009/07/18

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(4)

 この連載、前回に続いて、ついに4回目に突入しましたが、私自身にとっても、私が日々のカウンセリングにおいて(・・・・いや、それだけではなく、個人的に本当に大事にしたい人たちとの対人関係で、相手の気持ちときちっと向き合いたい時に)、いったいどういう関わり方をしているのかを自分で再確認してみることにもなっていて、興味深い場になっています(^^)

******

 私のそうした場面での傾聴と応答の際には、どうやら、実にシンプルに習慣化された、4つのステージが構造化されているようです: 

Stage1.ベースラインモード

 話し手が個人的な含蓄を込めて、実感に触れながら語っている「かのように」私に感受できた言葉や言い回し(実感を伴うキーワード)を、私自身の身体に響かせ、話し手が体験している言語以前の漠然とした「感覚」そのものを私の身体の中に徐々に醸成するかのようなつもりで、決して言い換えることなく、「点(話し手の用いた、実感を伴うキーワード)」「線(語り手の語った状況説明の大枠や、接続詞)」を大切につなぎながら、言葉として投げ返していく。

 私が、そうやって、話し手にとっての実感上のキーワードや言い回しを、私自身の身体に響かせること自体が、私の中に、話し手の身になった「感情移入的フェルトセンス」一層醸成させることに貢献するのであり、話し手がどういう実感を体験していたのかに、更に身体ごとチューニングしていく上で役に立つのです。

 これが、傾聴と応答全体の6-7割で堅持されている基本スタンス、ベースラインモードなんですね。

 たいていの人は、何かを人に語り出す時に、

  • 自分の体験している実感そのものを相手が共有してくれることを期待している。
  • すでに多少の程度は自分の実感に触れる中から言葉を紡ぎだそうとしている

・・・・この2つの前提に立った方がいいと思います。

 話し手の話が一息つくたびに、私の方から、こういう、身体を通して身になる聴き方を経た伝え返しの応答を差し挟んでいくとしていくと、それだけで、話し手は、自分が今言葉にしてきた言い方が、自分の実感としっくり来るものなのかどうかを、自然派生的に内側で照合し、自分にとって更にしっくりする言い方に置き換えていったり、あるいは、自分の抱えた問題の中の、本当に伝えたい局面を物語ろうとして行ってくれることが多いようです。

 こうした聴き方をしていると、話し手も、いつの間にか、私に向けて自分の気持ちを語ることに没頭し始めるのですね。そして、その時のその人なりに無理のない範囲で、自分の中の実感に触れながら言葉を紡いでいく傾向が、しなやかに「少しだけ」喚起されることになることが少なくないと思います。

 つまり、まずは聴き手の側が、率先して、語り手の語りをじっくりと「身体を通して」傾聴して、語り手の語った、語り手の実感がこもっていそうな言葉や言い回しを「拾い上げ」、伝え返していくを姿勢を繰り返しとることで、どういうわけか、そうした聴き手の「身体を通す」スタンスそのものが話し手自身の、「自分の」実感へのかかわり方へと「伝染する」(あるいは「非言語的な次元での模倣」を喚起する)ことに、かなりの程度信を置いていいと思っています。

 そうした一方、(連載2回目でも書きましたが)、私はそうやって、私自身の身体の中に、話し手の「身になって」体感しつつある「感情移入的」フェルトセンスを感じる部分とは別に、話し手を前にして、話を聴く中で、「私個人の中に」生じてくる実感や連想や思いを受け止めるためのスペースを、いわば2重抱えでしつらえています(聴き手自身の中での、いわばマルチタスクのフォーカシングモードです)。

 敢えて言うと、あくまでも相手の身になって実感を感じようとしているのはは、相手と対面している、私の身体の正面寄りの部分に、仮想的に設定されたし身体領域です(半分は私の身体に埋没し、半分は正面寄りの空間に張り出しているイメージでしょうか)。

 その後ろの方の身体領域に、「相手の話を聴いて私個人がどう身体で感じているか」を味わうための、もうひとつの身体領域があるつもりになっています。

 そこでは、語り手の話を聴いて行く中で私自身に生じた不安や緊張、違和感や時には嫌悪、そして、私個人の中に勝手に沸き起こってきた感想や連想や、私自身の体験と勝手に引き付けてとらえようとする心の動きや、「批評家的」な感想や分析の類が次々と沸き起こることを私は許しています。

 しかし、私は(アンさんの技法風に言えば)それらひとつひとつに「なるほど、そういう感覚や連想も生じてきているわけね、わかったわかった。必要あれば後で相手してあげるから」と一声ずつかけて("Acknowledging")、脇にひかえていてもらうことを果てしなくやっていき、そうした「私個人の」内側からの訴えがとりあえず静まったら、「相手の身になっている部分」の方に注意を戻してしまうわけですね。

 この「相手の身になっている」仮想身体と、「私個人が相手との関係で感じている」ことを受け止めるための仮想身体は、あたかも2つの地層のように、私の身体の中で隣接しているわけです。しかし、この2つの層の間のバウンダリー(障壁)は、人の話を真剣に聴こうとする際には、非常に強固に維持しようとしています。

 敢えて言うと、一方の層の血管に流れている血液は、めぐりめぐってもう一方の層にも流入するので、間接的な相互作用は生じているという相互影響過程は当然ありますが。

 そして、少なくとも、今言及しつつある、1番目の「ベースモード」の聴き方をしている時には、「私個人がどう感じているかを体感する仮想身体」の方の直接的発言権は、厳重に管理され、その会話の日常的な自然さを保つのに必要な、比較的些細な内容を除くと、「ほぼ」封印することになります。

 こうして、私は「相手の身になりつつも、同時に私自身であり続ける」という形で、相手の前に身をさらして話を聴いているわけですが、このようにするのは、単に「相手に巻き込まれてしまわないため」などという理由に留まりません。

 むしろ私として申し上げたいのは、私が、相手の話を傾聴しながらも、私の体の中の一方の層の中で、ある意味で情け容赦がないくらいに、話を聴きながら私個人がどういう実感でいて、どんな連想をしているのかを、ことごとく自覚して、認めておこうとしている(アンさんの著書の原題タイトル、"Radical Acceptance of Everything"を想起します)から「こそ」、それと安易に混同しない、より純粋な形で、「相手自身は」どんな実感でいるのかに丁寧に関心を向け、感じてみようという余裕(自分の中のスペース)が一層生まれるのだと思っています。

 単に自分個人の実感を自分の中で押し殺そうとしているだけだと、「相手の身になる」心の余裕はどんどんそがれていく・・・・なのに、ひたすらその「フリをする」ことに没頭する自己不一致状態になるのではないかと思います。治療者側の自己不一致は、クライエント側の自己不一致を誘導することは、ロジャーズ派カウンセリングの基本原理でしょう。

 更に言えば、話し手側には、聴き手の私が、私個人として、どのようなことを感じているかの内容的な実態は、その段階では具体的にはほとんど全く感受できていないかもしれませんが、私が、聴き手の身になろうと務めながらも、どういうわけか、私としての自然な存在感(presence)を維持しつつ、しっかりと安定して「そこに-いる」ということは伝わると思います。このことそのものが、話し手に、話をしても大丈夫だという安心感と信頼感を醸成するのではないかと思います。

(続く)

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2009/07/17

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(3)【第2版】

 さて、前回に引き続き、今回は、「聴き手が、話し手のいうことを、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスを通して伝え返しをする」ということが、具体的にどういうことなのか、示して行ってみたいと思います。


 これから述べることは、基本的には、この前ご紹介した、

ジャネット・クライン/インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー―カウンセラーの力量アップのために

で解説されている傾聴技法に準拠していますが、

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシングガイド・マニュアル

で解説されている傾聴のあり方も融合させて解説することになるでしょう。

****

 聴き手が、話し手の話を、自分のボディ・センスを通して傾聴するということ・・・・これを「体験的傾聴」などと呼ぶ場合もあるのですが、こういう言い方だけでは、初めての人には、いったい何のことだかまるでわかりませんよね(^^;)

 まず、ちょっと狼のことを連想ししてみてください。

 一匹の狼が、闇の中で「ワオーーーーン!!」と吼えます。

 すると、しばらくすると、闇の彼方のどこかから、「ワオーーーーン!!」という泣き声が、まるで木魂のように返っています。

 最初の狼は、再び「ワオーーーーン!!」と叫び消すかもしれません。

 闇の彼方の狼は、さっきより早く「ワオーーーーン!!」と鳴き返し、次第に2匹の「ワオーーーーン!!」は、まるで輪唱かデュエットのように折り重なり、そのうちに3匹目、4匹目の狼の「ワオーーーーン!!」すら加わってくるかもしれませんね。

 同じような調子の声で、同じように鳴き交わす。

 まるで、相手の声の調子を模倣して返していくこと自体に、大きな意味があるかのようです。

 これが、動物同士のコミュニケーションの原点なのだと思います。

 そこには、敢えて言えば「同類がここにいるぞ!!」ということを相互確認すること自体に大きな意味があるのかもしれません。

 ・・・・でも、どうでしょうか?

 もし人間が、

「あなたは私の同類ですか?」

「ええ、同類です」

という、言語的(verbal)なやり取りをしていたとしても、それだけでは、狼同士の鳴き交わしのような、恐らく実存そのものを背負った連帯の絆は確立できていないであろうということ。

 身体に響かせ、vocal(音声的)に「鳴き交わすこと」にこそ、相互承認、相互連帯、世界の中で自分は一人ではない、お互いが繋がっているという感覚、そして、相互理解の実存的な基盤があるのだということ。

 ちょっと神田橋先生風の比喩にもなりましたが、確か、ジェンドリン自身も、「プロセス・モデル」という論文の中で、これと似たことを書いていると伝え聞いたことがあります。

 話し手の語りを身体を通して傾聴し、身体を通した言葉で応答していくということのベースラインには、こうした視点を持っている必要がある気がします。

**** 

 さて、この「ボディ・センスを通しての傾聴と応答のうち、今回はもっぱら傾聴のことを話題にします。これが、通り一遍の、共感的な「伝え返し」に留まる状態と、どのように異なるのか?

 ・・・・・ちょっと大胆な試みかもしれず、逆に困惑してしまう読者の皆さんが出てくるのを承知で、試しに、私がそうした「身体を通した」傾聴をしているときの実感そのものを描写してみますね(^^)

 相手の人が私に対して話をはじめました。私にはその「響き」が到達しています。私の「耳の鼓膜」は振動しているでしょうし、私の「頭の中」では、相手が話す言葉や、その脈絡に込めた「意味」を「理解しよう」とする働きが始まります。

 しかし、同時に、相手の言葉の響きは、相手の人と対峙している、私の身体の正面寄りの部分全体にも同時に響いて来ているわけです。私は、あたかも耳の鼓膜以上に、腹膜で、相手の話を聴いているようなつもりになってみることが少なくないです。

 腹膜を通して私の胴体という空洞に伝達された相手からの「響き」は、胴体全体を振動させ、共鳴させます。

 私はそうやって、自分の胴体が相手からの響きに共振ないし共鳴するのを自分に許した上で、そうした身体の振動にセンサーをめぐらせて、話し手の心境を「感受」し、読み取ろうとしていく「主体としての私」も堅持しています。

 今、「共鳴」という言葉を使いましたが、これはカウンセリングで使い古された「共鳴」という述語よりも、本来の意味、つまり、音響学的な現象としての「共鳴」というのに近い意味で使っています。

 つまり、話し手という「音響発生体」(?)の中で、一定の周波数で音叉が鳴ったとします。その音波は「空気伝染」して、私の身体の中の、同じ周波数の音叉を鳴らすことになります。

 相手と同じ周波数の音叉が共鳴するがままに任せるためには、私の方で勝手に自分の中の音叉を鳴らしてしまってはなりません。

 これが、私なりの実感としての、「相手の身になって」傾聴するということです。

 受容と共感、話し手の言葉を正確に伝え返すことは、ロジャーズ派に限らず、多くのカウンセラーの基本的な傾聴のあり方として実践されていますが、正直なところ、多くのクライエントさんはそうした傾聴をしてもらうでけではうんざりしています(^^;) 

 その理由は、単に、カウンセラーが「どうすればいいのか」の答えをくれないなどということだけではなく、クライエントさんの実感では、そもそも、カウンセラーに「話を本当に聴いてもらっている気がしない」という状態にすでになっているのですね。

 なぜか?・・・・私は、カウンセラーが、単に「耳の鼓膜で」聴いていて、耳のすぐそばの「脳で」理解しようとしているだけだからだと思います。

 つまり、多くのカウンセラーは、首から上だけでクライエントさんと関わって、首から上だけで共感したつもりになっているのです。

 しかし、クライエントさんの側は、自分の悩みや言葉にならないモヤモヤをを、身体で一身に背負って面接室を訪れているはずです(別に身体症状がない人ですら、そうです)。

(フォーカシング関係者で、それぞれ「私の実感の上では、もう少し違う比喩がぴったりだ」という方がおられてもおかしくありませんが^^;)

*****

 こうして、身体を通して(くぐらせて)傾聴した上で、語り手に伝え返しをしようとすると、一見ロジャーズ派的な「反射的」な伝え返しに似ているかに見えて、単に「耳で」聴き、「頭で」理解したものを伝え返す場合とは、自ずから、若干スタンスが異なってくる気がしています。

 語り手が次々と繰り広げる、出来事についての語りや言葉の「意味内容」を、単に几帳面に追いながら克明に伝え返すことが、むしろ何か不自然なことであるかのように感じられ始めます。

 (もちろん、場面によっては、むしろそうした丁寧な受け止めと逐語的に近い伝え返しが必要なひと時もあります。でも、そこそこ経験を積むと、そう いう伝え返しをこそ語り手が必要としている時はまさに今だ!!ということを、かなりの程度感受できるようになるものです。例えば、語り手自身、慎重に、自分の中の言葉にならない実感と照合しながら、言葉を少しずつ紡ぎだしているような場面です)

 語り手が、個人的な心境や気持ちの綾を込めて語っている部分については、語調や言い回し、話すスピードや間合いすら同調させながら、丁寧に、大事に投げ返す。

 しかし、それ以外の部分については、その語り手が物語る状況について基本的に誤解していないことの確認という意味で、ストーリーをなぞる最小限の 必要性が出て来る点を別にすると、かなり簡素に要約された伝え返しでも、語り手の側は特に不満を感じないことが少なくないようです。

****

 フォーカシング的な傾聴を学んで来た皆さんは、フォーカサーが用いた言葉を、同じ意味に思えるからといって別の言葉にリスナーが勝手に置き換えて伝え返すべきではないことをご存知でしょう。

 人が語る言葉には、その言葉を媒介としてはじめて注意を向けることができている、非常にパーソナルな、「実感それ自体」の領域があります。言葉とは単なる「記号」ではなく、その時のその人にとって、非言語的に感受された経験の暗黙の全体性を意識につなぎとめ、保持するための、その人だけの「とりあえずの荷札」(フェルトセンスをつなぎとめておくための「取っ手」)という側面があります。

 その人は「悲しい」と言っている時に、単に「悲しみ」という、ユニット化された感情を感じているのではありません。「とりあえず『悲しみ』と名づけてみたけれども、悲しみと言う言い方だけでは汲み尽くせない、もろもろの思いを含んでいそうな『何か』(something)」を感じている。その『何か』それ自体を大事にするようにさりげなく促すのが、フォーカシング的な態度です。

 だから、そうした際に、

「そのことについて、あなたは、悲しんでいる」

などと言葉を返す代わりに、

「そのことをめぐって、あなたは、何か『悲しみ』のようなものを感じているんですね」

などと、感情についての意味づけを固定することなく、感じている実感そのものにさりげなく注意を向けてもらう返し方をすることに、フォーカシングを学んだ人は慣れているし、普通のカウンセリング場面ですら普段使いしている方も少なくないかと思います。

 しかし、こうした言葉の返し方が、聞き手の中での単なる「応答テクニック」に留まるべきではないはずです。

 聴き手は、そこまで語り手が話してきた事件のてん末について想像し、そうした場面に自分が「身を置いた」ら、どんな居心地になり、どんな場の空気肌に感じ、どんな心境になるのかを、「あたかも」自分が体験しているフェルトセンスである「かのようにして」身体を通して感受しようとしていく必要があります。

 もとより、そうした際に、聴き手は勝手に妄想を膨らませていいというわけではありません。

 あくまでも、語り手が新たに紡ぎ出していく言葉のニュアンスや語調、表情の変化などを身体をくぐらせて感受し、それと照合し、修正していく中で、聴き手の中の、語り手の身になった「感情移入的フェルトセンス」が、その時の語り手に更に寄り添う方向に、刻々と変化していくことを許していく中で紡ぎだされた応答へと刻々と繋がっていく必要があります。

 つまり、語り手の実感そのものに更に寄り添う応答になっていく必要がある。

 そうなった時にはじめて、語り手にとって、聴き手の応答が、ある安全感を感じさせ、まるで語り手自身の身体の延長であるかのように自由に活用できる「鏡」=自分の「実感」そのものと、実際に自分ができている「言語表現」を、自然発生的に、無理のない範囲で「照合」し、語り手自身が味わい直し、より的確な言語表現を、自分なりに、深い実感の中から紡ぎだしていく手がかりになるのだと思います。

 聴き手は絶えず旅の過程で、身体性を伴う存在感(presence)を持って「そこに-いて」くれているのです。

*****

  ところが、こうやって「身体を通して傾聴し、身体を通して言葉を返す」というあり方が身についてくると、伝え返しの際に定石とされてきた一般原則のひとつを、ある程度緩めてもいいという心境に私はなりました。

 それは、「伝え返しの際、語り手が実際には使ってもいない表現で提示してもいいのか」という点について、私の中の禁則が緩んだということです。

 これをどう説明するかということは、私にとってかなりチャレンジングな未踏の領域(?)ですが、次回、何とか挑んで見ましょう。

(続く)

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2009/07/16

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(2)

 前回の続きです。

 語り手の話を傾聴する時に、

  • 語り手の語った言葉を丁寧に伝え返していくこと
  • その際に、特に語り手が感じているであろう感情(feeling)について大事に受け止め、伝え返していくこと

 このことは、ロジャーズにはじまる、来談者中心療法カウンセリングにおけるベースラインとして強調されてきたことなのですが、ひとつ間違うと、語り手が語った内容を表面的に「鸚鵡返し」するだけになりかねません。

 そうした表面的・機械的にルーティン化した傾聴に留まる場には、話し手の側にも、聴き手の側にも、独特の「のっぺりとした」場の空気と居心地が徐々に生じてきて、話し手も聴き手も、苦しさと物足りなさを感じなからも、頑張って、話をしていき、傾聴していくという状態に徐々に陥いがちなものです。

 話し手の側は「ほんとうに聴いてもらっているという気がしない」と感じ始めるし、聴き手の側は「話を受容的・共感的に聞き続けて、伝え返していくのが苦しい」と感じ始めることが少なくないわけです。

 ロジャーズふうにいえば、語り手も、聴き手も、自分自身がありのままにそこにいるという「自己一致」した感覚が、やり取りの中で徐々に失われていくことを、実感の上で漠然と察知しているものです。

 話し手も聴き手も、辛抱しながらそういうやりとりを重ねているのですから、両者の中にある、「カウンセリングを受ける(する)こと」への義務感や、そこからいい結果が生じることへの「一抹の期待感」「盲目的な信頼感」だけが場の支えになっているような状態に近くなっていることも、決して少なくないかと思います。

**** 

 オーソドックスなロジャーズ派のカウンセラーの中にも、これだけではほんとうに生産的なカウンセリングが進んでいるとはいえないことを十分承知し、それを超えた次元のやりとりを実際にできる人たちも少なくないのですがフォーカシング(におけるリスナーやガイドの傾聴においては、こうした平板なやりとりをいかに克服するのかについての、積極的な「勘所」を身につけて行くことが大事にされています(・・・・・の、筈です(^^;)

 これについては以前も書いたことがあるのですが、今回改めて、今の私なりの新鮮な言葉で表現しなおしてみましょうしょう。

 1.聴き手は、今、自分が、話し手を前にして(あるいは、話し手と
実際に面会する前の段階すら)、どんな居心地や気分や身体の漠然とした感じを感じながらたたずんでいるのかについて、十分に内側にセンサーを張って、モニタリングし続けている必要がある。

 例えば、カウンセラーがそうやって面接を始めようとしているのに、いまひとつ乗り気でない自分に気付き、自分の中にある「乗り気ではない部分」を認めてあげて、「乗り気でない」気持ちのそばに、ちょっとだけたたずんであげてみる、セルフ・フォーカシングを、ちょっとだけしてみることは大きな意味があります。

 その際に、別に「なぜ乗り気ではないのか」について分析したり、セルフ・フォーカシングで内側にシフトを起こして、面接に生き生きと臨める体制を作り上げねばならないとまでみなして、必死にセルフ・フォーカシングしてしまう必要まではないのですね。

 フォーカシングを、自分がある程度体験的に学び、身につけてきているという手応えがある人なら、経験的に、次のことを知っているはずです。すなわち、「十分OKな感じでいららない」自分に気がつき、それを、対象化して、それを自分の中でちょっとだけ認識しておく(気づいておく)だけで、心の中にわずかなスペースが生まれ、ちょっとだけ自分を取り戻せることが多いことはご存知のはずです。

 (自分の中の、面接に乗り気でない気持ちを受容しようとする、などという大それたことはできなくていいのですね。フォーカシングの名トレーナー、アン・ワイザーのいう"Acknowledging"=「(自分の中で)気づいておいてあげる」とは、この水準のことです。・・・・・こうした過程を「体験的に距離を取る(make a space,make a distance)」という言い方でとらえるのを好む人たちもありますが、少なくとも私自身は「距離をとる」という言い方をあまり好みません。それは「距離を取れねばならない」という強迫性のようなものを喚起するという意味で本末転倒になりやすいと感じています。「距離が取れない」自分に気がつけているだけで、実はその時可能な範囲で、そこそこ「距離が取れている」ことになるのですね。自分をセルフモニタリングする「立ち位置」を自分中で確保できているわけですから、すでにその段階で、単に「巻き込まれて、自分を見失ってしまっている」わけではないのです。最低限、それで十分かと思います)

 2.語り手とのやり取りを進める中で、

  • 聴き手としての自分個人が、話し手を前にして、どんな居心地を感じていて、どんなフェルトセンスが生じてきているか、どんな連想が生じているか(どんな分析を勝手にしてしまっているか、どういう部分に違和感や抵抗や不安を感じているか、自分のどういう体験と引き付けてとらえようとしているか、それどころか、「なぜか面接室の冷房の音が気になっているな」とか、「その聴き手の面接とは無関係のはずの別の事柄が脳裏を掠めているな」などを含めて)をしているのかについて絶えずセンサーを向け、そうした連想や「感じ」を、次々と対象化する形で、「気づいておく」ようにすること(繰り返しますが、とりあえず「気づいておく」以上の内的処理は不要です)。
  • 話し手の「身になる」モード。話し手語る内容、話しぶり、たたずまいなどをから感受されるものを、聴き手が、聴き手自身の身体に響かせ、身体感覚をくぐらせるようにして味わい、「話し手は、話をしている事柄に関して、今、どんな実感を感じつつ、話しているのか」そのものに、あたかも自分自身の体験している実感であるかのように、自分の身体感覚自体をチューニングするつもりで傾聴していくこと。
  • 上記の二つのモードを別々に自覚し、時々行き来しながら、それぞれに気づいておく主体としての、「第3の立ち位置」・・・「内なるスーパーバイザー」の視点のようなものを確保し続けること。

(・・・・・以上、2.で述べてきたことは、すでに、

伊藤研一・阿世賀浩一郎 編/現代のエスプリ 410 特集「治療者にとってのフォーカシング」 至文堂 2001

の中の、

●阿世賀浩一郎/面接場面でクライエントの「容れもの(container)」として機能するための技法の試み ~カウンセリング場面で治療者自身の体験過程を生かし続けるためのベースライン~(pp.65-73)

で詳しく述べさせていただいている事柄のエッセンスの要約です)

 このように書いてくると、何か複雑なことのようですが、過去の経験の中で「自分自身を保ちながらも、相手に積極的に関心を向け、相手の身になって話を聴いていられる」余裕ある状態でいられた時の体験をふりかえってみれば、実はこうしたことを無理なくできていたようだということは、フォーカシングを学んだ皆様に留まらず、およそどんな現場臨床家の皆様にも共通する体験ではないかと想像します。

 例えば、精神分析的にいえば、「平等に漂う注意」を維持できる状態というのに類似しているかと思います。

 ここで重要なのは、「相手の身になって」感じてみるモードと、相手との関わりの中で「自分個人の中に」生じてきたものを「感じ分ける」姿勢を維持し続けることです。

 そして、聴き手は、この2つのことを、話し手にとってはっきりと区別できる形で別々に提示できることが必要ではないかと思います。

 例えば、話し手が、家族に気持ちがうまく通じない時、何があったかとか、どんな思いが生じたかについて話し続けている際に、聴き手であるあなたの中に、自分が、大事な人との関係の中で生じた、気持ちが行き違った時の体験もまざまざと思い出され、そうした時の心境も生き生きと実感され始めるかもしれません。

 しかし、話し手と聴き手の体験している「気持ちが通じない時の」辛さや気傷つきが、すっかり同じ体験であるということを保障するものは何もないのです。

 このブログで引用するのは何回目かもうわからなくなりましたが(^^)、

>あの時 同じは花を見て、美しいといった二人の

(「あのすばらしい愛をもう一度」 作詞:北山修)

感じていた、「美しい」という実感そのものが、共通のテイストのものであることを証明するものは何もないわけですね。

 このことの厳しい自覚こそが、聴き手(カウンセラー)が、話し手(クライエントさん)を独立した個人として尊重するということのベースラインに一番必要なものだと思います。

 そして、その峻別は、話し手の体験世界を、より深い次元で理解し、共有しようとする上での基盤となるのです。

 

 続きの部分では、話し手の身になって傾聴し、伝え返すこと、更には、話し手の実感にそれを照合してもらい、しっくりと来なかったら修正してもらうという相互作用を進める中で、話し手の体験世界に次第に寄り添っていくプロセスについて、もう少し具体的に書いてみたいと思います。

(続く)

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2009/07/15

フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(1) 【第2版】

 先日の「久留米でフォーカシングを学ぶ会」の最初の部分で、6名の参加者においでいただいた際に、私は、会の最初から、これまでになくひとつのことに心配りをするように決めていました。

 それは、主催者である私自身、そして参加者の皆さんのひとりひとりが、集いの場の中で、自分のボディ・センス(フェルトセンス。内側に感じられる曖昧な実感)を大事にし、ボディ・センスと絶えず照合しながら、お互いに言葉を交し合うような関係性を最初から自然に持てるような空気を醸成するということでした。

 それまでは、普通に、ひとりひとり自己紹介するように私が促すことからはじめてしまっていることが多かったのですね。しかし、これだと、誰かが話した話題をきっかけにちょっと雑談めいた方向に話が流れてしまうことも少なくなかったわけです。

*****

 もちろん、フォーカシングの集いの場であるからといって、フォーカシングについての話題以外を語りにくい空気にしてしまうことは、何かがおかしいと私は考えています。

 フォーカシングとは、意識的に技法として用いなくても、私たちが日常の中で接する様々な思いに対する付き合い方に、少しずつでも以前とは異なったスタンスを生じさせていくためにこそあります。単にワークショップの場でトレーナーやガイドとして有能になるために学んでいるのではありません(^^;)

 例えば、家族や同僚や友人と接した際に、心がかき乱された時や、朝の交通渋滞に巻き込まれた時にイライラしながらいろんなことの連想の渦に書き込まれた時、気持ちにちょっとスペースを作り、自分がどんな実感でいるのかに「気づいてあげて」、そうしたさまざま思いや気分をそっと「認めておいてあげる」、そうしたことが、半ば条件反射のように自然にできるようになることが増えてくれば、フォーカシングが「そこそこ身についている」ということです。

 あるいは、読んだ本でも、雑誌記事でも、テレビドラマでも、ドキュメンタリーでも、映画でも。音楽でも、心の中に、ある小さな感銘や痛みや新鮮な魅力を感じた時、たまたま入ったレストランの雰囲気やもてなしや料理の味わいが気にいった時・・・・・いや、もっとささやかなものでもよくて、たとえば、春になって、毎朝歩く通勤の道すがら、少し前の寒い日々には感じられなかった、緑が燃え立ち始める匂いを感じとって、季節のめぐりを実感した時のささやかな感慨でもいいでしょう、そうしたもろもろの実感とそこで生じる思いを、ちょっとだけ自分の中で自覚しなおし、味わったテイストを受け止めていく・・・・・そうしたことがに、もはやフォーカシングという技法を自覚しない次元で、さりげなく増えていくこと自体が、ありがたみなのですから。

 フォーカシング「について」話をしていなくても、およそ人が体験し、実感し、受け止めていく、すべての事象との関わり方の中で自然発生的に生起しているものが、「フォーカシング」というこころの営みなのですから、「話題が」フォーカシングについてのものかどうかに拘泥している「フォーカシングの集いの場」がなるとすれば、それは何か大事なことを勘違いしているのではないかと思います(^^;)

****

 でも、フォーカシングの集いの場でのやりとりが、ボディ・センスを実感しながらその場の空気を味わい、ボディ・センスと照合しながら言葉を紡ぎだし、ボディ・センスを通して他の参加者の話や話しぶりやたたずまい(プレゼンス)を受け止めていく形でやりとりがなされていく、自然な空気を生み出すことは、集いの場の責任者に必要な心がけなのだと思います。

 言うまでもありませんが、これは「ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスと照合しながら言葉にしていきましょう」などということを、主催者が参加者に単にレクチャーしたり、参加者同士が「ボディ・センスを通して傾聴するとはどのようなことですか?」「あなたはほんとうにボディ・センスと照合しながら言葉を発しているのかしら?」などという話題で話をしていることとは無関係なのですね(^^;)

 繰り返しますが、話の内容は、何でもいいはずなのです。昨日見た映画のことを参加者の一人が語っていても、それは全く自然なこと。

 大事なのは、ボディ・センスを通して出て来た言葉を発し、ボディ・センスを通して傾聴していくということが、自然発生的に場の中で生起するような場作りがなされることです。そうした場の中で、参加者ひとりひとりが、体験的にそうしたあり方に習熟して行き、その勘所に気づいていってもらえることだと思います。

 「ああ、これが、ボディ・センスを大事にして傾聴し、言葉を返していくということなんだ」ということは、参加者がそうした体験をしていく中で、後付けで徐々に理解してもらえていくのが自然なのでして、体験実習を始める時点で、「ボディ・センスを大事にするとはどういうことか? 私にはそれができているのかしら?」ということについて思い煩わせ、それができていないと、まるでクループの中での落伍者であるかのように感じさせかねないような事前のレクチャーをして、参加者にプレッシャーを感じさせてしまうようでは、本末転倒だと思えます。

 そして、そのことは、恐らく、集いの主催者である私自身が、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスから出て来た言葉で応答する姿勢を、集いの場に参加者を迎え入れるその時から、場の中で隅々にまで行き渡らせることがひとつの出発点であるように思えてきたのです。

 そのことを改めて再確認させれたという意味で、先日の集いは、私にとっても学びのある集いでした。これも参加者の皆様の生み出した場の力があってのことであることに、感謝を感じています。

*****

さて、先日、「学ぶ会」で、集まって来た参加者の皆さんを出迎え、「道に迷いませんでしたか?」などのやりとしをして、参加名簿に記帳していただき、料金徴収と領収書の発行を終えた段階で、私がまず参加者の皆さんに提案したのは、

「どの部屋で全体会を開きましょうか?」

という提案でした。

 参加者の皆さんに最初に入っていただいたのは、私が普段使っている面接室です。作り付けの本棚があり、事務机とパソコンと私用の椅子、3人がゆったり座れる横長のソファ、小さな丸テーブル、そして、背もたれはあるけれどもパイプでできた椅子3脚を臨時に持ち込んだスペースでした。すし詰めとまでは行きませんが、やや閉塞感があります。

 隣に、ダイニングキッチンの広めの部屋があります。ただし、壁には食器棚が並んでいますし、テレビも置いてあります。玄関から通じる部屋の入り口との間には、簡単な暖簾以外の仕切りはありません。全く、木造の普通の民家のダイニングキッチンそのものなのですね。

 

そして、そちらの部屋でやりとすれば、椅子が不足し、全員が、フローリングの固い床に車座になって座るしかありません。

 私は、参加者の皆さんにを隣の部屋に通して、「居心地の実感でどちらかを選んで欲しい。後で2つの小グループに分かれた時に、もうひとつの部屋を使いことができる」と求めました。

 参加者の皆さんは、全員、ダイニングキッチンのフローリングの床で車座になることを選びました。

 私なりの実感としては、ダイニングキッチンの方がややふさわしそうだという思いは当初からあったのですが、このように、参加者に部屋を「選んでもらう」プロセスを経たこと自体意味があったと思います。・・・・そう、参加者ひとりひとりのボディ・センスの実感として体感された「居心地」を大事にしながらふるまってもらうことへのさりげない促しは、すでに始まっていたことになるからです。

*****

 次に、参加者の皆さんが実際に車座になって座ったところで、私はいきなりひとりひとりの自己紹介に入るのを避けました。

 

「まずは、この場にこうして座ってみて、皆さんひとりひとりが、今、どんな感じで座っているのかな・・・というのを、ちょっとだけ味わってみる時間を取りたいと思いますが、いかがでしょうか?」

 私は、

「今の段階では、今の自分の居心地や、どんな思いでここにいるのか、これからどんなことをこの集いの場で期待しているのか、何をやりたいのか・・・などを、ちょっとだけ点検してみる・・・・ぐらいのつもりでいいです。フォーカシングになっているかどうかも気にしなくていいので」

などとも付言しました。

 このあと、皆さんに、「はじめていいでしょうか?」と確認した上で、

「脚やお尻が床に接している感じを内側からちょっとだけ味わってみるのはいかがでしょう? それが「どんな」感じかを自分の中で言葉として見つけようとなさらなくてもよくて、『このあたり』と『このあたり』が床に接する形で座っているんだなあ・・・・ぐらいが確認できれば十分かと思います」

 この部分は、皆さんの様子を見ながら、30秒ぐらいの時点で、皆さんに、とりあえずOKかどうかの確認をしました。

「それでは、身体の内側への周囲を、もう少し胴体の内側に上げていって・・・・『今、自分はどんな心地でこの場に座っているのかな』、というあたりをちょっとだけ味わってみるのはいかがでしょう」

「具体的に『どんな』感じなのか、言葉を見つけようと、今の段階ではお焦りにならなくてもいいかと思います。『こーーーんな』あたりの心地で、この場所に座っているというのが、何となく味わえるくらいでいいのではないいかと」

(ちょっと間をおく)

「そして、例えば、次のようなことをなさってみるのもいいかもしれませんね。・・・・これはあくまでも私からのアイデアの提案ですから、すでに皆さんひとりひとりがなさっていることそのまま続けていただいて結構ですが、参考になる人は試してみてください。

  • 今の自分の身体の内側は、どんな感じでいるのかな?

    とか、
  • 今、ここに来て、こうして座っていて、どんな居心地、どんな気分で座っているのだろう? この場の空気をそのように味わっているのかな?
  • この集いの場に、自分は何を求めて来たんだろう? そして、今実際にこの場に来て、この後、どんな場になればいい、どんなことをしたいと感じているのだろう?
  • こうしている中で、いつの間にか、ここに来るまでの日常生活の中で生じたことだとかについての記憶や連想がすでに沸き起こって来ている方もあるんじゃないかと思います。そういう場合には、「どういうわけか、そのことが思い浮かんでしまっているなあ・・・」というのを、静かに受け止めておくのでいいのではないかと思います。今は「必要があれば、この後のセッションでそれに関することの相手を(自分が)してあげられるかもしれないね・・・」くらいでいいかもしれません。
  • 気になるからだの感じに注意がすでに向いている方もあるかもしれませんね。そういう感じに対しては、「ああ、『この辺』に何か気になる感じが出てきているねえ。そうやって出てきているのはわかったよお、必要あれば後で相手して上げるからね」と、ちょっと目配せして、挨拶しておいて上げるくらいでいいかもしれません。その感じの中に入って味わうというより、そこらへんに(注意が)行くとそういう感じがあるんだなあ・・・くらいで。
  • その感じがどうして生じているのかなあ・・・ということについてのいろんな連想がすでに生じている方のあるかも知れません。今は「そういうことも関係あるのかもしれないしなあ・・・それだけではないかもしれないなあ」くらいで受け止めておいて上げるのでいいのではないかとも思います。

 ここまで進めて来て、私は、全くのアドリブで、次のことを付け加えてみました。

  • 自分が今どんな心地で座っているのかを、すでに感じておられる方も少なくないかと思いますが、次のようなことを試してみることもできるかもしれません。

    「今の自分は、ここで取りあえずこんな感じではいられているけれども、もし、理想的に可能だったら、ホントは、どんな感じでここに座っていたいのかなあ」・・・という実感を想像して、感じてみてるのも面白いかもしれませんね。

    ・・・・・そうした上で、今の実際の居心地と、理想状態の居心地の実感を行ったり来たりして、比較しながら味わってみることもできるかもしれません。

 この試みには、フォーカシングのセッションや集いの場に対して私が常々感じている問題意識が反映していたように思います。

 私たちは、セッションや集いの中で、場のフェルトセンスを感じているという中でしか、自分のフェルトセンスを感じていられないのです。フォーカサーが自分の内面に注意を向けている時、実はこの当たり前の事柄には意識が向きにくいのですが。

 それは、純粋に、セッションを行なう場の物理的な環境要因にも影響を受けているものですし、そのセッションの場にたどり着くまでの空間で体験した、一見些細な出来事の影響も受けています。当然ながら、会場にたどり着いてから、主催者である私や、他の参加者とのさりげないやり取りの中で積み重なったものも、フォーカサーがその場で感じていることに大きく影響を与え、その影響を大きく受けながらしか、その人のボディ・センスが生起していないのです。

 セッションや集いの場を離れたら、その会場を後にしたその瞬間から、その人は、ひとりぼっちで自分のボディ・センスと向き合うことになります。もし、その人が、場の中で、場のフェルトセンスが自分にどれだけ影響を与えているのかを消化しきれないままだと、場の中で「自分の実感と向き合って」体験したつもりのはずのものが、日常との連続性を失い、自分自身に統合できなくなる場合があります。これは人によってはかなり危機的な状態になると私は判断しています。

 これを回避するにはどうしたらいいのだろう? ということに私は心配りをしてきたのですが、先日の集いを実際に始めた最中に思いついたこのアイデアは、「ほんとうは、この場の中で、自分はどんな心地でいたいか」と、「実際に味わえている居心地」と照合しながらも、敢えて意識に上らせることにより、実際に体験している場の空気を受け身に感受することを超越した形で、自分のボディ・センスが求めている「どのようにそこにいたいのか」を自覚するプロセスを、集いの開始段階という、非常に早い段階で体験してもらい、その後の相互作用の中で一貫して、場の空気からの相対的な独立性があるものとしてボディ・センスを体験する状態を継続するさりげないきっかけを参加者に提供することになるのではないかと思えました。

 これは、一見些細なことに思えますが、集いの場でのその後のその人の相互作用のあり方に微妙に影響すると思います。しかも、そういう態勢をすべての参加者がそれぞれ少しずつでも持ちながら、その後の集いの場に参与し続けたら? 参加者一人ひとりにとっても、集い全体にとっても、好ましい場の空気が、参加者全員の協力の中で、積極的に醸成されることになると思えたのです。

****

 さて、このようにして、集いの場で最初に車座を組んだ時点で、自分の居心地をしばらく味わってもらった後で、私は、

 「今、体験していたことの中で、この場で他の参加者に伝えたいことだけで結構ですから、それぞれの皆さんの自己紹介も兼ねて、シェアしていく時間を取りたいと思います」

と提案しました。

 ここで、私は参加者の皆さんがひとりずつ語ることに対して、インタラクティブ・フォーカシングのリスニングで特に強調されてきた、「相手の身になって、ボディ・センスを通して傾聴し、ボディ・センスを通して出て来た言葉で応答する」というスタイルを一貫してみました。

ジャネット・クライン/インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー―カウンセラーの力量アップのために

 これは、ロジャーズの来談者中心療法における単なる傾聴と伝え返しよりも一歩踏み込んだスタンスになりますが、私がカウンセリングでクライエントさんとやり取りするする際にも、特にこの1,2年、全く普段使いの傾聴と応答のスタイルになっています。

 誤解されかねないのですが、これは別に、「あなたは、身体の中の胸の辺りで〇〇な感じがしているんじゃないかと」などどいうふうに応答することではありません。

 続編では、このあたりのことを、少し詳しく解説したいと思います。

(集い参加者の皆さん、集いでお話になったことを具体例としては使いませんので、ご安心を!!)

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2009/07/12

久留米でフォーカシングを学ぶ会、次回は7/26(日)に臨時開催

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、本日12日、参加者6名様という、過去最多の参加者においでいただき、にぎやかに開催させていただきました。

 全身の「大船でフォーカシングを学ぶ会」時代には、最終的には毎月3回まで開催日を増やしましたので単純比較はできませんが、実はたいていの回に、参加者は多くても3,4名という形で開催していました。しかも、参加メンバーが常に流動的で、常連の方が少ないことが多く、参加者の過半数(時には全員)がフォーカシングの初心者、あるいはそれに近い皆様のことが多いという状況で開催していました

 私は主として1対1の個別指導という形でキャリアを積んで来ましたので、限られた数時間の間にそうした数名以上の皆様にどういう援助ができるか、試行錯誤してきましたが、今にして振り返ると少し「力み過ぎ」になって空回りしがちでなかったかという反省があります。

 今回は、その轍は踏むまいと、志新たに、できるだけ肩の力を向いて、参加者の皆様のフォーカシング経験の多寡に関係なく、グループとしての無理のない自然な流れをサポートする方向に徹する意識で臨みましたが、幸い、それは参加した皆様全員に好評を持って受け止めていただいたようで、主催者としてほっとしています。

 「シェアリングの中で他の参加者の方が自分の体験の中で感じていたことをを聴いていく中で、それを自分の実感と自然と照合するプロセスが進んで行き、そうしたグループの場の空気に助けられて、自分の身体の内側からの反応をしっかりと確かめられた」 

というご感想をいただけたことは、今後十分に大事にしていきたい事柄です。

 「そうやって参加者ひとりひとりが自分の実感に触れながら言葉にして行こうという場の空気の中にあれば、それに触発されて、自分の実感に触れようとするスタンスが形成されやすいのかもしれませんね」とお答えしました。

 第1部:自分がこの場に参加してどんな感じでいるか、何をやりたいと感じているか。実際に感じている居心地と、自分が理想ならばこうでありたいと感じている居心地のギャップを感じてもらうワーク

→自己紹介を兼ねて、先ほどのワークの中で体験したことの中で、他のメンバーに伝えたいことを1人ずつ話してもらう。

→ひとりの参加者が語るごとに、グループファシリテータである私が、その参加者の身になっての応答(インタラクティヴ・フォーカシングのリスナーに求められる「体験的傾聴と応答」スタイル)と、その参加者と私の体験の共通の接点になるのではないかと実感上感じられた連想を応答をしていく。

→参加者同士のシェア。

(全体で 約1時間)

(5分休憩)

 第2部:ホールボディーフォーカシングの「腕を上げるワーク」→シェアリング(全体で 約1時間20分)

(昼食と歓談 約1時間)

第3部:2つのグループに分かれてのフォーカシング・パートナーシップのセッション(1時間20分)→シェアリング(20分)

(休憩10分)

第4部:インタラクティブ・フォーカシングのラウンドロビン・フォーマットによる集団法(藤嶽法的にカードも活用 1時間40分)

 1名の方はフォーカシング初体験の、かなり遠方からおいでの臨床心理士の方、1名は断続的に長年フォーカシングを学んで来られた、すでに本「学ぶ会」常連の一般社会人の方、4名の方はフォーカシングの自主的な勉強会サークルをお作りの臨床心理士の有志でしたが、そうした皆さんの中の複数の皆様から、

 「これまで、生じてきたからだの感じに対して何か積極的な意味づけをしなければならないのではないかと思い過ぎて、性急に意味付けを探していたようだ」

という感想が語られたのが印象的でした。

「フォーカシングのセッションの中でシフトや洞察が完結しなければならないと思っていたようです。セッションが終わった後の振り返りのシェアリングの中で自然と気づきに至る人もいることや、日常に帰った後に、続きが自然と生じるのに任せるという発想を知った。シフトまで生じなくても、自分の中に言葉にならない違和感やモヤモヤがあることに気がつければ、それと取り組むのは日常に帰ってからでいいという参加者の方もおられるのですね」

 実は、この「フォーカサーは、意味づけを中途半端に頭でひねり出していないか?」ということを、私は若い研究者の方がフォーカシングのセッション記録を明示する形で発表されている場合の、少なからぬ部分に危惧していたことなのです。

 実はそうやって意味づけを焦る結果、フォーカシングのプロセスがむしろ上滑りになり、「自分はフォーカシングをしていたといえるのだろうか?」という確信を何年経っても持てないままの皆さんが少なからずおられる気がしてなりませんでしたから(ある段階の習熟に達すれば、この点で迷うことはまずありえなくなります)。

 私は、「意味は向こうから浮かび上がって来るもので、探さなくてもいいのです。何か自分の生活や存在とどこかで何か響きあっている言葉にならない実感が感じられているという体験ができ、その感じを無理のない距離感で共にいられるるだけで、ホントは十分なんですよ。時にはセッションの度ごとに結局同じ感じに直面し、繰り返し相手をしていく中ではじめてはっきりした変化にたどり着ける場合もありますが、現実の人間関係でも、何回も相手と接する中でやっと信頼関係の糸口が見つかることは少なくないではありませんか。自分の内側の感じとの関わりも同じですよ」

などとお答えしました。

 
*****

 「学ぶ会」は、通例ですと毎月第2日曜に開催しますが、次回は、2週間後の7/26(日)に臨時開催させていただきます。

 その次は、通例の開催日、8/9(日)に開催予定です。

 フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。

 参加エントリー、お持ち申し上げております。 

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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2009/07/06

「甘え」と「KY」  -土居健郎先生ご逝去に寄せて-

●土居健郎さんが死去=「甘え」の概念提唱(時事ドットコム)

========引用はじめ=======

 日本人の心理を説明する「甘え」の概念を提唱し、さまざまな分野に影響を与えた精神医学博士の土居健郎(どい・たけお)さんが5日午後3時27分、老衰のため死去した。89歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は長男望(のぞむ)さん。
 東大医学部卒。米メニンガー精神医学校に留学し、日米の人間の行動様式や心理状況の違いに着目した。帰国後は東大教授や国際基督教大教授、国立精神衛生研究所所長を歴任した。
 1971年に発表した「『甘え』の構造」は国内で140万部を超えるベストセラーとなり、数カ国語に翻訳された。日本人特有の「甘え」をキー概念として精神分析したもので、政治学や社会学、文化人類学などの諸領域に影響を与えた。 
 近年は、「甘え」が必ずしも日本人独特ではなく、ある程度普遍的なものではないかという考察に達していたという。(2009/07/06-13:00)


========引用おわり=======


 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

土居健郎/「甘え」の構造 [増補普及版]

 このことはこのブログでもこれまで言及したことがあったかと思いますが、土井先生の「甘え」概念は、その発表以来、「甘え」という言葉だけが独り歩きし、土居先生がそこに込めた含蓄は、的確に理解されないまま今日に至っているように思えます。

 つまり、日常語としての「甘え」のことと安易に同一視されてしまい、なぜ、土井先生が「  」つきで、『甘え』と表記したのかということがすっ飛んでしまったままだと思うのです。

 私なりの理解を解説すると、土井先生の言う『甘え』とは、

「自分の中に生じてくる欲求を、自分から主体的に相手に言語的に明確に伝達することをしないまま、気持ちを『汲んで』もらい、『察して』もらおうとする、他者との関係性の様式」

を指します。

 つまり、例えば、子供が、デパートのおもちゃ売り場で、「○○が欲しいよう!!」などと叫びながら、床に根っころがって泣き叫んでいたとしますね。これは、日常語で言う甘えではあっても、土井先生が言わんとした『甘え』には、必ずしも該当しないのではないかと思えます。

 同じシチュエーションでいえば、デパートで、おもちゃ売り場に近づいた時に、子供が、何とはなしにおもちゃ売り場の方に目を向け続ける。親はそれを「察して」、おもちゃ売り場の辺りをうろついてあげる。

 でも、子ども自身は、自分からは「これが欲しい」とすらなかなか言い出さない。子供の視線や表情を観察していた親のほうから、「これが欲しいの?」と言い出して、子供ははじめて、遠慮がちにうなづく。

 ・・・・・もし、こうした流れだったら、それは、土井先生が言わんとした意味での『甘え』に非常にぴったりした状態ということになります。

 ある観点からすると、自分から主体的・能動的に、アサーティブに一定の現実吟味を持って)甘えるだけの自我を獲得したら、その人は、土井先生が言わんとした意味での『甘え』の段階を卒業したことになる・・・・というパラドクスがあるわけですね。


*****


 土井先生の『甘え』理論を国際的に紹介したのは、ハンガリー出身のイギリスの精神分析医、マイクル・バリントです。この事実は専門家に幅広く知られていても、、バリントが土井生の『甘え』理論を紹介する際に用いた文言を実際にお読みの方は少ないと思いますので、その箇所のひとつから抜粋してみましょう。

========引用はじめ=======

人間がそういう(『甘え』たい)場合にとる態度は西洋人もみんな知っているものばかりだが、西欧では手軽な単語では表現できず、例えば「思い切り甘えたい気持ちを出してはいけないと思い、自分の中に精神的苦痛(恐らく自虐的苦痛)を鬱積させたために、口を尖らせて仏頂面をしている」などといった複雑な句を用いなければならない。

========引用おわり=======

(以上、バリント「治療論からみた退行」(中井久夫訳) 邦訳p.99)

 上記の引用内の例えで、長々と語られている心の状態を日本語で表現しようとすれば、「(甘えを押さえつつも)『すねて』いる」といえば済ませられることになるわけですね。

 『甘え』にあたる言葉は日本語以外にもあることが様々に論じられていますし、先ほど述べた「自分の欲求を他者に察してもらい、かなえてもらえたい衝動」ということだけを取り出せば、例えば生まれたばかりの赤ん坊は、泣くという行為から、養育者が、何がどう不快でどうして欲しいのかを「読み取り」、ビオンふうにいえば「もの思い(reverie)」して、かなえてもらうことによってはじめて欲求がかなえてもらえるわけです。

 また、人の中には、幾つになっても、自ら語らずとも、相手に自分の気持ちを察して欲しいという思いはあり、そうした思い全体を「未成熟な」ものだとみなすのは、明らかに行き過ぎでしょう。自分の欲求を自分の内部で冷静に客観的に吟味し、意識化した上で、言語的にアサーティブに伝える形で人とコミュニケーションするあり方のみを理想化し過ぎになるのも、「独立した自我を持つ人間」というものについての過剰に理念化したなファンタジーであると私は考えます。

 つまり、文化や言語を超えて、土井先生の言わんとした『甘え』の問題は普遍的であるということは間違いないので、確かに、単なる「日本人論」としての『甘え』論は、その歴史的役割を終えつつあるのかもしれません。


****


 しかし、日本では、今でも、さまざまなメンタルな問題について日常的に批判的に語られる際に、何かというと「甘えている(のではないか)」という言葉が登場します。「甘え」という言葉が日本人の集団的な超自我に深く食い込んだ特殊な含蓄があり、安易に振り回されていること、そして病める人を悩みを深める言葉であることには変わりがないといえるでしょう。

 更に言えば、最近流行の「KY=空気(気分)が読めない」という言葉ですが、この言葉は、「自分や集団が暗に求めていることを察して、気持ちを汲んでふるまってくれない」相手への批判的レッテルだといっていいでしょう。

 つまり、若い世代を含めて、日本人全体がが未だに「『甘え』の構造」そのものの社会性に身を浸しているからこそ、「KY」なる言葉が、「甘えの通じない人たち」に浴びせかけられているのではないかという視点はあっていいはずだと思います。

 つまり、「KY」という言葉を振り回す人たちは、実はオールド・タイプの日本人そのもののままなんだと私は思っています。

 物言わずとも相手が自分の気持ちを察して対処してくれることを当然のものとして期待し続けていることには変わりがないのですから

 ぶっちゃけていえば、集団の中で、周囲に迎合しない人には、今や情け容赦なく「KY」という言葉が降り注ぎかねない。

 安易にKYを振り回す人はまだ成熟した大人ではない。

 ほんとうの大人とは、KY気味の人にすら、自分から働きかけて、コミュニケーションして、関係を作って、相手から成熟した力を引き出す人たちのことではないかとも思えます。


*****


 もとより、これだけはたいへん一方的な言い方でしょうね。

 そうした人たちが「KYな」人たちを責めたくなるのは、自分たちが、周囲の人たちや、親や、既成の大人社会から、「はっきり言葉で言われなくても、気配を察して、場の空気に反しない言動を取るように」子供時代から言外の圧力で求められ続け、それにしぶしぶ従ってきたのに、そういう自分たちが従ってきた規範を平然と踏み越えていくかに見える人たちに遭遇すると、むかついて、押さえ込みたくなるという側面があるのだと思います。

 更に言えば、自分が「周囲の気分を読む」ことによってはじめて自分に許容されるようになった地位や集団内での安定、そして、集団そのものの安定を、そうした「KYな」人たちが崩してしまうことへ不安の反映ともいえるかもしれません。

 人の気持ちを汲み取ろうとするスキルは、単に相手を怒らせないとか、むかつかせない、波風立てないということではないはずです。もっと能動的で個別的な「相手の身になる想像力」であり、相手との相互コミュニケーションのスキルの向上だと思います。

 その点から見ても、「KY」という言葉を安易に連発する人たちに、果たしてほんとうに、人の「気持ち汲んだ」コミュニケーション力を持っているのかどうか、自問してみていただきたい思いがあります。

 KYな人たち=困ったちゃん、KYではないこと=社会性があること

・・・・という論調に、昨今の日本が染まっていて、一億総「KYでなくなろう」キャンペーンみないな風潮に違和を覚えていたので、これを機会に書かせていただきました。


  ・・・・・恐らく、こうしたあたりにこそ、土井先生の『甘え』理論が示唆した問題が、『甘え』という概念そのものは、今後使われなくなっても、今の時代のホットなテーマであり続けるためのヒントがあるのだと思います。


*****


 なお、「場の空気を読めない」かに見える人たちを、場の空気に「鈍感」だとか「無関心」だととらえるのは間違いです。そうした人たちは、むしろ場の空気を「過剰に」全身で感じ過ぎているために、それを的確に距離をとって、俯瞰して、味わった上で、適切な「読み取り」を確立できないのだという方が、現場臨床的には的確のことが少なくないはずです(増井武士先生なら、そのようにおっしゃるでしょうね)

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2009/07/03

明日から2日間、宮崎哲弥氏と北山修先生の講演会を続けて聴講予定。

 評論家の宮崎哲弥さんが、実は、我が故郷、福岡県久留米市の出身であることをご存知の方もいらっしゃること思います。

 明日4日、久留米青年会議所の主催で、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」と題して講演会が開かれるので、それに参加することにしました(すでに応募締め切りです)。

【追記】参加報告はこちらです。


****


 更に、翌日の5日、九州大学の北山修先生を講師とする、「九州大学対人援助職スキルアッププログラム」の一貫として、「人生物語 (ライフ・ストーリー)の読み方 -精神分析入門-」と題した講演会が開かれます。

(こちらもすでに参加募集締め切りです)

 今の私は福岡市まで出向くことはそんなに機会が多くありませんが、福岡市近郊のの臨床心理士の皆様、私を見かけたら気軽にお声をおかけくださいませ。

 この2つの行事参加のため、私の開業カウンセリングルームは、この土日の2日間、臨時休業とさせていただきます。

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2009/06/29

抗うつ薬で眠くなるのは「副作用」? -そもそも「副作用」という概念をどうとらえるか-

 しばらく前にご紹介した、精神科医、泉谷閑示氏の「8人に1人が苦しんでいる! うつにまつわる24の誤解」シリーズの中の、

●クスリに頼るのは悪いこと?――「抗うつ薬」の効用と限界――「うつ」にまつわる誤解 その(10)

で、いくつかの点で重要な示唆が示されているのでご紹介したい。

> もし患者さん自身が、クスリの使用に何らかのためらいや後ろめたさを持っている場合には、「クスリに頼っている」のではなく、「クスリを活用している」のだと捉え直していただくことが必要になります。

 この件に関しては、私も何回か取り上げてきました。

●心に効く薬と「眼鏡」のように付き合うサイボーグ

●薬物治療の能動的な主体であれ!!

 治療をお医者さんや薬に単に「委ねている」という意識だけが強いうちは、薬というものは安定した効き目を発揮しにくいように私は感じています。

 薬というのは、それを飲みさえすれば、すべての悩みや問題を解決してくれるほどには「便利な」ものではない。しかし、うまく活用すれば、自分の「身を守る」ために、大きな働きをする「武器」なんです

(敢えてこの物騒な言い方を使わせてもらいます)。

 「武器」の使用には、常に「危険性」が伴います。また、使い方については、自分の身体になじませるための相当な訓練が必要です。

 医者に相談することもなしに、服薬をやめたり、調整したり、ましてや個人輸入の薬を飲むことは避けるべきですが、それでも、薬を「使いこなす」主体は自分自身、参謀が「医者」なのだ、という意識があるだけで、こころに影響する薬の効き目にかなりの差が出てきて、薬との無理のない「同盟関係」が成立することが少なくないことは、敢えてお伝えしておきたい事柄です。

*****

 そうした観点からの延長として触れてみたいのが、薬の「副作用」という概念です。

 ありがちな「副作用」への誤解は、薬の中の「毒の成分」が身体を害することである、というものかと思います。

 しかし、少なくとも現代の高度な化学合成技術で作られた薬の場合、薬に「不純物」に過ぎないものが組み込まれ、毒性を発揮するということは、もはや考えにくい水準に達していると思います(かつての薬害エイズ事件を例外として)。

 以下に、「副作用」についての、より重要な次元での視点だと私に感じられているものをいくつか取り上げてみたいと思います:、

1.ある症状を緩和しようとする薬の効能が、ある均衡した効き目のレヴェルを超えると、今度は逆方向の症状を引き起こす場合?

 このタイプの例としては、過緊張や不安や対人恐怖を緩める抗不安薬の多くが、気分を楽にして、リラックスさせてくれる筈なのに、それを通り越して、「ボーっとしてしまう」「集中できない」という悩みを引き起こす場合です。

 ところが、この種のケース、その人のその時の心身状態にとって薬が多すぎたということであり、少し少なめに量が調整されれば済むのか? というと、そんなに単純に解決しないことが多いことは、服用を経験した皆様の少なからぬ部分が体験した現実かと思います。

 しかし、それが抗不安薬の効能の「限界」であるとばかりいえるのかどうかと、私は感じています。
 
 そういう皆様には、実は多少の休養が本当に必要な時なのかもしれません。

 多少の休養を取ってみると、その後再び以前の生活に復帰しても、同じ量の抗不安薬が、今度は、気分を落ち着けてはくれても、ぼーっとさせてり集中力を低下させたりはしなくなることなく、活動への支障になりにくい状態が結構持続することに拍子抜けする皆様もあろうかと思います。

 こうした時、休息を取らずに、ただ抗不安薬をあれこれ代えてもらったり、服用量を増強してもらおうとばかりすることは、むしろ悪循環の引き金になることも少なくないでしょう(筋のいいお医者さんなら、こうした点で間違った判断はなされないことかと思います)

 同じように、睡眠導入剤を飲んで、以前よりは眠れるようになっても、朝寝覚めが悪いという場合、薬が強すぎる=薬の効能が朝まで残っているからそうなっている・・・・ということは、昔の睡眠薬ならともかく、最近処方されている新しいタイプの眠剤の場合には考えにくいかと思います。

 むしろ、単に睡眠の改善補助だけではどうにもならないくらいに、その人の心身の疲労やストレスが慢性化し、(例えば)うつ状態の入り口に立っているためとみる方が自然でしょう。

 更に例を挙げれば、鬱の診断を受けて、「抗うつ剤」の飲み始めた初期の心身の反応として、むしろ余計に欝になったと体験される皆様も非常に多いです。そしてしばらくすると今度はやや躁的になる人も稀ではない。その後また押ち込み気味になるわけですが、こうした心身の変動に耐えながら、抗うつ薬が安定した効き目になるまでの苦労は患者さんにとって結構たいへんな場合が少なくありません。

 こうしたことを引き起こすのは、薬が心身になじむまでの初期副作用ともいえることも多いいのでしょうが、私は、その段階での心身の基本的な消耗が薬の効果を「暴れさせる」のではないかという思いを、最近強くしています。

 いずれにしましても一般的に言って、「薬の効き過ぎ」での「副作用」であると本当に見なしていいケースは、多くの人にそう感じられている程には多くないのではないかとも思います。

 敢えて言えば、「心身が過剰に疲労しているので、薬が効き過ぎる」という言い方はできるかもしれませんが。

  薬という「リトマス試験紙」を身体に投入してみることではじめて自分の実感として、はっきり意識的に受け止めるが可能になった、慢性的な心身の消耗なのかもしれません。

 ・・・・こうした可能性も含めて、お医者さんと更に話し合ってご覧になることをお勧めします。

 多分に逆説的な言い方なのは承知ですが、薬が「効き過ぎる」という体験は、その人が長年「抑圧」してきた辛さに「気づかせてくれる」きっかけとしての「効能」を持ったのだ、と肯定的に受け止めてもいいのかもしれません。

 もう一度繰り返しますが、十分に休養がとれ、実際に心身が慢性的な消耗からある程度回復してくると、薬が「効き過ぎる」のではなくて、「ちょうどよく」なくことも少なくないのですね。

 身体に、薬を「生かす」体力が回復するのかもしれないと思います。

*****

2.その物質の投与は、ある症状の緩和に確かに貢献する。しかし、その物質が、症状とは一見無関係な、生体の別の機能のバランスを崩してしまう。

 多くの薬は、肝臓に負担をかけます。緑内障を亢進する可能性がある薬が少なくないことも知られているでしょう。ドグマチールは、女性の月経をいったん止めてしまう場合がありますし、湿疹もよく見られます(飲むのをやめると再開するという点では全く心配が要らないそうです)

 同じSSRIでも、過食や便秘や肥満を引き起こしやすいタイプ(パキシル)や、下痢を誘導しやすいタイプ(ジェイゾロフト)があるなどについては以前書いたとおりです。

 これにはかなりの体質差があります。

 アカシジアなどの錐体外路系の症状も、改善しようとしていた精神症状とは異次元での、一種の身体症状でしょう。

 恐らく、厳密な意味での、狭義の「副作用」というのはこうした領域のものを指すとみておくのがいいのではないかと思います。

 しかし、やはり、心身に十分な休息が欠けていると、こうした身体面中心の症状すら、一層亢進しやすいのも確かかと思います。

 どんな身体症状でも、心身症としての側面はありますので。

*****

3.その薬の効能は、病気の治療や症状の軽快という観点からすると十分に発揮されているのだが、その人がその薬によって期待している改善の効果の「理想像」とズレているために、その人が薬の効能を自己受容できないでいる「心身自己不一致」状態を、薬の「副作用」と見なしている場合。

 この3.のケースは、そうやって薬の効き目が指向している身体そのものの「安定状態」と「頭」での理想的な治癒のイメージが「心の中で」葛藤しはじめるという、一種の二次的な神経症状態にはまり込んでいることになります。

 例えば、躁的な過活動傾向の面を持つ人が、抗躁剤や気分安定薬(気分スタビライザ。「抗不安薬」と混同してはならないことはこのサイトで繰り返し書いてきました。リーマスやデパケン)を服用すると、薬を飲む前のように、勢いづいたら止まらない、気分は高揚して頑張り続けられる・・・・というふうには、「なれなくなる」わけですね。

 躁的な人は、自分がそうやって躁状態で頑張れていた時にはじめて社会的承認を受けや収入を確保できるような活動ができていたという思いが強いので、心の中で、薬のこうした効き目と「喧嘩(葛藤)」状態になりやすい。

 もっとも、実は躁的な人は、実は単にルンルンで活力あふれ、湯水のようにわきあがる発想や、ものごとを享楽するこを「楽しめて」いるかというとそうではないわけです。そうした人の心中には、躁的状態の只中においても、自分が独特の抜き差しならない「何か」に衝き動かされているという悲愴感に近い何かがブレンドされて「いた」ことに、少なくとも後から振り返ってみると、ご本人は気づけることも少なくないようです。

 躁状態というのは、ご本人にとっても、ある意味では「苦しい、牢獄のような」体験であり、だからこそ、更に活動をエスカレートさせる形で「破局に陥らせる」という手段で「抜け出そう」とする結果を、一部のそうした方々に招きやすいとすらものだとすらいえます。

 でも、人間の意識的自我というのは、そうした十分の心の中の複雑にブレンドされた綾のようなものをシンプルに割り切りたがるところがあります。つまり、躁状態、過活動状態の時
の「苦しさ」の方は意識から抑圧してしまいやすいのですね。

 こうして、「気分安定薬を飲んだら、昔ほどやる気が出なくて働けなくなった」ことに苦しむばかりか、(お医者さんとのコミュニケーションや信頼関係が良好でないと)、「気分安定薬の『副作用』で以前のようには働けない。薬を代えられないか」と訴える皆さんも少なからず出てくることになります。

 気分安定薬のデパケンは、単剤処方(恐らくリーマスとの併せ技の場合も含む)だと、少なからぬ人の場合(特に双極性II型寄りの診断を受けた人の場合)、躁と鬱の間のプラスマイナスゼロではなくて、マイナス1くらいのごく軽度のうつ状態のあたりで、躁鬱の波が静まる形になりやすいようです。その、ごく軽度の抑うつ感が、デパケンを飲みだす前の調子のいい時には可能だった活動水準にもはや至れない自分に対する悲哀感のようなものを呼び起こしやすいように思います(デパケンは量を増やしすぎると、むしろ欝を深める場合があるらしいこともお伝えしておきます)。

 でも、実は、その人は、そうした過活動状態にはまっては、何らかの意味で行き詰る(仕事を辞めるなど)ことを一定周期で繰り返してきたケースが多いわけです。

 デパケンを飲んで心身に無理が生じない水準のライフスタイルをリラックスして自己受容してしまうことになじむと、その制約の範囲では、存外に安定してコツコツと仕事ができます。

(他ならぬ私がそのタイプで、一日8時間労働を週4日以上やれといわれれば絶対に心身がつぶれると思います。しかし、こうしてほそぼそと開業している限りは、まあ、湘南時代に比べても、今の方が多少はましなカウンセラーとして活動できているかなとは感じています)

 
******

 ・・・・・などと、いつの間にか、私自身の考え方の方ばかりをどんどん書いてしまいましたが,、ここで、このエントリーで本来私が一番紹介したかった、泉谷さんの見解について紹介します。

=========以下引用==============

抗うつ剤を飲んだら眠くなったのは副作用か?

「抗うつ剤を処方されて飲んだけど、すぐに眠気がひどく出たので、自分には合わないと思って飲むのを止めました」

 薬物療法開始時に、このような理由で服薬を中止される方がいます。しかしこれは、副作用が出て薬を中止したのだから適切な判断だった、とは言えないところがあるのです。

 以前から使われていた古典的なタイプの抗うつ剤(三環系や四環系と呼ばれる種類)では、確かにそのような可能性もあることは否定できませんが、近年主に使われている新しいタイプの抗うつ剤(SSRIやSNRIといわれる種類)では、古典的なタイプでしばしば問題になったような副作用(眠気、口の渇き、排尿困難など)がかなり改善されており、眠気が副作用ではなく「作用」によって生じた可能性も大いにあると考えられるのです。

 治療を受け始めるまでは、患者さんは慢性的な精神の緊張状態にあり、内部にはかなり蓄積した疲労を抱えているものです。そこに、抗うつ剤が投与されたことによって、精神の緊張が突然ゆるみ、蓄積していた疲労が一気に噴き出してきて、それが眠気として顕在化することは珍しくありません。

 ですからこの眠気は、むしろ望ましい変化の現われである可能性も大いに考えられるわけです。

 この点についての見分けは専門医でなければ難しいことも多いので、独断による服薬の中止はリスクが高いと言えるでしょう。

=========引用終わり==============

 SSRIを飲んだ後で「眠気」が出る場合、実は十分な休息が取れないまま無理をし続けていた状態に働いた、薬の「主作用」の現れであらわれである可能性があるというのは、私自身の過去の経験と全く見事にマッチングします。

 更に私は現在も眠剤代わりにデジレルを少し飲んでいます。デジレルはSSRI誕生までの過渡期の中間的な薬で、今は主剤として使われることはほとんどなく、SSRIや気分スタピライザを飲んでいる人に「睡眠導入剤代わりに」使われる用途が多いかと思います。

 ところが、この薬を飲んですぐに眠くなる(私はほんの20分もかかりません)のは、私がやや無理を重ねた時期と一致しています。しかも、そうした消耗期に飲むこの薬の飲み心地は、何か独特の、「脳や胸の辺りに少し不快な」感じもつきまとう。

 無理をしなくなると、この薬を飲んでも、そうした「いやな感じのする眠気」はなくなって、単に「気持ちがストンと落ち着く」かな・・・というぐらいの、全く不快感のない、水みたいな薬になってしまうんですね。そして、特にこの薬に頼ったという自覚なしに、無理なく眠れるようになります。

 こうした、さまざまな身体的な指標に敏感になって、薬といい同盟関係を結んで、無理のない範囲で仕事をして、慎ましやかなライフスタイルを静かに送るのが、今の私のささやかな満足でしょうか。

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2009/06/28

友人からの言葉

 「カウンセラーというのは、いかに人間の多様性を受け止められるかが大事なんですね。

 しかも、自分自身の軸がブレることなく」


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2009/06/23

うつ病の2つのタイプ:うつ病になる前の段階で、社会人としての充実感を感じていたか否か?

 うつ病になった人の「社会復帰」という言い方がよく使われる。

 比較的「古典的な」うつ病患者の皆さん(社会適応水準の高かった双極性障害の人を含めていい)の場合、職場や学校では、明るくて活発、積極的で精力的ですらあるか、仮に穏やかな人だったとしても、責任が強く、任せた仕事は実に粘り強くやり遂げ、同輩や上司(教師)に一目置かれる人だったことが少なくない。ご本人もそうした自分の実力と周囲からの評価にある自負を持っておられたことが少なくないように思う。

 こうした皆さんが、うつに陥ると、家族も同僚も、「あの、元気で有能で仕事熱心だったあの人が・・・」などと、以前のその人のありようと比較して、そのギャップに仰天することが多い。もちろん、何より、うつになったご本人が、あまりに変わり果てた自分の現状を情けなく思い、深い絶望と無力感に襲われているのであるが。

 このタイプの人の、うつからの回復と「社会復帰」についての願望は、職場の第一線で、以前と同じくらいに精力的に働けるように「回復」することである。このことが、焦れども焦れども容易に実現できず、調子を戻したと思ったらまた欝がぶり返すという中で、苦悩は更に深まる皆さんが少なくない。


*****


 ところが、もうひとつのタイプの人たちがいる。

 本格的な欝になる前の段階において、先述「古典タイプ」のような、自他共に認める形で有能さが発揮された「黄金時代」が存在しないのである。

 少なからぬ場合、小学校時代(あるいは中学まで)の学業成績はかなりいいことが多い。しかし、一転して、思春期以降の学校や若者集団の中での生活(つまり、学業でなくていいのだ。学校外でもいい。個人的な恋愛だっていいのだ!!)において、充実し、自他共に認める活躍ができたという思い出がほとんど存在しないようだ。むしろ、周囲に溶け込めず、疎外感や劣等感を感じさせられた経験のみがその人の中には残っていることも少なくない。

 そして更に進学や就職の段階ですでに何らかの挫折体験をしており、進学したり就職した先でも、上司や教師にも叱られる経験のみが優位で、同輩にも認められす、むしろ自分は落伍しつつあるのではないかという危機感を募らされる経験ばかりが積み重なっている。そうしたストレスに加えて、何らかの外的条件・・・以前よりも責任ある仕事を要求される、不況下における人員削減などで、リストラの対象からは生き延びても、以前のような「モラトリアム的」存在のあり方を職務上許されなくなる・・・・などの中で欝症状が本格化の引き金をひいた人たちである。

 このタイプの人は、「非定型うつ病」と診断される人の中のある一定部分(全部ではない)を占めており、あるいは「社会不安障害を伴う」という診断が添えられていることが少なくないように思える。

 (この「非定型うつ病」を「新型うつ病」と呼ぶことへの違和については、以前もNHKスペシャルに関連して書いた。実はDSMの診断基準が新しくなっただけ(!)で、以前からこれに該当する状態にある「うつを症状とする」人たちはたくさんいたのであるから。以前だと、こうした人のある部分は、例えば「退却神経症(うつ「症状」を伴う)」などと分類されていたのではないかと思う。「退却神経症」というと、ずっと引きこもったままで社会に出れないままの人のイメージばかりがあったが、それだけでとらえ過ぎると、実は狭すぎたはずである)。

 後者のタイプの人にとっては、うつ病からの「社会復帰」とは、「古典タイプ」の人のように「あの日に帰りたい」願望が空回りするという形の堂々巡りではなく、「あの、辛かった世界に再度『参入』し、しかも、今度は挫折しないように、もっとうまくやっていかないとならないのか?」という、遥かに屈折した思いでとらえられていることが少なくないのではないかとも思える。


*****


 もとより、私は、この2つのタイプのどちらのタイプの人が、欝が軽快した後、新たなライフスタイルを徐々に確立していく(私は「社会復帰」という表現をあまり使いたくないのだが)際の困難が大きいのかという問いかけは全く意味をなさないと思う。

 そもそも、現代は、この2つのタイプの更に中間形が増えている時代という気もします。

 後者のタイプの人に対して、単純に社会参加のための「訓練」に駆り立てるのをよしとするような一部の論調には、私は大いに違和感がある。

 前者のタイプの人は、「過去の栄光」にしがみつき過ぎて、空回りやすい。これは少なからぬ回復途上者において本当に「骨がらみ」の悪循環現象である。

 後者のタイプの人でも、社会に出る心身の準備態勢が全然ないまま働いていた状態から一度離れ、「うつ病療養」という、いわば「合法的なモラトリアム」を再獲得する中で、ゆっくりと、自分の中の「ひな」を育てていけるという意味で、むしろいいチャンスとなることも少なくないからである。

 ある種の抗欝薬や気分安定薬(気分スタビライザ)が適切に処方され、思春期初期から体験していたその人の「軽うつ」状態や内的葛藤を沈静化して、癒してくれ、再出発の助けになることも少なくないことも確かようである。

 しかし、投薬の効果を2倍、3倍確実にするのは、医師でもカウンセラーでも、いい援助者との出会いの中で精神療法(心裡療法)であろう(名医だとそれを15分の面接の中でも進めている)。

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2009/06/22

久留米でフォーカシングを学ぶ会、次回7/12(日)開催分、定員に達しました。

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回、通例通り第2日曜、7/12(日)に開催しますが、定員の8名様にエントリーが到達いたしました(感謝!!)

 12日分の申し込みを停止させていただき、引き続き、2週間後の7/26(日)の臨時開催枠で募集を続けさせていただきます。

 フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。


 もし、7/12日枠でエントリーのキャンセルが生じましたら、このサイトで告知させていただきます。 


 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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2009/06/21

泉谷閑示氏の連載:「うつにまつわる24の誤解」シリーズに注目!! 【速報】

 本日の「はてな」サイトの総合ランキングベスト10で、当サイトの、

●NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療」-

が突如大ブレイクし、19:38現在、本日だけですでに6,855名様という、信じられないほどの数の皆様にご来訪いただける「ドミノ倒し」が生じています(追記:24:00までに7,501アクセスとなり、6/20全体の、私のココログ系3サイトの総記事アクセスはついに10.432アクセス(8,219名様)となりました。

Hatenaranking0906201627
16時25分の時点の「はてな」トップページ。記念にスクリーンショット撮ってしまいました(^^)さすがに今現在(20:40)ではもうトップページ表示ではなくなりましたが。


 おいでいただきました皆様、ブックマークに登録して下さった150名以上の皆様、まことにありがとうございます。


*****


 そうした中でトラックバック下さった方の記事の元記事で紹介されていたサイトなのですが、

●8人に1人が苦しんでいる! 「うつ」にまつわる24の誤解(by 泉谷閑示 Diamond online)

この連載、まだ連載は完結していないのですが、とりあえず今、ざっと目を通した段階ですが、ここで書かれている、精神科医の泉屋先生の一連のご指摘は、少なくとも私がこれまで目にした欝関連のネット上の記事の中では、出色の高水準のものであることは間違いないと感じました。

 まずは、「ガッテン」がらみの直接の記事として、

●「ウツ」を“心の風邪”と喩えることの落とし穴 ――「うつ」にまつわる誤解 その(4)

この記事からだけでもお読みになることをお勧めしたいと思います。


 他の記事をつまみ読みした範囲でも、西洋医学的な「治療」論への批判、「身体からのメッセージ」として症状をとらえることへの勧めなど、私にとって、これから精読する意欲をかき立てる、全くエキサイティングなコンテンツだと思います。

 ・・・・・以上、とりあえず速報まで。

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とっくに「電脳化」しているこういちろう? -劇場版「甲殻」について:続編-

 押井守さんの、劇場版「攻殻機動隊」2部作に関する感想の補足である。

 第1作、"GHOST IN THE SHELL"が最初に公開されたのは、1995年、つまり、Windows95発売の年である。


 このOSの発売ではじめて、インターネットは多くの人にとって身近な存在になりはじめた。もっとも当時は、「常時接続回線」を個人で所有する人など超例外だった。さすがに電話機の受話器を使った「音響カプラ」の時代は脱していたにしても、多くの個人ユーザーは、低速のモデムを一般電話回線につなぐ形。プロバイダ料金も従量制だったので、特定のページを閲覧している間は通信を切るということもしていた記憶がある。

 しかし、当時のパソコンの新規ユーザー層の少なからぬ部分にとっては、パソコンとは基本的には"stand alone"に使用するものであり、電子メールを使用する際、パソコン通信に関心がある人たちを別にすると、「インターネットを介してて、ユーザーが常時接続的につながっている」という感覚そのものがなかったわけである。

 今でこそ、"GHOST IN THE SHELL"で描かれた、「大抵の人が、(自分の脳に埋め込まれた)端末を通してネット世界につながっている」という状況は、身体の埋め込み端末こそないものの、インターネット機能が発達した携帯電話と向かい合うようにして日々を送っている現実との落差はぐっと小さくなり、今の現実のちょっとした暗喩の物語・・・・ぐらいで受け止めることができる。

 しかし、"GHOST IN THE SHELL"が、14年前の作品であることを思い起こす時、この作品が、いかに時代を先取りしていたかに、ちょっと呆然としてしまうのである。

 もとより、押井さんが、更に数年前、劇場版「パトレイバー」第1作で、当時はまだほとんどの人にとって未知の用語だった、「汎用OS」だとか、普段は沈黙していても、一定の条件が揃うと、一斉に凶悪な機能を発動をする「コンピューターウィルス」や、今日でいう「ハッキング」の問題を取り扱ったのが、何と1989年であるから(^^)

***** 

 さて、「攻殻」の作品世界の中では、

「自分の経験や記憶(恐らく、DNA情報なども)など、自分を自分たらしめているもののすべては、ネットの中に常時保存され続ける」

という趣旨のことが何回か語られるが、私のように、まさに1995年から個人ウェブサイト(「阿世賀浩一郎のホームページ」は当時の原型そのままのコンテンツを今も含みます)を立ち上げてきた人間からすると、こういちろうという人間の体験や記憶や思考のかなりの部分が、すでにネット空間に蓄えられているのだと、妙に生々しく実感できる。

 私の場合、原則として、仮にハンドルを使ったとしても、リアルワールドでの私と同一視されるのは一向かまわないという立場でしかネット活動をしてこなかったから、なおのことである。

 

前の記事にひきつけて言えば、ひょっとすると、すでに、私の『ゴースト』そのものが、ある程度はネット空間の中にも自律した存在として跋扈できるpresenceを、(ささやかながら)獲得でき始めているのではないかとすら思う。

 つまり、こういちろうはすでに、素朴な次元で、十分、ヒロインの「草薙素子(もとこ)」的な意味での「電脳化」した存在様式を持った存在なのではないかということ(^^)

 もっとも、こういちろうは、素子のように、無茶をし過ぎて、生身の身体の方を吹っ飛ばされ、「脳核すら失う」形で、電脳空間を基本的な住処とし、時々必要に応じて「擬体」を使い分けるような存在にはならず(爆)、生身の人間として、この世に「どっこい生きて」い続けるであろうこと。

 生身のカウンセラーとして、この世に存在し続けるわけだし、フォーカシングのトレーナーとしての私も、もっとその存在を、リアルワールドに「露出」していけるようになることを、じっくりと目指していますので(^^)

*****

 ところが、もし仮に、日本のフォーカシングの世界における私についてのイメージというものがあるとすれば、この10数年来、それはほとんど、ネットを介して形づくられたものにならざるを得なかった(クローズドなメーリングリスト、"focusing-net上での活動を含めて)。

 私が実際にフォーカシングのセッションを、フォーカサーとして、トレーナー/ガイドとしてどう行なうかをライブ体験している層は、実はほんのほんの例外的な一部の人たちでしかないのにね(^^) 

 そういう意味では、フォーカシング関係者は、現在も、私のネット上の『ゴースト』に踊らされている人たちが今も少なくないのかなとすら思う(^^)。

 そこに映し出されている『幻』は、果たして、「こういちろう自身のこころ」なのか? それとも読者の「こころ」を写し出す、投影的な『鏡』なのか?

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2009/06/19

「ゴースト」と「ファントム」 -押井守と神田橋條治の共通項-

 ・・・・というわけで、長年の封印を解き、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」二部作をやっと観終わったばかりです(^^)

 第1作"Ghost in the Shell"の方は、その長期の封印の間にVer.2.0になって、大幅なCG化に留まらない、すべてのシーンの手直しがなされていたみたいでしたし。


 予備知識ゼロでぶっ通しで観たわけですが、観てよかったですね。今の押井さんのを観たら、少し頭が痛くならないかと勝手に思い込んでずっと億劫がっていたんですけど、押井さんの硬質のリリシズムの世界って、やはり私には「癒し効果」の方がよほど強かったんだ・・・・と、何を今更ながら感じた次第coldsweats01

 押井守さんというと、私にとっては、「うる星やつら」TVシリーズの中の超異色作、「みじめ、愛とさすらいの母?!」(第101話)を本放送で観た時点で圧倒的に熱狂し、この回の拡大バージョンというべき劇場版第2作「ビューティフル・ドリーマー」、は、映画館で見た回数18回という私にとっての最高記録を保持しています。(この件についてはこの記事参照)

うる星やつらDVD vol.20(「みじめ!愛とさすらいの母?!」収録 うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]

 その後、「天使のたまご」を経て、劇場版「パトレイバー」の2本で、止まっちゃってたんですね。後を追うのが。

 今回、この2本を見て、これらの作品の延長線上に、押井さんはやはり押井さんであり続けたまま、それらを全部総合しつつも、なおも前を進んでいるのを感じて、むしろほっとする、故郷に帰ったかのような思いすら感じました(^^)

*****

 予備知識なしで観て、最初に何より驚いたのが、この「攻殻機動隊」の作品世界の世界観というのが、最近私が改めてご紹介してきた、精神科医、神田橋條治先生の考え方と実にいろいろと「かぶる」ことに気がついたことなんです。

 この近未来の世界では、人体に及ぶ「電脳化」と「サイボーグ化」が、多かれ少なかれ、人々に進行しています。

 ここでいう「電脳化」とは、神経にネットに接続する端末が埋め込まれていて、思い切ってわかりやすく言えば、無線LANで常時接続されているような状態にあるということです(個体によってその性能に落差はあるし、高度な情報セキュリティの問題や膨大な情報のやり取りをするとなると、首の後ろの端子を外部機器に接続するやり方がとられるようですが)。

 これによって、人は言葉を話さなくても対話できるし、資料を観たり読んだりしなくても、脳に直接情報をインプットできる。情報検索したければ、もはやパソコンを立ち上げ、インターネットブラウザを開けなくても、例えば、いろいろな格言を見つけ出して、臨機応変に口にすることなども自由自在である(おかげで、第2作、「イノセンス」は、古えのことわざや格言やアフォリズムの山となってむやみに格調高いセリフが多い)。

 自分の体験したことや感じたこと全体をパソコンに「バックアップ」することもできることになる。つまり、脳内に刻み付けられたその人のパーソナルな体験世界全体・・・その人の人生の痕跡すべてが「外部記憶媒体」に記録されていくことにもなる。

 しかしこれは、自分の思いや記憶や体験のどこまでが「自分自身」のものなのか、それとも、ネットを通して取り込まれた情報による「疑似体験」なのかの境界が曖昧化し、「本当の自分とはどこにあるか」と悩みだしたらキリがない状態に置かれているということでもある。

 更に、ネットを通しての「ハッキング」が生じると、自分の体験ではないものが植えつけれて、他人により「捏造」された過去を本当の過去のように思い込まされたり、戦いの中で目に見えてもいないものを見えたと錯覚させられて(見えるはずのものを見えないとされる方も当然可能)、混乱させられる可能性もでてくることになる。

 そうした、「電脳化」と完全に一体化したものとして身体の「サイボーグ化」を位置づけ、「もはや自分の本来の生身の身体がほとんど残っていない存在」と人間が化した時に生じる可能性がある、アイデンティティーの危機の問題も同時に取り扱えているのが、この作品の実に興味深い点だと思える。

 さて、では、ここうやって、身体的にも、脳に及ぼされる情報、蓄積された体験という観点からしても、どこまでが「自分固有のものか」という境界があいまい化した時、最後に頼りにするものはいったい何なのか? 

 人工知能(これには他人の記憶の複製が使われる)を備えたアンドロイド(この作品世界では「ただの『人形』」という言い方がなされる)と人間の違いはいったい何なのか?

 「私の『ゴースト』が、そうささやくのよ」

・・・・主要登場人物二人が、一かバチの決定的な判断を迫られた時に繰り返しつぶやく「決め台詞」である。

フォーカシングを学んできた私には、「私のフェルトセンスがそうささやくのよ」という感覚にひどく通じるのが嬉しかったが)

 『イノセンス』に付録としてついている「解説ビデオ」(!)に頼らなくても、この『ゴースト』とはどのようなものか、映画を見ていく中で漠然と察することができる作りになっているので、この言葉に明快な定義を与えないままのほうがいいとすら私は感じるが、

 「まるで幻に過ぎないかのように曖昧で不確かに感受できるだけだけれども、その人の奥深くに隠れていると感じられる、<こころ>のようなもの(が指し示す方向性)

のようなもののことを指しているようにも思われた。そしてそこにはどうも、命をつなごうという生命体の本能のようなものが関与しているような描かれ方であった(この本能が、時として残虐で利己的なダークサイドを持つことすら、「イノセンス」では描かれているが)

****

 こうしてみてくると、ここでいう、「ゴースト」としての「こころ」という発想は、神田橋先生の思想を知るものにとっては、神田橋先生の「ファントム(幻影)」としての「こころ」という思想を、嫌が上でも思い出させる側面が出てくる。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念

 もとより、神田橋先生が、こころを「ファントム」であるという時には、もっぱらその否定的な面が強い。つまり、自分自身の「思考」や、様々な外部からの「言語的情報」(そこには、精神医学や臨床心理学者の専門的な分析や解釈も含まれる)や、言葉で表現できる「価値観」によってこねくりまわされ、その人を惑わすだけの存在なのに、何かすごく大事なものであるという「幻想」として「実体化」している「こころ」という概念の徹底的な「価値の引き下げ」こそ、神田橋先生がまずは意図しているものなのだ。

 そして、人間が「コトバ文化」の虚妄から解放され、動物には備わっている生体恒常性に従うかたちで生きていく状態をある程度回復していくことをこそ、神田橋先生は理想としている。

 厳密に言うと、この点では、「攻殻」の作品世界観と神田橋先生のそれとの間には方向性のズレがあるかもしれない。

 押井氏の場合には、そうやって電脳ネットワークにまみれ、情報の渦に巻き込まれ、更には一切の生まれついての生身の身体をすべて失っても、サイバー空間の中で、固有の「個」として存在し続ける「ゴースト=ひとのこころ」との交感の可能性にすら期待をかけているのであるから。

 もっとも、物語の中に「神の次に完璧なのは(人間以外の)動物だ」という意味のセリフが登場するし、一見ストーリーと無関係だが、重要な存在感を持つものとして主人公の愛犬が克明なまで描かれていること、更には、

孤独に歩め
悪をなさず
求めるところは少なく
林の中ののように

という『阿含経』の一節が、「イノセンス」を象徴するメッセージであるという観点からすると、押井氏の世界観と神田橋先生の世界観のめざす方向性は、意外と同じまなざしなのかもしれない。

*****

 いずれにしても、私は、まだ『ポニョ』見てませんけど、

「神経症の現代に贈る・・・・」

・・・・うんぬんというキャッチフレーズを、押し付けがましくて、うっとおしく感じ(^^;)、

そのくらいならば、『イノセンス』に出て来るセリフ、

「『ゴースト』があるからこそ、人は狂気にもなれるし、精神分裂にもなれるんだ!!」

というメッセージの方が肌にあう人間のようである。

※続編はこちら

「スカイ・クロラ」評こちら「人狼」評こちらにあります。

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2009/06/18

「治療」と「養生」の違い。人類は鬱になった人に「恩」を感じ、「感謝」を忘れてはならないということ(第4版)

 精神科医、神田橋條治先生の用いるキーワードのひとつとして、「養生」という言葉があることは、臨床家に知れ渡っているかもしれない。

 この言葉は、広く使われる、「治療」という言葉に対するアンチテーゼとしての側面を強く持っている。

 「治療」とは、

  1. 専門の治療者(医師、セラピスト)が、患者(クライエント)に対して施す行為。
  2. 「治療」行為の具体は、特別な専門家のみが継承する「秘儀」としての性格を持つ。
  3. 「健康な」状態を「正常」とみなし、それが傷害されたり、失調した「異常な」状態を「病気」とみなす。「健康」状態は、まるで生命が永遠に続くかのようにして維持されることを理想とする。
  4. 治療とは、その「異常な」状態から、以前の「正常な」状態に「回復」させる行為。
  5. 「異常な」状態は、いわば機械の故障や部品の脱落のようなものであり、それを専門家が「修理」しない限りは「回復」しない。
  6. 治療行為は、非日常的な、専門家がいる「特殊空間」で、「回復」するまでなされる、終わりある、一時的行為である。

・・・・・おおよそ、こうした含意があるように思える。

 これに対して、「養生」とは、

  1. 養生する主体は一般の生活者自身である(「養生の助言者」は存在し得るにしても)。
  2. 養生の心得は生活者の間で伝承される「オープンな生活の知恵」の一部である。
  3. およそ、生命体は、ある一定の状態を維持するものではなく、内的・外的な要因で絶えず「調子の波」があるものとみなす。そして、その「調子の波」が、何かの弾みで「調子がよすぎる」方向や「調子が悪すぎる」方向にはまり込み、容易に抜け出せなくなることは、誰にでも生じる可能性があり、生涯のうちに何らかの形でこうした状況に陥り、乗り切る必要がことが出てくることは、必然であるとみなす(その最大のものは、誰にでも寿命があるということである)。
  4. 養生においては、状態が悪くなる以前の状態にまで復することを必ずしも求めない。以前とは別なライフスタイルとなり、以前よりも制限された生き方しかできなくても受けとめる。これは単に「耐え忍ぶ」「諦める」ということではなく、以前無理が効いて何でも思い通りにできた頃の自分のライフスタイルこそ、バランスを欠き、「不養生」だったからこそ可能だったものに過ぎないとすら達観する。敢えて言えば、「養生しつつ生きる」人間の方が、「健康な」ライフスタイルに到達したとみなす逆説がある。
  5. 生体は、調子を崩すと、自然と、普段の活動状態から退却し、休息をとったり、身体に必要な滋養を補給しながら、自然な回復力が徐々に発現するまで「無理をしない」ことをおのずから行なうものであるという前提がある。人間は本来持っている筈の自然な自己治癒力が「退化」した存在なので、文化として「養生」術が伝承されるしかなくなった存在であるに過ぎない。
  6. 「養生」は、生活場面の中、あるいはせいぜいその延長といえる領域まで出向くのに留まる形で、形を変えながらも生涯続く「生活術の一部」として、なされ続ける。

 これは、私なりの理解をまとめなおしたもので、神田橋先生の著作のどこにも、そっくりそのままの部分は出てこないかと思います(^^)

神田橋條治/精神科養生のコツ 改訂版

 

*****

 私は、実は「単に『健康で』あり続ける人間」よりも、「『養生』しながら、新たなライフスタイルを模索してきた人間」の方が、無用な紛争や経済的な軋轢を生み出さず、多様な他者のあり方を受容し、痛みを分かち合い、地球環境も大事にする、これからの人類に必要な資質に富んだ人たちだとすら思いますが。

 

・・・・実は淘汰される弱者ではなくて、「どっこい生きてる」生存率の高い遺伝子保持者であるとすら。

 中井久夫先生が『分裂病と人類』でお書きですが、確か、ダーウィン派の進化学者、ジュリアン・ハックスレーが、「なぜ統合失調症の人は遺伝的に淘汰されず、一定の比率で生まれ続けるか?」という命題を掲げ、それに「貧窮困苦への耐性」という仮説を立てたそうです。

 これに対して、中井先生自身は、自ら「性的伴侶の獲得において有利な形質を持つから」ではないかと述べ、社会が大きな危機に瀕し時、社会の前景に躍り出て、先例にとらわれず、かすかな兆候から、変化を刻々と先読みしながら(=微分回路認知能力)、先見の明で時代を切り開けるは「S(分裂病)親和者」であるから・・・という仮説を提示したわけですが。

中井久夫/分裂病と人類

 

 

 うつ病になってしまうほどの几帳面に努力できるまじめな人たちに実は有形無形で支えられていたから、多くの家族や集団や企業は成り立っていた。

 上司や同僚は、まずは何より、「それまでの」その人の働きと功績に心からの「感謝」を伝え、労(ねぎら)いの言葉を形にすべきです(この実はシンプルなはずのことが、現実にはいかに抜け落ちたままのことが多いか)。「早く良くなって帰ってきてね」も余計です。

  極論を申し上げると、もし、鬱の素質がある人を全部最初から遺伝子レヴェルで受精直後に排除したりしたら、人類の滅亡は更に急速に早くなるでしょうね(・・・・勘違いしないで下さいね、鬱の皆さん。これは、あくまでも、鬱の人への恩を忘れ、困ったものだとみなす人たちへの皮肉です^^)

 これは、おそらく、いわゆる「こころの病気」を持つ人全体に言えることでしょう。

 ヒトゲノム計画における遺伝子の「意味づけ」って、実は常に一面的な意味づけであり、一見「病気を引き起こす因子」と見えるものが、同時に、「ある特定の状況下では、その個体をサバイバルさせる因子」、あるいは少なくとも、「自分は犠牲になっても他の個体を生かすための活動ができる因子(人類という種全体を維持しようとする因子)」としても働くという、「両価的な」ものである可能性が見過ごされないか、心配です。

 優生学とヒトゲノム計画を安易に同一視するつもりはありませんが、遺伝子の選別、いや場合によっては「遺伝子『治療』」という発想を常に注視しなければならないのは、それが単に人間の平等や人権に反する危険があるからばかりではないと思います。

 実は、上記の理由で、人類が存続するのに実は必要な大事な「表裏一体の」形質の遺伝子を「修正してしまう」結果、気がついたら、システムとしての人類全体を「弱体化」させるというパラドクスを秘めている可能性があることまで考えねばなならない。

 神ならぬ人間自身の浅知恵なんて、そんな水準のものを容易に越えられないのではないかと。

 仮に、人類が、いずれ衰亡するする運命にあるにしても(^^;)、そうした、人類全体への「治療」めいた形で、いよいよ衰亡を早めることなく、スロー・ライフで「養生しながら」地球と共存して生き長らえるのでいいのではないかと。

*****

 誤解なきように最後に言い添えますが、私が基本的に薬物療法の積極的支持者であることはこのブログで明言し続けている通りです。神田橋先生自身が、薬物療法の「超職人的な」使い手であることを忘れてはならないかと。

 しかし、ある物質を体内に投入しさえすれば精神疾患が治療できるというのは、恐らくどんな時代が来ても夢のまた夢でしょう。

 なぜなら、精神疾患に親和的な人たちとは、常に、文明と文化が生み出す歪みの結果であり、なおかつ、新たな文明と文化を生み出し、維持するエネルギーとなる人たちの供給源であり続けると考えられるからです(この発想の点では、私は中井先生の影響を強く受け続けていますね)。

 そして、薬という「異物」によって心身に生じる反応は本人に「違和」を引き起こしがちなものです。そういう薬剤によって変化させられる心身の反応を患者さん本人が「受容し」「消化して」、自我に統合し続ける過程というものが、結局は薬の効能の成否を決めるものであり、それを支えるのは、やはり、薬の効能にも通じた治療者との関係性であり、更に言えば、薬物療法を理解しながら見守る、家族やパートナーとの日常的な信頼関係なのだと思います。

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2009/06/17

NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療」- (第3版)

 最近のNHKの、ほとんど畳み込むような、うつ関連の番組の連発には敬服するしかない。

 今回は、のっけから、

 「うつ病は心の風邪」

という、あの、よく使われるキャッチフレーズに対して、実際の鬱病の患者さんたちの多くが、いかに違和感を感じているかを、調査結果に基づき紹介することから開始した点は買いたい。

 つまり、「ツカみはOK!!」だったとは思います(^^)

 なぜなら、うつ病の治療は、風邪薬を飲んで静養していれば、特別な場合を除いて、長期の場合でも1,2週間で回復するようなわけにはいかない。

 何回も途中で調子を崩したり入院したりして、数年以上闘病している人もたくさんいるからである。

 私も、この、「心の風邪」という言い方がはっきりいって嫌いな人間である。

 この番組では、この言い方は、「誰もが欝になる可能性がある」ということ以上に、

「病院の門をくぐるまでに迷ってしまう人たちに、早期に受診してもらうため」

のキャッチフレーズであるに過ぎないことを強調していた。

 もとより精神科や心療内科に通い始めることを躊躇したまま頑張っていると、欝の回復が長引いてしまうことは確かだ。

 「このくらいのことでホントに病院に行ってもいいのか?」と迷いを感じるくらいのタイミングで受診するほうが、経過はいいのである。

 このことは、「こころ相談.com」の私へのインタビュー記事でも述べさせていただいたとおりである。


 ・・・・・しかし、やはり思う。

 もはや、「うつ病は、心の風邪」というキャッチフレーズよりも、もっとましなものが普及すべきであるとは。

 私ならば、例えば、

「無理のし過ぎで、脳が消耗しすぎて、脳のある特殊なエンジンオイルが切れて、脳のピストンも歯車も痛みかかっている状態です。そう簡単にはその特殊オイルを補給することもできないようなものでして、歯車やピストンも一度動かすのを止めて、メインテナンスに出して磨きなおす必要があります」

などと言ってみるかもしれない。

 番組の前半は、この「心の風邪」という言い方への違和という問題を鍵として、相当な密度で展開して、満足度は高かった。

****

 SSRI、三環系、四環系抗うつ剤の持つ、「セロトニン再取り込み阻害」作用の仕掛けは、恐らく多くの鬱の患者さんにとっては、すでに十分知れ渡ったことをうまく噛み砕いて説明してくれているとしか感じられないかもしれない。

 しかし、一般の人たちへの幅広い啓蒙という意味では、この番組恒例の「着ぐるみ」登場のバラエティのノリで、わかりやすく説明する役割を引き受けてくれたことには意味があるかもしれない。

*****

 ・・・・そうそう、パネラーの山瀬まみさんが、「なぜ心の風邪と呼ばれるか」という質問に、

「症状を抑える薬はあっても、根本を治す薬がないという点で風邪の治療薬に似ているから」

という、なかなか思いつけない答えをしていた点を買います。

 答えが正しいかどうかではなくて、そういう着想をできることが得がたいセンスなんですよ。これは単なるヤラセではなくて、彼女の事前情報収集と感性の産物かと思います(^^)

******

 番組後半は、何かしら密度感が低下したようにも感じられたが、

●認知行動療法が、薬物療法や休息を経て、すでにかなりの程度の回復期に達した人においてはじめて効果を上げる可能性があること(私の知るところによれば、中程度以上に重い欝の人や、不安障害を伴う人への認知行動療法は、むしろ鬱を悪化させる場合もあるとも言われています)。

●運動や外出もまた、かなりの回復期になり、本人にも興味が出てきたタイミングで無理なく導入したほうがいいものであること(それは、体力回復のためというより、むしろ脳にいい刺激を与えて、神経伝達物質作用を高めるためであること。私見を言えば、番組で紹介されたような凝った体操でなくても、犬の散歩でも、自転車に乗って平衡感覚を刺激するのでもいいと思いますよ)

 ・・・・・これらを指摘していたことも評価したい。

 一直線に、エレベーターを一気に登るような形で回復することを期待するのではなく、行きつ戻りつ、途中の「踊り場」で余裕を取り戻しながら、じっくり鬱と向き合う姿勢こそ、この番組が最終的に強調したかったことかと思えた。

*****

 ただ、なぜなんでしょう???

  この番組、終わりの方まで観ていくと、鬱の人にとって、だんだんと気分が鬱になりかねない、すっきりしないものを淀ませるところがある気がします。  

ひとつにはタイトルがよくないのでは?

 「うつ病よサラバ!」????

 ・・・・・この番組の内容が伝えていたのは、実は、うつ病とは容易にはおサラバできないものなんだよ!! というメッセージになってしまったから。

*****

 それと、あと数点、バラエティ番組に対しては要求水準が高すぎる、揚げ足取りを覚悟で数点言及すれば、

  1. この番組では、「NHKスペシャル」での場合と異なり、多剤処方の問題や誤診(鑑別診断のたいへんさ)の問題はきれいに素通りしていること。

     
  2. 欝のときにもらう薬のすべてが「抗うつ薬」ではない筈なのに、その点で早合点されるかもしれない(睡眠導入剤や抗不安薬、気分スタビライザーは「抗うつ薬」ではないのだから)

     
  3. 抗鬱剤の処方において、「副作用の少なそうな薬から、単剤処方で、ひとつずつ順に試していくのが標準的なやり方になっている(ひとつの薬あたり原則3ヶ月、薬によっては1ヶ月ほど使用中止して、他の薬に切り替える場合もある)」と述べられていたが、これは医療現場の現実とあまりにも遊離したものではないか。

     腕のいいお医者さんだと、無意味な多剤処方は回避しながらも、診療のかなり早い段階から、複数の抗うつ薬を見事にカクテルにして出すことを現状でもできているものである(もっとも、SSRIを同時に2種類出すことをよしとしている「良いお医者さん」は滅多にいないはずとは言える)。

     【第3版で追記】 なお、この「3ヶ月かかる」とした点について、この番組のことを指しているものと推測される批判を、精神科医のkyupinさんがこちらで書いています。「確かにSSRIというのは効き目が遅いことが多い薬だが、希死念慮を抑える意味でも、幾つもの薬の試行錯誤などなく、できるだけ一発で効く薬をセレクトできるように全力を尽くすのが医師の務め」という、ごもっともな意見です。是非ご参照ください。 

  4. お医者さんとの信頼関係+治療に影響するほんとうに必要な情報のコミュニケーションが患者さんと相互にオープンになされていることが鬱治療にどれだけ影響を与えるかという点は素通りされている。

     
  5. 同様にして、たいていのうつの患者さんが、幾つもの病院を渡り歩いてもなかなか納得のいく病院にたどり着けない問題も素通り。「鬱の人が夢のような回復過程を望んで、辛抱が足りないのが問題なのだ」というメッセージを発しているように感じた視聴者もかなりおられたのではないか。

    (はっきりと強調したいが、もし仮に病院にとって「扱いづらい」「トラブルメーカーな」患者さんというものが存在するとしたら、そうした患者さんを生み出すのに貢献したのは、その患者さんが受けてきた医療関係者やカウンセラー全体の責任に他ならない。

     しかし、先代の治療者までの間に背負わされた患者さん(クライエントさん)の抱えた「負債」について、それまでの治療者を単に悪者にすることは回避すべきである(もっとも、先代までの治療者の「弁護」はしなくていいし、むしろそれに類する発言を不用意に鬱の患者さんにすることはいよいよタブーである)。

    治療者は、決して安請け合いしてはならないし、自分の果たせる領分をしっかり見据えることが重要だが、しかし、コーディネーターとしての手腕を含めて、患者さん(クライエントさん)のために必要なことを、過去の治療体験のマイナス面を最低で「帳消し」にする水準での働きは迅速にできねばなるまい)

     
  6. 「病院によっては認知行動療法を行なっていないところもあります」とキャプションが入ったけれども、現実の日本では、認知行動療法をやっていない医療機関の方がずっと多いはずなので、病院にとってもむしろ迷惑なキャプションだったのでは?

     
  7. この番組の中で、鬱の悪化で脳の中の海馬の萎縮が生じる可能性、そして抗うつ薬でその萎縮が改善される可能性についての研究が紹介されていたが、これはいずれも現状ではごくごく一部のうつ病患者において確認できる水準のものでしかない臨床研究なので、視聴者に不要な不安をあおった可能性があるだろう。今後の研究の進展によって、こうした海馬の萎縮現象が、ある特定の因子を持つうつ病の患者さんにのみ生起する可能性があることがはっきりしてくるのではないかと思う。

     私が知る範囲では、ある種のてんかんの患者さんに海馬の萎縮が見られる問題と、どこかでクロスする形で、今後特定の遺伝的な因子が解明されていく可能性があるのではないかとも思える。

     ただ、一部の視聴者に、この「海馬の萎縮」の問題と、この番組の今回のサブタイトルの「脳が変わる」という言葉が重なってしまい、無神経とすら感じさせてしまった可能性まで心配するのは、私の妄想し過ぎであろうか?

****

 いずれにしても、ここしばらくのNHKの鬱関連番組は、それらすべてを観てバランスが取れるような側面はやはりあると思う。それは、テレビ番組という媒体の宿命であろう。

【第2版で追加】

 一晩明けてみたら、私が、この番組に感じていたモヤモヤが随分とはっきりと言葉になってきましたので、少し遠慮なく書いてみました。

 この記事には、私の元クライエントさんから私に寄せられたこの番組への感想も反映しています(感謝)。

 もし、まだ思いつくことがあれば、更に増補したいと思います。

●番組公式ホームページ

*****

* カウンセラーこういちろうによる、NHKの一連の鬱関連番組関連記事リンク集(すべて開業サイトバージョン):

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2009/06/16

「眠らないままでいよう」とする衝動を語った鬱の人

 不眠(正確には入眠困難)という現象は、一般に、「本人は眠りたいのに、どうしても寝付けないことに苦しんでいる状態」というふうにとらえることを、暗黙の前提にしているようにも思える。よりわかりやすくいえば、「寝つけないことに苦しんでいる」という状態である。

 もっとも、「夜遅くになっても、時間を気にせずに、何かの活動をを眠らないままやり続けたい(はじめたい)」という場合もあるだろう。これは一般に「夜更かし」と呼ばれる。

 もう1ついえば、「明日の朝までにやらねばならないことがあるので、眠い目をこすりつつ、嫌々ながらも、その作業を張り続ける」という場合もなる。これを「不本意ながらの徹夜覚悟の作業」などと名づけることもできよう。


*****


 ところが、ある、回復期のうつのクライエント、Aさん(男性 通院治療 投薬中 午後のみアルバイト勤務の日あり)の話を聴くうちに、私は、もう1つのタイプの「夜、眠らないまま起き続ける」状態がある気がしてきた。

 それを私は、「眠らないままで起きていようとし続けることへの、わけのわからない誘惑」と名づけることにした。


(以下、Aさんご本人の承諾の上で、事実の改変を交えながら書いて行きます)


 Aさんは、理系の大学卒業後コンピュータ業界で働いていたが、数年で鬱になって退職した。長身で、細身の男性である。

 自分なりに心理の本は結構読んでいて、自己分析能力・言語化能力に非常に長けている。繊細だが、非常に知性の高い方という印象がある。

 Aさんは、睡眠導入剤の処方はすでに数年受けていて、その効き目を十分に感じていた。ところが、ここしばらくのうちに、「眠りにつくのが遅くなる」傾向と共に、少し鬱が戻ってきたかなと不安を感じていたのである。


 Aさんは言う。


私の場合、世間で言う『入眠困難』というのに当てはまるのだろうか? と思えてきたのですよ。

目が冴えてしかたがないから起き続ける』というのとはまるで違う気がしてきたんです。疲れ切っているのは凄く自覚しているし。

 眠る前に、例えば本を読みたいとか、ウェブをしたいとか、そういう具体的な何かをしたいという思いが勝っているわけでもなくて。

 ・・・・自分でも説明がつかないわけですから、このへんを、お医者さんにうまく伝えたことなんて一度もないことに、気がついたのです」


・・・・と。


 Aさんに言わせれば、むしろ「自分を眠らないままでいさせようとする」わけのわからない衝動の方が先にあり、そうやって起き続けるのは何か手持ち無沙汰なので、何かやることを探し始めるらしい。

 例えば、TVで深夜時間帯の番組を見たりする。すると、そのうちに1,2時間で気分は落ち着いてくる。さすがにそのあとは眠りにつきやすくなることもあるが、場合によってはそれでも済ませれない。またしても「眠らないままでいさせようとする」衝動がつき上げてくることもあるとのこと。

 Aさんに言わせれば、「夜が明けてから、何かの活動をしていくことが不安だとか嫌なのかなとも考えてみたが、自分としては、こうしたことの繰り返しのせいで、昼間いい調子で活動できないことの不満の方が大きい」という。


*****


 なぜAさんの訴える現象に私が関心を持ったのかというと、彼の話を聴くうちに、今にして思えば、他ならぬ私が、数年前に、鬱になる直前の時期に、まさにこうした「自分を眠らないままでいさせようとする」衝動に衝き動かされる中で消耗し、うつ状態にどんどん近づいていく悪循環にはまったようにもまざまざと思えてきたからである。

 そして更に、私の中に、もっと昔の、ひとつの記憶がよみがえった。

 Aさんに、「私の連想を話してみていいいか?」と断った上で、以下のことを口にしてみた。


 私が若い頃から「鉄っちゃん」だったことはこのサイトでもカミングアウトしているとおりで、しかも、今はどんどん減っているブルートレイン(寝台列車)のファンである。

 「私は若い頃寝台特急に乗る時、せっかく寝台券を買っているにもかかわらず、夜通し、カーテンの隅を開けて、外の景色を見続けようとしていることが多かったんです。もちろん、明かりの消えた寝台車からだからこそ味わえる夜の車窓の景色に魅せられていたことは確かなのですが、とてもそれだけでは説明がつかないものがあって。中学生の頃からそうでした。・・・・・今、お話をうかがいながら、あなたのいう、『眠れないままで起きようとし続ける誘惑』というのと共通の何かが、その頃の私の中で突き上げてきていたような気が、してきて」

Aさんは、


「確かに、私のと相当似ているかも知れませんね」


とうなづいた。


*****


 そしてAさんは、更に次のように話し始める。


「まるで、自分の中のもう一人の自分が、『寝ずの刑』を自分に課しているかのようなんですよ」。


 これを口にしてしばらくして、Aさんはは突如苦笑します。


 「・・・・・今気がつきました(笑い)。

 その、『眠ずの刑執行人』自身もまた、自分も眠いにもかかわらず、目をこすりながら、サディスティックなまでに、鞭をふるい続けているんですcoldsweats01

 そして『私』もまだ、マゾっぽいくらいに、その『眠らずの刑』を、甘んじておとなしく受けている。

 ・・・・・・二人とも寝起きを共にする時間帯は同じなんです(^^)。ですから、二人して日に日に疲れていくんですね。・・・・・ほんとは、刑執行人の方も、サドというよりマゾなんだといますよ(^^)

 ・・・・・話していて、ちょっと楽になってきました。まるでコメディー映画のワン・シーンを見ている気もしてきて」


 私はここで、アン・ワイザーさんのフォーカシング技法(「フォーカシング ガイド・マニュアル」) における「2つ以上のものが出てきた時」(訳書pp.107-9)に、それぞれを「認めてあげる」にあたることを提案する。


「では、あなたの中の『寝ずの刑』の『刑執行人』の方にも、

『あなたも眠たいのに、たいへんですね』

と、労(いた)わってあげるようなつもりで言葉をかけてみるのはいかがでしょうかね。

 ・・・・・・・・そして、刑を『甘んじて受けて』いる側の『もうひとりのあなた』にも、労わりの思いを向けてあげるつもりで」


*****


 Aさんはそれを味わった後、更に次のことを口にした:


 「確かに、『眠らないようにする』ことは、どこか自分に対する処罰じみていますね。

 "punishment".........私は何を罰しているのかな・・・・・・・

 ・・・・・・ちょっと言葉にするかどうか迷いましたけど、先生が男性だがら率直に思い浮かんだことをいいます。

 中学生の頃、マスターベーションをしていて、もう全然快感を感じなくなっても、それでもサルのようにヌキ続けた頃のことを思い出しました。

 とっくに『空砲』になっても、それでも繰り返す・・・・『あんな』感じなんですよ。この『自分を罰する』かのように『眠りにつかせない』感覚は。

 もっと大人になってふと振り返ったことがあるのですが、マスターベーション、少なくとも「やり過ぎ」の域のそれって、実は性的な快楽を自分で得て、満たされるための行為ではなくて、むしろ自分の中にある、いきいきとした衝動性というか、感覚に開かれた形でものごとを楽しむ感性みたいなものを、片っ端から『芽を摘んでいく』ための行為のように思われ始めたんです。つまり、マスターベーションは『去勢行為』だって。

 今の私は、いったい私の中の何を『去勢』しようとしているのかな・・・・・とか、連想してしまったんですよ。

 私は、私の中で成長しようとしている、ある健全なエネルギーの芽生えを「摘み取ろう」という衝動に屈している気もする。

 『眠らないままでいようとすること』で、自分の中のそういう芽生えを『磨耗』させ、『すりつぶして』しまおうとすらしているような。

 「摘み取らない」ままでいると、私自身怖いのかもしれない。

 それは・・・・・

 まだ社会復帰途中の私は、実は自分の中に、すごい「孤独」や「疎外感」を感じているんです。そしてそれを癒したい・・・・という性急なまでの衝動も隠れている気がするんですね。そういう「孤独感」「疎外感」を癒したいという衝動と、まともに直面してしまうのが怖かったということでもあるのかな? という気もしてきました。

 それは中学生の頃の孤独にも通じる気がします。とても女性とつきあえるようにはなれないという劣等感もってましたし。自分の孤独をひしひしと感じたくなかった、だから、無感覚になるまでヌキくった・・・・それはいえるかと思いますね。

 でも、それだけでもなくて・・・・・私の中に、すでに何か、あるんですよ、本当はもっと積極的にバン!! と打ち出してしまいたい方向性が、芽生えはじめてきている気もするんです。

 確かに、今の私にはそれを焦ってやろうとしたら、とてもそれをやっていくだけのエネルギーはまだないと思います。そういう点では性急に動き出さない自重は大事かと。

 でも、そういう「芽生え」を自分の中で大事に育てたいとは思います。安易に「眠らないままでいさせようとする」ことで、自分を無感覚にしてしまい、芽生えを「摘み取ろうとする」去勢の誘惑みたいなのには屈しないでね。

 これからは、この「眠れないままでいさせようとする」誘惑を自分の中に感じたら、明かりを消して、きちんと床につくことにします。

 本当は眠くてたまらないんだから、「目が冴えて眠れない」というふうにはならない予感がしますしね」


 最後に私は、Aさんに、

お医者さんにも、そのような「眠らないままでいさせようとする」自分がいるみたいだ・・・・という思いを、丁寧に伝えてみたら? これまでの眠剤以外に頓服の眠剤の処方とかがあるかもしれない」

と提案した上で、終わりとした。


****** 


 一週間後に訪れたAさんは、

「実はあの3日後、念のためお医者さんで頓服の眠剤の処方をもらいには行ったのですが、実は試しに1回使っただけで使わずじまいで終わってます。

 ・・・・といいますか、あの面接の後、もう、その日の晩になったら、例の『眠れないでいさせようとする衝動』の方が、おとなしくなって、沈黙してしまっていたんです。

 まるで、そういう『眠れないままでいさせようとしている』もう一人の自分が、『私』に、その存在を気がついてもらえ、『私』に認めてもらえたことだけで、ほっとしてしまったと感じているらしいんですね。

 「やれやれ、やっと、俺の存在、俺の思いに気がついてくれたか」

みたいにして(笑)

 だから、『彼』は、もう、自分の存在に気がついてもらうために、夜な夜な、暗に主張し続ける必要はないようなのです。

 刑執行人の『彼』もほんとうは眠かったんですからね(笑)


 ・・・・・で、私のウツ友で、同じように少しずつ社会復帰し始めている彼女がいるんですが、彼女に、カウンセリングでこんなことに気がついたんだ・・・・と話したら、次のようなことを言われて。

 『あなたと電話していると、なかなか電話を切ってくれないのが気になっていたの。名残惜しいのはわかるし、名残惜しいのは私も同じ。あなたも、『私も眠い時がある、もっと私にも気を使え!!』という訴えをあなたなりに理解して、配慮してくれることも増えていたのは感じていたし』

『でも・・・・今の話を聴けてよかった気がする。私、鬱がひどくなりかけたのに頑張って会社に通い続けていた頃、そうした仕事の後で友達との飲み会に朝まで付き合うみたいな、すごい無茶なことをせずにいられなかった時期がある。

『だから、あなたの『眠らずにいさせようとする』誘惑みたいなものって、私のあの頃のと、すっかり同じではないかもしれないけど、十分実感が想像できる気がする。私の知っている世界だと感じられるよ』

『そして・・・・最近のあなたって、もし、途中で性急に電話を終わりにしてしまったら、その後何かアブナイんじないか?・・・・みたいに感じるところがあったの


・・・・彼女がそう言ってくれたんですよ」


 Aさんは続ける:


 「私はそうやって、彼女が僕のここしばらくの『何か』に気がついてくれていて、陰ながら配慮してくれていたことそのものに、心からの感謝を感じて・・・・・もちろん彼女にその思いを伝えましたよ・・・・・、更に肩の力が抜け、ゆったりと過ごせるようになりました」


*****


 Aさんの中の「眠れないでいさせようとする」衝動を鍵とする「負のスパイラル」はともかくも止まった。

 この日の面接の中で、それまでAさん本人の中でもはっきりしていなかった、これから焦らずに形にしてみたい「それまで思い浮かばなかった、いずれはっきり打ち出してみたい社会参加の行動」についての構想の一端も話していただけたのですが、現在進行形の内容なので、そこには触れないままにさせていただきます。

 
 「私と同じような鬱の皆さんが、不眠について考えていく上で、何か新鮮な一石を投じるものになれば嬉しい」と、進行中の面接過程に関して、ここまで開示することを快く許してくださったAさんに心から感謝申し上げます。


*****


 なお、こうした展開を読んでいると、専門家の皆様の中には、Aさんの中に、一種の「強迫性」の因子が強くあるとお感じの方も少なくないかもしれない。

 確かに、そのようにとらえてみることは妥当だと思えますが・・・・

 実は、Aさんは強迫性障害を意識した投薬治療もずっと受け続けているし、すでに示したように、非常に知的な方で、論理的、かつ感受性に豊んだ話し方ができる人であり、精神分析についても自分なりの読破し、ご存知なので、自分の「強迫性」について内省する力はすでに十分すぎるほど高度なのである。

 ご自身を「鬱にはなったけど、もともとは分裂気質的じゃないか。男性とでも、親密な付き合いは苦手で、『同性愛ショック』じみたところがある気もする。それが先生との面接に影響しないか心配なんですけど」とまで、面接初期に自己分析されていました(^^)

 Aさんにとって必要だったのは、もはや強迫性についての分析や解釈ではなかったのだと思います。更に、薬物療法の支えもあった。

 Aさん自身の中ですでに暗々裏に感じられ、進行している、悪循環を引き起こす負のスパイラルのなりゆき(sequence)について、Aさんなりの形で、新鮮な実感上の気づきとして、無理なく生じていくこと、そして、そうした自分の全営みを自然と愛しめるようになることそのものだったのだと思う。

 私は、Aさんのそうしたプロセスにさりげなく付き従って、最小限のアシストを差し上げ、共にし続けたに過ぎない。

 結果的には、しなやかに進んだ認知行動療法やABA分析、解決指向アプローチにも通じる側面があるかとも思いますが、こうしたあり方が、私の、普段使いの「フォーカシング指向心理療法」的な現場面接の典型と感じていただければ幸いです。


*****


 なお、この面接は現在も進行中ですので、このエントリーに関しては、コメントを受け付けない設定にさせていただきますことをお許しください。



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2009/06/14

久留米でフォーカシングを学ぶ会、次回は7/12(日)開催、更に7/26(日)に追加開催予定。

 「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回は、通例通り第2日曜、7/12(日)に開催しますが、すでに「団体様」6名のご予約を頂き(感謝!!)、更に別の方もエントリーいただきました。

 そこで、2週間後の7/26(日)にも臨時開催させていただきます。

 フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。
 参加エントリー、お持ち申し上げております。 

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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2009/06/13

OKWaveの過去記事を使って「フォーカシングQ&A」を再活性化する?!(第2版)

 OKWaveという、日本を代表するQ&Aサイトをご存知の方も少なくないかと思います。

 ここに登録すると、利用可能になる機能の一つが、「すでに回答締め切りになったエントリーに直接リンクを張る形でブログ記事を書く」設定でして、ココログもそれに対応しています。

 これは恐らく、本来、そこでなされた回答が自分の感じていた疑問の解決に役立った・・・・という記事を積極的に書いてもらうための機能なのだと思います。

 しかし、これはもう1つの利用法が可能になるのですね。

「すでに回答が締め切りになった質問についても、自分ならどう回答するかを、自分のブログにリンクを張って書いてみることを便利にしてくれる」

 幸い、OKWaveサイトの個々の質問エントリーの側に、こちらからのトラックバックのようなものが自動的に飛んでしまうような機能などはないので、いわば「外野で勝手に」そうした試みも可能になるわけです。

 一歩間違うと、万が一質問者や回答者がブログの記事を読みに来てしまうと「すでに過去にやりとりは終了しているのだから今更蒸し返して欲しくない」という苦情が寄せられる危険があるかとは思いましたが。

 しかし、それを敢えて私の責任で、フォーカシング関連の質問に限定してやってみることにしました。

 舞台は、私の3つの@nifty系ココログサイトの中で常に日陰の道を歩んできたcoldsweats01「フォーカシングQ&A」サイトに限定します。

 OKWaveで検索してみたら、「フォーカシング」についての質問(もちろんカメラ関連を除外)がいくつか見つかったのです。

 質問と回答を読むうちに、(おせっかいかもしれませんが)質問者も、回答者も、随分と心細い状況下で、暗中模索でフォーカシングを学んでいるのではないかという思いが生じてきてしまいました。


******


 読んでいて、時として若干無責任だったり高飛車な回答ではないかと感じたものもあります。

 例えば、臨床心理系の院生だろうと思える回答者が、一般のフォーカシングを学び始めたばかりの質問者向けに、学術的な厳密性を説くことがどれだけ「上から目線」の高慢な態度に読み手に写るか、少し想像してみればわかるはずcoldsweats02。でも、恐らく回答者には悪意はなく、むしろ日本のフォーカシングの現状が抱えている経験の貧しさのひとつの現れであるとは思いました。

 もう1つのタイプで私を憂いに陥れたのは、「どんなカウンセリングがいいでしょう?」みたいな質問に対して、明らかにフォーカシングの正統的教育を受けたことはない、他の流派のカウンセラーのサイトに「フォーカシングをお勧めします」と誘導しているような回答者(そのサイトの主催者か、関係者である可能性が当然疑われるわけで・・・)の記事がいくつかあったこと。

 私の知る範囲では、NLP(神経言語プログラミング)のセラピスト訓練の中で、フォーカシングを「独自の形で」盛り込んでいる団体があるようで、少なくともその中のある団体の訓練は、正式のものからすればかなりの簡略版ですが、そこそこの水準のものでした(実際その団体の幹部の方の実力を拝見したことがありますし)。

 しかし、本家のThe Focusing Institute認定のフォーカシング・トレーナーに会えることを幅広く公開している例が日本でまだほとんどない現実の中(日本に公認トレーナーは少なくとも150名以上はいるのです!!)、そうした「兼業」サイト(?)にばかりリンクが張られているのは、やはり何かおかしなことです。

 これは、TFIトレーナー側がこうした質問サイトに乗り出し、自ら頑張るしかないことです。

 もちろん、TFIのトレーナーに学ばなければフォーカシングを学んだということにならないというわけでないことは、言うまでもありません(^^)

(そもそも、読者の期待にこたえる読み応えのあるフォーカシングのサイトが日本に幾つあるでしょうか? ・・・私は大いに挑発したい!! フォーカシングを学んだ若い人たちよ、この前の国際会議で刺激を受けた人たちも多いことだろうし。専門家も非専門家もどんどん勝手にやってみなさいよ。・・・・え? そんなこと勝手にやったら、指導教官の目が怖い? それなら最初から匿名で立ち上げればいい。mixiとかのSNSのクローズドなスペースにすでにあるのもしれないけど、いつまで「地下にもぐって」いるんだね? いつまでたっても「フォーカシング」で検索かけたら私のサイトだらけになる現状が異常なのだ。突如こっちからコメントで挨拶に訪れたりすることは控えるつもりだから、いい意味で好きにやって欲しい


*****


 恐らく若い人も少なくないであろう、そうした回答者の中に、私のようなトレーナー資格認定資格者が肩を並べては、若い人たちもやりにくいだろうとは感じます。

 また、そうした質問者や回答者が、私と直接フォーカシングセッションを持った人である可能性すら、匿名である以上わからないわけですね。極端な場合、そこで苦情を言われているのが私とのフォーカシング・セッション体験の苦情かも知れない。

 ・・・・でも、それはそれでいいと開き直ることにしました。
 
 今の私なら、どのようにそうした質問に答えるか、という点で良心的であろうとのみしてみるつもりです。

 もちろん、これをきっかけに、「フォーカシングQ&A」サイトへの新たなご質問もお待ちしていますよ(^^)


******


 今のところ、次の2編を掲載しています:
 
●フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (長文です) -OKWave


●日常での簡単な自己感情の判断方法。フォーカシング。 -OKWave


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2009/06/11

壷イメージ療法とフォーカシング(第2版)

 以前にもご紹介したかとも思うのですが、改めて、現在九州大学で奉職されている、田嶌誠一先生(研究室情報はこちら。先生のメッセージもあります)の開発した「壷イメージ療法」について取り上げてみたいと思います。

 まず、壷イメージ療法についての田嶌先生ご自身の著作(単著、およびそれに準ずる著作)は次の二つです。

壷イメージ療法―その生いたちと事例研究(成瀬悟策監修)

 専門家向けの包括的な著作としては結局この本に勝るものはないのですが、中古市場でたいへんな高値がつく状況です。もちろん、伝統ある臨床心理系の大学院のある図書館には結構所蔵されている可能性が高いでしょう。

 研究会の、シンポジウム形式での発表と討論の記録という体裁をとっているのですが、そこで討論者に指定された先生方が超豪華です。

 倉戸ヨシヤ先生・栗山一八先生・中井久夫先生・増井武士先生・(我が恩師、亡き)村瀬孝雄先生。(司会はもちろん田嶌先生の恩師、成瀬悟策先生です)

 ・・・・もう、これだけで、一読したい若手臨床家の皆さんは少なくないかと(^^)


イメージ体験の心理学 (講談社現代新書)

 この本は、壷イメージ療法についての解説書というよりも、イメージ体験全般が人の変化に持つ意味についての平易な解説書という側面が強いので、「壷イメージ療法」の臨床現場での適用についての解説本を期待された読者には少し物足りないかと思います。

 ただ、田嶌先生の「イメージの体験様式の変化」論について、そのおおよそを掌握したい人には向いているかと思います。


*****


 この中の前者の著作で書かれていますが、壷イメージ療法のルーツは、あくまでも、田嶌先生の恩師である成瀬悟策先生のイメージ療法催眠療法です。いつの間にかフォーカシングのバリエーションとして生み出された技法であるかのように受けとめる人が増えていますが、この点は安易に混同すべきではないでしょう。

 更に、壷イメージ療法を、

1.気になる事柄について、
2.それを入れるのにぴったりの壷を思い浮かべて、
3.の中にその気がかりを入れて
4.蓋をして封印して、
5.置き場所を決めて「距離をとる」

・・・・そういう技法だと思い込んでいる皆様も少なくないようです。

 すでに10年以上前になりますが、私は、田嶌先生ご自身が講師のワークショップに参加して、こうした理解がいかに一面的だったかに重々気づかせていただきました。

 それ以来、私は、フォーカシングのインサイダーであるにもかかわらず、壷イメージ療法を行なう際には、田嶌先生のエッセンスを絶対に外さない、オリジナルほぼそのままを使うようにしています。

 現場の日常のカウンセリングでも「壷イメージ療法」は全くの「普段使い」の技法のひとつですし、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」や「フォーカシング個別指導」の場でも、ご希望があれば、いつでも「オリジナル・バージョン」のままでお伝えしています(^^)

 そこで、ネット上にいくつかある、「壷イメージ療法」についての解説記事よりも更にメリハリを明確にして、できるだけシンプルに、この技法の勘所の私なりの解説を試みてみたいとお思います。


*****


1.深呼吸などをして、リラックスできる態勢を作ってもらう。


2.「あなたのこころの中のことが入っているた、壷のような『容れもの』があると想像してみるのはいかがでしょうか?・・・・・・しばらくすると、浮かんできますよ」。

【Tips 2-1】・・・・・ここで肝心なのは、標準技法においては、先に、「こころの中のこと」が具体的に何なのか想像してもらい、次に、それを入れる壷を想像してもらうのではないということです(このことは、田嶌先生に直接ご質問してはっきりと確認済みです)。

 のっけから「自分のこころの中のことが入っている壷」をいきなり想像してもらうわけですね、こころの「内容(content)」は何なのかに意識的に注意を向けるように誘導することをむしろ回避し、contentは曖昧のまま、それを包含する「容れもの(container)」の方をイメージしてもらう方向に仕向けているあたりに大きな鍵があります。

 もちろん、こうした教示の結果、クライエントさん自身が、壷のイメージを見つけ出す前にせよ、見つけ出した後にせよ、自分から、「これは、○○についての壷」などと命名することはあるかと思いますし、それは当然受容的に受け止めていくことになりますが、それが何についての壷なのか、クライエントさん自身にずっとピンとこないままでも、壷イメージ療法を進める上では何も障害にはなりません。

 田嶌先生は、「あなたのこころの中のことが入っている」って何? と怪訝な様子のクライエントさんには、そこすらすっ飛ばして、ともかく壷を思い描いてみることを勧めてみることすらあると言われていたと記憶します。

(もちろん、応用編として、具体的な、扱いづらい課題や感情について、それを入れる壷を思い浮かべるという方法はあり得るわけですが)


【Tips 2-2】・・・・・「壷」という指定イメージは、たいていの人にとって思い浮かべやすいものなのですが、「いれもの」のようなものであれば、壷ではなくて、ビンだとか、袋だとか、箱だとか、ともかく、「容器めいた形状」であればいいことを多少示唆するサポートが役に立つクライエントさんも少なくないようです。


******


3.壷が浮かんできたら、少なからぬクライエントさんは、簡単な誘いかけだけで、「どんな壷か」について、形状や、そのたたずまい(かもし出す雰囲気)、更には、眺めているとどんな気持になるか、それに似た壷を以前どこかで見たことがある・・・・・などという話を、自分から物語り始めるので、それを受容的に受け止める(ロールシャハでいう「自由反応段階」みたいなもの)。

【Tips3-1】 大きさや形、色、陶器か磁器か、表面の材質、触り心地の感触など、いくつかの具体的観点から、セラピスト側から、控えめに若干質問してみるくらいはいいだろう。

 私(阿世賀)個人は、こういう時に、「どんな『感じ』がしますが」という言い方をオープン・クエスチョンで一般的な形で軽率に使いすぎること自体を回避したい気持ちが強い。それなら、せめて、「壷を眺めていてどんな気持ちがしますか」ぐらいに設定を明確にしたい。

 なお、私は、フォーカシングの場合には、フォーカサーがイメージ的な象徴化をしても、イメージそれ自体について、「大きさは?」「色は?」などどいう、イメージの具体的な詳細化を直接求める問いかけをすることをほとんど禁忌とすらしている。 

 フォーカシングにおいてイメージは不可欠に必要な過程ではない。アン・ワイザーのいうがごとく、イメージは、身体感覚や情動や、気になる事柄についての具体的な語りなど、フェルトセンスが響きあういくつかの側面の中のひとつであるに過ぎない。

 フェルトセンスをとりあえずつなぎとめるためのハンドルとして生起したイメージは、リスナーやガイドからの具体的な詳細化の求めがあると、フォーカサーのフェルトセンスから離れて「一人歩き」し始める、むしろフォーカサーに体験過程の軌道を見失わせるからである。

 ところが、壷イメージ療法の場合には、壷のイメージをリアルに具体化させる方向に若干誘導することそのものが、促進的なブロセスとみなしていいようだ(そもそも、壷という課題を提示したのは治療者の側であるため、クライエントさんの中で固有のイメージ化のプロセスを具体的に促進する援助が必要ということにもなるのだろう)

 この点で、私は壷イメージ療法とフォーカシングとでは、そもそもイメージについての質問や応答のしかたそのものをはっきりと使い分けている。

 もっとも、クライエントさんの語りを丁寧に受け止めていけば、そのような喚起的質問は最小限でも、クライエントさんは、思いの外自発的に、細やかにこうした語りを紡いでいくものであり、性急に質問を繰り出すのは、本人のプロセスを妨害するだけであることは、両技法共に変わりがない。


******


4. 「他にも浮かんでくる壷はないか?」と問いかけ、2..-3.までの段取りを繰り返す。

 田嶌先生自身、「ひとつしか壷が思い浮かばない人の場合の方が注意を要する」と、1つ目の著作でお書きである(p.57)。「1つの壷の中に多様なものを含みすぎている状態であろうと思われる。ただし、『他にもあるけどはっきりしない』とか『たくさんあるけど一個だけはっきりしてる』という場合はこの限りではない」(pp.57-8)という示唆は興味深い。

 私の経験では、意外と少ないのは、個数が2個で終わるケースである。3個や4個というケースは、壷の形状とそこから語られる連想もバラエディに富み、セッションとしてまとまりがいい気がする。「序・破・急」あるいは「起・承・転・結」ということを連想させる不思議な順序で壷自体が浮かぶのである。

 つまり、単にこころのいろんな側面の表れというより、新たな壷について語られ出した時、新たな体験過程のステージが開かれていくばかりか、治療者がそれにうまく付き添う限り、新たな壷の登場そのものが、そのセッションで可能な範囲での無理のない「人格再統合」すら暗々裏に指向しているかのようなのである。

 (ここまでは田嶌先生は言われていない。ただ、私の場合、フォーカシングにおいても、clearing a spaceを進めていくことは、思いよらない新たな気がかりに『気づいて』いくことであり、丁寧にclearing a spaceが進むと、すべてを積み出した時には、単にすっきりしたというのを超えた大きな気づきを伴うシフト体験にすでになっていて、それ以降のフォーカシングの部分は不要とフォーカサーも感じていることが少なくない現象を早くから指摘してきた立場(阿世賀,1992)なので、私が療法家として新たな壷を思い浮かべていってもらう過程でも、類似のことが生じやすいとも想定できるかもしれない)


******


 5. とりあえずの、ちょうどいいいくらいの壷の「置き場所」について「相互調整」してもらう。

 【Tips4-1】田嶌先生のオリジナルに従えば、一つ一つの壷に「ちょっと入ってみて」配置を決めるのだが、私は、壷を眺めていての心地だけで決めてもらうことしかやったことがない。

 一般的に言えば、なじみやすい壷を手前に置くことになるだろう。「ちょっと奥に置いて眺めてみるのもいいし、右手寄りでもいいし、左手よりでもいいし・・・・」ぐらいの曖昧な示唆しか与えない。置き場所に高低の「段差」があったほうがいいので「台」や「棚」や「スロープ」を自発的に設定してしまう人もいる。

 この段階で、自発的に、「実家の土間に置いてあるイメージが浮かぶ」とか、自発的に具体的なことを語る人も出てくるし、中には「腕の中に抱えていたい」などと、思いもよらないことを言い出す人もあるが、受け入れている。


******


6.一番入りやすそうな壷を選んでもらい、壷の中にゆっくりと入ってみて、じばらく中の居心地を味わってみる→出てきてもらう→壷に蓋(ふた)をする

 田嶌先生自身、これは無理な人にやってもらう必要はないことを強調している。このステップを最初から省略する前提でもいいように思う。田嶌先生自身短いワークショップではこの部分を割愛している。

 この「入ってもらう」体験は、一般に思われているよりは、恐ろしい体験として本人に体験されることは少ないようである。

 ただし、仮に壷に「入ってもらわない」ままで済ませたとしても、個々の壷との関わりの終了の前に、「蓋(ふた)を見つけてもらう」ように促すことは大事なことである点は強調したい。

 しかも、どんな蓋がいいかを吟味してもらうプロセスが大事である。 コルクの栓という人もいれば、油紙やラップを何重にも重ねたものを壷の口に載せ、紐でぐるぐる縛りあげる人もあるかもしれない。

 このことと延長して、壷そのものの「梱包」まで進むのが自然な人も少なくない。「壷が本来入っていた木箱に納めたい」というような人も少なくない。

 私の場合には、個々の壷の栓のしかたと、その日のセッションの段階でのその壷の「置き場所探し」は、連続的な手続きとして進めてもらうことが多い。

 「置き場所探し」に関して、私は「それは現実の場所でもいいですし、空想上の場所でもいいです。この面接室の中のどこかでもいいです。(小さな壷の場合)もし、持ち歩きたいというのでしたら、それを入れるための空想上のバックやポーチをしつらえてもいいですよ」

などとアドバイスします。少し変わった例では、「その壷を置いた建物の『外観』を写真に撮ってパスカードに入れて持ち歩くつもりでいたい」というような例もあった。

 「栓のしかた」と「置き場所探し」は、私の見たところでは、実は別々のことではなくて、多くの人にとって、相互補完的なワン・セットの段取りのように思う。

 中には、「別に蓋をしなくても大丈夫です、実家の神棚のお神酒のところに置いてあるつもりになれば」などと、置き場所にだけこだわれば十分という人も珍しくはないように思う。これは、私の場合、以下に述べるとおり、壷に「入ってもらう」ことを滅多に行なわないことも深く結びついているのではないかとも思えている。


 実は、私の場合、この「入ってもらう」段階は、面接現場ではほとんどの場合省略している。それは、ここまでのプロセスですでに十分すぎるほどのことがクライエントさんとの間で進んでいる気がしてならないことが多いからである。

 少なくとも、この「入ってもらう」部分を、壷イメージ療法におけるクライマックスとして想定する必要はなく、むしろ、可能な人向けの追加オプションと見なしてもいいのではないかとすら私は判断している。

 では、壷イメージ療法の中で一番肝心なことが生じているのは?

 実は、壷を思い浮かべて、無理のない距離感で、しばらく壷の様子を味わった、その段階だと私は思っています(^^)

 この点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスをつかまえ、無理なくしばらくそのそばに『共に-居られた』経験それ自体を繰り返し可能になれることが大事で、後のことは無理して引き起こすことではないというのと似ているかと思います。


******

 
7. 次の壷に入りたければ、6.と同じようにして入ってもらう→壷の置き場所を見つけてもらう。

8.そのセッションで相手をしなかった壷についても、蓋をしたり、置き場所を見つけたりが必要なものもあるだろう。強迫的にすべての壷の封印や置き場所探しは不要で、「目を開ければ消えてしまう」ということでいいという壷もあるかもしれない。

 しかし、セッションの中で不快な、あるいは不気味な印象のみを残したり、混乱させたり、後味の悪い壷については、封印や置き場所探し、あるいは、田嶌先生自らが「補助的技法」として紹介している「金庫に入れて、鍵は治療者が預かる」という厳重なやり方、更には「次にこの面接室に来て、また開ける気になった時まで、その壷を一人で家で開けてみたりは決してしない」という約束などが重要なこととなるだろう。

 私は、この「この面接室だけで壷の蓋を開けよう」という約束を興味深く思っている。面接室の中で、クライエントさんが壷との関わりでそこそこ安全な体験をできたのも、実は、治療者がクライエントさんの内面の"container"(ビオン的な意味を込めてもらっていい)としての役割を果たし、更に、面接室とい特殊な心理=社会的かつ物理的な「容れもの」空間にも保護されていたからだと言えるかと思う。

 面接室の一歩外に出たら、あの冷たい世間の風なのだ。あるいは、家に帰ったら、家族との関わりの中で心の壁にたくさんの弾痕ができている人も多い。そういう人が、面接室と同じような調子で壷のふたを開けたら、自分自身のこころのcontainerだけでは中からあふれ出してくるものに対応できない可能性は高い。仮に時折壷を思い出しても、外側から眺めたり、撫でてみる程度までにとどまっていれば、実は安全度が高い形で、日常に裏面的なプロセスを持ち帰っていることになると思える。


******


 壷イメージ療法の最大の逆説は、心の"内容(content)"に具体的に注意を向け、言語化し、表現し、説明・分析していくという、対話的心理療法の方向性を逆手に取り、「壷」という、誰にとっても視覚イメージが喚起しやすいばかりか、ディティールが細やかで皮膚感触的な感覚性も高く、太古的・原型的で、人間の身体構造のアナロジーともなる絶妙な指定イメージのもつ、

「具体的な中身(content)を包み隠しつつも安全に保持するが、密閉はされていない『容れもの(container)』」

を思い浮かべて味わうことに、巧妙にすり替えている点だと思う。

 「すり替えて」という言葉は今の私にとってもぴったりではないが暫定的に採用したい。

 少なくともここで私が言う「すり替えて」とは、いい意味での「すり替え」なのだ。ただのガムの銀紙を金箔に「すり替える」みたいな方向での。

 目に見え、触ることもできる『容れもの』をイメージ的・身体感覚的に観照し、味わい、体験することは、ユング風に言えば、その『容れもの』の中で胚胎され、発酵していく、たましい(soul)そのものの変容過程という、目に見えないし、言葉で説明しきれないものに関わるのだと思う。

 神田橋先生ふうに言えば、実はファントムに過ぎない「言語化まみれ」の泥沼から「こころ」を救出するひとつの営みなのだと思う。

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念


 壷イメージ療法の効能について、旧来の心理学や精神医学の力を借りればさまざまな説明ができる。でも、それらによって説明し尽くそうとすることと、この優れたアプローチを、現場で臨床家がどう職人的に役立て得るかは別次元の問題であろう。

 どうも、フォーカシングの方が、壷イメージ療法よりも「難易度が高い」技法のようだとは、私すらも感じています(^^;)


****


 なお、田嶌先生が理事長をお務めになる形で、NPO法人として、開業カウンセリングルームが、福岡市の西新プラザで開設されています。

 詳しくは、

●九州大学こころとそだちの相談室

サイトをご覧下さい。
    

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2009/06/10

神田橋先生の双極性障害についての講演記録

 このサイトにあります。何と神田橋先生の許可を得た上での掲載だとか。

 読んでみたら、私が最近志向していた考え方の方向性と凄く一致度が高くて、思わず、


「これで、いいのだ!!」


とつぶやいてしまいましたhappy01

 特に、


●適度にそううつ的な人こそ、これからの時代を生き延びる適者である?


で明快に打ち出すことにした、


「躁鬱気質の人間を、下手に『まじめで几帳面な人間』に改善しようとするあまり、こじれたうつ病もどきにするんじゃねえ!!」


という私の論調に関して、大いに勇気をいただきました(^^)


 サイト管理者と現在連絡が取れない設定になったままですが、この講演内容を広めること自体に関しては全くgoサインの方であると確信して、ここでご紹介させていただくことにいたしました。

 以上、どうして神田橋先生関係の検索で当サイトにおいでの方がここまで多いのか、未だに不思議な、むしろ中井久夫先生信者の当サイトオーナーより(^^)

 それでも一冊。
 神田橋先生といえば、↓この本に尽きます!!

神田橋條治/「現場からの治療論」という物語―古稀記念


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2009/06/08

「フェルトセンスに問いかける」教示についてのヒント(第2版)

 フォーカシング技法において、ジェンドリン自身のオリジナルな技法(『フォーカシング』)において「第5の動き(movement)」として位置づけられているのが、フェルトセンスに「問いかける(asking)」の教示です。

 フォーカシング技法とは、別に、


第1の動き:空間づくり(clearing a space)
第2の動き:フェルトセンスをつかむ
第3の動き:フェルトセンスにとりあえずフィットする言葉やイメージを見つける(get a handle)
第4の動き:フェルトセンスと、見つけ出した言葉やイメージを響き合わせる(Resonating)


という段取りを順々に進めていき、その後で、この、フェルトセンスに「問いかける(asking)という部分に進んではじめてシフト(気づきと身体的ナな緩み)が生じ、その成果を、

第6の動き:受け止める(receiving)

で受け止めて完成! といったものではないことは、これまでこのブログでも繰り返し申し上げてきました。

 自分の中にその時の自分のフェルトセンスに直接注意を向けられることに気がついたら、わざわざクリアリング・ア・スペースをやらないままに、早速フォーカシングを進めてもいいのです。

 そういう形でフェルトセンスに関わろうとしても、何かうまくいかないで、心を乱すいろいろな何かがありそうだと気がついた時点で、クリアリング・ア・スペース・・・・今の自分を不調にしている気がかりについて、ひとつひとつ確認して脇に積み上げていく、「たな卸し」作業に立ち戻ってもいいのです。

 クリアリング・ア・スペースを進める中で、「そうか、自分にとっての今の本当の気がかりはこのことだったんだ!」と、思いもよらない新鮮な形で「気がつける」だけで心が大きく解放されるということも珍しくないわけで、その場合には、いかなり、ジェンドリン法で言う、6.「受け止める」に進んでも何も差し支えもない。

 フェルトセンスにぴったりの言葉やイメージが見つからなくても、「この」感じ、などという直接指示語で、本人にとってその感じをつなぎとめ続けるのに何も苦労しないのなら、それ以上、ぴったりの言葉やイメージ探しに過剰に強迫的にこだわることは、百害あって一利なしです。

 そして、アン・ワイザーさんが、自分の技法を形成する際に、「フェルトセンスと共にいる」ことを重視し、独立した教示とし、フェルトセンスに何かを引き起こそうとする、ありがちな性急な誘惑に乗らないままでいたほうが、変化が自然と生じるべき時に生じる(そのセッションの中ではっきりとした気づきが生じることはなくてもいい)事を重視したことは、画期的な業績でした。

(もっとも、ジェンドリン自身フェルトセンスのそばにしばらくの間じっくりと留まってみることの重要性は、繰り返し、繰り返し強調しているのです。簡便化されたショート・マニュアルなどでは抜け落ちてしまいがちなだけのことなのです)

****


 アンさんは、フェルトセンスとの「内的な関係作り(inner relationship)」を重視しましたので、ジェンドリンのオリジナル技法で言う、「フェルトセンスに問いかける」を、オプショナルなものとみなし、あまり重視しません。

 日本では、アンさんのトレーニングの影響が濃いために、そもそもジェンドリンの「フェルトセンスに問いかける」という教示を実際にセッションで普段使いしているフォーカシング・トレーナーや学習者がかなり少ないという印象があります。

(公開ライブ・セッションを拝見した限り、唯一の例外が、ジェンドリンの直弟子である池見陽先生で、私が拝見した時には、当意即妙のセンスで柔軟にaskingを使って、フォーカサーのプロセスに無理のない小さな刺激材を供給しておられました)


****


 今も述べましたが、このaskingの教示そのものが、実は、フォーカシングのプロセスが、第4の動き(ここまでが繰り返しなされるうちに展開が生じることも多いです)まででは、何かあと一歩プロセスが進まないときの、小さな刺激剤的な提案としてなされるものに他なりません。

 フォーカシングの技法の発展史に詳しい若手研究者にきいたところ、このaskingの技法そのものが、ジェンドリンの教示体系の中では、一番最後の段階で付加されたものであるようです。

 つまり、そもそも、必要不可欠ではない。敢えて言えば、料理の最後にお好みでふりかけてみる香辛料程度のもの、つまり、食卓テーブルの上の「スパイス」です。

 しかし、「スパイスこそが料理の成否を決める」という人もいるでしょう(^^)

 そして、こうしたスパイスには何通りもお好みの品が取り揃えられているわけです。他の人がスパイスとしてあまり使わないものすら、フォーカシングの学習者やトレーナーごとに、色々工夫して、調合して、臨機応変に使い分けるストックがあっていいわけですね。

CM : 楽天市場「スパイス」関連商品


*****


 ジェンドリン自身が『フォーカシング』の中で、この「問いかける」の教示について詳しく説明しているのは、第9章「何もシフトしない時は」です(邦訳pp138-146)。この部分で例としてあげているものは、意外とそっけないまでのリストだったりします(^^;)

「これは何だろう、いったい全体?」(阿世賀訳:「ほんとのところ、それって何?」

「この核心は何か?」

「それが最悪だとどうなる?」(誤訳。「その(感じの)中の何が最悪なの?」)

「一番悩まされているのは、それらのうちのどの2,3点なのか?」

(↑【注】何ともこなれない訳である。
"What are the two or three things about it that trouble me the most?"
・・・・・私なりの意訳案:
「あなたにとって一番厄介だと感じている事柄をそこまで行き詰まらせているのは、実は、そのことと関係した、いくつかの一見些細な事柄かもしれません。そういうものがあるとすれば何でしょうか?」)

「それの下に何があるか? それは何をしているのか?(阿世賀訳:そこでは何が進行しているのか?)」

「 それについて何が起こったら私にとっていいのか?」

「いい気持ちになるにはどうなったらいいいのだろう?」


*****


 この教示を使う際に重要なのは、この問いを、リスナー/ガイドは、フォーカサーに、この質問に頭で考えて答えを返してもらうために発しているのではないということです。

 むしろ、フォーカサーが、自分のフェルトセンスに対して、こうした問いを投げかけてみて、しばらくそのまま佇(たたず)んでみることを提案しているに過ぎません。

 すると、最初は非常にかそけき形で、そしてしばらくするうちに思いもよらない方向へと、自分のフェルトセンスが変化しする場合もなります。

 それが2,3分以内に生じない場合には、あっさりとその問いかけは諦めてしまい、他の教示を試してみるか、あるいは、フェルトセンスと再び共にいる態勢に戻るくらいの、「ちょっとした試み」というセンスが肝心でしょう。

 フォーカサーの側から、

「何か、この後の私のプロセスを進めるために役に立ちそうな教示を、2,3提案していただけませんか」

などとヘルプを出されたタイミングで、いくつかメニューとして、控えめに提示する・・・みたいな関係性がすでに形成されている中で活用されるのが、一番成功率が高いようです。

 つまり、フォーカシングをどうすすめるかに関して、ガイド側にまだ依存している度合いが高いフォーカサーに安易にaskingの教示を提案すると、成功率が低く、仮に見かけ上そこでプロセスが動いたとしても、本当の意味でフォーカサーのプロセスに寄り添わないままとなり「セッションの場の中でだけのシフト体験」となり、フォーカサーの日常の体験過程のプロセスとしっくり溶け合わないというリバウンドを背負った、「早すぎた、突出しすぎのシフト体験」になることが多いというのが、トレーナーとしての私の反省でもあります。

 ですから、実は、askingの教示が重宝するのは、意外にも、セルフ・フォーカシングの場面であるということも、私の経験からいえます。


*****


 そして、この教示は、フォーカサー自身が、まだ自分でフェルトセンスとの相互作用(対話)を先に進めていこうとしている最中に、リスナー/ガイド側からの性急な介入としてなされるべきものではありません

 セッションの経過に、焦っている、せっかちになっている、不安になっているのは、フォーカサーなのか、むしろリスナー自身のほうなのか、ということをきちんと「感じ分けて」ください。

 リスナーの側が自分の中に「焦っている自分」を見出せれば、それを自分の中で「認めてあげて(acknowledging)」みるだけでも少し余裕が取り戻せるばかりか、驚くべきことに、リスナーの側がそうした内的作業を終えた直後に、まるでそうしたリスナー側の余裕感の回復が「空気伝染」するかのようにして、フォーカサーのプロセスが自然に無理なく動き出すこともごくありふれたことです。

 それでもなお、フォーカサーが自分と格闘して堂々巡りになっていと感じられ、ただそれをリスニングし続けるのは「何かが違う!!」というメッセージがリスナーの内側から響いて柄来るようなら、もはや教示の提案をあれこれ工夫するとかリスニングするといった態勢にのみこだわるのがもはやふさわしくはないのかもしれない。

「・・・・・ちょっとといいですか?(などと断りを入れた上で)・・・・さっきから、自分の内側の感じと必死に格闘しておられるあなたの様子が伝わってきます。ただ、そのご様子を拝見していていて、そのことがおつらくなって来ているのではないかとも感じられてきました。もっとも、今のままであとしばらく自分なりに思う存分内側と関わっていろいろ試してみたいと言うお気持ちがあるのでしたら、喜んでおつきあいします」

などと、リスナー側が自分の気持ちを、アサーティブに率直に伝える方がいい場合もあるかと思います。


*****


 さて、さきほど例を並べましたが、askingの教示というのは、実はフォーカシング技法の中では、本には書かれていない無数のバリエーションがあり、フォーカシングを学ぶ一人ひとりが、自分にとってのお気に入りのasking教示のレパートリーを「道具箱」に蓄えておいていいものです。

 「ジェンドリンのこのasking教示の具体例を私は意味がそもそもわかんないし、うまく使えたことがない」

 としても、そのことは別に気にしなくてもいいことです。

 もとより私のように25年もやっていれば、普段は全く使わないaskingの教示が結構効いた!! という経験が出てきていて、そもそも本に書いてあるフォーカシングの教示で使ったことがないものはほとんどまるでないという事態に結果的になっています。

 しかし、私はそもそも、フォーカシングを学ぶ最初から、自分にとってその存在意味がピンと来ないフォーカシングの教示は全然使わず、使える教示だけ日常の中で使い込み、それだけではうまくいかなくなった時に、はじめて「頭では覚えていた」フォーカシングの教示を、苦し紛れに使ってみて、予想外に活路が開けるという経験の繰り返しのなかで、フォーカシングの技法の幅を広げてきた人間です。

 そして、そうした際に、教示や技法というものが、その場でふさわしい形に、柔軟にカスタマイズされていく必要性があることを身に染みています。

 そもそも、ガイドをはじめる際に、「いつも使っている、なじんでいるはずのやり方」ではじめようとして、身体が違和感を訴える場合には、もう、それだけで、恐らく、そのままでは、フォーカサーの援助になるガイディングをできる態勢にないと判断しています。

(そうした時にどうやって私が解決するのか・・・・というのは、企業秘密です^^; 最近やっと発見した「コロンブスの卵」ですが、これは私のもとにフォーカシングを学びにおいでの方だけにお明かししています)


*****


 私個人としてお勧めのaskingの教示は、


「その感じの下の方(beneath)に、もうひとつ別の感じの層が隠れていると仮定してみてください。そこらへんは、どんな感じでしょう?」


というものです。

 英語に詳しいフォーカシング学習者にこのことを伝えると、


「単に、『下にあるのは何?』といわれても、何ことなのかピンと来なかったと思う。でも"beneath"ならピンとくる!! "beneath"って前置詞そのものに、「・・・・に隠れて」「・・・・の裏に」みたいな含蓄があって、表面の皮みたいなものの下にあるものっていうニュアンスだから」


と言ってもらえました。

 その人にとって、それまで必死に関わろうとしていたフェルトセンスは、容易に名前もつかないし、その感じのそばに佇んでいることもなかなか難しい、でも、その人の人生の長い期間にわたってずっと暗々裏に感じ続けてい「いた」けれども、自分の存在のありようを根本的に不自由にしていた、文字通りの"background feeling"でした。

 そのフェルトセンスの"beneath"にその人が見出し、感じられた感じというのは、それまで直接その感じに触れて味わったことがない、たいへん新鮮なフェルトセンス体験で、実にあっさりと、大きな気づきの引き金になったようです。

アルク


*****


 ジェンドリンのaskingの教示集にある

「このことの核心(crux)は何?」

というのも、ピンと来にくく、フェルトセスからではなくて、頭で考えたことを答えそうなものなのですが、これについては、私は、フォーカシングのガイドを学ぶ人に、時には、次のように説明してみています。


「私は、これを、曖昧で漠然とした広がりを持つフェルトセンスが、いわばゆで卵の白身黄身のような二層構造を持つと仮定してもらい、その中の黄身の部分の感じを感じ分けてもらう・・・・ぐらいのつもりのものだと理解しています。フェルトセンスを更に細やかに感じてみてもらうための刺激剤のバリエーションなんですね。だから、私は、

『その感じの奥の方に、その感じの源泉(あるいは泉の吹き出し口)のようなものがあると想像してみてはいかがでしょう? その源泉のあたりの感じはどんなものでしょうか?』

などという言い方で使ってみることがあります」


 ・・・・・この話を聴いていた学習者は、この話を聴いているさなかに、すでに、その時の自分の中のフェルトセンスの「源泉」をいきいきと新鮮に見出し、身体で感じていました(^^)


*****


 もうひとつ、これはジェンドリンの『フォーカシング』には書いてないけれども、実は私なりに、同じジェンドリンの『夢とフォーカシング』の「質問」項目からアレンジしたaskingの例。

「その感じそのものになってみるということもできるかもしれません。誤解なきように言いますけど、これはその感じに浸りきるということとは違います。あなたは、子供のための舞台演劇で、その感じのを、子供のために、大げさに誇張しながら、喜劇的に演じるつもりになるのです。これなら、どんな怪物でも、不快なものでも、その役になりきって感じてみるのは、あまり抵抗ないかもしれません」

 あるフォーカシング学習者が、

「もうすでに何日も『この』感じの相手をしてみたんですけど。その感じは絶対に私に口を聞いてくれないんです!! 一緒にいるだけで、私ももういやなんです!!」

と訴えた際、その人に上記の「感じになってみる」提案したら、その場でその人はやってみて、すんなりと次の展開が生じました(^^)


*****


 ・・・・・このように、カスタマイズが大事です!!


 あと、一般論として申し添えれば、フォーカサーとしての自分に試してみて、効き目がまだ実感できない教示を、ガイディングの際に使うと、そのわずかな「おぼつかなさ」はフォーカサーに伝染し、プロセスを停滞させると思ってください。

 「おぼつかない教示」でも、フォーカサーがそこから成果を上げられるとすれば、それはフォーカサー自身の力に助けてもらっているというだけのことです。

 もとより、いつも書きますように、およそこの世の中のカウンセラーに、クライエントさんからの感情移入と思いやりと忍耐によってはじめてカウンセリング関係が可能になっているわけではないほどにすばらしいカウンセラーは、実は存在しませんが(^^;)


*****


 なお、フォーカシング技法についてのウェブ上の入門としては、すでに定評をいただいている、私の


●フォーカシング入門


をご参照ください。

 これまで、まさにasking以降の部分が欠けていたのですが、この記事をもって、取りあえず補完したものとさせていただきます(^^)


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2009/06/07

我が内なる藤原紀香との対話

 この記事では、敢えて、「楽屋ウラ」をさらす内容にします。その理由は後で書きますが・・・・

 こういちろうは今も模索している。我が故郷、久留米という地域に根ざしたカウンセラーになることを!!

 (繰り返すが、そうした地域活動の全貌をここでお書きすることが必ずしもプラスの意味にはならないばかりか、まるですべてを「営利的宣伝活動」のように誤解される火種になりかねないので、詳しいことについては触れないままにしておきますね)

 そうした中で、ある、意外性のある、面白そうな地域活動が新たに見つかったその日の、私の中に生じた困った反応。


 「うん、それ、似合ってるよ。かっこいいよ。やってみたら?」


と知人にも言ってもらえたのだが、何か私の腰が重い


 私の中の「内なる批評家」ならぬ「内なるプロデューサー・顧問軍団(^^;)」もまた、


「どうしたのさあ? こういう頃合いのが見つかるのを待っていたんじゃないの?」

「君は『出戻り』の久留米市民(^^;)なんだからさあ、地域とのダイレクトなパイプに乏しいわけだし、自分からそれを探さないと」

「ネット全国区の活動として、鬱の患者さんの医療との関わりについて、ネット上でどれだけ力説してもさあ、そのカウンセラーが福岡県の久留米なんていう日本の辺境(おいおいcoldsweats02)にしかいないと気がついた時点で、10人の読者のうち9人がため息をついてしまうよ。だから活動には地域とのとバランスがやはり大事なわけ」

 
・・・・・などと、次から次へと「好意的なアドバイス」を雨あられと降り注がせるのである!!


*****


 後になってみると、どうしてもっと早くあのことに取り掛からなかったのか? と反省したくなる事柄が山のようにあるのが普通の人間であろう。

 フォーカシングでは、その人固有の体験過程のステップというものを大事にする。もしあることを進めていくことについてフェルトセンスが肯定的な身体感覚を返してくれない場合には、何か体験過程のステップの途中を「飛ばして(skipして)」、無理に前に進もうとしている時であり、少しだけでもそのフェルトセンスからの違和の声に耳を澄ますと、そこまでで自覚的に気がついてもおらす、十分な対応をしていなかった、本当はその段階でまずは必要な、先に解決すべき課題が見えてくることも少なくない。それは、そこまで気づいてしまえば、むしろ客観的な問題解決の戦略としてみても、「装備の充実」の上で効果的な戦略の発見につながることも少なくないのである。


*****


 さて、この時の私が、ちょっと時間を取って、内側の違和感にしばらく耳を澄まして返ってきた返答は、何とも身もふたもない一言だった。 


「だって、・・・・・やだもん!!


 ・・・・・な、何という不謹慎なことをいうのだ!!

 しかし、そもそも私は、現実の対人関係の中で、何かの誘いに逡巡する際に、ここまでストレートで端的かつ理屈抜きに、嫌な気持ちを相手に伝えたことはないことに気がついた。

(このブログの記事の私の書きぶりからもご想像いただけるように、私はとかく理屈をつけずにいられない人間なのでcoldsweats01

 何か新鮮ですらあったのだ。私の中に、こういう、理屈抜きに何かを嫌がり、表明したい部分が確かにあるということに。

 そこで、その新鮮さをまずは身体に響かせてゆったりと味わうことにした。


*****


 すると、その「やだもん!」の声の主が、私のイメージの中であっさりと実体化した!!


 ・・・・・藤原紀香である。


 しかもそれは、現在放映中のドラマ、「ツレがうつになりまして。」の中に登場する、不器用でグータラで、何かというとホゲーっとテレビを見ていることが多かった、化粧の薄い、あの藤原紀香なのであるcoldsweats02


 (どうして嫌なの?)

・・・・・と、その「ツレうつ版」紀香に問いかけてみる。

すると、「彼女」は、しばらく、「gawkうーーーーーんtyphoon」と考え込んだ挙句、突然大きく目を開けて答えたのだ!!


flairご褒美が欲しいのheart!!」


・・・・・は?


「ご褒美。そうなの、ご褒美。・・・・・別に収入になることじゃないとやりたくないとか、そんな意味じゃないの。ご褒美なのよheart04 。私だってこれだけ(漫画描いて)好きなことで頑張って来たの!! だ・か・ら、そのことを受け入れて、ほめてくれて、認めて、形にして欲しいってことなのよんheart04

(以上、藤原紀香口調で読むように)


*****


(・・・・・よ、要するに、現金でなくていいんだな?)


「そうね。好きなことでなければ、現金もらえてもイマイチつらいかもね」


(わかった。「ご褒美がある」形での活動というのを、現実的にどう実現していくかは次の課題でいいか?)


「いいよぉokheart04・・・・・でも、何かとりあえずのご褒美、ちょうだいheart01


(わかったsweat01・・・・取りあえず「応急処置」はするdash


 ・・・・・こうして。

 こういちろうは、その日のスーパーの買い物で迷った挙句、冷凍食品の、たこ焼き48個入りお徳用パックで手を打ったのであった(^^;)


 大丈夫である。紀香、もとい、こういちろうは、何かというと自転車で数キロ移動することを苦にしないことが板についた結果、相変わらす久留米ラーメンを週2回は食べているにも関わらす、2週間前よりもさらに体重2キロダイエットに成功。20年来未曾有の領域に突き進みつつある。


******


 私がここで、自らのずぼらさをさらすのを承知で、フォーカシングを学ぶ皆様にお伝えしたかったのは、「フェルトセンスからはっきりと返事をもらえる」とはどういうことかについて、予想外に実体験の上では曖昧な学習者が少なくな現実を感じているからである。

 そういう人に欠けているのは何か?

1.フェルトセンスからの返答が、もう、自分で聴いていてもあきれるくらいの「じょーもないcoldsweats01」次元でのもの(として少なくともはじまるもの)であることが少なくないことに気がついていないのでは? もっと、まじめくさった、いかにもセラピー的に見て「カッコいい」、「癒しにあふれた」そういう返事が自分の中から生じてくることだけを待ち望んでいませんか? 普段使いのフォーカシングとは、もっとぐーっと庶民感覚あふれる、ホンネ次元むき出しなものなのです。人に体験談として話しても全然カッコよくないような中身の(^^;)

2.そもそも、ここで私が体験した、「やだもん!!」「ご褒美が欲しい」というフェルトセンスからの返答に感じた「驚き」「新鮮さ」を共有できるようなセンスをお持ちの方がリスナーやガイドをしていないと、フォーカサーの中にこうしたフェルトセンスとの縦横無尽な内的関係性も喚起されない気がします。リスナーやガイドの訓練を受けている、あるいは自分で技を磨いている皆さん。皆さんは、フォーカシングに、変な意味でまじめすぎるのではないかと、ちょっと振り返ってご覧になるのはいかがでしょうか?


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2009/06/06

ドライアイスと10円硬貨

 子供の頃、(いや、大人になっても?)多くの人が、何回かはやったことがあるだろう、暇つぶしのような遊び。

 アイスクリームを買ってきた時についてくるドライアイスに、恐らく最初は、アイスクリームを食べる金属製のスプーンかフォークか何かを押し付けてみる。すると、スプーンを通して伝わる体温のせいで、押し付けた部分が、ドライアイスが二酸化炭素に気化する際の、独特のプスプスという手応えが帰ってくる形で、みるみる、押し付けた形のままにへこんでいく。

 このことが面白くなって、ふと、財布から10円硬貨などを取り出して、ドライアイスに硬貨の面ごと押し付けてみた人もあるだろう(わずか1,2ミリの厚さを通して指の体温が、しかも銅という熱伝導に優れた材質を通して伝えられるので、これはすこぶる効率がいい)。

 すると、たいした力を入れなくても、ピリピリという音を立てて、ドライアイスに硬貨は沈み込んでいき、硬貨の刻印の形の鏡像が、見事にドライアイスに「刻印」されることになる。

 (長時間このことをやりすぎると、指が凍傷になる危険もあります・・・・・と注意書き)


******


 私がフォーカシングを学びはじめた25年前の頃、フェルトセンスに触れることについて、時折、「ドライアイスに硬貨を指で押し付けていく時のような体験だ」と周囲にもらしたことがあることを、ふと思い出したのである。

 そこに私が込めたかった含蓄というのは、恐らく、次のようなものだ。

 フェルトセンスにしばらく触れているだけで、フェルトセンスの質そのものが何らかの緩みや肯定感を持つものに変化していく。

 最初は「凍えるような」、何か危険な感覚に思えたものが、むしろ「気持ちのいい冷たさ」を味わう、好奇心に満ちた「スリル」体験となる。そして心の中の何かが少しずつ「解けていく」。

 必要なのは、まさに硬貨をドライアイスに押し付けるのに必要なのと同じくらいのかすかな力の入れようで、意識的、能動的、主体的に、一度つかんだフェルトセンスに、ただ注意を向け続け、「触れ続ける」こと。

 あとは、そのことのために日常の限られた数分間に意識的に取り組むだけで、一見はっきりした気づきや洞察が生じなくても、気がついてみると「指で硬貨を押さえたドライアイスの部分には、以外に深いトンネルが、まるで地下鉄のトンネルのシールド工法のようにして、掘り進まれていく。

 掘り進まれていく際のかすかなプスプス・ピリピリという「進捗感」の手応えを受け止めているだけで、何かが「掘り進まれていく」のである。

 大事なのは「しばらく触れてみる」、ただそれだけ。


*****


 昨日の記事で、

「すべてのことには、時がある」

と書いた。


 だとすれば、マジシャンのそうなフォーカシング・トレーナーではない、ひとりのフォーカサーとして、日々実践できる「個々の人間の自由意志の及ぶ範囲の努力」とは何なのか?

 フェルトセンスに触れ、共にいる、ただそれだけの主体性・能動性・自律性を発揮し続けること、それだけで、最低限いいのかもしれない。

 「今日は昨日までよりフェルトセンスに触れてみるのが難しい」という体験ですら、実は、逆説的な意味で、フェルトセンスに「触れた」体験なのである。

 「何か、昨日よりも心の余裕を見失っているのかな?」と用心できるだけでも、すでに意味がある。


 そう。ドライアイスに10円玉を押し付けてみる以上の労力は、フォーカシングには必要ないはずなのだ。


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2009/06/05

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話

○鬱になると、以前だとさらさらと何気にできたことがひどく不器用になり、失敗しやすくなる。

○「事務的な」書類を書くことというのは特に億劫になりやすいので、そうした書類をなかなか書けないことを「簡単な筈でしょ?」などと突き放した形で急かす形にならないように家族は要注意。

○特に休職した直後の時期など、何かひとつの行動をやろうとしたら、本人も気がつかないうちに、ほとんど「ストップモーション」にはまり、気がつくと同じ(座った)姿勢のままで数時間経過していた・・・・などという経験は結構見られるかと思う。

○うつとは「心の病気」という言い方をしない方がいいと私も思う。ただ、ドラマでのように、「脳の病気」という言い方でも抵抗感がある人もあろうかと思う。私個人は「脳の心身症」という言い方を好んでいる。「脳の慢性のストレス性の消耗による障害」ぐらいの意味である。

○「自分はイグアナにも劣る」というセリフは決してコメディではない。確か中井久夫先生の本に「自分はイモムシにも劣る」と罪責感に浸る患者さんの例があった。

○ドラマで描かれているように、鬱状態が強い時には、アナウンサーのような単調な声の番組の方が心が休まるというのはある意味で真実であろう。エモーショナルな揺れが大きい音楽というのも結構負担になるものであり、意外とクラシック(特にオーケストラ曲)があわないというのは、本来クラシック好きの私の経験。随分長く、好きなはずの音楽そのものを遠ざけた時期もあったと思う。

○患者さん以上に、患者さんと密接なかかわりがあるパートナー(配偶者、恋人、親等)の方が、実は否定的思考の持ち主であることは、実は結構多い。パートナーのそういうマイナス指向の部分すらケアし、包み込むようにしてやさしく支えて「いた」のが、実は「うつになる前の」その人だった・・・・という構造は、確かに頻繁に観察される気がする。

○欝の回復には波があり、本人も周囲も思いもよらない形で「ぶりかえす」ことを繰り返す中で徐々に軽快して行くことが多い。そのことに、本人や家族は振り回されやすい。一喜一憂し過ぎないで、一緒に、潮の満ち引きを揺れることができるかどうか。

○うつの人を直接支える側の人の方が、いつの間にか無理をしがちになりやすいので、そういう支え手が安心できる相談相手が公私共にいることは大事である。


・・・・以上、思いつくままに。


※第1話についてはこちら

※第3話(最終回)についてはこちら


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2009/06/02

「こころ相談.com」で、うつ病の時のこころの状態についてのインタビュー記事、掲載していただきました。

 少し以前から予告させていたいておりましたとおり、本日、開業カウンセリングルーム検索サイト、「こころ相談.com」の「こころインタビュー」コーナーに、「うつ病の時のこころの状態」と題しまして、インタビューを掲載していただきました。

 PDFファイルの形式で、この記事を独立して読んでいただき、保存することも可能です。

A_btn056_2067_001.pdf

 今の時代らしく、skypeを通してのインタビューでした。

 校正段階での私のいろいろな注文に丁寧に答えてくださる形で、かなり長時間のインタビュー内容を、読みやすい、美しいレイアウトで編集してくださった、担当者のHさんに感謝申し上げます。

 このブログでずっと展開してきた、精神医療と鬱の患者さんとのかかわりに対して、一介のカウンセラーが何ができるかというテーマの、現段階での集大成にできたかと思います。

 ご意見、ご感想も、お待ち申し上げております。

*****


 「こころ相談.com」は、日本を代表する、全国の開業カウンセラー検索サイトであるのみならず、さまざまな企画を立てて、登録カウンセラーにエッセイ等の執筆の機会を与えてくれ、一般の皆様が、心理カウンセラーひとりひとりの持ち味に触れる機会を提供し続けている、ネット界で得がたいサイトであると思っています。

 まだサイトをご覧になったことがない皆様、一度アクセスしてみてはいかがでしょうか。




こころ-e-フェア


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2009/06/01

NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について(第3版)

 本日(6/1)19:30に放送された内容に基づいて、速報します。

 SSRIの副作用として稀に見られる、衝動性・暴力性誘発という問題について踏み込むと言うことは事前に知っていましたが、それでも全体としては、当ブログでも大々的に連載を組み、ご愛読いただき続けている、3/7放送のNHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」の補足的・復習的続編という色彩が強いだろうとは思っていました。

 その意味では、番組の構成的にも全く予想通りに進行してしまって、押さえて欲しかったポイントはほぼすべて押さえてくれ、前回の番組で誤解を招きかなかった側面(認知行動療法だけを積極的に描きすぎていた面)はうまく調整されていたと思います。

 医者や臨床心理士や看護士にとどまらず、栄養士すら含むさまざまな役割のスタッフが、皆、患者さんをケアし、見守る援助資源であり、誤診や状態の変化に対応できるチーム医療の上でいかに重要かを改めて強調していた点についても好意が持てました(薬を必要以上に出さないことは大事ですが、この番組後半で紹介されていた事例が、画面を見る限り、入院治療である点に注意すべきかと思いますし、薬物療法をやはり大事にしている点も見逃すべきではありません)。

 また、番組内でも繰り返しテロップすら出して強調されたのは、この番組を観て不安にかられるあまり、自分だけの判断で薬にやめてしまうと非常に危険なので、疑問があればお医者さんに相談してください、ということでした。これも適切な配慮でしょう。


*****


 さて、今回の番組の前半で中心として取り上げられたのは、先述の、抗うつ、SSRI)が、人によっては、攻撃性や衝動性を誘発する副作用が出る可能性があることを、この4月に、厚生労働省が、製薬会社に注意書きとして掲載することを義務付ける通達を出したという点でした。

 日本では、SSRIの投与が現実の衝動的な暴力事件と因果関係を厚生省が正式に認定されたケース事件はまだ4件しかありません。

 この番組でも紹介された、1999年の、機長を殺害し、精神鑑定の結果無期懲役に減刑された、全日空61便ハイジャック事件で、抗うつ剤大量服用による心神耗弱が無期懲役への減刑理由となったことはかなり知られているかと思います。

 全日空事件に関しては、そもそも、通院していた医者の当初の診断も理解しかねる(統合失調症ではなくて、この段階では詐病していた疑いがあることは当時も報道されたかと)し、結果として出されていた薬のリストを見ると、医者ではない、限られた知識の私の目から見ても、もう、どういう判断でこうした薬がここまで大量に出ていたのか、目を疑う内容が列挙されていますので、判決のように「『抗うつ剤』の大量服用の副作用」だけ認定したというのは何か腑に落ちないといいますか、医者の診断と投薬のあり方そのものが大きく問われる事例と思えてならないあたりが、今回の番組では不十分な描き方と思えますが、その部分を詳しく描きすぎても番組のバランスを崩したでしょうから、敢えてクレームをつけるに及ばないかと思います。

 そして、アメリカの、あの「コロンバイン高校銃乱射事件」(1999年)の犯人のひとりもまた、犯行直前に、大量のルボックスを服用していたことが、この番組で紹介されます(wikipediaによれば、犯人の遺族からの製薬会社の告訴による訴訟においては、薬との因果関係は立証されなかったものの、2002年にこの薬はアメリカ国内では販売中止になっているそうです)

 アメリカでは、すでに2004年の段階で、SSRIがその副作用として攻撃性を誘発するか可能性があることを注意書きに明記する命令が製薬会社に出されていました。


*****


 もとより、こうしたSSRIが攻撃性を誘発する副作用を人によっては発揮する可能性については、こうした大犯罪事件のみならず、数多くの、もっと地味な犯罪・警察沙汰の事件、そして現場医療の中で気がつかれた患者さんの衝動性の高まりなどの行動変化についての、少なからぬ症例に基づいて浮かび上がってきた事柄です。

 番組では、日本での2つのケース、すなわちパキシル投与後、言動が攻撃的になり、ついにはコンビニに包丁を持って強盗に押し入り、現金20万円を奪取した事件、そして、配偶者を殴って10針の傷を負わせた事件という、2つの事件における、診断と投薬の過程の問題点が、ご本人と家族への取材映像を含めて紹介されていました。

 前者のケースは、投薬開始後早い段階から、家族に対して衝動性・攻撃性が増していたにもかかわらず、医者は、まずはパキシルを3倍にまで2段階かけて増量し、その段階で「効かないから」という訴えを受けて、一転して投与全体を中止。それから数週間後には再び、かなりの量の投与を再開、更に増量(当初の4倍)という、実に頻繁な投与量の増減がなされていた点が、番組で、重要な問題点として指摘されました。

 SSRIを飲むことを「急にやめてしまう」ことは、実は非常に危険であり、身体面でのリバウンドの危険も大きいばかりか本人を更に不安定にする引き金ともなるのです。ですから、患者さんが勝手な判断で飲むのをやめてしまうことは是非避けるべきです。お医者さんの指導の下で徐々に減薬していった上で、別の薬等の治療に置き換えて行くのが適切です。

(私自身、お医者さんが何を思ったかパキシルを突如全部やめてしまってデパスのみに置きかえるという、常識はずれの処方をしてきて、その際に身体がどのくらいリバウンド食らうかの恐ろしさを体験しています)
 
 もうひとつの後者のケースは、すでに以前もご紹介したように、実は双極性障害の「うつ状態」のはずなのに、単極性障害とのみ誤診され、気分調整剤ではなくてSSRIのみが中心的に処方されたケースでした。この患者さんは、おかげで躁鬱の波が余計に悪化するというパターンにはまって、奥さんに暴力を振るってしまったのですね。

↓「NHKスペシャル」で用いられた図の再掲です。今回の番組で掲載されたのは「双極型障害Ⅰ型」についてのもので、躁状態方向への波の振幅も高まっていたので、少し違う図になるのですが、参考までに転載します。
Bp2b_2
Bp2c_2

 この番組の中で、単にSSRIそのものに不安や緊張の低下と同時に、衝動性抑制の神経伝達物質代謝まで緩んでしまう作用を起こす可能性の示唆にとどまらず、お医者さんの側に、適切な診断の下で、薬を的確に使いこなせていない未熟さがまだ見られることが大きな原因であることを強調していた点は、重視すべきでしょう。


 この取材に応じ下さった患者さんお二人が異口同音に語った事柄が印象的です。


「そういう時には、まるで自分が自分ではないみたいな、独特の感じなんです」

「何かにムカついてきて、イライラが高まる時のイライラとは全然違うものなんですよ」


****


 今回の番組の中で、ゲストの医療ジャーナリストの小出五郎氏は、日本の薬事法における、薬の副作用についての国への報告システムの問題点を指摘していました。製薬会社や大病院からそうした副作用報告を吸い上げるパイプは制度として整備されているのですが、個々の医師(開業医を含む)や患者・家族から、そうした、薬の副作用についての情報を、たとえ曖昧で確証がなくてもいいから吸い上げるまでの公式のシステムが制度的に存在しないそうです。 

「副作用情報はいったい誰のためのものかということです。何よりまずは患者さん、そしてご家族にとってなくてはならないはずのはず。そうした情報を専門家と共有するためのネットワークの整備が制度的にも急務」

というのが、小出さんが最後に強調した点でした。


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2009/05/31

適度にそううつ的な人こそ、これからの時代を生き延びる適者である?

 うつ(しかも躁鬱系)の人が本来備えていたはずの健全な適応能力とは?

 ひとつのことが長続きせず、飽きてしまったら、その時無理なく好奇心を向けることができる別の対象へと、関心がどんどん移ろっていく、そういう性質だと思います。

 これは、その人がサバイバルする上での、ひとつのとりえであり、能力なんですよ。

 このタイプの人は、まず、何かに一度興味を持つと、好奇心のままに一気にその対象に没頭します。つまり、ぐぐぐーーーっと、その対象に一気に肉薄するところまで、無理のない範囲で動けてしまうわけですね。

 この、思い立ったら最後、とりあえず対象にアプローチを一気にかけてしまうアクセス能力は、現実場面の中でも、もし、その時のその人の「勢い」がなければ超えられなかったハードルを一気に越えさせてしまい、その人の世界を一気に広げさせてくれるという効能があります。

 更に言えば、このタイプの人は、興味を失った対象からは実にあっさりと離れるという「能力」を持っています。人と関わり続けるのに疲れたら、ひっそりと引きこもる「能力」も持っています。不必要にこだわり続けることはしないわけですね。例えば、興味を失った異性と、「相手を傷つけたくない」などと、いろいろ考えすぎてしまった挙句に、変な「義理」感(?)から形だけ付き合い続けるということはしない。これって、お互いのために好ましい離れ方なのかもしれない。

 でも、一度関心を失ったものは永遠に投げ出してしまうとは限らない。むしろ、「時が満ちて」、無理しなくてもそのことに取り組めるようになった状況が(外的にも)整ったあたりで、余裕を持って、自然に、そのことに本格的に取り組み始める。

 このタイプの人は、(本来の天性に従う限り・・・ですが)、焦るあまりに、性急に無理な努力を積み上げることはしない。自分にそれだけのキャパができたり、外的状況がそれにふさわしくなった時点(例えば、景気が少し上向き、求人が再び増え始めたそのタイミング)で、本人の興味が一致したら最後、スルスルスルーーーーって、その絶好のタイミングを生かして、なだらかな坂を駆け下りるかのようにしてステップアップするという、こうしたセンスがない人から見たらあまりに抜け目がないと思えるほどのふるまいをやすやすとやってのけます。

 こういうタイプの人、「集中力に欠ける」とか、「コツコツと粘り強い準備や努力ができない」などと、否定的にとらえるばかりになると、その人は容易に失調して、まさにうつにはまる危険な状態に向かい始めるのではないかとも考えられます。

 専門的に少しだけ難しい言葉で言いますと、「躁鬱気質」の人間を、無理やり「執着気質」な人間に改造しようとすると、失調するということになります。

 ところが、日本は、悲しいまでに、執着気質的なコツコツとした努力だとか、ひとつのことについて営々と職人的な技を積み上げてキャリアを築くことを尊ぶ風土がある。

 でも、こうした意味での勤勉を尊ぶ職業倫理なんて、不況なだけではなくて、それまでの社会システムそのものが揺らぎだしている今のような時代においては、どれだけ人の目に見えない努力を重ねてもあっさりと首を切られる可能性のあるわけでして、むしろうつ病の人を大量生産するメカニズムだと断言したいです。

 むしろ、「適度に」そううつ的に生きる人たちの方が、会社と心中するまで自分に目隠ししたまま会社にしがみつくこともしないし、好奇心の赴くままに新しい出会いを生かそうとする、でも、自分がそれを好きかどうかという点で見誤ることがないという意味で、サバイバルの上では適者ですらあるはずと思います。

 
・・・・・こうした思いも込めて、少し前のこの記事も書きました。


 参考書としては、いつもながら、中井久夫先生の名著、「分裂病と人類」ですが、中井先生はこの本の中で、執着気質的な人と躁鬱気質的な人を対比するという観点からはほとんどはっきりと言及していません。その点は、私がこの本と出会って30年にしてやっと最近になってたどり着けた、私なりのこの本の「消化吸収」の過程かな?・・・・ともささやかに自負しています。

分裂病と人類 (UP選書 221)

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2009/05/30

NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第1話、十分に内容があったと思います。(第2版)

 今、やっと昨日の第1話(毎週金曜日22時より放送)を観ました。

 私は原作を知らないままです。

 むしろ予備情報全くなしでぶっつけで観ようと思っていましたし、原作との比較論にも今後も一貫して無関心を通すことをあらかあじめお断りしておきます。

(追記:・・・・・ところが、その後原作を人から譲ってもらったために、原作の感想も結局は賭けることになります。こちらをどうぞ。)

 細部に至るまで、非常にリアルに描かれているし、俳優さんも適材適所で好演だと思います。

 藤原紀香さんの、最初登場した瞬間に彼女であるとは全く見えない、アイラインなし、ノーメイクでぼさぼさ頭、これだけはネットで情報ありましたけど、記者会見の動画や番組宣伝用のスナップ写真などでは、ドラマの映像を実際観た際の、その強烈なプレゼンスはほとんど伝わりません。ここまでやると、視聴者を幻滅させることを覚悟で彼女の「素顔」を見せる役者魂!に敬服するのみです。

私の中には「ルパン3世」の峰不二子の化身みたいなイメージが強かったので、かなり強烈。でも、おバカで、かわいくて、無力で、でも魅力的です。


●ドラマ「ツレがうつになりまして。」NHK公式サイト


*****


 うつの人を抱えたご家族恋人によく見られがちな光景である、そうした周囲の人自身がうつ的になっていく(あるいは、潜在的なうつがあぶりだされる)という悪循環のジレンマと、その血みどろの克服の中で、お互いに少しずつ癒され、生き方が変わっていく過程もきちんと描かれそうですね。

 うつって、うつになったご本人が単に「回復する」だけのプロセスで済ませれるものであることは実は少ないのです。その人と関わる周囲の人との間の「システム」そのものが変化すること、ひいては、その家族やカップルが帰属していた社会との接点の「システム」も変化することが、連鎖反応的に、見かけ上はほんの少し、シフトする必要があることが多い。

 ご本人がうつから「回復する」ことだけを家族や企業が「期待している」状態というのは、悪循環を維持する牢獄の最たるものです。ご本人は、果てしなく泥海の中でのたうつことになりやすい。これは、システムズ・アプローチに心得がある臨床家には俯瞰できているはずのことのようです。(このことも先日の児島先生の講義の中で示唆されていたのですが)

 そして、実は、そうした、うつの方を包む「システム」の重要性の最たるものは、当然医師との関係性です。

 このドラマの中では、理想的なお医者様と最初から出会えたという前提で描かれていくようです。

 しかし、現実には、医師の一治療者としての実力は別としても、まずは、患者さん、ご家族とお医者さんとの間のコミュニケージョンに隙間風が吹いていることがいかに多いか。そして、それが治療過程の停滞の決定的因子であることがいかに多いか。

 患者さんを包む一番ベーシックな社会的援助システムである筈の医者との関係そのものがきちんと歯車がかみ合っていないならば、うつの人が空回りし続けてもやむをえない、これは自明なことなのではないか?

 我田引水ですが、この「お医者さんとのかかわりのサポート」という領域こそ、私が地域の開業カウンセラーとして、ここしばらくの間に非常な問題意識に目覚め、研鑽を積み、特化して展開させてきた大事な領域です。

 実はこれが単なる「アドバイス」(コンサルテーション)ではなく、むしろセラビーそのものであるという認識に目覚めたことは先日にもお書きしました。

 これについては、このブログで度々お書きしてきた、不肖、私の見解を、「こころ相談.com」で、総括的に、ロングインタビューの記事にしていただけることになりました。すでに最終校正作業終了。今週中に公開です。


*****


 ドラマの方、いずれにしても、第1話がこの水準なら、今後の展開には、もうあまり心配がいらないかと思いました。


 そうそう。風吹ジュンさんが演じるお医者さんが自転車乗りなのにはびっくりしてしまった、自転車乗りカウンセラーのこういちろうです(^^)

 
【追記】

 後で確認したところ、このドラマの監修者は、NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」で番組出演され、メインのコメンテーターをお務めだった、日本うつ病学会理事長、野村総一郎先生です。

※続く第2話についてはこちらです。

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2009/05/27

薬物治療の能動的な主体であれ!!

 これ、以前から書こうと思っていて遠慮していた言い方なんですけど。

 もちろん薬物を処方する「責任」はお医者さんにあります。

 個人輸入や、不正なルートでの入手、溜め込んだ薬を自分の判断で飲むなどは慎む方が望ましいのは言うまでもないことです。

 薬物について、きちんとインフォームド・コンセントする責任もお医者さんにあるわけで、薬の服用をどうして行くかということは、お医者さんとの話し合いの中で決定し、お医者さんにうそやごまかしをすべきではありません。

 (さもないと、処方した薬を定められた用量できちんと飲んでいるという前提でしか、お医者さんはあなたの状況をとらえようとしませんので、例えば「途中から飲まなくなった」という場合でも、これが何日前に、何をきっかけとしてなのかを伝えてください)。

 しかし、その一方で、あなたが、薬物という「アイテム」を使って、自分のために治療を進める「一方の主体」であるという意識をお持ちになるといいかと思います。

 あなたは、眼鏡というアイテムを「使って」、新聞の字を読めるようにする「主体」です。

 あなたは、携帯電話を使って、外にいても、連絡が取れるようにする「主体」です。

 携帯電話の調子が悪いからといって、自分で分解修理したら、メーカーは修理保障をしてくれませんが、あなたが、どのように携帯の具合が悪いのかをうまく伝え切れないと、修理の人も見当がつかない場合は、結構あるかと思います。

 薬を飲むことによって生じる、自分の心身の微妙な変化を、自分なりに言葉やイメージで、少しユーモアを込めて表現してみることになじんでみるのもいいかもしれません。

 敢えて言います。お医者さんのまねをして、例えば「不定愁訴」という言い方をしてみて、何かおもしろいでしょうか?

 どのような飲み方をどういうタイミングですると、生活していく上で効果が上がりやすいか、どういう場合に副作用が出やすくなり、副作用の影響を少なくしたり、無理なくしのぐのにふさわしいコツは何か?

 これは非常な個人差があります。

 お医者さんと、こうしたことを屈託なく話しながら「作戦会議」を毎回重ねるつもりで。


 ・・・・・すると、いつの間にか、薬の効き目そのものが、以前よりもあなたの「味方」「いい相棒」になってくれているという実感が生じてくる皆様は、決して稀ではないはずです。

 実は、これはいわゆる薬への「依存」とは似て非なる状態です。


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2009/05/26

場の安全を守るために、新規にコメントする人に厳しい要求水準を求めすぎるのは

ちょっとどうなのかなあ?

 ・・・・これは、メンヘル系・心理系に限らず、いろんなジャンルの、いくつものサイトをあちこち訪問させていただく中で、時々感じることなんです。

 そのサイトをずっとROMしている多くの人にとって、その、まだ場に不慣れな人のコメントの、悪意が全くない、果たして落ち度といえるかどうかも怪しい次元での「不心得」に対して、サイト運営者や常連が、どう柔軟に、傷つけない形で対応して、「自制を求めて」いるかどうかの方にこそ、注意が向くということです。

 ROM読者が我が身に置き換えて(同一化して)感じてみるのは、そうやってサイト運営者や常連から糾弾される側の人間の心境だったりするわけですねcoldsweats01 


明日は我が身か? 

このサイトには書き込むまい。

大人しくしていよう。


 こうして、そのサイトは、ほんとうに幅広い人たちに開かれた、でも「そこそこの」安全感はあるサイトにはなれなくなるのです。窮屈なだけのね┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~


 繰り返しますけど、これは特定のサイトへの感想ではありません。

 いくつものサイトに感じてきた「ダブルバインド」構造です。


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2009/05/25

フォーカシング関係のネット上の記事をお探しの皆様に

 実は、フォーカシングを教える側の専門家にしても、学んでいる一般の方たちにしても、ネット上のいったいどこで、いったいどんな記事を最近書いているのかとなると、思いのほか見つけにくいのが日本の現状です。

 そうした中、ひょっとしたら、少しはお役に立ちそうなサイトのご紹介です。


「フォーカシング」の項(お役立ち!身心系Blogsearch!!)


 私のサイトにも、一定数、ここからおいでになります(^^)

 @wiki利用のサイトで、余計な広告記事なども最小限です。


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2009/05/24

こういちろうはいかに短期療法に入門したか(後編) -ライブ・コンサルテーションという名のケース・スーパービジョン-

 前編の続き、第82回日本産業衛生学会における、日本短期療法学会元理事長、長崎純心大学教授、児島達美先生による、産業保健領域(EAP)における短期療法的アプローチの具体について報告したい。

 児島先生が、講演の後半の1時間を費やしたのは、「ライブ・コンサルテーション」と呼ばれる形式でのケース・スーパービジョンのデモンストレーションだった。
 
 コンサルテーションとは、クライエントにあたる人物とカウンセラーの直接の一対一の面接ではなく、むしろ問題を抱えた人物=いわゆるクライエントと関わる、援助的側面を持つ当事者(カウンセラー、上司、家族、配偶者、友人など)に対して、専門家が、クライエントさんにいかに対応するのかについて助言する場合を指す。

 (私の書いたこの記事における分類をご参照ください)

 助言する専門家のことをコンサルタントと呼び、助言を受ける人物のことをコンサルティーと呼ぶ。

 つまり、コンサルテーションにおいては、通常のカウンセリングとは異なり、クライエント/クライエントに関わる援助者(コンサルティー)/助言する専門家(コンサルタント)・・・という三者関係が布置されていることになる(クライエントさん自身はその場に同席しなくても)。

 これは、クライエントさんとの面接過程について、カウンセラーが、更に経験あるカウンセラーに有料契約で助言を求める、ケーススーパービジョンと呼ばれる枠組み基本的には共通である。つまり、

スーパーバイザー=コンサルタント
スーパーパイジー=コンサルティー

と読み替えて、一応差し支えはない。


 ただ、ケーススーパービジョンにありがちな光景は、

1.スーパーバイジーが綿々とケース記録を読み上げ、(ああ、聴いていると退屈!!)

2.スーパーバイジーは、クライエントさんの病理や面接過程についての分析や考察を、あくまでもスーパーバイジーの中での「思い込みの物語」としてとうとうと語り、

3.どのようにケースがうまく行かないのかについて、スーパーバイジーは、自分の未熟さについて、ひたすら自虐的で内罰的な自己分析を重ね、

4.・・・・かと思うと、今度は、「クライエントさんの自我水準がボーダーラインだからうまくいかない」「担当医がデリカシーに欠ける応対をクライエントさんにしてくれていない」などという「外罰的な」責任転嫁に転じ、

5.そうしたスーパーバイジーの防衛のヨロイを更に突き崩さんとばかりに、スーパーバイザーの先生は、スーパーバイジーがまだ気がついていない問題点を洗い出し、詰問し、

6.もしそれがグループスーパービジョンだったら、他に参加者も、スーパーバイザーの先生に「同一化」して、他の人の事例の「揚げ足の取り方」にだけ習熟の技を磨き、

7.結局、そうやっってスーパーパイジーが語った、主観的で都合のいい切り取られ方をした面接の報告という「フィクション」に基づいてなされた、一面的で主観的で、人のことはなんとでもいえるけどねえといいたくもなる、意外と無責任であてずっぽうで思いつきに過ぎないな「見当違いの」助言が、スーパーバイジーに雨あられと降り注ぎ、

8.そうした助言に従って面接場面でクライエントさんに向かって動いてみようとしたら、スーパービジョンを受ける前よりも、クライエントさんとの関係は余計に混乱し、収拾がつかなくなり、

9.カウンセラーは、いよいよ自分の感性と判断で、腹を据えて面接に臨めなくなり、

10.そういうカウンセラーの自信なさげな様子を、クライエントさんは、たよりなく感じて、カウンセラーに更に苦情を言ったり、罵詈雑言を重ねたり、ついには無断キャンセルにして来なくなったり、相談機関窓口に「カウンセラーさんを変えてください」と電話を入れたりして、いよいよカウンセラーはアイデンティティーの危機に陥り、

11.次のケーススーパービジョンで、1.から7.までをもう一度繰り返して、更にスーパーバイザーの叱正を受けたり、壮絶な自己嫌悪のトラウマを深め、

12.そうこうするうちに、「こんなスーパーバイザーに指導を受けているから自分は駄目になったんだ」と内罰から外罰に転じ、

13.気を取り直して、そのカウンセラーは、別の「もっと優秀な」スーパーバイザーを探して、

14.以上、1.から13.を2回も3回も4回も繰り返した挙句、

15.今日も新たなスーパーバイザーを求めて、路頭をさ迷うのでした。


・・・・・という現実が、ちまたに見られるわけである(^^;)


*****


 そういう、ありがちなスーパービジョンと、児島先生のような達人によるライブ・コンサルテーションは何が違うか。

1.仮に事前にケース記録をまとめてきたとしても、コンサルティー(助言を受ける人)は、それを読み上げるのではなくて、あくまでもライブで話せる範囲で、今、クライエントとの関わりで生じている行き詰まりや、何を解決したいのかを物語る。コンサルタント側も、その内容について、文書等を含めて、事前に一切予備情報を受け取らない。

2.コンサルタントは、事例に対する助言をするというよりも、いわば「ある人との対人関係に悩んでいるクライエント」に応対するかのように、短期療法的な面接過程そのものを、コンサルティーとの間で繰り広げていく(そこには、間接的に、コンサルティ自身をクライエントの身に置いて役割交換をした上での、間接的だが体験的な技法の学習を暗々裏に促すという側面が内包されることになる)。

3.短期療法の性質上、それは「問題の原因探し」的な探求や分析ではなく、コンサルティーが「今、何に、どう困っているか」「これからどうしたいのか」という点に絞ってやり取りは勧められていく

4.私の見たところ、コンサルタントは、コンサルティーの発言を受容的・共感的に受け止め、コンサルティーの発言の流れを押しとどめて水を差すことはむしろ回避しているが、さりげなく話しに水を向ける際に「あなたはそれをどう感じ(思い、考え)ましたか」などと内省を深める方向に焦点を絞るのではなく、「それで、あなたは、クライエントさんにその後どう振舞いましたか」などという、その人の認知・思考・行動面での「問題解決」のありようの話題を引き出そうとしているように見えた。

5.しかし、そうした際に、はた目から観て、そのコンサルティの問題解決様式に一定のかたくなな固着があり、クライエントさんとの間に悪循環的な相互作用があっても、コンサルタントである児島先生はそれをすぐさま指摘して修正を促すことはしていない。まるで、そうしたコンサルティーの認知の固着や、相互作用的な悪循環が繰り返し自然と浮かび上がり、コンサルティー自身が、その悪循環について暗々裏に少しずつ気づき始めるまでは、むしろそうした悪循環パターンそのものを思うがままに自由に語らせ、ふるまうに任せ、それをやさしく「抱える」ようなスタンスで応対されているかのように感じた。この点での児島先生の、どっしりとした、安心感を漂わせた、少しユーモアすら漂わせたプレゼンスには、臨床家として、大いに見習うべきものを感じた。

6.こうした流れの中で、まるで「時が満ちた」間合いを見計らうかのようにして、児島先生は、「ところで、○○さん、ちょっと次のようなことを、今、ここで試してみてはどうかと思うんですけど?」というような調子で、コンサルティーに、独特の「思考実験」のようなものを提案する。それは独特の意外性があり、まるで、面白いゲームに誘(いざな)うような問いかけである(後で知ったが、こういうのを「ミラクル・クエスチョン」というんですね。)


*****


 この部分から、実際に目の前でなされたライブ・コンサルテーションの内容をご報告するのがふさわしいだろう。

 クライエントさんは、企業に勤める中年のサラリーマンであり、うつ病で、休職と復職を繰り返してきた。産業医は、ともかく毎日会社に通うことが習慣化することを、EAPカウンセラーであるコンサルティーに求めている。しかし、クライエントさん自身も激務に復帰することに不安を抱いているし、その一方、上司の自分への対応に不満を抱いてもいる。コンサルティーは、そうしたクライエントさんにどのように対応していくのが援助的かに、さまざまな迷いを抱き、時にはクライエントさんに色々反論したり意見したくなる衝動と戦ってもいる。

 ・・・・・この水準までなら、EAP(従業員援助プログラム)領域でのサラリーマンの復職支援として、非常に典型的な状況ですから、個人が特定できる心配は全くないかと思います(^^;)


 さて、児島先生は、上記の1.から5.にあたるやりとりが、20分ほどかけて進んできたあたりで、水を向けるわけですね。

6.「どころで、今、ここまで私たちがこの場で繰り広げてきたやりとりを、○○さん(クライエントさんの仮名。その場でつけてもらうあたりも興味深かったが)が、実は私たちのうしろの「このへん」にいて、みんな聴いていたと想像してみるのはいかがでしょう? ○○さんは、どんな感想を言ってくれると思いますか?

 コンサルティーのAさんは答えます:

「そうですねえ、うーん・・・・・・○○さんは、いつでも、私との面接の後で、お礼を言ってきます。きっと、いままでの私の話を聴いていても、『いえいえ、カウンセリングは十分に役に立っていますから』などと、答えてくださるのではないでしょうか?・・・・・・(沈黙)・・・・・・・でも、ほんとうのところ、そのように感じてくださっているかというと、自信がないんですよ」


 児島先生は、もう一度、類似の質問を投げかけます。

「なるほど・・・・・・それでは、今度は、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?


「きっと、『いえいえ、本当に感謝していますから』と言ってくださるとは思うんですが・・・・・・(この後、Aさんに思い出された、関連事項についての記憶については割愛します)」


 児島先生は、更にもう一度(!)、類似の質問を投げかけます。

「なるほど・・・・・・それでは、もう一度やってみましょう、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?

「・・・・・・どうも私は、○○さんが実際に示している態度や言っていることを、額面どおり信じられない、ほんとうは、凄く違和感や欲求不満をを感じているのに、それを言えないまま溜め込んでいるはずだとどうしても感じてしまうんですよ。そして、私は、そうした○○さんの求めにどう答えていいか、困惑してしまっているようですね」


 ここで児島先生は、突如、ご自身の経験談を問わず語りにお始めになります:


「私が若い頃、スーパーバイザーの先生に事例の報告をしている時、『クライエントさんの本当の気持ちがわからない』ということをふと漏らしたんですよ。そうしたら、先生が次のように言われたのが凄く印象的でした。

『クライエントさんの本当に気持ちを確かめることって、それほど重要なことなのかね?』

 そのように言われたことが、私の頭の中に意外なくらいに残り続けていましてね。そうこうするうちに、クライエントさんの言葉の「ウラを読もう」という構えが私の中からいつの間にか抜け落ちていったみたいでね。・・・・・気がついてみると、そういう私の側のスタンスの微妙な変化みたいなものが、何となくクライエントさんに面接室で伝わるようになって行ったんじゃないかとも思うけど、クライエントさんも感じたままに私の前で思ったことを言ってくれているなと思えることがいつの間にか増えて、面接の力みが、いい意味で抜けて行った気がしているんですよ」


 これを聴いていた、コンサルティーのAさんは、ふと思い立つように、次のように語りだします:

「先生のお話を聴きながら、私が○○さんの言うことを「信じられない」のはなぜかなあ?・・・・と思いを巡らせていたんですが・・・・・いま、ふと、思い浮かんだのは、そもそも私のほうが、○○さんに、感じたままのこと、思ったままのことを全然言っていないじゃないか?・・・・・って」


******


 フォーカシング的に言えば、児島先生が3回繰り出した問いかけ(私が質問タイムに確認したところ、この質問は、短期療法の世界で「関係性の質問」と呼ばれるもののバリエーションンだそうである)は、フォーカシング技法でいう「フェルトセンスに問いかける(asking)」と実に似通った質問である。

 フォーカシングの場合には、内的な対象としての、フェルトセンス=身体の感じそのものからの応答を誘発するものであるのに対して、児島先生のなさったのは、その場にいないクライエントさんと、イメージ上で対話するという形でこそあれ、外的な現実の他者、しかも3人目の他者がどのように応答してくるかという実験である点に重要な違いがある。

 しかし、例えば、フォーカシングで、

ガイド:「何かが『引っ込んで』いる・・・・・そういう言い方でしっくりくるかな? とお腹の感じに尋ねてあげてみたらいかがでしょうか」

フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・『一応はいいよ』と答えてくれています」

ガイド:「なるほど、『一応はいよ』と答えてくれているんですね。それでは、『何かがそこに引っ込んでいるんだね、わかったよ、そこにいるのは』みたいに声をかけてがげてみるのはいかがでしょう」

フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・何か感じが変わってきました」

ガイド:「・・・ほう、・・・・というと?」

フォーカサー:「・・・・・さっきまでは、引っ込まないでいると傷つくので、やむなく引っ込むという感じで、きゅうっと締まるような苦しさが先にたっていたんですけど・・・・・・どういうわけか、さっき、「そこにいるのはわかったよ」といってあげてみたら、その部分が何か緩んで、少しずつ暖かくなってきたんです。・・・・・おや?「いやいや、引っ込んでみているのも結構いいものだよ」とまで言ってくる(笑い)」


・・・・などという展開が生じる時の、体験過程のステップの刻まれ方とあまりに似ていると思えたのです。


 別の質問者が、「児島先生が途中からご自身の体験談という形にされたことが印象的でした。そこにもひとつの大事な意味がありそうだと思ったのですが?」と水を向けると、

 「こういう時に『それはひとつの気づきですねえ』なーんていうふうに、上から押し付けるようなあり方はどうかな?と思っています。コンサルティーにとってそれがこのライブ・セッションの中ではっきりと定着した理解になるかどうかなんて、本当に大事なことなんでしょうか? だから、私は、自分にもそういうことがあったんだよ、という、コンサルティと同じ目線での経験談という間接的な示唆にとどめて、そこから何を汲み取るかは、お任せしてしまいたいと言う気持ちもあったんだと思います。・・・・ここまで説明してしまうと、これ自体があと付けの理屈っぽくなりますけど」


 ここで更に、司会もなさっていた島根大学の足立智昭先生(同じ島根の、「こころの天気」で著名な土江正司さん・・・・フォーカシング関係者にはおなじみ・・・・・の盟友でもあります)が、


「児島先生は、ここで、ご自身のスーパービジョンの先生という「4人目」をライブセッションの場の中に呼び込まれたということが大事なのではないでしょうか?」


という絶妙の示唆をして下さいました。

 コンサルティーのAさんも、


「これまでの事例検討を受けて一度も味わったこともない不思議な体験をしました」


と感慨深げでした。


 思うに、同じ事例を、ありがちな精神分析系の事例検討会が扱えば、「転移」や「逆転移」、「投影同一視」などという用語が果てしなく飛び交うにかかわらず、

「この事例って、むずかしい事例だよねえ・・・・」

という徒労感が、参加者全体の中にどよーんと覆い尽くすことが必至の事例だったと思います。


 その意味で、この「公開ライブ・コンサルテーション」、わずか40分ほどでしたが、まさに「奇跡(ミラクル)の40分」、短期療法の真髄を見せていただけたと感じております。

 改めて、講師の児島先生、事例提供者のA先生、この企画をご準備くださった、産業衛生学会産業心理技術研究会のスタッフの諸先生方に、厚く御礼申し上げます。



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2009/05/23

こういちろうはいかに短期療法に入門したか(前編)

 このタイトル、「こういちろうによる短期療法入門」などというあまりにおこがましい形を避けたことがミソです(^^;)

 今朝方の記事に書いたように、私はバラの本の速読と、今回の日本産業衛生学会総会の催しでの、児島達美先生のレクチャーと、ライブ・コンサルテーションを通して、全くはじめて短期療法や解決指向心理療法について知ったというのが現実である。

 この、実質的「ワークショップ」では、単に短期療法についてのものではなく、産業保健活動(EAP)における臨床心理士の果たす役割というテーマと密接に関わりあっており、それは短期療法の本質と切り離しえない側面があり、それについてもいろいろ感想を述べたい気持ちもあるのだが、内容が錯綜しかねないので、、今回のこのエントリーでは、敢えて、短期療法それ自体の魅力という方向性から、以下のことを書いてみたいと思う。


*****


 短期療法(ブリーフセラピー)というと、「セラピーを短期間で終わらせる療法」というふうにとられかねない。確かに「時間制限心理療法」という、最初から12回のセッションに限定する約束で行なう心理療法が、今日言う意味での「短期療法」の先駆みたいにして存在するんだけど、実は、この「時間制限心理療法」の「外面的な」設定についてだけが教科書的な知識として広まったおかげで、短期療法は、クライエント中心療法や精神分析的技法などの、長期間かけて人格の変容を促す技法を主に学んだ人たちから、不要な偏見にさらされることになったように思える。

 念のためにいうと、「短期療法」というのは、ある特定の心理療法流派というより、一群の心理療法流派が共有する特性を総括したグループ分けのようなものと見たほうがいいようだ。

 代表的なものとしては、狭い意味では、

ミルトン・エリクソンの心理療法
○神経言語プログラミング(NLP)
○MRIアプローチ
○解決志向(指向)心理療法
○家族療法のうちのいくつかの流派
○ナラティブ・セラピー

こうしたあたりを指すことになり、広義に解釈される場合には、

○論理療法
○認知行動療法
○応用行動分析

などまで枠を広げることになるようだ。

 しかし、児島先生のレクチャーとデモに接して痛感したのは次の点である。

短期療法とは単に心理療法の分類でもなければ流派でもない

 むしろ、現実の臨床実践(コンサルテーション)場面で、クライエントさんや、クライエントさんと関わる当事者(家族や上司)、そしてカウンセラーという3者が、いかに不毛な堂々巡りを(それぞれの中で、それぞれの相互間で)し過ぎることなく、悪循環的な相互作用を脱し、良循環的相互作用の関係に転じることを、無理なく、自然に、しかも現実的に必要な「そこそこの」水準で成し遂げていくか、そしてそのことのために、最小限の介入でありながら、使えるものは何でも使うというスピリットに基づいてなさていれば、それは短期療法的アプローチである。

 ・・・・・このように定義するのがアクティブでリアルな理解だ!! ということだった。


どうも、

「効率性」
「過去でなくて現在をテーマとする」
「洞察や気づきではなく、問題解決重視」

などという言葉を下手に振り回すと、実は短期療法についての誤解を広めるだけだとすら感じました。

 短期療法の中でも、クライエントさんは深い気づきや洞察は体験することは決して珍しくはないですし、クライエントさんを単に受身に服従させるだけの効率性重視など、まがいものの、一番唾棄されるべき短期療法のあり方だと見なされている気がします。

 もとより、洞察や気づきが生じることを自己目的的に礼賛することは短期療法ではあり得ないわけですが。


*****


 いずれにしても、上に述べたベースラインを踏み外してしまったならば、認知行動療法の名の下になされる場合ですら、「短期療法」の名に値しないし、逆に、ある「フォーカシング指向心理療法セラピスト」によって、この点をしっかり押さえて実践されていれば、「フォーカシング指向心理療法」だって、立派な「短期療法」であるといえるのである。

 恐らくこのことは、ひとつの独立した技法体型としてのフォーカシングのトレーニングのことしか知らず、フォーカシング指向心理療法を、単にそれを現場臨床場面に適用・応用したものであるかに過ぎないようにまだ思い込んでいる人には、全く気づかれない、思いもよらない事柄かもしれない。

 フォーカシング指向心理療法は、いったいこれのどこがフォーカシングなのか、ほとんど痕跡をとどめないくらいに解体され、カスタマイズされ得るのである。そしてそれがブリーフ・セラピー的な技法と自由に行き来できるところま到達したら、熟達したブリーフ・セラピストの実践と、全く判別不能の域になってしまうだろう。

 私は、児島先生の発言や、ライブ・セッションから。そのことを痛烈に感じ取ることになる。

 
*****


 興味深い人には興味深いテーマでしょうから、私がここまで書いたことまででとりあえずアップしてしまい、児島先生のレクチャーとライブ・セッションからの具体的ご紹介は「後編」にまわしたいと思います。

 ・・・うう、児島先生が言われた次の教えに一番反する順序で紹介してしまったのかもしれないcoldsweats01


 「先に理屈をつけて、特定の方法や技法を学んでも、結局身につきませんからね!」


 ・・・・「はじめにブリーフセラピーありき」で、ブリーフセラピーをどんな形で、どんな領域で、どんなクライエントさんに適用できるか、などと考えて学んでいるううちはモノにはならないわけです。

 同様に、「はじめにフォーカシングありき」で、フォーカシングをどんな形で、どんな領域で、どんなクライエントさんに適用できるか、などと考えて学んでいるううちはモノにはならないわけです(^^;)。



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フォーカシング指向心理療法と短期療法のベースには共通点があり過ぎる!!

 日付が変わって昨日になってしまいましたが、以前予告しておりましたように、福岡国際会議場で開催された、第82回日本産業衛生学会の関連行事、第2回産業心理技術研究会に参加してまいりました。

Image573

 長崎純心大学の児島達美先生を講師にお迎えして、

「産業保険活動をより効果的に進めるための心理的支援
 -ブリーフ・セラピー、システムズアプローチの視点から-」

というテーマでのものでしたが、産業保健領域でのうつ病のクライエントさんの就労支援についての「ライブ・コンサルテーション」と呼ばれるものの実演に接したことが、私にとって非常に大きなインパクトになりました。

 ここでなされている相互作用は、すこぶる、すこぶる、フォーカシング的なものだったのです!!

 実はこの催しにあわせて、泥縄で、最近、日笠先生の監訳で邦訳が刊行されたばかりの、バラ・ジェイソン著、「解決指向フォーカシング療法―深いセラピーを短く・短いセラピーを深く」を斜め読みして臨んだのですが、そこから予想されていたものを遥かに超えた水準で、短期療法の達人(日本ブリーフセラピー学会元会長)、児島先生のライブ・セッションは、成功裏に進むフォーカシング・セッションと、あまりに共通のマインドと、驚くべき「ライブ性」を備えていました。

 その内容については、守秘義務には慎重に配慮した上で、当ブログでもご報告します。

 こちらに前編があります。

 博多駅近くの水たき屋での、参加者の皆様との二次会の懇談もたいへん充実した、楽しいひとときでした。

 お会いできた皆様、これからもよろしくお願い申し上げます。


****


 そして。

 もう、決めました。
 先述のバラの本これから数日で読破です。
 もう、現場実践で盗みまくらせていただきます。

 私の中に、それを受け入れるだけの準備は、実はいつの間にか、最近の私の目指す方向性の中に暗々裏に含まれていたことにも驚きました。

 数日後までには、いきなり、この本の詳しい「書評」を、かなりまとまった完成度でこの場でお書きできることでしょう!!


追記:書評にまではなりませんでしたが、まずとりあえずは、こちらの記事をどうぞ!!

●「すべてのことには、時がある」

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2009/05/18

「私はフォーカシングができているのでしょうか?」

 先週開催されておりました、「第21回国際フォーカシング会議in淡路島」は、参加者数300名近くを集め、無事、成功裏に終了したことを、大会準備委員会メーリングリストでの池見陽準備委員長のご報告を通して知りました。

 久留米への移住問題を抱えていたことと、申し込み当時の体調・経済(^^;)不安定要因も考慮し、ご迷惑をおかけしないために、私は残念ながら参加を見送る選択をしましたが、多くの若い院生の方が参加されたとうかがっています。

 会場となったウェスティン淡路は、ある意味で「日本にいるのを忘れてしまう」くらいの、すべてにおいて国際規格のリゾートホテルです。明石海峡を越えた、比較的「孤立性の高い」場所にあるこの地は、日本人参加者にとっても、外国からおいでになる方と同じくらいに「異国に来ているかのような」錯覚に陥れる場所だったはず。関西空港からのアクセスも良く、神戸の市街地や京都や姫路に足を伸ばすアクセスにも恵まれていましたしね。

 実は、池見先生の提案を受け、候補地を最初に下見をして、選定の段階で積極的に関与した私が注目したのは、この地のそうした無国籍性でした。

 「日本にいるのにもかかわらず、あたかも外国の国際会議に出席したかのような擬似体験になること」

 敢えて、外国からの参加者を「ジャポ二ズム」に引きずり込みたくなる誘惑から意識的に遠のけ、日本からの参加者と外国からの参加者が対等にコミュニケーションできる場を設定することが、私の深謀遠慮だったのです。

 だって、例えば、「ドイツ的フォーカシングのあり方」なんていう話、聴いたことありませんでしたからネ!!

 お医者さんに比べると、臨床心理系の国際会議に参加する機会は、日本ではあまり多くないかと思います。そうした中、体験された貴重な経験を、殊に若手の臨床研究者の皆様、現場カウンセラーの(・・・をめざす)皆様、どうか、今後への刺激として是非生かしていただければと思います(^^)


*****


 昨日も、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」をささやかに開催しました。そうやって国際会議で刺激を受けた若手の皆様が、九州の福岡県の久留米という、日本の中でひどく偏った土地にいる私ですが、今後うまく利用してくださることを歓迎いたしております(^^)

 昨日も感じたのですが、大船での「学ぶ会」時代から常々感じていたことをひとつ書いてみましょう。

 表題の、

「私はフォーカシングができているのでしょうか?」

 という質問を、こうした催しの中で頻繁にいただきます。フォーカシングを学び始めて数年以上を経た方からも結構うかがうことです。

 私はそうした問いに接するたびに、「なぜこうした問いが繰り返されるのか?」ということに思いをめぐらせて来ました。

 いくつかのことを述べてみたい心境です。

1.フォーカシングがあなたにとって成果を上げているのかを判断できるのは、あなたの実感だけです。フォーカシングを先に勉強してきた人やフォーカシングのトレーナーがそれについてどのように答えてくるかをすべて脇において、あなたの実感だけで判断していいのです。

2.仮に、体験過程のステップが前に進むということについて、的確に観察し、判断する方法論があったとします。そして、その基準に基づくと、あなたの中にステップが生じていたことになるらしいことが「理解できた」としますね。でも、それがあなたにとって何か言葉にならない違和感や欲求不満をもたらしたり、確かに自分のもの見方、感じ方が「落ち着いた」とか「変化した」とか、「その場に居やすくなった」という実感を感じさせてくれないままだとしたら、それはあなたにとってどんな意味があるというのでしょうか??

3.ジェンドリン自身、どの著作かで、「フォーカシングだけが人生に役立つわけではない」という、ある意味でひどく当たり前のことを書いていたと記憶します。フォーカシングでうまく成果が上がらなければ、たとえばちょっと休憩したり、ストレッチしたり、音楽を聴いたり、ひとりになってみたり、そうしたことを自由にやっていくのは全く自然なことです。

 毒舌に響くかもしれませんが、今回の国際会議や、あちこちで開かれているフォーカシングの集い(私の主催するものをも含む)やワークショップに参加してみて、それまで抱いていたフォーカシングへの関心がむしろ醒めてしまったり、幻滅してしまった人すらあるかもしれない(この世にある「イベントへの参加」とは、ayuのライブ体験から新装開店のスーパー、異性とのデートまで含めて、およそそのような参加者を「ある一定の比率で」含むはずのことでしょうし)。

 そうした時に、フォーカシングと関わることを一度止めてしまったりしてみるのも健全な選択でしょう。ただ、あるひとつの場での、一回の印象で、その対象や相手についての判断を生涯にわたって恒久的に決め付けてしまうことだけはしないで欲しいなあ、というのが、私の自然な思いでもあります。


*****


 こうした一般論を書いた上で、それでも敢えて、当初の問いかけに答えてみましょう:

1.フォーカシング技法において、教示というのは、あくまでの刺激剤であるに過ぎません。一つ一つの教示がピンとこなかったとしても、それはフォーカサーとしてのあなたの責任では全くありません。

 教示の進行と関わりなく、体験過程のステップは、セッションの中の、いつ、どこでも刻まれ始め可能性があるのです、それは「向こうからやってくる」ものであり、「引き起こす」ものではありません。

 いや、敢えて言いましょう。

セッションが終わった後の雑談の中で、
ふと、ひとりでお手洗いに立った時に、
帰り道の電車の中で、
夜寝る前に、
数日後、職場の中で、

突如ステップの進行が実感できることなど、ありふれているということを。

「お告げ」は、その人がその人が何をしているかなんかにお構いなく天から降ってくるから「お告げ」らしいのかも。教会でのミサの祈りのさなかにではなく(^^)

 フォーカシングのセッションのただ中で、自分がシフト体験できないとならないなどという思い込みは、むしろ捨ててしまう方がいいと思います。そうした思いは、フォーカシングの集いの「優等生」として認められたいという「煩悩」に過ぎないとすら思い定めてもいいかもしれない。


2. フォーカシングに伴う身体の感じや居心地や気分の変化というのは、それが一見かすかなものだったとしても、一度体験してしまえば、生じたかどうかについて迷うことは生じません。

 それが持続性に乏しい、短時間の変化や安らぎに過ぎず、しばらくたつと移ろい去ったり、見失うことはよくあることです。

 そういう時には、そうした変化や安らぎや変化が生じた少し前のところまであなたの記憶と実感のビデオを巻き戻してみるのはいかがでしょうか。

「ここまで」は以前と同じ、「こんなふうな」感じだった、「ここ」で、思いもよらないきっかけで「こういう」感じやイメージや連想が自分の中に生じて、その後で、自分の身体の感じや居心地が「こんなふうに」変わった。 

 そのときの実感が、仮に今はかすかな痕跡、ないし余韻のようにしか「再現」できなかったとしても、こうした「反芻(すう)的な味わいなおし」を何回か繰り返してみるだけで、それをしないよりは、その後に何かいい影響が残るものです。

 「反芻する」うちに自然と実感がよみがえり、更なる続きのプロセスが勝手にはじまることもありふれていますし、少なくとも次にセッションを持つ機会があった時、前回の続きをやろうと全く意識しなくても、セッションの展開がいつの間にか前回の続きになってしまい、少しだけ前回より先まで展開するなどという可能性を増してくれるかと思います(^^)


******


 日本のフォーカシング関係者の大半の皆様、私と最後にお会いしてから2年近く立っておられる方がほとんどかと思います。皆様もきっとお変わりかと思いますが、私もまた、皆様の記憶の中にあるこういちろうとはどんどん別人になってきているかと思います。

 そうしたあたりの片鱗は、ネットでの私の文体のトーンまで含めて、実は現れているとお気づきの方もあるかもしれませんが(^^)

 再びお会いできる日を楽しみにしております。

*******


「久留米でフォーカシングを学ぶ会」次回は、普段どおり、第2日曜日、6/14に開催の予定です。

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2009/05/13

自分を「いいカウンセラー」だと感じさせ、医者を「悪者」にしたくなる誘惑[第3版]

 すでにこのサイトでも何回も言及してまいりましたが、特にうつ傾向のある皆様について、医療機関との係わり合いが本当にかみ合わないまま、薬物療法も真価を上げられないでいる方々が少なくないことを、日々の面接で痛感しています。

 通院中の患者さんでもあるクライエントさんは、お医者様と、短い時間しか接触できず、思っていることのごく一部分だけを、しかもお医者さんに説得力ある形になるとは限らない表現でしか伝えることができないという、果てしのない堂々巡りにに陥っていることが、非常に多いのです。

 開業カウンセラーは、クライエントさんに、お医者さんに何をどう伝えると、そうしたコミュニケーションが円滑に運ぶのかについて、具体的で的確な助言をしていくという役割を積極的に果たすべきというのが私の信念です。

 これについての代表記事が以下の記事であることは、繰り返してご紹介して来ました。


●5分診療の神経科・心療内科の現実といかに対処するか(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)


 実は、このことそのものが、クライエントさんが、お医者さんに限らず、およそ自分と関わる「重要な他者」との関わりの中で生じている悪循環に気がつき、改良していく上で役立つ、認知行動療法ないしABA応用行動分析のミニ・トレーニングとしての性格を秘めているとも思っています。

 つまり、お医者さんとの関わりの改善に役に立てば、次は、家族や友人、同僚や上司との関わりにも、その良好な相互作用様式が、ある程度自然と「汎化」していくことも期待できます。

 薬物療法という「魔法の杖」を携えたお医者さんは、クライエントさんが、家族や同僚や上司や友人や恋人に自分悩みや苦しみをわかってもらえない「鬱憤」と「一発大逆転の切なる希望」を託される存在です。

 多くのクライエントさんにとってお医者さんとの間に生じている、コミュニケーションの「通じなさ」の葛藤は、多くの場合、そのクライエントさんが、職場や家族や友人・恋人との間で体験している、コミュニケーションの「通じなさ」の苦しみが、非常に集約された形で現れている象徴的な場面なのではないかと思います。

 このことを抜きにして、薬物療法か心理療法か、医者かカウンセラーかという二者択一的な議論をしてしまうことは全く不毛であり、むしろ、クライエントさんの状況の改善のためには多くの専門家の支えが多角的に得られるのは望ましいこととみなし、カウンセリングと薬物療法が「相乗効果」を上げるために、カウンセラーサイドから、個々のケースに即して何ができるかを具体的に積み上げることこそが必要と思われてなりません。

 ある特定の人との深い関わりからだけではなく、いろんな立場にある多くの人から、少しずつ、必要なだけの手助けを得られるということ、それこそが、実は自立し、成熟した人間のあり方かと思うのです。

 お医者さんの側に責任を押し付けることも、お医者さんをカウンセリング的なかかわりを不十分にしかしてくれない存在として批判することも、実はクライエントさんへの具体的な援助といえないと確信しています。

*****


 カウンセラーとしての私の前では、凄く素直で、心を開いた対話が成立するなクライエントさんなのに、医者を前にすると、ほんとうに些細な行き違いをきっかけに、通えなくなってしまうクライエントさんが、これまで少なからずおられました。

 私はそれを、医者の側のカウンセリング的感性の不足のためとみなすというのをすでに止めています。

 むしろ、私の前で、そのクライエントさんを「いいクライエント」にしてしまった分だけ、医者の前では「扱いづらい患者」としてふるまうという「リバウンド」を、私のクライエントさんとの関係作りが「生み出して」しまっているのだと判断するようになりました。

 精神分析の人ならば、対象の"split"(分離)という言い方をするかもしれません。しかしこの言い方は、安易に用いられると、クライエントさんの「ボーダーライン的」心性に問題を還元する誘惑を内に秘めている気がします。

 それはたいへんおこがましいことなのではないか? 実は、カウンセラーとしての私の方が、クライエントさんに対して、splitした部分対象=「良き援助者」としてのみ接してしまおうという誘惑に、先に屈していたのではないかということを、きちんと見つめるべきだと思うようになったのです。

 何のことはない、医者の方を悪者にしてしまうように、クライエントさんが医者(家族)ではなくて自分を信頼するように、カウンセラーとしての私の方が、無意識的には「仕向けて」いたのです。

 そのことに気がついて以来、私は、クライエントさんが、医者にも私にも「同じ程度に」信頼と疑念を抱き、しかもそうした疑念や疑問や不平や苦情を、カウンセラーである私に、うまく具体的に表出できるクライエントさんになってもらえるように促す勘所が、ある程度つかめて来たと感じています。

 そもそも、信頼関係とは、相手に不信や疑念をぶつけてもらえる関係のことだと思います。

 このことと関連する形で、私の最近の、ある意味で逆説が過ぎるとも受け取られかねないけれども、今後「代表作」のひとつとして徐々に読者に認めてもらえるはずと、ささやかに自負しているエントリー、


●適度に不安定で健全な不信関係


を、ご再読頂ければ幸いです(^^)


 もっとも、私のスタンスに関係なく、クライエントさんにとって、基本的に「そこそこいい」(good engughな)お医者さんであると認識され続けているお医者さんもおられます。そういうお医者さんには、きっと私も今後まだまだ学ぶべき、治療者としてのあり方があるのだろうと思っています。

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2009/05/12

Every Little Thingの"Graceful World"と"fragile"

 王子のきつねさんが、Every Little Thingについてかなり以前にお書きの論考3本を再度紹介されています。みんな力作です。

●Every Little Thing(ELT)三部作(王子のきつねOnLine)

 その記事に対するコメントとして私が投稿したものを、若干省略の上でご紹介:


============引用はじめ===========


 ELTについては、初の海外旅行だったハワイに行った時、機内のポピュラーチャンネルに偶然遭遇した"Graceful World"が出会いだったことは、自分のブログでも書いたことがあります。

 歌詞と共に、途中でマイナーになるあたりのベースの音の進行に新しさを感じて、それを聴きなおしたいばかりに、時差ぼけがいよいよひどくなるのを承知で眠らないまま1時間ほどで番組が繰り返されるのを待ち構えていました(^^)

 でも、この曲、ELTのシングルの中でもそんなにヒットした方でhないし、PVのラストも何か意味シンになっていて、歌詞の内容と意識的に矛盾するものにしている。

 あとでELTの曲をさらうううちに気がついたのは、少なくともこの頃のもっちんは、こういう「自分探し」系の歌詞を、しかもここまで高らかに書くことは、ちょっと珍しい時期に突入していたのではないかと。

 メンバーから五十嵐さんが抜けた直後の、ひとつの試行錯誤過程なのか、それともドラマのタイアップを意識しての意に沿わない歌詞になってしまったのかとも思います。

 もっちんの唄う表情も冷たいままで。

 ただ、この曲の、

Fulfill your Dreams この先にどんな試練が待ち受けていようとも
目を背けずにいて欲しい 幸せはほら目の前にある

という部分に、私は「万感の思い」を賭けて、その後の自分の激動の人生(?)に乗り出したというのも確か。

 そういうあり方が、悲劇や犠牲を伴わないわけがない・・・・というあたりまで「見越した」PVだったとしたら、予想外に深みがあったということなのかもと、思っております(^^)

●Graceful World PV(六间房视频 6.cn)

(中略)

 "fragile"は名曲ですねえ(^^)

「傷つきやすさ」と訳せるタイトルに響きもいいし。

ちなみに、自分のサイトでついおととい書きましたけど、自閉症と深く関係することが判明した遺伝子の中に、

"fragile X"

と名づけられたものがあると知りました(^^)

こちらを参照:

●第12回 乳幼児てんかん研究会国際シンポジウム 1日めの報告

 この遺伝子があると、ニューロンの間の神経伝達物質の興奮と抑制のバランスが壊れやすいそうです。

 それが、その人を「過覚醒(hyperarousal)」状態にしてしまう。つまり、内的な刺激・外的な刺激を普通の人の何十倍もの強度で体験する。

 新鮮な、不意打ちの体験がみんな耐え難いパニックになるので、毎日、同じ生活習慣を頑固に変えられなくなる(常同行動といいます)あたりは、映画「レインマン」で、トム・クルーズが、重度自閉症の、ダスティン・ホフマン演じる兄の好きなテレビ番組を、毎日大陸横断のドライブ中に見せるのにどれだけ苦労したかのエピソードでもおなじみです。

レインマン (アルティメット・エディション) [DVD]


 こうなると、人は環境や他者との接触から引きこもるわけですね。「鈍感」だからではなく、不均衡に「敏感に過ぎる」神経を生まれ持ってしまっているがゆえに。

 これが、世間一般でいう「傷つきやすさ」などとは超異次元の、いかに凄い心の世界かは、自閉症についての専門書を読んでいただくもらうしかありませんが。


===========引用終わり=============


●fragile PV(YouTube)


↓「フラジール」って、女性ブランドだと知人に聞いたので、柄にもなくですが、思わず追加(^^;)

CDやiPodの音楽を楽しめるコンパクトオーディオ【送料無料】amadana(アマダナ)デスクトップオーディオ2

↑音は聴いていません。でも、iPodオーディオ系の商品の中で、デザインセンスがしっかりしていて、女性にも向いているなと思ったので。このamadanaブランドは、デザインセンスが興味深い。
SAL pocket video camera
↑つい最近、携帯ビデオカメラ(ビデオカム)として、こんなコンパクトでキュートな商品も出しました("SAL" 今のところ直販のみ)。

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第12回 乳幼児てんかん研究会国際シンポジウム 2日めの報告 [第2版]

 お待たせいたしました。コーヒーブレイク(ラーメンブレイク?)をはさみまして(^^;)、前回の報告の続き、2日めです。

Image01500
↑筑後川にかかる久留米大橋(国道3号線)から遠望する、久留米大学医学部の諸施設。


 2日めの圧巻は、ランチタイムセミナーにおける、イタリアのMichele Zappella博士による、"Autistic Regression with and without EEG Abnormalities Followed by Favourable Outcome"と題する講演だったと思う。

 タイトルが示すように、EEG(脳波測定)という物差しを用いて、自閉症スペクトラム(ASD)と診断された534名についての、長期的なフォロー・アップ・データに基づき、脳波異常があるケースとないケースを比較することによって、その差異を考察したものである。

 この発表で強調されたのは、てんかんにしても、自閉症スペクトラムにしても、遺伝的な「宿命の病」と見なされることが多い現状に対して、「良性の転機を迎える」一群の人たちが明らかにいることの指摘であった。

 まずは過去の研究のレビューだが、1997年の調査研究では、自閉症がその後消失したケースは1.7%というたいへん低い数値であった。しかし、2007年の研究では17%、2005年の別の研究では47%が消失という調査データすら登場するようになる。

 この原因としては、時代を経るにつれての、自閉症についての臨床研究の深まりと、現場臨床での認識の深まりの中で、診断基準そのものが洗練され、早期発見がなされ、早期に言語・社会的な訓練が開始されるようになったなどの要因が当然考えられる。

 博士は更に、施設の態勢が貧困だったり、虐待家族のもとで育てられたケースが救済されることが増えたために、いわば2次症状としての、attachmentの障害が克服されていくと改善に向かう、遺伝的負因が相対的に低かったと判断できる一群があることを示唆した。

 今回の博士の2000-2008年にわたる縦断調査研究の中で報告された、脳波異常の消失例(39例/446例。結節硬化症やflagile Xの患者は除外)は、ただ1例を除いて、自閉的退行があった症例である。

 具体例としては、3歳児で、てんかん発作の開始と共に急速に退行が始まったが、診断を受けて1年後にバルプロ酸ナトリウム(デパケン)の投与がはじまってから急速に回復、現在12歳で、一貫して普通学級で教育を受け、若干のサポートは必要だが、言語的・コミュニケーション的な適応はほぼ完治といっていい水準に達しているという。そしてそれはその途中の期間に、脳波上の部分発作が繰り返しあったにもかかわらず生じた回復だった。

 博士の説によれば、こうした、(薬物投与以外)「自発的回復」に近い形で自閉症スペクトラムからの転機を迎える事例がかなりの数ある以上、安易に特殊教育の場でのみの集中的な介入の形で、言語的・コミュニケーション訓練の場に置いて純粋培養しようとだけするのは、ノーマルな子供たちとの接触の自然な接触の中で得られる刺激から遠のけることになるのではないかということであったが、これについては、「早期発見・早期介入」を強調する他の参加者との間で白熱した議論がなされて行った。

 ただ、このディスカッションの成り行きを、乏しい英語力で必死に追いかけていく中で、私の中に生じていたのは、そもそも議論がかみあっていないというか、言語的・社会的コミュニケーションが円滑に進んでいない(^^;;;;)のではないかという思いであった。

 学会発表の場を活性化するためのフロアからのピンポイントの介入的質問が大好きな私であるから、もし私が英語に堪能だったら、絶対に途中で「危機介入」していたことだろうcoldsweats01

 こうしたフロアからのコメントについての私の基本スタンスは、Aoyama Masanoriさんの、


●事例検討のレジュメ(Walk Don't Run  ゆっくりいこうよ)


というエントリーに、僭越ながら、私のコメントとして詳しく書かせていただいています。

 博士も、ABA応用行動分析の積極的効果については繰り返し強調する答弁をしていた。個人的に思うに、ABAは、ベーシックな用いられ方をする場合、あくまでも患者の家族の側の、患者との相互作用を改善する戦略で用いられることになる。つまり、治療者が、患者自身に、患者自身が耐え難い水準でインテンシヴな介入や訓練を押し付けてしまうことによる「二次障害(三次障害?)化」のリスクからも遠い。

 恐らくこの点が博士がABA支持の発言を繰り返す背景にあったと想定できるのだが、とてもとてもこうしたことを英語で噛み砕いて説明できるほどの語学力は私にはないものだから。

 博士の次の発言が印象に残っている:

遺伝負因の発現をむしろ抑止する遺伝子というものが存在し、一度始まった自閉症的(てんかん的)退行からの自然発生的な回復の誘因となっている可能性があるのではないか」

「大事なのは、その患者にあわせて、適切な時間軸において、tailor-madeな形での治療的な介入がなされていくことだ」

 知人に訊いたところ、"tailor-made"という言葉は、今や「オーダーメイド」という和製英語に代わって、日本でも広まってきた言い方だという。

 これを中井久夫先生流に言い換えると、「一品料理」としての治療、ということになる。

中井久夫/精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

 なお、てんかんをわずらった患者さん自身による、「てんかんを生きる」とはどういうことかについての、実に整理された、わかりやすい論考があります。

(この圧倒的な几帳面さが、いかにもてんかん性格の人らしい!!)


●あるてんかん患者の日常心理(by Y-Shigeyamaさん)


 たいへんな労作だと思います。てんかんに関心がある皆様は、せひお読みください。


******


 いずれにしましても、自宅間近な、故郷久留米の大学で、こうして、発達障害とてんかんの医療と基礎医学に関わる、世界最先端を行く研究者や臨床家の議論を聴く場を、心理臨床家にも開かれた形で与えてくださった、久留米大学小児科の松石教授をはじめとする、関係者の皆様と、パンデミックの危険も何のその、久留米の地までおいでいただいた、諸外国の臨床医学者の皆様に、厚く御礼申し上げます。

It's Exciting!

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2009/05/08

日本人間性心理学会第28回大会、公式ウェブサイトで、詳報先行掲載されています。

 今年は、私が学生相談室で12年間勤務した、法政大学町田校舎(多摩キャンパス)で、8月28日(金)から30日(日)にかけて開催されます。

 ●日本人間性心理学会第28回大会公式ウェブサイト

 まだ郵送での案内が届いていないのに、大会案内とワークショップ案内の、恐らく郵送バージョンと同一のものが、すでにpdfファイルで公開されている心配りには感心しました(^^)

 この学会は、参加資格がオープンですから、このような率先したネット公開の姿勢はいよいよ歓迎すべきかと思います。


******


 大会案内でも書かれていますが、法政大学多摩キャンパスは、宿舎を確保しようと思うと、ひとつ間違うと、思いのほか、アクセスが不便になります。

 特に、「町田」という地名に幻惑されて、町田駅前のホテルなどを確保したら、1時間かけてもたどり着けない可能性も出てきます。

 JR横浜線からですと、橋本駅のとなりの相原駅からほとんどのバスが出ていて、しかも本数が必ずしも多くないのです。

 参加される皆様には、むしろ、JR八王子駅のそばのホテルの確保が、公共交通機関の本数も多いのでお勧め。ただし、JR八王子-西八王子間を一駅だけ中央線で移動なされて、10分に1本運転の法政大学行きバスにお乗りになることがお勧めですhappy01

JR八王子駅前には京王プラザホテル八王子がありますし、南口の目の前に八王子アーバンホテル、北口から3分ぐらいでマロウドイン八王子、三惠シティホテル八王子、千代田ホテル、シーズイン八王子という、簡単な朝食つきないし素泊まりのシンプルなスタイルのビジネスホテルがあります。

 JR八王子北口から徒歩3分に京王八王子駅はあり、R&Bホテル八王子と、京王八王子駅前ホテルというシンプルスタイルビジネスホテル、八王子プラザホテルというミドルクラスのホテルがあります。

 このあたりまでがほんとうに駅に近いホテルでしょう。

 JR駅前から北西に伸びる八日町や八幡町の交差点まで歩いていいという皆様(八王子の歓楽街はこの通りです)だとこの限りではなくなりますが。車でおいでの方だと、八王子インターから16号線で降りてきたこの近辺のホテルの方が、そのあとの法政多摩までのドライブ(15分ぐらい)の上でも余計な回り道がないでしょう。

 セントラルホテル八王子、八王子スカイホテルがこのタイプ。

 橋本駅だと、橋本パークホテルが徒歩数分にあるくらい??? 数は多くありません。


 ・・・・以上、20年間以上八王子市民だったこういちろうより。


●楽天トラベル 八王子近辺のホテル

楽天トラベル



大きな地図で見る


******


 私は、今回の大会の個人発表にエントリーします。

 この数年の体調不良の中で、「エントリーする」とこのサイトで宣言しつつ実現できないことの方が多かったのですが、今年は、色々な意味でモチベーションが強いので(^^)、きちんとこれから貯蓄を重ねて(爆)万全の体制を作るつもりです。

 私の、一年ぶりの、関東再上陸となるわけですね(^^)

 すでに予告しておりますように、発表の内容は、

●薬物療法を受けているクライエントさんのセルフ・コントロールと、主治医とのコミュニケーションのサポートに貢献する、フォーカシングスキル・トレーニング(仮)

という、チャレンジングなテーマです。


****


※今回の大会の準備委員会の中心メンバーである、法政大学現代福祉学部の末武康弘さんと、おなじみ、近田輝行さん、村里忠行さんのご3名、更に、吉良安之さん、伊藤研一さんが分担執筆、そして諸富祥彦さんが編者も兼ねた、「フォーカシングの原点と臨床的展開」という本が上梓されました。

9784753309030128pix
岩崎学術出版社のサイトでの詳しい紹介。

フォーカシングの原点と臨床的展開


 この件は、nanaさんの† tangine †サイトでの速報より。

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2009/05/03

SkypeやWindows Live Messengerの使い方の勘所は、「自動調整」を外すこと。

 さて、どうも、私のような40代ぐらいの世代の人が、一部の人を除くと「通信手段」としてまるで知らない場合があるのが、Skype(スカイプ)や、Windows Live Messengerなどといった、無料音声動画通信のことです。

 代表的な2つを取り上げましたが、他にもYahoo! Messengerなどがあり、いずれも、パソコンに一定のソフト(フリーソフト)をインストールすることによって、少なくともその同一ソフトをインストールしているパソコンのユーザー同士でしたら、世界中無料でネット電話ないし動画つきのテレビ電話のようなものが使えるシステムです。

 OSが異なる場合の制約もほとんどなくなりつつあります。少なくともSkypeについては、macとwindows間の通信は、ソフトの機能的にも十分に対等な完全互換的水準にあると思います。

 更に、最近では、多くの場合、すれば、通常の携帯電話や固定電話とのコミュニケーションも可能ですが、その場合には別途、有料契約が必要となります。

 日本ではともかく、欧米ではすでに、次のような、Skype標準搭載の「携帯電話機」について、具体的な動きがあります。

●Skypeが携帯電話機にプリインストール: モバイルVoIPのスタートアップたちには脅威かチャンスか?(TechCrunch JAPAN)

******

 ◇必要な装備

 最低でも音声通話のためのマイクヘッドフォン(ヘッドセット)。動画つき電話のためでしたらウェブカムと呼ばれる小さな動画カメラが必要。これらすべてのセットでも、合計でも2,500円くらいから買えます)。

 もし、デスクトップパソコンなどで、すでににパソコンスピーカーをお使いでしたら、少なくとも最近のウェブカムは、内蔵マイクが仕込まれている機種がほとんどになってきましたので。そういう、内蔵マイクつきのウェブカムさえあればいいことが多いでしょう (なお、この使用法の場合、ボリウムをコントロールしないと、ハウリングが生じる点のみ注意)。

Mywebcamsetting
↑私の部屋だと、そういう、デスクトップパソコン用小型スピーカー(usb外付けSound Blaser経由でHi-bitオーバーサンプリング処理)とマイク内蔵ウェブカムによる、ハンズフリーでやってます。

 そして、少なくともここ2,3年の携帯(ラップトップ)パソコンのほとんどには、最初からこれらの装備にあたるものがさりげなく付属していることが多いようです。つまり、最低でも内蔵マイクと内蔵スピーカーつきのパソコンなら、わざわざヘッドセット(マイクつきヘッドフォン)を購入しなくても、ハンズフリーで通話はできます。更に最初から内蔵ウェブカメラつきのものならば、ソフトのインストールと設定だけですぐにはじめられます。

 最近は「skypeプリインストール」ということまで最初からウリのラップトップパソコンすら稀れではないようですね。

 例えば、BenQの戦略的新製品、nScreen i91のサイトではこんなふうcoldsweats01 ・・・実は自分でやってもそんなに大げさなセットアップではない筈なのですが(^^;)。

Image_bincfm
 ←ただ、こういう、おしゃれなSkype用受送話器(ハンドセット)まで有料オプションで準備する「根性」は認めておきましょうかcoldsweats01

******

 ◇推奨外部機器

●ロジクール キューカム コネクト ウィズ ヘッドセット ワイルドシルバー QVP-61HSSV

 たいていの人はこの機種の性能で十分満足するはずと思います。

 同製品のヘッドセットなしバージョン(内蔵マイクはウェブカム本体にもついてます)だともっと安くなりますが(^^;)

●ロジクール キューカム コネクト ワイルドシルバー QVP-61SV

*****

 ◇音質・画質

 殊に、音質についてだけでしたら、すでに一般電話や携帯電話の音質をはるかに超えていて、たいていの皆様が驚かれる筈notes

 特に、先日バージョンアップしたWindows Live Messengerは、通信条件さえよければ、画質がおどろくほど美しく、動画も流麗になってきましたね(^^)

 もっとも、音質・画質・接続の中断などが生じにくい安定性の方は、それぞれの皆様のパソコンの性能やネット環境、マルチタスクで他の作業も並行して行なうかどうか、あるいは、そのときのインターネット回線事情などで大きく変わります。

 しかし、敢えて断言します。

 少し古めのXPパソコンでも、756mBから1G近いメモリーがあれば、しばらく前までのYouTubeでありがちだった動画水準は楽々上回るくらいのセッティングは可能です!! (^^) 

*****

 そして、ここで、ついにこういちろうの秘伝公開。

 途中で回線が中断されることもなく、音質も画質も安定した形でskypeやメッセンジャーを楽しむための、設定上の最大のポイントdanger

1.音質・音量・画質の設定項目において、「自動調整」となっているすべてのチェックマークを外すこと。

(ただし、自分が話した直後、少し遅れて、自分自身、あるいは相手側に、自分の声がこだまのように聞こえることが確認できた場合には、「エコーキャンセリング」のみONにする)

2.ソフト側の設定において、音声入力と出力の音量のマニュアル設定において、十分にメーターが触れているのであれば、ボリウムを下げること

わずか、この2点です。

 skypeのwindows最新版を例にすると、以下のようにチェッククマークとボリウムを設定してみてください:

Skypeaudiosettings
↑特にlogicool micのボリウム、わずか「1」にしていることに注目!!

Skypevideosettings

 詳しい説明は省きますが、

1.音量や画質の自動調整機能を働かしていると、それだけで、パソコンの余計なプログラムが動くことになり、CPUのエネルギーを大幅に消費していること。

2.そして、デジタル音声の伝達というのは、音の帯域やダイナミックレンジを大きくすればするほど、音声ファイルのサイズは雪だるま式に大きくなる(それだけネット上のパケットを大量に使う)

という2つの点が鍵です。

 上記の2つの設定をいじるだけで、

 「まさかこんなにSkypeやmessengerの画質や音質が良く、安定していて、突如切れたりしない、見やすくて聴きやいものとは思わなかった」

とお感じの人がかなりの数、いてくださるおられるはずです(きっぱり)

 ただこれだけのことで、メモリ使いすぎばかりか、これから夏に向けていよいよ頻発する危険があるCPU熱暴走が原因のトラブルは大幅に減るんですねbleah

*****

 この「自動音量(画質)調整機能をできるだけOFFにせよ」という原則は、特にボータブルな機種でのデジタルのナマ録や、いわゆる「ボイスレコーダー」の音質設定をする際には(更に、ネット上で音声や動画ファイルを伝送する人には)、ほとんど「黄金律」というべきものです。

 もし、サンプルbitレートやステレオ・モノなどの切り替え設定ができるのなら、最初からそちらを低水準にセットしてしまうほうがよほど音質的にも通信的にも安定しています。厄介のなのは「画質や音質・音量をアクティヴに自動調整するプログラム」のCPUおよびメモリ/パケット食い過ぎなのだと思っておいてください。

 画像や音声の圧縮機能にしても、その圧縮・伸張プログラムの動作だけでCPUは更に余計に酷使され、メモリも盛大にスワップ領域を増やして作動していることを忘れるべきではないでしょう。

 この点でも見事に敗北したのが、ソニーのATRAC戦略だったと私は見ています。パソコン上のSonicStageが一時期あそこまで「重たい」ソフトになってしまった時点で。

****

 なお、この記事の続編として、実は、ハンズフリー使用よりもヘッドセットやマイクつきイヤフォン使用の方が、画像やパソコンの動作の上では更に快適に通信できるはず、という問題について、

●skypeやlive mesenger使用時には、ハンズフリーよりもヘッドセットやマイクつきイヤホン使用のほうが画像も滑らかに動く

という記事も書いてみましたので、是非お読みください。

*****

 なお、私のカウンセリングルームでは、Skypeやメッセンジャーを通してのネット面接を積極的に試みはじめています。

フォーカシング個別指導や、インタラクティブ・フォーカシング、フォーカシングを用いた夢分析も、こうしたネット媒体を通してもお引き受けしていくつもりです。

1.完全予約制で、約束時間帯厳守です。
2.個々のセッションを始める直前にも、毎回、念のため電話による連絡も願いしています。
3.すでに直接来談面接で安定した関係作りの実績がある方を除くと、料金前納の原則を持っています。
4.IDは、実際に電話等で事前に打ち合わせをした上ではじめて相互交換する、クローズドな形にしています。

 ご興味をお持ちの方は、久留米フォーカシング・カウンセリングルームまで、お気軽にお問い合わせください。

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「天才バカボン」で天才なのは?

タイトルにもかかわらず、バカボンではないということだけは確かである。

次に、間違いなく誰の目にも天才だと描かれているのは、バカボンの弟のハジメちゃんであろう。そして、そのハジメちゃんの母親である、バカボンのおかあさんも、潜在的には天才であることも納得できる。

しかし、この作品の中における真の意味での天才が、バカボンのパパであること、つまり、この作品のタイトルを、あと知恵で合理的に改題すれば、「バカボンのパパは天才!!」であろうことは、言うまでもなかろう。

 「これでいいのだ!!」

 というのは、バカボンのパパの、いわばそのような「天才的」問題解決手法の強弁的な自己肯定のための発言であるともいえる。

 しかし、それは単なる開き直りではなく、むしろ、自分なりに恥も外聞もなくじたばたした挙句、とにももかくにもたどり着けた、「かりそめの平安」の境地への、感謝を込めたつぶやきのようにも思える。


*****


 更に言えば、それは、旧約聖書の天地創造において、神が6日目に、人間以外の生命まで地上に創造したあとで(人間はまだです)、「見よ、それは極めてよかった」(創世記1.-31 新共同訳)とつぶやいた時の思いを連想させる。

 そして更に言えば、新約聖書のヨハネによる福音書に描かれている、香油を注ぐ(マグダラの)マリアの振る舞いについての、イエスとイスカリオテのユダとの問答のエピソードすら思い出させる(ヨハネ 12:3-6)。

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。(新共同訳 p.191)

 ・・・・・・だから、これで、いいのだ・・・・・と、イエスは言われた。


 「罪ある女」が自らの身体という犠牲の元で稼ぎ出したお金を惜しみなく投じることの、基本的な無償性を、少なくともこのヨハネによる福音書の物語では、表裏ある偽善的な世俗の弟子であるに過ぎない(よーするに、自分が使い込んだ分だけマグダラのマリアから搾取して埋め合わせようという魂胆だったことになる)イスカリオテのユダは理解できないようである。

 そこには、自らの肉体をまもなく人類の犠牲に捧げ、「あなた方と一緒にいる」わけではなくなるイエスへの根源的なcom-passion(苦難の、共有)があるということに。


******


 ・・・・・・こうして、話がどんどん大きくなったしまったけど、 
「これで、いいのだ」
とつぶやいておく、こういちろうなのだ。



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アルク


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精神神経科・心療内科の薬の効き心地の「実感」についての本。

 神田橋條治先生たちが、精神神経科の患者さんたちが飲む代表的な薬剤について、その「効き心地」とはどんな実感なのかについて、医者たちの経験値や患者さんたちの意見を元にまとめた本を出しているという噂は耳にしていた。

 しかし、それが現実には次の本であるということは、今回はじめて気がついた。


●神田橋條治・兼本 浩祐・熊木 徹夫/精神科薬物治療を語ろう―精神科医からみた官能的評価

●熊木 徹夫 /精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブック

 実はこれから注文して読んでみる段階であるから、具体的な感想は先送りにしたいのだが、すでに別の記事で私が書いたように、精神神経科や心療内科で出される薬物について、薬ごとに、実に精妙にその効能(および副作用)の実感が異なり、患者さんどうしは、その、薬ごとの効き心地の実感の違いを、実に精妙に間主観的に共有できるコミュニケーションが成立している(=お互い通じる言葉で語り合える)ことは間違いない。

 例えば、パキシルをジェイゾロフトに変更するとどのように飲み心地が変わることが多いか? 私の得ている情報からだけで、こららの本からの知識なしに敢えてブラインドで書いてみると以下の通り。

 ジェイゾロフトの方には隠れた軽いドーパミン再取り込み抑止効果があるため、朝の目覚めがすでにすっきりしていると訴える人が少なくない。ただし、副作用としてありがちなのは、過食からむしろ食欲低下や下痢にシフトすることであり、いわば「肉食系」から「草食系」へのライフスタイルの変更を求められることを自己受容できるかどうかが分かれ目となりやすい。

 恐らく、パキシルよりはジェイゾロフトの方が、日本人向きの、効き目もピュアで副作用も少ないことが多いSSRIではあるのだが、ジェイゾロフトには、ある種妖しげなまでに飲む人の心を虜にする嗜癖性が隠れている気がする。それは、いわば、タバコ飲みの人が、タバコを飲まないでいると、言葉使いの精妙なセンスや、細やかな注意力が低下するので、タバコを止められなくなるのと類似した質のaddictionの体験であるようだ。 

 それまで単極性うつ病との診断の元にSSRI中心の処方を受けていた人が、双極性II型ないし、気分変調症という診断が正しかったという判断の元に、ベーシックな薬を、気分スタビライザーのデパケンに変更することはよくあり得る。デパケンに変更すると、抗うつ剤にのみの時に生じていた、「鬱になるにしても、やり気になるにしても、自分の心身の重荷にゆすられるリバウンド現象から心身が見事に解放される場合があり、数年間不可能だった社会復帰がいともあっさりと現実化することすら稀ではない。

 だが、こうしてデパケンをメインに切り替える過程で、何らかの意味で、それまでのような、繊細で細やかな感性が自分から失われ、平凡な日常と現実の中に、ひたすら埋没できても平気となってしまい、と一種の「俗人化」が生じることをむしろつらく感じる人も少なくないらしい。

 そういう人のために、例えば、ジェイゾロフトを一日一錠夜だけ残すというのも、職人的な精神科医が患者さんによく提案するやり方らしい。そうやっておくと、いわば「タバコを止めない」ことで集中力や感性の敏感さを維持するのと類似した効果が期待できる。

 しかし、誠実なお医者さんなら、次のことをはっきり、インフォームド・コンセントする。

 「本当は、デパケンだけで済むなら、そのほうが回復全体は順調に進むはずです。もうあなたは、《プラス5の絶好調》も体験しないかわりに、《マイナス10の耐え難い絶望や抑うつ》に苦しむこともなくなります。ただし、あなたはいつでも単調なまでに《「気分どっちかというとマイナス1》状態で日々を送ることになります。そういう生活に、せいぜい《プラス2》ぐらいまでにしかハイになれない変わりに時には《マイナス3》ぐらいに気分が沈むくらいの潤いと張りと心身のゆさぶりを、一錠のジェイゾロフトは維持させてくれるかもしれない。・・・・・どちらを選びますか?」

 ちなみに、私はデパケン「だけ」を選んだのですが(^^)。 存外、私なりの繊細な感受性や言語表現力の精妙さは奪われなかったどころか、程よい軽妙さとユーモア、そして、迷いなく率直である態度という、もっぱら肯定面のみ。

 しかも、医者からは「永遠のマイナス1の安定」といわれていたのに、実際には、むしろプラス0.5くらいの安定という、ほのかな明るさの中に過ごせているという、思いもよらない結果なのですが、それを可能にしているのが、デパケンだけの力ではないこと、つまり、生身のニンゲンとの絆という薬あってのことであることは、重々自覚しつつ感謝しています(^^)


******


 いずれにしても、この2冊については、すでに毀誉褒貶がすさまじいものがあります。かなりの程度「主観的」であり、脳神経薬理学的な裏づけに乏しいというのです。この点は、熊木氏が単独で執筆した続編では、エビデンス・ベースドな方向を徹底して、かなり改善したようです。

 それでもなお、「患者がこんなふうな効き目を味わいたいという方向に誘導することにばかりなるのでは?」という批判などがあるみたいですが、少なくともこれだけは断言します!!

 患者さんが、医者の言うことを「おとなしく」きいていて、黙って薬を飲むという形でのプラシーボ(偽薬)効果に依存して薬物療法がなされる時代だけは、もう終わりにしてもいいのではないでしょうか?

患者さんが、自分の薬に効き目を自分の中で絶えず実感上モニターしていて、医者はそれを聴く耳を持って好意的に受け止めて刻々と役立てるという、患者さんと医者との薬を媒介としての信頼関係がいったん樹立されてしまいさえすれば、これほど治療効果が上がり、お医者さんにとっても負担が少なくなる治療関係はないのです。

 私は、この問題について、カウンセラーという立場から介入し、サポートするための方法論という、ある意味で、単なる医者もカウンセラーも超えた視点からの専門家であるための具体的方法論の確立を、今、模索しています。

 それは、こうした著作での、神田橋先生たちの「官能的評価」と呼ばれた次元での試みを、すでに過去のスタティック(静的)なパラダイムに過ぎないものとして、踏み越えて、更に先に進むことになるやもしれません。

 かつてただの一度も神田橋先生の信者になる気にはならなかった、一臨床家として。

 「中井久夫信者」といわれることについては、全然違和感ありませんけどね・・・・・・

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2009/04/28

カウンセリングルームの今年度ゴールデン・ウィーク中の開室日について

 私の開業する久留米フォーカシング・カウンセリングルームは、平成21年度のゴールデン・ウィーク期間中、原則として開室とさせていただきます。

 当カウンセリングルームへのお問い合わせ等を含めて、積極的にご活用いただけましたならば幸いです(^^)

 もちろん完全予約制のカウンセリングルームです。私も皆様にお断りなく外出している場合もあることはお許しください。

 これに伴い、担当カウンセラーが所持している携帯電話番号のひとつもパブリックに公開することにいたしました。

 いつもお返事できるわけではありませんが、カウンセリングルーム不在時のお問い合わせ等にお応えしたいと思います。皆様も、社会良識に基づいてご活用ください。


●お問い合わせ・お申し込み

TEL & FAX : 0942-48-8797
携帯TEL:070-5593-8584
Email:kurumefocusing@live.jp


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2009/04/27

人間は内面から変わらねばならないというのはウソである

クワバタオハラ 結婚&破局報告会見
●クワバタオハラ 結婚&破局報告会見
(msn=産経)

●くわばたりえ 今、私たちのモテ期が熱い!(AmebaGG)

 クワバタさんのダイエットの結果としての腰のくびれには、男性ながらショックと羨望を覚えたこういちろうでしたが(^^)

クワバタのくびれダイエット~コアリズムでこんなにやせた!キレイになった!~

 この人のダイエットに関しても、色々陰口をいう人もあるみたいだけど、何か、私の用語でいう「知ったかぶり系」(=裏返しの「妄想系」)が多いみたいなので(^^;)

 彼女の、今回結婚するお相手との秘めた交際は最低3年以上(^^)ということですが、ダイエットが成功したのは、彼への思い、そして彼の協力(・・・・ここでは皆様、少しだけ妄想に走っても、全然失礼ではないと思うゾ)あったればこそだろう。


**** 


 どうも、私のような商売をしていると、摂食障害との兼ね合いもあって、ダイエットという現象に対して、つい批判的なことばかり書きたくなる。

 しかし、ただダイエットするのではなくて、適切な形での筋肉の鍛え方と贅肉(内臓脂肪)の取り方となり、そのひとなりのいいバランスに向かうことが、その人の健康と長寿ばかりか、仕事やプライベートにおける活動全般の燃費の向上、疲労回復度の上昇、さらにはメンタルストレスの軽減と自信の向上という良循環となる場合が多いことについいては疑う余地がないだろう。

 ここ何ヶ月かの私の場合には、抗うつ薬から気分スタビライザーへの投薬の変更に出発する、うつ状態からの劇的な回復過程(絶対に躁転もリバウンドもしないのである!! まるでカタカタと軽快な音を立てつつ全く平常心で原稿を打ち続けるタイピストのような、そういうささやかな日常性のなかでしみじみと生きている)がいったん確立してみると、まずはもっぱら脳を使う労働は、このネットでは全然現れていないところまで含めると、我ながらあきれるコンスタントなフル回転状態があたりまえになった。

 実は、それこそが、驚異的に勤勉な、久留米を代表する経理と事務職の職人として、大病を一度も患わないまま、超頭脳明晰に生きて来た、私の父のライフスタイルの血をもろに継いだ、「十分に機能する人間(ロジャーズのいう意味での)」としてのあるがままのライフスタイルだったのだということに、成人して以降、やっとこの歳にしてたどり着けた思いである。

(やりたくない仕事をフルタイムでやらざるを得なかったら、今の私でも持たないかもしれないけど)

 そうなると、自然と外出する気になることも多くなる。つつじを見物して回ったり、地元のコアなグルメを訪問してみたり、自転車を買いなおしてみたり・・・・・ということが自然と生じているのは、このブログで書いてきたとおり。

 これだけで、人によっては、「以前よりずいぶん顔や体型がすっきりしてきたね」と言われ始める。

 そうなると、更にいい気になった私は、もう少し出歩いて運動してみようかとか、マジにクワバタさんの本だけでも、安いから買ってみようかとか思い始める始末である。


 靴も新調した。

 いずれファッションの新調まで分相応にはじまるかも。

 (なぜか、カバンから筆記具まで、身の回りのアイテムは、私が驚くほどの目利きで私にフィットするものを選んでくれる人がいるが)。

 今度皆様にリアルでお会いする時のこういちろうが、一見正反対かと想定されかねない、貴族的なダンディさで知られるフォーカシングの池見陽先生ふうの「チョイ悪オヤジ」っぽく(この先生はジャズ喫茶でペットまでお吹きになる!!)いつの間にか変身しているように、10%でも感じさせれば、大成功なのだが(爆)
 

****


 「内面から変わらねばならない」という強迫観念から、人は解放されねばならないだろう。

 もちろん「行動が変化しなければ何も意味がない」というのも、同じくらいの虚構である。


 そして、「ものごとを、マニュアルや教科書に沿って、きちんと積み上げて学ばねばならない」というのも虚構である。

 自分の納得いくところから、納得いくだけ、自分のニーズに即して、つまみ食いしていく人のほうが、結局途中で挫折することなく、気がついてみると、生真面目すぎる勉強家よりも遥かに深いところまで上達しているばかりか、開発者の原典の読解においてですら、机上の学者たちより正確で緻密という境地にいいたることもある。南方熊楠がこのタイプの空前の天才であったことは一般によく知られている。

 
 同様にして、「ものごとに完全かつ周到な準備が必要」というおもいこみは打破すべきだろう。

 時には、しったかぶりやはったり、出たとこ勝負で切り抜けることも必要である。

 さもないと、実践的な問題解決能力や、ネゴシエーションの能力はいつまでも育つまい。


*****


 「化粧セラピー」という、矢野実千代さんが開発したジャンルがある。

●コスメティックセラピー

 これは狭い意味での「美人になるための」お化粧のしかただけではなくて、例えば生きる張りを失いかかったお年寄りや、やけどや傷などの跡についてのコンプレックスに苦しんでいる人のためのものでもある。

矢野 実千代/高齢者のコスメティックセラピー (介護福祉ハンドブック)

 数年前、テレビでじっくりとドキュメンタリーを見た時、この人の発想とマインドは下手なカウンセラーすら超えていることを痛感した。

●瀧澤 祐希/お化粧セラピーが高齢者にもたらす影響について [医療法人耕仁会(札幌太田病院、介護老人保健施設セージュ山の手/新ことに) 学術研究論文集 第12 号]

 そして、この人をカウンセラー関連の学会の研修会かセミナー、あるいは大学学生相談センター主宰の学生向け公開セミナーに講師としてお呼びしたら、すごく刺激的な事態になるはすと夢想した。それはいまだ実現できていない。

 上記のウェブサイトの更新が止まっているので心配だが、このネタ、公開しますので、カウンセリング系の研修で研修講師のマンネリに困っている企画書の皆様、どうかご検討ください。

 不況の世の中で、彼女の事業が発展的に展開した結果、ネット検索できなくなっているだけなら幸いだが。

 (出資者が手を引いた、とか、一番ありそうなので)


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2009/04/26

完璧な天使であるか、燃えるゴミとみられるか  -「マイ・フェア・レディ」のダークサイドとしての「市民ケーン」-

 恋愛において、例えば女性は、男性に、すばらしい魅力的な愛情深い女性だと惚れ込まれ、尽くされ、愛おしまれるか、それともファム・ファタール(悪女。ドン・ホセにとってのカルメンのような、男を利用し、もてあそぶ「運命の女」)とけなされるかという両極端を行き来するジェットコースターの振幅にどこまでつきあえるか(=ひとつのスリルとして楽しめるか、あるいは耐え忍べるか)がその展開を決めることが多いのではないかと思う。

 男はといえば、女性から「白馬に乗って現れた王子様」とみられるか、それとも「私の身体(容貌、財産、主婦的機能etc.)だけが目当てだったのね!」とみられるかの振幅のシェットコースターの乗り心地をどこまで乗りこなせるかであろう。

 ところが、人は恋愛において、このような、自分にとって相手が「善」か「悪」かという振幅に耐える(乗りこなす)というモデルに基づく経験値だけでは、とても説明がつかない傷つきを、体験することがある。

 わかりやすいのは、「史上最高の映画」とまで呼ばれる、オーソン・ウェルズの、「市民ケーン」において、ウェルズ演じる新聞王・ケーンの2番目の妻となる、スーザンの陥った地獄である。

 彼女は、大統領の姪である先妻を差し置いての不倫という大スキャンダルを経て、ケーンに選ばれた。大邸宅ザナドゥで何不自由のない生活を与えられるばかりか、歌手志望だった彼女のために、ケーンは、頼まれてもいないのに大オペラ劇場を建設する。

 しかし、スーザンの大根ぶりは半端ではなかった。それでもただひとり彼女に拍手をし続けるケーンの異様な姿。

 しかもケーンは、スーザンがもう舞台に立つのをやめたいと少しでも言い出すと、突如、理解不能なまでに烈火のように怒り出す。

 それはまるで、ケーンの胸の中の巨大な水晶の玉が砕け散り、スーザンの体中に突き刺さる衝撃を、わけもわからないままひたすら耐え忍ぶしかないような衝撃となる。

 この衝撃が繰り返されるたびに、スーザンの身体には、少なくとも軽度のPTSD水準と言っていいトラウマが、降り積もるように蓄積される。

 このこと自体、今日の概念で言えば、「モラルハラストメント」そのものなのだ。

Q&A モラル・ハラスメント―弁護士とカウンセラーが答える見えないDVとの決別

 だが、それは、ケーンの「滑稽なものではあるが献身的な深い愛情」という形で、幾重にもオブラートに包まれてしか、周囲の人間には感知されない。

 でも、スーザンは内心思っていたはずだ。

 自分は、「完璧な天使」として彼の思うがままに改造されることに甘んじるか、さもなくは、全く無価値な、それこそ肉体交渉のあとのティッシュみたいな無価値・・・いや「無」そのものとして突如さらりとゴミ箱に入れられてしまうかの、二者択一を突きつけられている!!

 こんなザナドゥの地獄に幽閉されるくらいなら、夫に、財産目当てのファム・ファタールとして罵(ののし)られる方が、百倍幸せとすら、彼女は感じていたかも。

 人は、「相手にとっての善」か、「相手にとっての悪」かの振幅にはまだしも耐えられる。

 しかし、

 「相手にとってのすべて」か、それとも「相手にとっての無意味」か・・・・の振幅には耐えられない。

 後者のような対人関係様式しか相手に提示できない人のことを、真の意味での「ナルシスト」(自己愛人格障害)と呼ぶ。

 つまり、ケーンこそ、映画の中で描かれた、史上もっとも強烈な自己愛パーソナリティなのだ。

 そこには、「自分にとっての完璧な操り人形」か、雨の中に打ち廃(すて)られた、もはや省みることもない「廃棄物」という形でしか、パーソナルな人間関係を結べない人間の、ほんとうに底知れない孤独の世界が口を開けている。

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(↑今の部分を書いていて、思わずayuの"marionette"のビジュアルを連想したので。)

 ケーンにとっての、唯一例外的な、この世における人との絆として信頼できる「移行対象」(ライナスの毛布)、それが、生みの親のもとでの少年時代の遥かな記憶を今につなぐ、「ばらのつぼみ」だった。

 しかし、その「ばらのつぼみ」という宝物は、誰にもそのパーソナルな価値を再発見されることなく、まさにただの燃えるゴミになってしまうのである。

 こうして、映画の物語をみる観衆(の中の、孤独なナルシシズムへの免疫を幸いにして形成でき、しかも、柔らかい皮膚と心の産ぶ毛を失わないまま「サバイバル」できた、幸いなる人たち)にのみ、亡きケーンの体感していた空しさの核心は共有され、癒されて、この映画は終わるのだ。


市民ケーン(1941) - goo 映画


*****


 ここまで書けば、「マイ・フェア・レディ」のコックニー訛りの花売り娘イライザをレディにしようとしたヒギンズ教授のダークサイドがケーンであることを、これ以上説明しなくてもいいでしょ?


市民ケーン [DVD] FRT-006

マイ・フェア・レディ [DVD]

マスターソン/自己愛と境界例

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2009/04/23

カウンセラーの仕事って、具体的にどんなことを指すのか?

カウンセラーの仕事として、単に「カウンセリング」や「心理療法」をすることの専門家としてとらえるのは、私は間違いだと思っています(^^)

 特に開業カウンセラーの場合にはそうなんですが、実はそうとばかりもいえなくて、およそ臨床心理士であれば認識すべきユニバーサル・スキルとしては、実に広汎な専門性が含まれている気がします。

 これを敢えて、私なりに整理して、教科書的に、でも、私の言葉で書いてみたいと思います(^^)

 なお、ここでモデルとしているのは、私が17年間主な相談領域とした大学学生相談の現場です。用語は、明治学院大学学生相談センターの年次報告書で実際に使われていた分類をベースにアレンジしました。


●ガイダンス・情報提供

例えば、医者、消費者センター、弁護士、女性センター、就職センター、ハローワーク、職業技能学習センターなどをはじめとする内部・外部機関の機能について解説し、紹介することです。


●アセスメント(見立て)

単なる心理テストの評定のことではなくて、クライエントさんの置かれた状況や行き詰まり、病理水準、対人関係の悪循環パターン等について具体的に分析し、これからカウンセラーとしてどのようにお役に立てる可能性があるのかを具体的にクライエントさんに示唆し、提案する過程のことです。


●コンサルテーション

クライエントさん(正確には、あたかも問題の中心にあるかに見える「見なしクライエントさん」)ご本人ではなくて、職場の上司やご家族、友人、担任教師、大学のゼミ担当教員などからの相談に応じることです。

 当然この場合、個人情報保護の問題が非常にデリケートになります。

 また、そうやってコンサルテーションをお受けになりに来られた方が、次のステップで今度はカウンセリング的相互作用の「主体」=クライエントへと変容する可能性への対処スキルもカウンセラーに必要です。


●広報・啓蒙活動

例えば、こうやって私がピュアリーさんのサイトで書き込むことですら、カウンセラーの社会的役割としての、非公式な広報活動(単に私の開業機関や私の拠って立つ流派の宣伝なんていうちまちました次元でのことにとどまらず、もっと広汎な意味)をしている主体であるという認識が必要でしょう。


●カウンセリング・心理療法

ここでも、現場臨床における、受容と傾聴中心の、比較的ユニバーサルでベーシックな、「まずはじっくりお話をうかがうこと」中心のスタンスと、ある特定の(複数の場合もあり)心理的療法的アプローチをインテンシブに活用することをクライエントさんと同意した上でのスタンスとの区分は可能だし、当然その「中間型」的スタンスもあることになります。


●スーパービジョン・教育カウンセリング・臨床家のための研修(学ぶ側/教える側)

これは一般のクライエントさんの目に直接目に触れにくい領域でしょうけど、敢えて重要な「業務」であるという言い方をしてみたいのが私の認識です。


●現実適応のための直接サポート

ここには、狭義の「ケースワーク」のみならず、家庭教師をしたり、極端な場合には、「クライエントさんの働き口を世話する」活動も含めたいと思います

(村瀬嘉代子先生が、ある事例で、クライエントさんがお店を開くまでのお手伝いを具体的になさったことがある、という事実は、カウンセラーの間ではいわば「伝説的」かと思います)


 一人のカウンセラーに、こうした様々な機能が「あリ得る」こと、そしてそれらのすべてを柔軟に使いこなせる必要はもちろんないけれども、恐らくそうした「機能の使い分けを自分なりにスイッチングしている」専門家としての自分対象化し、俯瞰する能力だけは必要かと思います。


*****


 なぜこうしたことをお書きしたのか?


「私はカウンセラーをどのような次元で『利用』したいのか」


を再点検するチャート(見取り図・海図)を提供したつもりなんです。


いかがでしょうか?

何かお役に立ちますか?

(このノリは、すでにカウンセラーというより「コンサルタント」のノリですね ^^;)


 上記の部分で、敢えてカウンセラーの『利用』という言葉に含みを持たせてみました ^^;


 ・・・・そこまで行かなくても、


皆様が、「依頼人=クライアント」として、カウンセラーを「雇う((employ)」


という視点はお持ちいただいてもいいのではないかと、常々思っています。


※この記事は、「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」(by ピュアリーさん)のエントリー、

●技法と理論の選択

への私のコメントをほぼそのまま転載したものです。



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2009/04/22

他人の言葉を額面どおり受け取り、裏を読まないという戦略 [第4版]

一見これほど「お人よしが過ぎ」、傷つきそうな戦略はないわけです。

しかし、もしこの戦略を、更に、「裏切られることを最初から覚悟して」「涼しい顔をして」用いたらどうなるか?


「またお会いする機会を楽しみにしています」

 (・・・・・・それなら、今度お会いしたら遠慮なく話しかけ、私の話やカラオケに引きずり込みますよ)


「困ったことがあったらいつでも相談して下さいね」

 (・・・・・・それなら、お言葉に甘えて今度職場にアポなしで押しかけるかもしれませんよ。疲れていたり多忙だったりしたら、きちんと自己申告してそのことを私に告げて下さり、別の日時のアポを取ってくださるということですね?)


 (「すでにAさんからお伺いかもしれませんが」.....という前置きをして話したことに対して)

「その話はまだAさんからは聞いていません」

 (・・・・・・そうか、あなたとAさんって、私が思っていたよりも、実は肝心な情報交換をしていない場合がある、あるいは、二人には決して一枚岩の連携は存在しないと今後判断してよろしいのですね? まかりまちがっても、私は、Aさんに伝えておけばあなたにも伝わると考えていた私が「甘えていた」なんていうふうに、自責の念にとらわれたり反省したりはしないんですが、それでいいのですね?

 ......以上、こういちろうの、「認知行動療法、究極の、ひとくち入門講座」でした(ウイット ^^;)

****


 子供の頃の私は、ある意味では天真爛漫(=空気を読めないKY)でしたが、その一方で過剰なまでに場の空気を読むところがあったと思います。

 そこで、青年期になる頃には、いつの間にか、

敢えて場の空気を読まない(読み過ぎない)」ことにしたのです。

 それだけが私の、社会に参入し、友人を作り、人と出会い、世界を広げるための、不器用かつ前向きの戦略だったのだと思います。

 私はほんとうの発達障害の皆様とは次元が違う気がしますが、でもどこかでそうした人たちに共感を覚えるのは、どうもそうした[サバイバル」をしてきたせいかと思います(^^)


*****


 以上の内容は、「NPO京都ハートネットワーク」のkyotoさんが、

●発達障害の言葉には裏がない


でお書きになったことへの感想という意味合いも込めています(^^)


 なお、ここで私が書いたことに違和感をお感じの皆様がいたら、

●vol.55 女性の些細な言動が気になるんです(msn恋愛・結婚 人間ドキュメント・恋愛下手なオトコたち)

がおススメかな?


敢えて裏を読まないでみる」

「敢えて裏を読んでいないフリをしてみる」


こともできるのは大事では? ということを私はお伝えてしてみたいのです(^^)


 このことについて、経験あるカウンセラーがどのように考えているかについて興味をお持ちの方は、短期療法の日本における代表的セラピスト、長崎純心大学の児島達美先生の発言を、


●こういちろうはいかに短期療法に入門したか(後編) -ライブ・コンサルテーションという名のケース・スーパービジョン-


でご紹介してみました。実は、この記事を書いた後で、児島先生の発言に接して、全く同じ発想だったのにいたく共感した・・・・という順序だったのですが。私の中に、短期療法的なアプローチにいつの間にか接近している面があったのでしょうね(^^)


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2009/04/16

適度に不安定で健全な不信関係

 男性にとってはさりげない誘いのつもりが・・・・・言葉による暴力、モラルハラストメントにあたる展開をいかに容易に生むかの典型例として。

●Vol.1116 ショックな出来事をきっかけに、男性を好きになれない (msn恋愛・結婚:恋愛相談)

============引用はじめ============

2ヶ月ほど前まで、メールのやり取りをしていた男性がいました。
出会いのきっかけは、彼からのナンパでした。
今まで、男性から声なんてかけられなかった私は、
彼がメールで「タイプだ」とか、「付き合いたい」と言ってくれて、少しずつ好きになっていきました。

ある日、彼が「映画でも見に行こう」と誘ってくれたので、
休日を合わせて行く約束をしました。
ほんとに嬉しくて、楽しみにしていました。

しかし約束をした次の日から、
メールの内容が、やたらとエッチの話ばかりになってきたのです。
どうやら彼のほうは、「ナンパ成功=エッチができる」と思っていたらしく、
優しい言葉で近づけば、簡単にさせてくれると思っていたようなのです。

恥ずかしいことに、私はこの歳で経験がなく、
たとえ冗談でも、そういう話には抵抗があるほうです。
硬いと思われるかもしれませんが、私は「この人なら」と思う人としかしたくないし、
どんなに気をつけても、女性のほうがリスクの高いエッチを、軽い気持ちではできないので、
きっぱりと「そういうつもりで会うわけではない」と伝えました。

すると彼の態度が一変し、
「簡単にできると思ったのに騙された」「時間の無駄だった」といい、
ひどい時には「お前みたいなブサイクな女は一生縁がないだろう」という
メールが来るようになったのです。

確かに、私は外見にコンプレックスがあり、
それが原因でフラれたことは、一度や二度ではありません。
でも彼に声をかけられた時は「こんな自分でも声をかけてくれる人がいるんだ」と
とても幸せな気分になれたのに…。

そんなことがあってからは、好きな人ができません。
仲の良い友だちが出会いの場を用意してくれるのですが、
「もし、上手く行かなかったら」「また酷いことを言われたら」と思ってしまい、
どうしても勇気を出せないのです。

=============引用おわり===============

 この例は、言葉による見えない暴力=モラルハラストメントの条件を十分に満たしています(きっぱり)。

 もっと深刻な例もたくさんありますけど、だからといって、この例について「軽度の例」などと言ってしまうのは全く適切と思えません。

Q&A モラル・ハラスメント―弁護士とカウンセラーが答える見えないDVとの決別

●関連サイト・記事:

* 福岡市・久留米市の、DV・モラハラ・ストーカー関連の公的な相談機関のご紹介(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

* カウンセリングルーム「おーぷんざはーと」(大阪府大阪狭山市)


 恋愛がナンパからはじまること自体は、何も軽薄なことではないと、私は本心から思っています(きっぱり)。

 私はモラハラやDVやストーカーの加害者を頭ごなしに糾弾し、「更生」し、「精神改造」させようとするばかりではなく、そうした行為をしてしまった(繰り返している)個々の当事者固有の苦しみの領域への、ほんとうに想像力を駆使した的確な理解をベースラインにした絆が生まれることを必要条件と考える立場です。

● ゆすれない願い (カウンセラーこういちろうの雑記帳)

 もっとも、少年院・少女院や鑑別所、アルコールや薬物中毒の更生施設の専門家からお話をうかがう機会も何回かありました。

 そうした中で、加害者に対する治療者や担当官の「安易な」共感性が、面接の中で嘘を見破れない水準にとどまるとなった時に、むしろそうした担当者への、加害者側からの軽蔑と不信に容易に転じてしまうものであることのシビアさにも気がつかされましたが。

 そして、実は、加害者自身が、「てめーにそんな簡単には騙されないぞ」というトラウマ体験を幼少期から、家族や教育者との間でかかえていることが少なくない。それを繰り返し担当専門家のほうにぶつけてくることが多いわけですね。

 その結果、結論的には、次のような指標が実践的といえるかと思います:

 担当専門家と加害者の間、双方向での、「てめーにそんな簡単には騙されないぞ」という精緻なしのぎの削りあいゲームから決して降りないこそが、加害者と担当者の間の安定した信頼関係・・・・・・というより、私は

「適度に不安定で健全な不信関係」の絆

という、ウィニコットや神田橋先生が好みそうな言葉を使いたくなりますが.・・・・・の樹立に貢献するのだと思います(^^)


 ......もっとも、、恋愛や政治や外交を含めて、およそ人間関係というものの理想は、まさに「適度に不安定で健全な不信関係」の絆を保てることかとも思います(ウィットを込めて!!)


****


 さて、冒頭のmsnの事例にもどります。

 ただ、ここで描かれている例の男性に関していえば、おそらくモラハラについて何もご存じないとしても、若い男性の間からですら、さすがに非難ごうごうかもしれませんね(^^)

 こうした書き方そのものが、女性の方へのモラハラになる「適度なリスク(?)」を承知で、架空例(少し2chに不慣れな人向け緩和版?)を挙げれば、


名無しさん:エッチな話で水を向けていいけど、女性の反応から空気を読めよな orz
名無しさん:処女とおつきあいはじめられることの幸せをかみしめろ[注:絵文字はこういちろうにより転載の際にカットされた]
名無しさん:何勘違いしてる? 幸せじゃないゾ。処女のお相手ぐらい心と身体のケアが肝心なのはないでしょう?思い出の男になる資格てめえにあるのか?中級者向け? たいていの男は、自分より少し経験ある女の方に手ほどき受けて、はじめて立って中でイケル程度でしょ?
名無しさん:そそ。この男自身が、風俗でしか知らないマグロでさ、きっとはじめてナンパ成功したりした奴だったりして。
名無しさん:ありそー....
名無しさん:この男、ブサイクだとは言わないが、それなりに女に声かけて恥ずかしくない靴、履いてたかどうか心配。
名無しさん:>「簡単にできると思ったのに」
       ......なんて言ってるし。
名無しさん:♪Boy meets Girl♪@trf
名無しさん:歌うなKY
名無しさん:.....スマン

........and so on.........(^^)



* 参考記事:

●第29回 ペアルック(msn恋愛・結婚 : 「数字が教えるみんなの恋愛常識」)


*****


最後にやはり。

お若いの。いくらいろんな避妊があるとはいえ、妊娠するリスクを自分の身体にかかえた存在としての女性に敬意を払えないまま、セックスするような男にだけはなるな。

そこまで「身体張って」恋してるか?


「責任とってね!!」(ラム)

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]



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2009/04/12

フォーカシングとEMDR

この2つの技法の類似については早くから指摘があり、TFIの国際メーリングリストでも数年前から議論が活発で、日本でも関心を持っている人は少なくない。

 だが、私は、EMDRのワークショップには、残念ながらまだ参加した経験がない。

 先日、トラウマの問題に関心が深い、ある臨床心理士の方と、この話題で盛り上がり、私にとっても刺激的な学びのひと時を過ごさせていただいた。

 その方のご許可の下に、以下の内容を書いてみることとする。


*****


 EMDRには、"Bodly Scan"という技法があるとのこと。この身体感覚次元でのスキャンの結果、身体に感じが残っていたら、それはその人の中にまだ処理できていないトラウマがあることの証しだという。

 "Bodyly Scan"って、私が技法として精緻化し、久留米でフォーカシングを学ぶ会でも毎回のように最初に全体実習している「身体感覚中心のclearing a space」と非常に類似しているではないか?

(「身体の感じと状況との関わりを重視するフォーカシング・アプローチ・序説」 東京大学教育学部心理教育相談室紀要  第13集  1991 所収)

 更に言えば、そうした"Bodyly Scan"の結果として後に残る感覚とは、フォーカシングで言う"Background Feeling"(背景としての感覚)とあまりに近似の体験のように思われた。

 そうなると、私が2005年、トロントでのフォーカシング国際会議に出席した時に体験した、「Background Feelingについてのフォーカシング」の分科会での体験ともろに重なりあってくることになる。

 そこで語られていたのは、そうした「Backgroun Feelingについてのフォーカシング」が、一種超越的なスピリチュアル体験であるという可能性であるばかりか、PTSDなどの深刻なトラウマを背負ったクライエントさんへのフォーカシング指向心理療法的アプローチにおいて鍵となる可能性についての示唆であった。

 ......これでは、まるでEMDRで言われていることと同一機軸ではないか。

 読まねば。

 ......ああ、私の生活は24時間では足りな過ぎる!!


最新心理療法―EMDR・催眠・イメージ法・TFTの臨床例←この、マギー・フィリップスという人の本に、フォーカシングについて紹介している部分があるとのこと!!



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鹿児島が私を呼んでいる?!

詳細はいずれご報告できると思います(^^)

こういちろうの「ロビー活動」、あと2つ別に進行中。

その分、記事の更新が遅くなっていることをお許しください。


残りの2枚のカードのうち1枚は「正統派」の戦略

進行中のもう1枚は、かなり驚愕の定石破りか、それとも結構ありふれたものなのか、私にも不明 (これではじめてチェックメイト!です)


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2009/04/04

ネット界で一番老舗の「フォーカシング入門」記事

●フォーカシング入門 (阿世賀浩一郎のホームページ)

 執筆されたのは何と1997年!! 日本のネット界で一番古くからのフォーカシング入門記事です。

 途中で中断されたままなんですが、それにもかかわらず、ここまで、フォーカシングについて何も知らない読み手の皆様の心の琴線に触れるコンテンツは未だに存在しないと、執筆者であるはずの私が、

「これ、誰が書いたの?」

 と何回読み返しても感じてしまうがゆえに、度重なる、私自身による「フォーカシング入門書」執筆への野望が打ち砕かれてきたことは、そうした頓挫の過程そのものをこのブログで晒して来たとおりです(^^;)

 @niftyに本部サイトのプロバイダを移動させた段階で、かつて検索最上位クラス当たり前だったこの記事の、特にgoogleにおける検索順位がやや下がってしまっていることについて、愛読者から「残念だ」という声をいただきましたので、敢えて自ら、このブログでも、一番正攻法のSEO対策として、このエントリーを書かせていただきましたことを、どうかお許しください。


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2009/04/03

もうひとつの予告:「第3世代」認知行動療法と、私のフォーカシング指向心理療法の現場実践の比較論を連載する!? [第6版]

  さて、SARTについてのセミナー体験談本格掲載と並行して、私が現在まだ構想中なのは、フォーカシング指向心理療法セラピストの国際資格認定資格者である私が、「最近の」認知行動療法の良質な教科書をまる一冊読破してしまった上で、「実は私は現場臨床実践の上で、用語が違うだけで、実際にはここまで同じことをかなりの程度していたことになる」ことを評論してしまうという、これぞ究極の企画である。

 これは結構凄い刺激的な企画であるぞ、読者の皆様(^^)

 わかりやすくいえば、洗足クリニックの伊藤絵美先生(もう申し上げてもいいでしょうが、私が数年前、現場実践水準で感銘を受けたことがある認知行動療法の先生(の一人)って、実はこの先生です。具体的な現場臨床上の連携の接点が生じていたのですが、伊藤先生の方は私を個人としては絶対に覚えてはおられないでしょう。伊藤先生は恐らく「第2世代」ですよね?)が、アン・ワイザーさんの「フォーカシング・ニューマニュアル」を完全に読破し、自分の臨床実践と重ねて吟味した上で論じたらどうなるかということと同じくらいの大実験である。

 敢えて書きますけど、私は、他流派のカウンセラーの誰よりも誠実に、ネットで公開する形でこのことを進めてみた結果、予選は通過して、あわよくばベスト4まで勝ちあがれるような気がするのである。

 それ以上は望まない。なぜなら、これを機会に、絶対に、私も認知行動療法から実に多くのものを学び、技を盗めることがすでにわかっているからである。私はそれくらいは謙虚なつもりである。

 このように断言できる背景には、認知療法の祖ともいえる、アルバート・エリスの「論理療法」(しかもエリス自身の著作の翻訳!!)こそ、私がフォーカシングに出会う前に、一番実用的に役に立つ本として熟読し、生活の中で実践していたからである!!

 ←これ、25年前と同じ本なんでしょうか???

......このこと、確かこのブログではじめて書きますよね.....ああ、こういちろうのお腹がどらエもんのポケットといわれる所以である)


*****


 私がここで、凝りもせずに(^^;)、なぜこういうゴーマニスト的で挑発的な書き方をするかというと、一部の認知行動療法のカウンセラーの人たちのネット上でのノリを、いくらなんでも傲慢不遜、臨床家として風上にも置けない無神経さと感じているからである。

 「日本で民間の保険制度でカウンセリング特約がまだ成立しないのは、認知行動療法以外の、効果がない心理療法との区別が不可能だからである」

 という趣旨の、大胆不敵なファシズム的発言をするカウンセラーが、どれだけ現段階で現場臨床で優秀であったと仮定しても、私はそうしたあり方をどうしても許せない


【以下、第3版で追加】

 もう! 愛を込めて引用してあげます:


=======引用はじめ========

認知行動療法はカウンセリング方法としてはグローバルスタンダードとなっている方法です。

アメリカやイギリスなどの医療先進国では保険会社や政府などで認知行動療法を推奨しています。

アメリカの保険会社が効果が実証されているカウンセリング方法を勧めるのは当たり前ですよね。
効果に乏しいカウンセリングをしているところにお金を払いたくないわけですから。

イギリスでも政府が認知行動療法を勧めていたりします。

怪しげなカウンセリングを政府は勧めないでしょう。


=======引用おわり========



【以下、第4版で追加】
 

このカウンセラーの方、鈴木さんといわれるのですが、ご自身のサイトでは「鈴木」と苗字だけお書きです。......これも不思議です。

 第3版のあとで調べたのですが、少なくとも認知行動療法の世界に、同じ鈴木というお名前の「キャリアある」先生がおられることは確かなようです。しかし、これにより、この記事の以下の文面を変更する必要を私は一切感じませんでしたので(^^)。

 私の過去の栄光にすがっていうと(ホントは今の私が一番のピークなんだけど、それは置いといて)、村瀬嘉代子先生にご自宅でカレーご馳走になった人間が何を今更怖いものはない(^^)


【以上、第4版で追加】
 


 この方の、医者や周囲のカウンセラーの認知行動療法への不勉強を嘆きたい気持ちは十分に理解します。痛いほどに伝わります。

 私も、まさにそういう意味で、フォーカシングについてのフォーカシング関係者自体のまだまだ不勉強な側面を、文字通り身を挺して告発してきた人間だから!!

 もっとも、この方自身は、やや「親方日の丸(親方ユニオンジャック!!)で、ほんとうに「身を挺して」来たかどうか、わかんないなあと思うんですが ^^;) 

 どうして彼のこうした傲慢をたしなめるだけの人が、認知行動療法の内部にいないのかな。

 想像するに、彼の実力があまりに突出しているのかもしれない。でも、その場合にも、周囲の認知行動療法関係者が彼についていけない程度の不勉強なままということそのものが責められるべきと思う。

 (埼玉には第3世代の認知行動療法の、かなり良質の研修組織があるみたいで、彼はその関係者だというのは想像はつくけど、でも、研究会本部のコンテンツで書かれている内容を読む限り、こうした謙虚さの欠落は全く感じない。この流派ならではの主張が十分にgentleに主張されているだけだ。......これはどういうことか? といぶかしく思う。「内部事情に憶測で踏み込んでる」と問われるのなら、ネットで公開している事柄から、「論理的に」たどり着いた検証ですとお答えしたい)
 
 ほんとうに自戒を込めて言うと、感受性の豊かなクライエントさんたちには、リアル世界で彼と会った時にこそ、彼のこういう孤独と気負いとプライドの暴走が鼻につくと思いますけど。さもないと、不幸にして彼の信奉者になった彼のクライエントさんたちは、彼と同じような自己愛的な人間に育つだけだとかなりの確率で予測できるエピテンスが十分あると思う(^^;)。私はネット上の上記のこの記述だけで、認知行動療法の優秀そうなセラピストとして彼を紹介することだけは決してないと思う。


 そもそも、自分が「誤解されることを嘆いて」いる人間はまだまだなんです。

 「私はクライエントさんのためにいろいろ演出しています」も禁句かな。あなたは神様なんですね。

 ........そうか!! 「グローバルスタンダードです」って書くのも、クライエントさんを安心させるための演出・配慮なんですね!! 

 (もっとも、俗世間では、このように書いたら「怪しい商業主義」「権力におもねるとは何じゃ!」誤解するのがグローバル・スタンダードだったりして^^;)


 こうして、エビデンスを大事にし、科学的であることをどの流派よりもプライドにしているはずなのに、(自らの傲慢に気がつかないカウンセラーの手にかかると....という条件はつけますが)認知行動療法ほど、新興宗教じみたノリで、実際に認知行動療法を受けた一部のクライエントさんにとって憎悪の対象にすらなってしまっているという「究極の逆説」が成立するのである!!

(ああ、@niftyココログに「読者の拍手」の機能......

Wgreen

.....がないのは残念だなあ!! 代わりにコレ!を珍しく使っておこう →coldsweats01


 認知行動療法のセラピストって、ユングの言う意味での「自我肥大」に陥る誘惑と戦うの、ホントにたいへんだと思う。


 彼のサイトに、コメント欄もトラックバック欄も「存在しない」ことが、ひどくさびしく、悲しいのは私だけでしょうか?

 ひどく防衛的になっているのは彼の方ではないですか?

 もっとも、パーソナルなブログは別にお持ちなのかもしれません。しかし、実は実名公開であろうとなかろうと、臨床家ブログは、認証制でいいから、誰でもコメントやトラックバックを「送る」ことができることに背を向けた段階で、私に言わせれば、世間のクライエントさんたちに背を向けたのです。

「治療の枠」?

どんなことをブログのコメントで書いたらいいのか、書くべきでないのかについて、読者に自然な現実吟味能力をいつの間にか発揮させるだけのオーラをネット上でも発散できて、それだけで、そのサイトの「心のファイアーウォール」(またの名をATフィールド)になるのが本当の臨床家の放つオーラだっつーの。

私はともかく、そういう神々しい域に達した、ブログやってるけど「リア充」でもあることを存じあげている現場カウンセラーは、けっこうたくさんネット界におられ、私はそうした方々を心から尊敬しています!!

そうしたサイトに、私のこうした発言をきっかけに「意図的に不心得な」書き込みをする、悪魔のような人間がネットに存在するのを私は知っているから、ここでは具体的に推奨サイトをはご紹介しませんけども。

 このブログでただの一度もご紹介せずに、しかも、私のほうからコメントしに行ったことも皆無の、私が隠れてROMしている、憧れのサイトが私もあるんです。私は時々そのサイトに行って、そのカウンセラーのすばらしいネット上のプレゼンス(リアルだときっともっととんでもないと思う。きっとリアルの「あの方」だろうとほぼ想定できているサイトもあります)のオーラを浴び、身を清め、自らの傲慢を戒めています(^^) そういう超五つ星サイトは公開RSSにも入れないことにしているので。


【ここから第6版で追加】

 そして、すでに別の箇所でも追加紹介しましたが、次のような記事があると、いろいろと考えざるを得なくなる。

●Petition Against Over-Regulation of Psychotherapy(心理療法への過剰規制に反対する嘆願書) (Moving Toyshop)

 この記事は、裕さんのサイトの、

* イギリスにおけるセラピーに対する国家の規制

というエントリーで紹介されていたものです。 

 心理療法家を国家資格化し、心理療法を国の公的保険の対象にしようとすれば、どうしても、「心理療法家」の質に関する公的評価による選別という問題を避けて通れなくなる。

 それは了解できるが、それは「最低限の水準保障」といった「基礎資格」的位置づけにとどまるべきであり、更に言えば、「療法流派まるごと」の認定ではなくて、個々のセラピストの「流派を超えた基本知識と基本スキル」という次元での判定であるべきだろう。

 CBT=認知行動療法のセラピストだけを唯一国家的に養成するセラピストという位置づけにし、地域医療制度と統合されたものとしての心理療法センター配置というところまでラディカルにイギリスが踏み込んだ時、それをジョージ・オーウェルの「1984年」的全体主義のはじまりと危惧し、クライエントの心の自由の侵害という観点からの国会請願という政治運動が生じてきたことは、実は全く自然な成り行きであるように思われます。

 むしろそれは、認知行動療法本来のクリエイティビティすら硬直化させる危険をはらんでいるようにも思えるのですが。
 
【ここまで第6版で追加】


....え? 

「親父にもぶたれたことないのに!」

.......坊やだからさ。


そして、

♪君は、
あまりにも、
これまでの僕に似ている気がしたから
僕は
自分の血を流しながら
これを書かずにいられなかったんだ......


と。



【以上、第3版および第5版で追加】


*****


 これに対して、

「なぜ? あなたが私を許せないのは『自動思考』ではないですか」

とか、メタレヴェルに立って言い出した暁には、

「あなたはまるでロボットのような情報解析能力と応答しかできないのですね。それでは表層的なコミュニケーション水準での受容と応答にとどまります。そして、それ自体ひとつの『ゲーム』構造にはまり込んでいるのではないでしょうか? 言葉で表現された内容にとらわれているうちは『第2世代』の認知行動療法にとどまります

と言い返してみたりして(^^;)

 そもそも、認知行動療法の国、イギリスにおいて、論理における「階層」の問題を無視していると、『論理哲学論考』時代のウィトゲンシュタインを批判したという点で、バートランド・ラッセルは正しい。

 
******

 
 結局、おごる平家は久しからずといいますか、本来心理療法の世界全体に貢献するさまざまなスキルを生み出したというだけでセラピーの歴史上輝かしい貢献を認知行動療法がすでにしていることを認めるにしても、およそ何らかの副作用や悪用が可能ではない発明品などこの世には存在しない。

 私の予感では、このままでは、日本における認知行動療法は、たいへん残念なことに、英米における到達水準のような意味での、ある水準での手堅い普及を達成しないまま、いろいろな意味で、そろそろ、驕りから来る退廃と尻すぼみの危機に直面していくのではないかと思う。

 なぜなら、欧米の「第3世代」の大家たち自身が、私をたいへん落胆させる発言を始めているからである!!

 すなわち、自分たちの追求してきた道が、東洋的・仏教的な思想や禅との類似にたどり着いたことへの、私の目から見ると見苦しくてはしたないまでの礼賛である!!

 これに比べると、ジェンドリンも、その後継者たちも、周囲からの度重なる「東洋的なものとの類似」という示唆に対して、何と徹底的な禁欲と自重と、日本人に媚びない態度を一貫していることであろう。ジェンドリン自身、ユダヤ教のカバラ哲学を除いては、決して東洋的・宗教的な影響を口にしないのである。この点ではジェンドリンもアンも驚くほどに徹底した西洋合理主義の住人である。これだけで、認知行動療法は、フォーカシング陣営にゴールの寸前で抜き去られそうな予感がする。

フォーカシング国際会議の準備を進めておられる皆様、この点で少しでも勘違いしたら、CEOのメアリー・ヘンドリックス女史自らが準備委員長の池見先生を会議の席上でgentleにたしなめるという、「実はもの凄い、背筋が凍る」光景が繰り広げられる危険があると思う。少なくとも私が知るメアリーさんはそういう厳しさのあるお方です。言わずもがなかとも思いますが、世界のフォーカシングピープルは、このひどい経済状況の中、物見遊山で物価の高い日本においでになるのではない。ましてや、日本のフォーカシング・ピープルのエスニックなナルシシズムに媚びるために来日するのでもない。今世界で一番パワフルでやる気満々のなのは中南米の現実と戦うフォーカシング・ピープルなのだ。むしろ日本の「トレーナーの数が世界第2位の割には生ぬるい」現状を「結果として破壊して」、大学のセンセに言われるままに大動員をかけられた若い院生たちの間に深刻な危機意識をたぎらせるためにこそおいでになるのである!! 関係者よ、この点で、絶対に、絶対に、池見先生に恥をかかせる事態だけは誘引することなかれ!! ......取り越し苦労を承知で、この私の予言そのものがささやかな抑止力になることを祈っています)

 「第3世代」認知行動療法が日本に本格的に広まり始めた時、それが今の日本社会のエスノセントリズムと容易に共鳴を起こし、社会的現実と現場臨床の狭間で真に練磨されないまま、イギリス的な個人主義を良質な形で文化移殖することはすっ飛ばした(skipした)形で、日本的集団主義の走狗と化し、戦場へと若者を(PTSDになっても繰り返し)送り込むための道具に落ちぶれるであろう。

 これは、日本のフォーカシングの今後の未来においても、共通して抱えている大問題であると私は認識しています。

*****

 
 私は、きっと、少なくとも学会シーズンの秋までには、たいていの認知行動療法インサイダーのカウンセラー以上に、認知行動療法のスピリットの醍醐味と、現場実践のためのコツについて、皆様に縦横に語り尽くせるネット上の存在になっていることを、ここにお約束する。

 私の勘では、とりあえず今の日本では、カウンセラーは、第3世代より、第2世代の認知行動療法を、ベーススキルを大事にしながら、深く細やかに探求し、身につける価値がある予感がします。


*****


【第2版追記】

.......なーんて、自分なりにひとりで悦に入っていたら、nanaさんのサイトで、すでに1年以上前に言及されていた問題でした(^^;)。

●『アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈』記事( †tangine † by nanaさん)

* 武藤崇編著 S.C.ヘイズ序文 『アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈:臨床行動分析におけるマインドフルな展開』ブレーン出版, 2006
 
の目次について、詳しい紹介をお書きです。

 この本の中で、武藤氏は、「フォーカシングとの小さな一歩 ~ 体験過程的アプローチとしてのACT」という1章を設けているとのこと。

> ACTの視点を借りることで、フォーカシングならびに体験過程理論を、対象化して観ることに、役立つと思います。

とのnanaさんの言及があります。

 nanaさん、いい形で、共に勉強して行くネットワークを身近にお築きですね(^^)



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2009/04/02

SART(主導型リラクセイション・セラピー)のセミナー報告、予告編!! [第3版]

 福岡市で行なわれた、臨床動作法の新たな流れというべき、SARTの体験セミナーに出席して2週間半もたってしまいました。

 以前お約束した、開発者の大野博之先生(福岡女学院大学 NPO法人心理リハビリテイションセンター)に「自由に書きなさい」とむしろ発破をかけていただいた報告記、お待たせしました。この次のエントリーです。


****


 その記事への導入として、まさにそのセミナーの最初の講義で、大野先生が、まさに「前フリ」としてお話になったことを今回は書いてみたいと思います。

 「今、心理療法の領域で、一番元気がいいのは認知行動療法だろう。しかし、認知行動療法は、翻訳文化そのものというか、輸入された、そのままの形で日本中で教えられている。つまり、教えられたままを教える、という形に留まっているように思います....」

 九州大学の成瀬悟策先生が開発した「臨床動作法」は、その基本的な着想から、その独特の心と身体の関係についての理論、そして現場での臨床実践とその適用範囲の拡大が、日本人の研究・実践者の間で草の根レヴェルでも学術的にも発展してきた、世界に誇る日本発のセラピーのひとつである。

 今や、自閉症スペクトラムを含む乳幼児発達障害、知的障害、事故等による障害からのリハビリ、認知症、終末期医療を含む、それこそ、ゆりかご(生後数ヶ月の乳児にも可能!!)から墓場まで、臨床動作法の適用対象は広がっている。この対象年齢と適用領域の広がりという点では、恐らくどんな心理療法も臨床動作法には適わない。

 何しろ、成瀬先生の教えを受け、なが年福岡教育大学で教鞭をとられ、臨床動作法における中心的な役割を果たしてきた鶴光代先生が、現在の日本心理臨床学会理事長である。

 実は、臨床心理士の世界の内部では、そのくらいに臨床動作法がメジャーであることについて、殊にネットの世界ではほとんど全く知られてない(ネット検索すると、その情報量の乏しさには驚きを禁じえない)。臨床動作法の関係者の皆さんこそが、まさに「リア充」の典型を生きる援助職の皆様というべきかも知れない。

 しかし、そうやって発展してきた「臨床動作法」そのものが、実際には、ひとつの重大な問題に直面していることをひしひしと実感する最前線にいたのが、まさにこの大野先生でした。


*****


 臨床動作法には、一定の、一連の動作課題がある。それは当初、障害者の肢体不自由を改善し、少しでもその人たちの行動の自由を増すことを援助するためのものであった。

 (それはその後、身体への働きかけを通して実はメンタルな治癒も進んでいるという発見につながり、それは障害者に限らず、誰にでも効果があるセラピーとして普遍化されていくのですが)

 しかも、その特定の動作課題を達成してもらうために、援助者は、対象となるクライエントや障害者の人たちを完全に受身にする.....十分に心身をリラックスさせて、施術者に不安や緊張を感じることなく身を委ねられるように導くのが効果的であるという、たいへん「逆説的な」アプローチを採用した。

 もとより、そのことを可能にしたのは、成瀬先生がすでに催眠療法とリラクゼーションの大家だったからであることは、知る人ぞ知るとおりである。

 そして、ある意味ではその逆説こそが、臨床動作法の真髄であったことは間違いない。


*****


 だが、それでも、日本のどこかの研修会や臨床現場で、時折、間接脱臼や骨折等の「事故」が生じるという現実に直面する。動作法関連の組織の委員=責任者として、大野先生は、多忙な時間の合間を割いて、そうした事故が生じた日本の各地の障害者やそのご家族のもとを訪問し、お話をうかがい、謝罪する旅を続ける、まさにその当事者だったのだ。

 大野先生は、この問題を解決するため、旧来の臨床動作法が自明の前提としていた原則そのものを大幅に見直し、ある意味で更にもう一度逆転させるという、大胆なアプローチに踏み出していく。

 「腕を上に上げて下さい」.....でも、どのように腕を上に上げるかについては、まずは自由にやってもらう。

 援助者はそうしたクライエント側の自発的な動作と、それを本人がどう体験しているかを丁寧に見極め(熟練トレーナーは、この、姿勢や身体感覚を共感的に「観る目」の感度が半端ではありません!!)、相手の身体に触れて感受しながら、無理のない、最低限の範囲でしか動作補助をしない

 それどころか、クライエント側の人各自が自分なりに動作課題を工夫し、案出し、「つまみ食い」的に日常で繰り替えることを奨励すらする。

 動作課題は、クライエント(子供でも、重度知的障害者でも!!)が、無意識のうちに日常の中で繰り返す、自発的(主導的)なユニークな一連の動作の一部に過ぎなくなる。

 こうして、何と「今のところ事故率ゼロ」の動作法が、ついに開発される!!


******


 それは更に、最初から独習するための読者を前提とした、「ひとりSART」のためのヒント集的なハンドブックの公刊という、我がフォーカシングが未だ果たしえなかった成果を、すでに達成してしまったのである。

 だが、大野先生はそれでもなお強調する。

「ここに書いてあることを全部やってみる必要なんて何もないのです」

 と。もう一冊の新著は、ついに「ヒント集」に過ぎないことを明確に打ち出した。

(これら2冊は直販制です。DVD版もあります。ご注文はこちらのサイトをご覧下さい)

 そこには、「トレーニング・マニュアル」として、あたかも学校の教科書のようにして学んでいかねばならないという発想への、強烈なアンチ・テーゼが内包されていると思う。

*****

 私の知る限り、認知行動療法になじめなかった人の多くが語る不満、それは、それがまるで「学校の勉強みたいだ」という点に共通項がある。

 (もちろん、臨床面接の現場で、患者さんの反応を見ながら、全く臨機応変な新鮮さを保ちつつ認知行動療法を生かしているカウンセラーが確かに実在することも、私は承知しているが)

 幸か不幸か、ある意味で学校での勉強のように学ぶことから一番遠い形をとらないと真にスキルアップしないのがフォーカシングのトレーニングである。

 ところが、SARTのセミナーでは、そうした、フォーカシングトレーナーのすべてを驚愕させる、想像を絶する実例がすでに蓄積されつつあった事実が明らかにされたのである。

 それはどのようなものか?

  
 .......次回、請う、ご期待!!


(何か「プロジェクトX」の予告編ロングバージョンみたいになってしまいましたが ^^;)


*****


【追記】フォーカシングと臨床動作法の出会い

 共に九州大学が日本での臨床研究の聖地であったという兼ね合いから、フォーカシングと臨床動作法の間の交流は、特に九州ではすでに四半世紀の歴史を持っている。

 私も、約20年前学会での、成瀬先生、鶴先生、池見先生らを交えた自主企画シンポジウムのすでにフロア参加し、成瀬先生のあまりにも強烈な個性に接した。

(きっと大丈夫なので、正直に書きます!!)

「このおじいさん先生、もの凄く偉い人かもしれないけど、もう少し人の話を聴いて欲しい!!」

とあきれ返りながらも、諦めずに論戦を挑み続けていた、若き日の私がいた。

今にして思えば、それこそが、成瀬悟策先生にしかない、豪快な生き様の一端だったのだと思う。これほとインパクトのある大先達の先生には、確かに他にお会いしたことがなかったのである。

 つい先年、全くの偶然のようにして、成瀬先生や鶴先生と同じテーブルでのお酒の席につく機会が学会研修会(福井でのものです)で生じた。私は、当然昔の私のことなど覚えておられないという前提で成瀬先生のお酌をした。

 昼の部での動作法の実習講義、そしてその宴会の席で深く感じさせられたのは、一見豪放であるかに見えた成瀬先生の中に、クライエントさんへの、類稀れなやさしい心遣いか秘められているということだった。

 この先生は実は凄く繊細な方だと。

(恒例、こういちろうの「リア充」です)


*****


 それよりかなりさかのぼるが、10年ほど前、私の少し先輩の学習院大学の伊藤研一先生と、「現代のエスプリ」410、「治療者にとってのフォーカシング」の共同編集を進める中で、伊藤先生が臨床動作法とフォーカシングを重ね合わせた時に何が見えてくるのかに、たいへんな関心を抱いておられることを知った。

 伊藤先生は、このエスプリの特集の中で、当時兵庫教育大学に奉職されていた冨永良樹先生に、「フォーカシングと動作法」という原稿を依頼し、掲載されている。

 これが、私が直接掌握している、フォーカシングと臨床動作法の日本での出会いの歴史である。


****


 もっとも、「リア充」な福岡の大学院生たちは、今も実にフットワーク軽く、動作法、SART、フォーカシング、精神分析のワークショップを飛び回っているわけで、そうした院生たちこそ、フォーカシングと臨床動作法の、草の根での出会いを、すでに紡ぎ続けている、「地上の星」になるべき若手たちなのだと、私はつくづく思っている(^^)

 私はそうした若手の皆さんに、その得がたい機会を自覚しないまま、今の時期を通り過ぎて行って欲しくはない。

 だから、こうして、草葉の影から、もとい、草の根臨床のまだまだ新米中年として、若手に、そのことに注意を向けてもらうきっかけになりそうなことを書くのだ。

 これこそ、すでに中堅になった私に、全く無理なくできる、「出会い」のセッティングである(^^)

 (ああ、もう仲人をする齢だったりして)



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2009/03/24

フォーカシング技法を活用した、鬱状態のクライエントさんのための「主導型積分的フェルトセンス照合」スキルアップトレーニング(案) [第2版]

 自分のフェルトセンスと「ふたりぼっち」で主体的に生き抜いた日々の思い出は、仮に欝状態に陥っても簡単には死にたくなったり、虚妄と感じるようにはならないものである。
 
 「自分が欝になったことから生じる憂鬱」
(私はこれをも「二次症状」と呼ぶ)
の部分は、すでに経験を積んだフォーカサーなら、
フォーカシングでかなり緩め得ると思う。

 フォーカシングが「無理のし過ぎ」を助長するか、
 薬物療法の援助として機能するかは、
 その人なりに経験値を上げていける事柄だと思う。

 そうやって経験値を上げるためには、

* 同じ薬について、薬を飲むたびごとに毎回比較する。
* 薬を変えたり、追加した際に、前の薬の飲み心地とある程度経過を追って比較する。
* 毎朝起き心地の質、毎晩眠りの質を比較する。

など、さまざまな基準を作り、過去のフェルトセンスと現在のフェルトセンスを連続的に具体的に比較するための「枠組み(table)」を自分なりにはっきりさせてみると効果的だろう。

 まずは、

1.「パーソナルな」指標の選択
2.その選択した指標への、本人の実感に即した「命名」

ということをする。

「パーソナルな指標」とは、鬱になって以来繰り返して体験してきた特徴的な現象のことで、それをともかく思い出すままに列挙するという手続きである

(フォーカシング関係者向け:クリアリングスペースのことですね)

 ただし、そうした際に、ありきたりの医学用語などはできるだけ避ける。仮に使ったとしても一ひねりするとよい。

 むしろ、自分の実感に即し、「こんなこと医学的に見て『症状』として認められているのかいな???」と思うようなものすら、自分的に印象的なものは採用してみて、更に、ユーモラスですらある(!)「自分だけの命名」を試みるといいだろう。

(フォーカシング関係者向け:フェルトセンスのハンドルをみつけるにあたることですね)

例えば、

「はじめてジェイゾロフトを飲んだ時に、飲んでからわずか二時間で体験でき、その後も朝起き抜けに時々は体験できてきた、頭の中にミネラルウォーターが湧き出したような感じ」

「パキシルを飲んで、その後ちょっと無理をすると生じ始める、まるで昔のFMチューナーで、放送局を別の放送局に切り替えようとする時に聞こえた、頭の中で「ジャッ、ジャッ」と音がするみたいな感覚」

(↑【注】これを患者から聴いて、「幻聴では?」という仮説しか浮かばない医者がもし居たら、即刻見捨てるべきです。パキシルを減薬するときの副作用のひとつとして「頭の中のシャカシャカ感」と明記しているお医者さんも居ますので!!)

「この日、物を置き忘れる」

(↑【注】一般の人もでしょうが、欝になるとこれがひどくなる傾向があるのは実におなじみのことかと。どこまでが鬱のせいでどこまでが薬のせいかはともかく

「孫悟空ーーー!」

(↑【注】うつの人には申し上げるまでもなく、医学的には「被帽感」「緊張性頭痛」と呼ばれるもの。ズキズキ脈を打ちません。この感じが弱い人は、ほんとに頭にティアラか何かを載せてるくらいに感じるんですが、一方、生まれてこの方この感じを体験したことがない人もいます。そういう人や家族が下手に精神医学の本とかを斜め読みすると、「た、体感幻覚では?」という方向に心配するというのは結構よく聞く話だと思います。しかし、うつの人にとっては、年中帽子をかぶってるようなもので、他の症状に比べるともはや症状のうちには入らないと思っている人も少なくないでしょう。もちろん例外もあるかもしれませんが。しかし、この「孫悟空の輪っか」が頭に出ている時には、「まだエンジンがかかっていない」とか「疲れてきたかな」という警告サインとしていつの間にか大事にしている欝の人は凄く多いはずです。そして、薬をかなり異質のものに切り替えなどがあると、「これまでの『輪っか』だけじゃなくて、鋼鉄のフレームがつき、蜂の巣状に脳に刺さってきそうな『帽子』になった」などと、程度だけではなくて質の変化を明瞭に感じる人もあるかもしれません)

「この状態で外出したらトイレに間に合わないという大惨事に至る危惧すら思える下痢の予感」

ゆったりとした潤いが頭蓋骨の脳室の底に広がってたまっていく落ち込みもどき。これは疲労というよりデジレルを飲んでしばらくすると生じてくることが多い。要するにデジレルの睡眠薬的効果なのに、私は時々誤解して、その落ち込みもどきに落ち込みそうになる。眠気と落ち込みの区別がつきにくいって、あなたにピンときてもらえるかな?」

不眠タイプA 前門のトラ後門の狼タイプ。眠ろうとすると寝られず、起きてしまうと今度は横になりたくなるという果てしない葛藤に陥る。」

「私のうつの純度100%系。自分の内側の感じに触れようとして、触れることはできるけど、感じそれ自体から私が注意を向けたことにまるで『応答』するかのような反応が返ることが決してない。最初にこの体験をしたときにイメージとして浮かんでいたのは、灰色の干からびた雑巾が土の中の断層に引っかかっている」というものであり、そのイメージさえ浮かべればそのときの、感触を擬似的にうっすらとだがいつでも呼び戻せる」

私のうつ、これならぐっすり眠れ、翌日は結構大丈夫系。ともかく仰向けに横になって内側に注意を内側に向けると、内側からあたたかくてほっと緩むような応答あり。ああ、昔はこれで何とかなったのになあ」

「私にとっての『典型的軽そう状態』に固有な脳内の『殺伐とした』感じ。これと似ているけど区別できる気がするのは、うつになる前からあった、まるで脳の中に乳酸がバリバリで出ているときの感じ。これそのものはただの『無理して寝不足』のようだが、いつの間にか後者が前者に化けることがあることに要注意なのだ」

単なる『無気力な』感じというのは、考えてみたら、欝になってからは一度も経験していないなあ.....。『おっくう』というのは、『無気力』とはまた違う感じなんだよ。それ以外に『純粋の鬱感覚』ってのは確かにあるの。私の場合は、『焦り』すら感じようがなくなった『純粋の鬱感覚』ってのは、意外としのぎやすい。『死にたい』じゃないんだ。すでに自分がこの世の人たちが喜んだり悲しんだりしているのをよーわからんときょとんとして眺めているようなものだし」

などなど。


*****


 さて、薬についてフェルトセンス的に体感するとはどういうことかという話に進みます:
 
 同じSSRIでも、薬ごとに飲み心地が異なることは、うつの患者さんにとっては、フォーカシングを体験的に知らずとも、全く常識次元の事柄のようだ。

 その薬を飲んだ後の感覚の違いは、ある程度は他のうつ患者と間主観的に共有可能な側面もあるが、フォーカシングを学ぶことで生じる何より重要な変化は、本人自身の中で、内部感覚を実に細やかに識別して感じ分け本人にとってぴったりのフェルトセンスのハンドルといえる言葉やイメージを見出す力が高まることだ。

 例えば(あくまで例です)、

「パキシルの抗鬱作用(ひょっとすると軽躁まで反転した時)は、何が地面の下から自分の身体を支える台が張り出してきたという感じで、やや暑苦しくて『肉食系』」

「ジェイゾロフト抗鬱作用(ひょっとすると軽躁まで反転した時)は、すっきりと透明に、まるでハーブキャンディのように冴えるというのに近い。パキシルが『暑苦しい熱血漢』なのに比べると『クールで草食系』。

「以前はパキシルのある種の『力強さ』『泥臭さ』が懐かしかったんだけど、今は変えた後のジェイゾロフトの『洗練味』に『落ち着き』を覚える」

「パキシルからデパケン(気分調整薬)に変わったんだけど、ある意味ではパキシルでうまくやれていた時代が懐かしくもある。そりゃ、躁鬱の揺れに振り回される度合いがどんどん大きくなって苦しかったけど、それを自分なりにしのげていた頃は、明るいにしても落ち込むにしても、情動の持つ「泥臭さ」とか「ねっとりとした」味わいがあったようにも今では思う。その誘惑がヤバイとも今では思っているけどね。デパケンになじむ、確かにジェットコースターのような振幅はなくなって、いつもコンスタントに8割の状態を維持できるし、以前よりも無理した後のリバウンドはなくて、まるで以前は盲腸のような袋小路で悪循環していたエネルギーがちゃんと進行方向とは反対に噴射して私の身体を前に押してくれるようにして、気力も持続するけどね。何か、上からも下からも押し込まれた間の狭苦しい空間に、ゴシック体の自分が居るみたいな感じなのよ」

などといったものです。

 「薬を飲む前と飲んだ後の自分の内側の全体的な感覚をフェルトセンスとして感じてみる」......それは、単なる身体感覚だとか重苦しい気分にどっぷりと浸ることとは異なる。いわゆる薬の「官能検査」とも異なる(薬の味の報告ではないし)

 その具体的な違いについてはジェンドリンやアンの技法書に譲るとして、「フェルトセンスとして少しだけ触れる」というだけなら、実は一見否定的な感じであっても実は心地よいという矛盾が両立する(ジェンドリンが『フォーカシング』で書いていることです!!)。基本的に重い情動にただ浸るよりは「軽い」感じられた質を持ち、繊細な微妙な言語化・イメージ化が可能で、実は同じ処方であり続ける限り、自分の背景にある基本的な感覚(background feeling=背景感覚)として変化しにくい感覚を、薬ごとに(!)捕まえることができる(はずである)。

 「ああ、昨晩と同じまた『この』感じだ」とか、「以前のと似ているけど、何か違う質の感触が混じった。何か少し濁ったかな?」などと識別しやすいのである。

 そして、この後に述べるように、日ごろの悩みなどという次元を脇において、主に薬を飲む前と飲んだ後の内部感覚というテーマに集約・限定して、一定時間(2時間、6時間、就寝前)を開けて再度「ちょっとだけ」感じてみるという課題を明確に規定することにより、深い抑うつやひどい焦燥感にただ巻き込まれる状態になりにくくする予防効果もある。


*****


3. さて、ここからが、フォーカシングでいうとフェルトセンスをt『共鳴させる』の部分なのだが、過去のフェルトセンスと現在のフェルトセンスを比較するということを意識的に導入します。

 しかもそこに、3つの次元での躁鬱のサイクルが同時に進行していて、患者自身はその複合・錯綜したものを体験しているというとりあえずの仮定の下に、患者さんと一緒に多次元で解析していくわけです:

A.短期的な変動(1,2時間から一日程度)・・・・広義の「日内変動」を質的差異としてパーソナルにとらえる(メランコリー型固有のものを「狭義」として)
B.1週間程度の変動(現実の日常生活の疲労サイクルを仮定)
C.その人が双極性障害だと仮定した場合の躁鬱のサイクル


*****


 まずはA.の次元(短時間)から話を始めますが。

 すでに薬物療法とフォーカシングにに慣れている人の場合、この感度は、新たな薬を初めて飲んでからわずか1時間-2時間の時点で感じられる新たな感覚が、新たな薬の効き目が安定した2週間後の感覚と同じ質でであったと正確に感じ得るほどの精度を持つ場合がある(これは全然大げさではない!! 何と飲んで10分後に体験された感覚が、2週間たっても時々現れると報告する人もいる)

 それところが、数時間の間にも進行する気分や調の変動(日内変動)のただ中でも、あるベースラインの質感が『背景感覚』としてずっと維持されていることにまで気がつけることも少なくないのだ。

 いわば旋律やメロディがどう変わっても、一番下のパイプオルガンの基低音は実はずっと持続的に同じ音色で鳴り続けていたことに気がつけるみたいなことことも少なくないのである。

 こういう『背景感覚』をつかむのは高度な課題だと思っているフォーカシング関係者も少なくないかもしれない。だが、むしろ個別的な感覚が現れては変化していくことを逐次報告できねばならないというフォーカサー側の強迫的ともいえる思い込みが邪魔をしていただけで、実はずっと「背景感覚」を感じていたのに、それを言語的に報告していいことに気がつかないだけだった(いわば、イメージの背景のスクリーンの色は報告の対象ではないことを自明の前提にしていたけれども、実はイメージよりも背景の方がその人にとって自然に無理なく報告できるものだった)というケースは予想外に多い。要するに、その人は「たいへんそうな感じ」を一気に「またぎ越して」背景の感じ全体に触れるということにいきなり習熟してのである。

 そうとわかってしまうと、鬱についての話を延々と繰り広げるよりも、「こころと気分の背景の感じ(その人が好きな名前をつければいい)」にアクセスしてちょっとその質感を確認することの方がはるかに簡単で、負担も感じないという人も多いのである。

(このへんは、フォーカサー自身が自分に無理のない形に創意工夫していいし、リスナー/ガイドの臨機応変の提案がフォーカサーの援助になることも少なくないはずである。更に、フォーカサーの側のフォーカシングがうまく進む時は、実はフォーカサーの側のリスナーやガイドといい関係性を作る潜在能力にガイド・リスナー側が支えられていること(......逆にあらず)を忘れるべきではない)


*****


 私はこうしたいくつものタイムスパンで、しかもいくつかの具体的観点からフェストセンスの質感的な変化を読み解くことを、仮に「フェルトセンスへの積分的照合の構え(orientation)」と名づけることとする。 ※数ヶ月前から練りこんできた、この概念の初公開です (C)阿世賀浩一郎

 なぜここで敢えて「積分的」という言い方をしてみるかというと、もし、その人がそれまでもっぱら「今これからどうするか」という点での迷いを解決するためにフォーカシングする習慣が強かった場合には、「今のこの行き詰まりの感じが、いつ、どのように変化(シフト)を起こしはじめるか」に敏感であったことになる。

 こうした人は、それまでは、いわばフェルトセンスの照合の際に「微分的」あるいは「差分的」な構え(orientation)が強かったことになる。

 (この発想が、中井久夫先生の「分裂病と人類」に基づくことは、こっちのブログではもはや繰り返す必要、ありませんよね!)

 私の経験では、前述の「積分的構え」で具体的にいくつかの観点と、短期から長期に至るタイムスパンでフェルトセンスの感じられた質の変化を同時並行的に検証することに意図的に「なじむ」つもりにならないと、うつ状態の下で、自分の内部感覚全体を立体的に適切な遠近法で「俯瞰しつつ味わう」ことに熟達しないようにも思われている。


*****


 さて、先ほど、薬を途中で変更したり追加した場合について、

> すでに薬物療法に慣れている人の場合、この感度は、新たな薬を初めて飲んでからわずか2時間の時点で感じられる新たな感覚が、薬が安定した2週間後の感覚と同じであったと感じ得るほどの精度を持つ場合がある。

> ところが、数時間の間にも進行する気分や体調の変動(日内変動)に比べると、あるベースラインとなる背景感覚が、具体的な薬ごとに、基本的には維持されていると体験されることも少なくないはずである。

 と書いたが、 これに対して、

 (Aサイクルの日内変動ではなくCサイクル=双極型の人特有の躁と鬱の中期的なうねりが前に進んで(carry foward)生じた変化は、そうした背景にある基本感覚そのものががらりと変質することが多いように思う。

 例えば、実は3カ月おきの躁鬱の中期的な波がある人が、それまで生じていた、基本的には軽躁的な中で生じている「頑張っている時」と「疲労がたまった時」という、毎週末ごと(Bサイクル)の、似たような感じられた質の推移を伴う小変動(もしこれだけなら、薬に支えられているとはいえ、薬が「維持療法段階」に達した後の安定状態ともみなせる)を3回繰り返せた時点で、さてまた4回目に入るかなと思っていたら、突如、全然別次元での不調(例えば、それまで未体験なくらいの下痢と起き上がり不能な深刻な状態)になり、それまでの3週間のそこそこの安定期は、その後数年にわたる経過の中で、二度と同じような体験の質としては戻ってこない、というようなことである。

 (もとより厳密には、躁鬱の急速交代型(ラビッドサイクラー)のケースだと、日内変動と周期的な波の区別がつきにくいことは承知している。しかし、私が患者さんから聞いた範囲では、ラビットサイクラーの診断は安易に使われがちで、双極性障害II型の診断が適切なのに、気分調整剤ではなく抗うつ薬!! が多めに処方され(リーマスは出ていてもあまりにも量が少なすぎて有効血中濃度に届いているはずもない)、その「抗鬱薬」副作用としての不規則な軽躁状態との慎重な鑑別が医師によって必要なことが少なくないようにも思う)

 つまり、双極型でいう躁鬱の波の変動そのものが、ひとサイクル進行すると、そのたびごとに、躁状態でもうつ状態でも、それまでと同じ薬の効き目や副作用についてのフェルトセンスが、本人に予想もできない、あさっての方向へと感じられた質felt quality)そのものが別の状態に激変していることすら少なくないのである!!


****


 え? 薬の変更よりも、躁鬱の周期的な波の変化の繰り返しの方が毎回同じように質的にも体験されるのではないか?.....ですか?

 当然生じる疑問である。

 しかし、考えてみて欲しい。もし躁鬱の周期的な波(日内変動ではなくて)を本人が同じような繰り返しとして、容易に「すでにお馴染みの感じられた質の感覚」の再来として体験でき、薬の変化の方を新鮮な質的体験として感じられるのなら、患者自身、薬を変えたことによる変化と、自身の躁鬱の繰り返しの感覚の質的違いによほど容易に気がつけるはず.....ということになりはしまいか?

 つまり、双極性の患者本人の体験世界の中で、そううつの波の体験は、単なる堂々巡りの繰り返しではない「質感的差異」を伴う「質的に新しい」体験として認知し続ける、一群の人たちがいる可能性、むしろそのことが鍵なのではないか。

 そしてこうした現象は、実は双極性障害なのに単極性うつ病と診断され、抗うつ薬しか処方されず、その結果、波が進み、一度躁転してから鬱にはまるたびに副作用が悪化し続けてきた双極II型の人に独特のフェルトセンス体験様式の推移ではないか、とも思えるのである。

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↑ こうして、もう一度、以前解説したしたNHKスペシャルの図を再表示することになります。

 気分障害の診断と薬物のAPA標準処方について、基本的なことをすでにご存知というハードルはありますが、この水準が、おそらく、フォーカシングの専門家向けの学会発表や学会論文として幅広い人に読んでいただける妥当なまとめ方かと思います(^^)

 更にいえば、こうしたやり方が、ある意味でフォーカシング指向心理療法的な認知行動療法的アプローチのバリーエーションのひとつであることは、認知行動療法の体験者の皆様にもご想像できるのではないでしょうか。(別の認知的バリエーションとしてすでに書いたものは、ひとつはここにあります。)

 しかし、何より、この発想のアイデアの源泉になったのは、中井久夫先生のもうひとつの不朽の業績、統合失調症の患者に生じる身体的なさまざまな兆候と精神症状の兼ね合いについての継時的臨床研究であるということについても、言及させていただきます。

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)


(とりあえずここまで掲載します)

*****

※この記事の著作権は阿世賀浩一郎にあります。そのことを明示してくださる限り、ネット上でのご紹介、一部の引用、リンクは自由といたしますが、トラックバック等があれば感謝いたします。なおこの記事に基づく学会発表を2009年度中に行ないます。この記事を参考文献として明示して下さった上で学会発表に役立て下さる方があれば、ご批判も含めて、歓迎いたします。 (C)阿世賀浩一郎


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2009/03/23

フォーカシング・ピープルに望むこと。 

 まさに「あなたの」、言葉にならない違和感を「あなた自身のために」尊重して欲しい。
 仮にそこに友好的な聴き手がいなくても、あなた自身だけは、自分の友好的な聴き手であり続けることを。

 そして、どんな境涯にあっても自分の聴き手であることを大事にし続けた人間は、
 フォーカシングを、

  「あいつ、何かうまく言葉にできないけど、違和感を感じさせる奴だね」
  「そうだね、場の安全を脅かす奴だね」

 という域で活用しかねない、実はフォーカシングを学んだ人間ならすべてが体験する「悪魔の誘惑」に乗ってしまうこを、自戒を込めて恐れ続けるだろう。

  (少なくとも、フォーカシングの外部の人間やフォーカシングにうまくなじめなかった人に、そのような誤解を与える危険があるということについて配慮すること。フォーカシング内部の人向けに安全を守っているつもりが、実はフォーカシングのグループの「適応者」を守り、クループでうまくやれない人疎外するシステムに容易になり得ることを忘れずに)

******


 普段は、次のような耳に心地いい(?)発言は軽率と感じ、控えているのですが:


 J-POPの歌の歌詞にしましばみられるような、


 「どんな境遇においても決して諦めない」

だとか、

 「自分のものさしを大事にする」

とか(久々のayuネタです)、

 「自分を見捨てない」

とか、

 「まずは自分を愛していないと」

ということを、

単なるお題目ではない形で、苦難のただ中で、具体的に自分の中にどうすれば実現できるか。

 さらに、実際にそうした苦難の場面のただ中で心の余裕を取り戻し、具体的にどうすればいいかを一歩一歩見出していくのに役立てられるところまで、その人の中で磨きあげる域に達しうるスキルだと思う。


 「人に癒してもらう」

のではなく、

「自分で自分の聴き手になれる」

ということの真の深みに触れ、

更に、

自分がほんとうはどのような他者との交流を日々の日常の中で実現したいのかにも目覚めていける。


........それが、フォーカシングを身につけることです!!


フォーカシングとは、厳しい現実社会を生きるための、実戦兵器です。

 それこそ、厳しい経済情勢の中で、行き場のない思いを感じて生きる、フリーター派遣の人にこそふさわしい!!

 だから、私が開業カウンセラーとして食べていける以上の料金は設定しないでいるのです。


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2009/03/20

医者に鬱病と診断され薬物療法も受けている人へのフォーカシングの適用について。 [第4版]

 この問題について、日本に十数名いる、The Focusing Institute(日本語版サイトはこちら)の認定コーディネーター(狭義のフォーカシング技法の「トレーナー」、および、「フォーカシング指向心理療法セラピスト」の訓練資格認定そのものの資格の所持者である私が、個人的見解であるにしても、こうした場で表明することは、たいへんな責任を伴うことを私は十分自覚しています。

 私以外のコーディネーターやトレーナー、一般のフォーカシング学習者の皆様からのご意見は誠実に尊重させていただきます(個人メールでも結構です。匿名でも歓迎です)。

 もとより、個人情報保護の観点から、ご本人から主体的に公開の意思を表明された場合を除き、ネット上でその趣旨を、一般論としてすら、公開することはいたしません。


*****


 まず、端的に、私なりの当面の結論を、解説抜きで列挙させていただきます。その上で、一項目ごとに詳しい説明と、情報提供をいたします。その結果が連載の形をとる可能性も十分考えられます:

1.日本のこれまでの趨勢としては、鬱状態にある人への、「単一技法体系」としてのフォーカシングの学習には慎重な意見が多かった。

2.特に、フォーカシング学習者の主体性尊重が十分でなく、専門家側ががみだりにフォーカシングを学ぶことを勧め、フォーカサー(フォーカシングを学習し、身につける人。クライエント側)が受身にフォーカシングを学ぶような形は回避すべきとされている。

3.国際的には、マクガイアの「自殺念慮のある重篤な欝状態にあるクライエントに対するフォーカシングの適用」という論文(私は約20年前にこの論文の英語オリジナルを個人的に日本語に全文訳してみました。その頃からこの論文にかなり大きな影響を受けています。英文がネット上で見つかればリングを張りますし、いずれ日本語で概要を紹介します)を古典とする形で、殊にヨーロッパでは、鬱を含む重篤な状態にあるクライエントへの、フォーカシング指向心理療法的なアプローチがなされて来ており、それらの中には、「試行的段階」を超えて、臨床キャリアを積み重ねた現場実践者も増え、論文も確実に増えている段階である。

4.日本では、特に増井武士田嶌誠一という、現場心理臨床に卓越した、フォーカシングと一線を画するスタンスを保ってきた臨床家(二人共に福岡で活躍してきた)により、うつ状態や統合失調症などの重篤な患者さんにフォーカシングをそのまま学んでもらうことの問題点と、その原因についての仮説が具体的に究明され、ジェンドリンの体験課程理論そのものへの批判と新たな理論構築、更に、そうした欠点を解消できる独自の技法的アプローチについて早くから公表され、すでに臨床現場で幅広く適用されているている(増井の「こころの整理法」、田嶌の「壷イメージ療法」)。 

5.私、阿世賀の私見によれば、増井・田嶌両氏は、臨床実践的には非常に鋭い着眼(増井の「にせフェルトセンス」論を含む。私の理解では、その本質は「関係性」論である)と、新たな平易で効果的な技法体系の提案と、その日本での普及という点で、たいへんな功績がある。しかし、一部ジェンドリンの体験過程理論への誤解に基づく側面があり、日本のフォーカシング「インサイダー」の研究実践者に、概念や用語の理解の上で、むしろ混乱の火種を蒔いているともいえる。もし、このような、フォーカシング「インサイダー」陣営と、この両氏の間で、専門用語の定義と相互誤解についての相互了解(論理実証主義的な問題解決)が深められていくと、日本の心理臨床全体に大きな貢献をすると私は考えている。(ちなみに、私は臨床家になりたての頃から、この先輩お二人と、懇意です!!)

6.薬物療法なしでも、フォーカシングが、その代わりとして、単独で、うつ状態の解決に貢献するという発想は決してとるべきではない。

7. 恐らく、欝状態になる前から、すでにひとりで日常の中でもフォーカシングをすることに慣れ親しんで来ていて、人生の最重要クラスの困難の解決にフォーカシングが役立った経験もそれまでに積み、それゆえにこそ、自分にとってのフォーカシングの効用の限界と、「無理のない形での」フォーカシングの役立て方にも習熟したフォーカサーの場合には、鬱とつきあい、克服していく上で、フォーカシングを学んでいたことによるメリットの方がデメリットより大きいのではないかと思う。

 ● このメリットがどのようなものであるかについて:

A.医者や家族とのつきあい方を改善する可能性
B.症状や、薬の効果・副作用についての自己認識と表現能力の洗練
C.鬱病の「二次症状」としての様々な感情を自分で細やかに識別し、言語化でき、自分の中に生じてくるそうした諸感情に振り回されにくくなり、比較的自然に受容するためのセルフスキルを主体的に持っているという効力感(efficiency)、自己統御への安心感を獲得できる可能性がある。

  ●具体的に考えられるデメリット

A.鬱が軽いうちは、フォーカシングである程度緩和できてしまうことも少なくないために(!)、医療の受診や専門的カウンセリングにつながるのが遅れる可能性。

B.言語的(絵画的表現など)に自分の状態を表現するのがすでにしんどいうつ状態の人が「実感にぴったりの言語化(絵画などの表現)が必要」と過剰に思い込んで、結果的に心身を疲労させる可能性(これは、トレーナーの側の技法的熟練があればさまざまのやり方で回避できるはずと私は考える)
.
C.前よりもフォーカシングがやりにくくなった時には、それだけ以前より心身が消耗している証しであり、むしろフォーカシングを試みるのをやめて、休息をとったり眠ってみようとするための内側からのサインとして歓迎する方がいいということまで、フォーカシングのトレーナーやセラピストが(一般論としては伝えていても)、いざと言う時にフォーカサー(クライエント)自身が思い出せるような十分に実践的なたちでは教え切れていないことが少なくない現状があるのでは?

 (更に言えば、そうやろうとしても、今度は休息をとったり眠ったりできないという新たなジレンマにはまることも少なくなく、その切実度が半端ではないということを、トレーナーやセラピストは、仮に頭で知っていても、フォーカサーが安心する形で受容できるだけの経験に乏しいことが現段階では多いだろうと予測する)


*****

 ここからナンバーリングを7.の続きに戻そう:

8.うつ状態の人が、病院やカウンセリングルーム、あるいはフォーカシングの集いの場に通うということだけすでに消耗し、更に帰宅の際に消耗するということへの、本人を傷つけない形での配慮が十分になされていない現状があるように思われる。

 具体的に言えば、その配慮とは、

 「病気なので断られて医者に回された」

だとか、

鬱(軽躁)状態の人間が感じるフェルトセンスはすでに病的である、あるいは、現実吟味能力が低下しているので、フォーカシングでは解決できない

などと主催者やトレーナーに判断されたと、参加者が思い込んでしまわないための配慮である。

 なお、ジェンドリン自身が、

「フォーカシング・スキルを学ぶ能力はのその人の『病理水準』とは無関係である。つまり、例えば統合失調症の人の中に、スキル上達が早い人と大変な人がいて、同様に、いわゆる『神経症圏』の人の中に、スキル上達が早い人と大変な人がいて、いわゆる『健常者』の中にスキル上達が早い人と大変な人がいる。そうした違いの方がよほど大きい」

と明言するのを日本で聞いた数十名の中の一人が私でもあります。

 (ことフォーカシングに「全然」限らないが、NHKの鬱特集の番組でも描かれたとおり、医者やカウンセラーの中に、「古典的なうつ病患者(メランコリー型)はおとなしくて文句を言わず従順なので相手をしやすい」という感じ方をする人たちが少なくない。そうした医者やカウンセラーの側に、患者(クライエント)が従順に従わないというだけで、「双極性障害」「非定型うつ病」「境界性人格障害」というふうに、ひとつの差別的な含蓄すら込めて誤診することへの悪魔の誘惑が生じる危険は少なくない現状があるだろう。境界例人格障害の診断が「ほんとう適切な」人に対してすら、気分障害的な側面については「気分調整剤」の処方がまずなされるべきというのが最新のAPA国際的標準処方とのことです)


9.日本では、個別セッションにしても、グループの場合にしても、リスナーやガイドを相手としてのフォーカサーのフォーカシング体験が、そのフォーカサー個人の生活や日常における悩みや心身の状態よりも、セッションのその場の雰囲気や、リスナー・フォーカサーとの関係性の影響を、より強く受ける可能性という問題についての認識がまだまだ不十分である。

 もっとも、「関係性が大事」ということを、フォーカシング関係者も、まるでお題目のようにすでに繰り返している。しかし、それを、セッションの只中でhere and nowな形で臨機応変に形成していく技量がトレーナーやカウンセラー個々人の中にどれだけ育成されているかとなると、あまりにもばらつきが凄いといわざるを得ない。


10. 面接室や会場を出て、一人になった後や、家に帰ってしばらくしてから生じる、フォーカシングの場で体験者したことがことごとく虚妄と感じ、現実感そのものがまるで失われる場合があるという「リバウンド現象」を、私はちょうど20年前、学会誌掲載処女論文「セッションの『反動』」と名づけて以来警鐘を鳴らし続けてきた。

 しかし、未だにこの件について具体的にどう対処するかという議論は全くもって成熟していないと私は思う。

 
11.これと関連するのだが、

 「大きな洞察と気づきの体験は、いわゆる「健常者」の場合ですら、一時的軽躁状態に類似している面がある

ということを、フォーカシング関係者も、もはやあっさりと認めた方がいいと思う。

 少なくとも、うつ病の人に、カウンセラーや医師、家族、そしてフォーカシングの仲間たちに、少し元気になったり鬱を脱してくると、安易に「躁状態になった」というネガティヴなレッテルを貼られたと感じている人は決して例外的ではないように思われる。

 そうやって人の心理状態を安易に型にはめず、虚心に感じなおしてみて、言語化すら性急に目指さずに、「その感じ」そのものと無理なく共にいられるスタンスを自分で作れるようになる方向にフォーカサーを援助するという点にこそ、フォーカシング・トレーナーのベーシックな務めであるはずなのにである。

 そうやって躁にせよ鬱にせよ、気分障害と診断されている患者さんへの日本独特のトレーナー側の気おくれが生じているのは、先輩からの「うつ状態の人のフォーカシングを深めさせると悪化する」という忠告をただ鵜呑みにしているためだと思われる。「患者に害を与えないことが最大の治療」ということは真実ではあるが、トレーナーを目指す人なら、少なくとも自分で自分のためにフォーカシングをやり過ぎるほどやってみて、フォーカシングを深め過ぎると、どういう副作用や弊害が出るかについて自分に試してみるくらいの好奇心と探究心は持ってほしいと私は念じている。

(これらの点については、フォーカシングに限らず、洞察的あるいはリラクゼーション重視のセラピー全般において考慮されるべきことだろう。


12. 更にく言うと、前述の「セッション後の反動」体験に深刻な次元ではまった人は、自分のフォーカシング学習が未熟であるという、実は誤った劣等感に陥ったり、そもそもフォーカシングを学ぶ場に二度と現れないのではないか。

 そして、フォーカシング指導者の側も「もともと自我が弱い人、躁鬱のある人、あるいは境界例人格障害っぽい人」だから不向きなのだ、という循環論法で済ませているのだと思う。


13.こうなると、何と、脳内の神経伝達物質上のメカニズムの仮説として、わたしのいわゆる「セッションの『反動』」が説明できる可能性があることに、最近やっと、はっきりと私は気がついた。

 フォーカシングのセッション(特にシフト体験)そのものに、セロトニンとノルアドレナリン、ドーパミンの分泌を、それぞれ促進(抑制)する作用がある可能性を真剣に検証すべきではないか。

 それがいいバランスで生じると、弱いにしても「抗うつ剤的な作用」を若干果たし、その人の鬱の改善に貢献している場合もあるだろう。

 しかし、その一方、今度は、薬理作用という物質的なバックアップがないままで、脳内物質の過剰分泌のスイッチが入ることで、その「反動」として、数時間後にはそれらの物質の枯渇(あるいはバランスの変化)がはじまり、急激にうつ状態を喚起したり、鬱的とはいえない、鬱と誤解されやすい、別次元での心身反応を引き起こしたとしても何もおかしくないではないか?

 つまり、フォーカシング「成功した」学習体験そのものが、不適切な抗鬱薬の投薬と同じようにして、躁鬱の素質がある人ばかりか、もっぱら単極性の鬱だった人にすら躁鬱の波を「喚起する」可能性については、今後研究調査が重ねられるべきである。


****


 もとより、く今日の技術水準の限界もあるかもしれない。しかし、脳内神経伝達物質レヴェルでの直接の検証とまでは言わなくても、せめて、NHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」で実際に描かれたような、脳の血流量を脳の部位ごとに比較し、映像化する技術すでに存在するではないか。

[第4版で追加] 番組で紹介された技術は、恐らく、理化学研究所のfMRI (functional magnetic resonance imaging) というニューロイメージング手法である。
 
 そうした測定法をうまく活用すれば、フォーカシングセッションをライブで進めながら、脳内変化を「ある程度間接的に」かもしれないが、継続的に測定し、統計的分析を加えること、すでに容易なはずである。


(続編はこちらです)
 

Nhkadd1
Nhkadd2
Nhkadd3

******


 ここで問題提起したことが、実は、こと「技法としてのフォーカシング」を学ぶことや「フォーカシング指向心理療法的」アプローチに限らず、すべての心理療法アプローチにあてはまることに、すでに皆さん気づいていただいているかと思います(^ ^)

●関連記事(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

* カウンセリングに熱を入れすぎると欝症状が悪化する?

   .......今回の記事とは少しだけアングルが異なる部分があります。


* 読売新聞での紹介記事 -心は更地 安らぐ表現-

   ......私自身が担当した、通院中のうつのクラクィエントさんに対する認知行動療法的ともいえるフォーカシング指向心理療法的アプローチの実例。この記事に関して私(阿世賀)の側は一切取材を受けず、クライエントさんに入った読売の取材そのままの内容である。
 ジェンドリンの直弟子、日本フォーカシング協会前会長でもある、関西大学の池見陽先生のコメントもその記事に掲載されているが、まさかこのような形で新聞の上で遭遇するとは、クライエントさんも私も池見先生も、実際記事を読むまで想像していなかったという裏話がある。
 この記事に対する追加コメントとして、薬物療法や鬱の人へのフォーカシングの適用について、池見先生の見解が研究室サイトに更に掲載されたが、その記事へのリンクはこちら


*****

※この記事の著作権は阿世賀浩一郎にあります。そのことを明示してくださる限り、ネット上でのご紹介、一部の引用、リンクは自由といたしますが、トラックバック等があれば感謝いたします。なおこの記事に基づく学会発表を2009年度中に行ないます。この記事を参考文献として明示して下さった上で学会発表に役立て下さる方があれば、ご批判も含めて、歓迎いたします。 (C)阿世賀浩一郎



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予告!! 鬱とフォーカシング&SART(臨床動作法の新たな流れ)についての連作を書きます。

●ついに、フォーカシング・トレーナー国際資格養成・認定資格者として、フォーカシングをうつ状態の人が学ぶ場合に、学習者と指導者が気をつけることについての私の現段階での見解を、内容を慎重に吟味して掲載します。

●3月8日(日)に私自身が福岡市での研修会に参加し、実体験した、臨床動作法の新たな流れ、SART(サート=主導型リラクセイションセラピー)についての報告を掲載!!(これも恐らく連載記事になります)

 ......この体験レポートは、何と、SARTの開発者、大野博之先生(福岡女学院大学 NPO法人心理リハビリテイションセンター)ご自身に、レクチャーの内容と体験実習の感想を、「私なりに自由に」このブログで書かせていただくことを承認いただいたものです!!


*****

 この2つの記事の掲載順も、フォーカシング→SARTの順になりますが、私は、その順序そのものに大きな必然性を持たせるつもりです。

 請う、ご期待!!



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2009/03/19

感謝!! 3月19日0時過ぎ、連載がGoogleサイトでついに首位掲載!!

 この記録は、このブログ=「カウンセラーこういちろうの雑記帳」バージョンではなく、職場サイト、「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトのバージョン(このサイトのバージョンよりもまじめで、表現も推敲されています)で達成されました。

 恐らく、深夜時間帯の限られた時間にとどまり、また首位を明け渡すとは思いますが。自分でもびっくりしました!! ご愛読ありがとうございます!!

Google090316
↑NHK公式サイトの情報を抜いてしまったんですね(^^)

 いずれウェブページとして整理しなおし、わずらわしい改版履歴も削除して「決定版」掲載しますが、とりあえずここまでの連載の目次を表示します:


● 連載:NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想

1.(副題なし)
2.双極性障害(躁うつ病)と単なるうつ病とでは薬の処方が全く異なる
3.医者選び、ここに注意
4.投薬の全面的見直しの際に注意すること
5.番組で「非定型うつ病」を積極的に取り上げなかったこと
6.認知行動療法について
特別編1.統計上の問題など。
特別編2.今回の番組を「ネットでは常識水準」と言ってしまうことの副作用
特別編3:ご紹介:読売新聞の「医療ルネサンス」 更に、援助的専門家自身のメンタルヘルスについて
医者に鬱病と診断され薬物療法も受けている人にフォーカシングは危険か?


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2009/03/14

特典映像? -NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(ボーナス・トラック1)-[第5版]

 前の記事、最終回は、少しまるくおさめ過ぎ、皆様の期待を裏切ったかもしれませんので、最後にこれだけは画像つきで書いてしまおう!!

 番組の後半、認知行動療法についての部分には、大きな自己矛盾が内包されている!!

 NHKサイトの、この番組についての公式ページでは、次のようにこの番組のことを紹介している:


*****


(前半略).....こうした中、薬の処方を根本的に見直す取り組みや、難しい診断が一目でできる技術の研究が進んでいる。また、「うつ先進国」のイギリスでは2年前から、国を挙げて抗うつ薬に頼らず、カウンセリングでうつを治す「心理療法」を治療の柱に据え、効果を上げている。うつ病治療の最前線に迫る。


*****


 この番組の後半を実際に見ても、どうも番組制作サイドではこういうふうな流れでまとめたかったみたいなんだけど、その過程で、いくつか凄い勇み足を同時にやってしまっている。

 以下の図版をまずはごらんあれ:

Nhkspomake1
 ↑どう見ても大学の心理学の教科書!!大学生なら学部に関係なくおなじみの、実にありがちの内容です!!

 (心理学って、教養課程でも人気科目だものね!! 私はいくつかの大学で、実験心理から臨床心理まで内容に含めた「心理学入門」を教えた経験がありますが、全学部の全学生の半分ないし80%の人に科目登録され、最高で800人が実際に提出したレポートと学期末試験を丁寧に採点していた時期があります。はっきり書こう、専修大学出身の皆様、共立女子大学出身の皆様、阿世賀はこうして「生き延びて」いるぜ!!)

 この画面で表示されているのは、ロジャーズ派カウンセリング=来談者中心療法についての、心理学の教養課程向けの教科書ですら実は結構見られる水準の解説の文章の断片ですね。

 ここにオーバーラップして、ナレーションは、

「うつ病に対して、受容と共感的傾聴とする旧来の心理療法よりも優れた新しい技法として認知行動療法が認められて来ています」

と入る。

 うつ病に対する認知行動療法の優位性は、日本でも十数年前からとっくに唱えられていたんだけれども、それは置いといて!!


*****


 【ここから第2版で追加】  そもそもこの番組、どの内容が最新トピックななのかの序列がわかりにく過ぎます。

 すでにこの連載エントリーで具体的に示した話題に限定すると、恐らく、時系列的には、

1.うつ病における認知行動療法アプローチに、日本のカウンセラーにも関心が高まる
     downwardleft
2.「非定型うつ病」への関心が高まる。
     downwardleft
3.欧米で双極性障害II型と単純なうつ病では、薬物の標準処方が全く異なるという認識が確立する。
     downwardleft
4.イギリスで、認知行動療法を、公に、うつ病の標準処方とする法律が国会で可決され、各地に公立で無料の「臨床心理センター」が開設され、公費での認知行動療法カウンセラーの養成がはじまる。
     downwardleft
5.日本で、双極性障害II型と単純なうつ病では、薬物の標準処方が全く異なるという認識が広まり、心ある現場の医者の中に、そのことを実現するための十分なスキルが実現され始める。

 ........恐らく、こんな順序のはずですが(^^)

 どうです? 番組の流れに全然一致しませんよね。 【ここまで第2版で追加】


******


 番組の流れは、イギリスでは、地域の、精神科医ですらない一般開業医に欝と診断されると、薬物療法ではなくて、地域の臨床心理センターの認知行動療法カウンセラーにまずは回されるという法律がすでに国会で成立している、ということを映像で描いていくのだが、この脈絡のなかで、次のような統計グラフを提示してしまった!!

Nhkspomake2
 ↑ここで示された統計グラフは、「薬物療法だけ」の場合、「薬物療法と認知行動療法を併用した場合の再発率を比較したものである。


*****


 Q : さて、教養課程で統計入門を学んだ、心理学に関心ない理系や社会科学系の大学生の皆様、この場面で比較のためには、実は最低もうひとつ、厳密には更にもうひとつ、もーっと念を入れると更に更にもうひとつのデータを加えて相互比較すべきなのですが、それはどういうデータでしょう? 

 A : 

* 最低限絶対必要 : 「薬物療法と来談者中心療法併用した患者の再発率」

* これもあったほうが厳密 : 「薬物療法を用いずに認知行動療法のみ適用した患者の再発率

* ここまでやったら完璧 : 薬物療法を用いずに来談者中心療法のみ適用した患者の再発率

 百歩譲って、「薬物療法を用いない形で実験することは、人道的に許されない」というのなら(凄い!! 二人きりで密室で過ごすことは絶対に大丈夫なんだ!)、最初のひとつをだけでも加えて最低3群の比較をすべきではないでしょうか???


*****


 次にこの4群の調査資料ががすべてそろったします。もとより、サンプル数の違いも統計的に問題ないとします。すると次のような結果のパターンのシミュレーションができますよね。

1.薬物療法なしだと、認知行動療法の再発率が来談者中心療法よりも明らかに高い/同じくらい/むしろ低い

2.薬物療法ありだと、認知行動療法の再発率は来談者中心療法よりも明らかに高い/同じくらい/むしろ低い

3.薬物療法なしの場合とありの場合で比較すると、認知行動療法においては再発率の違いがより大きい/同じくらい/小さい/反比例(逆相関)する(4. と比較して)

4.薬物療法なしの場合とありの場合で比較すると、来談者中心療法における再発率の違いがより大きい/同じくらい/より小さい/反比例(逆相関)する(3.と比較して)

5.薬物療法がない場合、認知行動療法の方が来談者中心療法のよりも再発率が低い/同じくらい/むしろ逆


 そして、極めつけは、


6.薬物療法も認知行動療法も来談者中心療法もすべでやらない場合自然治癒を経た後の再発率が一番低い!!

 (更に、2番めに再発率が低いのが、「認知行動療法と薬物療法の併用」というケース)

…というシミュレーションが結局正解(統計学的にも有意)の可能性が、全くない、とはいえないのが統計学なのです!!

 (実際には、そうした多角的な統計を取ったのかもしれませんけど ^^;)


*****


 もう皆様お気づきでしょうが、どんな心理療法を適用しても、薬物療法の併用が同じくらい効果が上がる可能性だってあるわけですね(^^)

 いや、薬物療法にサプリを足したら、心理療法オールスター連合軍(?)との併用より再発率が低かったらどうしよう?

 薬物療法とバナナ(もちろん食用)を併用したらどうかな?

 いや、こんにゃくゼリーとの併用という、すでに少しネット界では旬を過ぎたネタをやってみたらどうだろう?)


 イギリスでも、このような統計のマジックにだまされて(ごり押しされて)、法案は通過した.....ということだけはいくらなんでもないとは信じたいところです。

 もしそうなら、全く別の意味でのスキャンダラスのドキュメンタリー、今流行りの「国策捜査、もとい、「国策調査(統計)」になってしまいます(^^;)


*****


 そして、そもそも日本うつ病学会理事長の野村医師の発言だけを追うと、どうも認知行動療法を特に推奨しようとする番組製作サイドの方向性に、あたかもブレーキをかけるようなアドリブ発言が各所に見られます。

 認知行動療法について番組内で「解説」しているのは、よーく観ると、ナレーションと、取材対象の、日本とアメリカの認知行動療法専門のカウンセラーだけなんですね!!)


 一方、野村先生は、

 「認知行動療法だけではなく、他のカウンセリング技法を含めて」

だとか、

 「薬物療法は、、ひとつの選択肢に過ぎないという捉え方も必要だけど、重要なものであることには変わりがない」」

といったアドリブ発言を、番組の最後まで繰り返しているわけですね(^^;)


 私には、

 「認知行動療法もいいけどさあ、そもそもお医者さん自身がじっくり話をきくという、セラピー云々以前の基本中の基本がなってないようではカウンセラー以前の問題だよ。正確な診断も投薬もできないとすれば、その医師は、カウンセラーも適材適所で有効活用できないんじゃないかなあ・・・・」

 という野村医師の心のボヤキ(この表現は決して失礼ではないと信じます)が聞こえてきてもおかしくないなと想像したのですが、思い込みすぎでしょうか?


 【ここから第2版で追加】 

 少なくとも、「こんな思い込みも可能では?」と提案をしてみることは、「物事の認知の枠組みを変え、生産的な方向で別の可能性を示していく」、という意味において、すこぶる「メタ認知行動療法的」アプローチかと思いますが(^^;)

 最も善意に解釈すると、番組スタッフと出演者の間で、「番組制作を進めるうちに、当初の方向性とは思いもよらない形でバランスが狂ってしまった」という共通理解が成立していて、

もう手直しが間に合わないので、野村先生、アドリブでそのへん、できるだけ修正くださいますか」

などどいう談合が成立していたのかもしれません(^  ^;)

.......え、今度はスベッた???

 (以上、ボーナストラック、終わり!! ボーナストラック2へ続く)



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2009/03/13

認知行動療法について -NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(6 一応の最終回)- [第5版]

 さて、いよいよこの連載、前回に引き続き、このエントリーで最終回です。

 前回で紹介した、「非定型うつ病」の現在の診断基準と、その具体的治療法については、実に様々なサイトですでに詳しく言及されておりますので、そうしたサイトをご覧になる読者のご判断にお任せいたします。


*****


【ここから第2版で追加】

 でも、「非定型うつ病の人は、認知行動療法によってアサーティブさ(自己主張能力)を身につけることが必要

という意見を読むと、

「日本人は、うつ病に限らないこととして、むしろ心理療法全般を受けることによって自己主張能力を身につけたおかげで、周囲との摩擦に耐え、孤高の道を歩む苦しみを感じているんじゃないか」

とも思うし、その一方、

「今の若い世代は、生きる糧を得るために働くという経験に乏しく、自己主張的になっているので(!)、昔の人のように、典型的(=DSM-IVで、過去の遺物から突如復活(^^;)した、「メランコリー型」)うつ病になれなくなっている」

という全く正反対の記事を読むと、

「ああ、オヤジの『今の若い者は』のバリエーションに過ぎなくなってる。要するに、古典的うつ病の人のほうが従順で、扱いやすかったという医者本位の愚痴なんじゃない?」

と感じてため息をつくのは、私だけではないと思います。

 繰り返します。DSM-IVでの診断基準に適う意味での「非定型うつ病」と同じ病態の人は、昔も今もたくさんいただけです....と。


 【ここまで第2版で追加】


*****

 さて、いよいよ、番組後半で取り上げられた「認知行動療法」に関してですが。

 認知行動療法についても、この番組に関する、しないにかかわらず、様々なサイトを見ていくと、バランスのいい記事もたくさん見受けられます(お医者さんによるもの、実際認知行動療法を受けた人の体験談etc.)ので、多くはそちらにゆずるとします。


【ここから第5版】

 私としての推薦は、

●【認知行動療法とは】 (インチキWriterの棲みか by isshy☆さん)

 うつの人のじゃないけど、ともかく「プロのライターさん」がマジになって書いたら、専門家の入門の文でもなかなか読めないような、これだけ小気味いい紹介の文章になるというあたりが見もの(?)です(^^)


【ここから第4版】

 ただし、英語ですが、次の記事の存在は是非お知らせしておきます:

●Petition Against Over-Regulation of Psychotherapy(心理療法への過剰規制に反対する嘆願書) (Moving Toyshop)

この記事は、裕さんのサイトの、

* イギリスにおけるセラピーに対する国家の規制

というエントリーで紹介されていたものです。 


 これについての私の意見はこちらの記事で紹介。


【ここまで第4/5版】

 そして、次の点だけ、開業臨床心理士としての私のスタンスを明言させていただきます。

 私は、基本的に、ある特定の心理療法が他の心理療法と比較して優れているかどうかという論の建て方に懐疑的です。

 いいカウンセラーにめぐり合えば、それが精神分析でも行動療法でも箱庭療法でもフォーカシング指向心理療法でも(!)、さらに特定の心理療法流派を標榜しないカウンセラー(例えば村瀬嘉代子先生や増井武士先生.....来年度から九州産業大学です....)でも、うつ病に関するカウンセリングに関して、的確な見立てと、個々のクライエントさんにふさわしいカウンセリングの進め方、医療の必要性まで、クライエントさんの考えも尊重して、一緒に納得のいく解決を模索していく力があります。

 このNHK特集でたっぷりと矢面に立たされたお医者様たちへの公平のために申し上げれば、カウンセラーや臨床心理士の場合にも、専門能力として不十分な場合が「同じくらいにたくさん」見られる点では同じかもしれません。私もまた、多くのクライエントさんに、「未熟なカウンセラー」として記憶に残っていることも少なくないであろうことは十分認識しています。

 しかし、それでも敢えて断言します。

 標榜する心理療法の流派やアプローチの違いと、「現場」カウンセラーとしての力量とは無関係だと。

 むしろ、カウンセラーは、経験を積めば積むほど、

「他の流派のカウンセラーでも、現場臨床的に力量がある人は、根本的なところでは自分と共通のことを自明の前提としてやっている」

ことに気づき、そうした技法についても実際に謙虚に学んでみる姿勢を保てるカウンセラーこそ、実は、その人の標榜する心理療法に限定しても、奥の深い現場臨床での実力を持っているものです。

●参考記事 : 「「オモテ」技法と「ウラ」技法 または収穫逓減の法則(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

 誠に僭越ながら、私が目指しているのも、まさにそのような、他の心理療法や技法に偏見のないカウンセラーに他なりません。

 私がそういうカウンセラーにどのくらいなっていて、現場臨床でも有能かを評価するのは、おいでいただくひとりひとりのクライエントさんに他ならないと思います。

 それどころか、クライエントさんに限らず、どんな人間同士でも、他人が自分のことを「誤解する権利(!)」が保障されていなければ、それは「支配」を原理とするファシズムであり、むしろお互いに更に理解を深めるきっかけを失ってしまうものだと確信しています。

(もちろん、「理解を深める」なんてしてほしくない、というクライエントさんの訴えがあれば、それも大事にしたいと思っています。自発的に訴えて下さらなくても、「私はこのクライエントさんにすでに踏み込み過ぎ、それを苦痛とのみ感じさせてはいまいか?」という自問自答はいつもして、チェックしているつもりではいます)

 クライエントさんからのどんな苦情や不信の念もぶつけてもらえることを、「クライエントさんが心の中でいつまでも抱え込んでいるだけにならずに済んで良かった」と、少なくとも心の中の「一方の自分」は受け止め、仮に、「他方で」、クライエントさんの誤解を解きたい気持ちがどうしてもカウンセラーの中にある場合にも、そのことでクライエントさんとの溝を深めるだけにはならないだけのことができること。

 更に、それが単にクライエントさんの「言いなりになる」ことではなく、クライエントさんにほんとうに役立つ援助へと前進するきっかけになるということが、絵に描いた理想ではなく、試行錯誤を重ねつつも、クライエントさんと共に実現に近づけるカウンセラーでありたいと思いながら、ひとりひとりのクライエントさんと毎回お会いしているつもりです。

 そして、「どうしてすぐに治してくれないの?」というお話に対しても、一方的な説明にとどまることがないように努めているつもりです。

 これを読んだ私のクライエントさんたちへ:

 今度お会いした時に、これを機会にこれまで言えなかった本音をいってくださっても歓迎します(^^) 
 今度ではなくて、もう少し先のいいタイミングで言ってみよう、でも自分の中で決して忘れないではおこう、というのも歓迎です(^^)


*****


 更に、私のカウンセリングルームの宣伝めいたことも、もう少しさていただくことをお許しください(^^)

 私は、まだまだ不十分かと思いますが、精神分析、行動療法、認知行動療法(まもなくこれに「最新の」臨床動作法が加わる予定です)など、様々な心理療法流派の、現場で一流という評価がある先生方の研修会に参加するように努めてきました。

 私の『普段の』カウンセリングをお受けになったクライエントの皆様の中には、私のカウンセリングを、例えば「認知行動療法」っぽいなと感じた方も少なくないようです。

 別の方は「まるでユング派みたいだ」とお感じかと思います。

 更に別の方は「ゲシュタルト療法みたいだ」とお感じの方もあるようです。

 なんだ、普通のロジャース派(来談者中心療法)と何も変わらないではないか、とお感じの方もあるでしょう。

 通常の面接の際には、「どこがフォーカシングなのか見当もつかない」とすら言われます。

 なのに、フォーカシングを技法として教える教師としては、

 「これほど理論や技法に厳格で、実践的な指導を具体的にしてくれるトレーナーにはこれまで会ったことがない。どんなぶしつけな質問をしても答えてくれる」

というご意見と、

 「こんな和気あいあいの自由なフォーカシングを学ぶ場を体験したことがない」

というご意見が両方あるのです。

 更に、

 「私の個性が強過ぎる」

というご批判と、

 「ネットの記事から想像していたよりは、よほど控えめな方ですね」

という感想も両方いただきます(^^)


*****

 しかし、このように、おいでいただいた皆様によって全然異なる感想をいただけることは、「フォーカシング指向心理療法」本来の性質に、ある意味で厳格に従っている結果だという少なからぬ自負もあります。

 「フォーカシング指向心理療法」という著作のなかで、創始者ジェンドリンは次のように繰り返して書いています。


 「フォーカシング指向心理療法は、単に技法としてのフォーカシングを面接のさなかに時々部品として差し挟むような次元にとどまるものではない

 「フォーカシング指向心理心理療法は、それがどんな技法的アプローチであるかに関係ないものである。さまざまな技法的なアプローチをそれぞれ別種の「エンジン」だとすれば、フォーカシング指向心理療法はどのエンジンであるかに関係ないで生かせる「エンジンオイル」のようなものだ。


 「フォーカシング指向心理療法」の特に下巻は、まさに、そうやってさまさまな流派ややり方にフォーカシングをさりげなく生かすための、ジェンドリンなりのヒント集です。

 この下巻の、「認知行動療法的アプローチ」に関する章は、私が特に熟読して来た章のひとつです。

【ここから第3版への追加】

 私なりの部分的には認知行動療法的といえるアプローチのバリエーションのいくつかの具体は、こちらこちらで紹介しています。

【ここまで第3版への追加】

 もとより、私よりもより優秀な「認知行動療法」本来のセラピストが、皆さんのより身近にもいらっしゃることを、私は心から祈っています。


*****


 ●謝辞●

 この記事を書くために何らかの意味で参照させていただいたサイトは、記事の途中でご紹介したサイトのみならず、非常に多くのサイトです。

 しかし、この記事を書くそもそものきっかけとなったのは、Lithiumianさんという方から3ヶ月ほど前にいただいた、私のプライベート・サイトのある記事への厳しいご批判でした。その方から、推薦サイトをいくつかご紹介いただいたことがそもそものきっかけです。Lithiumianさんには、特に篤く御礼申し上げます。

 更に、「ブログ論壇」というサイトを運営されている、ともあきさんから、最初は別の記事にいただいたトラックバックの記事の内容にも励まされました。この「精神療法の荒廃」と題するエントリー記事では、このNHKの番組の再放送を含む放映日程が詳しく紹介されているばかりか、この番組についての様々なコメントも掲載され、更に、ともあきさんご自身の認知行動療法体験についても、簡潔に自己レスコメントをされています。

 実は、私の方からも、今回の連載が進むたびに、繰り返しトラックバックをともあきさんサイトに差し上げ、ともあきさんからもトラックバックをそのたびごとに返していただきましたが、私の方のトラックバックの欄に見かけ上同じ記事からのトラックバックが並び過ぎてしまいますので(^^;)、私の勝手な判断で、私の方の表示はふたつに集約させていただきました。ともあきさん、どうかお許しください。

 更に、これまた少し以前の別の記事にトラックバックをいただきました、このサイトでもすでに具体的にご紹介した、ご自身精神科医である猫山司さんのブログ、「メンタルクリニック.net」の、他の様々な記事もたいへん参考になりました。私の愛読サイトになりました。ありがとうございます。


*****


 最後に、私は福岡県南部(筑後地方)に、私が知らないだけの、十分な診断と薬の処方をしてくださるお医者様が少しでも多いことを信じたいと思っております。

 筑後地区の病院のお医者様、あるいはこの地区の病院に通う患者様の中で、ご不快であったり、ご不安を増してしまわれた皆様もあるかと思います。

 まだ実際にクレームをいただいた例はございませんが、これからも、不適切な表現が見つかりましたら、できるだけ変更してまいります。 


****


 そして、何より、これまで私のカウンセリングルームに相談して、話を聞かせてくださったクライエントの皆様にこそ、ほんとうに厚く御礼申し上げます。

 この3ヶ月の間、この問題について私なりに猛勉強する中で私の認識が急に変化したことは、もう読者の皆様もお気づきかと思います。

 ここに書いたような、恐らくまだ不完全であろう認識すら不十分だった、久留米での開業初期にお会いした皆様、神奈川・大船開業時代のクライエントさんを含めた皆様、「もし現在お会いしていたら、まだ何かお役に立てたのでは?・・・」という後悔の念を禁じ得ないでいます。どうかお許しください。


(実はこの連載、ここで終わりませんでした


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2009/03/07

NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(1) [第2版]

 さて、直前の記事で予告した、この内容への感想を、今、本放送時のHDDビデオレコーダーで再生して、細かいポイントを再確認したので、本格的に書いてみよう。

 この番組には、ゲストとして、日本うつ病学会の理事長である野村総一郎医師以外に、自身が10年前に軽度のうつ状態を体験したという、政治学者の姜尚中(カン・サンジュン)氏、そして、欝体験(および、欝を家族として支えた体験)を持つ3名の一般市民の方をスタジオに招かれている。

 この番組の特徴は、日本の精神医療における欝治療(特に薬物療法)の危なっかしい側面を、恐らくこの種のテレビ番組としてはこれまであまり描かれたことがなかったくらいにつっこんだ次元で、説得力ある形で、しかし、感情的な医師悪玉論や偏見に満ちた薬物療法批判にはならない形で、クールに描き出したことであろう。


*****


 番組の最初には、欝の治療が何年にも及ぶまま成果が出ないような患者さんに、実は症状を悪化させすらする形でしか薬物の処方がなされていない場合がかなり含まれるのではないかということについて検証していく。

 先述の野村氏が指摘するのは「薬を増やせば症状を抑えられる」という誤った認識が現場の医師の多くにあるのではないかということである(この番組では明言されていないことを補足すると、いわゆるSSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)の場合、「用量依存性」は少ない、つまり、量を変えても効果の変化が少ないという性質を持ち、原則として単剤を、徐々に増やしたりせず、最初から一定量ドカンと処方するのが適切とのことである。徐々に増やすというやり方で、薬が身体になじんでいるために、増やした分だけの効果増強は実は出なくなる。それなら最初からまとめて出す方が効果があるということです)。

 これは同じ薬のだけではなくて薬の種類にも及ぶものであり、極端な場合、初診の段階から数種類以上の薬を出すことももあるというのでは、どの薬が効いていて、どの薬の副作用が生じているのかがわかりようもなくなるはずということが指摘されている。

  野村氏は、「抗うつ剤の処方は単剤処方が原則.....少なくとも3種類以上同時に抗うつ薬を処方するのは回避すべき」と明言する。

 (ここで、「抗うつ剤の」処方は、と書かれている点に注意。うつの人に出される薬全体のことではない。。双極性障害(躁うつ病)でないうつ病に関していえば、抗うつ剤、抗不安剤、(不眠があれば)睡眠導入剤の3種類が同時に処方されることはかなり一般だろう。これらの中の抗うつ剤ジャンルだけで3種類はまずあってはならない、ということである。私見では、抗うつ剤2種類以下、抗不安剤2種類以下、睡眠誘導剤1種類、しかもこれらトータルで4種類以内でまとまっている処方なら、そこそこ適切であることが少なくないかと思う)。


*****


 私が臨床心理士として開業していて現段階で一番多く受けている相談は、実は「うつ状態で長年通院して薬物療法を受けているが、医師の処方に疑問を感じ始めた」という皆様である(実はこうして久留米に居を移してからいよいよ比率が高まった)。

 もとより、精神医学的な診断を正式にできるのは医師のみであり、薬物の処方は医師にしかできない。しかし、カウンセラーが一定以上の水準の薬物療法についての認識を持っていることは、現場臨床において不可欠であると考えている。医者と患者さんのコミュニケーションが良好で効果的なものになるための実践的アドバイスをしていくスキルを、現場の(特に)開業カウンセラーは十分に身につけておく必要があるはずだ。

 この件については以前にも書いたが、現段階での私の考え方は、それを書いた当時よりもかなり踏み込んだものになって来ている。つまり、前の記事では「薬についての知識がそんなになくとも」と書いていたが、今の私は「カウンセラーでも、かなりの程度の知識があったほうがいい」と考えるに至った(もとより、お医者さんを横槍を入れられたと怒らせたりしない形での伝え方のコーチというのも、そうしたコミュニケーション改善のためのアドバイスのスキルの重要な一部である ^ ^;)

 鬱に関していえば、例えば、SSRIの中でよく処方される「抗鬱薬」に、ルボックス(=デプロメール)パキシル、そして最近はジェイゾロフトがある。これらの薬は、基本的にはSSRIであるにもかかわらず、欝に対して共通の働きの面も大きいのだが、消化器関係の副作用がまるで正反対なのだ。

 個人差はあるが、一般的に言って、ルボックスとジェイゾロフトは体重増加を招きにくいのに対して、パキシルは体重増加を生じやすい。パキシルは、便秘がちになりやすいばかりか、ストレス解消のための無茶食いを喚起しやすいようにも思う。これに対して、ジェイゾロフトの副作用としての展開中の典型は下痢と食欲低下ということになる(人によってはほんとうにひどい下痢が続くこともある)。

 だからといって、これらの正反対の薬を一緒に飲めばお腹の調子がちょうど良くなるなどというふうには都合よくいかない。薬の効き目や副作用はは単なる足し算引き算では説明できないことが多い。同時に飲むと「相互作用」を起こし、思いもよらない副作用を引き起こす可能性も高い直前の記事で紹介した笠陽一郎医師は「ルボックスとパキシルを同時処方するなどもっての他」と、ご自身のサイトで辛口コメントしている(前述の、今日日本でSSRI系の抗うつ薬として使われている3種類についての笠医師の比較がこのページにある)。

(もとより、効き目には個人差がありますから、併用処方で欝が改善し、消化器系もバランスが保てている患者さんを不安に陥れるつもりはありません!)。

 かといって、例えばジェイゾロフトを処方されて下痢になった3日目にゾロフトの処方をいきなり中止して、更には別の抗うつ薬に切り替えてしまうお医者さんがいたとしたらこれまた疑問符だと思う。投薬最初期のみであっさりおさまる副作用もあるわけだし、まるで患者さんの「注文」のままに目先の苦痛除去をしていくことが治療であると勘違いしておられるのではないかと想像したくもなるお医者様もおられるからである。

 ひどい場合には、患者さんと見解が対立すると、両者の考えに沿った薬物をどちらも同時に二重処方し、「好きにしたら」と様子をみる、患者さんに博打を打たせるお医者様も現実にある。「お持ち帰り用ケーキバイキングコース」あるいは「闇鍋」ではないのだから、仮に2つの診断仮説の薬を全部同時に飲む患者さんがいたらたいへん危険だと思うのだが。こうした場合と、「頓服」というはっきりした服用指示があるというのは全く異なることではないか。

 一般論とすれば、副作用止めを同時に出すことは、できればなしで済ませられるに越したことはないとはいえる。しかし、殊にご本人が、主剤の抗うつ薬について、「欝の軽快には効果があるみたい」とすでに実感していた場合、薬理学的相互作用を起こしそうにない消化剤や止瀉薬を出したらバランスが取れたというのであれば、それはそれでそこそこ現実的というケースもあるはずである。この点は抗不安薬などの副作用止めを「安易に」幾つも出す場合ほど弊害はないと良心的な医師なら考えるだろう。

 2週間ぐらい経過を見てはじめてその患者さんの身体に安定した薬理作用が生じるよう薬も多いのである。ジェイゾロフトの場合、数週間単位で経過を見ると、欝の改善につれて、いつの間にか止瀉薬を飲まなくても下痢をしにくくなっていく患者さんも少なくないようだ。

(患者の皆様、こうした場合も、市販薬に自分勝手に頼らず、精神科や心療内科の医師に、通院予定日を繰り上げてでも診断を受けたうえで消化剤や止瀉薬を出してもらう方が、適切な薬を調合してもらえる可能性があるかと思います。保険適用で安価になるはずですし)。


**** 


 さて、抗うつ薬の併用や徐々に増加させていくことの弊害についてて、番組の中で、野村医師は、図版を示しながら、次のような説明をする。

セロトニンが増えすぎても問題を起こすことが多いのです。今度はドーパミンが減り始める。そうなると、その人は無気力になる。それを医師が欝の悪化と誤解して更に抗うつ剤を処方するという悪循環に陥る」

Nhkdepression1

 こうして、単に無気力になるばかりか、記憶が抜け落ちたり、倒れたりなど、患者さん自身ははいよいよ苦しい心身の不調に苦しむことになるわけです。

 (この点について補足しますと、以前にも書きましたが、重度の欝というのは、実は「無気力」な場合とは、程度の違いだけではなく、かなり異なったの体験であることを患者さんは実感上識別できる場合も多いのです)

 私は薬の専門家ではありませんが、SNRI(セロトニンおよびノルアドレナリン再取り込み阻害薬)や三環系・四環系抗うつ薬のいくつかにおいて、体内でにドーパミンを産出するために必要なノルアドレナリン再取り込み阻害という効果がある薬が少なくないのも、単なるセロトニン再取り込み阻害だけではドーパミンが減り出してしまうことを前もって計算に入れている面があるのかもしれないと個人的には感じました。

 更にいえば、現在日本で認可された最新のSSRIであるジェイゾロフトに、実はこのドーパミンの減少を抑止する作用もあることは、ネット上の薬情報のサイトではあまり書かれていないことのように思えます。このことに言及しているのは私が見つけた範囲では、wikipediaでの記述のみです。

> セルトラリン(=ジェイゾロフト)の一つの性質は軽いドパミンの再吸収阻害効果である。
 
 この記述を素直に読むと、効能の上で、ジェイゾロフトにはSNRIにも通じる隠れた作用があるようです(日本で認可された唯一のSNRIとしてのトレドミンは、次第に医者の間でも次第に評価が下がっているようですが、その一方、日本でもこの1年ぐらいの間にジェイゾロフトの評価が高まり、ネット上の記事も一気に増えたのは偶然でしょうか?)

 私のお会いした人の中には、「パキシルからジェイゾロフトに薬が変わったことによって、寝覚めのすっきり度が目に見えて変化した。ただし以前に比べると、食べ物をおいしく感じられなくなったし、無理をして頑張ることもできなくなった」などと表現した人もあります。


*****


 更に最新情報を書きますと、すでに時代はSSRIやSNRIの先に進みつつあります。NaSSA(Noradrenergic and Specific Serotonergic Antidepressant ノルアドレナリン作動性・特異的セロトニン作動性抗うつ剤)という新しいタイプの抗うつ薬が、日本でも2011年の商品化を目指して治験中のようです。

 このことについて詳しく言及している日本語の記事は、今のところ

●新型抗うつ剤「NaSSA」販売で、明治製菓と日本オルガノンが契約(「うつ病ドリル」サイト)

●NaSSAの利用(教えて!goo)

.......この2つしかないようです。

(【注】.....日本語サイトで”NaSSA”を検索すると、現状ではしっかりした説明文はこのサイトにしかないので「紳士的に」サイト名を示し、リンクも張りましたが、この「うつ病ドリル」サイトは、うつ関連の多様な情報サイトのように見せかけつつ、実際には、すべてのページの一番目につく箇所に、ある特定業者からサプリを購入するように仕向ける強迫的なまでの仕掛けを持っており、この点で、うつ関連サイトの中では「問題サイト」であると私は判断しています。実は、この執拗な繰り返し構造そのものが、実はうつに悩む人を商品を買うように誘導するために受けさせる「ドリル」なのかもしれない(^^;)サプリそのものがうつ改善に役立つ人も少なくないことは確かなようですが、手法が悪辣です。ちなみに、私があるクライエントさんから聞いたことですが、このサイトの掲示板にまじめに批判的なことを書いたら即刻削除されたとのこと!!)。

 前者によれば、

>NaSSA (ミルタザピン)とはセロトニン・ノルアドレナリン両対応の薬だが、SNRI とは違って再取り込みを阻害するものではない。センサーをだましてセロトニンとノルアドレナリンの備蓄を放出させる薬。

>具体的には、セロトニンがどれだけでているかのセンサー(α2ヘテロ受容体)と、ノルアドレナリンの同様のセンサー(α2受容体)をふさぎ、セロトニンやノルアドレナリンが出ていないと錯覚させる。するとセロトニンやノルアドレナリンの備蓄が出てきて濃度を上げようとする。

>また、セロトニンに関して言えば精神安定に作用する5-HT1という受容体にセロトニンが結びつきやすくするために、5-HT1以外のセロトニン受容体をふさぐことでセロトニンが5-HT1へ流れていく確率を上げる(セロトニン受容体は14種あることが分かっているが、5-HT1以外の13種全てをふさげる訳ではない)。
つまり、再吸収口をふさぐのではなく、うつ病に関係しない受容体をふさぐ


 ・・・・・つまり、この新薬は、セロトニン濃度を「実際に高める」のではなくて、出ていると「錯覚させる」。これにより、セロトニン過剰によるノルアドレナリンの減少という副作用をなくすことを狙っているわけですね。
 夜先に述べた、番組内での野島医師の発言は、こうした今後の展開をご承知の上でなされているものかと推測します。


*****


 このエントリー、思ったよりかなり長大化してきたので、ここで一度区切って、連載にしたいと思います。

(続く)



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2008/10/19

このサイトのあの「鬱」記事、ついに通算3年間かけて、ベスト20ランキング連載100回(150週以上)連続を達成!

 前の記事とは切り離して、改めてご報告(^^)


●欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(2005/9/18掲載)


まだ「今週の人気記事ベスト20」、最新版全体の発表は先送りしますが、

このベスト20掲載をはじめて100回(実は150週以上にあたる)連続での週間ランキング入りを、昨晩24時に正式に達成しました。

 この記事の通算ロングセラー(?)ぶりは半端ではなく,恐らくすべての日にベスト20、それどころか11位から20位の間の週間ランクインが、私に記憶にあるだけでほんの数回、つまり、「いつもベスト10で当たり前」をまるまる3年間維持して来た、超例外的な記事です。


 この記事が更新中の記録は半端ではありません。

4ヶ月ごとでみても「栄光の記録」を維持しています。

 ココログの過去ログ統計で現在検索できる一番昔が2007年2月1日までですので、そこに遡りますと、

●2006/02/01-2006/04/30 個別記事3位  197アクセス(TA)/ 141名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア1.4%〕
●2006/05/01-2006/08/31 個別記事2位  330アクセス(TA)/ 271名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア1.2%〕
●2006/09/01-2006/12/31 個別記事2位  586アクセス(TA)/ 420名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア1.9%〕
●2007/01/01-2007/04/30 個別記事2位  821アクセス(TA)/ 625名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア2.2%〕
●2007/05/01-2007/08/31 個別記事1位 1040アクセス(TA)/ 775名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア2.3%〕
●2007/09/01-2007/12/31 個別記事3位 1358アクセス(TA)/1262名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア1.5%〕
●2008/01/01-2008/03/31 個別記事1位  982アクセス(TA)/ 740名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア1.5%〕
●2008/04/01-2008/10/19 個別記事2位  570アクセス(TA)/ 451名(UA) 〔全アクセスの中でのシェア1.2%〕


.....こんな記事は他にはありません。

 このブログ全体のアクセス数の変動と全く無関係に、私の代表記事としてのアクセスシェアが変化しなかったのですから。

(実際には毎週ランキングを出せなかった時期があるので、実際に記事掲載時からは何と通算160週以上、3年間、週間ベスト20ランキングを立ち去っていないことになります

 他にも鬱関係の記事をたくさん書いて来たのに、初掲載時から、絶えず、新たな読者を獲得し続けているという点で、あまりにも突出しているのですね。

 ある意味で、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の持ち味のすべてを象徴する記事だとは、常々感じています。

 まさにこの記事の持つ、

「普遍性」、
「逆説性」、
「新鮮さ」、
「自分の言葉で書いているパーソナル性」、
「専門性」、
「あたりまえさ」、

の統合こそ,このブログで目指しているポリシーです!!

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2008/10/16

バリントの神髄......オクノフィリアとフィロバティズム

 直前の記事で、ウィニコットの概念について、随分こってりとしたことを書きましたので、私がウィニコット以上に絶対的な読解の自信を持っている、イギリスの精神分析的対象関係論の大家、バリントについて、私がかつて学会発表の時に中井久夫先生らの訳を抜粋して作った、いわば「バリントの神髄」というしかない、バリント自身の理論の核心部分をネット公開しておきます。

 殊に、言葉だけは比較的に知られていても、滅多なことにはそのわかりやすい解説に出会えない、バリントの生み出した最重要概念、「オクノフィリア」「フィロバティズム」ついては、このように切り取って、バリント自身に語ってもらうのが、実は最上にわかりやすい筈です(^^)


jhp21asegabalint_2.pdfをダウンロード

 具体的には、

●バリント/「治療論からみた退行(原題"Basic Fault")」

........確か、バリントが、土井健郎先生の「甘え」理論を国際的にはじめて紹介した「公刊著作」でもあります。

 更に驚くべきことに、ビオン"container"概念について、バリント自身の言及として手短かに紹介された、初の日本で読めた公刊文献のひとつのはず。中井先生ですら、「バイオン」とビオン(Bion)のことを訳しているのですね(^^) それだけ日本にビオンがまだ知られていなかった時代の訳ということにもなります。

 もう一冊は、

●バリント/「スリルと退行」

よりの抜粋です。実はこちらの方が「治療論からみた退行」の前に出た著作です。


 この2冊、現在中古書市場でも、以下のAmazonのデータで見るように、たいへん高価な、入手困難な2著作です(臨床心理系の大学院のある大学図書館には結構蔵書があると思いますが)。

 そこで、精神療法・心理療法の専門家の皆様向けのインターネット上のバリントのデータベースとして、改めて公開します。



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2008/10/14

ウィニコットの"good enough mother(ing)"をどう訳すか(第3版)

 これまた、直前の記事の後半で、ウィニコットについて書いたことから、心理療法家、特に精神分析系の、臨床心理先攻の心理学科学部学生以上にとっては十分に有益な情報をひとつ。

 ウィニコットには、もはやカウンセラー(特に分析系)だときちんと理解していないとモグリだといわれかねない水準の、指定校大学院博士前期コースを出た出た人だと、臨床心理士資格認定試験の受験勉強には欠かせない水準の概念として、

●移行対象(過渡対象)
●錯覚(illesion)/ 脱錯覚 or 幻滅(disillusion)

(わざと、資格試験のために最低限これくらいかなという素朴な水準の定義にリンクしました)

そして、

●good enough mother(ing)

の3つがあると思います。

 実は、直前の記事で紹介した「偽の自己(false self)」などを資格試験や大学院の入試に出題するのは、学生や臨床心理士資格受験者には酷と思います。

なぜなら、

1.J-Popなどでも歌われ、世間の人一般が思っている「偽せものの自分」「ほんとうの自分」という次元での用法(私はこれを軽視しているのではなく、むしろ専門家の側がこれを尊重せよと強く言いたい)

2.ウィニコット自身が言っている本来の意味あい(専門家ならこれを十分理解しておけ、といいたい)

3.それを「誤読」したマスターソンが使った意味あい(臨床家の卵だと、本来は乳幼児発達心理学者マーラーが言い出した「見捨てられ(分離)不安」と関連づけて結構ありがち)

4.ウィニコットをある意味では継承したけど、これまたオーバーランしたきらいがあるR.D.レインにおける意味あい(3.よりマニアックなぶん、アマチュアの心理好きも知っていることあり

 最低この4つぐらいを、臨床系の大学の有名な精神分析の先生ですら、一緒くたにしていたり、この中のどれかに強い感化を受けている可能性があるので、「正解」をどの範囲とするか、受験生と採点の先生の「趣味」があわないと、あまりに不確定になるからです。

(もっとも、北山修先生や松木邦裕先生、福本修先生、狩野力八郎先生、妙木浩之先生、私も多少親交がある藤山直樹先生クラスの先生(精神分析系の院生なら、どの程度の水準か見極めていただけますよね)が採点して下さればそうした心配はないと思います、むしろ「自分はウィニコット/マスターソン/レインの次元で書いている」と自己申告して勝負を挑むのもいいかもしれません)


****

 次に「錯覚(illusion)」と「幻滅(脱錯覚 disillusion))」の関係についてはすでに何回か書きましたし、同じくウィニコットのいう有名概念のひとつ、

●ひとりでいられる能力(ability to be alone)

についてもこのブログで何回も言及しましたが、これも指定校大学院入試や臨床心理士資格試験に出題でもされたら、問題を考えた先生に「酷です」といいたい。

 ウィニコット自身が書いた意味とは全く別のニュアンスで日本の臨床家全体に流布していますから。

 この点だけ、端的に正解を書きます。

△=孤独で、一人きりでいられる能力、引き蘢れる能力、「自閉する能力(=すごく有意義な臨床概念だが、神田橋條治先生の独創に近い)」

○=親しい人(親や恋人)と一緒の空間にいながら、しかも自分の世界に没頭できること

 このふたつは奥でつながっている場合も多いのですが、あまりにアングルが異なるでしょ? 恐らく筋のいい教育を受けた人なら後者に近い形で理解しておられるはす(20代のかけだし臨床家の皆さん、ほっと胸を撫で下ろした人が50%はいるでしょう)

(........自分の畑ではないフロイト以降、いや、クライン以降の精神分析の理論においてですらこの水準の的確な理解と使い分けが大事といいだす私という人間が、ことフォーカシングの世界で、すでに25年間ライフワークにして来たジェンドリンや体験過程理論の理解にどこまで厳密さを求めているかは推(お)して知るべしと想像して下さい。......でも私を恐れないで(爆)!! フォーカシングを学ぶ皆さんがどういう本を読んでどこで誰に学んで(外国を含む)どういう脈絡で使っているかまで、私は瞬時に汲み取って、無理なく、それこそ、「お互いに、いい意味でgood enoughに」対話しますから)


****


 さて、問題の、"good enough mother(ing)"です(^^)


 30年前の訳書では、「適切な母親」(「適切な養育」)と訳されました

 しかしこの訳語は誤解を招くという意見が高まり、ある一時期は、全くの直訳ふうに、


  「ほぼ十分な母親(養育)」


と訳されることが全盛を極めた次期があるかと思います。


*****

 でも、実用的な英語を学んでいる人なら、good enoughを「ほぼ十分な」と訳するのは大学受験生までにしてくれとおっしゃりたい方がすくなくないかと(^^)

 ちなみに、英会話スクールBerlizのサイトでは、このページで次のように解説されています:

 今日はこの中にある“good enough”という言い回しに注目してみます!

 “good enough”は、「良い」という意味の“good”と、「十分な」という意味の“enough”からなる言い回しで、直訳すると、「十分に良い」となりますが、会話では、「十分」「満足」という意味で使われます。“enough”だけでも「十分」という意味があるのですが、捉え方によっては、「それ以上はいい」という意味になってしまうこともあり、“good”を付けることで、「満足」というニュアンスを加えることができます。


つまり、

「コーヒーもう一杯どう?」

ときかれて、


「もう十分いただいたわ( ^ ^ )」

から

「結構( ^^;)」


と答える時まで広げられるかな?

 字幕や吹き替えでは、場面と脈絡に応じて、「ありがとう、もうOKよ」とか「もういいわ」とか訳しているのでは?

 「かすかな拒絶」が優勢なニュアンスの時と、「心からの感謝を込めて」のニュアンスで受けとめてかまわない時があるでしょうね。


 仕事の出来についての感想だったら、

「十分よ!( ^ ^ )v 」
「まずまずだな」
「一応いいか!」( ^ ^ ; )
「ま、いいでしょ(- _-)」
「問題ないね」

ぐらいに訳し分けられるかも。

 ある意味では、日本語でいう、「適当」という言葉が「いい加減!」「手抜き!」から、「まずまず!」「そこそこいけてる!!」「いいんじゃないの?」といった複雑なニュアンスを内包できるのに似ている。


****


 いずれにしても、ウィニコットの"good enough"の訳語として、わたしがこれまで著名な先生方の日本語訳として気にいったのは、


「まずまずの」

とか、

「そこそこの」

と訳した例でした。

(後者は、私が共立女子大学非常勤講師の時代に使った、酒木保先生(コラージュ療法で著名)の教養過程の心理学向け教科書だったと思います)


*****


 これ、実は「ありふれた」とか「普通の」に、限りなく近いのです。

 日本人って「適切」という言葉に凄く構えてしまい、「適切な水準」を目標に掲げ、強迫的に探し求める罠にはまりやすいので。


******


 .......このように書くと、「自分は"good enough mother"か??」と真剣に悩み抜いておられた女性のある部分はあっけにとられるでしょうね(^ー^) 

 決してそういう方々への揶揄でいうのではありませんが、「自分は『普通の』人間のなのだろうか?」と真剣に悩み抜いて来た方々のある部分を別にすれば、少しは安心して下さるのではないかと

 つまり、これだけでは「気休めにもならない」皆様が少なからずおられるのも私は心から受け止めます。少なくとも「数年前の」浜崎あゆみにとってはそうかもしれない。今もクラくなると彼女はそう感じているかも(少なくとも、ayuの歌詞に共感できる皆さんには、こういう言い方で通じますよね)。

 特に日本人には「普通に」という言葉を「無神経」、「デリカシー」がないと受け止められてもしかたないくらいに「普通さ」に過敏な面があると思います。

 それはこの言葉の濫用のせいも大きいと思います。鬱病、統合失調症、ボーダーライン、発達障害とされる人に安易に使わないデリカシーを、good enoughなカウンセラーの皆様なら持っている筈と思います。


*****
 

 ほんとうは、こういうニュアンスまで汲み取れないと成り立たないのが、それこそ"good enoughな"カウンセラー・マインドだと私は感じています(^^)

 これは読者の皆様への「謎かけ」ではなくて(^^;)、

 こう書くと「いい塩梅(あんばい)で="good enoughに"」伝わるかと( ^ ^ )


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2008/10/02

鬱の最悪の場合のモデルから出発して。

●水でも何でも飲むものは何ひとつおいしくない。
●仮に何か口に入れ見ようかという気になったとしても、おいしいという味を全く感じないばかりか、時として吐き気すら伴う。
●およそ人の声もテレビの音でもパソコンの映像でも不快でわすらわしい。
●起き上がるのがつらい、これが単に上半身を上に起こすという意味ではなくて、頭が半分眠った状態から覚醒状態まで、あたまをが徐々に冴えさせていくプロセスそのものがえらく大仕事であり、目を覚ますたびに毎度こんなことをせねばならないくらいだったら、いっそのとこ永遠に眠り続けている方がよほど楽と思う(これは、死にたいということではないので念のため)。
●それが別に自分を批判したものではないと十二分にわかっていても.他人の発言がすべて自己嫌悪の種になる。
●一見同情心あふれる聴き手がいても、また「あのこと」を話さないとならなくなるのかと思うだけでうんざりする。
●翌日仕事をする予定がある人の場合、その仕事に自分が十分なエネルギーを確保できているかどうかということが前日の最大の関心事である。

●得てして、最大の悲しみは、この世の中で自分が完全にひとりぼっちであり、それはどんなに愛情豊かな家族や恋人がいたとしても、決して埋めることが出来ない圧倒的な『空隙」(一致の実存的孤独の痛み)である。

●これを「見捨てられ不安」などというありきたれで陳腐で何かそれだけでわかったような、しかも実のところ、クライエントさんを無意式に虜にして「誘惑」したのは、お客さんに逃げられたくないカウンセラの側なのに(少なくともそのように誤解されないように最大限の必要はある。あなたはそのクライエントさんに自分をひとりの魅惑的な女性カウンセラーとしてアピールしたという衝動を本当にコントロールていましたか?)。

 、あるいはあなたは院長先生とデキているでしょうと確信判的にクライエントさんに真顔でいわれてどぎまぎしているうちに、クライエントさんだけを嫉妬妄想の困ったちゃんに仕立て上げたり(「そんなあ? 私、院長先生の愛人だったら光栄だわ」、くらい、さらりといえればよろし)、「私は先生に無き父の面影を追っていたのですね」あたりで体よくまとめて自立させる程度のことを精神分析と称して偉そうな顔をしている輩に、私は大いなる違和を感じている。

 少なくとも『見て捨てられては困る」ほど、あなたそのクライエントさんにとって素晴らしいな久手はならないだなんれうぬぼれてはおるまい。あなたはただのそう簡単に壊れそうにない"wachable"いタブなディディ・ベアというだけのことだ。


*****

 
 それなら、あたかもそこに自然な「息が出来るだけの」空気であるかのように、二人の間に自然な空間が生まれればいい。

 (バリントにおける「魚にとっての水」。世間のた「ただの空気」の中で対話するだけでは「中毒」して「窒息」する人たちはたくさんいる)

 むしろ、を直視せよ。

*****

 これが埋められることが決してないということを十二分に自覚しており、唯一信頼が置ける相手お互いにがいるとすれば、その圧倒的な空隙が「あたかも存在しないで、確かな<絆が>あるかのように」振る舞おうというごまかしを決してしないという点で圧倒的な誠実さ堅実しながら、相手の感じている「圧倒的空虚」への細やか思いやりを失わない関係だろう。

 これは、あるいみでこうした人間同士にしか不可能な得意な「同盟関係」である。

 彼らは、空虚であるが故の世界の中での同盟を知っている。


 以上、バリントのオクノフィリアフィロバティズムがわかる人限定のぼやきに脱線してしまった(^^;)



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2008/09/24

昨日からにほんブログ村に参加しています。どうかよろしく!!(第2版)

 すでにお気づきの方もあるかもしれませんが、やっと昨日午後から参加しています。

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 私のプロフィールはこちらです。


 《2008/9/25 19:08更新》

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です(^^)

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2008/09/23

トロントの思い出

 NHKドキュメンタリー、「戦場 心の傷」の記事を書いて、思い出したこと。

 フォーカシング国際会議が、来年(2009年)の5月に、日本の淡路島で開かれます。

 このことに関しては、すでにこの記事等でご紹介してまいりましたが、私は2005年5月、カナダ、トロントでのフォーカシング国際会議に参加しました。

 その時の現地からの記事はこちらからご覧いただけます。また、その時の写真集「トロントだより」もこのブログに併設しています。

 この、トロントで、世界各地で活躍する、フォーカシングのトレーナーの皆さんから、そのこれまでの生き様を含めて直接お話をうかがえたことは、その後の私にたいへん大きな影響を残しました。


******


 その中のお一人からうかがったお話。

 深刻なトラウマへのフォーカシングの適用の代表的人物の一人というべき女性。
 私より20歳近く年長ですが、私と同じ、世界に百数十名いる、フォーカシングの国際資格に認定資格者(TFIコーディネータ)のお一人でした。

 その方がお若い頃。196-70年代、アメリカには公民権運動の渦中にありました。彼女も、アメリカ国内で差別されている人種・民族のために積極的に活動する活動家のひとりでした。

 ところが、ある日、思いもよらない事件が起ります。

 彼女が車で自宅に帰宅し、玄関のドアの鍵を開けようとそうると、突如拳銃を突きつけられ、顔のそばで発射されてしまいます。

 彼女は、顔面の3分の1を吹き飛ばされる重症を負いました。

 逃走したのはひとりの少年でした。

 しかも、その少年は、彼女が人権運動の中で貧困と差別を受けているとして擁護していた、まさにその人種の少年だったのですね。

 彼女は、単に長期間を要した顔の整形修復手術の苦しみに耐えるみならず、突如発砲された衝撃から、PTSDに陥ります

 それに輪をかけたのが、その発砲の犯人が、まさに彼女が人権運動活動家として擁護していた人種の少年だったということから、深刻なアイデンティティの危機に陥ります。

 いろいろ回復の手だてを求めていくうちに、彼女はフォーカシングに出会いました。

 そこで癒されたことが、彼女をフォーカシングのトレーナーとしての道に進ませたのでした。


*****


 この方に限らず、フォーカシングにおける今日の代表的な指導者たちの中には、ベトナム戦争当時の騒然としたアメリカ社会の中で、未来を模索した、最も先鋭なグループに属し、そうした活動そのものの中で、心身共にぼろぼろになった経歴をお持ちの方がたくさんいることに気がつきました。

 私は、正直にいいて、

 「こうした人たちにはかなわない」

と感じました。


 スケールが違いすぎる。

 運動の中にコミットし、理想と現実とのギャップに傷ついていくプロセスの凄惨さと切実度が、日本の学生運動と比べても次元が違うと感じさせられたのです。

 
 今でも、世界の紛争地域に、国際協力隊員として赴いたり、あるいは第3世界(特に中南米)の厳しい現実の中で、フォーカシングを生かすことに命をかけておられる人たちが、たくさんいる。

 その時から、私は日本のフォーカシング運動そのものが、なんともちまちました箱庭スケールのものに見えて仕方がなくなったのでした。

(個々のフォーカシング関係者の中には、難しい現場のシビアな最前線で奮闘しておられる方も少なくないと信じています。そうした方々を誹謗する意図はもちろんございません)


*****


 トロントに行ったのは、私自身、人生の中で、これまでにない苦しい状況に直面していた、まさにその時でした。

 私は,その状況の解決のための援助として、ひとりのクライエントとしてカウンセリングに通い、「適応障害」の診断を受け、鬱状態で心療内科医療の治療も受けていました。

 しかし、そうした日本の現状での援助的専門職からのサポートではどうしても埋め難しい、自らの深い心の傷と空洞に、まずは、「私自身のための」フォーカシング教師として成長し続けるしかないことを、胸に沁みる思いで重ねました。

 大学所属の常勤カウンセラーから、湘南地域の、一開業開業カウンセラーとしてし働くようになる中で、個々のクライエントさんにとって、代金に値するだけの援助をしていくということはどういうことかということにも直面しました。


 フォーカシングは、何よりも私自身のために。

 しかしそれは、即、

 個々の来談される方のために、現場臨床家としてどこまで心を尽くせるか

 ということと表裏一体になるものとして。


 ......そのような信念が私の中に形成されて来たのです。


******


 もとより、私はまだまだ発展途上、さまざまな未熟さを抱えているとも感じていますが(^^)

 いつも申し上げますように、思いつくままにご意見や注文をいただけますことこそ、私が望んでいることです。


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2008/09/20

「成仏」してもらうためには、「悪霊退散!!」だけではうまくいかない。

 これは、フォーカシングについてのこわーいお話です(^^)


******


 ある位の高い貴族がいました。源の某(なにがし)としましょう。

 彼は以前、出世のために、それまでつきあっていた幼なじみの女性を見捨て、別の女性と政略結婚するばかりか、今後の出世に響きかねない、政治上の秘密をいろいろと打ち開けて来たその女性の存在そのものが厄介と感じましたが、殺すには忍びなかった。

 そこで、その女性の実家そのものにいわれなき大罪を着せ、父母を死罪、一族を、その女性もろとも島流しにしてしまいました。

 女性は、若くして流刑先で寂しく生涯を閉じました。


*****


 ちょうどその頃、源某がついに右大臣に登り詰めたその晩から、怪異な現象が頻発するようになったのでした。

 まず、幾人かいた某の子供が次々と病気になりました。都の彼の屋敷の近辺では、狐火を見たという噂が絶えなくなりました。更に、天候不順で日本中が不作に陥りました。

 こうした中、某自らも塞ぎの虫に取り憑かれ、政務にも出ず、自宅に籠る日々が増えました。

 彼は国内安堵の加持祈祷をたくさんの僧侶に求めました。
 しかし効果は全くありません。

ついには、政(まつりごと)にさし触るという理由で、帝(みかど)から若くして引退し、出家することを勧められるまでになりました。

 そうした晩、枕辺に、おどろおどろしい九尾の狐(王子のきつねではありません.....といっても落語のタイトルにもあらず......)の霊があらわれました。

 彼は恐れおののき、稲荷大権現に参拝し、献金し、更にさまざまな祈祷師に頼みますが、夜な夜なきつねの霊は彼の枕辺に現れ、彼の眠りを妨げるに至りました。


*****


 そうした中、小康を得て、久々に某は少数の家来を伴い外出しました。

 ある他家の屋敷の門前で、門番に厄介払いされ、傷ついたぼろぼろな装束の旅の僧侶を不憫に思った某は、その僧のそばに行き、食べ物と若干のお金を施しました。

 その僧から、

  「凶相が出ておいでです」

と云われた某は、更に彼を屋敷に招き、新しい衣服を与えました。


 僧は云います。 


「その九尾のきつねは恐らく仮の姿に過ぎませぬ。狐の霊が何を伝えようとしているのか、虚心に向き合おうとされましたら、何か答えてくれるかもしれませぬ」 


 某は、その僧にわずかばかりの領地を与え、近隣に住まわせるようかと思いました。

 最初、その僧に大きな寺を寄進しようかと持ちかけますが、僧いわく。


 「小さな庵(いおり)で結構でございます。あとは日々の衣食足りれば」


 某は云われた通りにして、時々僧の庵にお忍びで足を運ぶようになりました。


******


 某は、毎晩、狐の霊が現れる度に、恐れることなく、その霊と対峙しようと試み始めました。

 最初は、狐のおどろおどろしい姿に身の毛が振るえ、布団から顔を出すこともできませんでした。


 「我ながら情けない。どうしたものかのう?」


 と翌朝僧に尋ねますと、


 「しかたありませぬな。最初は布団をかぶったままでもいいでしょう。
 
  ただ、


 『そのへんに狐様がお見えなのは気づいております。

 お姿を拝謁する勇気が出ない私を、どうかお許しください』


 と念じて,そのまま眠りにつくだけでもよろしいでしょう」


 と僧は申します。


 その晩、枕辺に狐が現れた時に、某は僧の言われた通りにしました。

 すると、狐の霊がそばにたたずんでいることに気づきながらも、そのまま安眠することができました。

****


 毎晩のようにきつねの霊は某の枕辺に現れました。

 そのうち、狐の霊を見つめることが怖くなくなってきました。

 最初は怖いばかりと思っていた狐の姿が、実は自分を脅かそうとする様子はなく、静かに、ただ、こちらを見つめているだけであることにも気がつきました。

 「狐様は何を私におっしゃりたいのですか?」

と声をかけてみましたが、返事はありません。

 そのまま沈黙の長い時を、狐の霊と向かい合ったまま、意外なまでに怖さを感じずに過ごすうちに、いつの間にか寝入ってしまう。

 そういう晩が幾晩か続きました。


****

 某は、再び僧の元に出向き、

 「狐様から何の答えも返してもらえないのです。

 そのまま寝入ってしまうことを繰り返しているようでは、

 何か狐様が新たな罰を加えて来られるのではないかと心配になってきました


 僧は答えます。


 「そういう殿の思いをそのまま狐に実際に返してあげてはいかがかのう?」


******


 その晩も狐の霊は現れました。

 そこで、某は、僧の助言通り、

 「狐様のご返事が得られないままであることを、
 まだお許しが得られないのかとも感じ、
 それがしは焦りを感じております」

 と伝えます。

 すると、どこからか女性の声で、

 「きつねは獣じゃ。口をきくわけがございますまい。
  『気配』で伝え、『気』で察するしかありませぬ」

 と。

 それはそうかと得心して、再び狐の霊の方を見ますと、

 そこには、もはや、九尾のきつねではなく、一匹の野ギツネが、じっと座っているだけのように見えました。

 その毛の色は、金色に輝いてはおりましたが。


*****


 某は、そうやって野ギツネに変化(へんげ)した狐の霊と、毎晩出会い、沈黙のまま共に過ごすようになりました。

 もう、怖いという気持ちが薄れ、毎晩キツネが「会いにくる」ことを孤独の中の心の癒しとすら感じ始めました。


 ある晩、思わずキツネに語りかけました。

 「キツネ様は、まるで私を守るために毎晩現れて下さっているようにすら感じるようになりました。私を警護して下さる、番犬のようですらある、こんな番犬なら、現実に飼ってみたいものだ、などという不謹慎な連想すらしてしまいましたが」


 キツネの目が一瞬更に細くなり、満月に照らされて、背中の金色の毛並みが一層輝くかに見えたのは、某の気のせいだったのかどうか?


*****


 その晩、某の夢の中に、あのなつかしい女性の若い日の姿が現れました。


 思わず飛び起きた某は、涙を流しながら、すべてを察しました。


 「お前こそ、そばにずっといて欲しかった人。

  そして、私を守って、魂を癒してくれた、その人であったのに......」 


******


 昔話ではありませんので、この後、源の某がどのように生きたかは、皆様のご想像にお任せしましょう。


 ただ、ひとつだけ言えるのは、僧は、某が再び訪問した時、


 「当面の旅のための蓄えの分だけを謹んでいただきます」


 という置き手紙を残したまま、何処かへと旅立っていたということです。


*****


 これは,フォーカシングを学ぶ人のための、私の創作童話です(^^)


 狐の霊=あなたの中の正体不明のモヤモヤ、フェルトセンス


 ........これだけの説明で、フォーカシング学習者には、更に付け加える言葉は不要かと。


 更に言えば、アン・ワイザーさんの「こころの宝探し(Treasure Map)」ふうかもしれませんね(^^)


●アン・ワイザー・コーネル/フォーカシング ニュー・マニュアル


※関連記事:

●対話で解決しようとばかりする前に(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)


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2008/09/19

相手のためにとがんばり過ぎるカウンセラーは未熟である?(第2版)

 これ、カウンセラーの間でよくいわれることなんですけど。

 確かに、自分ができそうにないことについては、少なくとも、その件に関してより経験を積んだ専門家や専門機関を紹介するのは当然のことと思います。

 でも、タイトルで書いたような捉え方に、私の中には一抹の違和感がある。


 では、いつになったら、そのカウンセラーはそれまでの守備範囲を超えたところまでアプローチに習熟するんでしょう??? 

 少なくとも、外部機関への適切な紹介の仕方に習熟するんでしょうか?


 そういう事柄について通りいっぺんの研修を受けたらOKなのか?

 いちいちスーパーバイザーが許可するのか?


*****


 それに、いくらマニュアル的に、危機介入や、外部機関への紹介の仕方について学んでも、そうやって、カウンセラーがそれまで未経験だった領域に踏み出す必要性は、現場ではどしどし押し寄せます。

 そういう時に、冷静、かつ、クライエントさんとの関係性を大事にしながら対処できるかなんていう次元まで、とても日本のカウンセラー養成の現場で教えてくれてないじゃないですか。

 「カウンセラーは、自分にできないことは断ってばかり来る。他所へまわれと突き放す」

という、一般のクライエントさんの声に、受け身なまでいいとはとても思えません。

 そういう時のカウンセラーの言葉が冷たく響くのはなぜか?

 マニュアル通りに話しているだけだからです!!


 そういう次元でこそ、現に、カウンセラーの評判に差し障っているというのに。


 カウンセリングの歴史を前に勧めて来たのは、いや、医療の歴史を前に勧めて来たのは、名もなき現場の開業臨床家である。


 フロイトですら、そうだったということ。


 思わず、村瀬嘉代子先生が講演で語られた言葉を思い出す:

「クライエントの役に立つことを、とにかく考えなさい」

****


 以下の記事ご参照を:


●当時の外科医はマッチョで非情な「大工職人」だった -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論1

●「皆さん、手術の前には手を洗いましょう」の創始者、ゼンメルワイスの苦悩 -ナイチンゲール時代の「公衆衛生運動」と「細菌医学」の奇妙な格執-:本論2 (未完のままですが)


 

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2008/09/17

NHKスペシャル「戦場 心の傷」を観て(第3版)

 2008年9月14日(日)、15日(祝)に二夜連続で放映された、

NHKスペシャル「戦場 心の傷

(1)兵士はどう戦わされてきたか
(2)ママはイラクへ行った

は、戦争がもたらす広範な社会的影響について、従来とは異なる、リアリスティックで、私たちの日常に隣接した問題提起をしたドキュメンタリーであったと思う。


Watch NHKã�¹ã��ã�·ã�£ã�«ã��æ�¦å ´ã��å¿�ã�®å�·ï¼�ï¼�ï¼�å�µå£«ã�¯ã�©ã��æ�¦ã��ã��ã��ã�¦ã��ã��ã��ã�� in ã��ã�­ã�¥ã�¡ã�³ã�¿ã�ªã�¼  |  View More Free Videos Online at Veoh.com

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 このドキュメンタリーは、まずは、アメリカ海兵隊の新兵訓練(Boot Camp)において、イラクの派兵された対テロ市街戦を想定した、ハリウッドの協力を得た、映画撮影さながらの大規模セットを駆使しての、戦闘訓練の様子から始まり、続いて、イラク帰還兵のPTSDの深刻な現状をダイジェストで紹介する。

 そして、古い記録映像を駆使して、戦場での兵士が、当時「砲弾ショック(shell shock)」といわれた、精神的な傷を背負い、戦闘不能に陥り、心身に深刻な後遺症を残すという問題が、第1次世界大戦の頃から注目されるようになったことから解説をはじめ、それが、第2次世界大戦の頃には「戦争神経症」と呼ばれ、更に、ベトナム戦争後、ロバート・リフトンによる帰還兵士への大量の面接記録から、「心的外傷後ストレス症候群(PTSD)」としてDSM-3(アメリカ精神医学会診断基準第3版)に記載されるまでの歴史を、コンパクトに紹介していく。

 そうした際に、日本の陸軍病院に残された膨大な精神科診察記録を元に、第2次世界大戦当時の日本兵においても、今日で言うPTSDと全く共通の症状と患者の生々しい証言が記載されていたことを紹介してもいる。日本軍兵士ですら、「支那人」ひとりを殺すことに、これだけナイーブな反応をしていたのだ。


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 このドキュメンタリーを観ていると、PTSDというのが、摩訶不思議な症状ではなく、そのときの環境に適応するために、高等哺乳類なら成熟に達しでも発揮する「学習」の過程の「後遺症」であり、パブロフ的な、実にシンプルな「条件付け」の結果として成立することが理解できる。

 帰還しても、大きな音が突然すると、戦場での爆裂音と時と同じように恐怖体験になってしまう。もはやそれは「ここは戦場ではない」などと頭で納得しようとしても、身体が条件反射を起こしてしまうことなのである。

 一見平和に見える通りや公園で遭遇する通行人が、実はテロリストであるという不安と緊張が、何かの弾みで止めようもなく生じて来る。

 これが繰り返しのパニック障害的な反応になるだけでも本人には苦しいのであるが、最悪の場合、「テロリストに包囲されている」という幻覚妄想状態になり、手にしていた銃で、銃弾を発射してしまうといった事件もまた、こうした「戦場での恐怖体験の刻印づけ」によるものとみなすとわかりやすい。

 DSMの診断基準の「統合失調症」の項の鑑別基準において「PTSDの条件には当てはならないこと」ということが特記されているのはこうしたためである。


******


 特に、戦場で民間人を誤射して殺してしまったときの体験は、兵士の中で深刻に後を引く。

 多くの映画やドラマでは描かれていないが、人をひとり殺すということは、それだけで深刻なトラウマとなるのだ。

 第1時世界大戦初期の頃、兵士が戦闘場面でどのくらい実弾を発砲したかについての膨大な聞き取り調査がなされた。その結果、発砲経験がある兵士は、実際には2割いないという予想外の結果に軍は驚くこととなる。

 一般の兵士ですら、そのようにナイーブな存在なのだ

 そこで、その調査をした研究者は、軍に次のように提案する。

 兵士に実際に実弾を人に向けて発射することに慣れさせるためには、従来の、静止した的(まと)の真ん中を狙わせるような射撃訓練ではもはや意味がない。人型のシルエットを持った標的を、戦場を模した演習場に配置し、突如物陰から立ち上がり、命中したら倒れるという仕掛けにする。そうした標的を相手に反復練習させるなが望ましい....と。

 そうすれば、戦場で人影を観たら無意識のうちにも射撃するという「条件反射」が兵士の中に形成される.....とも。
 
 今日、映画やドラマで誰もがおなじみの射撃訓練のやり方である。


*****


 こうした訓練の改良の結果、朝鮮戦争時のアメリカ軍の前線の兵士の実弾射撃率は5割に達し、その研究者はアメリカ陸軍から勲章をもらうことになる。

 その後、ベトナム戦争において、一般民衆に紛れてゲリラ戦術を取るベトナム解放戦線相手の戦いの中で、いかに「戦争の大儀」を確信していた兵士でも、一般住民を誤認し、それこそ「条件反射的に」実弾発射、結果的に殺害したことで深刻な罪悪感に悩む兵士が続出する。相手の死ぬときの記憶映像や、近づいて一般住民と確認できたときの衝撃、その死体のむごたらしさの記憶などが、その兵士の脳裏に繰り返し繰り返し「頭に圧入されるように」よみがえることが止めようもなくなるのである。いわゆる「フラッシュバック」である。

 これもまた、高等ほ乳類なら、成熟した後でも、危機的な事態に体験したことだと、たとえ一回であっても身体に刻み込んでしまうという、生存本能に導かれた「刻印付け」なのだ。

 (飼い犬が、一度虐待して来た人間には、二度と決して愛想を向けなくなるのを思い出して欲しい)

 帰国後も、こうした罪悪感とフラッシュバック、突然の感情発作、抑うつなどに苦しむ中で、アルコールや薬物に手を出し、暴力や犯罪行為に走る帰還兵士が深刻な社会問題となる。良心的徴兵拒否者も増加する。

 こうしたベトナム帰還兵問題の深刻化の中で社会に高まる厭戦ムードと反戦運動の激化の中で 兵士の接近銃撃戦を回避し、上空からの爆弾投下などの戦術に切り替えないと、もはや兵士のなり手がなくなるという事態に直面しする。

 徴兵制も志願兵制に切り替えざるを得なくなり、当時独立した働き口に乏しかった女性の兵役志願、更には前線への派遣にも依存するようになる。

 更にアメリカは、トマホークなどのハイテクミサイル誘導兵器による攻撃に戦闘の主軸を移すことになる。

 ある意味で、帰還兵のPTSDが引き起こす社会問題が、アメリカの戦術そのものの変化を後押ししたのである。単なる科学技術の進歩の帰結などではないのだ。


*****


 ところが、9.11テロをきっかけに、戦争の様式が、再びベトナム戦争当時と同じようなゲリラ戦抜きには考えられなくなる。 

 そこで、アメリカ軍は、冒頭に紹介したような、一般人とゲリラ兵士を的確に識別するための、実戦さなからの訓練というところまで戦闘訓練を高度化するしかなくなったのである。

 こうして、母国での軍隊の訓練と現実の戦場との間で「条件付け」のいたちごっこが果てしなく続く。

 しかし、決して兵士による民間人の誤射がなくなるわけではない。むしろ、民間人とテロリストを識別せよということが絶対の軍規として兵士に教育される中で、誤射した兵士の罪悪感とPTSDの症状一層増幅するという悪循環が生じるのである。

 アメリカ軍はPTSDに陥った兵士の治療に力を入れるようになる。

 しかし、あくまでもそれは、そうした実戦経験のある兵士を再び戦場に送り出し、勇敢に戦ってもらうためなのである。

 兵士は、修理しては現場に戻される「ロボット」ななる。

 そうした動きに、精神療法や精神医療の一部も協力する。


 元々非人間的な状況に、あたかも健康人であるかのように適応できることそのものが、まさに歪みの蓄積に他ならないこと。


 ......これは、私が、自身の鬱体験と、鬱状態のクライエントさんとのカウンセリングの中で、深刻に直面した問題である。

 心理療法や精神療法の目的とは何なのか、深刻に考えさせられる。

 誤解なきように言えば、誠意ある治療者の行なう「行動療法」は、このようなものではない。単に自分を思ったとおりに「改造する」ものでもない、ましてや、他者を強制的に、自分たちの思う理想像に向けて改善するものでもない。私はそのことを山上敏子先生の行動療法から学んだ。


*****


 しかし、このドキュメンタリーを見る限り、兵士ではなくて、ひとりの一般市民としての日常の中での兵士のメンタルヘルス、夫婦や家族関係への影響という視点は、セラピー先進国であるアメリカですら、まだ現在手が行き届いていないように思えた。

 こうした帰還兵士の家族問題全体に積極的に介入する「家族療法的なアプローチ」が、ただの一例も、このドキュメンタリーでは描かれていなかったのである。

 現実には、帰還兵士自身やパートナー、子供、老いた親などの個人的な努力でこうした問題を切り抜けている例しか紹介されなかったのである。

(10歳の眼鏡っ娘の少女が、故郷へのお里帰りの際に、飛行機に乗ってパニックを起こしそうな予期不安を抱える母親を細かく気使うシーンを見ていると、私は、こうした「世代逆転」的な形で「娘が母親の母親役」を演じ続けなければならない家族関係は、この娘さんが将来アダルトチルドレンに育ってしまいかねないなと感じて、痛々しかった)

 しかし、そうした個人的な努力には限界がある。

 戦場から帰還して、一歳になる息子に愛情ある態度を取れなくなってしまったことに苦しんでいる母親の例が紹介されていた。公園での散歩の様子も描かれていたが、歩き始めたばかりの子供がちょっと石いじりをはじめるだけで、まるで新兵の行儀悪さをこまめに注意するような言葉をどうしても連発してしまう母親。

 彼女は、そのように振舞ってしまう自分に、本当は、涙ながらに深刻に自己嫌悪している。実際に子供を前にすると、理性ではとても統御できない振る舞いをしてしまうのである。

 しかし、彼女たちは、それを、あまりに不器用な次元での、「話し合いによる解決」で何とかしようとする泥沼に陥っている。彼女らの背後に、家族関係についてまで援助しようとする、専門的な援助的専門家がいる形跡が、全く感じられないのである。

 「愛している」と言葉では伝え、抱き上げる母親に対して、幼い息子の方は、決してアイコンタクトをしないようすが悲惨であった。


 この夫婦は、協議離婚の相談を始めている。

 恐らく、養育権は父親という形での。


*******

 
 日本において、PTSDが引き合いに出される場合、地震などの不慮の大規模災害の被害者や、 残虐な犯罪に巻き込まれた人の心の傷について論じるケースにのみ、ある意味で偏っているように思う。

 アメリカでのPTSD概念の確立の歴史は、第1次大戦、第2次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、9.11後のイラクヘの介入という、ほとんど途切れることなく続いた兵士の実戦への参加の中で、大量に生み出された帰還兵の精神状態の悪化が、犯罪や薬物汚染、DVを含む家族関係や子供の成長に大きな影を落とすという、「近所にいる誰か、友人の誰かそういう状態にある」という、一見平和な社会の日常に深く根を張った問題に結びついているからこそ、先進的な研究と対策の対象となりえたものである。

 どうもそうした背景については、日本の一般市民の常識のレヴェルには浸透していない。

 日本も、集団安全保障の観点から、自衛隊の海外派兵が更に広がったり、ましてや憲法第9条の改正がされたら、こうしたアメリカ社会の状況は、帰還した自衛官の社会復帰過程でそのまま日本社会でも現実化し、子供の成長から犯罪まで、深刻な社会不安を引き起こす可能性があるという視点など、今日、ほとんど論じられていないといっていいのではなかろうか。

 あえて言えば、海外派兵にほとんどの自衛官が関与しない現状においてですら、戦闘訓練の過程で、自衛隊員の心身にこうした問題が生じ、深刻な家族関係の危機をすでに引き起されている可能性など、あえて言えば、「闇に葬られている」問題のように思われてならない。

 その一端が、自衛隊員の自殺や、隊内でのいじめの問題としてのみ、今日語られているのではないか。

 例えば、駐留アメリカ軍兵士の婦女暴行等の問題を考える際に、もちろん、被害者の悲惨は言うまでもないが、単に「軍の規律を引き締める」ように要請するなどという次元を超えた、こうした深刻な問題が潜んでいる可能性について、論じられた記事を私は読んだことがない。

 ひとりひとりの生身の人間であり、親であり、パートナーの伴侶であり、家族の一員であるという視点から、兵士のメンタルヘルスをとらえ、社会問題として波及していく可能性というシミュレーションに目が届かないまま、戦争と平和について語られることの空しさを、このドキュメンタリーを通して感じた。


****


 昔、日本でも欧米でも、そうやって戦場でのトラウマで戦闘能力を失う兵士は、「根性なし」で「精神が弱い」人間であるとして蔑まれていた。

 実は今日においてもかなりの程度そのように思われおり、それは、子供や、企業で働く「戦士」としての、サラリーマンたちの不適応問題においても、無意識のうちに陥りがちな偏見であるように思われる。

 しかし、実は、そういう社会の中で一見適応的にやれて「生き残って」、見かけ上平穏な暮らしを送っている子供や親たちによって構成されている家族においても、隠れた形でそのひずみは蓄積して、さまざまな問題を引き起こしている可能性が高いだろう。


*****


 以下は、この番組を見た、アメリカへの留学経験がある知り合いから昨晩聞いたことである。

 その人は、ホームステイ先の近所に、同じように外国からの留学生(日本人ではない)のホームステイを受け入れている家庭があり、その留学生や、オーナーの家族ともつきあいがあったそうである。

 その友人の留学生のオーナーご夫婦は、二人とも退役した軍人であった。もっとも、戦場に出た経験はなかったという。

 夫妻は、たいへん親切でないい人たちではあったが、家に、十数丁ものライフルや銃が、人目に触れるところに陳列されていた、そして、当時まだ小学生低学年ぐらいだった男の子へのしつけの際の言動や教育方針が、何か「大人じゃあるまいし、そこまでこの年齢の子には理解し、やらせるのは無理では?」と、一抹の違和感を感じていたという。

 私の知り合いがアメリカから帰国して数年後、その留学生からのメールで、思春期になったその男の子が、自宅に並んでいたその拳銃で自殺したことを知らされたという。


*****
  

 これはひとつの例であるに過ぎない。引き付け過ぎかもしれないが、戦場とは無縁で、一見問題がない両親であったとしても、兵士の家庭に、こうした「PTSDにならないままサバイバルできた」がゆえの、さりげない歪みが蓄積され、子供の成長に大きく影響していることも少なくないのではないかとも想像させるのである。 


******


 なお、このNHKスペシャルの前に、2008年8月にBS-hiで放送していた「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組に関して、モラルハラスト問題のカウンセラーである惠美さんが、ご自身のブログで、モラハラの家族力動と兵士のおかれた状況を比較する形で、たいへんまとまりのいい考察をなされているので、ご紹介します。

●録画してあった「兵士たちの悪夢」というドキュメンタリー番組をやっと見た (カウンセラーママの日々つれづれ)

 私は、この惠美さんの記事に触発されて、今回のNHKスペシャルを観ました。

 ここに感謝申し上げます。


 更なる追記が、自己レスコメントとしてこちらにあります。


*******


※ なお、私の専門とするフォーカシング技法とトラウマ治療に関しての序論的な紹介が、

●フォーカシングとトラウマについて
(The Focusing institute日本語版公式サイト)
http://www.focusing.org/jp/jp_trauma.htm

で読めます。


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2008/09/15

インフォームド・コンセントは誰のため??? (第2版)

 すでに多くの読者を頂いております、

●臨床心理士は、学会発表、著作・論文執筆のみならず、事例検討会への事例提出についてもクライエントさんの承認を得るという申し合わせ(案?)の問題点

●カウンセラーとクライエントの「こころ」が共同で生み出した「物語」への尊厳

(いずれも、カウンセラーこういちろうの雑記帳)


 この2つの記事と関連してなのですが、医療の世界におけるインフォームド・コンセントの持っている一種ダブルバインドな状況について、msnの以下の記事が読み応えがあります。

●msnマネー/日経Digital 医師にも求められる演技力?

http://money.jp.msn.com/insure/columns/columnarticle.aspx?ac=2008091100&cc=06&nt=06

医師:入院をして、肺に管を通して空気を抜き、つぶれている肺が膨らむのを待ちます。もし膨らまない場合は手術になる可能性もあります。
(じっとAさんの目を無表情で見つめる)。
医師:症状が劇的に進んでいる様子ではないので、このまま自然治癒する可能性もあります。
(じっとAさんの目を無表情で見つめる。しばし無言の時間が流れる)
患者:(??? これは質問なのか? 二つのうちどちらかを選べということか? 恐る恐る)入院をしたほうがいいんですか?
医師:はい(無表情のまま)。
患者:(釈然としないながら)分かりました(「分かったのかよ!」と自分に突っ込みを入れながら)、入院します。
医師:ではこの用紙に住所とお名前などを記入してください。
患者:(記入を始めるが、気を取り直して)入院しないという選択肢もあるんですか?
医師:はい。その場合は症状がどんどん悪くなって危険な状態に陥る可能性があります。
(あくまでも無表情でじっとAさんの目を見る)
患者:(「最初っからそう言えよ」と思いつつ)そうですか。

(以下略)

 このあとも、何か、カウンセラ―も身につまされるやりとりが続くのですが。

 インフォームドコンセントというのは、患者側の「知る権利」の保証との関連で「患者の利益」という脈絡から議論されがちです。

 しかし、医療側の、「危険性を前もって説明し、承諾してもらってたじゃないの」という「責任回避(軽減)」のための巧妙な策という、「防衛的な」側面こそ本音ではないかという嫌疑を患者に懐疑させます。

 つまり「知る権利」ではなくて「知らせておくことで言質を取る」にすぎなくなるわけですね。

 インフォームド・コンセントの義務化が、臨床現場の医師という感情労働職の典型を、実に複雑な転移/逆転移状況への対処に直面させる。

 こうした次元の問題については、まだ一般にはあまり知られていないのではないかと思います。

 
 ただ、こうした問題を、単に「演技力不足」とくくるような表題は、底が浅いなと思います。

 「患者との関係性を築く能力の不足」というのならわかりますが(^^;)


*****


 インフォームド・コンセントを、むしろ企業倫理に反する域でえげつなく活用している可能性が高い企業として、
SoftBankモバイルの高額請求における対応は、かなり悪辣な可能性があります。


 ●携帯電話に同梱されていたCD−ROMを使用してのパケット料金トラブル ソフトバンクモバイルに要望書を提出!(消費者機構日本)
http://www.coj.gr.jp/topics/topic_080814_01.html


 この件、正直に言って、高額請求を大切な「収入源」として活用するための、周到な対策として、肝心な点に「だけ」はインフォームド・コンセントを抜かして、高額料金を支わざるを得なくなるように「誘い込み」、「罠をかけて」、収入が増えるように仕組んでいる可能性が疑われます。

 マスコミではまだ広く報道されていませんので、皆様にお伝えしてみたくなりました。

 これを知って、私はJ-Phone時代から続けて来たSoftiBankとのつきあいを切ることを考えています。

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2008/09/13

「こころ相談.com」で検索できます。

 開業カウンセリンセラー検索サイト、「こころ相談.com」に、久留米フォーカシングカウンセリングルームが掲載されました。

 検索欄の、「福岡県」からご覧下さい。


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2008/09/12

「久留米でフォーカシングを学ぶ会」10日開催ですが定員に余裕があります。

●「久留米でフォーカシングを学ぶ会」(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

 原則として、毎月第2日曜日、10:30-17:00の開催です。

 つまり、

第1回 09/14(日)
第2回 10/12(日)
第3回 11/09(日)

に開催予定です。

会費 4,000円(昼食はご持参ください)
(日本フォーカシング協会メンバー割引3,500円)

定員 当面6名様

 実は、「今度の参加者が他にいる」ことを条件に、参加検討されている方がおられますので、告知させていただきました。

 すでに2回先の11月9日分のお申し込み(日本フォーカシング協会メンバーの方)をいただいております。

 2,3ヶ月後には、九州・福岡における、フォーカシングを学べる新しい拠点として、存在が幅広く知られ始め、大船時代と同じくらいの参加者が十分に見込めると、ゆったりとした構えで判断しておりますが(^^)

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「素朴な夢分析でもカウンセリングに生かせる」、開業サイト記事として改訂の上で転載

 すでにこの「雑記帳」記事として公表したこの記事に更に細かく手を入れたものを、開業サイトにも転載いたしました。

 ●素朴な夢分析でもカウンセリングに生かせる(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

 この「雑記帳」での掲載記事よりも明快な内容にすることを心がけました。

 きっと、再度お読みいただくに値すると思います。

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2008/09/09

カウンセリング・心理療法の世界にみられるカトリシズムとプロテスタンティズムの対立(第2版)

 今回は、ややカウンセリングや心理療法の世界についての、私が日頃から感じていることがらで、まだこの「雑記帳」では(ですら?)一度も使っていない筈の、かなり辛口な発言ですが、お許しを。

 カウンセリングや心理療法の世界には、キリスト教におけるカトリックプロテスタントの対立にも似た構造が内包されていると、つくづく感じている。


******


 これらの領域における「カトリシズム」とは、次のようなものを指す。

1.カトリックが、神と人との間を媒介する欠かせないものとして教会を位置づけるがごとく、カウンセリングや各心理療法についての「欠くべからざる媒体(メディア)」して、既製の組織(各種「協会」「学会」、団体)を位置づける。

2.それらの所属団体には厳密な位階制が存在する。

3.聖書の解釈が究極的にはローマ法王にあるがごとく、各療法の、いにしえから伝わる創始者の文献の解釈に関しては、その流派の現在のリーダー(たち)の発言が絶対的権威である。

4.カウンセラーがその流派や学会に属することは、その流派や学会の教えや通達に従うことを持ってよしとされる。

5.時として、その流派の組織を支えるための活動への奉仕や献金などが、一般民衆を救うための、地道な草の根活動よりも優先される。

6.これは「先代教皇」の最後の教えだ、という一声で、司教(カウンセラー)たちは納得してしまう。

7.クライエントさんよりも、自分の指導者や「教祖様」を大事にする。目の前のクライエントさんからの評価やクレームよりも、指導者やカウンセラー仲間からの評判やクレームの方をよほど重視する。

8.クライエントさんの中から、その療法のカウンセラーになりたいという人が頻出することを歓迎し、そうした人たちから更に上納金を集めて「指導者研修コース」の段階を踏ませ、量産することに積極的という、「ネズミ講」的構造を持つ。結局、カウンセラーは、クライエントさんが「カウンセラーになるための」人生モデルしか提供できない。


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 次に、「プロテスタンティズム」(やや無教会派や神秘主義的な)とは、

1.聖書を解釈する権利は各信者にあり、神と各個人は直接に結ばれているとする。

 (=自分の関心を持つ流派の技法を学ぶために、先人の書いた古典的著作そのものから自分なりに読み取ろうという「格闘」に労を惜しまない)。

2.臨床的実力がすべてであり、論文や発表の本数など問題にしないで個々の臨床家を評価する。

3.そうした意味で敬意を評すに値すると感じた臨床家からは、相手が年下だろうが他流派だろうが、無名だろうが、謙虚に何かを学びとろう(盗もう)とせずにはいられない。

4.所属する教会、もとい、協会や学会での業績(奉仕活動を含む)、あるいは著名な臨床家や大学の先生からの評価に関係なく、カウンセラーは、無名であっても、現場での「地の塩」としての活動でこそ評価されるとする。

5.いや、真の意味での「地の塩」であることとは、世間的な評価には無関心であることではないか、と言えばそのとおりだが、自分がオマンマ食べられるくらいにはなんとか臨床家として生きていけないものか、しかもその自分の専門家としての能力にみあうだけの収入は得たいと切に願っている。

6.目の前のクライエントさんの役に立つために専門技能を磨くことこそ大事と考え、実践している。

7.しかし、自分がいつまでもクライエントさんからありがたられ、「先生のおかげで」と言われ続けることはよくないこととみなし、いつの間にか忘れ去られるか、クライエントさんが「自分で勝手に立ち直った」と感じている状態をよしとする。

8.クライエントさんたちの中に「自分もカウンセラーになることにしました」と言いだす人あらば、行って「つまらないからやめろ」と云ふ。


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 カトリック教会にも特に第3世界を中心としての大きな民衆救済的な役割、時として独裁軍事政権へ民衆の抵抗の砦であり、現代の道徳や倫理との矛盾に関しても、教義解釈の見直しを慎重に進めているなど良心的な活動をしていることはもちろん存じ上げています。政治的な意味でも,法王の発言には大国の暴走を押さえる大きな抑止力があります。

 むしろ、一度過激に急進化すると抑えがきかず、現代においてかたくなな保守主義の正体を現すのは、一部のプロテスタント系諸派が政治に絡んだ場合であること(特にアメリカ)も存じ上げています。

 現実の、しかも「今日の」カトリックやプロテスタントはいろいろこの図式に当てはまらない面があることは承知の上でのウィットを、信者の皆様、お許し下さい。


*****


 「大日本カウンセラー教」の、今は亡き「法王」とは誰であるかは、申し上げるまでもあるまい(^^;)

 なお「日本土俗的カウンセラー教」の「法王様」のごとき尊敬を集めている先生も、イ二シャルは同じ、「K先生」になってしまう(^^;)
 
 両「法王」猊下の多大なる功績は、たいへんなものであり、適切に評価したいと思いますが。

 「大日本カウンセラー教」の方のK先生は「我々の代わりに、我々の罪を背負って十字架にかかって亡くなった」と私は思っていますし。

 もとより、K先生に依存する形でしか永田町と向き合えなかったことの弊害と後遺症も、数多残されたと思います。

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2008/09/06

コース/料金体系の詳細記事、掲載しました。

●コース/料金体系/割引制度/キャンセル料(久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)

 どうかよろしくお願い申し上げます。

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2008/09/04

カウンセラーとクライエントの「こころ」が共同で生み出した「物語」への尊厳

 前の記事で、私のカウンセリングルームでの「個人情報のお取り扱いについて」に出発してひとつの問題提起をしました。

 今度は、別の条項を引き合いに出して、少し違った観点から問題提起をしましょう。


7.甲(カウンセラー)は、学会発表や著作等に、乙(来談者)との相談内容を具体的に事例として記述する場合には、乙の許可を受けて公表します。その場合も、乙との相談が終結して原則として満 1 年を経過した事例についてのみ公表します。乙 には事前に発表内容について閲覧し、甲に修正を求める権利があります。公表の際、聴衆や読者に乙という特定の人物が推測・同定できない水準まで、個人情報の一部を改変・省略して公表するように努めます。

 こちらの方は、すでに臨床心理士の共通理解として定着したものです。

 私も異論はありません。個人情報保護の観点からみても、必要なことですし。

 たいていのカウンセラーが実践しているのは、「発表についてクライエントさんの承諾をいただく」という水準のことかもしれません。

 しかし、特に日本心理臨床学会大会の多くの個人口頭事例発表に参加して気がついたのは、近年、クライエントさんに、発表草稿全体を文書の形で全文クライエントさんに読んでいただき、いただいた感想まで含めて発表なさるカウンセラーの皆さんが徐々に増えて来ている気がするということです。

 私はこうした発表者の姿勢に心から敬服しています。


*****


 一方、クライエントさん本人に「発表すること」の許諾は求めても「発表内容」全体までクライエントさんに開陳することには踏み切れないでおられるカウンセラーの皆様は、少なくないかと思います。

 
*****


 個人情報保護の観点ではなく、純粋に臨床的観点から考えた場合、「発表することをクライエントさんに許諾していただく」ということそのものが、治療的に悪影響を与えないか、という不安を、多くのカウンセラーは一度は抱くと思います。 クライエントさんの症状が再び悪化したらどうしよう?....などと。

 確かにこれは大変デリケートな問題なのですが、少なくとも、「発表の草稿をお読みいただくこともできます」と選択肢を提示したり、「私としては、むしろ一度お読みいただきたいのです。よろしければ、感想やご意見、間違いの指摘などをいただきたいのです」と、カウンセラーの側から提案することは、フランクになされていいのではないかと感じます。

 カウンセラーの方によっては、むしろ、これを「フォローアップ面接」のいい機会と受け止めておられる方もあるかもしれません。

 もちろん、こうした、発表についてのクライエントさんとの話し合いの中で、クライエントさんが発表に難色を示した場合には、どれだけ発表したくてもおやめになるカウンセラーの方が多いと思います。

 特に「成功事例」と考えるものを発表する場合、そこには、カウンセラーの中にある「評価を受けたい欲求」という厄介なものが介入していることも少なくないかもしれません。しかし、それが発表者の「記憶そのもの」を変容させる可能性は,確かにあると思います。

 しかし、「失敗事例」「中断事例」とカウンセラーご自身が考えているものを敢えて学会で発表したり、論文で書こうとされているカウンセラーも増えて来ているように思います。こうしたことは、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、こうした事例で的確な考察がなされているもの、あるいは、座長やフロアの参加者と活発な議論がなされた上で、それも大事にして論文におまとめになることは、他の臨床家にとっても、大きな学びの場を提供して下さることとなり、敬意を表しています。


*****


 更に、事例研究発表を考える際に忘れてはならないのは、発表するために、記録に基づき再度事例を振り返り、まとめ直し、考察する過程そのものが、実は、カウンセラー自身による、面接過程の「再話」であり、「物語化」であるということです。

 私はこれを、必ずしも否定的な意味で述べているのではありません。そうした再検討の過程で、記録の中の、完全に忘れていたさりげないエピソードに気づくことをきっかけに、以前から頭の中で思っていたのとは別の形で事例全体が見えてくることは、実によくあることだからです(臨床家の皆さん、経験がありますよね?)

最近、「ナラティヴ(説話、あるいは「物語ること」)」という社会構成主義の観点からカウンセリング過程を検討することが盛んになっています。私は、実は未だにこの用語についてほんとうに納得できたと感じたことはない不勉強なものなので、以下の内容はこの概念の奥行きを理解していない浅学な者の引きつけ方かもしれませんが、ともかくナラティヴという概念も連想した、私個人の素朴な考えというぐらいのつもりで以下の内容をお読みいただければ感謝いたします。
 

*****

 
1. そもそも、クライエントさんが、カウンセラーに語り出す内容そのものが、すでに、クライエントさんが無意識のうちに創造したた「物語」だともいえます。

2. クライエントさんの周辺の人たちが、クライエントさんをどう見ているか、というのも、ひとつの「物語」です。

3. 更に「周囲の人たちが自分をどう見ているのか」というクライエントさんの「物語」という次元がある訳ですね。

4. カウンセラーがクライエントさんの話をどのように理解するかも「物語化」の過程です。

5. カウンセラーにどのように理解されているのか、というのも、クライエントさんの「物語」です。

6. そして、こうしたこと全体が複雑に相互作用している多元的なトポス(場)として、治療場面は存在します。


 いずれにしても、「事例発表」は、質のよい事例発表ですら、クライエントさんが聴いたらびっくりたまげかねないような「カウンセラーの物語」になっている可能性はたいへん高い。これは、カウンセラーが誠実であろうとしているか、などと言った次元でなく、生身の人間ゆえの限界でしょう。

 現実には、事例発表の段階で、すでにそのカウンセラーを直接指導する先生や、スーパーバイザー、事例検討会に参加した他の参加者の紡ぎだす「物語」との相互作用が進んでいるわけで、それらをもとに学会発表された時点ではすでにもの凄い「物語化」が生じているわけですね。

 それを学会で口頭発表する際に、クライエントさんの感想も聞く。

 更に、学会発表の際の座長やコメンテーターの先生や、フロアからの発言。

 それに輪をかけて、論文を投稿した後の、査読の3人の匿名の委員の先生との文書によるやり取りの繰り返し。

 ......果たして、これらがほんとうに、カウンセラーの見地を「より真実に迫らせた」といえるかどうか????

 何しろ、ロジャーズ派や一部の家族療法を除いては、面接の過程の記録を、録音や録画の形で検証可能な状態にないのが普通です。仮にそれらが存在したとしても、リアルタイムで面接と同じ時間をかけて)再生し、それらを全検討者が検証するというのは非現実的であり過ぎます。どこかで「圧縮」が必要なのです。


*****


 だとすると、最低限どのラインで、「物語化の副作用」を抑止し、修正することでけじめをつけるか。

 私の答えは、面接過程の中で、折々、クライエントさんと、それまでの面接過程について小刻みに振り返り、クライエントさんがそれまで感じていたけどコトバにならなかった違和感などを、面接のなかで取り上げて互いに納得いくまで相互作用することを繰り返し、学会発表のための草稿をまとめる時点でその一応の総決算をしておくことだろうと思います。

 まずは、このことがカウンセラーとクライエントさんとの相互作用の中で、丁寧になされていること。


 敢えて言います。

1. カウンセリングの過程をどう受け止めるかは、究極的にはまずはクライエントさんの内心の自由であること。

2. 続いて言えば、カウンセリング過程の直接の当事者であるクライエントさんとカウンセラーの共有物であるということ。

3. もし、これが、カウンセラーとスーパーバイザーや指導者との共通理解の方が、2.よりも長期にわたって優先するようになったら、もはや注意すべき状態ではないかということ(たとえ、いわゆる「現実吟味」が低下している重症精神障害や認知症や発達障害の場合ですら!!)。

4. 時として、カウンセラーとクライエントさんの間のいわゆる「転移/逆転移」関係の中で、一度お互いに何らかの意味で「クレージーな」状態を経過するリスクを幸いうまく切り抜けられたので、活路が開けるということもままあることである。指導者やスーパーバイザーは、そうした可能性を一方で必要な時点で示唆することを忘れるべきではないが、クライエントさんとの相互作用のただ中で、両者が自発的に脱錯覚していく権利は保証されるのが望ましいのではないか。


******


 面接過程は、担当カウンセラーとクライエントさんの共同作品です。

 いかなる権威も、指導者も、二人の関係に、ある「尊厳」を感じ、「抱え」の姿勢で見守る、フィロバティックな姿勢を堅持してこそ、自律的な、責任感ある、経験を消化する力の高い、良き治療者は育つのだと思います。


*****


 私は、6年ほど前、福岡在住で、ウィニコット、ビオンをはじめとするイギリス対象関係論のもっとも誠実な日本での指導者であり、現場カウンセラーとしては、重度の摂食障害患者との入院治療で知られた、松木邦裕先生に、かつて、大会場での事例のコメンテーターをお願いするという、怖い者知らずなことをいたしました(カウンセリング関係者なら、これがいかに無謀か、ご想像できるかと)。

 結局、例のごとく、カミソリで痛みもなく斬られました(^^;)。

 先生の見解にすべて納得したわけではありません。

 しかし、先生の


 「クライエントさんを汚しちゃいけないよ」 


という言葉だけは深い印象に残っています。

 ......ここからの自由連想なのですが、


 「クライエントさんと、カウンセラーの関係を、汚しちゃいけない」 


とも言えるのではないか。


 .......日本中のカウンセラーの指導者の先生方に向けて。


*****

この記事、更なる続編がこちらにあります。

*****


 臨床心理における社会構成主義的アプローチについては、東京大学の下山晴彦先生のセミナーに一回出た経験しかない。

 わかりやすい入門書は、以下の本だそうですね。


●ナラティヴ・セラピー入門 高橋 規子 (著), 吉川 悟 (著)  金剛出版
 

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2008/09/03

臨床心理士は、学会発表、著作・論文執筆のみならず、事例検討会への事例提出についてもクライエントさんの承認を得るという申し合わせ(案?)の問題点 (第3版)

 久留米フォーカシング・カウンセリングルームにおいては、「個人情報のお取り扱いについての申し合わせ」について、このページで表示したような文書をお読みいただき、申込書(正副2通)に、カウンセラーである私とおいでいただいたクライエントさん双方の署名の上で、副本をクライエントさんにもお渡しするというシステムを採用しています。

 このやり方は、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」時代のスタイルをそのまま踏襲しているものです。

 個人情報保護法と、日本心裡臨床学会における学会発表学会誌投稿の際の基準に準拠しています。


 ただ、最近日本臨床心理士会で検討されている、

「事例検討会やケーススーパービジョン提出についても、クライエントさんの許可を得た上で行なう」

という指針については、私としては現段階では若干の違和感を否めません。


 もとより、カウンセラー〈臨床心理士)がケーススーパービジョンや事例検討会にケースを提出するものである、ということについて、クライエントさんや一般市民の皆様に熟知していただくこと、そしてその際に具体的にどのような形でクライエントさんの個人情報守秘が守られる申し合わせになっているかについても熟知していただき、その基準が公開されることはたいへん大事なことと考えています。

 そこで、私は私のカウンセリングルームの、この「申し合わせ」の中で、

======(引用はじめ)=====

6.甲(カウンセラー)は、日本臨床心理士資格認定協会が認可した事例検討会およびスーパーバイズに、進行中の乙(クライエントさん)とのケースの進め方について適切なアドバイスを得るために、乙との相談内容を、検討会参加メンバーおよびスーパーバイザーに、乙の承諾を得ないまま提示することがあります。しかしその場合も、名前、出身地、現住所、職業等、個人を特定できる情報は守秘し、事例検討等に必要な相談内容以外は提示しません(たとえば横浜市在住の人について「Y 市」、 「浩一郎」という名前の人について「K さん」と表記、口頭説明することもいたしません)。 これらの事例検討会参加者およびスーパーバイザーは、甲の報告する乙の相談内容について外部に守秘する義務を負います。これらの事例検討の際に参考資料として配布した資料は、甲の責任ですべて回収し、シュレッダー等で適切な処分をいたします。

======(引用終わり)=====

とまで明記することにいたしました。


 しかし、ここに私は、

> 乙の承諾を得ないまま提示することがあります。

という文言を加えています。


*****


 なぜ、

「ケーススーパービジョンや事例検討会に、クライエントさんの許諾を得ないまま提出することがある」

と明記したのか。

 「スーパービジョンや事例検討会への提出時に「クライエントさんの許可を得る」ことを、個々のカウンセラーが自分のポリシーにする、あるいは、ある特定の相談機関がそのことをスタッフ間の申し合わせとするというところまでなら、何も問題がないかと思います。

 しかし、このことが「許可を得ねばならない」という、カウンセラー全体を拘束する硬直した規定になってしまうと、

1.カウンセラーとその指導者との間の責任問題が複雑化する
2.クライエントさんとカウンセラーの治療関係が損なわれる

.......以上2点を私は懸念いたします。


******


 まず、1.の観点。

 私は、クライエントさんとのカウンセリング過程に、一方の当事者として責任を持つのは、あくまでもカウンセラー個人である、ということを明確にしておかないと、いろいろな意味でおかしなことが始まると思っています。

 (もう一方の当事者とは? 一般の皆様に誤解されたくはないのですが、クライエントさん自身です。公共的な機関での無料カウンセリングや、病院での医師の指導の下でのカウンセリングは少し性質が異なるかもしれませんが、ことに開業カウンセリング(私設心理臨床)における自発来談の場合には、カウンセリングはカウンセラーとの共同作業、契約関係であり、医療の場合とは責任構造が異なると私は思います。

 ......現実には、カウンセラー側の責任が大きいケースもままあると思いますが。効果を誇大に宣伝したり、改善を「安請け合い」したカウンセラーの責任まで含めて)


 もとより、大学院の研修課程としてのいわゆる「心理育相談室」や「治療機関内部での事例検討」については、若干意味が違う可能性があるという留保はつけますが。


 この「事例検討会やケーススーパービジョンに提出することはクライエントさんの許可を得る」という申し合わせ案に抜けているのは、いざという場合にカウンセリング過程で生じた問題の責任をとる主体は、目の前にいるカウンセラーではないという発想に道を開いてしまうのですね。

 いざ訴訟などが起きた場合に、事例検討会の運営者や、スーパーバイザーの責任が強く問われる可能性について、ほんとうに吟味した上でこの申し合わせ案は検討されているのでしょうか?


*****


 続いて、2.の観点。
 
 個人情報保護や責任問題に関する法律的側面だけではなく、純粋に治療関係という観点から見ても、おかしなことになるのではないでしょうか?

 「目の前にいるカウンセラーは、スーパーバイザーのロボット」みたいにクライエントさんが感じたら、どうするのでしょう????

 一対一の信頼関係であるから、はじめてカウンセリングそのものが深まり、有効に機能するという、治療関係の大前提が揺るがされることになります。


*****


 いずれにしても、この問題の核心は、個々のカウンセラーのスーパービジョンや、事例検討会への退出は、その個々のカウンセラーの、自分の専門的スキルを高めるための研修の一環としての、自発的な権利であり、一種の経営上の機密に属する事柄ではないかという視点の不在です。

 もし、個人事業者が、経営活動をする上で、経営コンサルタントに相談していたとしますね。特定の具体的案件についてのコンサルタントへの相談を、ひとりひとりの顧客さんの了解を得た上でないとしてはならないとしたら?

 ここで重要なのは、むしろ、その経営者とコンサルタントの間での「職務上知り得た顧客情報について無断に外部に明かしてはならない」という契約の遵守ではないでしょうか?


 こうした点についてまで十分に検討され、しかもそれを一般社会に誤解なく熟知していただくための広報活動のプロジェクトまで具体的に考慮した上で、こうした「申し合わせ案」が検討されているのか???

 大いに疑問があります。


*****


 正直に言えば、現代社会で個人情報保護の問題がうるさくなったことへの「防衛策」という、消極的な観点のみが一人歩きしていないでしょうか?

 あまりにも、波及効果についての多面的なシミュレーションが不十分なままという気がします。

(もっとも、日本の政治全体が、このような、外圧への対応という、「防衛的な」原理で動きがちと言える気もしますが)


 こんなことでは、カウンセラーは世間知らずといわれるのがオチではないかと。

 そこには、クライエントさん(=顧客さん=ユーザーさん)を大事にする自立した対人援助の専門職、という、真の職業倫理の問題が抜け落ちているのです。


 むしろ、事例検討会においてどこまで具体的に守秘が守られることになっているかを、個々のクライエントさんに明示することについての申し合わせや、社会全体に広報することの方が、よほど大事なことだと私は考えます。

 
*****


 なお、以上の問題についての現在の議論や規定作成の進行状況について、私の上記の理解は最新の状況を反映していない可能性もあります。

 この記事をお読みの全国の臨床心理士会会員の皆様の中で、正確な情報をお持ちの方からの、例えば、今年の日本心理臨床学会大会や都道府県臨床心理士会の催しで、どこまで実際に経過報告され、議論されいるかについてなどを含めて、この記事のコメント欄、あるいはメールを通しての、私の理解の誤りを修正して下さる方、あるいはご自身のご意見を開陳してくださる方〈ハンドルネームで結構です)、歓迎いたします。

阿世賀浩一郎 

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 なお、こちらにある自己レスコメントも是非お読みください。

 更に、続編記事(そっちの方が面白いと思います)がこちらにあります。

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2008/08/31

新・先週の人気記事ベスト20 リニューアル!!

 「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例だった、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、再開します!!

 ただし、ランキング集計方法を大幅に改め、今回以降、@niftyココログにある私のすべてのブログの総合ランキング20位までを、PCサイト携帯サイトに分けて、独立した記事として掲載することとします。

*****

 このようにするのは、ブログ形式で全体を構築していくことにした「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトのアクセス数が徐々に伸びていて、しかも、そちらのサイトに改訂の上アップした、この「雑記帳」サイトの記事に基づく記事が、すでにかなりのアクセス数を見せ始めたからでもあります。

 今後、徐々にこのサイトの往年の(?)人気記事が、新サイトの改訂版記事〈そちらの方が余計なリンクもなく、文章も練りこんでいますし)にアクセス数を徐々に奪われていく可能性もあり、そうなった時、「雑記帳」サイトのアクセス数やランキングそのものを変容させていく可能性も高いでしょう。


******


 ひとつ宣言しますと、カウンセリングルームサイトの方には、余計な裏話などを掲載することはありません

「カウンセリングルーム公式サイト」として、常時読んでいただけるのに値する内容を徹底的に選抜・吟味します。

 「雑記帳」ブログで書いた記事が、新サイトに掲載する予定の記事の草稿という場合もありますし、一気に同時掲載の場合もあるでしょう。

 しかし、「雑記帳」ブログでの記事にオリジナルを残し、原則として版の更新や修正は新サイト側だけで進めることになるかもしれません。

 カウンセリングルームサイトで新記事を出す時には、この「雑記帳」ブログで、その記事のURLだけでもリンクして紹介し、新サイトからのトラックバックを「雑記帳」ブログに飛ばします。

 そうした際に、新サイトでは書かなかった裏話も紹介するかもしれません(^^)

 つまり、この「雑記帳」サイトは、まさに私のプライベート・サイトとして使い分けることwを始めることになります。

 それでも、カウンセリングや心理療法、いうまでもなくフォーカシングについての、かなり思い切った「実験的」な記事や、浜崎あゆみをはじめとする音楽関係やiPodをはじめとするモバイルオーディオ、社会問題の記事などの領域越境的なコンテンツ、日記的な内容は、この「雑記帳」で今後も量産していくつもりです。

 このサイトがカウンセリング一辺倒になるのではないかと「ご心配の」(「安心しておられた??」)皆様、雑記帳は永遠に雑記帳の奔放さを維持します!!

 今は新しいカウンセリングルームを立ち上げたばかりなので、カウンセリング系の記事を集中的に書いているのですね。

*****


 なお、今後、

この雑記帳の記事については【雑記帳】

「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトの記事については【開業サイト】

と略記することにします。


どうかよろしく!!

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2008/08/20

「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイト、コンテンツがかなり増えてきました

 久留米での新サイト、ある程度の量のコンテンツになってきましたので、興味をお持ちの皆様、どうかよろしく。

 こちらのブログで先行公開したうちのいくつかも、すでに転載しています。

 当ブログのかなり以前の記事の転載の際にも、文章を若干見直しているものもあります。

 おそらく、全体として、こちらのサイトで読んだ場合よりも、すっきりとして読みやすいのではないかと(^^;)

 なお、新サイトでは、トップページには、総合案内のページと、最新記事の2つしか表示されていません。分野別にカテゴリーから読んでいただくか、バックナンバーをたどっていくといろいろな記事が出てくる仕様になっています。
 

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医者という名の薬(第2版 全面改定稿)

 関東を離れる前、お別れ会を兼ねて、知り合いと行きつけだった、その地方で結構名の通った蕎麦屋に、2,3ヶ月ぶりに行った時のことです。

 店に入り、私たちが桟敷席に座った直後、もう一組のグループが店に入ってきて、隣の桟敷に座りました。

 店のおねーさんは、まず最初に、その、後から入ってきた席の方に、水を持ってきました。

 その後、私たちは話に花を咲かせていたのですが、数分後、気がついてみると、私たちのテーブルにはまだ水を置きに来ていない。

 私の連れは、おねーさんを呼び、水を頼んだのですが、そのあと水を持ってくるまでに2分かかる。

 更に、煮込みそばを注文したが、店がそこそこ空いていたにもかかわらず、注文品がなかなか来ない。

 やっと注文が届いてみると、、今度は、「れんげ」が食卓にない!!

 待っていても来ないので、これまた持って来いと頼む始末。


「この店、店長が代わったみたい」


と知り合いの一人。


 実際に口にした煮込みそばは、以前も食べたことがあるのに、やや麺が延びていて、何かしら生ぬるく、味付けもイマイチと私たちは皆感じた。


*****


 新店長の意識が低いと、「実際に」味も落ち、おねーさんへの接客教育も不行き届きになる。それは確かかもしれない。

 しかし、その時ふと思ったのは、おねーさんの「あの」接客態度だけで、「実際よりも」そばがまずく感じたかもしれないということ。

 これだけで、「その店にはもう通いたくない」と感じるお客さんも多いと思うのです。


*****

 そして、これと同じようなことは、お医者さんと薬の効き目のあいだにもあるように思える。


 「医者と言う名の薬」


 これは、イギリスの精神分析家、ウィニコットという人が言い出した言葉です。


 「薬の効き目の半分は、その薬を出すお医者さんといい関係にあるかどうかで決まる」

という意味で、日本では精神科医の中井久夫先生が著作の中でよくお使いになります。

****


 ご本人が悩んでいる症状〈不眠、不安、緊張、気分の落ち込みなど)そのものがどの程度、どのくらいの期間で効いてくる可能性があるのか。副作用としてはどのようなものがあり得るか、そうした時にとりあえずどういう対策を採ったらいいかについて、患者さんに理解できる形で丁寧に説明してくださるのがいいお医者さんです。

 例えば、


 「この薬を飲むと眠気を感じ、集中力が落ちると感じることもあるかもしれません。しかし、この薬は、あなたがついつい無理をし過ぎずに、ゆっくりと穏やかな気持ちで心身を休めることで、あなたの身体の自然な自己治癒能力が賦活することを狙って出しているのです。症状をただ抑えて、「無理が利く」ようにする薬を処方したら、その反動で、あなたの身体の自力はいよいよ衰えて、結局は症状がひどくなるだけですから」


 .....などと具体的に説明してもらっていれば、患者さんも安心すると思いませんか?


*****


 薬の効き目や副作用というのは、個人差がたいへん大きなもので、良心的なお医者さんだと、最初の頃は1週間ごとに通院してもらい、患者さんからの話に基づき効き目やき目や副作用の状態をチェックして、薬の種類や量を再調整したり、新たなアドバイスをしてくださることが多いと思います。

 いいお医者さんなら、求めれば、更に詳しく丁寧に、しかしツボを押さえたわかりやすい表現で、説明を補足して下さることも少なくないと思います。


****


 心の状態は、聴診器を当てても喉の奥を観察しても伝わらないということも念頭に置いてご覧になることをお勧めします。

 もちろん、表情や話しぶりからお医者さんには読み取れることも多いでしょうし、薬に効き目について見分けるポイントになる適切な問診もして下さるのがいいお医者さんでしょう。

 しかし、いいお医者さんであっても千里眼ではありません。患者さんのほうからが、最近の体調や薬を飲んでからの効き具合、特に、薬を飲み始めた後で突然生じたストレスのかかる重大事件について、お医者さんに遠慮し過ぎることなく、具体的に詳してはじめて、お医者さんの注意を引く事柄が、薬の処方にも影響する可能性があるわけですね。

 いいお医者さんなら、あなたが言葉にした、「こんなこと関係あるのかな?」とすら感じられる素朴な気がかりを丁寧に受け止めて、参考にして下さる筈です。


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 薬の効き方が自分の期待や予想とあまりにギャップがあり、その時のお医者さんと意思疎通がうまく行かないままになったりすると、薬を飲むという体験そのものが、その人の中でひとつの「トラウマ」となり、後になって別のお医者さんに投薬を進められた時に抵抗を感じたり、そういう「薬へのトラウマ体験」そのものが、二次的な心身の不安定を誘発し、薬の効き目を変えてしまう、あるいは副作用のほうを強くする、などということは大いにあり得ると思います。

 同じ成分の物質でも、それを身体が摂取した時の状態次第で、後になっても身体の受けつけ方が変化してしまうということは結構あることなのですね。

 例えば、何かを食べたあと体調を手ひどく崩した経験がある人は、仮にそれまで好きな食べ物であった場合でも、もう匂いをかぐのも嫌、お腹に入れてもしっくり来ないということを、特に子供時代から思春期に体験した記憶をお持ちの方は少なくないでしょう。

 そもそも、人間の心身というものは同じ物質が身体の中に入ればいつでも同じ反応が身体に生じると言うには、あまりにデリケートなものだと思います。


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 更に言えば、特に心の状態を変える薬とされるものを飲むとなると、他人(しかも「医者」という、自分の運命を託す「権威」)によって心を思いもよらない方向に操られてしまうことへの不安を感じて当然なので、ただでさえ心身にアンバランスな状態にあるからこそ病院に来談した人を更にデリケートな「ストレス状況」に一度追い込むともいえるわけですね。

 また、変化というものは、たとえ「いい変化」のきっかけとなるものであっても、そこまでの過程を、共にしてくれるパートナーの態度によっては心を大きく揺らすものです。
 例えば習い事やスポーツをはじめる際にも、師匠やコーチ自身のセンスや人柄ひとつで、それが苦しくてつまらない単調な基礎練習の繰り返しになるか、上達していくのを心待ちにしながらの、新鮮で、好奇心に満ちた、やる気を保てる体験になり、その習い事やスポーツそのものを好きになるかにも大きく影響するでしょう。

 患者さんが医者に不信感と不安を大きく抱えたままだったら、いろいろな体調の変化をポジティヴに受け止められず、薬による身体感覚変化を悪い方向にだけ感じ取る可能性もあります。


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 それがそのお医者さんとのやり取りの中で解決されないままだと、別の機会に別のお医者さんに薬をもらう際にも、同じようになるのではないかという不安があらかじめ準備されていることになります。

そこでの医者の応対が再び不満足で、心を傷つけ、体調を混乱させるものにとどまったら、もはや患者さんの身体の中に、悪い「条件反射」が形成される悪循環が始まるかもしれません。

 つまり、パブロフの犬が、ベルが鳴ると唾液を出すようになるのと同じように、薬を構成する「ある物質」からの刺激を舌や胃の粘膜が感受すると、強く不安を感じたり、以前と同じ身体症状が生じたり、副作用の方だけのスイッチが入るというメカニズムが身体に「定着」してしまう可能性もあると思います。


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 カウンセラーとしての私は、適切なタイミングで薬を処方するなしで事態を改善するのは非常にむずかしい、難しいいくつかの心の病気があることも知っています。そうした薬によって心身を休め、心穏やかに過ごせるようになって、心身の自然な回復力が賦活しはじめて、はじめてカウンセリングが役立つようになることも多いのですね。

(統合失調症の発症の直後の混乱期や重たいうつ病が典型的なものです)。

(※ 当相談室においでの方が、そうした状態にある可能性があると感じられた場合には、カウンセリングをすることよりも、まずは医師の診断と処方を受けることをお勧めします。ご不安を感じないような形で病院に向かえるようなサポートもさせていただきます。

(※ 病院にすでに通院しておられる方からのご相談については、原則として、カウンセリングにお通いになることについて、お医者様に伝えていただくようにお願いしています。申し込み前ではなく、実際に来談され、当カウンセリングルームでカウンセリングを継続的に受けてみようという決心がおつきになってからで結構ですが)


 軽症の患者さんや、薬との相性が特に良かった人の場合には、飲むだけで当面の苦痛から開放され、副作用もなく、以前と同じように働いたり日常生活を送るのに不自由しなくなる場合もあるのは事実です。

 また、「心理療法の方が薬物療法より『高尚な』ことで、セラピーは薬の代わりになる」というのは、大きな誤解だと思います。

 フロイトですら、「ともかく効果的な治療法」を探した結果、神経症に効果があるものとしての「精神分析療法」を開発しただけであり、現代に生まれていたら、現代における向精神薬の発展を心から歓迎し、医者として積極活用しただろうといわれています。

 通院をはじめ、お薬を処方されるようになっても、カウンセリングの継続をお勧めになる、あるいは許してくださるお医者さんも少なくないかと思います。


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 そして、そもそも、誰にとっても、自分の内面を見つめるということそのものが、実は心身の「大仕事」なんだと思います。

 来談された皆様にとって、そのような「大仕事」をカウンセリングの中で私と共にしていくこと自体が心身のストレスとなり、いわばカウンセリングの「副作用」となる可能性に気を配り、バランスに配慮しながら、面接を進めていくことを私は大事にしています。この点では薬物療法の際のお医者さんの姿勢と何の変わりがないともいえます。

 「あちらかこちらか」ではなく、薬物療法と心裡療法が互いをサポートし、相乗効果を発揮するバランスが何より大事だと思うのですね。


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 お医者さんと患者さんとの関わり作りへのサポートも、医師にしてはじめて許される診断や治療には抵触しない範囲に厳しく限定していますが、開業カウンセラーとしての私が大事にしていることなのです。
 
 そして、薬を飲む人自身が、「薬を味方につけて」ライフスタイルを調整しようという主体的な意識もあった時、薬が自分の「味方」と感じられるようになることも少なくないのではないかと思います。


 ※医師の資格のない臨床心理士が、薬を処方することは法律で禁じられています。そのことが露見すると、日本臨床心理士資格認定協会からも、資格停止すら含む、厳重な処罰がなされています。
 

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●この本が参考になります:


「心に働くくすりは信頼関係があってこそ効く」

中井久夫著作集 5 病者と社会(岩崎学術出版) 所収 p.163-168


 

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ユングが、心理療法を、療法家と患者の「弁証法的相互作用」として論じた主な箇所の紹介

  以前の記事への補足です。

 「弁証法」とは、古くは古代ギリシャのソクラテスが、単に深窓の閉じた部屋の中で古今の書物を相手に熟考するのではなく、ポリスの街角で意見の対立する相手と具体的な議論をする中ではじめて、その相手にも納得してもらえると考え、実践したことにはじまる。これらは「対話篇」と呼ばれる一群の著作として伝承される。

 近代に至り、ドイツのヘーゲルがそれを更に発展させ、ある考え方(正命題)に対して、それと矛盾対立するする考え方(反命題)が定立され、それを更に高次元で統合する第3の考え方が生じることではじめて解決〈止揚)されることを「弁証法」と呼ぶようになった。

 この「弁証法」的プロセスが前に進むことを、一般に「正-反-合」などと呼ぶ。

 一方が正しく、他方が間違っているというのでも、単なる「妥協」でもない、新しい次元で解決されていく筈というもの。

 わかりやすく言えば、「白」か「黒」かでの議論は、〈単なる「灰色」ではなくて)、「黄色」という高次元の答えが見出されるというのが「弁証法」のプロセスである。「色つき」という次元を想定していなかったという点では、「白」だけでも「黒」だけでも制約されていたことになる。

 ヘーゲルは、これを哲学的な議論にとどまらず、社会現象や歴史の動きのダイナミズムという現実事象そのものにも適用した。

 それを再解釈して、経済学や共産主義革命理論を作り上げたのがマルクス以降の人たちである。

 ユングはこうした「弁証法」プロセスを心理療法的な相互作用の次元に応用し、専門家の心理療法家の方が、患者(クライエント)よりも、経験や専門知識によって、患者の心の問題をよりよく理解でき、解決への処方箋を持っているというわけではなく、かといって患者自身のほうが自分のことをよくわかっていて、自分で出していく答えの方が正しいというわけでもなく、心理療法の場で、二人のあいだで生じる相互作用過程の中で、双方が先入観にとらわれるだけではないやり取りをして、それぞれが知的にも情緒的にも揺さぶられたり困惑したりを乗り越えようとする相が作用中で、はじめて、患者も成長し、療法家自身も成長すると考えたのである。


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※ 以下の引用は、すべて、ユング「心理療法論」林道義訳 みすず書房 1989に所収の論文より。

 この著作は、林道義氏によって選ばれたユングの個別の論文の選集である。

 未確認だが、恐らく個々の論文は、現在の、より新しい「ユング選集」などでは各巻にばらばらに新訳で掲載されているだろう。

 この時の邦訳にしか掲載されていないものもあるかもしれないが。


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 「いやしくも個性的な人間を心理的に治療しようとする限り、私はよかれあしかれ自分の方がよく知っているとか権威をもっているという気持ちや影響を与えようという気持ちをすべて捨て去らねばならない。
 私は必然的に弁証法的なやり方をとらねばならないが、これは相互の見方を比較するということを前提としている。

 しかしこのことは、私が相手[=患者]に、私の予見によって制限されることなく自分の内容を十分に表現する機会を与えるときに、はじめて可能になる。この表現によって彼の体系が私の体系に関連させられ、それによって私の体系に反応が引き起こされる。
 
 この反応は、私が個人として正当に私の患者に対置することができる唯一のものである。

 (中略)この態度から少しでも外れると暗示療法を意味するが、(中略)暗示療法とは、他の人の個性についいて知っているとか解釈できると僭称し、それを実際に行なうあらゆる方法を指している。

(「臨床的心理療法の基本」 邦訳p.7-8)

****

 
 「医師は一般に感染やその他の職業的危険にさらされているが、同じように、心理療法家も恐ろしい心理感染の危険を背負っている。こうして彼は一方で患者の神経症に巻き込まれるという危険の中におり、他方では個人として患者の影響を遮断しなければならないが、あまり遮断しようとすると治療する力を奪われてしまう。

(同 邦訳p.29-30)」

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「成功から心理療法家が学ぶことはほとんどまったくない、というのも成功はよりによって自らの誤りを正当化してしまうからである。そして失敗は極めて貴重な経験である、というのも経験にはよりよい真理への道がひらかれているのみならず、それによってわれわれが自分の見解や方法を変えざるを得なくなるからである。

(「心理療法の目標」 邦訳p.37)」

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 「心理療法においては、医師が確固とした目標をいっさいもたないほうが実のところ賢明であるように私には思われる。医師はおそらく自然や患者の生きる意志ほどには、その目標をよく知ることはできないであろう。人間の生が下す偉大な決定には、一般に意識的な恣意や善悪の分別よりも、はるかに多く本能その他の神秘的無意識的な要因に従っている。ある人にぴったりする靴は他の人には窮屈であり、普遍的に該当する生の処方箋など存在しない。一人一人がおそらく自分自身の中に自らの生の形式・非合理的な形式・をもっており、それより他の形式の方が優るなどということはありえないのである」

(同 邦訳p.41-42)

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 「世界観[価値観]は療法家の人生を導き彼の治療の精神をかたちづくる。それは最も厳密な客観性をもっているとはいえ、なによりも主観的なものであるため、恐らく何度となく患者の真実に触れて砕かれ、そしてその真実によって新たに再建される。すなわち、信念は容易に自身に変わりそこから悪くすると硬直に変わる。硬直したのでは生きているとはいえない。信念は強いと言うことは、それが柔軟で修正が効くということであり、あらゆる高度な心理と同様に、信念が皆に認められるのは自らの誤りを認めることによってである

(「心理療法と世界観」邦訳p.68)

*****


 「(前略)このような場合には、療法家が患者の真実にふれて自分の信念が壊れてもいいと思っているかどうかという問題が浮かび上がってくる。もし患者を引き続いて治療したいと思うならば、彼は患者とともに先入観なしに探求の旅に出て、その激情状態にふさわしい、宗教的・哲学的信念を発見しなければならない。

 (中略)しかし療法家が患者のために自分の信念を俎上にのせることを嫌うと、彼の基本姿勢が頑(かたく)ななのではないかという疑問が当然頭をもたげてくる。彼は恐らく自信を失いたくないので譲歩することができない。しかしその自信によって彼は硬直化の危機にさらされているのである」

(同 邦訳p.70)


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2008/08/19

ユングにおける「超越機能」はフォーカシング技法とたいへん似ている

 前の記事で書いたことを、ユングの著作を具体的に引き合いに出して詳しく書いてみよう。


 そもそも、自分の中のもう一人の自分、真の自己との内的関係を「男女関係」にたとえることは、ユングによってはじめて学問的に切り開かれた領域である。

これは、「転移の心理学」での「王と王女の結婚」についての長大な論考にも現れている。

 それに加えて、ユングに関して、日本では比較的関心がもたれておらず、殊に現場でのカウンセリングのあり方と結び付けて語られることが少ないテーマに、「超越機能」あるいは「能動的想像」がある。これは、人間のこころの本来的な中心である「自己(Self)」と、その周りを回る惑星のような一面的な表れに過ぎない「自我(Ich)がどう対話していくかという技法に関するものである。

 こうしたユングのアプローチと、フォーカシングとの類似と相違について、ジェンドリンは、「いわゆる『自己』についてのいくつかの覚え書("Some Notes of "SELF"")」という論文で考察しているが、ユングの原典は、「自我と無意識」というタイトルで邦訳されている論文の第2章「アニマとアニムス」で詳しく論じられている(特に邦訳p.125-128)。

 このユング自身の叙述そのものをジェンドリンは論文の中で直接引用はしていないので、具体的にご紹介する意味はあるのではいないかと思う。

 ユング自身は男性で、男女観における時代的な制約もあるので、単に「アニマ(内なる女性性)との対話」としか呼んでいないが、実はここで、フォーカシング技法における「フェルトセンス」との内的対話と非常に似たことを指すような説明を、ユング自身がしているのである。

 ジェンドリンとの違いは、ユングの表現だと、単なるイメージとの対話のようにも誤解され、身体感覚の上でも局在的に感じられる「自分の中に住んでいるもうひとつの存在」みたいな「存在感(presence)」にまではっきり言及していないだけとも言えるだろう。


====以下引用========


「[内的に分離独立した対象として体験されたアニマに対して]、人に向かってするように問うことは、大きな利点があって、それによって、アニマは一個の人格として認識され、それにあい対することが可能になるアニマを[他者のごとき]人格として受け取れるようになるほど、よいのである。(中略)

 そこで彼がなすべき唯一正しいことは、アニマの姿を自律的人格として把握し、それに対して人格的な[=あたかも他者の人格に対して向けるような])問いをさしむけることなのである(中略)

 アニマと向き合うの(注、ここも邦訳は「対決」)に必要な解離は、われわれにとって、さほどむずかしいことではない。そのコツは、その眼に見えない相手を明るみに出し、しばしのあいだ自由に表現させてさせてやるだけでよい。そして、自分自身とのそうしたばかげた遊びに対して当然感じるかもしれぬ嫌悪感や、相手の声がはたして『本物』なのかという疑いに、圧倒されないようにすることだ。この後の方の点が、いささか技術を要するところである。(中略)

 もとよりこの自分自身とは異なる「他の側面」[=向こう側にいるアニマ]にそれとわかるような心的活動をさせてみようとする時は、できるだけ客観的で先入見を排した態度を取らねばならない。(中略)すぐに割って入ったり、訂正をしたり、批判したりする習癖は、すでに伝統的にかなり強いものであり、一般に、不安でもって強化される。(中略)

 普通は、自分自身にかかずり合うことは、利己的だとか、「不健全」だとか、いわれている。「自分自身しか仲間がいないのは最悪だ。憂鬱になる」....これがわれわれの性に与えられた輝かしい評価なのだ。しかしそれは、紛れもなく西洋的な考え方なのである。(中略)

 情動[=前の部分までのアニマとほぼ同じ意味]が語っている限り、批判は差し控えねばならない。しかし、いったん情動が自らを提示したならば、ちょうどわれわれと近しい人間の相手をするように、良心的に批判しなければならない。だが、それで終わりにしてはならないのであって、会話に、満足のいくような結末が見出されるまで、談話と応答を交互に続けるのがよい。その結果が満足のいくものかとうかは、ひとえに主観的な感じが決めるところである。自分をごまかそうとしても無駄である。自分自身に対して一途に正直であること、もうひとつの側面(=アニマ)が言うかもしれないことを軽率に先取りしたりしないことが、アニマの教育の技術に不可欠な条件である」

(引用終わり)


****

 .....アニマを「批判する」とか、アニマの「教育」という言葉には違和感があるが(ユングの時代的限界としての無意識的な男尊女卑の側面の現れ?)、それ以外の点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスとの対話において要請される態度と全く共通である点に、フォーカシングを知る読者の中には驚かれる方々もあるかもしれない。  

これらの、フォーカシングとユングの「超越機能」技法の関連については、

阿世賀浩一郎「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」人間性心理学研究 第9号 1992

ですでに言及していた。

 改めてここでご紹介したのは、そういう新鮮な形でユングをフォーカシングの先駆者のひとりとしてとして再発見なさる皆様(しかもジェンドリン自らが論文の中でそれを公認している!!)が増えることを祈ってのことである。

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2008/08/15

私は、「フリー」のカウンセラーです。

     ※この記事は、新サイトに「開業のごあいさつ」用に掲載予定の記事です。

 こんにちは。

 このたび、故郷である福岡県の久留米市でカウンセリングルームを開業させていただきました阿世賀と申します。

 私は、生まれてから高校卒業まで、久留米で生活し、育ちました。

 大学に入ります時に、青雲の志を抱いて上京し、その後臨床心理学・心理療法学を学ぶことを志し、故・村瀬孝雄先生のご指導のもと、心理学の大学院に進みました。

 そして、20年にわたって、東京・神奈川のいくつかの大学で、大学学生相談を主な現場として、現場カウンセラーとしての研鑽を積ませていただき、最近の3年間は、鎌倉市の大船(おおふな)という土地で、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」を開業しておりました。

 そうしたわけで、ここ30年間の生活をずっと関東で過ごし、現場臨床家としてのキャリアのすべてを九州以外で積んできたことになります。

 そうした私にとって、故郷、久留米に「移転」することは、親しみがある土地とはいえ、たいへんな決心を要することでした。


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 福岡は、日本の中でも、首都圏、名古屋圏、関西圏と並び、日本の心理療法・カウンセリングの領域では、古くからの歴史を持ち、著名な臨床家を輩出した、「カウンセリングの西の都」と称していい先進地域のひとつです。

(皆様、ご存知でしたか?)

 以前からおつきあいさせていただいて来た、諸先達の先生方、若く有望な臨床家もたくさんいて下さいますが、「福岡では新人」のカウンセラーとして、新たな道を切り開いていくことにいたしました。


 地域のひとりひとりの皆様のお楽に立つ「街のカウンセラー」を目指しています。


 どうかよろしくお願い申し上げます。


             (平成20年8月15日 久留米での開業に際して)


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●街の「よろず相談所」としての開業カウンセリング

 福岡市のごく近郊を例外にしますと、九州では、まだ、個人開業しているカウンセリングルーム(正確には、「私設心理臨床」と呼びます)というのはまだ珍しいかもしれません。

 病院や公的施設に所属しているわけでもない「フリー」のカウンセラーのもとに出向いて相談をするということが、どういうことなのか、お戸惑いになる一般の皆様も少なくないかと存じます。

 私はそれを、カウンセリング業界の「街医者」のようなもの、と位置づけています。「よろず身の上相談所」のようなものとして、お気軽においでいただきたいのです。

 よく、カウンセリングは「心の問題」を扱う、という言い方がなされます。しかし、人が生きて、生活していく中で直面する困難や悩み、行き詰まりというのは、単にご本人の「心の問題」として存在することはありえないと思います。

 例えば、身体の健康、教育環境、就職・求人・雇用状況、社会・経済情勢、地域の産業問題、法律上の問題、消費者問題、文化や娯楽や生涯教育、福祉などの市民サービスシステムとも密接に絡み合う問題として生じているものだと思います。 

 お求めがあれば、あるいは必要を感じましたら、精神科・心療内科の病院にとどまら医療機関、様々な公的機関、教育・法律・経営・債務処理・福祉等の適切な機関もご紹介したり、連携も図ってまいります。

 そうしたネットワークの要のひとつとして、地域の皆様に開かれたお手伝いができることが「街のカウンセラー」の務めだと思っておりますので、どうかお気軽にお問い合わせください。


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●学生相談の現場で学んだ多様な援助のためのアプローチを生かし、伝えること


 私が長年勤務しておりました、大学の学生相談という現場は、まさにそのような「よろず相談所」的な職場なんですね。

 「交際を断った相手からの携帯メールでのストーカーが止まない」という相談が来ます。
 「将来の進路に悩んでいる」という相談が来ます。

 そう思っていると、クレジットカードの返済ができなくなったという相談が来たり、実家の親が経済的危機に陥ったという相談が来ます。

 バイト先での喧嘩や、交通事故の示談の話も来ます。
 アパートの隣の部屋からの騒音にどう対処したらいいかという相談も来ます。

 実は入学式以来ほとんど登校せず、単位もとらないでいることを親に伝えられないでいるという相談も来ます。

 休学していた学生からの、学業再開についての不安の相談が来ます。

 ご家族からの相談もあれば、ご家族についての相談もあります。

 時には、職員や教員の先生から、対応に困難を感じ始めた学生についての相談が来ます。

 そうした中で、「友達ができない」とか、「人前で緊張する」なとといったものから、急いで病院を紹介する必要があるような深刻な精神の危機にある学生さんまで、訪れてくるのです。

 狭い意味でのカウンセリングや心理療法にはとても収まらない、いろんなご紹介や、危機介入、大学内部や大学外部のさまざまな機関や組織と時にはダッグを組みながら事態を解決していくための柔軟なスキルを求められるのですね。

 そうした経験が今日の私を形作ってきました。


 そうした中で積み上げてきた経験値を生かして、カウンセラーにとどまらない、様々な職種の、人の援助に携わる専門家の皆様のご相談に乗ること(ケーススーパーヴィジョンといいます)ことも、私が大事にしていることです。

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●フォーカシングの指導者として


 さて、私のカウンセリングルームのもうひとつの柱は、「フォーカシング」と呼ばれる技法のトレーニングと、その臨床現場への応用(この場合「フォーカシング指向心理療法」といいます)についての国際資格を持つのみならず、トレーナーやセラピストのを訓練し、資格を認定する、日本で13人、世界で百数十人いる、「コーディネーター」としての資格も持っていることです。

 フォーカシングは、一般の人にも役に立つ、自分で身につけて日常の中で使うことができる心と身体のスキルです。シカゴ大学のユージン・ジェンドリン教授が開発しました。

 誰もが漠然と感じている、すぐには言葉にならない、心とも身体ともつかないモヤモヤした実感そのものに直接注意を向け、大事にして行く中で、自分自身の内面との対話を深め、その人にとっての新鮮な気づきや心身の安定を得る技法です。

 実は、この技法を、日本で一番古くから研究実践してきたのが、福岡の地なんですね。
 この技法を、一般の皆様に開かれた形でトレーニングできる常設機関はまだ日本に多くはありません。

 福岡や九州の、フォーカシングを学ぶ皆様、フォーカシングの普及を目指して研究実践してきた皆様と、新たな協力のもとにネットワークを築いていくことも、私が九州に来て楽しみにしていることです。

 通常のカウンセリングと同じように、日時が折り合いましたら、フォーカシングの個別あるいは数名前後でのトレーニングもお引き受けします。

 講師としての地方出張も喜んで引き受けさせていただきます。

 また、9月からは、久留米の私のカウンセリングルームで、月に一回、フォーカシングの学習会を開いていく予定です。

 久留米は九州各地からの交通の便がたいへんいい土地柄です(鹿児島市からですら、2時間半!!)。

 すでにフォーカシングを学んで来られた方が、新たな仲間を探す場として生かしていただければとも思います。

 フォーカシングについて何もご存じない方、本で読んだけどそれだけではよくわからない方、セミナーやワークショップに出たことがあるけれども、継続的な研修の場がなかなか見つからない皆様、どうか久留米においでください。


*******


 なお、私は、通常のご相談を申し込まれた皆様に、フォーカシングを私の方からお勧めすることはしない、というのが私の基本方針なんです。

 それは、ほかならぬ私自身が、自分自身の日常生活に普段使いで生かすことにこそ、フォーカシングのありがたみを感じている人間であり、それが当然のごとく「カウンセラーという職務」を、専門家として皆様のために遂行する上でも隠し味として隅々まで役に立つと感じている「筋金入りのフォーカサー(注)」だからです。

(注:恩師、故・村瀬孝雄が、共著「フォーカシング事始め」のまえがきで私を紹介くださる時に、使った下さった言葉です)


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欝の人は、「祭りの後」に生きている(第2版)

 以前書いた、欝についての私の代表的な記事続編として、欝に陥った皆様にお会いしていて、私が、少なからぬケースにおいて特徴的だと感じられることをもうひとつ述べてみたいと思います。

 欝の人は、自分の未来を思い描く際に、「新しい未来」という方向ではなく、実はひたすら「過去の再現」を志向していることが少なくない、というお話です。


*****


 欝になりかけの頃(こうした人は、「その頃がすでになりかけだったのだ」と、後になって、すでに欝が重くなり、生活や働くことに大きな支障が出始め、医者にはっきり「欝状態」と診断されて治療が始まっ時点で、はじめて徐々に認識できることが多いのですが)、努力と根気で切り抜けられると固く信じていた人が少なくないと思います。

 もちろん、以前よりも無理を重ね、少しずつふんばりが効かなくなりつつことに心のどこかで不安を募らせ始めてもいるのですが、

 「このままではいずれもっと働けなくなる危険もある。そうなる前に何とかしないと」

という方向で、「転ばぬ先の杖」として、無理にならないように自制したり、早いうちから治療に自分から足を運ぶことは少ないのですね。

 周囲が心配しても、「大丈夫です」。

 本人も、大丈夫なつもりでいる。少なくとも、大丈夫だと強く自分に言い聞かせているものです。

 そして、更に無理を重ねた挙句、ほんとうに行き詰ったところで、はじめてそうした自分と直面するけれども、そういう自分をなかなか率直に身近な人に打ち明けない。

 そういう人は、その段階でも、全くの孤独ということはなく、普段は、友人や家族や同僚たちと、一見打ち解けた、親しい関係を維持していることも多いのです。

 しかし、肝心要の、自分の中に迫りつつある破滅への恐怖や、ものすごい焦りを、素直に周囲に告白しないままのことが多いのですね。

 そうした挙句、自分だけで抱え込んでほんとうに絶望すると、いきなり自殺を考えたり、実行してしまったりすることも少なくないことになります。

 そういう意味で、欝の深みにはまりつつある人は自分の「近未来」に「迫りくる、切迫しているはずの危機」に対しては、見かけ上、「奇妙なまでの楽観主義者」であるかのようだとも言えるのですね(あくまでも、ひとつの逆説です)。

 「大丈夫、大丈夫」と自分に暗示をかけ続け、ほんとうにエンストを起こすまでは、ひたすらパワーを上げ続ける。

 ある意味で、自分の心身の未来予測能力という点では、とても客観的とはいえない、ほとんど麻痺している状態にはまり込みがちです。


*****

 
  そもそも、多少なりとも欝の素質がある人たちが、近代社会においては多数派を占めています。

 つまり、実際に欝にならなくても、普段から

  「近い将来に起こる可能性がある大破局」

に対する危機感を抱きにくく、多少それが脳裏を掠めても、すぐにそのことを意識から排除してしまう。

 まさに、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ですね。
 
  「昨日と同じように今日があり、
   今日と同じように明日は続くだろう」

 ....という、
 まったりとした日常の繰り返しに対する、奇妙なまでの信頼感を支えに生きています。
 要するに「立ち直りが早く」て、くよくよしない。


 多少何かがうまくいかなくても、そのことがむやみと後を引くことはなく、すぐに立ち直り、

 「明日は大丈夫だろう」
 「明日には挽回できる」

という、大いなる日常への期待と信頼をもって、あまりぐらつき過ずに生きていくのです。

 これは、基本的に平穏な日々が続く限り、社会を安定して維持する上では、むしろ、小さな行き詰まりから容易にリバウンド(立ち直り)ができるという意味で、そうした人たちが多数派を占めることは、ふさわしい、適応的なあり方ということになります。

 その代わり、将来に生じうる大変化を前々から察知し、先回りして予防したり、対策を立てて実現するとう点では、アンテナが鈍い。

 そうやって先の見通しを失って、悪あがきを重ねた挙句、心身の疲労でどうにもやれなくなった現実に直面してはじめて、もはや「後の祭り」だ、単なる「建て直し」は不可能ということを、かろうじて徐々に受け入れ始めることができるともいえます。

 バブル崩壊やら、グローバル化の流れの中での、日本の政治・経済の後手後手の対応を見ていると、なるほど、「徐々に追い詰められて、従来のやり方が通用しなくなってきているのは目に見えているのに、未来に向けて先手を打つことがなかなかできない」という点で、うつ病に実際に落ちいって行く個々の人たちと同じようなことが国全体のレヴェルで進行している気もします。


******


 ある意味で、欝傾向のある人は、「建設的に未来を切り開く」というのが、苦手なんです。

 先例に倣って、社会の中で、ある段階まで十分役割を果たせる状態まで到達すると、そうやって到達した「調子のいいときの水準」を維持すること、そして、多少の波があっても、以前の「調子がいい時」の状態を「取り戻す」ことを何より目指します。

 ある年が不作でも、翌年に取り戻せばいいさ、ということですね。

 欝的な人にとっての「未来」というのは、
 得てして、

   「過去にすでに経験した、
    調子のいい時を再び回復する(維持する)

 ということでしかないのです。


 つまり「新しい未来」なるものを構想し、予測し、実現する力に乏しい。


******

 .....からだの病気を含めて、およそ病気からの「回復」というものを、「以前のように健康に戻れる」ことととらえるのは、一見当たり前のことでしょう。

 しかし、
 ことカウンセリングの領域では、
 必ずしもこうしたとらえ方はメジャーではありません。

 単なる「回復」ではなく、
 「変化」し、「成長」して行けた時に
 成果が上がったという発想の方がむしろ主流でしょう。

 単に以前に戻ることを理想とする、と発想しない。

 心理療法の先駆者、フロイト自身、さまざまな症状が治まるのには、その人の中で、まだ未成熟なままだった部分が成長し、自我に統合されるという、「それまでになかったその人の成長」が生じた時だということを発見したわけです。 


*****


 ところが、この点で、「うつ病的」な人、そして、いろいろなストレスが身体の素質的に弱い部分に噴き出した「心身症」傾向の強い人は、「新しい自分に成長する」というイメージをリアルに描けない場合も少なくないのですね。

(ある観点からすると、うつ病とは、ストレスが、もっぱら中枢神経(脳や神経系)に「身体症状」が出た心身症のようなものともいえます)

 「以前と同じように働けるようになれば」

 あるいは

 「今回は欝に陥ったが、
  回復したら、
  今度は同じように頑張っても『欝(心身症)』にならない
  より強い人間に成長したい」

と、更に「超人化」することを期待することが多い。


 つまり、

 「病気になるまでの過去の自分のあり方そのものは全肯定」

という点ではすごく頑固な方が少なくない気がします。


  「これを機会に新たな人生へと進んでください」


などといわれても、内心では、


 「ごもっとも。でもちょっときれいごとの言い方だな」


と感じておられることも少なくないかと思います(^^)


 「変化しろ??? あのさあ、これまでの自分の人生を否定して生まれ変われっていうの?、何とも偉そうなご宣託だね」

 控えめな方でも、

 「そんなこと言われたって、これまでやってきた生き方(働き方)以外に、私がどうやって生きて行けるしょう? もう青年時代に戻れるわけではないし、今更やり直せといわれても無理だよ」

......このへんが本音でしょう。

 これは、実は「欝をきっかけに新たな人生の再出発」みたいな言葉をカウンセラーや精神科医から安易に投げつけられた皆様の、実は当然のお気持ちではないかと、今の私は思うようになりました。

 以前の記事でも書きましたが、自分の生き方の変化や心の変化を、他人に押し付けられることに反発するというのは、ある意味で健康な心情だ、という前提に、われわれカウンセラーも、謙虚に立ち返らなければならない気がします。


*****


 そうした一方で、世の中には、(比較的少数派ですが)、これまでの自分、今の自分に耐えられないことにこそ悩んでいる皆様もたくさんおられるでしょう。

 別な自分、理想の自分に成長することこそが目標、でも、それをうまくやれないことに悩んでいる皆様です。

 こうした人たちは、これからの自分に不安を感じたり、このままの自分では駄目になるという予感を、むしろ強烈に実感しています。その意味では、欝傾向の人とは正反対に、「未来」に本当の自分はあると感じる傾向が強いわけですね。

 自分は、まだ人生の真の「祭り」に到達していない、いつまでたっても「祭りの前」にしかいられないと感じているわけです。

 そして、自分の人生にも「祭り」の時が訪れるかどうか、という無力感と焦りの中でこそ「落ちこむ」わけです。

 これは、いわゆる欝傾向の典型の人の陥る「うつ状態」と、(似た面もありますけど)かなり違った性質のものでもあります。

 恐らく、未来への「焦り」と不安が空回りして、不器用な形で挑戦しては失敗を繰り返してみたり、本当に現実に可能な自分を変えていくやり方を地道に、あるいは、自分に可能なペースをつかんで腰をすえてしぶとく経験値を上げることができないのでしょう。

 .....しかし。

 実はこうした皆様の中にも、実はその、つらいはずの現状を変えていくことへの、単なる変化への不安にとどまらない、「今のままでいたい」という心情、それどころか「あの日に帰りたい」という思いが隠れていることも少なくない気がします。


******


 さて、あなたは、もっぱら「以前のように順調に」と願う「祭りの後」形人間でしょうか?

 それとも、もっぱら「自分の未来にこそ希望を賭けつつも実現できないまま」であることに苦しんでいる「祭りの前」人間でしょうか?

 それとも、「いや、私の中には両方の面があるな」とお感じでしょうか?


 皆様が、自分の悩みの性質、特に、一見「落ち込んだ」状態、欝っぽいかに感じられる状態がどんな性質ものかを見つめなおしてご覧になる上で、ささやかなヒントになれば幸いです。

【追記】:この、「祭りの前」「祭りの後」というのは、精神科医の木村敏先生が提唱されたもので、木村先生の後輩にあたる中井久夫先生の著作にもずいぶん出てきます。それを参考に、私なりにかみ砕いて書いてみたつもりです。


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2008/08/13

「カウンセリング」?「心理療法」?「セラピー」?「ヒーリング」?

 「カウンセリング」という言葉は、今日、社会の中でいろんなジャンルにわたって流通しています。

 その一方、次のような言葉もありますよね。

A.心理療法
B.精神療法
C.サイコセラピー
D.セラピー
E.精神医療
F.精神分析
G.ヒーリング(癒し)


 .....これらの言葉の関係を整理してみましょう。


******

●「心理(精神)療法」(サイコセラピー)とは、専門家の言うとおりに受身に従うだけでは効果をあげないはず。

 「心理療法」と聞くと、


「心の病気や症状を抱えた人が、専門家によって心の治療を受けること」


というイメージが強いかと思います。


 しかし、どのような流派や手法のセラピーでも、セラピーを体験するとは、単にセラピスト(カウンセラー)に言われるままに受身に従っていくということではありません。

 およそ、流派に関係なく、相談に来た人(クライエントさん)からの反応や感じ方をカウンセラーが敏感に受け止め、面接や心理療法のその後の展開に臨機応変に役立てていかない心理療法やカウンセリングなど存在しないはずと私は考えます。

 心理療法やカウンセリングとは、相談においでの一般の皆様と、専門家としてのカウンセラーとの「共同作業」の中で、初めて真価を発揮するものです。

 そういう共同作業をうまく進めるために、相談においでの方からの、時として予想もしない反応を汲み取り、柔軟に生かすための技量こそ、カウンセラー(セラピスト)の「専門家としての能力」を決定づけるものであると私は考えます。


 ですから、(私のカウンセリングルームに限らず)カウンセラーに相談に来られる皆様、カウンセリングの進みかたやカウンセラーの言うことに違和感を感じたら、どうか遠慮なさることなく、できればその回の面接が終わる前に、カウンセラーに伝えてください。

 そうした際に、誠意をもって受け止め、むしろカウンセリングの進展に役立てようとする姿勢を柔軟にとれるのが、流派に関係なく、いいカウンセラーだと私は思います。


******


●カウンセリング=心理(精神)療法

 日本においては、戦後早い段階で紹介されたカール・ロジャーズの来談者中心療法の大きな影響もあり、

「カウンセリング」=「サイコセラピー」=「心理療法」

という共通理解が専門家の間ではほぼ定着していると思います。


つまり、


 (心理)カウンセラー=サイコセラピスト(あるいは単に「セラピスト」)=心理療法家


とみなしていただいてかまいません。


 どうも一般の皆様の中には、


「カウンセリング=具体的な事柄について解決するための軽い相談」


誤解されている場合も少なくない気がしますので。

※このサイトの記事でも、「カウンセリング」と「心理療法」という言葉を同じ意味に使いますし、心理療法の専門家(セラピスト)全般を指す意味で「カウンセラー」という言葉を使います。
 


*****


●心理療法=精神療法=サイコセラピー


 実は"psychotherapy"という英語の日本語訳が「心理療法」あるいは「精神療法」であるに過ぎません。

 訳しかたの違いに過ぎず、全く同じ意味なんですね(^^)

 どちらか深いもの、あるいは本格的なものというわけでもありません。

 では、こうした訳語の違いが生まれたかといいますと、日本では、精神科医・心療内科医など、医療関係者は「精神療法」と訳する伝統が生じ、臨床心理士など、医師資格を持たないカウンセリング専門家は「心理療法」と訳するという、暗黙の合意が、専門家の間でいつの間にか長年のうちに生じたということ。それだけです。

 もっとも、現在、現実には、精神科医が「心理療法」という言葉を使ったり、臨床心理士などの心理カウンセリング専門家が「精神療法」という言葉を使うことも現在では普通です。


※臨床心理士である私は、このサイトの中では、「心理療法」という訳語に今後統一します。すでに述べましたように、「カウンセリング」という言葉を使った場合でも「心理療法全般」という意味と区別していないのですが。


*****

●「セラピー」と「心理療法」(=「サイコセラピー」)との関係


 セラピー"therapy"という言葉には、単に「治療(法)」という意味しかありません。医師やカウンセラーの行なう「専門的」治療法にとどまりません。心に限らず、もっぱら身体を治療する技法全般も含まれます。

 例えば、「温泉」だって十分にセラピーだし、都市を離れ、自然に包まれた環境で静養したり散策することだってセラピー、何を食べるかに注意を払うことや、音楽や絵画を解消することセラピー、スポーツ・運動すらセラピーといえる場合があることになりますね。

 敢えて申し上げると、薬物「療法」ですらセラピーともいえます。

 しかし、今日、日本に限らず、世界的に見ても、身体の治療や健康増進のみを目的とするのでなければ、カウンセリングや心理療法、ヨガや瞑想などを含めたすべての技法を「セラピー」と呼ぶことが増えているように思います。

 ヨガや瞑想に関心を持ち、真剣に深く極めている臨床心理士もたくさんいます。

 しかし、単に「セラピー」といった場合にも、もっぱら臨床心理士などの資格ある専門家が行なう、狭義の、学術的とされる「心理(精神)療法」やカウンセリングを指す場合も多く、「心理療法(サイコセラピー)」との厳密な区別はなくなっているようにおもいます。


*****


●スピリチュアルな次元での悩み


 私はそうした東洋的修行の体験はありませんが、いわゆる「スピリチュアル」な次元についてのご相談にも、信じる宗教・宗派に関係なく誠意を持って応じています。

 欧米では、「私は教会の行事やお祈りは熱心にささげて来ましたが、実は神の存在を本当に確信したことがないことで悩んでいます」というような相談はありふれているとのことですし。

(メアリー・ヒンターコフ著「スピリチュアリティとフォーカシング」による)

*****


●「ヒーリング」という言葉


 さて、最近は「ヒーリング」(癒し)という言葉が流行しています。

 「ヒーリング」という言葉は、実はそれを用いる人、聴く人によって全く異なる次元で理解されている気がします。

 「苦しい修行や内面を見つめ抜くことをしなくても、受身に体験するだけで心身が癒されること」

と理解している人がいる一方、正反対の極には、

 「通常の心理療法やセラピーは、個々の症状や問題を解決するという次元にしか届かない。<たましい>の救済、スピリチュアル(霊的・超越的)な次元での<癒し>は、時として苦しい修行を重ねて、やっとたどり着ける」

と理解している人もあるように思います。

 そして、どちらに理解するにしても、そうした癒しを求め続けて、たどり着けなくて悩んでいる人、「そういう癒しは現実逃避に過ぎない」と批判的にとらえて、家族や知り合いを批判しながらも、対処に困っている人もいれば、そうした疑いに自分の中で苦しんでいる人もいるかと思います。

 私は、「ヒーリング」の正しい理解と何かを判断する立場に自分があるとは思いません。

 しかし、こうした様々な次元での理解と困惑を背景としてのひとりひとりの皆様のご相談にお応えしていくのが務めだと考え、実践しているつもりです。

***

●狭い意味での「心理療法」


 「心理療法(=精神療法=サイコセラピー)」という言葉は、


カウンセラーとクライエント(相談においでの皆様)の間で、
1対1で行なう、
主として言葉のやりとりを通してなされる技法


.....を指すことがあります。


 こうした場合、「心理療法ではないもの」として、次のようなものと比較して使われているのですね。


* 観点a:「薬物療法」 との区別

 .....別の項で述べますように、心身の「診察」をして、法律的効力のある「診断」を行うこと、そして「薬物」を処方する権限は医師にしかありません。

 また、精神科医・心療内科医でも、カウンセリングや心理療法に熟達し、研修を重ねたた人はいます。そういうお医者さん行なう、薬物療法以外の診療活動全般を「心理療法(精神療法」と呼ぶこともあります。

 もっとも、お医者さんの少なからぬ場合、お医者さん自身が、得てして30分から10分程度、ともかく患者さんの話をきくことをしていれば「精神療法(心理療法)」と呼ぶことも少なくありません。

 時間が短いからといって、1時間かけた臨床心理士のカウンセリングよりも価値が低いとは限りません。 

 実力のあるお医者さんは、1回ごとは短時間であっても、密度の高いやり取りを続けるすることによって、十分に「治療的」で、クライエントさんの役に立つやりとりをするだけのセンスを磨いていますので。

* 観点b:「言語のやりとり」以外も重視する療法との区別


 例えば、

「行動療法」(内面の洞察よりも問題行動そのものをなくすことを重視する療法)
「表現療法(=芸術療法)」=絵画療法・箱庭療法・音楽療法・身体を動かす療法など

と区別するために「心理療法」という言葉を使う場合があります。

 最近は、誤解を避けるために「対話的」心理療法という言い方もよく使われるようになりましたが。

 もっとも、行動療法や箱庭療法でも、多くの場合、カウンセラーとクライエントさんとの言葉のやりとりは、時々はなされていることが少なくないわけです。

 一方、主として言葉のやりとりを中心とするかに見える心理療法でも、クライエントさんの表情の変化や、実際には言葉に出して言えないでいる思いがあるのではないかことを大事にしない心理療法はありえない気がします。

 そうした際にどのように対処していくかも、そうしたセラピーの効果に大きく影響します。

 あるいは、主として言葉による対話によるやり取りを中心としてやり取りを進めていても、そうした中で、絵や図に書いてみることをクライエントさんに提案したり、カウンセラーの側から絵や図を描いてみたり、クライエントさんが自分で書いてきた、あるいは持ってきた詩や俳句や絵や漫画や音楽をネタにしたコミュニケーションを柔軟にしていくカウンセラーさんも多いと思います。私もそうした立場です。

 ですから、行動療法や表現療法を含めて「心理療法」という言い方をするのでかまわないと私は思っています。


******


●「精神分析」という言葉

 
 一般の皆様の中には、カウンセリングや心理療法に当たる専門家とのやり取りのことを「精神分析」と呼び、精神科医による薬物治療によらない治療法全般を指すつもりで理解されておられる方も少なくありません。

 「精神分析を受けたいのですが」と相談申し込みをされた時、どんな流派に属するカウンセラーであっても、安易に「ここでは精神分析はやっていません」と口にしてしまうと、それだけで不必要な誤解の火種をまくことになる気がします。

 一般のクライエントさんに,

「精神分析とは、フロイトの創始した心理療法のことで、厳密に言えば寝椅子に横たわっての自由連想をしていくことを基本とする。厳密には、フロイトから離反したアドラーの療法は「個人心理学」と呼ばれ、ユングの「分析心理学」を精神分析の一流派と位置づけることにも問題がある。その後、精神分析は、アメリカを中心とした「自我心理学派」、メラニークライン正統の「クライン派」、両者を仲介する立場にある「対象関係学派」に別れている.....」

......などと講釈することには、決してクライエントさんの求めに答えることではないはず(^^;)


 ますは、その人がイメージし、期待している「精神分析」とはどのようなものかをじっくり聞いてみることがまずは大事かと思います。

 フロイトが始めたように、ほんとうに、寝椅子に横になって自由連想をすることを期待されている場合もあるでしょう。

 むしろ、ユング派の夢分析に近いことを期待されている場合もあります。

 しかし、実は手法なんか役に立つ限り、広い意味での「カウンセリング」を受ける中で悩みや症状が解決していくならそれでいい、薬物療法にだけは不安がある、という人もあるかもしれません。

 薬物療法でもOKだという人すらいるでしょう(^^)


******


●たいていのカウンセラーは実は特定の「心理療法流派」に所属し、その技法にのみ忠誠を誓っているわけではない。


流派の違いというものはカウンセリングの効果の違いに結びつかないことが多い。

(未完)

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「私はカウンセリングを受けに行っていいのでしょうか?」


 いきなり、少し奇妙に見えるタイトルのつけ方をさせていただきました。

 普通なら、


「カウンセリングはほんとうに私の役に立ちますか?」


だとか、


「私はカウンセリングに向いていますか?」


というタイトルにしそうなところで、このようなタイトルに敢えてしてみたのです。


 ・・・・といいますのは、皆様の中に、カウンセリングを受ける、ということに、いろいろな情報や既成概念から生じる「しり込み」があるのではないかと感じたからです。


例えば、


「カウンセリングを受ける人は、『心の病気』にかかっていないとならない」

「カウンセリングを受けるには、具体的で、『深刻な悩み』を持っていなければならない」


.....というふうに思われている皆さんは少なくないのではありませんか?

******

 更に、思いつくままに例を挙げてみましょうか:


「純粋に経済的な問題(クレジットカードの支払いができなくなった)や、法律が絡みそうな問題(「アダルトサイトにアクセスしたら、高額の料金を請求された」の域から、「離婚」や「遺産相続」に関係することなどを含む)を、心理カウンセラーに相談するのは筋違いでしょ?」

「自分の学校(勤務先)にカウンセリングルームがあり、週〇回カウンセラーがいるのに、そこに通う勇気が出なくてここに来ました」

「カウンセラーは、話をじっくりときいてくれるのが仕事で、結局は、私自身が解決への答えを見つけないとならないのですよね?」

「家族や身近な友人や上司や恋人同僚に相談できないこと自体が問題で、カウンセリングを受けるしかできないというのは、それだけで恥ずかしいことと思えて」

「私は、これまで、精神科医や他のカウンセリング機関でけむたがられ、厄介者扱いされてきた気がします。こんな私でも引き受けてくださいますか?」

「これまでのカウンセラー(精神科医)に不満を持っているのですが、まだ止めてしまう決心がつきません。とりあえず『セカンド・オピニオン』をうかがうために来談する...なんて、ズルいやり方ですか?」

「私、ある歌手が本人のブログで、私のファンレターを意識しながら記事を書いている気がしてならなくて。これを友たちに話すと、『妄想も程々にしたら?』と言われてしまって。私って『精神病』なんですか?」

「私は今この問題が解決したら十分と感じていて、私自身が人間として変化したり成長する必要はないと感じているんですけど」

「私の住んでいる地域に便利な精神科医やカウンセラーを紹介して欲しいためにだけ、相談するなんて非礼なことですよね?」

「うちの子供は引きこもったままで、決して自分からはカウンセリングに出向こうとはしないみたいです。問題の当事者がカウンセリングに出向かないようでは何の解決にも結びつかないですよね?」

「カウンセラーって、カウンセリングの勉強は十分なさってきたでしょうけど、世間のことはよくご存じないと思うので、相談しても失望するだけではないかという不安も消えなくて....」

「私は、カウンセラーや精神科医の前でも言いたいことがいえないんです。そのことであとでムシャクシャして、感情的になり、カウンセリングや医療が長続きしたことっがないんです。先生のカウンセリングを受けても結局そうなっちゃうかもしれない。それが悩みなんですけど」

「熊本県の八代から、先生のカウンセリングに月一回だけ通おうなんていうの、無理ですよね?」

「実は、私の友人がカウンセリングに行こうかどうか迷っているのでそのことについて相談に乗っているんですけど、私は自分が体験したものでないと信じない主義です。だから、ともかくカウンセラーというものに会ってみたいので申し込んでみただけなんです。その子は別に先生のカウンセリングを受けたいといっているわけでもないのですがが、いいですか?」

「要するに私は愚痴の聞き手が欲しいだけです。自分から問題を解決しようという意欲なんてない、根性なしですから。だから、私をいい方向に改善しようなどとはしない、という条件でカウンセリングを引き受けて下さいますか?」

「この世の中には、私よりもっと苦しんでいる人、がんばっている人がたくさんいると思います。私は自分に甘えているだけです。こんな私にはカウンセリングを受ける資格などなく、ほんとうに悩んでいる人たちからの相談に、先生の時間を使っていただくのが筋だと思います」

「私の仕事は、毎週休める日が変わる勤務体制です。突然休日が変わることもあります。これでは『定期的に』通うことなんてできないなと思っているのですが」

「私は、何が何でも『認知行動療法』のセラピーを受けたいんです。でも、先生は『フォーカシング』がご専門ですよね....」

「私は会社の人事課長なんですけど、いつの間にかいろんな職員の悩み相談担当みたいな役割を背負わされて困っています。そういう際に役立つアドバイスを伺いたいのですが....」

「私自身が教師(看護士、医師、僧侶、警察官、社長、カウンセラー!)なんです。むしろ人の相談に乗り、人を支え、指導しなければならない立場です。こんな私がカウンセリングを受けることなど許されないことのような気がします」

「職場や家族に黙ったまま、その人についてよそでベラベラ相談するなんて、よくないんではないかと......」

「ともかく私の見たすごい夢について、一度、心理の専門家である先生に解説してもらいたいだけなんですけど、友人に『そんな占い師みたいな扱い、プロの心理の先生に失礼だよ』と言われてしまって...」

「この年になって、実は童貞なんです。こんなこと、カウンセラーさんに相談してもどうにもならないでしょ」

「私はクリスチャンですが、自分の信仰に疑問を持っています。こういうことを相談されてもお困りですよね?」

「カウンセラーを『金で買う』なんて、精神的な売春婦(ホスト)に金を払うようなものという気がする」

「カウンセリングって、何十回も、定期的に通い続けないとならないものなんでしょ?」
「私、カウンセラーになりたいんです!! ....なんていう動機で相談するなんて、ありですか? 」

「心の問題を見つめるなんてやりたくない。私の症状はストレスから来ている面が大きいと感じていますけど、症状だけ軽くなることを目指す、なんて不謹慎ですかね?」

「カウンセリングに通い続けていたら、最後にはそのカウンセラーの流派のカウンセラーになるように勧誘されるかもしれないと不安なんです」

.....以上の例の中には、


「うん、うん、自分もそうしたことを気にしたことがある」


というお感じの例もあるかもしれませんが、

その一方、


「そんなことを気にする人もあるの?」


とお感じの例も多いかもしれません(^^)


私は感じます:

「そういう不安をお持ちの方こそ、気軽にお問い合わせいただきたいなあ」

....と。

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心に効く薬と「眼鏡」のように付き合うサイボーグ(第3版)

 さて、薬物療法に対する不安というのにはいくつかの次元がある気がします

1.自分の感情や意識を、薬の力で別次元のものに「変えられて」しまうという不安
2.身体的・精神的副作用への不安
3.仮に薬で心身のいいバランスが得られたとしても、薬を飲まなかったらそうは行かないのだから、薬をやめられるまでの自分はほんとうには健康だといえないのだという思い。


 私自身、以前、「適応障害」という診断を受け、欝を体験していますし、投薬治療も受けています。

 実は今もデパケンを飲み続けていたりするのですが。あと、デジレルも毎日2錠ほど。

 私は幸い、副作用に苦しんだということは、ある特定の時期を除き、ほとんどありません。

 薬というものを、自分の無理が利かなくしてくれるもの、休息をじっくりとらせてくれるための大事な「サポーター」、「相棒」だと思っています。

 飲んでから30分後には自分の心身に徐々に生じはじめる、心身の微妙な変化そのものと対話しながら日々を送ってきたつもりです。


*****


 副作用に苦しんでいる皆様に、そういう、薬と「仲良しになれた」人間のいい気な言い草と非難されるてしまうのを覚悟で、敢えて次のことを書いてみたくなりました。


 例えば、慢性の生活習慣病や心臓病で薬をもらっている人は、薬を自分が全く飲まないで済む状態が来ることをあまり期待しないだろうと思います。

 私は、薬があって、以前ほどの無理はできないかもしれないけど、薬の力を借りれば自分のおおかれた状況の中でまずまず力を発揮できるとしたら、それはそれで「サイボーグ」として、多少の不自由さを感じながらも生きていくのでいいのではないかと思っています。

 ある意味では、「眼鏡をかけて」生きることや、緑内障の治療のために人工水晶体入れてしまうことは、すでに自分の身体を「サイボーグ」化する第一歩とも言えるかと思います。

 なお、ここでいう「サイボーグ」とは、通常の人間には不可能な超人になること、という意味では使っていません。生身の身体機能の一部を人工的なものによって置き換えたり、補完したりしている存在、というぐらいの意味です(wikipedia参照)。

 すでにかなりの昔から、人類におけるサイボーグ化の普及は、義足や眼鏡という形ですでにかなりの水準で進行しているという見方もできるかと思います。それなら、向精神薬ですらそのような「人工的な補助ツール」にたとえてもいいのではないかという、拡張した発想に立ってみたのです。

 そのような意味で「サイボーグ」化してしか生活を送れないことを、完璧に健康ではないとは誰も思わないでしょう?


+++++

 
 私は、薬を飲まなくなれた時にはじめて健康に戻れたのだとは思わないように生きていこうと思っています。

 ひょっとしたら、数年後には、もともとコレステロールの多い、脳梗塞と心疾患で亡くなる親類ばかりの家系ですから、血管のための薬を何か飲み始めているかもしれないですしね(^^)


 このことを、私は、こと「心に効く」とされる薬となると、とたんに偏見の塊となることが少なくない、一般の皆様に向けて書いているつもりです。


 果たして、「昔のように戻れる」ことが健康なのか?

 私は、欝になるなる前のほうが、よほど不健康な、今の私から見たら未熟そのものの生き方をしていた気がしてなりませんが。

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2008/08/12

「症状」ではなく「...する能力」としてとらてみたら?

 これは、日本を代表する独自の精神分析技法の大家、神田橋條治先生〈鹿児島県在住)が唱えた、有名な「逆説」です。

神田橋先生がこのことを真っ先に言われたのは、

「自閉」という症状についてです。

自閉する「能力」があると読み替えた見たら?

その人は「自閉」する力があったからこそ、もっとひどい状態に陥らずに済んだのではないか。


神田橋先生の高弟のひとりである、増井武士先生も、これを発達障害としての『自閉症』にも適用して、次のような逸話を著作に残しています。

(引用)

高機能自閉症の人が、鈍感なのではなく、むしろ、外界からの刺激を独特な形で過敏に受け止めるように生まれついているのでそうなるという側面があるとことは、発達臨床に関わる皆様なら周知のことでしょう。

増井先生のもうひとつの逆説的名言は、不登校の若者たちは「登校意欲過剰症」なのだ、というものです。


*****


 神田橋先生に戻りますと、例えば、

「欝になる能力」
「妄想する能力」
「人格を解離する能力」
「黙り込む能力」
「多動する能力」


などというとらえ方も可能となりますね。


 この「能力」シリーズでは、統合失調症の人は「拒否能力」が低いという言い方が臨床家にはよく知られています。「拒否する能力」を発揮できるようになれば、統合失調症のひとは安定してくる、ということでもあるのですね。

 いわゆる「境界例水準」の人って、単に不安定なのではなくて、「相手の期待にふさわしい自分」にいつに間にかすり替われてしまうという「能力」が過剰なので、その場面を離れると、一気に自制が効かないリバウンドが起こりやすい、と説明することもできます。

 これは、境界例的な人や統合失調症的な人に限らないことです。

 カウンセラーの言うことに「いえ、そうではなくて」....と差し挟めないクライエントさんは、それが言える人よりも深刻な状態にある可能性がある、という逆説的示唆ともいえます。

 実はカウンセラーの言うことに何らかの抗弁を「してくれる」だけで感謝したくなる、みたいな心境でいつも話を聴いていると、カウンセリング場面で、クライエントさんが突然感情的・攻撃的になったりしてカウンセラーが振り回されるような混乱場面が(意外でしょうが)むしろ最初から生じにくくなる、というのが私のカウンセラーとしての経験です。


****

 この「・・・する能力」という発想は、田島誠一先生(福岡県在住)にも受け継がれて発展し、クライエントさんの「注文をつける能力」「工夫する能力」という、現場臨床的に見て凄く役に立つ概念にまで展開されることになります。

 私の現場臨床経験でも、クライエントさんにこうした能力が発露される場合には、カウンセリングが効果的に役立っていることを、クライエントさん自身が生活の中での手ごたえとして実感していく展開になることが多い気がします。


*******


 フォーカシングのトレーニングの中でもしみじみと実感しますね。
 私の提案に、必死でそのまま取り組み、それができないことに罪悪感のようなものを抱くうちは、まだまだです。

 私の提案を「気に入ったら使えるアイデア」ぐらいに活用し、私が言ったことは聞き流して、自分のプロセスに熱中したり、私が思いもよらないやり方をむしろ私の方に提案して、目の前で勝手にやりはじめるくらいの人こそ、すでに、トレーナーの私よりも自分自身のフェルトセンスに従う、自律的なフォーカサーに育ちつつあるのです。

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「一緒に考えて行きましょう」.....(第3版)

●カウンセラーと来談された方の「共同作業」とは何か


 誰が悪いのかを言い当てて
 どうすればいいかを書き立てて
 評論家やカウンセラーが米を買う
 迷える子羊たちは彼らほど賢いものはいないと思う
 あとをついて行けば何とかなると思う
 見えることとできることは別物だと米を買う


 これは、若き日の中島みゆきの傑作アルバム、「寒水魚」に収録された「時刻表」という歌です。

 かなり皮肉っぽい脈絡で「カウンセラー」が引き合いに出されています。

 もし、カウンセラーというものが、社会の大多数の人から、クライエントさん(カウンセリングに来られた一般の皆様)から悩み相談を受ければ、答え一発、適切なアドバイスをしてくれて、それに従っていれば問題や悩みは見事解決、というふうな存在として、すでに信頼されて来ていたとすれば、カウンセラーは、とうの昔に、弁護士以上に人気が集まり、収入も多い、専門職の筆頭になっていたことでしょうね。


*****


 でも、だからといって、カウンセリングをはじめるにあたって、カウンセラーの方から、


「カウンセリングとはそのような魔法ではありません」


とか、


「あなた自身が答えを見つけていくお手伝いをするのです」

「本当の答えはあなた自身の中に眠っているのです」


などと前もって解説してしまうことに、私は大きな違和感があります。


 やっぱり、どこか、クライエントさんの機先を制して、過剰な期待を抱かないように前もって警告することで、カウンセラーが「自己防衛」しているかのような漠然とした居心地悪さを、カウンセラーである私自身が感じてしまって。


*****


 一見これと似ていますが、
 カウンセリングを始める時に、


「これから、時間をかけて、一緒に考えて行きましょう」


という言い方を添えることもよくなされています。

 私は、この言い方の方がまだしもいいかなとは感じています(^^)


 しかし、そもそも「一緒に考えていく」とはどういうことなのかについて、そのカウンセラーに明快なビジョンがあるのでしょうか?

 少なくとも、一般の人同士が「お互いに知恵を絞って解決策を探す」ということを超えた、カウンセラー側の専門性を生かした「何か」をも意味するはずです。

 このことについての、私なりのとらえ方をこれから述べてみたいと思います。


*****


●カウンセラー側の「思い込み」が少しずつ壊されていくことが、好ましいカウンセリングの必要条件


 カウンセラーにとって重要なのは、学んだ知識とそれまでの様々な現場でのカウンセリング体験に基づき、クライエントさんのや、やり取りの中での反応に基づき、そのクライエントさんについての的確な「見立て」を立てて、「仮説」を刻々と形成していく能力と、その後の展開に即してそうした一度立てた「仮説」を刻々と「修正」し、それに応じて更にクライエントさんへの対応を調整していく能力だと思います。

 仮説を立てる際には、カウンセラーは知識と過去の経験を総動員して、クライエントさんをある「タイプ」に類型化し、シミュレーションしようとします。

 そうした仮説を「修正する」とは何か? それは、カウンセラーが、そうしたいったん立てた仮説と「矛盾する」とも感じられることをクライエントさんの反応や発言から敏感に感受し、拾い上げるということです。

 これは、カウンセラー自身が、それまでの、クライエントさんについての自分自身のそれまでの「思い込み」「錯覚」から目覚める(「脱錯覚」する)ことを自分に許すことができるかどうかというセンスです。

 つまり、クライエントさんの反応が、カウンセラーの予想を裏切る「意外な」方向に向かうという刺激がある程度ないと、カウンセラーは「その」クライエントさん固有の状況や心理に更に迫ることはできない。

 素朴な例を出しましょう。

 名門とされる中高一貫女子校、エリートを輩出し、洗練された人間が多いという大学に入学し、しかも在学中に1年間の留学経験もして外資系企業に勤務した女性がいたとします。見た目も話しぶりも「いいところのお穣さん」ふう。こうなると、カウンセラーといえども、「彼女は裕福な中流以上の家の恵まれた環境で育った」という方向に思い込みやすいわけですね。

 ところが、その彼女が、かなり田舎の酒屋の娘であり、父母ともに際立った高学歴でもなく、酒屋の経営は不安定だった、などということも話し出したら、カウンセラーといえども一瞬戸惑うのが自然でしょう?

 カウンセラー自身がいつの間にか思い描いていた「幻想」=クライエントさんについての「思い込み」が大いに揺るがされるわけですね。

 こうした「理解を超えた矛盾した事実」に直面したときに、冷静さを失わず、むしろ彼女の真実に更に迫れるチャンスを得たことに感謝すらしながら、こうした見かけ上の「矛盾」を大事に抱えながら面接を続け、適切なやり取りを重ねる中で、そうした「矛盾」に適切な「補助線」を引いてくれる事柄をクライエントさんから自然に引き出せるやり取りができてこそ、カウンセラーの専門性なんですね。

 そして、こうしたやり取りの中で、クライエントさん自身の自己理解が深まり、その結果、更に、クライエントさんにも思いもよらないことが思い出され、語られたりして、それがまたもや、カウンセラーに、自明の前提として立てていた仮説の何らかの見直しの必要を感じさせる.....といったジグザグの相互作用が進んでいくのが、クライエントさんにとっても、カウンセラーにとっても好ましい、カウンセリングの展開だと思います。

 こうして、いわば正-反-合の「弁証法的な」相互作用が進んでいくということが、カウンセリングがカウンセラーとクライエントさんの「共同作業」の本質だと私が考えているものなのです。

 敢えて言うと、カウンセラーの「予想を覆す」ことをクライエントさんが語るということが、ある程度以上頻繁に生じてこない面接過程というのは、むしろ何かおかしな状態に面接全体がはまり込みつつある可能性が高いと思います。

 あるいは、カウンセラー側の「思い込み」に反することを、クライエントさんが何も言葉にできなくなっているのかもしれない。

 例えば、カウンセラーの方が、自分の仮説で引っ張り過ぎているために、カウンセラーの仮説を補強する方向の話題しか拾い上げられず、そうでなければ、クライエントさんが自然と語りだしたかもしれない方向にわだいがそもそも向かわなくなっているのかもしれません。

 あるいは、クライエントさんの語ったさりげない言葉の中に含まれている含蓄に気がつかないままでいたり、同じ「ええ、そうですね...」といった応答の声の調子に含まれる、「一応そうとはいえるけど、それだけではない」だとか、微妙な違和感のトーンを拾いきれないままになっている場合も考えられます。

 クライエントさんは、カウンセラーを「先生」と思っていることが少なくないので、一応うなづいて、そのまま受け入れてみようとすることも少なくないであろうことも配慮せねばなりません。カウンセラーの語ることを修正したり、否定したり、話題を転じることだけでも、クライエントさんにとってはなかなか勇気がいったり、タイミングがつかめないものです。

 ことに、カウンセラーの指摘が、そのクライエントさんが普段から思い悩んだり、「そこを衝(つ)かれたら痛い」と感じている点だったりしたら、なおさらのことです。

 仮に、クライエントさんが否定的にのみとらえすぎている点を、さりげなく評価する発言だったとしても、その段階のクライエントさんが受け入れるには、まだ早すぎるという場合もあるでしょう。「先取りのし過ぎ」も、面接の流れをおかしくすることがあるのです。


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 実は、カウンセリングの醍醐味は、カウンセラーのいかなる予想とも、クライエントさん自身のいかなる予想とも異なるけれども、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、専門家であるはずのカウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような展開が道後のやり取りの中で生じることなのだと私は常々思っています。

 クライエントさんだけでも、カウンセラーだけでも、注意を向けなかったようなところにどちらからともなく立ち止まり、それをきっかけに新たな認識の地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 二人とも、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、カウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような、新たな地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 これは、カウンセラーとクライエントが「共に流される」ことと似ているようで、実は異なる「何か」です


 つまり、カウンセラーにとってですら、それまでのやり方がそのまま通用し、何ら新鮮な体験を伴わないような面接が繰り返されるようなら、それはカウンセリング経験が深まり、ある一定の境地に達した結果などではなく、むしろそのカウンセラーのカウンセリング能力が「硬直」し、「形骸化」する弊害の方が大きくなり始めた兆候であるとすら、私は考えます。

 カウンセラーの言った事に対して、クライエントさんが「いや、そうではなくて....」と口にして言ってくれたら、むしろそのことをクライエントさんが与えてくれた絶好のチャンスと感じられること。
「まさにそのとおりです」といわれたら、クライエントさんは無理してカウンセラーに迎合している可能性も一応疑ってかかるくらいが、いい塩梅(あんばい)だと私個人は感じています。

 .......もっとも、このことを大事な信念としているはずの私であるにもかかわらず、いまだに「思い込み」のままに面接を進め、クライエントさんに違和やご不満くすぶっているケースもまだ結構見られる気がいたします。

 どうか、そういう際には、面接の中で、遠慮なくご指摘いただけることを祈っています。


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 こうして私は、面接の中で、クライエントさんによって、カウンセラーですらも、自分の思い込みから少しずつ目覚めさせられていくものだということを述べてきました。

 これは、カウンセリングとは、カウンセラーの方が、客観的な見方をできていて、クライエントさんの方は、自分の一面的な、あるいは、歪んだものの見方を修正されていくもの、という、常識的な考え方に敢えて一石を投じるつもりで書いてみたものです。

 
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 例えば、行動療法ですら、行動計画をクライエントさんが実現できない壁にぶつかった時に、クライエントさんに実現可能そうな、更に小さな行動ステップをクライエントさんに「創造的に」提案し、新鮮に受け止めてもらえ、セラピストとクライエントが協力して達成しようという関係性が成立した時に効果が目覚しいのではないか。

 山上敏子先生の行動療法の事例報告に触れる度に私が感じることですが。


 認知行動療法のセラピストですら、ほんとうの達人の先生方は、このこと....つまり、クライエントさんからの話を謙虚に傾聴し、思いもよらない次元の話をたくさん聞かせてもらってはじめて、そのクライエントさんの心情や状況にほんとうにフィットする、無理のない提案ができ、クライエントさんにも、率先してやってみようと感じてもらえ、モチベーションを高めてもらえることを、よくわきまえておられる気がしてなりません。
 


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◇この問題について更に関心を深めたい人にお勧めの本:

●ユング「心理療法論」林道義 編訳 みすず書房

 この本の更に詳しいご紹介と、いくつかのユングの文章の抜粋をこちらの記事で詳しく紹介しています。

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2008/08/03

久留米フォーカシング・カウンセリングルーム 公式サイトはこちら

 久留米での開業再開情報です。


 久留米フォーカシング・カウンセリングルーム 公式サイト

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2008/07/24

流派を問わず、すべてのセラピーは、まずはセルフセラピーとして学ばれるのが自然ではないのか? (改題)

 フォーカシング関係者の皆様に向けては、 私自身の気難しさや関係作りの下手さも大きいので、今更愚痴めいたことは書くつもりはありません。
 
 自分で言うのもおこがましいかと思いますが、ある意味で天才肌でマイペース、一緒に伸びて行こうという姿勢をとれなかった私を、さぞ扱いにくかったろうと想像しています。

 このことは今後の糧とし、私の今後のあり方に反映させていくつもりです。

 これからも、どうかよろしくお願い申し上げます。


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 それでも少しだけ、現状についての思いを。

 以下の話は、ことフォーカシングおよびフォーカシング指向心理療法のセラピスト、カウンセラーに留まらず、すべての社会領域で活躍する援助職の皆様、とんな流派に属するかにかにかかわりなく共通する問題としてもお読みいただけるかもしれません。


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 以前、日本を代表する、ある他流派のカウンセラーの方(開業としても成功しておられます)に言われたことがあります。

 「日本のフォーカシングの世界の不幸なところは、最初から大学の先生方が中心となって研究実践がなされてきたことではないかと常々感じている」

と。

 フロイトをはじめとして、多くの精神療法の創始者は、大学ではなく、開業や、自分の「臨床現場」を中心としていた人たちでした。そして、大学の外で、自分の流派の運動を発展させ、後継者を育てていきました。

 
 日本でも、大学に招聘される前に、まずは自分の臨床現場で専門的な技量を磨いた先生方が開拓されて来たことが少なくないかと思います。

 最近でこそ、臨床の指定校大学院には、さまざまな専門や流派、さまざまな専門領域のの先生方からの教育を受けられる環境が整備されて来ていますが、それ以前は、九州大学など、格別に恵まれた大学を除いては、詳しい情報はほとんど知らないまま、自分の入った大学の先生が専門にしている流派中心の教育を受けることが少なくなかったかと思います。

 そして、自分の先輩の先生方がその流派、その専門領域(児童発達臨床なら児童発達臨床、障害者臨床なら障害者臨床)に強い関心を持ち、経験を積んでいている「から」、卒論や修論をその領域で書く、という学生さんが少なくなかったし、今もその傾向はかなりあるのではないかと思います。

 もとより、それに違和感を覚え、早くからいろんな臨床家のセミナーや勉強会に出席したり、領域別の研修会やワークショップに通ったりして、多様な研鑽を積んで来た皆様がたくさんいるのは承知しています。実際に現場に出たら、その領域についての修行が必要になったというきっかけがある人も少なくないでしょうし。

 何年も何年もいろんな領域や流派に関わっていき、いろんな現場経験を積む中で、自分の方向性が定まってみたら、すでに30代も終わりつつあったというのでも、全く自然なことかと思います。

 そして何より、一度現場に出たら、日々の仕事に忙殺され、新たな学びを定期的にみっちりと積み上げるための時間と労力、お金と気力を捻出し続けるだけでも、たいへんであろうことについても、想像に余りあるものです。


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 しかし、私は思い起こして欲しいと思っています。

 カウンセラーを志した皆さんは、多かれ少なかれ、自分の人生に迷い、悩む経験が、この職業を選ぶ少なからぬ要因になっている、という「原点」をです。

 フロイトですら、ユングですら、この問題に生涯向き合い続けました。

 単なる「知的専門職」への憧れ、ましてや高収入への憧れ(これは現実に反する)、あるいは人々の助けになりたいという思いから心理カウンセラーを目指した人は少ないと思います。

 まずは、自分の人生の悩みを解決していくのに役立つ形で心理療法を学んで欲しい。

 そのことに役立てるように、自分にしっくりくる方向に、心理療法を、セルフ・カウンセリングとして身につけるつもりで。

 これは、ことフォーカシングに留まらず、例えば、行動療法だって、箱庭療法だって、プレイセラピーだって、みんな同じだと私には感じられます。


  流派を問わず、適用対象を問わず(!)

  すべてのセラピーは、

  療法家自身の「内なるクライエント」のためのセルフセラピー

  として「まずは」身についていくのが自然なはず


と思います。

(例えば、慢性統合失調症患者向けのセラピー、広汎性発達障害の人向けのセラピー、老人向けのセラピーであったとしても!!)


 自分個人の人生に役立つという実感がないとしたら、あるいはそのことと矛盾するとしたら、適切な学び方、いや、「身につけ方」に至っていないということかと思います。

 自分自身のために身に付く、役立つ、ということを抜きにして、人への療法の腕だけを磨き得るということは、原理上あり得ない。

 そして、そうやって自分のものになって、自分に役立っているということを評定するのは、あなたの師匠ではなく、あなた自身の実感だということを忘れないで下さい。


 これは、特にクライエント中心療法の流れを汲むセラピーを学ぶ人たちにおいては当然のことでは?

 「クライエント中心」とは、
 セラピストにとっての「クライエント中心」ではなく
 クライエントにとっての「クライエント中心」にならなければおかしいと思います。

  まずは、
  あなた個人の「内なるクライエント」の
  役に立っている実感があるもの

  成長させてあげないと。


 そのための「内なるセラピスト」の養成過程として、

 いわゆる「教育分析」や、自分が本気で自分の流派のセラピーを受ける経験があるのだと。 


  あなたが、あなた自身のために役に立つことをしてあげられなくて、

  どうして人の役に立つなどということができるでしょう? 


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2008/07/21

関東時代の総括はまだまだ続き、「新天地」福岡での構想にまで進む(^^)(第3版)

 こうして、大船でのカウンセリングルームを閉じた今、久留米への引っ越し関係の雑用が徐々に増えるのを別にすると、私は、利用者の方へのフォローアップ、そして、関東圏で、私とプライベート次元でな名残りを惜しみたい数名の人たちとの交流を除くと、特にこれから数日は、ゆっくり荷造りをしながら、もはや経営上のストレスから解放された形で、久々にこのブログの記事を思う存分書くことになりそうである。

 ここ10日ぐらいの私の記事が、これまでになく「吹っ切れた」書き方の記事が多いと、友人も言ってくれている。自分でもそうだなと感じています。

 そして、それは、大学入学以来、これまでの30年間におよぶ関東時代の総括となるばかりではなく、「移転」してから、これまでの3年の試行錯誤を生かして、私の「フォーカシング・カウンセリングルーム」を故郷久留米に「移転」してからの無駄のない構想を自分の中でブレーン・ストーミングし、(敢えて言います)九州の皆様に「前宣伝」する意味をも込めて書いていきます。


*****


 故郷久留米は、福岡県の中南部、九州第一の広さを持つ筑紫平野(筑後平野)の中心に位置し、人口30万を超える、「地方中核都市」に指定された中都市です。

 福岡市までJRあるいは西鉄の特急で30分(2年後には九州新幹線でわずか12分)、佐賀市までバスで40分、福岡空港から高速バスで45分、熊本市からも現行の在来線L特急で50-60分、あるいは大牟田での西鉄大牟田線への特急乗り換えでも90分以下、南端の鹿児島市からも、新八代で九州新幹線から在来線特急への乗り換えで、現状ですら2時間を切るのですね。

 つまり、ネットでの申し込みが多い経験値を生かそうと思う私の場合、おいでいただく方を九州一円からとみなす戦略が可能です。

  ...といますのは、私の大船時代の利用者様は、せいぜい10キロ以内の、鎌倉市・藤沢市や横浜市南部からおいでの方が半分近くを占めました。そして、湘南新宿ラインの恩恵か、栃木/群馬から一気においでの方が結構おられました。そして、長野・新潟などの遠隔地からはるばるおいでいただいているかたもあるという具合でした。これもインターネットの影響かと思います、「地域密接型」と、遠くからのお客様を兼ね備える形になっていました。

 これは、ひとつには、私が一方で、狭い意味での心理療法の枠にとらわれない「町のカウンセラー」としての通常カウンセリングと、フォーカシングのトレーナーと言う二つの顔を持っていたせいもあるでしょうが、かといって、「近郊から=通常カウンセリング」。「遠方から=フォーカシング」と単純にタイプ分けもできませんでした。遠いところからおいでの方も、通常カウンセリングご希望の方が結構おられたのも確かです。

 それまで自分の受けていた精神医療や、カウンセリングにしっくりこなかった皆様は、23区を飛び越してでも、ネットで見つけた私に希望をつなぐということは、かなりみられたのです。

 恐らく、23区にお住まいの方は、わざわざ横浜の更に先の、大船までカウンセリングに通うというのは想定し辛かったのだと思います。東京都や神奈川県の多摩地区から「南北に向かう」鉄道網が乗り換えが多いことも災いしていたのでしょう。意外と、小田急沿線で藤沢乗り換えでおいでの方もありました。

 しかし、この特性を久留米でもそのまま生かしたいと思っています。久留米の方が、トラフィックと本数が多い交通網がほぼ放射状に各地に伸びているだけ有利な面もあるかと思う。

 もっとも、こうしたわけで、久留米を衛星都市と見なしがちな百万都市福岡からおいでのお客様は、意外と、期待通りには行かないだろうとは覚悟しています(^^;)。 


****

 福岡の地は、精神医学、精神分析、カウンセリング全般において、関東圏や名古屋、関西圏に全く見劣りしない古くからの伝統を持つことは、専門家の方ならご存知でしょう。フォーカシングの研究実践も、まずは九州大学を中心に始まりました。

 久留米大学医学部そのものが、日本の医療系大学の雄のひとつであり、医者がたいへん多い地域でもあります。久留米大学には、臨床心理士の指定校大学院もありますしね。

 上京した30年前に痛切に感じたのは、久留米という都市は、コンパクトながら、地域の中核都市として、何を買うにも不自由しないだけの「自立性」「集約性」があったという思いでした。山や川の自然にめぐまれ、昔ながらの田園風景も間近である一方、全国チェーンの大規模店進出もこの30年の間に急増した現在では、ヤマダ電気も2店、紀伊国屋書店も間近にある。

 でも、私設開業カウンセラーは久留米広域圏にはまだ「非常に」少ない。

 関東地区は、開業カウンセラーが多すぎるともいえます。

 その結果、これまでの開業経験に学んだ形で経営戦略も思い切ってシェイプし、宣伝戦略も無駄なことはしないつもりですから(オフィスの新ウェブサイトははるかに「読んでためになる」整理されたコンテンツにするべく構想中)、控えめにみて、開業3年で到達した経営水準に到達するまでなら1年かからないと感じています。

 もう暴露してもいいでしょうけど。これまでの私は、自宅とオフィスの賃料、計月15万円を背負っていました。そもそもこの状態で黒字経営に到達するまでが大変だったのです。給料のよかった明治学院大学学生相談センタ―時代の蓄えをひたすら切りくずし続けたのですね(^^;)


*****


 もっとも、私は久留米に帰ってからは、非常勤職や派遣カウンセラーとの兼業も積極的に考えようと思っています。週何日かなら、福岡市は当然のこととして、熊本や佐賀、いや北九州市での勤務ですらいとわないかもしれません。

 大学の非常勤講師でも、私の専門だった大学学生相談のカウンセラーでも口がみつかれば再チャレンジします。私にとって守備範囲に入っていなかった、子供や発達障害や老人の援助の分野もチャレンジできるならやりたい。そして、このブログの読者の専門家の方にはかなり意外かもしれませんが、私は生粋の病院臨床の経験がないのです。福岡県臨床心理士会にも早速加入すると思いますので、皆様どうかよろしく。

 よく福岡市での学会のために久留米の実家に帰省して通いましたけど、関東圏の、通勤1時間半でも誰にも「大変だね」と言ってもらえない関東暮らしが長い。九州のラッシュアワーなんて東京の比ではないとしか感じない感覚がありますからね。

 しかし、開業「も」するということは決して手放さないでしょう(^^)

 そして、私は他流派や、臨床心理士ではないカウンセラーとの連携も具体的に視野に入れています。

 
******


 もちろん、成人直前から福岡との地縁はほとんどなくなり、九州で臨床のキャリアを積んだ訳でもない私がすぐに臨床系の職にありつけないことはあり得る覚悟でいます。

 その結果、当座をしのぐため、私が思いもよらない業種でアルバイトをすることすら、むしろ好奇心を持って今は楽しみにしています(マジ!!) 私って、そういう点ではいらぬプライドはないつもりだし(爆)

 浜崎あゆみの郷里は福岡市で、ライブツアーも必ず開かれるから、ayu様から遠のいたとは全く感じまい(^^)

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2008/07/15

前の記事で書いたことは、(第2版)

ある意味で、フォーカシングで、アン・ワイザーさんが、

"Inner Relationship"(内的関係性)

=自分の内側に生じてくる身体の感じや気分や気持ちやさまざまな思いを対象化して、
 それらを無理のない距離感でひとつひとつ「認めてあげて」、「共に居られる関係」をじっくりと作ること

 (フェルトセンスからのメッセージを無理矢理引き出さないままで)


を、現実の「外的」他者との関係に逆応用したとも言えることに、お気づきの方もあるかと思います。


 ......そのようにも受け取れる、ぐらいにご理解ください。

 私は、技法の杓子定規な応用は嫌いな人間です。

 むしろ、私の経験から出てきたものであると受け止めていただければと思います。

 
 フォーカシングを身につければ、このことはより無理なくできるでしょう。


*****


 ちなみに、

 もし、「一緒に居るのが苦しい」とい気持ちが自分の中に出てきたら、

 そのような気持ちが「私の中のある部分」にあることを静かに「認めてあげて」、

 その「一緒に居るのが苦しい」気持ちを感じている部分と、無理ない距離感で「そばに居て」あげながら、

 目の前にいるその人と「ともかく一緒に居て」あげるようなつもりになってみるのはいかがでしょう?


 更に言えば、特に意識はしていなかったが、私の尊敬する山上敏子先生行動療法(暴露反応妨害法)の影響もあるかと、まさにこれを書いていて、感じたのです。

 「自律訓練法」や「形成化(シェイピング)」的であると申し上げると、「暴露反応妨害法」そのものはご存知ではない、心理学に詳しい方にもある程度想像していただけるかもしれない。

 更に言えば、斎藤環さんが「社会的引きこもり」で述べられた、オートボイエーシスを背景にした、実践的処方箋の影響もありそうです。

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2008/07/14

治療は患者の権利であって義務ではない。

昨日の朝、長い夢を見た。その夢の最後で、関東でお世話になったある先生との対話の中で私の中に思い浮かび、自分でも得心した途端に目を覚ました言葉である。

ここでは、私はカウンセラーを生業としているのだから、当然心理療法を含むセラピー全般をまずは指しているのだが、どうも夢の中の私は、そこに薬物療法も含意していたようである。

ひろく医療全般にすら拡張してみると興味深いのだが。


*****


例えば、鬱状態を「治療する」のは誰のためなのだろう。

家族や職場などに「迷惑をかけない」ためなのだろうか?

職場復帰のための労働者としての「義務」なのだろうか?


認知症の治療は家族や社会に悪影響を与えないとことまで老人が回復する「義務」があるからか。

医者や心理療法家は、患者やクライエントを「治癒すること」(健全な生活に戻すこと)を強いるのが「正当」なのだろうか?


カウンセラーや精神科医の提起した、成熟や人格的成長についてのある具体的な到達目標を、クライエントや患者は目指「さねばならない」のか。

社会に害悪をもたらす犯罪者や、働かない人間は、「セラピー」によって改善されることを甘んじて受けねばならないのだろうか。

患者やクライエントさんは、治療者の意図する治療目標に同意し、協力する「義務」があるのだろうか?


*****


単に社会的身分や給与や休暇の保証、治療機関や治療スタッフの整備という観点を超えたところで、個々人の行使可能な「権利」の保証という観点から、治療を受けること、カウンセリングを利用することをとことんとらえてみたら、どうだろう。

ひとつの逆説として。

肉体的/精神的健康とは何かを我々は専門家から押し付けられ、それに従わねばならないのか?

あなたは、医者やカウンセラーの言われるがままに「治されねばならない」のか?

「治したい」と思わねばならないわけではない。


現状の精神的/身体的な苦悶や苦痛や差し障りを、自分なりに「何とかしたい」ので、あなたが精神科医やカウンセラーを専門技能者として「雇う」のである。

その「雇用費用」を補償したり援助したり調整したり肩代わりするために、企業や団体や行政機関やNGOが資金を出したり、専門家を「雇い」そのための場と機会を整備するのだとすれば?


.........以上、ひとつの思考実験として。

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2008/07/11

開業の跡継ぎが開業なのはごく普通のこと。

お医者さんならそうですよね。

教師もそうかな?

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●【大分教員採用汚職】「組織的」反論できない 県教育長謝罪(msn=産経)


 これ、大分県だけで特別とは思いにくい。もちろん、実力と誠意ある教師が能力と資質だけで適切に採用・昇格されていることも、個々のケースでは全国たくさんある、そういう先生方がのほうが多い都道府県もありそうにも思います。

 更にいえば、こうした裏金に関係した教師も、教師としては、同僚や地域や父兄や生徒の評価が高い人もかなり含まれるかと思う。


*****

 しかし、少なくとも、日本の臨床心理士業界は、「親がカウンセラー開業だったから、息子や娘もカウンセラー開業をする」というケースは、まだほとんどないでしょうね。

 
 弁護士税理士なら普通でしょうが。

 同じ「士族」でもそういう基本的ギャップがあります。


 私も、そういう中での、試行錯誤を続ける「先行世代」なのです。

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2008/06/20

「見せしめ」死刑執行は20-40前後の人間の自殺者を増やしかねない(第4版)

宮崎の死刑の是非は置く。

死刑論議にも関与すまい。

ただ、このタイミングでの「死刑執行」が(すでに言われていることらしいけど)秋葉原の事件を受けての、早速の「見せしめ」効果を狙ったと受け取られてもおかしくない(少なくともそう受け取られる可能性が高いことを承知で出さないとすればおかしい)あたりを「うさん臭い」と思うのは全く自然なことと思います。

はっきりいって、それを狙ったとすれば、現代日本とは、何とも「野蛮な」仕方で治安を守る、中世前期ヨーロッパの異民族との戦争クラスの前近代的な社会でしかない。

今は「モーロ人」と戦ったシャルルマーニュやエル・シドの時代ではないのである。

「異民族」に新たに虐殺された見せしめに、ずーーーっとロンドン塔かバスティーユに監禁していた「その異民族」の「有名人」を公開処刑したようなもので。

何か、最近の「正論」って、ものごと割り切り過ぎて自分もその正論の犠牲者になる可能性を考えてもいない気がする。

そこで政府の政策(あるいはポピュリズム的世論)の支持をしても誰もそのぶん自分たちを助けても援護してもくれないよ.....といいますか。


ユングの「影」や「相補性」の概念を持ち出すまでもなく、


「私は『あいつ』のような人間ではない」


という論理よりも、


「自分の中にも『あいつ』と同じようなところがある」


という感覚がある人間の方が,結局は強い
気がしてね。

*****


かつて、東京埼玉幼女連続誘拐殺人事件で宮崎が逮捕された日の報道が「おたく差別」になる危険を、逮捕の当日の夕刊を各紙買い占めて読んで、その晩のうちに朝日新聞「声」欄に投書し、数日後掲載された人間として。

私は、あの投稿をしたその日から、自分はカウンセラーだから彼とは異次元だ、なんてただの一度も感じたことはない。

もっとも、宮崎のことを「多重人格」という方向で鑑定しようとした人たちは、精神医学の中で蓄積された「多重人格」という診断の価値を「安く」してしまった張本人だと思う。

ちょっとした臨床家なら、あそこで「多重人格」の診断を持ち出すことが「あまりに素人臭いアマチュアリスム」の次元だと気がついた筈だ。

精神医学の世界ですら、明らかに診断に「流行」がある。

鬱病は古代ギリシャから普遍的に観察された病だが。


いや、およそ社会に置ける新しい概念は「過剰使用」されたあげくバブル崩壊して見事な値崩れを起こす。

何でもかんでもその概念を当てはめるうちに、別のものに化けるのだ。

「地球温暖化」や「グローバリスム」ですら、20年後には陳腐な概念として振り返られるかもしれない。

いつの間に「アダルトチルドレン」は差別語になったの?

*****

すでに公開されている情報から見る限り、彼には責任能力はあったと思う。ただ、拘置の過程で抗禁性精神病状態に入っていた、あるいは、いろいろな人が勝手にいろんな診断をする中で、彼自身がそれに振り回されていよいよ混乱していった(あるいは彼の中のよこしまな心を更にかき立て、更に邪悪にした)可能性は否定できないだろう。

敢えていうが、彼がこのタイミングで見せしめ的に死刑執行されたことで、実は、45歳前後以下の世代のマジョリティすら持っている危機的な「何か」が一緒くたに「葬り去られた」気がする。

法務大臣は、今後仮に無差別殺人は減ったとしても、20代から40代の自殺者はぐっと増えかねないことをやらかしている気がしてならないのね。

オイルショックの頃、石油に限らず、世界中の資源がまるで21世紀初頭にすべて枯渇してしまうみたいな「政府公報」が繰り返し流されていたことを忘れない世代として。

「それが世界の潮流である」

ということは、その潮流に乗っていたら社会がうまく行くこと、自分も生き残れることはみじんも意味しない。

30年スパンで見たら、笑いたくなるくらいに「世間の常識」は変動しているということ。


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宮台さんが自分のブログで、


●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。(MIYADAI.com Blog)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=652

として載せている原案、「社会包摂性」ということがキーワードとされています。

宮台さんなりに、最近の状況について、単に「評論」するのではなく、社会的に「コミットメント」しようというスタンスを感じます。

「フリーター」という言葉に変わって「ワーキングプア」という言葉が一般化するまでに、実は2年もかかっていないということ。

少なくとも20代後半から40代前半ぐらいの世代って、誰からも具体的な処方箋を政治水準では提案してもらえないまま、責められるばかりになっている気がします。

それを超えていくパラダイムを日本社会に提示しようとしているだけで、その心意気は買いたいですね。


******


恐らく、私の世代は、実の親が、単に「銃後」ではない、大陸での戦争の現実を体験し、背負いながら戦後を行きてきたことを肌で感じている最後の世代かもしれない。

団塊世代よりも前の世代の「戦争体験者」感覚が、自分の中に濃厚に生きているのを感じる。


私の祖父は、関東軍の軍属で、ソ連の戦車におわれて引き上げる中で、何か非常に不透明な状況下で「殺されて」いる。父も銃で死んだ死体しか観ていない。

父親の兄のひとりは、現地で徴兵され、阿片窟で死んだことは歴史資料からほぼ確実らしい。(父親が長年かけて史料を読みあさり、執念で突き止めたようだ)

「阿片窟」で連想する映画といえば「ラ・マン(愛人)」ですが。

生き残った父と祖母は、昭和21年まで1年間大陸で生き延びた。

その優しくも気骨があった祖母こそが、私の中にある親より上の世代の「原像」であり、私の高校時代までの人格形成に大きく影響していると思う。

引き上げた先の福岡の実家は、東京生まれですぐ大陸に渡った父にとっては「故郷」ではなく、「異郷」だった。

私は,私なりに父親の身体に染み付いた「闇の部分」を引き継ぐだろう。


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昨日、「愛と哀しみのボレロ」(Les Uns et les Autres)を実に久しぶり(恐らく20何年ぶり)に、しかも完全版で観た。

私の大学学部生時代の映画。

原題と邦題が全然ニュアンスが違う映画としてマニアには知られているかと思う。

"Les Uns et les Autres"って、英語でいえば「"THE WE"and"THE OTHERS"」というあたりか。 直訳だと「私たちと他人」あるいは「俺たちとあいつら」ってとこ? 

実は作品の中で繰り返して出てくる歌のタイトルでもある。


 自分たちと他人
 自分たちと他人

 お互いが他人なのに
 尽くす人は少ない

 理屈ではわかっていても
 救いを求める声を聞き流す
 他人のことを聞き流す

 人は皆平等だけど
 特別大事な人もいる

 ジョージ・オーウェル言うとおり
 他人は他人
 他人は他人
 


 私が学部学生時代に読んだ、反精神医学の旗手、イギリスのR.D.レイン「自己と他者」っていう本(私がレインの本の中で一番親しめた本)のタイトルも連想するけど、これはあながち思い込みではない気がする。


DVDは完全版ではない3時間10分ほどのもの。現段階でVHSビデオ2巻組の中古でしか観れない完全版は4時間です。ビデオの画質は「凄く良好な」部類と思いますよ。DVDにダビングしても良好な画質保てます。ブルーレイ時代の本格突入待つしかないか? 入手難の作品です。

参考までに。確かPart1のビデオが冒頭の予告編付きで2時間25分くらいでヌレエフ(がモデル)のソ連ダンサーのパリ空港での亡命シーンまで。Part2のビデオが2時間6分です。

これ、カラヤンとヌレエフとピアフとグレン・ミラーをモデル(といっても史実とはいろいろ違うが)にした4家族の歴史が交錯する大河ドラマ、というくくりかたが紹介でよく使われるけど、実は完全版まで観ると、ベタン政権とナチ占領軍にゴマをすって戦後一転して転向して大物になった人物とその娘やら、アルジェリア戦争帰還兵という無名の男性4人とそれに絡む男女関係やら、実は「有名人」ではない人々を含む、合計8家族が緻密に織りなす(ひょっとしたらフランス人だとモデルとなる人物がもっといろいろ思い当たるのかも)からこそ面白い、よくこれだけの人数の登場人物の関係を緻密に統合できたと感じる、実に厚みのある大河ドラマなのだ。それが本来のこの映画の持ち味。

少なくともカラヤンのナチとの関係やヌレエフの亡命事件ぐらいは自明の教養水準として要求されるけど、あとはフランスのベタン政権(ヴィシー政権)アルジェリア独立戦争ノルマンディ上陸作戦についての世界史の教科書クラスの知識があれば、この作品を味わうのに何も困らないと思う。

これは完全版で2回ぐらい通して観ると、どんどん味わい深くなる映画だと思います。一回観ただけでは登場人物の互いの絡み、とらえきらないし。

クライマックスの、ベジャール振り付けの、今は亡きジョルジュ・ドンのカリスマ的な「ボレロ」シーンだけがひとり歩きしているけど、このシーンにすべてが結実するこうした数多くの登場人物の歴史こそが本題。いわばその収束的救済のための「虚構の祝祭」がクライマックスということにあるわけで。


*****


この映画に「我がことのように」共感する感性を、現代はもはや失いつつあるのだろうと感じる。


すっと以前の映画だが、私は、「日本の一番長い日」も「白い巨塔」も子供時代に鮮烈な印象で同時代的に観た世代である。


******


何か脈絡が散文的になってしまったが、

ここで書いたことの中に、恐らく今後の私の人生を決める、何かが含まれている気がする。


続きはこちら

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2008/05/22

2009年、第21回フォーカシング国際会議 in 淡路島の公式サイト

やっとご報告できます。

第21回フォーカシング国際会議 in 淡路島

http://www.focusing.jp/conf2009/

2009年5月、淡路夢舞台国際会議場で開催。
5月12日(火)夕食~5月16日(土)ランチまで。

どうかご覧ください。


関連記事:

●速報!! 2009年5月、フォーカシング国際会議、日本の淡路島で開催決定!!


※以下の画像をクリックしてもサイトにリンクされていませんのであしからず!!

21awaji

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2008/05/01

アン先生の本を今頃読み返す -通信教育制作日記(2)-

 今頃、アンさんの2番目と3番目のマニュアルを読み返している(^^;)

念のために言うと、「1番目のマニュアル」とはこの2冊のこと。

●アン・ワイザー・コーネル/フォーカシング入門マニュアル
(村瀬孝雄監訳:大澤美枝子訳)

●アン・ワイザー・コーネル/フォーカシング ガイド・マニュアル
(村瀬孝雄監訳:大澤美枝子・日笠摩子訳)


「2番目のマニュアル」とは、

●アン・ワイザー・コーネル/やさしいフォーカシング
(原著タイトル"The Power of Focusing")
(大澤美枝子・日笠摩子訳)


「3番目のマニュアル」とは、

●アン・ワイザー・コーネル &バーバラ・マクギャバン/フォーカシング・ニュー・マニュアル

(大澤美枝子・上村英生訳)

です。

 (日本での翻訳書の刊行年で言うと、1996年、1999年、2005年となります)


 .........読み返し出したら困ったものですね。

 もう一度精読しないうちに自分のマニュアルなんて書けない心境になってくる。


 .........困った(^^;)


 
 

 


 
 

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2008/04/25

ジェンドリン「フォーカシング」をもう一度読んでみる -通信教育制作日記(1)-

 さて、「ナレッジサーブ」の通信教育講座、装いも新たに

言葉にならない自分の思いって何だろう?
      -実践的「フォーカシング」講座-

として再出発すると、前回の記事で申し上げました。

(ナレッジサーブ事務局からは、「GWを生かして取り組んで下さい」とのお返事。なお、開講の権利そのものは1月からずっと保持したままで、内容を変える権利はあるので、新たに開講の費用はいらないのです)


 今の私のフェルトセンス(自分の置かれた状況全体についての言葉にならない曖昧な感覚)は、そのことを脇に置いて他のネットの書き込みをすることに、猛烈な違和感を表明しております。

 ayuのライブについての報告を一気に怒濤のように書き込んだ時、さすがにこのライブのことを書いてしまわないことには、私の心に余裕ある空間は生じようもないという思いが強いのでそうしたのですが、そのあと、いよいよこのブログに書き込みをすることが億劫になる症候群が顕在化してしまいまして、ともかく生活の中で、エネルギーを浪費せずに。まずは「心身の余裕を貯めたい」という思いが強くなりました。

(それでも、宮台さんの記事関連や、重元さんからのコメントには誠意を持ってレスしたいと感じて、やや強迫的になってしまったのは、もう、私の「性(さが)」としか言いようがなく、途中で「今はこのペースは無理」などと突如申し上げてしまったこと自体、私の自己管理の不行き届きのなせる技と申し上げるしかなく(^^;;;)、重元さんに申し訳なかったと思っています) m(_ _)m  


*****


♪本当に大切なこと以外
 すべて捨ててしまえたらいいのにね
 現実はただ残酷で


.......なんていったら、それこそayuさんの"Dearest"になってしまいますが(今回のツアーの福井でも歌ったのかな? 自分で「喉つぶした」とコメントしていたみたいだけど)。

 単に現実の残酷さに強制される思いばかりではなく(^^;)。今の私が本当に書きたいことは、本部サイトで公開している「フォーカシング入門」(1997)以来10年ぶりに、現在の私のフォーカシングのやり方全体をとりあえず一般の皆様向けに形にしてみたいという思いの高まりでした(前回のは尻切れとんぼでしたし)。

 今度やろうとしている「2008年版」は、著作の草稿にできそうな水準をねらっています。その意味で、有料にさせていただくことに、何の躊躇もありません。

 そこには、このブログ時々顔を出す、日本のフォーカシングのあり方への愚痴めいたものは顔を出させないつもりです。このブログは、フォーカシング関係者も読むという前提があるからこそ、時々そういう本音も漏らすのであり(!)、フォーカシングをお金を払ってでも学んでみようという人にとっては、そんなことどうでもいいし、邪魔になる事柄でしょうから。


******


 さて、今度の「通信教育版」で、無料で読めることになる「第1章」で、今を去ることちょうど25年前(.......そんなに歳を取ってしまったのか、私)、ジェンドリン著「フォーカシング」と偶然出会った時に、私が、「フォーカシングは既成の心理療法と発想が根本的に違う」という感慨を抱き、空から稲妻が落ちてくるみたいに「宿命の恋」に落ちた時のことを書いてみる形で、「フォーカシングの特色」を浮き立たせ、最終的には自己紹介も兼ねる内容の持っていこうと考えたのです。

 そこで、ほんと、10数年ぶりぐらいではないかと思うのですが、「フォーカシング」の、25年前の4月末(!)、本屋で最初にめくって、目に飛び込んだあたりを、新鮮な気持ちで読み返し始めたのですね。

 具体的に言うと、「自分の評論のためにいや気がさしたら」という部分です。(第8章 訳書p.134以下)


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 ここでいう「評論(critic)」とは、今日では「内なる批評家」と訳されることが多い、繰り返し自分を責め立ててくる内なる声のことです。
 

「自分の評論を信じてしまって、それがどんなに嫌な気分にさせているかに焦点を合わせることはしないでください」

「フォーカシングは顔なじみの嫌悪感とは違った、もっと広い何かからフェルトセンスを生まれさせることを含んでいます。古い顔なじみの落とし穴を避けて、後ろに下がり、嫌悪感を一部として含んでいる悩み事全体全体からくる広い感じを組み込むのです」

「フォーカシングは重苦しい情動よりは軽いものです」


.......そうそう、このへん。

(今所有しているのはすでに「3代目」の訳本なので、買った当時の書き込みはもう残ってないのですが)。


 その頃の私は、自分をいろいろと分析して、自分を責め立てることが、自分に対して最も誠実で真摯なあり方だと思い込んでいたのです。

 心理学書をいろいろ読んでいると、自分がなぜこうしてうまく行かないでいるのかについての自己分析だけがどんどん洗練されていくことになりがちです。

 でも、通俗心理学書にありがちな、

「ネガティヴ思考はやめて、ポジティヴ思考になりましょう」

 なんていう言い方って、何か自分に暗示をかけているようで、自分を「思い込ませて」いるだけで、自分が奥底で感じている「何か」から逃げているとしか感じられないでいた私が当時いたことを、生々しく思い出しました。

 ジェンドリンは、著作を通して、深刻に悩むだけでも、自分の気持ち全体に向き合うことにならないことを、私にはじめて示唆してくれたのです。

 これをきっかけに、「真摯に自分と向きあう」ということへのスタンスそのものが、私の中で基本的に変化しはじめたのだと。


******


 読み返してよかったと感じました。

 当時の私が出逢いを夢見ていた理想的なフォーカシングの先生になるつもりで、今の私が説明してあげるつもりになれば、いいではないか。

 今の私が読み返すと、当時の私がどういう点で読んでいて「躓(つまづ)き、違和感を感じていたか、そして、その後の経験を重ねる中で、ジェンドリンが言いたかったあたりの含蓄がどこにあったかが、手に取るようにわかるのを感じ始めています。なぜ、今の私のスタイルが確立されてきたかを含めて。


 .....もっとも、上に書いた内容そのものは、実際の通信講座のコンテンツにそのままは出て来ないかと思いますので、念のため。


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 正直に言って、さすがに4月中に講座をはじめることにとらわれて自分を追い込みすぎると無理が出るかなと感じはじめています。

 でもGWまでかければ、「第1期」開講は、イケそうかなと。

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2008/04/23

ネット通信教育、「実践的『フォーカシング』講座」に変更します。

 以前告知した、「ナレッジサーブ」通信教育(e-ラーニング)について、何回も延期を重ねた挙句、まるで立ち消えになったかのようにも皆様に受け取られかねない状況になっていたこと、私への信頼にも関わることなので、なんとお詫びしたらいいかわからないくらいの心境です m(_ _)m

 熟慮を重ねた結果、「現役カウンセラーキャリアアップ講座」の構想はひとまず先送りさせていただくことにしました。あとで講座を追加することは出来ますので、折を見てきちんと形にしたいと思います。

 この試み、アイデアとして思いついた当初はあっさりと青写真ができたのですが、具体的に内容をどう煮詰めるかとなると、私の中でああでもない、こでもないという「迷い道」に入り込んでしまいました。まだ、まとまった形で言語化していくのには、私の中で機が熟していないと判断しました。


*****


 代わりに始めることにしたのは、

「言葉にならない自分の思いって何だろう? -実践的『フォーカシング』講座- 」

です。


 最初から「どうしてそれをやらないのだ?」という心の声はあったのですが、「それはいつでもはじめられる」という思いが強かったのです。2番目でいい....と。

 しかし、当初通信教育を試みようと思った頃から、4か月の月日が流れ、「大船でフォーカシングを学ぶ会」も数回重ね、既成のフォーカシングのグループに特別講師として招かれたり、個別指導の経験も重ねる中で、私の中で「フォーカシングを伝えるとは何か」という点でいろいろ触発されるものがありました。

 私の開業スタイルが、通常の現場カウンセリングをベースラインに置くことには何の代わりもないのですが、「フォーカシング・トレーナーとしての私」が日々実践していることの具体を、フォーカシングに著作で興味を持っているけれども実際に継続的に学ぶ場を見つけられないでいる全国の一般の方や、日本中のフォーカシング関係者にもっとお伝えし、共有していくことの重要性を、このところひしひしと感じるに至りました。

 文字媒体でお伝えできることは限られています。

 (もっとも、私のガイディングの「音声ファイル」のアップロードも考えています。文字媒体先行で、あとで音声媒体は追加する形になると思いますが)

 1.フォーカシングの全くの初心者で、臨床家でない人にもわかりやすく「勘どころ」がつかんでいただけ、
 2.既成のフォーカシングの手引書の副読本としても活用可能
 3.私の本領発揮である、「ひとりでフォーカシングする」際のコツについての情報満載
 4.すでにフォーカシングを学び、ガイドやリスナーとしての研修を深められている人にも実践的ヒントとなり、
 5.通常のカウンセリングにフォーカシングをどうさりげなく生かすせるかの私なりの提案集でもある

......そうした方向性をめざすつもりです。

 全文、新たな書き起こしで、しかも、フォーカシングをすでに学んで来た人たちにしか通じない表現は可能な限り使わないつもりです。もとより、既成のフォーカシング技法書を読み解く時にも役立つような構成にしますが。


*****


 よく、私のフォーカシングは「個性的な」スタイルだと勘違いされます。

 しかし、基本は、「人格変化の一理論」の時点でのジェンドリンの体験過程理論、著作「フォーカシング」の時点でのジェンドリン法、「夢とフォーカシング」におけるジェンドリンの夢フォーカシング技法、そして、アン・ワイザーさんの「フォーカシング入門マニュアル」 「フォーカシング ガイドマニュアル」で書かれた技法をどのように咀嚼(そしゃく)するかということから離れたことはないという自負はあります。

 ただ、私は、ある教示や用語のパターンに、フォーカシングの学習者のほうが「適応」し、いわば「フォーカシングの世界だけで通用する、内輪の共通理解」になってしまうことを非常に恐れています。

 フォーカサーとしての「その時の」自分自身にぴったりなアイデア、その時のフォーカサーの在り方にぴったりな当意即妙な伝え返しや教示の提案やさりげないアドバイスが、全く新鮮なものとして自分の中から湧き出し続けるのがふさわしい。

 あえて言うと、

「その時のフォーカシングやガイディングの進め方そのものについて、フォーカシング的に言葉を紡ぎ出す」

という領域です。

 それは、単に「型を崩す」ことではなく、実は、「肝心要な勘どころ」を体験的に理解しているからこそ可能な「臨機応変性」だと思います。

 「それ」をお伝えすることに挑みたいのですね。

 可能な限り、フォーカシングの習熟者向けの、用語や概念の積み上げ理解の上に立った説明は回避して!!(このへん、リンクをうまく使えば、「以前の言及箇所」や「用語事典」に簡単に戻れる構成も可能でしょう

 インターラクティヴなメディアという側面がありますから、受講者からの質問や疑問も、受講者のプライバシーを侵さないように十分な配慮をしながら活かしていけたらと思っています。

 (この質問と回答については全受講生にに公開可、この質問については個別の返事が欲しい、などを最初に選んでいただこうかと思います)


*****


 私がひと様に文章媒体で伝えられるものは何か? 私が後進や同輩に残したいものは何か?という原点に立ち返った時、やはり、一番柔軟に、臨機応変だけど、過去の経験値を凝縮したものを、しかし平易な形で書けるのは、この領域なのたと。

 よほど不測の事態がない限り、講座「第1期」に当たる部分は、数日中に始めることを、今度こそお約束します!!

 その具体的な目鼻がつき、改めてここでも告知するまで、よほど興味深い話題がなければ、このブログの記事の更新は控えるつもりですので。

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2008/04/19

転移空間とは、主語と目的語が様々に「変換」可能な世界

 どうも、精神分析で言う「転移(transference)」という概念には、治療的面接場面で、クライエントさんが治療者に向ける感情について、多くは幼少期に遡り得る親に対する感情の反復であるという方向にのみ説明したがる傾向がある。

 わかりやすく言えば、それまで治療者に対して受け身で従順なクライエントさんが、突如、いろんなことについて、治療者に不満を述べたり、意固地になって自分の主張を貫こうとし始めたとする。

 このことを、「転移」解釈すれば、親に対して理想化していて、従順に親の言うことを受け入れて従っていた「いい子」だったクライエントさんが、反抗期に入った時の感情体験の反復ということになる。

 (あるいは、そうしたことを親との関係で体験したことがないとすれば、少なくとも治療場面の中では、そのクライエントさんは、ようやく自我形成過程が進み、「自己主張」や「反抗期」体験をする段階に至った.....というふうにもとらえられるか?)

 しかし、このことを親との関係ばかりに「還元」しようとすると本質を見失うかもしれない。幼稚園から高校ぐらいまでの教師との関係の方が強く反映している場合、あるいはスポーツクラブのトレーナーとの関係(宗方コーチ!!)、いじめの体験、会社の上司との関係、深くつきあった恋人との関係。

 むろん、そうしたものを統括して「これまでの成長過程での『重要な他者』との関係」、というふうにサリヴァンふうに位置づけることはできる。そして、例えば親との関係性の中で自明になっていたものが、そうした「重要な他者」との関係性では通用しなかったことの「認知的不協和」の葛藤処理が大きなストレス要因で、神経症誘発的になっていることもある。

 しかし、その一方、「まさにその」面接場面で、個人としての「プレゼンス(現前性)」を持った治療者と、クライエントさんとの関係性として双方に体験されている、「漠然とした曖昧で複雑な感情体験」を一気に抽象化し、モデル化しすぎて方向付けてしまう危険も常に存在する。

 要するに治療者の「責任逃れ」として、「それは親との関係がここで再演している」という方向に「合理化」しようとする罠にはまる危険もある。

*****

 「今、治療者としての私の中に生じている『この』感情は、ひょっとして、日常の中でのこのクライエントさんとの関わりの中で、ご両親や、職場の同僚や、上司、同性の友人、恋人、配偶者、子供などが体験している感情や居心地と相通じるものなのかもしれない。

 ユング派であれば、個々の具体的な対人関係以外の、「集合無意識」的な元型との関わりも視野に入れるだろう。

 そうした「自由連想」を治療者自身がしていくことは大いに意味があるだろう。しかしそれらは「そうかもしれないし、そうでないかもしれない、少なくともそれだけではないかもしれない」なとという形で、思い浮かぶ度にそういう自分の連想ひとつひとつを「認めて置いてあげ(acknowledging)」、安易に決めつけずに「漂わせて置いてあげる」ことであり、それをクライエントさんに口にするのか、口にするとしても、どういう言い方で、いつ口にするかについては、面接の流れに即して吟味していく必要があるだろう。その面接の中では結局口にしないまま、備忘録的に面接記録に記しておくだけでもいいこともあると思う。

 同様にして、面接場面で治療者としての自分が「そういう気分、居心地」になったことについての個人的要因、治療者として多くのクライエントさんに接するうちに形成された暗黙のスタイルとの抵触の可能性などについての連想も、治療者は、自分の中で「認めておき、漂わせていく」ことができる必要もあるだろう。

 要は、治療者は、面接場面の中での治療者自身の感情体験とそこから生じる治療者自身の連想や感情体験についても「平等に漂う注意」を向け続ける必要がある。


*****


 日本語は、主語(「○○が」)や目的語(「△△に」「□□を」)が非常に曖昧なままでも、脈絡に依存する形で何となく会話が成り立つ側面が大きい。

 これは面接場面でも同じことであり、クライエントさんが、例えば配偶者との関係について、実家および結婚相手ご両親きょうだい自分たちの子供との関係も交えて話をしたら、何が生じがちか?

    「.......そしたら、『そういう言い方はするもんじゃないよ』と言われたんです」

 治療者は、それがてっきり実家のお母さんに言われたことかと思っていたら、配偶者(男性)だったり、それどころか6歳の子供から言われたことだった、更には、以前の面接で治療者から言われたこととしてクライエントさんは語っているつもりだった(そのようにクライエントさんに言ったことそのものが治療者の記憶にない).......などどいうことに、話を随分長く聴くうちにはじめてその「ズレ」に気がつくことなど、どんなカウンセラーでも体験しているだろう。

 そうした行き違いが生じないように、治療者は伝え返しの際に、クライエントさんが間違いを修正しやすい言い方で明確化するとか、脈絡上すこし変だなと感じた時に、自然な形で確認してみることも大事である。

 しかし、そうした「脈絡の読み違い」が双方に生じることそのものが有意味である場合もあるだろう。

 主語と目的語は、いろいろ置換しても一応脈絡が通じることが少なくない点にこそ、私たちがみな転移空間に生きていることの具体的証左であるとも言えるように思う。

 そうした現象を、どのように治療的面接場面で資源として活用するか。そこにこそその治療者の経験とセンスが発揮されるのではなかろうか。


*****


 以上の内容、恒例、セーイチさんのブログ、『発展途上臨床さいことじすとの航跡 blog版』での私のコメントをきっかけとして参加者の皆様とのやりとりの中で熟成されたものです。ありがとうございます。

 今回は、そこでのコメントとは別に、気持ちも新たに書き起こしてみました。

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2008/04/13

鬱の自己認識の難しさ

●うつ、受診は4人に1人=周囲や掛かり付け医の役割大-ネット調査 (時事通信)

 うつ病やうつ状態の可能性がある人の4人に1人しか医療機関に掛かっていないことが、12日までにファイザー社のインターネット調査で分かった。受診への抵抗感がいまだ根強いことが浮き彫りになった形だが、家族や友人らに相談することで、受診率は大幅に向上した。

 調査に協力した中込和幸鳥取大教授(精神行動医学)は「自分がうつだという判断は難しく、家族や同僚、掛かり付け医など周りの人が気付くことが重要」としている。

 調査は、うつの認識などに関する一般の人を対象とした調査と、治療実態や満足度に関する患者調査の2種類。昨年2月と3月、それぞれ4000人、1000人を無作為抽出し実施した。 


 いくら製薬会社の調査だからといって、こういう調査を、抗欝薬による治療を増やしたいための陰謀....と勘ぐる必要まではないでしょう(^^)


 実際、鬱の「自己認識」そのものが結構難しいと思う。

 「オレって今日はプチうつなの」

などと、日常会話で普通に使われる一方、「無気力」たどか「疲れがたまっている」「一時的なショックの後遺症」だとかいうふうに、周囲も本人もずっと自己認識しているようなケースの中に、臨床家の多くが「うつ状態」とアセスメントする可能性があるケースはかなりある。

 また、観点を変えれば、

 このブログの

●欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている

が、ベスト20に80週以上ランキングを続ける背景には、やはり、世間のありがちな「鬱」へのイメージに、対して、未だにこの記事を新鮮と感じてくださる方が尽きないことの証明なのだと思います。

 私がこの記事で書いたのも、鬱を「ある観点から照射した」ものであるに過ぎないはずなんですが(^^)

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2008/04/07

「人権擁護法案」賛成派・反対派の中の「ある部分」は、「自分たちの」言論や行動を非難されないことにしか本当は関心がなかった?

 ちょっと、公私ともに、リアルワールドでの、自分の「道」が見えてきた見えてきた気がするんだけど、それを実際に歩き始める前に一言。

 結局、人権擁護法案に反対していた人たちのある部分って、自分の発言行動について、他の人たちから抗議されたり責任追及されるのが嫌な人たちの自己防衛に過ぎなかったのかな.....と、今では感じています。

 もっとも、その一方、通したかった人たちも、自分たちに反対する言論を封殺したかっただけなのかもしれないけど(^^;)

 このへん、一時期、ちょっと状況分析不足で「巻き込まれ、流されて」いる形になっていたのかな.....という反省はあります。


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 村上龍さんが、ビデオコラム「龍言飛語」の

RVR 日銀総裁を決められない国
RVR 日銀総裁を決められない国

RVR 土浦8人連続無差別殺傷事件
RVR 土浦8人連続無差別殺傷事件

で、「国家のため」とか「国民全体のため」ということは幻想で、実は自分たちを支援する階級や組織や業界にとって有利な政策(その一方不利益を被る人たちは必ず出る)を掲げた「対立」陣営のぶつかりあいであり、「誰の利益か」をの「利害関係」をオープンに示して比較して政策論議をしない日本の政治やメディアのあり方に異議を呈していたことも思い出します。

 道路行政絡みでガソリン暫定税率継続に失敗したと思ったら、それとまるで入れ替わるように、今度は、「煙草を値上げすれば税収が大きく増える」という話題が大きく取り上げられる。

●【正論】日本財団会長・笹川陽平 9兆5千億円の新たな税収(MSN=産経)

 煙草の害の問題そのものよりも、実は「世論の」少数派、「経済的弱者」から税金を巻き上げればいいという意識を背後に感じて、ちょっと違和があります。

 自分がスモーカーだから言うだけではないつもりだけど、健康の被害の危険を感じつつ、できるだけ煙草が嫌な人を脅かさないように従順に分煙に従いつつ、「ここで煙草を吸ってもいいですか?」と喫煙車でも周囲に気兼ねをしつつ(新幹線のN700系や近鉄その他の新しい特急での「喫煙スペース以外完全喫煙」にも従いつつ)、ひと箱300円の煙草にやっとのことで日々の癒しを感じるのが精一杯の人たちを、「悪者」「嗜癖を断ち切れない弱い人」に決めつけて税金をしぼり取ればそれでいいのか?

 未成年の喫煙を減らせる、というけど、減らしたらそれだけで若者が健全化するなんてのは妄想の域。凝りもしないオトナの気休め。

 先日も、土浦の凶悪事件の現行犯逮捕の容疑者が「ゲーム好き」だったこと繰り返しあげつらわれていましけど。
 東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件の頃から何も進歩がない報道の姿勢。

 以前も書いたけど、私はあの、「おたく部屋」が2面抜きで各紙の夕刊に踊った直後、それらを買い集めたその晩のうちに「私は大学学生相談やってる臨床心理士の現役バリバリアニメファンなんだけど」と、当時としては「捨て身」に近い形で、朝日新聞への実名投稿して(そのこと知らせたら、うちの母なんてマジに私が社会的に抹殺される心配をした)、こうした「おたく差別」の危険が大きい報道に即日抗議して掲載された最初のひとりのひとり(?)だものね。

 タバコ1000円の話題が出る度に、喫煙者(もちろん未成年以外の方がずっと多い)のストレス増加の及ぼす社会的・経済的影響を、「健全」らしい「オトナ」社会は引き受けられるつもりなんだと言いたくなるし、未成年のことは言うけど、タバコひと箱買えることに小さな幸せを感じる日雇い労働者や凄いストレスに耐えてるサラリーマンのことはいわないもんね、とか。火事が減ると言いつつ飲酒運転の事故比率は言わないんだとか。

 そんなことやってると、覚醒剤の代わりに、アジアの奥地のどこで生産されたかわからない、「公的に認められた」すんごく高い煙草よりは安いけど、質の悪い、成分も怪しい「闇煙草」が、闇組織の資金源として日本でも流通する時代が来て、喫煙露呈だけで「犯罪者」として疑われ摘発される時代が来て、禁酒法時代のアメリカの繰り返しにならないか? などとも想像するのです。

 政治家に根強いスモーカーがいるうちはそうならないかもしれない(爆)
 そのうち「禁煙運動を進めていた某政治家が実はプライベートでは煙草を吸っていた!!」ことが写真週刊誌でスクープされ、スキャンダルになって、それが原因で「閣僚辞任」するなんてことが普通の時代が来るかも(^^;)

 そしてその背景には、

 「あいつを失脚させるために週刊誌に喫煙している時の写真を流せ」

などという政敵の裏工作があったりして。

 .........もっとも、今調べたら、この辺については、すでにネットでもいろいろ賛否の議論はやり尽くされているようですね。私の発想法もありふれている平凡なもののひとつに過ぎないのかも。例えば、

http://aol.okwave.jp/qa3840518.html


 メタボ問題も、「健康食品」という、原価との関係が怪しげな業界に金を落とさせるのに貢献している側面がある。そういうもの「わざわざ買わなく」ても、健康な食生活にちょっとした「節約」「自炊」の工夫で切り替えられるのにね(そのことを、自炊中心にシフトして、血中脂肪がみるみる減少して、身体が「思春期以降、かつて体験したことがないほど」楽になることで体感中のこういちろう)。

 情報に流されないで、自分が誤まる危険を引き受けた上で、自分の考え方、感じ方を示し続けることって、しんどいけど、やはり必要だと。

 自分の中の「言葉にならない違和感」を大事にし、相手の感じる相手なりの「違和感」も尊重しながらコミュニケーションする姿勢。カウンセラーとしても基本として大事だと、再確認。 


******


 最後に、これらのことをハッキリ書いてしまうきっかけとなる、

●稲田朋美タソ

をはじめとするいくつかの記事をお書きの、王子のきつねさんに感謝。

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2008/03/30

受容・共感は大前提だが、クライエントさんはそれを超えたsomethigを含むカウンセラーの「反応」を待っている。

 先日の「治療関係のベースライン」と題する記事を書く中で、私が現実にカウンセリングをする際に、現在、何を大事にする方向に向かっているのか、自分の中でたいへんはっきりしてきた。


 人は、他者から「反応」してもらえることをエネルギーにして、はじめて生きていける。

 セラピストが「反応」しなければ、少なからぬクライエントさんは、面接に言葉にならない不充足感を感じ続けるる。


 もちろん、受容的・共感的傾聴は重要である。ベースラインと言っていい。

 クライエントさんがまだ何かしきりと伝えたいときに、それに割って入ってカウンセラー側の見解を伝えることは、原則として回避され、傾聴を優先せねばなるまい。

 少なくとも「割って入っている」自分の振る舞いを自覚しているべきであり、そのことのリスクについての査定をした上で、「敢えて」自覚的になされるべきだろう。

 しかし、単なるオウム返しや「それはたいへんでしたね」式のセラピストの反応が、単なる職業的な習い性に過ぎなくなった時、クライエントさんはそのことを見抜いてしまう。正確に言えば、感覚的に直感できるというか、身体で感じてしまう。
 
 そうなった時、クライエントさんは、日常の中での困難をじっくりと活き活きとカウンセラーの前で物語り、自分の内面を自分なりに感じ直し、内省していくモチベーションそのものがそがれていく。

 セラピストの「治療的『態度』」という方がなされる時、それは表層的な「ふるまい」であるかのようにとらえられる危険がある。いわば「装い」「演じる」ことが可能なことであるかのように。しかし、「聴き方」「応答の仕方」には、テクニックに還元不能な領域があり、そのsomethingもまた満たされている時、はじめて実質を伴うものとして機能する十分条件となる。

 そのsomethingとは何か。それは、カウンセラーが、面接場面の場の中で、クライエントさんの訴えを聴く中で、カウンセラー自身の中にどんな反応が生じているかについても、敏感で繊細な目ざとい耳を持ち、モニターし続けていられることである。

 フォーカシングで言えば、治療者自身が感じる、曖昧で容易に言葉にならないフェルトセンスである。

 そして、そのフェルトセンスと無理のない関係を、治療者自身が作る。そのためには、治療者自身の中での、その感じに触れながらの言語化、イメージ化、身体感覚の味わい直しの循環運動のプロセスが必要となるだろう。

 これで、クライエントさんへの「非言語的な」反応、あるいはvocal(音声の調子。神田橋先生のいう「鳴き声」だが、元ネタはサリヴァンである)な次元での反応はほぼOKでろう。

 これだけでもクライエントさんにある安全感と、カウンセラーと、ある信頼できる「関係」の中にあるという感覚のベースは作られるし、「必要条件」なのだが、得てしてこれだけでは不十分である。

 クライエントさんは、セラピストの言語的(verbal)な表明の意味内容と、セラピストの刻々とした非言語的な反応、声の調子という「鳴き声」次元での反応がすっきりと一致していること.....要するに、「セラピストの自己一致」が達成されているかどうかに非常に敏感なものであると仮定していいのではないか。

 言葉を換えて言えば、多くのクライエントさんは、それまでの、家族や友人、恋人、同僚や上司などとの関わりの中での「ダブル・バインド」(言葉上と態度の矛盾したメッセージ)に翻弄され、傷つき続けている。

 そして、得てして、すでに医師や他のカウンセラーなどの「援助的専門職」の人との関係の中で、何回も、何回も、、そういう「ダブル・バインド」的態度、「自己不一致ぶり」に遭遇し、「専門家」なるものに警戒的になっている。

 だから、セラピストが自覚的にクライエントさんに示す応答の次元でも、「自己一致」した応答がなされていないことを感受すると、それだけで警戒的、防衛的になる。

 「ああ、また、あの表面上はやさしげで何でも聴いてくれるけど、何かが空疎でわざとらしくて人工的で演技的なカウンセラーの、あの何とも言えない「雰囲気」に遭遇してしまった。「この」空気に呑まれると、私は自分自身ではいられなくなる。日常で感じている苦しさの実感に「私も」アクセスできなくなる。そして、本当に伝えたいことの核心にとどかない言葉だけしか思い浮かばず、繰り出すだけの存在になり果てる。そして、突如反動が来て、セラピストと喧嘩別れしたり、通うのがイヤになってやめてしまうことになりそう」

 こうした無力感を心の底で抱えつつも、「藁にもすがりたい」思いから、我慢してしばらく「大人しく(オトナのふりをして)」通い続けている、奥ゆかしい健気なクライエントさんは、特に日本文化の中では少なくないのではないかと思う。

 それを超えた、真に実りある手応えを、クライエントさんに感じてもらいつつカウンセリングを進めるために必要なもの。それは、カウンセラー側が、クライエントさんとの関係の中で、(十分な専門性プロ意識を堅持しつつも、同時に自分自身でいられ続けることのような気がする。


*****


 まだ言葉足らずであり、これだけでは私が伝えたいことが「誤解(misunderstand)」される危惧は大きいが、少なくとも、これまで治療機関・相談機関に足を運んできたクライエントさんの中には共感して下さる方もいると信じている。

 最後に、以前も引用したけど、ここでまた浜崎あゆみさんにご登場願おう。



>大丈夫だって 言い聞かせて
>得意の笑顔に 切り替える

>震える手を 隠したのは
>同情が 寒すぎるから

>親切そうな あの人々は
>ほんとは何を 知りたいのだろう
>優しげな目の 奥に鋭い
>好奇という名の ナイフ隠して

浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood浜崎あゆみ/(miss)understood"

 なぜこの歌が、私はここまで好きなのか、いよいよ私の中で明確になってきた気がする。

浜崎あゆみ/アルバム "(miss)understood"

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2008/03/27

治療関係のベースライン(第2版)

 =治療者自身が、自分が体験している暗々裏(implicit)に感じられた過程に注意を向け、味わい、「そこ」から応答する存在として、クライエントさんの-前に-いること。

 昨日、月に一度の、恒例、四日市での藤嶽さんたちとの「東海フォーカシング研究会」で、ジェンドリンの「人格変化の一理論」("a theory of personality change")の読書会をしている中で気づいたことなんですが。

 この研究会、すでに10年近く続けてきて、やっと、この、わずか40ページあまりの、ジェンドリンの体験過程理論の最重要基本文献の読書会、大詰めに差し掛かりました。

 原文旧村瀬訳、「セラピープロセスの小さな一歩」所収の池見先生をはじめとする先生方の新訳を徹底的に引き比べ、安易に先に進めることをしない、一回2時間前後、でも、いつまでに終わらせるかなど一向に気にしないという、超ロングランの読書会。

 4名の参加者が、自分の臨床経験に引きつけて、納得できる水準で、この論文を読み解いていかないと気が済まない形で進めてきたので、一日にわずか10行しか進捗しないこともごく普通という、恐怖の牛歩の歩みで進めてきたのですが 、私の解説にどんどんつっこみを入れて下さる藤嶽さんたちのおかげで、私がひとりではとても気がつくことが不可能な次元まで、ジェンドリンがこの論文に込めた含蓄の深さを読み解くことができてきたことについて、参加者の皆様に深く感謝しています。


*****


 以下に引用するのは、この論文の終わりから2つめの節、原書および村瀬旧訳でいう第25節、「体験過程の様式が極端に構造に拘束された場合」の中の、更に注26(原書の場合。.
池見他新訳でも「原注26」(pp.225-6).。村瀬旧訳でいう注55)の後半である。

 基本的には旧村瀬訳に依りますが、細部については阿世賀が更に改訳しています。

 なお、最後の方の茶色の部分は、池見先生たちの新訳からは欠落している(^^;) 


 クライエントが一言も語らないにしても,そこにはある感じられた相互作用過程が生じつつあり,まさしくこの過程において,彼の諸感情は分節化され象徴化されるのである。ある一人の人間の行動が他者の相互作用と体験の過程を再構成しうるのである。(定義23を見よ)

 クライエントが黙している間,治療者はそこに不快気に座っているところの問題を抱いた一人の人間の内に進行しているかもしれないと思えることを表明することができる。さもなくば,彼は次のような場合に治療者である自分の心の内面で進み行くものを表明することもできるのだ。

 それは彼が援助をしたいと願い,聞きたいと望み,圧力をかけたくないと思い,無用の存在ではありたくないと強く感じ,あるいはクライエントが黙っている時間が有益であるとわかれば嬉しいのだがと思うとき,或はまたクライエントの心中に去来していても,まだ話すだけの気持ちの準備ができていない多くの感情,多分諸々の苦痛な気持ちを心に描いているときである。

 これらを治療者の自己表現と呼びうるためには四つの条件が必要とされる。

1. それらが治療者自身の自己表現であることが,はっきりと表明されること。もしそれらの表現に何かクライエントについてのことを示唆するようなところがある場合に、治療者は,自分のいったことが事実かどうか確信はないのだ,ただそう想像するのだ,こういう印象を受けたのだ等と言う必要があるのだ。それについてクライエントの側から,確かにそうだとか,間違っているとか示してもらう必要は少しもないのである。治療者がまさに自分自身のために語るという点が重要なのである。

2. 治療者が、自分が表明しようかと感じている気持ちに、二,三分の間(a few moments),焦点を合わせる時をもつ〔ことは有益である〕。彼は〔その二,三分の沈黙の間に〕感じていることのすべての中から、安心して単純にいえるような、ある一部,ある局面を探し求めるのだ。人間にとって,ある瞬間(a moment)に暗黙のうちに感ずる何百,何千もの意味をすべて言うなどというのは不可能である。一つあるいは二つの,とくにその瞬間には,あまりに個人的にわたり過ぎたり,具合悪過ぎたり,困惑が大きすぎるように思われることどもが,ごく短時間の(a moments)焦点づけ(focusing)の後には,現在の相互作用のパーソナルな表現と変わるのである。

 具体的に述べよう。〔治療者である〕私にとって共に黙っていることが耐え難いところであり,かつ私はどうも彼にとって何の役にも立っていないらしい。〔……と私が感ずる場合〕、〔治療者である私の、〕まさに「この」感じこそ〔まさに我々が関心を払い,活用すべきところなのである〕!! 「そこ」にこそ私が彼に語りうる何ものかがあるのだ。

 あるいはまたこうして共に黙っていて一体彼の中に何かが動いているのだろうかと私の方で疑問に感ずることがある。私はもし彼にとって黙っていることが,考えたり感じたりする時間と心の平和とを与えるものならば,私も喜んで黙っていたいと感じていることがわかる。私はそのことを表明することができる。

〔阿世賀注:「私は今、あなたの前でこうして黙ったままでいるのが苦しく感じ始めています。私があなたにとって何の役に立っていないのではないかという不安も感じています。でも、それはあくまでも私の側だけの感じ方かも知れませんね。......この沈黙を、あなたと共にしていることが、あなたにとっても安らかで有意義なものであればいいのだが、と念じながらここに座っているのです。」といった自己表明になると想定できる〕

 かかる表明は二人の個人的なものの暖かい交わり,一つの相互作用なのである。

 だが、このような自己表明のためには、〔治療者は、〕二,三分の間,自己に注意をふり向けることが必要とされる。この間に私は,この相互作用において現在〔治療者である〕私が体験している過程に焦点を合わせ,そこにひらけを生じさせるのだ。

3. 我々のうちに湧いてくる言葉使いや意味は,我々が話しかける相手に対してこちらが抱いている感情全体から非常に強い影響を受けるものである。一人の人間としてのクライエントに対する治療的な態度とは,彼に対して全体的に存在する(being totally for him)という態度であり,ロジャーズ(1957)のいう「無条件の尊重」(unconditional regard)ということである。ホワイトホーン(Whitehom)(1959)はそのことを患者の「弁護士」のような在り方と名づけている。それは我々両者が共にこの問題をどんなに嫌だと思っていようと,一人の人間としての個人が自らのうちにおいて,そのことに「あえて直面する」("up against")ような態度を指している。私は常に真実の気持ちをもってそう考えることができるのだ。

 (この感度というのはあれこれの行動,特性,態度,あるいは特異性についての承認や同意や好意とは何の関係もない。)
 しばしば私は,こうしたすべてのことに「直面して」いる或る内面の個人というものを想像しなければならない。こうしたことをして後,何カ月も経ってから始めて私はその人を愛し,知るようになるのだ。
 このことがいかに具体的で規定可能な態度であるかには,驚くべきものがある。我々はそれを頼りにして良い。個人の中にある,どんなに好きになれないことにでも「あえて直面する」一人の人間というものは常に存在するのである。

4. クライエントが自己を表明するときには,そのことへのある反応が必要である。かかる場合,治療者の自己表明はかえって妨げになる。

 クライエントの感情や彼に感じられた特定の意味に反応する機会と,何かを知覚し解釈する正しい確実な方法とがある場合には,そのことに対して正確に反応〔応答〕することが最上のそしてもっとも強力な反応なのである。

 〔以上述べてきたような、治療者が〕自己表明していく反応様式(モード)は、あくまでも、こちらが反応しようにも反応できるようなものが殆ど見つからないクライエントに適しているのである。

 一つの反応様式としての治療者の自己表明は,ただ外的な状況について述べるか,全く沈黙を保って座っているような人で,殆ど感情を表明せず,精神病的だと分類された人々にとっては重要なことである。

 しかしながら、具合よく行っている人々の中にも,深い相互作用をつくることがむつかしい人も多くいる。それは彼らが自己を表明しないからである。カートナー(Kirtner)(1958)が見出したところによると,面接の第一回目のときに殆ど自己の内面に注意をむけないような人々は,治療で失敗することが多いことを我々は予測できる。近来我々は,治療者の自己表明がそのような人々の相互作用及び体験しつつある過程を再構成する助けとなりうることを学びつつある。


*******


 以上の箇所、「治療者の自己表明」という題目であるので誤解されやすいのだが、ここでは、いわゆる「治療者の自己開示」について取り扱っているのだと誤解されるととんでもない事柄について、ジェンドリンは厳密に、条件規定しながら述べていることについて、まずは注意を喚起しておきたい。


 次に、この部分が画期的なのは、私が知る限り、ジェンドリンが、文献で見られる形で、「意図的にフォーカシングすること」について述べた、最初の箇所であるという点である。


 しかし、セルフヘルプ的な「技法としてのフォーカシング」は1970年代になって急速に成長したものであり、ジェンドリンの視野にまだなかったものであるから、池見他による新訳におけるように、「フォーカスする」とか「フォーカシング」という言葉を、1964年のこの論文の時点で、訳として使ってしまうのは誤解を与えかねないと思う。あくまでも「焦点づけ」という訳にとどめるのが慎ましいことのように思えます。

 
 しかも、そうやって、意図的に行うものとしての「フォーカシング」についてジェンドリンが最初に言及したこの箇所で、ジェンドリンは、それを、あくまでも、クライエントさんとの面接場面のただ中で、セラピスト自身が、面接場面のただ中で感じている漠然とした曖昧で複雑な感じ全体に改めて注意を向け、味わい直し、その場に無理なくふさわしい反応を見いだすための、沈黙しながらのひとときとして述べていることも重要だと思えます。


 フォーカシングは、クライエントさんの、自分の内面への焦点づけ能力を高めるために、クライエントさんが学ぶ技法ではなかったのですね。

 
 「フォーカシングの臨床適用とは、面接場面のただ中で、治療者自身が、治療場面で感じるフェルトセンスにフォーカシングしていくことがベースラインであり、クライエントさんにフォーカシングの教示をすることではない


 なんだ.....私が長年、フォーカシングの「臨床適用」の基本として繰り返して主張してきたことと、全く同じところに、ジェンドリンの出発点はあるじゃないか。


*****


 興味深いのは、その際に、クライエントさんがどのような感じでいるのか、クライエントさんの身になって感じてみて、その結果をクライエントさんに応答(表明)することに関して、ジェンドリンがむしろ抑制的・警戒的ですらあること。

 むしろ、クライエントさんを前にして治療者自身がどんな居心地になっているかに、治療者自身が、虚心に、じっくりと注意を向けて感じてみることの意義を強調している。

 そして、そうした沈黙の中から、クライエントさんに言葉にしても無理のない言葉が浮かび上がること、そしてそれを表明することの効能について述べているのである!!

 
 クライエントさんの「身になって」感じてみた結果を、断りもなく治療者の側から安易に表明することは、クライエントさんにとって「侵入的」になる危険を冒すものであると、ジェンドリンも考えているのではないかと思う。

 精神病的なクライエントさん相手の場合だと、それこそ「思考伝播」「思考奪取」(自分の考えが読まれている、抜き取られている)の不安すら触発し、自我境界を更に危うくする侵蝕的アプローチであり、仮に用いるとしても、慎重に場の空気を読みながらなされるべきだろう。

 「あなたは、こんな感じでいるんでしょうね」ではなくて、関係についてじっくり吟味した上で選り抜いた、「私は,あなたを前にして、こんな感じでいるんです」という表明の方が、クライエントさんを脅かさない。

 治療的面接場面において、セラピストは「クライエントさんがどんな気持ちなのか」に共感し、それを受容しようというモードにはまりがちである。その結果、自分がその面接の場で、どんな居心地でそこにいるのかについては注意を向けなくなる。

 しかし、クライエントさんは、そうした、面接室のただ中での、カウンセラーのたたずまい全体....すべてを感じながら、カウンセラ-が、クライエントである自分と向き合い、その場にどっしりと居てくれるているかどうかの方を、まるごと敏感に感受しているものだと思う。

 これが、セラピストの「プレゼンス(現前性)」と呼ばれるものの中核なのではないか。

 そして、そうした、共に悩みを見つめる関係性の「場」そのものに安心感と安全感を見いだしていられるかどうかの方が、クライエントさんにとっては、ベースラインとして、重要なことなのではないかと思う。


 現代のエスプリ410「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一/阿世賀浩一郎 編)の中の一論考、

阿世賀浩一郎 :面接場面でクライエントの「容れもの(container)」として機能する技法の試み
〜治療者自身の体験過程を生かし続けるためのベースライン〜

で、治療者自身が面接場面で常時維持すべき「フォーカシング」のモードとして、(クライエントさんへの)「感情移入的焦点づけモード」と、(面接場面で、クライエントさんを前にして、どんな感じでいるかという)「自己指向焦点づけモード」の2つがあり、この2つを二重に抱えながら、時々スイッチを切り替えるように行き来して感じてみることを論じたのは、方向性として間違いでなかったと改めて感じた私だった。

 関連するこのブログの記事としては、こちらを参照していただければ幸いである。

●自分が相手に共感できて「いない」ことを「自己『共感』」すればいいのだ!!
●クライエントさんに「共感できない」気持ちを糸口に、クライエントさんへの深い「共感」への道を開くこと
●カウンセラーが「前に-いる」ということ

なお、続編こちらにあります。

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2008/03/10

バウムテストにおける「診断」とフォーカシング(2)

 前回の続きです。

 岸本先生は、もともとは内科医で、しかも血液内科だったそうです。
 これは、白血病の患者さんが多いということであり、抗がん剤や骨髄移植などの治療を受けて、入退院を繰り返したり、死に到る患者さんの死を共にするお立場だったということになります。

 そうした中で、バウムテストは、診断のための心理テストというより、コミュニケーションの「窓」といいたくなる機能を果たしたとのこと。

 中には、告知を受けて、あるいは完治した思っておられたのに再発して病棟に送られた時点で、放心状態の患者さんも少なくない。そういう患者さんも、木の絵だけは描いて差し出して下さることも多かったとのこと。

 (一回の面談は描画と対話を含めて30分だそうです)

 そして、その描画について、患者さんは話をしてくださるばかりではなく、その描画と一見無関係な話もお話になるわけです。

 こうして、言葉というコミュニケーションの経路だけでは浮かび上がってこないいろいろなものが、バウムを媒介としての関係という中でなされていくことになります。

 こうして、問診だけでは読み取れないコミュニケーションの次元が開かれる。

 1. 例えば、一見明るくて多弁な人もいる。病棟にもなじんでいるかに見える。ところが、非常に貧相なバウムしか描かない人もいるのですね。その人は、表には出さないけれども、すでに精神的にはかなり落ち込んでいたり、荒涼とした思いに満たされていることに気がつけることになります。

 2.逆に、ベッドの上では放心状態なのに、無言で差し出されたバウムには、非常にしっかりした樹が描かれている場合がある。そういう人は、何回もの危機をくぐっても、生き延びていく場合もある。


 更に、

 3. 一見ひどく不器用で貧相な絵しか描けない患者さんが、病気になる前の頃に描いた絵を見せてくれた。すると、病室での絵からは信じられないくらいに表現力あふれた絵を描いていたことがわかったりする。

 つまり、バウムテストの絵だけで、その人の人格のすべてが読み取れると思うのも間違いだということです。
 病気になって、それ相応のショックや不安の中で長期にわたって入院していくという具体的な状況、そして医師との関係性の関数として、はじめてそういう絵が描かれているという側面を、決して見失ってはならないことを、岸本先生は強調しておられました。

 これは、バウムテストに限らず、描画に限らないさまざまな心理テスト、そして面接場面での患者さんの様子にもあてはまる重要な事柄でしょう。

 面接場面でクライエントさんが示しているプレゼンスは、そのクライエントさんの全体像を示しているわけではないという、当たり前のことです。当然、そこでとられる心理検査の結果それ自体についてすら、そのことはあてはまる。

 私が最近自戒しながら心がけているのは、

「面接室に赴く行きがけの道すがら、面接から帰宅する道すがら、家に帰ってから、夜眠りにつく時、仕事の場面などで、クライエントさんが、どんな面持ちで、どんな気持ちで過ごしているか」

....という想像力だけは失うまいということです。

 そういうことを、治療者が自分の中で気にかけているだけで、何も質問しなくても、

「実はあれから家に帰ったら、結構落ち込んで、先生のことを恨みもしました」

「ずっと不安で眠れない夜を過ごしていたんですけど、今朝目覚めたら不思議と身が軽くて。これならカウンセリングに行けるなと。そして、行きの電車の中で、いろいろ連想しているうちに、家にいる時にも、この面接室の中でも思いついたことがなかったような、ずっと忘れていた大事なことを、ひとつ思い出したんです。それは.....」

などというお話を、クライエントさんの方から自然とお話しになることが増え、そのお話までうかがえてほんとうによかったと感じることが少なくないからです。

(第3回に続く)

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バウムテストにおける「診断」とフォーカシング(1)

 さて、お約束の、昨日の、神奈川県臨床心理士会の研修会についての報告の続き、各論編です。

 まず、午前中は、京都大学付属病院の岸本寛史先生の「バウムテストの基本的な姿勢 〜コッホの基本的な考え方について」というお話でした。

 一般の皆様向けに簡単に解説しますと、バウムテストというのは、スイスのコッホという人が開発した心理テスト。
 「実のなる木を描いてください」という、ただそれだけの設定でなされる、描画法のテストです。
 いくつかのサイトで、詳しい紹介がなされていますが、

●木を書くだけで「自分の心がわかる」? バウムテスト解答編

を、とりあえず紹介させていただきます。

日本で読める代表的な著作は、

●C.コッホ著 バウム・テスト―樹木画による人格診断法
●ドゥニーズ ドゥ・カスティーラ 著 バウムテスト活用マニュアル―精神症状と問題行動の評価

 前者は、私も大学院生の時代から読んでいる、このテストの開発者、コッホの本。
 後者は、マニュアルとして最近評判がいいもののようです。


*****


 さて、岸本先生のお話は、のっけから、このコッホ自身の書いた、最も重要な古典的著作の翻訳が大問題だ、というお話から始まりました。

 そもそも、これは、この本の翻訳が、読んでも全然意味がわからない本だというご自身の体験から、ご自身で原典を辞書を引きながら試しに訳していったところ、自分が翻訳書で読んで意味がわからなかった部分のほとんどが誤訳であることに気がついた、という、とんでもないエピソードから出発します。

 そもそも、日本の翻訳は、ドイツ語(しかも初版)そのものからの翻訳というより、初版の英訳に大幅に影響を受けた翻訳で、この英訳そのものが誤訳の山だそうです。

 それを日本語に訳する際に、更に輪をかけて誤訳を重ねているそうです。

 しかも、、この初版の後、ドイツ語では、第2版になる段階ですら、分量で3倍近くにすらなる、大幅な増補改定がなされているのに、それらがドイツ語に堪能な専門家によって、ドイツ語からダイレクトに翻訳された新版が出る様子がまだ見られないとのこと!!

 検索かけたところ、この本のAmazonのカスタマーレビューに、いまーじゅ太郎さんが、

バウムテストを勉強しようとするとまずこの本を読まなければならず,私も大学でこれを読んで勉強したのですが,実はこの邦訳,問題だらけのようです。原著の方は,著者コッホが直に手がけた第三版がどんどん重版され第十版まで出ているそうで,しかもこの第三版のページ数は初版の約三倍にもなっているらしい。しかも,邦訳の元になった英訳は,どうやらドイツ語に慣れていない人物による翻訳らしく,信頼するに値しないらしい。つまり,コッホの伝えたかったことが十分に伝わっていないということらしいのです。この辺の事情は,最近出版された『バウムの心理臨床』(山中康裕ほか編,創元社)所収の「『バウムテスト第三版』におけるコッホの精神」(岸本寛史著)に詳しく述べられており,私も最近これを読んで大変ショックを受けました。本書はバウムテストを実施するときには必ず読まなければならないものですが,どうもこれこそがバウムテストの基本だと言うには少々問題点が多すぎるようなので,注意が必要です。

.....とお書きなので、知る人ぞ知るの水準の問題点であることがわかりました。

 この件については、私もまだ読んでいない上述書に譲りますが、それでも、岸本先生のご講演から、私のドイツ語理解力でも十分わかる一例をあげます。

 (これは私のメモからの再現ですので、細かい表現には私の主観が入っているかと思いますので、その点はお許しください)

 この著作の翻訳の、確か37ページに「T字型の木の描画」という言葉が出てきます。この部分、ドイツ語の原書では、"Tannenbaum""T"だそうです。

"O Tannenbaum, o Tannenbaum,
wie grün sind deine Blätter!"

という歌い出しのUwe Christian Harrer & Wiener S?ngerknaben - ザ・クラシカル・クリスマス - もみの木クリスマスの歌でもおなじみですが、これ、「樅(もみ)の木」のことなんですね。クリスマスツリーで知られた、あの木のことです。

クリスマスツリーだと、凄く小さく育てるので、てっぺんがとんがった、二等辺三角形のイメージになりますけど、この木は成長すると、天を突くような、垂直の、真っすぐとした幹になることが特徴です。
450pxmomihinokiboramaru
wikipedia「モミ」の項より)

 このことを理解しておかないと、ここで示唆されているバウム画が、

「画面を垂直に縦断する形で、基本的には同じ太さの幹が描かれていて、上の末端も描かれていない(か、枝分かれがないか、曖昧な)」

そういう図版のことになります。

ほとんど即興で、模式的に書いてみると、こんな感じでいいのかな?coldsweats01

Tannnennbaum

 このような図版は、根っこから頂上に向けてエネルギーが上昇するとすると、エネルギーの分化が生じないまま直接噴出して行こうとしているの指標であるという点については、多少の解釈の相違こそあれ、多くの人が認めていることのようですね。

 根っこから枝先に向かうにつれて、最低2つには枝分かれしていく木の絵が圧倒的に多いからこそ、この「モミの木型」を特異な指標のひとつとして認識しておくことがテスターにとって重要なのに、訳本では「T字型」なので、むしろイメージ的には違う点に力点のある連想をさせかねず、非常にわかりにくくなっているわけです。

 どうも、ここまでは「『T字型』問題」として、すでに幅広く知られている翻訳上の問題のようですね。

 これ以上の翻訳上の問題点については、講演者の岸本先生の上掲書でお述べになっておられそうですので、私も別にバウムの専門家でもないので自重させていただき、更に深追いしないことにいたします(^^;)

*****

(第2回へ続く) 

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2008/02/22

「臨機応変」な面接は、自分の面接の「型」がしっかり身についていてこそできる。

> .....というのも、自分の中心線をどこか一つに定めることによって、クライエントさんの定式的な反応や一般的な反応というのがある程度見えてくると思います。いわゆる共通性ですね。そして、その共通性とは思えないような反応があった時、それこそがそのクライエントさんの独自性の表れだということがキャッチできるのかなと。

> これが「柔軟に」とか「臨機応変に」という名の下に、時と場合によってコロコロと変えていると、自分の中心線がどこにあるのか分からなくなり、何がクライエントの独自性なのか、何が揺さぶられているのかが分からなくなりそうで。 (セーイチさん)


 そうですね。「臨機応変」で柔軟な面接というのは、実は自分なりの座標軸が相当しっかりあって、はじめてできることなのでしょう(^^)

 この点を忘れてはなりませんね。

 これは、カウンセリングに限らず、広い意味での「ビジネススキル」全般に当てはまることかもしれません。カウンセリング関係以外の読者の皆様は、以下の部分を、自分の領域に読み替えてみてください。何か参考になるかもしれませんので。


*****


 面接でのクライエントさん(顧客さん)への普段の応答や、解釈的発言をする機会についても、私の中では厳密そのもののフォーマットが実はあります(^^)。まさに武道の「型」を半ば無意識に繰り出せるのと同じように。

 それをこのブログで、滅多に技法フォーマットとしてダイレクトに書かないのは、それを形だけ真似されたら、その人なりの座標軸形成の妨げになると思っているからです。


****


 もちろん、私も、面接の中で、そういう「型」が崩れる時もたくさんあります。例えば、共感的傾聴ができなくなり、思わず、クライエントさんに批判とも受け取れる意見を言ってしまうとか。

 そういう時は、単に技法の「原則」を外れた自分を責めて自己嫌悪するだけでは意味がないのではないかということは、すでに「受容、共感と自己一致の相克」シリーズで取り上げました。

 むしろ、そのクライエントさんの個性だとか、問題の核心、あるいは、カウンセラー自身の面接内での「共振れ(土居健郎)」の質に気がつく、絶好の機会。

 そして、それを生かすのが可能なのも、自分の面接の標準の「型」=「ホームポジション」=「座標軸」をはっきり自覚しているからこそなのです。


****


 当然、こうした、標準の「型」=「座標軸」は、そのカウンセラーの技能の成熟と成長に伴って、少しずつ変わっていく性質のものです。

 結局、柔軟であるための方法論というのは、実はマニュアルとしては伝えられない。できたとしても、それはスポーツのコーチのように、マン・ツー・マンでしかできないでしょう。

 総合格闘技をやる人でも、ボクシングやレスリング、空手などを、きちっと「型」を理解してみっちり学んだ人の方が強いのじゃないかな?
 
 だだ、そこから各人が自分なりのスタイルを築き上げる上でのヒントというのは伝えられるのではないかと思う。


*****


 我田引水ですが、私が今度、通信教育、「現場カウンセラー・キャリアアップ講座」でやってみようとしているのは、そういう領域です。

 ですから、目次原案をご覧になればお分かりのように、通常のカウンセリング学習の項目からすれば、斬新過ぎる実践的切り口をメニューにしてみました。

 「相談機関での同僚との付き合い方」とかね(^^)

 通信教育は、e-ラーニングの個別指導システムも併用できるので、それぞれの受講者の皆様ひとりひとりののニーズと習熟水準におこたえできる考えています(ここがただのメルマガとの最大の違い)。

 ちなみに、「キャリアアップ講座」では、文体も語り口も、はるかに平明なものにすることは、お約束します(目次の各章各節のタイトルだけでも、このブログの私と別人のような文体を目指していることは伝わりますよね)


*****


 .....以上、またもや、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「ケース記録とプロセスノート」(すでに78コメント)への私のコメントから、若干増補改定の上で転載。

 このコメントを触発する発言をしてくださった、セーイチさんに、こころから感謝申し上げます。


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2008/02/21

「現場カウンセラー・キャリアアップ講座」の青写真、ついに公開!!(第4版)

 「すべての流派の」現場臨床家のアカデミズムとのかかわりへの違和感が私の原点にあります。

 私は「反=精神分析」ではなく、フォーカシングを含めたすべての学派の現場臨床家が、アカデミズムと関わる時に陥りがちな落とし穴について、注意喚起したいだけなのです。

 なぜ、「ジェンドリンが(あるいは、○○が)こう言った」という話ばかり聞かされるのか自体に、違和があるのですね。

 ジェンドリンや、そのほかのフォーカシングの最先端の臨床研究を各人なりに「理解して」いることはもはや当然のことであり、それが自分の現場臨床にどう活きて行くか、そしてそれを自分がどう言葉にするかだけが問題と思ってます。

 そして、最後には、クライエントさんが以前より納得する人生を歩めていることそのものが大事で、それは学会活動や著作の彼岸にあるということ。


*****


  ・・・・・・以上、超恒例(^^;)、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「ケース記録とプロセスノート」(すでに58コメント)への私のコメントからの転載。


 あまりに要求水準が高いとお感じかもしれませんけど、いろいろなワークショップや研修会を、高いお金を払い、時間を割いてめぐっておられる現場カウンセラーの皆様の現実を見るにつけ、

「現場臨床家が求めている、ほんとうに大事なエッセンスにたどり着くには、どうすればいいのか」

という問題意識から書いたこととご理解ください。

 そして、この問題のために、具体的な処方箋を私なりに示すことが、「ナレッジサーブ」でまもなく開講予定の通信教育、「現場カウンセラー キャリアアップ講座」の目的です。

 なかなか開講できないのは、このテーマについてとことん実践的に書くことへの気負いがあるためなんですね(^^) ....でも、今度こそ(^^)v、3月はじめに開講します!!


******

 前景気を煽るため、各章のサブタイトルの一部をご紹介します(仮タイトルですが)


●第1章● 本講座の特色

1.カウンセラーの皆さんが、現場に出て感じる苦しみは、クライエントさんがカウンセリングを受けたくなった時の苦しみと同じ苦しみなんです。

2.カウンセラーとして世間に出ることは、第2の「社会参入」のようなもの。

3.カウンセラーって、なかなか「お金にならない」「生活の保障がない」仕事ですよね。

(ここまで、無料お試し受講可)


●第2章● 誰も教えてくれなかった「つきあい」のこと。

1.相談機関の上司や、同僚との人間関係って、たいへんですよね。

2.ワークショップやセミナーを「あちこち放浪している」カウンセラーの皆さんへ

3.スーパーバイザーの選び方、自分にあっているかどうかの見抜き方、お教えします。

4.お医者さんといかにつきあうかについてお教えします。

5.会社内、学校内、お役所内で、相談部署を立ち上げ、運営するチーフに任命されてしまったらどうしましょう?

7.カウンセリング機関の業務規約や面接のルールの作り方

8.杓子定規な「治療構造」へのこだわりのもつ危険 : 生活苦で希死念慮がある人に、「自己破産」についての正確な知識と「法テラス(旧 法律扶助協会)」を紹介できてこそ「現場カウンセラー」では?

9.警察署や弁護士さんと仲良くなろう!!

10.倫理委員会を怖がらないように!!


●第3章● カウンセラーではない、生身の一市民としての日常生活を充実させましょう。

*.カウンセラーではない友人や家族に、どこまで自分の仕事のグチを言ってもいいのでしょうか?


●第4章● 相談に来た方々を「受容・共感」するって、どういうことなんでしょう?

●第5章● クライエントさんの面接が「うまくいっている」って、どういうこと?

●第6章● クライエントさんとの面接の終わりとは?

   :
   :
   :

●最終章● 自分でカウンセリング・オフィスを開業する夢を忘れずに!!

 ......こうして、アウトラインプロセッサーみたいなことをしてしまっておきます(^^)

 個々の文章の断片は、すでにかなり細かく草稿を書いている部分もあります。

 こうなると、あとは時間の問題です!! あと少しお待ちください。

 【追記】: 講座の紹介文の原案をこちらにupしました!!

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2008/02/15

フォーカシングの、世界の最前線の記事たち

 「こころの天気」でおなじみの土江正司さんから以下のニュースをご紹介いただきました:

The Focusing Instituteの定期刊行物、"Folio"の、土江さん、日笠さん、上村さん、土井さん、小坂さん、増田さん、天羽さん、久波さんなど、日本フォーカシング協会の精鋭たちの、多忙な中、時間を割いての尽力による日本語翻訳版です。日本フォーカシング協会サイトにあります。

http://www.focusing.jp/International/folio20-1index.htm

 アフガニスタン中南米にもひろがる、世界のフォーカシング最前線の人たちの肉声が伝わってきます。

 個人的には、ジェンドリン自身「タウン(街)と人間的な注意」という、講演の一部を抄録した記事が興味深いです。

 ジェンドリンは、今も、現在と未来を見つめ、精力的に活動しています。

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私がカウンセリングを受けたい人は誰か?

 私も、ある意味で、精神分析を「仮想敵」にして書いてしまっていることは自覚しています。

 他ならぬフォーカシングそのものが、ある種の「島宇宙化」の弊害を抱えている。ただ、「フォーカシング指向心理療法」が、意識的に、すべての流派のアプローチに開かれた心理療法であることを標榜しているということです。

 このあたりは、まだ一般にはよく知られていないかもしれない。ジェンドリンの「フォーカシング指向心理療法」の下巻を読むと、そのスタンスがよくわかります。行動的アプローチ、認知的アプローチ、解釈的アプローチ、ゲシュタルト的アプローチ、夢へのアプローチ、身体に直接働きかけるアプローチ、もう「エンジン」はなんでもありであり、その「エンジンオイル」がフォーカシングなのだという徹底。

 ただ、治療者の逆転移の処理というところまでは、この本でも踏み込み不足。

 ここから先は、ジェンドリンも未踏の領域。

 私はこの本を読んでから10年近く、その領域を前に進めることにエネルギーを注ぎ(その結果、バリントやウィニコット、オグデンの「第3主体論」について、更に深く読み込む必要が生じました)、そこに実践水準ではすでにおおよそのめどがついたので、今は認知行動的アプローチによる適用へ、主なる関心を移しています。

>もし自分自身が神経症やうつ病になったときには、○○さんやこういちろうさん自身はどういうカウンセリングなら受けてみたいと思われるのかな。

 これ、私にとっては「仮定の問い」ではありませんので(^^)

 前の職場をやめたのが、欝のためであることは公言しています。おかげで「薬物療法」を生かすにはどうすればいいのかについての経験値が一気に上がりました。

 その過程で「某派の」国際資格を持つ人(個人的関係は皆無だった先生)に、一年カウンセリングも、一クライエントとして受けていますよ。

 そういう中ではっきり感じたのは、「心理療法は流派と無関係」という強烈な思いです。

 そこそこいい先生なら、セラピストは誰でも「利用できる」(^^)

 そして、私が最後に頼ったのは、他ならぬ私自身の一人フォーカシング能力を極限まで磨き上げることでした。

 私は日本のフォーカシングの領域の頂点のひとりですから(このことをさらりと口にした方がいいなと最近感じてます)、フォーカシング関係者にセラピーを受けることは、あまりにも「政治的問題」であり、関係性の次元での厄介な問題がありすぎるのです(^^)

 それでも敢えて心理療法を受けてみたい人の名前を挙げれば、村瀬嘉代子先生山上敏子先生でしょうか(^^)


*****


・・・・・・恒例、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「外れた解釈」(すでに119コメント)への私のコメントからの転載。

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2008/02/14

父なき時代の、自らの父となるためのカウンセリング

 人はその時代や社会の価値観や文化の中で生きる以上、たとえ「対向同一性(counter identity)」を選択するにしても、この世に「棲息」していく限り、「すべての防衛を克服したほんとうの自分」として生きる」というのは、絵に描いた餅だと思う。

 プロセスとして、「ほんとうの自分になろうとする」とか、「ほんとうの自分に戻る瞬間」というのはあっても。
  
 どこまで行っても、ある意味では「適応に適した新たな防衛形成」以外の適応なんてないと思う(^^)

 だから、ウィニコットは「偽りの自己(false self)」を「適応に必要なもの」として肯定的に論じた。この点まだまだ誤解があると思う。ユングが、「ペルソナ(仮面)」が形成されないと、個性化の過程ははじまらない、と論じたのも同じ脈絡。


*****


 私自身は、「正統派ロージェリアン」と「フォーカシング指向心理療法」の違いについて繰り広げられている議論なんかも、きっちり押さえておく必要はあると思うけど、進んで関与する意識はなくて。

(これについてはキャンベル・パートンの「パーソン・センタード・セラピー」、が、日本語で読める最良の質のレビュー献です)

 要するに、only one=「私の心理療法」でしかあり得ない。

 私に会いに来るクライエントさんも「フォーカシングを」学びに来たのではなくて、「ともかく自分の困難を解決してくれるひとりのカウンセラー」に会いに来ただけ。

 私は、「フォーカシング個別指導」の申込者から、「フォーカシングは役立ちますか」という問いに、

 「私にとっては人生になくてはならないものですが」

と言う答えしかしないのです。

 これに面食らう申込者も多い。


 「だから、私にとって、フォーカシングはあっているかということです!」


 でも、その「面食らって」もらったところでの関係性のすりあわせが、関係をはじめる上で不可欠なのを、最近の私は感じています。

 私は、少なくとも開業してから、ただの一度もフォーカシングを私のほうから勧めたことはないのですね。

 「どうしてもフォーカシングを試してみたい」という頑固な人(^^)にだけ、しぶしぶ(...ウソウソ)、「ほんとにいいんですか?」という面持ちで、次回面接で、フォーカシングのフォーマットを意識的に使う約束をする。

 「願わくば、あなたが、あなたにとって私がいなくても日常の中で、現実との戦いの中で日々役に立つ、あなたにとってのフォーカシングを身につけることを。私はそのためのお手伝いをするのです」


******


 要するに、私は「父なき」、独り立ちできる、いずれフォーカシングのことなんて、カウンセリングを受けたことなんて忘れてしまう息子、娘を育てたいのですね(^^)

 著名な芸術家が精神分析(に限らず心理療法)を受けると、独創性が失われる現象はよく見られますが。本人がそれで満足していればそれはそれでいいのでしょうが。

 要するに、心理療法は、どこまでいっても「心理学的ロボトミー」を超えられないのかも。

 私自身、とっくに、フォーカシングというロボトミー手術を自分に施してしまった「人工的な」存在である悲哀をかみしめつつ生きています。

 生涯一モルモットとして生きる覚悟がありますから。


*******


 でもそのうち、フォーカシングのことも忘れてしまって面接しているかもしれませんね。日常の中でもフォーカシングしなくなるかも。


 そうなりたい。

  『早く人間になりたい!』

 ........以上、恒例、セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」のエントリー、「外れた解釈」(すでに108コメント)への私のコメントからの転載。

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2008/02/11

単なるおたくは「領域越境」できない

 私は、「何でもおたく」ですので(^^;)、おたくの長所と欠点を知り尽くしています。

 おたくの最大の欠点は、自分の縄張りとしている領域以外の人たちに認められたり、率直に交流することを回避する点です(^^)

 これを乗り越えるのは、他領域のおたくの人とどん欲にコミュニケーションし、盗めるものは盗みまくること。

 そして、そういう「島宇宙」をつなぐ存在にまで、自分を高めることだと思います(^^)

(この最後の部分は、宮台真司さんにインスパイアーされての表現です)

 私の尊敬する、学生相談時代の師(スーパーバイザー)、岡昌之先生(東京都立大学。「心理臨床学研究」の編集者として名前はご存知のカウンセラーの方も多いかと)曰く、

 「万巻の書を読め!!」

 ここには、「ジャンル無関係に」と言う含蓄があります。

 更にいえば、世間の動きに関心を持ち続け、若者の風俗にフィールドワーク的にコミットして興味を抱き、女性ファッション誌まで読みあさり、J-POPに通逸し、それこそ例えばayuのライブに行ってみるぐらいでないと、大学学生相談の現場カウンセラーとしては失格だろうと個人的には思ってます(^^)

 その一方で、ゲーテに親しみ、相談室の中でアナログプレーヤーでクラシック音楽を心から堪能する(これ、岡先生の東大駒場学生相談所時代の伝説的な相談室の風景)くらいでないと!!


******


 以上、セーイチさんのブログのエントリー、「外れた解釈」への私のコメントより転載。

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箸休め:私のYouTubeのプレイリスト。

 ●おまけ:私のYouTubeのプレイリスト

 実は結構ポリシーがあること、続けてご覧頂くとおわかりになるかと(^^)

 更に詳しくは、拙書「エヴァンゲリオンの深層心理」の第1章をお読み下さい(^^)


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2008/02/08

とっくに大人がオトナでない社会(第3版)

●【溶けゆく日本人】蔓延するミーイズム(5)すぐ辞める若者(msn=産経)

BGMは、こうした時代をあまりにも敏感に読み取っている、中島みゆきさんの、

中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - 本日、未熟者本日、未熟者

そして、

中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - 背広の下のロックンロール背広の下のロックンロール

 私は、「背広の下のロックンロール」を聴くと、涙が止まらないことがあります。

 共に、アルバム「I Love You,答えてくれ」収録。


*****
●「言葉遣いよくなかった」 「羊水発言」涙ながらに謝罪 倖田來未会見詳報(msn=産経)


 くぅーちゃん、謝罪後にも風当たりが強いのは、要するに、今の年長の大人たち(特に、若い頃に理想にかぶれた「団塊の世代」ね)が、若い世代に、とんでもない要求水準で、「社会人とはこういうもの」という自我理想だけをポスト団塊世代以下に押し付けている反映としか思えない。

 本人はとてもそこまで厳しく生きてはないのにね(^^;)

 人間、自分が他人からされたことを、今度は他人にするもの。

 これを、アンナ・フロイトは、名著「自我と防衛」の中で「攻撃者との同一視」と呼んだ。

 ままごと遊びで、女の子人形に、母親自分にとった態度を反復するのが典型的な例。

 わかりますか?

 みんなのアイドルくぅーちゃん=「人形」
 くぅーちゃんの謝罪をまだ足りないと連呼するネットの人たち=「人形を厳しく叱りつける男の子、女の子」

 そして、このことに気がつくと、ayuが、新アルバム"Guilty"Marionette"marionette"特にPVで伝えたかったメッセージにも気がつけるはず。(リンク先はPVです)


  【追記:第3版】

 この記事、好評をいただいていることに感謝します。くぅーちゃんの会見へのYouTubeのアクセスはできなくなりましたけど、以下の記事へのリンクを加えさせていただきます:


● 【ゆうゆうLife】編集長から 羊水は腐らないけれど…(msn=産経)

 iTunes Music Store(Japan) iTunes Store(Japan) iTunes Store(Japan)

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2008/01/30

「ゆずれない願い」


●田村直美/ゆずれない願い(YouTube)


全国の、DVを振るってしまった人、
親権を失って、今は子供と共に生活できない人、
相手への純粋な好意のつもりのものが、ストーカー、セクハラとして訴えられた人、
がんばれ!!


これが、皮肉でもあてつけでもないことは、十分伝わるかと思います。


そして、こうした人は、男性ばかりではなく、女性にもたくさんいるであろうかと。


*****


 ひとつが新たな正義とされた時、他方に、思いもよらず、それ以降悪とされ、法律に従うしかないばかりか、内面の改心すら、社会から強要される人々が新たに生まれること。

でも、それにもかかわらず、そうした「被害者」と「加害者」が連帯できる日が来ることを!!

それが、とてつもない夢であると知りつつも、私が死ぬ頃までには、多少なりとも社会に実現されますことを!!


「あなたは悪くない」

を超えて、

中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - Nobody Is Right"Nobody is Right"


でも、あなたはありのままでいい」

へと。


懐かしい、ジャケットだけ掲載。

Layearth1
「魔法騎士レイアース」音楽集1<ゆずれない願い>CD(ポリドール PCOH-1490)ジャケット 人物左より、龍咲 海、鳳凰寺 風、獅堂 光

結果的に「レイアース」の、あの、懐かしい曲のタイトルになったことも、きっと大事な意味があるのです。


 気がついてしまいました。

私の、恐らくこれからの半生に、身を捧げるであろう、まだ未開のテーマと領域に。


 そして、それは何と、当面「男のジェンダー」権利保護を女性に理解していただくための活動と結びつくだろうこと。


 あえて言いますね。

 このままでは、

男性からの求愛がすべて犯罪行為とされ、
男性のオナニーすら女性への権利侵害とされる時代が来る。

 女性だって、オナニーするだけで「男に飢えてる恥ずかしいことしてる」と見られる「差別」から自由であるべきでしょ?


それは懐古的な男権回復の、実は正反対

真の意味での男女の連帯と共生の道への、絶望的な模索となるであろうこと。


それは、生涯の道半ばで、現実に暗殺される覚悟がないとできない道ということ。


やっと、すべてが、見えました!!!


****


関連記事:

●我が内なるファシズムを見据えよ

●異世界へと召命された戦士たち(こういちろうアニメ論アンソロジー)


かつて、アニメ演出家、望月智充さんと「ほんとうに」お会いできたきっかけとなった、私の「記念碑」

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2008/01/29

KYのようでいて、実はKYと正反対なのがこういちろう。

セーイチさんサイトでのひとつのエントリーがほぼ終息(かつ集束)しました。

参加者の皆様と、これほど高度なコラボレーションができるとはとても予想がつかず、皆様ひとりひとりの場をholdingする力の高さに、心から感謝申し上げます。

 これをお読みになると、こういちろうという人間が、一見KY(場の気分が読めない人)のようでいて、実はKYからほど遠い、かなり独創的な意味での(?)、気配りの達人であることの、ライブの記録となったのではないかと、我ながら思います。

 もっとも、ここで繰り広げられたやりとりの前提になっている、参加者の皆さんが発揮している精神分析全般の理解水準は、間違いなく、日本でも、言葉本来の意味での「ハイソサエティ」であることは確かです。

 全部理解できる読者はそう滅多にいません。

 それでも、何かが伝わるかと。

 こういちろうは、ソロ・ライブよりも、コラボレーション・ライヴの方が実はその能力を著しく発揮する。

.......私にとっての大発見!!

皆様に感謝!!!


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2008/01/28

今日もセーイチさんサイトにいます(^^;)

 セーイチさん、「この」状態を寛容に見守ってくれていることは某ルートでやりとりしていますので。

 こっちのブログが私の「独演会場」だとしたら、セーイチさんサイトでは、本気で皆さんとキャッチボールができるのが嬉しくて仕方がない。

 もの凄く、半端ではない、高度な水準で、バリントや、ビオン、フロイトなどとフォーカシングの接点のやりとりが進んでいる気がしてなりません。


 こういうやりとり、私の夢のひとつだったので、思わず、


♪居場所がなかった みつからなかった浜崎あゆみ - A Song for XX - A Song for XX


と一節唄ってしまったのであった(爆)

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2008/01/26

「心は更地 安らぐ表現」 -鬱とフォーカシング-(第2版)

 先日ご紹介した、読売新聞の25日の記事を、さっきOCRで取り込んで起こしましたので、全文ご紹介します。太字と改行はこういちろうに拠ります。

********


●読売新聞 朝刊 2008年1月25日版

うつノート 回復めざして 第4回 「心は更地 安らぐ表現」

   ※カウンセラー相性も大切※


 吉田恭子さん[仮名、27])は高校時代から、うつ症状で悩んでいた。2005年末には会社を退職。06年には、慢性的な軽いうつ病である「気分変調症」という診断を受けた。入院し、休養と薬物療法を受けたが、気持ちの平安はなかなか得られなかった。「元の私に戻りたい」という気持ちにとらわれていた。

 治療の転機になったのは、カウンセリングだった。

 「病気で何もかも失ってしまった。自分は空っぽ。魅力がないし、何の可能性もない。自分は『無』だと感じる」。

 カウンセラーにそう話すと、

 「自分を『更地』のように感じているのではないか」

と問いかけられたという。

「更地」という言葉を聞き、「更地だから何もないけど、どんな花を植えようと自由なんだ」という居心地のいいイメージがわいてきた。不安感や焦燥感が薄れた。

 現在、うつ病の治療では、薬物療法が主流だ。しかし、心理療法を求める患者は多い。

 古田さんは「フォーカシング」というカウンセリングの方法が性に合った。フォーカシングは、自分の実感に当て、言い表すことで、心を理解しようとする心理療法。

 「更地」の心境でしぱらくすごしているうちに、元気になった吉田さんは昨年、週1回、派遣で事務の仕事を始め、週3回まで増やした。
 しかし、作業の能率は落ちていた。気持ちに波があり、疲れやすい。

  「以前のように仕事できない」
  「自分は人から遅れてしまった」

というプレッシャーを感じて、気分も落ち込んだ。仕事は半年ほどでやめた。

 それでも、以前とは違う。以前は休養していても、焦りや不安で心の中は嵐のようで、心は休めていなかった。カウンセリングによって、自分の感情を扱いやすくなり、休養中、平安を取り戻すことができるようになった」と吉田さん。現在は、ウォーオーキングをしたり、ジムに通ったりしながら、体力をつけ、生活リズムを整えることを大事にしている。

 フォーカシングの専門家である関西大学教授、池見陽(いけみあきら)さんは、

「健康なときは、職場で嫌なことがあっても帰りの電車の中で忘れることができる。しかし、ストレスが強くなると、寝ても忘れられなくなる。カウンセラーとともに、自分の感情との距離のとり方の練習をすることが必要」

と話す。

 「感情は本来、移り変わっていくもの。感情に名前をつけて、ちょっと距離をおいて観察してみる。すると、感情も変わってくるかもしれない」

 吉田さんは、自分の焦燥感に「せっかち君」と名前をづけた。

 「せっかち君が顔をのぞかせたな」と思ったらら、心の中でせっかち君と会話すると、せっかち君は引っ込むようになった。

 池見さんは、

薬と休養でよくなってきた段階で心理療法を併用するのは効果が期待できる。性格的な問題があるケースや、働き過ぎなどの生活状態の問題がある場合に、有効だと考えられる。療法よりもカウンセラーとの相性が重要だと思う。主治医に相談してほしい」

とアドバイスする。


******


 すでに自己レスコメントでも先行させましたが、この記事での池見先生のコメントについての更なる注釈を、池見先生ご自身が個人サイトで公開しておられます。こちらをご覧下さい。

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2008/01/25

特報!! 本日の読売新聞朝刊に、フォーカシングの臨床適用の記事掲載 池見先生のコメントも!!‏

 本日(25日)の読売新聞朝刊、「うつノート -回復をめざして-」第4回で、

フォーカシング指向心理療法に基づく、
欝のクライエントさんのカウンセリングプロセスの、
クライエントさん自身による報告、

そして、
池見陽先生によるコメントが掲載されています。

必見です!!


 全文をこちらに転載させていただきました。

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2008/01/22

こういちろうの自分史

●@nifty TimeLine



このコンテンツは、刻々と増補されます(途中を含めて)

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2008/01/21

ネット上の、格好の「精神分析入門」

 セーイチさんの「発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版」の最新エントリー、「マゾヒズムの経済論的問題」は、すでにコメント数48をたたき出し(1/21 21:48現在)、多くの参加者が生産的な議論を紡いでいく、ブログの理想といっていい画期的な豊穣さを示しています。

 そこでは、マゾヒズムの問題を超え、フロイトの精神分析の本質についての、稀に観る「生きた」入門記事になったといえるかと思います。

 そして、話題は眼球運動の問題や、ADHD、アスペルガーの問題まで広がる!!


 臨床関係者、必読!!

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2008/01/18

こういちろう学習障害あるいはADHD、あるいは「星の王子様」説(第2版)

 「この人ADHD(注意欠陥障害)? それとも学習障害(LD)かしら?」


 恐らく、このサイトをご覧いただいているカウンセリングの専門家の中で、ほんとうに勉強されている方は、そういうことをお感じの方っていると思います。

 さすがにもはや「躁うつ病」しかでみないようなら、現代臨床心理学におけるアセスメント能力としては欠陥が多すぎる(爆)

 そして、ここまで書いてきたら、そして、写真まで公然と掲載しているから、体型も資料になるわけで、私のベースが、どう見ても、クレッチマーのいう「躁鬱気質」からほど遠い(全然社交的ではないものね、本来は)こともおわかりのはず。

Ann_weiser__and_koichiro

 でも、人間は大好きだし、冷たい人間ではない(むしろ無茶苦茶ホットでハートフルな)ことも伝わってると思うし、体型も根っからの細身ではない、むしろ肩幅が広い、ずんぐりむっくりであることもわかるでしょう?(私の師、村瀬孝雄先生は、立教の研究室に私を迎える直前、他の院生に「今度来る奴は柔道の選手みたいな体型をしている」と事前に伝えていた) 。そうなると、分裂気質説も不十分(30%は分裂気質でしょうけど)


++++++


 そうなると、残るのは、てんかん型、あるいは闘士型といわれる執着気質、ないし中心気質と呼ばれるものですね。これについては私の古くからの知り合いで、私の「エヴァ」本プロデュースをはじめとしていろいろ引き立ててくれ、著作も凄く多いどころか、近年はTV出演もなさる、同じ開業カンセラーの矢幡洋さんが、「『星の王子様』の心理学」で書いたことがあまりに私にもあてはまります。

 (ちなみに、私のもうひとつの古くからの大事な人脈が、「あの」NHKアナウンサーを奥様にした、テレビでもおなじみ、文化人類学者の上田紀行さんです)

 人と、むしろ開けっぴろげまでに胸襟をひらいてつきあいたい。そして、「星の王子様」に出てくる薔薇のような女性の側面は嫌悪してますしね。女性のそういう側面に媚を売ることは死んでもするかと思っている(このことを肝に銘じていたら、私とつきあいやすくなるよ、女性のみなさん)。

 そして、圧倒的なまでのひとつの対象への持続的集中力としぶとい職人性。気難しさ、「瞬間湯沸かし器」、一種恍惚とした超越的世界に一瞬にして突き抜ける側面(空海さん)、そして、好戦的なところ、とくれば、むしろいよいよ『闘士型』こそベースとわかる。

 時代が違えば、私は宮本武蔵か、それこそ、中世スペインの英雄「エル・シド」なんです。

 あるいは、現代なら、言うもはばかれるけど、イチロー中田!! 


 だから、「お通さん」や「ヒメナ(エル・シドの妻。映画のソフィア・ローレンですね。この人、ホントにエル・シドの死後、2年ぐらいはバレンシアの領主を務め上げたくらいに「できた」人だったみたい)のような女性を心の中でずっと求めている(「イカ天」の頃の、イチローの奥様、もう、最高に好みの女性でした!!)し、そういう女性たちをほんとうに苦しめかねない。

 すぐに旅立っちゃたり、人質に取らせたり、やりかねないので。自覚してます。この点で女性に負担が大きいのは。

 でも、今は政略結婚やお世継ぎのためにで妾を増やす「現実的必要」ないでしょ?
 ほんとうは、すごーーーーーく、一途ですよ!!!


******


 ......となると、まずADHD(注意欠損障害)仮説はちょっと似合わない。確かに話題は次々飛ぶけど、私って、実は何を「話題」にしいていても、実は、手を換え品を換え、同じテーマを追求しているということは、すでに常連の読者の方はお気づきかと思います。

 学習障害仮説は肯定します。テスト用紙に向かいさえすえば、業者テストの国語は学年一、社会科も、普通に勉強して業者テスト全国上位、共通一次試験第一期生で国語自己採点198点。

 一方、数学は、幾何など、空間認識が関われば、あるいは「集合論」(記号論理学って、実は「集合論」との親和性が高いのは、学んだ人は知ってますよね!)には、ついていけたばかりか、ある種のセンスがあったけど、要するに微分・積分・方程式の世界を全く理解できない永遠の学年最下位


******

 もっとも、ほんとうの学習障害の人って、この程度のものではないことは、先日の研修会で笹森理絵さんのお話に接して、よくわかりました、彼女の100倍希釈に過ぎませんね。私の学習障害度は。


*****


 いずれにしても、これで私の今年の恋愛の抱負、「とことん高望みしてみる」の真意が少しつたわりましたよね。

「その人を自分が苦しめ、傷を負わせないかとうか、十分に吟味し、少しずつ交際を深める中でお互いを理解していく。できるだけいきなりセックス(セルクス)しない(爆)」

ということ!!

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2008/01/06

みのもんた司会の、歴史番組「ローマ帝国」

  1/3に放送されたものですが、かなりよくできていた。基本的には塩野七生さんの「ローマ人の物語」を公式に参照し、BBCの歴史番組ともタイアップしてのもので、特にハンニバル戦記や、一般には「暴君」とされるネロの実像についてなど、なかなか魅せるものがあった。

 ただ、ひとつ思ったのは、どんなに良識的であっても、歴史とは、常に過去の人間からみての「物語化」というものを超えられない。カエサルがどれだけ緻密にビジョンをたてていたとしても、それらは、ほんとうに最初から見通していたのか、自分の直感を信じるままに、必死に生きていたら、結果的にそうなったのか、ほんとうのところはわからないのである。

 歴史の弁証法は、常に遡及的(retrospective)なものである。これは個人についてのカウンセリングもみなそうである。それを決して忘れたくないと肝に銘じた次第。


 実はこの記事、こちらで紹介する別の夢の伏線でもあるのだ。

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2008/01/01

今年の公約:外に向けての活動を充実させる。

1.日本心理臨床学会と日本人間性心理学会で事例研究発表、計2本。

 2,3年ぶりかな。開業後初でしょうか。

 恒例ですが、心理臨床学会では、座長先生を他流派の先生をお迎えして、ほとんど他領域の皆様しかいないフロア状態にする、他流試合しかしません。

 敢えて言います。さもなければ無意味です!! 現場に意味のある実践を、流派を超えて共有すること!!


2.地域での公的活動の中に私のカウンセリング経験を役立てる活動に踏み出します。

3.「大船でフォーカシングを学ぶ会」に、平日夜の【C日程】を創設。

4.全く新たな「メディア戦略」(?)での、カウンセリング講座の開設。

5.「大船でフォーカシングを学ぶ会」スタイルの、地方出張臨時講師数件以上実現する。

6.順調に痩せ続ける(^^)

7.当ブログ訪問者、週平均1000アクセス最低何回かは実現する。

8.浜崎あゆみのライブに最低2回行くこと(^^;)

9.その他、思ってもみない形での経験領域で進展すること。


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2007/12/28

クライエントさんからの注文や不信の念の表明といかに対峙できるか(第2版)

 すでに何回もこのブログで書いてきたことなんだけど、ある意味で増井先生シリーズ佳境に入ってきましたし、ちょうどいいタイミングかもしれないので。

 神田橋先生がおっしゃった、「自閉する能力」という概念があります。

 これは更に普遍化されて、

 「症状」という言い方をする時に、「.....する能力」と読み替えてみたら?

と提言されています。

「引き籠もり」症状ではなくて、「引き籠もる」能力
「人目が気になる」症状ではなくて、「人目を気にする」能力、
「すぐに風俗に通う」問題行動ではなくて、「風俗に通える」能力、
「人にお節介を焼くことで、その相手を自分の人形のように依存させる」能力
「ずる休みをする」問題行動ではなくて、「する休みできる」能力
「解離」症状ではなくて「解離できる」能力
「鬱」症状ではなくて、鬱に陥れる「能力」
「本当の自分を出せない」悩みではなくて、「本当の自分を出さずに済ませる」能力

......と言った具合ですね。

(これだけ並べると、むしろ少なからず多くの人に確かにある程度ある、「適応」能力にすら見えてくるから不思議です)


******


 これは決して単なるポジティヴ・シンキングなどではない

 そのようにすることで、
 クライエントさんは、かろうじてここまでやって来れたのであり、

 もしそういう能力がなければ、
 もっと悪い状態に陥って「いた」かもしれない、

......と、考える余裕を治療者は持て、ということだと私は理解しています。


*******


 この「.....する能力」の応用問題として、神田橋先生の直弟子である増井先生と、その増井先生の兄弟分である田嶌先生が共に強調する事柄に、

「拒否能力」

更に、

「注文をつける能力」

という、現場臨床的に見て画期的な概念があります。

鬱病圏にせよ、統合失調症圏にせよ、神経症圏にせよ、日常の中で、あるいは職場や親などの「重要な他者」との関わりにおいて、こうした能力に乏しい方が多いことを実感し得る現場セラピストは多いからです。

 受容、共感とよく言われますけど、殊に日本人の場合、受容されればされるほど、カウンセラーにほんとうの思いを言えなくなるクライエントさんは、ありがちです。

 わかりやすく言えば、ずっと「人に嫌われないいい子」であろうとしてきた人は、カウンセラーの前でもそれを当然繰り返します

 カウンセラーを信頼すればするほど、


「嫌われたらどうしよう」症状、

もとい、

「嫌われたらどうしよう」と思える能力


が発動するのですね。

 ......そのことに気づかないままでいるカウンセラーなど滅多にいないと信じますが(^^)


 あるいは、人に対する(あるいは、それまでのカウンセラーに対する)不信感が強いあまり、最初からカウンセラーをいろいろ試みるクライエントさんがいるのも、「援助を求めたい相手に、安易に気を許さない防衛能力」といえるかと思います。


*****


 いずれにしても、

それまであまり苦情やカウンセリングの進め方について
違和感や苦情を言わなかったクライエントさんが、
敢えてそれを口にした時

あるいは、

これまで面接の中で取り扱わなかったテーマを
敢えて取り上げたいと自分から申し出る時
には、
それ相応の覚悟を決めていたり、
勇気をふるっていることが多い。

 少なくとも、そのカウンセラーを信じたいという気持ちと不信感がギリギリのところでせめぎ合っていることが多い。

 この時のカウンセラー側の態度如何で、より面接が深まるか、それとも堂々巡りしたり、突如中断したりするかの分岐点になることが多いのは確かです。

 見え透いた「注文歓迎」の姿勢や、「お茶を濁す」態度、あるいは議論のすり替えなどは、容易にクライエントさんに見破られます。


*****


 以前にも書きましたが、こうしたことへの感受性は、少なからぬ場合、カウンセラー自身のカウンセリングの師匠(たとえばスーパーバイザーに)対して感じた違和感を自分でどのように見つめ、対処してきたのかが如実に反映します。

 得てして、カウンセラーは、自分のカウンセリングの師匠の嫌な部分だけを無自覚に取り入れるという「反復強迫(やりたくもないし、用心しているのに、実はそのことをいつのまにか繰り返してしまうこと)」を持っています。

 これは、多くの一般の人が、親を反面教師にしようと懸命に努めてきたのに、いつの間にか、自分の子供が自分のことを、かつての自分と同じように嫌っている事実に直面してショックを受けるのと全く同じ次元でのことなのです。

 そういう意味では、そういうカウンセラーになってしまった責任は、実は師匠との関係性の質に大きく影響される(どちらが悪いとは言えませんが)。

 ただ、師匠に全責任はないにしても、そういう「スーパービジョン」や「教育カウンセリング」経験、あるいは師匠が弟子に研究室の日常の中でどう接したかという「トラウマ」を背負うあまりに、クライエントさんとの関係で苦しみ続け、堂々巡りを続けるカウンセラーがこの世にたくさんいることも確かなようです。

 だから、カウンセラーにどうしても違和感があり、どう伝えても通じない壁があると感じたら、そのカウンセラーは、よほどたちの悪い「師匠」や「先輩」に負わされたトラウマに無自覚なままだ、と発想しているのも、いいかもしれません(^^;)

 この記事もご参照ください。

 更に、こちらの記事で取り上げた映画も、ぜひご覧になることをお勧めいたします。


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 何より、自戒を込めて。


 実は、本日、クライエントさんに痛いところを突かれた経験があったからこそ、その方への感謝を込めつつ、ここに書くことにしました(^^)

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2007/12/26

増井先生シリーズ、久々の続編 : 境界例水準の人の「寝た子を起こすな」へのジェンドリンの見解

 久々なので、この増井先生シリーズの長期連載最新目次こちらにあります。

 興味のある皆さんは,復習、よろしく!!


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25. 体験過程の様式が極端に構造に拘束された場合
  (精神病,夢,催眠,CO2,LSD. 刺激遮断(Stimulus Deprivation))

(中略)


g) 精神病的諸経験は「抑圧されたもの」(the repressed)ではない

(前略)

 「精神病的な内容が潜在している」という考え方に従うときには,二つの誤りに陥る危険がある。我々はある人間の感じている困難や障害を(それらの感情が明らかな精神病という階段にまで発展してしまわない場合には)無視したほうが良いと決めるか,あるいはそれらの感情を「解釈し」,かつそれらを「掘り出す」かのどちらかをとる。

 どちらにしてもこれによって,パーソナルな相互交渉と個人の中に暗に働いている諸感情は否認され,わきへ押しやられてしまう。どちらに決めても,その結果は精神病ということになるだろう。……それら二つの決定のどちらにも共通している点は「内容」が精神病的なのだという,明らかに誤った考えである。

 何か「底にある内容」が「精神病的」だなどというようなものはないのである。精神病的なのは体験過程の構造に拘束された様式であり,感じられた体験過程と相互作用が欠如しているか,文字どおり硬化していることである。

 「境界線にあろうと明らかな精神病にまで至ってしまったように見えようと,もしもまだ機能しているものを前進させるようなパーソナルな反応によって,相互交渉や体験過程が再構成されるならば,その人は「生気をとり戻す」であろう。

             (以上、ジェンドリン「人格変化の一理論」村瀬旧訳、おゆび池見他新訳pp.223-4)


*****


●原文:

Psychotic Experiences Are Not "the Repressed."

The view of "latent psychotic contents" leads to two dangerous errors: either one decides that the individual's feelings of difficulty and trouble had better be ignored (lest they "blossom into" full psychosis), or one "interprets" them and "digs" them "out." Either decision denies and pushes away the personal interaction and the individual's implicitly functioning feelings. Either decision will result in psychosis-they involve the same selfverifying misconception that "contents" are psychotic.

There is nothing "psychotic" about any "underlying contents." What is psychotic is the structure-bound manner of experiencing, the absence or literal rigidity of felt experiencing and interaction.

Whether "borderline" or seemingly "gone," the person will "come live" if interaction and experiencing is reconstituted by personal responses which carry forward what does still function .


******


●阿世賀の再訳:


 「精神病的な内容が潜在している」という考え方に従うときには,二つの誤りに陥る危険がある。

 すなわち、我々はその人の感じている「むずかしさ」や「ややこしさ」について、(それらの〔言葉にならない〕感じが明らかな精神病という段階にまで花開いてしまっていない限り、)〔触れないまま〕無視したほうが良いと決めるか、それとも、それらの感じを「解釈し」、かつそれらを「洗い出してしまう」か、どちらかを採(と)るのである。

 どちららの対処を採るにしても、これによって、〔治療者とクライエントの間での〕パーソナルな相互交渉と、〔クライエント〕個人の中に暗に働いている様々な〔曖昧な〕感情は否認され、わきへ押しやられてしまう。どちら〔の治療的態度〕に決めても、その結果、精神病的〔注1〕になるだろう。


 (〔注1〕ジェンドリンはここだけ「精神病的」という言葉を " "、つまり「括弧入り」=いわゆる「○○」、と慎重に述べることを敢えてしていないことに注目。それならこう訳すのが素直である。「こんな対処しかできないから、みすみすホントに精神病的にしてしまう」と、さらりと言ってのけていることになる。


 ……これら二つの対処法のどちらにも共通している点は、「内容(content)」が精神病的なのだという,明らかに誤った考えである。

 何か「底にある内容」が「精神病的」だなどというようなものないのである。精神病的なのは体験過程の構造に拘束された様式であり,感じられた体験過程と相互作用が欠如しているか,文字どおり硬化していることである。

 「境界例状態」にあるか、あるいは、明らかな精神病にまで「行ってしまった」かのように見えようと,もし、〔クライエントの内部で〕まだしも機能しているものを前進させるような〔治療者の〕パーソナルな反応によって,相互交渉や体験過程が再構成(reconstituded)〔注2〕されるならば,その人は「生気をとり戻す」であろう。


 (〔注2〕以前も解説したとおり、ジェンドリンが「再構成化(reconstitution)」という単語を用いる場合、そこには体験過程の「推進」=フェルトセンスと象徴化の相互作用は含まれない。直接注意を向けられもしないままに進行する、暗々裏の機能のことである)


******


 この部分、残念ながら、我が師、村瀬孝雄もまた、この部分の本来の脈絡まで見通せずに訳していたように思う。


 実は、増井先生のように、「こころの整理法」で、気がかりの「置き場所」をひとつひとつ見つけていく場合も、

 田嶌先生のように「壺を思い浮かべる」にしても、

(個々の「具体的な何かを入れるために壺」として思い浮かべる、とは田嶌先生の本来の「壺イメージ法」では言われていない。せいぜい、「私の心の中のものがすべて入っている壺」というのが正式の教示である.....このことはすでに田嶌先生から個人的にうかがって確認済みである)

 実は、

体験の内容を「洗い出す」ことはしないまま

   しかし、

〔クライエントの内部で〕まだしも機能しているものを前進させるような〔治療者の〕パーソナルな反応 

をしていくための、非常に実用的で無害なやり方のバリエーションとして、見事にマニュアル化されたものに他ならない、と位置づけられることになる。

 壺を思い浮かべる能力、置き場所を見つける能力は、あくまでもクライエントさんの体験過程に依存している。

 治療者の側から具体的な「置き場所」や「どんな壺か」を押しつけることは、有害無益であることは言うまでもないだろう。

 (.....まだ現在でも、一部の専門家の間で、このことの危険性に気づかないまま安易に適用されている可能性は否定できない)。


*****


 いずれにしても、

  増井先生と、ジェンドリンの言っていることとは、この点では全く矛盾しない


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2007/12/21

相談を受ける側の方から労わってもらえるようになった時こそ、変化ははじまる  -"Beautiful World"に寄せて- (第2版)

 引き籠もりの相談において、明らかに引き籠もり本人以上に、周囲の家族が堂々巡りしていることが事態を悪循環させていると思えることは少なくない気がする。

 すでに斎藤環氏の著書、「社会的ひきこもり」について紹介した際に述べたように、本人を引っ張り出していきなり外部の相談機関に連れ出そうとすることは、そもそもそういう誘いそのものが激しく拒絶されたり、仮に一度引きずり出せても、ひとつ行き違うと、そういう親の態度に本人は不信感を強め、あるいは医師やカウンセラーとの出会いの際に、ちょっとした行き違いで傷つき、その後、援助的専門家への抵抗感を強めるだけに終わることも多い。

 家族に残るのは、せっかくの思い切った試みも成功しなかったという挫折感と無力感であり、結局当面は、「本人がいつか何かのきっかけを掴むかだろう」という、実は内心では必ずしもそれを信じていない希望的観測の名のもとに、再び、「何とかしようとはしない」、以前の状態に逆戻りすることの繰り返しである。

 つまり、こうやって、実は

 「家族全体が、引き籠もりについて『引き籠もって』いる」

 悪循環の構造が生まれることとなる。

 斎藤氏が、オートボイエーシス理論に基づき強調したのは、本人をいきなり「外部の」専門家に引き合わせようとするのではなく、家族の誰かがまずは外部の援助者(ひょっとしたら、プロでなくてもいいのかも?)に、話をじっくり聴いてもらえる密接な関係の樹立ができるかどうかということである。


*****


 しかし、両親や要(かなめ)になる保護者に当たる人に、そうした動機づけが育まれない時点でそれを「強制」しても、実はうまくいかないことが少なくない。

 もちろん、このあたりは、家族を援助する側の人間の「腕」と「センス」にも大きく影響されることはいうまでもない。少し皮肉に響くことを言えば、斎藤氏の著作を表面だけマニュアルとして受け止めた援助者は、なかなか家族とのパイプが円滑に築かれない時点で、それを斎藤氏のマニュアルのせいにしがちかもしれない(^^;)

 (.....フォーカシングが効果を上げないことに対して、ジェンドリンは実は一切の責任はないのと同じように。はっきりいって、フォーカシングに関心を抱いた援助者ひとりひとりが受け身に教えてもらおうとという域を超えられず、著名のフォーカシング・トレーナーを牧師か何かのようにありがたがっている状態を超えられない時点で、それは限界を示して当然なのである。

 .....更に、いうまでもなく、フォーカシングに興味を持った人たちその水準に留まらせてしまうのは、トレーナーの側の自己研鑽」が足りないからである。

.....これはことフォーカシングに限らず、広い意味での研究者や、技術者を含む意味でのクリエイター全体に言えることだが、自己研鑽を「探求心を持って」「思わず知らず」深められない専門家は、私は何か基本的な限界にぶつかっていると思う。) 


*****


 例えば、引き籠もりの男性のきょうだい(例えば、当人からすればお兄さん)の配偶者(つまり、昔風に言えば「お嫁さん」ですね)が、見るに見かねて相談に訪れたとします。

 夫の原家族とは同居まではしていない。でも、その「お嫁さん」が、何とか「お義父さん」や「お義母さん」に早くバトンを渡したいというだけではなくて、まさに「お義父さん」や「お義母さん」がなかなか動き出さないことにほとほと困惑しており、自分でもそういう停滞状況が嫌なので、相談に来たとします。

 実はこうしたケースこそが、問題解決に向けて、家族全体が変化していくことが軌道に乗りやすい最良のパターンのひとつであると私は感じています!!

 こういう時に、「本人とも親とも会えそうにないというのでは、困った事態だな」としか感じないのでは、結局、その引き籠もりの家族全体と同じ無力感のジレンマに、その援助的専門家までシンクロしてしまい、ユングふうに言えば、同じ「布置(constellation)」に陥って、立ち往生してしまっているだけなのですね(^^;) 精神分析的に言えば「患者の転移に絡め取られた」状態ということになります。


****


 それはともかく、その「お嫁さん」が、引き籠もっている義理のいとこについて、唯一、放ってはおけず、試行錯誤の末に、少なくとも波長が合う時には、本人からすら、心打ち明けて相談を受ける関係になっていたとします。

アニメ映画「時をかける少女」のヒロインは、本人は引き籠もりとは縁遠そうに見えますが、引き籠もり親和的な今の若者の社会的性格を具現してはいると私は感じます。

 彼女は、ほんとうに「おばさん」である、「魔女おばさん」だけに相談できる関係に、実は物語の中で描かれる事件が起こる前からあったみたいに描かれているというのは、実はすごくリアルかつ現実的なのだと私は感じています)


*****


 先ほどの、「お嫁さん」と義理のいとこの関係に話を戻しますと、
 例えば、


「実はこの前、私が疲れていながらも、○○君からの電話で話を聴いてあげてはいた時に、突然、彼が、


『おばさんも今日は疲れているみたいだね』


.....と自分から言葉にしたんですよ。電話を終わった後で、すごく落ち込みました。だって、彼のことを心配し、何とか助けになってあげようとしているのは私の方なのに、彼の方に心配してもらうなんて、情けないなあ....と」

 カウンセラーは、少し沈黙したあとで、次のように、彼女に語りかけます。

これまで、そうやってあなたのことを気遣う言葉なんて、彼から聞いたことはなかったのですか?」

彼女はうなずきます。


 カウンセラーは続けます。

自分のことで手一杯のうちは、相手を労(いた)わる言葉なんて、自発的に出ようもないのではないでしょうか?」

彼女は答えます:

「......そう言われてみれば、そうかも.......

 ......そうそう、確かに彼、以前よりは物事に動揺しなくなってきている気がする。

 突然声も荒げたりしないいな、最近。

 .......ひょっとしたら、私の方が勝手に動揺しすぎているくらいなのかな.....」


 恐らくそれは、まさに真実の一面をついているでしょう。

 本人よりも、相談を受ける側の方が、
 取り越し苦労が過ぎるくらいになっている
関係まで進めていてこそ
 その援助者は、
 本人の援助をしっかりできているばかりか、
 本人の相談相手として有効に機能しはじめているのではないか?


 赤ちゃんよりお母さんの方が不安になってあげるからこそ、
 (ビオンふうに言えば"container"=赤ちゃんの受け皿としての柔軟だが強靱な「環境」)になって、"reverie"=「思い煩って」あげるからこそ、)
 赤ちゃんは自分の不安の受け皿を「世界」に見出し、
 エリクソンのいう、
 周囲に対する「基本的信頼」優位に到達できるともいえます。

 その時こそ、
 人は、安心して、
 自分なりの道を、自分でも模索し、
 更に、他人からのアドバイスを、適当に取捨選択しながらも、
 自分なりに活用していく
だけの

 「聞く耳」

 を持てるようになれるのではないでしょうか。


*****


 BGMを宇多田ヒカル宇多田ヒカル - Beautiful World / Kiss & Cry - EP - Beautiful World"Beautiful World"にしたのには、実はいろんな思いを込めてのことです。

 曲のタイトルの含蓄、そして、曲の歌詞をじっくり読みながら聴き直していただくのもおもしろいかも。

 そして、歌い手のひっきー自身が、
 今時の十代の若者の「相談相手」として電話で接している時のやりとり

 (つまり、さりげなく、詞の中で共感的にひとり二役している)
 みたいなつもりで聴いてみると、
 私の、この曲紹介の意図がつかんでもらえるかも???

 iTunes Store(Japan)


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2007/12/14

自閉症・学習障害を中心とする、発達障害についての理解度テスト 正解は?

 何日か経ちましたので、先日の日本臨床心理士会「子育て支援研修会」の第一分科会「発達障害」の部の参加した私がためしに作ってみた、

「自閉症・学習障害を中心とする、発達障害についての理解度テスト」

の解答編です(^^)

******

1.自閉症は、引きこもりとはっきりした境目がない。

×=「引きこもり」とは、あくまでも社会問題や教育の領域で用いられる概念です。そこには、思春期の一過性のもの、「生徒・教師からのいじめ」「アイデンティティ拡散」「鬱病」「統合失調症」「退却神経症」「親と関係の問題」など、様々な原因を複合的に鑑別していく必要があります。しかし、狭義の「自閉症」や「学習障害」「ADHD(注意欠陥障害)」などの「広汎性発達障害」の、いわば二次的症状の場合もあり得ます。これらを鑑別診断できる力は精神科医に備わっている(はず)です。


2.自閉症者には、ある特定の面では知的・能力的に優れていることが多い。

×=その種の例ばかり取りざたされた時代がありました。「サバン症候群」とも呼ばれます。しかし、特に自閉症の場合、すべてのIQにわたって分布しているとみなす方がいいようです。もっとも「学習障害」は、確かに、優秀な知能と、それとあまりに不釣り合いな、一般生活場面におよぶ能力の低さが 見られるケースも少なくないようです。「学習障害」とは、後述するように、単にある特定の教科ができない、などどいう生やさしいものではなく、生活全般に支障を来たすことが多いことについては、今日まだあまりに認識が広まっていません。また、自閉症との鑑別も、その道のプロでないとなかなか難しい。


3.発達障害の診断基準は、国会で批准されている。

○=ICD10(「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」)そのものが国会で批准されているのですから。DSM-IV-R(「精神障害の診断と統計の手引き」)とICD-10の間には広汎性発達障害について、おおよそは似た基準になっていますが、専門家にとっては軽視できない、若干の違いがあります。


4.リタリンを服用しても、ADHDや学習障害の人に、効き目はあっても副作用が生じない場合も多いことについての理解が欠けたまま、現在のリタリンについての論議が進行していることに注意が払われる必要がある。

○=このことが、どれだけ発達障害の皆さんに不安と動揺を与えたことか!! ハイになることも、幻覚を観ることも皆無、副作用全くなしという患者さんがいっぱいいます。


5.薬物療法により、発達障害の人の生まれながらの視力の弱さが劇的に回復することがある。

○=生まれつき視野狭窄で弱視の重度の「学習障害」の方自身が講演なさいました。医師の処方でリタリンを服用するようになってから、「世界に輪郭があることに驚いた」そうです。


6.学習障害の人に、知覚過敏を伴う人がおり、どんなに質のいい水でも直接飲めないというケースは十分考えられる。

○=自閉症の知覚過敏はさまざまな本でかなり知られるようになりましたが、学習障害の人にも随伴する場合があることは、あまり知られていないでしょう。これも前述の講演された方が話して下さったことです。ではどうするのか? 「お茶」を持ち歩いているそうです。これが、好みの問題などという次元では全くありません。普通のご飯を口にしただけで、まるでキャベツの千切りを口の中にほおばったみたいに感じて食べるのに不自由する人すらいます。なぜ「広汎性」発達障害というのか? 障害が、いくつもの面でで出るからです。


7.ナチス・ドイツと第二次世界大戦が、自閉症の臨床研究を20年近く停滞させることに影響した可能性がある。

○=自閉症について、今日も通用している3つの基本的な診断基準を確立したのが、ドイツアスペルガーという人。クレペリンの弟子です。今回Wikipediaで調べたら、何と1901年に、すでに「アスペルガー病」と名付けた第1号の事例を公表しています。でも、1943年に、後述の、カナーと共同執筆した論文こそが、その後の広汎性発達障害の研究史に重大な影響力を持つに到る記念碑的論文です。しかし、ナチ国家、ドイツでのこの業績は、戦時中の刊行ということもあり、戦後忘れ去られ、1960年に再発見されるまで埋もれていました。


8.自閉症や学習障害の診断を受けたご本人に対して、十分な配慮とアフターケアをしながらであれば、「告知」とインフォームド・コンセントをするべきである。

○=自分がなぜこんなに苦労するのかわからないまま成人している人たちもたくさんいます。この障害の受容は、「死の受容」と同様に、「否認」→「軽く見る(価値の引き下げ)→「抑鬱」→「受容」といった展開をたどるそうです。もちろん、本人、ご家族への、わかりやすくて誤解の生じない丁寧な説明(インフォームド・コンセント)、そして、不安になったり行き詰まった時の、専門の精神科医や臨床心理士、精神保健福祉士、ケースワーカーなどに相談できる態勢、長い人生に渡って専門家の援助を受け続けられる態勢があってはじめて意味があることです。


9.第一次世界大戦の被害者が、発達障害の研究の進展に意外な貢献をしている。

○=この件について書き留めたメモがみつかりませんが、ある種の細菌性(中毒性?)の疾患についての研究が、発達障害についての科学的(化学的)解明に大きく影響したとのことです


10.自閉症の器質的病因(脳神経的な科学的・解剖学的・組織の化学分析基づく原因、外界からの物質の毒性などの要因)は近年ついに実証された。

×=ほんの数年前までは、「微細脳損傷」がよく使われましたが、生理学的にも解剖学的にも実証されていない事柄です。現在では「先天性の脳機能不全」と呼ぶそうです。なお、どのような薬が援助になるかはかなり解明されましたが、それはあくまでも対症療法的なものです。例えば、抗てんかん剤は、かなり処方される可能性が高い薬のひとつです(脳波異常がなくても)。


11.自閉症であることは、生まれて2週間の乳児の観察で、その可能性が十分診断できる。

×=これも以前の教科書にはよく出てきました。「生後2週間たってもアイ・コンタクトができない」などと。確か、カナー(「早期幼児分裂病」とは異なるものとして鑑別した最初の人。後に、アスペルガーと共著で、「情動的交流の自閉的障害」("Autistic Disturbances of Affective Contact")という歴史的論文を1943年に執筆)何と、原文(英語)がPDFでダウンロードできます!!)がすでに言い出したことだったか?

 しかし、乳児の視力が弱いのは当然ですし、ピアジェふうに言うと、認知発達の面で、感覚運動期(0~2歳)から前操作期(2~7歳。 ごっこ遊びができるようになる)になかなか進まない上に、認知発達に独特の不均衡が出てくるあたりでやっと、多角的な確定診断ができることが多いとのことである。その点では、後述するように、1歳半検診と3歳児検診でのスクリーニングが重要である。本来なら「6歳児検診」もあった方がいいという意見がすでに出されているが、実現には困難を伴う。その結果、小学校入学前の「就学相談」が公的には重要なポイントとなる。しかし、対人関係上の問題や、日常の生活習慣や、情緒面での独特の問題が一番くっきりと浮かび上がるのは、まさに「幼稚園時代」となるので、費用はかかるが、「幼稚園への巡回検診」の実現をこそ提起しておられる先生もある。

 ちなみに、ピアジェの発達理論の影響を受けた、発達障害や認知症の見立てと個別治療プログラムのことを、「太田(正博)プログラム」と呼び(このページ参照)、この領域の専門家ならご存じのことが多い専門技能らしい。


12.学習障害者は、例えば、社会科は学年で最優秀、しかし、算数や数学はほとんど全くできない(1450-100すら答えられない)というような現象がみられることも少なくない。

○= 先述したが、これほどすごい能力の不均衡が学習障害者にあることはまだまだ認識されていない。今回の研修会で体験をお話下さった笹森理絵さん(NHK教育テレビにも何回も登場している、自著もまもなく出版される方で、ご自身広汎性発達障害者の「語り部」として生きていくことを決断した方)は、「今は12時12分なので、15分間休憩」といわれて、それが12時27分であることを暗算できない。だから、いつもアナログ時計を持ち歩き、文字盤を1分、2分と数えているそうである。このようなわけで、「出来の悪い科目があってもいいじゃないか!!ではとてもすまない、まさに生活の基本に関わる障害なのである!!

 もちろん、長所をほめることも大事であるが、むしろ、劣った能力のために生じる「その人とその家族固有の」生活上の困難を一緒になってひとつひとつ解決していくために、家族も共に学ぶ、一種の認知行動的アプローチである、ABA(応用行動分析)(このページ参照)や、TEACCH、PECS、K-ABCなどといった手法が重要である。

 ABAについては、発達障害や認知症に限らず、私のような開業臨床心理士の日常心理臨床にもたいへん大きな意味を持ちそうなので、本格的に学んでみるつもりである。

 ちなみに、この技法の熟練者は、「フォーカシング指向心理療法」の認知行動的アプローチとほとんど差のない領域にいると強く感じた。つまり「細やかな共感性」「場の空気を柔軟に読む力(最近はやりの"KY"=「空気が読めない」の正反対)、そして、「ご本人やご家族と一緒に考え、自発的な提案を尊重する」、「小さなステップの積み重ねの重視」「どこまでも個別的な問題解決法を創造する」といった点、そしてそれらと「容易に関係に巻き込まれない冷静さ」こそが肝心要であり、頭でっかちな技法の適用はむしろ危険であり、一件単純に見えて、実は相当な習熟スキルであり、実生活で自分のために、半ば遊び心を保ちつつもマジに役立てる域の修練が必要なのは、結局どんな技法でも同じことだと痛感した。


13.一般の人や教師が、その人が学習障害であることをほとんど全く実感できないことも多い。

○=もうここまでの説明で十分かと思います(^^)


14.癲癇(てんかん)や、鬱病、統合失調症と、自閉症が「合併症」であるケースは十分に鑑別診断されるべきである。

○=「合併症」とは、「二次障害」とは異なる概念である。まさに「同時に」そうした障害でもあることがあることをはっきり鑑別できるだけの、医師の専門的診断能力が必要ということ。最近、小児科医のなり手が少ないといいますが、どうです? この領域の児童精神医学の専門医をめざすと、すごくたいへんであると同時に、社会的に必要な、はりあいのある仕事だと思いますが? 今後、高齢者の認知症問題とともに、こうした広汎性発達障害の皆さんのための公的施設は、拡充されることはあっても減ることは決してないはずです。そして、認知症と広汎性発達障害の患者さんやご家族への専門スキルはかなり重なるようです。

15.校内暴力の加害者や被害者について、その人が自閉症や学習障害である可能性をは、今日過剰に問題視する傾向がある。

×=これは正反対。「加害者」も「被害者」も、どちらも考慮に入れるべきでしょうが、殊に、突如「特別支援学級」を任された先生方、どうかこの領域についてセミナー等を受講されることをお薦めします。


16.職業訓練所では、すでに自閉症や学習障害の人に十分に配慮された訓練体制が整いつつある。

×=職業訓練所の平均水準はまだまだとのこと、このあたりは、ケースワーカーの人の腕のふるいどころでしょうね。


17.学習障害の人は、障害者手帳の受給は非常に困難だが、精神保健手帳の受給は幅広く認められつつある。

×=これは現状では正反対のようです。入れ替えた理解が的確。


18.自閉症についての臨床研究および現場臨床においては、薬物療法的アプローチ、認知療法的アプローチ、行動療法的アプローチの間に鋭い見解の対立がある。

×=私の参加した研修会には、これらのアプローチの日本の第一人者の先生がひとりずつ演壇に立たれましたが、むしろ相補うといいますか、「.....についてはこのあと○○先生がくわしくお話し下さるかといますが」「これは先ほど○○先生のご指摘にもあった通り、...」ばかりの内容でした。


19.家族に対する支援としてのカウンセリングが、本人の変化に大きな影響を与えることがある。

○=いかに家族と本人の関わり合いが「二次障害」や社会適応、発達促進の上で決定的かはすでに述べてきた通りのようです。まして、広汎性発達障害の家族をお持ちということ以外に、いろいろ悩みをかかえている方はたいへん多いので、広汎性発達障害のご家族についてはすでに援助的ネットワークをかなりの程度高度に築かれている方については(そうでははない皆様については専門家や民間の組織をご紹介(コンサルテーション)することも重要なのは言うまでもありませんが)、通常のカウンセリングのサポートこそ補完的な意味が大きい場合が少なくないかと思います。私自身そうした経験を持っています。継続面接十数回でしたが、お母さんが自分を見つめ、個人としての日常生活をいかに自分が望む方向に具体的に改善するかをお手伝いするだけで、結果的に障害を持つお子さんへの対応も変化し、お役に立てたようです。

20.1歳半検診と3歳検診を受けなかった子供に、発達障害の可能性が高い子供たちが含まれている可能性を置き去りにしたまま、今日、発達障害者とその家族の支援システムが形成されつつあることへの危惧がある。

○=1歳半検診で10%、3歳検診で5%のご家族がお受けになっていないそうです。この中にこそ、実は発達障害の可能性を慎重に判断した方がいい人たちが有意に多く含まれている可能性があるそうです。ですから、「検診に来た」親子に対する、医者や保健士さんの鑑別能力の水準を高めるだけをもって「システムの整備」と呼ぶのは、重大な見落としがあることになります。先述した「幼稚園の巡回検診」は、そうした短所を補い得るわけですね。


*****


 以上、発達障害の専門家でもないのに、書かせていただきました。

 応用行動分析については、こちらの記事もご覧ください。

 もとより私は、大学学生相談で、高機能自閉症の大学生の問題に最も早くから直面したひとりです。大学全入時代、そしてAO入試や社会人入試の興隆の中、この問題は大学当局者も関心を持つべき重要な課題になってきていると思いますが。

 それは単に「学力不足」「コミュニケーション不全」の次元を超越している深刻さがあることについては、今回お書きした範囲でもお伝えできていると思います

 実際、私が数年前、日本学生相談学会初の「発達障害」研修分科会で「ただひとり」具体的事例を報告してからほんの3年のうちに、すでに大学学生相談の現場で大きなトピックになってしまいました。

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2007/12/13

ジェンドリン、2007年"Victor Frankl Award"受賞!!

 以下は、日本フォーカシング協会前会長、2009年フォーカシング国際会議実行委員長の、池見陽先生(関西大学)が、協会メーリングリストに報告して下さった内容の転載です:


******


  皆様


 ご存知と思いますが、ジェンドリン が Victor Frankl 賞を受賞しました。

 この賞は"outstanding achievements in meaning-oriented humanistic psychotherapy" に対して授与されるもので、ウィーン市とフランクル財団[VIKTOR FRANKL INSTITUT}が運営するものです。

 昨日付けでこれを報じるメアリー[・ヘンドリックス]のメールにある、ジーンの談話を貼り付けておきます。


池見 陽


"Yes, I knew Victor Frankl. I published one of his articles in the journal Psychotherapy;Theory Research and Practice (The journal of the clinical division of the American Psychological Association of which Gendlin was the founding editor).

I remember the editorial consultants wanted changes. I sent their comments to Flankl but told him in his case we would publish the article in any form he wanted. He wrote me a very appreciative letter about it. Also we met at some psychotherapy congresses in Vienna. I remember one especially good conversation we had.

Frankl’s writings showed that natural science was no reason to lose the role of the human dimensions. Our work makes room in the world for human meaning and human intricacy, but not in conflict with science. We both show human experience is wider than science.”


Akira Ikemi, Ph.D.
http://www.akiraikemi.com/ai


******


 上記のジェンドリンの談話を、拙く、不肖ながらも、私が訳してみます。

「ええ、私はヴィクトール・フランクルを存じ上げていましたよ。私は、"Psychotherapy Journal"で彼の記事のうちの1つを"Theory Research and Practice"(ジェンドリンが創刊した、アメリカ心理学会の分野別の会誌)で公表しました。

 私は、選考委員たちが変更を望んだのを覚えています。私はフランクルlに彼らのコメントを送りました。私たちは、彼の場合には、論文を、何としてでも公表して差し上げたいことを伝えました。彼は、それについて私に非常に思慮深い返事を書いてきて下さいました。また、私たちは、ウィーンでのいくつかの心理療法学会で会いました。私は、彼と話がはずんだ時のことをよく覚えていますよ。

 フランクルの著作は、自然科学が人間にとってある一定の役割を担い続けることにはかわりないことを示してくれました。私たちの仕事は、科学との争いなのでなく、人間にとっての「意味」と複雑性の領域を開拓しました。私と彼は、どちらも、人間の体験が科学より幅広いことを示してきたのです」


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2007/12/09

自閉症・学習障害を中心とする、発達障害についての理解度テスト(第2版)

 今日の、日本臨床心理士会、「子育て支援研修会」で学んだ成果を、早速復習しながら、それを「理解度テスト」として、読者の皆さんに公開することにしました。

 今回の半日の「発達障害」研修が、私がこの種の研修会でかつて体験したことがないほど、わかりやすくてしかも高度なものと感じました。

 私がこう感じたとしても、理解し、同意してくださる、同じ場を共にした、数百人近い、日本全国の発達障害心理臨床の専門家の皆様も多いことを信じつつ。

 最初から最後まで、頭がしゃきっとして、メモを取り続けた私でした。


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 興味のある方は、以下の質問に、Yes/No/どちらともいえないの三択で答えてみて下さい。

1.自閉症は、引きこもりとはっきりした境目がない。

2.自閉症者には、ある特定の面では知的・能力的に優れていることが多い。

3.発達障害の診断基準は、国会で批准されている。

4.リタリンを服用しても、ADHDや学習障害の人に、効き目はあっても副作用が生じない場合も多いことについての理解が欠けたまま、現在のリタリンについての論議が進行していることに注意が払われる必要がある。

5.薬物療法により、発達障害の人の生まれながらの視力の弱さが劇的に回復することがある。

6.学習障害の人に、知覚過敏を伴う人がおり、どんなに質のいい水でも直接飲めないというケースは十分考えられる。

7.ナチス・ドイツと第二次世界大戦が、自閉症の臨床研究を20年近く停滞させることに影響した可能性がある。

8.自閉症や学習障害の診断を受けたご本人に対して、十分な配慮とアフターケアをしながらであれば、「告知」とインフォームド・コンセントをするべきである。

9.第一次世界大戦の被害者が、発達障害の研究の進展に意外な貢献をしている。

10.自閉症の器質的病因(脳神経的な科学的・解剖学的・組織の化学分析基づく原因、外界からの物質の毒性などの要因)は近年ついに実証された。

11.自閉症であることは、生まれて2週間の乳児の観察で、その可能性が十分診断できる。

12.学習障害者は、例えば、社会科は学年で最優秀、しかし、算数や数学はほとんど全くできない(1450-100すら答えられない)というような現象がみられることも少なくない。

13.一般の人や教師が、その人が学習障害であることをほとんど全く実感できないことも多い。

14.癲癇(てんかん)や、鬱病、統合失調症と、自閉症が「合併症」であるケースは十分に鑑別診断されるべきである。

15.校内暴力の加害者や被害者について、その人が自閉症や学習障害である可能性をは、今日過剰に問題視する傾向がある。

16.職業訓練所では、すでに自閉症や学習障害の人に十分に配慮された訓練体制が整いつつある。

17.学習障害の人は、障害者手帳の受給は非常に困難だが、精神保健手帳の受給は幅広く認められつつある。

18.自閉症についての臨床研究および現場臨床においては、薬物療法的アプローチ、認知療法的アプローチ、行動療法的アプローチの間に鋭い見解の対立がある。

19.家族に対する支援としてのカウンセリングが、本人の変化に大きな影響を与えることがある。

20.1歳半検診と3歳検診を受けなかった子供に、発達障害の可能性が高い子供たちが含まれている可能性を置き去りにしたまま、今日、発達障害者とその家族の支援システムが形成されつつあることへの危惧がある。


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 回答は、敢えて2,3日あとに書きます(^^)


【第2版での追記】

 初版に番号振り付けのミスがあったのを修正しました。
 そして最後に新しい質問項目を増やしました。

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2007/12/07

「ユダによる福音書」的にみた、「ここはフォーカシングについて話をする場だから」

「ここはフォーカシングについて話をする場だから」

 前の記事の延長なんだけど、私はこのように言われることに、時々違和感があった。

 私もそれなりにTPOはわきまえているつもりで、関係あると感じたことしか話さないように私なりに気をつけてきた。それが通じないことにいつも苦しんできたとも言っていい。

 「フォーカシング、というものは存在しない」という言葉を、こういう場合にも使いたくなる。

 フォーカシングは、皆さんひとりひとりの中にすでにあるのです。


******


 msnでも一時期話題になった、ナショナル・ジオグラフィックの、「ユダによる福音書」の砂漠の洞窟での1980年頃の盗掘者による発見と、古物商に手に渡ってからのさまよえる軌跡、その修復作業のたいへんさ、それが本物であることについて、パピルスの炭素同位体の減少率から、化学的な証明がされるまでについてのドキュメンタリーの断章、興味深く感じていたが、知人が「AmazonでDVD売っているよ」と教えてくれた。1時間半の長さの割には格安だったので、早速購入して、昨晩観た。

 これから、そのドキュメンタリーにも出てきた学者たちが訳した「ユダによる福音書」の翻訳そのものを読むつもりだけど、実は初期キリスト教会の頃は30以上もの福音書があって、現在新約聖書に収められている、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四福音書のみ聖典とされたのは西暦200年頃らしい。実際に、当時の神学者が、「ユダによる福音書」の内容の一部を紹介して、徹底的に批判している文書は以前から伝わっていた。

 内容的にもその神学者の著述と完全に符合して、この文書が、西暦200年代に成立した文献であることは、すでに現代のカトリックの学者たちも認めている。

 キリスト教の福音書は、マルコやマタイ自身が書いたものではないと今日ではみなされている。それと同様にして、この「ユダによる福音書」も、あの、12弟子のひとりで、イエスをローマに売り渡した「裏切り者、ユダ」自身が書いたものではないことはほぼ間違いない。

 しかし、その内容は、実はイエス自身が、一番信頼していたユダに、自分の肉体を天に昇らせるために、裏切って密告するように頼んだという、凄い内容。そして、二人は天国で再会することを誓い合うのである!!

 この発想の背景には、当時グノーシス主義と呼ばれた、神秘主義的なキリスト教の潮流がある、神は個人個人が自分の中で出会うもの、とされていて、いわゆる「万人の罪を背負って、救済のために十字架についた」という正統派の教えにも関心がない。 そして教会や聖職者が神との関係を仲介するヒエラルキー構造に無関心だった。

 そして、この「ユダによる福音書」の中で、形だけは敬虔な祈りをささげているかに見える弟子たちを、繰り返し笑っているのです。それに対してまともに応対できたのはユダだけだったと書かれている。

 このグノーシス主義は、その後も近代に至るまで、神秘主義的な宗教者の中で命脈を保ち、ユングが凄く影響されているばかりではなく、スイスの少し先輩のヒルティにも感化を与えていたことは、以前にも書きました。

 ヒルティもまた、「形式的な祈りなど、やめてしまえ」と『幸福論』ではっきり書いている人です。


***** 


 ある意味では、私はフォーカシングの世界で「カトリック」じゃない。

 「プロテスタント」ともいえるし、

 こうした神秘主義系の、

   「『神』との個人的な交わり」

を大事にしているともいえるかもしれない。


 だから、ユングとはすごく相性がいいのである。


*****
 

(今回は、エッセイの「序」「破」「急」をわきまえた、ジャンル越境的だけど、すっきりした内容に書けたと思うけど.....)

National Geographic 定期購読

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「人間くさくいたい!!」カウンセラーのブログ

 先週のようなアクセス数はもうしばらくないと思っていたんだけど、今週は更にハイペースなんですよね。

 何しろ、今週は、本日20:00現在、5日間と5/6日にあたるわけですが、トータルアクセスは4,774アクセス(一日平均818.4アクセス)、ユニークアクセス2,553名様(一日平均437.66名様)という、とてつもないことになっていまして。

 皆様に感謝、感謝です。

 何しろ一ヶ月前までの倍近い方においでいただいているわけでしで。

 
******


 さて、私のブログの方法論が「定石やぶり」なのは皆様もご存知のとおり。

 徹底的なノンジャンル全方向的に凝り性のかたまり、自分で言うのもなんですけど、マルチエンターティメント路線

 大真面目な時はこれ以上にない大真面目、遊ぶ時は遊ぶ。
 入門者向けのやさしい内容と、ディープな内容の完全同居。

 それに驚き、当惑する人も多いのは承知。でもだからこそ面白いと行ってくださる方も少なくありません。 

 インターネットの、いい意味でのフラットランド性を生かし抜き、何が何に関連するかという意外性そのものこそが、読者に刺激剤となることを期待しています。

 いまさら、このブログを目的別に分割しても、おいでになる方は全部合計してもかなり減るリスクを背負いすぎていると思います。

 私は要するに、「便利なサイト」を目指してはいません。

 そして、こういう、ブログにおける、私のあり方そのものが、実は私の本業におけるカウンセラーとしてのあり方の専門性の裏づけであると確信しています。

 敢えて自分で書きますけど、皆さんは「ほんもの」を求めている。「ほんもの」であることは、たとえ自分が知らないジャンルだったり、そこまで専門家ではなくて難解だと感じても「伝わる」はず。

 そして、私の顧客さんは、今でも半分は地域に根ざした方々が占めていますし、このブログに関心がないのですね。少なくともこのブログについて行けないから途中でやめたという話は一件もないです(最近は、面接の中断ケースそのものがほとんどなくなりました)。

 私は、恐らく私が生計を立てられる程度にはお客様においでいただくことのほうが、このブログが一日1万アクセスになるより、よっぽどうれしい。

 このブログは、そういう意味で、どこかに「違和感」と「引っかかり」を感じながら読まれるサイトであって欲しい。こうすればメジャーになるという定石だけで大成トしたアーティストやスポーツ選手はいません。以前も書きましたが、「ほどよい違和感こそ宝となる」です。

 ここまでアクセスが伸びてきたら、このままの路線を更に洗練させるという方向に賭けをしてみたいと思います。


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 BGMは、

 みゆきの中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - 本日、未熟者"本日、未熟者"

Startline_2
 そして、
 紅白出場が決まった、

 馬場俊英さんの、馬場俊英 - スタートライン 4 SONGS - EP - スタートライン~新しい風「スタートライン ~新しい風」

.......ということで。

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フォーカシング・ピープルは世界人口のどれだけを占めるか?

 ちょっといじわるな言い方かもしれません(^^;)

 でも、私は、

「すでにフォーカシング学んでいる人たちにとって楽しい有益な交流の場になったのなら、それはそれでいいではなないか」

式の発言を聞くたびに、思わず内心でこのことを連想します(^^;) 

 島国根性、日本的な「身内意識」とまでは言い切りませんが。(....でも言ってる^^;)

 そして、世界には、いろいろな差別や、民族・国家間の争い、紛争地域の住民感情の緩和、刑務所に収監された人たちのメンタル・ケア、終末期医療にフォーカシングを役立てられないかと、身体を張って奔走している人たちがすでにたくさんいることに心を馳せるのです。こうした情報は、Instituteサイトで公開されています。

 そして、2年後の国際会議には、そういう世界の皆さんが日本においでになるのです。

*****

 でも、忘れてはなりません。

 私たちに必要なのは、フォーカシングの布教活動ではないということを。

 なぜなら、私たちは、すでに多かれ少なかれ、フォーカシングが技法として定式化したことをすでに日常の中で無意識のうちにやっているのであって、内的「現象」としてのフォーカシングは、その意味では、徹底徹尾、何人も神聖不可侵な私有財産なのです。

 世界の人たちがすでにひとりひとり所有している所有物です。

 そのことに謙虚であり続けることが、何より、私たち、フォーカシングのトレーナーが決して忘れてはならないことだと自戒しました。

 最後に、島根で独立開業している、有力なフォーカシング実践家、土江庄司さんの言葉を紹介して、結びとさせていただきます:


 私自身「フォーカシングというもの」を伝えることに例え少人数でも四苦八苦していたのですが、「フォーカシングというもの」は存在しない、と思うようになってからちょっと自由になりました。

 個人の中で、あるいは人と人との間で、何か有意義と感じられる進展があるとき、そのメカニズムを全部記述できるのが“フォーカシング言語”なのだと今は捉えています。

 おそらくこれでセラピーも禅も信仰もトランスパーソナルもすべて記述できるのではないかと思っていますし、それがもともとのジェンドリンのねらいではなかったかとも思います。

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2007/12/06

ジェンドリンの全論文がネットで読める(講演も聴ける)

> フォーカシング研究所では、できるだけ多くの人に
> 利用してもらうために、関係のあるインターネット上のサイトに
> たくさん、リンクしてもらうというキャンペーンを
> 行っています。

> 皆さんの中でもホームページをもっていらっしゃる方は、
> ぜひ、リンクをお願いします。

http://focusing.org/gendlin/

 これは、フォーカシングの世界では、皆様おなじみ、大正大学の日笠摩子先生からの、日本フォーカシング協会メーリングリストでの呼びかけです。

謹んで転載させていただきます。

*****

 なお、ここに行けば、ジェンドリンの音声ファイルもあるんですね。

 以前の記事でも、何と、iTunes Storeで無料発信されているものがあることをお知らせいたしましたが、† tangine †サイトの nanaさんは、「ジェンドリンのオンライン図書館より」という記事で、

Gendlin, E.T. (2007, June). Focusing: The body speaks from the inside.

をお勧めになっています。

 音声ファイルへのダイレクトアクセスはこちら

 今回のBGMはこのジェンドリンの声.....ということで。


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2007/12/05

日本フォーカシング協会webSiteのURL変更されています。

http://www.focusing.jp/

....という、シンプルなものなりました。

 当面、旧アドレスからも自動転送されるはずですが、協会に興味のある皆様、これを機会に、ブックマークの修正をお願い申し上げます。

 私のサイト、および職場サイトのフォーカシング協会へのリンクは、主なものは今修正しましたが、古いまま残っているものもまだあるかもしれません。

その際には今回の記事を思い出していただければ幸いです。


*****


 なおこれに伴い、私個人の本部サイトの方のWebデザインやHTML記述の問題点の幾つかを整理していました。Byte的にはかなりのダイエットになっていますが、それが実際の表示スピード向上にどれだけ貢献したかは、もともと重たいページなので自信がありませんが(^^;)

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フォーカシング国際会議関連写真集(第2版)

 すでにご案内しましたが、2009年5月下旬に、The Focusing Instituteフォーカシング国際会議日本兵庫県あわじ市で開催されます。

 また、来年、2009年5月には、カナダのモントリオールでフォーカシング国際会議が開催され、現在参加申込みの締め切り過ぎましたが、まだ受け付けるそうです(12/5現在)。

 このモントリオールの国際会議サイトのページを日本語に機械翻訳したページにリンクを張りました。何と!! そこからのリンク先のページもすべて機械翻訳されます!!参考になれば幸いです。 (○さん、Yahoo!の翻訳システムをうまく利用してこういうページを作ってくれてありがとう)


*******


 そこで、もうご覧になった方も少なくないかと思いますが。

 3年前のカナダのトロントでの国際会議の時の写真集が、私のサイトにあります。

●トロントだより

Kempenfeltcentre050526
  トロント郊外 Barrie市 ケンペンフェルト国際会議場


更に、

来年(2008年)の、日本フォーカシング協会「フォーカサーの集い」、

および、

再来年の「日本での」国際会議の会場、

Westin淡路 & 兵庫県立国際会議場の写真が、


●淡路島縦断の旅

の終わりの方、

http://kasega.way-nifty.com/photos/awaji/050708_15481.html

ここからはじまります。


ご参考までに。

Westinawaji070819
     Westin Awaji ロビー

Hyogointernatiolcongress050708
     兵庫県立国際会議場(Westin Awajiと直結している)

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2007/12/03

「ありがちな」フォーカシングを超えて(第2版)

 患者にとり気がかりで仕方のない症状との「間」作りは、それが達成された場合、重い荷物を下ろしたときのような一種の安堵感が発生することであろう。
 しかし患者にとり困難なことは、「こういうことも困っており、ああいうことも困っている」という困っていることについてひとつひとつを整理して置いておくことができない点[である]。
 [更に、]より困難なことは、困っている自分についてあれこれ評価を[する際に]、大抵の場合、自分の至らなさという内省[に留まること]である。
 その困っている「自分」について優しさをもって接する類の、それを行なう本人に何らかの形で自己援助的である内省自体が困難であるということである。

  (増井武士 「治療関係における「間」の活用」 p.48 文節が長いので、私の判断で切り分けました)

 増井先生の、フォーカシングへのあてこすり(?)は、じっくり読めば読むほど、微に入り細をうがつ域に容赦なく踏み込んでいる。私はそれを、増井先生の、フォーカシング・インサイダーへの、叱咤を込めたラヴ・レターだと理解している。


*****


 「その感じに、やさしく『こんにちは』と言ってあげてみることはいかがですか?」

 確かに、このガイドの提案に対して、

 「......(沈黙)........その感じ自体は、どうも『こんにちは』と今更言われても.....みたいに、そのようにあいさつされると、むしろ不信の態度を向けてきているみたいです。....後ろを向いてしまいましたね、『そいつ』」

........なーんていうことを、早い段階から、しかも深いところから言葉にできるフォーカサーなんて、あまりにも素質が優秀すぎる域の方でしょう(^^;)


******


 え?

 「そういう時は、"splitされたacknowledging"、そして、"feeling about feeling"でしょ?」

...って?

 確かに中級のガイドの定石です。


「あなたの中のある部分は、『こんにちは』と挨拶されることに不信感を感じているのですね」

「そのように『あなた』があいさつすると引きこもってしまう『それ』の様子に、『わかったよ』と声をかけてあげてみてはいかがでしょうか?」


......こんなあたりですね(^^)

 しかし、重篤なクライエントさんの中には、基本的に自我が弱い方も少なくない。つまり、カウンセラーが受容的に接しただけで、その受容的な空気に「呑み込まれて」しまい、(つまり、「取り入れる(introjection)」という自我機能以前!!)、自分の中の自己受容できなさそのものがいわばsplitされてしまうものです。

 これは、カウンセラー側が、ほんとうは受容できない、漠然とした違和感があるのに、その漠然とした違和感に「はっきり気づいておき」、その違和感との適切な「間」を見いだせないまま受容した場合に、クライエントさんとパラレルに生起する相互作用であるというのが私の考えである。

 その結果、フォーカシングのセッションでフォーカサーが体験するのは、一種の「にせフェルトセンス」ということになる。要するに、実はそのフォーカサーは、リスナーの期待するようなフォーカシングをその場ではしてしまえる場合があるのです!!

 この「ニセフェルトセンス」という表現そのものが、増井先生が、この著作以前の頃、一時期よく学会でも公言され、論文でもお使いの表現なのですが(^^;)。


 要するに、

ニセの受容をしたぶん、ニセのフェルトセンスしか、クライエントさんは体験できないだろう」

と公式化できます。


 体験過程理論用語で言えば、およそ、カウンセラーの促しに対して自分の中に生じた違和感として漠然と感じられ、直接注意が向いてもおかしくない側面は、「暗黙の機能」の領域に追いやられ、フェルトセンスとして感じることそのものが困難という人も、かなり精神的に安定した人すら少なくないと私は思っています。

 こうなると、その面接場面を離れると、殊に重い神経症水準の人の中には、面接の一見「受け入れられた」という感覚が日常の中で容易に「脱錯覚」を起こし(私はこれを「セッション反動」と四半世紀前に名付けている)、空しさや、「いつものような苦しさ」の逆襲に耐えられなくなり、治療者に怒りをぶつけないまでも、何らかの行動化や面接をやめたくなる衝動などという体験となるように思われます。

 私はそれを、「逆転移」であり、うまく「活用」するべしという発想は、楽観論過ぎると言うより、クライエントさんを傷つけた上で治療するという、実はこれ自体、得てしてありがちな「相手を傷つけてはじめて受容する」親との関係の反復強迫(治療者とクライエントさんの双方が実は「構造拘束[structure-bound]的体験様式)にはまっていることに無自覚なだけではないかとも、最近感じ始めた。

(ここまで来ると、私は増井先生より手厳しいかもしれない)

 これについては、かなり以前に、中島みゆきの「エレーン」「異国」について書いた時に言及しました。

 カウンセラーの前で「いい子」でしかいられない(いい子でいるという自覚もない)のが、多くのクライエントさんの出発点なのは全く自然なことだと思います。


****


 こうして、フォーカシング陣営への,、「現場臨床家」増井先生のかけるプレッシャーは、いよいよ舌鋒鋭くなっていくのである。


 しかし、ここはまだ、クライマックスではない。

 序の口である(^^)


(続く)


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2007/11/30

増井先生のいわゆる「感じ過ぎている」について。(第2版)

 さて、いよいよ「フォーカシング vs.増井」の戦いの本質を、やっと皆様に紹介することになる。(^^;)

 この点で、この壮絶な戦い(?)について予備知識がある人向けにこれまで書きすぎていたかもしれない。

 なお、神田橋先生の「自閉のすすめ」論については、「発想の航跡」に収められている。


*****


 増井先生の師、神田橋先生の「自閉」論の本質は、そもそも精神病域の人や引きこもりの人(この二つを混同しないように注意を促したいが)が、なぜ社会や対人関係から引きこもるのかについての究極の逆説から出発する。

 こうした人たちは、

 外の世界の刺激を感じられないから引きこもるのではない

 あまりにも強烈に感じすぎているので、
 それに全く対応できなくて、
 やむなくそこから遠ざかるために引きこもる
のである。


******

 これは、もっぱら薬物療法を中心としている精神科医の皆様も首肯する事実ではなかろうか。

 統合失調症の薬は、気分を高揚させたり活動的にするものなのか?

 ......実はむしろ正反対である。その人の、自分の内部、および外部からの刺激に対する、特異な性質の過剰なまでの敏感さをむしろ鎮静させ、休息に導くためにある。

 しかもその敏感さとは、一種独特の選択的なものだ。

 (そのへんがわからないと、躁状態を鎮静する薬との重大な区別が見えないことになる)

 この「選択的な敏感さ」について「説明する」という点では、神田橋先生も増井先生もやや不十分であると私は感じている。

 現場臨床的には熟知しておられ、要約されると抜け落ちかねないさりげない箇所で言及もしておられる気もするが、少なくとも専門家一般に広まっている、要約された「神田橋理論」「増井理論」においては抜け落ちがちなポイントではないか????

  特に増井先生は、実は関係性の問題について、「論じる理論」というより、現場臨床的に観て、実はもの凄い敏感な配慮をなさる方と私は感じている。

 この「選択的な敏感性」についてとなると、中井久夫先生が言われている「微分回路認知」(あるいは「差分的回路認知」)の理論や、安永浩先生の「ファントム理論」まで動員して、やっと、日本における精神医学の叡智が結集したことになるだろう。しかもそこから引き出される結論は、実は意外なほど、精神医学における認知理論的なアプローチや生理学的アプローチの「最先端」とも接点が出てくるはずである(私のうかがい知る範囲では)。

 しかし、特に中井先生の業績については、不完全ながらたびたびこのブログでも取り上げてきたので、ここではこれ以上言及せず、示唆に留めたい。


******


 それはともかく、増井先生は、この「感じすぎるから自閉する」というテーゼを、統合失調症や引き籠もりの人のみならず、広汎性発達障害、すなわち、狭義の「自閉症」にすら通用する、普遍的な問題軸で眺めている点では、大胆かつ画期的である。

 ここでずっと追い続けている本には、次のような文章がある。これも是非一度、この本から全文紹介したかった部分だ。


 筆者が関係する病院での実習の時、ひとりの学生が、ある自閉症者の精神療法の見学の後、

 「自閉症というのは、他人や外界との関係を断絶した病気であると聞いていたが、なるほど、その通りだと思った」

という印象を述べた。

 筆者はその時、その自閉症児との精神療法における治療目標は患者と治療者が全くひとりひとりの人間として断絶しながら、ある一定の時間を共有するという、言語下的状況を中心とした、かなり神経を使う精神療法が進行中であり、患者にとり治療者ががそこにいるということを、かろうじて共有できていた時点であったので、その学生に、その[学生の、自閉症についての]定義が事実そうなのか、[つまり、]その患者に嫌われないように近づき、できれば抱き取ることを提案した。

 学生は、相手を驚かさないようにやさしく声をかけながら近づいたが、、結果的に患者は、その学生が語るところによると、「まるで鬼を発見したように」逃げ去った。

 仮に自閉症が、他人との関係を完全に断絶している病気であるならば、その患者は、ある意味では、他人の接近にも「物体」のように反応し、抱き取られるのも意に介さないと考えられる。しかしその自閉症児は明らかに、通常の子供より敏感に他人の接近に反応したわけである。

 自閉症に限らず、程度の差はあれ、多くの患者にみられるこの傾向は、彼らは、その内的な体験として、他者の接近に対し、健常人より明らかに何かを感じすぎており、、そのかは、その個人に混乱を起すような圧力の高い感覚の下で体験されているという仮定を十分に成立させる。

(p.99)


 この発言を、逆にADHD(多動性障害)の子供がなぜ落ち着かないのかを理解する上でも役立ちそうな気が、今こうして書き写している最中に、私の中でしてきたのだが。私は児童心理の専門家ではないのを承知で、思いつきを書かせてもらいたい。

 なぜじっとしていられないか。じっとしていると、何か独特の、過剰な刺激に受け身に耐えねばならないからだとしたら?

 (自閉症については、セミナーも何回か受講し、かつて、高機能自閉症の成人、および自閉症児をもつ家族ひとりとだけの面接で、適応促進的な円満な終結に至れたことがある)

 そして更に、ここで増井先生の述べた、

患者と治療者が全くひとりひとりの人間として断絶しながら、ある一定の時間を共有するという、言語下的状況

とは、ウィニコットの言う「環境としての母親」「ひとりでいられる能力」、そして、バリントの言う、「フィロバティズム」の問題を、あまりにも見事に連想させはしまいか?

******


 さて、ここまで読んでこられただけで、読者もお疲れのことと思います(^^;;;;)

 結局もう一日はかかることをお許し下さい。

 増井先生が、ありがちなフォーカシングのありかたに、どのように舌鋒鋭く斬りかかるか、専門家の方の中にはは、多少あたりがついてきた方もあるかもしれません(^^)

 続きこちらです。


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「登校拒否は、登校意欲過剰症である」

 前後の脈絡からは外れるかもしれませんが、私が、現在紹介しつつある増井先生の著作に書かれている内容で、一般の人、何より不登校の少なからぬ皆さんにピンときてもらえる可能性のある、最高の名言のひとつを、「ツカミ」として紹介しておきましょう(^^)

「例えば、登校拒否児は、他からの登校刺激に対して明らかに拒否的であるが、内的体験から示すと、逆に、『登校意欲が極度に肥大している』病気でもある」(p.103)

 恐らく、人間性心理学会を中心として、「増井理論」におなじみのカウンセラーの皆様、そしてこれが実は、師の神田橋先生の「自閉の勧め」論から直接発展したものだ、という示唆を申し上げれば、なるほどとお感じの専門家の方は少なくないかと。


*****


 ただ、これを読んでいる学校に通えないでいる皆様に。

(最近、十代の読者の皆様のシェアが一番多い現実があるので)。


 これを「偉い先生がこんなことを言ってる」などと、親や学校の先生に直接言ったりはしないほうがいいと思いますよ。

 まずは、あなた自身が、ほんとうに、自分の中の「学校に行かねばならない」「社会でやっていけねばならない」という気持ちに呪縛されないと生きていけない側面が本当に自分の中にあるのかどうか、自分の心にじっくり問いかけてみてください。


*****

 なお、増井先生には、私は未読ですが、不登校についての著作もあるようですので、ご紹介だけはさせていただきます。再販されていないようですが、Amazonの中古を、しぶとくあたり、ウィッシュリストに加えておくといいかもしれません。

「不登校児から見た世界 -共に歩む人々のために-」 (有斐閣選書)ISBN-10: 4641280746

私は不登校を経験したことがあります。
 この本ほど不登校児の心を理解してくれているものはないと思います。
今はさまざまな不登校に対する本が出ていますが、
不登校の子の心について書かれたものはあまりありません。


不登校については、とかく甘えているとかわがままであるとか、あるいは親(特に非難の矛先が母親に向けられることが多いが)の躾が悪いなどとの批判がなされることがある。しかし、どうして他の子と同じように出来ないのか、一番悩んでいるのは本人であり、上記のような躾論は本人や家族の苦しみに拍車をかけるだけで、理解や助けにはならない、ことを本書は教えてくれる。誰が悪いといった犯人探しの観点からではなく、不登校児の心をより理解するために、おすすめの一書である。

では、不登校児はどうして閉じこもるか。著者によれば、それは「安心して私であること」ができない状態だからだ。不登校にもいろんなパターンがあるだろうが、概して不登校児は周囲に気使い、調和を保つために「自分」を殺して「良い子」であることが多い。要するにわがままになりきれない、彼らの窮屈さがあり、そのためどこに行っても「全く休めない、心の逃げ場がない」状態が続く。そのことが彼らの心の疲労を生み、不登校という形で自分の心の落ち着きを保っているのだ。であるから、不登校は怠けものなど否定すべきことではなく、彼らにとって、より本質的な私らしい私探しの心の過程でもある、としている。

(Amazon レビューより)

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2007/11/29

「触れないでおくことも、実は触れることなのよ」(2)[第2版]

 これで今回のタイトルの意味がきちんと完結するところまでは書きます:

 先に述べたように、本研究の主題は、患者が目下のところはどうしようもないこととして訴える症状との言語下水準で体験される、患者にとっての「どうしようもない感じ」についての「間(ま)」の体験的習得である。そしてそれに関する、いくつかの概念や治療技法の考察は、その研究当初において、明らかにE.T.Gendlin(1982)[注:著作「フォーカシング」のこと]が提唱する体験過程療法から発生してきたフォーカシングのひとつのステップとしての、本人が困っていることや気がかりなことについて「間を置くこと」(Clearing Space)に示唆を受けている。(p.42)

 実は、増井先生が、こうやってフォーカシングからの影響を著作の中で公然と語っているのはかなり珍しい(^^;)

 しかし、ここですでに、増井先生は、一見小さなことに見えて、実は重大な混同をし始めている。

 "clearing a space"と"make a space"の混同である。

 クリアリング・・スペース(村山・都留・村瀬訳の言う「空間づくり」)は、確かにフォーカシングの「第1の動き(1st momement=第1楽章とも訳せる!!)」として位置づけられているが、これは、単に「気がかりな事柄には入り込みすぎず、かといって離れすぎず、自分の前に保っていられるようにすること」ではない

 それなら、むしろ"make a space"(村山・都留・村瀬訳の言う「距離を取る」)の方が適切である。そしてそれは、ジェンドリンの元々の技法においてですら、フォーカシングを進めるどの段階でも調整して維持されるように配慮されるべきこととみなされている。

 増井先生はアン・ワイザーのトレーニング法が日本に広まる前にこの著作(.....というか、九州大学教育学部初の、統計調査を伴わない博士論文だった)を書いておられる。アンの用語で言えば"identificate"して(自分と気がかりや情動が一緒くたになって)いるか、"disidentification(脱同一化)"ができているかという違いとして、ジェンドリンより精妙にとらえられるに至ることへの認識は、この時点での増井先生にはまだなかったともいえる。

 なお、「空間づくり」については、私の本部サイトの「フォーカシング入門」のこのページをご参照ください。


*****


 ただ、増井先生が次のように続けておられるのは、傾聴に値する:


 そのような「間(ま)」が容易に作ることができたら、何も入院や外来で治療を受ける必要がない。


 ジェンドリンの「間」の概念が抽象的すぎるという、増井先生の現場臨床的な疑問符は、もっともなことと言わねばなるまい(^^)


*****


 しかし、そこまで話題を進める前に、またもや私の若き日の「今でも付け加えることがない」代表論文を紹介する方があとの吟味が早く進む。

 ●「フォーカシングにおけるclearing a space 再考 ~面接記録に基づく~」 
   東京大学教育学部心理教育相談室紀要  第14集  1992

 この紀要論文は、手前味噌だが、近年、私よりずっと若い院生たちが、何人となく、「すごく役に立った」と別々に言ってきて下さったもののひとつで、読み返したら、「いったいこれは誰が書いたのだろう?」と首をかしげるくらいに、結局、これより私は前に進んだ論文を書いていないと感じている一本である。

(もうひとつは、前年の同じく東大相談室紀要13号所収論文、「「身体の感じと状況との関わりを重視するフォーカシング・アプローチ・序説」 である。.....これは、アン・ワイザーを知らないうちに、アンと同じアプローチ(問題について身体の感じを掴むやり方の他に身体の感じに触れていく中から、プロセスが進む内に自分の置かれた状況や問題との結びつきが自然と喚起される場合とがあり、実は後者のアプローチの方が平易である人が多いということ)を書いてしまっていて、初来日時のアンと一気に意気投合するきっかけとなった論文。我ながら、よくここまで自分でこの段階でたどり着けていたと思う代表作なので、是非遺稿を著作集にまとめて下さる場合には選んで下さい.....と、もの凄く早めに遺言しておきます。もう1本も、そこまでは行かないけど、いいところはあるかと思う。)


*****


 さて、私が"clearing a space再考"で何を書いたか。

それは、

「気がかりな事柄をひとつひとつ『棚卸し』していくclearing spaceの過程そのものが、フェルトセンスに注意を向けることと、そこから個々の「気がかり」という「とりあえずの象徴化」が浮かび上がってくるという、体験過程の小さなステップの推進の繰り返しそのものである」

というテーゼに集約される。

 もとより、これを実現するには、「今の自分が申し分なくいられるのかな? いられないとすれば、何があるのだろう」という問いかけを身体に向けてじっくりとしていき、ひとつ気がかりが浮かび上がったら、それについてそこそこ話してもらった段階で「あとは必要なら相手をしてあげるから」と気がかりに約束してもらい、「おおまかなタイトル」を付けたり、「ともかく胃のあたりにすっきりしない感じがある」といった表明も、気がかりな事柄と全く対等に受け止め、アンふうに言えばacknowlegingした上で、「ではそれを別にすると、あとは申し分ないかな?」とフォーカサーに内側に問いかけてもらう提案をするという、こまやかでじっくりしたフォーカサー=ガイド間の相互作用の積み上げが大前提となっている。

 このへんが、いかに私の場合丁寧で、フォーカサーのペースを尊重したものかは、私のセッションを実際に体験したり、ご覧になった方はご存じのはずである(きっぱり)。

 そうした際のデリカシーについは、現在でも、2,3ヶ月単位で区切ってみれば、明らかに質が上がり続けているという自負はある。前回よりもより向上した質のガイディングができるようになろうという点で、私は自らに課している要求水準は際限がない。少しでも、ルーティン・ワーク化したセッションが自分に許せない。何か前回よりも無駄がなく細やかなものになる新鮮さがないとと思い続けている。しかし、私の技法には、更に細やかなフォーカサーの自発性への配慮と、厳重な構造化が、杓子定規とはほど遠い形で、徐々に育成され続けているのである。


****


 手前味噌はこのくらいとして、この"clearing a spaceそのものが体験過程の推進"という、ラディカルな観点を導入すると、どういうメリットがあるか。

 それは、"clearing a space"を丁寧に進めると、「このことがこれだけ気にかかっているとは気づかなかったという「気がかりについての気づき」がフォーカサーの中に生じることが少なくない、という、熟練者がよく知っている事実をうまく説明できることになる。

 そしてそうしたことに気がつけただけで、何か心の整理ができて、少し自分を取り戻し、帰り道に更に別のより本質的な気がかりに自発的に(ジェンドリン用語で言う「自己駆進的 self-propelling]に」)気がつくなどという形で、"clearing a space"が自動的に進行し、しかもそれがパンドラの箱を開けるような恐慌体験には日常の中ではならず、心を落ち着かせ、無理なく次回の継続セッションに「持ってくる」まで深追いしすぎないで保持することが可能なことが、少なくとも最近の私がガイドのセッションでは増え続けている。これは、それを可能にする「抱え」の構造を生み出す関係性の質を高めることにも私が更に成熟しつつあるから可能なのかもしれない。それは、私の人生に対する姿勢全体が、clearing a spaceされたものに、少なくとも現状では高まっているということと、最後には連動しているのではないかと感じる。

 その人の、面接室を離れた日常そのものが、少しずつでも半ば無意識的かつ自己流にclearing a spaceできる方向が「身につく」援助になれば、実はそれだけで最も重大な援助ができていることになると思えるし、それが生じないままなら、clearing a spaceを形だけ行うことは、むしろその人がすでに維持していた内面の平衡を崩す危険もあり、有害無益だろう。

 .....実はこの点では、増井先生と私はかなり共通の問題意識しかいだいていない。

 いや、増井先生の「心の整理法」(下記著作参照)ですら、杓子定規になされたら、確実に、面接後のクライエントさんの日常の中で混乱を招く「反動」が生じる危険があるはずだ。

 増井先生がもしこのような危険に遭遇しないとすれば、増井先生の、クライエントさんとの関係性の質.....ウィニコットの言う「抱え」の構造が実に見事な職人芸で確立されているからに違いない。

 これは決して明文化できない領域である。

 なお、私の"Crearing a Space"の臨床適用の実際については、すでに絶版だが、「フォーカシング事始め」(村瀬孝雄 編著 日笠摩子、近田輝行との共著 1995)の第10章の拙論、「フォーカシングの『臨床適用』について」の第5節でも、今にすれば未熟な内容だが、紹介している 。


*****

 
  更に言えば、

  こうなると、
 
  「気がかり」や嫌な感情を

  「自分が思い描いた壺に入れる」(田嶌誠一)
 
  とか、

  「どこかに置く」

  ということをイメージしてみるプロセスは、


  「内容そのもの」に名前を付けるか、

  内容を入れた「容れもの」の質感や置き場所を具体的にイメージするか

  という違いであるに過ぎず、

  これらも実は体験過程の推進のステップを安全に刻むための工夫であるに過ぎない


 ......という見地に立ってしまえば、

 ついに、

 増井先生や田嶌誠一先生とフォーカシングのインサイダーとの間のギャップは、

 論理実証主義的に言えば(^^)、ほぼ消滅することになるのではないか。


 まさに、冒頭に述べたとおり、

 「触れないでおくことは、触れること」

 なのである。


*******


 ここまで先に書いてしまってから、増井先生の著作について更に先まで吟味するというのは、ちょっとずるいやり方かもしれないが、さすがに午前3時となったので、最終的完結編は、今日の夜までに書くこととします。

 長文におつきあいいただき、ありがとうございました。

 おかげで、ayuの「伝説ライブ」の動画紹介の記事が埋もれてしまったけど、pingであちこち飛ばされているので、大丈夫でしょう。

 おやすみなさいませ。


 (今度こそ最終回になるはずだった回に続く)

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2007/11/25

生得的触発機制?

 以下は、ゆみっちょん♪さんサイトの、「本能理論と対象理論(Instinct theory and Object theory)」というエントリーに私がコメントした内容です。ご本人のエントリーはリンク先をお読み下さい。

==========(引用はじめ)===========

 非常にコンパクトにまとまった概説ですね(^^)

 この辺は、確かガントリップの対象関係論についての概説書、「対象関係論の展開(小此木啓吾 訳)」で問題になっていたテーマとも関わるかも。そこでは「システム自我」と「パーソン自我」という図式でしたが、前者が本能(イド)に対する自我機構の形成という視点が強く、後者はまさに「対象関係」としての相互的な自我形成論になります。

 敢えて分類すれば、フロイトは前者的で、ハルトマンはそれを自我心理学の方向に体系化する立役者。どちらもやや生得主義。

 クラインは本能論的な面も残しつつも、対象関係論の先駆けともなった。

 クライン派から分岐した対象関係論学派においては、論者にもよりますが、基本的には本能論は「背景に退いて」います。でも、ウィニコットを考える際には、ウィニコットの言う意味での「真の自己」とは、実は生まれついて環境とバランスを取ろうとする自律的機能であるけど、「偽自己」とは、いわばユング的に言うと「ペルソナ」に近く、(ユングと同様に)社会性形成の過程で必要なものとみられているあたりをマスターソンやR.D.レインはものの見事に「誤読」した(^^;)

 それは置いといて(おいおい)ご存じでしょうが、生得的触発機制というものがあり、赤ん坊が適切な「キューだし」をしてくれるからこそ、motheringは養育者に形成されていく、という「親が親になっていく」成長過程との相互作用という脈絡を切り離して赤ちゃんの成長や自我形成をとらえるのは大問題というのは、もはや流派を超えて発達心理学の常識の域かも。もっともこのことはお母さんなら素朴な水準で気がついていることですよね(^^)

 自閉症や発達障害を考える場合、こうした乳児側の「キュー出し」の生得的な弱さが「親を」成長させる機会を奪う、という二次的な障害という側面も考慮すべきと言うことになります。

 あー、この問題についてここまでコンパクトに書けたのも、ゆみっちょんさんのエントリーの文章に「触発」(^^;)されてのことです。

 ついに林檎「完全制覇」したこういちろうより。

==========(引用おわり)===========

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2007/11/23

実はみかけほど、ジェンドリンの見地と増井先生の見地には相反するものがない(1)

 やっと、この記事この記事の続きです(^^;)

 まず、増井先生の著書の以下の言葉が私は大好きである。

 
 治療における治療者-患者関係の基本過程にある相互作用をやや細かく示すならば、面接の場で患者がして自らの漠とした心についての言葉から、患者のその漠とした心について聞く耳を通じて、患者が自らの漠とした心に問い合わせることができる「耳」が徐々に回復してくるという相互作用過程のことを意味している。

(中略)

 この聞く耳の相互性を基本的に促進する動因は、治療者が自らの心に細かく問いかけ、それを正確に聞く耳であろう。その耳とは、あらゆる治療的概念をカッコにくくり、白紙にまでにはなれるわけではないが、自らの心の動きをひとつひとつ聞くことができる耳である。

(中略)

 それらは逐語記録を取っても、その逐語記録には現れず、しかしなおかつ言葉の内容を支える、いわば言語下のメッセージとなり、患者治療者相互に伝わる生き物であり、それが患者の言語化を支える大きな基盤となっているからであり、その言語下体験も、患者ー治療者間においてすでに刻一刻相互的なものであるからである。

 患者にとり何故「理解」が必要なのか。それは当然のことのようだが、理解は誤解より人の心を安堵させ、その心を安静にし、余分な心的エネルギーを沈静化するからである。(p.39-40)


******


 ......今回読み返して気がついたのだが、どれだけ実現できているかはわからないにしろ、まさにここで語られていることこそ、私のカウンセリングの基本姿勢そのものである。

 そこには、私が20年前、村瀬孝雄先生に師事したばかりの立教大学院1年目、ジェンドリンが2度目の来日をした時(詳しい記録は「フォーカシング・セミナー」にある)、具体的に増井先生がどういう場面でどう発言したかはもう失念したが、ともかく増井先生の発言に何か独特の共感をして、夜の分科会に参加した時以来続く、私の増井先生への特別な注目以来、自然と私が感化された、恐らくもっとも肝心要のポイントについて端的に著書で示して下さった部分と言うことになる。

 ここで増井先生は、これを流派に無関係な問題として取り上げているし、私もそう思う。

 だが、まさにこれができていること=フォーカシングの臨床適用の「必要条件」であり、できている治療者は技法としてのフォーカシングを(自分のためにも)学ばなくていいとまで、今も堅く確信している。 

 みかけは、まるで平凡な面接そのものだろう。

 フォーカシングの世界で、「フォーカサーの主体性の尊重」といわれ、フォーカサーの選択に任せる「提案」のみをしていけばいいのだと受け取れる発言が見られるが、それはあくまでも上記の必要条件が前提としてあった場合にはじめて意味があると思う。

 この点では、私はむしろ典型的な増井学徒そのものであると公言したい。


(続きはこちら


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2007/08/13

朝青龍の「精神面」ケア

●朝青龍、精神面ケアの医師を一本化=大相撲(msn=時事通信)

 他の記事によれば、彼を「自宅謹慎」処分にしているわけではないことを、今日文部省に広告したそうで、私もその点では誤解していた面がないとはいえないかもしれない。

 もっとも、彼の家の前には報道陣びっしりだろうから、心身が相当不安定であれば、とても外出する気にはならないだろうし、記者会見よりも治療を優先する方向は的確だろう。

 この前ASD(急性ストレス障害)と診断した協会指定医に、今後診断と治療を一本化するにしたことは、納得できる。どうみても一人めの人の専門能力は疑わしいので。

*****

 ただ、些細なことに見えるかもしれないけど、「精神面」のケアという言葉に使い方には用心したほうがいいと思う。

 恐らく、「身体の故障そのもの」と区別する観点から、こうした言い方がなされているのかもしれない。それは想像できるし、やむをえない言い方かもしれない。

 しかし、うつ病にしろ、ASDにしろ、(今回の例では当てはまらないにせよ)統合失調症にせよ、およそ「精神だけの」病というものは多くの場合存在しない

 一見古臭く見える「神経の」病という言い方には言い得て妙な一面もある。つまり、神経系というのは、身体のすべての働きを統括しているわけで、多くの場合何らかの身体症状も随伴する。むしろ全身の症状の一部が精神症状といってもいいくらいである。

 たとえば欝状態の場合、その障害は身体機能に及ぶのが普通である。睡眠のみならず、食欲の低下(これは、この前の記事でも書いたように、むしろ、おいしいという感覚の衰弱から、むしろ過食を導き出すこともある)、疲労しやすさ、更には免疫力の低下すら引きおこす(これは、いわゆる「似非科学」の免疫力の話題とは次元が異なる)。

 そのため、皮膚に吹き出物が出たり、一度何か他の身体病を起こすと、通常よりも不可解なまでに治りにくかったり。それどころか、虫歯末期の治療において、神経を抜いた後の膿が、歯科医から見ても、本人から見ても、不可解なまでに止まらない(たとえば一ヶ月以上)ことなどありふれている。

 以前にも神田橋先生の名言として引用した、「こころは病まない」というのは、いわゆる「精神疾患」が、さまざまな「身体症状」の一面であるに過ぎないことを指していわれた逆説である。

 身体のケアがこころのケアという側面があるのである。それを神田橋先生は「養生」とよび、重篤者への心理療法への誘惑への戒めとしたわけです。こうした考え方は、中井久夫先生にもあるし、多くの精神科医がこころえているところです。

 身体までどうにも思うに任せなくなるから欝なわけです。信頼できる人との対話などは、重たい欝でもできることも多い。むしろ、そういう時「だけ」、その人なりに、一番元気になれるものだったりします。このあたり、まだ世間では「引きこもり」と「欝」の違いが浸透していない

*****

 私は、相当量の抗うつ薬の処方が必要な頃すら、ネットでは今よりも多くの文を書けていた時期があるし(ここではなくて、別のクローズドなメーリングリストですが)、カウンセリングもまったく滞りなくできていたのです。限られた時間なら.....ですが。

 おかげで、そういうさなかに、カウンセラーからも(!)「お元気そうで何より」といわれることも多くて、「なるほど、そんなふうに見えるんだ」と、カウンセラーとしても勉強になりました(^^;)。何しろ、「どうして午前中の催しには出てこないのだろう?」.......あの、「日内変動」って知りません? カウンセラーも、ある水準以上の欝の世界は、リアルには知らないんですよね。自分の体験だけに引き付けるのは間違いの元と知りつつも、やはり私の「肥やし」になっています。

 ここぞと決めた限られた時間に人と対話できる以外は、日常のことがほとんどできずに、ひたすら横たわっていないと全くもたなかったのに。

 カウンセラーとして、専門家として、自分を見つめるもうひとつの視点が冷然としてあるから、何とか自分を支えられてきたのが、私の「業」のようなものですね(^^;)。「うわあ、これが『希死念慮』か、なるほど!」....とか、冷静な「もう一人の自分」がいましたから。わずかな使えるエネルギーの配分にも、専門家的な用心をするわけで。

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「なんとなく気に入らない」だけのことなんてない。

 論理で説明しようとするとなかなかすくい取れないような「違和感」「納得できさなさ」の中にこそ、人と人との相互作用における問題の核心があるものと思います。

 それを言語化していくのはたいへん骨の折れるものであり、多くの場合、違和感を向けられた側の当事者の「配慮」......「汲む力」が見当はずれでない形で発揮されてはじめて成り立つものです。

 そういう協力関係が得られなければ、それこそ、

 「北風を吹かせてもマントは脱がない」

 朝青龍の場合も、「やらなくていいところで粗暴なふるまいをした」ことが後を引いて、今日の状況を生み出しているのは確かでしょう。 そういう、無自覚な傲慢さですね。

 「生産的」でなくしているのが一方の当事者だけということはあり得ません。

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2007/07/23

「クライエントなんだから、話題を探して話し続けねばならない」?

 私のカウンセリングにおける信念のひとつは、「クライエントさんに、カウンセラーのためのサービスをさせてはならない」ということなんです。

 私もお金を払っての年単位のスーパーヴィジョンを受ける経験ばかりか、学生時代には、学生相談を受けるクライエントとして受けた経験もあります。そうした中で反省として思ったのが、「クライエントなんだから、話題を探して話し続けねばならない」という強迫観念に自分が縛られているようなところがあって、のべつ話し続けるものだから、逆に、容易に言葉にならない事柄だとか、本当に事態の深刻な側面は、カウンセラーに口にしていないことも少なくないということでした。そして、普段は相当悩んでいることでも、面接の場面になると、その深刻感が薄れ、結局なかなか話さないままになることがいっぱいあるということ。

 別に、カウンセラーに褒められようとする必要はないのですが(^^;)......でも、そうした経験から、一見熱心に話し続けているからといって、クライエントさんの日常の中での苦悶が彷彿と話題になっているとは限らない、ということを当たり前のように思うことが習い性になりました。

 この面接の中で、この人は、「クライエントさん役」を熱心に果たしてはいまいか?

 私はそれを「クライエント・モード」と呼びます(^^)

 一見、円滑に話が進む面接の中でも、そうしたことにふと注意を向けてみることを、私は忘れないようにしています。

 むしろ、面接場面の中で、長い沈黙ができるクライエントさんの方が、うまく進めると、深い次元での面接になるとあっさり思っています。「なぜ黙っているのですか?」とか、「今、どんな感じでおられたのかと」などとはそう簡単に声をかけない。最終的には状況次第で、けっこうあっさり何らかの「キュー出し」することもありますが、特に、面接回数初期にそういう沈黙があまり顕著になかった人が沈黙しはじめた時には、有意味な沈黙だとあっさり判断しています。

 面接場面は世間の常識とは異なるどんなことでも言っていいんだ」とまで開き直るクライエントさんは少ないと思っています。極端な要求に困らされるという経験は、私はカウンセリング場面ではほとんど体験しません。むしろ、この沈黙をどう有意義に生かそうか、という方向になる経験の方がずっと多いでしょう。

 むしろ日常場面でだと、相手に気を使って無理にでも話題を探すタイプの人に、沈黙していても安全な空間を堪能してもらうことは、意味があることと思っています。

 既にこのブログでも何回も書きましたけど、ウィニコットのいう「ひとりでいられる能力(ability to be alone)」という概念が、私には非常に興味深いと思っているところがあります。子供がおもちゃなどをいじりながら、ひとりでの空想の世界に遊んでいるその近くで、養育者が、別に声をかけるでもなく、家事などをしている状態です。しかし、これは相手のことに全く無関心というのとは違う。お母さんも子供の様子が少し変だと感じたら、すぐに反応できるだしょう。が、ウィニコットは、セックスを終えた直後の余韻に浸っている男女の関係なども例としてあげています。


 「ひとりでいられる能力」とは、単なる「自閉能力」ではなく、むしろひとつの「相互関係」についての逆説的な概念なんですね。

 こうした場合、言葉こそ交わさないものの、相手がそこにいることへの安心感が背後にあって、はじめて自分の世界に没頭していられるともいえるわけです。ひとりで部屋で孤独にいるのと全く異な状態だと言えます。恐らく、カウンセリング場面での深い内省も、この「ひとりでいられる能力」が発揮される中ではじめて可能です。それは単なる「クライエント・モード」を超える瞬間です。

 カウンセラーが、相手の沈黙に焦ったり緊張し過ぎることなく、受け止めていられること。それは、フォーカシング的にいえば、カウンセラーが、その沈黙の中での「居心地」=フェルトセンスに注意を向け、それを「認めてあげて(acknowledging)」、「一緒にいられる」ことと関連していると思います。これはカウンセラー内部の感覚というだけではなく、クライエントさんがどういう感じでいるのかについて「身になって」感じていく過程も両立している必要があると思いますが。

 以前も書きましたけど、若い頃、"OUT"の編集者の「Gさん」(懐かしい人もいたりして)が、

 「何もせずに一緒にぼーっとしているだけで幸せ、と思えるのが一番深い関係。でもこれは恋愛関係がすごく深まらないと無理だな」

みたいなコメントをしていたのが、妙に印象に残り続けています。

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2007/07/13

プレゼンスを学ぶ

 先日、「座長」ではなくて「講師」としての村瀬嘉代子先生のお話を神奈川臨床心理士会ではじめてうかがえたばかりだが、今、

村瀬嘉代子・青木省三/心理療法の基本―日常臨床のための提言

この本(対談です)読んでいて、これまでよりも、嘉代子先生の「語り口」をリアルに想像しやすくなって、読みやすくなったと感じる私がいる。

 もっとも、本で嘉代子先生の文章をお読みしたことは以前もあり、それはそれで独特の魅力がある文章だと思うのだが。

 例えば、この、中井久夫先生が挿絵を描かれた本の、少女時代のトロッコの話なんて、不思議な生々しい印象を持っている。

 今回に限らず、本で存じ上げていた臨床家の先生の本を読む際に、実際にその先生がお話しする姿に接した後、本を読むと、文章が頭の中で、その先生のお話しになる姿や語り口がどんどんイメージされて仮想再現されるようになり、おかげで文意までが以前よりも何となく生々しく伝わってくる気になることがよくある。

 もっとも、私にとって臨床の世界で最も名文家と感じ、その文章のリズムそのものに酔わされる魅力がある中井久夫先生だけは、そもそも私は「動く姿」を拝見したことがないままなのだが....


*****


 これは、治療技法そのものでもそうかなと思う。私がアン・ワイザーさんの初来日の時に、ワークショップで一番何を学んだかというと、セッションのデモンストレーションでの、アンさんの受け答えの「間合い」のような気がする。そこには、生きた沈黙の時間の共有があった。私は、アンさんの技法の段取り以上に、その間合いその場での雰囲気と居心地そのものを、それこそ身体で吸収して取り込もうとしたように思う。

 これは、ホールボディ・フォーカシングでも同様で、以前も書いたように、来日時に、ケビンのデモンストレーションに自発的に志願したときに体験した、目の前に建っていて時々声をかけてくるケビンの「たたずまい方」や「声の響き」を受け止めた私の体感そのものをメモリーしている気がする。

 ホール・ボディについては、私がたまたまの思いつきで自分のためのフォーカシングをする時に、自分のフェルトセンスが求める方向に果てしなくゆっくりと身体を動かし続ける試みをしたら、「それがホールボディーなんだけど」....といわれて驚き、その後でケビンのワークショップに参加する気になったという展開ではあったのだが、結局、私はその半日ワークショップの時以外、私は誰にもホールボディ・フォーカシングを実地に教わってはいない。

 極論すれば、私はその時の体験とケビンの本を通読した経験だけを頼りに、通常のフォーカシングのセッションでも、ホール・ボディ的な教示の提案を、臨機応変に使ってきている。フォーカシングでいう、「フェルトセンスのハンドルを見つける」とか「内側の感じと無理なく一緒にいられる関係を作る」とか「フェルトセンスにどのようにありたがっているか問いかける」という際に、身体の実際の動きを許容する形の提案をすると、実にあっさりとすんなり展開することがあるのであるが。

 私は、実は、心理療法というのは、通常に思われているより、頭で理解するというより、身体で会得するもののような気がしている。スポーツにおける対戦相手との「間合い」「見合い」、あるいは、同じチームの他のメンバーや、ペアダンサーのパートナーとの呼吸に近いような何かのような気もする。どのようにシミュレーションしていても、現実には、自分の予想通りではない事態が刻々と生起するのであり、それに対して、もちろん観察力や状況判断のために頭脳を使いつつではあるけれども、ある「不確定性」の中で、刻々と反応し続けることになる。

 イチローだって、ランニングホームランを「打とうとした」わけではないのは、いうまでもないだろう。
 

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2007/06/29

タイトルと内容が一致してないパキシルの記事(第2版)

毎日新聞のこの記事を読んで、おいおいと思ってしまったのだが。

●抗うつ剤:「パキシル」服用の自殺者増加 副作用の疑い

 抗うつ剤「パキシル」(一般名・塩酸パロキセチン水和物)の副作用が疑われる自殺者が05、06年度と2年連続で2ケタに増えたことが厚生労働省などの調べで分かった。パキシルはうつ病やパニック障害などに有効だが、若い人を中心に自殺行動を高めるケースがあり、添付文書にはすでに警告や注意が明記されている。厚労省は医療関係者に「患者の状態の変化をよく観察し、薬の減量など適切な処置を」と呼びかけている。

 パキシルは世界で発売され、国内では00年11月から販売。製造・販売元の製薬会社「グラクソ・スミスクライン」によると、推計売り上げは01年は約120億円で、年々増え06年は約560億円。推定物流ベースでは抗うつ剤全体の約25%を占め人気が高いという。一方、厚労省の患者調査では、うつ病などの気分障害も増加傾向で、96年の43万3000人に対し、05年は倍以上の92万4000人に上っている。

 厚労省と独立行政法人「医薬品医療機器総合機構」によると、同機構への報告が義務化された04年度以降、パキシルの副作用と疑われる症例のうち、自殺をした「自殺既遂」は04年度が1件だったが、05年度は11件、06年度は15件と増加。自殺行動が表れた「自殺企図」も04、05年度の各2件に対し、06年度は24件に増えた。いずれも03年度以前は1ケタとみられ、06年度は厚労省が5月末現在でまとめた。

 増加の原因について、医療関係者によると、処方される患者が増える中、医師が投与後、経過を十分に観察していないことなどが考えられるという。

 一方、同社は「患者が勝手に服用をやめると、病状が悪化する恐れがあり、必ず医師に相談してほしい」と話している。【玉木達也】

 田島治・杏林大教授(精神保健学)の話 パキシルはうつ病に有効で、自殺関連の副作用が表れるのもごく一部とみられる。ただ、投与後、最初の9日間は慎重に様子をみて注意が必要だ。また、うつ病を早く見つけ、治療するという流れにのって、軽いうつ状態にまで、すべて薬を投与するのは問題だ。特に若い人の場合、カウンセリングで治るケースも多く、慎重にすべきだ。

毎日新聞 2007年6月28日 3時00分

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*****

 パキシルが18歳未満の鬱の患者には効果がないという海外の治験報告があり、特に使用開始から9日間から2週間ぐらいの間には副作用が強く、その副作用の中には自殺の危険も含まれるため、少量から始めての慎重な経過観察が必要、若年者への使用には慎重を要するということはすでに2004年ぐらいから医者への注意書きとして必ず添付されている事項である。

 そして、パキシルは、急に断薬すると、急激な鬱状態の悪化をはじめとする危険な症状が現れる危険が高いことも知られている。

 SSRIとしてアメリカで最初に非常に幅広く使われるに至った「プロザック」が、日本では今日に至るまで解禁されていないのは、自殺の危険という観点を含めた副作用に対する懸念がパキシルよりよほど大きいからだろう。何も「製薬会社との癒着」ばかりで薬事行政は動いているわけではないはずである。

【追記】年齢に関わりなく、抗うつ薬(特にSSRI)の処方開始直後に、未遂を含めた自殺のリスクが上昇するという点について、2005年(改訂版2007年2月)にアメリカ食品医薬品局(FDA)から警告が発せられている。

 ここで公開された統計からすると、パキシルの利用者の増加よりも、パキシルの服用によると思われる自殺者の増加の方がずっと急カーブであることは明白であり、それをこの記事では、

> 医療関係者によると、処方される患者が増える中、
> 医師が投与後、経過を十分に観察していないこと
> などが考えられるという。

と説明している。つまり、パキシルの使用量増加から想定されるよりも自殺者増加ペースが高いのは、医者が「安易に」パキシルを処方し、丁寧な経過観察をしなくなってきているためではないか.....という記事と読むのが正しいのだ。

 それなら、タイトルは、

「パキシル」服用の自殺者増加 副作用の疑い

ではなくて、

「パキシル」服用の自殺者増加 普及の影で副作用に対する医師の注意力低下の疑い

とでも題するべきである。

 さもないと、この記事を丁寧に読まないまま、パキシルを処方していた鬱病の人が、パキシルを突然「飲むのをやめた」副作用として、「鬱がひどく」なり、「自殺」してしまう人が年に「十数人増加」しても、誰が責任持てるのでしょうかねえ?????

 本文の文章、結局「つじつまを合わせてはいる」けど、矛盾する情報をわかりやすく整理して誤解ないように伝えているとはとても言い難い。

 うがった見方をすれば、インフルエンザをめぐっての「タフミル」の転落死増加疑惑騒動の「二匹目のドジョウ」を狙おうとしたけど、狙いきれなかったがゆえの屈折した内容とも受け取れる。

 タフミルにしても、なるほど、「ただの風邪薬」と思って飲ませていたら、子供が転落死してしまったという当事者の方の悲しみはいかばかりかと思うけれども、その一方で、鳥インフルエンザをはじめとする新型インフルエンザが、一度蔓延したら多数の死者を出すほどの致命的な伝染病であるという状況下で採用された「特効薬」であるということを脇に置いた議論になっていないかという意見が、医療関係者を中心に多いようだ(私のこの情報は、主として、会員制のアスクドクターズに拠ります)。タフミルまで出さなくてもいい例に安易に出され過ぎた可能性はあり、そうだとすればそのことは大いに議論されるべきだろうが。

 死に至る危険度の高い病の治療薬の多くが、処方をひとつ間違うと、死に至る副作用を「完全には」排除できないというのは、実は何科の薬でも言えることと思う。医者の処方術、副作用の可能性や、どういう場合に医者に再び駆けつけるべきかについての患者や家族へのインフォームド・コンセント、そうしたものが一体となって、はじめて薬は意味を持つのである。

 もちろん、タフミルやパキシルよりも更に安全性と効果が高い薬が開発されていくことを祈るものである。

 そして、確かに思春期までの患者さんへの薬の効き目は特にデリケートな配慮が必要らしいことを認めつつも、安易に、「薬の代わりにカウンセリングで何とかなる」と受け取られる記事の書き方はしないでいただきたい(....と、カウンセラーの私が、敢えて書く!!)。薬によって症状がある程度緩和されたり、休息がとれるから、はじめてカウンセリングも継続可能というケースも実に多いのである!!

 薬に不信を抱いて飲まなくなり、今度は別の医者に言って別の処方をされ.....ということを繰り返すうちに、余計に症状がこじれる例も少なくない現実もあるのである。(だから、私は、医者との関係が不必要に混乱しないような助言にも力を入れるのである)

 もちろん、薬は、症状を緩和してくれるものであり、終局的にはライフスタイルをどう変えていくかといった事柄と連動して鬱は治癒していくものであり、薬をどう変えるかだけで鬱から解放されることを期待するのもまたおかしいのであるが。


 ......以上、かつて、「パキちゃん」と名付けて、私の生涯の一番苦しい時期、この薬にお世話になった人間より!!

【追記】それにしても、 自殺に至った例の中で「パキシルの副作用と疑われる症例」と、そうでない症例の区別って、どうやってやっているのであろうか? この辺、調べられるものなら調べてみるつもりである。ただでさえ希死念慮が生じやすいのが鬱なわけで.....

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「究極の」フォーカシング指向心理療法とは?

 カウンセラー側が、面接の場の流れ全体をフェルトセンスとして感じながら(そこには、当然、「クライエントさんが」面接の場の流れ全体をどのように感じているかについて、カウンセラーが、クライエントさんの「身になって」感じていく過程も含まれる)、個々の応答や、面接をどう進めるかについての提案を吟味した上で振る舞い続け、更にその結果、そうしたカウンセラー側からの応答や提案を、クライエントさん自身が実感としてどう受け止めているのかについて照合してもらうように促し、その結果を尊重する方向に面接を進めているならば、その面接過程は、すべて、フォーカシング指向心理療法的面接であるといえるだろう。

 そこで「フォーカシング」だとか、「フェルトセンス」という言葉が使われているかどうか、あるいは「それを身体に戻してじっくり感じてみて下さい」などという教示が用いられるかどうかと言うことすら本質的ではない。

 優秀な行動療法家や、認知療法家、プレイセラピストやダンス療法家、ユング派の臨床家が、こうした点で、実質的には、フォーカシング指向心理療法の原則と結果的に完全に一致したセラピーをしていることなど、いくらでもあり得ることになる。

 ある観点からすれば、フォーカシング心理療法的アプローチは、もはや特定の技法体系ではない。道具立てとしては、「なんでもあり」なのであり、「ただの、必要に応じたカウンセリング」なのである。

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「フォーカシング指向心理療法」とは?

「フォーカシング心理療法」のセラピストというのは、カウンセリングのプロセスを、クライエントさんが感じている、言葉にならない「実感」(=フェルトセンス)と「照合」しながら進めるように、絶えず気配りできるセラピスト(カウンセラー)のことである。

 クライエントさんには、自分の実感が求めて行く方向にカウンセリングを進める「主導権」があるわけですね。

 だから、例えば、クライエントさんが、

「きのう、職場で凄い失敗をして、家に帰ってからもそのことがあとを引いて、きょうまでずっと落ち込んだ気分でいたんです」

と話していて、カウンセラーが、

「試しにその落ち込んだ気分のそばにやさしくたたずんであげることはできないでしょうか?」

という提案(フェルトセンスに触れるための典型的な提案)をした際に、

「......あの、今はその落ち込みに触れて行くより、まずは、きのう職場で何があったのかをじっくり話してみたいんですけど」

とクライエントさんが言い出したならば、まずはそのことをカウンセラーは受け止め、優先せねばならないことになる。

 つまり、クライエントさんの、フェルトセンスに今は触れたくないというフェルトセンス(!)を優先するのが的確である。

 こういう時に、クライエントさんに、「ほんとはその落ち込みそのものに触れなおすなんて嫌なんだけど、カウンセラーの先生が求めて来たことなんだから、そのとおりやらないと」という方向に向かわせないための柔軟な配慮ができるか?


*****


 更にいえば、その後の展開で、

「昨日のような仕事上のトラブルを起こさないためにはどうしたらいいのかの対策を具体的に、(カウンセラーの)先生と一緒に考えてみたいんです」

と,クライエントさんが言い出したら、どうするか?

 「なるほど、では、私とあなた、それぞれが、どんな対策が考えられるか、これまでうかがった話全体を感じなおしてみながら、探ってみるための時間をしばらく取りましょうか」

などというふうにして、沈黙の時間を数分持ち、その後で、まずはクライエントさんの対策案を言葉にしてもらい、続いて、その案の「しっくり来るところ」「しっくり来ないところ」を感じなおしてみてもらうことも出来るかもしれません。

 当然、カウンセラー側の案も、クライエントさん側がそれを「しっくりくるかとうか」感じなおしてもらう沈黙のひと時をお取りすることになるでしょう。


.......このくらい、柔軟でなければならないのが、フォーカシング指向心理療法だと思います。


*****


 このようにこの記事で説明してみるヒントになったのが、この本。


パーソン・センタード・セラピー -フォーカシング指向の観点から- (バートン著 日笠摩子訳)

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2007/06/28

言語化による共有

 これまた「訊く」のテーマの延長とも言えるけれども。

 人は、自分の感じていることを、「具体的に」他者と共有して、受け止められたと感じる体験を経てはじめて一息つけることは多いように思える。問題そのものがその段階で解決されているかどうか、見通しが立つかどうかとは関係なく。

 そしてそれは、単に「カタルシス」だとかいう場合、聴き手ががそれをどう共有したかということがないがしろにされる危険もある。「受容的・共感的に」というはやさしいが、聴き方次第では、それが表面的な受容になったり、余計ななぐさめの元気づけの一言が、語った人の思いを台無しにしかねないほどに、デリケートな問題を含むように思う。

 「何か」語り尽くせていないという不全感が話者にないかどうか、十分に受け止めてもらえた気がしているかどうかを丁寧に確認し、当初語った時点では言葉にならなかった「何か」を話者が的確に言語化できるようにサポートするのも聞き手の務めであるし、話を聴いた結果どのように感じているのか的確にかつ自己一致した誠実な、しかも話者への共感性とも両立する形で言語化できるかどうかも重要であろう。

 場合によっては、

あなたの話を聴いて、どう言葉を返したらいいか思い浮かばない。下手に『たいへんですねえ』と言葉にしてしまうことすら失礼な気もして」

などという言い方ですら意味があるだろう。ただ何も言葉を返せないまま黙っているくらいなば。

 相手をひとりきりで取り残してはならない。

 受け止め、共有する勘所を外さなければ、そうやって、事態や気持ちを吐き出した後、別れた後も、相手をひとりぼっちに取り残すことにはならないだろうと思う。

 そうした際に、ただ、受け身に聴いているだけではなくて、「訊く」能力が重要な意味を持つ。相手が語るのも辛いことや、語るのに勇気がいったり、そういう言い方をするのは手前勝手だとか、恥ずかしいことだと思うあまり、口に出さないまま呑み込んでしまいかねない部分を、敢えて言葉にしてもらうきっかけになるためにも。

 常にではないかもしれないけど、人に相当程度悩みを打ち明けつつも、死に至ることを避けられなかった人の中には、そうした、思わず「口にするのを躊躇した」部分、あるいは、後になってみて、「あの場ではこのことまでは言えずじまい『だった』」と気がつき、それで十分言い尽くせたと相手に伝えてしまっていたことの後悔を処理できなかった人もあるのではないかと思う。

 ....人は、いったん言葉にしてみてはじめて、それまで脳裏にものぼらなかった自分の気持ちに、順送りに気がついていくこともあるからである。

 少なくとも、「言いたくとも言えなかった」ことをクライエントさんの中に蓄積させないカウンセラーではありたいと、心から思っている。

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2007/06/26

またもや「訊(き)く」問題 -体験過程尺度との関連で-

 「訊く」のテーマ、ひたすら引っ張ってますが。

 以前、体験過程尺度(Experiencing Scale) という、クライエントさんの話の深まりについて、面接の逐語記録と録音記録に基づき、第3者が7段階に評定する尺度があることについて、架空の実例に基づいて示した。


 その中のStage1からStage4までをとりあえず手短にもう一度紹介すると、


●Stage1:新聞の報道のような第3者的叙述。話者自身(「私」)は登場しない。

●Stage2:話題の主人公は「私」であるが、「私」の気持ちについての明白な叙述はない

●Stage3:「私」の気持ちについても「挿入的に」語られる。

●Stage4:話題はもっぱら「私」の気持ちそのものである。


 「体験過程インタビュー」という手法がある。これは、体験過程を次のStageに高めるための喚起的な問いかけをカウンセラー側がしていく技法である。これに従えば、例えば、


Stage1→Stage2 : 「その時、あなたはどうしていたのか、もう少し話していただけますか?」

Stage2→Stage3 : 「あなたはその時どんな気持ちでいたのか、もう少し話していただけますか?」 

Stage3→Stage4 : 「あなたはその時感じていたその『悲しい』気持ちについて、もっと話していただけますか?」


などといったものが典型だろう。


 これに、 最近述べてきた、私の言う意味での「訊く」という機能を対応させると、この中の前二者、つまり、もっぱらStage1からStage2、Stage2からStage3に相当するクライエントさんの発言を、より詳細にしてもらうといううことである。

 いや、それどころか、stage1のまま、特定の話題について更に詳しく話をしてもらうだけでも、「訊く」ことになるのだ。例えば、「お母さんって、どんな人なの?」と問いかけた結果として、お母さんの過去の生い立ちについて詳しく語ってくれても、それが話者自身や話者自身の気持ちについての言及を全く含まないことがあり得る。しかし、私は、そういうstage1を更に話してもらうだけで、大きな意味がある場合があると敢えて言いたいわけである。

 普通に「身の上話」を対話している場合、少なくともこの中のstage 3までならごくあたりまえに到達できる人が多いため、こうした「体験過程尺度の低いステージが持つ意味」について積極的に検討されることが少なかったようにも思える。

******

 次のような仮定に立ってもいいのではないか? 

「より低い体験過程水準が、カウンセラーとの対話の中ですでに十分に実現されていることが、より高い体験過程水準が面接の中で十分に機能する上で必要である」

 もし、その人が、Stage1からStage3までの「低い水準の」体験過程レヴェルで、その時点で、語り得る話を、カウンセラーとの対話の中でそこそこには共有しないうちに、stage4以上、つまり、具体的感情ついての話を繰り広げることには、実は無理があるのではないか???

 ちなみに、フォーカシング、つまり、自分の中の漠然とした言葉にならない感じに注意を向けながら語る言葉を吟味していこうという姿勢が喚起されている状態は、Stage5である。

****

 実は、このことが、特に、フォーカシングを基本として学んで、現場臨床の技量を高めていくカウンセラーに(そのすべてではないにしろ)、カウンセリングスキルの上で、ある基本的な偏りを生み出す可能性があるのではないか????

 フォーカシングを学んでいると、Stage5に到達しているかどうかばかりに関心が向きやすくなるのである。

 ところが、生産性の高い面接過程ですら、1回の面接の中でStage5に乗る瞬間は、ほとんど全くないか、出てきてもホンの限られた箇所というのは、ごく普通である!!

 それどころか、「フォーカシングは、自分の悩みの細かい内容について相手に話をしなくてもすることができます」とすら吹聴されている(^^;) このことが、フォーカシング関係者に、低い体験過程水準で相手に話をすること、あるいは、そういう話し方をする人間に延々とつきあって聴き手になることを回避する傾向を生み出している場合もあるのではなかろうか???

 しかしそれは、ひょっとしたら、stage4までの対話を十分にうち解けて繰り広げられた上で成立したクライエントさんとカウンセラーの関係性における、十分に安定した「基礎」ないところで更に高い水準を目指してしまうという「無理」を生み出している場合もあるのではないかとも思える。

 体験過程水準は「上げれば」いいものではなくて、「上がる」ことを可能にする、低体験過程水準でのコミュニケーションによる「なじみ」も、ことフォーカシングの「技法としての」習得それ自体を目指すわけではない場合関係性の上で必要であるという仮定である。

 恐らく、これが、通常のカウンセリング的な面接と、最初から「フォーカシング」のフォーマットのもとになされる相互作用の大きなギャップとなっている場合もあるように思う。

 もとより、フォーカシングにおいても、気がかりな事柄そのものについての十分な傾聴は、リスナーにとって本来基本である。何らかの意味で、カウンセリングや心理療法的側面がある形でフォーカシングのセッションを行い場合には、「フォーカシングしてもらうこと」よりも、まずは、フォーカサーの話を傾聴することそのものに時間を費やすばかりになっても、状況によってはやむなしという判断をリスナー/ガイドはできる必要がある。

 しかし、場合によっては、体験過程水準でせいぜいStage2の水準の話を、フォーカサー(クライエントさん)にもっとしてもらうように促すことがむしろ生産的という場合もあることについて、再認識してみるのも意味があるのではないかと思える。

以前書いたこの記事もご参照下さい。


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カウンセラーが、「これを訊いたらクライエントさんを傷つけるのではないか」と感じる瞬間

 前回の「訊(き)く」論再論への更なる補足。

 少なくとも、カウンセラーが、「これを訊いたらクライエントさんを傷つけるのではないか」と感じる瞬間に、それをはっきり「自覚する」(アンのフォーカシング用語で言えば"acknowledge"する)ことは大事ではないかという気がする。

 一般に、

「これを訊いたクライエントさんを傷つけるのではないか」

と感じる時というのは、

「それを聞いて(敢えて文字を使い分けている)しまうと、自分(カウンセラー自身!!)が動揺して(傷ついて!)しまうのではないか」

という恐れが「投影同一視」されたものである可能性は、考量して見る意味があるのではないかと思う。

 「ひいて」いるのはカウンセラーではないかということ。

 クライエントさんが、その,カウンセラーの側の微妙な「引き」を、非言語的に覚知して、それ以上話すのを引っ込めるということは大いにあり得る。

 少なくとも、クライエントさんの側に、そういう「踏み込んだ」話をしようとすると、相手が「無関心な態度を何となく示して来る」という、歪曲された(?)認知(これ自体投影同一視)が日常の中で固執されている可能性はある。

 .....恐らく、これは、多かれ少なかれ、両者の「共謀」だろう。


*****


 .....少なくとも、カウンセラーの側が、

「ここから先まで『立ち入って』話を聞くことに躊躇している自分がいる」

ことをはっきり自覚してしまえば、それでカウンセラーは自己一致しているのである。

 それだけで、カウンセラーからが、更にその件について具体的に話してもらうように促さなくても、どういうわけか,クライエントさんは、そこから先の話を自分から語り出すかもしれない!!

 なぜなら、クライエントさん自身も、その瞬間に、「躊躇している自分」と向き合い、受容する方向に、関係性の中で、何となく、なってしまうから!!

 ........論理的ではないが、そんな気がする。

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2007/06/25

鬱的になった人はまず精神科以外の医療機関を受診する傾向がある

msn=毎日の記事より。

●自殺防止:NPO、精神科医など連携 静岡・富士で


静岡県は不眠などの身体的症状を見逃さずに自殺防止につなげようと、NPO法人を含む全医療窓口が精神科医と連携する独自の取り組みを同県富士市で7月から始める。県は厚生労働省に地域自殺対策推進事業として採択を申請中。人口約24万人の産業都市ぐるみでの自殺防止の仕組みは、全国の先駆的取り組みとして注目されそうだ。

 静岡県精神保健福祉センターによると、自殺者の大半が自殺1カ月前以内に不眠や疲労感などを訴え、精神科以外の医師を受診していた。このため同市では、一般的に自殺率が高い年代の35~69歳の市民に、「眠れない」「食欲がない」「だるくて意欲がわかない」の3項目を自己点検できるリーフレットを配布。問題を訴えた市民にまず、かかりつけの医師などに相談を促す。

 市では今年1月から、県と市医師会の協力で一般の医師と精神科医が連携し不眠や食欲低下の症状のテストや専用紹介状も用意しており、取り組みの下地ができていた。

 県では05年の自殺者814人のうち40~50歳代の男性が3割強。精神科の受診に抵抗感が強いことや、この年代の男性の中には医師の指摘に「おれはそんなに弱くない」と反発する人もいるという。同センターの松本晃明所長は「抗うつ剤を飲むだけで自殺を免れることができる。将来は睡眠薬を扱う薬局にも協力してほしい」と話す。

 自殺予防について多数の著書がある高橋祥友・防衛医大防衛医学研究センター教授(精神医学)は「自殺防止のために自治体ぐるみで一般医と精神科医が連携することは珍しく、特に企業城下町の富士市のようなところでは、全国のモデルになるかもしれない」と話している。【稲生陽】


> 自殺者の大半が自殺1カ月前以内に不眠や疲労感などを訴え、
> 精神科以外の医師を受診していた。

 これは恐らくそうだろうと思います。

 自殺者=重度の鬱の人というわけではなく、例えば統合失調症になりはじめた人も、自殺の危険が生じる場合があるわけですが、私のカウンセリングングルームにおいでの方でも、自分の直接の相談ごとのメインには必ずしも語られなくても、「眠れない」「食欲がない」「だるくて意欲がわかない」などといった状態に実はすでにある方が少なくないわけです。

 そういう来談者の方に、「お医者さんに行かれましたか?」というと、恐らく5割以上の頻度で、内科をはじめとする、精神神経科・心療内科以外のお医者さんに行かれたということは言われます。

 以前もお書きしましたけど、「鬱」というのは、知識としてそこそこ知っているつもりの人でも、自分の、この、「眠れなさ」「食欲のなさ」「だるさや意欲のわかなさ」が、「鬱」というものなのだということを、全く自発的に自覚できたり、認めることができるわけではないことが少なくありません。

「こ、これで、十分『鬱』というものにあたるわけ?」

.....それこそ、カウンセラーのような専門家でも、「自分が」鬱になったと、冷静に自分だけで判断できることは必ずしも多くはないでしょう。

 特に、自分が、例えば一ヶ月前に比べると、目に見えてだるい日が続くようになったとか、意欲が衰えた、それが1日や2日の休息ではほとんど回復しないとなれば、十分に鬱の可能性を考慮に入れてもいいのですが。

 私は、そうしたケースについては、クライエントさんの受け止められる形で、「鬱状態」の可能性もあることを理解していただきます。そうしたお話し合いの上で、やっと、自然な流れで、

「.....やっぱり、『鬱』ですかね?」
「......そうですね。確言できませんが、お医者さんの判断を仰いでもいいような気がします」

という自然なやりとりになることは少なくありません。

 そして、念のために心療内科か精神神経科の医療も受診して診断を受けてみることをお薦めし、その地域の信頼できそうな病院も紹介し、その診断の結果を受けて、カウンセリングのあり方を考えることをお薦めします。

****

 私は、カウンセリングや心理療法が、薬物療法の「代わりになる」ということはないと思っています。

1.適切な薬物療法と、お医者さんとのいい関係(医者という名の薬)がベースにあり
2.以前よりも無理をしすぎずに済む、「徐行運転」や「臨時の休息」が可能な生活状況を確保していただき、
3.カウンセリングに通うことが、ご本人の心身の休息を妨げる形にならない場合に

はじめてカウンセリングや心理療法は効果を発揮するものと思っています。

 中には「薬が効かない」という方もありますけど、そういうケースのかなりの部分は、お医者さんとのコミュニケーションがうまく取れていない場合が多いという気がします。以前も書きましたが、私のような開業カウンセラーの仕事のひとつは、クライエントさんが、診察の限られた時間内で、お医者さんとうまくコミュニケーションを取る「コツ」をその都度伝授していくことでもあると思っています。

 「精神神経科」に抵抗があるならば、「心療内科」の看板も掲げた「内科」の開業医で、最初は十分だと思います。もちろん、何らかの身体疾患や、更年期障害などが、「元気がなくなる」原因と言うこともありますけど、心療内科では(精神神経科もですが)、当然、そういう身体因の可能性について、検査なども含めて鑑別診断もした上で治療方針を決めていくものですので、精神科や心療内科に行ってしまったら、安易に「鬱」と決めつけられるなどというご心配には及びませんが。

*****

 上記の記事では、精神神経科医以外の医用窓口ばかりではなく、今後は睡眠薬を扱う薬局などとも連携する方向を考える方向のようですが、こうしたネットワークは、例えば育児相談、法律相談、消費者問題相談、ハローワークなどの組織や機関とも連携されていくのが望ましいでしょう。最近はハローワークに臨床心理士が置かれている地域も増えてきたようですけども。

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2007/06/19

関係の中での「感じ」

 クライエントさんとの関わりの中でカウンセラーが体験する「無力感」や「焦り」や「孤立無援感」。

非常に多くの場合、クライエントさんが日常の中で体験する、周囲の他者との関係の中での「無力感」や「焦り」や「孤立無援感」と「同じような感じ」なのかもしれない。

 あるいは、

クライエントさんの周囲の他者が日常の中で体験する、クライエントさんとの関わりの中での「無力感」や「焦り」や「孤立無援感」と,「同じような感じ」なのかもしれない。

 このことをカウンセラーが「気がつく」ことそのものが、カウンセラー,クライエントさんが,「関係の中で治癒」して行く、シンプルな出発点である。


 ........わざわざ、「治療者の逆転移の活用」などと、言うに及ばないのかもしれない。


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2007/06/18

カウンセリングの中期目標:どのカウンセラーからも有効な援助を「引き出せる」クライエントさんになっていただく援助がすでにできているか(第2版)

 クライエントさんとのカウンセリングで「何をめさずのか」?

 どこまでいったら、カウンセラーとして必要にして最低限十分な役割を果たせたのか?

 そういう、カウンセリングの「目標」についてのひとつの逆説である。


「何らかのやむを得ない理由(転居・勤務地の変化等)で、クライエントさんとの関係を終結せざるを得なくなった時でも、クライエントさんが、ある一定水準を満たしたカウンセラーとならば、有益なカウンセリング関係を築き、自分への援助の場として生かすことができるような水準の自我の形成には貢献していること」

 .....つまり、新たに出会うカウンセラーとのカウンセリングの機会を「うまく生かせる」クライエントさんに成長してもらえているかどうかではないか?

 もちろん、これは、クライエントさんとの関係の中で、意識的に「治療目標」として共有する性質のものではないでしょう(^^;)

 しかし、自分のクライエントさんが、「いざとなれば自分でないカウンセラーとも好い関係を作れる」ところまではお手伝いできているかどうかという問いを、カウンセラーは自問し続ける「責任」があると思う。

 カウンセラーから治療的・援助的な力を「賦活」し、引き出す「キュー出し」のコツをわきまえたクライエントさんになってもらえることを暗黙のうちに援助することを優先課題としておくことは、クライエントさんへの最大の専門的サーヴィスだと思う。

 現実には、その人の成熟過程を「最後まで」見守ることなど、現実のカウンセリング関係の中では必ずしも多くないはずである。

*****

 これは、ある、クライエントさんとの面接の継続を終えざるを得ない事態を勤務地の変更で数回後に控えたカウンセラーの方へのスーパーヴィジョンの際に、私の中ではっきり言葉にできたことである。

 これまで、自分が漠然と思い描いており、留意しており、言葉にはできていなかったこと。

 現場臨床的にいえば、クライエントさんの「自我の確立」とか「自立」というのは、取りあえずこの水準を目指していてこそ当然ではないかと。

 自分とそのクライエントさんとのカウンセリング関係が円満な終結まで継続することを前提として、親からの「精神的な」自立などという、雲を掴むような長期目標を掲げるよりは、よほど「具体的」で「現実的」な、無理のない「中期目標」だと思う。

 この考え方は、今後カウンセリングが社会の中でひとりひとりの人にいろいろな形でアクセス可能な援助資源となると想定される中で、カウンセラーが念頭に置くべき、専門家としての基本姿勢だろう。

 クライエントさんにとって一番貴重なのは、必要あればいろんな形でいつでも「利用」できる、カウンセラーなる人種から、最良の援助的な専門的能力を「引き出す」スキル(および、カウンセラーからの「反治療的な」働きかけを「抑止」したり、「無害化」するスキル)ということになろうから(^^;)、それを引き出してくれたカウンセラーが、一番「汎用」の援助をしたことになるのである!!


***** 


 あまりに逆説が過ぎて、ここで私が言わんとしていることにピンと来て下さる方は、カウンセラーの方々でも限られているかもしれないとは思いつつも......

 まして、クライエントさんからすれば、自分が援助を求めようとしているカウンセラーが「自分がカウンセラーでなくなった場合でもクライエントさんが別のカウンセラーとやって行けるように」などという意味のことを書くと、「この人はしっかり引き受けてくれるのだろうか」という不安を呼び起こしてしまうかもしれない。

 私が申し上げたいのは、シンプルなことである。クライエントさん自身、そしてひとりの社会人としてのカウンセラー自身、いつ何時、転居などの不測の事態でカウンセリングの継続が不可能になるかもしれない。そうした事態を常に想定しておく必要があるはず.....ということでもある。

 (もっとも、特に開業カウンセラーの場合、一度ある場所で開業したら最後、通い始めたクライエントさんとに面接の継続性を保証できる形で開業し続ける責任があると考えます)
 
 もう一点は、医師を含めて、援助的専門家に援助を「うまく」受ける力全般を高めることこそ、「街のカウンセラー」の「すき間産業」的意義と信じるが故。

 大事なのは、「できる援助を最大限にする」ことであっても「自分こそがこの人にとって『かけがえのない』援助者としての全責任を背負い込むこと」ではない。

 カウンセラーですら、その人の問題解決と変化と成長の一因子(多くてもたかが168分の1)に過ぎない。

 クライエントさんは、それ以外の膨大な「資源」(resouce)を活用して、はじめて活路を開き、変化していくのである。そうした、クライエントさんの「資源」活用力を高めるアシストをカウンセラーはできているかどうかに自覚的である必要があると思う。

 そのことを俯瞰してこそ、「されど168分の1」としての機能を最大限に果たせるのだと思う。

 こうした発想の基本に影響を与えたものとして、私の場合、中井久夫先生の影響は大きい。

 例えば、意外かもしれないけど、この本。

「治療文化論」
 

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2007/06/14

面接の中で、生まれてこのかた言葉にしたことがない「何か」に言葉を見つけようとしているクライエントさんに、つきあえること。

 架空のカウンセリング(あるいはフォーカシングのセッション)の実例です。


「昨日、そのごたごたがあって以来、私の中にはずっといやな気分があって、寝るまでずっとそれを引きずっていたんです」


などとフォーカサー(クライエントさん)が語っていたとしたら、私は


何か『独特の』イヤーな気分がすっとそこに感じられていたんですね>


とだけまずは言葉を返します。


「ええ、ずーっとあったんです。『それ』は」

<なるほど、『そういう』感じは、ずーっとあった>


ここで私はしばらく沈黙して、相手の方の反応を待っています。短くても30秒は待つでしょう。


「よく『そんなふうな』気分になるんですよ」

<ああ、『そんなふうな』気分にはよくなるんですね>

「ええ.....」


また沈黙です。

こういう場面で、フォーカサー(クライエントさん)が沈黙できる時の多くは、好ましい沈黙であることが多い気がします。「この人は沈黙の中で感じに触れながら、大事な何かをしている」という感触が場の空気からも伝わることが多い。

別の観点から言うと、ひょっとしたら、この人はそういう時の心境や、その日の昼にあったごとごたそのものについて、もっと具体的に話してしまう方が流れ的に自然かもしれない。そういう機会を与えるため、待っているということでもあります。

30秒後。

「もう、うんざり、といいたくなってしまって」

<何か、もう、うんざりといいたくなる>

「ええ」

『そういうふうな感じ』が、何かそこにはある.....>

こういう時、私はわざと「うんざり」という言葉の鸚鵡返しを「更に」繰り返すことは控えて、再び『直接指示語』的な「そういうふうな」といった言葉にまで、伝え返しを引き戻してしまうことすらあります。それは、この人は、「うんざり」という言葉を口にしていますが、それがフェルトセンス(言葉にならないあいまいな感じ)全体をつなぎとめる言葉とまではいえないことも少なくないので、あくまでも、フェルトセンスそれ自体を感じることをその人に維持してもらいことを優先するのです。

間違っても、ここで、


「うんざりという言い方で、ぴったりでしょうか?」


などと問いかけたりはしません!!

でも、しばらくすると、


「......やっぱり、『うんざり』というしかないかなあ.....」


....ほら、自分で照合してますって(^^;)

私は、このへんになって、はじめて、


<どうでしょう? あなたが、きのう、そのことがあってからずーっと感じていた、『その』、何か「うんざり」みたいな感じには、一種独特の、感触というか、質感みたいなものがあると思うんですけど、それを身体の実感として感じてみることはできるかもしれないんですけど.....>


.....などという「提案」を、「控えめに」してみるわけですね。

私は、よほどフォーカシングに慣れた人相手でないと「身体の感じ」という言葉そのものを安易に使いません。フォーカシング関係者にだけしかわからない「符丁」みたいな「暗号」は意地でも使うかと思っているのに近いかも(^^;)


「.....そうねえ、独特の、感じ、あるよねえ.....うーん.....」

<何か独特の感じがそこにはある>

「そう、あるんです.....」

また30秒沈黙。

すると、

「あのー.....」

<何?>

「さっき、身体の実感って言われましたけど、どういうことかよくわからなくて」

<例えば、気分というか、居心地というか、雰囲気みたいなものでいいんですけど>


こういう時、私は「身体の」という点に拘泥されてしまう危険からむしろ一歩引き下がってしまうことが多いですね。「身体の感じ」とは何かについて、「説明して」「わかって」もらおうとするなんて「論外」と思ってますので(^^;)


「......そうねえ、あるよねえ.....独特の『居心地』......」


<何か独特の居心地があるのは確かなんですね>

「.......『うんざり』.....かな、やっぱり.....」

<ああ、『うんざり』かな、やっぱり.....と。言葉にするとすれば>


この瞬間、一見やりとりが元に戻ったみたいですけど、これくらいで焦ったり、それこそ「うんざり」しはじめるようでは、リスナーとしてまだまだですよ(爆)

私もここで「言葉にするとすれば」などと、さりげなく「照合」にあたることをアシストする一言を加えているのをお忘れなく。


「.....いや、『むしゃくしゃする』」

<『むしゃくしゃする』>

「.....そうね、『むしゃくしゃする』の方がいいね.....」

<ああ、『むしゃくしゃする』の方が実感に近いんですね>

<そうです。うん。『むしゃくしゃ』ですね、うん>


.....こうして、結構フォーカサーは自分で照合するものなんです、


このへんでやっとわたしは、


<では、どうでしょう? その『むしゃくしゃ』みたいなものが、身体のどこかを中心として感じられているとすれば、どこら辺かな?と注意を向けてみることはできるかもしれないんですけど....>

「『身体のどこかに』ですか?」

<そう。からだのどこかに、その『むしゃくしゃ』の中心というか、コアみたいなものがある、と仮定してみるわけですね>

「なるほど。ちょっと待ってください.....(30秒沈黙).....あの、『むしゃくしゃ』と関係あるかどうかわかんないんですけど、何かそうやって注意を向けようとしてみたら、何かおなかの辺りに、感じが出てきたんですけど」

<ああ、『むしゃくしゃ』と関係あるかどうかわかんないんけど、おなかの辺りに、何か、『ある感じ』が出てきたんですね>


「ええ.....(1分沈黙).....」


私はこういう時、機械的に、「では、その感じに、ああ、そこにいるのはわかったよ、と声をかけてみるのはどうでしょうか」とか、「では、その感じのそばにしばらく一緒にいてあげてみるのはどうでしょう」などと言い過ぎないようにしています(^^;)


<おなかの辺りの感じは、今も感じられ続けていますか>

「あります......」

<さっきと同じような、ある一定の感触の感触を持つものとして、ずっとそこにあるわけですか?>

「同じ.....ではないけど、さっきのの延長ですね。さっきより何かくっきりしてきた」

<ああ、さっきよりは何かくっきりしてきた>

「......そうです.........『ぐしゃぐしゃ』ですね、『ぐしゃぐしゃ』。」

<『ぐしゃぐしゃ』>

「......うん、『ぐしゃぐしゃ』です。まるでまるめた紙くずのように、おなかの『このへん』(指差す)にあるんですよ」


********


.....とりあえず、こんな調子です。

どんな感じか、言葉にすることを急かすような形にならないための配慮の一端が伝われば幸いに思います。


******


以下の論考をご参照ください。

田中秀男 「直接のレファランス」の「直接の」って? ~「レファランス」と「照合」の異同を見定める~ 日本フォーカシング協会ニュースレターThe Focuser's Focus Vol.7,No.2,2004.

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2007/06/12

格差社会の中での開業カウンセリング

 とりあえず、「私設心理相談」研修会関連の記事、これをシリーズの最後にしたいと思います。

 あるベテランの開業カウンセラーの方がいわれたことが心に残っています。

 「戦後の日本は、いわゆる『中流』層を分厚くし、その消費活動によって経済を支えるという形で成り立ってきた。正直なところ、開業カウンセリングもそうした層を主に対象としてきたところがある。

 しかし、今や『中流』層を維持する力を日本経済は失いつつある。だからといって、これまで同様に中流・上流層のみを当てにして開業カウンセリングを続けようとしたら、生活者としての国民全体の実感とは離れたところでしかカウンセリングをしないことになり、それはカウンセラーの感性をも麻痺させてしまう危険がある。

 そうした意味では、いろいろな団体や機関のボランティアに自分から志願するような形ででも、様々な所得層の人たちの相談に応じるような姿勢は重要だし、クライエントさんの一定の部分について、ディスカウントした料金で面接を引き受けるような態勢を考慮に入れた方がいいのではないか。

 多くの人に安くカウンセリングの場を提供するために、1回あたりの面接時間を30分にして料金を引き下げるなどという対策を考える人たちもいる。しかし、50分話を伺うからこそ意味のあるカウンセリングとして深まることが多い気がするので、安易にそうした手法を採用するのはどうかと思う。

 これからは、例えば、生命保険会社などが、電話相談サービスを臨床心理士を雇って引き受けるなどといったことももっと広まっていくだろう。そうした中で、1回50分、特定のカウンセラーのもとに繰り返し足を運んででも相談することの意味という点を、カウンセリングを求める人たちに伝え、カウンセラーも、自分に何ができて、何ができないのかについて、クライエントさんに明確に伝えられるようになっていかないと」

 経済的にも危機が生じるからこそ、はじめて専門家に相談したくなるとという人は明らかに多いと思います。賃金に引き合わない労働環境で、将来への見通しが具体的にイメージできない「出口なし」を感じながら何とか働き続けている、30代くらいまでの層の方からの相談も、私がお引き受けする中でも一定の比率を占めています。そこに「ワーキング・プア」という概念を当てはめてとらえる意識が我ながら遅すぎたかな、という思いがつい先日したことは、別の記事でも書きました。

 たいていの臨床心理士も、実は自活して生計を立てていこうとすると、決して恵まれた環境にいるわけではありません。クライエントさんの問題は、我が身の問題でもあります。

 「カウンセラーがたどり着けたところまでしか、クライエントさんを導くことはできない」というユングの言葉を、こうした意味でもわきまえながら、一生活者としての自分とも向き合いながら、「お金を払っていただける専門職」としての技量を磨き続けたいと気を引き締めるのでした。

Jungpsychotherapy
ユング「心理療法論」

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2007/06/10

成功したキャリアある開業カウンセラーはひとりでどのくらい稼げているか?

.....というわけで、日本臨床心理士会の「私設心理相談」研修会から帰ってきました。いろいろ、さすがにここでは書けないホンネの話を先輩の先生方から伺えて、刺激があり、元気ももたえたのですが。

 さて、予想通りといいますか、「私設心理相談」という呼称変更は無っ茶苦茶に不評でした。この呼称変更について、この研修会の場で公式に報告された「理由」は、まさにこの記事で私が想定した理由そっくりそのままでした。

 参加者は、恐らく300名にのぼったと思いますが、全体会の後、午後の分科会で分かれた後の配分からすると、半分以上は、「これから開業も考えている臨床心理士の方」、あるいは、「開業カウンセリング機関で働いている臨床心理士の方」だったようです。私は「開業5年未満の臨床心理士」という分科会に出ましたが、そこで40名ほどだったでしょうか。

 さて、トピックとして何をここで取り上げようかと思いましたが、まずは、「開業臨床心理士の収入はどのくらいか?」という、思い切って現実的な話にしましょう。

 全体会で「開業20年」のベテランの先生がお明かしになった数値ですので、ここで公表しても差し支えないと思います(どなたかはお伏せします)

 「病院臨床十数年のキャリアを重ねて、自宅敷地に独立したカウンセリングルームを建て20年。カウンセラーは自分ひとりだけのまま」という先生が、大学の教職との兼業をお引き受けになる前の、もっともケースを引き受けておられた頃の数字です。

 年間面接時間1237時間
 最多月128時間
 年収1200万円
 必要経費300万円

 これを一日当たりに換算すると、最盛期は1日6時間強となります。構造のしっかりとした厳密な心理療法的枠組みをとる面接ばかりです。ここには、記録のための時間や経営上・事務上の雑用や電話での問い合わせや予約への応対時間は含まれていません。

 これを週5日以上のペースで毎週過ごすと、精神的・肉体的に限界状態で、終わった後何もする気が起こらないそうです。これは理解できます。

 この先生の面接は1時間10,000円。キャリア豊富な開業カウンセラーですと、都市部ではごく普通の相場でしょう。

 厳密には、1000万円以上の収入になれば一般消費税もかかります。

 しかし、どうでしょう? 大学院までの高学歴、十分すぎる病院臨床のキャリアと、その学派の心理療法の研修暦を持ち、絶えず専門家として継続研修を重ねて、50代で家族を養って所得が1000万円を超えるのが難しいというのは?

 これが、日本の開業個人心理臨床(.....という言い方をどうしても使ってしまいますね.....)の現場では著名な大家の先生の、めいっぱいにクライエントさんをひきうけた状態の現実です。

 私の現行の料金体系のままだと、ひとり開業である限り、(ケーススーパービジョンやフォーカシングのトレーニングの割合がどうなるかにもよりますが)、幸いにして繁盛させていただいてめいっぱい働けても、そもそも1000万円前後にしかならない試算に意識的に『今のステージでは』たって経営しています。ちなみに私は自宅も職場も賃貸です。これだけで180万円弱減りますので(住宅費の高い大船としては、かなり安く上げてるラインでしょ?)。

 もちろん、経営がある段階に達したら「事業拡張」は考えますし、「スタッフ増員」とか、カウンセラー研修への力点の移動、そして、ほんとうにキャリアを積んだところで教壇「にも」立たせていただけることが夢です。

 でも、少なくとも50代の後半までは、「現場第一線」で何ができるか、踏ん張ってみたいものだと思っています。

*****


 ちなみに、この「私設心理臨床」研修会で学んだことについては、テーマを変えて、いくつか続きを書くつもりですので、お楽しみに!!

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2007/06/09

明日は「私設心理相談」研修会参加

 明日は、東京・駒込の大正大学で、日本臨床心理士会の「私設心理相談」の研修会があります。

 午前10時には会場に着いていなければならない性格上、今日は夜更かしは自重したいので、「今週のベスト20」発表はまる一日延期、日曜の晩にします。

 私設(開業)心理臨床というテーマで、日本全国から臨床家の皆様が集まる場が、どのようなものになるのか、まさにこの領域の固有の問題について具体的な議論が盛り上がる場となることを期待しています。

 おそらくひとつの大きなテーマになるのは、臨床家の倫理と法律の問題だろうと想像しますが、経営的なたいへんさだとか、新規にこの領域に踏み出す際に、クライエントさんをどう開拓するか、普段の広報宣伝活動をどうしているのか、などという「現実的な」ホンネの部分での意見交換がどんどん出てくる場になって欲しいなと思っています。

 その内容についての感想も、このブログで何らかの形で報告させていただきたいと思っています。


*****


 一般の読者の皆様の目にどう映っているかと思いますが、日本では、純粋に開業だけで生計を維持している臨床心理士はまだかなりの少数派といっていいはずと思います。この辺、欧米の映画とかに出てくる「精神分析医」みたいなイメージをもたれてしまうと全然違うんですよね。

 いつもいいますけど、少なくともフォーカシングを「表看板に掲げて」開業している「常設相談機関」は、日本・精神技術研究所のオープン・プログラムを別にすると、不詳私の「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」日本最初かつ現在でも唯一のはずです。個人的な面接を結構引き受けておられて、そこでフォーカシングを活用されている方は他にもあるかと思いますが.....

 もっとも、いつも申し上げているように、私のポリシーとして、通常のカウンセリングにおいて、私の方からフォーカシングをお薦めすることは全くしていません。これはお題目ではなくて、本当に現実にそうなのです。

 私は、流派や療法の違いによって、カウンセリングの優劣があるなどというのは全くの幻想だし、ある特定の症状だとか病理水準の人にある特定の心理療法が効果的ということすら全く信じていません

 そのカウンセラーにとっての主たるオリエンテーション(拠って立つ基盤)というのは、あくまでも、その臨床家が、専門家として成熟していく上で、いわば「てこの支点」となったものであるに過ぎないと思っています。

 いわば、「町の開業内科医」のようなスタンスとしての「街のカウンセラー」というものがある気がしてならない。クライエントさんの守秘義務を尊重する形で、精神神経科や心療内科の専門病院・クリニックや、地域精神保健、公的な教育相談や児童相談、そして教育機関やスクールカウンセリングと緩やかに連携し、そうした機関とのクライエントさんとの関わりや活用をサポートしつつも、それらと競争関係にあるのではない、敷居の低い開業カウンセリングというのがあり得ると信じています。

 こうした、まだまもなく開業2周年にすぎない私の発想をいかに具体化するか、開業の先輩方の知恵を借りながら、吟味する場になることも、研修会に期待しているのですが。

*****

 【追記】:研修会に実際に参加してみての感想は、こちらの記事を筆頭として、いくつかのトピックを書いてみるつもりです。

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2007/06/08

クライエントさんは自分の抱えている悩みのすべてを話しているわけではない。

 以前、「週に一度、1回1時間、カウンセリングに通っているクライエントさんは、全生活場面の中の、たったの24×7=168分の1の時間しかカウンセリング場面に関わっていないのに、その1時間で、その1週間ばかりか、得てしてそれまでの長い年月をかけて形成された来た自分の悩みについて物語らねばならない立場にある」という、ことを話題にした。

 そして「たかが168分の1、されど168分の1」ということをいかに受け止めておくかということが、カウンセラーの基本姿勢として重要であることを示唆したつもりである。

 しかも、日本の現実では、毎週確実に1時間を継続的にカウンセリングに通うということが、時間的・経済的にみて無理がないケースはごく限られている。その分、何らかの意味で日常の時間とお金と労力をを削っている。それだけの時間をカウンセリングに費やすということだけでも、家族や関係者の理解と協力が必要であり、仮に周囲に秘密のままカウンセリングに通うとすれば、そのことそのものがストレスとなる。

 そして、カウンセリングの場所に通う、あるいは寄り道をするということで1時間を必要としないという恵まれた環境にいる人も稀である。

 私は、こうした事柄全体をカウンセリングのベーシックな「副作用」の基本に置くべき、という考え方を以前示した。

 恐らく、歯医者さんで治療の対象となる歯の疾患の悪化の原因の5割以上は、「歯医者に通うのがめんどくさくて放置した」ことに起因する、というのはけっして大げさな言い方ではあるまい。治療に通うこと自体のたいへんさそのものが、最初に克服されるべき「治療的副作用」であるという言い方は、ひとつの思考実験としてやってみる価値があるはずである。

 カウンセリングルームで待機しているカウンセラーは、カウンセリングルームにクライエントさんが現れたその時を以てしてはじめてクライエントさんとのカウンセリングの開始のイメージを持つ。しかし、カウンセリングにクライエントさんが現れた、それだけで、クライエントさんは、数々の「障害」をやっとの思いで突破し、ひとつの大仕事を成し遂げているのである。


*****


 敢えてひとつカウンセラーの人たちに問いかけてみたいのは、自分が、自分個人の悩み事で、カウンセラーのカウンセリングを受けてみることを具体的に考えたことがあるかどうかである。

 そのようなことは、カウンセラーとしてのプライドに関わる、あってはならないこととお考えだろうか?

 医者であれば、自分が病気にかかれば、他の医者の診察や治療も受けるし、入院もするということに違和感はさほど感じない気もするが。

 いずれにしても、それまで全く赤の他人だった人間に、お金まで払って、自分の抱えた悩みや問題を一からわずか1時間で物語るということが、どれだけたいへんで、葛藤があり、一種不全感を残しやすいものであるか。
 
 カウンセラーにどのような目でみられるか、受け止めてもらえるかを気にするあまり、脳裏に浮かんでも話すのを回避する事柄がどれだけあるか。思わず、たいしたことないかのように話したり、時には見栄を張ってウソを言ってしまう部分がどれだけあるか。ほんとうは、より深刻な問題である可能性を心のどこかで感づいていながら、その問題については全く「かわして」、より解決が平易そうな問題のみを語りたくなる誘惑。

 そして、聴き手の専門家の側が、自分がそうやって思わすバイアスをかけて話した中身の内容だけを「真に受けて」そこに絞り込んで応対してきた時の居心地悪さ。あるいは、自分としてはさして重要とは思えない点にのみカウンセラーが拘泥し、そちらの方の話題にばかりカウンセラーが関心を向けてくるのに漠とした違和を感じつつも話を合わせて1時間終えてしまった時の「偽りの和やかさ」を敢えてくつがえす方向に、面接時間の終わりになって、あるいは次回の面接時に話を逆転させるのに、どれだけの決心とパワーがいるか。

 自分の抱えた問題の全体とそこで生じている心の動きについて言葉にしようとしていく過程で、実は自分がどれだけ問題全体をわかっていないか、混乱しているか、語る言葉を見いだせていないか、あるいは、いざこうやって語ろうとすると、日常の中で感じるような深刻みと切迫感が薄れてしまい、「わざわざこういう場で語るほどのことなのか?」という非現実感に突如襲われることがある。


*****


 .....思うに、真の意味での「クライエント中心」とは、こうしたこと全体に対する共感的想像力の全体を含むものであるはずである。

 それらの多くは、語られる必要が最後までないままかもしれない。無理に引き出す必要もないものかもしれない。しかし......


BGM:浜崎あゆみ/浜崎あゆみ - Secret - until that Day..."until that Day..."
  

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2007/06/02

"container(容れもの)"と"content(内容)"の弁証法 -壺イメージ療法(2)-

 前回述べたように、壺イメージ療法とは、本来、単に、困難な問題や感情を「容れておき」「封印する」ための壺をイメージ的に想起してもらう方法ではない

 むしろ、「標準的手続き」に見る限り、こうしたありがちな先入観とは手順が逆転している。つまり、悩みや感情が「何なのか」を最初に対象化できている必要はなく、いろいろな心のありようが「何か」入っているであろうと想定される壺を、幾つも具体的にイメージしてもらうことしか求めていない。

 壺の中に入って感じてもらうというのは、あくまでも壺を幾つか思い描き、気持ち的に無理のない形でイメージ空間に並べてもらった後で行う手続きである。

 しかも、こうして、壺の中に入って、味わってもらうところまでやらないと、この療法に効果がないというわけではない。得てして、壺を想起し、置き場所を見つけてもらうだけで(しかもそれが1個だけでも)十分セラピーの援助となり、それだけでクライエントさんの改善に効果があることが少なくないのである。

 これをもとに、心の内容や心的葛藤、苦しい情動等に直面したり触れたりしないまま「距離を取る」工夫をするだけという点で「安全」であるという考え方、あるいは、そもそも、内的葛藤や情動に「直面」したり「再体験」したり「徹底操作」することが治療的であるという、多くのセラピーの前提は「間違って」おり、むしろそれらにうまく「触れないでいられるように工夫ができるようになること」こそが心的治療の達成であり、心の健全であるという極論すら想定できることになる。

 これに対して、中井久夫先生は、「壺イメージ療法は、一見心的内容に『触れないままににしておく』技法に見えるが、実は『開披的な』技法である」という逆説を提起した。

 この、逆説的な『開披姓』について、以下で私なりに考えてみたい。

 壺イメージ療法が、クライエントさんが、フリー・イメージ療法のセッションの中で、たまたま、「洞窟の中に、いくつもの壺が並んでいるのが見える」というイメージを語ったことがきっかけとなって生まれたことは、前回紹介した2つの文献の中で述べられている。ある意味で「偶然に」発見されたものなのだが、イメージ化の具体的対象として、壺を指定するフォーマットを作るという、単純なことが、どうしてこれだけ奥の深いアプローチを生み出したのであろうか?

 私はそれを、壺という対象(object)固有の、「外界」と「内部」との弁証法的関わりと関係するものとしてとらえてみたい。

 ここでいきなりだが、以前このブログでもご紹介した、中井久夫先生が「治療論からみた退行」と「スリルと退行」の翻訳を通して紹介された、バリントの「前-対象関係」についての考え方、すなわち、オクノフィリアとフィロバティスムの関わりの脈絡で考えてみたいのである。

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2007/06/01

壺イメージ療法 -「容れもの」「置き場所」を想像してもらう技法- (1)

 さて、しばらく記事の本格更新を無理してしないまま、一息つかせていただくモードでやってきましたけど(それでも昨日280アクセスおいでいただいていたことに感謝します)、そろそろ復活です!!

 「このブログで書いているようでいて、書いていなかったことを書こう」シリーズ。

 私が敬愛する、田嶌誠一先生「壺イメージ療法」について、はじめて、正面から、書いてみます。


****

 
 この「壺イメージ療法」、ある意味では、現場臨床家の間では、フォーカシングよりメジャーです。いわゆるロジャーズ派(来談者中心療法)カウンセリングの流れにあるわけではない人ですら、これだけは現場で必要があれば使いこなしているカウンセラーの方々に結構巡り会えます。

 この技法、フォーカシングとの関連で語られることも少なくないんですけど、むしろ田嶌先生の師である成瀬悟策先生(催眠療法、臨床動作法でも著名ですが)のイメージ療法の流れを汲んで、田嶌先生が独創されたととらえる方が歴史的には正確です。

 この技法について詳しく述べた単著、「壺イメージ療法 -その生い立ちと事例研究-」(監修:成瀬悟策 編著:田嶌誠一 創元社)は、この技法の成立過程と詳しい解説、様々な実践者による詳細な事例報告、そして、ゲシュタルト療法の倉戸ヨシヤ先生、中井久夫先生、増井武士先生、そして我が師、村瀬孝雄を含む豪華キャストによる座談会が収録されており、一冊でこと足りる充実度という点では、現在でも代表的文献といえるはずなのですが.........数年前から、絶版です。

 田嶌先生が、壺イメージに留まらない、イメージ体験一般を含める形で、より幅広い読者層を対象にお書きになった「イメージ体験の心理学」(講談社現代新書)も......困ったことに絶版です(^^;) 田嶌先生ご自身、この現実をお嘆きなんですが。

 もちろん、アマゾンの中古市場で手に入ります。しかし、新書刊の後者はともかく、前者は、ご覧の通りの高値がついています(;;)。....それだけ、臨床関係者で、欲しい人はすごく欲しい本なんですけどね。


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 さて、この技法、臨床家一般には、「クライエントさんが面接の中で語る困難な問題や、表出された苦しい衝動、怖いイメージとかについて「封印」するための「壺」を思い浮かべてもらう技法、であるかのように、臨床家の間でもとらえられている場合があります。

 そのような用途にも使えるのですが、田嶌先生が技法体系化した本来のやり方からすると、それは「応用問題」であるに過ぎません。

 以下に、技法の本来の流れについて概説します

(基本的には前述の前者の方の著作のp.55以下に書いてある「標準的手続き」を要約していますが、若干阿世賀なりの示唆も含めています)


1.導入

*リラックスしてもらう(通常は目を閉じる)

*目の前に、心の中のことが少しずつ入った、いくつかの壺(あるいは壺状の「容れもの(瓶・箱・袋など)」が出てくると想像してもらう。

*壺が(ひとつ)出現したら、治療者は「どんな壺?」などと尋ね、その形・大きさ・材質・色などについて言語化してもらう。

*壺のイメージそのものが浮かばない人には「壺があるような感じ」を味わってもらい、「あるとすれば、どんな気持ちか」を言葉にしてもらうだけで十分なこともある。

*それをどこに置いたらいいかを尋ねる
(阿世賀注:自分の前のどの辺という距離感でもいい。左右の位置を優先するクライエントさんもあろう。積み上げるという人もあるだろう。必ずしも真正面ではなくて、斜め前とか真横とかでもいいことを示唆する方がいい場合もある)。

*ひとつの壺(状のもの)についてこれをやってもらったら、他にも壺が出てこないか探してもらう。そして同様に形等について尋ね、置き場所を見つけてもらう。(一個だけのままでもいい)

*(阿世賀注:ひとわたりいくつもの壺について、形等を尋ねた後で、置き場所や並べ順を見つけてもらう方がいい場合と、ひとつの壺ごとに形等を尋ね、置き場所を見つけてもらうことをワンセットにしたほうがいいい場合があるようである。こうした場合、先に置いた壺との位置の相互調整も許容する方がいい場合も多い)

*いくつもの壺と、その置き場所を見つけても、まだ何か、壺という形にならない気分やモヤモヤなどがあるという表明が自発的になされた場合には、それを入れておく壺状のものを敢えて想起してもらうように示唆するとクライエントさんの役に立つことがある。


2.壺に「ちょっとの間だけ」入ってみてもらい、すぐに出て、蓋をしてもらう。

*クライエントさんが「入りたくない」「入れない」という壺には、入らないまま、後述の、蓋をしてもらって続きに進んでいい。

*壺に入れたクライエントさんについては、「どんな感じですか?」と尋ねると、「.....な感じです」「......が見えます」などという答えが得られることが多い(気持ち、身体感覚・壺の中の空気感・雰囲気など)。「何も感じられない」という応答もそのまま受け止める。

*この段階ではじっくり味わう必要がないことを示唆し、その壺の中に感じやイメージを残したまま、壺の外に出てきてもらう。

*蓋については、クライエントさん自身が気持ち的に落ち着ける状態になれるやり方を自由にイメージしてもらう。「栓」のようなものを連想する人、板状の何かを乗せる人、何かで「覆う」というのに近いのがしっくりくる人、蓋を紐などで更に縛りたくなる人など、クライエントさんなりにいろいろ自発的工夫の余地があることを、あまりに先取りしすぎない範囲で治療者側が示唆する方がいい場合もある。「蓋をしないままでいい」という人もそのまま受け止める。

*壺への「入り心地」の実感を参考にして、壺を並べる順序や並べ方を再調整してもらう。

*最初から入ろうとしないままの壺があっていい。多くても2,3個でよく、このへんはクライエントさんと相談して決める。


3.壺の中での感じをじっくりと味わう

*一番入りやすそうな壺を選んでもらい、今度はゆっくりと、長く入ってもらうことを示唆する。

*入れたら、クライエントさん自身がもう十分と思うまで味わってもらう(どのくらい入っているかは、クライエントさんのペースで判断してよく、無理に入り続ける必要はないことの示唆はあっていい)。

*治療者は、「どんな感じですか」と尋ね、気持ちや身体感覚やイメージを言語化してもらう。感じや気持ちが変化したらそれも言葉にして行ってもらっていいことを適切な瞬間に示唆する方がいいことも多い。

*万が一、中から出られないとクライエントさんが訴えたら、出るための工夫についてクライエントさんと話し合いながら工夫する(もっとも、入るまでの段取りが、クライエントさんのペースを尊重した、性急さがないものであれば、滅多にこういう事態は生じない)。

4.壺から出たら、改めて蓋をしてもらう。

*壺を出た後でも不快な感じが残った場合には、
  「同じ壺に繰り返し入り直す」
  「楽に入れた壺に入り直す」
  「その不快感を入れておく容れものを改めて見つける」
などの工夫を、クライエントさんと話し合ってしていく。


5.(特に)不快な体験をした壺については、蓋のしかたや「置き場所」について、クライエントさんが気持ち的に楽になるやり方を丁寧に見つけていく援助をする。

(阿世賀注:例えば、蓋をした壺を桐の箱に入れ、それを耐火金庫にしまった上で、その金庫を土深く埋めたいという人もあるかもしれない。こうした際に「何メートルぐらいの深さか?」などと具体的に尋ねてみたり、「埋めた後の土の表面はどうする?」などと敢えて尋ねてみることが援助的な場合も多い。田嶌によれば、「金庫の鍵は私(治療者)が預かる」などの工夫もありという)


※ 以上、4.-5.を、入ってもいいと思える壺について試みる。


6.次回この面接室に来るまでは、壺を自分で開けたり中に入ったりしないことを約束。


※なお、この技法は、日常現場臨床的に言えば、1.の「壺を思い浮かべ」「蓋をみつけ」「置き場所を見つけてもらう」までの部分だけで十分な効果があることが多く、2.-4.の「壺に入って感じてもらう」部分までやってはじめて意味があるわけではない。2.-4.は飛ばして5.でクロージングするので十分なことが多いことに注意すべきである。

 田嶌先生ご自身も、短いセミナーなどでは、2.ー4.を省略して講義と実習をされる場合も結構おありのようです。

****


 セラピーのキャリアがある人には想像がおつきかと思いますが、この技法が安全に進むかどうかの鍵は、治療者とクライエントさんの関係性にあります。

 治療者が強制したり、誘導したりする形になるのは避けるべきです。クライエントさんのペースに随(つ)き従う態度が重要です。

 そうすれば、クライエントさんや治療者が混乱したり、後味が悪くなるような展開そのものが出てこないもののように思います。この点は田嶌先生も言及されています。「段取り」だけ技法として学んでしまうとしくじるという点では、一見フォーカシングよりも技法的手順がわかりやすいこの技法の場合でも全く共通だと感じています。

 精神分析的に言えば、治療者=クライエント間に「抱え」の構造ができていれば、クライエントさんが体験する壺(=ビオンの言う"container")との関わりのプロセスも、安全なものになる。これは自然の成り行きです(田嶌先生自身、ビオンの概念とについて、最近学会で言及されました)。

 それと同様に、クライエントさんの自発的な「拒否能力」「工夫する能力」「(治療者に)注文をつける能力」(後二者は、田嶌理論の基本概念として著名)の発揮を尊重し、喚起する姿勢は大事です。治療者が「こんな工夫もできるし、こんな工夫も...」などと、具体的メニューを「列挙」するのが「先取り」になり過ぎてもよくありませんし、かといって、反対に、クライエントさんが何か言い出すまでじーっと待ってばかりで「放置」するのも良くないのですね。

 「壺は嫌です。段ボールの箱」といわれて、治療者が「それでは困る」と固執するのも不自然です。あるいは「どこに置く」といわれて「割ってしまいたい」「燃やしてしまいたい」「爆破してしまいたい」といわれたらどうするか? ....私なりにこうしたケースを切り抜けた経験はありますけど、敢えてその実例はここでは示しません。

 そうした時に、治療者側も、最初は当惑しつつも、クライエントさんとの関係性の場の中で、どのように柔軟に、お互いに無理のない解決策に行き着けるかのセンスそのものが問われていると思いますから。

*****

 これは私見ですけど、治療者の側が、頭の中で「このイメージにはこうした意味があるのではないか」などと分析することは、壺イメージ療法の本質とは関係ない問題だと思います。もちろん、クライエントさんが、自発的にそうしたことを感慨として語るのを傾聴し、共有する姿勢は大事ですが。

 また、大事なのは、クライエントさんがその体験をどのように「実感」しているかです。時として生じるのは、出てきたイメージに「カウンセラーの方が」勝手に怖くなって、壺から出るべきだとか、勝手に判断したくなる誘惑に駆られることです。逆に、カウンセラーの側が、イメージの「内容」についての価値判断を勝手にしてしまい「これは大事な、深い次元での体験のはずだから、じっくりやってもらおう」などと勝手に判断するのもマイナスでしょう。

 壺イメージ療法におけるクライエントさん本人の変化は、そのイメージ体験をどのように知的に理解するか、あるいは、内容的に「何を」体験するかとは無関係に生じていくものです。田嶌先生は、これを「体験様式の変化」と読んでたいへん重視しています。この点については、後続の記事で更に具体的に解説したくなるかもしれません。


*****

 ......この項、連載として続きます。

 次回は、この技法の持つ特徴についての私見を述べ、私がこの技法を、普段のカウンセリングや、フォーカシングのトレーニングの中で、具体的にどのように応用しているのかについて、書かせていただくつもりです。
 

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2007/05/08

「曝(さら)される」ストレス

 以上の内容は、

「開業カウンセリング」ではなくて、「私設心理相談」!?

への私のコメントの一部を、繰り上げ再掲載したものです。

 初期のコメントから大幅増補されてもいますし、多くの読者の方に(改めて)読んでいただく意味があると感じましたので。


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 報道というのは、常に個人の身に生じたことが匿名の大衆に公開されるという側面があります。

 報道の対象となるというだけで、極論すれば、それが例えば

「港区民一気飲みコンテスト in 六本木で濱崎歩さん(28)が優勝した」

 というような記事ですら、報道対象となる人にとっては『ストレス』になる場合があることになります(^^)

 私も、そんなに多くはないものの(^^;),自分のことが雑誌などで取材を受けた、新聞で実名の投稿が掲載されたりするだけで、自分というものの自然な「現実感覚」みたいのものがかすかに「ゆらぐ」ことを何とかコントロールしようとしている自分を感じることがあります。

 たいていの一般の人にとっては、自分が、放送されているテレビの画面に現実に映る機会があれば、半日は少し「おかしくなってる」と思います(^^;)マスコミに関わって、「現実との遠近法」を見失わず、身を持ち崩さないというのは、実はそれだけでたいへんな自我の力を要することと思います。

 こういう次元まで考慮に入れると、「報道」というものと「個人情報保護」というものの間には,常にある宿命的なディレンマがあると痛切に感じます。

*****

 少し次元は違いますが、今では、クライエントさんの事例について、ご本人の許可を得ないまま、クローズドな学会であっても発表することをしないという原則があります。

 これはある意味でもっともなことなのですが、仮にご本人と話し合って、ご本人の納得がいく発表内容にして、内容に差し支えない個人情報は特定を避けるため「改変」や「曖昧化」「一般化」したとしても(例えば「"鎌倉市"を"K市"とすべきではない」というところまで決まりがあるんですよ!!)、それを発表するとなった時点で、クライエントさんのカウンセリングは「プライベートな」ことでなくなるわけです。

 そのことがクライエントさんに与える微妙な影響ということを考えると、ご本人の承諾を得るというシステムが常にクライエントさんの利益であるとだけ言うのも一面的と思います。

 事例発表の対象として選択するということは、いくら終わった事例で、匿名性は保証されていても、それだけでクライエントさんを「カウンセラーにとっての特別クライエント」にしてしまう危険をおかしてもいる。

 つまり、事例発表について承諾を求めるという行為そのものが、新たな「転移状況」へとクライエントさんを焚きつける危険もあるわけですね。

 デリケートなクライエントさんの場合,自分の事例が発表されたという事実を「快く承諾していた」としても、それがストレスやその後の人生へのプレッシャーになる可能性がある、ということになります。

 (極端な実例としては、フロイトが「狼男」の症例について、実は「中立性」「禁欲」の原則をものの見事に破っていて、生活費の援助までしていたし、その後の「狼男」の人生が、まさに「フロイトの患者であったこと」以外にアイデンティティが見いだせないものになってしまった悲劇は今日よく知られるようになりました)
 
 そういう意味では、発表について受諾してくれるものの、「内容には干渉しません。見せていただかなくて結構です。お任せします」と言ってもらえるのが一番ほっとさせられる形ではあります。

 でも、本人が発表内容を事前に知る「権利」は保証されるべきという点については、私の基本姿勢であり、「発表についての事前承諾」とは「閲覧権」を含まない、という解釈はどうみてもおかしいと思います。

 現実の学会事例発表でも、クライエントさんが発表内容に目を通した際にカウンセラーに返してきた具体的感想までご報告下さる発表者も増えています。そうした発表は、うかがっていて気持ちのいい充実した内容のものが多い、とは、私の印象からは言えます(^^)

 いずれにしても、クライエントさんの承諾を得るということが,実はクライエントさんの尊重のようにみえて、実はカウンセラーがクライエントさんに訴えられないための「自己防衛」としてなされる側面も自覚しないままに、安易に承諾を求めるようでは、これもまたデリカシーがない。

 仮に本人が内容を知ったとしても、全然良心に恥じない場合にしか発表しない、という基本的態度は一般化して欲しいと思ってはいます。

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 私の場合は、面接のお申し込みの際に署名付きでクライエントさんと交換する「個人情報の扱いについての申し合わせ」についての誓約書の中で、敢えて「学会発表や論文に書く場合」、それどころか「事例検討会に出す場合」について、守秘義務がどういうシステムで守られるかまで具体的に明記することにしました。これは、専門家が学術研究や研修のために事例に基づき「何をしているか」そのものを公開してしまい、そのことについて理解していただけた場合にのみカウンセリング関係を始めるということによって、そうした「ストレス」を事前に予防することも考えてのことです。

 しかし、今度はそういうことを明示することによって、面接申し込みに二の足を踏む皆さんを生み出していまいかといわれれば、そうかもしれないということになりますね。

 結局、この種の問題は、「こうすればその人の安全と人権を守ることになる」とある観点からのみ決めつけたとたんに、別の副作用が看過されやすいという、果てしないジレンマ全体をどこまで俯瞰できるかということだと思います。

 こうしたことが、私の直面し「続けねばならない」壁だと感じています。

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 蛇足ですが、最近でいえば「硫黄島二部作」などの戦争映画で、敢えて残虐なシーンがそのまま描かれるようになったことは、それを見た瞬間はショックであっても、戦争体験者のストレスを疑似体験する上では大事だと思います。


 私は,基本的に、暴力描写を制限するあり方全体に、ある欺瞞性を感じます。暴力描写に一番神経質な国がアメリカであるということそのものに、私はアメリカという国家の基本的な歪みを感じてしまわざるを得ない。原爆の被害展がスミソニアン博物館で開かれることをが中止になったいきさつと同じと感じます。原爆投下が戦争の早期終結に必要だったと主張するのなら、そういう展覧会を実際に観てもその主張ができてこそ「理性的」なはずです!そういう人自身が、実は自分の、そして人間の理性を実は信頼していないことの証拠です。

 それこそ、フィクションの世界で感性を自由に解放でき感化されながらも、現実の人との関わりでは、ある節度と思慮深さと人への思いやりを失わない人間こそ、「理性的で、自我のしっかりした」人間なのであり、青少年もそうした方向にこそ育てるべきなわけでしょうし。テレビで暴力描写を観ても実際には暴力を人に振るわない人間にこそ育ってもらわねばならない。
 

 「この映画には、過激な暴力シーンがあります」ということを事前告知したあとは、お金を払って見る人の(少なくともそれを見せる大人の)自己責任と思います。

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 戦争のPTSDの問題はやっとここしばらくの間に認識が深まって来ましたが、このことの大変さについての認識が広がると、それだけで誰も戦争を望まなくなると思うのですが。

 最近ある情報で接して,今度もう少し調べてから取り上げようと思うのですが、ナイチンゲールがクリミア戦争の従軍から帰還した直後に10年近く療養するしかなくなったのは、PTSDの側面が強いようですね。

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 最後に。

 戦争でなくても、ひろい意味で、医療や援助職・福祉職に関わる人間は、独特のストレスフルな状況に耐えている。そのことだけでもケアが必要な次元で。そうしたことへの認識、以前より高まりましたけど、まだまだと思います。

 私の仕事の重要な部分は、そうした援助的専門家「自身のための」メンタルヘルスであることを、明確に位置づけています。

 そうしたご相談を、率先してお引き受けしています。

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2007/05/05

テクノクラートとしての請負い民主政治家 -二宮尊徳についての壮大なる誤解-(第2版)

 二宮尊徳(金次郎。正確には「金治郎」)というと、戦前の修身の教科書で勤勉と質素倹約を説いた偉人としてのみあげつらわれ、薪を背中に背負って勉学にいそしむ銅像が日本中の小学校に建てられていたあたりから、戦後日本では、日本人の「精神主義」の否定的側面を代表する存在であるかのようにとらえられがちである。

 では、彼は、儒教の教えを説き、農民に辛抱を強いるだけの「道学者」だったのか?

 実情はまるで正反対である。富裕な自作農の農民の子として生まれ、善意の篤志家だった父と酒匂川の2回の氾濫による田地流失のおかげで傾いた自分の家の財政再建を短期間で成し遂げた功績が、在所の小田原藩主に認められ、現在の栃木県にあった地味不良な領地、桜町の再建を一手に委ねられる。

 「天保の大飢饉」を事前に予測し、農民に天候不良に強い稗を植えるように強制し、「餓死者ゼロ」という見事な危機管理に成功したことで有名となり、他藩の領地の再建を次々と厳格な条件で引き受け、ついには幕府に命じられて天領の再建にも成果を残す。

 彼の手法は徹底的な実地検分に基づく、農地の収穫についての科学的かつ合理的なシミュレーションと、計画実施、一種の私的なファンドを厳密に運用しての厳格な財政再建、そして、成績優秀な農民を農民の投票で選んで表彰するなどの、モチベーションの高揚策、更には、支配する武士階級が濫費したらザルになることを見据えての、一歩も引かない形で領主や役人、役人と賄賂で結託した庄屋たちの生計の無駄を厳密に「財政監査」し、家政の緊縮と、「分度」と呼ばれる、一定の目標値以上の収益はすべてファンドの運用資金に繰り込むことについての厳格な事前契約を受け入れないとファンドからの融資も決してしないし、いうまでもなく本人も一切の供応を断り続けるという、政治的ネゴシエーターとしての厳格さとしたたかさに裏打ちされた、いわば、自治体の産業と財政の再建の「請負い」プロ=テクノクラートとしての生き方に他ならなかった。

 また、なぜ彼の仕法が短期で成功したかの最大の理由は、当時年貢の対象とならなかった、検地されていない土地.....未開墾地や「捨て地」.....洪水で見捨てられた土地を耕作させることによって、生産物の収益が無税=100%生産者のものになる場所ばかりを狙ったことによることも必ずしも一般には知られていない。つまり彼は、封建体制の盲点を突く収益事業を進めたのである。

 これらのことを私が知るきっかけになったのは、以外にも、今から20数年前、中井久夫先生の「分裂病と人類」の、「執着気質の歴史的背景 -再建の倫理としての勤勉と工夫-」と題する、大部を割いた第2章である。

 

 村の「立て直し」においても、彼は決して村の支配者、家父長としてたち現れたのではなかった、彼は、村の合意の下に「立て直し」を指導する一種の「技術者」-----"仕法家"であった。彼は実際、支持者が4割であれば仕法をはじめず、6割であれば引き受けている。そして彼は、仕法家つまり村の治療者としての役割を自覚していた。自分たちの名が忘れられ、村民たちが自分たちの力で村を立て直した、と感じるようになったとき、仕法ははじめて成ったのである、という意味のことを言っている(今日の「治療者」たちも聴くべき言であろう) (p.55)

 尊徳は、むしろ、武士というものを、「特権階級」とはみなさず、あくまでも政(まつりごと)を司る官僚集団としかみていなかった。その官僚集団が濫費を重ねる限りは、どれだけ農民が生産量をあげても無意味であること、また、そうやって収穫が増えた分だけ年貢の取り立てを増やし、武士がそれにあぐらをかくようになったら元も子もないことを十分に看過していた。

 幕末という、身分制度が緩み、庶民からの人材登用に期待せざるを得なくなり、才覚で階級上昇が可能になり始めた時代の、歴史の大転換期ゆえに現れ得た一代の鬼才というべき人物である。

 (他分野で類似の例を探せば、少しさかのぼる時期の伊能忠敬の全国測量と地図製作は、幕府の許しを得つつも、すべて、商業で成功となった後の忠孝の「私財で」なされている)

 ある意味では、少なくとも地方自治体水準での民主政治のリーダーのあり方としては、今日でもまだ汲み尽くされていないモデルを提供してくれる人物であるように思う。
 
 今回、多少調べなおしたら、「考古歴史紀行ー久田巻三(ひさだけんぞう)の世界」で、@niftyのpaypalを使ってpdfでダウンロード販売されている、一種の歴史小説「二宮尊徳スーパースター」が、わずか2時間あれば全文楽々読み通せる長さにもかかわらず、尊徳の生涯とその業績について、たいへん明快に(しかも安価で)読める資料として推薦していいことに気がついた。

 以下の部分は、この文献より、尊徳が、一度仕法に行き詰まり、成田山で断食の修行をした時、ようやく訪れた「悟り」の部分である(小説的表現だが、原資料は同時代の尊徳の弟子による聞き書きや伝記にあるようだ):

〈和尚の言った全てを無にするとはこういうことか。頭もからっぽ、お腹もからっぽ。ここにある自分は全く無力な存在である。ただ、天によって生かされているだけではないか〉

〈自分は、今まで桜町の人たちを自分の思い通りに作り変えようとしていたのではないか。昨年出した出村禁止令も間違いであった。村人を縛り付けようとする愚策であった〉

〈そうか。桜町でも全てのものを受け入れよう。この世に生きとし生けるものは、皆、天の恵みである。無頼の者には無頼なりの尊さがある。どんなに自分に反抗する人間であっても、自分にとって栄養にならないものは無いのだから〉 (p.30)


 考えてみれば、純粋に合理的見地から見ても勝算の薄い戦いを、国民から財産と人命を吸い上げる形で、精神主義で切り抜けようとする泥沼にはまりこんだ日本の歴史の現実ぐらい、もし尊徳の目から見たならば、無謀そのものの、最悪の「経済」と「政治」のあり方だったはずである。


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 【追記】第2版で岩波新書の奈良本辰也氏による「二宮尊徳」に基づき、若干の補足と修正をした。


 なお、この記事の続編がこちらにあります。

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2007/04/30

患者から学ぶ(第2版)

 ケーススーパービジョンにおいて、カウンセラー(スーパーバイジー)は、スーパーバイザー「から」事例の進め方を学ぶのではない。

 カウンセラーのクライエントさんとの相互作用の中からの学びをサポートする存在に過ぎないともいえる。

 その意味では、もし、スーパーバイザーも、スーパーバイジーのカウンセラーや、そのカウンセラーのクライエントさんから新たに学ぶ何ものをも見いだせなかったとしたら,恐らくそこでなされているスーパーヴィションは、偽物の「何か」であるに過ぎない。


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※この書き込みは、ケースメントの「患者から学ぶ」(まだ感想が書けるほどには読めているとはいえません)とは無関係な、私個人のスーパービジョン観ですので,念のため。

 ケースメントの「内なるスーパーバイザー」の育成の問題とはリンクするかもしれませんが。

 更にいえば、むしろ、
Jungpsychotherapy
こうした思いを私に抱かせるきっかけは、ユングの「心理療法論」に収められた「心理療法と世界観」という論文にある、

 「患者と治療者の真に治療的な関係は『弁証法的』過程である。さもなければ単なる『暗示療法』であるに留まる」

という言葉からの応用問題として脳裏に浮かんだと理解していただく方がいいでしょう。

 以前も一度引用しましたが、(林道義 訳 p.68 改行、下線はこういちろうによる。):


 世界観は療法家の人生を導き、彼の治療の精神をかたちづくる。それは最も厳密な客観性を持っているとはいえ、何よりも主観的なものであるため、恐らく何度となく、患者の真実に触れて砕かれ、そしてその真実によって新たに再建される。

 すなわち、信念は容易に自信に変わり、そこから悪くすると硬直に変わる。硬直化したのでは生きているとは言えない。信念が強いということは、それが柔軟で修正がきくということであり、あらゆる高度な真理と同様に、信念が皆に認められるのは自らの誤りを認めることによってである。


 ....ゆえに、ケーススーパーバイズにおいても、スーパーバイジーのカウンセラーから、クライエントさんとの関わりの話を聴く中で、スーパーバイザーにも「弁証法的な」新たな発見がなければ、表面的な,通りいっぺんのものになっていると想定できるわけですね。


 なお、この記事もご参照ください。

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2007/04/28

セレブでもなく、名もなき存在でもなく。

 つくづく最近思うのは、私がネット上で取っているスタンスは、格好の絶妙なバランスの上に成立しているということである。

 私は明らかに、専門の世界では「セレブ」とはいえない。貧しい一介の開業カウンセラーに過ぎない。何しろ唯一の単著がエヴェンゲリオンの本というくらいである。

 しかし、恐らく、フォーカシングの領域では、私の名前を知らない人はモグリという域であるし、日本に十名少ししかいない、The Focusing InstituteのCoordinatorとして、トレーナーの資格認定権を持っているという意味では、日本のフォーカシングのあり方に大きな責任を有していると認識している。日本人間性心理学会の運営委員(理事)も勤めさせていただいたし、ある意味では、私の心理臨床の分野での人脈は、かなり「華麗」であり、自分でもビビってしまいそうになるくらいである(^^) 私の大学院同期で教育畑に進んだ人たちの多くはすでに、いわゆる「指定校」の「助教授」クラスである。その中にはすでにその領域で日本の第一人者とされる人がたくさん含まれている。

 そういう、「境界線」にいる人間が、ここまでくだけたサイトをネット上でやっていて、一日アクセス450前後とはいえ、個人サイトとしてはそんなに無名とばかりは言っていられないアクセス数をいただいている。

 我ながら、これは、なかなか得難い、非常に自由度が高いネット上のスタンスだと感じている。

 私は、そのことを、スリルと共に楽しみつつ、しかし、絶えず同時に、存在を賭けた真剣勝負しかしていないつもりである。

 そういう私が今後どうなっていくか、どうか読者の皆様、冷やかし半分で結構ですので、行方を見守っていただければ幸いです(^^)