独立開業

2011/06/29

アン・ワイザー・コーネル 著 :「すべてあるがままに -フォーカシング・ライフを生きる-」("Radical Acceptance of Everything") 書評

アメリカのフォーカシングの名教師、アン・ワイザー、コーネル女史による本書の原題は"Radical Acceptance of Everything"である。この"Radical"という言葉の含蓄と、邦題の「すべてあるがままに」という語感には著しいギャップがある。原題をう まく噛み砕いてキャッチーなものにするためのアイデアは他に容易になかったかもしれないが、本を開いてみた方が、内容に面食らうであろうことは相違に想像がつく。

"Radical Acceptance of Everything"とは何か。自分の中に生じてくる様々な思念や情動などをひとつひとつ対象化し、その存在をひとつずつ認めてあげて (acknowleging)、それらすべてのかたわらにに佇(たたず)んでいてあげることで、自分内部にスペースを見出すという、意図的な過程を経て見出された状態のことを指す。それが実現できれば、その人の変化は、自ずから着実に進行し始める。

アンはこれを本書の多くの部分で「プレゼンス状態」と呼ぶが、今度はこの"Presence"という言葉そのものが日本語として馴染みにくい。私は"Presence"を「臨在性」と訳すことを提案したい。(内的に対象化し得るすべての)「傍(かたわ)らに、たたずんでいてあげられること」を指すからである。そこには関係性が含意されている。

訳が分かりづらいというレビューをされている方があるが、私が精読した限り、上記のポイントを除けば、本書は原著を非常に精妙に翻訳したものである。実は、そのように精妙に訳さない限り、言語学者としての経歴を持つアン女史による本書の真意は伝えようがない。ほんとうに「繊細な」内的作業の仕方について書かれている本なのだから。

つまり、本書は読者を選ぶのである。フォーカシング技法について多少なりとも「体験的に」身につけている人であることが条件。

一定の目安を述べれば、少なくとも、アン・ワイザー女史の「フォーカシング入門マニュアル」を十分に読みこなせ、その技法を自分の為に、あるいは聴き手として実践できる人であれば、アンさんの他の著作を読まないまま本書に進まれても、熟読すればその真価ががわかるであろう。

そういう意味では、フォーカシングに対するある一定の熟練度がある人が「がっぷり4つに組んで」熟読するのための本である。

本書に収録された論考やエッセーそのものが、一部の書き下ろしを除き、実は国際フォーカシング機構(The Focusing Institute)の機関誌に寄せられたものである。ゆえに、「フォーカシング・ピープル」のための新たな刺激剤(しかも衝撃力がある起爆剤!)として 位置づけられる運命を背負っていると思う。

だが、本書で示唆されたレヴェル(実は、身につけてしまえばそんなに複雑とは感じないものになるのだが)を実践できる一団が日本に現れるならば、日本の心理臨床界におけるフォーカシングについての認識を、根本的に変革させるだけのパワーを秘めていると確信する。

******

本書については、当ブログでもこれまで多少言及したことがありました(こちら参照)。しかし今回、Amazonレビューとして新たに書き起こしたものを転載しました。

本書は、「入門マニュアル」「ガイド・マニュアル」に続く、「ニュー・マニュアル」の更に次の、アンの技法書として位置づけられます。

******

 アンさんの著作、あるいはワークショップへの参加から、私は大きな影響を受けてきました。本書は自分がそうした中で私が身につけてきたものを明確に再確認するのに役立ったと同時し、いくつか新しいアイデアももらえたと感じています。

 私のフォーカシング個別指導でも、本書で書かれた内容に準じたことをお伝え出来ていると感じて、ほっとしたところがあります。

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2011/06/20

格差社会とカウンセリング

 カウンセラー、殊に臨床心理士の多くは、高い学費を払って博士前期まで出ているのに、非常勤の寄せ集めで意外と低収入のガツガツで暮らしている(平均収入230万円前後という統計がある。若い層だけ引き出せばもっと低いだろう)。

 あけすけな話、親からの経済的援助すら受けながら(!)、やっとカウンセラーしている層、ないし、「連れ合い」の高収入あってこそカウンセラーできる層は実はかなり少なくないはずである。

 更に4,5年毎の資格維持(いわゆる「ポイント15点」分達成)のために、毎年数回は出席必要な研修費や旅費宿泊費も全部自費の層も少なくない。

 つまり、格差社会の意外と低層部に、多くのカウンセラーはいる。

*****

 一方、カウンセリングを受ける場合の料金のことを考えてみよう。スクールカウンセラーや児童相談所や施設等、公的機関でのカウンセリングは無料だが、これは多くの一般の方からは縁遠い世界だろう。

 病院等でカウンセリングを「併設」している場合でも、一時間、保険外適用で6000円というあたりが安い場合での相場であろう。

 臨床系大学の附属機関でのカウンセリングですら、1時間4000円-5000円かかるのが普通であろう。

 これらの場合、人件費のことを考えれば、カウンセリング部門は赤字な機関がほとんどである。

 

 とある旧帝大系のNPO外来カウンセリング機関は、実に優秀な人材を揃え、立派な面接室を持ち、料金4,500円であるが、利用者は少なく、一口5,000円の賛助金集めに大変苦労して、かろうじて運営されている。

 ましてや、カウンセリング専門の「開業」機関は?・・・一時間1万円以下であれば、相当に安い料金であろう。

 ここ私が示している料金例ですら、かなり控えめな価格である可能性は高い。あとはネットで全国のカウンセリングルームの料金体系を検索してご覧になることをお勧めしたい。

*****

 さて、流派にかかわらず、カウンセリングが一応の成果をあげるまでは、最低で10回ぐらいのカウンセリングは必要なものだ。しかも間隔はそこそこ間を開けない方が良く、最低ラインで月2回というペースが理想であろうか。

 こうなると、カウンセリングを受けるためには、最低で月あたり1万円、悪くすると3万円以上の出費が必要となる。 

 格差社会の現状で、人に話を聞いてもらうためだけに、このお金を継続的に支払おうというお気持ちになれる層が、どのくらいおられるであろうか???

 カウンセリングとは、これからいよいよ「ブルジョア」のためのものに過ぎなくなるのではないでしょうか?


*****

 さて、今度はカウンセラーの皆様自身に胸お尋ねしたい。胸に手をあてて考えていただきたい。

 自分のカウンセラーとしての業務1時間、いくらの「商品価値」があると自分で「値付け」なさいますか?

 私は、1時間4000円、となら、胸をはって言えますが。

*****

 このブログエントリーの原型となったTwitter上のやりとり(同じタイトル)をこちらでまとめています(togetter)

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2010/02/22

働いたに値する収入を得ていると感じられるかどうかは難しい。

 今の私のように、「家族を支えるために」働いているという意識がなくなる状態に回帰してみて、最近つくづく思うのは、自分には、働いた分に値する収入を得ていると感じられていた時期がほどんど全くないということである。

 前の記事でも登場した、私の中に住んでいる、情け容赦ない「内なる審判官」に言わせれば、私が大学で常勤職をしていた数年間までの間、私は私の要求水準からみて、受けるに値すると感じられる以上の賃金を受け取っていたとしか感じられていない。「それだけの仕事をできてはいなかった」としか思えない。

 そしてそういう真の「手応え」感のなさ=ある種の「空虚感」のために、そういう自分にまるで刑罰でも与えるかのように浪費を重ねた時期の方が長いように思われてならないのである(念のために言うが、常勤職を獲得する以前の私の年収は280万円前後であった)

 日本におけるフォーカシングの研究実践者としては、論文や著作の本数こそ足りないかもしれないが、ある意味で第一線を走ってきた自負はある。しかし、振り返ってみれば、半年前の自分の水準は問題だらけとしか感じられないことを繰り返してきたように感じている。

 最近でこそ、昔の文を読み返して、結構まともなことを積み上げてきたかなと振り返れるようにもなったが、それはあくまでも「文章として」読み返した場合である。その文章で書かれたことを「実体として」どれだけできていたかの水準は実際にはかなり劣るものだったと思う。

 文章としてだけなら、人間、結構立派なことを書けるものだと、我ながら感じ続けている。

 そして何より、フォーカシングの専門家であることと現場臨床の援助的専門家としてクライエントさんのお役に立っていることとシームレスにつながっていた場合に初めて意味があるというのが私の信念であり続けてきた。

 それこそ、時価6000円で、多少のばらつきはあっても100点満点の70点以上のお役に立てていることがコンスタントに多いかなとほんとうに感じられるようになってきたのは、この1年以内の出来事のように思う(それでも、時々大反省することがある)。・・・・・これですら私の思い込みかもしれない。

 その意味で、今の私の実力ならもう少し、現場臨床、および臨床教育の分野でそこそこ収入があってもいいのではないかという逆方向のギャップ観をあまりゆるぐことなく、かといって感情的にもならずに感じられるようになってきたのは、本当に、本当に、ごく最近のことという気がする。

 もっとも、面接数が増えたら一つ一つの面接が雑になりはしないかという自分への不信感は拭えない(勤務カウンセラーだった時代から今日まで、あるライン以上にクライエントさんが増えると「何らかの不注意」をやらかしてきたおかげで一定数のラインを容易には超えないということを繰り返してきたという思いがある。困ったことに、今でも、ちょっと前までの自分はこのことがどうしてできなかったんだろうという反省ばかりがしきりである)。

 だから、ある意味で、「分相応」との感じ方に限りなく近い点では、相対的に見て、我が生涯で現在が一番肉薄しているのかもしれない。

 自分は、クライエントさんのお役に立てる専門的な援助をした有効な分だけは、「食べさせて」いただいているというリアルな手応えである。

 そういう意味で、しばらく前・・・・少なくとも昨年の夏までにあった、ある種の屈折した「ルサンチマン」のようなものは、私の中からもはや抜け落ちてしまっている。

 それを実感できるために、一度「都落ち」まで追い詰められないと気づけなかった私も情けないものではあるが。

 関係者は関係者なりに自分の職場のことで手一杯なのであり、別に私は特に貶められてもいないし、わたしがいろんなことで「やり過ぎ」であるがゆえに遠ざけられているとまで思い込み過ぎるのも、もはや自意識過剰としか思えなくなってきているのである。私も、動くべきチャンスだった時に見逃したケースもあるし。

 この不況の下で、専門職キャリア30年近くて今年50歳の「ツブシが効かない」カウンセラーなるものを敢えて「雇おう」となると、同業種ばかりか他業種の人にとっても二の足を踏む存在となっていたことも十分に理解できる。

 いずれにして、やっと、等身大の自分を手に入れつつあるな・・・・と感じだしてはいるようなのである。

 しかし、そのことを実感するためには、切り立った山々の尾根歩きのような、あるいは冬季オリンピックのアスリートたちがともかく「完走」できるだけの「際どさ」のようなものをくぐり抜けるしかないとは。

 あの、失敗したら最後、雪か氷に叩きつけられるしかないアスリートの心境、今回のオリンピックぐらい、その瞬間の凍える寒さと孤独と「空虚」が身に染みて伝わる思いをしてテレビ観戦している年はない。

 もとより、今のところ全く矍鑠(かくしゃく)としているとはいえ、老いた両親に、恩返しまでは行かなくとも、少なくとも私が今後それなりに十分にやって 行ける様を十分に安心して見届けて欲しいという切なる願いは抱いている。

*****

 そういえば、容易に実体が伴わない映画制作進行過程を延々と描き続ける、フェリーニの映画、「8 1/2(はっかいにぶんのいち)」を今日たまたまBSで初めて観た。カーリングがドイツに負けてきてるなと感じたあたりで思わず切り替えてしまったら、どうやらはじまったばかりだった(^^;)

 その高度なメタフォクション性につきあうことと、マルチェロ・マストロヤンニ演じる主役の「映画監督」の心境がじりじりと伝わってきて、結構しんどいものがあったが、あのオチの付け方・・・・・ありがちという人もあろうが・・・・に、ちょっとだけ救われる思いをした私だった。

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2010/01/13

今年の年賀状の文面です。

明けましておめでとうございます。

 おかげさまで、体調も十分に回復し、地域での地道な活動領域の開拓が功を奏し、開業活動も、すでに湘南時代よりも堅実に業績を積み上げ、地域の皆様から少しずつ信頼を得る段階に至りました。

 不肖ながら私も、今年九月に齢五十を迎えます。「五十にして天命を知る」という言葉がございますが、私なりに、自分の天命とは何かについて、やっと神様の声が聞こえてくるような心境になり始めたようにも思います。

 諸先生方からいただいた、これまでのご厚遇にご恩返しをする意味でも、これからの十年ほど、まだ心身が壮健なうちに、久留米を発信地として、日本の心理臨床領域全体のために、後継世代に、私なりに身につけた技と経験値を伝えんが為の活動に身を捧げる覚悟です。

 もとより、ひとりの「人間性心理学」徒として、臨床的援助専門家の基盤は何より個々の臨床家の"person"であると肝に銘じ、これからも果てしなく、果てしなく精進を重ね、体験過程のステップを刻み続ける所存です。

 これからも、先生方からの更なるご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

阿世賀 浩一郎

久留米フォーカシング・カウンセリングルーム

http://kasega.way-nifty.com/kurumefocusing/

久留米でうつと働き方を語る会:http://kurutsu.web.fc2.com/

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2009/12/23

「肉食系」的なやさしさ (第2版)

・・・・・というものがある気がしてきた。

 それは、いわゆる「草食系」のやさしさとは何か次元が違うのだけれども、今の日本(の特に若い男性)に、再度賦活されていく必要があり、それが今後の日本の舵取りの鍵を握ると思えるのである。

 Wikipediaによれば、「草食系男子」というのは、200610月に深澤真紀が『日経ビジネス オンライン』で連載している「U35男子マーケティング図鑑」(2007年に『平成男子図鑑』として単行本化)で「草食男子」として命名されたのがことのはじまりであるとのことだが、私はその原典やその後に続いた著作を読んでいるわけではない。

 しかし、広い意味で女性一般の方は何らかの意味で「肉食系」の側面を発現し続けて来た人が多い(これは見かけ上大人しめであるかどうかとは無関係。そのことに気づかないでいる男性がいるとすればちと御目出度すぎる)ものだから、余計に浮かび上がってきた現象ではないかと考えている。

 そして、私なりのネットフィールドワークの結果到達したのは、(数年前の小林よしのり信者がたくさんいた頃はまた別かもしれないが)、少なくともここ2,3年のネットのプチ〇翼の若者は、実は揃いも揃って「草食系」である、いや、「草食系男子」の心性と非常に親和的なものとしてプチ〇翼というスタンスが、非常に広範な若者に、ネットでこの種の発言をする匿名ピープルよりも相当に裾野が広い形で浸透しているというのが私の結論である。

 彼らはもはや、例えば小林よしのりや石原慎太郎に当たるような特定の「頭目」を押し立てることすらしない。フラットランド化したネットの2次情報,3次情報をシェアするだけで群れている、徹底的に「顔のない」集団である。

 ・・・・ちなみに私は"SPA!"を離れる以前の「ゴーマニズム宣言」の愛読者で、感想をしきりと送っていた人間であり、その頃のよしりん氏に「八王子の阿世賀浩一郎は凄い! 参考になる」と、コマの欄外でコメントされ(今刊行されている単行本のバージョンにも載っているかどうかは確認していない)、公式「ゴー宣」本にかなり長い感想文が実名で載っている人間である。

 "SPA!"との関係を辛抱し切れなくなったところで、小林氏はあるバランス感覚を喪失したというのが私の意見だが、それでも、「新しい歴史教科書をつくる会」との関係を絶つ時でしたか、「日本のこの種の人たちがアメリカとの関係ということになると急に態度を変えるのが納得がいかない」という趣旨の発言をしたことに関してはある共感を覚えた。

 ちなみに、よりのり氏も私と同じ福岡県出身である。最近の私のネット上での物言いに、思想それ自体というより、発言スタイルの点で、時々「ゴー宣」調のノリが無意識のうちにも出てしまってるあたりに我ながら苦笑している。福岡県人独特の、いざとなると嵩(かさ)にかかって斬り込む、直裁な「喧嘩節」の伝統という点では共通のルーツなのかなと(^^)

 宮崎哲弥さんが久留米出身で、今年初めて久留米で講演会を開いた時のことはこちらの記事で書きましたが、そういえば、今、自民党内部を引っ掻き回す発言をしている舛添要一さんも、(その政治姿勢にすべて賛同するわけではないが)北九州(八幡)出身の苦労人だものな・・・

*****

 実は、そういう、「いざとなると嵩(かさ)にかかって攻め込む」気概をむき出しにできる人間にしか発現しない、「肉食系のやさしさ」というものがどうもあるようだ、という気がしてきたのだ。

 少なくとも私の中で、明らかに、そういう意味での、潤いある「やさしさ」と「包含力」、むしろ「献身性」ですらあるものが、ここしばらくの間に、特にリアルワールドにおけるクライエントさんやオフィシャル・プライベートを含む人間関係の中で発現してきている気がする。

 それは決して「暑苦しくて」「脂肪分が多い」、「押し付けがましい」ものではないようなのだ。それは、狩人をしていない時の豹の母親が子供たちに対して示すような、何かそういう質の、静かな「母性」に近いもののようにすら思う。

*****

 それとどこまで関係あるかどうかわからないのだけれども、昨日東京に日帰り出張した時に、ANAの機内誌、「翼の王国」12月号を読んでいたら、「日本"山水”探訪記」というグラフィック特集で、「熊本・鹿児島編」として、「南九州の空と土」という記事に大部が割かれていた(pp.40-63。文・絵:堀越千秋 写真:阿部雄介)。

 装飾古墳として著名な熊本県山鹿市のチブサン・オブサン古墳、延々と続く謎の地下トンネル遺跡として著名な玉名郡菊水町の「トンカラリン」、鹿児島県南九州市川辺町の「清水(きよみず)磨崖仏群」、熊本県人吉市の青井阿蘇神社、熊本県上益城群山都町の、江戸時代を代表する潅漑用水道路の要というべき、古代ローマの水道橋を思わせる、時々の放水で著名な「通潤橋」などが取り上げられていた。

 それらの記事を眺めている時に、私は何ともいいようがない次元での、ほとんど元型的な次元での「血の共感」を覚えずにはいられなかったのである。

 すでに何回も書いてきましたが、福岡市から南に向かい、大野城市のあたりの地峡を越えて筑紫平野に入り、筑前の国から筑後の国に入り、更に筑後川を渡ってしまった久留米に入った途端に、同じ福岡県でも、古代からの文化の質は一変して、むしろ熊本県とも通底する「中九州」文化圏の北限に位置した土地ととらえる方が自然である。

 厳密には博多弁と久留米弁はかなり異なり、久留米弁はアクセントが明瞭ではないという点では日本の方言の中でも特異な位置を示す。(わかりやすくいえば「橋」と「箸」の音韻上の区別というのは、久留米人は学校教育を経ないとできるようにならない)。

 その「異様に平坦に」流れるような早口は、我が郷土の生んだ、本名「蒲池法子」さんに、実例をお示しいただこう(^^)(この番組、放送された時に観た記憶があります)

●松田聖子の久留米弁 その1(YouTube)

●松田聖子の久留米弁 その2(YouTube)

 ・・・・・私は父親が「大陸育ち(標準語圏)」だし(かなり久留米弁を戦後身につけましたが、母親の「ネイティブな」古式ゆかしき久留米弁ほどではない)、私自身は「久留米附属」(「久留米大付設」ではありません。聖子さんの確かお兄さんが「付設」出ですよね)という、教員養成大附属小中学校という、地域社会とは切り離された中で成育し、更に30年も関東暮らしをしたので、とてもとても聖子さんのように鮮やかなギアチェンジができる人間ではありません(^^)

 でも、私が「異様に早口でのっぺりした標準語」で延々と話す時があることは、ライブこういちろうをご存知の、特に同業者の皆様は、時々、ついて行けなくお困りのことがあろうかと思います(^^)

*****

 ・・・・話を本題に戻すと、久留米南部地域というのは、大和時代の豪族、磐井の乱(525年)でも日本史に名を残すように、ヤマト政権からは独立性が高い、ダイレクトに大陸側(新羅と書かれていますが)との交渉を維持した勢力が、かなり後の時代まで維持された土地柄です。

 記紀の世界で「熊襲(くまそ)」とされた民(ヤマトタケルの征伐神話からすれは一応2世紀頃に相当するが、これはどうみても「前倒し」の可能性が高いが)は熊本県球磨地域に一応同定されている。一応、「熊襲」よりも、その勢力はしぶとく残ったことになるとも言えるわけである。

 いくら当時までのヤマト王権の正当化のための歪曲ありとはいえ、「磐井の乱」を伝えた日本書紀は、物語的な古事記と異なりまだしも歴史書としての体裁がしっかりしており、編纂時から遡っても「200年未満」の時点で起きた事件についての著述には、何らかの史実の裏づけは濃厚と思える。

 私自身は、邪馬台国九州説は根拠薄弱という立場です(オーソドックスに、奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)を卑弥呼の墳墓とみなしたい)が、大和地域よりは、黒潮に乗った東南アジア、南洋地域、中国南部、そして朝鮮半島寄りの経路で中国北部との頻繁な交渉がダイレクトに早期から形成されていたであろう九州の持つ政治的独立性は、実際には九州北部沿岸のごくごく一部の地域を点と線でつなぐ形でしかヤマト政権の安定した覇権を置き得ない状況に、少なくとも663年の白村江の戦いの直前の頃まではあったのではないかと思います。

 なぜ天岩戸伝説を日向の高千穂峡天孫降臨の神話を同じく日向の高千穂峰(もっとも、前者には異説がある)に同定しなければならなかったのか? これもそれだけ南九州にもともと強大な勢力があり、それを実際の歴史上は大化の改新(646)以降、天智・天武朝の頃にやっと臣従させた上で、その地域の神話(むしろ朝鮮か南方由来)と中国神話を加味して歴史を「数百年遡って塗り直す」だけの必然性があったればこそでしょう。

*****

 いずれにしても、久留米以南の中九州・南九州文化圏には、ちょうどヨーロッパ諸国が、ローマ帝国以前の原住民やゲルマン民族の歴史をキリスト教で塗り消し、地下に潜伏させたのと同じように、後のヤマト政権が上塗りして完成された「ヤマト民族主義」を一皮向けば、より古い層の元型的な無意識の世界が容易に溢れ出す地域性というものが潜伏しているのではないかと思います。

 それが、幕末における薩摩や佐賀を中心とする倒幕・維新勢力、あるいは真木和泉守ら、久留米の勤皇の志士に活躍の舞台を与える原動力にもなり、筑豊炭田で鉱夫たちが使う地下足袋の大量生産に起源を発する、ブリジストンの創業者、石橋正二郎(鳩山金脈の元はここにある!)をはじめとする日本の主要ゴム3社の発祥の地を久留米とし、そして、今日に至るまで、井上陽水、武田鉄矢、チェッカーズ、松田聖子や浜崎あゆみをはじめとする芸能界から、政治に至る様々な人材を関東に送り続ける、過激なまでの「上京指向」の人材バンクとして福岡が機能し続ける原点にあるのだと思います。

 私も、そのような福岡の久留米が生んだ「異能者」(?)として、関東での30年をむしろ「踏み台にして」、今後、地元久留米に根を張って、はじめて「地に足が着いた」形で、50代という一番脂が乗り切ったこれからの10年、身体が衰えを感じないうちに、本来のパワーを発揮し尽くせることを祈っています。

 BGMは、「エヴァンゲリオン」の、高橋洋子による、高橋洋子 - 魂のルフラン/心よ原始に戻れ - EP「魂のルフラン/心よ原始に戻れ」 以上にぴったりなの、ないでしょ?

そして、高橋洋子 - 残酷な天使のテーゼ 2009VERSION - EP「残酷な天使のテーゼ」もまた、久々に「封印を解いて」聴き返して、「肉食系の母親」の歌なんだとつくづく感じて、ふと目頭が熱くなったこういちろうである・・・・

 私がこのブログで、ずっと封印してきた、過去の軌跡、「エヴァ」。

・・・・・というわけで、もはや私には1円の稼ぎにもならない(・・・・あ、アフィリエイトで中古買ってもらうと少しはポイントになるのか・・・・)本の宣伝も久々に(^^;)

阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」

*****

 更に、まさに我が母校に教育実習においでの際に、リアルのお姿を拝見した、「武田先生」に捧げる(?)、海援隊 - Acoustic Live ~君の住む町へ~ - 母に捧げるバラード「母に捧げるバラード」(Live)

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2009/12/02

浜崎あゆみの"SURREAL"

 ayuの代表作のひとつであり、ライヴでも繰り返し歌われ、私も幸い数回生あゆで聴けた曲ですが。

 以前にもこのブログで書きましたけど、私にとって、浜崎あゆみの曲でただ1曲選べといわれたら、やはり今でも、この曲。

 私の人生の一番辛い時期を支えてもらい、歌詞に完全に自分を同化させてしまう、いわば「こういちろうのテーマソング」ですね(^^)

 曲としても独創的。ayuの歌って、決して「3番」がないのですが、この曲にいたっては、クラシック風に言えば、ベートーヴェン風に「コーダの部分が果てしなく拡大」されてしまい、むしろこのコーダの部分の全く新たなメロディのインパクトが全曲の印象を決定付ける。

 ある観点からすると、よっちゃんがギターで超絶技巧でアドリブする部分を「展開部」として敢えて位置づけるなら、「単一主題による、コーダが第2展開部として拡張されたソナタ形式」(!)・・・・パーペキにベートヴェンです。

 そして、この曲が、ayuにおいて、まさに、ハ短調交響曲、つまり「運命交響曲」的な位置づけにあるといっても過言ではないでしょう。

 そして、PVがまた、「豹あゆ」で有名でもありますが、その細部に至る象徴表現はもはや一本の映画の域に到達した、不朽の名作でしょう。

●"Surreal(PV)" ←iTunes Store、敢えてプロモビデオ版に張っています。

●浜崎あゆみ / SURREAL(YouTube)

↑ これavexとayu様のYouTube「公式アップロード」なんですよ。貼り付けまで許可とはなんとも太っ腹!!

やっと "A COMPLETE -ALL SINGLES-"におけるリマスターを聴くことができましたが、泥臭さは低下したけど、透明感は随分アップしていますね。

←amazonのはCDのみバージョンにリンクさせています。

←楽天のはDVDつきバージョンにしてみました。

*****

 私自身、今、開業後最大の人生の大勝負にかかろうとしています(^^)

 そのための準備がこの一ヶ月ちょうど、ちょっとたいへんだったんですが(書くべき文章量と資料集めが・・・・) 。でも学会論文でも著作でもはありません(・・・・では、何のこっちゃ?でしょうが)

 いすれにしても、そのための作業は明日にクランク・アップが確定。

 そうなると・・・・・この1ヶ月間、その鎖に繋がれていた豹あゆならぬイリオモテヤマネこういちろうは・・・・

 ・・・・お約束しますよ。

このサイトが、再びayuサイトとしても本格復活することを!!

 「今の」こういちろうが再び一から浜崎あゆみを語り出すとどうなるか?

 ・・・・今回は、そのさりげない序曲のつもりでもあります。

 私にとっての"momentum"(これまたayuの私の大好きな曲のタイトルですが)であるこの曲で、活を入れなおして、"NEXT LEVEL"に進ませていただきます(これは、比喩的な意味と、ayuのアルバム、両方の意味でね)

*****

【追記】

 おまけで、これにもライブ映像貼っておきます(^^) これも生で観た時のものだと(カウントダウン?)。最近のayuの円熟度の高い歌唱法は、以前のような身をよじるような歌い方の実存的燃焼性こそ一見後退しましたけど、ここまでライブで安定した歌唱力でパフォーマンスできてしまうということ自体、凄いことではないかと。ライブでの歌唱としてはこの時のが一番好きですね。

●Ayumi Hamasaki LIVE Surreal(YouTube)

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今のところ、私の部屋の暖房はこれ一台!!(第2版)

ブログネタ: この1年であなたのエコ度は変わった?参加数

 私の今住んでいる家は、築47年目に突入した木造住宅(随分増築・改装はしましたが)。何しろ、昔からある部分の漆喰の壁の中はちゃんと土と藁でできた層なんですよ(^^)。昭和37年当時、100万円で建築できたそうです。

 そして、私の小学校高学年から高校時代、大学で東京に出るまで使っていた「勉強部屋」が、今の開業面接室です。この部屋は、壁の表面の塗りなおしをした以外、30年前上京した時以来、何ひとつ変化していないという、奇跡のようなタイムスリップ空間です(さすがに机だけは新調しましたけどね)

 さて、この部屋で使っているエアコンが、皆様の常識を覆す代物です。わかりやすくいえば、夏は自動ポンプで組み上げた井戸水流しっぱなしの水冷式、冬は石油ボイラー(ボイラー室がある家だったりする)で加熱した井戸水を循環させて温める形での暖房機という、今や一般家庭ではまず観られないタイプのもの(他の部屋は今風のエアコン・・・ただし暖房はガスを使う折衷タイプ)に変わったのですが、面接室だけはこの旧式エアコンが稼動しているのです。

 でも、当時の家電というのは、今のプラスティックのぺなぺな作りとは格が違います。

K3100143

 ↑どうです?40年前の製品だと思えますか?(SHARP製)

 ただ、石油を燃やして一度温水にして、その熱をファンでまわして暖房にするのは、どうみても熱変換効率的にみてエコではない(^^;)

 ボイラー室は壁一枚向こうなので、その意味では温水の冷却に伴うロスは最小にしても。

*****

 そこで、今年の私は、絶対に石油代のもとが1か月で回収できてしまう! との確信のもとに、ほんとうに冷え込む時期までは、このエアコンを稼動させないと決め、何と、消費電力500Wの次の製品だけで、昼間のほとんどの時間帯を過ごす、面接室の暖房をまかなっています。

COMPACT MY HEATER

 今のところ、これをつけていると夜でも暖かすぎる日も多い(^^;)

 このようにいうと、すぐに「九州だからね」という関東の人がいますけど、九州の北の端の福岡と東京とでは、実はほとんど緯度の差はありません。「南に」ではなくて「西に」移動するだけなんですよ。

 小学校の頃、理科で気温と降水量の変動のグラフを比較させる問題がよく出たと思いますけど、一番識別が難しいのが東京と福岡の違いだったはずです(きっぱり)。

 傾向差があるといえば、冬になっても関東の空っ風のようには晴天の日が続かず、小出し、小出しに曇天や小雨の日があるくらいでしょうか。暖流の対馬海流が流れているとはいえ、「一応」日本海=玄界灘側ですからね(^^)

 雪だって、少なくとも鎌倉や湘南に降るのと同じくらいには降ります!

K3100164_2

【第2版で追記】 ↑ 10/1/13(水)、この冬2回めの積雪!! ・・・でも、暖房は結局上の小さいので通せています(^^) 昭和30年代後半建築の家屋はほんとに壁がしっかりしてますね。もちろん窓はアルミサッシになってますが。

 だから、湿度の質は夏も冬も福岡の方が若干粘っこいのを除いては、気候は東京と同じという意識で、少なくとも九州北部3県(福岡・佐賀・長崎)にはおいでくださいませ。

 歴然と九州で「南国」的といえるのは宮崎と鹿児島だけです。でも、宮崎・鹿児島ですら、九州島内部である限りは、種子島・屋久島や奄美や沖縄ではないわけですから、冬は寒い時には寒いです。

 福岡市から西鉄特急で27分(今のところ、京急本線快速特急に続き、日本の私鉄で2番目に速い高速鉄道)の久留米は、標高わずか70メートルでトンネルひとつない地峡(水城・太宰府のあたりですね)をひとつ隔てて九州山地(脊振山地)の南側に入ってしまった、旧筑後の国、筑紫平野側は、深い入海の有明海沿岸に近いので、福岡市よりは、来春めでたく政令指定都市に昇格の熊本市(JR特急で1時間前後しか離れていない)と気候的には近い。

 つまり、大きな海に面していない、むしろ盆地的な内陸性気候(冬は寒く、夏は猛暑)になりやすい点では、九州の中でも夏は過激な暑さですね(関東甲信越地区だと、甲府盆地や八王子、熊谷の夏の異様な暑さを連想してください)。近年も猛暑では、風が吹かない、でも湿度は関東の前述地域よりも無茶苦茶高い(郊外に出れば田んぼが一面だし、干潮時には有明海には沖合いまで干潟がひろがっているので、太陽熱で蒸発して盆地状の土地に封じ込められて空気中に漂う水分には事欠きません・・・東京でビデオやMDに張ったラベルが湿気を含んでたわんでめくれ上がるくらいです)、36度、37度当たり前!! の悶絶的な日々になります)。 

*****

 ・・・・・というわけで、最後に、今の私の面接室の全景。

Kfc_room091202

 ↑これを書きながらそそくさと撮ったので、ややごみごみしていてますけど、ほんとにこんな感じの空間で面接していることをありのままにさらします(^^)

 ・・・・などと書いているうちに、今日のお仕事開始までに、あと10分である。

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2009/11/28

通算2000記事を迎えて

 実は仮眠のつもりが予想外に爆睡して、こんな時間(1:15頃)に「目が覚めて」しまったのですが(^^;)。この際だから書いちゃおう。

 正確にはこの記事が2001番目ですね。おととい頃、2000番め記念は、私が最も敬愛する「精神療法」の著作というべきバリントのあの本にすることに決めていました。

 私がこのブログを始めたのは、2004年の12月19日でした。ですから、4年11ヶ月と23日(途中2回閏年があったから、366×2+365x3-23=1804日経っていることになるわけで(・・・・こういう単純な計算でポカしやすい私だから、ホントこれでいいんだよな・・・・)、1日平均1.11記事ということになる。2ヶ月ぐらいまるっきりブランクがあった時期も2,3回あるので、実際にはもっと一日あたりの平均値は多い。

 私のような長文エッセイ型ブログでは、我ながら、よくもまあ、やりもやったりと思います(^^)

 この5年の間に、私は大学の学生相談常勤カウンセラーを辞め、開業し、大学入学以来30年ぶりに久留米に戻って再開業(その他もろもろ・・・)という、人生最大級の動乱を経験していました。

 ブログをすでに5年近くやっている人はそこそこいらっしゃるとは思うけど、同じURLに居座ってずっとやってるという人はあまりいないかと思います。

 これもまた、ことブログの領域では日本で先駆けのひとつだった@niftyさんが、いろんな意味で使い勝手のいいシステムを完備し続けていてくれたからでしょう。

 このブログの最初のタイトルと副題はもっとシンプルでした。

「こういちろうの雑記帳 -現役カウンセラーが浜崎あゆみと中島みゆき中心の雑感を徒然なるままに語る-」

・・・・・・だったと思います。

 つまり、ayu中心の音楽サイトをやるつもりだった・・・・筈(^^;)

 開業を期に「カウンセラーの」を冒頭につけ、そのうちに本業のカウンセリングの記事は増えるわ、iPodオーディオ関連の記事が長期的にヒットするわの中で、今のような長たらしいタイトルになりました。

*****

 つい先日、1,2年はかけたらしいデータベースのメジャーアップデートがとりあえず完了、私のような超重量級ブログでも、過去のカテゴリー表示がいい意味で簡略化されて同一カテゴリーに数百なんていうバックナンバーも読み込みやすくなったのではないかと思います。私自身、記事のアップロードの際の「異様な重さ」・・・・「トップページ」→「個別ページ」→「月別ページ」→「カテゴリーページ」と、更新のたびに一巡りしてアップロードかけていたんですよ。これは全部で15分はかかる儀式でした(^^;) そこからついに久々にある程度解放されたのですね。

 それでも、オートでのpingは飛ばせないので「日本ブログ村」をはじめとする複数の代理pingサーバーから「手動で」ping送信(これにも5分は巡回してかかっている・・・・)、1995年開設の、html手打ちの旧態依然たる「本部サイト」にも最新記事のリンクを手打ちし(これでまた5分・・・・)、私のほうからのトラックバックはとっくに飛ばせない(今回、トラフィックが少ない時間帯ならは改善した可能性はある・・・・【追記】この記事で久々にオートでping飛ばせました!)という、巨艦大砲主義の全然スマートでエコではない形ではありしたが。

 アクセス数は、一時期の1日700平均まで迫った時期に比べると300がアベレージです(私自身のアクセスはカウントされない設定に数ヶ月前から切り替えています)。実は、携帯サイトのほうに、別枠で毎日200アクセス弱おいでいただいていますが、そっちはカウンター表示されませんので。

 まだ、実はすでに「書評・DVD・CD評」ブログの方に、毎日100アクセス近く、おいでの方が「流れて」もいるようです。それこそ、こちらで書いたことをひき写しただけなんですけど、あのブログはレビューを書くとなるとすごく合理的で洗練された設定とデザインですので。

*****

 特に最近は、我ながら記事への要求水準が凄くタイトに研ぎ澄ましたものになってきて、昔からお読みの方にとっては、そのあまりの「緩み」のなさに息が苦し いくらいとお感じの方もあるかもしれません。

 我ながら星飛雄馬が大リーグボール投げ続けるみたいな、情け容赦のない全力投球モードになって来てたんじゃないかというと、大袈裟ですが。

(考えてみたら、こんなくつろいだ口調で書くことそのものが久しぶりだな・・・・)。

 これには実はいくつか背景があって、その理由はすべてここではお証しできないのですが、別に焦りのあまりそうしていたということではなるでない、まあ、あけすけにいえば、アカデミズムの人たちに、お遊びブログだと思われたくないという思惑が働いた・・・・という面があることまでは、お明かししてもいいかもしれませんね(^^)

*****

 以前も書きましたけど、特に開業して以降、この「パーソナル」ブログの方すら、あくまでも「営業活動」の一環として位置づけています。久留米に帰ってから、開業サイトそのものをブログ形式にしていますけど、あちらの記事の多くには独自のものは少なくて、こちらで書いたものを推敲して再アップしたものが中心です。あちらは現在でも全部で180記事。そして、クライエントさんとしておいでいただいた方の中には、こちらの「雑記帳」サイトの愛読者の方の比率が高いままなんです。

 カウンセラーの中立性やら分析の隠れ蓑なんていうものを皮相な次元で語ることは無意味としか感じていないことはこのサイトでも繰り返しテーマとして取り上げましたが。それより「面接場面での」態度の方が100倍大事。でも、ネット上のこういちろうと生身の臨床心理士阿世賀浩一郎に、実は意外と落差がないことは、実際の私を知っている皆様はお気づきかと思います。

 そして、ネットでのアクセス数よりも、私が食べていけるだけのクライエントさんにおいでいただけることが大事なわけで、湘南時代とは比較にならないくらいに「足を使って地域で動く」スタンスに切り替えた結果、湘南時代よりは速いペースでお客様は増えてはいます。

 ・・・・というか、湘南時代は、住んでるとこもオフイスも賃貸だったので、実は「一度も黒字に到達しなかった」ままひたすら預金を切り崩していたのです(もう、はっきりお明かししていいでしょうけど、それが行き詰ったから久留米に戻っただけです!!)。

 久留米では、親が所有していた旧宅=私が生まれ育った家をそのままただで「借りている」ような形で(2キロ離れた場所に住んでる両親とは完全に衣食住別に近く、直接会うのは週に1度ぐらいですかね)、今は「とにもかくにも」すでに独立採算黒字経営にかろうじて転じました。

 つまり、クライエントさんの数は少ないなりに安定化、徐々には増えている手応えがあるので、いよいよネットのアクセス数なんて、1日300あれば最低ラインとして立派なもので、ほんとうに納得いくように書くこと、リアルワールドに生きるけれどもネットを「手段」「メディアのひとつ」と割り切って活用している人に少しずつ声が届く、「知る人ぞ知る」サイトであればいいんだ、ぐらいのスタンスですね(^^)

 そして、このブログのタイトルが「雑記帳」であることにはやはり意味があって、私の試行的ブレーンストーミングの公開という面も強い。

 つまり、ここで書いたことは、いずれ何らかの形で研究発表したり、論文化・著作化する時のためのdraft公開でもあるし、「専門的情報発信」「顧客誘致」のための単なる「メディアのひとつ」とまで開き直っています。 もう、私には、ネット上での「プライベート」なんてないも同然です。

 そう、すべてが、面接がない時間帯の「お仕事」。仮にアニメの記事を書いても、今ではそういうつもりなんですよ。(そして、肝心なプライベートなことはもはや「全然」ネットでは露出してないつもりですので・・・・)。

*****

 いずれにしましても、これまでおいでいただいてきた、たくさんの皆様に感謝申し上げますと共に、今後とも、どうかよろしくお願い申し上げます。

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2009/11/21

私の書いた、これまでのうつ関連、主要記事の総目次

 これを機会に、私は開業サイトのほうにアップしていた、「NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想 : 総目次」を、以下、そのままこちらにも転載させていただきます。

 こちらは、この「雑記帳」サイトで当初書いたものを、推敲の上で再アップしたものがほとんどです。

 このNHKスペシャルに留まらず、

  •  その後「クローズアップ現代」「ためしてガッテン!」と続いたNHKのうつ関連番組への感想
  •  私自身の、開業臨床心理士としての、うつをはじめとする気分障害と診断されたクライエントさんへのアプローチのついての主要なネット上の論考
  •  精神医療との連携についての考え方についての主要記事

・・・・これらをすべて一覧できる総目次となっています。

***** 

*目次*

●特別連載:NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想

1.(副題なし)
2.双極性障害(躁うつ病)と単なるうつ病とでは薬の処方が全く異なる
3.医者選び、ここに注意
4.投薬の全面的見直しの際に注意すること
5.番組で「非定型うつ病」を積極的に取り上げなかったこと
6.認知行動療法について

特別編1.統計上の問題など
特別編2.今回の番組を「ネットでは常識水準」と言ってしまうことの副作用
特別編3.ご紹介:読売新聞の「医療ルネサンス」 更に、援助的専門家自身のメンタルヘルスについて

*****

●NHKのクローズアップ現代・「問われるうつ病治療」について
●NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療-」

●NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第1話の段階での感想と今後の展開への期待

*****

 以下、番組とは直接関係ありませんが、うつ(気分障害)状態にある人への私のカウンセラーとしての関わりへのご参考までに:

5分診療の神経科・心療内科の現実といかに対処するか
●日常次元での「治療的副作用」への想像力
●自分を「いいカウンセラー」だと感じさせ、医者を「悪者」にしたくなる誘惑

●欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている
●薬をやめることをお焦りにならない方がいいですよ
「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

●読売新聞 うつノート 回復めざして 第4回 「心は更地 安らぐ表現」
●「うつ病の時のこころの状態」(こころ相談.comインタビュー記事)
●「私のうつノート」書評

●医師に鬱病と診断され薬物療法も受けている人へのフォーカシングの適用
●フォーカシング技法を活用した、鬱状態のクライエントさんのための「主導型積分的フェルトセンス照合」スキルアップトレーニング(案)
フォーカシング指向心理療法の認知行動療法的活用についてのとりあえずの覚え書き

●久留米でうつと働き方を語る会(私が代表です)

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