中島みゆき

2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう- (第2版)

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥る場合があるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、いわゆる「アスペルガー」タイプの皆さんの少なからず場合にあてはまりそうだ)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないから(^^)。

 自分のことを振り返ってみるとどうだろう?

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2009/12/16

現代日本の諸悪の根源は、すべて「あなた自身」のせいであると発想してみよう (第2版)

 ありがちな、何かというと、「官僚」やら「ゆとり教育」に「諸悪の根源」を求めるような論調を読んでいると、その単純にスケープゴート的に「悪者探し」する発想それ自体に、浅薄さしか感じない私がいる。

 江戸時代じゃあるまいし、いつまですべてを「お上」のせいにして生きてるわけ?といいますか。

 もし、その論客の人が「ゆとり教育」より上の世代の人なら、単純明快、

 「あなた自身が、社会の先達として、ゆとり教育世代にどう接するかへの責任をどのように果たして来られましたか? 

 今の若者に問題があると考えるなら、その責任はすべて「あなた個人に」あると考えるくらいの気概を抱いて下さい。

 いや、今の日本をだめにしたのはすべて『あなたの』責任であるとまずは『あなた自身が』背負い込んでください」

という極論すらぶつけるでしょう、私なら。

・・・・私見では、それが、国民主権の国家を生きるオトナの"duty"です。

 ケネディの有名な就任演説、

「あなたが国家のために何をできるかを考えて欲しい」

・・・・でしたっけ? を最も高度な意味で理解すると、日本社会の現状の責任をまずは「自分が」担う覚悟からはじめないと。

*****

 BGMは、中島みゆきの中島みゆき - I Love You, 答えてくれ - Nobody Is Right"Nobody Is Right"

●「Nobody Is Right」 中島みゆき

 (【追記】歌詞サイト(goo 音楽)へのリンク。みゆきらしい、ほんとうに、いろいろ考えさせられる歌詞ですから)

*****

・・・・そして、中島みゆき - 歌旅 ー中島みゆきコンサートツアー2007ー - 背広の下のロックンロール「背広の下のロックンロール」

●背広の下のロックンロール(YouTube>

アルバム、「I Love You,答えてくれ」所収

歌旅-中島みゆきコンサートツアー2007-

 ・・・・・そして、

 敢えて、 

 池田 鴻 - ファーストガンダム パック - EP - 翔べ! ガンダム「翔べ! ガンダム」!!

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2009/11/28

通算2000記事を迎えて

 実は仮眠のつもりが予想外に爆睡して、こんな時間(1:15頃)に「目が覚めて」しまったのですが(^^;)。この際だから書いちゃおう。

 正確にはこの記事が2001番目ですね。おととい頃、2000番め記念は、私が最も敬愛する「精神療法」の著作というべきバリントのあの本にすることに決めていました。

 私がこのブログを始めたのは、2004年の12月19日でした。ですから、4年11ヶ月と23日(途中2回閏年があったから、366×2+365x3-23=1804日経っていることになるわけで(・・・・こういう単純な計算でポカしやすい私だから、ホントこれでいいんだよな・・・・)、1日平均1.11記事ということになる。2ヶ月ぐらいまるっきりブランクがあった時期も2,3回あるので、実際にはもっと一日あたりの平均値は多い。

 私のような長文エッセイ型ブログでは、我ながら、よくもまあ、やりもやったりと思います(^^)

 この5年の間に、私は大学の学生相談常勤カウンセラーを辞め、開業し、大学入学以来30年ぶりに久留米に戻って再開業(その他もろもろ・・・)という、人生最大級の動乱を経験していました。

 ブログをすでに5年近くやっている人はそこそこいらっしゃるとは思うけど、同じURLに居座ってずっとやってるという人はあまりいないかと思います。

 これもまた、ことブログの領域では日本で先駆けのひとつだった@niftyさんが、いろんな意味で使い勝手のいいシステムを完備し続けていてくれたからでしょう。

 このブログの最初のタイトルと副題はもっとシンプルでした。

「こういちろうの雑記帳 -現役カウンセラーが浜崎あゆみと中島みゆき中心の雑感を徒然なるままに語る-」

・・・・・・だったと思います。

 つまり、ayu中心の音楽サイトをやるつもりだった・・・・筈(^^;)

 開業を期に「カウンセラーの」を冒頭につけ、そのうちに本業のカウンセリングの記事は増えるわ、iPodオーディオ関連の記事が長期的にヒットするわの中で、今のような長たらしいタイトルになりました。

*****

 つい先日、1,2年はかけたらしいデータベースのメジャーアップデートがとりあえず完了、私のような超重量級ブログでも、過去のカテゴリー表示がいい意味で簡略化されて同一カテゴリーに数百なんていうバックナンバーも読み込みやすくなったのではないかと思います。私自身、記事のアップロードの際の「異様な重さ」・・・・「トップページ」→「個別ページ」→「月別ページ」→「カテゴリーページ」と、更新のたびに一巡りしてアップロードかけていたんですよ。これは全部で15分はかかる儀式でした(^^;) そこからついに久々にある程度解放されたのですね。

 それでも、オートでのpingは飛ばせないので「日本ブログ村」をはじめとする複数の代理pingサーバーから「手動で」ping送信(これにも5分は巡回してかかっている・・・・)、1995年開設の、html手打ちの旧態依然たる「本部サイト」にも最新記事のリンクを手打ちし(これでまた5分・・・・)、私のほうからのトラックバックはとっくに飛ばせない(今回、トラフィックが少ない時間帯ならは改善した可能性はある・・・・【追記】この記事で久々にオートでping飛ばせました!)という、巨艦大砲主義の全然スマートでエコではない形ではありしたが。

 アクセス数は、一時期の1日700平均まで迫った時期に比べると300がアベレージです(私自身のアクセスはカウントされない設定に数ヶ月前から切り替えています)。実は、携帯サイトのほうに、別枠で毎日200アクセス弱おいでいただいていますが、そっちはカウンター表示されませんので。

 まだ、実はすでに「書評・DVD・CD評」ブログの方に、毎日100アクセス近く、おいでの方が「流れて」もいるようです。それこそ、こちらで書いたことをひき写しただけなんですけど、あのブログはレビューを書くとなるとすごく合理的で洗練された設定とデザインですので。

*****

 特に最近は、我ながら記事への要求水準が凄くタイトに研ぎ澄ましたものになってきて、昔からお読みの方にとっては、そのあまりの「緩み」のなさに息が苦し いくらいとお感じの方もあるかもしれません。

 我ながら星飛雄馬が大リーグボール投げ続けるみたいな、情け容赦のない全力投球モードになって来てたんじゃないかというと、大袈裟ですが。

(考えてみたら、こんなくつろいだ口調で書くことそのものが久しぶりだな・・・・)。

 これには実はいくつか背景があって、その理由はすべてここではお証しできないのですが、別に焦りのあまりそうしていたということではなるでない、まあ、あけすけにいえば、アカデミズムの人たちに、お遊びブログだと思われたくないという思惑が働いた・・・・という面があることまでは、お明かししてもいいかもしれませんね(^^)

*****

 以前も書きましたけど、特に開業して以降、この「パーソナル」ブログの方すら、あくまでも「営業活動」の一環として位置づけています。久留米に帰ってから、開業サイトそのものをブログ形式にしていますけど、あちらの記事の多くには独自のものは少なくて、こちらで書いたものを推敲して再アップしたものが中心です。あちらは現在でも全部で180記事。そして、クライエントさんとしておいでいただいた方の中には、こちらの「雑記帳」サイトの愛読者の方の比率が高いままなんです。

 カウンセラーの中立性やら分析の隠れ蓑なんていうものを皮相な次元で語ることは無意味としか感じていないことはこのサイトでも繰り返しテーマとして取り上げましたが。それより「面接場面での」態度の方が100倍大事。でも、ネット上のこういちろうと生身の臨床心理士阿世賀浩一郎に、実は意外と落差がないことは、実際の私を知っている皆様はお気づきかと思います。

 そして、ネットでのアクセス数よりも、私が食べていけるだけのクライエントさんにおいでいただけることが大事なわけで、湘南時代とは比較にならないくらいに「足を使って地域で動く」スタンスに切り替えた結果、湘南時代よりは速いペースでお客様は増えてはいます。

 ・・・・というか、湘南時代は、住んでるとこもオフイスも賃貸だったので、実は「一度も黒字に到達しなかった」ままひたすら預金を切り崩していたのです(もう、はっきりお明かししていいでしょうけど、それが行き詰ったから久留米に戻っただけです!!)。

 久留米では、親が所有していた旧宅=私が生まれ育った家をそのままただで「借りている」ような形で(2キロ離れた場所に住んでる両親とは完全に衣食住別に近く、直接会うのは週に1度ぐらいですかね)、今は「とにもかくにも」すでに独立採算黒字経営にかろうじて転じました。

 つまり、クライエントさんの数は少ないなりに安定化、徐々には増えている手応えがあるので、いよいよネットのアクセス数なんて、1日300あれば最低ラインとして立派なもので、ほんとうに納得いくように書くこと、リアルワールドに生きるけれどもネットを「手段」「メディアのひとつ」と割り切って活用している人に少しずつ声が届く、「知る人ぞ知る」サイトであればいいんだ、ぐらいのスタンスですね(^^)

 そして、このブログのタイトルが「雑記帳」であることにはやはり意味があって、私の試行的ブレーンストーミングの公開という面も強い。

 つまり、ここで書いたことは、いずれ何らかの形で研究発表したり、論文化・著作化する時のためのdraft公開でもあるし、「専門的情報発信」「顧客誘致」のための単なる「メディアのひとつ」とまで開き直っています。 もう、私には、ネット上での「プライベート」なんてないも同然です。

 そう、すべてが、面接がない時間帯の「お仕事」。仮にアニメの記事を書いても、今ではそういうつもりなんですよ。(そして、肝心なプライベートなことはもはや「全然」ネットでは露出してないつもりですので・・・・)。

*****

 いずれにしましても、これまでおいでいただいてきた、たくさんの皆様に感謝申し上げますと共に、今後とも、どうかよろしくお願い申し上げます。

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2009/09/25

「おくりびと」・・・・臨床ということ

 日本映画の最高の金字塔のひとつというべき「生きる」に引き続いて、同様に「死」をテーマにしつつも、黒澤監督もなし得なかった、アカデミー外国語映画賞を受賞したばかりのこの映画を鑑賞するというのも、何とも味があるものである。

 

おくりびと [DVD]

 先日「完全版」がテレビ放映されたものをHDレコーダーに録画しておいたものをやっと観たのだが、どうもDVD版での一部シーンのカットを惜しむ声も少なくないようなので、むしろこうした形で観ることができたのは幸いなことかもしれない。

*****

 今回は、またもやや私的な次元からの感想として書かせていただく。

 ただし私自身の近親者や関係者の死の問題と絡めるようなことはしませんのでご安心を。

 私は臨床心理士であるが、「臨床(clinic)」とは、本来「ベッドのそばにたたずむ」という意味のみならず、「死に至る患者さんのそばに臨(のぞ)み続ける」という含蓄が込められていた言葉であるという。これは確か中井久夫先生の著作のどこかで読んだことである。

*****

 私の業界では、「臨床」という言葉を意識的に使う時には、カウンセリングや心理療法などを通して、ひとりひとりのクライエントさんと向き合う現場を持っている・・・という含蓄で使われることが多い。

 つまり、机上の学者などではないということである。

 もっとも、今日指定校大学院で勤務されている先生方は、むしろそうした意味での臨床現場のプロだった先生方が「請われて」教職に身を転じられたケースが増えてきているので、以上のことは別に揶揄のつもりで申し上げているつもりはありません。

 むしろ、大学という組織の煩雑な雑務に忙殺されるくらいならは、臨床の現場にあと少しでも立ち戻れれば・・・という引き裂かれる思いも感じておられる中堅の先生方も少なくないのである。

 実際、「あの先生はついに大学教育の場に向かわれた」という情報を耳にしたと思っていたら、いつの間にかほんの数年のうちに教職をお辞めになり、またもや現場に戻られてしまった、功成り名を遂げた筈の臨床家の先生の再度の転身に驚いたこともある。

 もとより、ご本人の意思ばかりではなくて、「先生がいないと現場が成り立たない」という切望もあったのではないかと推察もするのだが。

*****

 医師という身分は、実は日本でも欧米でも、実は必ずしも敬意を払われる仕事として歴史上一貫して見なされてきたわけではない。「鍼灸師」「マッサージ師」などと同じように「士」ではなくて「師」の字が長い間通称としてあてがわれてきたことの中には、実は必ずしも階級が高くない、表舞台に登場する性格のものではない「日陰の職人」であるに留まるという含蓄がある。

 この、「師」と「士」の字の含蓄の違いについて私に教えてくれたのは、何と私の父である。父はそこから「だからお前は医者より偉いんだ!」という凄まじい論理展開で私に発破をかけてきたのだが、お医者様の皆様、これはあくまでも個人開業(私設心理臨床)している私への、父の溺愛のなせる技とお許し願いたい。

****

 この映画の中では、従来注目を浴びていなかった「納棺師」という職業にスポットライトが当てられているわけだが、「死人と接せざるを得ない」という点では大抵の医師と納棺師には共通項がある。

 何しろ、日本の法律上は歯科医師にすら、役所に提出する死亡届に必要な死亡診断書を書く公的な権限が、今でもあるのだ(このことの是非はとりあえず置くとして)。

 私のような臨床心理士も、少なくとも「死にたい」というクライエントさんからの訴えや、かつて自殺を考えた、試みた、あるいは重い身体病を乗り越えた、今も身体の中に「爆弾」をかかえているというお話、あるいは肉親や知り合いとの死に目のお話をうかがわない日はないと言っていい。

 そして・・・・実は今や脚光を浴びる仕事となった臨床心理士(もっとも、職場を得て、安定した生計を成り立たせることの大変さも知れ渡りつつあるが・・・・)においても、実は、ひと皮向けば、普段「おかしい」人たちばかりを相手にしている、だとか、人の泣きごとを聴くだけでお金を取る人種だとか、ほんとうは社会や家族、地域共同体が背負うべき、悩める人や行き詰まっている人たちを有料で救う専門家が存在すること自体が、人間疎外を更に押し進めるシステムだとか言われる立場にあり、実は「世間の普通の人がやる職種ではない」という偏見にさらされているのである。

 「私、臨床心理士になりたい!」と肉親に口にした途端に、この映画の中の主人公の妻が夫の職業について知った時に示した拒絶反応と実は似た体験をされた、心理臨床志望の若き人は決して稀ではないはずだ。

 その理由は、単に大学院まで出る学費や収入的な安定という面での懸念などではとても説明し尽くせない、「生理的な嫌悪」を感じさせられる世界に、自分の子息が身を投じたがっていることへの困惑という側面が内包されていることが多いのではないかと、なぜかこの映画を見ている中で気づかされた。

****

 この映画は観た人が少なくないでしょうから、ここからはネタバレになることをお許しください。

 広末涼子が演じる妻は、本木雅弘演じる夫がやっているのが納棺師だと気づく前は、直前に絞(し)めて捌(さば)いたばかりの鶏を目の前にすることに何の抵抗もなかった。それどころか、買ってきた蛸が「まだ生きている」ことに気がついた時に悲鳴を上げた。

 つまり、私たちの多くが、普段肉食(にくじき)をする際に、それが「死体」に他ならないことを忘却しているのと同じ次元に生きていたのである。

 この映画で殊に印象的なシーンのひとつが、社長と主人公たちが、

「うまいか?」

「困ったことに」

などと対話しながら、進んで肉食を繰り返すシーンであることは衆目の一致するところであろう。

 私はベジタリアンを貫こうとする人を揶揄する気はもともとない。中には健康上の理由からベジタリアンを貫くひともあろうが、欧米ではベジタリアンでありながらもキリスト教徒である人は少なくないかと思う。

 ところが、キリスト教という宗教そのものが、「我々の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエス」への信仰であるばりか、多くの宗派において、「聖餐」という儀式を大変重視するものである。

 これは聖書に伝えられる「最後の晩餐」におけるイエスの発言に基づき、ワインをイエスの血、パンをイエスの肉として口にする儀式である。多くの宗派の公式の教義では、聖別されたワインとパンは、まさにイエスの肉体そのものなのであり、決して「象徴的な表現」などと見なしてはいないそうである。

 実はイスラム教徒は、このあたりを指して、「キリスト教は教祖の人肉を食らう野蛮な宗教」と喧伝した時代もあるとのことである。

****

 こうして私は、敢えて仏教的・東洋的な発想から一定の距離を取ったままこの映画についての小考察を進めてきたが、そろそろ、私なりの言葉で、今回書きたかったことの核心に触れていこう。

 人は、他者の生命の犠牲の上に立ってしか生きていない存在である。

 いかに自立・独立を尊ぶ人でも、一切の衣食住をすべて自分で賄(まかな)って生きる、ロビンソン・クルーソーのような生き方をしているわけではあるまい。

 人は幼年期を脱した後も、何らかの意味で他者に「寄生して」生きているのである。収入を得られるいうことは、回りまわって、誰かがお金を出してくれたということである。

 誰もが「人の生き血を吸って」生きている。このことに貴賎はないと思う。

 臨終から葬儀、火葬、埋葬、そして追供養と続く一連の儀式は、悲しむための儀式ではない。むしろ悲しみが感謝に昇華される過程となるのがふさわしいのだろう。

 「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」といった古語の意味を探っていくと、これらが自然と融合する接点が出てくるようである。

 死や病が日常世界から隠蔽され、不死と無限の健康へのファンタジーが満ち溢れかねない時代(今度の不況で、そこに少しブレーキがかかったかとは思うが)であればこそ、病や死と日常の間にある、目に見えない「門」をつなぎ、その間にさ迷うしかなくなっている、個々人の「成仏できない思い」の仲介者となる「渡し守」が職業としても必要な時代なのだとも思う。

 それはむしろ、個々人日常生活の中に、そうした「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」の思いが行き交う世界が復興するための、ささやかなお手伝いなのだと思う。

*****

 BGMは、中島みゆきの中島みゆき - 歌でしか言えない - 永久欠番「永久欠番」ということで。

 ・・・敢えて、「生きる」の記事ではなくて、こちらの記事の方に。

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2009/09/19

JUGEMで、「カウンセラーこういちろうの書評・DVD・CD評ブログ」を特化させてスタート!

 私の運営しているインターネット上のサイトって、実はたくさんあって、そういう、いわばサテライト(衛星)サイト群からリンクをたどってこの「雑記帳」においでになった皆さんも少なくないことは、アクセス解析のリンク元から掌握しています。

 (厳密には、この「雑記帳」そのものが、1995年創業(?)の「阿世賀浩一郎のホームページ」の分室としてスタートしたに過ぎないものが「母屋を乗っ取った」に過ぎない発展をして来たに過ぎないことは、再三強調しているとおりですが)

 そうしたサテライトサイトの一覧は、右フレームの"My Site"の項に表示しています(中には、ただのプロフィールサイトや、RSSサイト、アクセス集計サイトもありますが)。

*****

 そうしたサテライトサイト群に、またもや屋根屋を重ねてもうひとつ加わりました。

●「カウンセラーこういちろうの書評・DVD・CD評ブログ」

Jugemu  Amazonのレビューのプロフィールページも持っているのに、なぜこのブログの立ち上げに踏み切ったのかといいますと・・・・・実際にご覧頂ければ一目瞭然です。 

 書籍等の商品紹介をする上で、このJUGEM運営のブログくらい、洗練されたデザインセンスを持つブログは、ちょっと他にないからです。

 商品紹介に特化されているというくらいにAmazonや楽天、Yahoo!のアフィリエイト(しかもこの3社から個々の商品ごとにアフィリエイト先をセレクトできる!!)を入れるまでの操作がシンプル。何一つhtml言語のコピペ作業をしないまま、非常にスッキリしたレイアウトで画面に表示してくれるのですね。

*****

 実は、このブログ開始当初は、右か左のフレームにお勧め本の紹介コーナーも常設していたのですが、フレーム自体があまりにひょろ長くなるので(^^;)、すでに3年ぐらい前に表示を中止したいきさつがあるのです。

 それを別ブログに切り離して復活させる意味もあるのですね。

 スタート時点の現状(09/09/17)では、最近紹介した「私のうつノート」「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」Amazonレビュー版の再転載と、私の愛読書等の一覧を表示しているだけです。

 焦ることなく、どうしても手持ち無沙汰な時に、これまでこのブログで書き溜めたレビューを編集・再構成したり、時にはオリジナルで書き起こして記事を増やしていくつもりです。

 こっちのブログで本を紹介するときにには、細部についてああだこうだと踏み込んでごちゃごちゃと書いてしまいがちですが、何しろあのブックレビューの猛者が集う、Amazonの書評欄にも同時掲載するに値すると判断した、客観的ですっきりした文章にまで推敲して練りこんだものしかそちらでは掲載しないつもりですので、どうかよろしく。

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2009/09/07

鬱から勤務再開したばかりの人の最大の鬼門

 鬱の人は、ただでさえ朝が一番落ち込みやすいのである。

 これを「日内変動」と呼ぶことはよく知られているだろう。

 だから、鬱が深刻化し始めると、まずは朝の出勤時に、圧倒的なパワーで、「行きたくない!!」という気持ちが押し寄せ始める。

 復職をはじめた時も、まさにそうだ。

 ほとんど半べそになりながら、勤め先近くの駅の到着したホームで、駅前広場で、会社のビルの近くで、立ち尽くしている人たちは、たくさんいることと思います。

  中には、その日の朝、髪をしっかり巻いた家を出た女性もあるだろう。

 
私はその人に言いたい。

 あなたの巻き上げたその髪に、いたわりを持って報いてあげるにはどうしたらいいのでしょう?

 その日は、巻き上げたその髪のためにだけにでも、会社のドアをくぐってはいかがでしょうか?

 続けるかどうかは、その日勤務して、家に帰ってから考えるのでも、遅くはないとは思います。

 どうか、その日一日の自分を台なしにしないで!!


BGM : 中島みゆき - 歌でしか言えない - Maybe中島みゆき/Maybe

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/05/29

浜崎あゆみと中島みゆきとアラニス・モリセットの共通項(第3版)

 久々にayuネタを書くかと思ったら、ここまで搦め手から来るか? と思われる方もあるだろうなあ・・・・coldsweats01

 でも、J-Popと洋楽の両方に詳しい人だと、もっともな着眼だ!!と、あっさり言われそうな気もする。

 実は知りあいから紹介されて、最近聴いているんだけど。

 最初に、ベスト盤の、" The Collection"から聴いた。

ザ・コレクション(スペシャル・エディション)(DVD付)
 
 曲想は、結構、私の好きなオリヴィア・ニュートン=ジョンを思わせるところもある曲も少なくなくて、マドンナの起こしたレーベルからデビューした人にしては、意外とオールド・ファッションだなあと感じたけど、私にとっては非常に入りやすいスタイル。本人がギターやハーモニカなど、幾つも楽器をこなせる人だから、全く自然な成り行きなのだろうし、それとこの人、カナダでのインディーズ・デビューがわずか10歳らしかったから、ベースにある音楽スタイルっていうのが、年齢の割には古いあたりにあったんだと思う。

 私って、洋楽を聴いていて、耳で歌詞のverbalな意味が読み取れるような英語力ではない。でも、歌詞カードを読むと、何か、凄ーーーーく「婉曲な」形で、プライベートなメッセージをぼろぼろと書いていくタイプの人であることに気がつく。添付の和訳は、そこらへんの「含みの多さ」の一面しか訳すことができていない。質は違うけど、どこかでayuの詞を思い出させるところがあって。

 いきなり「誰にでも感情移入できる」普遍的な言葉で詞を書く人ではないのだ。「特定の人」を強く意識した書き方だから。

 でも、最初、「この人何をぶつぶつとグチ言ってるんだ」と思いながらも話を聴くうちに、多くの人に共感できる接点が拓け出てくる・・・という、じんわりと効き目が聴いてくるタイプの詞なのだと思う。

(もっとも、2枚目以降のオリジナルアルバムでは、一転してシンプルな歌詞のものも増えてくるようですね)

 でも、内容の自己披瀝的な赤裸々な側面は、むしろみゆきの系譜に近いかもしれない。
 

***** 


 そして、全世界で2400万枚というセールスを記録したという、ファースト・アルバムの"Jagged Little Pill"に聴き進むわけですが。

ジャグド・リトル・ピル

 ベスト盤では、この、一曲ごとのアプローチの変化はとてもわからなかったなあと思う。そして何より、リスニングが無っ茶苦手で、意味は、ながら聴きだと全然伝わってこない私なのに、iTunesに入れて何かの作業をしていると、この人の声が、それこそ、

 ♪ワケのわからぬこと話してる

(浜崎あゆみ/independent)


・・・・というだけで、もう、何か訴えよう、訴えようとしているのが、(サリヴァンふうにいえば)"verbal"にではなくて"vocal"に伝わってきて、見事にinterruptされるわけである。

 声の質として、エキセントリックなのではない

 むしろ不器用ですらある声だと思う。

 なのに、それを総動員して、くどくどくどくどと叫びを上げるのだ、この人は。

 このような感覚に襲われたことは、あまりない気がした。


 まさに、「角張った小さなタブレットを飲み干す」ひっかかかりというか、絶妙なアルバムタイトルである。

*****


 2枚のCDのライナーノーツによると、この人、先ほど述べたように、10歳でのカナダでのインディーズ・デビュー、カナダ国内でのメジャー・デビュー、そして、上述のアルバムを引っさげての国際的なメジャー・デビューという階段を歩んできたみたいだけど、それぞれいろいろ賞をもらって高評価の中で次のステージに進んだのに、「何か、何か違う」と違和感を感じ続けていたみたいである。「周囲は大人ばっかりだったし」とインタビューにも答えているらしい。

 このあたりも、10代初めに福岡ですでにモデルやCMの仕事をはじめ、上京してから「未成年」「闇のパープルアイ」「ツインズ教師」などで演技力にも注目され、avex以前に一度は歌手デビューしているayuのかかえ続けた「違和感」とも何か通じるところがあるのではないか???

 まだ、確定情報ではないので、情報リソースは明かしませんが、ayuのプロモーション・ビデオの中に、アラニスののそれに相当影響を受けているという説があるものもあるらしくて、もし仮にayuが好きなアーティストとしてアラニスを掲げる発言をどこかで公言していたとしても、何も違和感がない気もします。

 以前、ayuの好きなアーティストについての何かのインタビューでの情報に接して、「私の知らない洋楽女性シンガー」がそこに含まれていたのだけど、なんとなくそれがアラニスという気もしてきた・・・・誰か教えてくだされ!!


*****


【第2版で追記】

「王子のきつね」さんにこの件をネットでお尋ねたら、実にあっさりと返事をいただきました(^^)

少なくとも、この"Thank U"のPVがayuの"Loveppears"のジャケットに与えた影響は大いにありそうです。

●Alanis Morissette - Thank you (subtitulado en español)(YouTube)

浜崎あゆみ/Loveppears


*****


 彼女の曲は、iTune Storeで十分に整備されていますね。

Alanis MorissetteiTunes StoreのAlanis Morissetteコーナー


*****


  おしまいに、YouTubeから、アラニスのファンに、「このバージョンをいきなり紹介するのは反則!!」といわれるのを承知で、メロディーの美しさと詞の悲しさが好対照の、"Your House"を。

(アラニス自身の声ではなくて、あくまでもカバーですが)


Lyrics | Alanis Morissette lyrics - Your House lyrics

 やっぱり、この曲の、オリジナルアルバムへの収録の際の手法を、ayuさん、まねてるんじゃない?? 上記のアルバムの浜崎あゆみ - Kanariya - Kanariya (Original Mix-Radio Edit)あの曲で?

ジャグド・リトル・ピル~アコースティック

 "Your House"をフツーに聴くなら、10年後に再録された↑このアルバムということになるのかな?

Alanis Morissette - Jagged Little Pill Acoustic - Your House"Your House" Acoustic Version


*****


 そうそう、ayuよりみゆきより、何より矢井田瞳さんなんて、作風的に、アラニスともろにかぶるという点で、日本では代表的な人の筈・・・・ですよね?

 iTunes Music Store(Japan)


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2009/04/04

2/7(土)-2/8(日)の第59回臨床心理士研修会(熊本県・八代市)参加報告....のはずが。

 ああ、この「参加報告」は、もはやあまりに旬を逸してしまっている(^^;)

 しかしこれは、私がネットから姿を消していた沈黙の数ヶ月が実はたいへんリア充な日々だったことのささやかな傍証になるであろう。

 ホント、この研修会での私のロビー活動の成果が一気に全開しているのが、ここしばらくの、このブログの快進撃の秘密なのである。


 マジに「ロビーで」、お酒もなしにドーパミン出しまくりで盛り上がった、まさか出会えるとは思えなかった先生方。

 阿世賀がこうしてあの日、いろいろご相談した成果を生かし続けていることをネットを通してご照覧でしょうか。

 S先生、K先生、M先生、そしてあまりに予想外の出会いだった水俣のT先生。

 私は先生方から、このエネルギーをいただきました。


 先生方は、私はその時お示ししたカードを、まだいくつも切らないままということにお気づきかと思います(^^)

090208k3100024_2
↑我がJR久留米駅

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↑新八代駅の九州新幹線、つばめ号

090208k3100028_2
↑同じホームの向かい側に止まるリレーつばめ号

K3100019_s
↑ん?

K3100020_s

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↑少しぶれてるけど、2月限定で、本来上下2段式の2人掛けシートなのを3人掛けの指定席にするためのシールでした。この、寝台を使っていない時間帯の、ほんとんど「庶民的なセミ・コンパートメント」みたいなくつろぎがたまらないブルトレファンは多いよね(^^)

K3100025_s
↑これも手ブレですみません。こういう懐かしいタイプの洗面スペースも見納めか?

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090208k3100047_2
↑あの、2月限定、ブルートレイン「はやぶさ」号お別れ記念、熊本ー博多間上り一般席扱い指定乗車券をもろに使って、八代からの研修会の帰り、熊本から久留米に帰り着いたわけですね。


 ●富士・はやぶさ 上り一部区間で寝台券なしで乗車可(鉄道コム)

=====引用はじめ=====

JR九州は、寝台特急「富士」「はやぶさ」の上り列車の一部区間において、期間限定で普通車指定席の特急券を発売する。

設定日は2月1日~28日で、設定区間は、富士が大分~小倉間、はやぶさが熊本~博多間の東京行き上り列車。発売席数は1列車あたり45席で、富士の6号車、はやぶさの12号車が対象となる。

同列車の乗車には通常、乗車券や特急券のほかにB寝台券(6300円)などの寝台券が必要となるが、期間や号車など限定で、乗車券と特急券(指定席)のみでB寝台車両に乗車できる。なお、座席は3人がけとなり、寝台としての利用はできない。

きっぷは、乗車日の1か月前の午前10時から、全国のJRのみどりの窓口等で発売される。

同下り列車では、下松~大分・熊本間で、各列車30枚の立席特急券が、従来通り発売されている。 

=====引用終わり======

 この日、日曜日ということもあってか、他の車両も熊本からほぼ満員でした。結構、お年寄りのグループとかも多かったのは、団体旅行枠もあったのかな?


****


 大学合格以来、30年間の東京・横浜との往復の日々、何回も乗りました。

 「東京行き」が久留米のホームにもう入らないことは、心の底から残念です。

 はやぶさは、久留米と東京がひとつにつながっていることを安心させてくれていた、これぞ私の移行対象、いや、アンピリカル・ケーブルでした。

K3100011_s
↑こういうラストシーンにしてしまうと、映像演出上、狙い過ぎといわれるのは承知です。なお、よそ様のお子様ですので(新八代駅 ^^)


 BGMは、もちろん、みゆきの「ホームにて」しかないね(^^)

Ticket_to_ride_hayabusa



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