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育児

2017年3月14日 (火)

カウンセラーに何ができるか

現在引きこもりの人は50代以上になっているケースも多い。それを老いた親が支えている。

就労支援よりも先に、親自身がこの問題に関して話し合えるコミュニティを持つこと。

次に引きこもりの人が外出する機会を増やすこと。しかも「生産活動」より先にネット以外を通した「消費活動」が先行するのが自然。月給制のお小遣いがあるといい。(これは中井久夫先生の「世に棲む患者」のパクリ)。

ネット通販に依存するなら、まずは実際にパソコンショップや秋葉原に出向きなさい、アニソン歌手やAKBグループのライヴでもいいでしょう、ということになります。

私が引きこもりの人の親から相談を受けたら、「まずはあなた自身がここに繰り返し来談されてはいかがでしょうか?」と誘う。

これは親が悪いというのではなく、親自身が「引きこもりの子を持つ」という問題について社会から「引きこもって」いるからだ。斎藤環先生の「社会的ひきこもり」のモロパクリです。

私はSlype,を媒体とした面接を得意にしている。現実に会うことと何も変わらないと自信を持って言える。実際うつ病で引きこもりに等しい生活をしている人ともそうやって関わっている。最初は趣味についての雑談でもいい。

大学学生相談時代も、そうやって不登校や留年の学生たちと、「趣味仲間」としてつながり、卒業後も断続的に関わり合いを持ち、立派な社会人になったケースを複数持っています。

私が対面面接しているインターネットカフェは、その種のものとしては洗練された清潔な空気の店だが(ファミリールームを使う)、今のところ親御さんだけだが、インターネットカフェならなじめるという層はいると考えている。無料ドリンクやコミック付きで何が悪いでしょうか?

恐らく私は「児童施設内の虐待問題への安全委員会方式」「壺イメージ療法」で著名な九大の田嶌誠一先生の感化を相当受けている。クライエントさんのために役立つことであれば何でもありです。

実はそういうこともあるから、私は自分のブログで趣味のことも平気で書き続けるのだ。ふさわしい人であるかどうかは配慮しますが、敢えてここの"カウンセラーchitoseの雑記帳" のことを紹介しすらします。

自分よりも別なカウンセラーや病院、諸機関を紹介することはやぶさかではないが、それでも「投げっぱなし」ということはしない、というか、ならないわけです。自然とコーディネーター役になってしまう。クライエントさんがそれを望む。人とつながるのはいろんなルートがあるのがいい結果を招きます。

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2013年1月13日 (日)

「ゆとり教育」の思わぬ背景と、それに対応した「親世代」の限界(再掲)

 「ゆとり」教育については、「それまでの詰め込み教育の弊害の解消」ということばかりが強調されるが、更にその「背景」が何であるかに巨視的に立ち入ることができることが見過ごされてきている。

 すなわち、ゆとり教育が、実は当時の外交的、そして産業界からの要請で成立したという側面があるという指摘を、本書ではじめて知った。

  1.  輸出依存型経済から内需拡大型経済に転換するように欧米諸国から圧力がかかる
  2. →「貯めた金をケチらず使う」消費拡大のために勤労者に週休2日制の導入
  3. →海外へのパックツアーの隆盛・東京ディズニーランド等の建設
  4. →教師への5日制の導入にあい伴い、学校5日制の導入(2002)
  5. →政財界、労働界の要請(!)をも受け、文部省は授業時間短縮を迫られ、「ゆとり教育」が単なる「教育のスリム化」にすり替えられる。

 (以上、第8章「教育の自由化と学力格差」pp.132-3 岩永雅也執筆 より要約)

 こうして「ゆとり教育」とすることで、児童生徒が学校外で過ごす時間が50日分増えた。

 ところが、家庭にそれを引き受けるだけの能力があったか?「教育は学校が行うもの」と長年信じられていたのに、教育のかなりの部分が家庭に返され、「私(わたくし)事化」されることになったのである。(同p.134)。

 この頃バブルが弾けて、多くの家庭でに塾などの教育についてのお金をつぎ込む余力がなくなり、「教育格差」が生まれる引き金となったわけだが、実は事態はそんな単純な話ではないと岩永氏は述べる。

 「親たちの社会的主体としての資質に大きな問題があったという話なのである。資質と言っても、単に学力とか知識とかではなく、挨拶や人間関係の構築といった対人能力、協調性。忍耐力などの社会的能力、身の回りで日常的に起こるさまざまな事態を理解し、それに対応する能力など。まさに『生きる力』というにふさわしい能力のことである」(p.135)

 つまり、親世代自身が、子供のモデルとなるだけの、個人としての社会性がないということになる。

 よく考えてみれば、昭和一桁世代を親として持つ、現在の親世代(=私とほぼ同世代)は、受験戦争真っ盛りの中で成長した。その競争の勝者であるしても、敗者であるにしても、ともかく「生きる力」そのものを育める教育環境・・・というより、「社会」環境に恵まれていなかったことのツケが、今度は子供の教育の際にまわってくることになる。

*****

 「潤沢に教育資金は出してもらえても、『真空の中で』勉強しろと要請されているようでどうしたらいいかわからなくなった」私の生い立ちは、こうした状況の一側面として思い出されたのである。

 この放送大学教材は、一見経済学的社会学の観点からの著作に見えつつ、通常の教育学よりもはるかに巨視的な視点を提供してくれる。

 まだ読み進めている途中である。これからも具体的記事を追加するかもしれない。

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2013年1月 5日 (土)

なるちゃんはかっこいい!! おわちゃん、Take care of yourself! (再掲)

 届いた"psiko"5月号を読み始めたら、「雅子妃の未だに理解されない心の病」という記事にまずは読み入ってしまった。


  私は、例の、記者会見で、「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったのも真実です」発言をして、宮内庁ばかりか、お父様の天皇陛下と一時期気まずくなることすら厭わなかった「なるちゃん」こと皇太子殿下をかっこいいと思ったひとりであることは以前もこのブログで書いたと思う。

 

私の「浩一郎」という名前そのものが、数か月早くお生まれの「浩宮」様から取られたものである。小さい頃から何かというと浩宮様を親戚中から引き合いに出されて育ったせいか、顔立ちまで皇太子殿下に似ていると、人にもいわれるし、自分でも思う(^^;)  そして、雅子様と結婚された時、「いい人と結婚なさって、このこの!」とジェラシーを燃やした。

 そして、雅子様が「適応障害」と診断されたことは、私にとって特別な感慨になっている。  なぜなら、私の診断名も「適応障害」だったから。

 この、「適応障害」というDSMの診断名は、「社会不適応者」みたいに受け取られるので、個人的にはあまりよい命名とは思っていない。

 「心身の症状によって、社会的役割に適応したくても適応できなくなること」 ぐらいにとらえた方がいいと思う。

 わかりやすくいうと、鬱に限らない、様々な心身の不調の背景として、状況因の関与がかなりの程度想定できるもの全般を指す。曖昧な診断基準とも言えるけど、状況因のストレスが変化しなければ容易に軽快しないと判断できるという点では、意味のある診断基準だと思う。

 それにしても、日本最高のセレブであるべき皇族方が、医療の面で、精神神経科に対する態勢をある時期まで一般の人よりも不自由な形でした持たなかったというのは、ある意味でとんでもない事態だったと思う。侍医に精神神経科の担当医がそもそもいなかったのである。

 オランダの開かれた王室でのご静養の日々は、いい形だったのではないかと、今にして思う次第である。

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2012年12月28日 (金)

マスターソン「自己愛と境界例」(Amazonレビューより転載)

        5つ星のうち 5.0         境界型人格障害と自己愛人格障害の違いがこれほどクリアーに解説された類書はない。, 2010/6/10       
      
       
By
こういちろう (福岡県久留米市)  - レビューをすべて見る
(VINEメンバー)  
      
      

境界例のナルシシズム=マーラーの分離個体化理論でいう、「練習期」を経て、「再接近期危機」に直面しつつも「見捨てられ不安」未克服=「矮小な自己像」への防衛としての「誇大自己」であるに過ぎない。

ほ んとうの「自己愛人格障害」のナルシシズム=マーラーの分離個体化理論でいう「練習期」のまま、つまり「幼児的万能感」のままで大人になっている(親もたいてい自己愛人格障害者な)ので、実は自己中心的で他者に対する感情移入能力を欠き(この点ではDSMの診断基準は正しい)、自分を「崇拝」する「子分た ち」としか関係を結べない。他者との関係は、常に相手を「利用する」という関係です。

この2つは全く別のものです。

ボーダーの人は、他者の「他者性」にすごく敏感過ぎて、まわりが大人に見えて、すごく「縮こまっている」ナーバスな人たちです。でも、実は、後者の「ホントのナルちゃん」たちよりも、発達段階的には実は上位なんですよ。

ところが、この世のカリスマ的成功者の「ある部分」は、明らかに本物の「自己愛人格障害」です。

DSMの診断基準しか頭に入ってない人には、この「実は境界型人格障害の方が発達段階的に上位」という大事なポイントが見えにくいかと思います。

その意味で、他の方もお書きのように、本書は全然古びていないですね。

マスターソンを読むならこの一冊です。       

2012年12月27日 (木)

「過保護」という概念は安易に使われすぎていまいか?(再掲)

 一般の皆様は驚かれるかもしれないが、心理の専門家の間で、「過保護」という概念が使われることは滅多にない。

 そしてそれは「親に甘えている(甘やかしている)」という言い方を心理専門家が可能な限り排除するのと、実は共通の背景がある。「甘え」という概念が専門家と一般の皆様との間でどのくらいギャップがあるかは、すでにこの記事で詳しく論じた通りである。

 wikipediaの「過保護」の項は、この点についての配慮が行き届いているが、敢えて私なりの言葉で定義すれば、「過保護」とは、次のような現象に関して限定的に用いられるべき概念であると私は考える。


「養育者が、子供の欲求や願望の充足と、不快や不安や困難の低減や除去を何より優先する形で養育活動を行うこと」

 つまり、この場合、親は子供の完全な僕(しもべ)という位置に近い。

 実は、このような、「純粋な過保護」というべき現象は、一般に思われているよりもはるかに少ないはずである。

 英語には、確かに"overprotected"という言葉がある。私の知り合いによれば、ブリトニー・スピアーズにこのタイトルの歌があり、グラミー賞にもノミネートされたようである。ブリトニー・スピアーズ - Greatest Hits: My Prerogative - Overprotected PVが→Overprotected

【第2版で追記】:ブリトニーは、同じテーマを別の曲でも歌っているようである。

 しかし、この歌は「私はもう少女ではないのだから、もっと好きにさせて」と歌う歌である。つまり、"protected"とは、むしろ親の「拘束」を示唆するものであろう。

*****

 ここでお気づきの方はお気づきだろう。

 「過保護」であるかに見えるケースのほとんどは、むしろ養育者の「過干渉」 とむしろ親和的なのだ。

 「過保護」も「過干渉」も、少なからぬ場合、養育者と子供との距離が過剰に密着しているという点では共通項があるかもしれない。

 しかし、「過保護な子供は葛藤なく育っている。ストレス耐性が低い」などという言い方が安易に使われるとしたら、実は養育者と子供との相互作用の上っ面だけを眺めているに過ぎないケースが大半だと思える。

 現実には、子供の方が親の気まぐれなまでのわがままな言動に必死にチューニングして、世代間逆転的な形で、親のメンタル面での安定を保とうと必死なまでに甲斐甲斐しく振舞ってきた経歴を持つことが少なくないのではないか。

 つまり「親子間の葛藤がない」かに見えるのは、子供の側から、必死になって「平和を支えてきた」からこそというべきケースが多いように思える。

 そのかりそめ平和の中で、一見「仲良し親子」のように端からは見えることが多いかもしれない。しかし、それは実は親のちょっとした不機嫌によってもろくも崩れ去る、薄氷を踏むかのような平和であることに周囲は(酷い時には母子の傍らにいるはずの父親も)、全く不感症である場合がある。

 養育者と当人の間の相互作用を丁寧に観察して吟味していくと、実は本人よりも養育者のほうが(控えめにいっても)よほど「気分変調症」的ではないかと思われてくる事例の多さに注意すべきである。

 子供の方が、むしろそういった親を「あやす」ことを子供の頃から求められ、「オトナとして振舞う」ことを強いられてきた側なのである。

 そうやって成長した子供が、真の自立を求められる局面で失調し、他罰性や攻撃性が強い存在に見かけ上大反転を起こしたとしても、それはまったく自然な展開ではないか? 目の前にいる、いわゆる「新型うつ病」患者は、実は、家族力動の犠牲になった"Identified-Patient(見なし患者)"なのかもしれないのである。

 いわゆる「新型うつ病」世代の気分障害全般を考える際、こうした視点は重要な鍵になる可能性があるように私は思えてならない。

 もちろん、だからといって、親を諸悪の根源視してもどうにもならない。親自身が、何らかの意味で、やはり自分の親やもう一方の配偶者との不幸な関係を背負っていることが少なくないからである。

****

 このようにいうと、あの懐かしいカタカナ語=「アダルトチルドレン」を思い出される方があるかもしれない。確かにある程度は重複することになるかもしれない。

 しかし、どのような概念として「説明」するかは、セラピーそのものの成否とは全く無関係である。

 何より大事なのは、目の前に現れた個々のクライエント(患者)さんと虚心に向き合い、安易なレッテル張りや分類を超えたところで相互作用を持ち、解決策を、一緒になって探していく、「テイラー・メイド」ないし「一品料理」を作れる専門家としての力量であろう。

エプソンダイレクト株式会社

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2012年12月22日 (土)

ユーミンのデニーズ伝説 III (再掲)

これは、鳥インフルエンザ、というものが話題となった最初の年のことと記憶します。

「だめよ!! きちんとつけてないと風邪悪くなっちゃいますよ!!」

  内科病院の待合室。 「いや、いや!!」 と泣きわめく小さな男の子。

 男の子が身体をバタバタさせるのを必死に抱え込み、 口にマスクをつけさせようとする若い母親。

 まるで、その男の子の様子を周りの待合室の患者に必死に「隠す」かのように。

 「風邪の方は念のためマスクの装着をお願いします」 と、病院側が、待合室の風邪の患者さんひとりひとりに紙製のマスクを配布するということをしていたのです。

 この様子を知ってか知らぬか、周囲の人は気にもとめていないようなふるまい。病院スタッフも。

******

 私は決心しました。

 その男の子の方に回り込み、腰をかがめて、目と目をあわせて、言いました。

「それ(マスク)つけてると、むずむずして、キモチワルイんだよね」

その子は途端に泣きやみ、じっと私の目をみました。

わたしは、

   

「♪じゃーねー♪」

みたいにちょっとその子に手を振って、自分のもといた席にさっさともどります。

 「どうもすみません」 と私に振り向いて母親。

 しかし、その後、その子はずーーーーっと泣くのをやめたきりで、おとなしくしていたのです。

*****

 私は病院からの帰り道で、いろんな連想をしました。

あんな子供ですら、ほんの一言、その子の「身になって」、共感的な言葉かけをするだけで、あそこまで一変することがある

むしろ、そういう子供の変化に、私の方が「学ばせていただいた」とすら感じました。

*****

 それにしても、なぜ、それまであの子は泣きやまなかったのか???

  お母様は、泣き出し、じたばたする我が子の姿に狼狽していたばかりではなく、 そうやって我が息子が大声を上げて泣いていることが、「周囲の方のご迷惑になる」ことに気持ちをとらわれていた。

 そして、そうやって子供を黙らせることができない母親であることを、周囲の目にどう見られるかという焦りにばかりとらわれていて、子供の気持ちそのものに、子供の身になって共感して一言かければそれだけで子供は落ち着くという、「コロンブスの卵」のあやし方を、狼狽の中で、たまたま思いつけなかったのでしょう。

 お母さんも、男の子自身も、この待合室の場の中で「孤立無援」(helplessness)だったんだなと、ふと思ったんです。

 どうして、むしろ普段はそんなことをするのが苦手な筈の私が、この時に限って、この母子に助け舟を出さずにいられなくなったのか?

********

>  私ほんとうは目撃してしまったんです きのう電車の駅、階段で
>  転がり落ちた子供と 突き飛ばした女の薄笑い
>  私驚いてしまって 助けもせず 叫びもしなかった
>  ただ怖くて逃げました 私の敵は私です
>  ファイト! 戦う君の唄を 戦わない奴らが笑うだろう
>  ファイト! 冷たい水の中を 震えながら上って行け

中島みゆき「ファイト!」(アルバム予感「予感」収録)

何より、私は、 私自身を、 そして、 「私の中の」その母と子の、 「味方」をし、救いたかったんでしょう      iTunes Music Store(Japan)

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2012年12月18日 (火)

「甘える」と「甘んじる」の弁証法(再掲)

 「甘える」とは、  自分の気持ちや願望を、相手に遠慮なく、平気で「.....を欲しい」「.....を.したい」「......はいやだ」などと言えることではなく、  何も言わなくても、自分の気持ちを相手が「察して」くれることを当然のように期待している自分に気づかないままででいる状態だということ。  

 このことを天下に示したことこそ、土居健郎さんの「甘え」理論最大の功績である。


 だからこそ、甘えという言葉が「  」入りで表記されているのだ。

 デパートのおもちゃ売り場で「○○が欲しいよう」と駄々をこねることができる子供は、土井先生の言う「甘え」を卒業している。

 何が欲しいかは言わずに(思い浮かばなくて)、「これなんてどうだ」と親にいわれるままに「買ってもらってしまう」のが、土井先生の言う「甘え」である。

 相手の気づかいに「甘んじている」だけである。

 甘えられれば、もう「甘え」ではない

 土居先生自身の言葉を借りれば、「甘えたくとも甘えられない」状態、こそ、「甘え」である。

 実はこの土居先生の言い方そのものが「パラドクス」だということに気がつかない人は、土居先生の「甘え」の理論を字面でだけ、頭だけでしか理解していない。

 「甘え」とは、実は結果的に人に甘えを出せないまま、"隷属"する=「甘んじている」状態であり、なおかつ、人を自分の思うがままに(感じるままに)操縦し、”支配”しようとしていることに気がつかず、そのことを感じられない状態でもある。

 過剰になればバリントでいう、「オクノフィリア」状態を抜け出せていない(あるいは、改めて退行している)にはまり込んでいることになる。

........これらのことが、私がフォーカシングと接し、自分なりに身につけ始めた初期、20数年前の、ごく初期の気づきであった。

 しかし。  その後の私も、甘えたくても甘えを出せないまま、「すねて」いるだけの自分に、繰り返し直面することになる。

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2012年12月14日 (金)

カウンセリングがうまく進んでいる時とは? ~黄金のトライアングル~(短縮して再掲)

答え:

カウンセラーと相談にこられた方が、実際には向かい合って座っていても、気持ちの上では、45度から90度の角度でたたずみ、二人の「前にある」相談に来られた方の「悩みの全体」を、まるで二人がお互いに「全く同じ」気持ちや感じ方をしながら「味わい、眺めつつ」語り合っている「かのような」気分に「お互いに」なれる瞬間が面接時間の「かなりを」占めるようになった時です。

こうなれば、たとえその時点で、カウンセラーも、相談に来られた方も、悩みや問題の具体的な解決の方向が見えて「いなく」とも、遠からず、二人とも満足の行く 、思ってもいなかった出口にたどりつける可能性が高いです。

つまり、いわば細長い二等辺三角形の鋭角の頂点に、相談に来られた方の「悩み」があり、そちらを二人で、少し距離を置いて「一緒に眺めて」いるような状態ですね。

要するに、

> あの時、同じ花を見て
> 美しいと 言った二人の
> 心と心が 今は もう通わない

のではなくて、ある程度以上の出現率で「通い合う」状態で「あり続ければ」、そのカウンセリングは、絶対にいい方向に向かいます。

******

音楽の教科書にも載り、もはやかなりのお年寄りを除いては、日本中で知らない人は珍しいだろう、日本のフォークの歴史に残る記念碑的作品、

加藤和彦と北山 修 - 加藤和彦 作品集 - あの素晴らしい愛をもう一度「あの素晴らしい愛をもう一度」

青春歌年鑑 1971

・・・・・オリジナル以外に、若い世代の歌手もカバー・バージョンをいくつも出していますし、

あの「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督の初実写映画、「ラブ&ポップ」 SR版 [DVD]のエンディングで主役の女の子たちが○○を行進していく印象的なシーンでも、その子たちによって歌われてます。

*******

実は、この歌を、カウンセリングや精神療法の世界で論じたのは残念ながら私ではありません(^^)。

何と、この歌を作詞し、歌っているにもかかわらず(?)、その後イギリスに留学、今や日本の精神分析の世界で第一人者となった、九州大学教授、「北山修」その人なんですよね。

そして、ご自身の著作、幻滅論「幻滅論」(みずず書房)の、クライマックスといえる箇所で、ここぞとばかりに、著作権所有者ご本人がこの歌詞を引用し、大論陣を張るという、他の誰にも不可能な、なんともうらやましいこと(?)をなさっています。

*****

さて、北山先生は、「幻滅論」で、予想外の脈絡からこの歌詞を引っ張り出します。

江戸時代の浮世絵に描かれた母子像に、たとえば月だとか花火だとかを一緒に見ている姿が、ひとつのパターンとして多い、ということに北山先生は着目します。

子供はお月さんとかを指差して(direct reference!)いたりもするわけですね。

おそらく、こういう場面で、まだ言葉が話せない子供だったとしても、

「あー」

とか何とか叫び月を指差し、お母さんが、

「あ、お月様、きれいねえ」

とか会話をしているかもしれません。

こうした瞬間、母親と子供は、まさに

「同じものを見て、同じように感じている」

一体感の世界にいます。

こうした経験の繰り返しが発達早期の親子関係に決定的な意味を持つ、などということは、北山先生が留学されたイギリスで盛んな「対象関係学派」と呼ばれる精神分析の流派の人たち、たとえば精神分析の方法(1)ビオン(Bion)とかが、アルファとかベータとかcontainerという小難しい用語を使って説明しているのですが、北山先生は、いかにも日本を代表する作詞家らしく、「日本語で考える」臨床心理・精神医学の樹立の大切さを訴え続けています(その点では、「甘え」の構造新装版「甘え」理論の土居健郎先生の流れを汲むともいえます)。

そこで、これらの浮世絵の構図をもとに「共同注視」という、北山先生独自の概念を生み出したわけです。

つまり、母子の何かの対象への「共同注視」が生じている時には、

あたかも

「同じ花を見て」、

同じように

「美しい」

と感じている「かのような」状態が生じている。

****

ここで大切なのは、単に母子両方が「美しい」と感じるかどうかではないということです。

二人ともお互いに

「同じような」感触、「同じような」質感の「美しさ」

として

感じ、味わい、体験している

という、

「共同幻想(illusion)」

がもてるかどうか、ということです。

これは、お互いの勝手な思い込み、「錯覚」かもしれない。

でも、その「錯覚」こそが、人と人との<絆>の原点です。

哲学の世界で、仮に同じ色刺激、それこそ、”FF 00 00"としてデジタル記号化して共有できる色についても、
Aという人が体験している「赤」と、Bという人が体験している「赤」がはたして「同じ」体験なのか、ということは、古典的な認識論の命題です。

まして「美しい」とか「悲しい」とかいった、人間のものの感じ方そのものをあらわす体験を「共有する」とはいったいどういうことなんでしょう。

人が他者から切り離された実存的「個」としての自我を持つということは、まさにそのような感情体験の「共有」という「幻想(illusion)」が壊れ、それは「錯覚」だったのではないかという「幻滅」にも耐えていかねばならないということでもあります。

(「脱錯覚」「幻滅」どちらも英語で言えば"disillusion"です。そして北山先生の本のタイトルが「幻滅論」であり、そこで北山先生が言わんとしている意味での「幻滅」とは何かということと、深くかかわりあうことになります。

[錯覚」とは、イギリスの対象関係学派の中でも、特に最大の大家というべきウイニコット(Winicott)にとって決定的な鍵概念です。

過度に単純化しすぎる危険を敢えて冒せば、人が「他者」から切り離された「個」として生きる上で避けがたい、他者とかかわりにおけるこうした「幻滅」体験が、特に赤ん坊時代の母子関係で深刻な傷としてのみ残るか、それとも「確かに『思い込み』が壊されて傷つくこともあるけど、少なくとも相手によっては、そして理解し合おうというという探索(まさぐり)の過程がお互いにうまく噛み合えば、

たとえそれが、

「一瞬の接点」

であったり、あるいは

「お互いの感じ方が『どのように違うか』がわかりあえた」

などという逆説的な「共有」であろうとも、

「時には」可能なのだ、自分にも生み出せるのだ、という「わずかな希望と人間信頼」であろうと、人が生きていく支えとなることがあるのだと私は思っています。

カウンセリングの場とは、カウンセラーと相談に来た方が、

「同じ花を見て、同じ『美しさ』(悲しさ、大変さ....)を感じている」

と感じられる、「共同注視」の「黄金のトライアングル」体験を、共に築き上げていく、共同作業の場だと思います。

当然そこには、お互いの勝手な「思い込み」→「幻滅」から生じる「小競り合い」もあるかもしれません。

そういう危機を何度もしのぎ切って、「以前よりは」お互いに理解しあえた、という小刻みなプロセスをどこまで積み上げられるか。

これは、カウンセラーと、来談に来た方との「真剣勝負」です。

しかし、それをいくつも乗り越えて、カウンセラーとの<絆>を維持できるところまで辿り着けたとしたら、きっと、現実世界での恋愛とかでも、同じ「思い込み」→「幻滅」というつらい体験のくり返しの輪から抜け出せるのではないかと思います。


......というと、劇場版NEON GENESIS EVANGELION -DVD-〔送料無料キャンペーン中〕劇場版「エヴァンゲリオン」での葛城ミサトが最期にシンジに伝えた

「私も、『ぬか喜び』と『自己嫌悪』の繰り返しだった。それでも前に進めた気がする」

というセリフに通じるものだと思うのです。

はっきり言って、エヴァンゲリオンの深層心理拙書「エヴァンゲリオンの深層心理」(Amazonはこちら)は、書き終わってみれば、このことを言いたいがために書いたみたいなものでした。

*****

【追記 12/12/14】:
前の記事の補足(補完?)にもなっている気がしたので、「続投」で再掲してみました。

ちなみに、「黄金のトライアングル」を図版にすると、こういう感じです。学会発表のパワポで使ったものです。

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

  • 050723_1544
     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

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     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。

神有月の出雲路2006

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     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

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