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文化・芸術

2016年8月 3日 (水)

福岡県久留米市出身の有名人

某サイトでこの件でこれ以上コメントするのは申し訳ないのでこっちでやります。松田聖子やチェッカーズだけではない。田中麗奈、家入レオなど、言いだせばきりがないのですが、

●家入レオからホリエモンまで!久留米市出身の有名人(Neverまとめ)

●あなたは何人知ってる?久留米市一帯から輩出された偉人・芸能人まとめ(久留米ファン)

ちなみに、久留米市の市歌の作曲者、市民カードのデザインが藤井フミヤ。

Shimincard

そして、観光大使が田中麗奈です(下のポスターは私自身がJR久留米駅で新幹線開通間際に撮ったものです)。

Rena

更に、久留米出身の画家、青木繁の代表作、「海の幸」をアップしておきましょう。久留米市民会館の大ホールの緞帳の絵画です。下の画像をクリックすればそれなりに大きくなりますが、実際に市民会館で見るとド迫力ものです。

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2016年1月15日 (金)

シューマン専門サイト、「ロベルトの部屋」復刻!!

●ロベルトの部屋

 私が1996年(!)から始めていた、いにしえのサイトの復刻です。

 ドイツのロマン派作曲家、ロベルト・シューマン専門で、しかも特定の曲について当時輸入盤あさりをして膨大なランキングと解説を、独断と偏見に塗り固めて築き上げたサイトです。
 
 このサイトで紹介したCDの大半は現在入手不可能ですが、シューマン好きの方は「ひとつの時代の記録」としてご来訪いただければと思います。

2016年1月 5日 (火)

ハイレゾの音を聴いた

やっとハイレゾ対応のUSB入力専用プリアンプ

が届き、試しにカラヤンの名曲集をダウンロードしてみたが、本当に音の粒立ちが細やかになってアナログな感じになる。

空気感あふれる音になるのだ。このカラヤン盤はもともともとはアナログレコーディングなので、そこから直にリマスタリングしたものと思われます。実はアナログテープにはCD規格の20万HZの上まで含まれているのだ 。

デジタルで最初からハイレゾ録音したソースで本領を発揮するが、通常規格のネット配信ダウンロードの場合でも、20000Kzより上の帯域があるかのな感じになるので、オーバーサンプリングしてくれているのではないかと思う。

ちなみに、私の利用パソコン用スピーカーは、BoseのComputer  MusicMonitorである。デジタルアンプ搭載で、上に述べたUSB入力専用プリアンプを通すと、ピュアオーディオも真っ青の音である。

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続きを読む "ハイレゾの音を聴いた" »

2013年2月12日 (火)

海外ミュージカルドラマ"SMASH"と「バクマン。」との共通項

私はアメリカのドラマシリーズはほどんど観たことがないし、全15話というボリウムに億劫さを感じてなかなか封を切らなかったが、一度観始めたら一気に惹きこまれてしまった。

物語は、マリリン・モンローの生涯を描くミュージカルの企画、オーディションから、練習の過程、度重なるストーリーや曲やキャストの交代・変更劇と、その過程で生じる、舞台裏やプライベートでの様々な人間関係のゴタゴタや愛の形をシビアな形で描いていく。

アイオワ育ちで秘めた才能を持ちつつもまだまだ未完成の新人、カレン・カートライトと、ミュージカル歴は長いものの主役級にはまだ届かないで来た実力派、アイヴィー・リンのどちらが主役を射止めるか?という競争の間に割って入って主役の座に据えられる有名女優レベッカとの間の三つ巴の争い。

プロデューサーや作詞・作曲家、演出家も様々な泥臭い人間関係の渦中にあり、ミュージカルの企画は絶えず崩壊の危険と隣り合わせである。

いわば「メタ・ミュージカル」といっていい音楽ドラマだが、得てしてこの種の作品は音楽や演唄する人物は「ホンモノ」にはかなわないというあら探しをし始めればキリが無くなる。日本で言えば「のだめ」のドラマや劇場版のもつ限界である。

ところが、このドラマシリーズの場合には、毎回溢れだす、ミュージカルの練習中や登場人物たちが歌い出す場面での歌い手や楽曲、ダンスを含めた演出の切れ味がたいへんなクオリティ(恐らく役者の多くは歌の吹き替えなしでここまでホンモノ!)であり、このドラマ自体が一流の制作スタッフと配役、贅沢な資金を投じて作られたものであることが一目瞭然である。

また、これは45分ものドラマ15回分をかけるからこそ可能な作りであり、長編劇場映画ではこの密度、人間関係の描き込みの深さは逆に出せないだろう。

日本の現状でこの水準のものを作るのはまるで不可能ではないかという絶望感(?)にも襲われるが、仮に可能であるとすれば、コミックの世界でだけだろう。

敢えて、唐突かもしれないものを引き合いに出せば、コミック制作過程とそれをめぐる人間関係自体をバトルものコミックとして連載できてきた「バクマン。」に通じるものがあるようにも感じた。

 ↓ 音楽集のみのCDも出ています。      

 

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2013年1月13日 (日)

宮崎哲弥氏、久留米に「たがみ書店」や「リズムレコード」がなくなったことを嘆く (再掲)

久留米青年会議所主催の、久留米出身の評論家、宮崎哲弥氏の講演会(正確にはパネルディスカッションと対談)、

「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」

面白かったので、早速速報を書きましょう。  

会場となった久留米のホテルの大広間は、開始30分前の段階でほとんど満席、主催者発表で660名。  

おおおおーっ、日本心理臨床学会大会でもここまで早々に人が集まってる催しはそんなにはないぞ!!   

いくら青年会議所とそのバックボーンにある商工会議所の動員力、そして宮崎氏に知名度があるとはいえ、福岡県南部最大の30万都市、久留米のパワーをこれだけ実感できたことは、帰郷してほぼ1年の間にはじめてのこと。早めに整理券予約をしておいてほんとうによかった!!  

宮崎さんは、久留米で生まれ、予備校時代までを久留米で育っている。私と2つ違いの方である。これまでも久留米での講演依頼もあったとのことだが、実際に引き受けたのは今回がはじめてとのこと。  

宮崎さんがマスコミの表舞台に登場したのは、オウム事件における若者心理について意見を求められることがきっかけだが、あの上祐氏も宮崎氏と同い年、今では久留米市に編入された地域の生まれである。

 「最近は政治や経済の評論家とみられてしまうことが多くなったけれども、もともとは若者文化問題や宗教問題から出発した存在に過ぎないので」

ということをまず最初に前置きされた上で、司会者に促されて、話は「地方分権」問題へとまずは向かいました。  

「東国原知事や橋下知事、全国知事会の発言や提言で、地方分権問題に関心が集まるきっかけとなることはいいことだが、今度の総選挙の争点として見た場合、果たして『地方分権』問題が一大論点とすべき事柄なのであろうか?
 まず優先すべきなのは、日本全体の景気底上げ対策であり、それが一定の効果を示さないうちに、単に地方に『権限』と『財源』の委譲を、今、行うだけでは、地域間の格差がひたすら広がるだけになる。地方分権そのものはこれから推進されていくのがふさわしいし、実際勧めていく潮流は動かないであろうにしても」

(司会者:国のそうした政策を単に待っているのではなく、地方の側からできることは何かないでしょうか?)

 「いったん景気の底上げがなされた後、それをどのように維持し、展開させるかは各地方の自己責任ということになるだろう。
 『内需拡大』という言葉がよく使われるけれども、地域内部における『内需拡大』のサイクル、つまり、その地域内での需要に応える形で、その地域で生産し、その地域で消費活動をするという良循環のサイクルが拡大・成長する必要がある。
 そのことが成立するためには、「ここ」にしかない魅力、言い換えれば、「ここ」に住まないと得られない「唯一性」のようなものが、住民に魅力として感じられる必要がある。  

 久留米もそうした地域自立性の高い経済圏として長年発展してきた歴史を背負っているはず。父祖から受け継いだそうした地域固有のアイデンディディをどのように展開していくかが肝心だろう」

*****

 話題はここで一度地域経済の問題を離れ、教育問題に転じることとなる。

今の時代ほど、世代ごとの情報環境が劇的な格差と隔絶を持つ時代は、かつてなかったと思う。

 私の久留米での中高生時代は、ちょうど、テレビゲームが、ゲーセンから家庭内ゲーム機へと一気に転換する時期と重なった。
 次の世代は、インターネットに接続されたパソコンによるコミュニケーションを身につけているという意味で、上の世代とは大きくコミュニケーション様式が異なっている。
 更に次の世代は、今度はケータイ文化という、大人から見るといよいよわからないコミュニケーション様式を備えている。
 これほどのコミュニケーション様式の世代感の隔絶は、人類史上かつてない次元のものなのではないか。
 この結果、家庭内の価値観伝達機能はほとんど機能しなくなってしまう危機に瀕している。
 以前ならば親の背中から学ぶ、ということがまだしも通用した。親と子の「個体間接触」から子供は学んだ。そして本やテレビを通して、親からの価値観とは異なるものを学んでいた。
 しかし現在の若者は、遠隔地のネット上の匿名の他者という、個としての存在がたいへんあやふやな存在に、あたかも身近な他者であるかのように依存しながら価値観を形成していく。
 単に背中を見せるだけの親など、価値伝達機能を果たす上では、存在しないのも同然なのである。
 これは子供との関係に限らない。自分から言葉でコミュニケーションをとろうとしなければ、相手にとって自分は存在しないも同然で、自分からどんどん離れていくことになりかねない、そんな時代なのではなかろうか」

 司会者から、倫理や道徳の問題について振られて、

 「『天知る、人知る、我知る』という言葉かある、『天』とは、お天道さまが見ているそ、ということで、『人』とは地域社会の目のこと。

しかし私は、 『人が止めるから駄目だ』だけでは今の時代不十分なのだと思う。
『そういうことをやっていて、おまえ自身が恥ずかしくないか』という個人倫理の形成が大事ではないか。個人倫理の形成は、個人としての自我形成と表裏一体のもののはずである。

 司会者から、現在の私たちの知識が情報の渦に巻き込まれている点について問われて、

マスメディアであろうと、ネットでの口コミであろうと、それを鵜呑みにしないことがまずは大事なのではないか。まずは疑ってかかること。この、疑ってかかる力が、今、弱まっている気がする。
 まずは自分の常識と照合すること。実体験と照合すること。今の時代、情報の渦の中で、何が実体験なのかわからなくなっているは確かだが、たとえ自分の判断がいろんな常識に毒されているとしても、人はそれを基に『健全な懐疑』をしていくしかないのだと思う。

 新聞に書かれていることであろうと、たとえ信頼できる親友が語ることであろうと、『何かこの話はおかしくはないか?』と違和感を感じたら、心の中でいじくりまわしてみることだ。

 多くの詐欺や悪徳商法の勧誘とは、そうした身近な人間への信頼感につけ込むものであることを思い出してみてもいいかもしれない。そのような、親しい間柄での対面的な人間関係ですら、自分で吟味していく必要があるのだ。

 そうした積み重ねが、個人として強くなる自我形成なのだと思う」  

・・・・・この部分なんて、私も、激しく同意!! の域ですね(^^)

*****

 ここから休憩を挟んで第2部、「久留米の地域、そして可能性」に入ります。

 司会者から、まずは、久留米の明治通りを中心とする旧市街地のさびれようについての言及がありました。

 久留米市の商業的中心は、かつては一面の水田とレンコン堀だった、合川地区の「ゆめタウン久留米」を中心とする、高速道路のインターチェンジ近くの、ショッピングモールの一群に、この30年の間に、見事に奪われているわけですね。

 こうした前提を聴衆がみんなわかっているという前提で、以下の部分をお読みください。

「私は高校時代まで、たがみ書店リズムレコード(共に明治通りに並行して今も存在する久留米最大のアーケード街、「久留米一番街」を代表する、久留米最大の書店とレコード店だった)に足繁く通っていましたが、もう今はないんですね。

 リズムレコードって、奥に扉で仕切られた、色々試聴できるクラシックコーナーがありましてね。私はそこに足繁く通って、店長にクラシック音楽の手ほどきを受けたんです」

 ・・・・・わ、私も同じです・・・・・
 きっと、2歳違いの私も、宮崎さんを宮崎さんと気がつかないまま、同じ店内で何回も遭遇しているはず・・・・

 「先ほども言いましたけど、まさにたがみ書店やリズムレコードには、この久留米にしかない固有の文化というものがあったと思う。そういう、他にはない、「ここ」にしかない、豊穣な経験の場となることが必要なのだと思います。

 ところが、今、地方で進んでいるのは、全国どこにでもあるような、メガ・ショッピングセンターができることなんですね。

 もちろん、コンビニ文化にもインフラとしての意味があります。どこに行ってもほぼ同じ品揃えの商品が手に入るということの。

 でもそれだけだったとしたら、なぜ『この』地域に住まうのか? という『唯一的なもの』がないままなんです。

 久留米に生まれ、成長し、死ぬことの意味と魅力が大事。そのためには、久留米の中で生産したものを久留米にいて消費することに意味を感じられないと。

 地方都市を単に「ミニ東京」化することばかりが進んで行っては、この町で生きていくことの意味がわからなくなる。そして、例えば福岡(市)に需要を奪われるばかりということになるわけですね。  

 結局、『制度的な』地方分権ばかりではなく、『マインドの』地方分権こそが本質なのだと思います。

 最近、プロ野球の球団も地域が応援するという方向が強まっています。若者音楽の分野でも、ミュージシャンが、有名になって、ヒットチャートに乗る様になっても、自分の拠点となる出身地域から離れないまま活動を続けるというケースが増えています。ヒップホップグループにも、「この町」を大事にするメッセージを発信し続けながら全国区になることが生じている。

 そうやって、自分の生まれ育った街から離れたがらない若い人たちが増えてきた。そういう若い子たちの後押しを地域がしていくことが大事で、そうした意味で地域の青年会議所の果たす『黒子』としての役割は大切だと思います。

 こうしたことをしていくためには、単なる利潤追求の市場経済原理のどこかで対抗していく必要も出てくるはず。でも、それこそが『地方主権』ということだと思う。

 そうでなければ楽しくない。この町にいて『楽しい』と思えるかどうか。主人公は一般の久留米市民なんだと思う。

 久留米で生まれたのが必然で、久留米で死ぬのが必然であると市民が自然に感じられるような地域づくりになることでしょう。

私も、引退したら久留米で死にたいと思うかもしれませんので、その時は不肖の息子をどうか迎えてくだされば」

・・・・・・久留米に30年ぶりに舞い戻った私の心に響く締めくくりでした。

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2012年12月28日 (金)

内田 日出海 著:「物語 ストラスブールの歴史」(再掲)

        5つ星のうち 5.0         EUの「要(かなめ)」の都市に到るまで、幾度となく「したたかに」変貌し続けた街の歴史を生き生きと解き明かす良著, 2010/6/9       
 

 フランス南部、プロヴァンス地方を舞台とした、短編集「風車小屋だより (岩波文庫 赤 542-1)」と、その中に収録された短編を戯曲化した「アルルの女 (岩波文庫)」 でも知られる、フランスの作家、ドーデの一番有名な作品は、実際には、ドイツとフランス、双方への帰属を繰り返したアルザス地方・・・その中核となる特権 的自治都市が「ストラスブール」であるが・・・を舞台にした「最後の授業」という短編だったろう(どうもドーデにはこうしたフランス「辺境地域」趣味のよ うなものがあったのではなかろうか? 

 「最後の授業」は、昔国語の教科書に掲載され、誰でも知っていた。本来、ドーデの短編集、「月曜物語 (岩波文庫 赤 542-3)」 に収録されている。しかし、あのストーリーで、普仏戦争に敗北して再びドイツ語圏に戻ることを嘆き悲しみ、ドイツ語を「汚らしい言葉」と侮辱し、「フラン ス万歳!」と黒板に最後に大書して立ち去るのは、確か、パリから派遣された教師ではなかったか? ところが、多くの住民たちが実際に日常話していたのは、 ドイツ語圏の方言という方がよほど適切な「アルザス語」だったのである。

 この点に注目すると、あの「最後の授業」という短編は、非常に「皮肉な」読解が可能な作品なのだともいえる。もっともドーデ自身はフランスで「学校教師」の経歴を持つので、「フランス万歳!」と大書した教師の側に己れを同一化していた可能性が高い。

  アルザス地域は、ドイツより遥かに中央集権的な国家、フランスに何回となく「領有」されつつも、容易には「同化」されないしたたかさを持っていた。少なく とも、ライン川がスイスにまで至る途中の「国際港」としての南北の主要交通・運送路としての意味を持ち、ウイーンとパリを結ぶ街道という陸路(おかげで、 マリー・アントワネットも、そして少し遅れてモーツァルトも、ストラスブールに滞在することになる)との「十字路」にストラスブールが位置する限り、ルイ 14世も、革命後のフランスも、ストラスブールにある固有の「特権」を与えざるを得なかったと言える。

 アルザス地方、特にストラスブールは、その意味で、フランスとドイツに挟まれ、歴史に翻弄された悲劇の地などでは決してない。むしろ、その固有の存在意義を両国に認めさせて「サバイバル」してきた、固有のアイデンティティを持った地域に他ならない。

 第2次大戦後、フランスに安定して帰属するようになって以降は、フランス語教育が浸透し、現在アルザス語の話者そのものは減少し続け、むしろ復興運動すら生じているらしいが、その件については本書では深入りしてはいない。

 しかし、現在欧州議会が置かれたこの都市の、そうした長年の「身の処し方」について、自身、ストラスブール大学で博士号をお取りの著者が、心を込めて、わかりやすく解説した、非常な良著であると思う。       

2012年12月17日 (月)

透徹した映像文学 -新海誠作品- (第5版)

「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」、一気に観ました(^^)

新海誠監督という名前は、私がアニメから身を引いていた時期にもなぜか目に入り、なんとなく私が非常に好む作風の傑作群ではないかという直感がありましたが、それが見事に当たってしまいした(^^)

三作ともに「星6つ」あげたくなる。アニメ史に残る傑作群ではないだろうか?

・・・・うん、こういうアニメが出てくる方向性をこそ、私は期待していた気がする。

三作に共通するのは、「隔てられた男女の絆」

そのピュアーで甘酸っぱい(でも少しビターな)描き方は気恥ずかしいくらいですが、十分にリリシズムに満ちた、「オトナの文学」している領域。

「ほしのこえ」はオリジナルバージョンで観ました。わすか24分で感動の渦に巻き込んでしまう密度はとてつもない域。

この作品とと、長編「雲のむこう、約束の場所」は、どちらも現代風の日常世界とSF的な別世界がミスマッチ的に共存している点で共通項がある。

特に後者は、ハードSF的な要素もあり、どこまでが夢の世界なのか、現実なのか交錯し続け、観ていて最初の方はそれに戸惑いますが、観ていくうちに謎は解けますね。かなり年季の入った「映画」ファンでないと一回観ただけでは読み解けないかも知れませんが(押井守さんの「イノセンス」に身を乗り出してハマれる人には何も抵抗ないでしょう)、絶妙の構成だと思います。いわゆる「セカイ系」の極みかとも思いますが。

一転して全60分の「秒速5センチメートル」は、「日常系」の何ともしっとりした恋愛もの。一番万人向けなのはこの作品でしょう。普段アニメを見ないオトナでも素直に感動する人が少なくないかと思います。

ハマる人は無茶苦茶ハマる。リアルでスレた現実を生き過ぎている人は、「何、これー?」かもしれないけど、村上春樹の叙情系の作品にハマれる人だと親和性がありそう。

あるアマゾンレビュアーの人は書いています:

「あなたも、心のかさぶたをはがしてみませんか?」

オムニバス形式をとっていますが、3話共に、男性主人公は同じ「遠野貴樹」で、ヒロインの方だけが入れ替わる。実はこの遠野という男性の「恋愛遍歴」ドラマとも言える気がする。

中学時代、高校時代、成人。両思い、片思い、婚約者/恋人との微妙な機微。

そして、「すれ違い」。

遠野って罪作りな男だと思いますが。

ある意味では、男と女の恋愛観の違いも浮き彫りにしてるかも。

男は、いつまでも初恋の女性の面影を追いかけるものだと思う(・・・私がそうなだけか?)

この作品にもロケットがモチーフとして登場せずにはいられないみたいですね(^^)。

****

全作通して、執拗なまでの鉄道へのこだわり。フルデジタルアニメ(あるいはそれに準じる)による透明で空気感に満ち、克明で繊細な日常描写・・・これ以上求めようもない、見事な水準というしかありません。

そして、この新海監督は、脚本から絵コンテ、背景美術、時には作詞まで自分でやってしまうマルチな作家能力。こういう人は宮崎駿しかいなかったのではないか。

この人の作品は「ゼロ年世代」に分類してもいいかと思いますが、こういう「大作家」をこれまで未見だったのは、何とももったいなかったな。

●秒速5センチメートル 予告編(公式)

●新海誠 CMインタビュー 2014,9,20

●【MAD】君の名は。の予告を新海誠作品で再編集してみた

●アニメ「君の名は。」完成披露試写会♬♪♭♯

●未来シアター 新海誠

この作品について、批判的見地から一番まとまったものを紹介すれば、

●新海誠の痛さ(1)懐かしがっているのは誰か?(蕩尽伝説)

といったあたりかと思う。

ただ、この人の現代社会についての見方も、もはやひとつのテンプレかと思う。この人もまた、現代社会の中で疎外され、行き場を見失い、アニメとかのフィクションに身を静める人種であることには変わりない。

いかに今の現実の中で、自分を見失い勝ちだとしても、単にそれを評論するのではなく、足を地につけ、感性を維持した形でそれと戦うことができるというのが私の信念である。

そして、徹底的に、自分の感性を真っさらにして、作品世界に思い切りどっぷりと身を委ね、ビターなものはビターに、リリックなものはリリックに、その作品ならではの味わいを味わい尽くしたいと思っている(もちろん、これらが交錯している場合もあるのだが)。

・・・だから、私は自分が観た作品をクサすことは滅多にない。

【追記】:

「言の葉の庭」観ました。素晴らしいですね。これまでのベスト!!

●Rain 言の葉の庭 ED 歌:秦基博 歌詞付き

【更なる追記】:

なお、「星を追う子ども」もすでに観ているのですが、宮崎駿先品へのオマージュという枠に縛られた作品だと思っています。

8月公開の長編、「君の名は。」は、予告編を見る限り、細田守作品に通じるギャグも散りばめた作品のようですが、まず失敗はしないでしょう。

●「君の名は。」予告編2(公式)

【追記】:「君の名は。」観ました。これまでの作品に比べると、幅広い層に受け入れられるのは当然!と思います。

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2012年12月15日 (土)

民族主義・ユートピア主義の超克(短縮して再掲)

私にとって、「成熟とは何か」と問われれば、答えは割とはっきりしている。

すでにこのブログでも何回か言及していることなのだが、 「自分のものの感じ方や判断の仕方が、実はある種の思い込みや先入観に基づくものではないかということに謙虚であり、以前の見解を修正したり撤回したりすべきと判断できたら潔くそれを実践すること」 .......である。

更にもうひとつ付け加えれば、  「およそ人間のシミュレーション能力というものには限界がある。自分がどこまで緻密にさまざまな可能性について仮説を立てたとしても、現実には必ず自分のシミュレーションを超えたような事態はあっさりと生じる。最善を尽くしてシミュレーションをしつつも、それすら覆されることを当然と考え、むしろ自分のシミュレーションを超えた事態に直面できることこそを「天が与えた祝福、成長の機会」としてうけとめることができる必要がある。でもこれは、最初から何もシミュレーションしないとのは、雲泥の差がある、現実への前向きで柔軟な姿勢である

・・・ということ。

さらに言えば、私の中には、ある種の「懐古的ユートピア主義」へのものすごい警戒心がある。

つまり、「昔はよかった。そこには調和的でよりすばらしい世界があった」「現在はそのことに比べると悲惨である」というタイプのものの見方への警戒心がある。

すべての「復古主義」をうさんくさいと感じているのだ。

 「今の日本では古き良き日本が失われた」 という言い方を私は基本的に好まない。

リアルな歴史は、ある意味でいつもすごく残酷ではないか。

戦乱になると武士たちが略奪の限りを尽し、婦女子は強姦して刺し殺すのがあたりまえだった時代。

自分の上司が死んだら「殉死」するのが美徳とされた時代。

飢饉になったら最悪の場合人間の肉すら食べた時代。

町のある一定の個所には斬首刑になった犯罪者の首が当たり前のようにさらされていた時代。

武士の機嫌を損ねたらちょっとしたことで、裁判すらなしに切り捨てられても誰も文句が言えなかった時代。

キリスト教の布教をちよっと前まで奨励していたのに、数十年後には一転して信仰を捨てなければ死罪になった時代。

口べらしのために生まれた子供をすぐに絞め殺したり、娘を女郎屋に売り飛ばした時代。

*****

日本でも、ちょっとした家柄であることを示すために、武家の系図はなぜかさかのぼるとたいてい源氏か藤原氏=まわりまわって天皇家の流れを組むことになっている。

実際に政略結婚でそういう古い家柄とのつながりで箔をつけた例もあろうが、たいてい、それ以前から、そういうご先祖様がいることになっているのだ。

これはヨーロッパでも似たようなもので、ホメロスの「オデュッセイア」に集約された古代ギリシアの歴史は、先住民族だった「トロイア人」に対して勝利を上げていくというとこそにみーんな収束していく。 (検索しているうちに出くわしたこの本未読ですが、ちょっと興味を感じる)

更に、ギリシャ=ローマ文化の中心地から支配されていた地域が独自の力を貯え、地中海沿岸地域と拮抗する政治力や武力を持つ国家として成長を始めると、必ず、「祖先はトロイ人の英雄だれそれ」という方向に年代記は脚色されることにより、「自分たちはギリシャ・ローマよりも実は古い歴史と文化の後継者なのだ」という逆転ホームランで権威付けしようとする。

イングランドやフランスのブルターニュ地方がその典型である。

不思議なもので、ヨーロッパには、自分たちを古代メソポタミアやエジプト文化の末裔であるという権威つけのパターンは存在しない。対ペルシャ、対エジプトという形で自らのアイデンティティを主張する伝統は、ユダヤ民族の独占物になっていたように思える。

要するに、「キリスト教的ヨーロッパ」の世界観においては、ペルシャもエジプトも「東国」ないし「アジアの一部」として一括して捕らえられてしまうのである。

こうなった背景のひとつには、中東諸国が、中世初期までにあれよあれよという間に、イスラームの政治的・文化的枠組みに包括されたものとして受け止められたことも大きいのだろう。

そして更に、ヨーロッパの場合には、ゲルマン民族の侵入「以前」の、地中海沿岸を除く、中・北部ヨーロッパの歴史の空白を埋めるために、「トロイア人」にとって代って、今度はケルト人」「ケルト文化」という概念が、全く都合のいいように埋め草として、ある時代から「忽然と」使われるようになる歴史がある。

純粋の「ケルト文化」として位置づけられるものがあるとすれば、一万数千年まえの青銅器文化の時代までさかのぼるしかないのに.....である。

スコットランドの文化が、独自のアイデンティティをもつものとして称揚されはじめるのは、何と、スコットランドが実際にイングランドに政治的に統合された1707年以降のことである。単なる「地酒」としてそれまでは外国人に見向きもされなかった「スコッチ・ウイスキー」がひとつの国際的ステータスを徐々に確立していくのはこれ以降の時代である。

それどころか、今や「スコットランド」のイメージの典型となっている「タータン・チェック」は、実は昔から織物が作られているヨーロッパ地域では、最もシンプルな織り柄として広範な地域で作られていた模様であるに過ぎないし、バグパイプにしても、ヨーロッパのいろんな国で中世から使われていた楽器で、別段スコットランド由来でないことは、西洋の古い絵画や音楽の歴史をひも説いた人には周知の事実。

さらに言えば、あの男性の着用するキルトというスカートめいたもの(現在のファッションの世界では意味が拡張されていますが)は、実はイングランド人が、スコットランドの自分の鉱山の採掘所で労働者の作業着として便利なので「発明した」品が、比較的短期間に、まずは他の類似の現場にも「便利だから」という理由で広がっていくという歴史の浅さしか持っていない。

それらがスコットランド民族のアイデンティティの象徴であるかのように「普及する」きっかけは、イングランド(グレート・ブリテン)王ジョージ4世が、1822年(!!)に、イングランド王としては数代ぶりにスコットランドに公式に行幸する際に、その公式行事のイベントの総プロデューサーとなった、大作家、ウォルター・スコットが、ジョージ4世に、タータンチェックのキルトといういでたちで行幸させ、公式行事に参加する貴族たちにもこのスタイルでレセプションに現れるように「要請した」ことがまんまとあたって、タータンチェックとキルトの大流行が中流階級以降に一気に生じて以降のことである。

「氏族ごとにはるか昔から受け継がれたタータン・チェックの柄がある」という「伝統」も、実はこの時を境に、すでに産業革命の流れに乗って紡績工業が発展し、仕立て屋が商売繁盛させるためのセールス・トークとして「ねつ造された」過去の歴史ということになる。

ヨーロッパの民族衣装における地域性というのも、実は、18世紀に勃興した「民族主義」という「新しい」潮流と、産業革命によって衣類や織物が量産できるとうになってから、はじめて「実現された」商業主義の出会いの産物ということになるらしい。

それ以前は、一般庶民は、ヨーロッパのどこに行こうと似たり寄ったりの、「貫頭衣」のようなワンピースに近いものを着用していたにすぎない。布地を作ること、手に入れることそのものがたいへんな時代の庶民(特に農民)の衣服なんてそんなものである。

*****

そもそも「民族主義」は、あくまでも、近世以降、ヨーロッパ列強による帝国主義的な覇権の争いの中で、それに屈した地域の中ではじめて形成されてくるものなのである。

しかもその出発点は、むしろ征服した側の民族や国家の側からの一種の懐柔策、あるいはいわば「辺境ロマンチシズム」のファンタジーのようにして形成され始める。

征服された側の人たちがそれを自分たちのアイデンティティとして積極活用しはじめた後で、支配者側は、大慌てでその民族の象徴の文化....もとはといえばプロデューサーは自分たちなのに.....の弾圧をはじめる。

その時点で、古代からの誇り高き民族の「神話」が、あたかも昔からの言い伝えのようにして歴史の断片から半ば「ねつ造され」ることになる。

そもそも「国民国家」という概念そのものが、いわばフランス革命以降、18世紀以降に成立するものであるにすぎない。

フランス革命あったればこそ、神聖ローマ帝国に属する小さな領邦国家群にすぎなかった地域に「ドイツ民族主義」が勃興する。それまでは、ハプスブルグ家をはじめとするヨーロッパの王室の公用語は、フランス語だったのである。そういう中で、ドイツ・ロマン主義が興隆するし、長らく忘れ去られていた「ニーベルンゲンの歌」(ワーグナーの「ニーベルングの指輪」はその焼き直し.池田理代子さんのコミック版があるとは知らなかった)も「再発見」される。

グリム兄弟は童話集を出版するが、実は童話集の多くの素材が、実際にドイツの民衆の言い伝えを採取してまとめられたというのは真っ赤な嘘で、せいぜい、貴族の娘たちあたりから聞いた話にグリム兄弟が大幅に創作を加えたのが真相らしい。

「赤ずきん」にしたところで、長らく、より成立年代が古い、シャルル・ペロー作のフランス語版の童話の方が、より古い「民俗学的」採集にもとづく古い形とされたグリム童話版の焼き直しにすぎない長年思われていたが、実際にはペロー版の方が早く成立し、それを「脚色」したのがグリム兄弟でなかったか、という方向に学説は逆転して動いているようである。

グリム兄弟は、実際、その後ドイツ語の純化をすすめる「国家政策」に大きな働きを果たすのだが。

同様のことは、ゲール語=ケルト文化固有の「古代叙事詩」としての「歴史的大発見」とされ、ロマン派の文学や劇音楽の運動で、国境を越えて多くの作品に影響を与えた「オシアン」において、「これは民俗学的フィールドワーク」の産物ではなく、古代ゲール語から「翻訳」したジェームズ・マクファーソン自身が、周囲のスポンサーの期待に応えるために思わずやらかしてしまった、大部分が「創作」にすぎないものはないかという嫌疑がかかり、今日ではそちらの説の方が有力で、いつの間にか岩波文庫からも「オシアン」の翻訳は消えてしまい、今や古書市場ですら見つけるのがかなり困難な作品になってしまった。

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いずれにしても、近代にいたる以前は、戦争において、兵士とは、金を稼いだり戦利品(人間も含む!!)を獲るために、あるいは、むりやり徴用されて(場合によっては、兵士を集めるために「意図的に」借金の返済という状況に騙されて追い込まれて)集められた兵士が、領主ないし傭兵隊長(あるいは奴隷にとっての「市民」)の命令に従い働くに過ぎない存在であり、「国のため」に戦う(ないし国の現政権打倒のために)戦うというイデオロギーそのものが、近代の産物であるにすぎないのである。

そういう意味では、「『フランスを』救うために」戦ったジャンヌ・ダルクなどは中世の「異端児」そのものであり、現実には、歴史的経緯の上でも、実際の政治情勢の上でも異様なまでに複雑に入り組み、いとも簡単に「寝返り」を繰り返した、イギリスとフランスの諸侯の政治ゲームに利用され、スケープゴートにされるのは半ば宿命的だったともいえる。

百年戦争も、「だらだらと」続いたのは、究極には「国」と「国」とのたたかいではなく、地理的に現在のフランスとイギリス(イングランド)にあたる地域の諸侯の、果てしない「合従連衡」の時代としかいいようがないからでしょう。

 そして、その後の時代を含めて、いかなる時代も、「純粋な愛国心」の持ち主というのは、「少数派の変人」であったに過ぎないともいえる。私利私欲と支配のためか、背に腹は代えられずに日々の糧を得るためか、煽動者であることそのものを生きるか、扇動されることを「消費」する、その時点ではいわばローマのコロセウムの観客であるに過ぎないか、徴用され、支配され、搾り取られ、犯され、人殺しをさせられ、殺されたり不具になるまで支配者の犠牲になるか。それだけである。

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このようにして、「我々は過去に素晴らしい文化を持っていたんだ」という伝統主義そのものが、むしろ後の時代にねつ造された「ユートピア」を過去に投影したものにすぎない、ということは、世界的な現象として残念ながらかなりの程度見られる。

おそらく、日本国内の「固有の地域文化」「伝統」といったもののかなりの部分にも、そうした面があるのは、残念ながら事実だろう。

わが故郷、久留米を代表する名産品、人間国宝の機織りを輩出した「久留米絣」は、ほんとうに幕末ごろに井上伝というひとりの女性の創意工夫の中から生まれた、比較的歴史の新しい「久留米の伝統工芸」であるにすぎないことは、幸いにして地元では小学生でもきちんと学んでいる(はずである)。しかし、ほとんど同時代的に、絣の製法は、日本各地にうまれたものというのも現実なのである。

福岡の「黒田節」と、雅楽の「越天楽」そして、「君が代」が、基本的には同じ系列の流れにある可能性が高い。

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その一方、私は未来を楽観する「予定調和的進歩主義」の持ち主ではありません。また、あるひとつの技術やメディアの登場が、人間の人間性を一層すさんだものにして、自然破壊を広げ、人心をすさませ、人類の滅亡を早め、子供の教育にマイナスになる、式の論調は基本的には「大嫌い」です。

たとえば、私のようなカウンセラーは、携帯電話の普及によって、家族や職場の人たちのことをクライエントさんが気にせずに申し込んだり、打ち合わせができるという点ではむしろほっとしています。

はっきりいって、ネットや携帯電話の発達によって、以前より「構造化された」カウンセリング関係の維持が難しくなったと感じているようなカウンセラーは、そのカウンセラーの方が携帯やネットという媒体の活用法について未熟な水準に甘んじているだけか、あるいは、クライエントさんとの信頼関係を、一定の節度のもとに形成できない程度の、「優柔不断な未熟さ」にとどまっているだけかと思います。

なるほど、ネットにはさまざまな誘惑の火種があります。

しかし、リアルワールドでも、たとえば家に押し掛けるセールスマンやギャッチセールス、アイスクリームをわざとくっつけておいて親切を装うスリのグループや、荷台に乗せたままの客の手荷物を渡さないうちに走り去るタクシーの運転手、通常の電話での勧誘、いや、会社のビジネスにおけるフェイス・トウ・フェイスの交渉の中ですら、いくらだって詐欺まがいの勧誘の魔の手はあって当然ではないでしょうか?

実は、そうした連中の中から相手の本性を見抜き、「そうはいきませんよ」とやんわりとうまくけん制して相手にその気を失わせたり、いざとなれば強い態度で拒否したり、次の約束をすっぽかしたり、無視したり、まっしぐらに逃げる!! などの眼力と実践的対処法の育成という点では、「メディアが何であれ」基本的には同質のもののような気がします。

(《註》:ここでいう「メディア」とは、「マスメディア」とか「通信手段」いう意味にとどまらない。ここでは、直接の面と向かったやりとりすら含む、相手との交渉や出会いのchannelの様式全般をさす。"medium"という言葉本来の意味に戻る。だから「媒介なし」とか「偶然出くわす」も「メディア」の「一様式」である)

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人間って、新しい技術やメディアには、勝手に、バラ色の未来か、堕落させる誘惑の「どちらか」を見てしまいやすいものだと思います。

あるいは,過去の伝統や、昔ながらの失われた生活様式に、今は失われた「人間性」とか、残酷さ、「野蛮さ」の「どちらか」を見てしまいやすいものだと思います。


そして、いつの時代も、その時点での「現在」の視点から、その両方を繰り返して来たのです!!

しょせん、私にとっても、インターネットは「ただのメディア」です。インターネットを使う方が余計にもうかるだとか全然思っていない。

儲けのうまい奴は、どんな「媒体」を活用してもうまいし、「うまくなる」し、得てして、最後にはそのことに溺れて「没落する」のではないか

そして.....地道に普及させるしかない対象は、ネットを通しても地道にしか広がらないと思います。

およそすべての職業、いや、すべての媒体、すべての制度が、何か他のものよりも「便利だ」とか「効果的だ」と思い始めた瞬間に陥る悪魔の誘惑です。

実際、私もネットと出会う前は、雑誌への投稿魔でした。実際に掲載されるまでかなりの修練が要りましたが。

できるのは何か? 自分の「現場」という、てこの支点を立脚点として、自らの限界を真っ正面から見つめつつ、創意工夫を重ねて行動し、声をあげていくことでしかない。

*****

少なくとも、私は、 「ドイツ文化固有の」フォーカシングの在り方、だとか、そんなことがフォーカシングの国際的な場で論じられたりテーマになったことがあるなどとは記憶しません。

(後記:南米とかでは国を超えた独特のフォーカシング・コミュニティがあるようです)。  

まずは「あなたの」世界を作ることを。

「日本人」であることは、あなたのアイデンティティの構成要素の一部であるに過ぎない。

どうせあと、50年もしたら、日本も、少なくともアジアのいろいろな国の出身者が共存する社会になるでしょう。EUならぬ「アジア共同体」の一部として、共通の貨幣を使っているかもしれない。

そういう時に外国からの移住者を排除するための極右政党の人身をまとめるためにフォーカシングが用いられていないことを心から祈るものであります(^^;)

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●参考資料

原聖/「<民族起源>の精神史 -ブルターニュとフランス近代-」) 「高橋哲雄/スコットランド 歴史を歩く」 「シュリーマン旅行記清国・日本」

ハリー・ レヴィン/「ルネッサンスにおける黄金時代の神話」

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トロントだより

  • 050601_0957
     The Focusing Instituteの第17回国際大会(2005/5/25-31)の開かれた、カナダ、トロントの北の郊外(といっても100キロはなれてます)、Simcoe湖畔のBarrieという街に隣接するKempenfelt Conference Centreと、帰りに立ち寄ったトロント市内の様子を撮影したものです。

淡路島縦断の旅

  • 050708_2036
     「フォーカシング国際会議」が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されます。
     このフォトアルバムは、その開催候補地の淡路島を、公式に「お忍び視察」した時の旅行記(だったの)です(^^)。
     フォーカシングの関係者の紹介で、会場予定地の淡路島Westinという外資系の超豪華ホテルに格安で泊まる機会が与えられました。しかし根が鉄ちゃんの私は、徳島側から北淡に向かうという、事情をご存知の方なら自家用車なしには絶対やらない過酷なルートをわざわざ選択したのであります。
     大地震でできた野島断層(天然記念物になっています)の震災記念公園(係りの人に敢えてお尋ねしたら、ここは写真撮影自由です)にも謹んで訪問させていただきました。
     震災記念公園からタクシーでわずか10分のところにある「淡路夢舞台」に、県立国際会議場と一体になった施設として、とても日本とは思えない、超ゴージャスな淡路島Westinはあります。

水戸漫遊記

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     友人と会うために水戸市を訪問しましたが、例によって鉄ちゃんの私は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」に乗れることそのものを楽しみにしてしまいました(^^;)。
     仕事中の友人と落ち合うまでに時間があったので、水戸市民の憩いの場所、周囲3キロの千破湖(せんばこ)を半周し、黄門様の銅像を仰ぎ見て見て偕楽園、常盤神社に向かい、最後の徳川将軍となる慶喜に至る水戸徳川家の歴史、そして水戸天狗党の反乱に至る歴史を展示した博物館も拝見しました。
     最後は、水戸駅前の「助さん、格さん付」の黄門様です。
     実は御印籠も買ってしまいました。

北海道への旅2005

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     日本フォーカシング協会の年に一度の「集い」のために小樽に向かい、戻ってくる過程で、他の参加者が想像だに及ばないルートで旅した時の写真のみです。かなり私の鉄ちゃん根性むき出しです。  表紙写真は、私が気に入った、弘前での夕暮れの岩木山にしました。

神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

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