報われた思いと、怪訝な思い。
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「自分たちだけが理性的でロジカルで、その思考の道筋を取って行けば、相手も自分たちと同じところにたどり着くはずだ・・・・・みたいな調子の人たちは、ちょっとねえ・・・」
私も賛成である。
私は「啓蒙」という言葉を好まない、というと、その人も「私も嫌いな言葉だ」と頷いた。
「無知蒙昧な」人たちを「啓発してあげる」という、すごい「上から目線」だから。
そして、そこまでいちいち「仮想敵」を作らなくてもいいのに・・・・と、思うことがある。なぜそこまで「野心的」になるのか? 「権力志向に」なるのか? 「党派的」であり、なおかつ「党派的覇権」を求め、他のグループに対して排除的な態度をあからさまにするのか?
あなたがたはそこまで「不当に」迫害され、抑圧され、疎外されてきたのか?
もっと慎ましやかに存在を示していたって、その持ち味に気がつく人は気がつくのである。むしろ、そういう静かに存在を示している人の方が、人はその人に「倣(まね)ぶ」心境に自然と到達することがある。
例えば、自分たちは「実証科学」である、でもあの連中は「アート」だ、という十把ひとからげもどんなものでしょう?
何かふと、そうやって「自分たちだけが正しい」みたいにかたくなに主張するから「こそ」、煙たがられ、遠くから眺められるみたいになってはいまいか、そういうのを社会心理学で「自己成就的予言」っていいませんでしたっけ? そこに生じている「認知と行動と相手からの反応の悪循環のサイクル」って何なんでしょうね?・・・・・などとおせっかいにも言いたくなるのである。
何か、そのへんで「戦略的に見ても」、何か賢くない。
その「中華思想」ぶりが敵を作っているんだけどな。
・・・・・以上、何より自戒を込めて。
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●土居健郎さんが死去=「甘え」の概念提唱(時事ドットコム)
========引用はじめ=======
日本人の心理を説明する「甘え」の概念を提唱し、さまざまな分野に影響を与えた精神医学博士の土居健郎(どい・たけお)さんが5日午後3時27分、老衰のため死去した。89歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は長男望(のぞむ)さん。
東大医学部卒。米メニンガー精神医学校に留学し、日米の人間の行動様式や心理状況の違いに着目した。帰国後は東大教授や国際基督教大教授、国立精神衛生研究所所長を歴任した。
1971年に発表した「『甘え』の構造」は国内で140万部を超えるベストセラーとなり、数カ国語に翻訳された。日本人特有の「甘え」をキー概念として精神分析したもので、政治学や社会学、文化人類学などの諸領域に影響を与えた。
近年は、「甘え」が必ずしも日本人独特ではなく、ある程度普遍的なものではないかという考察に達していたという。(2009/07/06-13:00)
========引用おわり=======
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
このことはこのブログでもこれまで言及したことがあったかと思いますが、土井先生の「甘え」概念は、その発表以来、「甘え」という言葉だけが独り歩きし、土居先生がそこに込めた含蓄は、的確に理解されないまま今日に至っているように思えます。
つまり、日常語としての「甘え」のことと安易に同一視されてしまい、なぜ、土井先生が「 」つきで、『甘え』と表記したのかということがすっ飛んでしまったままだと思うのです。
私なりの理解を解説すると、土井先生の言う『甘え』とは、
「自分の中に生じてくる欲求を、自分から主体的に相手に言語的に明確に伝達することをしないまま、気持ちを『汲んで』もらい、『察して』もらおうとする、他者との関係性の様式」
を指します。
つまり、例えば、子供が、デパートのおもちゃ売り場で、「○○が欲しいよう!!」などと叫びながら、床に根っころがって泣き叫んでいたとしますね。これは、日常語で言う甘えではあっても、土井先生が言わんとした『甘え』には、必ずしも該当しないのではないかと思えます。
同じシチュエーションでいえば、デパートで、おもちゃ売り場に近づいた時に、子供が、何とはなしにおもちゃ売り場の方に目を向け続ける。親はそれを「察して」、おもちゃ売り場の辺りをうろついてあげる。
でも、子ども自身は、自分からは「これが欲しい」とすらなかなか言い出さない。子供の視線や表情を観察していた親のほうから、「これが欲しいの?」と言い出して、子供ははじめて、遠慮がちにうなづく。
・・・・・もし、こうした流れだったら、それは、土井先生が言わんとした意味での『甘え』に非常にぴったりした状態ということになります。
ある観点からすると、自分から主体的・能動的に、アサーティブに一定の現実吟味を持って)甘えるだけの自我を獲得したら、その人は、土井先生が言わんとした意味での『甘え』の段階を卒業したことになる・・・・というパラドクスがあるわけですね。
*****
土井先生の『甘え』理論を国際的に紹介したのは、ハンガリー出身のイギリスの精神分析医、マイクル・バリントです。この事実は専門家に幅広く知られていても、、バリントが土井生の『甘え』理論を紹介する際に用いた文言を実際にお読みの方は少ないと思いますので、その箇所のひとつから抜粋してみましょう。
========引用はじめ=======
人間がそういう(『甘え』たい)場合にとる態度は西洋人もみんな知っているものばかりだが、西欧では手軽な単語では表現できず、例えば「思い切り甘えたい気持ちを出してはいけないと思い、自分の中に精神的苦痛(恐らく自虐的苦痛)を鬱積させたために、口を尖らせて仏頂面をしている」などといった複雑な句を用いなければならない。
========引用おわり=======
(以上、バリント「治療論からみた退行」(中井久夫訳) 邦訳p.99)
上記の引用内の例えで、長々と語られている心の状態を日本語で表現しようとすれば、「(甘えを押さえつつも)『すねて』いる」といえば済ませられることになるわけですね。
『甘え』にあたる言葉は日本語以外にもあることが様々に論じられていますし、先ほど述べた「自分の欲求を他者に察してもらい、かなえてもらえたい衝動」ということだけを取り出せば、例えば生まれたばかりの赤ん坊は、泣くという行為から、養育者が、何がどう不快でどうして欲しいのかを「読み取り」、ビオンふうにいえば「もの思い(reverie)」して、かなえてもらうことによってはじめて欲求がかなえてもらえるわけです。
また、人の中には、幾つになっても、自ら語らずとも、相手に自分の気持ちを察して欲しいという思いはあり、そうした思い全体を「未成熟な」ものだとみなすのは、明らかに行き過ぎでしょう。自分の欲求を自分の内部で冷静に客観的に吟味し、意識化した上で、言語的にアサーティブに伝える形で人とコミュニケーションするあり方のみを理想化し過ぎになるのも、「独立した自我を持つ人間」というものについての過剰に理念化したなファンタジーであると私は考えます。
つまり、文化や言語を超えて、土井先生の言わんとした『甘え』の問題は普遍的であるということは間違いないので、確かに、単なる「日本人論」としての『甘え』論は、その歴史的役割を終えつつあるのかもしれません。
****
しかし、日本では、今でも、さまざまなメンタルな問題について日常的に批判的に語られる際に、何かというと「甘えている(のではないか)」という言葉が登場します。「甘え」という言葉が日本人の集団的な超自我に深く食い込んだ特殊な含蓄があり、安易に振り回されていること、そして病める人を悩みを深める言葉であることには変わりがないといえるでしょう。
更に言えば、最近流行の「KY=空気(気分)が読めない」という言葉ですが、この言葉は、「自分や集団が暗に求めていることを察して、気持ちを汲んでふるまってくれない」相手への批判的レッテルだといっていいでしょう。
つまり、若い世代を含めて、日本人全体がが未だに「『甘え』の構造」そのものの社会性に身を浸しているからこそ、「KY」なる言葉が、「甘えの通じない人たち」に浴びせかけられているのではないかという視点はあっていいはずだと思います。
つまり、「KY」という言葉を振り回す人たちは、実はオールド・タイプの日本人そのもののままなんだと私は思っています。
物言わずとも相手が自分の気持ちを察して対処してくれることを当然のものとして期待し続けていることには変わりがないのですから。
ぶっちゃけていえば、集団の中で、周囲に迎合しない人には、今や情け容赦なく「KY」という言葉が降り注ぎかねない。
安易にKYを振り回す人はまだ成熟した大人ではない。
ほんとうの大人とは、KY気味の人にすら、自分から働きかけて、コミュニケーションして、関係を作って、相手から成熟した力を引き出す人たちのことではないかとも思えます。
*****
もとより、これだけはたいへん一方的な言い方でしょうね。
そうした人たちが「KYな」人たちを責めたくなるのは、自分たちが、周囲の人たちや、親や、既成の大人社会から、「はっきり言葉で言われなくても、気配を察して、場の空気に反しない言動を取るように」子供時代から言外の圧力で求められ続け、それにしぶしぶ従ってきたのに、そういう自分たちが従ってきた規範を平然と踏み越えていくかに見える人たちに遭遇すると、むかついて、押さえ込みたくなるという側面があるのだと思います。
更に言えば、自分が「周囲の気分を読む」ことによってはじめて自分に許容されるようになった地位や集団内での安定、そして、集団そのものの安定を、そうした「KYな」人たちが崩してしまうことへ不安の反映ともいえるかもしれません。
人の気持ちを汲み取ろうとするスキルは、単に相手を怒らせないとか、むかつかせない、波風立てないということではないはずです。もっと能動的で個別的な「相手の身になる想像力」であり、相手との相互コミュニケーションのスキルの向上だと思います。
その点から見ても、「KY」という言葉を安易に連発する人たちに、果たしてほんとうに、人の「気持ち汲んだ」コミュニケーション力を持っているのかどうか、自問してみていただきたい思いがあります。
KYな人たち=困ったちゃん、KYではないこと=社会性があること
・・・・という論調に、昨今の日本が染まっていて、一億総「KYでなくなろう」キャンペーンみないな風潮に違和を覚えていたので、これを機会に書かせていただきました。
・・・・・恐らく、こうしたあたりにこそ、土井先生の『甘え』理論が示唆した問題が、『甘え』という概念そのものは、今後使われなくなっても、今の時代のホットなテーマであり続けるためのヒントがあるのだと思います。
*****
なお、「場の空気を読めない」かに見える人たちを、場の空気に「鈍感」だとか「無関心」だととらえるのは間違いです。そうした人たちは、むしろ場の空気を「過剰に」全身で感じ過ぎているために、それを的確に距離をとって、俯瞰して、味わった上で、適切な「読み取り」を確立できないのだという方が、現場臨床的には的確のことが少なくないはずです(増井武士先生なら、そのようにおっしゃるでしょうね)
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今日は九大西新パレスでの北山修先生の講演会に行ってきた。
福岡市早良区西新は、私の出身校、西南学院高等学校があるところ。

約四半世紀ぶりに行ってみたら、当時のチャペルは「西南学院博物館」の名の元に残っていたけど、校舎は少し離れた場所に移築になっていた。
大正時代に作られた、このチャペルのレンガ造りにデザインを一致させる形で、周囲の西南大学関連の施設がみんな同じようなレンガ造りの外観に統一していたのには感心した。
*****
講演会の内容については後日ご紹介するとして。
講演会が終わった後、久しぶりに百道(ももち)の浜まで歩いてみようかと思った。
私が在学していた当時は、高校のグラウンドのちょっと外まで出ると砂浜だった。
それがそれから15年もたたないうちに、海岸線は埋め立てられて、ウン百メートル先になり、ベイエリアのビル群の向こうに人工海浜が作られるという「福岡市のお台場」というしかない土地に変貌していた。

↑このグラウンドの向こうの松林の向こうがすでに砂浜だったと思いねえ。
その砂浜に、大相撲九州場所の時は各部屋の合宿所があり、お相撲さんたちが稽古をしていて、高校の校舎の周りの道でよくすれ違ったものである。
(遠くに見えるタワーがベイエリアにそびえ立つ福岡タワー。タワーのすぐ右隣(手前の大きいのに非ず)高層ビルがテレビ西日本。フジテレビ系列なので、そこまでお台場に似せるか!! といいたくなるくらいだが)

↑今度は海岸側からみたテレビ西日本社屋と福岡タワー。

↑人工海浜の突端にある、海の中道海浜公園行きの観光船乗り場(マリゾン)より振り返る形で撮影。すでに結構海水浴客があふれていました。ドーム状に見える大きな施設は、もちろんソフトバンクホークスの本拠地、福岡ヤフードームである。その手前に鋭くそそり立つのがシーホークホテル。
●far away(王子のきつねOnline)
↑このページに行くと、航空写真で、どのくらい海岸線が沖に移ったかわかります(^^)
この写真の段階ではまだ福岡タワーも人工海浜もできていません。
↓ですから現在の地図をおまけします。
大きな地図で見る
浜崎あゆみの出身も早良区でして(西新より少し海から離れた六本松地区。私が高校を卒業した直後にayuは生まれている)、幼い日に離婚をきっかけに離れ離れになった父親との数少ない記憶の地が百道の浜だとのこと。
実は、年齢的に見て、ayuの幼児期の百道の浜は、埋め立てより前の「昔の」海岸線だったはず・・・・ということにはなるのですが。
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さて、先日の記事でご紹介した、久留米青年会議所主催の、久留米出身の評論家、宮崎哲弥氏の講演会(正確にはパネルディスカッションと対談)、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」、面白かったので、早速速報を書きましょう。
会場となった久留米のホテルの大広間は、開始30分前の段階でほとんど満席、主催者発表で660名。
おおおおーっ、日本心理臨床学会大会でもここまで早々に人が集まってる催しはそんなにはないぞ!!
いくら青年会議所とそのバックボーンにある商工会議所の動員力、そして宮崎氏に知名度があるとはいえ、福岡県南部最大の30万都市、久留米のパワーをこれだけ実感できたことは、帰郷してほぼ1年の間にはじめてのこと。早めに整理券予約をしておいてほんとうによかった!!
宮崎さんは、久留米で生まれ、予備校時代までを久留米で育っている。私と2つ違いの方である。これまでも久留米での講演依頼もあったとのことだが、実際に引き受けたのは今回がはじめてとのこと。
宮崎さんがマスコミの表舞台に登場したのは、オウム事件における若者心理について意見を求められることがきっかけだが、あの上祐氏も宮崎氏と同い年、今では久留米市に編入された地域の生まれである。
「最近は政治や経済の評論家とみられてしまうことが多くなったけれども、もともとは若者文化問題や宗教問題から出発した存在に過ぎないので」ということをまず最初に前置きされた上で、司会者に促されて、話は「地方分権」問題へとまずは向かいました。
「東国原知事や橋下知事、全国知事会の発言や提言で、地方分権問題に関心が集まるきっかけとなることはいいことだが、今度の総選挙の争点として見た場合、果たして『地方分権』問題が一大論点とすべき事柄なのであろうか?
まず優先すべきなのは、日本全体の景気底上げ対策であり、それが一定の効果を示さないうちに、単に地方に『権限』と『財源』の委譲を、今、行うだけでは、地域間の格差がひたすら広がるだけになる。地方分権そのものはこれから推進されていくのがふさわしいし、実際勧めていく潮流は動かないであろうにしても」
(司会者:国のそうした政策を単に待っているのではなく、地方の側からできることは何かないでしょうか?)
「いったん景気の底上げがなされた後、それをどのように維持し、展開させるかは各地方の自己責任ということになるだろう。
『内需拡大』という言葉がよく使われるけれども、地域内部における『内需拡大』のサイクル、つまり、その地域内での需要に応える形で、その地域で生産し、その地域で消費活動をするという良循環のサイクルが拡大・成長する必要がある。
そのことが成立するためには、「ここ」にしかない魅力、言い換えれば、「ここ」に住まないと得られない「唯一性」のようなものが、住民に魅力として感じられる必要がある。
久留米もそうした地域自立性の高い経済圏として長年発展してきた歴史を背負っているはず。父祖から受け継いだそうした地域固有のアイデンディディをどのように展開していくかが肝心だろう」
*****
話題はここで一度地域経済の問題を離れ、教育問題に転じることとなる。
「今の時代ほど、世代ごとの情報環境が劇的な格差と隔絶を持つ時代は、かつてなかったと思う。
私の久留米での中高生時代は、ちょうど、テレビゲームが、ゲーセンから家庭内ゲーム機へと一気に転換する時期と重なった。
次の世代は、インターネットに接続されたパソコンによるコミュニケーションを身につけているという意味で、上の世代とは大きくコミュニケーション様式が異なっている。
更に次の世代は、今度はケータイ文化という、大人から見るといよいよわからないコミュニケーション様式を備えている。
これほどのコミュニケーション様式の世代感の隔絶は、人類史上かつてない次元のものなのではないか。
この結果、家庭内の価値観伝達機能はほとんど機能しなくなってしまう危機に瀕している。
以前ならば親の背中から学ぶ、ということがまだしも通用した。親と子の「個体間接触」から子供は学んだ。そして本やテレビを通して、親からの価値観とは異なるものを学んでいた。
しかし現在の若者は、遠隔地のネット上の匿名の他者という、個としての存在がたいへんあやふやな存在に、あたかも身近な他者であるかのように依存しながら価値観を形成していく。
単に背中を見せるだけの親など、価値伝達機能を果たす上では、存在しないのも同然なのである。
これは子供との関係に限らない。自分から言葉でコミュニケーションをとろうとしなければ、相手にとって自分は存在しないも同然で、自分からどんどん離れていくことになりかねない、そんな時代なのではなかろうか」
司会者から、倫理や道徳の問題について振られて、
「『天知る、人知る、我知る』という言葉かある、『天』とは、お天道さまが見ているそ、ということで、『人』とは地域社会の目のこと。しかし私は、『人が止めるから駄目だ』だけでは今の時代不十分なのだと思う。『そういうことをやっていて、おまえ自身が恥ずかしくないか』という個人倫理の形成が大事ではないか。個人倫理の形成は、個人としての自我形成と表裏一体のもののはずである。
司会者から、現在の私たちの知識が情報の渦に巻き込まれている点について問われて、
「マスメディアであろうと、ネットでの口コミであろうと、それを鵜呑みにしないことがまずは大事なのではないか。まずは疑ってかかること。この、疑ってかかる力が、今、弱まっている気がする。
まずは自分の常識と照合すること。実体験と照合すること。今の時代、情報の渦の中で、何が実体験なのかわからなくなっているは確かだが、たとえ自分の判断がいろんな常識に毒されているとしても、人はそれを基に『健全な懐疑』をしていくしかないのだと思う。
新聞に書かれていることであろうと、たとえ信頼できる親友が語ることであろうと、『何かこの話はおかしくはないか?』と違和感を感じたら、心の中でいじくりまわしてみることだ。
多くの詐欺や悪徳商法の勧誘とは、そうした身近な人間への信頼感につけ込むものであることを思い出してみてもいいかもしれない。そのような、親しい間柄での対面的な人間関係ですら、自分で吟味していく必要があるのだ。
そうした積み重ねが、個人として強くなる自我形成なのだと思う」
・・・・・この部分なんて、私も、激しく同意!! の域ですね(^^)
*****
ここから休憩を挟んで第2部、「久留米の地域、そして可能性」に入ります。
司会者から、まずは、久留米の明治通りを中心とする旧市街地のさびれようについての言及がありました。
この件については、私も、
・・・・・という、見かけ上物騒なタイトル(?)の記事で詳しく触れました。
久留米市の商業的中心は、かつては一面の水田とレンコン堀だった、合川地区の「ゆめタウン久留米」を中心とする、高速道路のインターチェンジ近くの、ショッピングモールの一群に、この30年の間に、見事に奪われているわけですね。
こうした前提を聴衆がみんなわかっているという前提で、以下の部分をお読みください。
「私は高校時代まで、たがみ書店やリズムレコード(共に明治通りに並行して今も存在する久留米最大のアーケード街、「久留米一番街」を代表する、久留米最大の書店とレコード店だった)に足繁く通っていましたが、もう今はないんですね。
リズムレコードって、奥に扉で仕切られた、色々試聴できるクラシックコーナーがありましてね。私はそこに足繁く通って、店長にクラシック音楽の手ほどきを受けたんです」
・・・・・わ、私も同じです・・・・・
きっと、2歳違いの私も、宮崎さんを宮崎さんと気がつかないまま、同じ店内で何回も遭遇しているはず・・・・
「先ほども言いましたけど、まさにたがみ書店やリズムレコードには、この久留米にしかない固有の文化というものがあったと思う。そういう、他にはない、「ここ」にしかない、豊穣な経験の場となることが必要なのだと思います。
ところが、今、地方で進んでいるのは、全国どこにでもあるような、メガ・ショッピングセンターができることなんですね。
もちろん、コンビニ文化にもインフラとしての意味があります。どこに行ってもほぼ同じ品揃えの商品が手に入るということの。
でもそれだけだったとしたら、なぜ『この』地域に住まうのか? という『唯一的なもの』がないままなんです。
久留米に生まれ、成長し、死ぬことの意味と魅力が大事。そのためには、久留米の中で生産したものを久留米にいて消費することに意味を感じられないと。
地方都市を単に「ミニ東京」化することばかりが進んで行っては、この町で生きていくことの意味がわからなくなる。そして、例えば福岡(市)に需要を奪われるばかりということになるわけですね。
結局、『制度的な』地方分権ばかりではなく、『マインドの』地方分権こそが本質なのだと思います。
最近、プロ野球の球団も地域が応援するという方向が強まっています。若者音楽の分野でも、ミュージシャンが、有名になって、ヒットチャートに乗る様になっても、自分の拠点となる出身地域から離れないまま活動を続けるというケースが増えています。ヒップホップグループにも、「この町」を大事にするメッセージを発信し続けながら全国区になることが生じている。
そうやって、自分の生まれ育った街から離れたがらない若い人たちが増えてきた。そういう若い子たちの後押しを地域がしていくことが大事で、そうした意味で地域の青年会議所の果たす『黒子』としての役割は大切だと思います。
こうしたことをしていくためには、単なる利潤追求の市場経済原理のどこかで対抗していく必要も出てくるはず。でも、それこそが『地方主権』ということだと思う。
そうでなければ楽しくない。この町にいて『楽しい』と思えるかどうか。主人公は一般の久留米市民なんだと思う。
久留米で生まれたのが必然で、久留米で死ぬのが必然であると市民が自然に感じられるような地域づくりになることでしょう。私も、引退したら久留米で死にたいと思うかもしれませんので、その時は不肖の息子をどうか迎えてくだされば」
・・・・・・久留米に30年ぶりに舞い戻った私の心に響く締めくくりでした。
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評論家の宮崎哲弥さんが、実は、我が故郷、福岡県久留米市の出身であることをご存知の方もいらっしゃること思います。
明日4日、久留米青年会議所の主催で、「『日本』、そして『久留米』に元気を! ~私たちが変える~」と題して講演会が開かれるので、それに参加することにしました(すでに応募締め切りです)。
【追記】参加報告はこちらです。
****
更に、翌日の5日、九州大学の北山修先生を講師とする、「九州大学対人援助職スキルアッププログラム」の一貫として、「人生物語 (ライフ・ストーリー)の読み方 -精神分析入門-」と題した講演会が開かれます。
(こちらもすでに参加募集締め切りです)
今の私は福岡市まで出向くことはそんなに機会が多くありませんが、福岡市近郊のの臨床心理士の皆様、私を見かけたら気軽にお声をおかけくださいませ。
この2つの行事参加のため、私の開業カウンセリングルームは、この土日の2日間、臨時休業とさせていただきます。
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先日国会で成立した「農地法」改正は、「土地所有者中心主義」から「耕作者中心主義」への大胆な改革である。
働き手を失い、休耕地ばかり増えた日本の農業政策の歪みを正し、農業の大規模化と企業参入を促し、「内需拡大」し、食料自給率を回復させるという意味では、いざという時の「国防的」観点から見ても望ましい政策であろう(ここは多少ウィット)。
この制度の欠点として、法律の概要についての「論評全く抜きの」NHKの報道を元に、私が「全く自分の頭だけで」考えてみた問題点を列挙してみよう。、
1.小規模耕作にしか適さない土地の零細な農家がいよいよ経営的に淘汰され、過疎化が更に進む地域が出てくる可能性が高い。
2.外国の農業メジャー資本が日本に大規模進出する可能性にも目を向けるべき。輸出向き作物ばかりになっても困る。
3.大規模産業化は市場価格へのいろんなの影響も考えられる(1.につながる)。
4.大規模効率化の名の下に日本農村の自然生態系をいよいよ破壊する危険がある。
【第2版で追加】
この4.の点に関しては、
●農業開国論 第12回「農協トライアングルがついに崩壊?減反見直しの旗を立てた石破農水相の賭け」 (by 山下一仁 日経online)
における、
> 週末片手間にしか農業を行えない兼業農家より、規模の大きい農家の方が肥料や農薬の投入量を減らす環境に優しい農業を行うことができる。
という形で、大規模集約型農業経営の長所を指摘している見解に説得力を感じました。
なるほど、除草の点でもそうでしょうし、農業の門外漢なりに類比的に想像しても、およそ「薬」というものは、少量ずつ少しずつ投与する方が「体内に吸収」される効率はよく、再び「排泄」(用水路に流れ出さず)に済むものかと思いますし、長期間効果を維持する農薬や肥料の方が何かと問題も多いのではないかと思います。
こうした観点から、この4.の懸念については、とりあえず取り消させていただいておきます。
例えば、すでに近代的な用水路が整備されてしまった、大規模耕作機械も導入可能な平野部の米どころなどでは、大規模集約型経営の方が、農作業の直接管理をするチーフが手を抜かなければ、環境メリットの方が大きいと思われます。
【ここまで第2版での追加】
*****
更にもうひとつ、重要なポイント。
特に日本の農村の、自民党支持層の皆様に問題提起したい。
5.実際には若者はほとんど農業回帰せず、そこで雇われて働くのが、賃金の安い「外国人労働者」中心となり、日本の地方の農村には外国人が満ち溢れる自体が生じる可能性が高い。
さあ、こうして、都市部に留まらず、「国籍問題」や「外国人参政権問題」が農村でも一気に深刻化するのである。
*****
過去の歴史について学ぶことは、歴史の先について、ちょっと想像力をふくらませてみるセンスに結びついた時に始めて意味があると思います。
すると、
「自民党は、大規模耕作に不向きな農村の過疎化を更に『推し進め』、今後、地方の農業に、大量の外国人労働者を雇用できる集約型農業施設の設置を容易にする『ために』、実はこの法律を制定した」
つまり、農村の長年の自民党支持者をいよいよ裏切り、だまし討ちするような法律を平然と制定した!!
という仮説が浮上したわけである。
(少なくとも、そうなる危険性に当面目をそらしたまま、この法律を制定してしまったのは確かだろう)
自民党が、地方の農村票を失わないために、何かに目隠しして、曖昧にしたままこの法律を通してしまっていないこそ、注視すべきではないか。
農村の皆様、こうした点についてお人よしにならないまま、今度の選挙には投票いたしましょう!!
*****
ちなみに、私個人は外国人差別には反対の立場です。
私がこの記事でシミュレーションしてみた「論理の戦略」にこそ、私がお伝えしたいことの本質があります。
つまり、私は、敢えて、「保守主義者」の思考法を徹底して採用してシミュレートする、思考実験をしてみただけです(^^;)
「借り物でない意見」をネットで発信する、とはどういうことかということ。
そんなに日本の農政に詳しくなくても、調べなくても、自分でものごとを考え、想像力を膨らませ、現実吟味をできる人間なら、解説や論評抜きの1分ぐらいのNHKニュースからだけで思い至れるのではないかなあ・・・と。
*****
更にもう一点付け加えれば、自分とはものの感じ方や考え方が違う相手の思考法や感じ方に「あたかも自分自身であるかのように」感情移入し、その人ならどのように感じ、考え、判断するかについて刻々とシミュレーションしながらも、同時に、自分自身がそれに対してどのような違和感を感じているかについても刻々と気づいていられ、自分を見失わないこと(「自己一致」していられること)は、ロジャーズの来談者中心療法に限らず、およそカウンセラーたる者にとってたいへん大事な能力であろう。
それは、カウンセリングを超えて、およそどのような事柄に接する際にも活用できるのである。
*****
【第2版で追加】
すでに紹介した山下一仁氏の「農業開国論」の別記事、
●平成の農政改革と呼ぶには程遠い 農地法改正は「昭和の懐メロ」だ(第14回)
によれば、実は今回の農地法改正においても、日本農業の大規模集約化による再生という観点から見ると、企業参入にあまりにも障害が多過ぎるという論が展開されています。そこでは民主党が修正した部分の問題とかも消し飛んで、自民党の「農政族」議員の多くを敵に回しかねない大胆な提言がなされていく。自作農家がどんどん淘汰されて集約されていくことをやむを得ずという、徹底的にマクロ経済学の視点から見た政策見解。
この人はそもそも減反政策をやめて米の値段が下がって自作を諦める農業者が淘汰される過程で米作を企業的に大規模集約化、日本のおいしい米をアジア諸国への重要な輸出品目にするという壮大な提案をしている。
「内需拡大」や「産業振興」について決定的な政策を打ち出せないまま国民にひたすら我慢を強い、老後の不安も解消できないまま、未来に希望を見出せない勤労者をより過酷な勤務状態に追い詰め、うつ病者を増やすばかりになりかねないばかりか、多くの障害者の自己負担分を増加させた、現状の日本の政策展開を見るにつけ、こういう「建設的な」(あくまでも「 」入りだが)政策ビジョンも興味深く感じたので、その所在を紹介しておくことにした。
こういう巨視的な見解こそ、目先の利害や組織票を超えた「徹底した保守主義」の、ひとつの見識なのかもしれない?
【第2版で追加】
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この押井守氏の劇場版アニメーション映画を、男と女の物語として十分味あわずして、この映画について、ちまたにあふれる、「変わらない現実をどう変えるか」云々の物語として理解しようとするのは、この映画の苦味を、澱(おり)まで飲み干して味わうことにはならないのではないかと思う。
・・・・・もちろん、少なくとも、ある一定の年齢層に達した観客のかなりの部分は、そのことに十分に気がついている筈であるが。
以下、恒例、原作についての予備知識なしの人間が、一回観た段階での感想として書くので、もし何か重大な勘違いがあってもお許しいただくとして。
【以下、物語の核心に関わるネタバレありです】
*****
主人公、函南優一の基地への着任を待ち受けていた、草薙水素(すいと)。彼女は、永遠に「待つ女」である。戦闘で死なない限り永遠に子供の姿のままで生き続ける「キルドレ」である彼女は、その永遠に続く変わらない日常を打破してくれる「男」をひたすら待ちわびる無力な存在に過ぎないとも言える。
この、ゲームとしての戦争を果てしなく続けることを「平和のための保険」であるという共通合意が成立した近未来世界の、果てしなく淀んだ「大いなる日常」を崩すためには、決して負けることがない、しかもキルドレではない「大人」の操縦士とされる、「ティーチャー」を撃墜することによってしか達成されない。
水素は、かつてその「ティーチャー」と男女の仲になり、一子を設けた。その「娘」は、確実に成長し続けているのであるから、「ティーチャー」がキルドレではないということ自体は虚構ではないと見なしていいのだろう。
水素も、その「ティーチャー」を自らの手で撃墜しようとすることがある。しかし、それは決して果たされない。しかも、「ティーチャー」の側が、彼女に限っては決して「止(とど)めを刺して」はくれないという「生殺し」状況もあるのではないかと想像できる。
キルドレには、過去の記憶が非常に曖昧な形でしか存在しないようである。子供時代の記憶というものは決して作中で語られることはなかった。もっとも、戦闘員として必要な技能に関しては例外である。これは、キルドレが、遺伝子操作によって作られたクローン的な存在で、必要な記憶や技能のみが、後で「疑似体験」的に植えつけられている可能性を示唆するものだろう。
ただ、どうもキルドレ(少なくとも大半のキルドレ)の場合、「エヴァンゲリオン」の綾波レイのように、「私には代わりがある」ことそのものを自覚している存在ではないようだ。
「攻殻機動隊」の世界観ふうにいえば、彼ら/彼女らには、個体としての「ゴースト(こころ)」が確かにあるのである。出生から現在に至るまでの人生のストーリーは曖昧なのに、一回限りのものとしての人生という認識までは奪われてはいない。そのこと自体がある意味で残酷であるとすらいえる。
キルドレは、複製品としての、さまざまな擬似情報にばかり囲まれて育った、私たち(以降)の世代の暗喩であるようにも思われる。共有する子供時代の記憶といえば、「あの頃ああいう番組が流行っていたね」だとか、テレビの向こうで繰り広げられていた戦争や事件の記憶が大きな部分を占めている。
現実の私たちにとって幸いなのは、(特に私ぐらいの年齢になると痛いほど感じるのだけれども)、自分が年月を経るにつれて否応なしに変化して来ていることに気がつけていることだ。「若い頃」とは変化しつつある自分と、日々直面し続けることになる。もっとも、それは決して単なる衰えなどではなく、感性と知性のバランス感覚がよくなるという体験として、少なくとも私には体験されている。
そして更に、自分の人生のタイムリミットを意識していられる。「本当の衰えや死が訪れるまでに、自分に何ができるのか」という意識が、大きな支えになっている。もう、若い頃のように、1歳2歳の歳の違いなんてどうでもいい。かつて共に時を過ごした者が、それぞれ自分の人生を歩んでいるのをみても、いちいち動揺しにくくなっている。
*****
「あなたには、生きて欲しい」
この言葉を函南がつぶやき、水素がはじめて大粒の涙を流した時、函南がこのあとどのような行動を取るのかは、水素にも、そして少なからぬ観客にも予感できたはすである。
その後の函南の出撃と、それを見送る水素の様子は、映画で繰り返し描かれてきた「特攻隊の出撃」映像をなぞるかのようである(もとより、押井さんは、自分の描き方が、まさにそうした過去の映像作品の複製的表現であることを、確信犯的に自覚していたはずだ)。
コックピットの中の函南の表情はいつになく涼しげにすら見える。編隊の他のクルーを全員引き返させ、「ティーチャー」に一人で挑みかかる時、彼は全力で戦い「ティーチャー」を撃墜するつもりでいたろう。少なくとも「刺し違える」つもりでは。
・・・・・しかし、彼には、「特攻隊員」に死後贈られる栄光すら存在しない。
なぜなら・・・・
****
水素は、相変わらず、「待つ女」だった。
このことに立会い、そうした彼女に幻滅した観客が、この作品世界をどう引き受けるか(どう引き受けないか)にこそ、押井さんが込めたメッセージがあるのだと思う。
「あ、この映画(この男、この女)この程度か。つまんないや、他にもっとおもしろいのないかな(いないかな)」
と感じた時点で、その人は、水素のダークサイドを無自覚に再演し、そこに引き込まれているともいえる(^^;)
少なくとも水素の中には、過去の男たちとの思い出は生き残っているようだ、仮に彼女自身がが過去に撃墜されて、再生されたクローンとしての履歴も持つとしても、彼女の「ゴースト」は完全には死に絶えてはいないように思える(彼女だけは、この点で「特別扱い」なのかも。このへん、原作の設定は知らないが)。
前の男は、「殺してくれ」止まりだった。
次の男は、「お前は生きろ」という言葉をかけてくれ、自ら「世界を変える」決戦に飛び立ち、命を散らした。
更に次の男は?・・・・・あと一歩ステップを刻むかもしれない。
・・・・・素子は素子なりに、未来への希望をつないでいるのではなかろうか。
娘がどんどん大きくなる「現実」を見据えながら。
そして、何度「命を散らした」かに見えても、我々自身の中に、クローンが再生するかのような「再生」の機会があるのだと思う(きちんと「養生」すれば、めぐってきます(^^))。
まあ、「再生」するたびに、遺伝子の一部が更に損傷を受けて、老化は進んでいるかもしれないけどね、記憶の多くは、キルドレたちよりは遥かに維持されているであろうし(^^)
神経繊維のネットワークの方は、歳を重ねても成長できるのだよ。
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本日の「はてな」サイトの総合ランキングベスト10で、当サイトの、
●NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療」-
が突如大ブレイクし、19:38現在、本日だけですでに6,855名様という、信じられないほどの数の皆様にご来訪いただける「ドミノ倒し」が生じています(追記:24:00までに7,501アクセスとなり、6/20全体の、私のココログ系3サイトの総記事アクセスはついに10.432アクセス(8,219名様)となりました。

16時25分の時点の「はてな」トップページ。記念にスクリーンショット撮ってしまいました(^^)さすがに今現在(20:40)ではもうトップページ表示ではなくなりましたが。
おいでいただきました皆様、ブックマークに登録して下さった150名以上の皆様、まことにありがとうございます。
*****
そうした中でトラックバック下さった方の記事の元記事で紹介されていたサイトなのですが、
●8人に1人が苦しんでいる! 「うつ」にまつわる24の誤解(by 泉谷閑示 Diamond online)
この連載、まだ連載は完結していないのですが、とりあえず今、ざっと目を通した段階ですが、ここで書かれている、精神科医の泉屋先生の一連のご指摘は、少なくとも私がこれまで目にした欝関連のネット上の記事の中では、出色の高水準のものであることは間違いないと感じました。
まずは、「ガッテン」がらみの直接の記事として、
●「ウツ」を“心の風邪”と喩えることの落とし穴 ――「うつ」にまつわる誤解 その(4)
この記事からだけでもお読みになることをお勧めしたいと思います。
他の記事をつまみ読みした範囲でも、西洋医学的な「治療」論への批判、「身体からのメッセージ」として症状をとらえることへの勧めなど、私にとって、これから精読する意欲をかき立てる、全くエキサイティングなコンテンツだと思います。
・・・・・以上、とりあえず速報まで。
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私としては自分から進んで買ってまで読むつもりはなかったが、たまたまうちを訪れた親父が、恐らくNHKのドラマ(私の感想はこちら)を見て原作を買って読んだ上でと思うが、私の住処に置いて行っていたので、正編・続編とも、一気に読めてしまった(^^;)
原作のメインのストーリーの大半は、ドラマ版で、十分な肉付けの上で語りつくされていると感じた。風吹ジュンの演じた女医さんは、ドラマのオリジナル・キャラみたいですね。
視聴者によっては、単純な漫画の線だから耐えられたのに、実写ドラマでリアルに演技されると、自分が鬱だった時の体験が蘇って辛かったという感想もお持ちの方があったようですね。
ただ、私が鬱患者の立場から見た場合、ドラマ版が原作よりも秀でている点がある。それは、原作では、鬱の患者さん自身が読んだら、うつのツレさんと言葉を交わすテンさんの一つ一つのコトバが、無神経に刺さるような性質をかなり秘めていたように思える。そうした面はドラマ版では払拭されているということだ。
この点で別に原作者を責めるつもりまではない。原作の「続編」の方になると、そういう「鬱の読者自身に無神経に刺さりかねない」側面が、きれいに感じられなくなっている。これは「正編」を出版して読者の反響を得てみて、はじめて気が付ける性質のものだったろうと想像できるので。
*****
原作を読んではじめて、ツレさんが、クラシック音楽で特にでロシアものファンであり、私と同じようにヘッドフォンで細かく音楽を聴くタイプだったことを知った。
こうした音楽すら聴く気になれなくる時期が、実際、ツレさんにとって一番うつが酷かった時期と重なるのだが、確かに、鬱がひどくなると、最後には自分が一番好きだったものすら楽しめなくなるものである。「音楽好き」だった人にとってはむしろ音楽は耐え難くすらなる時期があっても何もおかしくない。
私も、そうした時期は巧妙に音楽ジャンルを乗り換えたり、結構音楽を遠のけて過ごしたりしてきたように思える。
私にとっても、音楽というのは「能動的に聴く」もののようで、BGM的な「ながら聴き」は基本的には苦手なようだ。
この半年ぐらいの間に気が付いたのは、今の私の場合、「音楽」よりも「映像」の方が遥かに癒されるということだった。ことに、「映画作品」というのは古今東西、ジャンル無関係な形で、音楽の場合ほどにも対象を選ぶことなく、スーッと作品世界に入り込んで味わえるようであり、いったん作品世界に入り込んでしまえば、その直前まで感じていた神経の高ぶりや疲れも吹っ飛んで、ただただ身を委ねて癒されてしまえるようである。
たとえ、アクションでもミステリーでもホラーでも、重厚歴史モノでも、なーーーんでも「癒し」なのだということに。
一番無理なく自然に、脳内のセロトニンが増え、「海馬が潤いを取り戻す(?)」気がしてならない。
(私の場合、ジャンル無関係に「セロトニン」増加優位のようで、「アドレナリン」や「ドーパミン」分泌ではないのである。私とはそれだけ「映像の中に、リアル現実の日常に身を浸すのと同じようにどっぷり淫する」タイプなのだと思う。これって、実写映画とアニメ映画に基本的な差異を認めない、押井守さんの作風との一致度が高くて当然というべきか?)
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押井守さんの、劇場版「攻殻機動隊」2部作に関する感想の補足である。
第1作、"GHOST IN THE SHELL"が最初に公開されたのは、1995年、つまり、Windows95発売の年である。
このOSの発売ではじめて、インターネットは多くの人にとって身近な存在になりはじめた。もっとも当時は、「常時接続回線」を個人で所有する人など超例外だった。さすがに電話機の受話器を使った「音響カプラ」の時代は脱していたにしても、多くの個人ユーザーは、低速のモデムを一般電話回線につなぐ形。プロバイダ料金も従量制だったので、特定のページを閲覧している間は通信を切るということもしていた記憶がある。
しかし、当時のパソコンの新規ユーザー層の少なからぬ部分にとっては、パソコンとは基本的には"stand alone"に使用するものであり、電子メールを使用する際、パソコン通信に関心がある人たちを別にすると、「インターネットを介してて、ユーザーが常時接続的につながっている」という感覚そのものがなかったわけである。
今でこそ、"GHOST IN THE SHELL"で描かれた、「大抵の人が、(自分の脳に埋め込まれた)端末を通してネット世界につながっている」という状況は、身体の埋め込み端末こそないものの、インターネット機能が発達した携帯電話と向かい合うようにして日々を送っている現実との落差はぐっと小さくなり、今の現実のちょっとした暗喩の物語・・・・ぐらいで受け止めることができる。
しかし、"GHOST IN THE SHELL"が、14年前の作品であることを思い起こす時、この作品が、いかに時代を先取りしていたかに、ちょっと呆然としてしまうのである。
もとより、押井さんが、更に数年前、劇場版「パトレイバー」第1作で、当時はまだほとんどの人にとって未知の用語だった、「汎用OS」だとか、普段は沈黙していても、一定の条件が揃うと、一斉に凶悪な機能を発動をする「コンピューターウィルス」や、今日でいう「ハッキング」の問題を取り扱ったのが、何と1989年であるから(^^)
*****
さて、「攻殻」の作品世界の中では、
「自分の経験や記憶(恐らく、DNA情報なども)など、自分を自分たらしめているもののすべては、ネットの中に常時保存され続ける」
という趣旨のことが何回か語られるが、私のように、まさに1995年から個人ウェブサイト(「阿世賀浩一郎のホームページ」は当時の原型そのままのコンテンツを今も含みます)を立ち上げてきた人間からすると、こういちろうという人間の体験や記憶や思考のかなりの部分が、すでにネット空間に蓄えられているのだと、妙に生々しく実感できる。
私の場合、原則として、仮にハンドルを使ったとしても、リアルワールドでの私と同一視されるのは一向かまわないという立場でしかネット活動をしてこなかったから、なおのことである。
前の記事にひきつけて言えば、ひょっとすると、すでに、私の『ゴースト』そのものが、ある程度はネット空間の中にも自律した存在として跋扈できるpresenceを、(ささやかながら)獲得でき始めているのではないかとすら思う。
つまり、こういちろうはすでに、素朴な次元で、十分、ヒロインの「草薙素子(もとこ)」的な意味での「電脳化」した存在様式を持った存在なのではないかということ(^^)
もっとも、こういちろうは、素子のように、無茶をし過ぎて、生身の身体の方を吹っ飛ばされ、「脳核すら失う」形で、電脳空間を基本的な住処とし、時々必要に応じて「擬体」を使い分けるような存在にはならず(爆)、生身の人間として、この世に「どっこい生きて」い続けるであろうこと。
生身のカウンセラーとして、この世に存在し続けるわけだし、フォーカシングのトレーナーとしての私も、もっとその存在を、リアルワールドに「露出」していけるようになることを、じっくりと目指していますので(^^)
*****
ところが、もし仮に、日本のフォーカシングの世界における私についてのイメージというものがあるとすれば、この10数年来、それはほとんど、ネットを介して形づくられたものにならざるを得なかった(クローズドなメーリングリスト、"focusing-net上での活動を含めて)。
私が実際にフォーカシングのセッションを、フォーカサーとして、トレーナー/ガイドとしてどう行なうかをライブ体験している層は、実はほんのほんの例外的な一部の人たちでしかないのにね(^^)
そういう意味では、フォーカシング関係者は、現在も、私のネット上の『ゴースト』に踊らされている人たちが今も少なくないのかなとすら思う(^^)。
そこに映し出されている『幻』は、果たして、「こういちろう自身のこころ」なのか? それとも読者の「こころ」を写し出す、投影的な『鏡』なのか?
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・・・・というわけで、長年の封印を解き、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」二部作をやっと観終わったばかりです(^^)
第1作"Ghost in the Shell"の方は、その長期の封印の間にVer.2.0になって、大幅なCG化に留まらない、すべてのシーンの手直しがなされていたみたいでしたし。
予備知識ゼロでぶっ通しで観たわけですが、観てよかったですね。今の押井さんのを観たら、少し頭が痛くならないかと勝手に思い込んでずっと億劫がっていたんですけど、押井さんの硬質のリリシズムの世界って、やはり私には「癒し効果」の方がよほど強かったんだ・・・・と、何を今更ながら感じた次第![]()
押井守さんというと、私にとっては、「うる星やつら」TVシリーズの中の超異色作、「みじめ、愛とさすらいの母?!」(第101話)を本放送で観た時点で圧倒的に熱狂し、この回の拡大バージョンというべき劇場版第2作「ビューティフル・ドリーマー」、は、映画館で見た回数18回という私にとっての最高記録を保持しています。(この件についてはこの記事参照)
うる星やつらDVD vol.20(「みじめ!愛とさすらいの母?!」収録その後、「天使のたまご」を経て、劇場版「パトレイバー」の2本で、止まっちゃってたんですね。後を追うのが。
今回、この2本を見て、これらの作品の延長線上に、押井さんはやはり押井さんであり続けたまま、それらを全部総合しつつも、なおも前を進んでいるのを感じて、むしろほっとする、故郷に帰ったかのような思いすら感じました(^^)
*****
予備知識なしで観て、最初に何より驚いたのが、この「攻殻機動隊」の作品世界の世界観というのが、最近私が改めてご紹介してきた、精神科医、神田橋條治先生の考え方と実にいろいろと「かぶる」ことに気がついたことなんです。
この近未来の世界では、人体に及ぶ「電脳化」と「サイボーグ化」が、多かれ少なかれ、人々に進行しています。
ここでいう「電脳化」とは、神経にネットに接続する端末が埋め込まれていて、思い切ってわかりやすく言えば、無線LANで常時接続されているような状態にあるということです(個体によってその性能に落差はあるし、高度な情報セキュリティの問題や膨大な情報のやり取りをするとなると、首の後ろの端子を外部機器に接続するやり方がとられるようですが)。
これによって、人は言葉を話さなくても対話できるし、資料を観たり読んだりしなくても、脳に直接情報をインプットできる。情報検索したければ、もはやパソコンを立ち上げ、インターネットブラウザを開けなくても、例えば、いろいろな格言を見つけ出して、臨機応変に口にすることなども自由自在である(おかげで、第2作、「イノセンス」は、古えのことわざや格言やアフォリズムの山となってむやみに格調高いセリフが多い)。
しかしこれは、自分の思いや記憶や体験のどこまでが「自分自身」のものなのか、それとも、ネットを通して取り込まれた情報による「疑似体験」なのかの境界が曖昧化し、「本当の自分とはどこにあるか」と悩みだしたらキリがない状態に置かれているということでもある。
更に、ネットを通しての「ハッキング」が生じると、自分の体験ではないものが植えつけれて、他人により「捏造」された過去を本当の過去のように思い込まされたり、戦いの中で目に見えてもいないものを見えたと錯覚させられて(見えるはずのものを見えないとされる方も当然可能)、混乱させられる可能性もでてくることになる。
そうした、「電脳化」と完全に一体化したものとして身体の「サイボーグ化」を位置づけ、「もはや自分の本来の生身の身体がほとんど残っていない存在」と人間が化した時に生じる可能性がある、アイデンティティーの危機の問題も同時に取り扱えているのが、この作品の実に興味深い点だと思える。
さて、では、ここうやって、身体的にも、脳に及ぼされる情報、蓄積された体験という観点からしても、どこまでが「自分固有のものか」という境界があいまい化した時、最後に頼りにするものはいったい何なのか?
人工知能(これには他人の記憶の複製が使われる)を備えたアンドロイド(この作品世界では「ただの『人形』」という言い方がなされる)と人間の違いはいったい何なのか?
「私の『ゴースト』が、そうささやくのよ」
・・・・主要登場人物二人が、一かバチの決定的な判断を迫られた時に繰り返しつぶやく「決め台詞」である。
(フォーカシングを学んできた私には、「私のフェルトセンスがそうささやくのよ」という感覚にひどく通じるのが嬉しかったが)
『イノセンス』に付録としてついている「解説ビデオ」(!)に頼らなくても、この『ゴースト』とはどのようなものか、映画を見ていく中で漠然と察することができる作りになっているので、この言葉に明快な定義を与えないままのほうがいいとすら私は感じるが、
「まるで幻に過ぎないかのように曖昧で不確かに感受できるだけだけれども、その人の奥深くに隠れていると感じられる、<こころ>のようなもの(が指し示す方向性)」
のようなもののことを指しているようにも思われた。そしてそこにはどうも、命をつなごうという生命体の本能のようなものが関与しているような描かれ方であった(この本能が、時として残虐で利己的なダークサイドを持つことすら、「イノセンス」では描かれているが)
****
こうしてみてくると、ここでいう、「ゴースト」としての「こころ」という発想は、神田橋先生の思想を知るものにとっては、神田橋先生の「ファントム(幻影)」としての「こころ」という思想を、嫌が上でも思い出させる側面が出てくる。
もとより、神田橋先生が、こころを「ファントム」であるという時には、もっぱらその否定的な面が強い。つまり、自分自身の「思考」や、様々な外部からの「言語的情報」(そこには、精神医学や臨床心理学者の専門的な分析や解釈も含まれる)や、言葉で表現できる「価値観」によってこねくりまわされ、その人を惑わすだけの存在なのに、何かすごく大事なものであるという「幻想」として「実体化」している「こころ」という概念の徹底的な「価値の引き下げ」こそ、神田橋先生がまずは意図しているものなのだ。
そして、人間が「コトバ文化」の虚妄から解放され、動物には備わっている生体恒常性に従うかたちで生きていく状態をある程度回復していくことをこそ、神田橋先生は理想としている。
厳密に言うと、この点では、「攻殻」の作品世界観と神田橋先生のそれとの間には方向性のズレがあるかもしれない。
押井氏の場合には、そうやって電脳ネットワークにまみれ、情報の渦に巻き込まれ、更には一切の生まれついての生身の身体をすべて失っても、サイバー空間の中で、固有の「個」として存在し続ける「ゴースト=ひとのこころ」との交感の可能性にすら期待をかけているのであるから。
もっとも、物語の中に「神の次に完璧なのは(人間以外の)動物だ」という意味のセリフが登場するし、一見ストーリーと無関係だが、重要な存在感を持つものとして主人公の愛犬が克明なまで描かれていること、更には、
孤独に歩め
悪をなさず
求めるところは少なく
林の中の象のように
という『阿含経』の一節が、「イノセンス」を象徴するメッセージであるという観点からすると、押井氏の世界観と神田橋先生の世界観のめざす方向性は、意外と同じまなざしなのかもしれない。
*****
いずれにしても、私は、まだ『ポニョ』見てませんけど、
「神経症の現代に贈る・・・・」
・・・・うんぬんというキャッチフレーズを、押し付けがましくて、うっとおしく感じ(^^;)、
そのくらいならば、『イノセンス』に出て来るセリフ、
「『ゴースト』があるからこそ、人は狂気にもなれるし、精神分裂にもなれるんだ!!」
というメッセージの方が肌にあう人間のようである。
※続編はこちら。
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精神科医、神田橋條治先生の用いるキーワードのひとつとして、「養生」という言葉があることは、臨床家に知れ渡っているかもしれない。
この言葉は、広く使われる、「治療」という言葉に対するアンチテーゼとしての側面を強く持っている。
「治療」とは、
・・・・・おおよそ、こうした含意があるように思える。
これに対して、「養生」とは、
これは、私なりの理解をまとめなおしたもので、神田橋先生の著作のどこにも、そっくりそのままの部分は出てこないかと思います(^^)
*****
私は、実は「単に『健康で』あり続ける人間」よりも、「『養生』しながら、新たなライフスタイルを模索してきた人間」の方が、無用な紛争や経済的な軋轢を生み出さず、多様な他者のあり方を受容し、痛みを分かち合い、地球環境も大事にする、これからの人類に必要な資質に富んだ人たちだとすら思いますが。
・・・・実は淘汰される弱者ではなくて、「どっこい生きてる」生存率の高い遺伝子保持者であるとすら。
中井久夫先生が『分裂病と人類』でお書きですが、確か、ダーウィン派の進化学者、ジュリアン・ハックスレーが、「なぜ統合失調症の人は遺伝的に淘汰されず、一定の比率で生まれ続けるか?」という命題を掲げ、それに「貧窮困苦への耐性」という仮説を立てたそうです。
これに対して、中井先生自身は、自ら「性的伴侶の獲得において有利な形質を持つから」ではないかと述べ、社会が大きな危機に瀕し時、社会の前景に躍り出て、先例にとらわれず、かすかな兆候から、変化を刻々と先読みしながら(=微分回路認知能力)、先見の明で時代を切り開けるは「S(分裂病)親和者」であるから・・・という仮説を提示したわけですが。
うつ病になってしまうほどの几帳面に努力できるまじめな人たちに実は有形無形で支えられていたから、多くの家族や集団や企業は成り立っていた。
上司や同僚は、まずは何より、「それまでの」その人の働きと功績に心からの「感謝」を伝え、労(ねぎら)いの言葉を形にすべきです(この実はシンプルなはずのことが、現実にはいかに抜け落ちたままのことが多いか)。「早く良くなって帰ってきてね」も余計です。
極論を申し上げると、もし、鬱の素質がある人を全部最初から遺伝子レヴェルで受精直後に排除したりしたら、人類の滅亡は更に急速に早くなるでしょうね(・・・・勘違いしないで下さいね、鬱の皆さん。これは、あくまでも、鬱の人への恩を忘れ、困ったものだとみなす人たちへの皮肉です^^)
これは、おそらく、いわゆる「こころの病気」を持つ人全体に言えることでしょう。
ヒトゲノム計画における遺伝子の「意味づけ」って、実は常に一面的な意味づけであり、一見「病気を引き起こす因子」と見えるものが、同時に、「ある特定の状況下では、その個体をサバイバルさせる因子」、あるいは少なくとも、「自分は犠牲になっても他の個体を生かすための活動ができる因子(人類という種全体を維持しようとする因子)」としても働くという、「両価的な」ものである可能性が見過ごされないか、心配です。
優生学とヒトゲノム計画を安易に同一視するつもりはありませんが、遺伝子の選別、いや場合によっては「遺伝子『治療』」という発想を常に注視しなければならないのは、それが単に人間の平等や人権に反する危険があるからばかりではないと思います。
実は、上記の理由で、人類が存続するのに実は必要な大事な「表裏一体の」形質の遺伝子を「修正してしまう」結果、気がついたら、システムとしての人類全体を「弱体化」させるというパラドクスを秘めている可能性があることまで考えねばなならない。
神ならぬ人間自身の浅知恵なんて、そんな水準のものを容易に越えられないのではないかと。
仮に、人類が、いずれ衰亡するする運命にあるにしても(^^;)、そうした、人類全体への「治療」めいた形で、いよいよ衰亡を早めることなく、スロー・ライフで「養生しながら」地球と共存して生き長らえるのでいいのではないかと。
*****
誤解なきように最後に言い添えますが、私が基本的に薬物療法の積極的支持者であることはこのブログで明言し続けている通りです。神田橋先生自身が、薬物療法の「超職人的な」使い手であることを忘れてはならないかと。
しかし、ある物質を体内に投入しさえすれば精神疾患が治療できるというのは、恐らくどんな時代が来ても夢のまた夢でしょう。
なぜなら、精神疾患に親和的な人たちとは、常に、文明と文化が生み出す歪みの結果であり、なおかつ、新たな文明と文化を生み出し、維持するエネルギーとなる人たちの供給源であり続けると考えられるからです(この発想の点では、私は中井先生の影響を強く受け続けていますね)。
そして、薬という「異物」によって心身に生じる反応は本人に「違和」を引き起こしがちなものです。そういう薬剤によって変化させられる心身の反応を患者さん本人が「受容し」「消化して」、自我に統合し続ける過程というものが、結局は薬の効能の成否を決めるものであり、それを支えるのは、やはり、薬の効能にも通じた治療者との関係性であり、更に言えば、薬物療法を理解しながら見守る、家族やパートナーとの日常的な信頼関係なのだと思います。
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最近のNHKの、ほとんど畳み込むような、うつ関連の番組の連発には敬服するしかない。
今回は、のっけから、
「うつ病は心の風邪」
という、あの、よく使われるキャッチフレーズに対して、実際の鬱病の患者さんたちの多くが、いかに違和感を感じているかを、調査結果に基づき紹介することから開始した点は買いたい。
つまり、「ツカみはOK!!」だったとは思います(^^)
なぜなら、うつ病の治療は、風邪薬を飲んで静養していれば、特別な場合を除いて、長期の場合でも1,2週間で回復するようなわけにはいかない。
何回も途中で調子を崩したり入院したりして、数年以上闘病している人もたくさんいるからである。
私も、この、「心の風邪」という言い方がはっきりいって嫌いな人間である。
この番組では、この言い方は、「誰もが欝になる可能性がある」ということ以上に、
「病院の門をくぐるまでに迷ってしまう人たちに、早期に受診してもらうため」
のキャッチフレーズであるに過ぎないことを強調していた。
もとより精神科や心療内科に通い始めることを躊躇したまま頑張っていると、欝の回復が長引いてしまうことは確かだ。
「このくらいのことでホントに病院に行ってもいいのか?」と迷いを感じるくらいのタイミングで受診するほうが、経過はいいのである。
このことは、「こころ相談.com」の私へのインタビュー記事でも述べさせていただいたとおりである。
・・・・・しかし、やはり思う。
もはや、「うつ病は、心の風邪」というキャッチフレーズよりも、もっとましなものが普及すべきであるとは。
私ならば、例えば、
「無理のし過ぎで、脳が消耗しすぎて、脳のある特殊なエンジンオイルが切れて、脳のピストンも歯車も痛みかかっている状態です。そう簡単にはその特殊オイルを補給することもできないようなものでして、歯車やピストンも一度動かすのを止めて、メインテナンスに出して磨きなおす必要があります」
などと言ってみるかもしれない。
番組の前半は、この「心の風邪」という言い方への違和という問題を鍵として、相当な密度で展開して、満足度は高かった。
****
SSRI、三環系、四環系抗うつ剤の持つ、「セロトニン再取り込み阻害」作用の仕掛けは、恐らく多くの鬱の患者さんにとっては、すでに十分知れ渡ったことをうまく噛み砕いて説明してくれているとしか感じられないかもしれない。
しかし、一般の人たちへの幅広い啓蒙という意味では、この番組恒例の「着ぐるみ」登場のバラエティのノリで、わかりやすく説明する役割を引き受けてくれたことには意味があるかもしれない。
*****
・・・・そうそう、パネラーの山瀬まみさんが、「なぜ心の風邪と呼ばれるか」という質問に、
「症状を抑える薬はあっても、根本を治す薬がないという点で風邪の治療薬に似ているから」
という、なかなか思いつけない答えをしていた点を買います。
答えが正しいかどうかではなくて、そういう着想をできることが得がたいセンスなんですよ。これは単なるヤラセではなくて、彼女の事前情報収集と感性の産物かと思います(^^)
******
番組後半は、何かしら密度感が低下したようにも感じられたが、
●認知行動療法が、薬物療法や休息を経て、すでにかなりの程度の回復期に達した人においてはじめて効果を上げる可能性があること(私の知るところによれば、中程度以上に重い欝の人や、不安障害を伴う人への認知行動療法は、むしろ鬱を悪化させる場合もあるとも言われています)。
●運動や外出もまた、かなりの回復期になり、本人にも興味が出てきたタイミングで無理なく導入したほうがいいものであること(それは、体力回復のためというより、むしろ脳にいい刺激を与えて、神経伝達物質作用を高めるためであること。私見を言えば、番組で紹介されたような凝った体操でなくても、犬の散歩でも、自転車に乗って平衡感覚を刺激するのでもいいと思いますよ)
・・・・・これらを指摘していたことも評価したい。
一直線に、エレベーターを一気に登るような形で回復することを期待するのではなく、行きつ戻りつ、途中の「踊り場」で余裕を取り戻しながら、じっくり鬱と向き合う姿勢こそ、この番組が最終的に強調したかったことかと思えた。
*****
ただ、なぜなんでしょう???
この番組、終わりの方まで観ていくと、鬱の人にとって、だんだんと気分が鬱になりかねない、すっきりしないものを淀ませるところがある気がします。
ひとつにはタイトルがよくないのでは?
「うつ病よサラバ!」????
・・・・・この番組の内容が伝えていたのは、実は、うつ病とは容易にはおサラバできないものなんだよ!! というメッセージになってしまったから。
*****
それと、あと数点、バラエティ番組に対しては要求水準が高すぎる、揚げ足取りを覚悟で数点言及すれば、
****
いずれにしても、ここしばらくのNHKの鬱関連番組は、それらすべてを観てバランスが取れるような側面はやはりあると思う。それは、テレビ番組という媒体の宿命であろう。
【第2版で追加】
一晩明けてみたら、私が、この番組に感じていたモヤモヤが随分とはっきりと言葉になってきましたので、少し遠慮なく書いてみました。
この記事には、私の元クライエントさんから私に寄せられたこの番組への感想も反映しています(感謝)。
もし、まだ思いつくことがあれば、更に増補したいと思います。
*****
* カウンセラーこういちろうによる、NHKの一連の鬱関連番組関連記事リンク集(すべて開業サイトバージョン):
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いつも眠いの。
私、ヘンかな?
どうしてるかな?
何か疲れてるのかな・・・・
みんな元気だよね。
私はダメだよ。
だから眠るの。
眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。
私が消えても、
何も変わらない。
その少女は、授業をサボって、屋上で横たわり、放心していた。
ただ放心していたのではない。
その少女の傍らには、親友に宛てた一通の手紙。
「私 死にます。
さようなら。
ひとみ」
その手紙の傍らには、脱いだ靴まできちんと揃えられて置かれているではないか!
神崎ひとみは、死に切れなかったのだ!!
****
その手紙を発見した友人は、
「そんなやり方で死なないでよ。
友だちとして恥ずかしいから」
ひとみは、やや自嘲的に、言葉を返す。
「死なないわ。
生きてるよ。
このまま歳取って、
ばーちゃんになって、
死ぬ時が来るまでは生きてるよ」
友だちは、それにもめげずに提案する。
「明日街に行く約束したの、覚えてるよね?
行こうよ! ひとみ!」
この子だって、ひとみの「遺書」にぎょっとし、心配しなかったわけでもないだろう。
ただ、ひとみの身になって、ひとみの目線に立って、ひとみの悩みを受け止めることはしんどかったので、こういう軽い受け流し方をしただけのことだ。
彼女にとっては、まったりと続く「大いなる日常」の中で、自分と一緒に、ひとみの気持ちが「何となく」癒され、紛らわされていくことに期待をつなぐことしかできなかったのだろう。
******
だが、二人が街で、一見無邪気に楽しいひと時を過ごした後、友人がひとみに、マジに心配する言葉をかけた時、ついに二人の間に亀裂が生じる。
「私マネージャーだし、ひとみが辞めちゃっとこと、顧問の先生にどう伝えたらいいの?」
・・・・・などと、あたかもマネージャーとしての自分の都合を優先するかのようにして、ひとみに言葉をかけたのが、彼女の最大のミスである(^^;)
(これじゃ、ただでさえ人を払いのけたい心境のひとみにとって、自分が思いやってもらっているとはいよいよ感じようがないの!!)
ひとみは一気に払いのける。
「いいよ、私のことなんか。
鬱陶(うっとう)しいよ。
放っといてよ! 私のこと!
いやなヤツ!」
友人は、
「そっか、私、寄るところがあるから。
じゃ、明日、学校でね!」
と、そそくさと立ち去るのみ。
(だーかーら、そういう返事そのものが、ひとみを更に傷つけ、疎外するのだよ)
ひとみは更につぶやき続ける:
いやなヤツ。
消えちゃえよ!
いやなヤツ。
友だちを傷つける、
いやなヤツ。
だから私を・・・・
(消してしまいたい)
ここで、セリフの意味が、巧妙にすり替わっていく。
恐らく、ひとみは、単に友だちに傷つけられたと感じていたのではないのだ。
同時に、友だちを傷つけた自分が「いやなヤツ」だとも感じている。
そういう形でしか存在し得ない、人との関わり全体が「鬱陶しく」なり、この世から自分が消えてしまえればと感じているのだろう。
*****
この、過眠に陥った、すでに十分に欝への道をまっさかさまに進んでいる女子高校生、ひとみの前に、突如、異世界からの召喚がかかる。
「そう、消え去ればいい。
悲しきこの世界を、
すべてを消し去る」
この声の主、フォルケンは、異世界、ガイアにおいて、ある王国の長兄だった。しかし、占いによって王位継承権は義弟のバァンに定められた。
そのことに怒り狂ったフォルケンは、父母を殺し、宮殿を、王国を破壊し尽くし、今や巨大な空中要塞から、ガイアのすべての国を隷属させようとしている「黒竜族」の首領である。
フォルケンは、自分のすべての悲しみを自分が王位継承者になれなかったことに起因すると感じており、かつて一度ガイア全体を破壊し尽くした伝説の「鎧」、エスカフローネを復活させて、自分もろともガイア全体を消し去ることを唯一の望みとして生きている男である。
そして、エスカフローネをガイアに覚醒させるのに必要な触媒、「翼の神」が、こうしたフォルケンの心情にシンクロする潜在力を持ち、自分の世界から「消えてしまいたい」とも念じていた、ひとみだったのだった。
*****
こういう登場人物が作品に登場すると、
「そんなに絶望しているのなら、周囲を巻き添えになんかせずに自殺したらいいのに」
と感じ、感情移入しにくいと感じる皆さんが必ず少なからずいるかと思う。
このことの謎を解く鍵は、フォルケンとシンクロしているひとみの側が、すでにつぶやいている。もう一度紹介:
眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。
私が消えても、
何も変わらない。
このことそのものが、すでに空しいのである。
だから、周囲の人を、誰彼となく、巻き添えにする。
こうして、さまざまな無差別殺傷事件のことを連想することにもなるが・・・
(ちなみに、このフォルケンに蹂躙された民は、「アバハラキ」と呼ばれている。当然「秋葉原」のアナグラムであろう。そこに深い意図はなかったろうし、この映画は2000年に製作されたものであるが・・・・)
******
ここでこうして紹介してきたのは、2000年に公開された、劇場版アニメーション、"Escaflowne"の最初の方のシーンである。
この劇場版制作の元になったTVシリーズアニメ、「天空のエスカフローネ」(1996)は、「人魚の森」を例外とすると、今までのところ、私が最後に通して観たテレビアニメである。
このアニメについては、テーマソング、「約束はいらない」を中心として、このブログでもすでに以前にもご紹介したことがある。
↓名オープニングと思ってるから、再度掲載。HQ再生だと画質十分にいいですよ(^^)。
●天空のエスカフローネ OP(YouTube)
世は「エヴァンゲリオン」テレビシリーズ放映終了直後、「エヴァ」ブーム沸騰の最中だった。
そうした中で、この作品は、シリーズ構成:河森正治(マクロス)、キャラクターデザイン:結城信輝(ファイブスター物語)、音楽に菅野よう子、溝口肇、BGM演奏はワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団、その他の強力布陣を最大限に生かし、固有の美学と味わい・・・・流麗さと気品と清澄さとオープンな空気・・・・を持った作品として、忘れられない記憶になっている。
日本でに留まらず、ヨーロッパをはじめとする海外での放送で、狭い意味でのアニメファン層を超えてたいへんな人気が出て、TV放映ジャパ二メーションへの欧米社会での評価全体を当時再興したというのも、頷ける気がする、
感性がいい意味でユニバーサルで、批評家やマニア層にだけ受けるタイプではないのね、この作品。対象年齢層も幅広く、しかし、何か、ただそれだけではない"something"で魅惑する。
この作品のような清澄でさわらかな空気の広がりとスケールと上品な風格をもち、夢とファンタジーのある作品が、今もテレビの幅広い層が見られる時間帯に放映されているといいんだけどね・・・・
****
TVシリーズから数年を経て、劇場版が作られたということについては、アニメからほぼ離れていた数年間全く知らず、昨年ごろ、YouTubeを通して知った。
今販売してるのはブルー・レイだけ?
●劇場版エスカフローネ ファーストシーン(YouTube)
↑この冒頭シーンだけでも、TVシリーズに比べると遥かにハードな空気が漂い、いつか全編見てみたいと思っていた。
私はこの数年、ともかく自分からはアニメを自分から進んではあまり観たくない心境になっていた。「エヴァンゲリオン」で単行本まで出して、コミットし過ぎ、距離を置きたくなっていたということも大きい。
阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」
そうした中で、いきなりのDVD購入で、圧倒的に賛辞を惜しまない心境に達したのか「時をかける少女」だったこともすでに記事にしたことがある。
(同じ細田守監督のこの夏封切りの劇場アニメ、「サマーウォーズ」は観ると思います。劇場用特報(60秒の。予告編ではなく)で、田舎を舞台にした映像に、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」を華麗にフューチャーしたミス・マッチの妙だけで、本編で使うのかどうかわかんないけど、センス的に、もうたまんないねえ!!)
先日、ふと、そろそろ少しだけ、再びアニメ「解禁」していいのではないかとも感じた。
まず、観ようと思ったのが、「エスカフローネ」だったわけです。この作品なら、重厚過ぎもしないし、巨匠然ともしておらず、マニアックに過ぎない内容のはずだから、「慣らし運転」にちょうどいいだろうと(^^;)
(・・・・・同時に借りてきたのは、私がここ数年一番観るのを億劫がっていた、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」2部作だったりして・・・感想はこちら)
*****
ところが、蓋を開けてみたら、劇場版「エスカフローネ」。ここまで全編の作風や設定がTVシリーズと違っているとまでは思っていなかった。
おかげで、こうして、予想外に重厚な記事にできつつあるわけある(^^;)
シビアな世界観。そもそもひとみの性格をここまで変容させるのは大胆な決断だったと思う。
1時間半強の劇場アニメとして、無理なく描ききれる形にストーリーも設定も整理されている。CGの使用はごく控えめで、劇場用とすればあと一歩ハイグレードな作画も当時の水準で可能ではあったろう。
しかし、TVシリーズについての予備知識皆無で観ても十分に堪能できる佳作に仕上がっていると思う。
日本での公開は限られた上映館だったらしく、劇場で見た人は限られているようだが、海外各国で公開され、フォン層を更に増やしたというのも納得である。
****
どうも、ネット界では、惜しくも早くして亡くなった近藤勝也氏監督のジブリアニメ「耳をすませば」を「鬱アニメ」と呼ぶ風習があるらしい。
●『耳をすませば』が鬱映画?(教えて!goo)
ここでのやり取り全体にいろいろ苦笑してしまったけど、この映画を観ている側の方が映画の中の青春の描き方に勝手に落ち込んでいるというケースが少なくないようなので(その程度で軽々しく鬱なんていう言葉使うなよな~
)。
その点からすれば、この劇場版「エスカフローネ」は、TVシリーズと比較した時、このひとみとフォルケンという、劇場版では一番の鍵を握る登場人物二人が、こぞって似たような鬱状態として描かれているとは言えるかと思います。
その分、劇場版では、バァンの位置づけがやや地味になったともいえるかもしれない。しかし、ある観点からすると、バァンの方が、絶えず皇位継承者としての重圧を身に帯びて生きてきた孤独な武人であるという観点からすると、執着気質的で、古典的な鬱病の病前性格の持ち主であったともいえるかも。フォルケンとひとみのほうが「新型うつ病」的のようにも思えます。
そして、バァンは、ガイアという世界で、個人的人間関係の如何に関わらず、生きる目的と責任を背負っているという点が、フォルケンやひとみとは好対照な存在なのだ。
戦いの後、ひとみをガイアに引きとめさせているのは?・・・・バァンとの個人的な絆を失いたくないという思いだけだったろう。
これが、TVシリーズの、心地よい余韻に満ちた終わり方(↓)とは好対照なまでの、非常にあっさりとした形で、ひとみがガイアから地球に呼び戻されてしまう、ややビターなラストシーンの背景にある、この作品の世界観なのではないかと、勝手に妄想している。
↓これが「テレビシリーズの」ラストシーンです。
●Escaflowne- Ending Scene Credits(YouTube)
劇場版のラスト、あれは決して、フォルケンの夢の実現と同じことがひとみに生じ、ひとみが消滅したと同時に、地球も消滅した!!・・・・などというブラックなラストではないとは思います(^^;)
ひとみがちゃんと地球に帰り、別れたバァンとの絆を大事にしながら生きているらしいことは、エンディングテーマで、きちんと歌われていますしね(^^)
*****
・・・・・以上、恐らくこういちろうによる、このブログでこれまでで一番本格的なアニメ評論のエントリーでした!!
最後に、やはり「サマーウォーズ」の宣伝にも協賛しましょう!!
●【公式】『サマーウォーズ』 時をかける少女監督の最新映画 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)
↓こっちにはチャイコフスキーの音楽は出てきていませんが。
●サマーウォーズ 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)
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OKWaveという、日本を代表するQ&Aサイトをご存知の方も少なくないかと思います。
ここに登録すると、利用可能になる機能の一つが、「すでに回答締め切りになったエントリーに直接リンクを張る形でブログ記事を書く」設定でして、ココログもそれに対応しています。
これは恐らく、本来、そこでなされた回答が自分の感じていた疑問の解決に役立った・・・・という記事を積極的に書いてもらうための機能なのだと思います。
しかし、これはもう1つの利用法が可能になるのですね。
「すでに回答が締め切りになった質問についても、自分ならどう回答するかを、自分のブログにリンクを張って書いてみることを便利にしてくれる」
幸い、OKWaveサイトの個々の質問エントリーの側に、こちらからのトラックバックのようなものが自動的に飛んでしまうような機能などはないので、いわば「外野で勝手に」そうした試みも可能になるわけです。
一歩間違うと、万が一質問者や回答者がブログの記事を読みに来てしまうと「すでに過去にやりとりは終了しているのだから今更蒸し返して欲しくない」という苦情が寄せられる危険があるかとは思いましたが。
しかし、それを敢えて私の責任で、フォーカシング関連の質問に限定してやってみることにしました。
舞台は、私の3つの@nifty系ココログサイトの中で常に日陰の道を歩んできた
「フォーカシングQ&A」サイトに限定します。
OKWaveで検索してみたら、「フォーカシング」についての質問(もちろんカメラ関連を除外)がいくつか見つかったのです。
質問と回答を読むうちに、(おせっかいかもしれませんが)質問者も、回答者も、随分と心細い状況下で、暗中模索でフォーカシングを学んでいるのではないかという思いが生じてきてしまいました。
******
読んでいて、時として若干無責任だったり高飛車な回答ではないかと感じたものもあります。
例えば、臨床心理系の院生だろうと思える回答者が、一般のフォーカシングを学び始めたばかりの質問者向けに、学術的な厳密性を説くことがどれだけ「上から目線」の高慢な態度に読み手に写るか、少し想像してみればわかるはず
。でも、恐らく回答者には悪意はなく、むしろ日本のフォーカシングの現状が抱えている経験の貧しさのひとつの現れであるとは思いました。
もう1つのタイプで私を憂いに陥れたのは、「どんなカウンセリングがいいでしょう?」みたいな質問に対して、明らかにフォーカシングの正統的教育を受けたことはない、他の流派のカウンセラーのサイトに「フォーカシングをお勧めします」と誘導しているような回答者(そのサイトの主催者か、関係者である可能性が当然疑われるわけで・・・)の記事がいくつかあったこと。
私の知る範囲では、NLP(神経言語プログラミング)のセラピスト訓練の中で、フォーカシングを「独自の形で」盛り込んでいる団体があるようで、少なくともその中のある団体の訓練は、正式のものからすればかなりの簡略版ですが、そこそこの水準のものでした(実際その団体の幹部の方の実力を拝見したことがありますし)。
しかし、本家のThe Focusing Institute認定のフォーカシング・トレーナーに会えることを幅広く公開している例が日本でまだほとんどない現実の中(日本に公認トレーナーは少なくとも150名以上はいるのです!!)、そうした「兼業」サイト(?)にばかりリンクが張られているのは、やはり何かおかしなことです。
これは、TFIトレーナー側がこうした質問サイトに乗り出し、自ら頑張るしかないことです。
もちろん、TFIのトレーナーに学ばなければフォーカシングを学んだということにならないというわけでないことは、言うまでもありません(^^)
(そもそも、読者の期待にこたえる読み応えのあるフォーカシングのサイトが日本に幾つあるでしょうか? ・・・私は大いに挑発したい!! フォーカシングを学んだ若い人たちよ、この前の国際会議で刺激を受けた人たちも多いことだろうし。専門家も非専門家もどんどん勝手にやってみなさいよ。・・・・え? そんなこと勝手にやったら、指導教官の目が怖い? それなら最初から匿名で立ち上げればいい。mixiとかのSNSのクローズドなスペースにすでにあるのもしれないけど、いつまで「地下にもぐって」いるんだね? いつまでたっても「フォーカシング」で検索かけたら私のサイトだらけになる現状が異常なのだ。突如こっちからコメントで挨拶に訪れたりすることは控えるつもりだから、いい意味で好きにやって欲しい)
*****
恐らく若い人も少なくないであろう、そうした回答者の中に、私のようなトレーナー資格認定資格者が肩を並べては、若い人たちもやりにくいだろうとは感じます。
また、そうした質問者や回答者が、私と直接フォーカシングセッションを持った人である可能性すら、匿名である以上わからないわけですね。極端な場合、そこで苦情を言われているのが私とのフォーカシング・セッション体験の苦情かも知れない。
・・・・でも、それはそれでいいと開き直ることにしました。
今の私なら、どのようにそうした質問に答えるか、という点で良心的であろうとのみしてみるつもりです。
もちろん、これをきっかけに、「フォーカシングQ&A」サイトへの新たなご質問もお待ちしていますよ(^^)
******
今のところ、次の2編を掲載しています:
●フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (長文です) -OKWave
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最初の方に出てくる、風吹ジュンさん演じるお医者さんの言葉:
「動物は調子が悪ければ、じっとしているだけ。
でも、ヒトは言葉なんていうものを持っているから考えてしまう」
この前半は私が鬱をとらえる上でのモットーで、このサイトの記事の中でも似たことを何回か言及したことがありますし、先日「こころ相談.com」のインタビューでも使わせていただきました。
ことばが生み出した「こころファントム(幻影)」の問題というのも、先日ご紹介した神田橋先生の著書の鍵概念ですが、実は、別に鬱についてと限定して先生はお語りだったのはないのですが、「動物は調子が悪ければ、『元気がなくなり』、じっとしているだけ」という言葉に私が出会って、心引かれたきっかけも、この本なんですね(・・・・と、やっと「元ネタ」を明かします)。
******
以下、しばらくこのドラマの展開からは離れますが、このブログをお読みになればお分かりのように、私もまた言葉に淫した人間そのもの、完全主義者ですし、理屈っぽいし、旺盛な文章力と関心ジャンルの広がりという点から見て、かなり「スーパーマン」じみた存在として読者の皆様にも感じられてしまうのではないかとも思います。
もっとも、私の場合にはこのドラマのツレさんのような、「メランコリー型うつ病」の典型に近いと思われるタイプではなくて、躁鬱的なものが(躁状態の方は目立たない形で)合質している、いわゆる「双極性障害II型」です。
完璧主義とすごい気分屋でてきとーな部分、感情のままにふるまう部分、事務的な仕事を几帳面にやることが何よりも苦手で、消耗度が人より高い面を、欝なる遥か以前の思春期から併せ持っているかと思います。でも、基本に「人間好き」な面を強く持っているから、カウンセリングという仕事が性に合ったのだとも思います(今でも、私のことを学者やライターがあっていると思っている人は、私の本質が全く見えていないと思う。私の本領は、生身の人間がいる「ライブの」場面。更にうつ病から脱するにつれて、それはいよいよ明確になってきた手応えはああります)
双極性障害親和的な躁鬱気質と、メランコリー型の単極性鬱病と親和的な執着気質は実は全く別のものであり、両者のライフスタイルの違いを軽んじてはならない(投薬も全く異なりますし)ことについてもすでにご紹介しました。
私は中井久夫先生の「分裂病と人類」を学生時代に読んで感銘を受けて以来、自分をS親和者的=分裂気質的と思っていましたので、自分が医者に「鬱」と診断された時にはかなりの驚きがありました。ちなみに私に「非定型薬」を出す可能性を考えた医師は全くいません(わかるひとにだけわかればよろしい^^)。
その後SSRIから気分安定化薬のデパケンに切り替えてからはじめて症状が劇的に改善したわけですが、それ以降、自分を、以前ならば全く思いもよらない、「躁鬱気質」の脈絡でとらえなおしてみることをはじめてみたのですね。そうすると、今後の自分のライフスタイルとして一番無理がないのではないかとすら思え始めた。
ドラマ後半で登場した、ツレさんの「あ・と・で」のモットー、すなわち、
「あせらない」
「(自分は決して)とく別ではない」
「できることから」
というのも、これでも以前よりは相当板についてきたかなとも思っています。
このドラマのこの回でも描かれているように、鬱には波があり、もう大丈夫かと思ったら突然ぶり返すこともごく普通です。そのことに本人も家族も動揺したり落胆したりしがちです。
しかし、本当は、波があるのが普通である、という前提に立ち、波がないことのほうがおかしいという前提で、人間や動物が、四季の移り変わりや、年毎の旱魃や長雨に対応するために、五感を働かせて刻々とチューニングし、そこそこに無理のないラインで生活できていくことの方が自然なのだと思います。
ある観点からすると、人間が高性能を維持して故障のない機械になれることこそ理想の労働力とみなされ、日々の生活においても、一年中空調の聴いた部屋の中で、季節の収穫と無関係に同じようなものを食べられて当然と思い込み始める中で、退化し、鈍くなり、自分を年から年中同じ状態にあるかのように欺くのがうまくなったことの裏返しとして、自分の置かれた状況の変化に不感症になり、無理を無理と感じなくなり、鬱の準備状態にはまっているのに、まだそのことに気がつかない人も増えたのかなとも思います。
今の私は、以前よりも、自分の無理の兆候や、逆にややハイになっている兆候、そして、欝っぽくなっている兆候にはるかに敏感です。
一度鬱という病に本格的に陥ってしまった皆様の中には、そうした自分の些細なまでの敏感さそのものにむしろ苛立ちを覚え、むしろそれに振り回されて困っている方たちもたくさんおられるかと思います。
でも、その敏感さが、むしろしなやかで柔軟な、新たなライフスタイルをあなたに導くための羅針盤にもなるはずです。
羅針盤とは、どっちが北でどっちが南かを見失わないためのものです。多少、航路から外れてきたなと気がついたら、その段階で航路を「完全補正」するのではなく、風向きや地形や気象や波の状態も配慮しながら、そこそこ回り道をして目的地に向かうのも大事な「航海術」かと思います。
そうした皆様に、その羅針盤を共に見守って、航海を共にしてくれるような人たち(専門家・非専門家問わず)との出会い(出会いなおし)がありますことを。
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昨日の話の続きである(^^)
どうも私が今の段階で「我が内なる藤原紀香」が求めているのは、キャッシュのチャージではなくて(「食べる」くらいには稼げてますし)、どうも、久留米に帰ってこれまでの「労に報いる」ご褒美であり、それはお金には換算できないものらしいと気がつけたことは、私にとって意外と大きなシフト=気づきであった。
ともかく「ご褒美」という、内なる藤原紀香でもないと使いそうにないボキャブラリーが私の気持ちを表す言葉としてしっくりきたのが何とも興味深かったのである。
さて、今日になって私がどうふるまったかということを、こうして夜になって振り返ってみると、・・・・・・お金ではなくて、ものでもなくて、そういう「形にならないご褒美」をもらえるように自分を仕向けるという行為だったように思える。
私に必要なのは、ある種の情緒的なチャージを受けることによる余裕感の回復だったようである。
「その方たち」に下手にご挨拶するのは、まるで「何か仕事ありません?」とお頼りするみたいで申し訳ないと、延々と躊躇していた。
ただ近況報告して、元気付けていただいた・・・・それだけである。
「君は久留米のような田舎で自分の考えをじっくりと深める方が似合っていると思うよ。東京なんかの、頭の大きな人たちを相手にしていたらおかしくなるだけだ!!」
しかし、それで我が内なる紀香は大満足して、昨日のやや鬱的で無気力なモードから一変して、お役所への「あるお伺い」を、いそいそと、やすやすとこなしていたことだけは間違いない(^^)
******
ジェンドリン曰く、
「物事がうまくいかないのは、多くの場合、そのことを中途半端にしかやっていないためである」
(『フォーカシング』のどこかに書いてある言葉のはず)
バラ・ジェイソン曰く、
「クライエントは、うまく行っているものは何か、うまくいくものをもっと行なうためにはどうすればよいかに気づくように促される」(邦訳p.55)
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この記事では、敢えて、「楽屋ウラ」をさらす内容にします。その理由は後で書きますが・・・・
こういちろうは今も模索している。我が故郷、久留米という地域に根ざしたカウンセラーになることを!!
(繰り返すが、そうした地域活動の全貌をここでお書きすることが必ずしもプラスの意味にはならないばかりか、まるですべてを「営利的宣伝活動」のように誤解される火種になりかねないので、詳しいことについては触れないままにしておきますね)
そうした中で、ある、意外性のある、面白そうな地域活動が新たに見つかったその日の、私の中に生じた困った反応。
「うん、それ、似合ってるよ。かっこいいよ。やってみたら?」
と知人にも言ってもらえたのだが、何か私の腰が重い。
私の中の「内なる批評家」ならぬ「内なるプロデューサー・顧問軍団(^^;)」もまた、
「どうしたのさあ? こういう頃合いのが見つかるのを待っていたんじゃないの?」
「君は『出戻り』の久留米市民(^^;)なんだからさあ、地域とのダイレクトなパイプに乏しいわけだし、自分からそれを探さないと」
「ネット全国区の活動として、鬱の患者さんの医療との関わりについて、ネット上でどれだけ力説してもさあ、そのカウンセラーが福岡県の久留米なんていう日本の辺境(おいおい
)にしかいないと気がついた時点で、10人の読者のうち9人がため息をついてしまうよ。だから活動には地域とのとバランスがやはり大事なわけ」
・・・・・などと、次から次へと「好意的なアドバイス」を雨あられと降り注がせるのである!!
*****
後になってみると、どうしてもっと早くあのことに取り掛からなかったのか? と反省したくなる事柄が山のようにあるのが普通の人間であろう。
フォーカシングでは、その人固有の体験過程のステップというものを大事にする。もしあることを進めていくことについてフェルトセンスが肯定的な身体感覚を返してくれない場合には、何か体験過程のステップの途中を「飛ばして(skipして)」、無理に前に進もうとしている時であり、少しだけでもそのフェルトセンスからの違和の声に耳を澄ますと、そこまでで自覚的に気がついてもおらす、十分な対応をしていなかった、本当はその段階でまずは必要な、先に解決すべき課題が見えてくることも少なくない。それは、そこまで気づいてしまえば、むしろ客観的な問題解決の戦略としてみても、「装備の充実」の上で効果的な戦略の発見につながることも少なくないのである。
*****
さて、この時の私が、ちょっと時間を取って、内側の違和感にしばらく耳を澄まして返ってきた返答は、何とも身もふたもない一言だった。
「だって、・・・・・やだもん!!」
・・・・・な、何という不謹慎なことをいうのだ!!
しかし、そもそも私は、現実の対人関係の中で、何かの誘いに逡巡する際に、ここまでストレートで端的かつ理屈抜きに、嫌な気持ちを相手に伝えたことはないことに気がついた。
(このブログの記事の私の書きぶりからもご想像いただけるように、私はとかく理屈をつけずにいられない人間なので
)
何か新鮮ですらあったのだ。私の中に、こういう、理屈抜きに何かを嫌がり、表明したい部分が確かにあるということに。
そこで、その新鮮さをまずは身体に響かせてゆったりと味わうことにした。
*****
すると、その「やだもん!」の声の主が、私のイメージの中であっさりと実体化した!!
・・・・・藤原紀香である。
しかもそれは、現在放映中のドラマ、「ツレがうつになりまして。」の中に登場する、不器用でグータラで、何かというとホゲーっとテレビを見ていることが多かった、化粧の薄い、あの藤原紀香なのである![]()
(どうして嫌なの?)
・・・・・と、その「ツレうつ版」紀香に問いかけてみる。
すると、「彼女」は、しばらく、「
うーーーーーん
」と考え込んだ挙句、突然大きく目を開けて答えたのだ!!
「
ご褒美が欲しいの
!!」
・・・・・は?
「ご褒美。そうなの、ご褒美。・・・・・別に収入になることじゃないとやりたくないとか、そんな意味じゃないの。ご褒美なのよ
。私だってこれだけ(漫画描いて)好きなことで頑張って来たの!! だ・か・ら、そのことを受け入れて、ほめてくれて、認めて、形にして欲しいってことなのよん
」
(以上、藤原紀香口調で読むように)
*****
(・・・・・よ、要するに、現金でなくていいんだな?)
「そうね。好きなことでなければ、現金もらえてもイマイチつらいかもね」
(わかった。「ご褒美がある」形での活動というのを、現実的にどう実現していくかは次の課題でいいか?)
「いいよぉ![]()
・・・・・でも、何かとりあえずのご褒美、ちょうだい
」
(わかった
・・・・取りあえず「応急処置」はする
)
・・・・・こうして。
こういちろうは、その日のスーパーの買い物で迷った挙句、冷凍食品の、たこ焼き48個入りお徳用パックで手を打ったのであった(^^;)
大丈夫である。紀香、もとい、こういちろうは、何かというと自転車で数キロ移動することを苦にしないことが板についた結果、相変わらす久留米ラーメンを週2回は食べているにも関わらす、2週間前よりもさらに体重2キロダイエットに成功。20年来未曾有の領域に突き進みつつある。
******
私がここで、自らのずぼらさをさらすのを承知で、フォーカシングを学ぶ皆様にお伝えしたかったのは、「フェルトセンスからはっきりと返事をもらえる」とはどういうことかについて、予想外に実体験の上では曖昧な学習者が少なくな現実を感じているからである。
そういう人に欠けているのは何か?
1.フェルトセンスからの返答が、もう、自分で聴いていてもあきれるくらいの「じょーもない
」次元でのもの(として少なくともはじまるもの)であることが少なくないことに気がついていないのでは? もっと、まじめくさった、いかにもセラピー的に見て「カッコいい」、「癒しにあふれた」そういう返事が自分の中から生じてくることだけを待ち望んでいませんか? 普段使いのフォーカシングとは、もっとぐーっと庶民感覚あふれる、ホンネ次元むき出しなものなのです。人に体験談として話しても全然カッコよくないような中身の(^^;)
2.そもそも、ここで私が体験した、「やだもん!!」「ご褒美が欲しい」というフェルトセンスからの返答に感じた「驚き」「新鮮さ」を共有できるようなセンスをお持ちの方がリスナーやガイドをしていないと、フォーカサーの中にこうしたフェルトセンスとの縦横無尽な内的関係性も喚起されない気がします。リスナーやガイドの訓練を受けている、あるいは自分で技を磨いている皆さん。皆さんは、フォーカシングに、変な意味でまじめすぎるのではないかと、ちょっと振り返ってご覧になるのはいかがでしょうか?
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子供の頃、(いや、大人になっても?)多くの人が、何回かはやったことがあるだろう、暇つぶしのような遊び。
アイスクリームを買ってきた時についてくるドライアイスに、恐らく最初は、アイスクリームを食べる金属製のスプーンかフォークか何かを押し付けてみる。すると、スプーンを通して伝わる体温のせいで、押し付けた部分が、ドライアイスが二酸化炭素に気化する際の、独特のプスプスという手応えが帰ってくる形で、みるみる、押し付けた形のままにへこんでいく。
このことが面白くなって、ふと、財布から10円硬貨などを取り出して、ドライアイスに硬貨の面ごと押し付けてみた人もあるだろう(わずか1,2ミリの厚さを通して指の体温が、しかも銅という熱伝導に優れた材質を通して伝えられるので、これはすこぶる効率がいい)。
すると、たいした力を入れなくても、ピリピリという音を立てて、ドライアイスに硬貨は沈み込んでいき、硬貨の刻印の形の鏡像が、見事にドライアイスに「刻印」されることになる。
(長時間このことをやりすぎると、指が凍傷になる危険もあります・・・・・と注意書き)
******
私がフォーカシングを学びはじめた25年前の頃、フェルトセンスに触れることについて、時折、「ドライアイスに硬貨を指で押し付けていく時のような体験だ」と周囲にもらしたことがあることを、ふと思い出したのである。
そこに私が込めたかった含蓄というのは、恐らく、次のようなものだ。
フェルトセンスにしばらく触れているだけで、フェルトセンスの質そのものが何らかの緩みや肯定感を持つものに変化していく。
最初は「凍えるような」、何か危険な感覚に思えたものが、むしろ「気持ちのいい冷たさ」を味わう、好奇心に満ちた「スリル」体験となる。そして心の中の何かが少しずつ「解けていく」。
必要なのは、まさに硬貨をドライアイスに押し付けるのに必要なのと同じくらいのかすかな力の入れようで、意識的、能動的、主体的に、一度つかんだフェルトセンスに、ただ注意を向け続け、「触れ続ける」こと。
あとは、そのことのために日常の限られた数分間に意識的に取り組むだけで、一見はっきりした気づきや洞察が生じなくても、気がついてみると「指で硬貨を押さえたドライアイスの部分には、以外に深いトンネルが、まるで地下鉄のトンネルのシールド工法のようにして、掘り進まれていく。
掘り進まれていく際のかすかなプスプス・ピリピリという「進捗感」の手応えを受け止めているだけで、何かが「掘り進まれていく」のである。
大事なのは「しばらく触れてみる」、ただそれだけ。
*****
昨日の記事で、
「すべてのことには、時がある」
と書いた。
だとすれば、マジシャンのそうなフォーカシング・トレーナーではない、ひとりのフォーカサーとして、日々実践できる「個々の人間の自由意志の及ぶ範囲の努力」とは何なのか?
フェルトセンスに触れ、共にいる、ただそれだけの主体性・能動性・自律性を発揮し続けること、それだけで、最低限いいのかもしれない。
「今日は昨日までよりフェルトセンスに触れてみるのが難しい」という体験ですら、実は、逆説的な意味で、フェルトセンスに「触れた」体験なのである。
「何か、昨日よりも心の余裕を見失っているのかな?」と用心できるだけでも、すでに意味がある。
そう。ドライアイスに10円玉を押し付けてみる以上の労力は、フォーカシングには必要ないはずなのだ。
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○鬱になると、以前だとさらさらと何気にできたことがひどく不器用になり、失敗しやすくなる。
○「事務的な」書類を書くことというのは特に億劫になりやすいので、そうした書類をなかなか書けないことを「簡単な筈でしょ?」などと突き放した形で急かす形にならないように家族は要注意。
○特に休職した直後の時期など、何かひとつの行動をやろうとしたら、本人も気がつかないうちに、ほとんど「ストップモーション」にはまり、気がつくと同じ(座った)姿勢のままで数時間経過していた・・・・などという経験は結構見られるかと思う。
○うつとは「心の病気」という言い方をしない方がいいと私も思う。ただ、ドラマでのように、「脳の病気」という言い方でも抵抗感がある人もあろうかと思う。私個人は「脳の心身症」という言い方を好んでいる。「脳の慢性のストレス性の消耗による障害」ぐらいの意味である。
○「自分はイグアナにも劣る」というセリフは決してコメディではない。確か中井久夫先生の本に「自分はイモムシにも劣る」と罪責感に浸る患者さんの例があった。
○ドラマで描かれているように、鬱状態が強い時には、アナウンサーのような単調な声の番組の方が心が休まるというのはある意味で真実であろう。エモーショナルな揺れが大きい音楽というのも結構負担になるものであり、意外とクラシック(特にオーケストラ曲)があわないというのは、本来クラシック好きの私の経験。随分長く、好きなはずの音楽そのものを遠ざけた時期もあったと思う。
○患者さん以上に、患者さんと密接なかかわりがあるパートナー(配偶者、恋人、親等)の方が、実は否定的思考の持ち主であることは、実は結構多い。パートナーのそういうマイナス指向の部分すらケアし、包み込むようにしてやさしく支えて「いた」のが、実は「うつになる前の」その人だった・・・・という構造は、確かに頻繁に観察される気がする。
○欝の回復には波があり、本人も周囲も思いもよらない形で「ぶりかえす」ことを繰り返す中で徐々に軽快して行くことが多い。そのことに、本人や家族は振り回されやすい。一喜一憂し過ぎないで、一緒に、潮の満ち引きを揺れることができるかどうか。
○うつの人を直接支える側の人の方が、いつの間にか無理をしがちになりやすいので、そういう支え手が安心できる相談相手が公私共にいることは大事である。
・・・・以上、思いつくままに。
※第1話についてはこちら。
※第3話(最終回)についてはこちら。
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このような不況のご時世にあると、私がカウンセリングをしている中でお会いするクライエントさんの中で、新たな派遣先を探しておられる方や、病気からの社会復帰を模索する中で求職活動をしておられる方の少なからぬ部分は、例えば1年前と比べても厳しい雇用情勢の中で、希望する求人そのものがなかなかないという次元で、すでにじりじりとした日々を送っておられる方が少なからずいます。
ところが、そうした方の堂々巡りの重苦しい心情を労(ねぎら)い(compliment)ながらも、二人して焦りの負のスパイラルに巻き込まれる形にだけはならないように配慮しながら面接を続けていくと、思いもよらない時に、しかもカウンセラーの私から見ても予想だにしない早いタイミングで、突如明るい声で連絡をいただけることがあります。
「昨晩までは面接に全然乗り気になれなかったのに、朝になったら起きられてしまった。電車に乗って見てから考えようと思って出発してみたら、車内で、存外に気持ちのもやもやはほどけ、面接でこんなことを聞かれたらこう答えよう、みたいな方針が定まってしまった。行ってみたら、先日の、あのいやらしい圧迫面接の担当者とは打って変わって、いい面接官に出会えました。職場の空気もよかった」
・・・・などといった具合である。
そうした時には、カウンセラーである私のほうが、その人の中にある健全なエネルギーの潜在力について見くびっていたのではないかと、少し恥じ入りたくなるような思いにとらわれることがある。
*****
すでに最近の記事で繰り返し書かさせていただいて来たことではあるが、人間、何とかしようとむやみにもがくばかりになると、自分自身という泥沼にひたすら沈んでいくことが少なくないように思える。
以下は、あるフォーカサーの体験である(もちろん掲載許可をいただいている):
その人は、そうやって求職活動がうまくいかない中で生じている自分の中の焦りや不安や鬱的な感覚の全体についてフェルトセンスをつかんでいった。
すると、背中から肩甲骨の辺りの凝りや痛み、きしみのようなものとして受け止められた。
その感じに「そこにいるのはわかったよ」と声をかけてあげ(アン・ワイザー技法でいうacknowledging)ると、「弱弱しくはあるけど、うなづいてはくれ」、そのそばにしばらくたたずんでいてあげてみるように私が提案すると、しばらくの沈黙を経て、
「さっきよりはその背中の感じは緩んできましたが、自分がそれを苦痛に感じることには変わりがありません」
との答え。
そこで私はここで、次のようなasking(フェルトセンスに問いかける)の提案をしてみた。
「では、もし、その背中の感じがなかったらどうだろう?・・・・ということを想像してみて、身体で感じてみることを許してあげてみてはいかがでしょう?」
「なかったら?・・・ですか?」
その人は一瞬当惑した。しかし、しばらくすると、その人の中で、どうもその人にとって思いもよらない動きが生じ始めているらしいことが見てとれた。
(どうしたんです?)
「あの、いえ、こんなこといっていいんでしょうか?・・・・・実は『なかったとしたら』という先生の言葉を聞いた瞬間、その背中のあたりにいる『何か』が、その言葉に一気にムカついたらくて」
(むかついた?)
「そうなんですよ。『なんだと? オレに消えてしまえというのか?』と壮絶な抗議を始めたみたいな様子に、私のほうが驚いてしまって。そして、その背中の痛みのあたりから、まるで腸の管のようなものが、ズルズルズルってどんどん自己増殖してあふれ出すみたいなイメージまでわいてきて・・・・・最初、わ!! グロいなあ、とも思ったんだけど、そのがん細胞の急激な増殖みたいなのが、ホントに、『なくなったとしたら』なんて声かけられたものだから、それにムカつくあまり、思わず『なくなってたまるか!! そんな言われ方するなら、嫌がらせに、増えてやるもんね!!』と訴えている見たいに感じられ来て。・・・・・私は、その、まるで聞かん坊のガキみたいなツッパリかたにむしろ苦笑するといいますか(笑)・・・・・『もう!、わかったわかったわかった!!』といってあげたくなって」
(今の言われ方に、何かその急激に増殖した腸の管みたいなものに対する「愛おしみ」のようなものすら感じました)
「・・・・・・・そうしてあげたら、シュルシュルシュルと、増殖した腸の管を、そいつは、まるで巻尺のボタンを押したみたいに一気に『撤収』いたしまして(笑い)・・・・・・・・『オレが痛みとして訴えて続けてブレーキをかけてあげているから、てめえは、焦りに任せて色々手を出しすぎる無茶をせずに済んでいるだよ、ありがたく思えよな』・・・・みたいなことを言ってくるんですよ。
思うんですけど、私の中に、
1.自分の中に不快感や不全感がある
→2.私の中に「問題」がある
→3.その問題を「除去」するための「対策」として、何か行動に移すべし!!
・・・・・みたいな問題への対処法を自明にしていたところがある気がして。フォーカシングを学んでも、そういうところは堂々巡りしたままだったのかなと思います。
でも、ほんとうは、私の性分からすると、そうやってアクティブに活路を切り開こうとすると、自分が自分でなくなる不安が強いところがどうしてもある気がします。ズルイかもしれないけど、私は、条件が整うのを待つタイプなんです。ここぞというところでは結構勝負を賭ける自信はあります。まるで巣に近寄ってきた虫を土蜘蛛がサッと巣のふたを開けて引きずり込むみたいな、そういう抜け目なさですね(笑い)・・・・・そういうライフスタイルだけでやっていけるとも思いませんけど、ひとつのとりえだってことには、もっと開き直っていいのかも・・・・って」
ここまで私が話を聴いていて、彼女に献呈したくなったのは、バラ・ジェイソンが、「解決指向フォーカシング療法」で、座右の銘として書いている(邦訳p.219)次の言葉だった。
「すべてのことには時がある」
正確には、
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」
(旧約聖書 コヘレトの言葉[伝道の書]3:1 新共同訳)
カウンセリングにおける「効率性」を重視しているかにみえる短期療法系の訓練を受けたバラが、この、人間が自分の判断と努力だけで活路を開こうとすることの空しさを説いたとされる、ソロモン王に帰された言葉を大事にしているというのは、ひとつのパラドクスともいえますが、そもそもマジカルなまでのパラドクスの使い手であるということは、ミルトン・エリクソンにはじまる短期療法のセラピストの本質にも関わるわけでして(^^)
そして、カウンセリングを不毛な悪循環から脱却させるための「魔法の言葉」は、まさに「時を得た」」瞬間に、カウンセラーが狙い済まして「操縦しようとする」ような邪心すら超越して、まるで神の命に従うかのように、言葉として差し出すもののようであることを、日々の面接の中で、私はどことなく、ある畏怖を込めて意識しているつもりではあります。
その言葉の権威を、私に帰すことは回避せよ・・・・と。
今回、この場面、この脈絡だから、
「その感じがなかったとしたら」
などどいう、いつになく直截(ちょくせつ)な言い方を思わず私は使ったんだと思います。
いつもの私だと、
「その感じがすっかり解消されたと想像してみましょう」
・・・・・なーんていう言い方をしているのです。
でも、その場合には、まず間違いなく、あの、背中の痛みからの「大増殖を伴う猛抗議」などというドラマ性のある展開は生じなかったでしょうから。
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何とも悠然たる、マイ・ペースですが、そろそろ自分に許してもいいかな・・・・と。
まずは、おまけについている、この前の大晦日-元日のカウントダウン・ライブの録音の方を大喜びで聞いている段階。
よくもまあ、思いもよらない曲たちを、今のayuの表現力のある声でここまで楽しませてくれることか!! 下手にスタジオ録音で再録するよりも、よほど今のayuの実力が伝わる気がする。
・・・・・だから、本編の方はもう少しかかると思う。お待ちあれ。
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この前お書きして、すでに多くの方にお読みいただける人気記事になっている、
●SkypeやWindows Live Messengerの使い方の勘所は、「自動調整」を外すこと。
の中で、
「最近のラップトップパソコンの多くには内蔵マイクと内蔵スピーカーの装備があるから、取りあえず始めてみようと思ったら、ソフトのインストールだけではじめることができる」
と書いてしまいました。いわゆるウェブカムの多くにも内蔵マイクが仕込まれていまして、私もそのやり方でハンズフリーで済ませていたのですが、ふと思い立ち、耳への付け心地が悪くなさそうな、片耳用のマイクつきイヤホンも、実売500円だったので、買ってみて試してみたのですね。
↓この製品。
【16時までのご注文完了で当日出荷可能!】【62%OFF】パソコン用マルチメディアマイク付イヤフォン エレコム MS-HS59SC
すると、音声が相手にとって聞き取りやすくなるメリットだけではないのです!!
何と、双方向で、動画の動きが滑らかになり、通信をしながらマルチタスクで他のことをする(例えばブラウザでネットサーフィンしながら同じページを見て話をするなど)際のパソコン動作への負荷が目に見えて少なくなったのです!!
この原因は、すでにこの前の記事で指摘した問題と関わります。
ハンズフリーの際に使う、パソコン内蔵のマイクや、ウェブカム側に取り付けられたマイクは、人の声だけではなくて、部屋の色々な騒音を拾っていると考えられます。
パソコンはこうした、人の声以外の余計な音声情報まで、デジタル変換するという余計な負荷を背負い込むことになるのですね。
人間の脳の聴覚処理過程には、聴きたい音、特に人の声を選択的に聞き分ける能力が備わっています。よく、インタビューや会議などの録音を再生しようとすると、喫茶店なら周囲の話し声ばかりか皿の音、それどころかテープレコーダーが回る振動音すら大きく収録されていて、肝心の会話が予想外に小さな音でかき消されがちだということに難渋するものですが、これは、機械は正直に音を拾っているからこそです。
これを解消するには、人間の声の周波数だけを拾うように特化されたマイクを、口元近くに置き、しかも、デジタル録音の自動調整機能もオフ(この前もお書きしたように、あれは実は周囲の背景音が大きくなったり小さくなったりするだけで、しかもそのために余計なソフトウェア回路も使うのだから百害あって一利なし)、録音レヴェルを必要最小限に設定して、できるだけ少ないデジタル音声情報さえネットで伝達しさえすればいいようにするのが一番ということになるのだと思います。
その結果生まれた余裕が何にまわされるか? 画像情報を滑らかに相互伝達すること、そして、他のソフト(例えばブラウザ)をマルチタスクで動かす余力に回るわけですね。
このことを是非付言したくてこの記事を書きました。
*****
なお、skypeやメッセしながらブラウザを使うとどうしても重くなるとかフリーズするという人は、やはり標準ブラウザをIEにするのを見限ってしまい、FirefoxかLunascape、Graniのどれかに切り替えてしまうことがお勧めです。
FirefoxでもIEと同じトライデントエンジンを内部起動し、Microsft Updateやmsnの動画ニュースも問題なく表示できるプラグインがあることは、以前この記事で書いたとおりです。
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少し以前から予告させていたいておりましたとおり、本日、開業カウンセリングルーム検索サイト、「こころ相談.com」の「こころインタビュー」コーナーに、「うつ病の時のこころの状態」と題しまして、インタビューを掲載していただきました。
PDFファイルの形式で、この記事を独立して読んでいただき、保存することも可能です。
今の時代らしく、skypeを通してのインタビューでした。
校正段階での私のいろいろな注文に丁寧に答えてくださる形で、かなり長時間のインタビュー内容を、読みやすい、美しいレイアウトで編集してくださった、担当者のHさんに感謝申し上げます。
このブログでずっと展開してきた、精神医療と鬱の患者さんとのかかわりに対して、一介のカウンセラーが何ができるかというテーマの、現段階での集大成にできたかと思います。
ご意見、ご感想も、お待ち申し上げております。
*****
「こころ相談.com」は、日本を代表する、全国の開業カウンセラー検索サイトであるのみならず、さまざまな企画を立てて、登録カウンセラーにエッセイ等の執筆の機会を与えてくれ、一般の皆様が、心理カウンセラーひとりひとりの持ち味に触れる機会を提供し続けている、ネット界で得がたいサイトであると思っています。
まだサイトをご覧になったことがない皆様、一度アクセスしてみてはいかがでしょうか。
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企業秘密もある(!)ので、私がすでに現在具体的に進行中のプロジェクトだとか、開業以外の手堅い多角的な収入源確保についてすでに何が実現され、どういう「営業」やら一種の兼業リクルート活動をしているかとか、年単位で実現をめざして模索している大きな具体的な企画(ふたを開けてみたら、「やっと『それ』を実現する気になったのね」といわれるだろうなあ・・・)をここで書いていないのは自明のことである(^^;) ものによっては、早すぎる告知が関係者に迷惑をかける場合もあるのだし。
そして、ある意味で、私のブログの記事が、3月から現在までという、これまでにない、非常に長い期間、記事を書くペースも質も変動がないどころか、むしろテーマやスタイル的に集約・洗練され、集中力に全くむらがなくなり(なのに、文体がいい意味で軽くなり、以前ほど「くどく」なくなって、あっさりしてきたことにお気づきの人もあるだろう)、読者層すら無理なく絞り込んできているともいえる。
記事を書くたびに、非常にコンスタントな形で、私がそれまでの自分よりも一歩ずつ先に進んだ、新境地といっていい見解へと進んでいく(まさに私のカウンセラーとしての体験過程のステップが刻々と刻まれていく)安定した手応えも大きい。
時々、思い出したようにオーディオ系や音楽系の記事を入れるのは、ベスト20に今も居座るそうした記事がきっかけでおいでいただく方が今も少なくないことへのサービスでもあるし、同時に、「こんな記事をカウンセラーが書いているわけね」と気づいていただくきっかけとしての、定期的な「顧客誘致活動」として位置づけてもいる(^^) ニフティニュースに気が向くとコメントするのもそのためです。
こういちろうの人生に、ここまで力まない、安定感がある時期は到来したことはなかった。
プライベートでも、随分と穏やかで安らかな生活スタイルでいる。
だから、今は、私を、決してせかすな。
これ以上、ペースを変える必要をお求めなさるな。
い・ら・ぬおせっかい。
また鬱になりそうではないか(^^;)
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今、やっと昨日の第1話(毎週金曜日22時より放送)を観ました。
私は原作を知らないままです。
むしろ予備情報全くなしでぶっつけで観ようと思っていましたし、原作との比較論にも今後も一貫して無関心を通すことをあらかあじめお断りしておきます。
(追記:・・・・・ところが、その後原作を人から譲ってもらったために、原作の感想も結局は賭けることになります。こちらをどうぞ。)
細部に至るまで、非常にリアルに描かれているし、俳優さんも適材適所で好演だと思います。
藤原紀香さんの、最初登場した瞬間に彼女であるとは全く見えない、アイラインなし、ノーメイクでぼさぼさ頭、これだけはネットで情報ありましたけど、記者会見の動画や番組宣伝用のスナップ写真などでは、ドラマの映像を実際観た際の、その強烈なプレゼンスはほとんど伝わりません。ここまでやると、視聴者を幻滅させることを覚悟で彼女の「素顔」を見せる役者魂!に敬服するのみです。
私の中には「ルパン3世」の峰不二子の化身みたいなイメージが強かったので、かなり強烈。でも、おバカで、かわいくて、無力で、でも魅力的です。
*****
うつの人を抱えたご家族や恋人によく見られがちな光景である、そうした周囲の人自身がうつ的になっていく(あるいは、潜在的なうつがあぶりだされる)という悪循環のジレンマと、その血みどろの克服の中で、お互いに少しずつ癒され、生き方が変わっていく過程もきちんと描かれそうですね。
うつって、うつになったご本人が単に「回復する」だけのプロセスで済ませれるものであることは実は少ないのです。その人と関わる周囲の人との間の「システム」そのものが変化すること、ひいては、その家族やカップルが帰属していた社会との接点の「システム」も変化することが、連鎖反応的に、見かけ上はほんの少し、シフトする必要があることが多い。
ご本人がうつから「回復する」ことだけを家族や企業が「期待している」状態というのは、悪循環を維持する牢獄の最たるものです。ご本人は、果てしなく泥海の中でのたうつことになりやすい。これは、システムズ・アプローチに心得がある臨床家には俯瞰できているはずのことのようです。(このことも先日の児島先生の講義の中で示唆されていたのですが)
そして、実は、そうした、うつの方を包む「システム」の重要性の最たるものは、当然医師との関係性です。
このドラマの中では、理想的なお医者様と最初から出会えたという前提で描かれていくようです。
しかし、現実には、医師の一治療者としての実力は別としても、まずは、患者さん、ご家族とお医者さんとの間のコミュニケージョンに隙間風が吹いていることがいかに多いか。そして、それが治療過程の停滞の決定的因子であることがいかに多いか。
患者さんを包む一番ベーシックな社会的援助システムである筈の医者との関係そのものがきちんと歯車がかみ合っていないならば、うつの人が空回りし続けてもやむをえない、これは自明なことなのではないか?
我田引水ですが、この「お医者さんとのかかわりのサポート」という領域こそ、私が地域の開業カウンセラーとして、ここしばらくの間に非常な問題意識に目覚め、研鑽を積み、特化して展開させてきた大事な領域です。
実はこれが単なる「アドバイス」(コンサルテーション)ではなく、むしろセラビーそのものであるという認識に目覚めたことは先日にもお書きしました。
これについては、このブログで度々お書きしてきた、不肖、私の見解を、「こころ相談.com」で、総括的に、ロングインタビューの記事にしていただけることになりました。すでに最終校正作業終了。今週中に公開です。
*****
ドラマの方、いずれにしても、第1話がこの水準なら、今後の展開には、もうあまり心配がいらないかと思いました。
そうそう。風吹ジュンさんが演じるお医者さんが自転車乗りなのにはびっくりしてしまった、自転車乗りカウンセラーのこういちろうです(^^)
【追記】
後で確認したところ、このドラマの監修者は、NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」で番組出演され、メインのコメンテーターをお務めだった、日本うつ病学会理事長、野村総一郎先生です。
※続く第2話についてはこちらです。
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これは、この不況下でリストラされ、なかなか再就職が決まらない知人に思わず口にした言葉である。
その人の場合には、サーカスの曲芸団員あるいはジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」のロケットよろしく、自らが砲弾になって本丸まで届かず(ないしは外れて)砕け散るパターンを取っている気がしたのだが。
「別に、やろうとする職務内容で『妥協』して、やりたくもないこと、充足感がないことを地道にやることを求めているつもりはないよ。
僕がいう、『外堀を埋める』というのは、自分の目指すターゲットと一見関係ない事柄であってもと、仕事でも、プライベートでも、興味を持ったら、無理のない範囲で、ともかく手を出してみる、やってみるということのつもり。
そうやって、自分の周りにある、移動の自由を阻むぬかるみみたいなものに、足でザッ、ザッと周囲の土を寄せて、ともかく埋め立てていくみたいなことを、思いつくままに、できる範囲で少しずつやってしまう。
そうするうちに、いつの間にか、城のお堀にかかるいくつかの狭い橋を攻略しないと次のステージに進めないと信じている多くの人たちとまともに競り合うのとは別の形で、いつの間にか、お堀の、誰も気づかない、いつの間にか乾いた土盛りの部分を越えて、城内の意外なところに、「ゆるい坂をぐるっと回り込んで」侵入できていて、本丸の裏口あたりをうろついていろいろ観察して過ごしていたら、働き手を求めている思いもよらない役人と遭遇して、そこでもフランクに堂々としていたら、実は城の周りのいろんな状況や風景をこいつは良く知っているな、ということになって、存在意義を認めたもらえることもあるかもしれない」
その人にそういうことを言いたくなったその時の私は、実は、他ならぬ私自身が、そういう「あちこちからの、的中率の低い大砲射撃」がやはり必要ではないか? という焦りをやや感じていた時期だった気もします。
でも、これまでの自分に道が開けた時は、たいていの場合、そういう、なんとはなしにあちこち外堀を埋めていくということを無理せずにやって行った時であったことを思い出し、実は相手ではなくて、自分を諭すかのように、口にした気もします。
たとえそれが目指す本丸と、全く無関係の事柄への関心であり、
目標からの逃避であるかにすら見える場合ですら、
あなたが自分の中のその関心のままに一歩を踏み出した時、
それは回りまわって、「あなたの」外堀を埋めることに、どういうわけか、つながるようになります。
・・・・以上、最近は、花壇の手入れと、ちょっとだけ料理に目覚め始めたこういちろうより。
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久々にayuネタを書くかと思ったら、ここまで搦め手から来るか? と思われる方もあるだろうなあ・・・・![]()
でも、J-Popと洋楽の両方に詳しい人だと、もっともな着眼だ!!と、あっさり言われそうな気もする。
実は知りあいから紹介されて、最近聴いているんだけど。
最初に、ベスト盤の、" The Collection"から聴いた。
ザ・コレクション(スペシャル・エディション)(DVD付)
曲想は、結構、私の好きなオリヴィア・ニュートン=ジョンを思わせるところもある曲も少なくなくて、マドンナの起こしたレーベルからデビューした人にしては、意外とオールド・ファッションだなあと感じたけど、私にとっては非常に入りやすいスタイル。本人がギターやハーモニカなど、幾つも楽器をこなせる人だから、全く自然な成り行きなのだろうし、それとこの人、カナダでのインディーズ・デビューがわずか10歳らしかったから、ベースにある音楽スタイルっていうのが、年齢の割には古いあたりにあったんだと思う。
私って、洋楽を聴いていて、耳で歌詞のverbalな意味が読み取れるような英語力ではない。でも、歌詞カードを読むと、何か、凄ーーーーく「婉曲な」形で、プライベートなメッセージをぼろぼろと書いていくタイプの人であることに気がつく。添付の和訳は、そこらへんの「含みの多さ」の一面しか訳すことができていない。質は違うけど、どこかでayuの詞を思い出させるところがあって。
いきなり「誰にでも感情移入できる」普遍的な言葉で詞を書く人ではないのだ。「特定の人」を強く意識した書き方だから。
でも、最初、「この人何をぶつぶつとグチ言ってるんだ」と思いながらも話を聴くうちに、多くの人に共感できる接点が拓け出てくる・・・という、じんわりと効き目が聴いてくるタイプの詞なのだと思う。
(もっとも、2枚目以降のオリジナルアルバムでは、一転してシンプルな歌詞のものも増えてくるようですね)
でも、内容の自己披瀝的な赤裸々な側面は、むしろみゆきの系譜に近いかもしれない。
*****
そして、全世界で2400万枚というセールスを記録したという、ファースト・アルバムの"Jagged Little Pill"に聴き進むわけですが。
ベスト盤では、この、一曲ごとのアプローチの変化はとてもわからなかったなあと思う。そして何より、リスニングが無っ茶苦手で、意味は、ながら聴きだと全然伝わってこない私なのに、iTunesに入れて何かの作業をしていると、この人の声が、それこそ、
♪ワケのわからぬこと話してる
(浜崎あゆみ/independent)
・・・・というだけで、もう、何か訴えよう、訴えようとしているのが、(サリヴァンふうにいえば)"verbal"にではなくて"vocal"に伝わってきて、見事にinterruptされるわけである。
声の質として、エキセントリックなのではない。
むしろ不器用ですらある声だと思う。
なのに、それを総動員して、くどくどくどくどと叫びを上げるのだ、この人は。
このような感覚に襲われたことは、あまりない気がした。
まさに、「角張った小さなタブレットを飲み干す」ひっかかかりというか、絶妙なアルバムタイトルである。
*****
2枚のCDのライナーノーツによると、この人、先ほど述べたように、10歳でのカナダでのインディーズ・デビュー、カナダ国内でのメジャー・デビュー、そして、上述のアルバムを引っさげての国際的なメジャー・デビューという階段を歩んできたみたいだけど、それぞれいろいろ賞をもらって高評価の中で次のステージに進んだのに、「何か、何か違う」と違和感を感じ続けていたみたいである。「周囲は大人ばっかりだったし」とインタビューにも答えているらしい。
このあたりも、10代初めに福岡ですでにモデルやCMの仕事をはじめ、上京してから「未成年」「闇のパープルアイ」「ツインズ教師」などで演技力にも注目され、avex以前に一度は歌手デビューしているayuのかかえ続けた「違和感」とも何か通じるところがあるのではないか???
まだ、確定情報ではないので、情報リソースは明かしませんが、ayuのプロモーション・ビデオの中に、アラニスののそれに相当影響を受けているという説があるものもあるらしくて、もし仮にayuが好きなアーティストとしてアラニスを掲げる発言をどこかで公言していたとしても、何も違和感がない気もします。
以前、ayuの好きなアーティストについての何かのインタビューでの情報に接して、「私の知らない洋楽女性シンガー」がそこに含まれていたのだけど、なんとなくそれがアラニスという気もしてきた・・・・誰か教えてくだされ!!
*****
【第2版で追記】
「王子のきつね」さんにこの件をネットでお尋ねたら、実にあっさりと返事をいただきました(^^)
↓少なくとも、この"Thank U"のPVがayuの"Loveppears"のジャケットに与えた影響は大いにありそうです。
●Alanis Morissette - Thank you (subtitulado en español)(YouTube)
*****
彼女の曲は、iTune Storeで十分に整備されていますね。
iTunes StoreのAlanis Morissetteコーナー
*****
おしまいに、YouTubeから、アラニスのファンに、「このバージョンをいきなり紹介するのは反則!!」といわれるのを承知で、メロディーの美しさと詞の悲しさが好対照の、"Your House"を。
(アラニス自身の声ではなくて、あくまでもカバーですが)
やっぱり、この曲の、オリジナルアルバムへの収録の際の手法を、ayuさん、まねてるんじゃない?? 上記のアルバムの
あの曲で?
"Your House"をフツーに聴くなら、10年後に再録された↑このアルバムということになるのかな?
*****
そうそう、ayuよりみゆきより、何より矢井田瞳さんなんて、作風的に、アラニスともろにかぶるという点で、日本では代表的な人の筈・・・・ですよね?
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私の住んでいる福岡の久留米のあたりでは、まだ今日現在、夕方になると結構ひんやりしていまして、大船時代だと、5月下旬といえば、すでに冷房をかなり動かし始めていたのがウソみたいで、土地の気候の違いというものの不思議を感じているこういちろうです。
でも、きっと、梅雨明けの頃には、昨年8月に久留米に帰ってきた直後に圧倒された、盆地性でじっとりとしていて平然と毎日毎日35度を上回る、
灼熱地獄
の久留米になってしまうんだろうなあ![]()
さて、夏を迎えるにあたって、パソコンユーザーが警戒すべきなのは、CPUの熱暴走対策ではないかと思います。
夏以外は特に問題がないのに、夏になるたびに、冷房していても、パソコンのファンがとてつもない唸りを上げて悲鳴のように回転し、突如画面がフリーズして落ちてしまうという経験をなさっている方は少なくないのではないでしょうか。
デスクトップ型でしたら、夏を迎える前に、メカに自信がない方でも、試しに側板を外してみてください。中がうず高き埃の山になっていることにうんざりされる皆さんは多いはずです。
たいていのデスクトップパソコンの場合、たいてい2箇所にファンがついています。
←ひとつはCPUの上を覆うように張り付いているもの。
ここ、エアコンみたいに金属の薄い板(ヒートシンク)がびっしり並んでいまして、熱をできるだけ逃がそうとしている部分なのがわかります。ところが、この板の密集のおかげで、ほこりを溜め込む巣窟になっています。
もうひとつは、「電源ボックス」という、パソコンの函体内部の温まった空気を外部に排出する目的のファンとと電源部を兼ね備えた、たいてい裏側のパネルの内側に貼り付けるみたいにくっついている箱みたいな部分。
パソコンの熱のかなり部分は奥深くに鎮座するCPUで発生しますが、この電源部にもトランスとコンデンサがあるので発熱がたいへん大きい。そこで、外部排出用のファンと電源部が一体となったパーツになっているのですね。
まずは、この2箇所のファン周りを重点的に、中の埃をきれいに吸い取ってしまう掃除をしてみてください(もちろん、電源を切ってからはじめて下さいね)。
いわばデスクトップパソコンそのものが、室内の埃を年から年中吸引し続ける掃除機みたいなものなわけですね。でも、その掃除機には、吸引した埃をためておく袋とかはないわけです![]()
ですから、デスクトップパソコンを置く場所自体を埃っぽい場所にしたり、普段の掃除がしづらい場所にしてしまうことは避けた方が言いかと思います。
私の場合、机の脇の床に直接設置するのをやめ(ある程度床から持ち上げた、しかもパソコンまわりに空間が十分がある場所がいい)、裏側もかんたんにハンドクリーナーで吸引できるポジションにしただけで、急激に内部に埃がたまるという問題のかなりは解決したようにも思います。
*****
しかし、こうした掃除を丁寧に行なっても、意外なまでに夏場の性能回復と、熱暴走が止まらないことは少なくないのですね(^^;;;)
その原因は、前述の「電源ボックス」に使われているコンデンサに、高品質のものが少ないために、ほんの2,3年のうちに、熱で痛んでしまって、本来の性能を発揮しなくなってしまうことが少なくないからです。
パソコン自作派の人でしたら、この「電源ボックスの交換」をひとりでもできて、その際に、ファンの効率がよくて、音も静かで、コンデンサも高品質の高級パーツに置き換えることを知っているでしょう。恐らくサウンドボードを入れえ変えるくらいの技能がある人なら、そんなにむずかしいことではないでしょう。
しかし、これは、CPUやボードを含めて、パソコンの他のパーツのマッチングについてかなりの知識がないとできないことですので、一般の方がいきなり挑戦することはあまりお勧めではありません。まずはパソコン自作について非常に詳しい店員さんのいる(自作教室もやっているくらいの)パソコンショップでお尋ねになるべきかと思ます。
でも一応、電源ボックスを単品でも売っている代表的なサイトとして、代表的なBTOパソコンの会社、「パソコン工房」のサイトの電源コーナーをご紹介しておきます。
↓もうひとつ、パソコンパーツの通販で品揃えがいいサイト、「ドスパラ」。
いずれにしても、電源ボックスそのものがすでにそうやって経年変化で老朽化していないこと、あるいはメーカー修理で新品に交換済み、という前提で言っても、OSが代わらないとしても、パソコンの搭載ソフトは1年の間にたいてい重たい方向にバージョンアップし、製作したファイルは刻々と増加し・・・・という形で、パソコンにかかる付加は、徐々に増加していくことには変わりがありません。
*****
つい先日、パソコン内部の温度状態を示すメーター(いろんなソフトで観測できます。例えば"PC Wizard 2008"というフリーソフト)の目盛りが少し気になり始めました。
私は、「電源ボックス」変更などという大げさなことをせずに、「今年も」、夏場恒例の対策に取り組みました。
usb給電の「ミニ型扇風機」を、デスクトップパソコンの函体の側面、埃を巻き上げそうもないアングルに向けて間近に設置した・・・・・それだけです(^^;) この種のミニ扇風機、羽根が柔らかい材質のものが多いので、小さい子供さんがおいでの家庭ではやはり回避すべき(!)だとしても、セッティングに工夫すれば、大人がうっかり怪我の心配はあまりないと思いますよ。

製品によってはうなりや振動があります。しかし、多くの場合、これも簡単な創意工夫で止まります。上の写真の製品(あばれ馬シリーズ LF-1 実売890円 LEDライトつき。パソコンショップ「アプライド」取り扱い)は、何と扇風機の回転の振動で、置いた場所からどんどん移動していくという、どうにも困った習性ないし副作用(?)がありましたが
、底にぶ厚めのソルボセインシートを張るという対策で、別に糊とかの助けもなしに安定し、本体の振動や「うなり」も全く気にならなくなったように思います。
新制振材ソルボセイン SORBO5 厚さ5mmのサイズ300mm×300mm・目的に応じてカット可能 オーディオ機器など有害振動カット!
デスクトップパソコンの内部のファンの方がよほどうるさいですし(^^) 更に金属の部分に、粘り気のあまりないブチルゴムで鳴き止めをかけました。
これだけでも、室内冷房の補助があれば、函体が生暖かくなることが、私の機種の場合だと、ほとんど止まり、今の季節なら「ひんやりパソコン」になります。
この種の製品、いろいろあり、数百円で激安パソコンショップで買えるかと思います。景品でついてくる場合すらあるかも? 自分のパソコン環境でのしやすさはどうかを確認して、駄目もとで使ってみるのも、面白いかもしれませんよ?
これを、家電系のミニ扇風機にまで大きくすると、逆に周囲の埃を巻き上げすぎて、長期的にはパソコン内部にマイナスかもしれませんね。函体のアルミの熱伝導の高さを信頼して、局所的に徹底的に熱を空気中に逃すという戦略なわけです。
もし、「この扇風機のためのUSB電源供給がパソコンに負担になっては無意味ではないか」とお感じの方があれば、iPodや携帯電話用のAC/USB対応急速充電器に附属しているAC電源用からUSB電源に変換するプラグを流用すればいいかと思います。
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なお、ラップトップパソコンの場合にも、この熱暴走の問題はつきものですよね。
ラップトップパソコンの方が、机などと接している空間が狭く、しかもその机の材質が木など、熱を逃がしにくいものであった場合、夏場は簡単に、裏側が凄く熱くなっていたりするものです。
(冬場でも、コタツの上でラップトップパソコンを操作したら、容易に熱暴走するという人もあるでしょうね!!)
ラップトップパソコンを直置きせず、両端の収納式の脚を立てて手前に傾斜させて使うという習慣がある人だと、それだけでもこの熱暴走の危険の問題をクリアーできることも多いのですが、機種によっては、脚を立ててしまうと急に打ちにくくなったり、脚そのものが華奢で壊れやすい場合もあります。そして、ラップトップとなると、絶対に水平な形に置いて打たないと嫌だという人も、結構おられるかと。
最近のラップトップパソコンは、薄型が主流になり、最近のラップトップ用の新開発のCPUの消費電力の少なさを信じて、ファンで熱を吐き出すというより、函体のアルミを通しての熱伝導で冷やすことに依存した製品が増えているのではないかと思いますが、製品と使用環境によっては、それが期待された効果を発揮できない場合もかなりあるかと。
そういう場合に、ラップトップ専用の放熱のための製品を下に敷くというアプローチになります。
大きく分けると、
エレコム SX-B502
↑こんなふうな、ジェルタイプの、熱伝導性のいい半液体的なものを密封したシートを下に敷いて、内部の液体の対流の力を借りて熱を逃がす「「ソフト・シート・タイプ」の製品(上記の製品はA4版用)と、
エレコム SX-CL04-WH
↑こんなふうな、「ハード・タイプ」、つまり、USB電源供給の、空冷式のファン2つか3つを内装した薄い台の上にパソコン本体を載せるスタイルのふたつがあります。
シグマAPOシステム LTC3F-BK
後者の場合、高級品だと、↑こんなふうに、この増設ファン搭載の薄い台の材質そのものしっかりしたアルミにして、それだけでも熱伝導で熱を逃がす効果が高いものにしているものも見られます。
実際に現物を見てみると、この下敷きの分厚さのために、これまで打っていたポジションよりかなり高くなると感じるケースもあるでしょうし、ハードタイプでもコンパクトに収納できるものもあれば、結構ごっつくて持ち歩きには不向きで、メインパソコン代わりにラップトッフを「据え置いて」使う人向きかな?という製品など、いろいろです。
更に、現在ご使用のラップトップパソコンとのデザインや、特に底面の形状とのマッチング、USBではないAC電源のサポート、電源供給型のUSBのハブどころか各種カードのスロットも兼ねている製品など、いろいろ迷っていい要素はあろうかとお思います。もっともたいていの場合、滑り止めシートとかが附属していて、どうにもしっくり来ないということは滅多にないかとは思いますが。
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ちょっとどうなのかなあ?
・・・・これは、メンヘル系・心理系に限らず、いろんなジャンルの、いくつものサイトをあちこち訪問させていただく中で、時々感じることなんです。
そのサイトをずっとROMしている多くの人にとって、その、まだ場に不慣れな人のコメントの、悪意が全くない、果たして落ち度といえるかどうかも怪しい次元での「不心得」に対して、サイト運営者や常連が、どう柔軟に、傷つけない形で対応して、「自制を求めて」いるかどうかの方にこそ、注意が向くということです。
ROM読者が我が身に置き換えて(同一化して)感じてみるのは、そうやってサイト運営者や常連から糾弾される側の人間の心境だったりするわけですね
明日は我が身か?
このサイトには書き込むまい。
大人しくしていよう。
こうして、そのサイトは、ほんとうに幅広い人たちに開かれた、でも「そこそこの」安全感はあるサイトにはなれなくなるのです。窮屈なだけのね┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
繰り返しますけど、これは特定のサイトへの感想ではありません。
いくつものサイトに感じてきた「ダブルバインド」構造です。
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前編の続き、第82回日本産業衛生学会における、日本短期療法学会元理事長、長崎純心大学教授、児島達美先生による、産業保健領域(EAP)における短期療法的アプローチの具体について報告したい。
児島先生が、講演の後半の1時間を費やしたのは、「ライブ・コンサルテーション」と呼ばれる形式でのケース・スーパービジョンのデモンストレーションだった。
コンサルテーションとは、クライエントにあたる人物とカウンセラーの直接の一対一の面接ではなく、むしろ問題を抱えた人物=いわゆるクライエントと関わる、援助的側面を持つ当事者(カウンセラー、上司、家族、配偶者、友人など)に対して、専門家が、クライエントさんにいかに対応するのかについて助言する場合を指す。
(私の書いたこの記事における分類をご参照ください)
助言する専門家のことをコンサルタントと呼び、助言を受ける人物のことをコンサルティーと呼ぶ。
つまり、コンサルテーションにおいては、通常のカウンセリングとは異なり、クライエント/クライエントに関わる援助者(コンサルティー)/助言する専門家(コンサルタント)・・・という三者関係が布置されていることになる(クライエントさん自身はその場に同席しなくても)。
これは、クライエントさんとの面接過程について、カウンセラーが、更に経験あるカウンセラーに有料契約で助言を求める、ケーススーパービジョンと呼ばれる枠組み基本的には共通である。つまり、
スーパーバイザー=コンサルタント
スーパーパイジー=コンサルティー
と読み替えて、一応差し支えはない。
ただ、ケーススーパービジョンにありがちな光景は、
1.スーパーバイジーが綿々とケース記録を読み上げ、(ああ、聴いていると退屈!!)
2.スーパーバイジーは、クライエントさんの病理や面接過程についての分析や考察を、あくまでもスーパーバイジーの中での「思い込みの物語」としてとうとうと語り、
3.どのようにケースがうまく行かないのかについて、スーパーバイジーは、自分の未熟さについて、ひたすら自虐的で内罰的な自己分析を重ね、
4.・・・・かと思うと、今度は、「クライエントさんの自我水準がボーダーラインだからうまくいかない」「担当医がデリカシーに欠ける応対をクライエントさんにしてくれていない」などという「外罰的な」責任転嫁に転じ、
5.そうしたスーパーバイジーの防衛のヨロイを更に突き崩さんとばかりに、スーパーバイザーの先生は、スーパーバイジーがまだ気がついていない問題点を洗い出し、詰問し、
6.もしそれがグループスーパービジョンだったら、他に参加者も、スーパーバイザーの先生に「同一化」して、他の人の事例の「揚げ足の取り方」にだけ習熟の技を磨き、
7.結局、そうやっってスーパーパイジーが語った、主観的で都合のいい切り取られ方をした面接の報告という「フィクション」に基づいてなされた、一面的で主観的で、人のことはなんとでもいえるけどねえといいたくもなる、意外と無責任であてずっぽうで思いつきに過ぎないな「見当違いの」助言が、スーパーバイジーに雨あられと降り注ぎ、
8.そうした助言に従って面接場面でクライエントさんに向かって動いてみようとしたら、スーパービジョンを受ける前よりも、クライエントさんとの関係は余計に混乱し、収拾がつかなくなり、
9.カウンセラーは、いよいよ自分の感性と判断で、腹を据えて面接に臨めなくなり、
10.そういうカウンセラーの自信なさげな様子を、クライエントさんは、たよりなく感じて、カウンセラーに更に苦情を言ったり、罵詈雑言を重ねたり、ついには無断キャンセルにして来なくなったり、相談機関窓口に「カウンセラーさんを変えてください」と電話を入れたりして、いよいよカウンセラーはアイデンティティーの危機に陥り、
11.次のケーススーパービジョンで、1.から7.までをもう一度繰り返して、更にスーパーバイザーの叱正を受けたり、壮絶な自己嫌悪のトラウマを深め、
12.そうこうするうちに、「こんなスーパーバイザーに指導を受けているから自分は駄目になったんだ」と内罰から外罰に転じ、
13.気を取り直して、そのカウンセラーは、別の「もっと優秀な」スーパーバイザーを探して、
14.以上、1.から13.を2回も3回も4回も繰り返した挙句、
15.今日も新たなスーパーバイザーを求めて、路頭をさ迷うのでした。
・・・・・という現実が、ちまたに見られるわけである(^^;)
*****
そういう、ありがちなスーパービジョンと、児島先生のような達人によるライブ・コンサルテーションは何が違うか。
1.仮に事前にケース記録をまとめてきたとしても、コンサルティー(助言を受ける人)は、それを読み上げるのではなくて、あくまでもライブで話せる範囲で、今、クライエントとの関わりで生じている行き詰まりや、何を解決したいのかを物語る。コンサルタント側も、その内容について、文書等を含めて、事前に一切予備情報を受け取らない。
2.コンサルタントは、事例に対する助言をするというよりも、いわば「ある人との対人関係に悩んでいるクライエント」に応対するかのように、短期療法的な面接過程そのものを、コンサルティーとの間で繰り広げていく(そこには、間接的に、コンサルティ自身をクライエントの身に置いて役割交換をした上での、間接的だが体験的な技法の学習を暗々裏に促すという側面が内包されることになる)。
3.短期療法の性質上、それは「問題の原因探し」的な探求や分析ではなく、コンサルティーが「今、何に、どう困っているか」「これからどうしたいのか」という点に絞ってやり取りは勧められていく。
4.私の見たところ、コンサルタントは、コンサルティーの発言を受容的・共感的に受け止め、コンサルティーの発言の流れを押しとどめて水を差すことはむしろ回避しているが、さりげなく話しに水を向ける際に「あなたはそれをどう感じ(思い、考え)ましたか」などと内省を深める方向に焦点を絞るのではなく、「それで、あなたは、クライエントさんにその後どう振舞いましたか」などという、その人の認知・思考・行動面での「問題解決」のありようの話題を引き出そうとしているように見えた。
5.しかし、そうした際に、はた目から観て、そのコンサルティの問題解決様式に一定のかたくなな固着があり、クライエントさんとの間に悪循環的な相互作用があっても、コンサルタントである児島先生はそれをすぐさま指摘して修正を促すことはしていない。まるで、そうしたコンサルティーの認知の固着や、相互作用的な悪循環が繰り返し自然と浮かび上がり、コンサルティー自身が、その悪循環について暗々裏に少しずつ気づき始めるまでは、むしろそうした悪循環パターンそのものを思うがままに自由に語らせ、ふるまうに任せ、それをやさしく「抱える」ようなスタンスで応対されているかのように感じた。この点での児島先生の、どっしりとした、安心感を漂わせた、少しユーモアすら漂わせたプレゼンスには、臨床家として、大いに見習うべきものを感じた。
6.こうした流れの中で、まるで「時が満ちた」間合いを見計らうかのようにして、児島先生は、「ところで、○○さん、ちょっと次のようなことを、今、ここで試してみてはどうかと思うんですけど?」というような調子で、コンサルティーに、独特の「思考実験」のようなものを提案する。それは独特の意外性があり、まるで、面白いゲームに誘(いざな)うような問いかけである(後で知ったが、こういうのを「ミラクル・クエスチョン」というんですね。)
*****
この部分から、実際に目の前でなされたライブ・コンサルテーションの内容をご報告するのがふさわしいだろう。
クライエントさんは、企業に勤める中年のサラリーマンであり、うつ病で、休職と復職を繰り返してきた。産業医は、ともかく毎日会社に通うことが習慣化することを、EAPカウンセラーであるコンサルティーに求めている。しかし、クライエントさん自身も激務に復帰することに不安を抱いているし、その一方、上司の自分への対応に不満を抱いてもいる。コンサルティーは、そうしたクライエントさんにどのように対応していくのが援助的かに、さまざまな迷いを抱き、時にはクライエントさんに色々反論したり意見したくなる衝動と戦ってもいる。
・・・・・この水準までなら、EAP(従業員援助プログラム)領域でのサラリーマンの復職支援として、非常に典型的な状況ですから、個人が特定できる心配は全くないかと思います(^^;)
さて、児島先生は、上記の1.から5.にあたるやりとりが、20分ほどかけて進んできたあたりで、水を向けるわけですね。
6.「どころで、今、ここまで私たちがこの場で繰り広げてきたやりとりを、○○さん(クライエントさんの仮名。その場でつけてもらうあたりも興味深かったが)が、実は私たちのうしろの「このへん」にいて、みんな聴いていたと想像してみるのはいかがでしょう? ○○さんは、どんな感想を言ってくれると思いますか?」
コンサルティーのAさんは答えます:
「そうですねえ、うーん・・・・・・○○さんは、いつでも、私との面接の後で、お礼を言ってきます。きっと、いままでの私の話を聴いていても、『いえいえ、カウンセリングは十分に役に立っていますから』などと、答えてくださるのではないでしょうか?・・・・・・(沈黙)・・・・・・・でも、ほんとうのところ、そのように感じてくださっているかというと、自信がないんですよ」
児島先生は、もう一度、類似の質問を投げかけます。
「なるほど・・・・・・それでは、今度は、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?」
「きっと、『いえいえ、本当に感謝していますから』と言ってくださるとは思うんですが・・・・・・(この後、Aさんに思い出された、関連事項についての記憶については割愛します)」
児島先生は、更にもう一度(!)、類似の質問を投げかけます。
「なるほど・・・・・・それでは、もう一度やってみましょう、今、お話になった、そのことまで○○さんが、このやりとりのそばにいて、お聴きになっていたとしますね。 ○○さんは、どんな感想を言って下さると思いますか?」
「・・・・・・どうも私は、○○さんが実際に示している態度や言っていることを、額面どおり信じられない、ほんとうは、凄く違和感や欲求不満をを感じているのに、それを言えないまま溜め込んでいるはずだとどうしても感じてしまうんですよ。そして、私は、そうした○○さんの求めにどう答えていいか、困惑してしまっているようですね」
ここで児島先生は、突如、ご自身の経験談を問わず語りにお始めになります:
「私が若い頃、スーパーバイザーの先生に事例の報告をしている時、『クライエントさんの本当の気持ちがわからない』ということをふと漏らしたんですよ。そうしたら、先生が次のように言われたのが凄く印象的でした。
『クライエントさんの本当に気持ちを確かめることって、それほど重要なことなのかね?』
そのように言われたことが、私の頭の中に意外なくらいに残り続けていましてね。そうこうするうちに、クライエントさんの言葉の「ウラを読もう」という構えが私の中からいつの間にか抜け落ちていったみたいでね。・・・・・気がついてみると、そういう私の側のスタンスの微妙な変化みたいなものが、何となくクライエントさんに面接室で伝わるようになって行ったんじゃないかとも思うけど、クライエントさんも感じたままに私の前で思ったことを言ってくれているなと思えることがいつの間にか増えて、面接の力みが、いい意味で抜けて行った気がしているんですよ」
これを聴いていた、コンサルティーのAさんは、ふと思い立つように、次のように語りだします:
「先生のお話を聴きながら、私が○○さんの言うことを「信じられない」のはなぜかなあ?・・・・と思いを巡らせていたんですが・・・・・いま、ふと、思い浮かんだのは、そもそも私のほうが、○○さんに、感じたままのこと、思ったままのことを全然言っていないじゃないか?・・・・・って」
******
フォーカシング的に言えば、児島先生が3回繰り出した問いかけ(私が質問タイムに確認したところ、この質問は、短期療法の世界で「関係性の質問」と呼ばれるもののバリエーションンだそうである)は、フォーカシング技法でいう「フェルトセンスに問いかける(asking)」と実に似通った質問である。
フォーカシングの場合には、内的な対象としての、フェルトセンス=身体の感じそのものからの応答を誘発するものであるのに対して、児島先生のなさったのは、その場にいないクライエントさんと、イメージ上で対話するという形でこそあれ、外的な現実の他者、しかも3人目の他者がどのように応答してくるかという実験である点に重要な違いがある。
しかし、例えば、フォーカシングで、
ガイド:「何かが『引っ込んで』いる・・・・・そういう言い方でしっくりくるかな? とお腹の感じに尋ねてあげてみたらいかがでしょうか」
フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・『一応はいいよ』と答えてくれています」
ガイド:「なるほど、『一応はいよ』と答えてくれているんですね。それでは、『何かがそこに引っ込んでいるんだね、わかったよ、そこにいるのは』みたいに声をかけてがげてみるのはいかがでしょう」
フォーカサー:「・・・・・(沈黙)・・・・・何か感じが変わってきました」
ガイド:「・・・ほう、・・・・というと?」
フォーカサー:「・・・・・さっきまでは、引っ込まないでいると傷つくので、やむなく引っ込むという感じで、きゅうっと締まるような苦しさが先にたっていたんですけど・・・・・・どういうわけか、さっき、「そこにいるのはわかったよ」といってあげてみたら、その部分が何か緩んで、少しずつ暖かくなってきたんです。・・・・・おや?「いやいや、引っ込んでみているのも結構いいものだよ」とまで言ってくる(笑い)」
・・・・などという展開が生じる時の、体験過程のステップの刻まれ方とあまりに似ていると思えたのです。
別の質問者が、「児島先生が途中からご自身の体験談という形にされたことが印象的でした。そこにもひとつの大事な意味がありそうだと思ったのですが?」と水を向けると、
「こういう時に『それはひとつの気づきですねえ』なーんていうふうに、上から押し付けるようなあり方はどうかな?と思っています。コンサルティーにとってそれがこのライブ・セッションの中ではっきりと定着した理解になるかどうかなんて、本当に大事なことなんでしょうか? だから、私は、自分にもそういうことがあったんだよ、という、コンサルティと同じ目線での経験談という間接的な示唆にとどめて、そこから何を汲み取るかは、お任せしてしまいたいと言う気持ちもあったんだと思います。・・・・ここまで説明してしまうと、これ自体があと付けの理屈っぽくなりますけど」
ここで更に、司会もなさっていた島根大学の足立智昭先生(同じ島根の、「こころの天気」で著名な土江正司さん・・・・フォーカシング関係者にはおなじみ・・・・・の盟友でもあります)が、
「児島先生は、ここで、ご自身のスーパービジョンの先生という「4人目」をライブセッションの場の中に呼び込まれたということが大事なのではないでしょうか?」
という絶妙の示唆をして下さいました。
コンサルティーのAさんも、
「これまでの事例検討を受けて一度も味わったこともない不思議な体験をしました」
と感慨深げでした。
思うに、同じ事例を、ありがちな精神分析系の事例検討会が扱えば、「転移」や「逆転移」、「投影同一視」などという用語が果てしなく飛び交うにかかわらず、
「この事例って、むずかしい事例だよねえ・・・・」
という徒労感が、参加者全体の中にどよーんと覆い尽くすことが必至の事例だったと思います。
その意味で、この「公開ライブ・コンサルテーション」、わずか40分ほどでしたが、まさに「奇跡(ミラクル)の40分」、短期療法の真髄を見せていただけたと感じております。
改めて、講師の児島先生、事例提供者のA先生、この企画をご準備くださった、産業衛生学会産業心理技術研究会のスタッフの諸先生方に、厚く御礼申し上げます。
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本日、これからまだ外に出てひとつやることがあるこういちろうですが、今日久々に体重計に乗ってみる機会がありました。
少なくとも過去20年で一番低い数値でした(^^)
もうちちょっとで、夢の「王台割れ」に到達ですが(何十キロ台かは秘密)
昨日の学会で久々に会った知り合いからも、「ずいぶんスマートになられましたね」とのお言葉を頂き(^^)
この数ヶ月、久留米の豚骨ラーメンにはまっていて、それ以外を含めて、以前よりも脂っこいものが好きになっているにもかかわらず、私のいろんな検査数値の中で唯一イエローだった血中中性脂肪濃度もイエローを脱して、メタボ体質から遠ざかりつつあります。
↑のはずで(しかも大砲ラーメンの昔ラーメンのひいきで、いつも替え玉せずにいられないの)ですが![]()
大船時代と違い、職場オフィスと自宅が同じになったにもかかわらず、更には自炊のままなのに、外出頻度は遥かに増加、自転車でちょっしゅう、久留米の郊外、ゆめタウンより向こうの東合川の量販店街まで飛ばしていることも大きいでしょう。
もう少し資金的余裕ができたらコアリズムに挑むという噂もある???

↑2週間前の近影
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日付が変わって昨日になってしまいましたが、以前予告しておりましたように、福岡国際会議場で開催された、第82回日本産業衛生学会の関連行事、第2回産業心理技術研究会に参加してまいりました。
長崎純心大学の児島達美先生を講師にお迎えして、
「産業保険活動をより効果的に進めるための心理的支援
-ブリーフ・セラピー、システムズアプローチの視点から-」
というテーマでのものでしたが、産業保健領域でのうつ病のクライエントさんの就労支援についての「ライブ・コンサルテーション」と呼ばれるものの実演に接したことが、私にとって非常に大きなインパクトになりました。
ここでなされている相互作用は、すこぶる、すこぶる、フォーカシング的なものだったのです!!
実はこの催しにあわせて、泥縄で、最近、日笠先生の監訳で邦訳が刊行されたばかりの、バラ・ジェイソン著、「解決指向フォーカシング療法―深いセラピーを短く・短いセラピーを深く」を斜め読みして臨んだのですが、そこから予想されていたものを遥かに超えた水準で、短期療法の達人(日本ブリーフセラピー学会元会長)、児島先生のライブ・セッションは、成功裏に進むフォーカシング・セッションと、あまりに共通のマインドと、驚くべき「ライブ性」を備えていました。
その内容については、守秘義務には慎重に配慮した上で、当ブログでもご報告します。
こちらに前編があります。
博多駅近くの水たき屋での、参加者の皆様との二次会の懇談もたいへん充実した、楽しいひとときでした。
お会いできた皆様、これからもよろしくお願い申し上げます。
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そして。
もう、決めました。
先述のバラの本これから数日で読破です。
もう、現場実践で盗みまくらせていただきます。
私の中に、それを受け入れるだけの準備は、実はいつの間にか、最近の私の目指す方向性の中に暗々裏に含まれていたことにも驚きました。
数日後までには、いきなり、この本の詳しい「書評」を、かなりまとまった完成度でこの場でお書きできることでしょう!!
追記:書評にまではなりませんでしたが、まずとりあえずは、こちらの記事をどうぞ!!
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新インフルエンザの日本上陸、神戸から関西全域、そして関東へと感染者確認が広がりつつあります。
関西では、一斉休校になった途端にカラオケルームに生徒たちが怒涛のように押し寄せるという、これでは感染予防にまるでならないではないかという事態もニュースになりましたね。
私の知り合いがネット上の某仮想空間で遭遇したエピソード。
成り行きで、関西の女子中学生のたまり場スペースに入り込んでしまったら、みんなで「わーい、休校だ、休校だ!!」と踊り狂っていて、そのエネルギーに圧倒されたとか(^^;)
インフルエンザウィルスはコンピューターウィルスに変異する可能性はないでしょうから
、ネット上の仮想空間でたむろできることは、むしろこうした場合には、むしろ「有効な感染予防対策」であろうかとも思われます(^^;)
高校生世代が特に感染しやすく、他方、高齢者の感染率がかなり低く、最新情報によれば、1957年より前に生まれた人には免疫抗体が存在している可能性があるということです(・・・・ギリギリで圏内に入れなかった)。タミフルをはじめとする薬の投与や配給の問題、開業医での受診拒否問題、他地域の自治体首長が、関西での教訓を生かして、特定の中核病院に患者さんが押し寄せるのではなく、軽症者は地域の開業医に分散受診し、自宅静養を促す方向へと、事前に広報上・行政指導上の対策をとりはじめるように指示をした旨会見したというニュース、新ワクチン配布の見通しについてなど、いろいろな情報や意見がネット上でも飛び交っていますが、このエントリーではそうした、すでに語り尽くされている切り口はご遠慮するとして・・・・・
そうそう、大阪での浜崎あゆみや倖田來未や大塚愛のライブコンサートも中止になってしまったんでしたよね。すでにかなり前からライヴコンサート重視にシフトしているavex(アーティスト所属事務所と、CD制作会社と、ライブ公演興業会社がすべてavexグループの構成部分という、総合的な企業体なのである。こういう形態の会社は珍しい)、こういう時には律儀だから、感染が収まったら、同じプログラムの代替公演、今回残念な思いをした人優先でチケット準備してくれると思いますので。
追加公演に関する現在の最新の進行状況(5/22)は、
●コンサート中止に伴うご案内(5月22日現在)(avex公式サイト)
で読めます。追加公演「最終調整」段階とのこと。
ライブの場合、もちろん若い人が観客に多いということもありますが、実際にはその特定の狭い地域からのみ観客が集まるわけではなく、追っかけの人も少なからずいるため、実際には日本各地の人が来ているともいえます。そうなると、感染した人は日本各地にウィルスを持ち帰るわけです。更に言えば、そうした遠方組は、体力的にも無理をする強行軍を組んでいることも少なくないのではないかとも思えます。そう考えると中止もやむなしかなと思いますね。
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●「マスク」 新型インフルエンザで需要急増 予防効果なし!?「過剰防衛」 (msn=産経)
この件についても、実際の感染者からの飛まつ感染の危険を押さえたり、鼻や喉、呼吸器の炎症を緩和することに効果があっても、予防効果はないので、特に日本で顕著な、マスク品薄現象は(罹患して本当に捜し求めている人には行き渡らないわけだし)無意味なものであるという意見は、すでに多くのサイトで語られています。
中には、これもひとつの「経済需要」呼び起こしの効果があるとまで開き直った意見までありますけれども(^^;)
私なりに思うのは、日本の、こういう時になると、ものの見事に付和雷同する集団主義のいい側面は、こうやってみんながマスクをつけて街を闊歩してくれれば、すでにほんとうに罹患しているのに、どうしても事情があって外出するしかない人たちが、白い目でみられ、心苦しい思いを味わうストレスを若干でも軽減するかもしれない????
もとより、こうした場合に、調子が悪いなと思ったら、「新インフルエンザ」であるかないかに関係なく、できるだけ仕事や学校を早めに休む決断をして、身近な適切な医療を受診をした上で、自宅静養する早期決断であることには変わりないかと思います。
*****
「うつ病は心の風邪」という言い方をあまり好きではない私ですが(だって、1週間でうつ病が軽快する人がいたら、うつ病とは呼ばずに済むと思うし、何年も何年も鬱に苦しみ、病院やカウンセラーめぐりをしている人の心情、まるで逆撫でしかねないから)。
でも、こういう時は、風邪にかかった人に、欝の人にお医者さんがまずおごそかに宣言することと同じことをお勧めしたいです:
「休んだ場合の職場への迷惑とか、あとのことを気にし過ぎず、ともかく、休みましょう!!」
と。
【第3版で追記】
こんな記事もありますね。
●【Re:社会部】明日はわが身と思えますか(msn=産経)
==========引用はじめ==========
「まるで黴菌(ばいきん)扱いされているようでした」
新型インフルエンザの取材を通じて思いだすのは結核にかかった元男性患者の言葉です。
結核は感染症法上「2類」に分類され、保健所は感染のおそれがある人をリストアップして感染しているかどうかを調べます。この際、患者の実名を明かすことはありませんが周囲の知ることになり、男性のように疎外感を感じることが少なくないようです。
新型インフルエンザでも感染者は同様の思いを味わったのではないでしょうか。成田空港の水際対策で生徒らの感染がわかった大阪府の高校に誹謗(ひぼう)中傷が寄せられました。感染拡大を防ぐことは重要ですが。日本では極端にいえば、感染者を「病原体」と見てしまう傾向にあるように思いました。
産経新聞も含め主要メディアは、神戸市で国内発生が今月16日に確認されてから感染者が通う学校名を報じました。
不正確な情報で不安や風評被害を広げてはならないという判断だったのですが国はこれまでと同様、学校名を公表していません。「社会的受容ができておらず時期尚早」という考えです。
「新型」は季節性並みという見解が示されました。明日はわが身として「共感」できるかどうか、自分自身が試されていると思うのです。(杉)
==========引用おわり==========
*****
【第2版で追記】
次のような報道もある:
●【新型インフル】マスク着用、すべきか否か(msn=産経)
==========部分引用はじめ==========
制服組は着用率が高い。百貨店やスーパー店員、鉄道係員などは、マスクが制服の一部と化している。通勤電車のサラリーマンにも多い。同僚の観察によると、阪急京都線における朝のラッシュ時の着用率は約8割。感染者が多く出た高校近くの駅からは、マスク組がどっと乗り込んでくるという。
ところが産経新聞大阪本社がある大阪・ミナミの街頭を昼間に歩くと、マスク着用率は2割もあるかどうか。多くの通行人は5月の風を心地よさそうに吸い込んでいる。報道は重点的で特異現象を探しがちだから、同じ関西でも時や場所によって大きく違うことまでなかなか伝えられない。着用率の濃淡は新型インフルエンザとはまた別のテーマだ。
欧米ではマスク着用率が低いという。8日付小欄で「マスクから日本人が見える」と書いた。またiza(イザ!)などブログにも、〈トイレットペーパー買い占めを思いだす〉〈集団心理〉など日本人の特性とマスク着用を結びつける意見が目立つ。しかし自分の目で観察ができるようになって、国民性に帰する見立てはどこまで有効なのかやや心許なくなってきた。
米国では政府そのものがマスク着用を推奨していないという。対して日本の厚生労働省はずっとマスクの着用を呼びかけてきた。自治体や企業もそれに従って指針を立て、社員らに着用を義務づけたり促したりする。当然、強制力のある組織に属する人たちの間で着用率は高くなるはずだ。
さて、この原稿を書いている産経新聞大阪本社編集局。見渡しても、マスク着用者は数えるほどしかいない。ここは日本なのだろか。(坂本英彰)
==========部分引用終わり==========
・・・・この人は、産経新聞の記者さんなのだろうか?(爆)
この記者さんの語る脈絡、読み取りようによっては、日本人であることよりも、自由闊達で反骨な大阪人気質の方にプライドを持っているみたいで、何かエールを送りたい気もする(^^)
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この種のことは、この記事やこの記事で以前にも書きましたけど、(これらの記事で、ちょっと口が悪い表現になっているのはお許しを)、今でも似たようなトラックバックが送られ続けるので、内容的には特に「害はない」ので、公開して、解説しちゃいましょう(^^)
こういうサイトです。
1. 書いてある内容そのものは確かな情報なのだと思いますが、まるでどこかの本からそのままコピーしてきたような文面。ものすごい没個性的。
2.もちろんハンドルでもいいのに、執筆者が誰なのかの記載がないことが多い。コメントなどのやり取りも見られないことがほとんど。
3.1.と重なりますが、そのテーマについて、自分なりに個人サイトとしてまとめようというオリジナリティが皆無。一人の人間が、この種のサイトを、ジャンル関係なく「量産」してストックしていて、検索エンジンなどで、関連した記事を見つけたら、とっかえひっかえトラックバックを送りつけるということを日課の一部としているとしか思えない。
4.結論的に見て、これらのサイトは単独ではアクセス数をそんなに稼げるはずもなく、トラックバックを放置してくれたサイトからアクセスしてくれる人をあてにした、アフィリエイト狙いのサイトであるに過ぎないと判断できる。
この種のものであることが疑われつつも、私のエントリーの内容と符合し、しかも補足してくれる情報として面白いと感じた場合には、サイトの側に、問題が大きすぎるサイトへの更なるリンクがない場合に限り、トラックバックを許諾することもありますが、そういう水準に値するケースは、そう滅多なことでは見られません(^^)
何か、それだけのことをして、アフィリエイト収入って増えるのかしら?・・・などと、そういう作業を黙々としている人の様子を想像しながら、
「人生、もっと有意義に生きてください。そんなことをしている場合ではないはずです。あなたにはもっとやることがあるのでは?」
と思う、こういちろうでした。
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かつて若き日の私もそうだった!! ということを前もって宣言してから以下の内容を書かせていただきますが(^^;)
多くの女性から見て、男性(特に純情な男性)から求愛を受けた際に、一番理解しがたい事柄のひとつは、
「お友達でいましょう」
という言葉を、どうしても額面どおりには受け取ってくれないということだろう。
つまり、男性(の中の少なくともかなりの部分)は、求愛することに不慣れなうちは、
「自分の愛を受け入れて、自分を気に入って、交際してくれる」
か、さもなくば、
「求愛してきた自分などは歯牙にもかけず、むしろ求愛されたことを汚らわしくすら思い、それ以降口を聞く気にもなれず、生涯にわたり交流の道は閉ざされる」
という両極端のシミュレーションしかせずに、清水の舞台から飛び降りるつもりで求愛してしまうものなのである。
(女性にもそういう人はいると思いますが、男性の方がこうした「一がバチか」の思いでの求愛パターンを、結構年齢を重ねてもやらかしてしまう傾向があると思います。少なくとも私の