解決志向心理療法・短期療法

2012/01/04

フォーカシング指向認知行動療法の可能性

フォーカシング指向心理療法は、技法としてのワン・セットのフォーカシング技法を現場面接に持ち込むことではありません。そうしたやり方を杓子定規にとることは、いろいろな意味で効果を上げにくいと私は感じています。

フォーカシング技法を学ぶ場と、現場でのカウンセリング場面は別に設定するのが望ましいかと思います(このあたり、「子どものためのフォーカシング」では見事にその壁を乗り越えていますが)。

むしろ、他の技法と柔軟に融合させた「エンジンオイル」としての活用が、現場では有意義だということは、ジェンドリン自身、「フォーカシング指向心理療法」で述べています。

この2冊のうちの下巻では、ラザルスのアプローチを引き合いに出して、認知療法との統合について示唆した章があるのですが、私なりに、「フォーカシング指向認知行動療法」を体系的に定式化する試みをすでにし始めています。

(ABAや解決指向アプローチとの融合についても含まれています)

以下、以前に書いた私なりのとりあえずのフォーマットを紹介したいところですが、すでに以前にまとめた記事があり、たいへんな長文ですので、リンクだけ掲載します。

●フォーカシング指向心理療法の認知行動療法的活用についてのとりあえずの覚え書き

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2010/02/11

カラオケで「歌わない」人には二種類いる。

  1.  自分でもカラオケで歌うこと自体を苦手と感じていて、カラオケの閉じられた空間で他のメンバーに気を使ってどう振舞うのかに神経をすり減らしている。そうした挙句、周囲から「お前も歌え!」と繰返し言われるハメになることが苦手で、カラオケの場に臨席することが延々と苦手なままである。
  2.  その人は、カラオケで自分からマイクを握ることはまずない。それどころか、終わってみれば、一曲も「歌わずじまいで(意図して)済ませている」かのようにすら見える。しかし、カラオケの場の空気にはさりげなく「空気のように」溶け込んでいて、隅っこで小さくなっていたわけでは決してない。

 ・・・・・1.のタイプの人には、「2.のタイプの人って、実はたくさんいるでしょ?」と言ってはじめて「そういえばそうだ」と気づいてもらえる。

 だが、どうすれば2.のタイプの人のようにふるまえるかは、1.のタイプの人には「想像を絶する」領域であるらしい。

 鬱になりやすいのは、明らかに1.のタイプの人である。

*****

 意外に思われるかもしれないが、私はこの2つの中のどちらに近いかといえば、圧倒的に2.のタイプであろう。これは、欝や気分障害圏のクライエントさんと話を繰り返す中で確信になってきた。

 つまり、私がかつて欝だったとしても、「典型例」からはかなり逸脱していたということだ。

 十分に「執着気質」だとは思いますが、実は若干「隠れて棲むことを最善とする」分裂気質の影響も血の中に入っている。・・・・明らかに「循環気質」とは遠いと思います。

 つまり、リアルワールドでのこういちろうは、そんなに自己主張が強くはなく、場の空気に「任せる」タイプで、自分が関与しなしないままの方が賢いと思った事柄には決して口をはさまず、場の「空気」のような存在になってしまえる。よほど打ち解けた相手を別にすると、酒席では相手の話ばかり聴いているタイプである(^^) 

 ・・・・そういう意味では、私もまたネット人間であり、ネット人格だったりするわけであるが(もちろん、一面では、「愕然とするほどにネットそのまんま」でもある。読者であるクライエントさんはよくそのことをご存知であろう。私のクライエントさんって、こうしたブログ上とかでも並行してコミュニケーションとるタイプの人が非常に珍しいのです)

 ・・・・・・ある面では「意図的に」ネットの人格とリアル人格を一貫「させよう」とすら私はしている!!

 ただ、私は本音がすぐに顔にでるタイプだとも言われる。

 同時に、人が良さそうなのに、いざとなると、突如としてやることが極端で、そういう意味で怖いとも言われるが。

*****

 いずれにしても、普段はジェントルで慇懃であるかに見えても、家族や恋人や自分のゼミの学生たちを相手としたり酒席となると、途端に気むずかしくなったり、海援隊 - 贈る言葉 - あんたが大将「あんたが大将!」になる「内弁慶」タイプの人には、ご同情申し上げるのみである。

 (・・・・自戒を込めつつも、やはり私はそういう側面は小さい、敢えていうと「外弁慶」な方だろうなとはいいたい。・・・・・「へえ? あの人の実態って、そこまでそうなんだ!!」という話の方はむやみと小耳に挟むもので・・・・)

*****

 この記事の続編はこちら

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2010/02/10

「病気になる前も、病気になってからも、病気が回復してきても、どういうわけかやってしまえないままでいること、何かありませんか?」

 この問いかけを、私は、医療に通院中でもあるクライエントさんに、最近時々思いついたようにしてみるように、いつの間にかなっていた(^^)

 この問いへのクライエントさんの答えっていうのは、クライエントさんの人生にそそり立つ大きな壁・・・・・などにはならず、クライエントさん自身、改めて思い返してみて、今さらのように気がつくような、一見ささやかなエピソードが多い(こちらとしては、別に、そのように仕向けたつもりもないのだが)。

 例えば・・・・(これは架空の例である)

 「実は、一人きりで飲み屋とか居酒屋やバーとかで飲んだことって、ないままですね」

 だからと言って、実際に一人きりで飲みに行けば人生全体の活路が広がる筈だ、などと私は勧め過ぎないように用心している。

 ただ、まさにその程度のことを思いつきでやってみる気になるかならないかぐらいのところに、人生が堂々巡りするか、少しずつ螺旋状に前進している手応えが出てくるかの違いがあるのかもしれないですよ・・・・などという示唆はしてみる。

*****

 すると、「実は、別のこのこともできないままで・・・」という、これまた一見全然別の、それまでの面接場面で一度も語られたことがなかった脈絡に、クライエントさんの方から話題が飛ぶことが多い。

 しかも、もしそれを聞かせていただけないままだったら、クライエントさんについて、何か基本的なところで「ひとり合点」したままになって、たいへん申し訳ないことになりかねなかったことに感謝せずにいられないくらいの事柄へと「飛ぶ」ことが多いのである。

*****

 ・・・・・これは、私なりに思いついた、「ミラクル・クエスチョン」である。

 いわゆるブリーフセラピーや解決志向心理療法の本に載っているかとうかは不勉強にして確認しないままですが、これらの流派のカウンセラーの先生方も、タイミングを外さなければ「効きそう」だと納得してくださることかと存じます。

*****

 なぜこの問い掛けが意味を持つのか?

 説明不要で直感でき、納得された一般読者の皆様も少なくないかとは思いますが、野暮を承知で(^^;)、理屈をつけてみましょう。

  1.  「病気がなかなか回復しないので」自分の活路が開けないでいるのだという、クライエントさんの認知スタイルに、全く自然に、新たな開かれた視点を提供する機会になるため?
  2.  その人を病気に「至らせた」それまでの生育歴上の問題点、病気を「長引かせた」要因、病気からの回復過程に入ってもなかなか活路が開けないできた要因を、その人なりの統合的な視点から、実感をくぐらせて、共通の布置 (constellation)のもとに理解できる洞察をもたらす?
  3.  しかもそれが即、今後の具体的な無理のない、スモール・ステップでの行動指針の獲得にも繋がるため?

 ・・・・・まあ、こういったところであろうか。

*****

●BGM:ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第5番 第2楽章 エミール・ギレリス(p.) クルト・マズア/ソビエト国立交響楽団(Live) beethovenpianiconcertono5.mp3 (10036.0K)

 ↑ ベートーヴェン ビアノ協奏曲第5番「皇帝」 第2楽章 エミール・ギレリス(ピアノ)/クルト・マズア/ソビエト国立交響楽団(ライブ)

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2010/02/06

「臨在」="presence"(第4版)

 私の永年のフォーカシング観の基本にあるのは、

 「ひとりでフォーカシングできるようにならないと、フォーカサーとしても、リスナー・ガイドとしても十分に機能でき、現実の日常生活の中で持続的な変化と影響をもたらす領域に到達できないのではないか」

という発想であることは繰り返して述べてきました。

 なるほど、リスナーがいる方がフォーカシングのプロセスは「よく廻る」ことが多い。しかし、そこで体験した気付きは、そのセッションの場を離れ、日常に戻ると、実感の裏付けを喪失し、まるで全くの虚妄であったかのような「反動」に襲わせる危険がある。

 このことは、実は、少なくとも病理水準的に重篤なクライエントさんにフォーカシングを試みると、単にセッションのその場でうまく進まないばかりではなく、(恐らくセッションの最中には順調に進んだかにみえても)予後が悪化する場合が少なくないという形で、フォーカシングを学んだ多くの臨床家が手痛い思いをして気がついているはずのことです。

 この問題に公然と警鐘を鳴らし続けてきたのは、日本では、増井武士先生、田嶌誠一先生のお二人だけでしょう。

 さもなければ、フォーカシングはとっくの昔に、現場臨床に幅広く普及しているはずです(きっぱり)

*****

 なぜこうしたことが生じるのか?

 それは、フォーカサーの体験しているフェルトセンスは、単にフォーカサーが「内側で」体験している感覚についてのフェルトセンスではなく、セッションの「その時に」「その場で」フォーカサーが置かれた「外的状況」について身体で感受したフェルトセンスとしての側面を大幅に持つからです。

 当然そこには、リスナー/ガイドの側が、セッションのその場をどのように体験しているかというフェルトセンスも、フォーカサーに間接的に大きく影響してくる。

 ある観点からすれば、フォーカサーのフェルトセンスは、リスナー/ガイドが、フォーカサーへの「感情移入」のつもりでいて、実はフォーカサーへの「投影同一視」に他ならないかたちで「共有しているつもり」=実は「押し付けている」フェルトセンスによって暗々裏に「汚染され」続けているのであり、仮にそれが「心地よい」「普段ほど緊張しない」体験であったとしても、「フォーカサー自身の」体験ではなくて、セッションという「場」に「巻き込まれた」結果として生じている、一種の嗜癖的・麻酔的な解放状態に過ぎない場合が大いに考えられるわけですね。

*****

 少なくとも、私個人は、過去二十数年のフォーカシング経験の中で、自分自身の中に、他者をリスナーとした場面では決して生じてすら来ないフェルトセンスの領域というものがあり、その領域は、時と場合によっては、孤独の中で自分自身で向きあってあげないまま、もし仮に2日3日放置しようものなら、もう、自分が何をしでかすかわからないくらいくらいであることをよく知っています。いわば、他者の「絶対不可侵」領域です。

 そして、私以外のすべての人にも、安易な共感や受容にむしろ容易に傷つき、むしろ他者をはねつけかねないくらいの「トップ・プライベート」な心象域があり得るという仮定を持っている。

 サリヴァンならば、「プロトタクシス的(prototaxic)」と呼ぶかもしれない。しかし、この領域を、単に「自閉的」だとか発達論的に一番未熟とのみ位置づけるのは基本的な誤りであるというのが私の考えである。

 「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)」と「プロトタクシス的」の間にある「自我境界」の重要性があって、人は個人としての人として自分を体験可能なのではないか?

 (サリヴァンの原義に従えば、プロトタクシス的というのが、むしろ自他未分化な状態を指すことを承知の上で、「自他未分化」と「自他分化」自体が曖昧な領域という、いわば国境沿いの「緩衝地帯」を保全すべきという意味で理解していただくと助かる)

サリヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 その「超個人的」領域には最大限の敬意を払い、その存在を「仮定しつつも、敢えてこちらからは触れないでおき」、本人が「そこ」から生起したものを「関係の中に持ち込もう」という内発性を示し、「差し出してきた」場合にのみ、非常に控えめに、全く自然に(バリントのいう「友好的な空間」と化して)応答する(非言語的な反応のみを含めてでいい。しかし相手にはっきりと「伝わる」必要はあろう)のがふさわしいと考えている。

*****

 こうした現象が認識されないままだとどういう事態が生じるか? 

 たいていの人たちは、フォーカシングのワークショップから去っていくであろう(きっぱり)。

 一部の、セッションでの「いい体験」が忘れられない人たちは、足繁くワークショップに通うかもしれない。しかし、その人の現実の日常生活は一向に変化しないだろう。

 ・・・・もっとも、「フォーカシングのワークショップに通う」という「憩いの場」は生活の中にひとつ増えたかもしれないが(^^;)

 それは「嗜癖的な」依存状態であるか、それとも、「フォーカシングのプロセスそのもの」ではなくて、「フォーカシングの集いの」に癒されている状態であるに過ぎない。

 それどころか、フォーカシングは、「言葉にならない、漠然としたかすかな違和感」に敏感になる技法である。

 これは、ひとつ間違うと、特に日本のようなムラ社会では、「自分に取って漠然とした違和感を感じさせる参加者を無意識のうちに、『場の安全』の名のもとに排除しようとする」集団力学を生み出す。

 (何のことはない、実は、そのグループのトレーナー格の人たち自身がキャパが一番低い『小(こ)山の大将』で、実に容易に参加者に気持ちを揺らされる程度の存在に過ぎず、そうした状況から「身を守ろう」としているだけの場合すら少なくないと思う。それどころか、はじめての一般参加者の方が実はタフで柔軟な受容性があるという、笑うに笑えない事態すら稀ではあるまい)

 こうして、フォーカシングを「最も必要としている」人たちはグループの場から疎外され(あるいは立ち去り)、もはやフォーカシングを自己成長のために役立てる感性が麻痺し、狭いムラ社会の中での矮小な自己愛的プライドを暖めあう人たちばかりによってフォーカシングのグループが成立しがちである・・・・・可能性を真剣に振り返る意味があるのではなかろうか?

 もとよりこれは、フォーカシングに限定されない、古今東西、およそすべての流派の教団や教育システムや心理療法流派が陥りがちだった通弊なのであり、そうした集団と関わりつつも、したたかに「どっこい生きてく」一部の人たちが、そうした集団の健全性を支え、再生させ続けてきたのも確かであろうが。

*****

 以前の私は、自分がリスナー/ガイドをしたセッションが、実は「私が」満足し、「私に」シフトを引き起こすことに貢献しつつも、フォーカサーには、ひとときの気付きの体験の援助はできても、その直後に先述の脱実感的な「反動」までは生じさせなくても、その後のその人の人生を、漠然とした違和感に敏感なのにそれを周囲とうまくコミュニケートに生かせないだけの「生き辛い」ものにしてしまったいるだけではないのかという疑念を容易に振り払えなかった。

 今にして思えば、それは、他ならぬ私が、そうやって自分のフェルトセンスに敏感であることと、現実の他者とのコミュニケーションとの間に、ある齟齬を来たすことの限界を今より遥かに強く感じていたからに他ならないと思う。

 もとより、フォーカシングを学びだしてほんの1年めに私に生じた外の世界とのとの関わりの変化はある意味で十分劇的だった。自分の感性を信頼し、自分を肯定し、そして、自分の気持ちを載せた形で言語表現する能力飛躍的に上昇した。

 それがなければ、例えばあの、ある意味で「オーバークオリティ」過ぎて編集者を困惑させた可能性が高い、伝説的な(?)アニメ論投稿者としての阿世賀浩一郎はこの世に存在しなかったろう(その一端はasegaの日記の方でも、実はこっちのブログではほとんど披露していないといっていい域にまで実は「無尽蔵」であることを最近示してきたが)。その時代にすぐには評価されなかったが、後には的確な位置づけがなされ、若い世代や外国のアニメファンには高く評価されるようになった作品を、私はどれだけ「孤高のスタンス」で援護できていたことになるのか?

 しかし、私は、そうした、フォーカシングを通して抜きん出て開発されてしまったいくつかの自分の能力と、それ以外の点での未熟さや社会経験の乏しさの著しいギャップと戦い続け、それを一歩一歩、小さな勇気忍耐を持って埋めていくために、現実生活の中で少しずつ打撲を負い、血を流し続け、時には人を傷つけてしまう人生を、その後送らざるを得なかったのである。

 その意味では、フロイトが精神分析について語ったのと似たことを、私もやはり皆様にお伝えするしかないかもしれない。

 フォーカシングを学ぶことは、あなたに「牧歌的な幸せ」を約束することだけは、決してないであろう・・・・と。

 「牧歌的な幸せ」を味わえていると感じたら、その分だけあなたは誰かを押しのけ、傷つけていることに無感覚なだけではないかと我が身を振り返り続けることをこそ、私はお勧めしたい。

*****

 最後に、ジェンドリン自身の言葉を紹介したい。

 「セラピープロセスの小さな一歩」と題するエッセーからの抜粋だが、1988年にベルギーで開催された第1回クライエント・センタード・セラピーおよび体験過程療法国際会議での講演に基づき作成されたものである(池見陽訳)。

ジェンドリン/セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解(池見陽 編/解説)

 日本ではこの論文と同じタイトルの著作↑に収録されているが、この論文集には、ジェンドリンの体験過程理論の第一基本文献である「人格変化の一理論」も、旧村瀬訳を基本としたある程度の改訳(私見では更に徹底的な再吟味が十二分に可能である)の上で収録されている。

==========引用はじめ 太字化および[  ]内はこういちろうによる==========

私が言わなければならない、最も大切なことから始めよう。
すなわち、人とワークすることの本質は、
生きている存在として そこにいること(to be present)です。

そしてそれは幸運なことです。なぜなら、
もしも私たちが頭がいいとか、善良であるとか、
成熟しているとか、賢明でなければならないのなら
私たちは恐らく困ってしまうでしょう。
しかし重要なのはそれらではありません。
重要なことは
別の人間と共にいる人間であるということ。
相手をそこにいる別の存在として認識すること。
たとえそれが猫や鳥であっても
もしも、あなたが傷ついた鳥を助けようとしているのなら
知っておかなくてはらない最初のことは、
そこの誰かがいるということ。
そしてその「人[=person?]」、そこにいるその存在が
あなたに接触しようとするのを待たねばなりません。
それは私にとって、最も重要なことのように思えます。

(中略)

私が情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることだけが必要なのです。

私がどういう人でなければならないという資格はありません。
大きなセラピープロセスや、大きな成長のブロセスにとって望まれることは、
そこにいようとする人なのです。
そこで私は「それならなれる」と確信して来ました。
たとえ私は、一人でいるときに疑いをもつにしても、
ある種の客観的な態度で、私は、
私が人であることを知っています。


(中略)

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、
二人の間に挟み込んではならないのです。

それをはさみこみとして使ってはならないのです。
「僕はリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、
僕は卓球バトルがあるから君には負けない、
何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。
武装しているという感じになってくる。
そうでしょう。
私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから、二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
クライエントが持っているくらいの勇気はもてるでしょう。

(中略)

それは、ますます専門化する、つまり役立たずで高価になる[心理臨床という]分野で
とても必要なのです。

(後略)

========引用終わり========

 もちろん、ジェンドリンは技法というものを否定しているわけではない。そのあたりのことは実際に本論文の私が敢えて引用から省略した箇所をお読みいただきたい。

 重要なのは、ここでいう、相手と共に「そこに-いようとすること、すなわち"presence"である。

 ジェンドリンは「しっかりとそこにいる」とか「情緒的に安定している」必要はないと述べている。

 しかし、それは「ただそこにいさえすればいい」ということとは遠く隔たった状態であろう。

 この点で、「プレゼンス」というカタカナ語をふり回す、日本でのこの概念をめぐる議論は何か基本的に空疎であると私は感じている。

 なぜなら、「プレゼンス」という言葉に、肌になじんだが実感ない人間同士の論議だからである。それは現場実践臨床とは無縁の、ただの訓詁学(くんこのがく)であるに過ぎない。

 少なくとも、学校の授業で出席を取られた際に、

"Hi,Sir! I'm present."

と何も考えずに口をついて出る人間であることが大前提ではなかろうか?

 それくらいなら、例えば・・・・だが、「その人が具体的な人格を持った他者としてそこに存在しているという確かな実感」などと、各人各様に実感を込められる言葉に置き換えて語り合う方がよほど有益だろう。

*****

 私は、かつて、ジェンドリンの"presence"という言葉に「臨在」という言葉を当てることを提案したが、フォーカシング関係者には「やや宗教的に響きすぎる」と評判が悪くて、今日に至るまで省みられてはいない。

 しかし「臨床」という概念と非常に接近した用語法であるし、何より、「臨在」という言葉には自然と具体的な「関係性」が含意される気がする。

 そして、ひとりでのフォーカシングに立ち戻れた時の私は痛感するのだ。

 「やっと、『君』のそばに戻った」

・・・・と。

 それは、旧約聖書において、「アブラハムよ、どこにいるのか?」という神の声に、アブラハムが「ここにおります」と答えるまでに何らかの「インターバル」がありそうなことを連想してしまう。

 つくづく私が思っているのは、スピリチュアリティとは、スピリチュアルなものを別段高尚で深淵で特別なものとみなさないこと、あるいは、およそどのように世俗的で猥雑な現実の中にも聖なる真実があることを受け入れる、ある種ポストモダン的な「平準化」の中にこそあると思えてならないのだが。

 ・・・・ということで、何を今さらですが、

And the people bowed and prayed
To the neon god they made.
And the sign flashed out its warning.
In the words that it was forming.
And the signs said."The words of the prophets are written on the subway walls
And tenement halls."

And whisper'd in The Sounds of Silence.

●Simon & Garfunkel - Sound Of SilencePaul Simon - 1964/1993 - The Sound of Silence

 

Original Album Classics: Sounds of Silence/Parsley Sage Rosemary and Thyme/Bookends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

*****

 そして、"presence"ということの本質をあまりにも見事に描き出した名歌を、日本人は持っているではないか。

 これ以上でもなく、これ以下でもないのが、"presence"だと私は確信する。

 そして、こうした人間が要所要所にいれば、セラピーなどというご大層な人工物を、さも意味ありげに、かつ有り難げにふりかざさなくても、現代日本の諸問題の大半は解決しているはずである。

●乙三. / 空と君のあいだに 【乙三.arrange】(YouTube)乙三. - お別れ - 空と君のあいだに【乙三.arrange】

 asegaの日記の方ではすでに一度紹介していますが、安達祐実が今度は教師役になってます。埋め込み無効ですので、まだご覧でない方は是非リンク先をどうぞ!!

 中島みゆき自身のオリジナル中島みゆき - Singles 2000 - 空と君のあいだにを聴くなら、選曲的に、次のベスト盤がベストでしょう(^^)

中島みゆき / Singles 2000中島みゆき - Singles 2000

 槇原敬之さんのカバーは、この曲のカバーの中では一番知られているかもしれませんね。

●槇原敬之 - 空と君のあいだに(YouTube)

 このカバーは、みゆき自身の歌唱によるオリジナルのリマスタリングと、豪華メンバー(岩崎宏美、小泉今日子、坂本冬美、徳永英明、福山雅治、小柳ゆきetc.)による新録のカバーを「同一曲で」収めた2枚のコンピレーションアルバム、「元気ですか」に収録されています(紛らわしいのですが、ジャケット緑がみゆき自身のリマスタリング、ジャケット青が他の歌手によるカバー集です。

元気ですか(中島みゆきカバー集) ← つまり、槇原さんの「空と君のあいだに」はこちらのジャケットです。

元気ですか(中島みゆきオリジナル リマスタリングバージョン) ←ハイビットサンプリングによると思われるリマスタリング効果による音の洗い直しがいかに成功しているかは誰の耳にもわかると思います。まさか・・・・と思うくらいに音質が上がってます。一見そうした音質向上が一番期待しにくそうな「狼になりたい」「世情」とかを聴くとよくわかるのでは? 細やかな音質になり、以前のCDの、音のレヴェルの低さの問題も解決。このベスト盤を先行試験とする形で、この後「紙ジャケ仕様」のリマスター盤が、アナログ期+デジタル初期のアルバムを網羅する形で発売される流れになるわけですが。

*****

 それはそうと、蛇足を承知で、やはり少し解説しておきます(^^)

 「ポプラの枝」として「ここにいる」という以上でもなく、以下でもない。

 「空と君との間に降る、冷たい雨」の空間を、カウンセリングルームを出た後、日常に戻っても、以前よりは「友好的な広がり(空間)」として体験してもらえることを持続的に可能にするのがカウンセラーの基本的な役割である。

 「孤独な人の心につけ込む」つもりはない。ただ、相談に来るからには、俺も「食ってかなきゃ」ならないから「同情するなら、金をくれ!」。

 中井久夫先生も、「あなたはなぜ療法家をしているのか」と患者に問われれば、「ただ日々の糧を得るため」と答えられるのが正しいと述べている。

病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)所収の「軽症境界例について」という論文を参照。

 クライエントさんたちは、社会の中で生活者として生きて行くのであり、仮に障害者年金を受給している人たちですら、単に障害者であること、あるいは病者であることそれ自体を主なるアイデンティティとすべきではないと思う。

 それが一時的に不可避な場合もあるが、大抵のクライエントさんは、少なくともそれ以上のsomethingになれることを、実に切実に望んでいる。

 もしそうなっていないとすれば、はっきりいって、その人に関わる「関係者」の中に、その人が障害者や病者であることにとどまってくれないと、共依存的な対象を失い、「孤独になってしまう」ことの不安があり、それに当事者側が巻き込まれているのだ。

 「自立支援」の名のもとに、実は当事者にいろんな「無理をさせる」ことで結果的に挫折させ、元の鞘に納めさせて「自己満足的かつ防衛的な」安心を得ている「関係者」は少なくないと私はみなしている(特定の当事者を指しているつもりはない)。

 つまり、「単なる病者や障害者に留まりたくない」当事者の皆さんの心情にほんとうに無理なく寄り添えている="presence"ある関係者に包まれていたら、思いの外早くその活路は開けるように思えてならない。

 ある別の精神科医の先生の信念は「働けるかどうかで、あなたの価値に変わりがない」だそうである。それでもこのことはいえると思う。

 逆説的なことを言わせていただければ、およそボランティアとしてのみカウンセリングに携わっている限りは、結局は自分の精神的満足(欲求不満解消)のためにカウンセラーをしている域を抜け出せないと思う。

 いや、カウンセラー諸君、カウンセリングの収入が思うに任せず食うに困る経験を是非お積みください。これは時給いくらで、クライエントさんが「幾人」おいでになるかならないかと「無関係に」「一定の」収入が得られるうちはまだ見えてこない世界がありますよ。

 (つまり、カウンセリング機関にお勤めなら、面接料金の一定の割合が収入という完全歩合制のところをお勧めする。そういう相談機関はちゃんと日本にいくつかは存在します。ほら、「あそこ」がそのシステムですから。どうすれば、「見ず知らずの者」がそこのカウンセラーになれるかはよくわかりません。私もかつて在籍しましたけど・・・・)

 そして、それにも関わらず、安易に「副業」に依存せず、カウンセリング一本で食べて行く「王道」を目指してください(現在の私の収入源は9割が通常のカウンセリング(その中の9割が通院歴3-4年以上、社会人としてのブランクを2年は経験した、欝や双極性2型を中心とした気分障害の皆さん)、0.9割がフォーカシングのトレーナー、0.1割が、現金にはならない形でのアフィリエイト収入ってところでしょうか)。

 腕にそこそこの技量があるのに食うに困った経験がない人間は、同様な境遇の人間の目線に本当に立つことはできないと思います。

 もう、公然と書いても、決して覆らない自負をこの数カ月いよいよ高めていますので書きますけど、大抵のカウンセリングルームよりお安いばかりか、面接一回あたりの密度の濃さと充実度・・・・数年間通院しながら堂々めぐりしていた皆様が、遅くとも面接3回めから5回めまでに、それにその人の現実社会での生き方に確かに変化を実感し、何かがブレイクし始めた手応えを感じていただけることでは定評があります(もちろん、すべての課題解決とは行かなくても、「動かないと諦めていた山がひとつ大きく動いてしまった」とは)。

 はっきりいって、面接開始から3-5回以内にそれを感じさせられないカウンセラーは修行が足りなさ過ぎだと、今の私ならあっさり断言しちゃいます。そういう領域のカウンセリングを当たり前のように可能になれる! と(・・・私も49歳までかかりましたが)。

 ・・・・なのに、黒字に転じたとはいえ、はっきり言ってまだ独居の障害者年金+生活保護の人以下の月もあります。さすがに月収10万は確実ですが、20万切る月が多いってとこです、現在の私の収入は!

 だから時には理事会会場までの交通費が学会経費で全額支給で、本州への「公費旅行」もしたい(そういう機会に抱き合せで出会いたい人、行きたい場所もある)ので理事に立候補させていただいたというのは、3分の1ぐらいはマジな話です。

 3月27日に、往路スカイマークで神戸空港なるものに降り立てて(福岡からの関西出張のもっともお得で所要時間に無駄がないやり方ですね。空港からニュートラムで三宮駅までダイレクトに15分ですから、乗り継ぎし放題。便利さは関空や伊丹の比ではない。夕方の便の時間帯が早いのが残念ですが)、帰りは700系ひかりレールスターに乗れるのが非常に楽しみである。

*****

 そして、もう、このブログでこのことを書くのは何回めだろう。

 「君の心がわかると、たやすく言えるカウンセラーに
 なぜ客はついて行くのだろう、そして泣くのだろう」

  ここで、敢えて、村瀬嘉代子先生語録の冒頭を、リンク先でお読みいただければ幸いである。

 受容・共感という言葉などという、偽善的な"paternalism"(温情主義)のニオイがする、同性愛チックな、気持ちの悪い言葉は滅び去ってしまえ!!

 ・・・・ただ、ロジャーズのいう、「無条件のpositiveな関心」ということは、少し別な次元で、より重要な鍵を握っていると思う。

 "presence"ということを別の側面から言い表していると感じる。

 このことについてはいずれまた書いてみたい。

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/09/02

睡魔に襲われる人へ(第2版)

コネタマ参加中: 睡魔に襲われたとき、どうやって眠気を覚ます?

 不可欠ではない過剰な労働をせず、退屈な人間関係に付き合いすぎることなく、夜更かしも程々にして(特に週の就労開始日前日、多くの人にとっては日曜日の晩ですね)きちんと熟睡していれば、睡魔に襲われる確率そのものがぐっと減ると思います(^^;)

 「眠気を覚ます」必要が頻繁に出てきた時点で、何かライフスタイルに問題出ているのかもしれない(^^)

 安眠できることこそ、人生の宝です!!

 悪条件の元で無理してでも働き続け、眠い目をこすり続けて働き続けた挙句、身体を壊したり、ましてうつ病になって休職する人が増えて行ったら、医療費が増える=社会保障費=会社や国庫の出費が増えるわけですね。

 しかもうつ病になれるくらいの人のかなりの部分って、人一倍有能な働き者なんですね。所得税納めてくれる、貴重な納税者をいったん失うわけですよ。

 そして、居眠り運転による交通事故(による交通渋滞に巻き込まれた人の経済損失だとか、事故からの復旧作業の費用)だとか、睡魔のために生じる作業ミス、更には、眠たいあまり降りるべき駅を乗り越したり、慌てて降りる際に網棚に大事な文書を忘れてしまい仕事が停滞するどころか、場合によっては顧客様の信用を失い契約解除!!なんていうものの経済損失っていうのもミニマムな次元で積み上がると思う。

・・・・・ということは、

「国民の睡眠の質を確保しよう!!」キャンペーン

とかを張ったら、少しは、日本の国力の再生、財政再建と、景気回復にも結びつくかもしれない???

 

 ・・・・・思わずコネタマのテーマそのものをおちょくってしまった(^^;)

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2009/09/01

薬をやめることをお焦りにならない方がいいですよ

●精神科薬物療法に対する猫山司のスタンス(メンタルクリニック.net by 猫山司)

 医師ではなくて、臨床心理士に過ぎない私ですが、この記事で猫山さんがお書きの問題提起について、全面的に共感させていただきます。

========(引用はじめ)==========

 さて、最近、拙ブログのコメント欄でセカンドオピニオンを求められることが多くなってきたように感じています。

 また、その内容に一定の傾向があるように思われるため、今後の無用な混乱を避けるために、精神科薬物療法に関する私のスタンスをここで改めて表明しておくことにします。

 というのも、最近寄せられるご質問やご相談に、「薬をやめたいのだがどうしたらよいか」という趣旨のものが目立つように感じられるからです。

 これまで私が拙ブログでベンゾジアゼピン系薬物や抗うつ薬の副作用や離脱症状について言及してきたからなのかもしれませんが、では私が実臨床でこれらの薬物を使用しないのかと言えばそんなことはありません。

 むしろ私は、向精神薬を積極的に治療に用いるタイプの精神科医であると自認しています。

 副作用が無い薬など存在しませんから、薬を使用することのメリットとデメリットのバランスを常に念頭に置いて置かなければなりませんが、少なくとも初期・ 急性期の治療における向精神薬の有用性に私は一片の疑いももっていません(将来的にはもっと有効で安全な治療法が現れる可能性は否定しませんが)。

 ただ、薬剤の選択や使用量、使用期間について精神科医はもっと敏感になるべきであるというのが私の持論であり、拙ブログで表明してきた主張であるつもりです。

 したがって、拙ブログに寄せられたご質問に対する回答も、「薬をいかにやめるか」ではなく、「薬の使用をいかに最適化していくか」という視点でお示ししていくことになると思います(薬の最適使用の中に「薬の中止」という選択肢も含まれます)。

========(引用終わり)==========

 この、ある意味で当たり前であるはずのことを敢えてネット上で告知せざるを得なくなった猫山医師の心情、コメディカルな専門家として、察してあまりある思いにかられました。

 薬物療法をお受けになっている皆様、そしてご家族の皆様にはっきりとこれだけは申し上げたいのですが、

「薬を飲んで、やっと通常の生活に耐えられるうちは、病気から『回復』したとはいえない」

「薬を飲まなくて済ませられるようにならないと、病気から『完治』したとはいえない」


という発想自体を、この際、とりあえずお捨てになってみてはいかがでしょうか?

 仮に全く薬なしの状態で完全に大丈夫になる時が来るとしても、それは数年以上先になるかもしれないことを想定していただく方がいいと思うのです。

 特に、統合失調症やある程度重いうつ病(双極性障害を含む)に罹患された方は、病気になる以前と全く同じ水準の激務に耐えられるようになった方ですら、少なくとも1つか2つの薬については、当面飲み続けないと、再発のリスクを大きく高めることが多いとということを肝に銘じてください。

 映画「ビューティフル・マインド」で描かれた内容を思い出していただきたいのです。主人公の数学者が勝手に薬をやめてしばらくして、何が起こったのかということ。


 私も以前別の記事で書きましたが、近視になったので眼鏡やコンタクトを活用するだとか、耳が遠くなったので補聴器をつける心臓が弱くなったのでペースメーカーをいつも装着するというのと、そんなに違いがない感覚の「生活ツール」として、薬の服用を当面考えるところまで「開き直って」みるのはいかがかと思うのです。

 いいお医者さんとの共同作業の中で吟味を重ね、調整され続け、適切な処方が維持された薬を、しかも毎日の生活の中でのベストのタイミングで服用し、それによって生じる、副作用に限らない、微妙な体調や気分変化に対するセルフ・モニタリングを頼りにしながら、生活のピンポイント的な要所要所で判断を誤らないで行動選択する習慣が根付いてしまえば、少なからぬ患者さんは、薬物療法の治療の進展がある段階に達すると、ほとんど日常生活や仕事に差しさわりがない域で生活で、のびのびと生活きるようになることが多いのです。

 この、「薬の力を借りて実現できた、とりあえずの回復」の水準をまずは目標にしてください。

 通院の際のお医者さんとのちょっとした情報交換ができてないばかりに、実は「それさえ聞けていたら処方が違ってくるよ!!」とお医者さん側すら感じてしまうくらいの形で、薬の出方が有効打でなくなっていることなど、あまりにもありふれています。

 ・・・・このことは信頼できますよ。

 少なくとも、「薬なしでカウンセリングだけで・・・・」という発想は、お勧めいたしません。

*****

 あるうつ状態のクライエントさんからうかがった話です(もちろん、複数の事例を混ぜ合わせ、ご本人にはわからないくらいに脚色して書きます)。

 そのクライエントさんは、すでに処方された抗うつ薬と抗不安薬で、かなりの程度の回復し、休職状態からリハビリ勤務に戻れたのですが、そうなると、今度は夜になってもなかなか寝つけないことに苦しみはじめました。

 眠りがだんだん浅くなり、週末ごろには疲れが溜まってしまうのです。

 「睡眠誘導剤は出ているの?」と訪ねてみると、全身の筋肉の緊張をほぐす抗不安薬であり、なおかつ睡眠誘導剤としても使われる種類の薬が出ていたのですね。

 ご本人は、休職中はそれさえあればぐっすりと眠れたそうです。

 そこで私は(お医者様の中に、「臨床心理士がそこまで僭越なアドバイスをするのか!」とお怒りの方があるかもしれないのを承知で書きます)、

 「仕事を再開したので、あなたの脳が『スイッチ・オン』になってしまうと、夜になってもブレーカーが容易に降りないモードにはまってしまっていて、これまでの眠剤だけでは不十分になったのかもしれないね。
 どうだい?眠れない時、
頭の中はどんな感じ?」

 するとその人は、

「いろんな考えがぐるぐる回って、忙しいままなんですよ。・・・・夢もたくさん見ます。夢の中でも、私は忙しく活動し続けて、しかもその結果酷い目にあってばかりいるんです。疲れる夢ばかりで・・・・」

 そこで私は、

「それじゃ、寝ている間のレム睡眠の時間帯も、あなたの心は、昼間と同じくらいに忙しく仕事をし続けているわけで、全然脳が休まっていないのかもしれないね。・・・・ひょっとするとさ、身体全体をリラックスさせる、抗不安剤も兼ねた眠剤だけでは、あなたの脳は休み切れないのかもしれない。ところが、世の中には、もっぱら脳を休ませることを狙い澄ましたタイプの睡眠誘導剤もあるの。・・・・そのへんのあたり、今度、お医者さんに話を向けてみるとどうかな?」

 そのクライエントさんは、通院先の医者に、私の目の前でやってもらったような、それまでよりもずっと具体的な「脳の実感描写」つきで、不眠の現状を訴えました。

 そして、睡眠誘導剤が別の種類のもの・・・・まさに、私が示唆した、脳を休ませることに特化した性質の「本格的」睡眠誘導剤に処方変更されていました。

 すると、そのクライエントさんは、最初の2,3日こそ。その新たな薬の副作用感(口が渇きやすくなり、ちょっと昼間の抑うつも強くなるなど)がありましたが、ともかく実にすっきりと熟睡できる境地に到達したことに、自分でも唖然としてしてしまったのです。

「睡眠時間5時間でも『熟睡した』と感じられてしまい、疲れが翌日に持ち越されないんです・・・・私が昼間、まだ鬱が抜けないとずっと思っていたのは、ひょっとしたら眠りが浅くて、疲れが翌日に残っていたに過ぎない部分まで勘違いしていたのかもしれない・・・・」

 私は念のためにアドバイスしました。

「念のために言っておくけど、
だからと言ってその薬に頼って無理をしては駄目ですよ。
特に、日曜日の晩の夜更かしだけは、なしにしなさいね。
普通の人ですら、日曜日の晩の夜更かしに始まる『負のスパイラル』がどんどん週末に向けて、疲れを貯める悪循環の引き金になる。
何なら金曜と土曜の晩だけは多少の夜更かしは自分へのご褒美としていいかもしれないけど、日曜日の晩だけは厳禁にしてみたらどうだろう?」

 クライエントさんは、「実は土曜日の夜更かしを止める自信だけはないんです」と苦笑しながらうなづきました。

 私は更に、

 「ところでさ、睡眠導入剤を飲むのは、ほんとうにベッドで横になる直前、ごく少量の水でにすることが鍵なんだよ。
 間違ってもベッドで読書とか始めたら駄目
だからね。
 たとえすぐに寝つけなくても明かりも消したまま、ひたすら横になって『目を閉じて』いるだけでも、脳を休めるのに相当程度役立っているんだと思うこと。」

 というと、クライエントさんは、

「・・・・すみません、眠れないと思うと、すぐにテレビつける癖、ありました(^^;)」

「どーしてもあと少しテレビ観たいなら、テレビ観終わってから、即、飲むこと。
 間違っても『飲んだら観るな』
ですね。
 睡眠誘導剤は、2時間寝ないままでいたら効果が消えます。
 しかもその晩に更に『追加して』飲むことは、身体への容量を超えてしまう薬が多いの。
 お医者さんからそういう、追加する飲み方もOKと明確に指示されていない眠剤は、一晩で一発勝負と思うように」

・・・・・ああ、どうして、こんなあたりまえの睡眠誘導剤の飲み方を、担当医師や処方箋薬局は本人に教えていないのだ全く!!

 臨床心理士が教えることではないはずではないか!!

*****

 この話には更に後日談がある。

 そのクライエントさんは、そうやって、時間短縮のリハビリ勤務を順調にこなし、ついに一ヵ月後にはフルタイム(ただし残業なし)での勤務に戻ることができた。

 彼女はそれがうれしくなり、母親に、「こうやって復職できたのは、どうも睡眠誘導剤を代えて、よく眠れるようになったからという気がしてならない」と口走ってしまった。

 すると彼女の母親曰く、

「でも、あなた、薬を飲んでいるからよく眠れるようになっただけでしょ?・・・それじゃ、治ったとはいえないじゃない?」

 ご本人は、その晩、ムカつきのあまり、実は隠し持っている、イザという時に時に「八つ当たりする」ため専用の、クッションでできた「犠牲の人形」に、久しぶりに、まち針を何回も刺し通したということである・・・ アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!。


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2009/08/16

フォーカシング指向心理療法の認知行動療法的活用についてのとりあえずの覚え書き (第4版)

 このテーマ、このブログでも以前からお約束していて、書こう書こうと思っていたんですけど、あまりにも大きなテーマで、まだまだ勉強不足と感じている段階ですので、とりあえず、今構想していることを、備忘録的に書いておきます。

 フォーカシングと認知行動療法(ABAも含めて)、両方の技法に関心がある人にも、今私がいろいろ思いながら試みつつあることを未整理のままでお伝えするだけでも、何かヒントになるかもしれませんので。

*****

 認知行動療法におけるオーソドックスな「記録表」とか「カラム表(コラム表)」と呼ばれるものを、私なりに咀嚼して、フォーカシング的に味付けをした形態を示してみよう。

  1. いつ?
  2. どういう状況で何をしていて、
  3. どんな気分や感情や身体感覚(フェルトセンス)が生じてきたか。
  4. それに対してどういう受け止め方(考え方・認知)をして
  5. その結果、更にどんな気持ち(気分、身体感覚・・・・フェルトセンス)になったか。
  6. その直後、どういう行動を取ったか。
  7. その結果状況に何が生じ、
  8. どういう気持ち(気分、身体感覚・・・・フェルトセンス)になって、
  9. それをどのように受け止め(どういう考え方・認知をして)、
  10. 更にどんな気持ち(気分、身体感覚・・・・・フェルトセンス)になったか。
  11. その直後どういう行動を取ったか。

・・・・・このあと、必要あれば、このローテーションを1.から再度繰り返す。

 こうしたことを生活の中で記録する「宿題」をいきなり出されたら、多くのクライエントさんにとっては負担以外の何者でもないだろう。

 むしろ、カウンセラーが順を追って質問していき(あるいは、クライエントさんの語りを大事にしながらも、「穴埋め」的に徐々に質問して、答えを引き出していき)、むしろカウンセラー側で整理 して、図表のようにして呈示することもできるだろう。

 まず最初の段階では、クライエントさんのある特定の日に生じたひとつのエピソードだけを取り出して、その出来事のに何があり、どうか感じたのかを拡充していく形で、このくらい分節化して一覧にして、カウンセラーと二人で、

「なぜここでこういう感じ方をして、こういう行動になってしまったんだろうね?・・・・その結果が結局こうだものね。こういう結果に至らずに済んだとしたら、この日のどこに認知や行動の分かれ目があったんだろうね?」

・・・・など検討してみるというだけでも、カウンセリング場面を、非常に生産的で、クライエントさんにとってもやりがいがあるものにする可能性は高いであろう。

 そして、こういう、ある特定の日の特定のエピソードだけではなくて(クライエントさんに毎日日記のようにつけてもらうところまでしなくても)、面接のたびごとに、その時クライエントさんが語るエピソードについてこうしたことを数回繰り返すだけでも、そのクライエントさんが生活全般の中で繰り返している、認知と行動(問題解決)バターン固有のクセというのものは、法則化可能な次元まであぶり出されて行き、二人で一緒に検討していける材料は、当面出揃うと思うのである。

 私の理解では、認知行動療法的アプローチのベースラインになる「カウンセラーと共に考える(見直してみる、再検討する)」というのは、このような素朴な水準の検討であり、それを洗練させていくいちに、今日使われる、いろいろな技法が使われるようになった・・・・という視点は大事だと思う。

*****

 さて、認知行動療法にフォーカシングや体験過程理論による「味付け」をしていく勘所について説明を後回しにしてしまっていたので、次に述べたい。

 オーソドックスな認知行動療法においては

状況に対する「認知」の結果として、ある「感情」が生じ、
その「感情」に基づいて「行動」が生じる
(「状況」→「認知」→「感情」→「行動」→「新たな状況の生起」)

という基本的な図式を用いることが多いというのが私の理解である。

 「認知」が先にあって、感情が後に「生じる」というだけでは認知と感情の相互作用は説明できず、実際には、今度はそうやって生じた感情に対する「認知」が更に生じて、それが更に新たな「感情」を巻き起こす・・・・などという細かな相互作用がどんどん生じているものであろう。つまり、「刺激」は「反応」を生み、今度は「反応」そのものが次の「刺激」となるという、あたりまえのことである。もちろんここまでのことは、認知行動療法の人たちも重々ご承知で、技法的にもそもまで手抜かりなく配慮していると言われることだろう。

 これにフォーカシングや体験過程理論を援用すると、人間は「はっきりとした」感情や、「単なる」気分、「単なる」身体感覚が具体的に生じて来る次元とは別に、未分化で曖昧な漠然とした「感覚」それ自体(「実感」そのもの)として状況をまるごと感受する次元(フェルトセンス次元)というものが、人間の認知や感情や行動の生成過程に大きく関与していることを、更に細かく分節化して抽出することが可能になる。

 より理論的に言えば、認知行動療法の理論で「自動思考」と呼ばれているものは、体験過程理論でいう「構造拘束的(structure-bound)な」体験過程様式に該当する。

 人は、ある一定の、共通する外的・内的布置(constellation)を持つ状況に置かれると、同じ感じられた質のフェルトセンス(正確には、フェルトセンスとしてとして直接注意を向けることが「可能なはず」の、曖昧な実感)を体験することを繰り返す

 そのフェルトセンスにフォーカシングすることをしないままなので、人はいつも同じ状況になると同じような気分になり、同じような以前からの受け止め方(認知)の虜になり、同じような反応・行動を取り、同じように行き詰るという堂々巡りの連鎖から抜けられない。

 誤解なきように言うが、別に技法としてのフォーカシングが介入しないと、この「構造拘束的な」悪循環の輪から抜け出せないと言うことではない

 「別な認知(とらえ方)をしてみる」ことや「別な行動をしてみる」ことをセラピストの側から具体的に「提案」したり、先に試みられることは、フォーカシング的観点から見ても何も差し支えないばかりか、強力な効果を発揮することがある。

 フェルトセンスとの照合によるによるモニタリングは、認知を変えてみたり、行動を変えてみた後で、「後追いで」発揮させても、何ら差し支えはない(このことを、フォーカシシングを知らない人も、日常の中でさりげなくある程度「やっている」し、認知行動療法を受けている人も、自然発生的にかなりの程度「できている」ことにはなる筈である)。

 しかし、その人にとって無理のない行動から少しずつ本人が見つけ出して試していく過程を「共に考える」形でのサポートは大事にしていいだろう。これは行動療法の暴露反応妨害法などでも大事にされている「目標行動のスモール・ステップによる形成化(シェイピング)」だが、実はフォーカシングの世界でも「アクション・ステップ」と呼ばれる技法として以前から知られ、「フォーカシングの第7のステップ」として、最近は以前より更に重視されて来ている(この「アクション・ステップ」についてはこちらで私なりに詳しく実例を書いてみました)。

 シフトとは、別にフォーカシングをして、ぴったりの言葉をシフトと共に見つけ出す際にはじめて生じるものではない。フェルトセンスに直接注意が向けば、それだけでシフトになることも少なくないのだが、実際問題として、人が実際にある行動なし終えただけで、その人の中にシフトが生じることは多い。むしろ日常の中ではそうしたシフトの方が遥かに多く、当たり前のように生じているはすだ。

 例えば、あなたが、事故の影響で電車ダイヤが少し乱れた中、会社に遅刻せずにたどり着けた瞬間感じる「ほっとする」感覚と、身体のちょっとした脱力だって、立派なシフトなのである。

(フォーカシングを学んで来た人のほうが「え? それだけでもシフトか?」とびっくりされそうですが、「未完了(incomplete)」だったプロセス、すなわち「時間通りに会社にたどり着けるかどうかについてのモヤモヤ」が、やっと解放されてスッキリした(「完了(complete)した)ことには変わりないわけですね。、電車が定刻より遅れて来ないホームに立っている時や駅の途中で停止した時の体験していたであろう、不快なフェルトセンスは、会社にたどり着けた時には、見事に「解放」されているでしょう? 更に言えば、空腹の時に食べ物を食べたことによる満足だって「シフト」なのです。・・・・このように見て来ると、「フォーカシングしてはじめてシフトが起こる」「シフトが生じるのにはフォーカシングが必要」みたいな思い込みからどんどん自由になれるかと思います。行動そのものがシフトを引き出すことがいかにありふれているか!!)

 そうではなくて、そうやって定刻にたどり着けたのに、全然身体がほっとした気分にならないで、次の瞬間には別の重苦しい思いにばかりとらわれるとすれば、そちらの方こそが(フォーカシング学習者なら)「意識的な」フォーカシングの対象にできるだろうが。

 次に、「行動」ではなくて「認知」について考えてみましょう。

 そもそも、認知行動療法でのような、「そのことについては別のとらえ方ができるのでは?」というリフレーミングにあたることを、日常の中で私たちは困難にぶつかるたびにある程度は自然発生的にやれているはずである。

 そうした「とらえなおし」によって実際に気持ちが楽になることはあるし、「ほんとうはどうであろうと、このようにとらえておく方が無難だ」という現実的判断としてのダブルスタンダード・・・・例えば、

「相手に敵意があると仮定しない方が、対人関係もうまくいく。特に今のあの人との関わりにおいては、こちらの過剰な警戒心は、むしろ相手の敵意を無用に引きずり出すリスクを高める」

・・・・などと、むしろ実際的処世術の観点から、ものごとの受け止め方を決めるということも、多くの人は日常で少なからずやっているはずである。

 しかし、そうやって、自分なりに、いろいろ「やってみて(行動してみて)」も、「とらえなおし」をいろいろと試みてみても、心定まらず、現実生活の中で「堂々巡り」を抜け出せないからことも多いのですね。

 そういう時に、人はセラピーの門を叩いたりするのだと思います。

****

 ところで、そもそも、そのような個々の「とらえなおし」を意味があるとか的確だと判断しているのは、単にその人の合理性や論理性、すなわち「理性」であろうか? 実際に行なった「より適切な行動」を評価しているのは「理性」であろうか? フォーカシングの立場からすれば、それを最終的に受け入れているのは、その人の実感そのもの=フェルトセンスからの肯定のサインと、小さなシフト体験とそれに伴う心身の安堵それ自体(つまり、身体に「腑に落ちる」かどうか!!)である。

 この点で、平均的な認知行動療法の場合、そうやってとらえ直す「前」と「後」とで、(単なる「知的納得」ではなく)自分の中に感じられている実感がどのくらい変化(シフト)したかということを照合して確認するということを「くっきりとは」やっていないことが、フォーカシングを学んだ人間からすると、もったいなくすら思えてならない。

 私たちは、人の話を聞いて、「なるほど、そういうとらえ方もできますねえ」などとこたえつつも、実は心の中では、その人のとらえ方に違和感ビンビンにことなんて、ありふれてあるではないか? 

 認知行動療法を行なう空間が、単に「先生(セラピスト)に対する「優秀な生徒」として、より適応的な認知という「模範解答」を呈示して、とりあえず「先生」の承認を得るための「ゲーム空間」に過ぎなくなる危険はあるのではないか?(私が体験者に聞いた範囲では、認知行動療法の「グループワーク」になじめない人の少なからぬ部分は、そういう「場の空気」を感じて違和感を隠し切れない人たちのようである)

 ほんとうにその人の生活の中にまで影響を与え続ける「新たな認知」とは、本人自身が、そのようにとらえなおしてみることで心身が実際に楽になるという裏打ちがあって受け入れられた認知のはずである。 

 フォーカシング的に言えば、小さなフェルトシフト体験を喚起するような新たな認知は、その新たな認知を受け入れた際に生じた新たなフェルトセンスと重ね合わせて繰り返し反芻(すう)して味わう(=「共鳴させる」)と、更にその中で、その人の中にしっかりと定着するのである。

 例えば、

  1. (いつ?)おとといの夜、
  2. (状況)知り合いに留守電を入れた後、そのひとから昨日の晩まで連絡がなかった。
  3. (その時の認知)その時私は、「相手に迷惑がられているので返事が来ないのだ」と感じて、
  4. (生じてきた感情)不安になり、ひどく落ち込んでしまっていた。
  5. (その後の行動)私は、もう一度その人に電話をかけてみようかとも思ったが、その勇気が出ず、昨晩かけずじまいだった。

 認知行動療法だと、通常、この中の3.の部分の認知について、そこに「自動思考」がないか、「別のとらえ方」ができないか・・・・というふうに介入する筈である。

 例えば、

 「《一度留守電して、相手からの返事が得られないうちにもう1回催促の電話を入れたら、それだけで相手にとって非常に不快なことである》・・・・という自動思考が存在することが最終的に行き詰らせたのではないか? 社会常識的にみて、4回も5回も催促の電話をしたら相手も『うざく』思うかもしれないが、仮に昨晩更に「1回だけ」再度電話してみたとしても、相手はそのことで余計に不快に思う可能性はほとんど全くなかった筈である」

・・・・・このようにとらえ直してみる提案をして、更に、クライエントさんに、そうとらえてみるとどれくらい楽になるのか、身体の実感に聴いてみることを提案することが、フォーカシングを学んだセラピストならできるのである。

 これは、「昨晩実際に1回だけ電話をかけ、幸い、相手が快く出てくれていたらどうなっていただろう?」ということを、具体的にイメージしてもらい、そのイメージを身体で味わってもらうことによって、更に「強化」される新たな認知となる可能性が高いだろう。

******

 ・・・・いずれにしても、少し訓練を受けた認知行動療法のセラピストなら、クライエントさんの状況を観察して、いかにセラピストの目から見て、それがより合理的で好ましい認知や行動の仕方だと思えても、クライエントさんの方が、そうした受け止め方に難色を示す場合には、その部分を力技で説得してしまうのは好ましくないこと、つまり、新たな認知は「提案」であっても「押し付け」になってはならないことを熟知しているであろう。

 セラピストから提案するにしても、更に別のとらえ方がないかどうか、アングルを変えて提案するであろう。

 そして何より、クライエントさん自身が、自分で、自分なりに、別の受け止め方がないかどうかを自立的に探索する姿勢をこそ喚起しているはずである。

 ところが、そうやってクライエントさんが、「別のとらえ方ができないか」ということを自分で自由に探索してみる姿勢を取れるとはどういうことなのか? フォーカシング的に言えば「(問題と)距離が取れている(making a space)」中ではじめて可能なことなのである。

 フォーカシングでいう「内なる批評家の声(inner critic)」というのも、認知行動療法的に言えば、自己処罰的な「自動思考」である。

 フォーカシングを進めて行くにあたっては、実は認知行動療法で言う「自動思考」を次々と「棚上げ」にしていくセルフ・スキルの形成が、自明の前提として組み込まれてすらいるのだ。

*****

 認知行動療法をフォーカシング的にアレンジする際に、生粋の認知行動療法セラピストよりも強みになりそうなのは、フォーカシングを学んだセラピストは、クライエントさんの言葉ではっきりと説明しにくい、曖昧で漠然とした未分化な内部感覚をじっくりと傾聴しながら受け止め、クライエントさん自身が丁寧に、自分の気持ちにぴったりの固有の言語化を細やかに見つけていく過程につきあうことにめっぽう強いという点だろう。

 認知行動療法においても、カラムを書き込む際に、ある状況下において自分の中に生じてきた「いくつもの」感情について、パーセンテージで数値化しながら表示させてみるというやり方もあることは私も知っている。

 例えば、クライエントさんに、ある時に家族といさかいを起こした「直後の」感情について、

怒り(30%) 悔しさ(20%) 劣等感(20%)悲しみ(20%) 孤独(10%) 

などと記入してもらったりするわけである。

 これはこれで、繰り返しワークしてもらうと、自分の気持ちの襞を細やかに自覚していくスキルアップに役立ちそうなのですが。

 ただ、このようにして、人間のある一定の状況下での複雑な感情を、並行記述的(あるいは「微分的」)に無理やり展開して表現するという手法には、ある限界さと不自然さがあると思う。

 なぜなら、人が自分がそのときに体験している感情に貼り付けるラべリングは通常ひとつずつしかできないからである。

つまり、例えば、

私は、「怒り」を感じていたが、そのうち、「怒り」の奥に「悲しみ」を新たに見出した

というのが人間の自然な営みに即した感情(表現)過程(feeling prosess)であり、

「怒り」と「悲しみ」を感じている

などというのは、はるかに「人工的」な説明様式であろう。

私が今味わっているのは「砂糖40%」と「塩60%」である

と、料理に熟練しているわけでもない人には表現できるわけもないのと同じである。

 フォーカシングをやっている私のような人間がアレンジすると、次のようなやりとりをすることを連想してしまう(すでに、オーソドックスなフォーカシングの教示からすれば、「かなり思い切った草書体」に書き崩していると思うが)。

T:「その時あなたはどんな気持ちだった?」

C:「・・・・・やはり『怒り』でしょうかね」

T:「『怒り』(エエ)・・・・・そういう言い方でその時のあなたの気持ち、言い尽くせているでしょうか? もし、それが単に『怒り』だけではないとすれば、どんな気持ちなんでしょう?

C:「そうですねえ・・・・『悔しく』もあるかな」

T:「『悔しい』(エエ)・・・・・『怒っている』だけではなくて『悔しく』もあるんですね」

C:「いえ、そういう言い方よりもですね・・・・・『悔しい』から『怒って』いたというほうが近いかもしれない」

T:「ああ、『悔しい』から『怒って』いた」

C:「そうです。・・・・ほんとうは『悔しい』の方が強かったんでしょうね」

T:「ほんとうは『悔しい』の方が強かったようにも思えてきたんですね(エエ)。・・・・・では、その『悔しい』という気持ちは、いったい何を引き金として、どんな思いから生じてきたんでしょうね(直前の状況行動の探索)

C:「昔は弟よりも僕の方が勉強もできたし友だちがたくさんいたんですよ。でも今の僕は働けないまま病気で家にいる。弟はフリーターしながらも家にはお金を入れもせずにのうのうと生きていて、結構遊び回っている。そうやって夜遊びから帰ってきたばかりの時に、無神経に僕を軽蔑するようなことを言ったんですよ。そういう弟に『悔しさ』を感じたんです・・・・・そうか! 『悔しい』って思うのは、今の僕は、あんな弟にですらも『劣等感』を感じはじめているていうことかもしれませんねフェルトシフトと共にに、自分の感情についての新たな認知を獲得している)

T:「いつの間にか、弟さんに『劣等感』すら感じるようになっていたことに気づいたんだね(エエ)・・・・・今、君は『劣等感』って言い方をしたけど、もっと別の言い方ってできないかしらね

C:「弟に対して、いつの間にか『萎縮』してしまっていた自分がいるのかもしれない。いや、弟に対してに限らず、家の中で『萎縮して』しまっている自分が自分でも苦しいんですね(体験過程尺度でいうと、ある特定の状況についてのひとつの気づきが、より一般的な状況についての気づきに拡張しているので、stage7に該当する)

T:「その『萎縮』の感じを少し身体で味わってみて。・・・・・・そして、今度は、そうした『萎縮』から自分をのように解放できたらどんな感じか、ちょっとだけ試してみるのもいいかもしれない(フォーカシングでいうaskingの教示のひとつのバリエーションであるともいえるし、解決指向心理療法で言う「ミラクル・クエスチョン」の典型でもある)

C:「・・・・・(沈黙)・・・・・ちょっとだけ身体が楽になりました。僕って、家を離れて、この面接室に出てくる時にまで、わざわざその『萎縮』をかかえて持ってきていたんですね」

T:「何もこの面接室にまで、ずっとその『萎縮』を抱えて来なくてもいいではないかと思えてきたんですね」

C:「そうですね。僕は何をそこまで、ここに背負ってくる必要があったんだ?、という気分ですね、今は。(弟さんとの事件があった後、「萎縮」を抱え続けていたことの「非合理性」についての気づき)

T:「・・・・ちょっと聞いてみたくなったんだけど、いいかな?(ドウゾ)、例えば、ここに来るまでの電車の中で、弟さんと同じ世代の、楽しそうな若い連中とすれ違う時に、そうした『萎縮』は感じていましたか?」

C:「・・・・・・・いや、待って。・・・・・そういう、すれ違う人たちから新たに刺激を受けて『萎縮』が更に募る感じがあるかってことですか?(ソウ、ソンナノ)・・・・・ちょっと待って下さいよ。・・・・・・うーん、そこまでは、なかったなあ・・・・ないですよ! そこまでは、さすがに。・・・不思議なものですね、あくまでも、弟の振る舞いだから、僕の気持ちをあれだけ揺らしている気がする。

・・・・こうした展開の中で、

少なくとも、弟を目の前にしてもいないし、家の中にいるわけでもない状況下でも、『萎縮』を感じ続けていく必要など、どこにもないではないか?」

・・・という新たな認識と、それに伴う心の自由が徐々に準備されていくのである。

 「弟に対してどう振舞うか」という課題は、次のテーマとして先送りしてもいいであろう。

 背後には、彼の中に、例えば、「人に叱責されたら、その時の辛い体験の実感は心身に刻み付けて味わい続けるべきであるなどという、一見何とも非合理的な自動思考(・・・・・親から同じことで繰り返し叱られるたびに、「叱られた時のことをもう忘れているのか? それはおかしい」という教育を我々は無意識のうちに受けているはずである)が隠れていたことへの気づきに結びついていくかもしれない。

******

 ・・・・・以上は、私の面接場面で普通にやっていることを脚色して再構成してみた創作と受け止めて欲しい。

 今の私の現場面接は、このような、やや「ソリューション・フォーカスド・アプローチ」や「認知行動療法」(更にはABAも。「論理療法」っぽくもありますよね)のテイストも混ぜ込んだ、フォーカシング指向心理療法である。

 ・・・・・何か十分な整理にならなかったかもしれないが、私が自分で現在展開し、進展させつつある、カウンセリングの方向性の進捗状況をその「未完成」のままでとりあえず公開したものと受け止めていただければ幸いである(^^)

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2009/08/11

鬱に陥った人の休養期の衝動買い現象(第2版)

 おいでになるクライエントさんの話を聴いていると、欝になって休養を取って休んでいた時期に、それまでやったことがないくらいの衝動買いに走ったという話を聴くことは決して稀ではない。はっきりいって、かなり一般的ですらあると感じている。

 衝動買いを、双極性障害の人の躁状態における典型的行動である・・・・などという教科書的理解をするたけで説明が済むとはとても思えない。

 SSRIなどの抗うつ薬の副作用で「躁転」した時期に生じやすいという場合は確かに含まれているかもしれないが。

 かといって、このような行為に走る人は、いわゆる「新型うつ病」(非定型うつ病)の人に多い・・・・などということを軽々しく言うのも、避けたほうがいいように思う。 私の印象では、この、「衝動買い亢進状態」は、古典的な「メランコリー型」の鬱に類型してもよさそうな人にも、休養のある段階で実は結構見られる気がしてならない。

 そして、どうも、この「衝動買い」現象は、ある程度以上重度の鬱の人の休養治療初期に見られる、「身体を1メートル動かすのもたいへん」という寝たきりに等しい状態(これは、例えば、気を張り詰めて働いていたのやめ、実際に休むことに決めた翌朝に心身に襲い掛かり、本人もあっけにとられる水準のものとなり、かなり順調に行っても数週間続く場合がある)を脱して小康を得て外出できるようになった、最初の段階ですでに生じることも多いようである。

 鬱の人・・・・むしろ古典的な鬱傾向の人場合にむしろ余計に当てはなることかもしれないが、充実感を感じられる"task”が着実に目の前にないまま、「まったりと過ごす」ということは、病気になる前からそもそも苦手なのである。

 鬱の人は「暇をもてあます」状況にはそもそももろい。「ともかくしばらくはゆっくり休んでください」「無理はしないで」といわれて「そっとされている」鬱の人は、周囲の人からは想像できない次元で、実は窮地に陥っているのだ。

 鬱の人とは、基本的に、自分の中の「何か」が突き動かす「焦り」に巻き込まれ、安らかに穏やかに休息を味わう境地からは「程遠い」中で休養生活しているものである。

 中には、家事や庭いじり、日曜大工(仕事を辞めた人の場合には)ネットでの求職情報収集などを「熱心にこなす」ことに没頭し始める人もあるだろう。

 こうしたことを性急に「熱心にやり過ぎる」と、それだけで再び鬱が悪化する引き金となり、「ああ、まだ私は治りかかったいたわけではないんだ」と落ち込むという、「二次的な鬱」の悪循環になる場合少なくないのだが・・・・

 しかし、そういう性急な活動開始の結果生じたてん末を、単に一緒になって失望したり、「言ったことじゃない!!無理しちゃ駄目じゃない! 休んでいないとならなかったのよ!!」と責めるみたいな反応しかしなかったら、急用中の鬱の人は更に自己嫌悪の泥沼にはまるだけであろう。

 せめて、「残念だったね」とやさしくその悔しさを共にする心の余裕が、見守る人には欲しいものである。

 休養中とはいえ、鬱の人が、自分が「意味のある活動をしていない」ことにいかに耐え難い思いで悶々と心安らがずに過ごしていることが多いかは、家族すらほんとうには察し切れていないことが多いように思う。

 そうした"task"で時間を埋められないとなると、今度は購入した「もの」で空間を埋めたくなるという方向に転化してもおかしくはない。

*****

 もっとも、こうした発想だけでは不十分だったようだ。

 全く別のアングルから、欝で休養経験のある若い女性クライエントさんが、次のように語ってくれた:

「買い物をしている時だけ、自分は病人ではないという気分を味わうことができるんですよ。社会で普通に働けている人と同じフリができるっていうのかな? 

 鬱になってから、お店で店員さんと話し込んで、じっくりと品物を選びながら買うことが増えていた気がする。働いていた頃は、そうやって話し込むタイプでは全然なくて、ひとりで決めるタイプだった筈なんですけどね(^^;)

 街を、流行の服を着て、お店の紙袋ぶら下げて歩いているだけで、病人でない気分を味わえた。実社会から降りていて、普通に働いている人たちとの間に超えられない隔てができてしまっているという、心の空洞を、そうやって埋めてしまいたかったのだとも思います」

 このようにしてまでも自分で自分を慰めるしかない心の機微を汲むことをまずはしないままに、衝動買いのやりすぎ自体はよくないとばかり言い出すようなカウンセラーではありたくない気もする(^^)

 衝動買いが現実的な問題を生み出すことをどうしたらいいのか?ということを一緒に考えていくのは、次のステップである。

 「ものを買うばかりではない形で、そうした心の隙間を埋めるにはどうすればいいのか?」

(例えば、人との出会いもありそうな習い事に投資する形も考えられないかとか)

 あるいは、

「買い過ぎを押さえるには家計簿をつけてみて、検討してみないか?」

 など。

 ・・・・何か、私なりのソリューション・フォーカスド・アプローチじみた物言いだが(^^)

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2009/07/29

「何かを本気で学ぶためには、人は一度孤独にならねばならない」

 解決指向フォーカシング療法(SOFT)を編み出した、バラ・ジェイソンは、フォーカシングのコミュニティの中で、フォーカシングを十分に学んだ後で、解決指向アプローチの訓練を受け始めた人である。

 バラは、解決志向アプローチにおける、非常に積極的で、指示的なアプローチについて、最初は非常に戸惑うところが大きかった。それどころか、

「実際私は、フォーカシング・コミュニティの仲間たち、特にジェンドリンが、私にあきれ果てるのではないかと心配で、数年間秘密にしていたほどでした。自分のしていることを知られたら、コミュニティから追い出されるのではないかと怖れていました。
 それも今は笑い話です。このSOFT(解決指向フォーカシング療法)アプローチをフォーカシング国際会議で初めて発表したとき、フォーカシング界の仲間の多くがすでに解決アプローチを取り入れていることを発見しました。そして、その人たちもまったく同じようなためらいを感じながら、解決アプローチを取り入れていたのです。ですから、私たちは言わば、表現がふさわしくないかもしれませんが、一致に『カミングアウト』したのです」

・・・・バラ・ジェイソン(日笠摩子監訳)解決指向フォーカシング療法―深いセラピーを短く・短いセラピーを深く:邦訳pp224-5

 この部分を読んで、私は、臨床家としての自分の現状への物足りなさをバネにして、孤独の中に新たな道を模索して、トンネルを抜け、同じような孤独の道をたどってきた「同志」が実は身近にいたことに気づいて報われる思いがするところまで突き抜けて来た、バラという人の等身大の生き様が伝わってくる気がして、ある感慨を覚えた。

 このことを伝えたフォーカシング関係の知り合いが、私に紹介してくれたのが、タイトルに掲げた、

「何かを本気で学ぶためには、人は一度孤独にならねばならない」

という言葉である。

 これは、落合信彦「アメリカよ!あめりかよ!」 という本に出てきた言葉らしい。

 落合氏のアメリカ留学時代の体験についての自伝ノンフィクションとのことだが、この著作の中でさりげなく独白のように書かれている一句とのこと。

 今の時代、若い臨床家の皆さんは、四半世紀前の私の修行時代と比べると、比較にならないくらいに整備された学ぶための場を持っている。邦訳された多くの専門的な著作、ワークショップ、セミナー・・・・むしろ、浴びせられるような情報の洪水に、大学の専門課程に進めは接することができる。共に学ぶ仲間の人数も、以前の比ではない。

 しかし、早くからそうした情報や知識を「学ばされる」状況に、色々目移りしながらもアップアップしてしまい、消化不良になる危険とも隣り合わせの中におかれているのではないか。

 日本の心理臨床の世界は、すでに、草創期の、自ら道を切り開くチャレンジングでベンチャーな開拓者の時代ではなくなりつつあるといえばそうかもしれない。しかし、そうした恵まれた環境の中で、実は自分のしっかりとした立ち位置を見つけるたという実感も感じにくい、薄氷を踏む危機感とも実は隣り合わせの状況ではないかとも思える。

 ただ、既成の集団や組織やコミュニティーに埋没しているだけでは、実は今の自分が現実に直面しつつある「漠然とした、マイルドな違和感」や危機意識を直視できなくなる場合もあると思う。

 私に、上記の落合信彦の言葉を紹介してくれた人にとっては、中学生時代の座右の銘のような言葉だったという。

 私も、この言葉は、実にいい言葉だと思う。

 落合信彦については、いろいろ毀誉褒貶があるらしいが、この言葉は思わず紹介したくなった(^^)

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