発達障害

2011/12/20

「こども達とフォーカシング」書評

共著者のひとり、マルタ・スタルベルツは、長年、発達障害の子が沢山いる学校で、児童心理士として活躍しておられた方である。

しかし、本書は、子どもや親や学校の関わりのみならず、大人自身が、様々な個人的現実世界や、組織・施設の中で、フォーカシングをいかに役だてられるかにも様々な示唆を与えてくれる。

フォーカシング関連の書物の中でも、訳はたいへん秀逸な部類に入ると思う。原著そのものに、難解さがない、流れるような自然さがあるであろうことも容易に想像がつく。

多少フォーカシングに馴染んだ人であれば、全くスムーズに読めるであろう。

著者は、こども達と関わる上で、普段思わず使ってしまうような物言いをほんのちょっと控えてみて、親や教師の側が、まずは自分の内側の感じに注意を向け、心のスペースを取り戻すことの重要性を説く。そして、子どもの傍らにいる中から生じてくるボディ・センスに感情移入的に注意を向け、丁寧に気持ちを察しながら言葉を返していく(これを「ミラーリング」と呼ぶ)、それだけでも、子どもとの関係性が、たとえそれが赤ちゃんとの関係ですら変わることを示唆する。

そして、子ども自身が自らのボディ・センスに注意を向け、程よい間合いを見い出すことで、自らにやさしい関係を作り、それが行動(かなりの問題行動すら含む)の好転を無理なく促すことに結び付けられるかを、様々なケースについて、思春期に至るまで、年代別に注意すべきポイントを少しずつ変えながら解説してくれる。

子どもがボディ・センスから自分の細やかで複雑な感情や状況を表現するために、言葉だけではなく、絵画や文字などを媒介することを子どもに提案すると、相互作用が深まる様も、こども達の描いた豊富なイラストを挿入ながら理解できる仕様になっている。

また、技法が決して押し付けにならないように、いかに細やかに関係性を築いていくかが前提になっているかについても、非常に示唆に富んでいるだろう。子供達といかに寄り添うか。それは、子ども自身が自分のボディ・センスに親和的になるかと感応しあっているかのようである。

学校教育の現場では、SSTやアサーショントレーニング、認知行動療法的アプローチ、いじめ対策のためのワークがなされている場合も多いであろうが、ここで述べられたフォーカシングの活用は、それらの技法と矛盾したり取って代わるものではない。むしろそうした技法と統合され、しなやかなエンジンオイルを供給するものといえるだろう。

本書の事例を読んでいると、言語の発達や学習障害、自閉、多動、感情の統制などという点で、実は全く平均的児童との隔てがない関わり方の次元があることが生き生きと伝わってくる。本当に「現場型」でフォーカシングの教師としても有能な人たちが書いた本だと思う。       

「ここの部分は◯◯技法に似ている」などと安易に類型化して読まないで欲しい。本書の行間に身を委ねて味わって欲しいと思う。そこにはpersonとしての大人と子ども、「人と人」との豊穣なコミュニケーションの世界が広がっているのに気づくだろう。

===========

以上、未だ途中までの読みかけですが、とりあえずアップ。読み進めるうちに必要を感じれば増補改定します。

2011/06/11

「障害受容」を取り巻く同調圧力(togetter)

元は@ynabe39さんの発言にはじまる一連の論争への私なりの感想から出発しましたが、その論争の「傍流」でのささやかなやりとりです。

障害当事者やご家族の「障害受容」についての同調圧力が基本テーマです。

キーワード : 障害受容、パターナリズム、愚行権

 

こちらからどうぞ。


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2010/06/20

ドナ・ウィリアムズ著「自閉症だったわたしへ」を読み始めて。

 人は、ある意味で、外界からの刺激に対して、選択的に「心を閉ざす」能力を身につける中で、はじめて自我を形成し始めることができるのではないかと思う。

 特に、「生身の人間」という、得体のしれない他者から不用意に発信されてくる「意味不明の」働きかけに対して、選択的に「こころを閉ざす」能力である。

 今、これを書きながら思い出したのだが、「選択的不注意」という概念そのものは、サリヴァンが「現代精神医学の概念」の中で鍵概念として用いているものであるから、何ら目新しいものではない。

サリヴァン/現代精神医学の概念

 そして、人は自分の思う通り、感じるとおりではなくて、周囲の「重要な他者」(必ずしも養育者でなくてもいい、たった1回の出会いの同世代の子供の場合すらあるかもしれない!!)の言動の「まねをする」ことが「うまくなる」ことで、とりあえず、「仮の社会的自我」というものを形成して行くとも言えるのかもしれない。

 もとより、大抵の場合、思春期に到るまでのどこかで、そうした周囲への「順応」と、「自分だけの世界」と「他者にさらす世界」の使い分けだけでは生きづらくなる葛藤に直面するものだとは思うが。

*****

 どうも、私は周囲の子供たちとは「別の世界」に生きているようだという感覚を、私は、小学校に入学した頃からはっきりと感じ始めていた。

 幼稚園時代には、なかった感覚という気がする。

 ・・・・このように言うと、読者の皆様の中に、「いや、自分は、幼稚園に入る前から、周りの子とは違うという感覚に圧倒されていた」とおっしゃる方々がたくさんおられるであろうことは百も承知である。

 私の場合、環境因も大きかったと思う。私が入学したのは、いわゆる「教員養成大学の附属小学校」だったから。

 ところが、私には、こうした場合にありがちな「お受験」対策を受けた経験がない。そもそも、ある日親にある場所に連れて行かれたら、「附小の入試会場」だったので、ともかく問題を解いてみた・・・そういう成り行きである。

 正確には、学力選考のみではなくて、その後に「くじによる抽選」というプロセスも経ているので、お受験対策の加熱によって、最初から地域の優等生ばかりが集まりすぎることへのセーブは掛かっていたのかもしれない。

 だが、確実に言えるのは、入学した80名の新1年生の中で、地域の「お受験」対策幼稚園とされる2つの幼稚園の出身者ではない合格者は、私以外にもう一人だったということである。

 私以外の新入生たちは、みんなどちらかの幼稚園時代からの「友だち」がいる。そして、「どちらの幼稚園の出身者なの?」というのが、クラスメートからの最初の挨拶代わりだったのをよく覚えている。そして、「どちらでもない」こと自体に、怪訝な顔をされた。

 こうして、友達作りと集団への溶け込みという点で、私は入学当初から負荷要因を背負っていたことになる。そして、このことの特殊性とカルチャーショック抜きにして、私の「周囲の子供たちとは何か、基本的なところが違う」というギャップ感の背景を語ることはできまい。

 幼稚園時代にはできたはずの、鉄棒の「逆上がり」ができなくなった。これも何かストレス要因があったためだろう。

*****

 では、私の親が、何の「受験対策」も私にしていなかったかというと、そういうことではいない。

 もの心ついた頃から、私のまわりには、小学校上学年向けと思える図鑑や学習事典の類がたくさん準備されていた。私は、そうした図鑑や事典をむさぼり読む中で幼稚園時代を過ごした。

 だから、漢字力や、知識力だけなら、小学校2年生ぐらいまでは、なぜ周囲がそこまで「知らない」のかが、わけがわからなかった。

 ある意味で、「努力して勉強する」ということを知らない子だった。授業中も、先生の授業に上の空になり、鉛筆の先っぽを遠近法で見えるか見えないかの角度で目の斜め横にかざして遊ぶ一人遊び(↓)に没頭して、何度低学年の担任の先生に注意を受けたことだろう。

Enpitsu

(↑ピンぼけですが、まあ、だいたいこんなアングルで鉛筆の先端を見え隠れさせるひとり遊びだと思って下さい) 

 結構勘のきつい子で、すぐに大声で泣き出したりした。

 そうしたことも、幼稚園時代や家庭ではなかったことだった。運動は苦手で、小学校中学年頃には、典型的ないじめの標的にされた。

 「附小」から「附中」への進学はエスカレーターではない。附中には外部から純粋に受験で勝ち抜いてきた公立小出身の生徒が数十名加わる。

 放っておくと、そういう「外部からの受験組」の学力に「内部進学組」は圧倒されるので(実際、その傾向は防ぎ難かった)、全児童に対して、「小学6年生になったら附中合格のための受験勉強をすること最優先」というのが当然のこととされ、業者テストも繰り返し実施された。

(もちろん、中には、久大「付設」高校やラ・サールへの進学のための勉強をするものもいたが、それらを受験すると「内部進学」の道は閉ざされるという「二者択一」の「掟」があった。一方、附中に進学しても学力的に適応できないと判断された児童・・・それほどの人数ではない・・・・には穏便に前もって「肩たたき」をされることにもなっていた)

 この、業者テスト(8科目)の2回めで私は、何の弾みか学年で2番になってしまう。それまで、ほとんど成績が学内で中の中を上下していたに過ぎない私が、突然のこの結果に、周囲からも唖然とされた(社会科だけは、教師に、「私に君に教えることは何もない」と言わしめる圧倒的な高学力を小2から維持していたが)。

 しかし、第3回目(1学期の終わり)では再び中の中に逆戻り。「やっぱりあれは、たまたまだったんだ」というよう冷笑した目で周囲のクラスメートたちは私を見た(ような気がした)。

 私はこの時始めて、「自分から意識的に学力を上げることにチャレンジしてみること」に関心を向けた。

 いじめられっ子だった自分を一発逆転で周囲に見返す、これ以上良いチャンスはないではないか! あの「学年2位」は偶然ではなかった事を証明したい・・・・ただそれだけだった。

 目標は、「もう一度でいいいから、業者テストで2番になること」だった。

 そのために、自分から問題集をバリバリと解いて行った(親は何の口出しもしなかった。成績が悪くても決して叱らず、よくても決して褒めない親だった) 。

 そして、秋の5回目の業者テストで、私は再び「学年2番」を取ることで面目をほどこした。

 ただ、親が私の勉強にとことん不干渉だったために、私は「なぜ勉強するのか」というテーマに、中学に入ってからひたすら悩むこととなる。勉強に対する「外圧がない」というのも、それはそれで葛藤のぶつけ場所がないということになるので。

*****

 「附中」に進学してからは、そうやって「なぜ勉強するのか」を時には徹夜して日記を書きながら考えてしまう哲学少年になっていた。

 だから、「全力を尽くしていた」などとはいえないかもしれない。努力できた部分はあったに違いない。

 しかし・・・・

 数学が・・・・中1の途中から、私にとって、「圧倒的な壁」として立ちはだかり始める。

 これだけは、果たして「努力」の問題だったのかどうか? 半端ではなく、どう仕様もなくなっていたのである。

 私は、数学的な抽象性というものを、すべて「具体的な実感」として理解できる形に「還元」しないと全く理解できないタイプの人間だったようである。小学校時代も、他の科目より算数は最良でも10点は低かったのだが。いわゆる「幾何系」より「代数系」の方が小学校時点でも苦手だったのはよく覚えている。

 しかし、「公式のまる覚え」をすることは私の良心が許さなかった。悪戦苦闘した。・・・そのうち、学年で数学は下から2番というのが完全な定位置になってしまった。

 ところが!! 国語の業者テストに関しては、特に何の準備勉強もせずに、答案用紙に向かいさえすれば「学年1位」を何回も取れたのである。

 これは小学校時代にもなかったことだった。もともと得意の社会科の学力を維持するためには、かなりの努力が必要だったのに・・・である。

 こうして、国語と社会科「だけ」は得意なこういちろうと揶揄される中で、地域一番の公立進学校(はっきりいいって、「明善高校」ですね)には不合格となる。

******

 こうした次元のことを、「学習障害」などと呼んだら、実際にそういう診断を受けておられるみなさんにお叱りを受けることは承知している。

 しかし、もし、今の都市部での特別支援教育と同じ判断基準があったら??? 私は、いくら附属とはいえ、「何らかの」検討の対象になりはしなかったかと思う。

 ・・・こう感じる私は、まだまだ学習障害について不勉強なだけなのだろうか?

*****

 滑り止めで入った、当時は不良も結構いた高校(今では男女共学になり、大学には医学部はないのに、他大への医学部入学者も輩出する福岡市有数の進学校である)でも、私は数学では試験は「0点」のことすら稀ではなかった。つまり、レポート提出とかで「下駄を履かせて」もらえなかったら、私は永遠に高校で進級できなかったのである。

 国語の方は、古典は努力で勉強したが、現代国語は、「ともかく点数をぎりぎりまで上げるために」漢字の書き取りだけは熱心にやった。おかげで全国共通一次試験一期生として、国語198点、他方、数学は71点(数学の全国平均点140点台だったその年に!!)という極端な数字を取ることとなる。

 これで、地方大学の補欠合格には潜り込めたのだが、私は敢えて、東京の私大へと向かう道をとることになる。

 いとこが東京の大学に進学した時の、駅での見送りの光景が、私を東京への憧れへとかきたてたのである。

*****

 こうやって書いているうちに、読み始めたばかりの、ドナの「自閉症だった私へ」から、随分隔たったところに話題が来てしまった気がする。

自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

(楽天ブックス)

 ただ、冒頭に書いた十数行こそが、私がこの本から受け止めた、まず最初の、私なりの新鮮な言葉としてお伝えしたかったことであることには代わりがない。

 ともかく、この「古典」を先入観なしに読むことから、私の発達障害について自己流の勉強は「一から出直し」のつもりである。

 ドナの文体のみずみずしさ(訳もいいのだと思う)には、心から魅惑されながら読み進めている。

*****

【追記】

 ドナは、良い治療者との出会いもあり、大変な努力を払って、自らの自閉症と「折り合いをつけた」稀有な人であることが読み通して伝わってきた。

 今日、精神医学の世界で、「発達障害」は市民権を得た一方で、ほんの2,3年前まで、なんでもかんでも「気分障害(特にうつ病)」の枠で捉えようとしていた「汎-気分障害」の時代から、やや過剰な「汎-発達障害」の時代にいつの間にかあっさりと移行してしまったことへの危惧も、不勉強なりに感じている。

 そこに「<コミュニケーション>ができること」に対する時代的な規範の独特の強化の反映も否定できない気がする。

 安易に「コミュ障」という言葉が独り歩きして、重度の発達障害や「高機能自閉症」の人はむしろ迷惑している状態だろう。

*****

 ちなみに、私自身の自己診断は、基本的には父の血を受け継いた、気分の持続性の強い職人肌の「執着気質」と思っている。

(強度の「執着気質」が、「高機能自閉症」とどこかで重複する可能性がないとは言えない気もするが)

 父は対人関係が本当は不器用なのを戦後日本の貧しい時代からの努力の過程で乗り越えた「経理の職人」。数字のこととなると私からするととてもかなわないくらいに頭が回る。

 ただ、一見「礼儀をわきまえた」、そつない人との関わりに、何か「人工的に身につけた」ものを感じる。父にあるのは「職業的な」対人関係のみで、「友人」というものがいた試しがない。

 これに対して、母は明らかに、ひと好きのする「循環気質」圏(鬱状態にはほとんど振れない)の人である。私の人間好きな側面は母の血だ。

 ただ、かなりの高齢出産でもあったので、かすかに父の血にまじった発達障害因子が、遺伝子の微妙な傷として発現したかもしれない。

 私の場合はそこに更に、すでに10年前になってしまったが(2004年12月にこのブログを始める2年程前、2002年のことである)、はっきりとした新たな過酷なストレス状況(それについては私以外の人のプライバシーのも関わることなので、ブログ上では一切触れないことにしている)に対する「適応障害」の抑うつ状態となり、その際に、SSRIを不適切に投与されとことによる、かなり医原性の「双極性II型」の余波が残っている状態かと思う。

 ただ、そういう「軽躁性」が私の中から「重心が低い」形に安定しつつあることは、ここ数ヶ月の私の記事をお読みの方は、感じていただけるかと思う。

 職人的なこだわりのある、ねちっこい、完全主義で(「柔軟であろうとすること」もむしろ完全主義の一部である)、しかも精力的な「粘着」だとお感じかもしれない。(12/1/11記)

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2010/06/06

欝(気分障害)の時代の次には、発達障害の時代が来る。(第2版)

最近,新しい環境への適応のため、記事のペースが一気に落ちてしまっていることをお許し下さい。

やっと、常用漢字表に、「欝」の文字が入ったみたいですね。時代の趨勢を感じます。

ただ、最近、私が新たな環境に適応する中でつくづく思うようになったことを書きます。

*****

一時期、「アダルトチルドレン」という言葉がやたらと濫用され、どんどん拡大解釈され、いつしか「怪しげな」流行に過ぎなかったかのように使い捨てられた時代がありました。

 同じようなことは、「PTSD(心的外傷後ストレス症候群)」についても、確かにPTSDという臨床病態は歴然と存在しますが、一般世間的には、「トラウマ(心的外傷)」という言葉の深刻度が正確に理解されたがどうか? 

安易に使われ過ぎたり、逆に、ほんとうに深刻な場合のことを区別して理解することも正確に流通しない・・・という、混乱状態が実は延々と続いているような気もしてなりません。

そして、今は「新型うつ病」とか、そういう言葉も駆使されながらの、いわば「汎-気分障害」の時代のようにも感じています。

 このへん、ほんとうは難しい。

 欝って、「症状像」なのか? 「疾病概念」そのものなのか?

 私は医師ではないので、あくまでも現状での個人的感想として書きますけど、そろそろ「欝」(広義の気分障害を含む)という概念と適用対象の広がりが限界に達する時期が来たんじゃないかという予感がし始めました。

*****

 私の想像するに、今から数年後には、精神医学や臨床心理の世界は、「うつ」「気分障害」に代わって、「発達障害」という概念がものすごく幅広く使われる時代になっていると思います。

 つまり、「汎-発達障害」の時代が来るということです。

 私は発達障害の臨床的専門家としてのキャリアはありません。スクールカウンセラーとしての経験もなかったので、特別支援教育(学級)の現場を垣間見る機会もありませんでした。

 以前にも書きましたが、私が大学で学生相談をしていた時代は、まだ、高機能発達障害の学生さんへの対応というのは「黎明期」のテーマであり、私も多少関わらせていただいた経験はあります。

 そういう私が書くことですから、以下の内容、多少の(かなりの?)見当はずれがあってもどうかお許し下さい。 

 私の過去記事で、研修会で学べた範囲で、3年前の2007年段階で、発達障害に関しては学べたことの総まとめはこちらにあります。

 この研修会の段階でですら、私は、それ以前に出席した発達障害関連の研修会で学べたこととは全く異次元の学びがあり、自分が発達障害についていかに「何も知らないも同然」の臨床家かを思い知らされました。

***** 

 ここからは、話を明快にするために、発達障害の中のひとつの診断分類である学習障害(LD)についてだけ書きます。

 しかも、学習障害の「純粋型」とも言える人たちをモデルとして思考実験してみます。

 以前もこのことは当ブログのこちらでお書きしましたが、他の点では全く普通のコミュニケーション能力や知的水準があるかに「一見」お見えの人が、学業というより、例えば、もっと身近で日常的な筈の計算能力という点だけ取り出すと、びっくりするほどお困りのまま、影ではたいへんな苦労を重ねて成人になられているケースは、確かに見られます。

 「今から15分後」というのが何時何分か暗算では全然わからない。だから、絶対に大きめのアナログ時計を持ち歩いて、1分、2分と手で指さしながら勘定されるそうなんですね。

 「学習障害」の当事者として、その極端な知的能力のアンバランスの現実について、テレビ出演・著作・講演活動もなさっている、笹森理恵さんのおっしゃっていたことですから、ここでここまでお明かしても何も問題ないかと思います。

(もっとも笹森さんご自身は、ADHD・LD・アスペルガーなど、まさに複合的な高機能「自閉症スペクトラム」、更にもろもろを一身に背負われ、いい専門家との出会いの中で、やっとのことで今のご生活が可能になり、今度はご自身が援助職の側に立とうと努力を重ねておられる方です。ウェブサイトはこちらです)。

 そういう意味では、「勉強における努力と根性や、家庭や地域社会でのしつけや見習い、学校教育一般の問題」をまるっきり超えた次元での、生得的な「学習障害」っていうのは、歴然とこの世に存在する。

 より浅い次元に翻訳すると、誰にだって能力の「偏り」はあり、得意科目と不得意科目の違いは、単なる努力や勉強の仕方の次元を超えて存在する。

 もちろん、これからの時代、今度は、ではどの水準からかを「学習障害」とみるのかが、本当に「悩ましい」問題になると思います。

*****

 そこで思うんですけど、

 広い意味での高機能発達障害の皆様の中で「気分障害的」症状に苦しまれている方々はたくさんおられるようです。

 その一方、「気分障害」の皆様の中で、私なりの命名ですが「軽度高機能学習障害」みたいな生育歴をお持ちの方も少なくないようです。

 それを「しつけ不足」や「勉強嫌い」、「努力不足」の還元しようとすると、何か、説明仕切れないsomethingが残る。

 例えば、どれだけ頑張っても、例えば英語あるいは数学に限定すると、中学1年くらいの水準を超えるあたりで「とてつもない壁」が立ちはだかる。それでも他に平均水準並み、ないし、それ以上の科目がいくつかあった(場合によってはひとつぐらいは成績上位そのもの!)ので、特別支援学級(にあたる処遇)には進まなかった。

 ・・・・というか、「その当時の」養護学級・学校システムでは「受け皿」自体がなかった。ただし、その人の子供時代に「現在の」都市部並みの特別支援学級制度が存在したら、運命はひょっとすると異なっていたかもしれない・・・・・という、「ある世代より上」の人たち。

 そういう、学力やその他の知的能力のかなりのデカラージュ(私が若い頃に学んだ言葉で、「さまざまな次元での発達因子相互間に相当なギャップやズレがひとりの間の中にあること。・・・・今現在、こういう場合に使う言葉かどうかは、私は発達心理学者ではないのでわかりません、誤用ならお許しを)を、それこそ「努力と根性」で乗り越えて生きて行こうとするうちに、限界に達して、その結果、うつ(気分障害)状態にはまる・・・みたいな人たちがいそうな気がしてきたのです。

******

 私は、良きにつけ、悪しきにつけ、空想します。

 数年後に、何かというと、精神疾患が、今度は「発達障害の潜在」の可能性から語られるのが「過剰になり」すらしまいかと。

 もちろん、そうした中で、現在のうつ病(気分障害)の現場臨床のお医者様の中の良心的な先生方と同じように、「うつ傾向もある発達障害」と「発達障害も潜在しているかもしれないけと、基本にあるのはあくまで内因性の気分障害の波」という、デリケートな鑑別と処方の使い分けがおできになるお医者様が今後もずっとおられるであろうことを。

 DSMも、バージョンがVI(6)あたりまで進んだら、ほんとうに別世界かもしれないなあ・・・とか。

 DSMだけで、やはりすべてをカバーするのは、いろいろ限界があるのかなあ・・・とか。

*****

 このことを考えさせていただけるそもそものきっかけになったのは、次の本でした。

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

スクールカウンセラーとしての経験もなく、特別支援教育(学級)と関与する経験もないままキャリアを積み上げた私に取って、いろいろな意味でインパクト満載の本でした。

新書ですが、発達障害最前線の現場児童精神科医の書いた、エッセンスが隙間ないくらいにビッチリと詰まった、非常に奥が深い本ではないか?というのが私の感想です。

ありがちな「ゲーム脳」論は微塵もなし。生まれ持った素質に対して「特別支援教育の専門家なら」何ができるか、薬物療法を含めた医療に何ができるか、ご家族のサポートとして何ができるか、進路や就職問題まで、理想と現実の狭間のギリギリの世界(!)を書いておられるように思えています。

私の世代の専門教育しか受けていない人間が、実際の今の特別支援学校教育の現場を臨床的に知らないまま、安易に「発達心理」と関連する教壇に立つ資格はもはや「ない」のではないか・・・・と「絶句」させられるくらいのものがありました。

何か、私がこれまで学会で発達障害についての研修会とかで学んだこととは「異次元」の世界に一気に吸い込まれる迫力を感じました。

本書のAmazomレビュー、例外的に星二つにとどめた「ロック」さんまで含めて、みっちりみんな目に通す価値があるように思います。

星二つの方も、本書を否定しているのでは決してない。むしろ本書を基本的に認めた上で「更に先まで進むための、ほんとうに最低限の入門書なんだ」という点を強調されているだけなのですね。

*****

【第2版 10/06/11】 

 なお、気分障害と発達障害のある種の輻輳性(?)みたいなものについては、以前からお読みしていたkyupin先生のサイトの一連の記事にもインスパイアされています。

 最近のkyupin先生の記事、

●広汎性発達障害と心因反応(kyupinの日記 気が向けば更新 精神科医のブログ)

もご参照下さい。

 この記事で取り上げられているのは、あくまでも旧来の「引きこもり」のある部分は間違いなく広汎性発達障害だったろう・・・という御趣旨であり、気分障害との関連付けではないのですが。

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2010/02/08

浜崎あゆみの詞における「僕」と「君」、「わたし」と「あなた」 -サリヴァン的次元で解説してみよう- (第2版)

 浜崎あゆみさんの詞って、驚くぐらいに具体的なシチュエーションが出てこない。

  •  地名・・・ゼロ。それどころか「海」という言葉は出てきても、「山」「川」はひとつもない。
  •  人名・・・中島みゆきなら「♪真理子の部屋に、電話をかけて(「悪女」中島みゆき - 寒水魚 - 悪女 (アルバム・ヴァージョン))」と出てくるくらいの、一般化した次元でもゼロ。
  •  学校時代をイメージさせる表現・・・・ゼロ。唯一の例外が、浜崎あゆみ - A BALLADS - 卒業写真荒井由実の「卒業写真」をカバーしたケースだけであるという、驚くほどの徹底性。
  •  「僕」「君」「あなた」という人称を異様に多用する。「彼」「彼女」も例外的では?

 そして、そもそも「君」「あなた」が誰なのかが非常に曖昧で多義的で、どのようにでも受け取れ、再解釈できる

  • 生身の「濱崎歩」
  • アーティストとしての「浜崎あゆみ」

    (ベスト盤浜崎あゆみ - A BALLADS"A Ballads"の最後に収録された「卒業写真」のカバーそのものが、「街で見かけた」かつての自分のポスター等との対話というシチュエーションで理解してもらうことをayuははっきり狙っていたと思う。アルバムジャケットも、←こんなふうですからね)
  • 聴衆
  • 過去の、そして現在の同性の親友たち。
  • 父親
  • 過去の、そして現在の異性の知り合い(max松浦もそのひとりだけど、それだけ強調するのは明らかに偏った理解。最近はさすがにこのこじつけはいい意味で廃れましたけど)
  • 過去の恋人
  • 現在の恋人
  • 聴衆にとっての大事な人

 ・・・ちょっと年季が入ったayuファンなら、実は今私が箇条書きにした順序くらいでとりあえずいくつも当てはめていくのが無難であることに気がついているかと思う。

 "teddy bear"浜崎あゆみ - Duty - Teddy Bearや"memorial address"浜崎あゆみ - Memorial address - Memorial Addressの「あなた」がもっぱら父親のことを指す、"ever free"浜崎あゆみ - Vogue - Ever Freeは亡くなった祖母のこと・・・などと、特定的に捉えていい・・・といったケースというのはむしろ例外的なのである。

 要するに、ayuの詞というのは、非常に純粋な形で、「外的」および「内的」な「二者関係」に無限に「投影」させ、「転移」させることに開かれ切っている。

 
似たようなことは、他の歌手でもある程度は曲によって見られるが、ayuのように「首尾一貫した厳密な方法論」と言える域の人を、私は知らない。

 ayuは、本当にこの経験則だけで詞を書き続けていられる。裏を返すとayuのような詞を他人が「模作」しても容易にメッキが剥げる筈と断言できるくらいである。

*****

 この現象をうまく説明するのに役立つ、私の守備範囲に入っている精神療法家は、誰をおいてもサリヴァンである。

 私はこのことを公然とネットで書いたことが実はないままなことに、直前の記事でサリヴァンに言及した際に気がついた。

サ リヴァン/現代精神医学の概念(中井久夫訳)

 サリヴァンが、 本書で、「パラタクシス的(parataxic 私なりの意訳をすれば「相互転移的=投影的二者関係の次元」)なもの」と呼ぶ対人的相互作用の次元での象徴化・言語化様式と、まさにぴったり符合するのだ。

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 (前略)この合理化とは、実は「個性とは一人一人独自なものである」という妄想の特殊な一側面である。それは、「概念としての『私』と「概念としての『あなた』(conceptual "me" and "you")がそれぞれ特異的な境界線をもっているためにどうしてもそのように考えられてしまうのであるが、実際には、「概念としての『私』や『あなた』とは、個人の知覚の舵取り役をつとめるもののその人の経験の意識可能な範囲を限定する参照枠[frame of reference]となるものに過ぎない(邦訳p.111)。

=======引用終わり=======  

 サリヴァンは凄まじい逆説を述べているので、一見難解だが、ちょっと解説してみよう。

 サリヴァンは、本書の別の箇所で、「我々は、基本的には同じような人間である」という前提が大事ということを述べている。

 これは、一見「個性」というものを否定しているかに見えかねないが、一見精神病状態になるかに見える人間でも、基本的には自分と同じような人間として捉える基盤が大事だということを強調していると受け取れるだろう。

 そして、「個人」という自己完結的システムとして人間を捉えるのではなく、「対人関係的相互作用の場」過程という次元でとらえることを基本スタンスとしていることこそがサリヴァンの本質なのだ。

 この点はジェンドリンも「人格変化の一理論」の削除された草稿部分(TFI日本語サイトで村瀬孝雄訳を閲覧できます)で、サリヴァンとの比較論に紙数を割いて評価している。

 「性格は、対人関係の関数である」

・・・・サリヴァンの、もっとも有名な言葉のひとつである。

 ひとは、自我を持つ存在として他者と関わる限り、「共人間的有効妥当性確認(consensual validation)」ができる形での言語での意思疎通の能力を身につけねばならない。

 この"consensual validation"という概念は、中井先生の「超訳」の典型として著名だけれども、わかりやすく言えば「お互いに話が『通じあう』水準での言語使用になじむ」必要がある、ということ以外の何者でもない。対義語は、端的に、「自閉的(autistic)な言語使用ということになる。

 もとより、人はこの能力の獲得の過程で、「自己態勢(self dynamism)」から「私-では-ない-もの(not-me)」として解離しなければならない有機体的経験の膨大な領域を持つことになる。そのある部分は容易に他者に投影され、ある部分は端的に「否認」されることになるだろう。

 しかしそれはサリヴァン的な見地からすれば、人がその所属する文化に適応(accultualization)していくための必要悪でこそあれ、さまざまな精神的失調・・・・正確に言えば、そのは単に「個人内」の現象ではなくて、「対人的相互作用」における齟齬ということになる・・・・の温床でもある。

 そうした意味で、アイリッシュ系であるサリヴァンは、WASPを中心とする当時のアメリカの価値観がアメリカの青年、特に前思春期の男子の成長に与える悪影響についてむしろ非常に尖鋭な批判者であったことは是非とも述べておかねばならない。

*****

 さて、こうした前提で、「パラタクシス的なもの」自体についてのサリヴァンの言葉を引用しよう:

=======以下引用(中井久夫訳。太字、および[ ]内はこういちろうによる)=======

 パラタクシス的[paretaxic]な対人的関わり方とは、話し手の意識の枠内におさまるような内容規定を持った対人関係と並んで[="para-"=並行して] 、影が形に添うように、もう一個の対人関係が存在し、対人的なかかわり合い方の傾向が前者とは全く異なり、しかも話し手はその存在をまず完全に意識していない場合である。

 パラタクシス的な場においては、精神科医と患者とから成る二人組と並んで、ある特別な『あなた』パターンに迎合するように自己を歪めた精神科医」と「未解決の過去の対人的なかかわり合い追体験しながらそれに対応する特別な『私』パターンを現している患者」とから成る幻の二人組がある。コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、この移動が稀にしか起らないこともあるが、いすれにせよ、普通、話し手の気の配り方は、結構ちゃんとしていて、活用や語法、語順などまちがわないで文法に適った言明を作ることができる。そのため一見首尾一貫した議論の立て方となる。またかなりはっきりと聞き手を意識した語りかけ方となる。(邦訳pp.112-3)

=======引用終わり======= 

・・・・この最後のパラグラフなんて、全くもってayuの歌詞のありかたそのものについて言及していると言えるだろう。

 ayuって、びっくりするくらいに、はるか以前の対人関係のことを意識し続け、ひきずり、繰り返し歌い続けずにいられない人のようだ。

 このあたりの具体的な解析と人物の同定については、王子のきつねさんのブログの随所で繰り広がられてきた情報収集力と慧眼と説得力に私はとてもかなわない。

 念のために申し上げると、いわゆる「成熟した」対人関係を持つ人間同士でも、この「パラタクシス的」次元は容易に顔を出す。ベイトソンのいう「ダブル・バインド」も「パラタクシス的なもの」の特殊な形態のひとつといえる。

 興味深いのは、高機能自閉症の人にとっては、まさにこうやって「影のように寄り添う別次元の対人関係様式」という、いわゆる「健常者」が全く無自覚に撒き散らす「含み」の成分というものを厳密に「理解」「識別」できないとパニックに陥る場合があるということだ(私は発達障害の専門家ではないが、当事者やご家族の話をうかがう限り、いわゆる「アスペルガー」タイプの皆さんの少なからず場合にあてはまりそうだ)。

******

 ちなみに、先程の引用部分で、

>コミュニケーションの過程がこの二つの形影相添うような対人的なかかわり合いの一方から他方へとめまぐるしく飛び移ることもあり、

と述べたが、あゆの場合、同じ歌の内容が同じシチュエーション、同じ相手を指すと強迫的に捉えようとすると意味が全体として通じにくくなるケースが稀ではない。

 これについては、先述のきつねさんが、"(miss)understood"(アルバム名ではなくて曲の方浜崎あゆみ - (miss)understood - (miss)understood)について、見事な分析をしている。

●甘いスイカに砂糖をかける(王子のきつねOnLine)

●Miss Understood Lyrics - 浜崎あゆみ (English and Hiragana)(YouTube)

 私が大好きな歌です。

 ここでいう「君」って、全部ayu自身のことを指すものとして理解しなおしてみるだけで、ぐっと深みが出ますよね(^^)

*****

 もうひとつ、アルバム"(miss)understood"の「心臓」であり、もっとも深みある曲のひとつと私が感じている、"In the Corner"浜崎あゆみ - (miss)understood - In the Corner

●Ayumi Hamasaki - In the corner(YouTube)

 ちなみに、この歌詞を聴いて、ayuのことを「ボーダーチック」だとか"as if personality"だとか言い出すのは、私は心理の学部生までしか許さないから(^^)。

 自分のことを振り返ってみるとどうだろう?

 「まずは罪なき者が石を投げよ」。

 相手への愛情を一瞬たりとも疑ったことがない人がいるとすれば、そういう人のほうが無理のしすぎで心配である(^^)

 ayuは、素直なだけなんだよ。

 あるいは時々、聴衆を意識して、こういうことを敢えて歌にして「予防ワクチン」をファンに打っておかないと、自分も持たないし、ファンも危ういと感じているだけ。

 そういう意味ではほんとに「ファンに気を使っている」からこそ、こんな、ファンを「脱錯覚(disillusion 幻滅)」させる危険がある「暗い曲」をアルバムに入れておく。

 私が聴いた、アルバム発売時のツアーの、少なくとも長野2日めと代々木の楽日という、私が臨席した2つのライブでは歌わなかったけど、最近はライブでも歌っているらしい。

 私なら、ayuをむしろ、若干分裂気質も合質しながらも、高エネルギー型執着気質をベースにした、適応水準の高い双極2型に分類する(・・・・って、それこそ私自身のパラタクシス的「投影」でもあるかもしれないけどね)

浜崎あゆみ/(miss)understood (DVD付)浜崎あゆみ - (miss)understood

(楽天市場の同商品)

*****

 最後に,YouTubeの「公式」動画より。

 敢えて次の初期の曲で、私が最初に提示した「君」の読み替えを徹底的にやってみてください。

●浜崎あゆみ / TO BE(YouTube)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~ - TO BE PVはTO BE

浜崎あゆみ/A COMPLETE ~ALL SINGLES~ (DVD付き)浜崎あゆみ - A COMPLETE ~ALL SINGLES~

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2009/10/05

10月4日付け読売新聞日曜版「本よみうり堂」に掲載された、精神科医、春日武彦氏による「『病気の押し売り』を検証」と題する書評記事への感想 (第7版)

 さて、昨日の晩に予告した「お題」について書くことにしよう。

【追記】 : この春日氏の書評の全文がYOMIUYI ONLINEで読めるようになリました(直接リンク)。

冨高辰一郎/なぜうつ病の人が増えたのか
クリストファー・レイン/乱造される心の病

 書評の対象になったのは、この2冊である。

*****

 春日武彦氏の文章というのは、時として独特の屈折したシニカルさがあると思う。

 例えば、過去のご本人の著書のタイトルのつけ方にしてもそうだ。

 「問題は、躁なんです」 ・・・・・鬱ばかりが論じられ、躁鬱病の問題についての一般向けの著作が当時少なかったので啓発書として書きたかった意図はわかるが、だからといって、それこそこんな「軽躁的な」タイトルをつけてふざけているあたり、週刊誌の見出しじゃなかろうがといいたくなる。

 「ロマンティックな狂気は存在するか」・・・・・・新書化される前のモト本を私は若い頃に読んでいる。小説や映画で描かれるような「ショックのあまり『気がふれて』おかしくなる」という現象は現実にはあり得ないことについて書かれた本。
 内容的にはもっともなことが書かれているので、啓発書としての意味はあるが、そもそも精神科医がお書きになる本で「狂気」という言葉をむき出しで使う本は、実は滅多にない。
 日ごろ実際に精神病の人たちと接している臨床医の先生の多くは、その人たちとの関わりがどれだけ大変な場合があっても、同時に、そうした人たちの実存のプレゼンスに接していると、ある独特の「厳粛さ」を感じずにいられなくなることが少なくないようだ。

 そうした意味では、春日氏の言葉運びには、現実の精神病者への、ある「酷薄さ」が感じられることが、本書に限らず少なくないように思える。

 ・・・・結局、上から目線なのだ(実は読者に対しても)

 それがいい意味でのウィットとして機能する場合にはいいのだが、ちょっと今回の書評は、彼の「無神経さ」という側面があぶりだされたもののように思えてならない。

*****

 「うつ病が急増しているといわれる。(中略)実際、1999年から2006年までの6年間の間に、うつ病患者は2倍以上に増えている。99年から患者数が急増しているのである。ではその年に何があったのか」

 このことが、冨高氏自身の発想の原点にあったことは、Amasonのサイトですでに確認済みである。

 春日氏は、社会情勢の変化(1999年は確かにバブル崩壊の年である)、若者層を中心とした精神構造の変化がその原因であるという論調が多いことを示唆した上で、

 「しかしそれでノイローゼ患者が増えたというのならばともかく、うつ病患者が2倍にも膨れ上がるものなのか」

 この言葉が冨高氏の原著にある言葉なのか、春日氏の表現なのか不明だが、ノイローゼにだって「鬱症状」は得てして存在する。

 更に先までシミュレーションすれば、「ノイローゼ」はあくまでも心因性であり、狭義のうつ病とは「内因性」である兆候が明確に認められねばならないなどと、春日氏がこの私のブログ記事を読んで下さったら、言い出す可能性があるかな?

 しかし、DSMからはすでに「神経症」という診断項目が消えた。これには一面で理由あることなのだと思う。

 そもそも神経症の概念は、19世紀ヨーロッパで、主として中産階級を相手にしていた精神科医の間で、「内因性精神病」とは分化させた概念として定式化されたものである。そこにはクレペリンやブロイラー、シャルコー、ジャネ、フロイトなどの多大な貢献があるわけだが、その時代に「典型例」として抽出された「神経症」像が、特に第2次世界大戦後の経済成長に伴う国民全体の経済水準の上昇を契機として大衆全体に広まる過程で、「典型例」にあてはまりにくい「非定型化」が進行したことと関連する。

 「非定型」とされたものが、次第にその細部の特性や治療法が分化・明確化してとらえられるようになり(それが「診断学」というものであろう)、それぞれ固有の診断分類として分化していくことは、医学全般に共通することであり、それをすべてDSMの操作的定義・マニュアル指向の弊害に還元することにはちょっと無理がある。

*****

さて、続きに進もう、

 「99年は、本邦でSSRIと呼ばれる新型の抗うつ剤が導入された年である。ニュータイプの抗うつ薬の売れ行きと、うつ病患者の急増は相関している。だが新薬登場でうつ病患者が減ったというのならばともかく、逆に増えたとはどういうことなのか」

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

と続けている。

 冨高氏が、日本以外の、アメリカやヨーロッパ諸国でも、SSRIが認可された時を境にうつ病患者が急増した統計データも示してくれているかどうかに関心がある。

 統計を持ち出す場合には、常にこうした発想法が必要であることは、私もこのブログで、薬物療法と認知行動療法との併用だけではなく、他の流派の療法との併用を施行した場合という「対照群」の統計があるなら見たい、さもないと、単に認知行動療法の人たちが実証データを取るのがお好きな(まさに、プ ロモーションがうまい!)「だけ」ということになるのに、誤解を与えますと常々申し上げている通りである。

 もとより、「1995年ごろには欧米でSSRIへの評価が下がりはじめたので、日本が特にプロモーションのターゲットにされた・・・・というあたりの論が冨高氏の著作の方で展開されている可能性あり!とシミュレーションしますが。

****

 次に、先述の、

 「ここで製薬会社による啓発活動(一般市民および医師への)がクローズアップされる」

 SSRIになって製薬会社(正確に言うと、日本の製薬会社ではなくて外資系の製薬会社である)の販売促進プロモーションがいかに活発になったかという問題については、ネットをあさればいくらでも話題にされてきたことである。

 特に、パキシル(パキセロチン)の発売元であるグラクソ・スミスクライン社の広報活動と不利な情報隠蔽体質に関しては悪評ぷんぷんたるものがあることは、検索すればいくらでも情報源があるが、私は敢えてここで、加藤忠史氏による「躁極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」すでに書かれていることから引用したい。

 (この本は、基本的には双極性障害「1型」を主眼とした著作であるが、すでにご紹介してきた内海氏の本を読む前に読んでおくと、内海氏の本がやや難解だという印象が大幅に薄らぐと思う。また、後半部分で展開される、世界最先端水準の脳生理学、神経化学、DNAレヴェルでの遺伝子上の実証研究の当事者という、加藤氏の、現場臨床医とは別のもうひとつの顔で描かれている部分が、私には滅法読み応えがあった。そして、これからいくつか例を挙げるように、冨高氏が著作の中で書いているはずのことのいくつかをすでに「先取りして」書いているのである)

 以下、紫色の部分は「加藤氏の」この著作からの引用です: 

「それどころか、これらの新しい抗うつ薬が、うつ病にほんとうに効くのかどうかということまで、最近議論になってきておりまして、ちょっとその話題を紹介したいと思います。

 実は、抗うつ薬をうつ病の方に処方して、効いたかどうかを調べた臨床試験の結果は、論文になっているものといないものがあるのですね。

 そこで、アメリカにFDA(食品医薬品局)という薬の認可をなどを行っている部署があるのですが、そこの論文開示請求を出して、論文になっていないパキセロチン(パキシル)の臨床試験を出してもらった、という研究があります。

 そこで再解析したところ、論文にされていない臨床試験は、みな効果がない結果に終わっていました。論文になっているのは、効果があるものだけだったのです。それで、これはバイアスがかかっているのではないかという研究結果が論文として報告されました」(pp.177-8)

 加藤氏は更に続けて、その後の論文で、パキシルは中症から重度の患者ではプラセボ(偽薬)よりもやはり有効だったけれども、その効果はわずかで、軽症例では効果に差がないというものが公表されていることを示しています。

 更に加藤氏は、アメリカの臨床試験の厄介な問題についても言及しています。

 「アメリカではこういう臨床試験に参加した人に報酬を払うのです。報酬が出るとなると、お金だけがほしいといういう人もいまして、こういう臨床試験をいくつも掛け持ちする人が出てくるわけです。

 たくさんの臨床試験に偽名で参加して、報酬だけもらいながら薬は捨ててしまう。そして医師には、うつらしい症状を話しながら治ったふりをする。そういう人たちがいるのです(中略)。[これでは、]効くべき薬に[統計調査上の]差が出ません。飲んでいないのだから差が出るわけがない」(p.179-80)

 ちなみに、こうした治験では「二重盲検」というやり方を採ります。これは、担当する医師にも治験患者にも、それが偽薬なのか、ほんとうの薬かどうかが知らされないままなのです。恐らく個々のタブレットにつけられた製造番号みたいなものだけで識別できる形で、治験の研究者は統計処理をしていくのだと思います。

 ・・・この辺に関わる問題のある程度は、今回の書評の対象になっている2冊の本で言及され、しかも更に詳細に報告されている可能性はあるかと思います。

*****

 さて、この「製薬会社のプロモーション」の問題を考える際に、ちょっと視点を変えますと、実は同時に考えねばならない重大なテーマがあるはずです。

 それは、「薬価」の問題です。これは医療機関が国に保険適用について申請する際の公定基準なのですが、建前上は、薬剤の開発・研究費用、そしてそれが新薬であることが算定基準になっており、改訂される際には下がることになっています。

 ジェネリック(後発医薬品。同じ成分の薬を他の会社が製造することが許可された薬)の場合には、研究開発費がない分だけ、薬価は当然より低く押さえられることが多い。

 これはまわりまわって、競争原理が働くわけで、オリジナルの製造会社も薬価をある程度下げるべく、申請を国にせざるを得ない方向に誘導することになります。

 この「薬価」というのは、業者からの仕入れ価格そのものを規制するものではないために、そこで「利ざや」を稼ぐことが可能です。きっとこのあたりも、書評で紹介された本の中で紹介されている問題なのだろうと思います。

 もとより、心ある現場の医者は、もう、単純明快に、実際に効くか効かないかだけで薬の選択を判断するものです。そういう点で、プロモーションなんぞには全く惑わされず、自分の臨床眼と、患者さんの反応、信頼できる医師同士の情報網だけをたよりに薬を選んでいるはずです。

 このあたり、例えばkyupinさんがサイトでお書きになっていることは、ネット界では最も突っ込んだ次元でのもののひとつであると私は信頼しています(kyupinさんのパキシルを含むSSRIへのスタンスは、この記事この記事にもよく表れています)。

 薬価が高い薬を処方する際に、敢えて「申し訳ない」とはっきり口にしてくださる先生もいます。

*****

 それにしても、もし私がこの2冊の本で言及されていると嬉しいと思っているのは、そもそもなぜSSRI(特にパキシル!)の薬価があそこまで高いのかという問題それ自体です。

 SSRIは、本国でも価格が基本的に高い薬なのですが、単順に経済的に考えて、もし「薬価」を法外に高くせざるを得ないやむをえない事情があるのであれば、特に保険制度を民間に依存しているアメリカでは、「プロモーション活動」に巨額の投資をせざるを得なくなるだろうということになります。

 それとも、最初からそのプロモーション費用を「回収する」見込みまで立てて、「薬価」が高くなるようにいろいろ偽装したということまでありでしょうか?

 このへんのあたりのからくりまで、2冊で追求されていれば、興味深いのですが。

*****

 次に、特に冨髙さんの本で、「鬱症状」の病態によって、使用する薬を変える必要性についてどこまで踏み込んだことをお書きになっているのかについても関心があります。

 Amazonの書評欄を見ると、本書の中で、「再発予防のためのリハビリの重要性」だとか、「(SSRI以外を含めた)多種多様な抗鬱剤の効果の程がわかる」とのことなので、この点はあまり心配しなくてよさそうである。

 ひょっとしたら、うつ病と誤診されやすい双極性障害II型において、リーマスや抗てんかん薬、場合によっては非定型薬、更には睡眠誘導剤が役に立つことについても言及されているだろう。

 そして、薬物療法だけではなくて、医者の小精神療法やカウンセラーによるカウンセリングが連動していること、更には家族や雇用者側の対応についてまで踏み込んでくれていることを期待したい。

 なのに、こうした観点は、春日氏の「書評」にはぜーんぶ抜け落ちているのである!!

****

 薬品会社のプロモーションが会社に与える影響問題についてもう一点述べると、例えば、今や双極性障害II型が鬱病と誤診され、抗鬱薬の処方だけだと、むしろ双極性障害2型の素質を「開花」させてしまう・・・・当然治療は膠着状態になることの危険の問題は、お医者の間でかなり認識が深まっているようだ。

 このことは、新たにおいでになったクライエントさんから「投薬暦」をうかがう度に感じさせられる。

 そういう中で、リーマスやデパケンの需要は以前よりもかなり高まりつつあると思えるのだが・・・・果たしてこれもまた、薬物会社のプロモーションの結果として生み出された、新たな流行に過ぎないのでしょうかね?

 ところが、これらの薬の薬価は、三環系抗うつ剤並みに安い。更にどちらもジェネリックは出ていますし。利ざやの稼ぎようはほとんどないと思います(^^;)

 私が言いたいのは、個々の製薬会社の個々の薬に関して、治験のあり方、副作用の問題、プロモーションのあり方が問題にされてしかるべきだけれども、十把ひとからげな医療不信を煽る発言は、患者を不安に陥れるばかりで危険だということです。

 本来抗てんかん薬だったデパケンが双極性障害の治療薬になることなど、製薬会社には当初思いもよらないことで、臨床現場の経験値に出発して統計を取ってみた論文が出発点になっているようで、脳内での生科学的作用という点では未解明のまま、治験に基づき、双極性障害への適用も慎重に認可されたようである。

 (薬の保険適用申請においては、個々の薬について認可されたある特定の(いくつかの)疾患にしか受理されないという原則があるのです。だからデパケンなどの抗てんかん剤が、双極性障害への気分スタビライザーとしての処方をも認可されるまでに更に数年かかっているのです)

 先述の加藤先生のご著書によると、やっと最近になって、抗てんかん薬が双極性障害の人のニューロンの生化学作用に与える影響についてのとりあえずの「仮説」が立てられた段階のようです。

 最初胃腸潰瘍薬だったドクマチールもまた、その後統合失調症やうつ状態の改善に役立つことが「発見」されました。この薬は、すでに日本で最初に販売されて30年経過という、恐ろしく息の長い古株の薬で、さすがに今では「主薬」として用いられることはあまりないでしょうが、抗うつ薬だけでは鬱症状の改善に効果が出にくい時、薬物療法に秀でたお医者様が、副剤として処方されるケースがままあることも結構知られているかと思います。

 要するに、良心的なお医者さんは、製薬会社の宣伝を、鵜呑みにしないばかりか、製薬会社の側に、「この症状でも効果があるので、国に保険適用の申請を出せ」というプレッシャーを与える側の存在でもあるという、双方向性はある程度機能しているいうことです。

*****

 さて、いよいよ、今回のクライマックスなんですが。

 「これはメタボリック・シンドロームと同じ構造である。以前だったらただの『小太り』が、今で病院受診や保険診療の対象となる。早期治療といった考え方もあろうが、いたずらに多数の『病人』が作り出されたとも言えるだろう」

  この部分は、冨高氏ではなくて、書評の春日氏の言葉であろう。

 これじゃ、うつの患者さんを傷つけるばかりではない。成人病と鬱のどちらか重いかなどという比較論はもちろんできないと思う。でも、成人病予防検診によって慢性の病にならずに済んだ人がどれだけいるであろうか? そして何より、「小太り」の人を侮辱していると受け取れる発言になっている。

 リアルタイムに面と向かってユーモラスに語る時と、文章として書く時では人に与える印象がどれだけ違うか、もちょっと気を配って欲しい。例えば、「ちょっとおなかが出ている人」とするだけでもニュアンスは変わる。

*****

 春日氏の「書評の」先の部分:

 「ただ啓発運動が逆に病気でないものを掘り起こしているといった視点もある。『病気の押し売り』と評され、うつ病以外に小児の躁うつ病、男性型脱毛、性機能障害、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、軽い高コレステロール血症などが欧米では批判されているらしい」

 Amasonの書評を読む限り、このテーマは、書評の対象となった2冊で共に論じられているようである。

  またもや加藤先生のご著書「双極性障害」に戻らせていただくと、実はすでにこの本で、「小児思春期の躁うつ病」問題について、第2章第4節全体(pp.47-51)を割いています。

 特にアメリカでは、一時期、ほんの3,4歳の子供まで双極性障害と診断され、薬物療法の対象になるケースが結構あったようです。

 加藤氏は、これに対して、大人の双極性障害に適応が認められている薬を、臨床試験なし子供たちに使うことができるアメリカの現状を危惧しています。

 2歳の時に「いつもそわそわして走り回っている」との理由で診断を受け、検査の結果、3歳になった直後に、ADHDすら飛び越して双極性障害と診断され、非定型薬、気分安定剤をはじめとする1日10錠もの薬を飲んでいたそうです。そして4歳になって、薬の過剰摂取が原因で亡くなって、両親が第1級殺人罪として起訴され、両親側は医師の指示に従っただけと主張したという事件があったとのこと。(CBSドキュメントによるとのこと。探せば今でもサイト上に何かあるかな?)

 ADHDへの「精神刺激剤」投与の経験がある人に小児期の双極性障害発症が生じやすいという研究があることも紹介されています。

 そして極めつけは、次の事件。ここも加藤氏の著作よりの引用:

 「小児双極性障害の診断増加に中心的な役割を果たし、こうした子供に対する抗精神病薬治療を境に先駆けて提唱していたのは、ハーバード大学のビーダーマン教授でした。最近、小児性双極性障害の権威である同教授とその同僚が、製薬会社から多額の現金を受け取り、大学に報告していなかったという事実が報道されました(2008年6月8日 ニューヨークタイムズ)」

 どうも、この事件のことは、冨高氏の著作でも言及があるらしいことはAmazonで確認済みです。

 日本では、基本的に子供の精神医療に薬物療法を施行することにはたいへん慎重な先生方が多いですし(一時期ほど、「ADHDにはリタリン」という一本調子もなくなってきたのでは?)、ADHDをはじめとする発達障害についても、細やかな目で診断できる専門家が急激に増えています。

 私が発達障害のお子様を待つご家族からおうかがいする範囲でも、教育現場での対応について、まだいろいろ問題があるのは確かなようですが、当事者のご家族の活動などもあり、少しずつ変化してきているようです。セラピー的にもプレイセラピーや行動療法、家族全体のケアという方向性が定まってきているので、アメリカのような「子供の薬漬け」は生じそうもないのですが。

 何かというと、「日本の(精神)医療は欧米よりも遅れている」といわれますが、実際には、最近の経営淘汰的な面や医師確保の面を別にすると、オバマ政権の下、やっとのことで公的保険制度の設立に手をかけつつあるアメリカに比べれば安定しているともいえます。

 アメリカの病院事情も、実は非常に悪いようですし。フロリダ州には「産婦人科」病院が実は一軒もないという凄い話も。

 薬物療法についても、アメリカは、先端的であると同時に、極端に走りやすいともいえます。逆に、一度何かに対する「アンチ」がはじまると、これまた逆の極端の論調が出やすい。

 精神医療において、アメリカにすぐに追従する形にならないという点では、むしろ一種の安全装置として機能している面もあると思うのですが、そのへんを冨高氏自身がどう具体的に論じているのかどうか。 

****

 いずれにしても、 さすがに春日氏も、

「製薬会社陰謀論になりかねず、また早期治療の重要さという点においてもデリケートな問題である

とは言い添えてはいる。

 しかし、おしまいは、

「『まだ病気ではない』と『もう病気かもしれない』の間には、莫大な利益が埋もれているのである」

・・・・と、またもや少し無神経な言葉が出ている。

 ・・・・結局、春日先生、最後まで、薬物療法以外の人的資源や精神療法に関しては一言も触れないまま、あたかも薬物療法がすべてであるかのように「病気」の話をしているという、最大の自己矛盾に陥っている。

 我々は、健常者でも、病気でもある以前に、人間である。

 この春日氏の、書評の対象となった2冊の著者の側には、患者(とされた人)に対する、そうした目線がありそうで仕方がない。

*****

 最後に、ひとつ、決定的に重大な問題に触れておこう。

 レーン氏の著作の原著"Shyness"のAmason英語版サイトまで読みに行って気づいた、「驚愕すべき」事柄。

 それは、レーン氏の原著が、あくまでも、単なる内気な人が、特に「社会不安障害」というレッテルを貼られる過程を告発しようとした著作であるということである。

 なるほど、ある種の「社会不安障害」や「強迫性障害」について、SSRIが適応されることは事実ではあるのだが、春日氏が、この本がうつ病を主なるターゲットに据えたものではなくて、「社会不安障害」がメイン・ターゲットであることについて、ただの一言も言及しなかったということは、もはや、医者としての良心のかけらもないばかりか、ある種の情報操作に加担しているといわれても仕方がないように思われても仕方がない。

 結局、私が、この読売の書評欄に添えられた原書のタイトル"Shyness"に気づいた時点で懸念した勘はあたっていたようにも思う。

*****

【追記】

 以上の文章に全く変更を加えないままでの(嘘だと思う人はgoogleのキャッシュでも何でも参照なさるといい)実際読んだ上での書評は、冨高氏の本はこちら、レイン氏の本はこちらです。

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2009/10/01

福岡県臨床心理士会主催 市民講座&臨床心理士によるこころの無料相談会(10/18)のご案内

 10月18日(日)13:00から、福岡市天神の福岡天神ビル11階(中央区天神2-12-1 地下鉄天神駅前 福岡銀行本店の東隣)で開催されます。

 ご自身が自閉症者である作家、東田直樹さんによる市民講座、「自閉症の僕が跳びはねる理由」(13;00-15:00)と、「臨床心理士によるこころの無料相談会」(13:30〜17:00)が並行して開催されます。いずれも無料です。

 詳しくは福岡県臨床心理士会ウェブサイトをご覧下さい。


20090923c

 不肖私も、無料相談会の相談員のひとりとして協賛させていただく予定です。

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2009/09/03

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/05/12

Every Little Thingの"Graceful World"と"fragile"

 王子のきつねさんが、Every Little Thingについてかなり以前にお書きの論考3本を再度紹介されています。みんな力作です。

●Every Little Thing(ELT)三部作(王子のきつねOnLine)

 その記事に対するコメントとして私が投稿したものを、若干省略の上でご紹介:

============引用はじめ===========

 ELTについては、初の海外旅行だったハワイに行った時、機内のポピュラーチャンネルに偶然遭遇した"Graceful World"が出会いだったことは、自分のブログでも書いたことがあります。

 歌詞と共に、途中でマイナーになるあたりのベースの音の進行に新しさを感じて、それを聴きなおしたいばかりに、時差ぼけがいよいよひどくなるのを承知で眠らないまま1時間ほどで番組が繰り返されるのを待ち構えていました(^^)

 でも、この曲、ELTのシングルの中でもそんなにヒットした方でhないし、PVのラストも何か意味シンになっていて、歌詞の内容と意識的に矛盾するものにしている。

 あとでELTの曲をさらうううちに気がついたのは、少なくともこの頃のもっちんは、こういう「自分探し」系の歌詞を、しかもここまで高らかに書くことは、ちょっと珍しい時期に突入していたのではないかと。

 メンバーから五十嵐さんが抜けた直後の、ひとつの試行錯誤過程なのか、それともドラマのタイアップを意識しての意に沿わない歌詞になってしまったのかとも思います。

 もっちんの唄う表情も冷たいままで。

 ただ、この曲の、

Fulfill your Dreams この先にどんな試練が待ち受けていようとも
目を背けずにいて欲しい 幸せはほら目の前にある

という部分に、私は「万感の思い」を賭けて、その後の自分の激動の人生(?)に乗り出したというのも確か。

 そういうあり方が、悲劇や犠牲を伴わないわけがない・・・・というあたりまで「見越した」PVだったとしたら、予想外に深みがあったということなのかもと、思っております(^^)

●Every Little Thing - Graceful World(YouTube)

******

(中略)

 "fragile"は名曲ですねえ(^^)

「傷つきやすさ」と訳せるタイトルに響きもいいし。

ちなみに、自分のサイトでついおととい書きましたけど、自閉症と深く関係することが判明した遺伝子の中に、

"fragile X"

と名づけられたものがあると知りました(^^)

こちらを参照:

●第12回 乳幼児てんかん研究会国際シンポジウム 1日めの報告

 この遺伝子があると、ニューロンの間の神経伝達物質の興奮と抑制のバランスが壊れやすいそうです。

 それが、その人を「過覚醒(hyperarousal)」状態にしてしまう。つまり、内的な刺激・外的な刺激を普通の人の何十倍もの強度で体験する。

 新鮮な、不意打ちの体験がみんな耐え難いパニックになるので、毎日、同じ生活習慣を頑固に変えられなくなる(常同行動といいます)あたりは、映画「レインマン」で、トム・クルーズが、重度自閉症の、ダスティン・ホフマン演じる兄の好きなテレビ番組を、毎日大陸横断のドライブ中に見せるのにどれだけ苦労したかのエピソードでもおなじみです。

レインマン (アルティメット・エディション) [DVD]

 こうなると、人は環境や他者との接触から引きこもるわけですね。「鈍感」だからではなく、不均衡に「敏感に過ぎる」神経を生まれ持ってしまっているがゆえに。

 これが、世間一般でいう「傷つきやすさ」などとは超異次元の、いかに凄い心の世界かは、自閉症についての専門書を読んでいただくもらうしかありませんが。

===========引用終わり=============

●fragile PV(YouTube)

↓「フラジール」って、女性ブランドだと知人に聞いたので、柄にもなくですが、思わず追加(^^;)

CDやiPodの音楽を楽しめるコンパクトオーディオ【送料無料】amadana(アマダナ)デスクトップオーディオ2

↑音は聴いていません。でも、iPodオーディオ系の商品の中で、デザインセンスがしっかりしていて、女性にも向いているなと思ったので。このamadanaブランドは、デザインセンスが興味深い。
SAL pocket video camera
↑つい最近、携帯ビデオカメラ(ビデオカム)として、こんなコンパクトでキュートな商品も出しました("SAL" 今のところ直販のみ)。

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第12回 乳幼児てんかん研究会国際シンポジウム 2日めの報告 [第2版]

 お待たせいたしました。コーヒーブレイク(ラーメンブレイク?)をはさみまして(^^;)、前回の報告の続き、2日めです。

Image01500
↑筑後川にかかる久留米大橋(国道3号線)から遠望する、久留米大学医学部の諸施設。


 2日めの圧巻は、ランチタイムセミナーにおける、イタリアのMichele Zappella博士による、"Autistic Regression with and without EEG Abnormalities Followed by Favourable Outcome"と題する講演だったと思う。

 タイトルが示すように、EEG(脳波測定)という物差しを用いて、自閉症スペクトラム(ASD)と診断された534名についての、長期的なフォロー・アップ・データに基づき、脳波異常があるケースとないケースを比較することによって、その差異を考察したものである。

 この発表で強調されたのは、てんかんにしても、自閉症スペクトラムにしても、遺伝的な「宿命の病」と見なされることが多い現状に対して、「良性の転機を迎える」一群の人たちが明らかにいることの指摘であった。

 まずは過去の研究のレビューだが、1997年の調査研究では、自閉症がその後消失したケースは1.7%というたいへん低い数値であった。しかし、2007年の研究では17%、2005年の別の研究では47%が消失という調査データすら登場するようになる。

 この原因としては、時代を経るにつれての、自閉症についての臨床研究の深まりと、現場臨床での認識の深まりの中で、診断基準そのものが洗練され、早期発見がなされ、早期に言語・社会的な訓練が開始されるようになったなどの要因が当然考えられる。

 博士は更に、施設の態勢が貧困だったり、虐待家族のもとで育てられたケースが救済されることが増えたために、いわば2次症状としての、attachmentの障害が克服されていくと改善に向かう、遺伝的負因が相対的に低かったと判断できる一群があることを示唆した。

 今回の博士の2000-2008年にわたる縦断調査研究の中で報告された、脳波異常の消失例(39例/446例。結節硬化症やflagile Xの患者は除外)は、ただ1例を除いて、自閉的退行があった症例である。

 具体例としては、3歳児で、てんかん発作の開始と共に急速に退行が始まったが、診断を受けて1年後にバルプロ酸ナトリウム(デパケン)の投与がはじまってから急速に回復、現在12歳で、一貫して普通学級で教育を受け、若干のサポートは必要だが、言語的・コミュニケーション的な適応はほぼ完治といっていい水準に達しているという。そしてそれはその途中の期間に、脳波上の部分発作が繰り返しあったにもかかわらず生じた回復だった。

 博士の説によれば、こうした、(薬物投与以外)「自発的回復」に近い形で自閉症スペクトラムからの転機を迎える事例がかなりの数ある以上、安易に特殊教育の場でのみの集中的な介入の形で、言語的・コミュニケーション訓練の場に置いて純粋培養しようとだけするのは、ノーマルな子供たちとの接触の自然な接触の中で得られる刺激から遠のけることになるのではないかということであったが、これについては、「早期発見・早期介入」を強調する他の参加者との間で白熱した議論がなされて行った。

 ただ、このディスカッションの成り行きを、乏しい英語力で必死に追いかけていく中で、私の中に生じていたのは、そもそも議論がかみあっていないというか、言語的・社会的コミュニケーションが円滑に進んでいない(^^;;;;)のではないかという思いであった。

 学会発表の場を活性化するためのフロアからのピンポイントの介入的質問が大好きな私であるから、もし私が英語に堪能だったら、絶対に途中で「危機介入」していたことだろうcoldsweats01

 こうしたフロアからのコメントについての私の基本スタンスは、Aoyama Masanoriさんの、


●事例検討のレジュメ(Walk Don't Run  ゆっくりいこうよ)


というエントリーに、僭越ながら、私のコメントとして詳しく書かせていただいています。

 博士も、ABA応用行動分析の積極的効果については繰り返し強調する答弁をしていた。個人的に思うに、ABAは、ベーシックな用いられ方をする場合、あくまでも患者の家族の側の、患者との相互作用を改善する戦略で用いられることになる。つまり、治療者が、患者自身に、患者自身が耐え難い水準でインテンシヴな介入や訓練を押し付けてしまうことによる「二次障害(三次障害?)化」のリスクからも遠い。

 恐らくこの点が博士がABA支持の発言を繰り返す背景にあったと想定できるのだが、とてもとてもこうしたことを英語で噛み砕いて説明できるほどの語学力は私にはないものだから。

 博士の次の発言が印象に残っている:

遺伝負因の発現をむしろ抑止する遺伝子というものが存在し、一度始まった自閉症的(てんかん的)退行からの自然発生的な回復の誘因となっている可能性があるのではないか」

「大事なのは、その患者にあわせて、適切な時間軸において、tailor-madeな形での治療的な介入がなされていくことだ」

 知人に訊いたところ、"tailor-made"という言葉は、今や「オーダーメイド」という和製英語に代わって、日本でも広まってきた言い方だという。

 これを中井久夫先生流に言い換えると、「一品料理」としての治療、ということになる。

中井久夫/精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

 なお、てんかんをわずらった患者さん自身による、「てんかんを生きる」とはどういうことかについての、実に整理された、わかりやすい論考があります。

(この圧倒的な几帳面さが、いかにもてんかん性格の人らしい!!)


●あるてんかん患者の日常心理(by Y-Shigeyamaさん)


 たいへんな労作だと思います。てんかんに関心がある皆様は、せひお読みください。


******


 いずれにしましても、自宅間近な、故郷久留米の大学で、こうして、発達障害とてんかんの医療と基礎医学に関わる、世界最先端を行く研究者や臨床家の議論を聴く場を、心理臨床家にも開かれた形で与えてくださった、久留米大学小児科の松石教授をはじめとする、関係者の皆様と、パンデミックの危険も何のその、久留米の地までおいでいただいた、諸外国の臨床医学者の皆様に、厚く御礼申し上げます。

It's Exciting!

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