先週開催されておりました、「第21回国際フォーカシング会議in淡路島」は、参加者数300名近くを集め、無事、成功裏に終了したことを、大会準備委員会メーリングリストでの池見陽準備委員長のご報告を通して知りました。
久留米への移住問題を抱えていたことと、申し込み当時の体調・経済(^^;)不安定要因も考慮し、ご迷惑をおかけしないために、私は残念ながら参加を見送る選択をしましたが、多くの若い院生の方が参加されたとうかがっています。
会場となったウェスティン淡路は、ある意味で「日本にいるのを忘れてしまう」くらいの、すべてにおいて国際規格のリゾートホテルです。明石海峡を越えた、比較的「孤立性の高い」場所にあるこの地は、日本人参加者にとっても、外国からおいでになる方と同じくらいに「異国に来ているかのような」錯覚に陥れる場所だったはず。関西空港からのアクセスも良く、神戸の市街地や京都や姫路に足を伸ばすアクセスにも恵まれていましたしね。
実は、池見先生の提案を受け、候補地を最初に下見をして、選定の段階で積極的に関与した私が注目したのは、この地のそうした無国籍性でした。
「日本にいるのにもかかわらず、あたかも外国の国際会議に出席したかのような擬似体験になること」
敢えて、外国からの参加者を「ジャポ二ズム」に引きずり込みたくなる誘惑から意識的に遠のけ、日本からの参加者と外国からの参加者が対等にコミュニケーションできる場を設定することが、私の深謀遠慮だったのです。
だって、例えば、「ドイツ的フォーカシングのあり方」なんていう話、聴いたことありませんでしたからネ!!
お医者さんに比べると、臨床心理系の国際会議に参加する機会は、日本ではあまり多くないかと思います。そうした中、体験された貴重な経験を、殊に若手の臨床研究者の皆様、現場カウンセラーの(・・・をめざす)皆様、どうか、今後への刺激として是非生かしていただければと思います(^^)
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昨日も、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」をささやかに開催しました。そうやって国際会議で刺激を受けた若手の皆様が、九州の福岡県の久留米という、日本の中でひどく偏った土地にいる私ですが、今後うまく利用してくださることを歓迎いたしております(^^)
昨日も感じたのですが、大船での「学ぶ会」時代から常々感じていたことをひとつ書いてみましょう。
表題の、
「私はフォーカシングができているのでしょうか?」
という質問を、こうした催しの中で頻繁にいただきます。フォーカシングを学び始めて数年以上を経た方からも結構うかがうことです。
私はそうした問いに接するたびに、「なぜこうした問いが繰り返されるのか?」ということに思いをめぐらせて来ました。
いくつかのことを述べてみたい心境です。
1.フォーカシングがあなたにとって成果を上げているのかを判断できるのは、あなたの実感だけです。フォーカシングを先に勉強してきた人やフォーカシングのトレーナーがそれについてどのように答えてくるかをすべて脇において、あなたの実感だけで判断していいのです。
2.仮に、体験過程のステップが前に進むということについて、的確に観察し、判断する方法論があったとします。そして、その基準に基づくと、あなたの中にステップが生じていたことになるらしいことが「理解できた」としますね。でも、それがあなたにとって何か言葉にならない違和感や欲求不満をもたらしたり、確かに自分のもの見方、感じ方が「落ち着いた」とか「変化した」とか、「その場に居やすくなった」という実感を感じさせてくれないままだとしたら、それはあなたにとってどんな意味があるというのでしょうか??
3.ジェンドリン自身、どの著作かで、「フォーカシングだけが人生に役立つわけではない」という、ある意味でひどく当たり前のことを書いていたと記憶します。フォーカシングでうまく成果が上がらなければ、たとえばちょっと休憩したり、ストレッチしたり、音楽を聴いたり、ひとりになってみたり、そうしたことを自由にやっていくのは全く自然なことです。
毒舌に響くかもしれませんが、今回の国際会議や、あちこちで開かれているフォーカシングの集い(私の主催するものをも含む)やワークショップに参加してみて、それまで抱いていたフォーカシングへの関心がむしろ醒めてしまったり、幻滅してしまった人すらあるかもしれない(この世にある「イベントへの参加」とは、ayuのライブ体験から新装開店のスーパー、異性とのデートまで含めて、およそそのような参加者を「ある一定の比率で」含むはずのことでしょうし)。
そうした時に、フォーカシングと関わることを一度止めてしまったりしてみるのも健全な選択でしょう。ただ、あるひとつの場での、一回の印象で、その対象や相手についての判断を生涯にわたって恒久的に決め付けてしまうことだけはしないで欲しいなあ、というのが、私の自然な思いでもあります。
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こうした一般論を書いた上で、それでも敢えて、当初の問いかけに答えてみましょう:
1.フォーカシング技法において、教示というのは、あくまでの刺激剤であるに過ぎません。一つ一つの教示がピンとこなかったとしても、それはフォーカサーとしてのあなたの責任では全くありません。
教示の進行と関わりなく、体験過程のステップは、セッションの中の、いつ、どこでも刻まれ始め可能性があるのです、それは「向こうからやってくる」ものであり、「引き起こす」ものではありません。
いや、敢えて言いましょう。
セッションが終わった後の雑談の中で、
ふと、ひとりでお手洗いに立った時に、
帰り道の電車の中で、
夜寝る前に、
数日後、職場の中で、
突如ステップの進行が実感できることなど、ありふれているということを。
「お告げ」は、その人がその人が何をしているかなんかにお構いなく天から降ってくるから「お告げ」らしいのかも。教会でのミサの祈りのさなかにではなく(^^)
フォーカシングのセッションのただ中で、自分がシフト体験できないとならないなどという思い込みは、むしろ捨ててしまう方がいいと思います。そうした思いは、フォーカシングの集いの「優等生」として認められたいという「煩悩」に過ぎないとすら思い定めてもいいかもしれない。
2. フォーカシングに伴う身体の感じや居心地や気分の変化というのは、それが一見かすかなものだったとしても、一度体験してしまえば、生じたかどうかについて迷うことは生じません。
それが持続性に乏しい、短時間の変化や安らぎに過ぎず、しばらくたつと移ろい去ったり、見失うことはよくあることです。
そういう時には、そうした変化や安らぎや変化が生じた少し前のところまであなたの記憶と実感のビデオを巻き戻してみるのはいかがでしょうか。
「ここまで」は以前と同じ、「こんなふうな」感じだった、「ここ」で、思いもよらないきっかけで「こういう」感じやイメージや連想が自分の中に生じて、その後で、自分の身体の感じや居心地が「こんなふうに」変わった。
そのときの実感が、仮に今はかすかな痕跡、ないし余韻のようにしか「再現」できなかったとしても、こうした「反芻(すう)的な味わいなおし」を何回か繰り返してみるだけで、それをしないよりは、その後に何かいい影響が残るものです。
「反芻する」うちに自然と実感がよみがえり、更なる続きのプロセスが勝手にはじまることもありふれていますし、少なくとも次にセッションを持つ機会があった時、前回の続きをやろうと全く意識しなくても、セッションの展開がいつの間にか前回の続きになってしまい、少しだけ前回より先まで展開するなどという可能性を増してくれるかと思います(^^)
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日本のフォーカシング関係者の大半の皆様、私と最後にお会いしてから2年近く立っておられる方がほとんどかと思います。皆様もきっとお変わりかと思いますが、私もまた、皆様の記憶の中にあるこういちろうとはどんどん別人になってきているかと思います。
そうしたあたりの片鱗は、ネットでの私の文体のトーンまで含めて、実は現れているとお気づきの方もあるかもしれませんが(^^)
再びお会いできる日を楽しみにしております。
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「久留米でフォーカシングを学ぶ会」次回は、普段どおり、第2日曜日、6/14に開催の予定です。










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