フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(4)(再掲)
この連載、前回に続いて、ついに4回目に突入しましたが、私自身にとっても、私が日々のカウンセリングにおいて(・・・・いや、それだけではなく、個人的に本当に大事にしたい人たちとの対人関係で、相手の気持ちときちっと向き合いたい時に)、いったいどういう関わり方をしているのかを自分で再確認してみることにもなっていて、興味深い場になっています(^^)
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私のそうした場面での傾聴と応答の際には、どうやら、実にシンプルに習慣化された、4つのステージが構造化されているようです:
Stage1.ベースラインモード
話し手が個人的な含蓄を込めて、実感に触れながら語っている「かのように」私に感受できた言葉や言い回し(実感を伴うキーワード)を、私自身の身体に響かせ、話し手が体験している言語以前の漠然とした「感覚」そのものを私の身体の中に徐々に醸成するかのようなつもりで、決して言い換えることなく、「点(話し手の用いた、実感を伴うキーワード)」と「線(語り手の語った状況説明の大枠や、接続詞)」を大切につなぎながら、言葉として投げ返していく。
私が、そうやって、話し手にとっての実感上のキーワードや言い回しを、私自身の身体に響かせること自体が、私の中に、話し手の身になった「感情移入的フェルトセンス」を一層醸成させることに貢献するのであり、話し手がどういう実感を体験していたのかに、更に身体ごとチューニングしていく上で役に立つのです。
これが、傾聴と応答全体の6-7割で堅持されている基本スタンス、ベースラインモードなんですね。
たいていの人は、何かを人に語り出す時に、
- 自分の体験している実感そのものを相手が共有してくれることを期待している。
- すでに多少の程度は自分の実感に触れる中から言葉を紡ぎだそうとしている
・・・・この2つの前提に立った方がいいと思います。
話し手の話が一息つくたびに、私の方から、こういう、身体を通して身になる聴き方を経た伝え返しの応答を差し挟んでいくとしていくと、それだけで、話し手は、自分が今言葉にしてきた言い方が、自分の実感としっくり来るものなのかどうかを、自然派生的に内側で照合し、自分にとって更にしっくりする言い方に置き換えていったり、あるいは、自分の抱えた問題の中の、本当に伝えたい局面を物語ろうとして行ってくれることが多いようです。
こうした聴き方をしていると、話し手も、いつの間にか、私に向けて自分の気持ちを語ることに没頭し始めるのですね。そして、その時のその人なりに無理のない範囲で、自分の中の実感に触れながら言葉を紡いでいく傾向が、しなやかに「少しだけ」喚起されることになることが少なくないと思います。
つまり、まずは聴き手の側が、率先して、語り手の語りをじっくりと「身体を通して」傾聴して、語り手の語った、語り手の実感がこもっていそうな言葉や言い回しを「拾い上げ」、伝え返していくを姿勢を繰り返しとることで、どういうわけか、そうした聴き手の「身体を通す」スタンスそのものが話し手自身の、「自分の」実感へのかかわり方へと「伝染する」(あるいは「非言語的な次元での模倣」を喚起する)ことに、かなりの程度信を置いていいと思っています。
そうした一方、(連載2回目でも書きましたが)、私はそうやって、私自身の身体の中に、話し手の「身になって」体感しつつある「感情移入的」フェルトセンスを感じる部分とは別に、話し手を前にして、話を聴く中で、「私個人の中に」生じてくる実感や連想や思いを受け止めるためのスペースを、いわば2重抱えでしつらえています(聴き手自身の中での、いわばマルチタスクのフォーカシングモードです)。
敢えて言うと、あくまでも相手の身になって実感を感じようとしているのはは、相手と対面している、私の身体の正面寄りの部分に、仮想的に設定されたし身体領域です(半分は私の身体に埋没し、半分は正面寄りの空間に張り出しているイメージでしょうか)。
その後ろの方の身体領域に、「相手の話を聴いて私個人がどう身体で感じているか」を味わうための、もうひとつの身体領域があるつもりになっています。
そこでは、語り手の話を聴いて行く中で私自身に生じた不安や緊張、違和感や時には嫌悪、そして、私個人の中に勝手に沸き起こってきた感想や連想や、私自身の体験と勝手に引き付けてとらえようとする心の動きや、「批評家的」な感想や分析の類が次々と沸き起こることを私は許しています。
しかし、私は(アンさんの技法風に言えば)それらひとつひとつに「なるほど、そういう感覚や連想も生じてきているわけね、わかったわかった。必要あれば後で相手してあげるから」と一声ずつかけて("Acknowledging")、脇にひかえていてもらうことを果てしなくやっていき、そうした「私個人の」内側からの訴えがとりあえず静まったら、「相手の身になっている部分」の方に注意を戻してしまうわけですね。
この「相手の身になっている」仮想身体と、「私個人が相手との関係で感じている」ことを受け止めるための仮想身体は、あたかも2つの地層のように、私の身体の中で隣接しているわけです。しかし、この2つの層の間のバウンダリー(障壁)は、人の話を真剣に聴こうとする際には、非常に強固に維持しようとしています。
敢えて言うと、一方の層の血管に流れている血液は、めぐりめぐってもう一方の層にも流入するので、間接的な相互作用は生じているという相互影響過程は当然ありますが。
そして、少なくとも、今言及しつつある、1番目の「ベースモード」の聴き方をしている時には、「私個人がどう感じているかを体感する仮想身体」の方の直接的発言権は、厳重に管理され、その会話の日常的な自然さを保つのに必要な、比較的些細な内容を除くと、「ほぼ」封印することになります。
こうして、私は「相手の身になりつつも、同時に私自身であり続ける」という形で、相手の前に身をさらして話を聴いているわけですが、このようにするのは、単に「相手に巻き込まれてしまわないため」などという理由に留まりません。
むしろ私として申し上げたいのは、私が、相手の話を傾聴しながらも、私の体の中の一方の層の中で、ある意味で情け容赦がないくらいに、話を聴きながら私個人がどういう実感でいて、どんな連想をしているのかを、ことごとく自覚して、認めておこうとしている(アンさんの著書の原題タイトル、"Radical Acceptance of Everything"を想起します)から「こそ」、それと安易に混同しない、より純粋な形で、「相手自身は」どんな実感でいるのかに丁寧に関心を向け、感じてみようという余裕(自分の中のスペース)が一層生まれるのだと思っています。
単に自分個人の実感を自分の中で押し殺そうとしているだけだと、「相手の身になる」心の余裕はどんどんそがれていく・・・・なのに、ひたすらその「フリをする」ことに没頭する自己不一致状態になるのではないかと思います。治療者側の自己不一致は、クライエント側の自己不一致を誘導することは、ロジャーズ派カウンセリングの基本原理でしょう。
更に言えば、話し手側には、聴き手の私が、私個人として、どのようなことを感じているかの内容的な実態は、その段階では具体的にはほとんど全く感受できていないかもしれませんが、私が、聴き手の身になろうと務めながらも、どういうわけか、私としての自然な存在感(presence)を維持しつつ、しっかりと安定して「そこに-いる」ということは伝わると思います。このことそのものが、話し手に、話をしても大丈夫だという安心感と信頼感を醸成するのではないかと思います。
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