「甘え」と「KY」 -土居健郎先生ご逝去に寄せて-
●土居健郎さんが死去=「甘え」の概念提唱(時事ドットコム)
========引用はじめ=======
日本人の心理を説明する「甘え」の概念を提唱し、さまざまな分野に影響を与えた精神医学博士の土居健郎(どい・たけお)さんが5日午後3時27分、老衰のため死去した。89歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は長男望(のぞむ)さん。
東大医学部卒。米メニンガー精神医学校に留学し、日米の人間の行動様式や心理状況の違いに着目した。帰国後は東大教授や国際基督教大教授、国立精神衛生研究所所長を歴任した。
1971年に発表した「『甘え』の構造」は国内で140万部を超えるベストセラーとなり、数カ国語に翻訳された。日本人特有の「甘え」をキー概念として精神分析したもので、政治学や社会学、文化人類学などの諸領域に影響を与えた。
近年は、「甘え」が必ずしも日本人独特ではなく、ある程度普遍的なものではないかという考察に達していたという。(2009/07/06-13:00)
========引用おわり=======
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
このことはこのブログでもこれまで言及したことがあったかと思いますが、土居先生の「甘え」概念は、その発表以来、「甘え」という言葉だけが独り歩きし、土居先生がそこに込めた含蓄は、的確に理解されないまま今日に至っているように思えます。
つまり、日常語としての「甘え」のことと安易に同一視されてしまい、なぜ、土居先生が「 」つきで、『甘え』と表記したのかということがすっ飛んでしまったままだと思うのです。
私なりの理解を解説すると、土井先生の言う『甘え』とは、
「自分の中に生じてくる欲求を、自分から主体的に相手に言語的に明確に伝達することをしないまま、気持ちを『汲んで』もらい、『察して』もらおうとする、他者との関係性の様式」
を指します。
つまり、例えば、子供が、デパートのおもちゃ売り場で、「○○が欲しいよう!!」などと叫びながら、床に根っころがって泣き叫んでいたとしますね。これは、日常語で言う甘えではあっても、土井先生が言わんとした『甘え』には、必ずしも該当しないのではないかと思えます。
同じシチュエーションでいえば、デパートで、おもちゃ売り場に近づいた時に、子供が、何とはなしにおもちゃ売り場の方に目を向け続ける。親はそれを「察して」、おもちゃ売り場の辺りをうろついてあげる。
でも、子ども自身は、自分からは「これが欲しい」とすらなかなか言い出さない。子供の視線や表情を観察していた親のほうから、「これが欲しいの?」と言い出して、子供ははじめて、遠慮がちにうなづく。
・・・・・もし、こうした流れだったら、それは、土居先生が言わんとした意味での『甘え』に非常にぴったりした状態ということになります。
ある観点からすると、自分から主体的・能動的に、アサーティブに一定の現実吟味を持って)甘えるだけの自我を獲得したら、その人は、土井先生が言わんとした意味での『甘え』の段階を卒業したことになる・・・・というパラドクスがあるわけですね。
*****
土居先生の『甘え』理論を国際的に紹介したのは、ハンガリー出身のイギリスの精神分析医マイクル・バリントですが、バリントが土居先生の『甘え』理論を紹介する際に用いた文言を実際にお読みの方は少ないと思いますので、その箇所のひとつから抜粋してみましょう。
========引用はじめ=======
人間がそういう(『甘え』たい)場合にとる態度は西洋人もみんな知っているものばかりだが、西欧では手軽な単語では表現できず、例えば「思い切り甘えたい気持ちを出してはいけないと思い、自分の中に精神的苦痛(恐らく自虐的苦痛)を鬱積させたために、口を尖らせて仏頂面をしている」などといった複雑な句を用いなければならない。
========引用おわり=======
(以上、バリント「治療論からみた退行」(中井久夫訳) 邦訳p.99)
上記の引用内の例えで、長々と語られている心の状態を日本語で表現しようとすれば、「(甘えを押さえつつも)『すねて』いる」といえば済ませられることになるわけですね。
『甘え』にあたる言葉は日本語以外にもあることが様々に論じられていますし、先ほど述べた「自分の欲求を他者に察してもらい、かなえてもらえたい衝動」ということだけを取り出せば、例えば生まれたばかりの赤ん坊は、泣くという行為から、養育者が、何がどう不快でどうして欲しいのかを「読み取り」、ビオンふうにいえば「もの思い(reverie)」して、かなえてもらうことによってはじめて欲求がかなえてもらえるわけです。
また、人の中には、幾つになっても、自ら語らずとも、相手に自分の気持ちを察して欲しいという思いはあり、そうした思い全体を「未成熟な」ものだとみなすのは、明らかに行き過ぎでしょう。自分の欲求を自分の内部で冷静に客観的に吟味し、意識化した上で、言語的にアサーティブに伝える形で人とコミュニケーションするあり方のみを理想化し過ぎになるのも、「独立した自我を持つ人間」というものについての過剰に理念化したなファンタジーであると私は考えます。
つまり、文化や言語を超えて、土居先生の言わんとした『甘え』の問題は普遍的であるということは間違いないので、確かに、単なる「日本人論」としての『甘え』論は、その歴史的役割を終えつつあるのかもしれません。
****
しかし、日本では、今でも、さまざまなメンタルな問題について日常的に批判的に語られる際に、何かというと「甘えている(のではないか)」という言葉が登場します。「甘え」という言葉が日本人の集団的な超自我に深く食い込んだ特殊な含蓄があり、安易に振り回されていること、そしてそれが、病める人の悩みを一層深める言葉であることには変わりがないといえるでしょう。
更に言えば、最近流行の「KY=空気が読めない」という言葉ですが、この言葉は、「自分や集団が暗に求めていることを察して、気持ちを汲んでふるまってくれない」相手への批判的レッテルだといっていいでしょう。
つまり、若い世代を含めて、日本人全体が未だに「『甘え』の構造」そのものの社会性に身を浸しているからこそ、「KY」なる言葉が、「甘えの通じない人たち」に浴びせかけられているのではないかという視点はあっていいはずだと思います。
つまり、「KY」という言葉を振り回す人たちは、実はオールド・タイプの「日本人」そのもののままなんだと私は思っています。
物言わずとも相手が自分の気持ちを察して対処してくれることを当然のものとして期待し続けていることには変わりがないのですから。
ぶっちゃけていえば、集団の中で、周囲に迎合しない人には、今や情け容赦なく「KY」という言葉が降り注ぎかねない。
安易にKYを振り回す人はまだ成熟した大人ではない。
ほんとうの大人とは、KY気味の人にすら、自分から働きかけて、コミュニケーションして、関係を作って、相手から成熟した力を引き出す人たちのことではないかとも思えます。
*****
もとより、これだけはたいへん一方的な言い方でしょうね。
そうした人たちが「KYな」人たちを責めたくなるのは、自分たちが、周囲の人たちや、親や、既成の大人社会から、「はっきり言葉で言われなくても、気配を察して、場の空気に反しない言動を取るように」子供時代から言外の圧力で求められ続け、それにしぶしぶ従ってきたのに、そういう自分たちが従ってきた規範を平然と踏み越えていくかに見える人たちに遭遇すると、むかついて、押さえ込みたくなるという側面があるのだと思います。
更に言えば、自分が「周囲の空気を読む」ことによってはじめて自分に許容されるようになった地位や集団内での安定、そして、集団そのものの安定を、そうした「KYな」人たちが崩してしまうことへ不安の反映ともいえるかもしれません。
人の気持ちを汲み取ろうとするスキルは、単に相手を怒らせないとか、むかつかせない、波風立てないということではないはずです。もっと能動的で個別的な「相手の身になる想像力」であり、相手との相互コミュニケーションのスキルの向上だと思います。
その点から見ても、「KY」という言葉を安易に連発する人たちに、果たしてほんとうに、人の「気持ち汲んだ」コミュニケーション力を持っているのかどうか、自問してみていただきたい思いがあります。
KYな人たち=困ったちゃん
KYではないこと=「社会性」があること
・・・・という論調に、昨今の日本が染まっていて、一億総「KYでなくなろう」キャンペーンみないな風潮に違和を覚えていたので、これを機会に書かせていただきました。
・・・・・恐らく、こうしたあたりにこそ、土居先生の『甘え』理論が示唆した問題が、『甘え』という概念そのものは、今後使われなくなっても、今の時代のホットなテーマであり続けるためのヒントがあるのだと思います。
*****
なお、「場の空気を読めない」人のことを、即、場の空気に「鈍感」だとか「無関心」だととらえるのは明らかに間違いです。
そうした人たちは、むしろ場の空気を「過剰に」全身で感じ過ぎているために、それを「的確に距離をとって」、俯瞰して、味わった上で、適切な「読み取り」を確立できないのだという方が、現場臨床的には妥当なことが少なくないはずです(増井武士先生なら、そのようにおっしゃるでしょうね)
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【第2版で追記 09/11/02】
ネットサーフィンしていて見つけたのですが、"KY"(空気が読めない)という言葉の濫用に関しての論考としては、次の記事が、痛快なまでに秀逸です。お勧め!!(^^)
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