フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ(7)(再掲)
前回の続きです。
Stage4.語り手がそこまで語った全体についての聴き手の側の印象を言葉にしてみる
Stage3までのやりとりは、もう一度Stage1にまで戻って、話し手の話の様々な局面について自然と展開が広がる形で繰り返されることが少なくないのですが、そうしたやりとりが自然とひとまとまりがついてところではじめて、話し手の話を聴いていた私の側が、そうした話にどういう印象を持っていたかを語ります。
すでに述べたように、私はここまでの展開の中で、話し手の「身になって」自分の中に感情移入的フェルトセンスを刻々と醸成していくモードと、話し手の話を聴いた私の側にどんな思いや違和感や身体感覚が生じていくかに刻々と気づいて受け止めていくモードという、2重の仮想身体を抱えているつもりで、その2つをはっきりと内側で区別しながら傾聴し続けています。
しかし、こうした2重のモニタリングを維持しながらstage3までを丁寧に進めて来ていた場合、私が当初は感じていた、語り手への違和感の多くは氷解する方向へと、語り手はいろんなことを話してくれていることが多い気がします。
この私の中での「氷解」を決定的に進めるのは、私がその違和感を「早まって」(?)口にすることではないのですね。stage3で、そこまでの相手の話の全体について、相手の身になった言葉やイメージを返してみた後で、話し手がそれを自分の実感と照合しながら、更に語り勧めてくれる中ではじめて聴けた話に、しっくりと感情移入できるという形で生じることが少なくないようです。
ですから、私は、stage4において、「最初に」感じていた違和感にまで遡って言葉にすることはほとんどありません。そこまで話を聴いて来て「どうしても残る」違和感については触れることも多いのですが、そうした際にも、「あなたから何かまだ肝心なところまで話を聴けていないから(あるいは、あなたの側では「伝えたはず」だけど、聴き手である私の方が 肝心な点を受け止め損なっているので)、私の側がそうした違和感を感じているだけではないか」といったことを、言外に示唆するか、直接伝えることが少なくないですね。
こうしたスタンスを維持する限り、こうした私のstage4水準での表明を受けて、更に語り手が反してくれることは、更に理解を深め合う方向へと進むことこそあれ、語り手の側に、私に何かが「通じなかった」「受け止めてもらえなかった」という方向に留まることは少ないと感じています。
要は、私が語り手に返した事柄について、語り手の側がピンとこなかったら、いくらでも修正を入れてくれていいというスタンスが伝わるかどうかだとも思えます。
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こうしたstage4水準での応答において、「語り手の体験していること(とその際に生じているもろもろの感情)が、聴き手である私の過去の体験(とその時の感情)とどこかで「通じ合う」かのように自然と感じられた」ということを伝えることも少なくありません。
しかし、私はそうした時に、「あなたがそういう体験の中で感じたことと安易に重ね合わせ過ぎる形になることは私も望まない。これはあくまでも私の側が勝手に重ね合わせたことであるに過ぎない」というメッセージも必ず同時に付け加えます。
ちまたにありがちな、「そういうことって、あるよねー」式の、安易に自分の体験に引き付けた「理解し、共感したフリ」のエールの送り方が、相手自身が体験している状況と個人的な感情に更に付き合うことを妨げる浅薄なものであるかを重視したいためです。
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さて、ここでやっと、先日の「久留米でフォーカシングを学ぶ会」というグループの中で、主催者の私が、会の最初に実際に試みたこととの関連に話題を戻せます(^^;)
「まずは、この場にこうして座ってみて、皆さんひとりひとりが、今、どんな感じで座っているのかな・・・というのを、ちょっとだけ味わってみる時間を取りたいと思いますが、いかがでしょうか?」
(この問いかけの際に私が付加した、さまざまなアングルからこのことを試してむることができることについての具体的な提案の細目は、こちらの記事をもう一度参照してみてください)。
数分が経過し、ひとりひとりの参加者から、「あくまでこの場で参加者の皆さんとシェアしたい事柄だけでいいので」と伝えた上で、その数分間の沈黙の間に体験していたことを語ってもたったのですが、ひとりあたり2,3分からせいぜい5分でした。
私は、ひとりの参加者の話を聴くごとに、こうして述べてきたstage1からstage4までの応答次元をすべて含めた形で傾聴し、応答することを意識的に進めていったのです。
つまり、ひとりの参加者の話を聴いていて、私がその参加者の話を「身になって」聴いていて生じてきた、参加者の実感にしっくり来そうな言葉やイメージを手短に呈示し、それについてやり取りし(stage3)、それに続いて、私の側の感想や、私の体験との接点(と、私に感じられたもの)についての控えめな呈示と、それに基づくやり取り(stagae4)まで、その参加者と進めるということを、コンパクトに進めたわけです(その参加者とのやり取りをしている間、他の参加者はあくまでも静かにそれを聴いています)。
その結果得られた参加者からの振り返りの感想が、以前お書きしたように、
「シェアリングの中で他の参加者の方が自分の体験の中で感じていたことを聴いていく中で、それを自分の実感と自然と照合するプロセスが進んで行き、そうしたグループの場の空気に助けられて、自分の身体の内側からの反応をしっかりと確かめられた」
となったことを、私はたいへん興味深く思えました。
これは、個々の参加者と主催者である私との間で繰り広げていた、お互いの実感を照合する相互作用のプロセスが、他の参加者が自分の実感に触れ、再吟味していくプロセスに、ほとんど非言語的な次元で、ひとつのモデルとして影響を与えていたということかとも理解できるとも思えます。
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もう一度繰り返しておきますと、ここで述べてきたことは、私のカウンセリングおよび、プライベートな人間関係で真剣に相手の話を聴く時の傾聴と応答の様式として当たり前になってきていたことを、これを機会にまとめなおしてみたものです。
もちろん、このことを常に完璧に実現できているわけではなくて、こうしたススタンスが崩れることもあります。
そして、ネット上で文字だけでコミュニケーションをする場合には、こうしたやり方まではほとんど使っていません。電話など、音声だけのやりとりでも、不十分にしか発揮できないように思います。
ここでは、実例を呈示しないままに説明を進めてきたので、読者の中には、どういうあたりのことを指すのかつかみづらいと感じた皆様もあるかもしせんが、一度ここでこうしてまとめておくことが、今後私にとって、今後何かの際に役立ちそうだという予感に導かれるまま、とりあえずの見取り図として書いてみた次第です。
(とりあえずこの項終わり)
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