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2013年1月 4日 (金)

人は変化した時、二重の過去を持つ -こういちろうによるジェンドリンの体験過程理論の解題 断章-(1)(再掲)

ジェンドリン「人格変化の一理論」について、ある研究会で、何年にもわたって訳文と原文を付き合わせる読書会を開いているのですが、以下は、そのある回での私の講釈の逐語的再現です。

***** 

あ「ある人が全く幸せな気持ちを感じながら場を去った。だが四日後に,彼は,あの時実は自分は起こったことについてひどい怒りを持っていたのだと覚る,彼は自分がず-っと怒りの気持ちを持ち続けて「いた」(has been)のだが「そのことに気づいていなかったのだ」と感ずる。(旧訳・新訳同じ。新訳p.218)

原文は、

 An individual leaves a certain situation feeling quite happy. Four days later he becomes aware that really he has been quite angry about what happened. He feels that he "has been" angry all along but "wasn't aware of it."

こういちろうの講釈:

 「"a certain situation"ってあるからには、ある一定の具体的状況なんだよね。イメージできるかしら?

 例えば、彼女との4日前のデートの時、そのデートの場所で、彼はすごく幸せだった、ということなわけですね。

 ところが、4日後になって、「あの時は凄く幸せだったけど、その時実は凄く腹が立っていたことに、今はじめて気がついたという「シチュエーション」なわけです。

 つまり、4日前のデートの最中には、「ほんとうに幸せな」気分だったんであって、ほんとうは腹が立ってもいたのをその特定の場=「状況」="a certain situation"の中ですでに本人が気がついていたけど、それを押し殺して「幸せなフリをしていた」とか、「幸せだと思いこもうとしていた」わけでもない

「4日前のそのデートの場では、心から幸せだった」 という時の「だった」 と、 「その時、実はひどく腹が立ってもいたのだ(と、今気づいた)」 とか、 「(その時から)自分がず-っと怒りの気持ちを持ち続けて「いた」(has been)のだが「そのことに気づいていなかったのだ」と感ずる」 という時の「いた」とが、同じ「過去の時制」だけど、意味と用法が違うということ。

 前者は、まさに4日前の時点で「ありありと感じていた」ことで、今もその時そう感じて「いた」ことは覚えてはいる。そのことは本人によって否定されてもいない。そして恐らく本人は、実感の上でも、4日前のその場面での幸福な感じそのものをある程度呼び出して味わい直すことすらできるかもしれない。

 後者は、4日前の時点では、実感としては実際には感じていなかったわけね。今からふりかえると、4日前にも「怒り」を感じて「いた」としか言いようがなくなるし、この4日間も「ずーっと怒りを感じ続けて『いた』」と表現するしかないけど、この4日間の間も実際には、怒りの実感は「なかった」わけ。今日になって、突然「気がつく」までは

 この、「いた」の部分、ジェンドリン自身、ここで原文の"have been"にクォーテーションマークをいれているわけで、通常の「感じ続けていた」とは用法が異なる「  」(括弧)つきだってこと、意図的に伝えようとしている。

 この時、その人は、「『二重の過去』を持つことになる」と、ジェンドリンは別の論文で述べている。たしか、「duplicated "was"」という言い方だったかと思う。

ひとつ目の過去は「否定」されるわけではない。でも、2つめの過去は、あくまでも「今」の時点ではじめて実感できた過去体験ということになる、

 .......こういうことが私たちの日常にはあるってことは、実感の上でも了解できるのではないか?

 ジェンドリンは、この後で、こうしたケースについて、 「『怒り』が『無意識』下に『抑圧』されていた  みたいな、従来のありがちなこころの図式全く異なるパラダイムを提示していくわけだけど。

******

. 少なくとも.

「デートしたその時は心からハッピーだったけど、4日後になってみたら、『あの時の自分は本当にハッピーだったのかしら?」

 別にデートの後の3日間、孤独にさいなまれたとか、彼とのその後の電話での連絡とかの中でもめた結果として、4日前の楽しさに興ざめした、とかでなくても、こんなことは結構誰にでもあると思います。

 凄い充実感を、特にそれまでに自分の日常とは切り離された特定の場面(a certain situation)で味わった後、日常に復帰すると、時にその時の思い出を傷つけるような何かが生じなくても、その数日前の充実感が、全く虚妄のように思える。

 何か特別なイベントの後(例えば、「感動的な映画を映画館で観た」程度のことでもいいし、飲み会で無茶苦茶盛り上がった後でもいいでしょう)、そういう「興ざめ」が生じたことがない人はいないかと。

 そして、忽然と、その時までは数日間全く思い浮かばなかった形で、忘れていた記憶が蘇る。「あの時、あの人のあのふるまいにほんとうは自分は凄く傷つき、怒りすら感じて『いた』」.....などと。

 あるいは、もっとシンプルに、

「あの時はあれはあれで満足していたつもりだったんです。もうこれ以上はないと。でも、今になると不満なだけじゃなくて、あの時の自分ですら本当は満足していたとはいえなかった気がしてきたんですよ。実はずっと不満だったんじゃないかと、今日になると思えてきて」  

・・・・こういうことって、あるかと。

 こういうことを自分や他人が言い出すだけで、 「優柔不断」とか、「責任回避」、 「どうせその時その時の感情なんて主観的で、はかないもの」 「躁鬱だ」 などという言葉しか浮かばない人もあるかもしれませんが。

 .....それで済ませて気が済む人は「お呼びではない」領域のお話かもしれませんが。  確か浜崎あゆみさんも、ツアー落日が終わると、それがどれだけ感動的でも、一度その直後、怒濤の虚無感に落ち込むことがある、みたいなことをどこかで言ってたような。

******

 なお、ジェンドリンの「人格変化の一理論(a theory of Personality Change)」の旧訳とは、現在The Focusing InstituteのWebSiteの日本語ぺージに全文掲載されていますが、牧書店から1966年、ナツメ社から1981年に発売され、現在絶版の「体験過程と心理療法」というタイトルで発売されたジェンドリンの論文集(村瀬孝雄訳・編)に所収されていたの版のことです。

(ちなみに英語の原文もこちらに全文掲載)

 

新訳とは、この村瀬訳を若干改訂した、池見・村瀬訳で、「セラピープロセスの小さな一歩」という新たな論文集(1999 金剛出版)に収録されているものです。

 村瀬先生(我が師ですが)、基本的には恐らく村瀬先生が訳されなければ私も体験過程理論にほとんどピンと来なかったはずと断言できる、デリケートな名訳です。

ジェンドリンの、従来のパーソナリティ理論には全く存在しなかった諸概念に、原語のニュアンスを損なわない、その後日本で「定訳」となる訳語を与えて下さった功績は不朽のものです。池見先生を中心とした新訳も、そうした村瀬先生の「定訳」の術語そのものはほとんど変更されなかったのは適切な判断だったでしょう。

 もっとも、村瀬旧訳は、ジェンドリンの草稿を見せていただいて翻訳された、という事情が逆に作用しているのもあるのでしょうか、何カ所か原書にあって訳書にない欠落部分があるのですね(原書の出版に際してジェンドリンがギリギリで追加した部分が抜けたのではないかと私は想像しています)。

 その部分を丁寧に探し出して訳出して埋めて下さった、そして旧訳の若干の明らかな誤りを正して下さった池見先生たち、新訳のスタッフには感謝申し上げます。

 この「旧訳」の欠落箇所、読書会で、私は旧訳を使い、他のメンバーは新訳を使っているので、もろに気がつきます(^^;)。

 もっとも、一部、そうした補充部分で「訳語の不統一」が生じてきてしまった点は気になるのですけど。

 例えば、"incomplete"は「未完了な」で統一していただきたかった。一部「不完全な」になっています。

 あと、池見先生中心の新訳で、"response"を、村瀬訳の"反応"から、"応答"へと原則的に置き換えてしまったことには、私ははっきりとした異議があります。

 「応答」というと、

1.それがはっきりとした「言語的な」ものとして言葉にされねばならない。

2.他者(相手)に対する言語的表明でなければならない。 という方向に読者の理解のバイアスをかけてしまいます。

 ところが、ジェンドリンの体験過程理論は、基本的に、

A.フェルトセンス(曖昧な漠然とした、言葉にならない感覚)それ自体直接注意を向けること(direct reference)ができれば、そのことそのものが"response"=「反応」である。

B.その人が、その人自身の中で自分のフェルトセンスに対してA.のことができれば"response"=「反応」である。 というふうにとらえる「理論体系」なんです。そのことは当然ジェンドリン自身この理論の中で説明しています。

 なので、このことが「自明の前提」である、ということを念頭に置かないで"response"という言葉が出て来る部分をなにげに読み進むと、意味が微妙に通じなくなるか、あるいは全く異なった意味に理解されるかしてしまうようにできているのです。

 このことは、この後の連載で紹介する抜粋でも、自然と問題になって来る事柄なのですが。

後編に続く)

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神有月の出雲路2006

  • 20061122150014_1
     11月の勤労感謝の日の連休に、日本フォーカシング協会の「フォーカサーの集い」のために島根県の松江に旅した時の旅行記です。https://focusing.jp/  
    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

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