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2012年12月30日 (日)

フォーカシング指向心理療法の認知行動療法的活用についてのとりあえずの覚え書き(再掲)

 このテーマ、このブログでも以前からお約束していて、書こう書こうと思っていたんですけど、あまりにも大きなテーマで、まだまだ勉強不足と感じている段階ですので、とりあえず、今構想していることを、備忘録的に書いておきます。

 フォーカシングと認知行動療法、両方の技法に関心がある人にも、今私がいろいろ思いながら試みつつあることを未整理のままでお伝えするだけでも、何かヒントになるかもしれませんので。

*****

 認知行動療法におけるオーソドックスな「記録表」とか「カラム表(コラム表)」と呼ばれるものを、私なりに咀嚼して、フォーカシング的に味付けをした形態を示してみよう。

  1. いつ?
  2. どういう状況で何をしていて、
  3. どんな気分や感情や身体感覚(フェルトセンス)が生じてきたか。
  4. それに対してどういう受け止め方(考え方・認知)をして
  5. その結果、更にどんな気持ち(気分、身体感覚・・・・フェルトセンス)になったか。
  6. その直後、どういう行動を取ったか。
  7. その結果状況に何が生じ、
  8. どういう気持ち(気分、身体感覚・・・・フェルトセンス)になって、
  9. それをどのように受け止め(どういう考え方・認知をして)、
  10. 更にどんな気持ち(気分、身体感覚・・・・・フェルトセンス)になったか。
  11. その直後どういう行動を取ったか。

・・・・・このあと、必要あれば、このローテーションを1.から再度繰り返す。

 こうしたことを生活の中で記録する「宿題」をいきなり出されたら、多くのクライエントさんにとっては負担以外の何者でもないだろう。

 むしろ、カウンセラーが順を追って質問していき(あるいは、クライエントさんの語りを大事にしながらも、「穴埋め」的に徐々に質問して、答えを引き出していき)、むしろカウンセラー側で整理 して、図表のようにして呈示することもできるだろう。

 まず最初の段階では、クライエントさんのある特定の日に生じたひとつのエピソードだけを取り出して、その出来事のに何があり、どうか感じたのかを拡充していく形で、このくらい分節化して一覧にして、カウンセラーと二人で、

「なぜここでこういう感じ方をして、こういう行動になってしまったんだろうね?・・・・その結果が結局こうだものね。こういう結果に至らずに済んだとしたら、この日のどこに認知や行動の分かれ目があったんだろうね?」

・・・・など検討してみるというだけでも、カウンセリング場面を、非常に生産的で、クライエントさんにとってもやりがいがあるものにする可能性は高いであろう。

 そして、こういう、ある特定の日の特定のエピソードだけではなくて(クライエントさんに毎日日記のようにつけてもらうところまでしなくても)、面接のたびごとに、その時クライエントさんが語るエピソードについてこうしたことを数回繰り返すだけでも、そのクライエントさんが生活全般の中で繰り返している、認知と行動(問題解決)バターン固有のクセというのものは、法則化可能な次元まであぶり出されて行き、二人で一緒に検討していける材料は、当面出揃うと思うのである。

 私の理解では、認知行動療法的アプローチのベースラインになる「カウンセラーと共に考える(見直してみる、再検討する)」というのは、このような素朴な水準の検討であり、それを洗練させていくいちに、今日使われる、いろいろな技法が使われるようになった・・・・という視点は大事だと思う。

*****

 さて、認知行動療法にフォーカシングや体験過程理論による「味付け」をしていく勘所について説明を後回しにしてしまっていたので、次に述べたい。

 オーソドックスな認知行動療法においては

状況に対する「認知」の結果として、ある「感情」が生じ、
その「感情」に基づいて「行動」が生じる
(「状況」→「認知」→「感情」→「行動」→「新たな状況の生起」)

という基本的な図式を用いることが多いというのが私の理解である。

 「認知」が先にあって、感情が後に「生じる」というだけでは認知と感情の相互作用は説明できず、実際には、今度はそうやって生じた感情に対する「認知」が更に生じて、それが更に新たな「感情」を巻き起こす・・・・などという細かな相互作用がどんどん生じているものであろう。つまり、「刺激」は「反応」を生み、今度は「反応」そのものが次の「刺激」となるという、あたりまえのことである。もちろんここまでのことは、認知行動療法の人たちも重々ご承知で、技法的にもそもまで手抜かりなく配慮していると言われることだろう。

 これにフォーカシングや体験過程理論を援用すると、人間は「はっきりとした」感情や、「単なる」気分、「単なる」身体感覚が具体的に生じて来る次元とは別に、未分化で曖昧な漠然とした「感覚」それ自体(「実感」そのもの)として状況をまるごと感受する次元(フェルトセンス次元)というものが、人間の認知や感情や行動の生成過程に大きく関与していることを、更に細かく分節化して抽出することが可能になる。

 より理論的に言えば、認知行動療法の理論で「自動思考」と呼ばれているものは、体験過程理論でいう「構造拘束的(structure-bound)な」体験過程様式に該当する。

 人は、ある一定の、共通する外的・内的布置(constellation)を持つ状況に置かれると、同じ感じられた質のフェルトセンス(正確には、フェルトセンスとしてとして直接注意を向けることが「可能なはず」の、曖昧な実感)を体験することを繰り返す

 そのフェルトセンスにフォーカシングすることをしないままなので、人はいつも同じ状況になると同じような気分になり、同じような以前からの受け止め方(認知)の虜になり、同じような反応・行動を取り、同じように行き詰るという堂々巡りの連鎖から抜けられない。

 誤解なきように言うが、別に技法としてのフォーカシングが介入しないと、この「構造拘束的な」悪循環の輪から抜け出せないと言うことではない

 「別な認知(とらえ方)をしてみる」ことや「別な行動をしてみる」ことをセラピストの側から具体的に「提案」したり、先に試みられることは、フォーカシング的観点から見ても何も差し支えないばかりか、強力な効果を発揮することがある。

 フェルトセンスとの照合によるによるモニタリングは、認知を変えてみたり、行動を変えてみた後で、「後追いで」発揮させても、何ら差し支えはない(このことを、フォーカシシングを知らない人も、日常の中でさりげなくある程度「やっている」し、認知行動療法を受けている人も、自然発生的にかなりの程度「できている」ことにはなる筈である)。

 しかし、その人にとって無理のない行動から少しずつ本人が見つけ出して試していく過程を「共に考える」形でのサポートは大事にしていいだろう。これは行動療法の暴露反応妨害法などでも大事にされている「目標行動のスモール・ステップによる形成化(シェイピング)」だが、実はフォーカシングの世界でも「アクション・ステップ」と呼ばれる技法として以前から知られ、「フォーカシングの第7のステップ」として、最近は以前より更に重視されて来ている(この「アクション・ステップ」についてはこちらで私なりに詳しく実例を書いてみました)。

 シフトとは、別にフォーカシングをして、ぴったりの言葉をシフトと共に見つけ出す際にはじめて生じるものではない。フェルトセンスに直接注意が向けば、それだけでシフトになることも少なくないのだが、実際問題として、人が実際にある行動なし終えただけで、その人の中にシフトが生じることは多い。むしろ日常の中ではそうしたシフトの方が遥かに多く、当たり前のように生じているはすだ。

 例えば、あなたが、事故の影響で電車ダイヤが少し乱れた中、会社に遅刻せずにたどり着けた瞬間感じる「ほっとする」感覚と、身体のちょっとした脱力だって、立派なシフトなのである。

(フォーカシングを学んで来た人のほうが「え? それだけでもシフトか?」とびっくりされそうですが、「未完了(incomplete)」だったプロセス、すなわち「時間通りに会社にたどり着けるかどうかについてのモヤモヤ」が、やっと解放されてスッキリした(「完了(complete)した)ことには変わりないわけですね。、電車が定刻より遅れて来ないホームに立っている時や駅の途中で停止した時の体験していたであろう、不快なフェルトセンスは、会社にたどり着けた時には、見事に「解放」されているでしょう? 更に言えば、空腹の時に食べ物を食べたことによる満足だって「シフト」なのです。・・・・このように見て来ると、「フォーカシングしてはじめてシフトが起こる」「シフトが生じるのにはフォーカシングが必要」みたいな思い込みからどんどん自由になれるかと思います。行動そのものがシフトを引き出すことがいかにありふれているか!!)

 そうではなくて、そうやって定刻にたどり着けたのに、全然身体がほっとした気分にならないで、次の瞬間には別の重苦しい思いにばかりとらわれるとすれば、そちらの方こそが(フォーカシング学習者なら)「意識的な」フォーカシングの対象にできるだろうが。

 次に、「行動」ではなくて「認知」について考えてみましょう。

 そもそも、認知行動療法でのような、「そのことについては別のとらえ方ができるのでは?」というリフレーミングにあたることを、日常の中で私たちは困難にぶつかるたびにある程度は自然発生的にやれているはずである。

 そうした「とらえなおし」によって実際に気持ちが楽になることはあるし、「ほんとうはどうであろうと、このようにとらえておく方が無難だ」という現実的判断としてのダブルスタンダード・・・・例えば、

「相手に敵意があると仮定しない方が、対人関係もうまくいく。特に今のあの人との関わりにおいては、こちらの過剰な警戒心は、むしろ相手の敵意を無用に引きずり出すリスクを高める」

・・・・などと、むしろ実際的処世術の観点から、ものごとの受け止め方を決めるということも、多くの人は日常で少なからずやっているはずである。

 しかし、そうやって、自分なりに、いろいろ「やってみて(行動してみて)」も、「とらえなおし」をいろいろと試みてみても、心定まらず、現実生活の中で「堂々巡り」を抜け出せないからことも多いのですね。

 そういう時に、人はセラピーの門を叩いたりするのだと思います。

****

 ところで、そもそも、そのような個々の「とらえなおし」を意味があるとか的確だと判断しているのは、単にその人の合理性や論理性、すなわち「理性」であろうか? 実際に行なった「より適切な行動」を評価しているのは「理性」であろうか? フォーカシングの立場からすれば、それを最終的に受け入れているのは、その人の実感そのもの=フェルトセンスからの肯定のサインと、小さなシフト体験とそれに伴う心身の安堵それ自体(つまり、身体に「腑に落ちる」かどうか!!)である。

 この点で、平均的な認知行動療法の場合、そうやってとらえ直す「前」と「後」とで、(単なる「知的納得」ではなく)自分の中に感じられている実感がどのくらい変化(シフト)したかということを照合して確認するということを「くっきりとは」やっていないことが、フォーカシングを学んだ人間からすると、もったいなくすら思えてならない。

 私たちは、人の話を聞いて、「なるほど、そういうとらえ方もできますねえ」などとこたえつつも、実は心の中では、その人のとらえ方に違和感ビンビンにことなんて、ありふれてあるではないか? 

 認知行動療法を行なう空間が、単に「先生(セラピスト)に対する「優秀な生徒」として、より適応的な認知という「模範解答」を呈示して、とりあえず「先生」の承認を得るための「ゲーム空間」に過ぎなくなる危険はあるのではないか?(私が体験者に聞いた範囲では、認知行動療法の「グループワーク」になじめない人の少なからぬ部分は、そういう「場の空気」を感じて違和感を隠し切れない人たちのようである)

 ほんとうにその人の生活の中にまで影響を与え続ける「新たな認知」とは、本人自身が、そのようにとらえなおしてみることで心身が実際に楽になるという裏打ちがあって受け入れられた認知のはずである。 

 フォーカシング的に言えば、小さなフェルトシフト体験を喚起するような新たな認知は、その新たな認知を受け入れた際に生じた新たなフェルトセンスと重ね合わせて繰り返し反芻(すう)して味わう(=「共鳴させる」)と、更にその中で、その人の中にしっかりと定着するのである。

 例えば、

  1. (いつ?)おとといの夜、
  2. (状況)知り合いに留守電を入れた後、そのひとから昨日の晩まで連絡がなかった。
  3. (その時の認知)その時私は、「相手に迷惑がられているので返事が来ないのだ」と感じて、
  4. (生じてきた感情)不安になり、ひどく落ち込んでしまっていた。
  5. (その後の行動)私は、もう一度その人に電話をかけてみようかとも思ったが、その勇気が出ず、昨晩かけずじまいだった。

 認知行動療法だと、通常、この中の3.の部分の認知について、そこに「自動思考」がないか、「別のとらえ方」ができないか・・・・というふうに介入する筈である。

 例えば、

 「《一度留守電して、相手からの返事が得られないうちにもう1回催促の電話を入れたら、それだけで相手にとって非常に不快なことである》・・・・という自動思考が存在することが最終的に行き詰らせたのではないか? 社会常識的にみて、4回も5回も催促の電話をしたら相手も『うざく』思うかもしれないが、仮に昨晩更に「1回だけ」再度電話してみたとしても、相手はそのことで余計に不快に思う可能性はほとんど全くなかった筈である」

・・・・・このようにとらえ直してみる提案をして、更に、クライエントさんに、そうとらえてみるとどれくらい楽になるのか、身体の実感に聴いてみることを提案することが、フォーカシングを学んだセラピストならできるのである。

 これは、「昨晩実際に1回だけ電話をかけ、幸い、相手が快く出てくれていたらどうなっていただろう?」ということを、具体的にイメージしてもらい、そのイメージを身体で味わってもらうことによって、更に「強化」される新たな認知となる可能性が高いだろう。

******

 ・・・・いずれにしても、少し訓練を受けた認知行動療法のセラピストなら、クライエントさんの状況を観察して、いかにセラピストの目から見て、それがより合理的で好ましい認知や行動の仕方だと思えても、クライエントさんの方が、そうした受け止め方に難色を示す場合には、その部分を力技で説得してしまうのは好ましくないこと、つまり、新たな認知は「提案」であっても「押し付け」になってはならないことを熟知しているであろう。

 セラピストから提案するにしても、更に別のとらえ方がないかどうか、アングルを変えて提案するであろう。

 そして何より、クライエントさん自身が、自分で、自分なりに、別の受け止め方がないかどうかを自立的に探索する姿勢をこそ喚起しているはずである。

 ところが、そうやってクライエントさんが、「別のとらえ方ができないか」ということを自分で自由に探索してみる姿勢を取れるとはどういうことなのか? フォーカシング的に言えば「(問題と)距離が取れている(making a space)」中ではじめて可能なことなのである。

 フォーカシングでいう「内なる批評家の声(inner critic)」というのも、認知行動療法的に言えば、自己処罰的な「自動思考」である。

 フォーカシングを進めて行くにあたっては、実は認知行動療法で言う「自動思考」を次々と「棚上げ」にしていくセルフ・スキルの形成が、自明の前提として組み込まれてすらいるのだ。

*****

 認知行動療法をフォーカシング的にアレンジする際に、生粋の認知行動療法セラピストよりも強みになりそうなのは、フォーカシングを学んだセラピストは、クライエントさんの言葉ではっきりと説明しにくい、曖昧で漠然とした未分化な内部感覚をじっくりと傾聴しながら受け止め、クライエントさん自身が丁寧に、自分の気持ちにぴったりの固有の言語化を細やかに見つけていく過程につきあうことにめっぽう強いという点だろう。

 認知行動療法においても、カラムを書き込む際に、ある状況下において自分の中に生じてきた「いくつもの」感情について、パーセンテージで数値化しながら表示させてみるというやり方もあることは私も知っている。

 例えば、クライエントさんに、ある時に家族といさかいを起こした「直後の」感情について、

怒り(30%) 悔しさ(20%) 劣等感(20%)悲しみ(20%) 孤独(10%) 

などと記入してもらったりするわけである。

 これはこれで、繰り返しワークしてもらうと、自分の気持ちの襞を細やかに自覚していくスキルアップに役立ちそうなのですが。

 ただ、このようにして、人間のある一定の状況下での複雑な感情を、並行記述的(あるいは「微分的」)に無理やり展開して表現するという手法には、ある限界さと不自然さがあると思う。

 なぜなら、人が自分がそのときに体験している感情に貼り付けるラべリングは通常ひとつずつしかできないからである。

つまり、例えば、

私は、「怒り」を感じていたが、そのうち、「怒り」の奥に「悲しみ」を新たに見出した

というのが人間の自然な営みに即した感情(表現)過程(feeling prosess)であり、

「怒り」と「悲しみ」を感じている

などというのは、はるかに「人工的」な説明様式であろう。

私が今味わっているのは「砂糖40%」と「塩60%」である

と、料理に熟練しているわけでもない人には表現できるわけもないのと同じである。

 フォーカシングをやっている私のような人間がアレンジすると、次のようなやりとりをすることを連想してしまう(すでに、オーソドックスなフォーカシングの教示からすれば、「かなり思い切った草書体」に書き崩していると思うが)。

T:「その時あなたはどんな気持ちだった?」

C:「・・・・・やはり『怒り』でしょうかね」

T:「『怒り』(エエ)・・・・・そういう言い方でその時のあなたの気持ち、言い尽くせているでしょうか? もし、それが単に『怒り』だけではないとすれば、どんな気持ちなんでしょう?

C:「そうですねえ・・・・『悔しく』もあるかな」

T:「『悔しい』(エエ)・・・・・『怒っている』だけではなくて『悔しく』もあるんですね」

C:「いえ、そういう言い方よりもですね・・・・・『悔しい』から『怒って』いたというほうが近いかもしれない」

T:「ああ、『悔しい』から『怒って』いた」

C:「そうです。・・・・ほんとうは『悔しい』の方が強かったんでしょうね」

T:「ほんとうは『悔しい』の方が強かったようにも思えてきたんですね(エエ)。・・・・・では、その『悔しい』という気持ちは、いったい何を引き金として、どんな思いから生じてきたんでしょうね(直前の状況行動の探索)

C:「昔は弟よりも僕の方が勉強もできたし友だちがたくさんいたんですよ。でも今の僕は働けないまま病気で家にいる。弟はフリーターしながらも家にはお金を入れもせずにのうのうと生きていて、結構遊び回っている。そうやって夜遊びから帰ってきたばかりの時に、無神経に僕を軽蔑するようなことを言ったんですよ。そういう弟に『悔しさ』を感じたんです・・・・・そうか! 『悔しい』って思うのは、今の僕は、あんな弟にですらも『劣等感』を感じはじめているていうことかもしれませんねフェルトシフトと共にに、自分の感情についての新たな認知を獲得している)

T:「いつの間にか、弟さんに『劣等感』すら感じるようになっていたことに気づいたんだね(エエ)・・・・・今、君は『劣等感』って言い方をしたけど、もっと別の言い方ってできないかしらね

C:「弟に対して、いつの間にか『萎縮』してしまっていた自分がいるのかもしれない。いや、弟に対してに限らず、家の中で『萎縮して』しまっている自分が自分でも苦しいんですね(体験過程尺度でいうと、ある特定の状況についてのひとつの気づきが、より一般的な状況についての気づきに拡張しているので、stage7に該当する)

T:「その『萎縮』の感じを少し身体で味わってみて。・・・・・・そして、今度は、そうした『萎縮』から自分をのように解放できたらどんな感じか、ちょっとだけ試してみるのもいいかもしれない(フォーカシングでいうaskingの教示のひとつのバリエーションであるともいえるし、解決指向心理療法で言う「ミラクル・クエスチョン」の典型でもある)

C:「・・・・・(沈黙)・・・・・ちょっとだけ身体が楽になりました。僕って、家を離れて、この面接室に出てくる時にまで、わざわざその『萎縮』をかかえて持ってきていたんですね」

T:「何もこの面接室にまで、ずっとその『萎縮』を抱えて来なくてもいいではないかと思えてきたんですね」

C:「そうですね。僕は何をそこまで、ここに背負ってくる必要があったんだ?、という気分ですね、今は。(弟さんとの事件があった後、「萎縮」を抱え続けていたことの「非合理性」についての気づき)

T:「・・・・ちょっと聞いてみたくなったんだけど、いいかな?(ドウゾ)、例えば、ここに来るまでの電車の中で、弟さんと同じ世代の、楽しそうな若い連中とすれ違う時に、そうした『萎縮』は感じていましたか?」

C:「・・・・・・・いや、待って。・・・・・そういう、すれ違う人たちから新たに刺激を受けて『萎縮』が更に募る感じがあるかってことですか?(ソウ、ソンナノ)・・・・・ちょっと待って下さいよ。・・・・・・うーん、そこまでは、なかったなあ・・・・ないですよ! そこまでは、さすがに。・・・不思議なものですね、あくまでも、弟の振る舞いだから、僕の気持ちをあれだけ揺らしている気がする。

・・・・こうした展開の中で、

少なくとも、弟を目の前にしてもいないし、家の中にいるわけでもない状況下でも、『萎縮』を感じ続けていく必要など、どこにもないではないか?」

・・・という新たな認識と、それに伴う心の自由が徐々に準備されていくのである。

 「弟に対してどう振舞うか」という課題は、次のテーマとして先送りしてもいいであろう。

 背後には、彼の中に、例えば、「人に叱責されたら、その時の辛い体験の実感は心身に刻み付けて味わい続けるべきであるなどという、一見何とも非合理的な自動思考(・・・・・親から同じことで繰り返し叱られるたびに、「叱られた時のことをもう忘れているのか? それはおかしい」という教育を我々は無意識のうちに受けているはずである)が隠れていたことへの気づきに結びついていくかもしれない。

******

 ・・・・・以上は、私の面接場面で普通にやっていることを脚色して再構成してみた創作と受け止めて欲しい。

 今の私の現場面接は、このような、やや「ソリューション・フォーカスド・アプローチ」や「認知行動療法」(「論理療法」っぽくもありますよね)のテイストも混ぜ込んだ、フォーカシング指向心理療法である。

 ・・・・・何か十分な整理にならなかったかもしれないが、私が自分で現在展開し、進展させつつある、カウンセリングの方向性の進捗状況をその「未完成」のままでとりあえず公開したものと受け止めていただければ幸いである(^^)

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    ご存じの方は多いでしょうが、出雲の国には日本全国の神様が11月に全員集合することになってまして、「神無月」と呼ばれるわけですが、島根でだけは、「神有月」ということになります。(後日記:「神無月」は10月でしたよね(^^;A ........旧暦なら11/23前後は10月でせう....ということでお許しを.....)  
    ちょうど紅葉の時期と見事に重なり、車窓も徒歩もひたすら紅葉の山づくしでした。このページの写真は、島根の足立美術館の紅葉の最盛期です。

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