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リンク: フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (長文です) -OKWave.
OKWAVEではなくて、こちらで我田引水で回答めいたものを書いてみました。
一方では、嫌な思い出を思い出さずに「蓋をしよう」とする自分の傾向に気づいておられる。でも、そうした嫌な思い出について具体的に思い出すことにかなりの不安と恐怖もお感じなのなと理解いたしました。
夢の中で、過去のつらい体験と見事に響きあう感情体験もなさったご様子、さぞ途方にお暮れになったことかと思います。
増井先生の「心の整理法」は、気がかりな事柄の置き場所探しをもっぱら中心的技法にしていますので、「置いたままにしておく」=「自分はその問題 から逃げているのではないか?」という葛藤も呼び起こし、「ほんとうにそれだけでいいのか?」ともお感じだったかもしれません。
また、「置いておく」前に、過去の気がかり自体を思い出さないとならない、ということそのものが質問者の方のネックにもなっているように感じました。
回答として私が思い当たるのは、次の3つの方向性です。
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もうひとつだけ、旧「フォーカシングQ&A」からの転載を追加しました。今度こそこれで完全移行です。
この記事でも、旧「フォーカシングQ&A」からの転載です。
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フォーカシングをしようと内面に注意を向けると、気になる事柄や身体の感じとの関連すら不明確な形で、あるイメージが「忽然と」生じてきて、それをただ「感じよう」としていると、イメージが別のものに変化して行き、突然消えてしまったりする・・・・・こうしたことに困惑するフォーカシング学習者の 方は、決して珍しくないようです。リスナー(ガイド役)をしている側の人も、目の前のフォーカサーがこうした展開をはじめると、結構対処に困ることが少な くないかと思います。
これが、身体の感覚についての「イメージ的」な表現であれば、少なからぬ場合、対応にさほど困惑しない筈です。単に身体感覚を「どのように」表現するかということであるに過ぎませんので。身体感覚と密着したイメージは、実際に身体の感じが変化していく小さなステップが生じないままに「一人歩き」する ことはあまり生じませんので。
少なくとも、
「なぜか、嵐か何かで大きな枝が折れてしまった樹木が浮かんできました」
などといったものなら、何か「意味シン」ですよね(^^)。フォーカサー自身も、ガイドの側も、これなら、自分の抱えた問題や、存在のあり方と関係 しているものとして、フェルトセンスの次元で体験する「きっかけ」にはなりそうだという意欲(?)をかき立てられそうです(^^)
ところが、例えば、「目を閉じると、私の前で球体が輝いているのが見えてきました。見ていると、きれいですね」などとフォーカサーが報告したら?
今回は、ちょっとこの問題について、私の考えと、実践的対処法について述べてみましょう。
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イメージは、内側に触れようとする中から、自然と生じてきたものである限り(つまり、意図的に何かを思い描こうとしたり、展開させようとしたのではない限り)、身体のプロセスの中から生じてきたものであることは違いないとは思います。
イメージが生じてきた(別のイメージに転換した)時に、例えば、
「この(新たな)イメージは、自分の置かれた状況や生活や存在のあり方、課題、気がかりや悩みと、どこかで何か響きあっているのかな?」
などと内側に(身体に)問いかけてみるのはいかがでしょうか?
身体の方が、この問いかけに対して「うなづいて」くれれば(たいてい、身体の中の「どこか」特定の部分の感じが、ポッと明かりがともるように鮮明に なり、「そこ」が応答してくれる形になるかと思います)、そのからだの「その」部分の感じとイメージの両方を共に大事に歓迎しながら、しばらく「共にい て」あげてみるのでいいのだろうと思います。
そういう際に、どんな気がかりや、生活状況と関連しているのかが具体的にピピッと実感できることもあります(頭で「推理」しようとしなくても。こうなるとそれはそれ自体小さなシフト(実感的な変化を伴う洞察)体験だといえます)。
例えば、先ほどの2つめの例の、「光る球体」について、自分の内側にこの問いかけをしてしばらくすると、胸の辺りに、何か「キュン!」とする感じが生じて来たします。そうなれば、
「ほんとうはこの光る球体は私の胸の中にあるんですよ」
だとか、
「暗闇の宇宙に浮かぶ光る天体・・・・確かに美しいんですけど、何か凄く孤独で寂しげな気がします。・・・・・「孤独で寂しい」・・・・・「こんなふうな」寂しさを私は感じながら生きているのかな? 私って、結構ナルシストなのかな?・・・いや、それだけでもない気がするな・・・」
などという方向に展開したとすれば、もう、そのセミナーに参加している誰も、「この人はフォーカシングをしているのだろうか?」などと疑うことはないはずですよね?
(もっとも、私は、フォーカシングを学ぶ場が、「これはフェルトセンスを体験しているということなのだろうか」だとか、「これでフォーカシングをし ていることになるのか」などということについて、ああだこうだと頭で論議する場になるようでは、そもそも好ましくないと思っています。大事なのは、「きちんとフォーカシングできること」ではありません!! フォーカシングを学ぶ場で、あなたが「満足する」ことです)
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その一方、「自分のなかの具体的にどういう課題と関連しているのかはっきり実感できないけれども、それでも、「どこかで何か」自分のあり方と関連して、このイメージが生じていそうだという実感があるのであれば、それが具体的に「どういう」自分のあり方となのかを性急に捜し求めなくてもいいのですね(そうした気づきは、必要な時に「向こうから」やってきます)。
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そもそも、内側に注意を向ける中で自然発生的に生じてきた(つまり、無理やりに思い描こうとか、展開しようとしたのではない)イメージというのは、私は、体験過程の「暗黙の機能」の働きとして生じてきたことを信頼していいとは思います。
「暗黙の機能」とは、フェルトセンスとして注意を向けることすらしない(できない)次元で進行しているプロセスのことです(ジェンドリン論文集
「セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解」(村瀬・池見他訳)所収の「人格変化の一理論」、p.181の「d)知覚と行動の暗々裏の機能」参照)。
イメージは、この「暗黙の機能」の中から、直接に、いわば「バイパス・ルートを通って」意識に浮かび上がる場合も少なくないのですね。
つまり、イメージが、フェルトセンスを「飛ばして(スキップして)」生じてくることも、それはそれで自然な営みとして受け止めておくのがいいいように思います。
それは、昔ながらの心理学用語で言えば、少しだけ「解離(dissociate)した」プロセスです。しかし、解離したプロセスですら、自分に「統合」されていないけれども、やはり「自分の-中から」から生じてきたことには変わりがないわけです。
ですから、技法としてのフォーカシングをする際に、仮に、生じてきた「その」イメージが、自分の気がかりや生活上の課題や存在のあり方とどこかで何か響きあって生じていることを、身体の感じが「裏付けて承認する」返事をその時には返してくれなくても、それでも敢えて、
「今は全然ピンと来ないけど、自分のあり方と『どこかで何か』関係する形で生じてきてくれたのかもしれないね。ありがとう」
などと、そのイメージそのものに、一声かけてあげておく意味はあるのではないかとは思います。
この質問は、たくさんの方からいただいた訴えです。
ひとりでフォーカシングする場合、自分のなかに、ガイド役とフォーカサー役を意図的に解離して同時に維持せねばならないので、試み始めた頃は、いつの間にか注意が他にそれたり、眠ったりというのは、実にありがちなことです。
そうした自分を責める必要は何もありません。
そもそも、フォーカシングをしているつもりで眠り込むほうが、そうではない場合よりもいい眠りになることも少なくないと思います。
いつの間にか注意がそれたり、その気がかりや身体感覚についてのいろいろな連想や思い煩いに流されていた場合には、
「その事柄(その身体の感じ)をめぐっては、そうやっていろいろな思いがあるわけね」
そうした思いの一つ一つに、
「自分の中のある部分には、そうした思いもあるんだね。なるほど、もっともだね、わかったよー」
と声をかけて、ひとつひとつ挨拶して、認めてあげていくことをまずはしてあげてみること。
そうした上で、
「そうしたこと全体を、からだはどのように受け止めているのかしらね?」
と、身体感覚全体に問いかけてあげて待ってみると、しばらくするうちに、身体のどこかが反応してきます。
その曖昧な感覚そのものと、しばらくそばに居てあげればいいのですね。
その感じは「どんな」感じか、ぴったりの言葉(フェルトセンスのハンドル)を捜そうと、焦る必要もありません。そうした言葉は自然と向こうから浮かんできます。
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そして、途中で寝てしまう場合ですが。
私が常々繰り返しているとおり、気がかりについての、曖昧な身体の感覚、あるいは、自分の状況や存在のあり方とどこかで何か結びついているかに感 じられる縛とした身体の不全感に、直接注意を向け、しばらくその感じと無理なく共にいられたならば、あなたはその時すでにフォーカシングしていたのです、
そういう感じを自分の中に見つけた途端に(あるいは見つけつつある最中に)睡魔に襲われ、いつの間にか寝入ってしまうということは、実は全く自然な現象だと思います。
そうやって寝てしまうのは、自分がその気がかりや漠とした身体感覚に、それまでどれだけ悩まされてきたかの証とも言うべきでしょう。まずは休息が必要なのです。
そして、新たな機会に、
「あの時つかみかけたあの感じはいまはどうかな?」
というふうに、内側に注意を向けてみると、以前よりは簡単に「その感じ」にアクセスできることも少なくないかと思います。
そうしたことを繰り返していくと、日常のなかで、特にフォーカシングをしようという意識がない場合ですら、その基本的には同じ感触と質感の不全感が、今も自分に訴えかけてきていることを自然に気がつけるようになります。
日常の中であなたが一度関心を持って声をかけたりした相手がいたとします。その時には、相手はやや無粋な反応しかしなかったとしてもに、繰り返し軽く挨拶だけでもしたいたら、いつの間にか、その人のほうから、あなたに何か声をかけたそうな視線は繰り返して帰ってくるようになることがあるでしょう?
自分のフェルトセンスへのアクセス性が高まるということは、そのような、人間関係において少しずつなじみになるのと同じような性質を持っているのですね(^^)
そうこうするうちに、きっと、ある晩、「(内なる)二人」の心は通じ合い、真剣にお互いに向き合え、言葉を交わせる条件が、無理なく整うのです。
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・・・・以上、この記事も、旧「フォーカシングQ & Aサイトからの「引越し」記事です。
」
2009年10月31日現在、日本には、The Focusing Institute認定のトレーナー、およびトレーナー訓練生(TNT)が156名います。
そうした人たちの中で、個人開業されている方は、私を含めてごく一部、個別指導を予約に日時さえあえば受け付けているカウンセリング機関も必ずしも多くないのが現状です。
一方、カウンセリング現場や教育現場でフォーカシングを柔軟に活用されているトレーナーは、かなりの数におよび、多くのトレーナーの方はそうした場で、いわば「フォーカシング指向心理療法」的に柔軟に活用されているものと思われます。
また、「子供のためのフォーカシング」という領域がありまして、日本にはこのジャンルで情熱を注ぐ人たちがたくさんいます。教育や保育の現場で活用されています。
一方、ボランティアに近い形で、フォーカシングのセッションを引き受けてくださる人、地域でのフォーカシングや体験過程理論の勉強会(これはかなり大規模のものあれば、少人数でささやかに地道になさっている方々もおられます)はかなりの数に及びます。
認定トレーナーないし訓練生の人たち同士に限定した実習、大学院研究室での実習、トレーナーではないけれども、お互いに学びあう場として集まりを持たれているケースなど、多様なスタイルでなされています。
大きな機関になると、ほとんど毎月のようにワークショップが開催されている場合もあります。
そうした中には、新規参加者歓迎のところもあれば、むしろクローズドなメンバーで研鑽を積むことを重視している場合もあります。
私の掌握している範囲では、北は北海道から南は鹿児島までの広がりがあります。推定では、少なく見積もっても50-60団体(あるいは個別セッショントレーナー)が機能していると思います。
(NLPなど、他流派の研修課程においても、フォーカシングを重視しておられるケースがあるようですが、ここまで述べてきたのはThe Focusing Instituteないし日本フォーカシング協会系の団体・個人に限定しての情報です)。
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今ご紹介した、「日本フォーカシング協会」は、The Focusing Instituteと連携しつつも、日本独自の組織であり、資格認定(私の資格研修プログラムはこちら)は直接関与していません。フォーカシングを「愛好する」皆様(もちろん、これから学ぼうという皆様を含めて)であれば、大学の研究者からカウンセラー、教育関係者ばかりではなく、一般の皆様にまで開かれたネットワークです。
年会費3,000円をお払いになると、協会「メンバー」として登録され、年4回ニュースレターが送付されるばかりではなく、認定トレーナーが主催する研修会やワークショップの多くにおいて割引料金が適用されます。
また、年に一度開催される、泊まりがけの「フォーカサーの集い」(日本各地を巡回しています)に参加できます(別途参加料はいただきますし、原則的に滞在地の宿はご自身で確保していただく必要があります)。
フォーカシングの関心を持つ、日本全国の人たち(時には海外から著名トレーナーが参加されたこともあります)と、交流を深められるばかりか、 フォーカシングのパートナーシップ(個別セッション)を体験するための小部屋も設けられ、それと並行して、「出店方式」と呼ばれる、その場で自由に選択で きる分科会に参加し、日本のフォーカシングの主なるトレーナーによるミニ・ワークショップをオールスターキャスト(?)で幾つも体験できます。
ニュースレターには、各地でのワークショップ情報や、勉強会のレポートも満載されています。
ただし、日本フォーカシング協会事務局は、トレーナー紹介についての直接の個別のお問い合わせにはお応えできないという原則を貫かせていただいております。この点はご了承下さい。
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以下、私が調べた範囲で掌握している、ネット上のフォーカシング関連サイトを一覧にしてご紹介します。
なお、以下にご紹介しているサイトは、そこのオーナーに打診すればフォーカシングについての質問に答えて下さるとか、学びの機会を具体的に提供してくださることを必ずしも意味しません。
各サイトの趣旨・ポリシーを尊重し、くれぐれも個々のサイトのご迷惑にならないようにご配慮願います。
※個々のサイトにリンクの許可をいただいている場合とそうでない場合があります。サイトの管理者の皆様、ここでのご紹介を抹消依頼の必要をお感じでしたら、快くお引き受けいたしますので、どうかご遠慮なくご一報ください。
以下、私のインターネット上の情報源:
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・・・以上、これまで継続していたブログ、「フォーカシングQ&A」をこの機会にたたませていただき、「ふくおかフォーカシング・セミナー」公式サイトへと再構築いたしましたので、これを機会にそちらの記事の中で重要記事であったこの記事を、修正の上で転載させて頂きました。
もし、新たにフォーカシング関連のサイトをお始めになった方、あるいは発見された方からのご連絡を歓迎いいたします。
共著者のひとり、マルタ・スタルベルツは、長年、発達障害の子が沢山いる学校で、児童心理士として活躍しておられた方である。
しかし、本書は、子どもや親や学校の関わりのみならず、大人自身が、様々な個人的現実世界や、組織・施設の中で、フォーカシングをいかに役だてられるかにも様々な示唆を与えてくれる。
フォーカシング関連の書物の中でも、訳はたいへん秀逸な部類に入ると思う。原著そのものに、難解さがない、流れるような自然さがあるであろうことも容易に想像がつく。
多少フォーカシングに馴染んだ人であれば、全くスムーズに読めるであろう。
著者は、こども達と関わる上で、普段思わず使ってしまうような物言いをほんのちょっと控えてみて、親や教師の側が、まずは自分の内側の感じに注意を向け、心のスペースを取り戻すことの重要性を説く。そして、子どもの傍らにいる中から生じてくるボディ・センスに感情移入的に注意を向け、丁寧に気持ちを察しながら言葉を返していく(これを「ミラーリング」と呼ぶ)、それだけでも、子どもとの関係性が、たとえそれが赤ちゃんとの関係ですら変わることを示唆する。
そして、子ども自身が自らのボディ・センスに注意を向け、程よい間合いを見い出すことで、自らにやさしい関係を作り、それが行動(かなりの問題行動すら含む)の好転を無理なく促すことに結び付けられるかを、様々なケースについて、思春期に至るまで、年代別に注意すべきポイントを少しずつ変えながら解説してくれる。
子どもがボディ・センスから自分の細やかで複雑な感情や状況を表現するために、言葉だけではなく、絵画や文字などを媒介することを子どもに提案すると、相互作用が深まる様も、こども達の描いた豊富なイラストを挿入ながら理解できる仕様になっている。
また、技法が決して押し付けにならないように、いかに細やかに関係性を築いていくかが前提になっているかについても、非常に示唆に富んでいるだろう。子供達といかに寄り添うか。それは、子ども自身が自分のボディ・センスに親和的になるかと感応しあっているかのようである。
学校教育の現場では、SSTやアサーショントレーニング、認知行動療法的アプローチ、いじめ対策のためのワークがなされている場合も多いであろうが、ここで述べられたフォーカシングの活用は、それらの技法と矛盾したり取って代わるものではない。むしろそうした技法と統合され、しなやかなエンジンオイルを供給するものといえるだろう。
本書の事例を読んでいると、言語の発達や学習障害、自閉、多動、感情の統制などという点で、実は全く平均的児童との隔てがない関わり方の次元があることが生き生きと伝わってくる。本当に「現場型」でフォーカシングの教師としても有能な人たちが書いた本だと思う。
「ここの部分は◯◯技法に似ている」などと安易に類型化して読まないで欲しい。本書の行間に身を委ねて味わって欲しいと思う。そこにはpersonとしての大人と子ども、「人と人」との豊穣なコミュニケーションの世界が広がっているのに気づくだろう。
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以上、未だ途中までの読みかけですが、とりあえずアップ。読み進めるうちに必要を感じれば増補改定します。
・・・・以下、インターネットにまだあまり詳しくない、初心者向けの内容です。
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皆さんは、Skype(スカイプ)をご存知でしょうか?
インターネット上で、ライブで音声動画通信を行うソフト、要するにTV電話のようなもので、しかも使用料金は無料です。
ヘッドセットと呼ばれるマイク付きヘッドフォンさえ購入すれば、簡単な設定で、日本全国、いや、世界中のフォーカシング・ピープルとの間で、パートナーシップを持ったり、トレーニングを受けたりすることができる可能性がひらけます。
電話、ないし電子メールによるフォーカシングは、かなり前から欧米では行われていましたが、日本でもすでにSkype経由でフォーカシングを共有・提供しておられる方もすでに少なくないかと思います。
ここで改めて、まだご存知でない方のために、Skypeの活用が秘めた大きな可能性について、私なりにご紹介したいと思います。
私は、こうした意味で、Skypeを通して、フォーカシングのパートナーシップを共有される皆さんが、全国で更に増えることを祈っています。
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Skypeで私が有料でお引き受けしている内容(全くの初心者の方歓迎)。
●私を担当者とする場合の、有料個別指導のやり方、料金体系等、詳しくはこちらを御覧ください。
「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」、一気に観ました(^^)
新海誠監督という名前は、私がアニメから身を引いていた時期にもなぜか目に入り、なんとなく私が非常に好む作風の傑作群ではないかという直感がありましたが、それが見事に当たってしまいした(^^)
三作ともに「星6つ」あげたくなる。アニメ史に残る傑作群ではないだろうか?
・・・・うん、こういうアニメが出てくる方向性をこそ、私は期待していた気がする。
三作に共通するのは、「隔てられた男女の絆」。
そのピュアーで甘酸っぱい(でも少しビターな)描き方は気恥ずかしいくらいですが、十分にリリシズムに満ちた、「オトナの文学」している領域。
「ほしのこえ」はオリジナルバージョンで観ました。わすか24分で感動の渦に巻き込んでしまう密度はとてつもない域。
この作品とと、長編「雲のむこう、約束の空」は、どちらも現代風の日常世界とSF的な別世界がミスマッチ的に共存している点で共通項がある。
特に後者は、ハードSF的な要素もあり、どこまでが夢の世界なのか、現実なのか交錯し続け、観ていて最初の方はそれに戸惑いますが、観ていくうちに謎は解けますね。かなり年季の入った「映画」ファンでないと一回観ただけでは読み解けないかも知れませんが(押井守さんの「イノセンス」に身を乗り出してハマれる人には何も抵抗ないでしょう)、絶妙の構成だと思います。いわゆる「セカイ系」の極みかとも思いますが。
一転して全60分の「秒速5センチメートル」は、「日常系」の何ともしっとりした恋愛もの。一番万人向けなのはこの作品でしょう。普段アニメを見ないオトナでも素直に感動する人が少なくないかと思います。
ハマる人は無茶苦茶ハマる。リアルでスレた現実を生き過ぎている人は、「何、これー?」かもしれないけど、村上春樹の叙情系の作品にハマれる人だと親和性がありそう。
あるアマゾンレビュアーの人は書いています:
「あなたも、心のかさぶたをはがしてみませんか?」
オムニバス形式をとっていますが、3話共に、男性主人公は同じ「遠野貴樹」で、ヒロインの方だけが入れ替わる。実はこの遠野という男性の「恋愛遍歴」ドラマとも言える気がする。
中学時代、高校時代、成人。両思い、片思い、婚約者/恋人との微妙な機微。
そして、「すれ違い」。
遠野って罪作りな男だと思いますが。
ある意味では、男と女の恋愛観の違いも浮き彫りにしてるかも。
男は、いつまでも初恋の女性の面影を追いかけるものだと思う(・・・私がそうなだけか?)
この作品にもロケットがモチーフとして登場せずにはいられないみたいですね(^^)。
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全作通して、執拗なまでの鉄道へのこだわり。フルデジタルアニメ(あるいはそれに準じる)による透明で空気感に満ち、克明で繊細な日常描写・・・これ以上求めようもない、見事な水準というしかありません。
そして、この新海監督は、脚本から絵コンテ、背景美術、時には作詞まで自分でやってしまうマルチな作家能力。こういう人は宮崎駿しかいなかったのではないか。
この人の作品は「ゼロ年世代」に分類してもいいかと思いますが、こういう「大作家」をこれまで未見だったのは、何とももったいなかったな。
追記:
この作品について、批判的見地から一番まとまったものを紹介すれば、
●新海誠の痛さ(1)懐かしがっているのは誰か?(蕩尽伝説)
といったあたりかと思う。
ただ、この人の現代社会についての見方も、もはやひとつのテンプレかと思う。この人もまた、現代社会の中で疎外され、行き場を見失い、アニメとかのフィクションに身を静める人種であることには変わりない。
いかに今の現実の中で、自分を見失い勝ちだとしても、単にそれを評論するのではなく、足を地につけ、感性を維持した形でそれと戦うことができるというのが私の信念である。
そして、徹底的に、自分の感性を真っさらにして、作品世界に思い切りどっぷりと身を委ね、ビターなものはビターに、リリックなものはリリックに、その作品ならではの味わいを味わい尽くしたいと思っている(もちろん、これらが交錯している場合もあるのだが)。
・・・だから、私は自分が観た作品をクサすことは滅多にない。
私は1960年代生まれですが、1980年代前半頃の劇場版長編アニメに通じる、何か凄く懐かしい味わいの作品を見せていただいたという感じです。自分が20前後の頃どんなノリで劇場アニメを観ていたのかを思い出させてくれました。
「ナウシカ(1984)」とか「ウインダリア」(1986)・・・というあたりの連想がまずは浮かんだのですが、原作者ははっきり「ラピュタ」(1986)を念頭に置いたと明言されていますね。・・・同じ空が舞台なのに、私、なぜ、とっさには「ラピュタ」を連想しなかったんだろう?(Amazonの原作本の「著者メッセージ」覧参照)。
←(注:初版の文庫版。劇場版はこれに基づいて作られたとのこと。改訂新版については後述。)
SF的設定もあり、空中戦も見所とはいえ、物語の基本的な流れは、まるで童話のような騎士道ラブ・ロマンス。そういう意味では王道過ぎるくらい。でもそれが全然陳腐とは思いません。これだけ緻密にストーリーを組み立て、丁寧に作られていたら私は十分満足です。完成度が高ければ、物語が「見え透いて」いてもいいのです。
全く白紙でこの作品を観る機会に恵まれ、他の方のレビューも全然読まないままで敢えてこのレビュー載っけることにしたのですが、「原作本の」情報とレビューの方は、この劇場版観たあとでちょっぴり拝見しました。
・・・何だこの5つ星の数は。大ヒットしたライトノべルなんですね。何かこういうストーリーのものも、今も好まれるというのは、オジサンとしてはなぜか胸をなでおろしてしまいます(押井守さんの諸作品、例えば同じ空戦ものの「スカイ・クロラ」とかも、全然持ち味は違うビターさがあるものの、好きな人間ですが)。
同じマッドハウス制作の「時をかける少女」と「サマーウォーズ」も非常に好きな映画ですが、緻密な日常描写とキチンとしたまとめ方には相通じるものがある気がします。脚本はこの2作に続いて奥寺佐渡子さん。
キャラデサインもやはり同じ貞本義行さん?これでは主役の「飛空士」シャルルと王女様ファナが「エヴァ」のシンジとレイそのままみたいじゃないか!・・・と思ったら、松原秀典さんという方。調べてたら、劇場版「エヴァ」新劇場版の序と破で作画監督のひとりをしていた方なんですね。このへん、原作のイラストやコミック版のイメージと全然違う・・・という方も恐らくありそうですが、以上の作品を皆好んでいる私はそれを「許し」ます。「貞本風」というのは、もはや宮崎アニメと同じで、ひとつの「スタイル」かと。
シャルル役の神木くんも「サマーウォーズ」からの続投ですが、もはや声優としても「安心の隆之介」の域かと思います。これに対してファナ役の人を「棒読み!下手!」というのはたやすい。しかし、王家の箱入り娘として無垢に育ったファナ役ぐらいは、「生硬(ぎこち)ない」くらいがいいのではないか。ここに「うまい」声優さんをあててしまうと、この作品、いよいよきれいにまとまり過ぎてしまう気がします。
「原作と比べて世界観や背景の説明、心理描写や戦闘シーン、「終章」などの各シーンの簡略化や変更が多く見られている」という情報も某所で確認しましたが、何の先入観もなしで観ても、映画として自立しているかどうかが大事なんじゃないかと個人的には思っています。
========以上、私のAmazonレビューよりそのまま転載==========
● ↓ ロングバージョンの予告トレーラー(終了後に、引き続き表示される「関連動画」で冒頭12分がまるまる観れます。これ、「承認済み」のものだろうと思いますが。
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私は、マジ、上記のアマソンレビューを、映画についての他の人のレビューに「目隠し」したまま書いたのです。人気ある原作付きアニメというものがいかに原作ファンに叩かれやすいか過去の経験から容易に想像が付くので、完全に予防線を貼った書き方を意識的にしています。
私にできるのは、自分が観てきた「他のアニメとの比較論」、これ一本勝負。そういう書き方も、全く先入観なくこの作品に興味を引きつけるのには意義があると思いましたし。
ライトノベルの元祖、新井素子の「扉を開けて」(劇場版1986)なんかも、劇場はもう無茶苦茶不入りで、打ち切りの悲哀を舐めています。この作品については原作も読んでいますが、原作よりも秀でた部分も相当ありました。マーク・ゴールデンバークの音楽が非常に素晴らしくて、当時の最先端だったと思います。
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レビューを少し補足すれば、私は「俳優さんの」声優演技というものに好意的な立場です。ファナ役の人はともかく、神木くんの方まで「棒読み」というのはどうなんだろう???? 神木くんは役者として非常な才能がある人と思っていますが、声優としてもすでに実力を伸ばしてきていると思います。
それに、今の若い世代の人たちって、80年代前半頃までの声優さんのかなりの部分が「舞台演劇」の俳優さんも兼業していたことを知らないまま、昨今の「声優声」の価値基準に染まっているのではないかという危惧もあります。
もっとも、今の若い声優さんが、昔とは違う意味で若くから卓越した技量やしっかりした考えも持っている人も少なくないのは認めますし(まどか☆マギカ」のオーディオコメンタリーを丁寧に聴いていて感じた)、私は、宮崎駿さんのような、過激な「今の声優排除」論者ではありませんが。
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さて、原作の方、新装版(改訂版)で文庫から通常書籍(単行本)に格上げになり、価格も値格上げ、表紙も大人びたものになっているようですね。
恐らく、もはや「ライトノベル」の域を超え、もっと年齢が上の幅広い読者層に訴えるだけのものがあるのだろうと思います。映画の完成後に刊行。他の方々のレビューを読む限り、ストーリーは、より練りこまれているとのこと。
・・・・読みたくなった。(追伸:注文済み)
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【追伸12/16】
読み上げました。
映画版の元になったのは「初版」の方とのことなので、敢えて「ガガガ文庫」版の方にして比較してみたのですが、これだけ原作を尊重した映像化は「珍しい」域かと思います。原作から想像できるであろうテイストも全く同じ。これ以上を求める原作読者というのは「強迫的」というか、私にはこのアニメ化で不満という人たちの気持ちが、「わけがわからないよ」(^^;)。文字で書かれた心情表現というのは画面の「行間から」読み取るものです。
興行的には打ち切りの悲哀を舐めたそうですが、それはむしろプロモーション等の問題ではないでしょうか。
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更に調べたら、「とある飛空士の・・・」はシリーズ化されているようですね。
↓ これ、「とある飛空士の恋歌」の「文庫本の」宣伝のためだけのアニメトレーラー? 何かむやみに凝ってますね。このクオリティでアニメ全編作れれば「凄い」でしょうが、原作は長い作品のようで、むしろクオリティ維持してのTVシリーズ制作が無難かも知れませんね。
↑ こっちの方はいかにも「ゼロ年世代の」画面作りでキャラデザですが、個人的には、このタイプのキャラデザって、私にはみんな同じように見えてしまうのです(^^;)
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私の観た、生粋の「ゼロ年世代」のアニメは、「まどか☆マギカ」と、「化物語」だけ、あと、一応、昔私が好きだった幾原監督の「輪るピングドラム」のみリアルタイムで観てます(「時かけ」「サマーウォーズ」という細田守作品は典型的「ゼロ年世代アニメ」の枠の外でしょうから)。
「ピングドラム」は、独特のセンスと、先が読めない展開満載で、結構面白いけど、視聴者を選ぶ作品かな?・・・私はどっちかっていうと、世代を超えて、誰が観ても引き込まれるタイプの作品が好きです。
「まどか☆マギカ」は世代を超えて唸らせるものがある「特異な到達点」と感じ、一気にはまったのはこのブログでも随分書きました(「まどか☆マギカ」カテゴリー参照)。
「化物語」は、新房監督の様式美満載、西尾維新の原作そのものらしい独特のセリフ回しが一貫してて、なかなかセンスあるけど、やはり若い人向けの「ライトノベル」原作アニメだなあ、ホラーものと言うには物足りない描写だし・・・という感じ方止まりです。そして、ああいう「ハーレム状態」作品はちょっとねえ・・・戦場ヶ原ひたぎに人気があるのは、なるほどと感じましたが、私は一話での彼女のややボーダーチックとも言える「凄み」が2話以降なくなり、単なる「デレ」になったのが勿体ないかと。「ああいう」告白は、さすがの私でもベタだと感じる(^^;)
・・・・あ、新房監督つながりで、「さよなら糸色望先生」のTVシリーズも観ました。これはなかなかビターな優れものだと思いました。大槻ケンヂのOP・EDもナイス!!
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まあ、そういう、「エヴァ」以降は「空白の15年」くらいのブランクを抱え込んでいた(押井・宮崎作品は別枠)、熟年アニメファンの感性で、この記事書いてると思ってください。
このあとは、とりあえず、新海誠監督の「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」のあたりは、時代に追いつくために(?)観てみたいと感じています。
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●P.S.
このレビューの最初の部分で、「ウインダリア」を引き合いに出しましたが、実は、「ウインダリア」には、実は「-童話めいた戦史-」という副題がついていまして、「とある飛空士への追憶」を観た時に、思わずこの言葉が思い浮かんだのです。
ちょっと共通する雰囲気のところもある。過去なのか、未来なのかわからない異世界設定、国同士の対立、恋愛、ちょっと変わった飛行機械など。もちろん物語全体とすれば相当違いがありますが・・・あ、これ以上は口を滑らせないほうが両作に興味がある人にはいいかな(^^)
「ウインダリア」のDVD(数年前から所有してます)、ひょっとして、今も販売されている可能性に、一縷の望みをつないで探しましたが、以下のような相当な中古プレミアム価格になっています・・・・知る人ぞ知る名作なのですが。
脚本を書いた藤川桂介氏による小説版の中古市場は廉価です。小説版は私は未読ですが、これはこれで評価が高いもののようです。
最後は、いよいよ「とある・・・」から完全に外れてしまいますが、「ウインダリアの」挿入歌「約束」、エンディング、「美しい星」(新居昭乃さん)も名曲だと思います。ご紹介。
↓ 更に、「ウインダリア」の方のロングバージョン予告トレーラーも見つけたので。
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もうひとつ追伸:
最新情報入りました:
●細田守監督最新作は「おおかみこどもの雨と雪」 新スタジオ設立も(映画.com)
●細田守監督 :主人公は“聖母”のような母親 舞台は富山県 新作「おおかみこどもの雨と雪」(MANTAN WEB)
独立して、新スタジオ「スタジオ地図」設立とのこと。スタジオジブリとも連携。やるねえ~
やはり(細田氏自身との)共同脚本:奥寺佐渡子、キャラデザ貞本義行と続投。楽しみ。
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