働いたに値する収入を得ていると感じられるかどうかは難しい。
今の私のように、「家族を支えるために」働いているという意識がなくなる状態に回帰してみて、最近つくづく思うのは、自分には、働いた分に値する収入を得ていると感じられていた時期がほどんど全くないということである。
前の記事でも登場した、私の中に住んでいる、情け容赦ない「内なる審判官」に言わせれば、私が大学で常勤職をしていた数年間までの間、私は私の要求水準からみて、受けるに値すると感じられる以上の賃金を受け取っていたとしか感じられていない。「それだけの仕事をできてはいなかった」としか思えない。
そしてそういう真の「手応え」感のなさ=ある種の「空虚感」のために、そういう自分にまるで刑罰でも与えるかのように浪費を重ねた時期の方が長いように思われてならないのである(念のために言うが、常勤職を獲得する以前の私の年収は280万円前後であった)
日本におけるフォーカシングの研究実践者としては、論文や著作の本数こそ足りないかもしれないが、ある意味で第一線を走ってきた自負はある。しかし、振り返ってみれば、半年前の自分の水準は問題だらけとしか感じられないことを繰り返してきたように感じている。
最近でこそ、昔の文を読み返して、結構まともなことを積み上げてきたかなと振り返れるようにもなったが、それはあくまでも「文章として」読み返した場合である。その文章で書かれたことを「実体として」どれだけできていたかの水準は実際にはかなり劣るものだったと思う。
文章としてだけなら、人間、結構立派なことを書けるものだと、我ながら感じ続けている。
そして何より、フォーカシングの専門家であることと現場臨床の援助的専門家としてクライエントさんのお役に立っていることとシームレスにつながっていた場合に初めて意味があるというのが私の信念であり続けてきた。
それこそ、時価6000円で、多少のばらつきはあっても100点満点の70点以上のお役に立てていることがコンスタントに多いかなとほんとうに感じられるようになってきたのは、この1年以内の出来事のように思う(それでも、時々大反省することがある)。・・・・・これですら私の思い込みかもしれない。
その意味で、今の私の実力ならもう少し、現場臨床、および臨床教育の分野でそこそこ収入があってもいいのではないかという逆方向のギャップ観をあまりゆるぐことなく、かといって感情的にもならずに感じられるようになってきたのは、本当に、本当に、ごく最近のことという気がする。
もっとも、面接数が増えたら一つ一つの面接が雑になりはしないかという自分への不信感は拭えない(勤務カウンセラーだった時代から今日まで、あるライン以上にクライエントさんが増えると「何らかの不注意」をやらかしてきたおかげで一定数のラインを容易には超えないということを繰り返してきたという思いがある。困ったことに、今でも、ちょっと前までの自分はこのことがどうしてできなかったんだろうという反省ばかりがしきりである)。
だから、ある意味で、「分相応」との感じ方に限りなく近い点では、相対的に見て、我が生涯で現在が一番肉薄しているのかもしれない。
自分は、クライエントさんのお役に立てる専門的な援助をした有効な分だけは、「食べさせて」いただいているというリアルな手応えである。
そういう意味で、しばらく前・・・・少なくとも昨年の夏までにあった、ある種の屈折した「ルサンチマン」のようなものは、私の中からもはや抜け落ちてしまっている。
それを実感できるために、一度「都落ち」まで追い詰められないと気づけなかった私も情けないものではあるが。
関係者は関係者なりに自分の職場のことで手一杯なのであり、別に私は特に貶められてもいないし、わたしがいろんなことで「やり過ぎ」であるがゆえに遠ざけられているとまで思い込み過ぎるのも、もはや自意識過剰としか思えなくなってきているのである。私も、動くべきチャンスだった時に見逃したケースもあるし。
この不況の下で、専門職キャリア30年近くて今年50歳の「ツブシが効かない」カウンセラーなるものを敢えて「雇おう」となると、同業種ばかりか他業種の人にとっても二の足を踏む存在となっていたことも十分に理解できる。
いずれにして、やっと、等身大の自分を手に入れつつあるな・・・・と感じだしてはいるようなのである。
しかし、そのことを実感するためには、切り立った山々の尾根歩きのような、あるいは冬季オリンピックのアスリートたちがともかく「完走」できるだけの「際どさ」のようなものをくぐり抜けるしかないとは。
あの、失敗したら最後、雪か氷に叩きつけられるしかないアスリートの心境、今回のオリンピックぐらい、その瞬間の凍える寒さと孤独と「空虚」が身に染みて伝わる思いをしてテレビ観戦している年はない。
もとより、今のところ全く矍鑠(かくしゃく)としているとはいえ、老いた両親に、恩返しまでは行かなくとも、少なくとも私が今後それなりに十分にやって 行ける様を十分に安心して見届けて欲しいという切なる願いは抱いている。
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そういえば、容易に実体が伴わない映画制作進行過程を延々と描き続ける、フェリーニの映画、「8 1/2(はっかいにぶんのいち)」を今日たまたまBSで初めて観た。カーリングがドイツに負けてきてるなと感じたあたりで思わず切り替えてしまったら、どうやらはじまったばかりだった(^^;)
その高度なメタフォクション性につきあうことと、マルチェロ・マストロヤンニ演じる主役の「映画監督」の心境がじりじりと伝わってきて、結構しんどいものがあったが、あのオチの付け方・・・・・ありがちという人もあろうが・・・・に、ちょっとだけ救われる思いをした私だった。

←まずは、CPUの上の冷却フィンと合体しているものが一つ(左に張り付いた黒いボックスの部分)。




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