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2009/10/17

陸上の為末さんの「5%理論」

 陸上の為末大さんが、ココログにあるオフィシャルブログ「侍ハードラー」で、「5%理論」というエントリーを書いておられます。

 為末さんの、料理や芸術、ビジネスまで引き合いに出す、視野が広くなおかつ哲学的ともいえる文章に、独特の感銘を覚えました。これは全文読んでいただくことがふさわしいと思いますので、ここでは引用等は控えさせていただきます。

 ココログニュース(ここに記事全体の要約があります)でこの記事の存在を知り、コメントとして書かせていただいたことを推敲かつ相当「増補」して、以下に転載させていただきます。

*****

 私は体調を崩して復帰して以来、基本的には5%どころか10%の余力を残すように心がけていますが、それでも「短距離走」が必要な時になると「残 りの 1.5%(為末さんと同じ数字では僭越ですので)」ぐらいにはにこだわります。そしてその後は、リバウンドを警戒して、意識的に15%以上の余力を取る時 期をしばらく作ろうとしますね。

 得てしてそれを踏み外して、連続して「残りの1.5%」モードで動くこともありますが、最悪、そうしたイベントが「3連続」になることは可能な限り回避しています。

 それに、残りの1%を追求するあまり、「遊びがなくなり」過ぎて、逆に創造的なものが賦活しないこともままあるかと思います。

 絵描きの多くは、時々キャンパスからかなり離れて描きかけの絵を「眺めて」みて、再び細部の制作に取り組む人が多いときいています。

*****

 「努力」ではなくて「熱中」が望ましいという意見を、精神科医の泉谷閑示氏が「うつにまつわる誤解」シリーズの第22回、<「努力」に価値を置く危険性――「ウツ」を生み出す精神的母体>でお書きです。

 以前も紹介しましたが、泉谷さんのこのシリーズは、たいへんに平易な形で、特にビジネス社会に生きる人たちの鬱との関わりについての実践的処方箋を書いて下さっていて、好感を抱いています。

 今回も、敢えて「努力」と「熱中」を対比的にとらえるという形で解説した意図は十分に伝わります。

=======以下引用=======

 ある野球少年が、毎日熱心に日が暮れるまで練習をしていました。そして、その野球少年は、後々、大リーグで活躍するほどの選手にまで成長したとしましょう。

 その近所に住んでいた家族がこんな会話をしています。「○○君は、毎日欠かさず日が暮れるまで努力したからこそ、あそこまで成功したんだ。やっぱり、人一倍努力した人間が最後には勝つんだ」

 しかし、当の本人にこの話をぶつけてみると、意外にもこんな反応が返ってきました。「いや、僕は人一倍努力をしたという自覚はありません。ただ野球が好きで、もっとうまくなりたいという一心で、やりたいからやってきただけなんです」

 これは他愛のないフィクションに過ぎませんが、様々なジャンルで活躍している人たちの発言をいろいろと総合してみると、かなりこれに近い現実があ るように思えるのです。つまり、本人にとって「熱中」と呼ぶべきものを、ともすると、傍で見ている人間が「努力」と誤って見てしまうのではないかということです。

=======引用終わり======

 
これについてはなるほどと思ったのですが、このしばらく後のほうの部分、

=======以下引用=======

■「努力」をやめても「熱中」が待っている

 人間は、自分の内に抱えている言葉によって、知らず知らずのうちにその在り方までもが規定されてしまう特殊な生き物です。

 ですから、「努力」という〈龍[こういちろう注:超自我のようなもののことを指す] 〉の言葉を信奉していることによって、私たちは奴隷的な〈駱駝〉の状態に縛りつけられてしまい、生き生きした状態から遠ざかり、場合によっては「うつ」状態にすら陥ってしまうのです。

 そこで、「努力」という言葉を捨て、自発性・創造性に満ちた〈小児〉の遊戯を表す「熱中」を新たなキーワードとして立ててみることが、私たちの在り方を少しずつ生命力に満ちたものに変えてくれる秘訣だと言えるでしょう。

 しかし、もし「努力」というスローガンを手放してしまったら、自分は何もしない怠け者に堕落してしまうのではないかという恐怖心を強くすり込まれていることも珍しくありません。これもまた、私たちを〈駱駝〉に縛りつけておくための、巧妙な〈龍〉のやり口なのです。

 〈駱駝〉の従順な勤勉さを脱したとしても、その先に待っているのは決して堕落した自分の姿ではなく、〈小児〉の創造的「熱中」があるということ。これが、窮屈な〈駱駝〉の自分から脱していくうえで、欠かせぬ大切な認識です。

 人間は、義務に束縛された状態から解放された後、ある期間は反動として「何もしたくない」という状態を経過するものですが、それが満たされた後になってまで、何もしない退屈さや単調さに耐えられるほど忍耐強くできてはいません。必ずや、何か「熱中」できるものを探し始め、創造的遊戯を行なおうとする積極的な生き物なのです

=======引用終わり======

 と結ばれた時、私の中に、確かにもっともなんだけど、これはちょっと「熱中」肯定論になり過ぎていると感じはじめたのです。

 ・・・・・泉谷氏は、あまりにもうつの人向けの視点から書くあまり、躁鬱の悪循環という視点が抜け落ちてしまっている気がして来たのです。

 つまり、熱中というのは、ある意味で軽躁状態と親和性がある状態です。中井久夫先生が「楽しいことでも疲れる」という名言をお書きですが、「がんばる」という形ではなく「思わず熱中する」場合ですら、そこに心身の解放だけではなくて、心身に負荷をかける側面は必ず並存しています。

 だから、熱中した挙句にいとも簡単にリバウンドを起こして、うつ状態に逆戻りということは、回復期の鬱の人、ましてや双極性2型の傾向が強い人にはままある筈。

 「興味と好奇心で熱中し始めて」いたはずのことが、いつの間にか「強迫性」にすり替わるリスク・・・・これはうつの人全般に見られがちな心性だとお思います。

 今回の泉谷氏の記事に、そうした側面への配慮が、一言でもいいから添えられていて欲しかったと思います。

*****

 話を為末さんの記事に戻します。

 為末さんも当然、試合後には消耗からの回復のための期間をお取りになっていることと思います。「成果として」創造的・生産的であるということと、その人の心身への負担は別問題ですから。

 それに対して、「努力」(ましてや人から発破をかけられるだけの形での努力)だけでは突き抜けられないことも多いように思います。為末さんには、「こだわり」という側面が強く、「努力」と「熱中」の両面を兼ね備えたものであると推察いたします。

 結局、計算を超えてギリギリまで追求する側面と、長期的な視野の元でバランスを意識して安定と継続性を確保することが、個人レヴェルではその人なりのバランスで、そして、社会レヴェルでは、それぞれのアプローチに向いた人が自然と「分業」して(時には相互に軋轢を起こしながらも)やっていくのが、人類全体にとっては望ましいのではないでしょうか?

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