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2009/09/26

「悪いなりによい」という長嶋氏の言葉 -NHKスペシャル「シリーズ ONの時代」より-

 今日は朝早くから所用があって、昨晩早めに就寝しているので、こんなとんでもない時間に記事を書くことになりますが。

 これまたHDレコーダーに録画しまたままになっていた、NHKスペシャル、「シリーズ ONの時代 第1回 スーパーヒーロー 50年目の告白」について書いてみたい。

 この第1回は、戦後を代表するスーパースターである王と長嶋について、本人たちへのインタビュー、当時の関係者の証言、関係者やご本人が当時書いていた日記などの資料を基に、「天才」長嶋、「努力の人」王という既成イメージについて認識の転換を図ることを企画の趣旨としている。

 私は格別の野球ファンではなく、そもそも野球の試合を球場まで見に行った経験が皆無の人間である。それなりに野球中継をテレビで観戦していた時期もあるが、それが習慣化していたほどの時期はない。

 しかし、1960年生まれの私にとって、王と長嶋が、子供時代からのスーパーヒーローであったことには変わりがない世代の人間である。

 当時は、何かにつけて、テレビでのプロ野球中継は、NHKを除けば巨人戦に異様に偏していた時代であり、現在からすれば信じられないぼどに「巨人ファン」が日本人の多数派を占めていた。そしてその巨人軍の中の別格的な花形スターが、長嶋と王だったわけである。

*****

 この番組では、まずは「天才」といわれた長嶋が、実はいかに影で努力を重ねる人であったかにスポットライトを当てる。しかし彼は一度出来上がってしまった、明るくて陽気で、ここぞという場面でのいい意味でのスタンドプレーで観客を沸かせる「天才・長嶋」という大衆のイメージに応え続けるために、人目につかない場所を敢えて選んで、試合のあと何時間も個人練習を重ねてていたという。

 他方、王は長嶋とコントラストをつけた巨人のもう一枚の看板としてのイメージを植えつけて報道したいマスコミの意向によって、努力と根性のまじめで実直な人間というイメージを求められてしまった。ところが現実の王貞治は、特に入団当時は、彼の素質を見抜いた川上監督によって、彼のために招聘されたと言っていい荒川コーチからも眉を潜められるくらいに、「自覚がない」、結構ルーズな人間だったという。成績も、期待された割には、入団3年間は振るわなかった。

 「ただ、荒川コーチの指導に受け身に随き従っていただけ。自分がどのように野球選手として生きていくのかのビジョンそのものが抱けていなかった」と、当時を振り返って王氏は語る。

 こうした本音の次元での王の野球選手観は、近年、巨人の選手がスキャンダルを起こした時の、ざっくばらんな発言などでも世に知られるところであろう。

 その王に転機が訪れるのは、荒川氏の指導の下で一本足打法を確立してホームラン王になり、更に年間55本という、日本のプロ野球新記録を確立した頃からであるという。

 自分には長嶋のような華やかさはない。ホームラン王だけは誰にも譲らないということにプライドを持って生きることにしよう・・・・彼はそう思い定めたのである。そして、マスコミやファンから投影される、「実直な人格者」というイメージを自ら進んで受け入れて、公衆の前で演じて生きて行く決心をする。

*****

 その二人に共通するのは、当時の日本人の大衆娯楽の頂点のひとつであった「巨人戦のテレビ観戦」という大舞台において、大衆が自分たちに期待してくるスーパーヒーローとしてのイメージを決して裏切らないプロのパフォーマーとしての完璧性を、どこまで毎年コンスタントに持続できるかにひたすら心血を注いだということである。

 自分たちの双肩に、多くの日本人の生きる希望がかかっている。長嶋や王が頑張り続けているから、夢と希望を失わない人たちが日本にはいっぱいいる、それが二人に乗しかかり続けた圧倒的な重圧であり、なおかつ2人の生きがいでもあった。

 恐らく、ここまで、スーパーヒーローとして大衆が期待するイメージを損なわないプロ競技のパフォーマーであることに、非常な高次元で、しかも長期間にわたって応え続けることができているのは、その後イチローだけであることは衆目の一致するところではなかろうか。

*****

 70年代後半に入り、長嶋にも、徐々に年齢から来る体力の衰えが忍び寄る。打率もどうしても3割に届かないまま低迷し始める。

 しかしそれでも長嶋は努力を重ねつつ試合に出場し続ける。

 彼はこの段階で次のような心境に達していたという:

 「悪いなりによい、と思えれば次(の試合)に出ることができるようになった。いい(状態が続いていた)場合には、そういう気持ちは出ないのよ」

****

 これは、僭越ながら一度鬱に罹患して以降、ある意味で自分が絶好調になることなど、少なくとも当面は訪れないと見定めた私個人の心境とも非常にフィットする。

 それこそ、我ながら、最近のブログの記事の非常に引き締まった文体と内容水準の安定した「打率のよさ」という点では、ここしばらくの私は過去最高の安定度があるかに見えることは自分でも自覚している(人によっては、やや「鬼気迫る」とお感じの方もあるかもしれないけど、恐らくそうした成分の半分はそういう方ご自身の「投影同一視」ですって)。

 しかし、それは、生活の中で睡眠時間を十分に規則的にとり、食生活にたいへん気を配り(何とこの齢にして自分で料理するレパートリーを広げつつある。毎食ごとにサラダボール一杯分の各種野菜を素材に欠かさず、容易なことにはレトルトに依存しない・・・・というか、もうレトルトの人工的な味が嫌いになっている)、生活の中から不要なものをとことんそぎ落として、現実にクライエントさんにお会いする時間に心身の余裕あるピークを持ってくること、精選した読書や映画鑑賞、そしてできあるだけ毎日、限られた時間でも庭いじりや自転車で乗りまわす形で外出すること、更に、今構想中の新たな地域活動についての下準備をすること、そして気の置けない親友との毎日のようなネット通信を通しての定期的な対話、そしてこのブログの執筆ですね・・・・これだけで私の毎日は非常にシンプルに、しかし常に10%の余力を見失わないように警戒しながら、淡々と繰り返されている。

 長嶋氏と我が身を引き付けるのはたいへん僭越であるのは承知だが、5年前の脳梗塞からのリハビリを毎日続けておられる長嶋氏の、この「悪いなりによい」という言葉に、非常な共感を感じずにいられなかった私がいること、これだけはどうしてもお伝えしたくなって、キーを叩いた次第である。

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