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2009年9月

2009/09/30

最近このブログの内容の性格がずいぶん変わってきた

・・・・と、自分でも感じています。

 特にこの9月になってからの1ヶ月

 文字通り、「カウンセラー」こういちろうの雑記帳という、ブログのタイトルそのものになってきて、次から次へと、新たに接した素材(それが映画であろうと)について、ハードに煮詰めた形で書くようになって来た気がする。

 文体も、硬質でタイトなものになって来たように思うし。

 読者によっては、遊びがなさ過ぎるというか、要求水準が上がりすぎているとお感じの方もあるかもしれない。

 アクセス解析を観ても、読者層の皆さんの入れ替わり現象みたいなものがかなり顕著になって来たようですね。

*****

 そうなったひとつの刺激剤は、8月末の、1年1ヶ月ぶりの東京上京と、日本人間性心理学会第28会大会への参加だと思う。

 それが私にとって、久留米で生きることについて、やっと本格的に腹が据わる契機となったことはこちらの記事でも書いた。

 そして、東京からの帰途の飛行機の中で発想し、構想を煮詰めていったのが、昨日突如公式ウェブサイトを、秀吉の「墨俣一夜城」のごとく公然化させた「久留米でうつと働き方を語る会」発足に向けての動きである。

 私としては珍しいことだが、この構想を、幾人もの先達の諸先生方、何人ものグループ体験のあるクライエントさん、元クライエントさんに打ち明け、ご意見やご感想を頂き、もちろん既成のこの種の団体のウェブサイトをあちこち検索して参考にさせていただきながら、慎重に構想を煮詰めて行った。

*****

 もっとも、あのサイトそのものの「ウェブデザイン」は、マジに28日に半日で仕上げました(^^;)。私の作ったウェブサイトではこれまででもっとも美しいですね。どうしてこれまではこうはいかなかったのかと自分でも苦笑しています。cssまで使いこなしたのは今回が初めてです。

(追記:画面右端が空白だった問題は、すでにどのブラウザで見ても解決されているはずです)

***** 

 もうひとつ、東京での学会参加が、私を思いの他刺激したのは、一方でこれから地域に根を張る現場臨床にいよいよ踏み込むというのと同時に、アカデミズムというか、臨床心理「学」の領域で、まだ私にもできる、残された仕事がありそうだという思いだった。

 体調回復まで、思ったようにまとめられなかったため、このブログで再三「今年は個人発表する」と繰り返しながら、ここ4年ほどブランクが空いている。

 私の現場臨床における関心がうつのクライエントさんをいかに支援するかに重点が置かれ、フォーカシング指向心理療法に関しても「そのために」いかに役立てられるかという観点から探求の試みをしている最中である。

 それを構築するためには、まだまだうつ医療や認知行動療法をはじめとする様々なアプローチについての膨大な文献を読むことになるだろう。

****

 だから、今回は控えめにお伝えしておくと、来年の人間性心理学会第29回大会は、何しろ久留米から特急で1時間弱の熊本大学であることは確定しているので、そこで「何かについての」個人発表はします。これはうつに関するテーマをおもてに押し立てるかどうかは未定くらいに考えておきたい。

 ところが、更に翌年、2011年の日本心理臨床学会第30回秋季大会は、どうも九州大学が当番校になる可能性が高いそうですね。

 少なくともこの段階までには、「うつ」というテーマに関する私なりの現場臨床での実践のとりあえずの「総まとめ」を「学界で公表できること」を目指そうと思います。

*****

 ともかく、「うつと働き方を語る会」立ち上げ準備までのプレッシャーからは解放されました。

 私の、このブログでの立ち振る舞いも、10月は、別の意味で"Next level"に変容するかもしれません(^^;)

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2009/09/29

「久留米でうつと働き方を語る会」設立

 私自身が、うつの皆様のためのサポートグループを立ち上げさせていただくことにしました。

●久留米でうつと働き方を語る会

 詳しくは上記のサイトを読みいただくので十分なのですが、今回だけその要約版を転載させていただきます。

******

■設立の趣旨

 今日、うつ病は、以前よりも軽症化してきたと言われつつも、中年期からの病ではなくなり、若い頃からはじまり、何年も、容易に平癒し得ないまま、闘病生活を続けておられる皆さんが増えています。
                   
    更に、昨今の不況と雇用情勢の悪化の中で、厳しい労働条件の下で、ご自身なりの働き方の活路を見出せないまま、復職と休養を繰り返しておられる皆さまが少なくないようです。
                   
 欝に関しては、ここ数年、マスコミや書籍、インターネット上での情報量は飛躍的に拡大しました。しかし、うつ病のあり方そのものが時代と共に変化している真相について、ほんとうにバランスよく解説した情報資源はなかなかない現状のように思います。
                   
    そうした中で、うつ、および広い意味での「気分障害」と診断された方ご自身、そしてご家族や知り合いの皆様は、情報の波に翻弄されておられることかと思います。
                   
 一方、こうしてうつの患者さんが増えていく状況のあおりを受けて、精神神経科や心療内科を受診する患者さんの数は日増しに増加しており、心あるお医者様の尽力にもかかわらず、患者さんおひとりとお医者様が診察時にできるコミュニケーションの時間が減少する傾向があります。
                   
 うつ状態というのは、実際に当事者になってみないとその状態が実はどんな「心身の実感」を伴うものなのかわからないところがあります。理解ある家族や同僚に囲まれておられても、ほんとうのところは伝えきれない「何か」を内に秘めておられる皆さまは少なくないかと思います。
                   
    そうした皆さま同士がコミュニケーションするささやかな場を、地域に提供できないかということを、自身、鬱状態からの治療・回復を経てきた臨床心理士である私は考えるに至りました。
                   
   ひろく参加してくださる皆様を募集いたしますと共に、協力してくださる専門家の皆様、こうした活動をはじめることを広めてくださる皆様を求めています。
                   
                                       代表 阿世賀浩一郎

*****


■スケジュール

  • 第1回は、10月25日(日)開催予定です。
                       
  • 原則として、毎月最終日曜日、13時30分から16時まで開催予定。                   

■参加費

 1回 1,000円(独立採算制の非営利グループ(独立口座を作り、会計を参加者に公開)とします。


■対象者

  1.  医療機関で、広い意味での「気分障害(大うつ病、双極スペクトラム障害、気分変調性障害、双極性障害「2型」、非定型気分障害等)」、ないし「適応障害のうつ状態」と診断され、「現在も通院継続中」当事者の皆様。

     ただし、双極性障害「1型」等の診断をお受けの方の参加はご遠慮ください、(詳細についてはグループ規約をご覧下さい)。
                                               
  2.  まだ医療機関での受診暦はないものの、ご自身がひょっとしたら「うつ状態」になりつつあるのではないかという不安をお感じの皆様。
                                               
  3.  満18歳以上で、バイトでも結構ですので、「社会人経験」がある方とします(自営や専業主婦の方も含まれます)。
                                             
  4.  また、こうした障害を抱えた方を身内にお持ちの「ご家族」の皆様の、単独での参加も歓迎いたします(将来的には「当事者会」と「家族会」の分離も検討します)
                                             
  5.  地域に密着した活動を目指していますので、原則として筑紫平野(福岡県筑後平野と佐賀県佐賀平野)の近辺にお住まいの方を優先したいと思います。


■グループ内での守秘義務

  1. クループに参加したメンバー同士の守秘義務を重視したいと思います。

       代表である私も、この会で参加者の皆様によって語られた「具体的な内容」については、個人ホームページや開業サイトなどの開かれた場で一切報告いたしません。
       参加者の皆さんにも、この点でご協力お願いいたします。
                                                                               
  2.  具体的に「どこで」カウンセリングや医療を受けているかについては、お互いに一切、グループの場でやり取りしない約束にしたいと思います。                        
                                                       
  3.  代表である私も、グループの場で特定の病院を批判したり推薦する発言は一切いたしません。                          
                                                       
  4.  このグループはあくまでもうつの当事者、およびご家族が、うつにまつわる個人的な生活上の問題をめぐって相互交流する場です。

      それ以外の商業・政治・宗教・趣味同好会等の宣伝・広報・勧誘についての言動や配布物の配布を一切禁止します。
                             
      そうした参加者の方は即刻ご退去をお願いし、それ以降の参加をお断りする場合もあります。

■グループの進め方

 基本的には、「非構成的エンカウンターグループ」に準じるクループ形式とします。
                     
  まずはひとりひとりの参加者の皆様が、他の参加者の前で、自分の思いを語る場になることを重視します。
                     
   一定の課題やワークを提供するセミナーやワークショップとは一線を画したいと思います。
                     
   そして、一人の参加者の方が話をしている間、臨床心理士である私が、まずはしっかりとした「聴き役」として機能するファシリテート(グループの「場」と「機能」を安全に維持・促進するための言動)を重視します。
                     
   参加された方全員が、思いを語れる場になることを大事にしたいと思います。


■本グループのネット上の活動について

  1.  募集等の情報告知のための独立したウェブサイトを立ち上げます(リンク先のサイト)。
                                                                                 
  2.  しかし、会の活動が少し活性化すると「誰かが燃え尽きる」危険が容易に生じるのがこうしたグループの常です。
                             
     会としての公式の「ネット上の『相互』交流活動(メーリングリストやネット掲示板やブログ、チャット、Twitter、ソーシャル・ネットワーキング・サービスにあたるもの)」を、参加メンバークローズドのものを含めて、一切開設しないことを考えています。
                             
       リアルワールド(現実世界)での、毎月1回、決められた時間の範囲内での、フェイス・トゥー・フェイスで顔を合わせる場こそ、このグループの大事な「枠組み」としたいのです。
                             
       それに、そもそも、これ以上、「夜更かし」の種を増やしかねないことだけは、お互いにやめようではありませんか!
                                                       
  3.  例外として、それまでに参加された皆様でメールアドレスをご登録いただけた方に対して限定的に発行する、開催日程をお知らせすることを主なる目的としたメールマガジンは開設するかもしれません。                     

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2009/09/28

児童福祉施設での施設内暴力

 この言葉を聴いて、皆様は何を連想されるだろうか?

1. 「施設側の職員が入所した子供たちに暴力を振るう」

・・・・・これはこれで由々しき問題であり、現実に存在し、あってはならないことである。

2. 「入所した子供が、他の子供に対して、職員の目の届かないところで、陰湿な形で暴力をふるう」

・・・・・これも歴然と存在する。その中身は、とてもこのブログで具体的にご紹介できないくらいに陰惨な性質のものである。

 しかし、もうひとつ、現状ではあまり問題にされていない、凄まじい次元のものがあるのだ。

3. 「入所した子供たちが、集団で職員を袋叩きにする」

 こうしたことは、例えば少年院などの、法的に厳重なシステムがある空間では、まだしもそれを制御するシステムが機能する。

 ところが児童施設という「福祉」の領域に突入してしまうと、この問題について、誰が、どういう形で介入し、単に個々の入所した子供への対応を超えて、施設の態勢そのものの改善に向けてのチームワークを生み出すのか、そのための方法論はまだまだ未整備らしい。

 この領域に、敢えて臨床心理士の立場で取り組み、「安全委員会」方式という手法を編み出し、更に、こうした問題意識を持つ施設間の全国的ネットワーク作りに現在力を入れておられるのが、私の敬愛する、九州大学の田嶌誠一先生である。

 田嶌先生の、この、施設内暴力問題への取り組みは、福祉の領域にも様々な波紋を巻き起こし、毀誉褒貶著しい状況にあるという。

 しかし、先生は言われる:

 「まずはこの問題について賽を投げることが私の役割。それに対して様々な立場から色々な意見が出るのは当然のこと。そうやってこの問題についての事態が動き出し、いろいろな人が知恵を絞り、相互のネットワークが全国的に機能すようになれば、私のとりあえずの役割は果たしたことになると思っている」

*****

 更に次のようなお話もうかがった:

 「今の時代、臨床家の養成は、だんだん『専門学校化』している気がしてならない。それでは、単にすでにフォーマットがあるスキルを身につけた一団が生み出されるだけだ。

 しかし、そもそも、<臨床>とは、草創期においてはそうしたものではなかったはずだ。フロイトをはじめとして、まずは「<現場>での現実に具体的問題ありきであり、それを何とかしようという試行錯誤を重ねる。その取り組みは同時代の既成の専門家からは胡散臭い目で観られる。

 そういう「新たな問題意識そのものの開拓者精神」を育み、それまでに存在しなかったフィールドを掘り起こすことが、本来、大学という場でこそ成されるべきことなのだが」

*****

1103_2  すでに日本心理臨床学会第28回大会の会場の図書コーナーでご覧になった会員の皆様もあろうかと思いますが、田嶌先生が、この「施設内暴力」の問題を冒頭で取り上げる形で、この10年ほどの、不登校・引きこもり・大学学生相談・スクールカウンセリング・強迫症・など、様々な領域での具体的な実践の軌跡をまとめた新著が刊行されました。

 Amasonにも入荷 しました!!

●田嶌誠一:「現実に介入しつつ心に関わる -」(金剛出版)
ISBN:978-4-7724-1103-5

 目次だけ拝見しましたが、近年の「心理臨床学研究」の田嶌先生のご発表や論文でおなじみの、あの、「節度ある押し付けがましさ」をはじめとする、田嶌先生の生み出した用語も満載の本のようですね。

【追記】:その後、光栄なことに、田嶌先生ご自身にこの本を贈呈いただきました。感謝いたしております。近日中に、僭越ながら感想をこのブログで書かせていただくつもりです(09/10/30)

*****

 以上、昨晩、田嶌先生と福岡で直接お会いしてうかがったお話でした。

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2009/09/27

なぜイギリスで認知行動療法が「国定」心理療法になれたのか。

 以前、NHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」についての特集連載をした時にも言及しましたが、イギリスでは2002年に国会審議を経て法案が通過したことを期に、認知行動療法のみが、公的保険の適用対象になる医療制度が始まりました。

 これに関して、私が開業サイトこの記事でコメントとして掲載した内容が、今でも開業サイトのアクセスNo.1を継続的に維持しているにもかかわらず、こちらのサイトでは同じ内容は掲載しないままであることに気がつきましたので、これを機会に若干それに手を入れて、転載しておきたいと思います。

------以下引用------- 

 その後調べましたが、イギリスの場合、サッチャー政権以降、医療は、民間病院で全額自己負担で受けるか、地域の定めあられた公的な病院(イングランド地域ではNational Health Centerという名称)で無料の公的保険適用で受けるのかという、徹底した二者択一システムになりました。

 この結果、身体病に関しても、庶民が、高度な医療サービスを、公的保険が認めていないために、容易に受けられなくなる弊害すら生じているようです(この記事参照)。

 うつ病を含む薬物療法についても、公的保健医療において、SSRIなどの高額な薬を使わずに済ませたいという動向が、特定の、統計的に効果が高いとされるセラピー「にのみ」予算を投下したいという思惑を生んだ側面があるようです。でもそうした側面は日本では全く報道されていません。

 そうした中で、セラピスト養成システムそのものもシンプルに規格化しやすい認知行動療法セラピストの国家的養成という大胆な試みに進んだところがあると思います。

 つまり、医療保険制度の、イギリスと日本の基本的な違い(更にはイギリスが相変わらずの「階級社会」であること)という問題に踏み込まないまま、このことを議論できないという当面の結論に至りました。

*****

 記事でも書きましたけど、リサーチ上のデータのことを問題にする際に、「他の」心理療法(精神分析やクライエント中心療法)を行なった場合との「比較検討」という統計資料をまだ目にすることができていないのです。これは、もし存在するのなら是非目にしたいのです(この点については、何の皮肉も込めることなく、そう思っています)。

 私自身、認知行動療法的アプローチに関心を抱き、現場臨床に生かすことについてはむしろ積極的な立場ですらありますが(こちらからの連載記事も参照下さい)、この点だけはどうしても申し上げたくなりました。

*****

 今の時代、薬物療法なしで鬱の治療ができあるという触れ込みをする機関の大半には眉にツバをつけるべきかと思います。適切な薬物療法がなされれば、確かにうつ病の改善を支援する重要な効果があるのです。

 ただし、SSRI等の狭義の抗うつ剤「それ自体」によって鬱の治療が改善するのは統計的には30%ぶんの効果にしか相当しないそうです。狭義の「抗うつ剤」以外の薬、すなわち、リーマスやデパケン等の気分スタビライザー、睡眠誘導剤、抗不安薬(旧来「マイナー・トランキライザー」と呼ばれてきたもの)、場合によっては非定型精神病薬などを含めた絶妙なカクテルを、その時の状況に応じて適切処方するお医者様の技量、生活や睡眠リズムのコントロール、休息とお医者様との診察時の話し合いという「医師という名の薬」の果たす役割が大きいことは言うまでもありません。

 極論すれば、流派に関係なく、どんな流派の心理療法やカウンセリングであろうと、ある一定水準の技量に達しているカウンセラーが、治療段階の適切なステージで実施する限り、薬物療法との併用で改善効果を「促進する」ことは、ほぼ間違いなかろうと思います。

 (認知行動療法ですら、まだ重度の段階にあるうつ状態の患者さんや、不安障害、パニック障害なども併発している患者さんに性急に適用すると病状を悪化させる危険があることが知られています)

 つまり、認知行動療法の研究者だけが、統計データを取ることに熱心である・・・・ただそれだけの違いであるに過ぎないのではないかという疑いが私の脳裏を去りません。

*****

 もっとも、私は、同じ心理療法流派の中でも、いいカウンセラーとそうでないカウンセラーの落差の方がよほど大きいと思っていますし、いい現場セラピストは、ある特定の流派の療法だけでカウンセリングを進めているなど、実はあり得ないわけですが。

 更に言えば、カウンセラー自身が、薬物療法についてのきちんとした認識を持っているかいないか、患者さんと医師との関係つくりをサポートする能力の違いという因子が絶対に大きいはずと考えています。

 こうした点で、医師とカウンセラーの連携についてのシステム作りおよび研修のあり方、更に言えば、カウンセラーに対する精神医学の教育のあり方、日本ではまだ非常に未成熟な段階にあるとも感じられています。

 今、やっと、日本医師会と日本臨床心理士会がいい意味での協調体制を取れる時代が訪れたようです。専門職大学院教育で、医療系大学院と臨床心理系大学院のクロスオーバーな連携は、やっと九州大学をモデルケースとして開始されたばかりです。

 そうした中から、医療と心理療法の好ましい連携スタイルが生まれてくることを信じたいと思っています。

*****

●参考資料:

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2009/09/26

「悪いなりによい」という長嶋氏の言葉 -NHKスペシャル「シリーズ ONの時代」より-

 今日は朝早くから所用があって、昨晩早めに就寝しているので、こんなとんでもない時間に記事を書くことになりますが。

 これまたHDレコーダーに録画しまたままになっていた、NHKスペシャル、「シリーズ ONの時代 第1回 スーパーヒーロー 50年目の告白」について書いてみたい。

 この第1回は、戦後を代表するスーパースターである王と長嶋について、本人たちへのインタビュー、当時の関係者の証言、関係者やご本人が当時書いていた日記などの資料を基に、「天才」長嶋、「努力の人」王という既成イメージについて認識の転換を図ることを企画の趣旨としている。

 私は格別の野球ファンではなく、そもそも野球の試合を球場まで見に行った経験が皆無の人間である。それなりに野球中継をテレビで観戦していた時期もあるが、それが習慣化していたほどの時期はない。

 しかし、1960年生まれの私にとって、王と長嶋が、子供時代からのスーパーヒーローであったことには変わりがない世代の人間である。

 当時は、何かにつけて、テレビでのプロ野球中継は、NHKを除けば巨人戦に異様に偏していた時代であり、現在からすれば信じられないぼどに「巨人ファン」が日本人の多数派を占めていた。そしてその巨人軍の中の別格的な花形スターが、長嶋と王だったわけである。

*****

 この番組では、まずは「天才」といわれた長嶋が、実はいかに影で努力を重ねる人であったかにスポットライトを当てる。しかし彼は一度出来上がってしまった、明るくて陽気で、ここぞという場面でのいい意味でのスタンドプレーで観客を沸かせる「天才・長嶋」という大衆のイメージに応え続けるために、人目につかない場所を敢えて選んで、試合のあと何時間も個人練習を重ねてていたという。

 他方、王は長嶋とコントラストをつけた巨人のもう一枚の看板としてのイメージを植えつけて報道したいマスコミの意向によって、努力と根性のまじめで実直な人間というイメージを求められてしまった。ところが現実の王貞治は、特に入団当時は、彼の素質を見抜いた川上監督によって、彼のために招聘されたと言っていい荒川コーチからも眉を潜められるくらいに、「自覚がない」、結構ルーズな人間だったという。成績も、期待された割には、入団3年間は振るわなかった。

 「ただ、荒川コーチの指導に受け身に随き従っていただけ。自分がどのように野球選手として生きていくのかのビジョンそのものが抱けていなかった」と、当時を振り返って王氏は語る。

 こうした本音の次元での王の野球選手観は、近年、巨人の選手がスキャンダルを起こした時の、ざっくばらんな発言などでも世に知られるところであろう。

 その王に転機が訪れるのは、荒川氏の指導の下で一本足打法を確立してホームラン王になり、更に年間55本という、日本のプロ野球新記録を確立した頃からであるという。

 自分には長嶋のような華やかさはない。ホームラン王だけは誰にも譲らないということにプライドを持って生きることにしよう・・・・彼はそう思い定めたのである。そして、マスコミやファンから投影される、「実直な人格者」というイメージを自ら進んで受け入れて、公衆の前で演じて生きて行く決心をする。

*****

 その二人に共通するのは、当時の日本人の大衆娯楽の頂点のひとつであった「巨人戦のテレビ観戦」という大舞台において、大衆が自分たちに期待してくるスーパーヒーローとしてのイメージを決して裏切らないプロのパフォーマーとしての完璧性を、どこまで毎年コンスタントに持続できるかにひたすら心血を注いだということである。

 自分たちの双肩に、多くの日本人の生きる希望がかかっている。長嶋や王が頑張り続けているから、夢と希望を失わない人たちが日本にはいっぱいいる、それが二人に乗しかかり続けた圧倒的な重圧であり、なおかつ2人の生きがいでもあった。

 恐らく、ここまで、スーパーヒーローとして大衆が期待するイメージを損なわないプロ競技のパフォーマーであることに、非常な高次元で、しかも長期間にわたって応え続けることができているのは、その後イチローだけであることは衆目の一致するところではなかろうか。

*****

 70年代後半に入り、長嶋にも、徐々に年齢から来る体力の衰えが忍び寄る。打率もどうしても3割に届かないまま低迷し始める。

 しかしそれでも長嶋は努力を重ねつつ試合に出場し続ける。

 彼はこの段階で次のような心境に達していたという:

 「悪いなりによい、と思えれば次(の試合)に出ることができるようになった。いい(状態が続いていた)場合には、そういう気持ちは出ないのよ」

****

 これは、僭越ながら一度鬱に罹患して以降、ある意味で自分が絶好調になることなど、少なくとも当面は訪れないと見定めた私個人の心境とも非常にフィットする。

 それこそ、我ながら、最近のブログの記事の非常に引き締まった文体と内容水準の安定した「打率のよさ」という点では、ここしばらくの私は過去最高の安定度があるかに見えることは自分でも自覚している(人によっては、やや「鬼気迫る」とお感じの方もあるかもしれないけど、恐らくそうした成分の半分はそういう方ご自身の「投影同一視」ですって)。

 しかし、それは、生活の中で睡眠時間を十分に規則的にとり、食生活にたいへん気を配り(何とこの齢にして自分で料理するレパートリーを広げつつある。毎食ごとにサラダボール一杯分の各種野菜を素材に欠かさず、容易なことにはレトルトに依存しない・・・・というか、もうレトルトの人工的な味が嫌いになっている)、生活の中から不要なものをとことんそぎ落として、現実にクライエントさんにお会いする時間に心身の余裕あるピークを持ってくること、精選した読書や映画鑑賞、そしてできあるだけ毎日、限られた時間でも庭いじりや自転車で乗りまわす形で外出すること、更に、今構想中の新たな地域活動についての下準備をすること、そして気の置けない親友との毎日のようなネット通信を通しての定期的な対話、そしてこのブログの執筆ですね・・・・これだけで私の毎日は非常にシンプルに、しかし常に10%の余力を見失わないように警戒しながら、淡々と繰り返されている。

 長嶋氏と我が身を引き付けるのはたいへん僭越であるのは承知だが、5年前の脳梗塞からのリハビリを毎日続けておられる長嶋氏の、この「悪いなりによい」という言葉に、非常な共感を感じずにいられなかった私がいること、これだけはどうしてもお伝えしたくなって、キーを叩いた次第である。

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2009/09/25

「おくりびと」・・・・臨床ということ

 日本映画の最高の金字塔のひとつというべき「生きる」に引き続いて、同様に「死」をテーマにしつつも、黒澤監督もなし得なかった、アカデミー外国語映画賞を受賞したばかりのこの映画を鑑賞するというのも、何とも味があるものである。

 

おくりびと [DVD]

 先日「完全版」がテレビ放映されたものをHDレコーダーに録画しておいたものをやっと観たのだが、どうもDVD版での一部シーンのカットを惜しむ声も少なくないようなので、むしろこうした形で観ることができたのは幸いなことかもしれない。

*****

 今回は、またもやや私的な次元からの感想として書かせていただく。

 ただし私自身の近親者や関係者の死の問題と絡めるようなことはしませんのでご安心を。

 私は臨床心理士であるが、「臨床(clinic)」とは、本来「ベッドのそばにたたずむ」という意味のみならず、「死に至る患者さんのそばに臨(のぞ)み続ける」という含蓄が込められていた言葉であるという。これは確か中井久夫先生の著作のどこかで読んだことである。

*****

 私の業界では、「臨床」という言葉を意識的に使う時には、カウンセリングや心理療法などを通して、ひとりひとりのクライエントさんと向き合う現場を持っている・・・という含蓄で使われることが多い。

 つまり、机上の学者などではないということである。

 もっとも、今日指定校大学院で勤務されている先生方は、むしろそうした意味での臨床現場のプロだった先生方が「請われて」教職に身を転じられたケースが増えてきているので、以上のことは別に揶揄のつもりで申し上げているつもりはありません。

 むしろ、大学という組織の煩雑な雑務に忙殺されるくらいならは、臨床の現場にあと少しでも立ち戻れれば・・・という引き裂かれる思いも感じておられる中堅の先生方も少なくないのである。

 実際、「あの先生はついに大学教育の場に向かわれた」という情報を耳にしたと思っていたら、いつの間にかほんの数年のうちに教職をお辞めになり、またもや現場に戻られてしまった、功成り名を遂げた筈の臨床家の先生の再度の転身に驚いたこともある。

 もとより、ご本人の意思ばかりではなくて、「先生がいないと現場が成り立たない」という切望もあったのではないかと推察もするのだが。

*****

 医師という身分は、実は日本でも欧米でも、実は必ずしも敬意を払われる仕事として歴史上一貫して見なされてきたわけではない。「鍼灸師」「マッサージ師」などと同じように「士」ではなくて「師」の字が長い間通称としてあてがわれてきたことの中には、実は必ずしも階級が高くない、表舞台に登場する性格のものではない「日陰の職人」であるに留まるという含蓄がある。

 この、「師」と「士」の字の含蓄の違いについて私に教えてくれたのは、何と私の父である。父はそこから「だからお前は医者より偉いんだ!」という凄まじい論理展開で私に発破をかけてきたのだが、お医者様の皆様、これはあくまでも個人開業(私設心理臨床)している私への、父の溺愛のなせる技とお許し願いたい。

****

 この映画の中では、従来注目を浴びていなかった「納棺師」という職業にスポットライトが当てられているわけだが、「死人と接せざるを得ない」という点では大抵の医師と納棺師には共通項がある。

 何しろ、日本の法律上は歯科医師にすら、役所に提出する死亡届に必要な死亡診断書を書く公的な権限が、今でもあるのだ(このことの是非はとりあえず置くとして)。

 私のような臨床心理士も、少なくとも「死にたい」というクライエントさんからの訴えや、かつて自殺を考えた、試みた、あるいは重い身体病を乗り越えた、今も身体の中に「爆弾」をかかえているというお話、あるいは肉親や知り合いとの死に目のお話をうかがわない日はないと言っていい。

 そして・・・・実は今や脚光を浴びる仕事となった臨床心理士(もっとも、職場を得て、安定した生計を成り立たせることの大変さも知れ渡りつつあるが・・・・)においても、実は、ひと皮向けば、普段「おかしい」人たちばかりを相手にしている、だとか、人の泣きごとを聴くだけでお金を取る人種だとか、ほんとうは社会や家族、地域共同体が背負うべき、悩める人や行き詰まっている人たちを有料で救う専門家が存在すること自体が、人間疎外を更に押し進めるシステムだとか言われる立場にあり、実は「世間の普通の人がやる職種ではない」という偏見にさらされているのである。

 「私、臨床心理士になりたい!」と肉親に口にした途端に、この映画の中の主人公の妻が夫の職業について知った時に示した拒絶反応と実は似た体験をされた、心理臨床志望の若き人は決して稀ではないはずだ。

 その理由は、単に大学院まで出る学費や収入的な安定という面での懸念などではとても説明し尽くせない、「生理的な嫌悪」を感じさせられる世界に、自分の子息が身を投じたがっていることへの困惑という側面が内包されていることが多いのではないかと、なぜかこの映画を見ている中で気づかされた。

****

 この映画は観た人が少なくないでしょうから、ここからはネタバレになることをお許しください。

 広末涼子が演じる妻は、本木雅弘演じる夫がやっているのが納棺師だと気づく前は、直前に絞(し)めて捌(さば)いたばかりの鶏を目の前にすることに何の抵抗もなかった。それどころか、買ってきた蛸が「まだ生きている」ことに気がついた時に悲鳴を上げた。

 つまり、私たちの多くが、普段肉食(にくじき)をする際に、それが「死体」に他ならないことを忘却しているのと同じ次元に生きていたのである。

 この映画で殊に印象的なシーンのひとつが、社長と主人公たちが、

「うまいか?」

「困ったことに」

などと対話しながら、進んで肉食を繰り返すシーンであることは衆目の一致するところであろう。

 私はベジタリアンを貫こうとする人を揶揄する気はもともとない。中には健康上の理由からベジタリアンを貫くひともあろうが、欧米ではベジタリアンでありながらもキリスト教徒である人は少なくないかと思う。

 ところが、キリスト教という宗教そのものが、「我々の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエス」への信仰であるばりか、多くの宗派において、「聖餐」という儀式を大変重視するものである。

 これは聖書に伝えられる「最後の晩餐」におけるイエスの発言に基づき、ワインをイエスの血、パンをイエスの肉として口にする儀式である。多くの宗派の公式の教義では、聖別されたワインとパンは、まさにイエスの肉体そのものなのであり、決して「象徴的な表現」などと見なしてはいないそうである。

 実はイスラム教徒は、このあたりを指して、「キリスト教は教祖の人肉を食らう野蛮な宗教」と喧伝した時代もあるとのことである。

****

 こうして私は、敢えて仏教的・東洋的な発想から一定の距離を取ったままこの映画についての小考察を進めてきたが、そろそろ、私なりの言葉で、今回書きたかったことの核心に触れていこう。

 人は、他者の生命の犠牲の上に立ってしか生きていない存在である。

 いかに自立・独立を尊ぶ人でも、一切の衣食住をすべて自分で賄(まかな)って生きる、ロビンソン・クルーソーのような生き方をしているわけではあるまい。

 人は幼年期を脱した後も、何らかの意味で他者に「寄生して」生きているのである。収入を得られるいうことは、回りまわって、誰かがお金を出してくれたということである。

 誰もが「人の生き血を吸って」生きている。このことに貴賎はないと思う。

 臨終から葬儀、火葬、埋葬、そして追供養と続く一連の儀式は、悲しむための儀式ではない。むしろ悲しみが感謝に昇華される過程となるのがふさわしいのだろう。

 「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」といった古語の意味を探っていくと、これらが自然と融合する接点が出てくるようである。

 死や病が日常世界から隠蔽され、不死と無限の健康へのファンタジーが満ち溢れかねない時代(今度の不況で、そこに少しブレーキがかかったかとは思うが)であればこそ、病や死と日常の間にある、目に見えない「門」をつなぎ、その間にさ迷うしかなくなっている、個々人の「成仏できない思い」の仲介者となる「渡し守」が職業としても必要な時代なのだとも思う。

 それはむしろ、個々人日常生活の中に、そうした「愛(いと)し」「恋し」「哀(かな)し」の思いが行き交う世界が復興するための、ささやかなお手伝いなのだと思う。

*****

 BGMは、中島みゆきの中島みゆき - 歌でしか言えない - 永久欠番「永久欠番」ということで。

 ・・・敢えて、「生きる」の記事ではなくて、こちらの記事の方に。

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2009/09/24

「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトのデザイン変更をしました。

 こちらのサイトと同じように、読者の皆様の方のブラウザ表示の横幅にフレキシブルに対応して、一行あたりの本文文字数が増減するスタイルにしました。

 どうも、この表示の方が、「ブログ的」というより「ウェブサイト的」にスッキリと表示される気がして、やってみたのですが、いかがでしょうか?

 ただ、こっちがグリーン系ですから、区別がつきやすいように、開業サイト側はブルー系にしています。

 こちらからご覧下さい。

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「生きる」

 言うまでもなく、黒澤明監督、1952年の名作である。

(Blu-ray) (DVD)

 先日、「死ぬまでにしたい10のこと」について書いた時(こちらを参照)、やはりこの種のテーマについての古典中の古典だし、BS等で放映された黒澤作品は結構観て来たはずなのに、この作品だけはなぜか見る機会に恵まれていなかったこともあるので、一緒に借りてきていた。

 有名なブランコのシーン以外にも、個々のシーンのいくつかに見覚えはあるが、恐らく黒澤作品についてのドキュメンタリーなどで断片的に紹介されていたのを観ただけだろう。実際にテレビ等で見たことがあれば、全編を見ていくうちに容易にデ・ジャ・ビュー感が蘇ることが多いし。

****

 この映画の一番凄いのは、志村喬演ずる市民課長の主人公が癌で死んだ後で、残された人々・・・・上は市の助役から、他課のトップ、部下たち、そして直接の遺族、更には・・・あ、コレはさすがにネタバレ避けます・・・との間で延々交わされる、故人を偲んでのやりとりと、それら個々の人が思い出していく、生前の主人公の振る舞いについての回想をクロスカッティング的に差し挟みながら(厳密には「クロスカッティング」とは、同時進行の別のシーンを行き来する場合らしいが)進んでいく「最後の40分」(全体では2時間半の映画である)に尽きると思う。

 このことは映画通には知れ渡ったことで、映画の作劇術の鮮やかさについては語り尽くされてもいるようだけれども、私なりの言葉で書いてみたい。

 ここでなされる対話の辛辣なリアリズムにはほんとうに舌を巻くしかない。これだけ大人数の役者が重ねる議論、ちゃんとひとりひとりの立場と性格の違いまで完璧に計算され尽くしている。脚本術の高さという点では想像を絶すると思う。

 話がひとつの方向に収束してみんな納得するという流れにはなかなかならないのだ。繰り返し繰り返し、そこに集う「お役所公務員」の骨の髄まで食いいった、「職場で勤め上げようとすれは、何もしちゃいけない」という適応スタイル、他部署との縄張り意識、選挙対策まで持ち出す「一見もっともらしい状況分析」が、いやらしいまで議論を元の木阿弥にしてしまおうとする。

 ほんとうにお通夜の席で、このような、ほんとうにうねうねとしたやり取りが延々と続いていても何もおかしくはないというくらいにリアルである。

 この、集団での対話の異様な生々しさの背景には、この映画製作直前の時期まで続いた東宝の労働争議を目の当たりにした中で、黒澤をはじめとした製作スタッフが肌身に染みて感じた事柄も、ダイレクトに反映しているのかもしれない。

 もとより、こうした寄せては返すような膠着スレスレの対話を重ねる中で、それぞれの周囲の人物の中に残っていた、忘れかけていた記憶の断片が蘇り、皆の中でシェアされていくうちに、ジグソーパズルは徐々に完成され、故人の生き様とその動機が何だったのかについて、やっとひとつの立体的な像を結び始める。

 遺された人々の記憶を寄せ集めて、共有する中で、はじめて故人の「生きる」姿が再建されるのである。

 故人はもちろん自殺ではない。しかし、それはまるで自殺者の周囲に残された人々のケアのためのpostvention(詳しくは高橋祥友先生の著作参照)の一環としてのブリーフィングの集いが理想的に機能したときに生じる現象のようでもある。

 あるいは、ロジャーズにはじまる「非構成的エンカウンターグループ」において「クループの力」が徐々に生産的な展開を導き出すことも連想させる。

 もとより、それすら、その後に続くあのようなエンディングという形でしか描かないあたりにこそ、それは観客ひとりひとりの「生きる」あり方の問題ということを最後に突きつけているのだと思う。

*****

 それにしても思う。

 人は、自分のできる領域の中でこそ、何かを成さねばならない。

 もとより、たったひとりの人間の意志だけでは世の中は動かない。

 でも、誰かが強い意志を持って他者に働きかけ続けないことには、周囲の人間も動き出さないということ、それは信じていたい。


*****

※引き続いて、「おくりびと」の感想がこちらにあります。

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2009/09/23

双極性2型障害は、旧来の「躁うつ病」とは全く異なる疾患である・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」 書評 (第3回)

  内海健先生の「うつ病新時代」への書評、前回に続く第3回です。

  この著作についての連載は、ほんとうに思い出したように続けられると思います。

 ともかく、私がこれまで読んだ本で、折りしろをつけたページ数が過去最高・・・・といいますか、つけなかったページの方が2,30ページしかないという、とんでもない読み甲斐を感じている著作なので・・・・・

*****

 この連載(それどころか、更にその「見切り発車予告編」というべき私の私論そのもの)において、「双極性障害II型」とはどんなものか、特に、昔から存在した「躁うつ病」、すなわち双極性障害「1型」とどう異なるのかについての具体的解説抜きではじめてしまった点、一般読者の方には不親切であったかと思います。

 以下、内海氏の著作の内容から適宜要約しながら解説してみましょう:

 「典型的な単極性うつ病と、いわゆる躁うつ病、つまりは明確な躁病相うつ病相が交代する循環性精神病の狭間に、その両者に還元できない、独自の病態(p.24)」があることが認識されはじめたのは、1970年代になって、主として北米大陸においてである。

 一言で言えば、「うつ病相に、軽躁病相を併せもつ気分障害」の一群が認識されたのである。

 しかし、これだけでは、双極性2型を、単に「躁状態がさほど酷くない躁うつ病」とだけでとらえられてしまう可能性がある。

 実際、II型についての解説書の多くは、「本格的な躁状態のように、社会生活や対人関係に著しい障害をもたらすところまではいかない水準に留まる」などという表現を使いがちである。

*****

 この点で、ひとつの集大成を成し遂げたのが、1983年に、「双極スペクトラム障害」概念を提出したアスキカルである。

 「スペクトラム(spectrum)」という用語が入るのは、従来「気分変調症(dysthymia)」「気分循環症」、そして「双極2型」障害と呼ばれてきた病態が、ひとつの連続体を成していることを指す。

  「スペクトラム」ないし「スペクトル」という言葉に私たちは学校教育の現場で一度は接している可能性がある。少なくとも私の世代に中学の理科の時間では、プリズムによる太陽光の分光投影の実験を通して「虹は決して7色に分かれてはおらず、連続的な色の変化であり、色とはそもそも光の周波数の違いであり、太陽光にはそれだけ多種多様な周波数が同時に含まれているということなのだ」ということを教わった。それを思い出していただければと思う。

  「彼はまず、従来『抑うつ神経症』ないし『神経症うつ病』と呼ばれてきた慢性の抑うつを示す疾患に、双極性の気分変動を示す群を見出した。

 この病態は、その名が示すように、従来、内因性ではなく、神経症性、あるいは性格的な要因の強いものとされてきた。

 アスキカルはそこに内因性の変動を認め、REM睡眠などの生理的な指標も内因性気分障害の病態と同じ傾向を示すと報告した」(p.26)

 以前もお書きしましたが、私がお会いしてきた「双極性2型」ないし「気分変調性障害」と診断された皆様の中には、どうも、全身の筋肉を弛緩させてりラックスさせる、抗不安薬の機能を合わせもつタイプの睡眠誘導剤だけでは熟睡できない方も少なくないようである。

 (まして、双極性2型障害の診断がふさわしい人に、気分スタビライザーなしで、古典的な抗不安薬だけしか処方していない例は、最近さすがに減ってきたはずだ。ところが、私が久留米に移ってお会いしたクライエントさんの中には、通院暦数年、3件連続で気分スタビライザーも抗うつ剤の処方も全くないまま、抗不安薬中心の処方が続き、1年ほど前、4件めにしてやっと気分スタビライザーを核、本格的睡眠導入剤も加えた形への処方大変更がなされ、はじめてかなりの程度安定されて、お抱えになっていた現実の諸問題・・・誰から見ても深刻なストレスの供給源、現実環境の中での悪循環的相互作用といえる水準のもの・・・の解決のために、カウンセリングというものも受けてみようという決心をされて、お探しになったそうである)

 つまり、お医者様が、その人に適合した具体的な薬の組み合わせで、脳そのものの活動を睡眠に誘い込むタイプの「本格的」睡眠導入剤と、気分スタビライザーを併用する処方をされていた場合にはじめて、ある程度気分の波を穏やかにできているケースが少なくないようである(三環系抗うつ剤やある種のSSRIは、使いどころを間違えれば、双極性2型の人の軽躁のそもそもの始まり誘発するリスクが高い

 ・・・・こうしたことも、「REM睡眠などの生理的指標の点でも内因性」というアスキカルの指摘と重なるのかもしれない。

*****

 いずれにしても、特に北米大陸では、双極性スペクトラム障害は、単極性うつ病と、すでに対等な有病率を持つと推測されているそうである(p.27)。

 (このことと、アメリカを中心に吹き荒れた、子供から思春期の事例に対する過剰な「双極性障害」診断の不要なまでの連発というスキャンダラスですらある問題・・・これについては、加藤忠志著「双極性障害―躁うつ病への対処と治療 (ちくま新書)」のpp.47-51に詳しい・・・は切り離してとらえるべきであろう。)

 本格的な躁うつ病(1型)は、人類太古の昔から存在するにもかかわらず、両者の数分の1しか実数はいない。

*****

 いずれにしても、内海氏は、双極2型を、単極性うつ病と双極1型(躁うつ病)との間の単なる中間形ととらえるような折衷的な考え方に異議を唱えている(p.29)。

 それどころか、

  「双極性II型障害は、『うつ病』や『躁うつ病』という明確な臨床概念が、かえってその明確さによって隠蔽してしまったかもしれない、そうした気分障害の多様性を担っているのである。

 この第一の発想の中には、実は『純粋な単極性というものはない』、という考えが含まれている。

 気分障害である以上、多寡はあるにせよ、何がしかの双極性の成分が含まれている。

 すなわち、『汎双極論』である。

 それゆえ、双極スペクトラムとは、[単極性]うつ病とは異なった類型を指すと同時に、理屈の上では、[単極性]うつ病をもその中に包含するものである」(p.30)

 ・・・・こうして、内海氏は、現代のうつ病論の機軸そのものを、古典的なメランコリー型うつ病から双極性2型を範例とする方向に「コペルニクス的転換」をするという試みとして、本書の基本方針を位置づけて、第1章を終えている。

******

 さて、「躁」と「軽躁」とは単に量の違いではなくて、質の違いでもあるという点について、もう少し具体的に述べて行きたい。

 DSM-IVにおける「躁病エピソード」と「軽躁病エピソード」の診断基準の違いはほんの数項目である。具体的に言うと、長大なB項に続く残りの3分の1、C.D.E.(F)項にのみ記載されている。

 これらの中ではっきりとしたコントラストがあるのは「躁病エピソード」のD項=「軽躁病エピソードのE.項」のみである:

  •  気分の障害は、職業的機能や日常の社会活動または他者との人間関係に著しい障害を起こすほど、または自己または他者を傷つけるのを防ぐために入院が必要であるほど重篤であるか、または精神病性の特徴がある(躁病エピソードのD.項)
  •  エピソードには、社会的または職業的機能に著しい障害を起こすほど、または入院を必要とするほど重篤ではなく精神病性の障害はない(軽躁エピソードのE.項)
 

 ・・・・ここでいう入院が必要というのは、もし入院治療をしなかったら、1週間以上、本人を家庭や社会に放置できない水準の、本格的な「躁状態」が持続する懸念があるということである。

 もとより、内海氏は、このDSMの診断基準が、結局「程度の差」で本格的な躁と軽躁を区別しているだけであることに大いに限界を感じている(p.37)。

 ちなみに「精神病的」なものの有無というのは、軽躁の場合には、幻覚幻聴、明確な妄想状態などは生じず、現実吟味能力もある一線を保っているということである。

 内海氏もこの点は原則的に支持しているようだ。

****

 そうした中で、「躁」と「軽躁」の質的な鑑別指標のひとつとして内海氏が掲げるのは、観念や思考の「転導性」=「移ろいやすさ」である(p.40以下)。

 心理学を学んだ人が「転導性」と聴くと、ピアジェの児童期発達論における「転導的推理(trunsductive reasoning)」という概念を思い出される人もあるかもしれない(「私が幼稚園から帰ったから日が暮れる」・・・の類の、物事を具体的だが表層的な連続性などから理由付けること)。

 しかし、ここで内海氏が言わんとするいう「転導性」というのはピアジェのそれと少し似てもいるが、かなり異なる。 

 躁状態の場合、「観念放逸」と呼ばれる、話や行動が前後の脈絡が全然ない飛び方をする。そこには生産的なものは何もない。

 ところが、軽躁状態では、転導性は必ずしも明確ではない。軽躁状態でも微細な観念放逸や転導性がある場合もあるとクレペリンが観察してることを内海氏は否定はしないものの、軽躁を躁から区別する、より実践的なポイントとして、

「まとまった作業を遂行できること」

を掲げている。

 「場合によっては、注意が散乱するどころか、むしろしつこいと思われるくらいに、ひとつのことに執着する場合もある。

 他方、躁状態で成功することはほとんどあり得ない。(中略)軽躁では、場合によってはある一定の成果をもたらすことがある(pp.41-2)

 このあたりは、この内海氏の著述の後ろに続く、症例A(pp.42-5)の部分をお読みいただくと明確になるはずだが、もちろんここではそこまで紹介しない。

 ただ、内海氏がこの症例の後に次のように述べている点には触れておこう:

「この事例で見られるように、軽躁では観念放逸に代表されるような、転導性はみられない。もしあったら、相手をひきつけるような「魅力的で委曲に富んだ企画書」など書けるべくもないし、計画を遂行していく粘り強さなどは求めるべくもない」(pp.45-6)

*****

 軽躁状態の指標のびとつは、その軽躁のさなかにあっては、本人にとってはそれが「普通で順調な状態」と認識されつつも、周囲の人から見ると、やや「多弁で元気がよ過ぎ」かな?・・・というふうに感じられる形で、自他の実感の間にギャップが生じる状態だということである(こちらの記事参照)。

 センスのあるお医者さんは、この実感上のズレを、本人を傷つけることなく納得させ、患者自身が、いわば時計の目盛りを少しずらすかのようにして、自分の調子の実感に補正をかけてモニタリングする習慣をつけるように促すことを、もはや〇〇療法などという大袈裟なものではない、「小精神療法」として、さりげなく診察の際に紛れこませておく実力すらあるようだ。

 このあたりの、本人にとっては軽躁こそいい状態、理想状態ですらあるという感じ方のことを、内海先生は、「軽躁とは、自我違和的ではない」と表現している(p.49)。

*****

 さて、今回のおしまいに、内海先生が双極2型の精神療法のポイント(p.154以下)として述べている部分の中から、この「軽躁状態」の「躁」とは異なる固有の「質」という観点と関連しそうな部分をまとめておこう:

 「双極II型障害では、ある程度踏み込んだ精神療法が必要である。(中略)

 彼ら彼女らは、「支持的[supportive]」といわれる対応では物足りないと感じる。(中略)通常この類型の人たちは強い刺激を必要としている、通り一遍の対応では彼ら彼女らにとって隔靴掻痒[=かゆい所に手が届かない]のごとくとなる。(中略)

 より積極的な見方をするなら、BPII[双極性II型]に対しては、精神療法は実質的な効果を持ちうる。

 俗に「うつ病者は病気から学ばない」という。ひとたび回復すれば、何ごともなかったかのように、現実に戻って行く。それゆえ、同じところで躓き、再発を繰り返す事例もある」(pp.154-6)

 よく、鬱に関して、「それまでとは生き方を変えましょう」的な啓発運動が成される傾向があるが、これは古典的なメランコリー型単極性うつ病の人たちに対しては大事なメッセージかもしれない。

 つまり、ひとつには、今述べられていたように、古典的な鬱の人は、ひとたび回復すると、以前と同じライフスタイルに立ち戻り、再発する場合も少なくないことに歯止めをかけるという意味で必要かもしれないということである。

 もうひとつには、古典的な鬱の人は、組織や権威や集団のもたらす価値観への安定的な帰順意識も強いので、こうした呼びかけを「押し付けられた」ものとは感じにくい可能性もあろう。

 (ところが、双極性2型の人だと、もともと変化に富んだスリリングな人生を歩んできた人が多いので「何を今更!」と思うか、あるいはもう一度軽躁的チャレンジをはじめるという形で「誤解する」きっかけになるか、それとも、他人や権威から「変われ!」といわれることに反発するかのいずれかになる可能性が高いと思う。このあたりの話題は第4回で書くつもりである)

****

 そして内海氏は、古典的なうつ病域の人が経験から学ばないのと比べる形で、次のように締めくくっている:

 「BPII[双極2型]では、罹病中に経験したことは、よきにつけ、あしきにつけ、その後にも刻印される。

 実際、精神療法の効果は、回復後にも持続しているし、回復後も精神療法は有効である。」(p.156

 

(第4回につづく)

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

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2009/09/22

「あと3年」と宣告されたら、あなたは何をするのをやめますか? (第2版)

 物騒なタイトルをお許しくださいcoldsweats01

 これは、日本人間性心理学会第28回大会の最終日、8/30に私が参加した、九州大学留学生センターの高松里先生と、九州産業大学の平井達也先生によるワークショップ、「”私”の働き方研究」の中で、お題として出されたワークのひとつなのです。

 高松先生は、数年前に、一度末期がん、余命数ヶ月という診断を受け、検査入院をします。

 検査の結果、それは結局杞憂に終わるのですが、それをきっかけに、人生観がまるで変わってしまい、それまでいろいろと引き受けてきた仕事を思い切って整理し、自分がほんとうにやりたいこととは何か? 日本人の働き方には、アジアを含む諸外国と比べても何かおかしなところはないか?・・・という問題意識が深まったとのこと。

 確かに、「今」という時を、常に未来のための投資・準備として位置づける日本人の生き方は、こうして、単に不況であるばかりではなく、雇用構造そのものが大転換しつつある昨今の社会情勢の下で、大きく揺るがされていると思います。

*****

 そうした中で高松先生たちが発想したのが、「捨てるワーク」と名づけたもの。

「あなたが余命あと3年と宣告されたとします。あなたは今、何をするのをやめてしまいますか? 何を捨てますか?」

 これを、紙に10項目、実際に具体的に箇条書きにしていくのです。

****

 ただ、ここで肝心なのは、「残りの3年で何をするか?」ではないということかと思います。

 何をするかのリストアップに過ぎなければ、映画の原題"Backet List"こと「最高の人生の見つけ方」になってしまいます。

 「何をやめるか」「何を捨てるか」と自問することは、単なる我執に過ぎないものをチョイスするというより、自分の今やっていることの中で実はそんなにこだわりはないはずのことに深い次元で気がついていくことになるのだと思います。

 ですから、実際にこのリストを書き連ねようとすると、「〇〇するのをやめる」という表現を言葉の上で取ろうとするのと裏腹に、「ほんとうは△△を自由にのびのびとやりたかったんだ!」という、生活の中で実行可能な、ささやかな気づきが浮かび上がるという、逆説性があるのですね。

*****

 私もいくつかリストアップしましたが、昨年、関東から九州に引き上げる段階で、実際、マジにいろいろ諦めたり、処分しまくった人間なので、思い浮かべるのが大変でした。

 いくつかひねり出した挙句、少し合間を置いて、最後に書き加えたのが、

「年齢を気にするのをやめる」

ということでした(^^)

*****

 実は、高松先生たちのこのワークのアイデアの発想の源のひとつには、映画「死ぬまでにしたい10のこと」があるそうです。

【以下、第2版で追加】

 学会ワークショップの後で、知り合いから多少は流れを訊いた上で、本日やっとDVDレンタルして観ましたが、なるほど、原題"My life without me"がいかにふさわしいものかに気がつきました。

 「愛と哀しみのボレロ」の原題("Les Uns et les Autres")は、英語に直訳すると「"THE WE"and"THE OTHERS"」というような感じでしょうが、その本来のタイトルと内容が切っても切れない関係にあるのとも似ていた気がします。

 こういうタイトルのつけ方は、何らかの意味で文学性も高い、ヨーロッパ映画(合作を含む)に少なくない気もします。

【第2版での追加部分、終わり】

*****

 これを書いている最中に、情報収集のためのネットサーフィン中に気がついたのですが、もうすぐ「2012」という「あと3年後」映画も公開されるそうですね(^^)

●「2012」公式サイト

 なお、この映画と引き付けることを「狙って」この記事を書いたわけではないことを、ここに宣誓させていただきます(きっぱり)

 要は「最高の人生の見つけ方」「死ぬまでにしたい10のこと」について再確認することを目的でググっただけでございます。

*****

●更なる追記:

 この記事との関連で、黒澤明監督の映画「生きる」の感想も、こちらにアップしました。

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2009/09/21

ブログ内のウェブページにも「サイトマップ」「研究業績」「経歴」等を移植しました。

 これまでは、同じ@niftyのウェブサイト側に掲載していたこれらの情報を、当ブログ内にもウェブページ(他のブログでいう「フリースペース」に近いもの)として移植しましたので、どうかご活用ください。

 入口は、右フレーム(ひょろ長さではすでにご迷惑をおかけしていますが)の比較的上の方にあります。

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セブンアンドワイ

2009/09/20

書評 : ジェンドリン「フォーカシング」

ジェンドリン/フォーカシング

(楽天ブックスでの本書の紹介)

 自分の内側の言葉にならない曖昧な感じからのメッセージを少しずつ受けとめていく技法、フォーカシングの創始者自身による、一般向けに書かれた最初の「技法」解説書としての価値は不朽である。

 言うまでもなく、フォーカシングに関心を抱く人必読の「第一基本文書」だが、技法の手引きとして、他の欄でも紹介している、アン・ワイザー・コーネルをはじめとする様々な実践家による著作で、更なる展開がなされていることを忘れてはならない。

 翻訳の水準は、章によって若干ばらつきがあり、重要な語句の翻訳が抜けている場合もある。しかし、技法としてのフォーカシングの用語の「定訳」を定めた功績は大きい。

 ただ、現実のトレーニングの現場では日本人にすっと入らない教示の言葉も日本語として多く、工夫を要する。

 なお、ジェンドリン自身が実は強調していることだが、フォーカシングにおいては、フェルトセンス(自分の状況と結びついた、自分の中の曖昧で言葉になりにくい実感それ自体)にちょっとだけ触れ、しばらく味わっていられたら、それだけでその人は「現象としてのフォーカシング」を十分体験「していた」していたことになるのである(訳書p.74)。このことは6つのステップを進めている「どの時点でも」生じ得るものであり、6つのステップのすべてを達成した時に、はじめてフォーカシングが完成したのではない。

 「フェルトシフト」と呼ばれる、心身の緩みと共に気づきや洞察が生じる体験は、何回もかけて、小刻みな小さなステップとして生じて行く中で、あたかも漢方薬のようにじんわりと効き目をあらわして「いた」ことに、後で振り返って気づけることも少なくない。

 また、シフトとは「向こうからやってくる」ものであり、「生じさせる」ものではないともジェンドリンは明言している(訳書pp.74-5)。

 こうした簡便化されたマニュアルでは抜け落ちがちな事柄を、この本の中でジェンドリンはあちこちで「さりげなく」書いている。

 この本と出会って20年になる私すら、時折本書をめくり出してみると、「なんだ、このことはジェンドリン自身がすでに書いていたではないか!」と気づかされる部分に遭遇する。

 そうした意味では、やはり技法開発者自身の最初の一般向け著作は奥が深いものだと思う。

*****

 これも、以前Amasonのレビューといして書いたものに更に手を入れて、今の私の思いに近づけてみました。

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チャールトン・へストンの真の代表作というべき映画「エル・シド」とその歴史的背景

エル・シド デジタルニューマスター版 [DVD]

(本作品の楽天ブックスサイト)

 この映画、感動のラストシーンで、知る人ぞ知る、歴史スペクタクルの傑作です。

 なのに、「十戒」「ベン・ハー」ほどに人気がない最大の理由は、この映画で描かれている11世紀の頃の段階での、スペインにおけるイスラームからのレコンキスタ(いわゆる「国土回復運動」「再征服運動」)について、日本人の関心がそもそも低いこと (少なくとも、アルハンブラ宮殿が絡む、イザベラ女王時代の、グラダナ陥落(1492)による、レコンキスタ完全達成の頃に比べれば)が大きいのでしょう。

 かつてのスペインの独裁者、フランコですら、「エル・シドの再来」と呼ばれながら歴史の表舞台に躍り出た。そのくらい「エル・シド」という名前のネームバリューが日本と欧米では違うのだと思います。

 クレジットには明記されていなかったと思いますけど、この映画の歴史考証をしているのはスペインを代表する歴史学者で、「エル・シッド・カンペアドル」で知られる、ラモン・メネンデス・ピダルという人。この人のエル・シド観はすでに古いと学術的には言われているけど、少なくともこの映画が製作された時点ではまだまだ最高権威でした。

 一見わかりにくい錯綜した人物関係も、恐らくエル・シッド伝説を基本教養としているヨーロッパ人なら、このくらいで十分に理解できるという水準なのだろうと思います。

 むしろ、映画制作当時としては歴史考証の細部にリアリズムのこだわりがあるとすら言えます。

 例えば、海の向こうから押し寄せるイスラム勢力が、なぜ、アフリカ的な装束しかしていないのか?

 後代のオスマン・トルコの軍楽隊と全く異質であることに我々は衝撃を受けるのか? 

 何とも狂信的な指導者なのか?

 全部、この映画が作られた「当時最新の」歴史考証の結果なんですよね。あの衝撃のラストシーンにも、ちゃんとそれなりの歴史文献的根拠がある。

 以上、イギリスの歴史学者フレッチャーによる「エル・シッド―中世スペインの英雄 (叢書・ウニベルシタス)」 という本で、ピダルの学説への丁寧な批判と、何と、チャールトン・へストン自身にすら取材して、映画のワン・シーンも写真で掲載して書かれていることなん です。映画「エル・シド」を実際に観た人が、その虚構性がどのあたりかまで歴史背景をお知りになりたくなったら、この本に止めを刺します。

 理想化された騎士道の物語として観ても、これほどすばらしい映画は滅多にない。この「泥臭さ」があってこその騎士道。 

 馬上槍試合の描写、エル・シド在世当時と厳密には一致しないとしても、少なくともある時代の中世騎士道で理想化された作法の、実に忠実な再現です。アメリカで幅広く読まれていたという、ブルフィンチの「中世騎士物語 (岩波文庫)」を直接参考にしているのではないかと憶測します。

*****

 「エル・シド」関連の記事というと、当ブログで一時期、探求の紆余曲折を重ねつつ、延々と取り組みましたけど(この記事がその集大成です)、今回、goo映画レビューにすでに書いていたものを更に推敲して「カウンセラーこういちろうの書評・DVD・CD評ブログ」向けに掲載したものを、改めてこちらにも転載させていただきます。

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日本心理臨床学会第28回大会には、残念ながら参加しておりません。

 このシルバー・ウィーク期間中には、私が数年前まで学生相談センターに勤務していた明治学院大学が当番校となり、東京国際フォーラムを会場とする形で開催されている筈ですが、つい数週間前に人間性心理学会の方に参加したばかりですし、今年は参加を見送ることにしました。

 これが大船に住んでいた時代だったら、両方とも参加する気になれたんでしょうが・・・・

 人間性心理学会は、来年(2010年)熊本大学で開催されますので、熊本まで特急でわずか1時間のところに住んでいる私は、通いですら参加できます(私の現在の研究実践テーマが思っていた以上に時間をかけて熟成しないとまとめられないことに気づいたので、今年は先送りにしましたが、来年こそは、個人発表などを含めた形で「大暴れ」するつもり・・・・え?今年の「8つの発表連続でのフロアからのコメント」だって大暴れだって?)。

 だから、来年の心理臨床学会が日本のどこで開催されようと、参加スケジュールを組むと思います。

 それにしても、(大会プログラムをとりあえず目を通しただけで見落としがあればたいへん失礼なことになりますが)、フォーカシングおよびフォーカシング指向心理療法関連の個人口頭事例発表では、日笠摩子先生ご発表、池見陽先生座長という、世紀の最強タッグ(?)での大会場での催しを除くと、どうも見受けられない気がしたのは、私としてはちょっと寂しい気がします。

 5月の淡路でのフォーカシング国際会議、先日の人間性心理学会の大会と立て続けで、フォーカシング関連の諸先生方にとってはほんとうにお疲れの状態でこの大会をお迎えというスケジュールになっていることが大きく影響しているかとは思いますけど、私としては、他流派の人たちとの交流の機会が多い、この心理臨床学会でこそ、フォーカシングの存在感をアピールし続けることが肝要だと信じています。

 この前書いたことにも繋がりますが、どうか若い世代の研究・実践化の皆様の側からこそ、率先して蛮勇を振るう勇気をふるって欲しいと思います。

 いずれにいたしましても、今回の大会のご盛会を、心からお祈り申し上げております。

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2009/09/19

書評:アン・ワイザー・コーネル著「フォーカシング入門マニュアル」

アン・ワイザー・コーネル/フォーカシング入門マニュアル

(同著への楽天ブックスへのリンク)

 フォーカシングの名教師、アンの著作の中で、日本で最初に翻訳されたものである。

 だが、およそフォーカシングを「技法体系」として身につけるために正攻法に学ぼうとした場合、その内容の明快さと体系性、にもかかわらず同時に「かゆいところまで手が届く」細やかさという点で、現在に至るまで、これほどバランスのいい著作は刊行されていないように思う。

 フォーカシングの発案者、ジェンドリン自身の「フォーカシング」は、もちろん今でもフォーカシングを学ぶ際のベースとして大事にすべきである(書評はこちら)。

 しかし、その著作の中で、ジェンドリンは、フォーカシングという技法のアイデンディディを確立する立場にあったためか「フォーカシングでないのは何か」「フェルトセンスでないのは何か」ということをくどくどと説明し過ぎたところがある気がする。

 それがむしろ学び手に「私はきちんとフォーカシングしているのか?」という不安を喚起する副作用を生み出した側面は否めない。

 ところがアンは、この点で正反対のアプローチを取った。すなわち、ただの身体の感じでも、イメージでも、それどころか、ジェンドリンが「内なる批評家」と呼び、ますは追い払うべきと述べた、自分自身を叱責する超自我的な内なる声ですら、フェルトセンスの形成に役に立つことを強調した。

 更に言えば、フェルトセンス自体と静かに「共にいられる」内的関係を築ければ、フェルトセンスからシフト(洞察を伴う気づき)が生させようとせっかちにならなくてもいいことについて、技法体系の中に明確に組み込んだ。

 このアンの柔軟なアプローチが紹介されるのを待ってはじめて、日本でのフォーカシングの普及はひとつのブレイクを起こしたといっても過言ではない。

 フォーカシングのトレーナーをめざす人は、先述のジェンドリン自身の「フォーカシング」を併読しつつも、何よりこの著作に書かれた内容を自己掌中にするまで身につけるべきであると思う。

 フォーカシングをフォーカサーとして学ぶ一般の皆さんにとっても、学びの過程で疑問や行き詰まりが生じた時には、本書のどこかに、その解決のためのヒントが書かれていることを期待していいだろう。

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まもなく、地域での全く新たな活動に乗り出します。

 

筑後・佐賀地域に在住する臨床心理士として、自分にできることを考えた末、まもなく私自身がひとつの試みを新たに立ち上げるつもりで、現在ひとつのプランを練り上げています。

 私には珍しく(?)、幾人かの人に相談しながらプランを煮詰めている段階です。それをはじめるからには、かなりの責任が伴うと感じていますので。

 あとしばらく、正式の告知をお持ちいただければと思います。

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JUGEMで、「カウンセラーこういちろうの書評・DVD・CD評ブログ」を特化させてスタート!

 私の運営しているインターネット上のサイトって、実はたくさんあって、そういう、いわばサテライト(衛星)サイト群からリンクをたどってこの「雑記帳」においでになった皆さんも少なくないことは、アクセス解析のリンク元から掌握しています。

 (厳密には、この「雑記帳」そのものが、1995年創業(?)の「阿世賀浩一郎のホームページ」の分室としてスタートしたに過ぎないものが「母屋を乗っ取った」に過ぎない発展をして来たに過ぎないことは、再三強調しているとおりですが)

 そうしたサテライトサイトの一覧は、右フレームの"My Site"の項に表示しています(中には、ただのプロフィールサイトや、RSSサイト、アクセス集計サイトもありますが)。

*****

 そうしたサテライトサイト群に、またもや屋根屋を重ねてもうひとつ加わりました。

●「カウンセラーこういちろうの書評・DVD・CD評ブログ」

Jugemu  Amazonのレビューのプロフィールページも持っているのに、なぜこのブログの立ち上げに踏み切ったのかといいますと・・・・・実際にご覧頂ければ一目瞭然です。 

 書籍等の商品紹介をする上で、このJUGEM運営のブログくらい、洗練されたデザインセンスを持つブログは、ちょっと他にないからです。

 商品紹介に特化されているというくらいにAmazonや楽天、Yahoo!のアフィリエイト(しかもこの3社から個々の商品ごとにアフィリエイト先をセレクトできる!!)を入れるまでの操作がシンプル。何一つhtml言語のコピペ作業をしないまま、非常にスッキリしたレイアウトで画面に表示してくれるのですね。

*****

 実は、このブログ開始当初は、右か左のフレームにお勧め本の紹介コーナーも常設していたのですが、フレーム自体があまりにひょろ長くなるので(^^;)、すでに3年ぐらい前に表示を中止したいきさつがあるのです。

 それを別ブログに切り離して復活させる意味もあるのですね。

 スタート時点の現状(09/09/17)では、最近紹介した「私のうつノート」「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」Amazonレビュー版の再転載と、私の愛読書等の一覧を表示しているだけです。

 焦ることなく、どうしても手持ち無沙汰な時に、これまでこのブログで書き溜めたレビューを編集・再構成したり、時にはオリジナルで書き起こして記事を増やしていくつもりです。

 こっちのブログで本を紹介するときにには、細部についてああだこうだと踏み込んでごちゃごちゃと書いてしまいがちですが、何しろあのブックレビューの猛者が集う、Amazonの書評欄にも同時掲載するに値すると判断した、客観的ですっきりした文章にまで推敲して練りこんだものしかそちらでは掲載しないつもりですので、どうかよろしく。

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2009/09/18

鬱の人を「気遣い」過ぎると、むしろ鬱の人に「気使わせる」気苦労をかけていることになるのかもしれない?

 これは、直前の記事で書いた、内海先生の本の中での指摘から自然と想像できるテーマなんですが。

 知人が鬱気味なのを知っていて、相手から連絡がしばらくなかったりすると、思わず不安になり、こちらから連絡を取りたくなったりする皆さんは少なくないかと思います。

 ところが、それは、その鬱のご友人さんに、「大丈夫だ」というメッセージをあなたに発しなければならないというプレッシャーをかけることになってしまう場合も少なくないのですね。

 鬱の人は、そもそも他人に「気を使う」人たちだということを忘れてはなりません。

 連絡を取ったあなたは、ただでさえ鬱気味でエネルギーが落ちている人に、わざわざ「思いやって」もらえ、対応してもらっていることになっているのかもしれません。

 特に、少し前よりも調子が落ちかかっている鬱の人に、そうしたことで更にエネルギーを使わせることそのものが酷なこととも言えてくるわけです。

*****

 敢えて厳しいことを言えば、あなたはその人のことが「心配だから」連絡を取っているつもりかもしれないけど、そういう「心配をしている」、「不安を感じている」のはあなたなんですね(^^;)

 あなたがあなた自身の不安を鎮めたいに連絡を取ろうとしているだけではないのか?・・・・ということをふと立ち止まって考えてみて欲しいのです。

*****

 もし、あなたとその人の間に信頼の絆があれば、その人は、ほんとうにあなたに連絡を取りたい時には必ず連絡を取ってきます。

 そうした時に、その人に「きちんと」向きあって、まずは話をじっくりと聴く・・・まずはそのスタンスで十分なのです。

 少し元気が回復してから出ないと、返事の言葉を考えるのも億劫ということにもなります。ところが、鬱の人は、(ほんとうに重度に落ち込んだ段階を過ぎてしまうと)鬱のただ中でも、サービス精神旺盛なことが少なくない。

・・・・・少なくとも、このことは、本来ならば双極性2型障害と診断されるのがふさわしい人に関しては、ほぼ間違いがないことだろうと思います。

 双極II型の人たちの対人関係は、一度受け入れた人への個人的な信義は大事にし、見かけの気持ちの揺れやすさにもかかわらず、安定した絆を築きます。

 この点は、古典的なメランコリー型単極性うつ状態の人が、実は「個人」ではなくて組織や上司という「役割関係」への一般的な忠誠心がベースになっていて、実は誰に対しても同じように気を使い、同じように「申し訳ない」という罪責感感じる、ステレオタイプ化された対人スタイルを取るのとも異なります。

 逆に、ボーダーラインの人の、表層的で、同一の相手に対する価値の上げ下げが激しい不安定な対人関係様式とも異なることを、内海氏も著作の中で強調しています(p.163など)。

*****

 でも、どうしても連絡を取りたい衝動が抑えきれない場合には、携帯メールで、

「最近どうしてるのかなーと思って思わずメールしちゃったcoldsweats01 でも別にレスはいらないよーんheart01

・・・・以上、終わり!! くらいに留めておくのもいいかもしれない?

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2009/09/17

周囲の人は双極性障害2型の人の「気遣い」にどれだけ助けられているかに気がつかない・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」 書評 (第2回)

 さて、内海健先生の「うつ病新時代」への書評、前回に続く第2弾ですが・・・

 今回の内容は、もっぱら、本書の第6章、「同調性の苦悩」の内容からのご紹介です。

****

 スイスのオイゲン・ブロイラーという精神病理学者(精神分裂病=統合失調症という疾病概念の提唱者。フロイトの初期の擁護者としても著名)が、統合失調症の人と躁うつ病(単なるううつ病ではありません)の人の病前性格を比較するために、前者を「分裂性性格」、後者を「同調性格」としてとらえることを提唱しました。

 ここでいう躁うつ病の病前性格としての「同調性」というのは、世間一般で言う「協調性」ということと一見似ていますが、実はもう少し厳密な定義がなされています(このへんがあいまいなまま人口に膾炙し、一般的な解説がネット上でも流布しているようですので用心してください)。

 ここでいう「同調性」というのは、単に周囲に溶け込むだとか、「場の空気を壊さない」(今風に言えば"KY"ではない)ということではないようです。

 「協調性」という言い方をする場合、暗に、社会性を確立するための、単なる「処世術」として、あるいは対人スキルとして「身につけて」しまえる筈のもの・・・・という含蓄がある気がします。

 (これに対して、特に「コミュニケーション障害」という言い方は、暗に発達障害を含意するので、言葉の扱いは慎重にすべきですが、ここではこの問題に深入りしないでおきます)

 しかし、ブロイラーの発想を更に深化・発展させた、フランスのミンコフスキーという精神病理学者は、この、鬱病者における「同調性」について、著書「精神分裂病―分裂性性格者及び精神分裂病者の精神病理学」の中で、次のように述べていることを内海先生は紹介しています。

 「ミンコフスキーによれば、分裂性と同調性は単なる性格標識ではなく、むしろ個々の特徴の間隙に位置して、それぞれの特徴に独特の色彩を与え、環界に対する個々の態度を規定するものである」(p.130)

 ・・・・・さすがにこれだけでは読者には何がなんだか?でしょうから、私なりに内海先生の本から理解したことを元に平易に解説してみましょう。

 ここでいう「環界に対する個々の態度を規定する」というのは、自分という存在が、外の「世界」との関わりにおいて、どういう様式で存在するかという、非常に実存的な次元での根底的な存在様式の違いということです。

 統合失調症の人は、発症すると「世界との生き生きとした接触」の感覚を喪失します。これを更にドイツのブランケンブルクという人が「自明性の喪失」という概念で発展させました。

自明性の喪失―分裂病の現象学

 「自明性の喪失」とは、わかりやすくいえば、般の人が日常を生きていくうえでは「当たり前すぎる」ことの「当たり前さ」加減が全然ピンと来なくなるということです。

 具体的な例として、このブランケンブルクの著作の中でつとに著名な、アンネ・ラウの症例での患者自身の発言から引用しよう:

 (以下の引用は、ま@しーまんさんのサイト、「神経生物学的脳機能障害の研究My 統合失調症研究 統合失調症とは 認知脳科学的、神経情報科学的アプローチ」の中の、「寡症状分裂病(単純分裂病)の事例」というページから引用させていただきました

 「…誰でも、どう振る舞うかを知っているはずです。誰もが道筋を、考え方を持っています。 動作とか人間らしさとか対人関係とか、そこにはすべてルールがあって、誰もがそれを守っているのです。でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。・・・(中略)・・・ 他の人たちはそういうことで行動しているんです。そして誰もがともかくもそんなふうに大人になってきたのです。考えたり行動の仕方を決めたり、態度を決めたりするのもそれによってやっているんです…。」

****

 さて、このような意味で、周囲とのかかわり方がまるでわからなくて困惑するといった存在様式は、実は、うつ病圏の患者さんの周囲との関わりのあり方から、一番遠いものなのである。

 うつ病になりやすい人は、周囲の人が何を感じていて、何を求めているのかを「察する」共感的センサーが敏感であり、しかもそのセンサーの精度は、その人が健康度が高いうちには驚くほど的確で、分裂質の人のような「思い込みの暴走」「関係念慮」には容易には陥らない。自分と関わる相手との適切な距離感を保ちながらも、その場その場にふさわしい「気配り」を実際に行動として取って行くことが実に上手である(内海氏の著作のp.139参照)。

 この「気配り上手」のことを、この内海氏の著作では「他者配慮」ないし「対他配慮」という言葉で表現していることが実に多いことは、この本をお読みの読者の参考になるかもしれない。

 鬱になりやすい人持つ「同調性」とは、単に周囲に迎合するなどという浅薄な次元で「協調性」のことではなく、このような、敏感なセンサーに基づく細やかな対人配慮のことを指すことを改めて強調しておきたい。

 こうした前提で、再び内海氏の著作からの引用に戻ろう:

 「端的に言うなら、[鬱病になりやすい人の]同調性とは、環界と共振・共鳴する原理である。それ自体において、病理性が希薄である。分裂性が、のちにミンコフスキーによって引き継がれ、『現実との生ける接触の障害』という形で、統合失調症(分裂病)の基本障害として結実したのに来比べれば、はるかに健全な原理であるようにみえる。

 しかし、同調性も、行き過ぎれば病的なものになりうる。そのことについて、ミンコフスキーは、同調性格者は『[躁状態とうつ状態の]波にさらわれる結果、自我を確立し、進歩するための地歩を固めることができない』と指摘している。(中略)

 同調性とは、自己が世界と関わりを持つための不可欠の原理であるが、その一方で、自己を押し流し拡散する危険を孕(はら)んでいるのである」(pp.139-40)

****

 さて、いよいよやっと、双極「2型」の人固有の対人関係特性とその失調の話に入れる。

 連載の今回は、その中の、今述べてきた「同調性」に関する側面のみを取り上げよう。

 「双極II型性障害、とりわけ若い事例では、相手が何を考えているのか、大抵のことはわかるという。余裕のあるときには、先を見越して対応ができる。二手三手先まで読む。[ところが、]具合が悪くなると、今度はそれが裏目に出る。読みすぎ、気を使いすぎ、疲れてしまう。相手も自分と同じくらいに[こちらの気持ちを]読めるのではないかとと思い、合わせ鏡のような一人相撲になる。

 また、皆がうまくいっているのか、どこかで諍(いさか)いが起きていないか、ということも、重要な関心事である。そして大抵、彼女らの勘はあたっている。おそしてみるまに、対人関係の相関図が、頭の中に描かれる。

 こうした特性は、彼女らが生まれ育った家族での関係が反映されている。彼女らは、おしなべて甘えべたである。親に甘えるというよりは、むしろ親が彼女らに甘えてきた、と言った方が適切である。

 この関係は、家の外でも再現される。彼女らの多くは頼られる。明白な場合もあれば、目立たぬ形を取る場合もあり、あるいはスケープゴートとして機能を果たしているときもある。(中略)

 この頼られることは、彼女らの生きがいでもあるのだが、抑うつの時には大きな負担となる。(中略)

 双極性II型障害の事例がきまって言うことは、「悩みを持ちかけられる」ということである。そして最も苦手なことが、「他人の悪口を聞かせれること」である。(中略)ある患者はこのことについて、「影で他人の悪口を言うことは、私の悪口もどこかで言っているということになります」と説明した。論理的に聞こえるが、むしろ相手に対する直感的な洞察なのだろう」(p.151)

****

 今回の最後に、では、こうした、双極性II型の人たちへの精神療法において何を大事にすべきかについて、特にこの「同調性」関連で内海氏が述べている部分から引用したい:

 「どのような精神療法にも共通することであるが、患者が自分の問題に気づき、そしてそれに対応するためには、その問題を単に欠点として自覚するだけでは十分とはいえない。

 ・・・というより、それでは患者は浮かばれない。症状であれ、性格の特性であれ、それらは両義的であり、[=環境への不適応の要因になるともいえるが、同時に、その人なりにうまくやっていく上での『強み』でもあり]、かならず評価すべきところがある。

 ましてや、双極性II型障害[の人]が持つ他者配慮は、肯定されてしかるべきでものである。
 この利他的なあり方の中に、ただちに偽善、おせっかい、支配、自分本位などを読み込むべきではない。それは通常人が自らを投影しているものである。
 
同様に、他人の顔色をうかがう小心さ、過度の傷つきやすさ、拒絶への弱さなどになどの脆弱性に還元してすませるべきでもない。

 仔細に日常のあり方、そしてそこにいたる生き方を見てみれば、彼ら彼女らの「けなげさ」「かいがいしさ」を感じ取ることができるはずである。

 他人への配慮や気遣いをしつつ、彼らが奮闘してきたこと、
 彼らによって支えられた人たちがいること、
 そして
 誰もそれを評価しておらず、にもかかわらず、患者に依存し、患者の気遣いを湯水のように消費してきたこと、


そうしたことにに共感が示されるべきである。

 少なくとも、他者への尽力に役に立ったのであり、意味があったのだということを、治療者は繰り返し与えて返してしかるべきである。

 このあたりのへの共感性が持てないと、この疾病に対する治療は、ちょっと難しいかもしれない
(p.161)

(第3回につづく)

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

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2009/09/16

iddyプロフィールのブログパーツのアクセス障害で、右フレーム表示がうまくいかなかったことが多いことにお詫び申し上げます。

 とりあえず右フレームからiddyプロフィールのブログパーツを外しました。

 私のiddyプロフィールには、次のように書いています:

長年住み慣れた神奈川県を後にし、2008年8月から故郷の久留米市に転居、「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」を開設した開業臨床心理士です。フォーカシングのトレーナー養成・認定の国際資格も持っています。しかしインターネットでは一転して、カウンセリングに限らず、浜崎あゆみやiPod や歴史について越境ジャンル的に書きまくる自由人を旨としています。

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2009/09/15

ひさびさにJR久大線に乗る

 今日は所用で、同じ久留米市内の草野町まで向かうことになった。

 草野町には「筑後草野」という九大線(久留米-日田-由布院-大分)の駅があるが、目的地はひとつ手前の善導寺駅の方がずっと近い。

 そこで、おぼろげな記憶をたどっても最低25年(帰省時の大学生時代と思うから)、実に四半世紀ぶりに久大線に乗って行く事にした。

 久大線は、あの、特異な容貌を持つ、JR九州を代表する観光列車、特急「ゆふいんの森」がデビューして以降、一日に特急5往復などという、思いもよらないくらいの目玉路線になってしまった。

Uhuinnomori

 久留米-日田間は、福岡大都市圏への乗り継ぎ通勤も可能な「通勤・通学路線」としての性格もある程度重視するようになり、久留米大学前駅に続き、今年(2009年)久留米高校駅が開業する形で、最寄りの学校近くに新駅を増設、久留米と日田の間には、日中閑散時間帯でも、最低で1時間に1本ほほ定時には、ワンマン運転の各駅停車が確実に走るようになった。

 並行して走る国道210号線の西鉄バス(本数はそちらの方が多いが)よりかなり割安感がある。

 町村大合併の影響で、旧浮羽郡田主丸町まで久留米市に合併されたため、日田までの区間の3分の2弱が「久留米市」ということになった。

 この区間の久大線の沿線は、駅近くこそ真新しいアパート群が立ち並ぶようにはなったが、駅さえ離れてしまえば、断層が斜めに隆起した「傾動地塊」と呼ばれる独特の造山運動によって生じた、耳納(みのう)山地の、東西ほぼ直線的に標高差があまりないまま連なり、平野部から急峻に屏風のようにそそり立つ山々を車窓の南側に眺めながら、筑紫平野の農村地帯の中をのどかに進んでいく。

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 思いもよらないくらいに、私の30年前の記憶と全く等質の光景に浸ることができた。

*****

 ただひとつだけ昔と決定的に違うこと。

JR九州の車両の多くに共通することだが、たとえ各駅停車のワンマンカーといえども、どうしてここまでヨーロピアン・テイストの、統一的な美学がある、モダンな車両になってしまっているのだろう?ということだった(^^;)

090915_1017001

南久留米駅ホーム

090915_1030003

↑善導寺駅ホーム

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↑木目調にこだわる車内。

*****

 そして、善導寺駅に降り立つと、反対側からやってきたのは・・・・

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 特急「ゆふDX2号」(博多行き)であった。

 「ゆふいんの森」の車両は博多駅や久留米駅で、帰省時にここ10年来何回となく遭遇したが、現行の「ゆふDX」車両をナマで見たのははじめてであった。

******

 ところが・・・・・

 

たいむすりっぷ!! 

090915_1033001

 

・・・・・お食事中の皆様、申し訳ございません m(. ̄  ̄.)m

 

善導寺駅のお手洗いです。

 奇跡のような、昭和30年代温存の光景。

 関東に住んでいる時には、日本全国ローカルに随分あちこち旅したものですが、ホームや駅舎は昔ながらの原型をとどめていても、お手洗いだけは改良を重ねているところが少なくない中で、これには、

「感動した!!」

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「あたかも双極性2型障害」の多くは、安易に抗うつ剤が処方されたことをきっかけとして生じた軽躁への反転に起因するのは事実。ただし・・・・

 内海先生の著作についての紹介の流れに一見自分で一度水を差すことを、ここで敢えて自分で書いておきます(内海先生もこのことは著作の中で書いているんだけども)。

 これを書くきかっけになったのは、kyupin先生の「kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)」における、

●じっと見つめると双極2型

というエントリーなんですけど、その詳細はリンク先をお読みいただくとして、私がこのエントリーに対して書いたコメントをそのままコピペしておきます:

「あたかも双極II型障害であるかに見えるもの」の多くが、実は抗うつ剤の安易な処方によって軽躁状態が誘発されることによってはじまった「物質誘発性気分障害」に他ならない、つまり「医原性」である(!)という観点は非常に重視すべきなのだろうと思います。

 kyupin先生の、双極2型に発達障害的な因子が関与している可能性を強調する論調も興味深く拝見しています。I型にしてもII型にしても、まるで気分安定剤さえ処方していればいいと受けとられかねない単純化した論調も、個々の臨床ケースに即していうと全く大雑把な話で、特にうつ状態にどう対応するかとなると、いわゆる抗てんかん薬系の気分安定剤(デパケン等)だけでは確かに不十分なことが多く、場合によっては、少なくともご本人にとっては、SSRIで躁転してバリバリ意欲的に活動できていた時(それでも年単位で見ると、次第に鬱的な方向が強まり、体調面全般が不安定化することが多いかと思いますが)の方が、まだしもよかったと感じる人すら稀ではないでしょう。

 気分スタビライザーによって「一気に馬力を上げてエンジンをかける」ことがやりにくくなったことを、不快で苦しい、上から抑圧されるような、人生の醍醐味を失ったと体験する人も稀ではないように思います。

この、「客観的に観れば軽躁」「患者さんの主観からすれば本来の自分」でいられなくなることか生じる、2次的な「落ち込み」現象というのも、十分に留意しないと、余計に混乱した事態が生じることが少なくないようですね。

 本人がそれを受容できて、もはや変速ギアをトップには入れられない人生を、少なくとも当面受容するスタンスに切り替えられればいいのですが。

 薬物療法の名医の先生方が、こうした点でいかに個々の患者さんごとに繊細な配慮をして、いくつもの多様な薬の絶妙のカクテルを作り、折り合い点を見つけようとしているのかというあたりになると、とてもとても一般の人が目にする著作では明快に解説し切れない領域のように思え、敬意を表しています。

 ただその一方、自分の飲んでいる薬の自分にとっての効能を自分の身体感覚を通してモニタリングし、薬と自分との間の折り合い点を見つけることの援助という、単なる薬それ自体の物質的効能を超えた、治療者と患者さんの「薬を媒介としたコミュニケーション」の領域・・・・・いわば「医者という名の薬」の領域、これは、現在の5分間診療の現実ではだんだん形骸化しつつある気もしてなりません。

セブンアンドワイ

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2009/09/14

胸がすく思いの名著!! ・・・・内海健 著「うつ病新時代 -双極性II型障害という病-」 書評 (第1回) [第2版]

 すでにこちらの記事で購入予告していましたが、昨晩届きました。

 まだ3分の2読んだ段階ですが(・・・・すでにそこまで読んだというべきか?・・・・真ん中のあたりの章がまだ残っています)、書評第1弾をともかく書き出してしまう気になりました!!

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

 この本は、単に、DSMという診断基準が指し示す、狭い意味での「双極性2型」障害についての著作などでは決してない。

 恐らく、通常のうつ状態と診断されている患者さんたちの多くが読んでも、深く共感する内容に満ち溢れているはずだ。

 実はその点にこそ、この著作の只ならぬ奥の深さがあるのである。 

この本ほど、「胸がすく」思いで読んでいる、現代日本の気分障害全般について書かれた著作はありません(きっぱり) 

 古典的な「メランコリー型」うつ病は、実は第2次大戦敗戦国である日本「西ドイツ(!)」において、戦後の復興を経て高度経済成長期に入るという、固有の経済発展様式を取らざるをえなかったために、結果的に、1970年代まで、他の欧米諸国よりも「遅延されて」残存した、実は「オールド・タイプ」のうつ病のあり方であるに過ぎず、現在ではこれらの国でも、主として中年以降の世代にのみ残存している病態であるに過ぎないのではないか?

 ・・・著者ははっきりそこまで言い切ってしまっているではないか!!

*****

 今日、鬱は昔よりも「軽症化」しつつあると言われているのに、実際には、昔の鬱病の患者さんの方が、きちんとした服薬や休養生活(場合によっては入院)を経れば、長くても数ヶ月以内に社会復帰できる人がずっと多かったということを、さまざまな精神科医の先生が指摘している。

 鬱になる人の病態のマジョリティー(多数派)自体が、時代と共に変質してきている可能性を多くの専門家が認め、「新型うつ病」「非定型うつ病」などという言葉が繰り返しマスコミに載るにも関わらず、古典的な「メランコリー型」うつ病ではない人たち(本書で取り上げられている「双極性2型」以外にも、「気分変調性障害」「双極スペクトラム障害」などと診断される方たちを含む)に対する少なからぬ医者の取り上げ方は、どこかしら「近頃の若い者は・・・・」的なノリで、そうした人たちの「性格の問題」という言い方が安易に振り回される傾向があるように思えてならない。

 しかし、それは実は根本的な認識不足なのではないか?

 結局、医者の側が時代の変遷についていけていないことの「逃げ口上」ではないのか?

そうした問題提起をする上で、この著作以上に強力な著作は、刊行3年めにして、まだ現れていないように思われてきたのである。 

*****

 (古典的)鬱病者における病前性格としての「メランコリー親和性」ということをはっきりと打ち出したのは、ドイツテレンバッハという精神病理学者である。ところが、今日では臨床家の間で基本教養の一部というべきこのことをテレンバッハが著作ではっきりと書いたのは、何と1961年という、思いもよらないくらいに最近の(・・・・などと、1960年生まれの私だと書いてしまう)ことなのである!!

テレンバッハ/メランコリー(私は未読で、教科書的知識しかありません)

 もっとも、1961年といえば、西ドイツも日本も、西側陣営の中で、まさに目を見張る勢いで高度経済成長していた渦中に他ならないではないか!!

 「この時代の」「西ドイツにおける」精神科現場臨床におけるうつ病患者の診療の治療の膨大な蓄積の中で、テレンバッハが提唱し、ドイツで、何より日本で、そして最終的にはアメリカですらもDSM-IVの診断基準名に取り込まれる形で、幅広く受容されるに至ったのが、「メランコリー親和」仮説なのである。

 私が、

「双極性II型」気分障害と高度成長期との関連 -星飛雄馬や矢吹丈や岡ひろみのように生きてしまうこと-

 ・・・・・この記事書いた段階で、アマゾンの書評で仕入れた情報ではここまでははっきり誰も解説してくれてはいなかった。「読まないまま見切り発車した」方向性に誤りはなかったことにほっとしている。

 一応、私の記事の方での表現をコピペしておきます(^^)

> 日本における狭い意味での「古典的な鬱病者」とは、
> 実はこうした、すでに過去のものとなった「会社への『忠義』が報われる」という社会システムへの過剰適応者に生じる失調形態であり、
> 今や、古き良き日本の職業観に基づき生きてきた、すでに60歳より年長の世代に固有の「社会的性格」を担う人たち
> (および、その世代の「超自我」を、不幸にしてもろに転写する形で受け継いでしまった、
> 「すでに時代とズレた」メンタリティを
持つ、後継世代の中の一部分 を占めるに過ぎない人たち)に、
> かろうじて残存しているに過ぎないと考えるべきなのである。

> 「会社のために尽くせば尽くすほど、その忠誠心に応えて
> 会社は必ず自分に報いて生活水準の向上をさせてくれる」

> ということを素朴かつお人よしなまでに信じていられたという点では、
> 高度成長期のサラリーマンは、バブル崩壊以降、リストラ等の現実に直面し辛酸を舐めて来た世代に比べると、
> 信じがたいくらいに純情ですらあり、
> (敢えてこの言葉を使わせていただく)日本的な『甘え』の構造に、骨の髄まで浸かっていたと思う。

 一方、これときれいに対応する、内海先生の著作での指摘(太字はこういちろうによる):

 「メランコリー型の生き方を特徴付けるのは、整序され、そして手垢の染み付いた、なじみある空間を形成し、しかる上で、そこに住み込むことである。これが「几帳面」と、さらに「秩序志向」の反面である。

 もうひとつの特徴は、他者への尽力、献身である。この場合、他者とは具体的な人物というよりは、家や会社、上司という役割や伝統という価値などである。

(中略)

 これを対象関係という観点から見れば、メランコリー型は、対象に対する尽力的、献身的な関わりの中で、庇護され、評価を受け、その領分の中で落ち着く、そういった個体である。

(図表への指示省略)

 この単純な図式の中に、、いくつか重要なポイントがある。彼らの尽力には、反対給付が与えられる」(p.125)

 「飯田真によるメランコリー親和型性格の発達史論は、特筆すべきものであったように思う。

 以下にその要諦を示す:

  1. 依存欲求の強い個体があり、依存対象への希求が何らかの形で挫折する。
  2. 対象は断念される一方で、幻想的な一体化願望が形成される。
  3. 代償として、強迫的な性格防衛が形成される。
  4. 権威的な人物や価値観が対象として選択され、権威が超自我として内面化される。
  5. 権威からの期待に応えるべく、勤勉の論理が発動される。結果的に、個体は社会的な自立を達成する。
  6. 権威へのひそかな依存が獲得される」(p.199)

 「こうした性格が形成される条件がある。すでに指摘したことだが、戦後の一時期、日本と西ドイツという、歴史的、地誌的に限定された中で、こうした類型が析出したのである」(p.202)

 ・・・・・内海氏がここで飯田真先生の論文から引用している「依存欲求」というのが、実は先日お亡くなりの土居健郎先生が言われた、本来の意味での『甘え』の問題に他ならないことをお察しの、読者の方もおられることかと思う。

****

 私が前述の記事で書いたことと、実際の内海氏の著作の間に生じたギャップは、確かに微妙な形で存在する。

 それは、私自身は、実は「意外と」古典的なメランコリー性格も超自我的には失わないまま成長しつつも、成人なったら、「ポストモダン的=双極2型親和的」な、絶対的な権威や価値規範など存在せず、更に不況の元で、勤め先からの「見返り」など期待できない社会を生きねばならなくなった「狭間の世代」の感性で、あの文章を書いているということに気づかされたことであろうか。

 この著作で描かれている「双極2型」こそが気分障害の中核群になる世代とは、恐らく私よりも数歳は年下のあたり(現在満40歳ちょうどぐらい)から顕著に増え始めるのではないかと思う。

 なぜなら、その世代まで行くと、すでに幼児期に、「石油ショック」という形で、高度経済成長と「人類の進歩と調和」の幻想の最初のほころびを体験できている以降の世代になるからである。

*****

 以上、この著作についての、読みかかりの段階での取りあえずの「速報」であるに過ぎない。

 何しろ、この本の主題である「双極性障害II型」について、内海氏が論をどう展開しているのかについては、まだ何も私は書いていない(^^;)

 

もっと本格的に踏み込んだことまで書くことを、ここにお約束したい。

(この項、第2回に続く)

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2009/09/13

久留米でフォーカシングを学ぶ会、次回は10/11に開催いたします。

 

「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、本日、滞りなく開催されました。遠方からを含む参加いただきました皆様、お疲れ様でした。

 だんだんと、いい意味で、肩の力が抜けた、しかしそれゆえにこそ参加者の皆さんのニーズに細やかに対応できる会のあり方に変容してきた手応えを感じています。

 次回は10/11(日)に開催です。

 フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。
 参加エントリー、お持ち申し上げております。 

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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2009/09/12

それにもかかわらず、セッションを前に進めている主役はクライエントさんである -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (4 完結)

 日本人間性心理学会第28回大会における、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第4回、今度こそ完結です(^^)

*****

 前回の終わりの方で述べた、「メタ・コミュニケーション」次元でのやり取りとして、クーパー氏は次のような例を持ち出した。

 子供時代に親からひどい虐待を受け、現在も社会不安障害的な症状に苦しんでいるクライエントさんがいたとする。

 この種の人物へのセラピーの場合、虐待を受けたときの記憶を繰り広げて探索して話していってもらう(exploring)ことが求められることが少なくない。この人もまた、それまで受けたセラピーではそうしたことを散々やってきた。

 果たして、このクライエントさんに、今回もまた、そのような自己開被的なやり方を取ってもらう必要があるのだろうか?・・・・

クライエントさんは語った:

 「私はもうフラッシュバック(災害時や虐待などのトラウマ的な経験の記憶が、突如、圧倒的なリアリティでその人の中に蘇ることを不意打ち的に繰り返す体験)に悩まされてはいないんですよ」

セラピストは問いかける:

 「虐待について整理するために、そのことに戻ってみる必要を感じておられますか?」

クライエントさんは応えます:

 「そこまで行きますかねえ? それって、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」

セラピストは続けます:

 「あなたからの[対人恐怖を改善するにはどうすればいいかという]問いかけが、その[過去の虐待]問題と、どのくらい関連していると、あなた自身が、感じているのかどうかに関心を持っていたんです。私たち二人とも、その2つのことが関連しているかどうかなんて、実は何もわかってはいないんじゃないかと」

クライエントさんはしみじみ応えます:

 「・・・・・・ほんとうはわかっていないんですよね、それって・・・・・理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖問題と、つながっていないのかも」

 クーパー氏はこの展開について次のように解説する:

  • (クライエントさんの不安の種になっている問題の原因や対処について)、他の可能性も点検してみること。
      ・・・・・・[家庭での親との関係だけではなくて]学校で恥をかかされた経験と関連している可能性は?
      ・・・・・・[親に限らず]、誰かががっかりしたり、「審判」を下して来る(judge)ことへの恐れと関係しているのかもしれない。

などなど。

 こうした流れの中で、このクライエントさんは、

 「・・・・・私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
 だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」 


 しかし、セラピストは、この方向にだけ安易に話が流れないように、更に次のようなことを述べていきます。

 「私たちは、あなたのそうした、人前で話すことのたいへんさについて、こうして話し合って来ているわけですけれども、でも、もっといろんな[とらえ方や解決法の]可能性があるのだと思いますよ。

  •  ・・・・・ひとつ言えることは、あなたのこれまでの人生の中で起こったことのおかげで、それがすごく厄介なことになってしまっていて、それがあなたをひどく押さえ込んでくるし、ほんとうに不安にさせるんだろうということです。
  •  ・・・・・もうひとつは、あなたがこれまでにやってきたことの中で、あなたが全然不得手で、ひょっとしたら諦めてしまった方がよかったようなことすら、たくさんあったのかもしれない。
  •  ・・・・・もうひとつあり得ると思いますよ。・・・・・さっきあなたがお話になったこととも関連して来るんですけど、あなたの中で[現在]悪循環のサイクルにはまってしまっている気もする。つまり、必ずしも過去の酷い体験が原因になっているとは限らない場合もあります。
     あなたは、[そうした過去の痛手によって]人前で話をせずに済むようにしてしまったばかりではなくて、そうやって実際に人前で話をしないことによって、ますます人前で話すのが怖くなってしたのかもしれない。ほんの少しでも、人前で話をすることを始めてみたら、まさにあなたが言われたように、『実はそんなに大したことではなくて、結構何とかなる』と感じられたのかもしれませんね」

 このように言葉の上でだけ読んでいくと、まるでセラピスト側が一気に畳み込んで誘導しているようにすら見えるかもしれない。

 しかし、私が思うに、セラピストは、かなり長い沈黙を挟みながら、クライエントさんの様子や非言語的な反応を絶えず確認しつつ、ひとつずつ、控えめに差し出すような言い方で、言葉を紡ぎ出して行ったのではないかと想像できる。

 (この「多面的アプローチ」との共通項が多い、フォーカシング指向心理療法において、「新たな提案は、押し付けにならないように、クライエントさんが簡単に振り払えるような形で、控えめに差し出されねばならない」ことを、ジェンドリンが繰り返して強調していることからの憶測である)

 クライエントさんは応える:

 「まさにそう思っていたんですよ。これって、私の中でいつの間にか習慣化していた行動パターンなんじゃないかって」

*****

 この事例(パワーポイントファイルでは、pp.47-9の”Session3”)を読んでいると、この内容が、ほとんど認知行動療法だ、いや、論理療法っぽくもあるな、ABA(応用行動分析)の影響もありそうだ、PCA(パーソン・センタード)でなりながら、ここまで指示的(directive)なやり方ってあり?とお感じの、専門家の読者の皆様もありそうである。

 私の理解する限り、忘れてはならないのは、次の2点である:

  1.  クーパー氏の「多面的アプローチ」は、個々のセッションの小さな局面局面(micro-steps)においては、クライエントさんに提供可能な技法は何でも柔軟に活用するものであるということ。
  2.  しかし、このセッションの展開は、実はクライエントさんの実際の発言にあくまでも付き従っていく形でのみ進行し、クライエントさんの自己決定権を尊重していること。

     つまり、

    •  「私はもうフラッシュバックに悩まされてはいないんですよ」
    • →「それ[子供時代のトラウマ体験について振り返ること]って、やらなきゃならないことなんでしょうかねえ?」
    • →「理性的に考え直してみると、私の今の[対人恐怖]問題と、つながっていないのかも」
    • →「私は不安でした。ですからいつも、人前で話すことをせずに済むようにして来たように思います。
       だからもし・・・・・もし、何回かでも、そういう時に話をすることができていれば、そんなに大したことではないと思えるようになっていたかもしれませんね」

     ・・・・・これらの発言の展開そのものは、クライエントさん自身が語り出した流れである。
     セラピストは、それに付き従って行き、その都度、メタ・コミュニケーション次元で展開を整理しなおし、

     「このあと、このような別メニューも可能ですが、いががなさいますか?」

    ・・・というような調子で、

    クライエントさんがひとつの方向に誘導されてしまい過ぎ、自分のことを「早急に」決め付けてしまい過ぎないように、その後の進行について「吟味しなおし」、「自己決定」する機会を与えるように、用心深くサポートすらしている
    のである。

     (フォーカシング指向心理療法的に言えば、セラピストが、「セッションをどう進めるのか」そのものについて、繰り返して、クライエントさんのフェルトセンス(実感そのもの)に照合してもらう機会を提供するのと、何かしら類似している)

 この観点からすると、この事例は、セラピストとクライエントさんのメタ・コミュニケーションの次元では、見事なまでに「クライエント中心(PCA)的」であるということになるだろう。

 もっとも、例えば非常に熟達した認知行動療法のセラピストに、こうしたクライエントさん尊重のセンスが透徹しているであろうことを私は信頼したい。

 また、例えば、日本における「暴露反応妨害法」の最高の権威のひとりである山上敏子先生の行動療法における行動計画の立て方が、まさにこれに匹敵する高度な「メタ・コミュニケーション」スキルを駆使したものであることを、私は先生のワークショップに参加して、事例を拝聴する中で、しみじみと味わっている。

*****

 クーパー氏は、この"Session 3"の事例とは別に、他のクライエントさんとの"Session 4"の事例も呈示した。

 その事例も、やはり子供時代に深刻な家族からの被虐待経験を持ち、現在陥っている悪循環の行動パターンについても検証し、ご本人もその日の面接の時点ではそのことに満足していた。

 しかしその次の回の面接で、その人は切り出したという:

 「先週のセッションで、私の[悪循環の]行動パターンのことについてお話しましたけど、私はその悪循環の中で、ほんとうに、今、身動きできなくなっている自分にも気づかされたんです。
 [ここからは、パワーポイントにはない、クーパー氏口頭での補足]・・・・ですから、やはり私は、このセラピーの場で、お父さんとの間にあったことについて、じっくり取り扱っていく必要があるように思えてきたんです」

 クーパー氏は、このようにして、前者の事例とは一見正反対の展開になっても、それはそれで全く自然な成り行きであると述べ、

 「この2つのケースのどちらが的確な展開だとか、重いクライエントかなどということは軽率に言えるはずもない。
 大事なのは、こうした展開を経て、クライエントさん自身が、今の自分がセラピーの中で何を必要としているのかを明確にしていくことができるということ」

 と強調した。

*****

 パワーポイントの印刷用図版には、なぜか省略されていることが残念なのだが、クーパー氏は、「多面的(pluralistic)アプローチ」と比較するための典型として、

  • 「古典的(classical)な」クライエント中心療法(明らかに、教条主義的(dogmastic)でかたくな(rigid)な・・・・というニュアンスを込めていると私は思う)
  • 「マニュアルチックな」認知行動療法(こっちの方は逆に、「高次元の」認知行動療法ならば、柔軟で、クライエントさんの主体性を損なわない筈という含みを感じる)

を持ち出し、

X軸=非支持的(non-directive)←→支持的(directive)
Y軸=メタコミュニケーション水準において、多面的(pluralistic)←→決まり切っている(monistic)

というグラフ上にマッピングした。

 すると、「多面的(pluralistic)アプローチ」X軸の非支持的(non-directive)←→支持的(directive)の両側の領域に広がりつつ、なおかつY軸側では、多面的(pluralistic)領域に幅広く分布する長円形の分散(?)を成す。

 ところが、「古典的(classical)な」クライエント中心療法「マニュアルチックな」認知行動療法はというと、X軸側では正反対の陣営なのに、Y軸側・・・つまり、メタコミュニケーションの次元で見ると、「決まり切っている(monistic)」という点では同じ穴のむじなである・・・・・という、イギリス的ウィット効かせまくりの表現をなさっていた(^^;)

****

 この後、「多元的アプローチ」の観点からのリサーチのあり方についてのいくつかの提案がクーパー氏からなされたが、このブログではその部分の報告は割愛したい。

 その後、フロアとのディスカッションを経て、2時間の、大変に密度の濃い特別講演は終了した。

****

 学会大会翌日の懇親会に現れたクーパー氏に、私は例のごとく(^^;)、大学院出とはとても思えない英会話力で話しかけ、前半半分はかろうじて自力で、後半部分は、そばにおられた、九州産業大学の平井達也先生に手伝っていただいて、多少なりとも講演の感想を具体的にお伝えする機会を持てた。 

****

 ブログの記事としては、たいへん堅苦しい内容だったかもしれませんが、流派問わず、幅広い層のカウンセラーの皆様、臨床心理学研究者の皆様ににお伝えしたく、筆を取った次第です。

 (この連載 終わり)

※この連載(第1回)はこちらから始まっています。

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2009/09/11

今晩テレビで「ワールド・トレード・センター」放映されましたね。

 封切り時に書いた感想をこちらの記事で書いています。

 興味のある方はお読みください。

ワールド・トレード・センター スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

(BD)

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2009/09/10

面接場面でのメタ・コミュニケーション自体を話題にする -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (3)

 ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第3回です(^^)

 すでに連載第1回で述べたように、クーパー博士は、本来非指示的(non-directive)で、面接場面での、クライエントさんの主体性と自己決定権を最大限尊重するはずのクライエント中心療法的アプローチ(パーソン・センタード・アプローチ[PCA])そのものが、もしクライエントさんに、その治療者に対して唯一期待し得る心理療法の技法となった場合に、それが、メタな次元では、クライエントさんが、クライエント中心療法に従うように強制されるという、セラピスト側からの「指示性(directive)」のある関係性転倒してしまうという、究極の逆説を提起した。

 カウンセリングにおいて、クライエントさんに何の成果もあがっていないように見える場合にも、面接だけはずるずると繰り返される場合があることはよく知られている。

 クーパー氏は、こうしたケースのことを「クライエントが面接を引き伸ばす(defer)傾向」と名づけ、「PCAを押し付けられた」場合、すなわち、クライエントにPCAアプローチが適していなかったにも関わらず、治療者側からのPCA的な介入を受け入れて(私なりに言い換えると、受け身に「甘受して」「甘んじて」いたに過ぎないことの示唆ではないかと述べた。

 心理セラピーにおける治療者とクライエントさんとの相互作用を見つめるに当たって、「メタ・コミュニケーション」の次元を重視することが大事であるということになる。

 具体的には、セラビー初期の段階で、

  • 「セラピーに何を望んでいますか?」
  • 「あなたは、私たち(セラピスト)が、どのようなことができるかもしれない(may)と感じていますか?」
  • 「これまでの経験の中で(そこにはそれまでのセラピー経験も含まれる)、あなたにとって、役に立ってきたことや、役立たなかったことは何ですか?」

などというテーマで、じっくりと話を聞いておくことが重要であるとする。

 また、面接の各回のはじめにも、

  • 「今回のセッションで何を得たいですか?」
  • 「今日は何を話し合ったら役立ちそうですか?」

などと率直に問いかけておくことも大事だとクーパー氏は述べた。

 パワーポイント上には書かれてはいないが、

「このような話し合いが十分なされないまま、漫然と面接が繰り返されることは、治療同盟上の傷を深めるだけだ」

・・・・クーパー氏はそこまで明言した。

*****

 クーパー氏らの教育・研修活動によって、すでに現在、最初から多元的アプローチに熟達すべく臨床専門教育を受けたカウンセラーが、育ち始めているという。

 そうした臨床実践家は、PCAに限らず、精神分析でも、認知行動療法でも、行動療法でも、様々な臨床実践の多種多様性の中から、その時の個々のクライエントさんに適した方法を提案できる能力を備えていくことが目指されている。

 つまり、クライエントさんが、セラピーから望むものを得ることをサポートするような実践である。

 (これが、クライエントさんが望むがままのものを差し出せる、無制限なまでの「何でも屋」になれ!ということとは異なることは、すでに第2回で述べた)

 そこに必要になってくるのは、「より拡張され、高められた次元で(enhanced)、メタコミュニケーションをしていく」ということだと、クーパー氏は論じる。

 そうした面接の実際では、そうした、治療者-クライエント間の「メタ・コミュニケーション」次元での話題が頻繁に出てくることになるはずだという。

 具体的に言うと、セラピーでクライエントさんが望むことやしたいことを、治療者がクライエントさんに確かめたり、それについての対話を進める場面が、かなりの頻度で出てくるはずということである。

 例えば、

 「確かに、私たちは、この時間帯に、この話題について話し合おうと決めていたわけです。私たちの間で、その話題の意味について理解を深めるような分かち合い方ができるかどうか[が肝心なん]ですよね。

 ・・・・・ちょっと思ったんですけど、その話題について、私の方から、いくつかの具体的な質問をして差し上げた方が、あなたの役に立ちそうですか? それとも、[そうした私からの質問なんて邪魔で、]あなたにとって話す必要があることを話してもらうことに時間を使った方がよろしいでしょうか」

などといった、セラピスト側からの問いかけを挟むことなどがそれである。

*****

今回で最終回にしたかったのですが、この部分、長さの割にはへヴィーとも感じましたので、残りの部分を更に分割して、次回に続く・・・・とさせていただきます。

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2009/09/09

メタ次元で「クライエント中心的」でありつつ、各流派の心理療法を、セラピーのひとつひとつの局面ごとに、柔軟に有効活用すること -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (2) [第3版]

 日本人間性心理学会第28会大会の特別招聘講師、ミック・クーパー(Mick Cooper)博士による特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」を拝聴した報告記の、前回に続く第2回である。

*****

 今回は、博士が実際に「多面的心理療法」を臨床現場で具体的にどのような形で実施するのかの方法論について述べたい。

 すなわち、治療者とクライエントの関係性というメタ次元で、クライエントさんの主体性と自己決定権を尊重する「クライエント中心(PCA)的」でありつつ、心理療法の諸技法を柔軟に使い分け、有効活用するための方法論である。

 クーパー氏は、基本的な仮説として、次のようなものを提起する:

「心理的な困難には、多数の原因があるだろう。

 ・・・・すべての用件にあてはまるような『正しい』セラピー方法は、ひとつではなさそうである。

 ・・・・異なる時、異なるプロセスが、異なる人の役に立つ」

(Cooper & McLeod,2007)

 そのためには、ある特定のクライエントさんとの間で進行しつつあるセラピーのプロセスを、個々の局面としてとらえて概念化する枠組みが必要だという。

 クーパー氏のいう「多面的アプローチ」は、あるクライエントさんにはクライエント中心療法が向いている、別のあるクライエントさんには認知行動療法が向いている、などと、単に、クライエントさんによって、セラピー手法を「使い分ける」というような「大まかな割り振り方」の域を完全に超えている、遥かに緻密なものなのである。

 詳しくは、大会準備委員会サイトにまもなくアップされるであろうパワーポイントファイル日本語版(講演時に配布されたものに更に大幅な修正がなされるとのことである)の図表31ページ以下の流れを追っていただくのが望ましいが、簡単にいうと、次のような項目を列挙して、矢印で相互関係を図示してある。

  • 目標(Goal)・・・・クライエントさんは、具体的に何がどうなることを求めているのか(セラピスト側が勝手に設定するのではない点が大事である)。
     例えば、「自尊感情を高めたい(自分にもっと自信をつけたい)」「お母さんとの関係をもっとうまくやって行きたい」「嗜癖的な習慣を止めたい」などといったことが、面接の中で、クライエントさんが求めていることとして、具体的に浮かび上がってくる可能性があるかもしれない。
     これらの「目標」は、互いに関連しあっているかもしれないし、別々の次元でとらえる方がいい場合もあることになる。
  • 課題(Task)・・・・クライエントさんのために、何ができるかについての、「一般的な方向性」のことを指す。
     例えば、「自己理解を深める」「具体的な場面での問題解決スキルを高める」など。
  • 【方法(Method)・・・・これは更に、「クライエントさんの(面接場面での具体的な)活動」と、「セラピストの(面接場面での具体的な)活動」に別れる。
     ここで大事なのは、面接場面でセラピスト側が何をするかが最終的に重要なのではなく、クライエントさんが何を選択をするかを尊重する「共同作業」としてなされていくことである。

 クーパー博士が具体例として掲げたのは、同一のクライエントさんの中に次のような系列が同時に構成要素としてあるケースである(p.33以下)

  • 【目標1】自尊感情を高める
    • ←【課題1】もっと自己受容できるようになる
    ←【クライエント側の行なう方法1】否定的な思い込みを覆すこと
     ←【セラピスト側が行なう方法1】
      否定的な思い込みに立ち向かう[ように促す]
      (恐らく、論理療法や認知行動療法、行動療法に近いアプローチであろう)

    ←【クライエント側の行なう方法2】自分についてオープンに語る
     ←【セラピスト側が行なう方法2-1】受容する
     ←【セラピスト側が行なう方法2-2】傾聴する(上記2つはクライエント中心療法的であろう)
     ←【セラピスト側が行なう方法2-3】質問する(「具体的な話題を引き出す」という意味ではなかろうか?)

    • ←【課題2】自分の中の肯定的な特質をリストアップする

  • 【目標2】お母さんともっとうまくやっていく

(以下略)


 ブログの表示能力の限界があるのでわかりにくいかもしれませんが、これは【目標】を頂点とするツリー構造のようにして、末広がりに枝分かれさせる形で、←【課題】←【クライエントの方法】←【セラピストの方法】を構造的に概念化する試みである。

 これらの構造は、セラピスト側が一方的に整理し、デザインし、具体的な方法を押し付ける形になってはならず、セラピー過程の実際の個々の具体的局面の中で、クライエントさんとセラピストの間の「共同作業」として形成され、試みられ、修正されていくことが重視されている。

 セラピー空間における変化の過程で、クライエントさんが「アクティブな行為者」として機能できるように援助するのがセラピストの務めということになる。

 そのためには、セラピスト側が、「どうすれば自分がクライエントさんのお役に立てそうか?」ということについて、クライエントさんにオープンに問いかけ続ける姿勢が必要となる。

 例えば、鬱状態のクライエントさんに対して、「多面的アプローチ」のセラピストだと次のように問いかけるかもしれない。

T:「鬱を改善する上で、あなたにとって、これまでどんなことをするのが役に立ちましたか?

C:「運動することです」

T:「ではどうやったら、運動する機会を増やせるのでしょうね?

 このようなやり取りを進める中で、クライエント自身も、それどころかセラピストの側ですら(!)思いつきもしなかった、予想外の、「コロンブスの卵」的な改善のための方法が見つけられるかもしれない。

 たとえば、そうしたやり取りを進める中で、その鬱のクライエントさんが、いつの間にか、「自分の現状について、誰かに、もっとオープンに話してみてもいいのではないか?」ということに気がついていく・・・・などという展開も、大いにありである。

****

 もっとも、こうした際に、クライエントさんの希望を訊く中で、そのセラピストにとって、できることとできないことがあることをも率直に伝えることが必要であることも、クーパー氏は強調している。

 例えば「自分が何をどうすればいいか」を逐一導いて欲しい、などとクライエントさんに言われたら、(中井久夫先生流に言えば)「治療者は、クライエントさんに自分を高く買わせてはならず」、それは自分には無理だということもフランクに伝えることが大事だということのようである。

 この点に関連して、フロアから池見陽先生が質問に立ち、

「そのクライエントさんに適切なアプローチが治療者としての自分の技法の引き出しをはみ出してあり、より適格者がいると感じた場合、他のその技法専門のセラピストに紹介する場合もあることも、クーパーさんの射程に入っていると理解していいのか?」

とお尋ねになった。

 クーパーさんの応えは”Yes, of course!"(「もちろんそうです」)であり、クライエントさんがある特定の課題実現について援助してもらうために、他の流派の専門家に手助けしてもらうことも十分に選択枝の中に組み入れるべきであると明言された。

 (池見先生が危惧されたのは、恐らく、聴衆であるカウンセラーたちが、いろいろの技法を学ぶのはいいけれども、「自分だけで何でも抱え込んで」セラピーを進める必要があるかのように理解しまいか? という思いではなかったろうかと、私は想像する)

*****

  次に、クーパー博士は、「多面主義アプローチ」をとるセラピストが、他のセラピストに対して取るべき立場について、次の3点を述べた。

  •  PCAの流れそのものが現在多様性を帯び、さまざまに分化した技法やアプローチが試みられているが、その時の個々のクライエントさんにふさわしい形でカスタマイズ(特化)された、[私なりに言い換えると、「テイラー・メイド」で「一品料理」化した]ひとつひとつのセラピー実践は、あくまでも尊重して、異論を挟むことはしない。
  •  しかし、「教条的で独善的(dogmastic)なパーソンセンタード性」には立ち向かっていく。
  •  PCAのセラピストが、他の流派のセラピーの諸原則や諸技法に対して、一定の的確な評価を持てるように促す役割とる。
     流派を問わず、セラピー領域が、ひとつの包括性を持つ文化であり、諸流派のセラピスト同士がお互いに適切に認めあって行けるような動きを擁護する。
     むしろ、積極的に、各流派の無用な対立(認知行動療法[CBT]のみが「国定」心理療法になってしまったイギリスでは特に顕著らしい・・・・英文だが、この記事などをお読みになると想像がつくだろう)に対する積極的な調停者の役割を果たす。

*****

 残りは、第3回にまわします。

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2009/09/08

「クライエント中心療法」が押し付けられた時、メタ次元では「セラピスト中心療法」になる! -Mick Cooper博士による、心理療法における多面的(pluralistic)アプローチ-  (1) [第2版]

 日本人間性心理学会第28回大会の参加報告の続きです。

 今回招聘された特別講師は、イギリス(スコットランド)のグラスゴーにある、ストラスクライド(Strathclyde)大学教授、ミック・クーパー(Mick Cooper)氏であった。

パーソンセンタード・アプローチの最前線 -PCA諸派のめざすもの- (共著)

  私は、28日の夕刻に催された2時間の特別講演、「多面的心理療法における理論・研究・実践」のみに出席したが、30日には、氏を講師とするワークショップも開かれている。

 この講演内容が、今の私にはたいへんエキサイティングだったので、ここでご紹介したい。

(なお、この講演の時のパワーポイントファイルの日本語訳が、近日中に大会準備委員会サイトで公開される筈であるが、私はすでに手元にあるパワーポイントの印刷資料と、そこに書きつけたメモに基づいて以下の内容を書いていくことをお許し願いたい)

******

 ここでクーパー氏が言う、心理療法における「多面的(pluralistic)」アプローチというのは、ある観点からすると、俗に「折衷的(eclectic)アプローチといわれるものと、外見上は類似している。

 つまり、心理療法の各流派の技法を臨機応変に柔軟に取り入れて活用する性質を持っている。

 ただし、そこにあるのは、単に「役立ちそうなものなら何でもあり、片っ端から総動員」ということではなく、基本にある一本のポリシーが通っている。

 それはある意味で、私が準拠し、国際資格を取得している「フォーカシング指向心理療法」が、単にフォーカシング技法を臨床現場に適用するという次元を遥かに越えて、精神分析から認知行動療法、行動療法に至るすべての流派のアプローチの「エンジンオイル」(隠し味)として役立てる柔軟性を指向していることと共通項を持つ。

 だが、クーパー氏の「多面的」アプローチは、より包括的なビジョンと方法論を提供してくれようとしているものにすら思われた。

 それは一言で言えば、面接過程の個々の局面(micro-steps)でどの技法を選択するかという点において、治療者とクライエントさんとの意思疎通を極めて重視し、最終的判断をクライエントさんに委ね続けるという、「メタ次元でのクライエント中心性」を絶えず維持していくための、臨床現場での具体的な方法論を持つという点である。

 このことを具体的に解説していくために、クーパー氏は、ロジャーズのクライエント中心療法をはじめとする、パーソン・センタード・アプローチ(PCA)の基本に流れるものの再確認から話を説き起こした。

******

 クーパー氏は説き起こす:

 パーソン・センタード・アプローチには、今日さまざまな広がりが生じているが、それらが共通して強調しているのは、「人間存在の独自性(uniqueness)」「自己決定の権利」の尊重である。

 「独自性の強調」とは、個々の人格を、交換可能ではない、かけがえのない独自性を持つものとみなすということである。

 更に言えば、「それぞれの人が生きている経験的なリアリティというのは、初源的にひとりひとり独自のものである(ロジャーズ)」。

 これは、裏を返すと、自分にとっての他者存在は、自分とは異なる独自の人格を持ち、独自の経験世界に生きていることを認めるということでもある。クーパー氏は、哲学者、レヴィナスの、

「他者の他者性は初源的に知りえないもの」

という言葉を引用している。

*****

 さて、こうした背景のもとに、例えばロジャーズのクライエント中心療法の「非指示(non-direstive)性」は成立した。クライエントさんの語りをひたすら受容・共感・セラピストの自己一致の原則で傾聴して行くものの、セラピーの時間に何をどこまでどのように語るか、あるいは、どこまでたどりついたらカウンセリング関係を成功し、終結していいものとみなすのかは、クライエントさん側の完全な主体性に委ねられることになる。

 そして、面接場面でのセラピストとの関係性の中での相互作用によって、クライエントさんは、それまでの生育暦の中で経験した、ある一定の条件を満たした場合にのみ価値ある存在として認められ、受容された(「条件付きの」肯定的配慮の)経験に基づく歪みから己れを解放し、その人らしいライフスタイルを自ら見出していくプロセスを歩み始めるものとされている。

 ところが、こうしたことを面接場面で可能にする理論と方法論を、ひとつだけに一元化しようとする傾向を、パーソン・センタードの療法家すら持っている(例えば、ロジャーズの「必要にして十分な条件」)。

 「これは、あらゆる時、すべてのクライアントに対して、ほんとうなのだろうか?」

・・・・と、クーパー氏は問いかける。

 様々な実証的リサーチの結果は、同じ技法を用いていても、クライエントさん個人によって、そのセラピーが有効であるかどうかが異なることを示しているという。

 例えば、多くのクライエントさんは、セラピストから共感してもらえたと感じる水準が高ければ高いほど、最善の成果を挙げていくことは確かである。

 しかし、セラピスト側の反応に人一倍過敏な傾向があるクライエントさん、疑い深さが強いクライエントさん、治療への動機付けに乏しいクライエントさんの場合には、セラピスト側の共感能力の高さが効果を発揮しないことがある。

(こういちろうの私見・・・・そして恐らく神田橋條治先生や、増井武士先生、田嶌誠一先生らの見地によれば、あまりにも細やかにセラピスト側が言語的にチューニングして応答したら、場合によっては[特に統合失調症や境界例性が強いクライエントさんの場合]、むしろ弊害が出るケースもあるように確かに思える。クライエントさんが「曖昧に、漠然と」感じていることを、それ以上明確化しないままに暗に認めてあげつつも、むしろクライエントさんの中で、適切な「体験的距離を見出す」ことを援助する方が望ましい場合が、確かにあるのである)

 逆に、ロジャーズ派的なセラピーから最善の成果を引き出し得るタイプのクライエントさんは、高い水準での抵抗力(resistance)・・・・私が推測するに、神田橋先生のいう、健全な「拒否能力」とほぼ同じもの・・・・、要するに、自分にとって違和を感じさせる外界からの働きかけに揺るがされにくく、応じない傾向が強く、自分自身に生じる様々な問題を、認知行動療法で言うところの「コーピング・スタイルの内在化」・・・・問題を容易にacting outすることなく、自分自身の関わる課題として引き受けて直視する力のようなものが高い場合が多いという。こうしたクライエントさんには、確かに、古典的でオーソドックスなクライエント中心療法で一貫して進めることが向いているといえる。

 いずれにしても、もし、クライエントさんがどう望もうと、自分の担当カウンセラーが、古典的なロジャーズ派の「非指示的な」カウンセリングでしか対応してくれず、それがそのカウンセラーに期待できる「唯一可能な」セラピーのあり方だったとすれば?

 この時、クライエントさんは、セラピストから、「非指示的な」カウンセリングを押し付けられる=「指示される」、という、メタ次元ではむしろ「指示的」療法に屈する渦中に置かれることになる!!

 これほどのパラドクス(逆説)があろうか?

*****

 ここで、クーパー氏の、「多面的(pluralistic)」アプローチの提唱の意義が明らかになりはじめるのだが、連載として第2回にまわすこととしたい。

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2009/09/07

鬱から勤務再開したばかりの人の最大の鬼門

 鬱の人は、ただでさえ朝が一番落ち込みやすいのである。

 これを「日内変動」と呼ぶことはよく知られているだろう。

 だから、鬱が深刻化し始めると、まずは朝の出勤時に、圧倒的なパワーで、「行きたくない!!」という気持ちが押し寄せ始める。

 復職をはじめた時も、まさにそうだ。

 ほとんど半べそになりながら、勤め先近くの駅の到着したホームで、駅前広場で、会社のビルの近くで、立ち尽くしている人たちは、たくさんいることと思います。

  中には、その日の朝、髪をしっかり巻いた家を出た女性もあるだろう。

 
私はその人に言いたい。

 あなたの巻き上げたその髪に、いたわりを持って報いてあげるにはどうしたらいいのでしょう?

 その日は、巻き上げたその髪のためにだけにでも、会社のドアをくぐってはいかがでしょうか?

 続けるかどうかは、その日勤務して、家に帰ってから考えるのでも、遅くはないとは思います。

 どうか、その日一日の自分を台なしにしないで!!


BGM : 中島みゆき - 歌でしか言えない - Maybe中島みゆき/Maybe

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2009/09/06

誰かに相談してもらえることへの感謝の念

 誰かが相談に応じてくれることへの感謝、ではない

 誰かに相談してもらえるだけで、感謝の念を感じていいのではないかということである。

 そして、私はこのことを、私のような援助的専門家の職業意識のありようとしてだけ述べているつもりもない

 一般の皆様が、家族や友人や恋人や同僚から相談を受けることについてもそのまま通じるのでないか?という意味でお書きしているつもりである。

****

 なぜなら、
 誰かがあなたに相談してくれるとすれば、
 その誰かは、
 あなたという人間存在を、
 何らかの意味で認めてくれていて、
 何らかの意味で信頼してみることに、取りあえず賭けてくれているからである。

 その人があなたに自分から差し出して、投げかけてれた<絆>に対して、敬意と感謝を持って応対する姿勢を失ったら、あなたは、今度は自分の方がいざ誰かに相談したいと思った時に、今度はなかなか喜んでそれに応じてくれる人が見つからないというしっぺ返しを食らうかもしれない。

 相談を受ける人は、相談してくれる人がいることで、その人なりの人間関係の<絆>の「潜在的な豊穣さ」を築き続けているのである。

****

 これをお読みの皆様の中には、

「情けは人の為ならず」

ということわざの本来の意味の話をしているだけじゃないか?と思われる方々もあるかもしれない。

 (このことわざがは、「情けをかけることは相手のためにならない」という意味ではないのに、誤解している人が少なくないことはよく知られているかとは思うが)

 でも、敢えて言いたい。

 私は単に「見返りが期待できる」ことを問題にしたいのではないのだ。

 見返りなど、多くの場合、ないかもしれない。

 しかし、あなたは、誰かから相談を受けたその時点で、人間関係の中に居られているのである。孤独ではないのである。

 このことの「逆説」のありがたみが身に染みてきた時、その人は、できる範囲で相手の話をともかく聴いてあげられるだけの時間を割く心の余裕を持つことができるのではないか。

 相手の話を表面的にしか聞かないうちに、安易に知ったかぶりの自分の意見を開帳するのではない形で、人の相談に乗るひとときの意味を噛み締められるのではないかとも思うのだが。

****

 また、この種のことを、今や廃れた「共依存」という概念だけで、十把ひとからげに、否定的に意味づけて説明して済ませるのは、いかがなものだろうか?

 「共依存」的人間関係なしで人間関係を築けているなど、実はどこにも居ないはずである。

 それが過剰に「嗜癖」化した人と、good enoughな人、「自立」とか「自己責任」幻想に溺れ、あまりに乏しい人が居るというだけではないかとすら思う。

 ・・・・・何より、自戒を込めて。

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2009/09/05

次に読む予定の本:内海健著「うつ病新時代 -双極2型障害という病-」 (第3版)

 

熊木先生の本に続いて読むことが決定(注文)したのがこの本です。

内海健/うつ病新時代 -双極2型障害という病-

 双極性II型についての精神科医の著作として、すでにAmazon等のネットの書評欄では高評価の人がたいへん多い本です。

 私がこの記事を書いた段階で、「読まないまま見切り発車した」と思わず口走ったのは、この本のことなのです(^^)

 Amazonでの、本書についての、SeaMountさんのレビューの後半を紹介させていただきます。

==========引用はじめ==========

 興味深かったのは、「双極2型障害」を持つ者の性格分析である。気分障害全般の病前性格を考えるうえで、前提となる原理は同調性であるという。そして、その同調性という根に由来しながらも、「つねに自己の境界を踏み越えていくモメント」と「他者に支持され、他者から自己規定を受けること」の二つに引き裂かれるのが双極性障害者の心性だとする。閉塞、停滞を忌避する前者の部分は、魅力的で才気あふれる人物をつくり、時にカルトやアングラ文化を志向するという。この部分が健全に機能するためには、常に回帰すべきハイマート(故郷)を持つことが必要であるとする。

 従来のうつ病のイメージは、経済成長期で、組織に対して忠誠をつくすことで適応ができた時代のものだという。「大きな物語」の失墜した「ポストモダン」の現代において、気分障害に親和性を持つ者の生き方の変容が、この本の大きなテーマである。「今や気分障害は自己確立をめぐる時点での、自立をめぐる病となりつつある。」といい、そこには、人の根源的な次元に触れるものもあると著者は考えているようである。

==========引用おわり==========

 今回は楽天ブックス経由での取り寄せなので、手に入るまでに少し時間がかかるかもしれませんが・・・・・

*****

【追記】

 この著作の感想こちらの記事から連載し始めることにしました。

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「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 熊木氏の著作を読み始めた段階で、私が草稿として書きながら、ここ1ヶ月、掲載棚上げにしていた記事を正式にアップしていい心境になった。

 以下はその内容である。

 臨床心理士の分際をわきまえない内容すら入っているであろうこと、部分的に脳生理学的に不正確な著述があってもお許しいただきたい。

===================================

 私は、このサイトで、これまで何回か、「人は鬱になることで『鬱』になる」という表現を繰り返してきた。

 現在のDSMなどの診断基準では、鬱病は「気分障害(=mood disorder)」の下位分類になっているが、この「気分障害」という言葉は非常に誤解を招きやすい側面があると思う。

 「気分」という言葉にしても、moodという言葉にせよ、日本語では何か曖昧な「気持ちの」状態であるに過ぎないかのように受け止められかねないからである。

 単に「落ち込みが持続する」のが鬱状態ではないのだ。私の考えでは、「落ち込み」とは、気分障害の「本態」としてその人の心身に生じている慢性的な脳生理的消耗状態(正確には、脳生理上の消耗に至らせる悪循環的なループ)の、二次的な「随伴物」のひとつであるに過ぎないようにすら感じられる。

 これも何回もこのサイトで書いてきたことだが、鬱(双極性障害も含む)の「本態」は、心身が極度に消耗したのに、それを「疲労」と実感できなくなってしまう形に脳内のメカニズムが慢性的に変化して、とりあえず不可逆的になってしまうという脳生理学的変容そのものではないか。

(このことを書いた最初が、当ブログの永遠の代表記事のようにして、アクセスランキングNo.1・・・・時には1位ではなくなるが・・・・を維持してきた、この記事である)

 そのごくごく軽微で、慢性化しないまますぐに回復するミニマムな形態は、一般の人でも実は何回も体験している。

 徹夜覚悟で仕事や勉強をしている時に、眠い眠いと思っていたのに、ある時から突如スイッチが切り替わる。

 頭が冴え、意欲が亢進し、いくらでも起きていられるかのようにすら感じ、実際に仕事が終わって横になった後も、頭が冴えて眠れなくなって困ってしまった経験が、これまでの人生で1回もないという人は滅多にいないと思う。

 そういう時には、独特の「脳が暖まっている」ともいえる感覚と、身体全体の「ふわふわした」感覚も伴うはずである。一種の「ランナーズ・ハイ」状態である。

 もちろん、そうやって眠れない夜を過ごしても、朝になる頃にはいつの間にか寝入っていて、目覚めた時には、今度は前の晩の無理のリバウンドであるかのように、心身に泥のような疲労感が襲い掛かるものであり、昼間は眠い目をこすりながらも何とか切り抜け、その日の晩に、文字通り爆睡する形になって、やっと普段の状態が回復するというケースがほとんどだろう。

 精神科医の中井久夫先生の言葉を借りれば、「48時間で帳尻が合う」というサイクルである。これが健康な人の「無理」→「疲労回復」過程なのだ。

 欝になる人の多くは、はっきり鬱になる前の時期のおいて、必ずしも徹夜仕事を重ねるわけではないにしても、長期に渡って非常に「気を張り詰めて」仕事や勉強を続けねばならない状況に身をさらすうちに、いわば慢性的な「ランナーズ・ハイ」状態に陥っていき、むしろ人間の心身の本来自然なバランス機能として生じるはずの、「リバウンド」としての怒涛のような疲労→爆睡ということそのものが、徐々に生じなくなって行く体験をしている(後から振り返ってみて、はじめて気がつけることなのだが)。

 こうしたことを繰り返す中で、疲労物質が生じると心身の活動水準を落とすという、動物である限りは当然備わった、休息に向けてに脳内の自然なフィードバック回路が徐々に機能不全になるともいえるだろう。

 素朴な比喩を承知で言うと、「レースコース」から一時的に「ピット・イン」させる方向にポイントを切り替える、本来自律的な脳内安全制御システム(フィードバック回路)に、いつの間にか、常に「ピット・インさせないまま走り切れ」という指令を出す、非常に危険なバイパス指令回路が形成されてしまうのだと思う。

 私の考えでは、これは行動主義心理学的な意味での、環境適応のための「条件付け」形成過程であると同時に、困ったことに、脳のある部分にある脳神経系の回路内で、神経繊維同士が、そういうバイパス回路を形成することそのものを「学習」してしまうという、生粋の脳生理学的次元での変化すら伴っているようにも思えるのである(お医者様向け追記:「シナプス可塑性」のことを言いたかったのです)。

 このような、他の動物の動物の常識ではあり得ない異常な心身の使い方で「脳神経を痛める」ことまでやらかしてしまえるのは、人間が文明の発展の中で、一日の半分は働くということを当然のこととするようになったことと大きく関係している。

 そして、むしろ、周囲が自分に何を求めているかに敏感で、働くということに過剰適応できる強靭な精神の持ち主こそが、結果的に脳の生理学作用を破綻にまで追い込んでしまうわけである。

(最近、「新型うつ病」に関連して、病気になる前は勤勉ではないタイプも増えているのではないかということも取りざたされ、何かというと「性格的な問題」という言い方が安易に使われる。しかし、そうした人の成育暦を探ってみると、学校時代の少なくともある段階までは、親の期待に応える非常な優等生だったり、親には決して迷惑をかけない「いい子」として育ったり、精神的にはもろさを持った親のいる不安定な家庭の中で、親の気配を察して必死に「トラブルシューター」として子供の頃から頑張り、親の不安をケアしてきた人まで含めると、やっぱり「過剰なまでの無理をする頑張り屋さん」だった歴史をどこかで長期にわたって持つという点では、共通項を持つことが多いことに気がつく。つまり、子供時代からずーっと一貫して無気力でアパシー的だった「新型うつ病」の人となると、なかなかいないのではなかろうか???) 

*****

 いずれにしても。本格的に鬱が出現する「直前の」、まだ仕事等の活動水準を維持できており、「落ち込み」は自覚しなかった時期に、持続的な睡眠障害を経験しなかったという人は滅多にいないだろう。

 本人はそれを「苦しい状況を切り抜ける強い自分になった」などとすら思い込んでしまうことも多いものである。実際には、そうやって無理を重ねた「負債」は心身のどこかに慢性的に蓄積されている筈だからである。

 それが実際に身体の調子を崩して(風邪ぐらいのこともあるが、実際にはっきりとした身体病になることがある。私にとってのそれは「尿管結石」になることだった)休みを取らざるを得なくなる機会を提供してくれればまだ幸いですらあるかもしれない。

 もとより、その身体疾患から取り合えず回復すると、また働いていた時のモードに戻って行くことが少なくない。でもそれは、身体病という形での「坑道のカナリア」からのせっかくのイエローカードを無視して更に突っ走る形になりやすいのである。

 こうして、その人の中の「疲労を感知して休息させる」脳内システムが、一度完全に機能不全に陥り、脳神経の伝達回路内での物質のやり取りの中で悪循環のループを確立してしまい、「疲れを疲れとして体験できない」状態で固定化してしまう。この段階で、脳そのものがかなりややこしい心身症状態に突っ込んでいるとも言えるだろう。

 本格的に鬱を発症する直前の数ヶ月の間に、こうした「以前よりも疲れを疲れとして感じずに、状況を切り抜けられてしまう」時期を持っていた人は非常に多いはずなのだが、なぜかこのことは意外なまでに鬱に関する本で語られていない気がする。

 漫画「ツレがうつになりまして。」では、ご主人のツレさんがソフトウェア会社で働けていた時代の末期の状態として、このことがはっきりと描かれている(NHKドラマ版ではこの点はやり過ごしている)。

 そして、こうして疲れを疲れとして体験できなくなって最低数ヶ月が経過した時点で、突如、「ブレーカーが下りる」。仕事を滞りなく進める気力が枯渇し、そういう自分にやっと「落ち込み始める」のである。

 私が「人は鬱になることで『鬱』になる」という時の、1つめの鬱という文字は、実は、この、脳内で形成されてしまった「疲労を疲労と感じなくなる悪循環のループ」(慢性ランナーズ・ハイ状態)の確立それ自体のことである。むしろ、健康な人にでも生じておかしくない次元での「普通の」落ち込みや疲労を感じられなくなるということなのだ。

 2つめの『鬱』という文字は、そういう慢性ランナーズ・ハイがついに限界に来て、心身が一気に消耗してしまって何もできなくなった後の自分に対する、深刻な絶望感のことである。

 長期的な無理を切り抜けるために自分の身体が産出した「脳内麻薬」の慢性的な中毒状態に一度陥り、身体自身の脳内麻薬生成プラントをことごとく食い尽くし、「操業停止」に陥らせるところまで心身の消耗が進んだ時に生じた、深刻な「脳内麻薬切れ」=神経伝達物質の「自己破産」状態が、おもてに表れた「うつ状態」の発症の時だとも言えるかもしれない。

 自分の身体の資源を切り刻むようにして、身体の内部から麻薬物質の捻出して、過酷な状況を自力で切り抜けようとしたのだ。大量の飲酒癖にすらならず、ましてや不法な薬物に手を出すこともなく、自分をひたすらランナーズ・ハイに誘導するという、文字通り「身を削る」形でである。

****

 実は、こうして脳内麻薬の「異常な産出回路」が脳神経内に確立されてしまうと、その悪循環ループというものは容易にその人から消え去らなくなる。

 薬を飲んで休養して、少しやる気が出てきたかなと思って活動し始めると、またもや悪循環ループのスイッチが入り、無理を無理と感じないまま活動し始めてしまう。

 その人の中の「脳内麻薬精製プラント」は壊滅的な打撃からとりあえず「復旧した」に過ぎないので、活動の再活性化は長持ちせず、再びブレーカーが落ちる。

 そして、「もう治りはじめたかと思ったのに、実はそうではなかった」という事実にその人は落胆し、落ち込む(これが私が「二次的な鬱」と呼ぶものである)。この時の落ち込みこそが、むしろ死にたくなるほどの絶望を招き寄せやすいものなのである。

 こうして「少し元気が出る→動いてみる→簡単に消耗する→挫折感」というサイクルが単に積み上げられるだけだと、その人の自信喪失と絶望感はどんどん深刻化する危険がある。

 実は、休養して鬱から相当程度回復したかに見える人にも、この、トリガーを引いたら暴走する悪循環ループは脳内にしっかりと残っていることが少なくないのである。

 SSRIなどの抗鬱剤そのものがこの悪循環ループ自体を消してくれるわけではないのではないか。薬物療法に真に見識のある医師の処方する薬物・・・・狭い意味での抗鬱剤に限らず、気分調整薬、抗不安薬、睡眠誘導剤などを含む・・・・が適切な効果を上げる際に生じているのは、実は一方で脳内麻薬の枯渇による、生へのエネルギー自体の「破産」に対する最低限の「公的救済処置」(自殺に至らないために)という側面を持ち、他方では、その人の中で再び自己破壊的な脳内麻薬産出プラントが安易に操業再開をする「引き金(トリガー)」になるような神経伝達物質の発動そのものやセンサーでの受容をむしろ妨げ、じっくり穏やかに休養してもらい、生体が本来持っている自然回復能力が徐々に賦活する中で、脳内でいつの間にか異常な回路形成に到達していた物質代謝メカニズムが、自然なバランスと働きにを取り戻すことをサポートするという、絶妙のカクテルを、その時のうつ患者のにふさわしい「一品料理」として調合するという形になっているはずである。

****

  少し前にも書いたが、いったん鬱になった人の中では、回復期になっても「その時の自分の心身がどのくらい疲労・消耗していて、どのくらいまでの無理なら、どのくらいの休息で回復できるか」というセルフ・モニタリング能力が決定的に損なわれたままになっているともいえる。

 これは、そうした「自分の無理と疲労度のシミュレーション」が当たり前のようにできた、以前の自分のことを思うと、ほんとうに悲しくなるまでに「自分の実感があてにならなくなる」ことなのである。

 穏やかな休息だけでは、社会で再びサバイバルするだけの脳の自然な働きまではなかなか回復しないのである。

 このセルフ・モニタリング能力の「再建」が必要なのである。いや、はっきりいって、それは「再建」ではないのだ。それまでは言わば「勘」に頼っていたセルフ・コントロール(それはすでに脳内で一度壊滅的に崩壊した)を自覚的に運用できるようになるために、それまで人の中に存在しなかった新たなスキルとして、自分の生体の無理と疲労のメカニズム監視と統御・・・・・休息にせよ、活動にせよ、その時に適切な行動選択を自律的にできる技能を「人工的に学習する」必要が生じてくるともいえるだろう。

 それは一度学習して身についてしまえば、言わば特定のスポーツのための運動能力や楽器の演奏、自動車の運転のように、普段はほとんど無意識に、まるで本来の天性のようにして活用できるものになるだろう。

 私が思うに、それこそが、鬱の人「のための」心理療法として展開されていくべき領域なのである。

 もちろん認知行動療法もそのひとつの重要な展開であろうし、応用行動分析(ABA)も非常に参考になる業績を含んでいるように私は感じている。

 私は、それらも視野に入れながら、フォーカシング技法を、鬱の人の心身状態のセルフモニタリングスキルと、そのモニタリングに基づいて生活の中でどのように小刻みなアクション・ステップを組み上げ、またもや燃え尽き→挫折の堂々巡りに陥らせることなく、休養時から新たに「持続的な成長可能な形で(経済用語!)」社会的活動範囲を広げていくために活用可能な、「学習可能なプログラム」として特化させて発展させることはたいへんな可能性を秘めていると考えて、模索しているところである。

(追記:この試みについてのとりあえずのまとめは、この草稿を書いた後、こちらの記事で書いた)

 恐らくそこには最近の神田橋條治・熊木徹夫両氏が探求している方向性も大きく関わりあってくるような予感があるが、まだ著作を手に入れて熟読できてはいない。

[・・・・・以上、09/08/11に書いたまま、掲載保留のままにしていた草稿を、上記の「追記」以外は、今回はじめて「そのまま」UP!]

=========================

 この段階で書いたことは、実際に熊木氏の著作を読み始めた今、いよいよ確信になってきている。

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2009/09/04

運命の出会いかもしれない・・・・・ (第2版)

 ついに、中井久夫先生と神田橋條治先生の「後継者」とまで言われる、熊木俊夫氏の著作に実際に目を通し始めることとなった。

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)


 実はまだ40ページばかり読み進めたに過ぎないのだが、もう、この段階できっぱり書いてしまおう!!

まさに「こんな」精神科医療の本をこそ、
私は読みたかったのだ!!

 敢えて不遜なことを言わせて頂ければ、私が現段階で精神医療に期待している理想のあり方とは、まさにこの著作で展開されている内容「それ自体」である。

 
更にいよいよ不遜なことをもうひとつ書くと(^^;)、私がこのブログで精神医療との連携の可能性について書いて来た内容とのシンクロ度半端ではない高さではないか!!

 きっと、私のことを、とっくに熊木シンパであると思っておられた読者の方もあるかもしれないが、とんでもない。

 だって、今日はじめて、めくってるんだもん!!

*****

 「<臨床感覚>は、個々の治療者が自らの身体を用いて、よりなまなましく対象に関わろうとすることでしか得ることはできない」(p.vii) 

 「やはり精神療法はこころに効くのだ。さらにそういった精神療法は、薬物療法と並行して行なわれているのが常であり、このことにいたく衝撃を受けた」(p.6)

 「治療者にとって薬物療法とは、単に一治療技法であるにとどまらず、薬を介した<生体との会話>なのである。(中略)そして<生体との対話>とは、言語表現としては到底すくいとれず、治療者・患者双方の身体感覚を通してしかわかりあえないような、より未分化で普遍的な生体とのコミュニケーション方法を指す」(pp.11-2)

 「私は今後、臨床家および患者の「薬物の官能評価[実際に飲んでみた結果として心身に徐々にどのような変化が生じるのかについての身体感覚次元での主観的効き心地。もちろん、不快感や、「効かない感じ」も含む]」の情報収集が成されることを強く期待する。
 患者という揺れ動く<構造>に対処するには、唯一の正解はない。
 治療上多くのパラメーター[変数]を同時に取り扱うためには、集積され各々の臨床家や患者に還元された種々雑多な「薬物の官能評価」の中から、臨床家各人が自分の感覚になじむものを鋭敏に選び取らなくてはならない。この営為もまた、治療的<構造>把握に向けての感度を上げていく過程で必要不可欠なプロセスであろう。
 そしてひいては、患者も、より自らの身体感覚に即した治療を受けることができるようになるのではなかろうか」(p.29)

 「<生体との会話>とは、言語表現というかたちをとる以前の、より未分化で普遍的な<わかりかた>のプロセスである」(p,32)

 「この人の話している<モゾモゾした気持ちの悪さ>とはどんな感じなんだろうか。実際のところ、この人のつらさをわかってあげられるのであろうか。いや、完全にわかることは不可能だろう。どれほど想像力を膨らまそうとも、この人に成り代わるわけではないのだから」(p.33)

・・・・この箇所など、私がこのブログで、すでに何回となく、北山修先生の作詞家としての代表作、「あな素晴らしい愛をもう一度」

 あの時同じ花を見て
 美しいと言った二人の
 心と心は
 今はもう通わない

を引き合いに出して伝えたかった「間主観性」の限界に関わる事柄を、嫌が上でも髣髴とさせる。

 そして、熊木氏は更に続ける:

 「そもそも、同じ感覚をわかってあげなくても、治療的関わりは可能なはずである。だとしたら、どのように関わっていけばよいのだろうか。やはり私なりの<患者の生体に対するわかり方>の方法論が必要となるだろう。この患者は治療という場において、特定な他者に開かれていなければならない・・・・・・。そんなことを考えながら患者のの身体を触診している時、私の身体はいくぶんなりとも患者の身体に同調してゆく。
 その感じに浸っているうちに、この身体は患者自身のものなのか、それとも、もしかすると私自身のものなのかもしれないという不分明さが生じてくる・・・・・」(pp.33-4)

 「「主観的身体像(P)[=患者さん(Patient)自身の感じている身体の感じ]」とは、<患者の有する自己の身体イメージ>と表現したものであり、対自的、ゆえに自閉的[阿世賀注:サリヴァン(中井訳)の言う「プロトタクシス的」]であるのが大きな特色である。たとえば、患者自身の頭痛の自覚などがこれにあたる。
 「主観的身体像(T)[=治療者Therapist)側の、患者の身体感覚についての、患者の身になっての「主観的」感覚]」は、これまでその重要性があまり顧みられなかったものである。<治療者が患者の身体について感じたこと>というのが、その意味するところのものなのだが、これではわかりにくいので、<治療者が自らの身体を映し鏡にして、患者の身体をモニタリングしたもの>とすればイメージが浮かびやすいだろう。
 治療者が自らの頭に頭痛があることを想定して、それをもとに想像してみた患者の訴える頭痛のつらさなどが、この一例である」(p.38)

 「私は、治療者が[患者自身の]「主観的身体像(P)」を共有しようとするすることが、まず必要なのではないかと考える」(p.39)

 「ただ誤解なきように付言すると、「主観的身体像(P)」と「主観的身体像(T)」は最終的には同じになることをめざすものではないし、また同じになっていくはずもない。
 治療において必要なのは、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」がどのようなものかを認識し、自らの[患者の身になって感じているつもりの]「主観的身体像(T)」についても自覚的になることである。
 その結果
、ともすれば硬直化しやすい患者の「主観的身体像(P)」がマイルドにほぐされていく[!!!!]
 
  (中略)

 治療者が患者の<からだをわかる>ということは,患者にとってみれば、「主観的身体像(P)」が治療者によって容認されたと感じられること。
 治療者にとってみれば、「主観的身体像(P)」の共有過程で「主観的身体像(P)」と「客観的身体像[測定可能な身体状態]」とを引き比べ,腑に落ちた』と感じられることである。それは同時に、主観的身体像(T)がひとまず完成を見ることである」(pp.40-1)

 「一般に世間で、患者に対する「受容と共感」の重要性が説かれているにもかかわらず、その方法化、いや、方法の意識化が不足しているのではなかろうか」(p.41)

こういちろう、激しく同意!!

 医者と違って、カウンセラーは「触診」ができないというだけのことで。

***** 

 更に、今日読んだ部分のダメ押し。

 「しかしどうしても、治療者が[患者の]「主観的身体像(P)」の理解に及ばない時もある。その場合、治療者の心のうちで一種のジレンマが生じてくる。それは、了解し得ないものに対する無力感と苛立ち、同時にその感情を受け入れまいとする否認の規制である。だが、この内なるジレンマにどのように向き合うかどうかが、治療のカギとなるであろう。
 もし、患者の訴える主観的身体像の<わからなさ>を容認することができるなら(治療者の「主観的身体像(T)」の歩み寄り)、患者の持つ苦痛と絶望をいくぶんか和らげ、訴えも少なくしてゆけるだろう」
(p.44)

 ・・・・これって、結局、私が常々このブログでも書いてきたし、

現代のエスプリ (No.410) 「治療者にとってのフォーカシング」(伊藤研一・阿世賀浩一郎 編)

でお書きした、

クライエントさんに対する「感情移入的フォーカシングモード」と、治療者自身の体験している「自己指向フォーカシングモード」の間に矛盾が生じて、クライエントさんに「感情移入したい自分」「しきれない自分」(feeling about feeling)の両方をsplitさせて「認めてあげる(acknowledging)」ことができたら、なぜかそれだけで、治療者としての私の中に生じた余裕が「空気伝染」して、クライエントさんにも「何となく」余裕を回復させ、そこから面接の膠着が再び開け出すことが多い・・・・という、私の面接術の奥義と同じこと言って下さってるようものではないか!!

●「受容・共感と自己一致の相克」シリーズ(5連作)

●フォーカシングのグループ活動において、身体の感じを通して傾聴し、言葉にしていく関係性の場を、さりげなく生み出すということ (2)-(7)

*****

 更に言えば(今回はっきり言ってしまおう)、私の今後の最大のテーマのひとつは、精神医療における薬物療法が更に効果を上げる上で、薬を飲む前と飲んだ後とでの未分化で曖昧な身体感覚の変化への感受性を、まずは治療者側が、ひょっとすると患者さん側も上げるためのトレーニングとしてフォーカシングを「限定的」かつ「特殊な」技法形態で発展できる可能性である。

 すでにそのための試論は書いています:

●フォーカシング技法を活用した、鬱状態のクライエントさんのための「主導型積分的フェルトセンス照合」スキルアップトレーニング(案)

 更に、これを機会に、この1ヶ月間、とりあえず掲載見合わせにしていた次の記事を正式にUPしました。

●「ランナーズ・ハイ」の行き着く先

 

*****

 熊木氏に影響を与えている神田橋條治先生が、実はフォーカシングの熱血応援団長みたいな役割を務めてくださっていということ、そして、中井久夫先生に至っては、どうみても天才型ナチュラル・フォーカサーですから、こういう結果になることは、予想できなくもなかったんですけど、まさかこれほどとは・・・・・。

 40ページ読む中でも、私にとって幾つも新たな発見や刺激になった部分が他にもたくさんあります。

 ほんとうに、すごい才能がある新世代精神科医が生まれたものである。

****

 それでも敢えて書いてしまいます。

 精神科医の皆様、熊木氏の本を読んでいて理解不能になったり、

「では具体的にどうすればそうしたセンスが磨けるのだ?
 これではアートだ!!」


・・・・などとお感じでしたら、どうか試しに、フォーカシングを、まずはご自身のセンス向上のためにお学びになって見てください(^^)

 きっと、スラスラ読めて、納得してしまいますよ!!

 

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2009/09/03

若手カウンセラーの方が、私たちよりも「したたかに」実力をつけていくのではないかという、大いなる期待

おゆとり様”世代を考える.(ココログニュース)

=========引用開始(若干改行を増やしました)========

 2002年度に“ゆとり教育”を導入した新学習指導要領。その頃に中学生だった人たちが今、成人を迎える時期にきている。物心ついた頃からずっと不況で、「貯蓄を重視」し「巣ごもり傾向がある」。

 その一方で『hanako世代』にあたる母親の影響を受け「ファッションには敏感」であり、それでも他人と比べるようなブランド物よりは、ユニクロなどのファストファッションを好む、といった特徴が見られるという。この世代を“おゆとり様”と呼ぶのだそう だ。

 高度経済成長期に熱い若者だった団塊の世代からは、「(おゆとり様には)社会人となり業務上で難題に対し、死ぬ気で何とかやり遂げようとする言動があるのかしら」と戸惑いの声があがる。

 身近な20代女性が「いかにお金をかけないで」楽しむことを重視しているのを見て「これが消費しない若者世代の モットーなのか(中略)そんな彼女たちのマインドにヒットする商品は なかなか難しい」(神戸ものがたり)と、彼らの消費行動が景気に影響を与えるとの見方も。

 一方で、ゆとり教育世代の息子を持つ『主婦だってがんばっちょる!』のブロガーは「どんな時代になろうとも地道が一番だし、何かあった時にやっぱり 必要になるのは貯金ですから」と、その堅実さを肯定する。

 また、“おゆとり様”の傾向分析やカテゴライズそのものに違和感を覚える人も多い。大学生と身近に接する人の中には、全体としてそのような傾向があることは認めつつ、「ファッション好き」と「貯蓄好き」の差は大きく、「別の物と思ったほうがいい」との意見がある。

 さらに「この多様化極まる時代にある 特定の層に“だけ”スポット当て、十把一からげ宜しくレッテル貼りの作業。もうこんな手法は飽きた」など、辛らつなコメントは少なくない。ラベリングで特 定の層を表現するのは、物事をわかりやすくしているように見える反面、肝心な部分を見落としてしまう可能性もあるのかもしれない。

(ははぎく)

=========引用終わり========

 先日、日本人間性心理学会第28回大会に出席したことはすでに述べた。

 この大会期間の中の2日間に、8つの時間帯の個人発表「枠」があった。この時間枠は、日本心理臨床学会大会のように互いに折り重なることはない。つまり、8つの個人発表を連続して聴くことが、参加者に可能な最大数であった。

 この折に、大学院博士後期過程在学中、ないし、少なくとも博士前期課程は修了して、臨床現場に出て数年以内の、非常に若い世代の臨床家たちの個人発表を7連続で「はしごして」回る形になった。

 正確に言うと、私が発表を聴いた中のお一人のみが中堅(というよりベテランの域に踏み込みつつある、私とほぼ同年齢の、学会でも著名な実力派カウンセラー)であり、残りの7人は、48歳の私よりも20歳は若い世代の方々だったのである。

 それらの人たちは、ここでいう「おゆとり様」世代よりはほんの少し上ということにはなるかもしれないのだが。

 事前に送られてきた論文集で目を通して、「ほう・・・・」と感心させられる"something"を感じた方の中からセレクトした。何とその結果、上の世代や同世代ではなくて、一番若い世代こそが、私の鑑識眼を刺激したことに、我ながら驚いたのである。

 これらの7名全員が、日本の「フォーカシング技法」および「フォーカシング指向心理療法」の「第3世代」というべき若手研究者・実践家である。

 もっとも、この学会は、フォーカシング関連の発表が非常に多い学会なので、同じ時間帯に別の教室でフォーカシング関連で発表される若い方すらいる(要するに、「裏番組」も観たい状態)・・・という苦渋すべき事態が頻発した。

 特に心理臨床系の個人発表のように、最低でも1時間の時間枠が与えられる発表についての、大会論文集上の抄録の情報量というものは、発表内容の全容を掌握するリソースとしては、実は不十分なものである。

 ですから、たまたま私が「究極の選択」に窮して会場に出向かなかった若手の発表者の皆様、どうか、別に阿世賀が「裏番組」の発表の方が優れているなどと判断したとは、夢にも思わないでいただきたい。

 私の身体はひとつしかないので、「行きたかったけど、行けなかった」だけです!!

*****

 全くおだてだとか餞(はなむけ)の儀礼などではなく、率直に申し上げたい。

 その7名の発表者の方全員が、私の期待以上の研究実践水準であった!!

 すでに我々フォーカシング「第2世代」(池見先生や、吉良先生、日笠さんや近田さんや村里さんや田村さんや天羽さんも含みます!)が、試行錯誤の中で日本に本格的に根付かせようとしてきた中で積み上げてきたものを、それぞれなりに「当然の前提」として咀嚼し、消化した上で、それぞれの現場に密着した問題意識を抱き、身につけた専門的なリサーチ能力を高度に駆使し、パワーポトントをはじめとする視聴覚素材での洗練されたプレゼンテーション能力も発揮 しながら、厳密な臨床研究手法で、一歩一歩前に進もうとされてる方々ばかりでした。

 池見先生や田村さんや私のような「古株」があら捜しすれば、確かにいろいろと理論的理解や技法実施上のテクニック、統計手法、研究デザインなどに関して、個々の問題点は指摘できますし、それらについては、その会場にいたこれらの先生方と共に、私も遠慮なく(でも簡潔に!)コメントさせていただきま した。

 しかし・・・・池見先生すらも休憩時間に私に漏らされたんですよ。

「『第3世代』は僕たちの若い頃の域をすでに超えかかっているのかもしれないね」

・・・と。

(注:日本のフォーカシング「第1世代」とは? 戦後しばらくして大学教育を受け、主としてカール・ロジャーズの「クライエント中心療法」や「非構成的エンカウンターグループ」の研究実践者として、1970年代までにすでに一定の業績を上げた先生方の中のある部分の先生方が、1978年に、ロジャーズの共同研究者でフォーカシング技法の創始者であるジェンドリンの来日を期に、フォーカシング技法の日本への紹介と摂取に尽力されることになる。故・都留春夫先生、我が恩師、故・村瀬孝雄、そして現在も活躍されている村山正治先生、大澤美枝子先生、白岩紘子先生、井上澄子先生をはじめとする、すでに60代以上の先生方を指します)

*****

 なるほど、今の若い世代の人は、私たちの若い時代に比べれば過酷な受験戦争を体験していないかもしれません。

 しかし、 こちらの記事で書いたこととも関連しますが、高度成長期からバブル崩壊前の楽観主義の中でしか、自分の進路や将来像を描けないまま社会に出てしまった世代に比べれば、自分たちが参入していく社会の現実をシビアにとらえ、自分の立ち位置と社会に出てからの歩み方について、非常に足が地に着いた考え方と判断力でやっていかざるを得ないように、子供時代から肌身で感じて育っていると思うのです。

 そのしたたかさが、実はこれからの日本を支える若い力になるのかもしれない。

 どうか、バブル崩壊以前に社会に出た、現在アラフォー「以上の」世代全体を、どんどん「実力で粉砕」して、「社会を動かす」側に回ってください。

 もし、言ってることややってることがヤバイと思ったら、本気で忠告します。必要を感じれば論戦も厭わない。

 いざとなったら、あなたたちを敵として、武器を手にとってでも、将来「内戦」するかもね!!

 それが、私の世代に、これからできることなのだと。

「おゆとり様世代の諸君、エースをねらえ!!」

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「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の主要過去記事を一番簡単に一覧するには

 このブログって、すでに創設4年9ヶ月、過去のエントリー記事総数が、「この」記事で1,914本め、なのに一日あたりの新エントリー、平均1.10本以上を現在も維持、しかも長文が多いという、へヴィー級ブログです。

 おかげで、もはや@ニフティココログが割り振ってくれているサーバー負荷が相当なものになっているせいか、

  • 私の方からトラックバックを送ることがもはや機能しない
  • pingも自動では飛ばせない(その割には随分多くの読者の皆様が、新記事アップ直後においでいただけることを幸いだと感じています)
  • カテゴリーにすべての記事が反映しない(カテゴリーによっては300から400エントリー分表示されようとするわけで)

・・・・・という、新しくおいでいただいた読者泣かせのブログになっていると思います m(_ _;)m

****

 もちろん、バックナンバー全体を表示してくれる、『アーカイヴ』ページ(自身がココログユーザー以外の読者の皆様、お気づきでしたか??? 右フレームの「バックナンバー」という文字そのものをクリックするとたどり着けます)というものも、あるにはあるわけです。

 しかし、このページにお行きになっていただいたとしても、過去の個々のエントリー記事のタイトル一覧があるわけですらない

 このページからの「〇年〇月」を全部めくっていただくだけでも(全く休眠した数ヶ月を除いても、現在50か月分ほどあるわけですね(^^;)。その50ヶ月分、それぞれ月ごとに、毎月30から40エントリーずつはあるわけですから・・・・・

 つまり、私がこのサイトでこれまで書いてきた主要記事がどんなものか、新しい読者の皆さんにおおよその見当をつけていただくには、もうデタラメにご不便をおかけしていることと思います   il||li _| ̄|○ il||li

*****

 この問題を一気に解決し、

  • 新記事の方が上に来る形で、
  • 過去の記事に関しては私がある程度絞り込んでセレクトしたものを、
  • 数百記事ばかり、1ページをスクロールできる形で
  • ブログのような表示の重さがない形で一覧したいただける

そういうページが、実はずっと以前から存在します!!

●阿世賀浩一郎のホームページ/index

 開設1995年12月(つまりWindows95発売直後)開設、日本において、インターネットで個人サイトを作ることが本格的に普及し始めた黎明期から、何と基本的なデザインを変えないまま運営し続けているサイトです。

 かつては、ネットを代表するエヴァ・サイトのひとつ、「エヴァンゲリオン論考」で著名だった時代もありますけど、幸いにして著作化させてもいただきましたので、そのコーナーは全面削除いたしておりますが(「ちーちゃんの部屋」というアニメコーナーがかつて存在したことを覚えておられる方もあると嬉しかったりして ^^;)・・・・

そのトップページから、このブログでの新エントリー記事を書く度ごとに、固定リンクへのリンクを、たいてい速攻の連続作業でお貼りしてもいるのです。

 恐らく、皆様のRSSリーダーに反映するスピードの比ではない「即時性」で「新着情報」が掲載され続けています。

 同一エントリー記事の更新(改版)情報すら、可能な限り早くお伝えしています。

 

そこに並んでいる、当ブログ個別記事へのリンク数は、常時数百あるはずです(古いものから時々、精選のための「ダイエット」をかけますので、一定数以上には増えません)。

 しかし、敢えて今でも、基本的には「素朴なhtml言語の手打ち」に依存し、javaスクリプトすらないに等しいということで、このトップページそのもののバイト数の多さの割には、表示が圧倒的に軽い筈です(このブログのトップページを表示するよりは軽いと思いますよ)

 
当方のアクセス解析によって、「こっちのページで新着情報見つけるほうが手っ取り早い」ことにお気づきの、毎日数名以上の固定ユーザーの方がおられることは掌握しています(感謝!!)。

 しかし、そうした方の占める比率が以前よりもかなり減っているようにも思いましたので、改めてご紹介させていただきました。

 

今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」をよろしくお願い申し上げます。

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2009/09/02

「サマーウォーズ」への極私的な感想 その3

前回の更に続き。

 陣内一族のはぐれ者だった侘助(わびすけ)が、「あんなとんでもないもの」を作り上げてしまった動機が、実は・・・・・・に認めてもらいたかったためだった、と判明した部分でも、こういちろうは怒涛の涙にむせんでいたのである(^^;)

 私の場合、行った先は、アメリカではなくて、東京だったけどね(^^)

 要するに、一族の先達の「凄さ」と愛情に「心底」気がついていると、子供というのは、とてつもない「自我理想」を抱き、それを実現できないと、故郷に錦を飾れないという、とてつもない思い込みにとらわれてしまうものなのである。

 以上、1年1ヶ月前に、故郷久留米に、道半ばで帰ってきてしまった、「実子の」こういちろうより。

(まだまだ続くかもしれない)

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睡魔に襲われる人へ(第2版)

コネタマ参加中: 睡魔に襲われたとき、どうやって眠気を覚ます?

 不可欠ではない過剰な労働をせず、退屈な人間関係に付き合いすぎることなく、夜更かしも程々にして(特に週の就労開始日前日、多くの人にとっては日曜日の晩ですね)きちんと熟睡していれば、睡魔に襲われる確率そのものがぐっと減ると思います(^^;)

 「眠気を覚ます」必要が頻繁に出てきた時点で、何かライフスタイルに問題出ているのかもしれない(^^)

 安眠できることこそ、人生の宝です!!

 悪条件の元で無理してでも働き続け、眠い目をこすり続けて働き続けた挙句、身体を壊したり、ましてうつ病になって休職する人が増えて行ったら、医療費が増える=社会保障費=会社や国庫の出費が増えるわけですね。

 しかもうつ病になれるくらいの人のかなりの部分って、人一倍有能な働き者なんですね。所得税納めてくれる、貴重な納税者をいったん失うわけですよ。

 そして、居眠り運転による交通事故(による交通渋滞に巻き込まれた人の経済損失だとか、事故からの復旧作業の費用)だとか、睡魔のために生じる作業ミス、更には、眠たいあまり降りるべき駅を乗り越したり、慌てて降りる際に網棚に大事な文書を忘れてしまい仕事が停滞するどころか、場合によっては顧客様の信用を失い契約解除!!なんていうものの経済損失っていうのもミニマムな次元で積み上がると思う。

・・・・・ということは、

「国民の睡眠の質を確保しよう!!」キャンペーン

とかを張ったら、少しは、日本の国力の再生、財政再建と、景気回復にも結びつくかもしれない???

 

 ・・・・・思わずコネタマのテーマそのものをおちょくってしまった(^^;)

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「サマーウォーズ」への極私的な感想 その2

■今回は「多少」ネタバレありなので、まだ観ていない人は読まない方がいいかも・・・・■

 前回の続き。

 この作品は、「オズ」というネット上の仮想世界と、長野の上田という地方都市の、古くからの親戚集団(実際には上田にこの時集まっていない人も含む。・・・そうそう、主人公、健二の学友の敬君忘れてた)というリアルワールドという、2つの舞台を果てしなく往復し続ける仕掛けになっている。

 ところが、それにもかかわらず、そこに登場する、固有名を与えられた人物は、ほぼ全員、仮想世界「オズ」上でのIDとアバターを持ちつつも、同時に、生活の中で顔を付き合わせる「既知の人物」であるという構造を持っている。

(「ラブ・マシーン」の開発者ですら「あの人」ですから、彼の人格からもはや解離して一人歩きしている、彼の「影」のようなものである)

 つまり、リアルワールドでの生身の人間としての直接コミュニケーションと、仮想空間上でのコミュニケーションが全く等価並列的同時進行してしまう。

 そして、リアルワールドでの古き良き日本の家族共同体の団結が、結局世界中のネット・ピープルをも動かし、全世界的な絆が達成される・・・・という、とんでもない筋書きになってしまっているのだ。

 ハッキングをモチーフにしているにもかかわらず、この映画で描かれているのは、ネット上の人間関係と、現実のフェイス・トゥー・フェイスの人間関係の、実にしなやかな連続性である。

 ある意味では、ネット上のコミュニケーションの方がリアルのコミュニケーションよりも浅くて表面的で演技的な別の自分であるという既成概念をぶち壊そうとしているともいえる。

 しかしそれは同時に、結局はリアルワールドでも「深い絆」で結ばれた人間同士であってこそ、はじめてネット上でも「深い絆」を持ち、リアルワールドをも揺り動かす力を発揮する、ネットの使い方すらできるのではないか?という、ネット人間の肥大したナルシシズムや全能感を粉々にしかねない「大逆説」すら読み取れてしまう作品になっている気がする。

 ネットとは、どこまで行っても、昔ながらの郵便や黒電話(^^)が単に進化したメディアであるに過ぎず、その向こうには「生身の人間」がいるのだ。生身の人間の心が動かなければ、信頼の絆がなければ、全くもって無力な、ただの道具である。

 そのことを、模範として示してくれたのが、栄おばあちゃんの、あのうず高く詰まれた手紙のやり取りの束であり、黒電話での全国指令なのだと思う。

(まだ続く)

●【公式】『サマーウォーズ』 時をかける少女監督の最新映画 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)

●サマーウォーズ 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)

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2009/09/01

「サマーウォーズ」への極私的な感想 その1

 今回は、いつもと違って、徹底的に「私情」だけでこの映画の感想を書こうと思う。

 栄おばあちゃんが、世界の危機を察知し、黒電話(!)を操り、猛烈な勢いで、的確な情勢判断をして、可能な限り、日本中の公私にわたる知り合いに連絡を取り、挨拶をし、必要なお願いをし、時には檄を飛ばす。

 このシーンで、私は不覚にも涙が止まらなくなってしまったのである。

 私にとってのリアルワールドに、まさに栄おばあちゃんを思わせる、圧倒的な存在感で、「日本的」人間関係を、酸いも甘いも噛み分け、「柔」と「硬」の両刀使いで立ち回ることができる、二人の老人がいる。

 ひとりは他ならぬ私の父であり、もうひとりは、私が実は最も尊敬しているカウンセラーの先生である(この先生については、私はこのブログでほとんど全く言及しないことにしている。「論じる資格などない」と、心の底から思っているので)。

 二人に共通するのは、日本的な「心配り」を信じられない域にまで細やかに配慮しながら人との関係を維持していくその抜群のセンスであり、それと共存する形で、いざとなると一歩も引かない逞しさで、現実と渡り合う、とてつもない腹の据わり方をしているところである。

 私は、その「私」と「公」一人ずつの、もう、今の日本でも珍しくなったかもしれない域の,古き良き日本の伝承者に、残りの人生では、とても永遠に追いつけないのではないかと感じつつも、薫陶を受ける機会に今も恵まれていることを、ほんとうに心から感謝したい。

 電話口の向こうの声は、栄おばあちゃんの声であり、この二人の老人の声であるということ。

(続く)

●「サマーウォーズ」公式サイト

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NTTタウンページ久留米・朝倉・鳥栖地区版に「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」掲載

 インターネットの方でこのことをご紹介するまでもないかもしれませんが(^^;)

Townpagekurume

 113ページにあります(^^)

 実は、湘南で開業していた時には、3年間の間でただの一件も、「タウンページを見て」と明言していただいたお客様はおいでにならなかったのです。

 しかし、久留米に来ましたら、ウェブサイトを観て下さったのが私の開業カウンセリングルームを知っていただけたきっかけのお客様が多いにもかかわらず、そもそも「インターネットメールで」カウンセリングのお申し込みをされる方がほとんどおられず、たいていの皆様が電話でお申し込みになるのですね。FAXで申し込みをされる方も滅多におられません。

 このあたりに関しては、関東と九州の地方都市の文化の違いが影響しているのではないかとも愚考しています。

 ですから、「紙の職業別電話帳」の存在意義も筑後地区では大きいのではないかという推測の元に、タウンページでの掲載に投資することにいたしました。

 

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薬をやめることをお焦りにならない方がいいですよ

●精神科薬物療法に対する猫山司のスタンス(メンタルクリニック.net by 猫山司)

 医師ではなくて、臨床心理士に過ぎない私ですが、この記事で猫山さんがお書きの問題提起について、全面的に共感させていただきます。

========(引用はじめ)==========

 さて、最近、拙ブログのコメント欄でセカンドオピニオンを求められることが多くなってきたように感じています。

 また、その内容に一定の傾向があるように思われるため、今後の無用な混乱を避けるために、精神科薬物療法に関する私のスタンスをここで改めて表明しておくことにします。

 というのも、最近寄せられるご質問やご相談に、「薬をやめたいのだがどうしたらよいか」という趣旨のものが目立つように感じられるからです。

 これまで私が拙ブログでベンゾジアゼピン系薬物や抗うつ薬の副作用や離脱症状について言及してきたからなのかもしれませんが、では私が実臨床でこれらの薬物を使用しないのかと言えばそんなことはありません。

 むしろ私は、向精神薬を積極的に治療に用いるタイプの精神科医であると自認しています。

 副作用が無い薬など存在しませんから、薬を使用することのメリットとデメリットのバランスを常に念頭に置いて置かなければなりませんが、少なくとも初期・ 急性期の治療における向精神薬の有用性に私は一片の疑いももっていません(将来的にはもっと有効で安全な治療法が現れる可能性は否定しませんが)。

 ただ、薬剤の選択や使用量、使用期間について精神科医はもっと敏感になるべきであるというのが私の持論であり、拙ブログで表明してきた主張であるつもりです。

 したがって、拙ブログに寄せられたご質問に対する回答も、「薬をいかにやめるか」ではなく、「薬の使用をいかに最適化していくか」という視点でお示ししていくことになると思います(薬の最適使用の中に「薬の中止」という選択肢も含まれます)。

========(引用終わり)==========

 この、ある意味で当たり前であるはずのことを敢えてネット上で告知せざるを得なくなった猫山医師の心情、コメディカルな専門家として、察してあまりある思いにかられました。

 薬物療法をお受けになっている皆様、そしてご家族の皆様にはっきりとこれだけは申し上げたいのですが、

「薬を飲んで、やっと通常の生活に耐えられるうちは、病気から『回復』したとはいえない」

「薬を飲まなくて済ませられるようにならないと、病気から『完治』したとはいえない」


という発想自体を、この際、とりあえずお捨てになってみてはいかがでしょうか?

 仮に全く薬なしの状態で完全に大丈夫になる時が来るとしても、それは数年以上先になるかもしれないことを想定していただく方がいいと思うのです。

 特に、統合失調症やある程度重いうつ病(双極性障害を含む)に罹患された方は、病気になる以前と全く同じ水準の激務に耐えられるようになった方ですら、少なくとも1つか2つの薬については、当面飲み続けないと、再発のリスクを大きく高めることが多いとということを肝に銘じてください。

 映画「ビューティフル・マインド」で描かれた内容を思い出していただきたいのです。主人公の数学者が勝手に薬をやめてしばらくして、何が起こったのかということ。


 私も以前別の記事で書きましたが、近視になったので眼鏡やコンタクトを活用するだとか、耳が遠くなったので補聴器をつける心臓が弱くなったのでペースメーカーをいつも装着するというのと、そんなに違いがない感覚の「生活ツール」として、薬の服用を当面考えるところまで「開き直って」みるのはいかがかと思うのです。

 いいお医者さんとの共同作業の中で吟味を重ね、調整され続け、適切な処方が維持された薬を、しかも毎日の生活の中でのベストのタイミングで服用し、それによって生じる、副作用に限らない、微妙な体調や気分変化に対するセルフ・モニタリングを頼りにしながら、生活のピンポイント的な要所要所で判断を誤らないで行動選択する習慣が根付いてしまえば、少なからぬ患者さんは、薬物療法の治療の進展がある段階に達すると、ほとんど日常生活や仕事に差しさわりがない域で生活で、のびのびと生活きるようになることが多いのです。

 この、「薬の力を借りて実現できた、とりあえずの回復」の水準をまずは目標にしてください。

 通院の際のお医者さんとのちょっとした情報交換ができてないばかりに、実は「それさえ聞けていたら処方が違ってくるよ!!」とお医者さん側すら感じてしまうくらいの形で、薬の出方が有効打でなくなっていることなど、あまりにもありふれています。

 ・・・・このことは信頼できますよ。

 少なくとも、「薬なしでカウンセリングだけで・・・・」という発想は、お勧めいたしません。

*****

 あるうつ状態のクライエントさんからうかがった話です(もちろん、複数の事例を混ぜ合わせ、ご本人にはわからないくらいに脚色して書きます)。

 そのクライエントさんは、すでに処方された抗うつ薬と抗不安薬で、かなりの程度の回復し、休職状態からリハビリ勤務に戻れたのですが、そうなると、今度は夜になってもなかなか寝つけないことに苦しみはじめました。

 眠りがだんだん浅くなり、週末ごろには疲れが溜まってしまうのです。

 「睡眠誘導剤は出ているの?」と訪ねてみると、全身の筋肉の緊張をほぐす抗不安薬であり、なおかつ睡眠誘導剤としても使われる種類の薬が出ていたのですね。

 ご本人は、休職中はそれさえあればぐっすりと眠れたそうです。

 そこで私は(お医者様の中に、「臨床心理士がそこまで僭越なアドバイスをするのか!」とお怒りの方があるかもしれないのを承知で書きます)、

 「仕事を再開したので、あなたの脳が『スイッチ・オン』になってしまうと、夜になってもブレーカーが容易に降りないモードにはまってしまっていて、これまでの眠剤だけでは不十分になったのかもしれないね。
 どうだい?眠れない時、
頭の中はどんな感じ?」

 するとその人は、

「いろんな考えがぐるぐる回って、忙しいままなんですよ。・・・・夢もたくさん見ます。夢の中でも、私は忙しく活動し続けて、しかもその結果酷い目にあってばかりいるんです。疲れる夢ばかりで・・・・」

 そこで私は、

「それじゃ、寝ている間のレム睡眠の時間帯も、あなたの心は、昼間と同じくらいに忙しく仕事をし続けているわけで、全然脳が休まっていないのかもしれないね。・・・・ひょっとするとさ、身体全体をリラックスさせる、抗不安剤も兼ねた眠剤だけでは、あなたの脳は休み切れないのかもしれない。ところが、世の中には、もっぱら脳を休ませることを狙い澄ましたタイプの睡眠誘導剤もあるの。・・・・そのへんのあたり、今度、お医者さんに話を向けてみるとどうかな?」

 そのクライエントさんは、通院先の医者に、私の目の前でやってもらったような、それまでよりもずっと具体的な「脳の実感描写」つきで、不眠の現状を訴えました。

 そして、睡眠誘導剤が別の種類のもの・・・・まさに、私が示唆した、脳を休ませることに特化した性質の「本格的」睡眠誘導剤に処方変更されていました。

 すると、そのクライエントさんは、最初の2,3日こそ。その新たな薬の副作用感(口が渇きやすくなり、ちょっと昼間の抑うつも強くなるなど)がありましたが、ともかく実にすっきりと熟睡できる境地に到達したことに、自分でも唖然としてしてしまったのです。

「睡眠時間5時間でも『熟睡した』と感じられてしまい、疲れが翌日に持ち越されないんです・・・・私が昼間、まだ鬱が抜けないとずっと思っていたのは、ひょっとしたら眠りが浅くて、疲れが翌日に残っていたに過ぎない部分まで勘違いしていたのかもしれない・・・・」

 私は念のためにアドバイスしました。

「念のために言っておくけど、
だからと言ってその薬に頼って無理をしては駄目ですよ。
特に、日曜日の晩の夜更かしだけは、なしにしなさいね。
普通の人ですら、日曜日の晩の夜更かしに始まる『負のスパイラル』がどんどん週末に向けて、疲れを貯める悪循環の引き金になる。
何なら金曜と土曜の晩だけは多少の夜更かしは自分へのご褒美としていいかもしれないけど、日曜日の晩だけは厳禁にしてみたらどうだろう?」

 クライエントさんは、「実は土曜日の夜更かしを止める自信だけはないんです」と苦笑しながらうなづきました。

 私は更に、

 「ところでさ、睡眠導入剤を飲むのは、ほんとうにベッドで横になる直前、ごく少量の水でにすることが鍵なんだよ。
 間違ってもベッドで読書とか始めたら駄目
だからね。
 たとえすぐに寝つけなくても明かりも消したまま、ひたすら横になって『目を閉じて』いるだけでも、脳を休めるのに相当程度役立っているんだと思うこと。」

 というと、クライエントさんは、

「・・・・すみません、眠れないと思うと、すぐにテレビつける癖、ありました(^^;)」

「どーしてもあと少しテレビ観たいなら、テレビ観終わってから、即、飲むこと。
 間違っても『飲んだら観るな』
ですね。
 睡眠誘導剤は、2時間寝ないままでいたら効果が消えます。
 しかもその晩に更に『追加して』飲むことは、身体への容量を超えてしまう薬が多いの。
 お医者さんからそういう、追加する飲み方もOKと明確に指示されていない眠剤は、一晩で一発勝負と思うように」

・・・・・ああ、どうして、こんなあたりまえの睡眠誘導剤の飲み方を、担当医師や処方箋薬局は本人に教えていないのだ全く!!

 臨床心理士が教えることではないはずではないか!!

*****

 この話には更に後日談がある。

 そのクライエントさんは、そうやって、時間短縮のリハビリ勤務を順調にこなし、ついに一ヵ月後にはフルタイム(ただし残業なし)での勤務に戻ることができた。

 彼女はそれがうれしくなり、母親に、「こうやって復職できたのは、どうも睡眠誘導剤を代えて、よく眠れるようになったからという気がしてならない」と口走ってしまった。

 すると彼女の母親曰く、

「でも、あなた、薬を飲んでいるからよく眠れるようになっただけでしょ?・・・それじゃ、治ったとはいえないじゃない?」

 ご本人は、その晩、ムカつきのあまり、実は隠し持っている、イザという時に時に「八つ当たりする」ため専用の、クッションでできた「犠牲の人形」に、久しぶりに、まち針を何回も刺し通したということである・・・ アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!。


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解けた魔法

 街には街固有の風景の空気があります。

 同じ東京近辺でも、東京駅近辺と、新宿と、渋谷と、上野、あるいは横浜とでは、全然町並みの「雰囲気」が異なりますよね。

 まして、東京に住んでいる人が、例えば名古屋、京都、大阪、仙台、札幌の駅前に降り立って、相互比較しただけでも、そうした、街の雰囲気のテイストの違いは、肌にひしひしと伝わるものではないかと思います。

 大学入学時に上京して、その後時々久留米に帰省するようになって以来、私は福岡や久留米の町並みが醸し出す、東京は異なる町の「空気」に、もはや「違和感」のようなものしか感じられなくなることに苦しんできたのです。

 「故郷」のはずなんだけど、懐かしいというより、もう、嫌になってしまったんですよ。

 福岡っていうのは、昔から東京への憧れと「上京指向」が格別に強い土地柄です。古くは井上陽水、近年では松田聖子や浜崎あゆみ(最近の「某事件」の人もですが)に代表されるように、非常に多くのミュージシャンや芸能人・俳優が福岡出身ですし、自民党をはじめとする過去の大物政治家で、福岡出身や、何らかの意味で近い血縁者が福岡という人(麻生さんや鳩山邦夫さんだってそうだ。鳩山邦夫は私の選挙区)の人が占める比率も驚くべきものがあります。

 そのせいか、日本の大都市の中では、実は東京をもろに「模倣しよう」という傾向が、福岡市には特に強い気がします。私見では、東京に首都を持っていかれた京都はいうまでもなく、大阪や名古屋に比べても、東京への「対抗意識」みたいな形で、独自の街イメージをデザインしようという意識そのものが、福岡市には基本的に欠落している気がする。

 (もっとも、天神地下街の空間デザインの醸し出す、白い蛍光灯を全面排除したシックな空間の独創性だけは、1976年、つまり何と33年前に作られて以来、基本的に変更なしを貫いているのに、現在も全く古びることはない、日本に誇る都市空間デザインの傑作と思いますので、福岡においでの若い皆様、キャナルシティ(「カナルシティ」と発音する人も多い)にばかり目を奪われすに、地下鉄で博多から天神まで出て来て、必ず街ブラ楽しんでくださいね。キャナルシティの方が、まだとこにもありがちな光景に近く、すぐに歴史的に古びるデザインに過ぎない私は思う)。

 例えば、福岡の中心である西鉄福岡天神駅前に降り立って、道路を天神コア側に渡って駅側を振り返ってみると、そこに見えてくる、まるで城壁のように立ち並ぶ駅前のビル群の光景は、例えば、西武デパートなどのビル群が立ち並ぶ、池袋東口の光景を一瞬思い出させるようなところがあります。

Fukuokatenjinekimae

 そもそも福岡のベイエリアの風景なんて、ホントにびっくりするほど、「お台場」の模倣そのものなんですよ。このページの下の方に載せた写真だけで明白でしょ? ここまでくると恥も外聞もないといいたくなるくらいに。もっともお台場には「ドーム球場」はありませんけどね(^^;)

 でも、やはり「福岡市」には「福岡市」固有の町並みのにおいがあり、「居心地」的に東京の代用にはならない。ましてや、人口30万以上で福岡県南部地域では最大都市(九州全体でも、いくつかの県庁所在地を抜き去り第8位)の久留米の光景なんて・・・・東京の街に類似の光景を探すのは、ちょっと難しいのです。

 私は、福岡や久留米に戻るたびに、すでにここが自分の「居場所」感覚を抱ける街ではなく、「異郷」のようにしか感じ得ず、安らげる都市ではなくなっていることに、この30年間苦しみ続けていました。

 ところが、ほんとうに不思議なことなのですが、おとといの晩に福岡空港に降り立った時から、何かがすべて変わってしまったのですね。

 福岡空港は、日本を代表する大空港のひとつとはいえ、そりゃ、羽田に比べれば小さいのは当然です。ところが、到着ロビーを歩き、空港発の久留米行き高速バスを待ち合わせていた時から、

「なーんだ、ここって、東京と似たり寄ったりの、東京の「すぐそばの」街に過ぎないじゃん!!」

という感覚が始まったのです。こんなの、これまで一度も感じたことがない感覚でした。

 それが、高速バスが、深夜の西鉄久留米の駅・・・・そりゃ、新宿あたりの深夜0時でも続く大ラッシュの光景からすれば人通りは「ないも同然」・・・に降り立っても変化なし。

「西鉄久留米駅だって、新宿駅のすぐそばにある、新宿と直結した町並みなのだよ」

Nishitetsukurumenishiguchi16

 翌日、(つまり、こっちの記事本文を深夜に書いた昨日の昼になってからですね)、私用で久留米市街地をあちこち歩いて回ったんですが、そうやって昼間の街の光景を味わっても、

「そうなの。ここは新宿とも八王子ともしっかりつながっている、『私の町』という点では同じなんだよ」

 ・・・・・・ついに、30年間、私がかかっていた「魔法」が解けてしまったのです。

 私の心をがんじがらめに縛り続けていた魔法。
 「関東にしか今後の人生はない」という魔法。

 「日本のどこだって日本であることには変わりないし、私のふるさとである」
 「どこでどうやっていくにしても、直面する困難と、果たすべき役割なんて似たようなものさ」

(少なくとも、久留米のような、百万都市まで30分圏内(あと2年で新幹線開通後はわずか12分!)の人口30万の都市に生きている限りは)

 「この」感覚・・・・今後解けることは、もうありえない・・・・そんな気がします。

(この記事、こちらの記事への私のコメントからの繰上げ再掲載です)

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うつ病者の「社会復帰」という言葉

 得てして使われるこの表現に、私は常々違和感を覚えている。

 この言葉には、どこかしら、雇用する側(働かせる側)の人間からの、「労働力として使える状態に復帰できるか否か」という観点で、この問題をとらえるようなニュアンスを嗅ぎ付けてしまうからである。

 極論すれば、あたかも、「使い物にならない人間は、この世で存在価値がない」みたいな。

 もちろん、これは私の感じ方であり、特にそう感じない方も少なくないと思う。やや「被害的で」すらあるのではないかと思う人もあるだろう。

 しかし、その一方、鬱で休職したり、仕事を辞めた経験がある皆様にとっては、幾ばくかの共感を感じてくださる方も稀れではないと思う。

 私としては、

「鬱で就労生活を中断せざるを得なかった人が、再び社会の中で自分の『居場所』があると実感できるようになるまでの過程」

なとどいう言い方を提案してみたくなる。

 この言い方だと、「雇用者サイド」の視点ではなく、「個々の実際に鬱になった人サイド」の視点からの問題設定になりはしまいか?

*****

 もっとも、この言い方だと、今度は、「一度鬱になったら、以前と同じように働けなっても仕方がない」という、逆方向でのニュアンスが出てきたと感じて、こっちの言い方をむしろ嫌悪する皆さんも当然出てきそうだとは感じる。

 しかし、実際に鬱からある程度回復しても、完治には至れないまま以前とほぼ同じ部署へと再就労できた人の中にすら、以前と同じような感覚でもはや職場に溶け込めないだとか、仕事を同じような張り合いにできない自分に直面し、困惑している皆さんも稀れではないはずだ。

 つまり、「社会復帰」できても、「居場所」感覚の方は、発病以前とは異なってしまっていることに困惑したままの皆さんは少なからずいるということである。

****

 ・・・・・この問題についてどのように専門家として援助ができるかこそ、私の後半生のライフワークの最も重要なひとつになると思っています。

 すでに具体的な活動企画として構想を練っています。

 追記:この後、すでに公表いたしました。

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