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2009/08/12

フォーカシングをやる中でイメージがひとり歩きし始めることに困惑しているみなさんへ(第2版)

 フォーカシングをしようと内面に注意を向けると、気になる事柄や身体の感じとの関連すら不明確な形で、あるイメージが「忽然と」生じてきて、それをただ「感じよう」としていると、イメージが別のものに変化して行き、突然消えてしまったりする・・・・・こうしたことに困惑するフォーカシング学習者の方は、決して珍しくないようです。リスナー(ガイド役)をしている側の人も、目の前のフォーカサーがこうした展開をはじめると、結構対処に困ることが少なくないかと思います。

 これが、身体の感覚についての「イメージ的」な表現であれば、多くの場合、対応にそんなに困惑しない筈です。単に身体感覚を「どのように」表現するかということであるに過ぎませんので。身体感覚と密着したイメージは、実際に身体の感じが変化していく小さなステップが生じないままに「一人歩き」することはあまり生じませんので。

少なくとも、

「なぜか、嵐か何かで大きな枝が折れてしまった樹木が浮かんできました」

などといったものなら、何か「意味シン」ですよね(^^)。フォーカサー自身も、ガイドの側も、これなら、自分の抱えた問題や、存在のあり方と関係しているものとして、フェルトセンスの次元で体験する「きっかけ」にはなりそうだという意欲(?)をかき立てられそうです(^^)

ところが、例えば、「目を閉じると、私の前で球体が輝いているのが見えてきました。見ていると、きれいですね」などとフォーカサーが報告したら?

今回は、ちょっとこの問題について、私の考えと、実践的対処法について述べてみましょう。

***** 

イメージは、内側に触れようとする中から、自然と生じてきたものである限り(つまり、意図的に何かを思い描こうとしたり、展開させようとしたのではない限り)、身体のプロセスの中から生じてきたものであることは違いないとは思います。

イメージが生じてきた(別のイメージに転換した)時に、例えば、

「この(新たな)イメージは、自分の置かれた状況や生活や存在のあり方、課題、気がかりや悩みと、どこかで何か響きあっているのかな?」

などと内側に(身体に)問いかけてみるのはいかがでしょうか?

身体の方が、この問いかけに対して「うなづいて」くれれば(たいてい、身体の中の「どこか」特定の部分の感じが、ポッと明かりがともるように鮮明に なり、「そこ」が応答してくれる形になるかと思います)、そのからだの「その」部分の感じとイメージの両方を共に大事に歓迎しながら、しばらく「共にい て」あげてみるのでいいのだろうと思います。

そういう際に、どんな気がかりや、生活状況と関連しているのかが具体的にピピッと実感できることもあります(頭で「推理」しようとしなくても。こうなるとそれはそれ自体小さなシフト(実感的な変化を伴う洞察)体験だといえます)。

例えば、先ほどの2つめの例の、「光る球体」について、自分の内側にこの問いかけをしてしばらくすると、胸の辺りに、何か「キュン!」とする感じが生じて来たします。そうなれば、

「ほんとうはこの光る球体は私の胸の中にあるんですよ」

だとか、

「暗闇の宇宙に浮かぶ光る天体・・・・確かに美しいんですけど、何か凄く孤独で寂しげな気がします。・・・・・「孤独で寂しい」・・・・・「こんなふうな」寂しさを私は感じながら生きているのかな? 私って、結構ナルシストなのかな?」

などという方向に展開したとすれば、もう、そのセミナーに参加している誰も、「この人はフォーカシングをしているのだろうか?」などと疑うことはないはずですよね?

(もっとも、私は、フォーカシングを学ぶ場が、「これはフェルトセンスを体験しているということなのだろうか」だとか、「これでフォーカシングをしていることになるのか」などということについて、ああだこうだと頭で論議する場になるようでは、そもそも好ましくないと思っています。大事なのは、「きちんとフォーカシングできること」ではありません!! フォーカシングを学ぶ場で、あなたが「満足する」ことです。「あなたが」満足できないのなら、フォーカシングのワークショップに通うことなどやめてしまいなさい)

*****

 その一方、「自分のなかの具体的にどういう課題と関連しているのかはっきり実感できないけれども、それでも、「どこかで何か」自分のあり方と関連して、このイ メージが生じていそうだという実感があるのであれば、それが具体的に「どういう」自分のあり方となのかを性急に捜し求めなくてもいいのですね(そうした気づきは、必要な時に「向こうから」やってきます)

*****

 そもそも、内側に注意を向ける中で自然発生的に生じてきた(つまり、無理やりに思い描こうとか、展開しようとしたのではない)イメージというのは、私は、体験過程の「暗黙の機能」の働きとして生じてきたことを信頼していいとは思います。

「暗黙の機能」とは、フェルトセンスとして注意を向けることすらしない(できない)次元で進行しているプロセスのことです(ジェンドリン論文集 「セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解」(村瀬・池見他訳)所収の「人格変化の一理論」、p.181の「d)知覚と行動の暗々裏の機能」参照)。

イメージは、この「暗黙の機能」の中から、直接に、いわば「バイパス・ルートを通って」意識に浮かび上がる場合も少なくないのですね。

つまり、イメージが、フェルトセンスを「飛ばして(スキップして)」生じてくることも、それはそれで自然な営みとして受け止めておくのがいいいように思います。

それは、昔ながらの心理学用語で言えば、「解離(dissociate)した」プロセスです。しかし、解離したプロセスですら、自分に「統合」されていないけれども、やはり「自分の-中から」から生じてきたことには変わりがないわけです。

ですから、技法としてのフォーカシングをする際に、仮に、生じてきた「その」イメージが、自分の気がかりや生活上の課題や存在のあり方とどこかで何か響きあって生じていることを、身体の感じが「裏付けて承認する」返事をその時には返してくれなくても、それでも敢えて、

「今は全然ピンと来ないけど、自分のあり方と『どこかで何か』関係する形で生じてきてくれたのかもしれないね。ありがとう

などと、そのイメージそのものに、一声かけてあげておく意味はあるのではないかとは思います。

※関連記事がこちらにあります。

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