抗うつ薬で眠くなるのは「副作用」? -そもそも「副作用」という概念をどうとらえるか-
この記事は、誤解を招く可能性が高いと判断して、削除しました。(12/01/11)
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この記事は、誤解を招く可能性が高いと判断して、削除しました。(12/01/11)
先日国会で成立した「農地法」改正は、「土地所有者中心主義」から「耕作者中心主義」への大胆な改革である。
働き手を失い、休耕地ばかり増えた日本の農業政策の歪みを正し、農業の大規模化と企業参入を促し、「内需拡大」し、食料自給率を回復させるという意味では、いざという時の「国防的」観点から見ても望ましい政策であろう(ここは多少ウィット)。
この制度の欠点として、法律の概要についての「論評全く抜きの」NHKの報道を元に、私が「全く自分の頭だけで」考えてみた問題点を列挙してみよう。、
1.小規模耕作にしか適さない土地の零細な農家がいよいよ経営的に淘汰され、過疎化が更に進む地域が出てくる可能性が高い。
2.外国の農業メジャー資本が日本に大規模進出する可能性にも目を向けるべき。輸出向き作物ばかりになっても困る。
3.大規模産業化は市場価格へのいろんなの影響も考えられる(1.につながる)。
4.大規模効率化の名の下に日本農村の自然生態系をいよいよ破壊する危険がある。
【第2版で追加】
この4.の点に関しては、
●農業開国論 第12回「農協トライアングルがついに崩壊?減反見直しの旗を立てた石破農水相の賭け」 (by 山下一仁 日経online)
における、
> 週末片手間にしか農業を行えない兼業農家より、規模の大きい農家の方が肥料や農薬の投入量を減らす環境に優しい農業を行うことができる。
という形で、大規模集約型農業経営の「長所」を指摘している見解にひとまず説得力を感じました。
なるほど、除草の点でもそうでしょうし、農業の門外漢なりに類比的に想像しても、およそ「薬」というものは、少量ずつ少しずつ投与する方が「体内に吸収」される効率はよく、再び「排泄」(用水路に流れ出さず)に済むものかと思いますし、長期間効果を維持する農薬や肥料の方が何かと問題も多いのではないかと思います。
こうした観点から、この4.の懸念については、とりあえず取り消させていただいておきます。
例えば、すでに近代的な用水路が整備されてしまった、大規模耕作機械も導入可能な平野部の米どころなどでは、大規模集約型経営の方が、農作業の直接管理をするチーフが手を抜かなければ、環境メリットの方が大きいと思われます。
しかし、もちろん、小規模農家の切捨てが好ましいのか? 企業的に作られると作物に非常な偏りが生じないか??? などという大問題を軽視していいというものではないと思います。
重要なのは、こうした点まで国民の幅広い層が注目し、十分な議論をしないまま、この法律の改正が、特に都市部の有権者にとって小さな問題であるかのようにして進行している現実でしょう。
【ここまで第2版での追加】
*****
更にもうひとつ、重要なポイント。
特に日本の農村の、自民党支持層の皆様に問題提起したい。
5.実際には若者はほとんど農業回帰せず、そこで雇われて働くのが、賃金の安い「外国人労働者」中心となり、日本の地方の農村には外国人が満ち溢れる自体が生じる可能性が高い。
さあ、こうして、都市部に留まらず、「国籍問題」や「外国人参政権問題」が農村でも一気に深刻化するのである。
*****
過去の歴史について学ぶことは、歴史の先について、ちょっと想像力をふくらませてみるセンスに結びついた時に始めて意味があると思います。
すると、
「自民党は、大規模耕作に不向きな農村の過疎化を更に『推し進め』、今後、地方の農業に、大量の外国人労働者を雇用できる集約型農業施設の設置を容易にする『ために』、実はこの法律を制定した」
つまり、農村の長年の自民党支持者をいよいよ裏切り、だまし討ちするような法律を平然と制定した!!
という仮説が浮上したわけである。
(少なくとも、そうなる危険性に当面目をそらしたまま、この法律を制定してしまったのは確かだろう)
自民党が、地方の農村票を失わないために、何かに目隠しして、曖昧にしたままこの法律を通してしまっていないこそ、注視すべきではないか。
農村の皆様、こうした点についてお人よしにならないまま、今度の選挙には投票いたしましょう!!
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ちなみに、私個人は外国人差別には反対の立場です。
私がこの記事でシミュレーションしてみた「論理の戦略」にこそ、私がお伝えしたいことの本質があります。
つまり、私は、敢えて、「保守主義者」の思考法を徹底して採用してシミュレートする、思考実験をしてみただけです(^^;)
「借り物でない意見」をネットで発信する、とはどういうことかということ。
そんなに日本の農政に詳しくなくても、調べなくても、自分でものごとを考え、想像力を膨らませ、現実吟味をできる人間なら、解説や論評抜きの1分ぐらいのNHKニュースからだけで思い至れるのではないかなあ・・・と。
*****
更にもう一点付け加えれば、自分とはものの感じ方や考え方が違う相手の思考法や感じ方に「あたかも自分自身であるかのように」感情移入し、その人ならどのように感じ、考え、判断するかについて刻々とシミュレーションしながらも、同時に、自分自身がそれに対してどのような違和感を感じているかについても刻々と気づいていられ、自分を見失わないこと(「自己一致」していられること)は、ロジャーズの来談者中心療法に限らず、およそカウンセラーたる者にとってたいへん大事な能力であろう。
それは、カウンセリングを超えて、およそどのような事柄に接する際にも活用できるのである。
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【第2版で追加】
すでに紹介した山下一仁氏の「農業開国論」の別記事、
●平成の農政改革と呼ぶには程遠い 農地法改正は「昭和の懐メロ」だ(第14回)
によれば、実は今回の農地法改正においても、日本農業の大規模集約化による再生という観点から見ると、企業参入にあまりにも障害が多過ぎるという論が展開されています。そこでは民主党が修正した部分の問題とかも消し飛んで、自民党の「農政族」議員の多くを敵に回しかねない大胆な提言がなされていく。自作農家がどんどん淘汰されて集約されていくことをやむを得ずという、徹底的にマクロ経済学の視点から見た政策見解。
この人はそもそも減反政策をやめて米の値段が下がって自作を諦める農業者が淘汰される過程で米作を企業的に大規模集約化、日本のおいしい米をアジア諸国への重要な輸出品目にするという壮大な提案をしている。
「内需拡大」や「産業振興」について決定的な政策を打ち出せないまま国民にひたすら我慢を強い、老後の不安も解消できないまま、未来に希望を見出せない勤労者をより過酷な勤務状態に追い詰め、うつ病者を増やすばかりになりかねないばかりか、多くの障害者の自己負担分を増加させた、現状の日本の政策展開を見るにつけ、こういう「建設的な」(あくまでも「 」入りだが)政策ビジョンも興味深く感じたので、その所在を紹介しておくことにした。
こういう巨視的な見解こそ、目先の利害や組織票を超えた「徹底した保守主義」の、ひとつの見識なのかもしれない???
・・・・・もとより、このように書くのはかなりきついウィットを込めているつもりであり(^^;)、私個人は、とても単純に賛成する気にはなっていないのであるが。
【第2版で追加+第3版で更に誤解なきように末尾を追加】
復活!! ベスト20集計の3回めです。
前回危惧したとおり、30日に一度の集計に切り替えた結果、統計の公表を2日忘れていました(^^;)
でも、前日までの30日間の集計じゃないと簡単にはできないので、今回は、5/24-25の分は反映させないままでやらせていただきます。
「毎週のベスト10」は右フレームに自動集計されて表示されています(前日までの7日間とカスタマイズしています)ので、今後はそちらをご参照くだされば幸いです(^^)
以下の統計は、PCサイト版へのアクセスにのみ基づき作成されています。
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以前と同様、@niftyにある私の3つのブログ、今のところ5つのフォトアルバム、更に全体のプロフィールページを含めた総合ランキングです。
この「カウンセラーこういちろうの雑記帳」の記事については【雑記帳】、
「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」公式サイトの記事については【開業サイト】
と略記することにします。
稀に私の他のブログ・フォトアルバムもランキング入りすることがありますが、その際は略称を用いずに【 】入りで表示します。
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個別記事エントリーだけではなく各ブログの「トップページ」「カテゴリーインデックス」「毎月のバックアップのインデックス」および全体の「プロフィール」ページも集計の対象にしています。
この結果、個々のエントリーの最高位は、よほどのことがない限り3位になってしまいますが、もし2位以上になれば、その記事が個別エントリーとしてその一ヶ月によほど読まれた、慶賀すべき事柄です(^^)
もっとも、この30日間の間には、「ためしてガッテン」についての記事の、6/21-22の「はてな」サイトにおける「ドミノ倒し」的スマッシュ・ヒット事件が生じたおかげで、普段の一ヶ月とは異なる、異常なアクセス結果が出ていますので、その「慶賀すべき」を通り越して、呆然とするしかなかった、「17年蝉の大発生」みたいな(?)、異常なランキングなんですが(^^;)
・・・・・あー、ホントに、大型台風直撃のようだった(爆)
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アクセス数が同じ場合には、訪問者実数上位の記事を上位とし,訪問者実数も同じ場合にのみ、同じ順位として掲載します。
30×24時間、つまり今回は、6/24日(土)24:00の時点での集計です。
●この1ヶ月間のPCサイト総アクセス数(TA)、延べ39,746アクセス(前回14,364アクセス)
1日平均アクセス(前回1324.87アクセス)
訪問者実数(UA)は、33,937名様(前回10,726名様)
1日平均1131.23名様(前回357.53名様)
うち、
●【雑記帳】のアクセス数(TA)、延べ34,148アクセス(前回11,790アクセス)
1日平均1138.27アクセス(前回393.00アクセス)
訪問者実数(UA)は、29,675名様(前回8,931名)
1日平均989.17名様(前回297.70名様)
●【開業サイト】のアクセス数(TA)、延べ5,149アクセス(前回2,330アクセス)
1日平均171.63アクセス(前回76.67アクセス)
訪問者実数(UA)は、3,934名様(前回1,630名様)
1日平均131.13名様(前回54.33名様)
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●PC全サイト総合での「一限さんでない率(リピーター率) 6.0%(前回7.6%)
「毎日必ず」おいでになる「完璧常連様」は、39名様 1.5% (前回6名様 0.3%)。
※【開業サイト】単独での「一限さんでない率(リピーター率) 9.6%(前回13.3%)
●それでは記事別ランキングの方の発表!!
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1.【雑記帳】NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療」- [15,697アクセス/14,533名様]
2.【雑記帳】トップページ (↓) [2,107アクセス/1,116名様]
3.【雑記帳】「眠らないままでいよう」とする衝動を語った鬱の人 [1,284アクセス/1,199名様]
4.【開業サイト】NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について [780アクセス/581名様]
5.【雑記帳】「治療」と「養生」の違い。人類は鬱になった人に「恩」を感じ、「感謝」を忘れてはならないということ [691アクセス/643名様]
6.【開業サイト】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第1話の段階での感想と今後の展開への期待 [651アクセス/554名様]
7.【雑記帳】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第1話、十分に内容があったと思います。 [432アクセス/329名様] =6位の記事の別バージョン
8.【開業サイト】トップページ (↓) [431アクセス/258名様]
9.【雑記帳】欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている (↓) [411アクセス/361名様]
10.【雑記帳】エージング効果は抜群だけど、アンプやスピーカー、ヘッドフォン壊れても自己責任!!でお願いしたい方法(↓) [402アクセス/345名様]
11.【雑記帳】「カウンセリング」と「身の上相談」の違い (↓) [334アクセス/234名様]
12.【開業サイト】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話 [291アクセス/209名様]
13.【雑記帳】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第2話 [281アクセス/217名様] =12位の記事と同一内容
14.【雑記帳】「ツレがうつになりまして。」原作も読みました。 [272アクセス/251名様]
15.【開業サイト】双極性障害(躁うつ病)と単なるうつ病とでは薬の処方が全く異なる -NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」への感想(2)- (↑) [260アクセス/210名様]
16.【雑記帳】「ゴースト」と「ファントム」 -押井守と神田橋條治の共通項- [253アクセス/237名様]
17.【雑記帳】SkypeやWindows Live Messengerの使い方の勘所は、「自動調整」を外すこと。 (↓) [234アクセス/196名様]
18.【雑記帳】NHKドラマ「ツレがうつになりまして。」第3話 [219アクセス/175名様]
19.【開業サイト】特集記事: NHKスペシャル 「うつ病治療 常識が変わる」(カテゴリー。全文1ページで読めます) [196アクセス/151名様]
20.【雑記帳】NHKのクローズアップ現代・「抗うつ薬の死角 ~転換迫られるうつ病治療~」について [180アクセス/142名様] =4位と同一内容
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私の@niftyココログPCサイト全体の通算アクセス数は、6/25 18:07現在、全体で541,888アクセスです。(前回512,136アクセス)
【雑記帳】通算記事数は、この記事で1,850本めです。この30日に42本記事を書いたことになります。
【開業サイト】通算記事数は、119本です。NHK番組関係の感想が多かったこともあり、【雑記帳】との並行掲載記事が多数出て、この30日間に16本でした。
今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」および「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」公式サイトを、よろしくお願い申し上げます。
このDVDに関しては、実は何年か前に購入していながら、封を切らないでいた。ちょうどいいタイミングなので、やっと観てみる気になった。
もっとも、この映画においては、押井さんは、原作と脚本のみである。しかし、押井さんといつも仕事をしてきたスタッフたちの手により、実に見事に押井ワールドが構築されている。ある意味で、「総合的なバランスのよさ」という点では、押井作品の中でも出色の完成度といっていいのではなかろうか。
もっとも、ある独特のいびつさ、バロック的ともマニエリズムといいたくなる側面というのも、彼の作品の独特の魅力なのだが・・・・ベートーヴェンだって、作品としては無茶苦茶にいびつであり、作品発表直後は批評家に叩かれまくったものだ。
そして、ベートーヴェンが、ピアノの性能向上をはじめとする最先端の楽器をいち早く採用し、それまでの古い楽器では描き切れないものを無理やり楽譜に詰め込んだのと同様に、押井さんの作品には、最先端のアニメ技術を予算的に可能な範囲で、まるで「船の甲板の板まで引っ剥がして薪にくべるようにつぎ込む(精神科医、中井久夫先生が自著、「西欧精神医学背景史」について「あと書き」で語った表現)」ために生じる、画面として観た際に生じる独特の不整合感・・・・旧手法と新手法の「きしみ」のようなものがひっかかりを残すのも、やむを得ない。
押井さんの作品が古典になった時、こうした面をどうこういう批評はもはやあまりなされなくなっていくはずである・・・・まさに、ベートーヴェンのごとく。
*****
公開されたのは、"GHOST IN THE SHELL"(1995)の後の時期にあたる2000年である。この公開年から考えれば、CGを全くに近く使わず、セルアニメの手法のみで、しかもここまで贅沢に豊穣に描き切った、その画面の醸し出す雰囲気は、作品世界の、昭和30年代後半のパラレルワールドのレトロな空気とも見事にマッチして、何とも贅沢な映像体験をさせてもらっているという思いを強くする。なかなか、ここまで、セル動画や背景画に一切の手抜きなしの均質性というのは、現実には体験したことがない。
物語世界については、結局、国の警察機関内部とセクトとの間での人間関係に閉ざされおり、そうした組織の論理が前面に打ち出されているため、それだけで「作品世界が閉じている」云々と言い出して、この映画に入れないという人も結構あるのだろうと想像する。しかし、そのことだけで、この映画を「作家性優先」だとか「オナニー映画」などと言い出す人は、どんなものかなあ・・・・と、率直に言って、思う。性急に「自分の願望」を満たしてくれない映画を単に「気に入らない」というだけならばともかく。
この作品世界にほとんど相似の現実は、第3世界にいかに満ち溢れていることだろう。自爆テロ、どこまでが一般市民でどこまでがテロリストかわからない世界、一国の中で警察や軍事機構が複雑な構造を持ち、互いに権力争いしている世界・・・・・実は「ありふれた」現実ではないか。
押井氏は、自らの学生運動体験(その中での恋愛体験?)へのオマージュをも込めながら、そうした世界の現実を、パラレルワールドの日本に招聘し、観客の目に突きつけただけだとすらいえる。
そして、何らかの意味で組織や団体やグループに加入しているもの同士が出会う時、まさにここで繰り広げられているようなことが生じているのだ。これは我々が幼稚園や小学校時代から積み上げてきた、社会との軋轢の歴史である。組織の論理に憑依される人々。構成員の間の内部闘争、建前と本音、権謀術数、「社会正義のための(ヒューマンな)」組織の内部ですら進行する冷酷な非人間性と闇、裏切りや嘘。秘められた恋と、それを不条理な思いを抱きつつも断ち切る(断ち切られる)ようなことは、人生の中で少なからぬ人が身近に遭遇してきた現実のはず。武器や殺人がなく、主人公のように無敵のスペシャリストではないというだけのことであろう。
そのことを思う時、この映画は、辛口だが、何とまっとうな、男と女の出会いと別れの物語ではないかと思う。それを描くのに、ヌードシーンはワン・シーンも不要なのだ。
これだけ、「ごく普通の」大人の感受性を維持した「成熟した」アニメ映像作家が、日本のどこにいるだろう?
(そういう人を知らないだけかもしれないが。・・・・・敢えて言う、宮崎さんだとは、私には思えない。宮崎さんは、社会的要請によって、必死に「大人の代表」を演じなければならなくなった、絶えず「背伸び」を強いられてきた、「永遠の少年」のように感じられて仕方がないのだ。押井さんの方が、「等身大」のままでいられている。「だから」ジブリに後継者が育たないのだ! 押井さんの方が、この作品の監督の沖浦さんをはじめとして、結果的に、後進を順調に育てているように見える。そうした人たちは単なる押井さんの劣化コピーにはならないないだろう)
押井さんより9歳年下だが、昭和35年生まれであるおかげで、この作品の中で描かれている風景が、幼児期の「テレビを介さない」記憶として残っている世代として。
押井さんだって、このくらい「普通の」脚本を書く時は書くのである。
この押井守氏の劇場版アニメーション映画を、男と女の物語として十分味あわずして、この映画について、ちまたにあふれる、「変わらない現実をどう変えるか」云々の物語として理解しようとするのは、この映画の苦味を、澱(おり)まで飲み干して味わうことにはならないのではないかと思う。
・・・・・もちろん、少なくとも、ある一定の年齢層に達した観客のかなりの部分は、そのことに十分に気がついている筈であるが。
以下、恒例、原作についての予備知識なしの人間が、一回観た段階での感想として書くので、もし何か重大な勘違いがあってもお許しいただくとして。
【以下、物語の核心に関わるネタバレありです】
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主人公、函南優一の基地への着任を待ち受けていた、草薙水素(すいと)。彼女は、永遠に「待つ女」である。戦闘で死なない限り永遠に子供の姿のままで生き続ける「キルドレ」である彼女は、その永遠に続く変わらない日常を打破してくれる「男」をひたすら待ちわびる無力な存在に過ぎないとも言える。
この、ゲームとしての戦争を果てしなく続けることを「平和のための保険」であるという共通合意が成立した近未来世界の、果てしなく淀んだ「大いなる日常」を崩すためには、決して負けることがない、しかもキルドレではない「大人」の操縦士とされる、「ティーチャー」を撃墜することによってしか達成されない。
水素は、かつてその「ティーチャー」と男女の仲になり、一子を設けた。その「娘」は、確実に成長し続けているのであるから、「ティーチャー」がキルドレではないということ自体は虚構ではないと見なしていいのだろう。
水素も、その「ティーチャー」を自らの手で撃墜しようとすることがある。しかし、それは決して果たされない。しかも、「ティーチャー」の側が、彼女に限っては決して「止(とど)めを刺して」はくれないという「生殺し」状況もあるのではないかと想像できる。
キルドレには、過去の記憶が非常に曖昧な形でしか存在しないようである。子供時代の記憶というものは決して作中で語られることはなかった。もっとも、戦闘員として必要な技能に関しては例外である。これは、キルドレが、遺伝子操作によって作られたクローン的な存在で、必要な記憶や技能のみが、後で「疑似体験」的に植えつけられている可能性を示唆するものだろう。
ただ、どうもキルドレ(少なくとも大半のキルドレ)の場合、「エヴァンゲリオン」の綾波レイのように、「私には代わりがある」ことそのものを自覚している存在ではないようだ。
「攻殻機動隊」の世界観ふうにいえば、彼ら/彼女らには、個体としての「ゴースト(こころ)」が確かにあるのである。出生から現在に至るまでの人生のストーリーは曖昧なのに、一回限りのものとしての人生という認識までは奪われてはいない。そのこと自体がある意味で残酷であるとすらいえる。
キルドレは、複製品としての、さまざまな擬似情報にばかり囲まれて育った、私たち(以降)の世代の暗喩であるようにも思われる。共有する子供時代の記憶といえば、「あの頃ああいう番組が流行っていたね」だとか、テレビの向こうで繰り広げられていた戦争や事件の記憶が大きな部分を占めている。
現実の私たちにとって幸いなのは、(特に私ぐらいの年齢になると痛いほど感じるのだけれども)、自分が年月を経るにつれて否応なしに変化して来ていることに気がつけていることだ。「若い頃」とは変化しつつある自分と、日々直面し続けることになる。もっとも、それは決して単なる衰えなどではなく、感性と知性のバランス感覚がよくなるという体験として、少なくとも私には体験されている。
そして更に、自分の人生のタイムリミットを意識していられる。「本当の衰えや死が訪れるまでに、自分に何ができるのか」という意識が、大きな支えになっている。もう、若い頃のように、1歳2歳の歳の違いなんてどうでもいい。かつて共に時を過ごした者が、それぞれ自分の人生を歩んでいるのをみても、いちいち動揺しにくくなっている。
*****
「あなたには、生きて欲しい」
この言葉を函南がつぶやき、水素がはじめて大粒の涙を流した時、函南がこのあとどのような行動を取るのかは、水素にも、そして少なからぬ観客にも予感できたはすである。
その後の函南の出撃と、それを見送る水素の様子は、映画で繰り返し描かれてきた「特攻隊の出撃」映像をなぞるかのようである(もとより、押井さんは、自分の描き方が、まさにそうした過去の映像作品の複製的表現であることを、確信犯的に自覚していたはずだ)。
コックピットの中の函南の表情はいつになく涼しげにすら見える。編隊の他のクルーを全員引き返させ、「ティーチャー」に一人で挑みかかる時、彼は全力で戦い「ティーチャー」を撃墜するつもりでいたろう。少なくとも「刺し違える」つもりでは。
・・・・・しかし、彼には、「特攻隊員」に死後贈られる栄光すら存在しない。
なぜなら・・・・
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水素は、相変わらず、「待つ女」だった。
このことに立会い、そうした彼女に幻滅した観客が、この作品世界をどう引き受けるか(どう引き受けないか)にこそ、押井さんが込めたメッセージがあるのだと思う。
「あ、この映画(この男、この女)この程度か。つまんないや、他にもっとおもしろいのないかな(いないかな)」
と感じた時点で、その人は、水素のダークサイドを無自覚に再演し、そこに引き込まれているともいえる(^^;)
少なくとも水素の中には、過去の男たちとの思い出は生き残っているようだ、仮に彼女自身がが過去に撃墜されて、再生されたクローンとしての履歴も持つとしても、彼女の「ゴースト」は完全には死に絶えてはいないように思える(彼女だけは、この点で「特別扱い」なのかも。このへん、原作の設定は知らないが)。
前の男は、「殺してくれ」止まりだった。
次の男は、「お前は生きろ」という言葉をかけてくれ、自ら「世界を変える」決戦に飛び立ち、命を散らした。
更に次の男は?・・・・・あと一歩ステップを刻むかもしれない。
・・・・・素子は素子なりに、未来への希望をつないでいるのではなかろうか。
娘がどんどん大きくなる「現実」を見据えながら。
そして、何度「命を散らした」かに見えても、我々自身の中に、クローンが再生するかのような「再生」の機会があるのだと思う(きちんと「養生」すれば、めぐってきます(^^))。
まあ、「再生」するたびに、遺伝子の一部が更に損傷を受けて、老化は進んでいるかもしれないけどね、記憶の多くは、キルドレたちよりは遥かに維持されているであろうし(^^)
神経繊維のネットワークの方は、歳を重ねても成長できるのだよ。
うつ病になった人の「社会復帰」という言い方がよく使われる。
比較的「古典的な」うつ病患者の皆さん(社会適応水準の高かった双極性障害の人を含めていい)の場合、職場や学校では、明るくて活発、積極的で精力的ですらあるか、仮に穏やかな人だったとしても、責任が強く、任せた仕事は実に粘り強くやり遂げ、同輩や上司(教師)に一目置かれる人だったことが少なくない。ご本人もそうした自分の実力と周囲からの評価にある自負を持っておられたことが少なくないように思う。
こうした皆さんが、うつに陥ると、家族も同僚も、「あの、元気で有能で仕事熱心だったあの人が・・・」などと、以前のその人のありようと比較して、そのギャップに仰天することが多い。もちろん、何より、うつになったご本人が、あまりに変わり果てた自分の現状を情けなく思い、深い絶望と無力感に襲われているのであるが。
このタイプの人の、うつからの回復と「社会復帰」についての願望は、職場の第一線で、以前と同じくらいに精力的に働けるように「回復」することである。このことが、焦れども焦れども容易に実現できず、調子を戻したと思ったらまた欝がぶり返すという中で、苦悩は更に深まる皆さんが少なくない。
*****
ところが、もうひとつのタイプの人たちがいる。
本格的な欝になる前の段階において、先述「古典タイプ」のような、自他共に認める形で有能さが発揮された「黄金時代」が存在しないのである。
少なからぬ場合、小学校時代(あるいは中学まで)の学業成績はかなりいいことが多い。しかし、一転して、思春期以降の学校や若者集団の中での生活(つまり、学業でなくていいのだ。学校外でもいい。個人的な恋愛だっていいのだ!!)において、充実し、自他共に認める活躍ができたという思い出がほとんど存在しないようだ。むしろ、周囲に溶け込めず、疎外感や劣等感を感じさせられた経験のみがその人の中には残っていることも少なくない。
そして更に進学や就職の段階ですでに何らかの挫折体験をしており、進学したり就職した先でも、上司や教師にも叱られる経験のみが優位で、同輩にも認められす、むしろ自分は落伍しつつあるのではないかという危機感を募らされる経験ばかりが積み重なっている。そうしたストレスに加えて、何らかの外的条件・・・以前よりも責任ある仕事を要求される、不況下における人員削減などで、リストラの対象からは生き延びても、以前のような「モラトリアム的」存在のあり方を職務上許されなくなる・・・・などの中で欝症状が本格化の引き金をひいた人たちである。
このタイプの人は、「非定型うつ病」と診断される人の中のある一定部分(全部ではない)を占めており、あるいは「社会不安障害を伴う」という診断が添えられていることが少なくないように思える。
(この「非定型うつ病」を「新型うつ病」と呼ぶことへの違和については、以前もNHKスペシャルに関連して書いた。実はDSMの診断基準が新しくなっただけ(!)で、以前からこれに該当する状態にある「うつを症状とする」人たちはたくさんいたのであるから。以前だと、こうした人のある部分は、例えば「退却神経症(うつ「症状」を伴う)」などと分類されていたのではないかと思う。「退却神経症」というと、ずっと引きこもったままで社会に出れないままの人のイメージばかりがあったが、それだけでとらえ過ぎると、実は狭すぎたはずである)。
後者のタイプの人にとっては、うつ病からの「社会復帰」とは、「古典タイプ」の人のように「あの日に帰りたい」願望が空回りするという形の堂々巡りではなく、「あの、辛かった世界に再度『参入』し、しかも、今度は挫折しないように、もっとうまくやっていかないとならないのか?」という、遥かに屈折した思いでとらえられていることが少なくないのではないかとも思える。
*****
もとより、私は、この2つのタイプのどちらのタイプの人が、欝が軽快した後、新たなライフスタイルを徐々に確立していく(私は「社会復帰」という表現をあまり使いたくないのだが)際の困難が大きいのかという問いかけは全く意味をなさないと思う。
そもそも、現代は、この2つのタイプの更に中間形が増えている時代という気もします。
後者のタイプの人に対して、単純に社会参加のための「訓練」に駆り立てるのをよしとするような一部の論調には、私は大いに違和感がある。
前者のタイプの人は、「過去の栄光」にしがみつき過ぎて、空回りやすい。これは少なからぬ回復途上者において本当に「骨がらみ」の悪循環現象である。
後者のタイプの人でも、社会に出る心身の準備態勢が全然ないまま働いていた状態から一度離れ、「うつ病療養」という、いわば「合法的なモラトリアム」を再獲得する中で、ゆっくりと、自分の中の「ひな」を育てていけるという意味で、むしろいいチャンスとなることも少なくないからである。
ある種の抗欝薬や気分安定薬(気分スタビライザ)が適切に処方され、思春期初期から体験していたその人の「軽うつ」状態や内的葛藤を沈静化して、癒してくれ、再出発の助けになることも少なくないことも確かようである。
しかし、投薬の効果を2倍、3倍確実にするのは、医師でもカウンセラーでも、いい援助者との出会いの中で精神療法(心裡療法)であろう(名医だとそれを15分の面接の中でも進めている)。
「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回、通例通り第2日曜、7/12(日)に開催しますが、定員の8名様にエントリーが到達いたしました(感謝!!)
12日分の申し込みを停止させていただき、引き続き、2週間後の7/26(日)の臨時開催枠で募集を続けさせていただきます。
フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。
もし、7/12日枠でエントリーのキャンセルが生じましたら、このサイトで告知させていただきます。
詳しくは、こちらをご覧下さい。
本日の「はてな」サイトの総合ランキングベスト10で、当サイトの、
●NHK「ためしてガッテン」、-「うつ病よサラバ!脳が変わる最新治療」-
が突如大ブレイクし、19:38現在、本日だけですでに6,855名様という、信じられないほどの数の皆様にご来訪いただける「ドミノ倒し」が生じています(追記:24:00までに7,501アクセスとなり、6/20全体の、私のココログ系3サイトの総記事アクセスはついに10.432アクセス(8,219名様)となりました。

16時25分の時点の「はてな」トップページ。記念にスクリーンショット撮ってしまいました(^^)さすがに今現在(20:40)ではもうトップページ表示ではなくなりましたが。
おいでいただきました皆様、ブックマークに登録して下さった150名以上の皆様、まことにありがとうございます。
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そうした中でトラックバック下さった方の記事の元記事で紹介されていたサイトなのですが、
●8人に1人が苦しんでいる! 「うつ」にまつわる24の誤解(by 泉谷閑示 Diamond online)
この連載、まだ連載は完結していないのですが、とりあえず今、ざっと目を通した段階ですが、ここで書かれている、精神科医の泉屋先生の一連のご指摘は、少なくとも私がこれまで目にした欝関連のネット上の記事の中では、出色の高水準のものであることは間違いないと感じました。
まずは、「ガッテン」がらみの直接の記事として、
●「ウツ」を“心の風邪”と喩えることの落とし穴 ――「うつ」にまつわる誤解 その(4)
この記事からだけでもお読みになることをお勧めしたいと思います。
他の記事をつまみ読みした範囲でも、西洋医学的な「治療」論への批判、「身体からのメッセージ」として症状をとらえることへの勧めなど、私にとって、これから精読する意欲をかき立てる、全くエキサイティングなコンテンツだと思います。
・・・・・以上、とりあえず速報まで。
私としては自分から進んで買ってまで読むつもりはなかったが、たまたまうちを訪れた親父が、恐らくNHKのドラマ(私の感想はこちら)を見て原作を買って読んだ上でと思うが、私の住処に置いて行っていたので、正編・続編とも、一気に読めてしまった(^^;)
原作のメインのストーリーの大半は、ドラマ版で、十分な肉付けの上で語りつくされていると感じた。風吹ジュンの演じた女医さんは、ドラマのオリジナル・キャラみたいですね。
視聴者によっては、単純な漫画の線だから耐えられたのに、実写ドラマでリアルに演技されると、自分が鬱だった時の体験が蘇って辛かったという感想もお持ちの方があったようですね。
ただ、私が鬱患者の立場から見た場合、ドラマ版が原作よりも秀でている点がある。それは、原作では、鬱の患者さん自身が読んだら、うつのツレさんと言葉を交わすテンさんの一つ一つのコトバが、無神経に刺さるような性質をかなり秘めていたように思える。そうした面はドラマ版では払拭されているということだ。
この点で別に原作者を責めるつもりまではない。原作の「続編」の方になると、そういう「鬱の読者自身に無神経に刺さりかねない」側面が、きれいに感じられなくなっている。これは「正編」を出版して読者の反響を得てみて、はじめて気が付ける性質のものだったろうと想像できるので。
*****
原作を読んではじめて、ツレさんが、クラシック音楽で特にでロシアものファンであり、私と同じようにヘッドフォンで細かく音楽を聴くタイプだったことを知った。
こうした音楽すら聴く気になれなくる時期が、実際、ツレさんにとって一番うつが酷かった時期と重なるのだが、確かに、鬱がひどくなると、最後には自分が一番好きだったものすら楽しめなくなるものである。「音楽好き」だった人にとってはむしろ音楽は耐え難くすらなる時期があっても何もおかしくない。
私も、そうした時期は巧妙に音楽ジャンルを乗り換えたり、結構音楽を遠のけて過ごしたりしてきたように思える。
私にとっても、音楽というのは「能動的に聴く」もののようで、BGM的な「ながら聴き」は基本的には苦手なようだ。
この半年ぐらいの間に気が付いたのは、今の私の場合、「音楽」よりも「映像」の方が遥かに癒されるということだった。ことに、「映画作品」というのは古今東西、ジャンル無関係な形で、音楽の場合ほどにも対象を選ぶことなく、スーッと作品世界に入り込んで味わえるようであり、いったん作品世界に入り込んでしまえば、その直前まで感じていた神経の高ぶりや疲れも吹っ飛んで、ただただ身を委ねて癒されてしまえるようである。
たとえ、アクションでもミステリーでもホラーでも、重厚歴史モノでも、なーーーんでも「癒し」なのだということに。
一番無理なく自然に、脳内のセロトニンが増え、「海馬が潤いを取り戻す(?)」気がしてならない。
(私の場合、ジャンル無関係に「セロトニン」増加優位のようで、「アドレナリン」や「ドーパミン」分泌ではないのである。私とはそれだけ「映像の中に、リアル現実の日常に身を浸すのと同じようにどっぷり淫する」タイプなのだと思う。これって、実写映画とアニメ映画に基本的な差異を認めない、押井守さんの作風との一致度が高くて当然というべきか?)
押井守さんの、劇場版「攻殻機動隊」2部作に関する感想の補足である。
第1作、"GHOST IN THE SHELL"が最初に公開されたのは、1995年、つまり、Windows95発売の年である。
このOSの発売ではじめて、インターネットは多くの人にとって身近な存在になりはじめた。もっとも当時は、「常時接続回線」を個人で所有する人など超例外だった。さすがに電話機の受話器を使った「音響カプラ」の時代は脱していたにしても、多くの個人ユーザーは、低速のモデムを一般電話回線につなぐ形。プロバイダ料金も従量制だったので、特定のページを閲覧している間は通信を切るということもしていた記憶がある。
しかし、当時のパソコンの新規ユーザー層の少なからぬ部分にとっては、パソコンとは基本的には"stand alone"に使用するものであり、電子メールを使用する際、パソコン通信に関心がある人たちを別にすると、「インターネットを介してて、ユーザーが常時接続的につながっている」という感覚そのものがなかったわけである。
今でこそ、"GHOST IN THE SHELL"で描かれた、「大抵の人が、(自分の脳に埋め込まれた)端末を通してネット世界につながっている」という状況は、身体の埋め込み端末こそないものの、インターネット機能が発達した携帯電話と向かい合うようにして日々を送っている現実との落差はぐっと小さくなり、今の現実のちょっとした暗喩の物語・・・・ぐらいで受け止めることができる。
しかし、"GHOST IN THE SHELL"が、14年前の作品であることを思い起こす時、この作品が、いかに時代を先取りしていたかに、ちょっと呆然としてしまうのである。
もとより、押井さんが、更に数年前、劇場版「パトレイバー」第1作で、当時はまだほとんどの人にとって未知の用語だった、「汎用OS」だとか、普段は沈黙していても、一定の条件が揃うと、一斉に凶悪な機能を発動をする「コンピューターウィルス」や、今日でいう「ハッキング」の問題を取り扱ったのが、何と1989年であるから(^^)
*****
さて、「攻殻」の作品世界の中では、
「自分の経験や記憶(恐らく、DNA情報なども)など、自分を自分たらしめているもののすべては、ネットの中に常時保存され続ける」
という趣旨のことが何回か語られるが、私のように、まさに1995年から個人ウェブサイト(「阿世賀浩一郎のホームページ」は当時の原型そのままのコンテンツを今も含みます)を立ち上げてきた人間からすると、こういちろうという人間の体験や記憶や思考のかなりの部分が、すでにネット空間に蓄えられているのだと、妙に生々しく実感できる。
私の場合、原則として、仮にハンドルを使ったとしても、リアルワールドでの私と同一視されるのは一向かまわないという立場でしかネット活動をしてこなかったから、なおのことである。
前の記事にひきつけて言えば、ひょっとすると、すでに、私の『ゴースト』そのものが、ある程度はネット空間の中にも自律した存在として跋扈できるpresenceを、(ささやかながら)獲得でき始めているのではないかとすら思う。
つまり、こういちろうはすでに、素朴な次元で、十分、ヒロインの「草薙素子(もとこ)」的な意味での「電脳化」した存在様式を持った存在なのではないかということ(^^)
もっとも、こういちろうは、素子のように、無茶をし過ぎて、生身の身体の方を吹っ飛ばされ、「脳核すら失う」形で、電脳空間を基本的な住処とし、時々必要に応じて「擬体」を使い分けるような存在にはならず(爆)、生身の人間として、この世に「どっこい生きて」い続けるであろうこと。
生身のカウンセラーとして、この世に存在し続けるわけだし、フォーカシングのトレーナーとしての私も、もっとその存在を、リアルワールドに「露出」していけるようになることを、じっくりと目指していますので(^^)
*****
ところが、もし仮に、日本のフォーカシングの世界における私についてのイメージというものがあるとすれば、この10数年来、それはほとんど、ネットを介して形づくられたものにならざるを得なかった(クローズドなメーリングリスト、"focusing-net上での活動を含めて)。
私が実際にフォーカシングのセッションを、フォーカサーとして、トレーナー/ガイドとしてどう行なうかをライブ体験している層は、実はほんのほんの例外的な一部の人たちでしかないのにね(^^)
そういう意味では、フォーカシング関係者は、現在も、私のネット上の『ゴースト』に踊らされている人たちが今も少なくないのかなとすら思う(^^)。
そこに映し出されている『幻』は、果たして、「こういちろう自身のこころ」なのか? それとも読者の「こころ」を写し出す、投影的な『鏡』なのか?
・・・・というわけで、長年の封印を解き、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」二部作をやっと観終わったばかりです(^^)
第1作"Ghost in the Shell"の方は、その長期の封印の間にVer.2.0になって、大幅なCG化に留まらない、すべてのシーンの手直しがなされていたみたいでしたし。
予備知識ゼロでぶっ通しで観たわけですが、観てよかったですね。今の押井さんのを観たら、少し頭が痛くならないかと勝手に思い込んでずっと億劫がっていたんですけど、押井さんの硬質のリリシズムの世界って、やはり私には「癒し効果」の方がよほど強かったんだ・・・・と、何を今更ながら感じた次第![]()
押井守さんというと、私にとっては、「うる星やつら」TVシリーズの中の超異色作、「みじめ、愛とさすらいの母?!」(第101話)を本放送で観た時点で圧倒的に熱狂し、この回の拡大バージョンというべき劇場版第2作「ビューティフル・ドリーマー」、は、映画館で見た回数18回という私にとっての最高記録を保持しています。(この件についてはこの記事参照)
うる星やつらDVD vol.20(「みじめ!愛とさすらいの母?!」収録
その後、「天使のたまご」を経て、劇場版「パトレイバー」の2本で、止まっちゃってたんですね。後を追うのが。
今回、この2本を見て、これらの作品の延長線上に、押井さんはやはり押井さんであり続けたまま、それらを全部総合しつつも、なおも前を進んでいるのを感じて、むしろほっとする、故郷に帰ったかのような思いすら感じました(^^)
*****
予備知識なしで観て、最初に何より驚いたのが、この「攻殻機動隊」の作品世界の世界観というのが、最近私が改めてご紹介してきた、精神科医、神田橋條治先生の考え方と実にいろいろと「かぶる」ことに気がついたことなんです。
この近未来の世界では、人体に及ぶ「電脳化」と「サイボーグ化」が、多かれ少なかれ、人々に進行しています。
ここでいう「電脳化」とは、神経にネットに接続する端末が埋め込まれていて、思い切ってわかりやすく言えば、無線LANで常時接続されているような状態にあるということです(個体によってその性能に落差はあるし、高度な情報セキュリティの問題や膨大な情報のやり取りをするとなると、首の後ろの端子を外部機器に接続するやり方がとられるようですが)。
これによって、人は言葉を話さなくても対話できるし、資料を観たり読んだりしなくても、脳に直接情報をインプットできる。情報検索したければ、もはやパソコンを立ち上げ、インターネットブラウザを開けなくても、例えば、いろいろな格言を見つけ出して、臨機応変に口にすることなども自由自在である(おかげで、第2作、「イノセンス」は、古えのことわざや格言やアフォリズムの山となってむやみに格調高いセリフが多い)。
しかしこれは、自分の思いや記憶や体験のどこまでが「自分自身」のものなのか、それとも、ネットを通して取り込まれた情報による「疑似体験」なのかの境界が曖昧化し、「本当の自分とはどこにあるか」と悩みだしたらキリがない状態に置かれているということでもある。
更に、ネットを通しての「ハッキング」が生じると、自分の体験ではないものが植えつけれて、他人により「捏造」された過去を本当の過去のように思い込まされたり、戦いの中で目に見えてもいないものを見えたと錯覚させられて(見えるはずのものを見えないとされる方も当然可能)、混乱させられる可能性もでてくることになる。
そうした、「電脳化」と完全に一体化したものとして身体の「サイボーグ化」を位置づけ、「もはや自分の本来の生身の身体がほとんど残っていない存在」と人間が化した時に生じる可能性がある、アイデンティティーの危機の問題も同時に取り扱えているのが、この作品の実に興味深い点だと思える。
さて、では、ここうやって、身体的にも、脳に及ぼされる情報、蓄積された体験という観点からしても、どこまでが「自分固有のものか」という境界があいまい化した時、最後に頼りにするものはいったい何なのか?
人工知能(これには他人の記憶の複製が使われる)を備えたアンドロイド(この作品世界では「ただの『人形』」という言い方がなされる)と人間の違いはいったい何なのか?
「私の『ゴースト』が、そうささやくのよ」
・・・・主要登場人物二人が、一かバチの決定的な判断を迫られた時に繰り返しつぶやく「決め台詞」である。
(フォーカシングを学んできた私には、「私のフェルトセンスがそうささやくのよ」という感覚にひどく通じるのが嬉しかったが)
『イノセンス』に付録としてついている「解説ビデオ」(!)に頼らなくても、この『ゴースト』とはどのようなものか、映画を見ていく中で漠然と察することができる作りになっているので、この言葉に明快な定義を与えないままのほうがいいとすら私は感じるが、
「まるで幻に過ぎないかのように曖昧で不確かに感受できるだけだけれども、その人の奥深くに隠れていると感じられる、<こころ>のようなもの(が指し示す方向性)」
のようなもののことを指しているようにも思われた。そしてそこにはどうも、命をつなごうという生命体の本能のようなものが関与しているような描かれ方であった(この本能が、時として残虐で利己的なダークサイドを持つことすら、「イノセンス」では描かれているが)
****
こうしてみてくると、ここでいう、「ゴースト」としての「こころ」という発想は、神田橋先生の思想を知るものにとっては、神田橋先生の「ファントム(幻影)」としての「こころ」という思想を、嫌が上でも思い出させる側面が出てくる。
もとより、神田橋先生が、こころを「ファントム」であるという時には、もっぱらその否定的な面が強い。つまり、自分自身の「思考」や、様々な外部からの「言語的情報」(そこには、精神医学や臨床心理学者の専門的な分析や解釈も含まれる)や、言葉で表現できる「価値観」によってこねくりまわされ、その人を惑わすだけの存在なのに、何かすごく大事なものであるという「幻想」として「実体化」している「こころ」という概念の徹底的な「価値の引き下げ」こそ、神田橋先生がまずは意図しているものなのだ。
そして、人間が「コトバ文化」の虚妄から解放され、動物には備わっている生体恒常性に従うかたちで生きていく状態をある程度回復していくことをこそ、神田橋先生は理想としている。
厳密に言うと、この点では、「攻殻」の作品世界観と神田橋先生のそれとの間には方向性のズレがあるかもしれない。
押井氏の場合には、そうやって電脳ネットワークにまみれ、情報の渦に巻き込まれ、更には一切の生まれついての生身の身体をすべて失っても、サイバー空間の中で、固有の「個」として存在し続ける「ゴースト=ひとのこころ」との交感の可能性にすら期待をかけているのであるから。
もっとも、物語の中に「神の次に完璧なのは(人間以外の)動物だ」という意味のセリフが登場するし、一見ストーリーと無関係だが、重要な存在感を持つものとして主人公の愛犬が克明なまで描かれていること、更には、
孤独に歩め
悪をなさず
求めるところは少なく
林の中の象のように
という『阿含経』の一節が、「イノセンス」を象徴するメッセージであるという観点からすると、押井氏の世界観と神田橋先生の世界観のめざす方向性は、意外と同じまなざしなのかもしれない。
*****
いずれにしても、私は、まだ『ポニョ』見てませんけど、
「神経症の現代に贈る・・・・」
・・・・うんぬんというキャッチフレーズを、押し付けがましくて、うっとおしく感じ(^^;)、
そのくらいならば、『イノセンス』に出て来るセリフ、
「『ゴースト』があるからこそ、人は狂気にもなれるし、精神分裂にもなれるんだ!!」
というメッセージの方が肌にあう人間のようである。
※続編はこちら。
精神科医、神田橋條治先生の用いるキーワードのひとつとして、「養生」という言葉があることは、臨床家に知れ渡っているかもしれない。
この言葉は、広く使われる、「治療」という言葉に対するアンチテーゼとしての側面を強く持っている。
「治療」とは、
・・・・・おおよそ、こうした含意があるように思える。
これに対して、「養生」とは、
これは、私なりの理解をまとめなおしたもので、神田橋先生の著作のどこにも、そっくりそのままの部分は出てこないかと思います(^^)
*****
私は、実は「単に『健康で』あり続ける人間」よりも、「『養生』しながら、新たなライフスタイルを模索してきた人間」の方が、無用な紛争や経済的な軋轢を生み出さず、多様な他者のあり方を受容し、痛みを分かち合い、地球環境も大事にする、これからの人類に必要な資質に富んだ人たちだとすら思いますが。
・・・・実は淘汰される弱者ではなくて、「どっこい生きてる」生存率の高い遺伝子保持者であるとすら。
中井久夫先生が『分裂病と人類』でお書きですが、確か、ダーウィン派の進化学者、ジュリアン・ハックスレーが、「なぜ統合失調症の人は遺伝的に淘汰されず、一定の比率で生まれ続けるか?」という命題を掲げ、それに「貧窮困苦への耐性」という仮説を立てたそうです。
これに対して、中井先生自身は、自ら「性的伴侶の獲得において有利な形質を持つから」ではないかと述べ、社会が大きな危機に瀕し時、社会の前景に躍り出て、先例にとらわれず、かすかな兆候から、変化を刻々と先読みしながら(=微分回路認知能力)、先見の明で時代を切り開けるは「S(分裂病)親和者」であるから・・・という仮説を提示したわけですが。
うつ病になってしまうほどの几帳面に努力できるまじめな人たちに実は有形無形で支えられていたから、多くの家族や集団や企業は成り立っていた。
上司や同僚は、まずは何より、「それまでの」その人の働きと功績に心からの「感謝」を伝え、労(ねぎら)いの言葉を形にすべきです(この実はシンプルなはずのことが、現実にはいかに抜け落ちたままのことが多いか)。「早く良くなって帰ってきてね」も余計です。
極論を申し上げると、もし、鬱の素質がある人を全部最初から遺伝子レヴェルで受精直後に排除したりしたら、人類の滅亡は更に急速に早くなるでしょうね(・・・・勘違いしないで下さいね、鬱の皆さん。これは、あくまでも、鬱の人への恩を忘れ、困ったものだとみなす人たちへの皮肉です^^)
これは、おそらく、いわゆる「こころの病気」を持つ人全体に言えることでしょう。
ヒトゲノム計画における遺伝子の「意味づけ」って、実は常に一面的な意味づけであり、一見「病気を引き起こす因子」と見えるものが、同時に、「ある特定の状況下では、その個体をサバイバルさせる因子」、あるいは少なくとも、「自分は犠牲になっても他の個体を生かすための活動ができる因子(人類という種全体を維持しようとする因子)」としても働くという、「両価的な」ものである可能性が見過ごされないか、心配です。
優生学とヒトゲノム計画を安易に同一視するつもりはありませんが、遺伝子の選別、いや場合によっては「遺伝子『治療』」という発想を常に注視しなければならないのは、それが単に人間の平等や人権に反する危険があるからばかりではないと思います。
実は、上記の理由で、人類が存続するのに実は必要な大事な「表裏一体の」形質の遺伝子を「修正してしまう」結果、気がついたら、システムとしての人類全体を「弱体化」させるというパラドクスを秘めている可能性があることまで考えねばなならない。
神ならぬ人間自身の浅知恵なんて、そんな水準のものを容易に越えられないのではないかと。
仮に、人類が、いずれ衰亡するする運命にあるにしても(^^;)、そうした、人類全体への「治療」めいた形で、いよいよ衰亡を早めることなく、スロー・ライフで「養生しながら」地球と共存して生き長らえるのでいいのではないかと。
*****
誤解なきように最後に言い添えますが、私が基本的に薬物療法の積極的支持者であることはこのブログで明言し続けている通りです。神田橋先生自身が、薬物療法の「超職人的な」使い手であることを忘れてはならないかと。
しかし、ある物質を体内に投入しさえすれば精神疾患が治療できるというのは、恐らくどんな時代が来ても夢のまた夢でしょう。
なぜなら、精神疾患に親和的な人たちとは、常に、文明と文化が生み出す歪みの結果であり、なおかつ、新たな文明と文化を生み出し、維持するエネルギーとなる人たちの供給源であり続けると考えられるからです(この発想の点では、私は中井先生の影響を強く受け続けていますね)。
そして、薬という「異物」によって心身に生じる反応は本人に「違和」を引き起こしがちなものです。そういう薬剤によって変化させられる心身の反応を患者さん本人が「受容し」「消化して」、自我に統合し続ける過程というものが、結局は薬の効能の成否を決めるものであり、それを支えるのは、やはり、薬の効能にも通じた治療者との関係性であり、更に言えば、薬物療法を理解しながら見守る、家族やパートナーとの日常的な信頼関係なのだと思います。
最近のNHKの、ほとんど畳み込むような、うつ関連の番組の連発には敬服するしかない。
今回は、のっけから、
「うつ病は心の風邪」
という、あの、よく使われるキャッチフレーズに対して、実際の鬱病の患者さんたちの多くが、いかに違和感を感じているかを、調査結果に基づき紹介することから開始した点は買いたい。
つまり、「ツカみはOK!!」だったとは思います(^^)
なぜなら、うつ病の治療は、風邪薬を飲んで静養していれば、特別な場合を除いて、長期の場合でも1,2週間で回復するようなわけにはいかない。
何回も途中で調子を崩したり入院したりして、数年以上闘病している人もたくさんいるからである。
私も、この、「心の風邪」という言い方がはっきりいって嫌いな人間である。
この番組では、この言い方は、「誰もが欝になる可能性がある」ということ以上に、
「病院の門をくぐるまでに迷ってしまう人たちに、早期に受診してもらうため」
のキャッチフレーズであるに過ぎないことを強調していた。
もとより精神科や心療内科に通い始めることを躊躇したまま頑張っていると、欝の回復が長引いてしまうことは確かだ。
「このくらいのことでホントに病院に行ってもいいのか?」と迷いを感じるくらいのタイミングで受診するほうが、経過はいいのである。
このことは、「こころ相談.com」の私へのインタビュー記事でも述べさせていただいたとおりである。
・・・・・しかし、やはり思う。
もはや、「うつ病は、心の風邪」というキャッチフレーズよりも、もっとましなものが普及すべきであるとは。
私ならば、例えば、
「無理のし過ぎで、脳が消耗しすぎて、脳のある特殊なエンジンオイルが切れて、脳のピストンも歯車も痛みかかっている状態です。そう簡単にはその特殊オイルを補給することもできないようなものでして、歯車やピストンも一度動かすのを止めて、メインテナンスに出して磨きなおす必要があります」
などと言ってみるかもしれない。
番組の前半は、この「心の風邪」という言い方への違和という問題を鍵として、相当な密度で展開して、満足度は高かった。
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SSRI、三環系、四環系抗うつ剤の持つ、「セロトニン再取り込み阻害」作用の仕掛けは、恐らく多くの鬱の患者さんにとっては、すでに十分知れ渡ったことをうまく噛み砕いて説明してくれているとしか感じられないかもしれない。
しかし、一般の人たちへの幅広い啓蒙という意味では、この番組恒例の「着ぐるみ」登場のバラエティのノリで、わかりやすく説明する役割を引き受けてくれたことには意味があるかもしれない。
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・・・・そうそう、パネラーの山瀬まみさんが、「なぜ心の風邪と呼ばれるか」という質問に、
「症状を抑える薬はあっても、根本を治す薬がないという点で風邪の治療薬に似ているから」
という、なかなか思いつけない答えをしていた点を買います。
答えが正しいかどうかではなくて、そういう着想をできることが得がたいセンスなんですよ。これは単なるヤラセではなくて、彼女の事前情報収集と感性の産物かと思います(^^)
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番組後半は、何かしら密度感が低下したようにも感じられたが、
●認知行動療法が、薬物療法や休息を経て、すでにかなりの程度の回復期に達した人においてはじめて効果を上げる可能性があること(私の知るところによれば、中程度以上に重い欝の人や、不安障害を伴う人への認知行動療法は、むしろ鬱を悪化させる場合もあるとも言われています)。
●運動や外出もまた、かなりの回復期になり、本人にも興味が出てきたタイミングで無理なく導入したほうがいいものであること(それは、体力回復のためというより、むしろ脳にいい刺激を与えて、神経伝達物質作用を高めるためであること。私見を言えば、番組で紹介されたような凝った体操でなくても、犬の散歩でも、自転車に乗って平衡感覚を刺激するのでもいいと思いますよ)
・・・・・これらを指摘していたことも評価したい。
一直線に、エレベーターを一気に登るような形で回復することを期待するのではなく、行きつ戻りつ、途中の「踊り場」で余裕を取り戻しながら、じっくり鬱と向き合う姿勢こそ、この番組が最終的に強調したかったことかと思えた。
*****
ただ、なぜなんでしょう???
この番組、終わりの方まで観ていくと、鬱の人にとって、だんだんと気分が鬱になりかねない、すっきりしないものを淀ませるところがある気がします。
ひとつにはタイトルがよくないのでは?
「うつ病よサラバ!」????
・・・・・この番組の内容が伝えていたのは、実は、うつ病とは容易にはおサラバできないものなんだよ!! というメッセージになってしまったから。
*****
それと、あと数点、バラエティ番組に対しては要求水準が高すぎる、揚げ足取りを覚悟で数点言及すれば、
****
いずれにしても、ここしばらくのNHKの鬱関連番組は、それらすべてを観てバランスが取れるような側面はやはりあると思う。それは、テレビ番組という媒体の宿命であろう。
【第2版で追加】
一晩明けてみたら、私が、この番組に感じていたモヤモヤが随分とはっきりと言葉になってきましたので、少し遠慮なく書いてみました。
この記事には、私の元クライエントさんから私に寄せられたこの番組への感想も反映しています(感謝)。
もし、まだ思いつくことがあれば、更に増補したいと思います。
*****
* カウンセラーこういちろうによる、NHKの一連の鬱関連番組関連記事リンク集(すべて開業サイトバージョン):
いつも眠いの。
私、ヘンかな?
どうしてるかな?
何か疲れてるのかな・・・・
みんな元気だよね。
私はダメだよ。
だから眠るの。
眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。
私が消えても、
何も変わらない。
その少女は、授業をサボって、屋上で横たわり、放心していた。
ただ放心していたのではない。
その少女の傍らには、親友に宛てた一通の手紙。
「私 死にます。
さようなら。
ひとみ」
その手紙の傍らには、脱いだ靴まできちんと揃えられて置かれているではないか!
神崎ひとみは、死に切れなかったのだ!!
****
その手紙を発見した友人は、
「そんなやり方で死なないでよ。
友だちとして恥ずかしいから」
ひとみは、やや自嘲的に、言葉を返す。
「死なないわ。
生きてるよ。
このまま歳取って、
ばーちゃんになって、
死ぬ時が来るまでは生きてるよ」
友だちは、それにもめげずに提案する。
「明日街に行く約束したの、覚えてるよね?
行こうよ! ひとみ!」
この子だって、ひとみの「遺書」にぎょっとし、心配しなかったわけでもないだろう。
ただ、ひとみの身になって、ひとみの目線に立って、ひとみの悩みを受け止めることはしんどかったので、こういう軽い受け流し方をしただけのことだ。
彼女にとっては、まったりと続く「大いなる日常」の中で、自分と一緒に、ひとみの気持ちが「何となく」癒され、紛らわされていくことに期待をつなぐことしかできなかったのだろう。
******
だが、二人が街で、一見無邪気に楽しいひと時を過ごした後、友人がひとみに、マジに心配する言葉をかけた時、ついに二人の間に亀裂が生じる。
「私マネージャーだし、ひとみが辞めちゃっとこと、顧問の先生にどう伝えたらいいの?」
・・・・・などと、あたかもマネージャーとしての自分の都合を優先するかのようにして、ひとみに言葉をかけたのが、彼女の最大のミスである(^^;)
(これじゃ、ただでさえ人を払いのけたい心境のひとみにとって、自分が思いやってもらっているとはいよいよ感じようがないの!!)
ひとみは一気に払いのける。
「いいよ、私のことなんか。
鬱陶(うっとう)しいよ。
放っといてよ! 私のこと!
いやなヤツ!」
友人は、
「そっか、私、寄るところがあるから。
じゃ、明日、学校でね!」
と、そそくさと立ち去るのみ。
(だーかーら、そういう返事そのものが、ひとみを更に傷つけ、疎外するのだよ)
ひとみは更につぶやき続ける:
いやなヤツ。
消えちゃえよ!
いやなヤツ。
友だちを傷つける、
いやなヤツ。
だから私を・・・・
(消してしまいたい)
ここで、セリフの意味が、巧妙にすり替わっていく。
恐らく、ひとみは、単に友だちに傷つけられたと感じていたのではないのだ。
同時に、友だちを傷つけた自分が「いやなヤツ」だとも感じている。
そういう形でしか存在し得ない、人との関わり全体が「鬱陶しく」なり、この世から自分が消えてしまえればと感じているのだろう。
*****
この、過眠に陥った、すでに十分に欝への道をまっさかさまに進んでいる女子高校生、ひとみの前に、突如、異世界からの召喚がかかる。
「そう、消え去ればいい。
悲しきこの世界を、
すべてを消し去る」
この声の主、フォルケンは、異世界、ガイアにおいて、ある王国の長兄だった。しかし、占いによって王位継承権は義弟のバァンに定められた。
そのことに怒り狂ったフォルケンは、父母を殺し、宮殿を、王国を破壊し尽くし、今や巨大な空中要塞から、ガイアのすべての国を隷属させようとしている「黒竜族」の首領である。
フォルケンは、自分のすべての悲しみを自分が王位継承者になれなかったことに起因すると感じており、かつて一度ガイア全体を破壊し尽くした伝説の「鎧」、エスカフローネを復活させて、自分もろともガイア全体を消し去ることを唯一の望みとして生きている男である。
そして、エスカフローネをガイアに覚醒させるのに必要な触媒、「翼の神」が、こうしたフォルケンの心情にシンクロする潜在力を持ち、自分の世界から「消えてしまいたい」とも念じていた、ひとみだったのだった。
*****
こういう登場人物が作品に登場すると、
「そんなに絶望しているのなら、周囲を巻き添えになんかせずに自殺したらいいのに」
と感じ、感情移入しにくいと感じる皆さんが必ず少なからずいるかと思う。
このことの謎を解く鍵は、フォルケンとシンクロしているひとみの側が、すでにつぶやいている。もう一度紹介:
眠っている間にそのまんま
みんなが気がつかないうちに
私は消えるの。
私が消えても、
何も変わらない。
このことそのものが、すでに空しいのである。
だから、周囲の人を、誰彼となく、巻き添えにする。
こうして、さまざまな無差別殺傷事件のことを連想することにもなるが・・・
(ちなみに、このフォルケンに蹂躙された民は、「アバハラキ」と呼ばれている。当然「秋葉原」のアナグラムであろう。そこに深い意図はなかったろうし、この映画は2000年に製作されたものであるが・・・・)
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ここでこうして紹介してきたのは、2000年に公開された、劇場版アニメーション、"Escaflowne"の最初の方のシーンである。
この劇場版制作の元になったTVシリーズアニメ、「天空のエスカフローネ」(1996)は、「人魚の森」を例外とすると、今までのところ、私が最後に通して観たテレビアニメである。
このアニメについては、テーマソング、「約束はいらない」を中心として、このブログでもすでに以前にもご紹介したことがある。
「約束はいらない」(PV) ←オープニングを拡張して、TVシリーズの名場面集の体裁を取った、実に見応えがあるものです。
世は「エヴァンゲリオン」テレビシリーズ放映終了直後、「エヴァ」ブーム沸騰の最中だった。
そうした中で、この作品は、シリーズ構成:河森正治(マクロス)、キャラクターデザイン:結城信輝(ファイブスター物語)、音楽に菅野よう子、溝口肇、BGM演奏はワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団、その他の強力布陣を最大限に生かし、固有の美学と味わい・・・・流麗さと気品と清澄さとオープンな空気・・・・を持った作品として、忘れられない記憶になっている。
日本でに留まらず、ヨーロッパをはじめとする海外での放送で、狭い意味でのアニメファン層を超えてたいへんな人気が出て、TV放映ジャパ二メーションへの欧米社会での評価全体を当時再興したというのも、頷ける気がする、
感性がいい意味でユニバーサルで、批評家やマニア層にだけ受けるタイプではないのね、この作品。対象年齢層も幅広く、しかし、何か、ただそれだけではない"something"で魅惑する。
この作品のような清澄でさわらかな空気の広がりとスケールと上品な風格をもち、夢とファンタジーのある作品が、今もテレビの幅広い層が見られる時間帯に放映されているといいんだけどね・・・・
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TVシリーズから数年を経て、劇場版が作られたということについては、アニメからほぼ離れていた数年間全く知らず、昨年ごろ、YouTubeを通して知った。
今販売してるのはブルー・レイだけ?
●劇場版エスカフローネ ファーストシーン(YouTube)
↑この冒頭シーンだけでも、TVシリーズに比べると遥かにハードな空気が漂い、いつか全編見てみたいと思っていた。
私はこの数年、ともかく自分からはアニメを自分から進んではあまり観たくない心境になっていた。「エヴァンゲリオン」で単行本まで出して、コミットし過ぎ、距離を置きたくなっていたということも大きい。
阿世賀浩一郎/エヴァンゲリオンの深層心理―「自己という迷宮」
そうした中で、いきなりのDVD購入で、圧倒的に賛辞を惜しまない心境に達したのか「時をかける少女」だったこともすでに記事にしたことがある。
(同じ細田守監督のこの夏封切りの劇場アニメ、「サマーウォーズ」は観ると思います(追記:観た結果の記事はこっちからはじまります!!)。劇場用特報(60秒の。予告編ではなく)で、田舎を舞台にした映像に、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「ポロネーズ」を華麗にフューチャーしたミス・マッチの妙だけで、本編で使うのかどうかわかんないけど、センス的に、もうたまんないねえ!!)
先日、ふと、そろそろ少しだけ、再びアニメ「解禁」していいのではないかとも感じた。
まず、観ようと思ったのが、「エスカフローネ」だったわけです。この作品なら、重厚過ぎもしないし、巨匠然ともしておらず、マニアックに過ぎない内容のはずだから、「慣らし運転」にちょうどいいだろうと(^^;)
(・・・・・同時に借りてきたのは、私がここ数年一番観るのを億劫がっていた、押井守さんの劇場版「攻殻機動隊」2部作だったりして・・・感想はこちら)
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ところが、蓋を開けてみたら、劇場版「エスカフローネ」。ここまで全編の作風や設定がTVシリーズと違っているとまでは思っていなかった。
おかげで、こうして、予想外に重厚な記事にできつつあるわけある(^^;)
シビアな世界観。そもそもひとみの性格をここまで変容させるのは大胆な決断だったと思う。
1時間半強の劇場アニメとして、無理なく描ききれる形にストーリーも設定も整理されている。CGの使用はごく控えめで、劇場用とすればあと一歩ハイグレードな作画も当時の水準で可能ではあったろう。
しかし、TVシリーズについての予備知識皆無で観ても十分に堪能できる佳作に仕上がっていると思う。
日本での公開は限られた上映館だったらしく、劇場で見た人は限られているようだが、海外各国で公開され、フォン層を更に増やしたというのも納得である。
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どうも、ネット界では、惜しくも早くして亡くなった近藤勝也氏監督のジブリアニメ「耳をすませば」を「鬱アニメ」と呼ぶ風習があるらしい。
●『耳をすませば』が鬱映画?(教えて!goo)
ここでのやり取り全体にいろいろ苦笑してしまったけど、この映画を観ている側の方が映画の中の青春の描き方に勝手に落ち込んでいるというケースが少なくないようなので(その程度で軽々しく鬱なんていう言葉使うなよな~
)。
その点からすれば、この劇場版「エスカフローネ」は、TVシリーズと比較した時、このひとみとフォルケンという、劇場版では一番の鍵を握る登場人物二人が、こぞって似たような鬱状態として描かれているとは言えるかと思います。
その分、劇場版では、バァンの位置づけがやや地味になったともいえるかもしれない。しかし、ある観点からすると、バァンの方が、絶えず皇位継承者としての重圧を身に帯びて生きてきた孤独な武人であるという観点からすると、執着気質的で、古典的な鬱病の病前性格の持ち主であったともいえるかも。フォルケンとひとみのほうが「新型うつ病」的のようにも思えます。
そして、バァンは、ガイアという世界で、個人的人間関係の如何に関わらず、生きる目的と責任を背負っているという点が、フォルケンやひとみとは好対照な存在なのだ。
戦いの後、ひとみをガイアに引きとめさせているのは?・・・・バァンとの個人的な絆を失いたくないという思いだけだったろう。
これが、TVシリーズの、心地よい余韻に満ちた終わり方(↓)とは好対照なまでの、非常にあっさりとした形で、ひとみがガイアから地球に呼び戻されてしまう、ややビターなラストシーンの背景にある、この作品の世界観なのではないかと、勝手に妄想している。
↓これが「テレビシリーズの」ラストシーンです。
●Escaflowne- Ending Scene Credits(YouTube)
劇場版のラスト、あれは決して、フォルケンの夢の実現と同じことがひとみに生じ、ひとみが消滅したと同時に、地球も消滅した!!・・・・などというブラックなラストではないとは思います(^^;)
ひとみがちゃんと地球に帰り、別れたバァンとの絆を大事にしながら生きているらしいことは、エンディングテーマで、きちんと歌われていますしね(^^)
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・・・・・以上、恐らくこういちろうによる、このブログでこれまでで一番本格的なアニメ評論のエントリーでした!!
最後に、やはり「サマーウォーズ」の宣伝にも協賛しましょう!!
●【公式】『サマーウォーズ』 時をかける少女監督の最新映画 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)
↓こっちにはチャイコフスキーの音楽は出てきていませんが。
●サマーウォーズ 予告編(YouTube=KADOKAWA Anime Original)
不眠(正確には入眠困難)という現象は、一般に、「本人は眠りたいのに、どうしても寝付けないことに苦しんでいる状態」というふうにとらえることを、暗黙の前提にしているようにも思える。よりわかりやすくいえば、「寝つけないことに苦しんでいる」という状態である。
もっとも、「夜遅くになっても、時間を気にせずに、何かの活動をを眠らないままやり続けたい(はじめたい)」という場合もあるだろう。これは一般に「夜更かし」と呼ばれる。
もう1ついえば、「明日の朝までにやらねばならないことがあるので、眠い目をこすりつつ、嫌々ながらも、その作業を張り続ける」という場合もなる。これを「不本意ながらの徹夜覚悟の作業」などと名づけることもできよう。
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ところが、ある、回復期のうつのクライエント、Aさん(男性 通院治療 投薬中 午後のみアルバイト勤務の日あり)の話を聴くうちに、私は、もう1つのタイプの「夜、眠らないまま起き続ける」状態がある気がしてきた。
それを私は、「眠らないままで起きていようとし続けることへの、わけのわからない誘惑」と名づけることにした。
(以下、Aさんご本人の承諾の上で、事実の改変を交えながら書いて行きます)
Aさんは、理系の大学卒業後コンピュータ業界で働いていたが、数年で鬱になって退職した。長身で、細身の男性である。
自分なりに心理の本は結構読んでいて、自己分析能力・言語化能力に非常に長けている。繊細だが、非常に知性の高い方という印象がある。
Aさんは、睡眠導入剤の処方はすでに数年受けていて、その効き目を十分に感じていた。ところが、ここしばらくのうちに、「眠りにつくのが遅くなる」傾向と共に、少し鬱が戻ってきたかなと不安を感じていたのである。
Aさんは言う。
「私の場合、世間で言う『入眠困難』というのに当てはまるのだろうか? と思えてきたのですよ。
『目が冴えてしかたがないから起き続ける』というのとはまるで違う気がしてきたんです。疲れ切っているのは凄く自覚しているし。
眠る前に、例えば本を読みたいとか、ウェブをしたいとか、そういう具体的な何かをしたいという思いが勝っているわけでもなくて。
・・・・自分でも説明がつかないわけですから、このへんを、お医者さんにうまく伝えたことなんて一度もないことに、気がついたのです」
・・・・と。
Aさんに言わせれば、むしろ「自分を眠らないままでいさせようとする」わけのわからない衝動の方が先にあり、そうやって起き続けるのは何か手持ち無沙汰なので、何かやることを探し始めるらしい。
例えば、TVで深夜時間帯の番組を見たりする。すると、そのうちに1,2時間で気分は落ち着いてくる。さすがにそのあとは眠りにつきやすくなることもあるが、場合によってはそれでも済ませれない。またしても「眠らないままでいさせようとする」衝動がつき上げてくることもあるとのこと。
Aさんに言わせれば、「夜が明けてから、何かの活動をしていくことが不安だとか嫌なのかなとも考えてみたが、自分としては、こうしたことの繰り返しのせいで、昼間いい調子で活動できないことの不満の方が大きい」という。
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なぜAさんの訴える現象に私が関心を持ったのかというと、彼の話を聴くうちに、今にして思えば、他ならぬ私が、数年前に、鬱になる直前の時期に、まさにこうした「自分を眠らないままでいさせようとする」衝動に衝き動かされる中で消耗し、うつ状態にどんどん近づいていく悪循環にはまったようにもまざまざと思えてきたからである。
そして更に、私の中に、もっと昔の、ひとつの記憶がよみがえった。
Aさんに、「私の連想を話してみていいいか?」と断った上で、以下のことを口にしてみた。
私が若い頃から「鉄っちゃん」だったことはこのサイトでもカミングアウトしているとおりで、しかも、今はどんどん減っているブルートレイン(寝台列車)のファンである。
「私は若い頃寝台特急に乗る時、せっかく寝台券を買っているにもかかわらず、夜通し、カーテンの隅を開けて、外の景色を見続けようとしていることが多かったんです。もちろん、明かりの消えた寝台車からだからこそ味わえる夜の車窓の景色に魅せられていたことは確かなのですが、とてもそれだけでは説明がつかないものがあって。中学生の頃からそうでした。・・・・・今、お話をうかがいながら、あなたのいう、『眠れないままで起きようとし続ける誘惑』というのと共通の何かが、その頃の私の中で突き上げてきていたような気が、してきて」
Aさんは、
「確かに、私のと相当似ているかも知れませんね」
とうなづいた。
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そしてAさんは、更に次のように話し始める。
「まるで、自分の中のもう一人の自分が、『寝ずの刑』を自分に課しているかのようなんですよ」。
これを口にしてしばらくして、Aさんはは突如苦笑します。
「・・・・・今気がつきました(笑い)。
その、『眠ずの刑執行人』自身もまた、自分も眠いにもかかわらず、目をこすりながら、サディスティックなまでに、鞭をふるい続けているんです
。
そして『私』もまだ、マゾっぽいくらいに、その『眠らずの刑』を、甘んじておとなしく受けている。
・・・・・・二人とも寝起きを共にする時間帯は同じなんです(^^)。ですから、二人して日に日に疲れていくんですね。・・・・・ほんとは、刑執行人の方も、サドというよりマゾなんだといますよ(^^)
・・・・・話していて、ちょっと楽になってきました。まるでコメディー映画のワン・シーンを見ている気もしてきて」
私はここで、アン・ワイザーさんのフォーカシング技法(「フォーカシング ガイド・マニュアル」) における「2つ以上のものが出てきた時」(訳書pp.107-9)に、それぞれを「認めてあげる」にあたることを提案する。
「では、あなたの中の『寝ずの刑』の『刑執行人』の方にも、
『あなたも眠たいのに、たいへんですね』
と、労(いた)わってあげるようなつもりで言葉をかけてみるのはいかがでしょうかね。
・・・・・・・・そして、刑を『甘んじて受けて』いる側の『もうひとりのあなた』にも、労わりの思いを向けてあげるつもりで」
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Aさんはそれを味わった後、更に次のことを口にした:
「確かに、『眠らないようにする』ことは、どこか自分に対する処罰じみていますね。
"punishment".........私は何を罰しているのかな・・・・・・・
・・・・・・ちょっと言葉にするかどうか迷いましたけど、先生が男性だがら率直に思い浮かんだことをいいます。
中学生の頃、マスターベーションをしていて、もう全然快感を感じなくなっても、それでもサルのようにヌキ続けた頃のことを思い出しました。
とっくに『空砲』になっても、それでも繰り返す・・・・『あんな』感じなんですよ。この『自分を罰する』かのように『眠りにつかせない』感覚は。
もっと大人になってふと振り返ったことがあるのですが、マスターベーション、少なくとも「やり過ぎ」の域のそれって、実は性的な快楽を自分で得て、満たされるための行為ではなくて、むしろ自分の中にある、いきいきとした衝動性というか、感覚に開かれた形でものごとを楽しむ感性みたいなものを、片っ端から『芽を摘んでいく』ための行為のように思われ始めたんです。つまり、マスターベーションは『去勢行為』だって。
今の私は、いったい私の中の何を『去勢』しようとしているのかな・・・・・とか、連想してしまったんですよ。
私は、私の中で成長しようとしている、ある健全なエネルギーの芽生えを「摘み取ろう」という衝動に屈している気もする。
『眠らないままでいようとすること』で、自分の中のそういう芽生えを『磨耗』させ、『すりつぶして』しまおうとすらしているような。
「摘み取らない」ままでいると、私自身怖いのかもしれない。
それは・・・・・
まだ社会復帰途中の私は、実は自分の中に、すごい「孤独」や「疎外感」を感じているんです。そしてそれを癒したい・・・・という性急なまでの衝動も隠れている気がするんですね。そういう「孤独感」「疎外感」を癒したいという衝動と、まともに直面してしまうのが怖かったということでもあるのかな? という気もしてきました。
それは中学生の頃の孤独にも通じる気がします。とても女性とつきあえるようにはなれないという劣等感もってましたし。自分の孤独をひしひしと感じたくなかった、だから、無感覚になるまでヌキくった・・・・それはいえるかと思いますね。
でも、それだけでもなくて・・・・・私の中に、すでに何か、あるんですよ、本当はもっと積極的にバン!! と打ち出してしまいたい方向性が、芽生えはじめてきている気もするんです。
確かに、今の私にはそれを焦ってやろうとしたら、とてもそれをやっていくだけのエネルギーはまだないと思います。そういう点では性急に動き出さない自重は大事かと。
でも、そういう「芽生え」を自分の中で大事に育てたいとは思います。安易に「眠らないままでいさせようとする」ことで、自分を無感覚にしてしまい、芽生えを「摘み取ろうとする」去勢の誘惑みたいなのには屈しないでね。
これからは、この「眠れないままでいさせようとする」誘惑を自分の中に感じたら、明かりを消して、きちんと床につくことにします。
本当は眠くてたまらないんだから、「目が冴えて眠れない」というふうにはならない予感がしますしね」
最後に私は、Aさんに、
「お医者さんにも、そのような「眠らないままでいさせようとする」自分がいるみたいだ・・・・という思いを、丁寧に伝えてみたら? これまでの眠剤以外に頓服の眠剤の処方とかがあるかもしれない」
と提案した上で、終わりとした。
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一週間後に訪れたAさんは、
「実はあの3日後、念のためお医者さんで頓服の眠剤の処方をもらいには行ったのですが、実は試しに1回使っただけで使わずじまいで終わってます。
・・・・といいますか、あの面接の後、もう、その日の晩になったら、例の『眠れないでいさせようとする衝動』の方が、おとなしくなって、沈黙してしまっていたんです。
まるで、そういう『眠れないままでいさせようとしている』もう一人の自分が、『私』に、その存在を気がついてもらえ、『私』に認めてもらえたことだけで、ほっとしてしまったと感じているらしいんですね。
「やれやれ、やっと、俺の存在、俺の思いに気がついてくれたか」
みたいにして(笑)
だから、『彼』は、もう、自分の存在に気がついてもらうために、夜な夜な、暗に主張し続ける必要はないようなのです。
刑執行人の『彼』もほんとうは眠かったんですからね(笑)
・・・・・で、私のウツ友で、同じように少しずつ社会復帰し始めている彼女がいるんですが、彼女に、カウンセリングでこんなことに気がついたんだ・・・・と話したら、次のようなことを言われて。
『あなたと電話していると、なかなか電話を切ってくれないのが気になっていたの。名残惜しいのはわかるし、名残惜しいのは私も同じ。あなたも、『私も眠い時がある、もっと私にも気を使え!!』という訴えをあなたなりに理解して、配慮してくれることも増えていたのは感じていたし』
『でも・・・・今の話を聴けてよかった気がする。私、鬱がひどくなりかけたのに頑張って会社に通い続けていた頃、そうした仕事の後で友達との飲み会に朝まで付き合うみたいな、すごい無茶なことをせずにいられなかった時期がある。
『だから、あなたの『眠らずにいさせようとする』誘惑みたいなものって、私のあの頃のと、すっかり同じではないかもしれないけど、十分実感が想像できる気がする。私の知っている世界だと感じられるよ』
『そして・・・・最近のあなたって、もし、途中で性急に電話を終わりにしてしまったら、その後何かアブナイんじないか?・・・・みたいに感じるところがあったの』
・・・・彼女がそう言ってくれたんですよ」
Aさんは続ける:
「私はそうやって、彼女が僕のここしばらくの『何か』に気がついてくれていて、陰ながら配慮してくれていたことそのものに、心からの感謝を感じて・・・・・もちろん彼女にその思いを伝えましたよ・・・・・、更に肩の力が抜け、ゆったりと過ごせるようになりました」
*****
Aさんの中の「眠れないでいさせようとする」衝動を鍵とする「負のスパイラル」はともかくも止まった。
この日の面接の中で、それまでAさん本人の中でもはっきりしていなかった、これから焦らずに形にしてみたい「それまで思い浮かばなかった、いずれはっきり打ち出してみたい社会参加の行動」についての構想の一端も話していただけたのですが、現在進行形の内容なので、そこには触れないままにさせていただきます。
「私と同じような鬱の皆さんが、不眠について考えていく上で、何か新鮮な一石を投じるものになれば嬉しい」と、進行中の面接過程に関して、ここまで開示することを快く許してくださったAさんに心から感謝申し上げます。
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なお、こうした展開を読んでいると、専門家の皆様の中には、Aさんの中に、一種の「強迫性」の因子が強くあるとお感じの方も少なくないかもしれない。
確かに、そのようにとらえてみることは妥当だと思えますが・・・・
実は、Aさんは強迫性障害を意識した投薬治療もずっと受け続けているし、すでに示したように、非常に知的な方で、論理的、かつ感受性に豊んだ話し方ができる人であり、精神分析についても自分なりの読破し、ご存知なので、自分の「強迫性」について内省する力はすでに十分すぎるほど高度なのである。
ご自身を「鬱にはなったけど、もともとは分裂気質的じゃないか。男性とでも、親密な付き合いは苦手で、『同性愛ショック』じみたところがある気もする。それが先生との面接に影響しないか心配なんですけど」とまで、面接初期に自己分析されていました(^^)
Aさんにとって必要だったのは、もはや強迫性についての分析や解釈ではなかったのだと思います。更に、薬物療法の支えもあった。
Aさん自身の中ですでに暗々裏に感じられ、進行している、悪循環を引き起こす負のスパイラルのなりゆき(sequence)について、Aさんなりの形で、新鮮な実感上の気づきとして、無理なく生じていくこと、そして、そうした自分の全営みを自然と愛しめるようになることそのものだったのだと思う。
私は、Aさんのそうしたプロセスにさりげなく付き従って、最小限のアシストを差し上げ、共にし続けたに過ぎない。
結果的には、しなやかに進んだ認知行動療法やABA分析、解決指向アプローチにも通じる側面があるかとも思いますが、こうしたあり方が、私の、普段使いの「フォーカシング指向心理療法」的な現場面接の典型と感じていただければ幸いです。
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なお、この面接は現在も進行中ですので、このエントリーに関しては、コメントを受け付けない設定にさせていただきますことをお許しください。
「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回は、通例通り第2日曜、7/12(日)に開催しますが、すでに「団体様」6名のご予約を頂き(感謝!!)、更に別の方もエントリーいただきました。
そこで、2週間後の7/26(日)にも臨時開催させていただきます。
フォーカシングについての学習経験が全くない方の新規参加も歓迎しております。
参加エントリー、お持ち申し上げております。
詳しくは、こちらをご覧下さい。
OKWaveという、日本を代表するQ&Aサイトをご存知の方も少なくないかと思います。
ここに登録すると、利用可能になる機能の一つが、「すでに回答締め切りになったエントリーに直接リンクを張る形でブログ記事を書く」設定でして、ココログもそれに対応しています。
これは恐らく、本来、そこでなされた回答が自分の感じていた疑問の解決に役立った・・・・という記事を積極的に書いてもらうための機能なのだと思います。
しかし、これはもう1つの利用法が可能になるのですね。
「すでに回答が締め切りになった質問についても、自分ならどう回答するかを、自分のブログにリンクを張って書いてみることを便利にしてくれる」
幸い、OKWaveサイトの個々の質問エントリーの側に、こちらからのトラックバックのようなものが自動的に飛んでしまうような機能などはないので、いわば「外野で勝手に」そうした試みも可能になるわけです。
一歩間違うと、万が一質問者や回答者がブログの記事を読みに来てしまうと「すでに過去にやりとりは終了しているのだから今更蒸し返して欲しくない」という苦情が寄せられる危険があるかとは思いましたが。
しかし、それを敢えて私の責任で、フォーカシング関連の質問に限定してやってみることにしました。
舞台は、私の3つの@nifty系ココログサイトの中で常に日陰の道を歩んできた
「フォーカシングQ&A」サイトに限定します。
OKWaveで検索してみたら、「フォーカシング」についての質問(もちろんカメラ関連を除外)がいくつか見つかったのです。
質問と回答を読むうちに、(おせっかいかもしれませんが)質問者も、回答者も、随分と心細い状況下で、暗中模索でフォーカシングを学んでいるのではないかという思いが生じてきてしまいました。
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読んでいて、時として若干無責任だったり高飛車な回答ではないかと感じたものもあります。
例えば、臨床心理系の院生だろうと思える回答者が、一般のフォーカシングを学び始めたばかりの質問者向けに、学術的な厳密性を説くことがどれだけ「上から目線」の高慢な態度に読み手に写るか、少し想像してみればわかるはず
。でも、恐らく回答者には悪意はなく、むしろ日本のフォーカシングの現状が抱えている経験の貧しさのひとつの現れであるとは思いました。
もう1つのタイプで私を憂いに陥れたのは、「どんなカウンセリングがいいでしょう?」みたいな質問に対して、明らかにフォーカシングの正統的教育を受けたことはない、他の流派のカウンセラーのサイトに「フォーカシングをお勧めします」と誘導しているような回答者(そのサイトの主催者か、関係者である可能性が当然疑われるわけで・・・)の記事がいくつかあったこと。
私の知る範囲では、NLP(神経言語プログラミング)のセラピスト訓練の中で、フォーカシングを「独自の形で」盛り込んでいる団体があるようで、少なくともその中のある団体の訓練は、正式のものからすればかなりの簡略版ですが、そこそこの水準のものでした(実際その団体の幹部の方の実力を拝見したことがありますし)。
しかし、本家のThe Focusing Institute認定のフォーカシング・トレーナーに会えることを幅広く公開している例が日本でまだほとんどない現実の中(日本に公認トレーナーは少なくとも150名以上はいるのです!!)、そうした「兼業」サイト(?)にばかりリンクが張られているのは、やはり何かおかしなことです。
これは、TFIトレーナー側がこうした質問サイトに乗り出し、自ら頑張るしかないことです。
もちろん、TFIのトレーナーに学ばなければフォーカシングを学んだということにならないというわけでないことは、言うまでもありません(^^)
(そもそも、読者の期待にこたえる読み応えのあるフォーカシングのサイトが日本に幾つあるでしょうか? ・・・私は大いに挑発したい!! フォーカシングを学んだ若い人たちよ、この前の国際会議で刺激を受けた人たちも多いことだろうし。専門家も非専門家もどんどん勝手にやってみなさいよ。・・・・え? そんなこと勝手にやったら、指導教官の目が怖い? それなら最初から匿名で立ち上げればいい。mixiとかのSNSのクローズドなスペースにすでにあるのもしれないけど、いつまで「地下にもぐって」いるんだね? いつまでたっても「フォーカシング」で検索かけたら私のサイトだらけになる現状が異常なのだ。突如こっちからコメントで挨拶に訪れたりすることは控えるつもりだから、いい意味で好きにやって欲しい)
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恐らく若い人も少なくないであろう、そうした回答者の中に、私のようなトレーナー資格認定資格者が肩を並べては、若い人たちもやりにくいだろうとは感じます。
また、そうした質問者や回答者が、私と直接フォーカシングセッションを持った人である可能性すら、匿名である以上わからないわけですね。極端な場合、そこで苦情を言われているのが私とのフォーカシング・セッション体験の苦情かも知れない。
・・・・でも、それはそれでいいと開き直ることにしました。
今の私なら、どのようにそうした質問に答えるか、という点で良心的であろうとのみしてみるつもりです。
もちろん、これをきっかけに、「フォーカシングQ&A」サイトへの新たなご質問もお待ちしていますよ(^^)
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今のところ、次の2編を掲載しています:
●フォーカシング(?)がなんとなく苦痛 (長文です) -OKWave
最初の方に出てくる、風吹ジュンさん演じるお医者さんの言葉:
「動物は調子が悪ければ、じっとしているだけ。
でも、ヒトは言葉なんていうものを持っているから考えてしまう」
この前半は私が鬱をとらえる上でのモットーで、このサイトの記事の中でも似たことを何回か言及したことがありますし、先日「こころ相談.com」のインタビューでも使わせていただきました。
ことばが生み出した「こころファントム(幻影)」の問題というのも、先日ご紹介した神田橋先生の著書の鍵概念ですが、実は、別に鬱についてと限定して先生はお語りだったのはないのですが、「動物は調子が悪ければ、『元気がなくなり』、じっとしているだけ」という言葉に私が出会って、心引かれたきっかけも、この本なんですね(・・・・と、やっと「元ネタ」を明かします)。
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以下、しばらくこのドラマの展開からは離れますが、このブログをお読みになればお分かりのように、私もまた言葉に淫した人間そのもの、完全主義者ですし、理屈っぽいし、旺盛な文章力と関心ジャンルの広がりという点から見て、かなり「スーパーマン」じみた存在として読者の皆様にも感じられてしまうのではないかとも思います。
もっとも、私の場合にはこのドラマのツレさんのような、「メランコリー型うつ病」の典型に近いと思われるタイプではなくて、躁鬱的なものが(躁状態の方は目立たない形で)合質している、いわゆる「双極性障害II型」です。
完璧主義とすごい気分屋でてきとーな部分、感情のままにふるまう部分、事務的な仕事を几帳面にやることが何よりも苦手で、消耗度が人より高い面を、欝なる遥か以前の思春期から併せ持っているかと思います。でも、基本に「人間好き」な面を強く持っているから、カウンセリングという仕事が性に合ったのだとも思います(今でも、私のことを学者やライターがあっていると思っている人は、私の本質が全く見えていないと思う。私の本領は、生身の人間がいる「ライブの」場面。更にうつ病から脱するにつれて、それはいよいよ明確になってきた手応えはああります)
双極性障害親和的な躁鬱気質と、メランコリー型の単極性鬱病と親和的な執着気質は実は全く別のものであり、両者のライフスタイルの違いを軽んじてはならない(投薬も全く異なりますし)ことについてもすでにご紹介しました。
私は中井久夫先生の「分裂病と人類」を学生時代に読んで感銘を受けて以来、自分をS親和者的=分裂気質的と思っていましたので、自分が医者に「鬱」と診断された時にはかなりの驚きがありました。ちなみに私に「非定型薬」を出す可能性を考えた医師は全くいません(わかるひとにだけわかればよろしい^^)。
その後SSRIから気分安定化薬のデパケンに切り替えてからはじめて症状が劇的に改善したわけですが、それ以降、自分を、以前ならば全く思いもよらない、「躁鬱気質」の脈絡でとらえなおしてみることをはじめてみたのですね。そうすると、今後の自分のライフスタイルとして一番無理がないのではないかとすら思え始めた。
ドラマ後半で登場した、ツレさんの「あ・と・で」のモットー、すなわち、
「あせらない」
「(自分は決して)とく別ではない」
「できることから」
というのも、これでも以前よりは相当板についてきたかなとも思っています。
このドラマのこの回でも描かれているように、鬱には波があり、もう大丈夫かと思ったら突然ぶり返すこともごく普通です。そのことに本人も家族も動揺したり落胆したりしがちです。
しかし、本当は、波があるのが普通である、という前提に立ち、波がないことのほうがおかしいという前提で、人間や動物が、四季の移り変わりや、年毎の旱魃や長雨に対応するために、五感を働かせて刻々とチューニングし、そこそこに無理のないラインで生活できていくことの方が自然なのだと思います。
ある観点からすると、人間が高性能を維持して故障のない機械になれることこそ理想の労働力とみなされ、日々の生活においても、一年中空調の聴いた部屋の中で、季節の収穫と無関係に同じようなものを食べられて当然と思い込み始める中で、退化し、鈍くなり、自分を年から年中同じ状態にあるかのように欺くのがうまくなったことの裏返しとして、自分の置かれた状況の変化に不感症になり、無理を無理と感じなくなり、鬱の準備状態にはまっているのに、まだそのことに気がつかない人も増えたのかなとも思います。
今の私は、以前よりも、自分の無理の兆候や、逆にややハイになっている兆候、そして、欝っぽくなっている兆候にはるかに敏感です。
一度鬱という病に本格的に陥ってしまった皆様の中には、そうした自分の些細なまでの敏感さそのものにむしろ苛立ちを覚え、むしろそれに振り回されて困っている方たちもたくさんおられるかと思います。
でも、その敏感さが、むしろしなやかで柔軟な、新たなライフスタイルをあなたに導くための羅針盤にもなるはずです。
羅針盤とは、どっちが北でどっちが南かを見失わないためのものです。多少、航路から外れてきたなと気がついたら、その段階で航路を「完全補正」するのではなく、風向きや地形や気象や波の状態も配慮しながら、そこそこ回り道をして目的地に向かうのも大事な「航海術」かと思います。
そうした皆様に、その羅針盤を共に見守って、航海を共にしてくれるような人たち(専門家・非専門家問わず)との出会い(出会いなおし)がありますことを。
「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、次回は通常通り、明後日、6/14(日)に開催いたします。
すでに参加エントリーしてくださった方はありますが、定員に相変わらず余裕十分の状況が続いていますので(^^;)、もう一回声をおかけしたおきますね。
参加者何名でも、それにふさわしいスタイルを柔軟に地道にやっていくことには何ら変わりがありません(^^)・・・・「学ぶ会」に関しては、とっくに焦りとか、そういう境地は超越し切って澄み渡っているこういちろうです。
以前にもご紹介したかとも思うのですが、改めて、現在九州大学で奉職されている、田嶌誠一先生(研究室情報はこちら。先生のメッセージもあります)の開発した「壷イメージ療法」について取り上げてみたいと思います。
まず、壷イメージ療法についての田嶌先生ご自身の著作(単著、およびそれに準ずる著作)は次の二つです。
専門家向けの包括的な著作としては結局この本に勝るものはないのですが、中古市場でたいへんな高値がつく状況です。もちろん、伝統ある臨床心理系の大学院のある図書館には結構所蔵されている可能性が高いでしょう。
研究会の、シンポジウム形式での発表と討論の記録という体裁をとっているのですが、そこで討論者に指定された先生方が超豪華です。
倉戸ヨシヤ先生・栗山一八先生・中井久夫先生・増井武士先生・(我が恩師、亡き)村瀬孝雄先生。(司会はもちろん田嶌先生の恩師、成瀬悟策先生です)
・・・・もう、これだけで、一読したい若手臨床家の皆さんは少なくないかと(^^)
この本は、壷イメージ療法についての解説書というよりも、イメージ体験全般が人の変化に持つ意味についての平易な解説書という側面が強いので、「壷イメージ療法」の臨床現場での適用についての解説本を期待された読者には少し物足りないかと思います。
ただ、田嶌先生の「イメージの体験様式の変化」論について、そのおおよそを掌握したい人には向いているかと思います。
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この中の前者の著作で書かれていますが、壷イメージ療法のルーツは、あくまでも、田嶌先生の恩師である成瀬悟策先生のイメージ療法と催眠療法です。いつの間にかフォーカシングのバリエーションとして生み出された技法であるかのように受けとめる人が増えていますが、この点は安易に混同すべきではないでしょう。
更に、壷イメージ療法を、
1.気になる事柄について、
2.それを入れるのにぴったりの壷を思い浮かべて、
3.壷の中にその気がかりを入れて、
4.蓋をして封印して、
5.置き場所を決めて「距離をとる」
・・・・そういう技法だと思い込んでいる皆様も少なくないようです。
すでに10年以上前になりますが、私は、田嶌先生ご自身が講師のワークショップに参加して、こうした理解がいかに一面的だったかに重々気づかせていただきました。
それ以来、私は、フォーカシングのインサイダーであるにもかかわらず、壷イメージ療法を行なう際には、田嶌先生のエッセンスを絶対に外さない、オリジナルほぼそのままを使うようにしています。
現場の日常のカウンセリングでも「壷イメージ療法」は全くの「普段使い」の技法のひとつですし、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」や「フォーカシング個別指導」の場でも、ご希望があれば、いつでも「オリジナル・バージョン」のままでお伝えしています(^^)
そこで、ネット上にいくつかある、「壷イメージ療法」についての解説記事よりも更にメリハリを明確にして、できるだけシンプルに、この技法の勘所の私なりの解説を試みてみたいとお思います。
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1.深呼吸などをして、リラックスできる態勢を作ってもらう。
2.「あなたのこころの中のことが入っているた、壷のような『容れもの』があると想像してみるのはいかがでしょうか?・・・・・・しばらくすると、浮かんできますよ」。
【Tips 2-1】・・・・・ここで肝心なのは、標準技法においては、先に、「こころの中のこと」が具体的に何なのか想像してもらい、次に、それを入れる壷を想像してもらうのではないということです(このことは、田嶌先生に直接ご質問してはっきりと確認済みです)。
のっけから「自分のこころの中のことが入っている壷」をいきなり想像してもらうわけですね、こころの「内容(content)」は何なのかに意識的に注意を向けるように誘導することをむしろ回避し、contentは曖昧のまま、それを包含する「容れもの(container)」の方をイメージしてもらう方向に仕向けているあたりに大きな鍵があります。
もちろん、こうした教示の結果、クライエントさん自身が、壷のイメージを見つけ出す前にせよ、見つけ出した後にせよ、自分から、「これは、○○についての壷」などと命名することはあるかと思いますし、それは当然受容的に受け止めていくことになりますが、それが何についての壷なのか、クライエントさん自身にずっとピンとこないままでも、壷イメージ療法を進める上では何も障害にはなりません。
田嶌先生は、「あなたのこころの中のことが入っている」って何? と怪訝な様子のクライエントさんには、そこすらすっ飛ばして、ともかく壷を思い描いてみることを勧めてみることすらあると言われていたと記憶します。
(もちろん、応用編として、具体的な、扱いづらい課題や感情について、それを入れる壷を思い浮かべるという方法はあり得るわけですが)
【Tips 2-2】・・・・・「壷」という指定イメージは、たいていの人にとって思い浮かべやすいものなのですが、「いれもの」のようなものであれば、壷ではなくて、ビンだとか、袋だとか、箱だとか、ともかく、「容器めいた形状」であればいいことを多少示唆するサポートが役に立つクライエントさんも少なくないようです。
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3.壷が浮かんできたら、少なからぬクライエントさんは、簡単な誘いかけだけで、「どんな壷か」について、形状や、そのたたずまい(かもし出す雰囲気)、更には、眺めているとどんな気持になるか、それに似た壷を以前どこかで見たことがある・・・・・などという話を、自分から物語り始めるので、それを受容的に受け止める(ロールシャハでいう「自由反応段階」みたいなもの)。
【Tips3-1】 大きさや形、色、陶器か磁器か、表面の材質、触り心地の感触など、いくつかの具体的観点から、セラピスト側から、控えめに若干質問してみるくらいはいいだろう。
私(阿世賀)個人は、こういう時に、「どんな『感じ』がしますが」という言い方をオープン・クエスチョンで一般的な形で軽率に使いすぎること自体を回避したい気持ちが強い。それなら、せめて、「壷を眺めていてどんな気持ちがしますか」ぐらいに設定を明確にしたい。
なお、私は、フォーカシングの場合には、フォーカサーがイメージ的な象徴化をしても、イメージそれ自体について、「大きさは?」「色は?」などどいう、イメージの具体的な詳細化を直接求める問いかけをすることをほとんど禁忌とすらしている(もっとも、夢フォーカシングだけは例外である)。
フォーカシングにおいてイメージは不可欠に必要な過程ではない。アン・ワイザーのいうがごとく、イメージは、身体感覚や情動や、気になる事柄についての具体的な語りなど、フェルトセンスが響きあういくつかの側面の中のひとつであるに過ぎない。
ところが、壷イメージ療法の場合には、壷のイメージをリアルに具体化させる方向に若干誘導する(=拡充する)ことそのものが、促進的なブロセスとみなしていいようだ。
つまり、ロールシャハで言う「質問段階」みたいなものにある程度踏み込んでもいいということである。
(そもそも、壷という課題を提示したのは治療者の側であるため、クライエントさんの中で固有のイメージ化のプロセスを具体的に促進する援助が必要ということにもなるのだろう)
この点で、私は壷イメージ療法とフォーカシングとでは、そもそもイメージについての質問や応答のしかたそのものをはっきりと使い分けている。
もっとも、クライエントさんの語りを丁寧に受け止めていけば、そのような喚起的質問は最小限でも、クライエントさんは、思いの外自発的に、細やかにこうした語りを紡いでいくものであり、性急に質問を繰り出すのは、本人のプロセスを妨害するだけであることは、両技法共に変わりがない。
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4. 「他にも浮かんでくる壷はないか?」と問いかけ、2..-3.までの段取りを繰り返す。
田嶌先生自身、「ひとつしか壷が思い浮かばない人の場合の方が注意を要する」と、1つ目の著作でお書きである(p.57)。「1つの壷の中に多様なものを含みすぎている状態であろうと思われる。ただし、『他にもあるけどはっきりしない』とか『たくさんあるけど一個だけはっきりしてる』という場合はこの限りではない」(pp.57-8)という示唆は興味深い。
私の経験では、意外と少ないのは、個数が2個で終わるケースである。3個や4個というケースは、壷の形状とそこから語られる連想もバラエディに富み、セッションとしてまとまりがいい気がする。「序・破・急」あるいは「起・承・転・結」ということを連想させる不思議な順序で壷自体が浮かぶのである。
つまり、単にこころのいろんな側面の表れというより、新たな壷について語られ出した時、新たな体験過程のステージが開かれていくばかりか、治療者がそれにうまく付き添う限り、新たな壷の登場そのものが、そのセッションで可能な範囲での無理のない「人格再統合」すら暗々裏に指向しているかのようなのである。
(ここまでは田嶌先生は言われていない。ただ、私の場合、フォーカシングにおいても、clearing a spaceを進めていくことは、思いよらない新たな気がかりに『気づいて』いくことであり、丁寧にclearing a spaceが進むと、すべてを積み出した時には、単にすっきりしたというのを超えた大きな気づきを伴うシフト体験にすでになっていて、それ以降のフォーカシングの部分は不要とフォーカサーも感じていることが少なくない現象を早くから指摘してきた立場(阿世賀,1992)なので、私が療法家として新たな壷を思い浮かべていってもらう過程でも、類似のことが生じやすいとも想定できるかもしれない)
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5. とりあえずの、ちょうどいいいくらいの壷の「置き場所」について「相互調整」してもらう。
【Tips4-1】田嶌先生のオリジナルに従えば、一つ一つの壷に「ちょっと入ってみて」配置を決めるのだが、私は、壷を眺めていての心地だけで決めてもらうことしかやったことがない。
一般的に言えば、なじみやすい壷を手前に置くことになるだろう。「ちょっと奥に置いて眺めてみるのもいいし、右手寄りでもいいし、左手よりでもいいし・・・・」ぐらいの曖昧な示唆しか与えない。置き場所に高低の「段差」があったほうがいいので「台」や「棚」や「スロープ」を自発的に設定してしまう人もいる。
この段階で、自発的に、「実家の土間に置いてあるイメージが浮かぶ」とか、自発的に具体的なことを語る人も出てくるし、中には「腕の中に抱えていたい」などと、思いもよらないことを言い出す人もあるが、受け入れている。
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6.一番入りやすそうな壷を選んでもらい、壷の中にゆっくりと入ってみて、じばらく中の居心地を味わってみる→出てきてもらう→壷に蓋(ふた)をする
田嶌先生自身、これは無理な人にやってもらう必要はないことを強調している。このステップを最初から省略する前提でもいいように思う。田嶌先生自身短いワークショップではこの部分を割愛している。
この「入ってもらう」体験は、一般に思われているよりは、恐ろしい体験として本人に体験されることは少ないようである。
ただし、仮に壷に「入ってもらわない」ままで済ませたとしても、個々の壷との関わりの終了の前に、「蓋(ふた)を見つけてもらう」ように促すことは大事なことである点は強調したい。
しかも、どんな蓋がいいかを吟味してもらうプロセスが大事である。 コルクの栓という人もいれば、油紙やラップを何重にも重ねたものを壷の口に載せ、紐でぐるぐる縛りあげる人もあるかもしれない。
このことと延長して、壷そのものの「梱包」まで進むのが自然な人も少なくない。「壷が本来入っていた木箱に納めたい」というような人も少なくない。
私の場合には、個々の壷の栓のしかたと、その日のセッションの段階でのその壷の「置き場所探し」は、連続的な手続きとして進めてもらうことが多い。
「置き場所探し」に関して、私は「それは現実の場所でもいいですし、空想上の場所でもいいです。この面接室の中のどこかでもいいです。(小さな壷の場合)もし、持ち歩きたいというのでしたら、それを入れるための空想上のバックやポーチをしつらえてもいいですよ」
などとアドバイスします。少し変わった例では、「その壷を置いた建物の『外観』を写真に撮ってパスカードに入れて持ち歩くつもりでいたい」というような例もあった。
「栓のしかた」と「置き場所探し」は、私の見たところでは、実は別々のことではなくて、多くの人にとって、相互補完的なワン・セットの段取りのように思う。
中には、「別に蓋をしなくても大丈夫です、実家の神棚のお神酒のところに置いてあるつもりになれば」などと、置き場所にだけこだわれば十分という人も珍しくはないように思う。これは、私の場合、以下に述べるとおり、壷に「入ってもらう」ことを滅多に行なわないことも深く結びついているのではないかとも思えている。
実は、私の場合、この「入ってもらう」段階は、面接現場ではほとんどの場合省略している。それは、ここまでのプロセスですでに十分すぎるほどのことがクライエントさんとの間で進んでいる気がしてならないことが多いからである。
少なくとも、この「入ってもらう」部分を、壷イメージ療法におけるクライマックスとして想定する必要はなく、むしろ、可能な人向けの追加オプションと見なしてもいいのではないかとすら私は判断している。
では、壷イメージ療法の中で一番肝心なことが生じているのは?
実は、壷を思い浮かべて、無理のない距離感で、しばらく壷の様子を味わった、その段階だと私は思っています(^^)
この点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスをつかまえ、無理なくしばらくそのそばに『共に-居られた』経験それ自体を繰り返し可能になれることが大事で、後のことは無理して引き起こすことではないというのと似ているかと思います。
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7. 次の壷に入りたければ、6.と同じようにして入ってもらう→壷の置き場所を見つけてもらう。
8.そのセッションで相手をしなかった壷についても、蓋をしたり、置き場所を見つけたりが必要なものもあるだろう。強迫的にすべての壷の封印や置き場所探しは不要で、「目を開ければ消えてしまう」ということでいいという壷もあるかもしれない。
しかし、セッションの中で不快な、あるいは不気味な印象のみを残したり、混乱させたり、後味の悪い壷については、封印や置き場所探し、あるいは、田嶌先生自らが「補助的技法」として紹介している「金庫に入れて、鍵は治療者が預かる」という厳重なやり方、更には「次にこの面接室に来て、また開ける気になった時まで、その壷を一人で家で開けてみたりは決してしない」という約束などが重要なこととなるだろう。
私は、この「この面接室だけで壷の蓋を開けよう」という約束を興味深く思っている。面接室の中で、クライエントさんが壷との関わりでそこそこ安全な体験をできたのも、実は、治療者がクライエントさんの内面の"container"(ビオン的な意味を込めてもらっていい)としての役割を果たし、更に、面接室とい特殊な心理=社会的かつ物理的な「容れもの」空間にも保護されていたからだと言えるかと思う。
面接室の一歩外に出たら、あの冷たい世間の風なのだ。あるいは、家に帰ったら、家族との関わりの中で心の壁にたくさんの弾痕ができている人も多い。そういう人が、面接室と同じような調子で壷のふたを開けたら、自分自身のこころのcontainerだけでは中からあふれ出してくるものに対応できない可能性は高い。仮に時折壷を思い出しても、外側から眺めたり、撫でてみる程度までにとどまっていれば、実は安全度が高い形で、日常に裏面的なプロセスを持ち帰っていることになると思える。
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壷イメージ療法の最大の逆説は、心の"内容(content)"に具体的に注意を向け、言語化し、表現し、説明・分析していくという、対話的心理療法の方向性を逆手に取り、「壷」という、誰にとっても視覚イメージが喚起しやすいばかりか、ディティールが細やかで皮膚感触的な感覚性も高く、太古的・原型的で、人間の身体構造のアナロジーともなる絶妙な指定イメージのもつ、
「具体的な中身(content)を包み隠しつつも安全に保持するが、密閉はされていない『容れもの(container)』」
を思い浮かべて味わうことに、巧妙にすり替えている点だと思う。
「すり替えて」という言葉は今の私にとってもぴったりではないが暫定的に採用したい。
少なくともここで私が言う「すり替えて」とは、いい意味での「すり替え」なのだ。ただのガムの銀紙を金箔に「すり替える」みたいな方向での。
目に見え、触ることもできる『容れもの』をイメージ的・身体感覚的に観照し、味わい、体験することは、ユング風に言えば、その『容れもの』の中で胚胎され、発酵していく、たましい(soul)そのものの変容過程という、目に見えないし、言葉で説明しきれないものに関わるのだと思う。
神田橋先生ふうに言えば、実はファントムに過ぎない「言語化まみれ」の泥沼から「こころ」を救出し、大事に守り育てるための、ひとつの営みなのだと思う。
壷イメージ療法の効能について、旧来の心理学や精神医学の力を借りればさまざまな説明ができる。でも、それらによって説明し尽くそうとすることと、この優れたアプローチを、現場で臨床家がどう職人的に役立て得るかは別次元の問題であろう。
どうも、フォーカシングの方が、壷イメージ療法よりも「難易度が高い」技法のようだとは、私すらも感じています(^^;)
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なお、田嶌先生が理事長をお務めになる形で、NPO法人として、開業カウンセリングルームが、福岡市の西新プラザで開設されています。
詳しくは、
サイトをご覧下さい。
このサイトにあります。何と神田橋先生の許可を得た上での掲載だとか。
読んでみたら、私が最近志向していた考え方の方向性と凄く一致度が高くて、思わず、
とつぶやいてしまいました![]()
特に、
●適度にそううつ的な人こそ、これからの時代を生き延びる適者である?
で明快に打ち出すことにした、
「躁鬱気質の人間を、下手に『まじめで几帳面な人間』に改善しようとするあまり、こじれたうつ病もどきにするんじゃねえ!!」
という私の論調に関して、大いに勇気をいただきました(^^)
サイト管理者と現在連絡が取れない設定になったままですが、この講演内容を広めること自体に関しては全くgoサインの方であると確信して、ここでご紹介させていただくことにいたしました。
以上、どうして神田橋先生関係の検索で当サイトにおいでの方がここまで多いのか、未だに不思議な、むしろ中井久夫先生信者の当サイトオーナーより(^^)
それでも一冊。
神田橋先生といえば、↓この本に尽きます!!
昨日の話の続きである(^^)
どうも私が今の段階で「我が内なる藤原紀香」が求めているのは、キャッシュのチャージではなくて(「食べる」くらいには稼げてますし)、どうも、久留米に帰ってこれまでの「労に報いる」ご褒美であり、それはお金には換算できないものらしいと気がつけたことは、私にとって意外と大きなシフト=気づきであった。
ともかく「ご褒美」という、内なる藤原紀香でもないと使いそうにないボキャブラリーが私の気持ちを表す言葉としてしっくりきたのが何とも興味深かったのである。
さて、今日になって私がどうふるまったかということを、こうして夜になって振り返ってみると、・・・・・・お金ではなくて、ものでもなくて、そういう「形にならないご褒美」をもらえるように自分を仕向けるという行為だったように思える。
私に必要なのは、ある種の情緒的なチャージを受けることによる余裕感の回復だったようである。
「その方たち」に下手にご挨拶するのは、まるで「何か仕事ありません?」とお頼りするみたいで申し訳ないと、延々と躊躇していた。
ただ近況報告して、元気付けていただいた・・・・それだけである。
「君は久留米のような田舎で自分の考えをじっくりと深める方が似合っていると思うよ。東京なんかの、頭の大きな人たちを相手にしていたらおかしくなるだけだ!!」
しかし、それで我が内なる紀香は大満足して、昨日のやや鬱的で無気力なモードから一変して、お役所への「あるお伺い」を、いそいそと、やすやすとこなしていたことだけは間違いない(^^)
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ジェンドリン曰く、
「物事がうまくいかないのは、多くの場合、そのことを中途半端にしかやっていないためである」
(『フォーカシング』のどこかに書いてある言葉のはず)
バラ・ジェイソン曰く、
「クライエントは、うまく行っているものは何か、うまくいくものをもっと行なうためにはどうすればよいかに気づくように促される」(邦訳p.55)
フォーカシング技法において、ジェンドリン自身のオリジナルな技法(『フォーカシング』)において「第5の動き(movement)」として位置づけられているのが、フェルトセンスに「問いかける(asking)」の教示です。
フォーカシング技法とは、別に、
第1の動き:空間づくり(clearing a space)
第2の動き:フェルトセンスをつかむ
第3の動き:フェルトセンスにとりあえずフィットする言葉やイメージを見つける(get a handle)
第4の動き:フェルトセンスと、見つけ出した言葉やイメージを響き合わせる(Resonating)
という段取りを順々に進めていき、その後で、この、フェルトセンスに「問いかける(asking)という部分に進んではじめてシフト(気づきと身体的ナな緩み)が生じ、その成果を、
第6の動き:受け止める(receiving)
で受け止めて完成! といったものではないことは、これまでこのブログでも繰り返し申し上げてきました。
自分の中にその時の自分のフェルトセンスに直接注意を向けられることに気がついたら、わざわざクリアリング・ア・スペースをやらないままに、早速フォーカシングを進めてもいいのです。
そういう形でフェルトセンスに関わろうとしても、何かうまくいかないで、心を乱すいろいろな何かがありそうだと気がついた時点で、クリアリング・ア・スペース・・・・今の自分を不調にしている気がかりについて、ひとつひとつ確認して脇に積み上げていく、「たな卸し」作業に立ち戻ってもいいのです。
クリアリング・ア・スペースを進める中で、「そうか、自分にとっての今の本当の気がかりはこのことだったんだ!」と、思いもよらない新鮮な形で「気がつける」だけで心が大きく解放されるということも珍しくないわけで、その場合には、いかなり、ジェンドリン法で言う、6.「受け止める」に進んでも何も差し支えもない。
フェルトセンスにぴったりの言葉やイメージが見つからなくても、「この」感じ、などという直接指示語で、本人にとってその感じをつなぎとめ続けるのに何も苦労しないのなら、それ以上、ぴったりの言葉やイメージ探しに過剰に強迫的にこだわることは、百害あって一利なしです。
そして、アン・ワイザーさんが、自分の技法を形成する際に、「フェルトセンスと共にいる」ことを重視し、独立した教示とし、フェルトセンスに何かを引き起こそうとする、ありがちな性急な誘惑に乗らないままでいたほうが、変化が自然と生じるべき時に生じる(そのセッションの中ではっきりとした気づきが生じることはなくてもいい)事を重視したことは、画期的な業績でした。
(もっとも、ジェンドリン自身フェルトセンスのそばにしばらくの間じっくりと留まってみることの重要性は、繰り返し、繰り返し強調しているのです。簡便化されたショート・マニュアルなどでは抜け落ちてしまいがちなだけのことなのです)
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アンさんは、フェルトセンスとの「内的な関係作り(inner relationship)」を重視しましたので、ジェンドリンのオリジナル技法で言う、「フェルトセンスに問いかける」を、オプショナルなものとみなし、あまり重視しません。
日本では、アンさんのトレーニングの影響が濃いために、そもそもジェンドリンの「フェルトセンスに問いかける」という教示を実際にセッションで普段使いしているフォーカシング・トレーナーや学習者がかなり少ないという印象があります。
(公開ライブ・セッションを拝見した限り、唯一の例外が、ジェンドリンの直弟子である池見陽先生で、私が拝見した時には、当意即妙のセンスで柔軟にaskingを使って、フォーカサーのプロセスに無理のない小さな刺激材を供給しておられました)
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今も述べましたが、このaskingの教示そのものが、実は、フォーカシングのプロセスが、第4の動き(ここまでが繰り返しなされるうちに展開が生じることも多いです)まででは、何かあと一歩プロセスが進まないときの、小さな刺激剤的な提案としてなされるものに他なりません。
フォーカシングの技法の発展史に詳しい若手研究者にきいたところ、このaskingの技法そのものが、ジェンドリンの教示体系の中では、一番最後の段階で付加されたものであるようです。
つまり、そもそも、必要不可欠ではない。敢えて言えば、料理の最後にお好みでふりかけてみる香辛料程度のもの、つまり、食卓テーブルの上の「スパイス」です。
しかし、「スパイスこそが料理の成否を決める」という人もいるでしょう(^^)
そして、こうしたスパイスには何通りもお好みの品が取り揃えられているわけです。他の人がスパイスとしてあまり使わないものすら、フォーカシングの学習者やトレーナーごとに、色々工夫して、調合して、臨機応変に使い分けるストックがあっていいわけですね。
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ジェンドリン自身が『フォーカシング』の中で、この「問いかける」の教示について詳しく説明しているのは、第9章「何もシフトしない時は」です(邦訳pp138-146)。この部分で例としてあげているものは、意外とそっけないまでのリストだったりします(^^;)
「これは何だろう、いったい全体?」(阿世賀訳:「ほんとのところ、それって何?」
「この核心は何か?」
「それが最悪だとどうなる?」(誤訳。「その(感じの)中の何が最悪なの?」)
「一番悩まされているのは、それらのうちのどの2,3点なのか?」
(↑【注】何ともこなれない訳である。
"What are the two or three things about it that trouble me the most?"
・・・・・私なりの意訳案:
「あなたにとって一番厄介だと感じている事柄をそこまで行き詰まらせているのは、実は、そのことと関係した、いくつかの一見些細な事柄かもしれません。そういうものがあるとすれば何でしょうか?」)
「それの下に何があるか? それは何をしているのか?(阿世賀訳:そこでは何が進行しているのか?)」
「 それについて何が起こったら私にとっていいのか?」
「いい気持ちになるにはどうなったらいいいのだろう?」
*****
この教示を使う際に重要なのは、この問いを、リスナー/ガイドは、フォーカサーに、この質問に頭で考えて答えを返してもらうために発しているのではないということです。
むしろ、フォーカサーが、自分のフェルトセンスに対して、こうした問いを投げかけてみて、しばらくそのまま佇(たたず)んでみることを提案しているに過ぎません。
すると、最初は非常にかそけき形で、そしてしばらくするうちに思いもよらない方向へと、自分のフェルトセンスが変化しする場合もなります。
それが2,3分以内に生じない場合には、あっさりとその問いかけは諦めてしまい、他の教示を試してみるか、あるいは、フェルトセンスと再び共にいる態勢に戻るくらいの、「ちょっとした試み」というセンスが肝心でしょう。
フォーカサーの側から、
「何か、この後の私のプロセスを進めるために役に立ちそうな教示を、2,3提案していただけませんか」
などとヘルプを出されたタイミングで、いくつかメニューとして、控えめに提示する・・・みたいな関係性がすでに形成されている中で活用されるのが、一番成功率が高いようです。
つまり、フォーカシングをどうすすめるかに関して、ガイド側にまだ依存している度合いが高いフォーカサーに安易にaskingの教示を提案すると、成功率が低く、仮に見かけ上そこでプロセスが動いたとしても、本当の意味でフォーカサーのプロセスに寄り添わないままとなり「セッションの場の中でだけのシフト体験」となり、フォーカサーの日常の体験過程のプロセスとしっくり溶け合わないというリバウンドを背負った、「早すぎた、突出しすぎのシフト体験」になることが多いというのが、トレーナーとしての私の反省でもあります。
ですから、実は、askingの教示が重宝するのは、意外にも、セルフ・フォーカシングの場面であるということも、私の経験からいえます。
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そして、この教示は、フォーカサー自身が、まだ自分でフェルトセンスとの相互作用(対話)を先に進めていこうとしている最中に、リスナー/ガイド側からの性急な介入としてなされるべきものではありません。
セッションの経過に、焦っている、せっかちになっている、不安になっているのは、フォーカサーなのか、むしろリスナー自身のほうなのか、ということをきちんと「感じ分けて」ください。
リスナーの側が自分の中に「焦っている自分」を見出せれば、それを自分の中で「認めてあげて(acknowledging)」みるだけでも少し余裕が取り戻せるばかりか、驚くべきことに、リスナーの側がそうした内的作業を終えた直後に、まるでそうしたリスナー側の余裕感の回復が「空気伝染」するかのようにして、フォーカサーのプロセスが自然に無理なく動き出すこともごくありふれたことです。
それでもなお、フォーカサーが自分と格闘して堂々巡りになっていと感じられ、ただそれをリスニングし続けるのは「何かが違う!!」というメッセージがリスナーの内側から響いて柄来るようなら、もはや教示の提案をあれこれ工夫するとかリスニングするといった態勢にのみこだわるのがもはやふさわしくはないのかもしれない。
「・・・・・ちょっといいですか?(などと断りを入れた上で)・・・・さっきから、自分の内側の感じと必死に格闘しておられるあなたの様子が伝わってきます。ただ、そのご様子を拝見していていて、そのことがおつらくなって来ているのではないかとも感じられてきました。もっとも、今のままであとしばらく自分なりに思う存分内側と関わっていろいろ試してみたいと言うお気持ちがあるのでしたら、喜んでおつきあいします」
などと、リスナー側が自分の気持ちを、アサーティブに率直に伝える方がいい場合もあるかと思います。
*****
さて、さきほど例を並べましたが、askingの教示というのは、実はフォーカシング技法の中では、本には書かれていない無数のバリエーションがあり、フォーカシングを学ぶ一人ひとりが、自分にとってのお気に入りのasking教示のレパートリーを「道具箱」に蓄えておいていいものです。
「ジェンドリンのこのasking教示の具体例を私は意味がそもそもわかんないし、うまく使えたことがない」
としても、そのことは別に気にしなくてもいいことです。
もとより私のように25年もやっていれば、普段は全く使わないaskingの教示が結構効いた!! という経験が出てきていて、そもそも本に書いてあるフォーカシングの教示で使ったことがないものはほとんどまるでないという事態に結果的になっています。
しかし、私はそもそも、フォーカシングを学ぶ最初から、自分にとってその存在意味がピンと来ないフォーカシングの教示は全然使わず、使える教示だけ日常の中で使い込み、それだけではうまくいかなくなった時に、はじめて「頭では覚えていた」フォーカシングの教示を、苦し紛れに使ってみて、予想外に活路が開けるという経験の繰り返しのなかで、フォーカシングの技法の幅を広げてきた人間です。
そして、そうした際に、教示や技法というものが、その場でふさわしい形に、柔軟にカスタマイズされていく必要性があることを身に染みています。
そもそも、ガイドをはじめる際に、「いつも使っている、なじんでいるはずのやり方」ではじめようとして、身体が違和感を訴える場合には、もう、それだけで、恐らく、そのままでは、フォーカサーの援助になるガイディングをできる態勢にないと判断しています。
(そうした時にどうやって私が解決するのか・・・・というのは、企業秘密です^^; 最近やっと発見した「コロンブスの卵」ですが、これは私のもとにフォーカシングを学びにおいでの方だけにお明かししています)
*****
私個人としてお勧めのaskingの教示は、
「その感じの下の方(beneath)に、もうひとつ別の感じの層が隠れていると仮定してみてください。そこらへんは、どんな感じでしょう?」
というものです。
英語に詳しいフォーカシング学習者にこのことを伝えると、
「単に、『下にあるのは何?』といわれても、何ことなのかピンと来なかったと思う。でも"beneath"ならピンとくる!! "beneath"って前置詞そのものに、「・・・・に隠れて」「・・・・の裏に」みたいな含蓄があって、表面の皮みたいなものの下にあるものっていうニュアンスだから」
と言ってもらえました。
その人にとって、それまで必死に関わろうとしていたフェルトセンスは、容易に名前もつかないし、その感じのそばに佇んでいることもなかなか難しい、でも、その人の人生の長い期間にわたってずっと暗々裏に感じ続けてい「いた」けれども、自分の存在のありようを根本的に不自由にしていた、文字通りの"background feeling"でした。
そのフェルトセンスの"beneath"にその人が見出し、感じられた感じというのは、それまで直接その感じに触れて味わったことがない、たいへん新鮮なフェルトセンス体験で、実にあっさりと、大きな気づきの引き金になったようです。
*****
ジェンドリンのaskingの教示集にある
「このことの核心(crux)は何?」
というのも、ピンと来にくく、フェルトセンスからではなくて、頭で考えたことを答えそうなものなのですが、これについては、私は、フォーカシングのガイドを学ぶ人に、時には、次のように説明してみています。
「私は、これを、曖昧で漠然とした広がりを持つフェルトセンスが、いわばゆで卵の白身と黄身のような二層構造を持つと仮定してもらい、その中の黄身の部分の感じを感じ分けてもらう・・・・ぐらいのつもりのものだと理解しています。フェルトセンスを更に細やかに感じてみてもらうための刺激剤のバリエーションなんですね。だから、私は、
『その感じの奥の方に、その感じの源泉(あるいは泉の吹き出し口)のようなものがあると想像してみてはいかがでしょう? その源泉のあたりの感じはどんなものでしょうか?』
などという言い方で使ってみることがあります」
・・・・・この話を聴いていた学習者は、この話を聴いているさなかに、すでに、その時の自分の中のフェルトセンスの「源泉」をいきいきと新鮮に見出し、身体で感じていました(^^)
*****
もうひとつ、これはジェンドリンの『フォーカシング』には書いてないけれども、実は私なりに、同じジェンドリンの『夢とフォーカシング』の「質問」項目からアレンジしたaskingの例。
「その感じそのものになってみるということもできるかもしれません。誤解なきように言いますけど、これはその感じに浸りきるということとは違います。あなたは、子供のための舞台演劇で、その感じの役を、子供のために、大げさに誇張しながら、喜劇的に演じるつもりになるのです。これなら、どんな怪物でも、不快なものでも、その役になりきって感じてみるのは、あまり抵抗ないかもしれません」
あるフォーカシング学習者が、
「もうすでに何日も『この』感じの相手をしてみたんですけど。その感じは絶対に私に口を聞いてくれないんです!! 一緒にいるだけで、私ももういやなんです!!」
と訴えた際、その人に上記の「感じになってみる」提案したら、その場でその人はやってみて、すんなりと次の展開が生じました(^^)
*****
・・・・・このように、カスタマイズが大事です!!
あと、一般論として申し添えれば、フォーカサーとしての自分に試してみて、効き目がまだ実感できない教示を、ガイディングの際に使うと、そのわずかな「おぼつかなさ」はフォーカサーに伝染し、プロセスを停滞させると思ってください。
「おぼつかない教示」でも、フォーカサーがそこから成果を上げられるとすれば、それはフォーカサー自身の力に助けてもらっているというだけのことです。
もとより、いつも書きますように、およそこの世の中のカウンセラーに、クライエントさんからの感情移入と思いやりと忍耐によってはじめてカウンセリング関係が可能になっているわけではないほどにすばらしいカウンセラーは、実は存在しませんが(^^;)
*****
なお、フォーカシング技法についてのウェブ上の入門としては、すでに定評をいただいている、私の
をご参照ください。
これまで、まさにasking以降の部分が欠けていたのですが、この記事をもって、取りあえず補完したものとさせていただきます(^^)
この記事では、敢えて、「楽屋ウラ」をさらす内容にします。その理由は後で書きますが・・・・
こういちろうは今も模索している。我が故郷、久留米という地域に根ざしたカウンセラーになることを!!
(繰り返すが、そうした地域活動の全貌をここでお書きすることが必ずしもプラスの意味にはならないばかりか、まるですべてを「営利的宣伝活動」のように誤解される火種になりかねないので、詳しいことについては触れないままにしておきますね)
そうした中で、ある、意外性のある、面白そうな地域活動が新たに見つかったその日の、私の中に生じた困った反応。
「うん、それ、似合ってるよ。かっこいいよ。やってみたら?」
と知人にも言ってもらえたのだが、何か私の腰が重い。
私の中の「内なる批評家」ならぬ「内なるプロデューサー・顧問軍団(^^;)」もまた、
「どうしたのさあ? こういう頃合いのが見つかるのを待っていたんじゃないの?」
「君は『出戻り』の久留米市民(^^;)なんだからさあ、地域とのダイレクトなパイプに乏しいわけだし、自分からそれを探さないと」
「ネット全国区の活動として、鬱の患者さんの医療との関わりについて、ネット上でどれだけ力説してもさあ、そのカウンセラーが福岡県の久留米なんていう日本の辺境(おいおい
)にしかいないと気がついた時点で、10人の読者のうち9人がため息をついてしまうよ。だから活動には地域とのとバランスがやはり大事なわけ」
・・・・・などと、次から次へと「好意的なアドバイス」を雨あられと降り注がせるのである!!
*****
後になってみると、どうしてもっと早くあのことに取り掛からなかったのか? と反省したくなる事柄が山のようにあるのが普通の人間であろう。
フォーカシングでは、その人固有の体験過程のステップというものを大事にする。もしあることを進めていくことについてフェルトセンスが肯定的な身体感覚を返してくれない場合には、何か体験過程のステップの途中を「飛ばして(skipして)」、無理に前に進もうとしている時であり、少しだけでもそのフェルトセンスからの違和の声に耳を澄ますと、そこまでで自覚的に気がついてもおらす、十分な対応をしていなかった、本当はその段階でまずは必要な、先に解決すべき課題が見えてくることも少なくない。それは、そこまで気づいてしまえば、むしろ客観的な問題解決の戦略としてみても、「装備の充実」の上で効果的な戦略の発見につながることも少なくないのである。
*****
さて、この時の私が、ちょっと時間を取って、内側の違和感にしばらく耳を澄まして返ってきた返答は、何とも身もふたもない一言だった。
「だって、・・・・・やだもん!!」
・・・・・な、何という不謹慎なことをいうのだ!!
しかし、そもそも私は、現実の対人関係の中で、何かの誘いに逡巡する際に、ここまでストレートで端的かつ理屈抜きに、嫌な気持ちを相手に伝えたことはないことに気がついた。
(このブログの記事の私の書きぶりからもご想像いただけるように、私はとかく理屈をつけずにいられない人間なので
)
何か新鮮ですらあったのだ。私の中に、こういう、理屈抜きに何かを嫌がり、表明したい部分が確かにあるということに。
そこで、その新鮮さをまずは身体に響かせてゆったりと味わうことにした。
*****
すると、その「やだもん!」の声の主が、私のイメージの中であっさりと実体化した!!
・・・・・藤原紀香である。
しかもそれは、現在放映中のドラマ、「ツレがうつになりまして。」の中に登場する、不器用でグータラで、何かというとホゲーっとテレビを見ていることが多かった、化粧の薄い、あの藤原紀香なのである![]()
(どうして嫌なの?)
・・・・・と、その「ツレうつ版」紀香に問いかけてみる。
すると、「彼女」は、しばらく、「
うーーーーーん
」と考え込んだ挙句、突然大きく目を開けて答えたのだ!!
「
ご褒美が欲しいの
!!」
・・・・・は?
「ご褒美。そうなの、ご褒美。・・・・・別に収入になることじゃないとやりたくないとか、そんな意味じゃないの。ご褒美なのよ
。私だってこれだけ(漫画描いて)好きなことで頑張って来たの!! だ・か・ら、そのことを受け入れて、ほめてくれて、認めて、形にして欲しいってことなのよん
」
(以上、藤原紀香口調で読むように)
*****
(・・・・・よ、要するに、現金でなくていいんだな?)
「そうね。好きなことでなければ、現金もらえてもイマイチつらいかもね」
(わかった。「ご褒美がある」形での活動というのを、現実的にどう実現していくかは次の課題でいいか?)
「いいよぉ![]()
・・・・・でも、何かとりあえずのご褒美、ちょうだい
」
(わかった
・・・・取りあえず「応急処置」はする
)
・・・・・こうして。
こういちろうは、その日のスーパーの買い物で迷った挙句、冷凍食品の、たこ焼き48個入りお徳用パックで手を打ったのであった(^^;)
大丈夫である。紀香、もとい、こういちろうは、何かというと自転車で数キロ移動することを苦にしないことが板についた結果、相変わらす久留米ラーメンを週2回は食べているにも関わらす、2週間前よりもさらに体重2キロダイエットに成功。20年来未曾有の領域に突き進みつつある。
******
私がここで、自らのずぼらさをさらすのを承知で、フォーカシングを学ぶ皆様にお伝えしたかったのは、「フェルトセンスからはっきりと返事をもらえる」とはどういうことかについて、予想外に実体験の上では曖昧な学習者が少なくな現実を感じているからである。
そういう人に欠けているのは何か?
1.フェルトセンスからの返答が、もう、自分で聴いていてもあきれるくらいの「じょーもない
」次元でのもの(として少なくともはじまるもの)であることが少なくないことに気がついていないのでは? もっと、まじめくさった、いかにもセラピー的に見て「カッコいい」、「癒しにあふれた」そういう返事が自分の中から生じてくることだけを待ち望んでいませんか? 普段使いのフォーカシングとは、もっとぐーっと庶民感覚あふれる、ホンネ次元むき出しなものなのです。人に体験談として話しても全然カッコよくないような中身の(^^;)
2.そもそも、ここで私が体験した、「やだもん!!」「ご褒美が欲しい」というフェルトセンスからの返答に感じた「驚き」「新鮮さ」を共有できるようなセンスをお持ちの方がリスナーやガイドをしていないと、フォーカサーの中にこうしたフェルトセンスとの縦横無尽な内的関係性も喚起されない気がします。リスナーやガイドの訓練を受けている、あるいは自分で技を磨いている皆さん。皆さんは、フォーカシングに、変な意味でまじめすぎるのではないかと、ちょっと振り返ってご覧になるのはいかがでしょうか?
●この「いじめ対策」はすごい!(森口朗公式ブログ)
で紹介された、長野県の教員が実際にやっているという9か条のマニュアルが、ネット界で反響を呼んでいるという。
●リンク: 迫力のいじめ対策に反響 - ココログニュース
上記サイトで紹介されたマニュアル読ませていただきましたが、「迫力の」という必要はないくらい、合理的そのもののノウハウだと思う。
この中の3.-5.では加害者間の発言の相互矛盾をひたすらつくことが重視されています。このことを中途半端な形でしかやらないと、いじめの加害者同士の間で巧みな奴がいじめ集団の中の弱者に責任を押し付けたままなどという事態になり、これはそれをやった側にもやられた側にも教師不信(軽蔑)をさらに深め、別な形での集団内のいじめを誘発するという悪循環になるだけだろう。
いじめの本質は、外部から実態が掌握できなくなる中で繰り広げられる、その「閉じた構造」にある。被害者そのものが、実は加害者集団しか「普段付き合う相手がいない」という閉塞状況へと、周囲から「切り離されていく」ことが多い。
この点に関しては、ハーマンの「心的外傷と回復」(中井久夫訳)に詳しい。
・・・・・・だから、一度調査を始めたら、とことん「正確に」関係者を洗い出すしかない。
(なお、ハーマンの治療活動については、催眠により想起された、幼少時の性的暴力の隠蔽記憶が、実は誘導的に作り出されたものだったケースがかなりあることが裁判で認められてしまうというスキャンダラスな出来事がアメリカでは生じて、たいへんな毀誉褒貶がある。もとより現実の臨床ケースの失敗は失敗として厳密に批判されるべきである。しかし、この本でなされているさままざな分析の価値全体を否定するものではないと考える。典型的なのは、この、虐待者(集団)が被害者に対して行なう、外部からの集団的「隔離」(孤立化)過程について分析した第4章の内容だろう)
私自身、子供の頃には基本的にはいじめられっ子だったが、たった一度、いじめる側に回り、しかもその際に自分に有利な「ウソの証言」をした。その点について教師は見破り、冷静に教え諭した。家に帰るとそのことは教師から親に伝えられていた。でもその時の記憶は決して嫌な記憶ではない。むしろ、学校教師たるものの真の威厳についての最良の記憶になっている。
「すっきりさせてしまわないために、すぐには謝罪させない」のも正しいでしょうね。この点は、何かというと「すぐに謝罪記者会見」を求める(やりたがる)今の大人社会の中に潜む「小ずるさ」の問題とも関わる。
世渡り上手は何かというとすぐに謝って「帳消しにして」生き延びてきたので、人にもそのことを求めてしまうのかも。
その意味で、「謹慎させた後ではじめて公式謝罪」という順序をくーちゃんや草なぎ君に取らせているのは的確だということになるのだと。そういう意味ではプロダクションはよくわかってますね。
●当サイトの関連エントリー:
子供の頃、(いや、大人になっても?)多くの人が、何回かはやったことがあるだろう、暇つぶしのような遊び。
アイスクリームを買ってきた時についてくるドライアイスに、恐らく最初は、アイスクリームを食べる金属製のスプーンかフォークか何かを押し付けてみる。すると、スプーンを通して伝わる体温のせいで、押し付けた部分が、ドライアイスが二酸化炭素に気化する際の、独特のプスプスという手応えが帰ってくる形で、みるみる、押し付けた形のままにへこんでいく。
このことが面白くなって、ふと、財布から10円硬貨などを取り出して、ドライアイスに硬貨の面ごと押し付けてみた人もあるだろう(わずか1,2ミリの厚さを通して指の体温が、しかも銅という熱伝導に優れた材質を通して伝えられるので、これはすこぶる効率がいい)。
すると、たいした力を入れなくても、ピリピリという音を立てて、ドライアイスに硬貨は沈み込んでいき、硬貨の刻印の形の鏡像が、見事にドライアイスに「刻印」されることになる。
(長時間このことをやりすぎると、指が凍傷になる危険もあります・・・・・と注意書き)
******
私がフォーカシングを学びはじめた25年前の頃、フェルトセンスに触れることについて、時折、「ドライアイスに硬貨を指で押し付けていく時のような体験だ」と周囲にもらしたことがあることを、ふと思い出したのである。
そこに私が込めたかった含蓄というのは、恐らく、次のようなものだ。
フェルトセンスにしばらく触れているだけで、フェルトセンスの質そのものが何らかの緩みや肯定感を持つものに変化していく。
最初は「凍えるような」、何か危険な感覚に思えたものが、むしろ「気持ちのいい冷たさ」を味わう、好奇心に満ちた「スリル」体験となる。そして心の中の何かが少しずつ「解けていく」。
必要なのは、まさに硬貨をドライアイスに押し付けるのに必要なのと同じくらいのかすかな力の入れようで、意識的、能動的、主体的に、一度つかんだフェルトセンスに、ただ注意を向け続け、「触れ続ける」こと。
あとは、そのことのために日常の限られた数分間に意識的に取り組むだけで、一見はっきりした気づきや洞察が生じなくても、気がついてみると「指で硬貨を押さえたドライアイスの部分には、以外に深いトンネルが、まるで地下鉄のトンネルのシールド工法のようにして、掘り進まれていく。
掘り進まれていく際のかすかなプスプス・ピリピリという「進捗感」の手応えを受け止めているだけで、何かが「掘り進まれていく」のである。
大事なのは「しばらく触れてみる」、ただそれだけ。
*****
昨日の記事で、
「すべてのことには、時がある」
と書いた。
だとすれば、マジシャンのそうなフォーカシング・トレーナーではない、ひとりのフォーカサーとして、日々実践できる「個々の人間の自由意志の及ぶ範囲の努力」とは何なのか?
フェルトセンスに触れ、共にいる、ただそれだけの主体性・能動性・自律性を発揮し続けること、それだけで、最低限いいのかもしれない。
「今日は昨日までよりフェルトセンスに触れてみるのが難しい」という体験ですら、実は、逆説的な意味で、フェルトセンスに「触れた」体験なのである。
「何か、昨日よりも心の余裕を見失っているのかな?」と用心できるだけでも、すでに意味がある。
そう。ドライアイスに10円玉を押し付けてみる以上の労力は、フォーカシングには必要ないはずなのだ。
○鬱になると、以前だとさらさらと何気にできたことがひどく不器用になり、失敗しやすくなる。
○「事務的な」書類を書くことというのは特に億劫になりやすいので、そうした書類をなかなか書けないことを「簡単な筈でしょ?」などと突き放した形で急かす形にならないように家族は要注意。
○特に休職した直後の時期など、何かひとつの行動をやろうとしたら、本人も気がつかないうちに、ほとんど「ストップモーション」にはまり、気がつくと同じ(座った)姿勢のままで数時間経過していた・・・・などという経験は結構見られるかと思う。
○うつとは「心の病気」という言い方をしない方がいいと私も思う。ただ、ドラマでのように、「脳の病気」という言い方でも抵抗感がある人もあろうかと思う。私個人は「脳の心身症」という言い方を好んでいる。「脳の慢性のストレス性の消耗による障害」ぐらいの意味である。
○「自分はイグアナにも劣る」というセリフは決してコメディではない。確か中井久夫先生の本に「自分はイモムシにも劣る」と罪責感に浸る患者さんの例があった。
○ドラマで描かれているように、鬱状態が強い時には、アナウンサーのような単調な声の番組の方が心が休まるというのはある意味で真実であろう。エモーショナルな揺れが大きい音楽というのも結構負担になるものであり、意外とクラシック(特にオーケストラ曲)があわないというのは、本来クラシック好きの私の経験。随分長く、好きなはずの音楽そのものを遠ざけた時期もあったと思う。
○患者さん以上に、患者さんと密接なかかわりがあるパートナー(配偶者、恋人、親等)の方が、実は否定的思考の持ち主であることは、実は結構多い。パートナーのそういうマイナス指向の部分すらケアし、包み込むようにしてやさしく支えて「いた」のが、実は「うつになる前の」その人だった・・・・という構造は、確かに頻繁に観察される気がする。
○欝の回復には波があり、本人も周囲も思いもよらない形で「ぶりかえす」ことを繰り返す中で徐々に軽快して行くことが多い。そのことに、本人や家族は振り回されやすい。一喜一憂し過ぎないで、一緒に、潮の満ち引きを揺れることができるかどうか。
○うつの人を直接支える側の人の方が、いつの間にか無理をしがちになりやすいので、そういう支え手が安心できる相談相手が公私共にいることは大事である。
・・・・以上、思いつくままに。
※第1話についてはこちら。
※第3話(最終回)についてはこちら。
このような不況のご時世にあると、私がカウンセリングをしている中でお会いするクライエントさんの中で、新たな派遣先を探しておられる方や、病気からの社会復帰を模索する中で求職活動をしておられる方の少なからぬ部分は、例えば1年前と比べても厳しい雇用情勢の中で、希望する求人そのものがなかなかないという次元で、すでにじりじりとした日々を送っておられる方が少なからずいます。
ところが、そうした方の堂々巡りの重苦しい心情を労(ねぎら)い(compliment)ながらも、二人して焦りの負のスパイラルに巻き込まれる形にだけはならないように配慮しながら面接を続けていくと、思いもよらない時に、しかもカウンセラーの私から見ても予想だにしない早いタイミングで、突如明るい声で連絡をいただけることがあります。
「昨晩までは面接に全然乗り気になれなかったのに、朝になったら起きられてしまった。電車に乗って見てから考えようと思って出発してみたら、車内で、存外に気持ちのもやもやはほどけ、面接でこんなことを聞かれたらこう答えよう、みたいな方針が定まってしまった。行ってみたら、先日の、あのいやらしい圧迫面接の担当者とは打って変わって、いい面接官に出会えました。職場の空気もよかった」
・・・・などといった具合である。
そうした時には、カウンセラーである私のほうが、その人の中にある健全なエネルギーの潜在力について見くびっていたのではないかと、少し恥じ入りたくなるような思いにとらわれることがある。
*****
すでに最近の記事で繰り返し書かさせていただいて来たことではあるが、人間、何とかしようとむやみにもがくばかりになると、自分自身という泥沼にひたすら沈んでいくことが少なくないように思える。
以下は、あるフォーカサーの体験である(もちろん掲載許可をいただいている):
その人は、そうやって求職活動がうまくいかない中で生じている自分の中の焦りや不安や鬱的な感覚の全体についてフェルトセンスをつかんでいった。
すると、背中から肩甲骨の辺りの凝りや痛み、きしみのようなものとして受け止められた。
その感じに「そこにいるのはわかったよ」と声をかけてあげ(アン・ワイザー技法でいうacknowledging)ると、「弱弱しくはあるけど、うなづいてはくれ」、そのそばにしばらくたたずんでいてあげてみるように私が提案すると、しばらくの沈黙を経て、
「さっきよりはその背中の感じは緩んできましたが、自分がそれを苦痛に感じることには変わりがありません」
との答え。
そこで私はここで、次のようなasking(フェルトセンスに問いかける)の提案をしてみた。
「では、もし、その背中の感じがなかったらどうだろう?・・・・ということを想像してみて、身体で感じてみることを許してあげてみてはいかがでしょう?」
「なかったら?・・・ですか?」
その人は一瞬当惑した。しかし、しばらくすると、その人の中で、どうもその人にとって思いもよらない動きが生じ始めているらしいことが見てとれた。
(どうしたんです?)
「あの、いえ、こんなこといっていいんでしょうか?・・・・・実は『なかったとしたら』という先生の言葉を聞いた瞬間、その背中のあたりにいる『何か』が、その言葉に一気にムカついたらくて」
(むかついた?)
「そうなんですよ。『なんだと? オレに消えてしまえというのか?』と壮絶な抗議を始めたみたいな様子に、私のほうが驚いてしまって。そして、その背中の痛みのあたりから、まるで腸の管のようなものが、ズルズルズルってどんどん自己増殖してあふれ出すみたいなイメージまでわいてきて・・・・・最初、わ!! グロいなあ、とも思ったんだけど、そのがん細胞の急激な増殖みたいなのが、ホントに、『なくなったとしたら』なんて声かけられたものだから、それにムカつくあまり、思わず『なくなってたまるか!! そんな言われ方するなら、嫌がらせに、増えてやるもんね!!』と訴えている見たいに感じられ来て。・・・・・私は、その、まるで聞かん坊のガキみたいなツッパリかたにむしろ苦笑するといいますか(笑)・・・・・『もう!、わかったわかったわかった!!』といってあげたくなって」
(今の言われ方に、何かその急激に増殖した腸の管みたいなものに対する「愛おしみ」のようなものすら感じました)
「・・・・・・・そうしてあげたら、シュルシュルシュルと、増殖した腸の管を、そいつは、まるで巻尺のボタンを押したみたいに一気に『撤収』いたしまして(笑い)・・・・・・・・『オレが痛みとして訴えて続けてブレーキをかけてあげているから、てめえは、焦りに任せて色々手を出しすぎる無茶をせずに済んでいるだよ、ありがたく思えよな』・・・・みたいなことを言ってくるんですよ。
思うんですけど、私の中に、
1.自分の中に不快感や不全感がある
→2.私の中に「問題」がある
→3.その問題を「除去」するための「対策」として、何か行動に移すべし!!
・・・・・みたいな問題への対処法を自明にしていたところがある気がして。フォーカシングを学んでも、そういうところは堂々巡りしたままだったのかなと思います。
でも、ほんとうは、私の性分からすると、そうやってアクティブに活路を切り開こうとすると、自分が自分でなくなる不安が強いところがどうしてもある気がします。ズルイかもしれないけど、私は、条件が整うのを待つタイプなんです。ここぞというところでは結構勝負を賭ける自信はあります。まるで巣に近寄ってきた虫を土蜘蛛がサッと巣のふたを開けて引きずり込むみたいな、そういう抜け目なさですね(笑い)・・・・・そういうライフスタイルだけでやっていけるとも思いませんけど、ひとつのとりえだってことには、もっと開き直っていいのかも・・・・って」
ここまで私が話を聴いていて、彼女に献呈したくなったのは、バラ・ジェイソンが、「解決指向フォーカシング療法」で、座右の銘として書いている(邦訳p.219)次の言葉だった。
「すべてのことには時がある」
正確には、
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」
(旧約聖書 コヘレトの言葉[伝道の書]3:1 新共同訳)
カウンセリングにおける「効率性」を重視しているかにみえる短期療法系の訓練を受けたバラが、この、人間が自分の判断と努力だけで活路を開こうとすることの空しさを説いたとされる、ソロモン王に帰された言葉を大事にしているというのは、ひとつのパラドクスともいえますが、そもそもマジカルなまでのパラドクスの使い手であるということは、ミルトン・エリクソンにはじまる短期療法のセラピストの本質にも関わるわけでして(^^)
そして、カウンセリングを不毛な悪循環から脱却させるための「の言葉」は、まさに「時を得た」」瞬間に、カウンセラーが狙い済まして「操縦しようとする」ような邪心すら超越して、まるで神の命に従うかのように、言葉として差し出すもののようであることを、日々の面接の中で、私はどことなく、ある畏怖を込めて意識しているつもりではあります。
その言葉の権威を、私に帰すことは回避せよ・・・・と。
今回、この場面、この脈絡だから、
「その感じがなかったとしたら」
などどいう、いつになく直截(ちょくせつ)な言い方を思わず私は使ったんだと思います。
いつもの私だと、
「その感じがすっかり解消されたと想像してみましょう」
・・・・・なーんていう言い方をしているのです。
でも、その場合には、まず間違いなく、あの、背中の痛みからの「大増殖を伴う猛抗議」などというドラマ性のある展開は生じなかったでしょうから。
何とも悠然たる、マイ・ペースですが、そろそろ自分に許してもいいかな・・・・と。
まずは、おまけについている、この前の大晦日-元日のカウントダウン・ライブの録音の方を大喜びで聞いている段階。
よくもまあ、思いもよらない曲たちを、今のayuの表現力のある声でここまで楽しませてくれることか!! 下手にスタジオ録音で再録するよりも、よほど今のayuの実力が伝わる気がする。
・・・・・だから、本編の方はもう少しかかると思う。お待ちあれ。
●【詳細一覧】土浦8人殺傷事件 第3回公判 被告人質問(msn=産経)
まだ進行中の公判である。被告の発言には「うそぶき」と「開き直り」、少なくとも犯行後に作り上げた「理論武装」の側面は大いにある点は値引く必要もあるだろう。
しかし。彼が公判で繰り広げているのは、ここしばらくの間に、いつの間にか当たり前のようになった死刑判決→早期執行の流れをあざ笑うかのようにも感じられた。
「自分が死ぬために周囲を巻き込んで犯罪を犯した」という被告の論の進め方を読んでいると、「以前よりも執行までが早くなったから、そのことに便乗させてもらいました」とすら言いたげである。
彼を「ヒーローにしない」唯一の方法。
彼の「追従者」を出さない方法。
それは、判例的に見て死刑判決は動かないにしても、彼を延々と死刑執行しないままにすることだ、という逆説が、すでに予見できる気がする。
この前お書きして、すでに多くの方にお読みいただける人気記事になっている、
●SkypeやWindows Live Messengerの使い方の勘所は、「自動調整」を外すこと。
の中で、
「最近のラップトップパソコンの多くには内蔵マイクと内蔵スピーカーの装備があるから、取りあえず始めてみようと思ったら、ソフトのインストールだけではじめることができる」
と書いてしまいました。いわゆるウェブカムの多くにも内蔵マイクが仕込まれていまして、私もそのやり方でハンズフリーで済ませていたのですが、ふと思い立ち、耳への付け心地が悪くなさそうな、片耳用のマイクつきイヤホンも、実売500円だったので、買ってみて試してみたのですね。
↓この製品。
【16時までのご注文完了で当日出荷可能!】【62%OFF】パソコン用マルチメディアマイク付イヤフォン エレコム MS-HS59SC
すると、音声が相手にとって聞き取りやすくなるメリットだけではないのです!!
何と、双方向で、動画の動きが滑らかになり、通信をしながらマルチタスクで他のことをする(例えばブラウザでネットサーフィンしながら同じページを見て話をするなど)際のパソコン動作への負荷が目に見えて少なくなったのです!!
この原因は、すでにこの前の記事で指摘した問題と関わります。
ハンズフリーの際に使う、パソコン内蔵のマイクや、ウェブカム側に取り付けられたマイクは、人の声だけではなくて、部屋の色々な騒音を拾っていると考えられます。
パソコンはこうした、人の声以外の余計な音声情報まで、デジタル変換するという余計な負荷を背負い込むことになるのですね。
人間の脳の聴覚処理過程には、聴きたい音、特に人の声を選択的に聞き分ける能力が備わっています。よく、インタビューや会議などの録音を再生しようとすると、喫茶店なら周囲の話し声ばかりか皿の音、それどころかテープレコーダーが回る振動音すら大きく収録されていて、肝心の会話が予想外に小さな音でかき消されがちだということに難渋するものですが、これは、機械は正直に音を拾っているからこそです。
これを解消するには、人間の声の周波数だけを拾うように特化されたマイクを、口元近くに置き、しかも、デジタル録音の自動調整機能もオフ(この前もお書きしたように、あれは実は周囲の背景音が大きくなったり小さくなったりするだけで、しかもそのために余計なソフトウェア回路も使うのだから百害あって一利なし)、録音レヴェルを必要最小限に設定して、できるだけ少ないデジタル音声情報さえネットで伝達しさえすればいいようにするのが一番ということになるのだと思います。
その結果生まれた余裕が何にまわされるか? 画像情報を滑らかに相互伝達すること、そして、他のソフト(例えばブラウザ)をマルチタスクで動かす余力に回るわけですね。
このことを是非付言したくてこの記事を書きました。
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なお、skypeやメッセしながらブラウザを使うとどうしても重くなるとかフリーズするという人は、やはり標準ブラウザをIEにするのを見限ってしまい、FirefoxかLunascape、Graniのどれかに切り替えてしまうことがお勧めです。
FirefoxでもIEと同じトライデントエンジンを内部起動し、Microsft Updateやmsnの動画ニュースも問題なく表示できるプラグインがあることは、以前この記事で書いたとおりです。
少し以前から予告させていたいておりましたとおり、本日、開業カウンセリングルーム検索サイト、「こころ相談.com」の「こころインタビュー」コーナーに、「うつ病の時のこころの状態」と題しまして、インタビューを掲載していただきました。
PDFファイルの形式で、この記事を独立して読んでいただき、保存することも可能です。
今の時代らしく、skypeを通してのインタビューでした。
校正段階での私のいろいろな注文に丁寧に答えてくださる形で、かなり長時間のインタビュー内容を、読みやすい、美しいレイアウトで編集してくださった、担当者のHさんに感謝申し上げます。
このブログでずっと展開してきた、精神医療と鬱の患者さんとのかかわりに対して、一介のカウンセラーが何ができるかというテーマの、現段階での集大成にできたかと思います。
ご意見、ご感想も、お待ち申し上げております。
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「こころ相談.com」は、日本を代表する、全国の開業カウンセラー検索サイトであるのみならず、さまざまな企画を立てて、登録カウンセラーにエッセイ等の執筆の機会を与えてくれ、一般の皆様が、心理カウンセラーひとりひとりの持ち味に触れる機会を提供し続けている、ネット界で得がたいサイトであると思っています。
まだサイトをご覧になったことがない皆様、一度アクセスしてみてはいかがでしょうか。
本日(6/1)19:30に放送された内容に基づいて、速報します。
SSRIの副作用として稀に見られる、衝動性・暴力性誘発という問題について踏み込むと言うことは事前に知っていましたが、それでも全体としては、当ブログでも大々的に連載を組み、ご愛読いただき続けている、3/7放送のNHKスペシャル「うつ病治療 常識が変わる」の補足的・復習的続編という色彩が強いだろうとは思っていました。
その意味では、番組の構成的にも全く予想通りに進行してしまって、押さえて欲しかったポイントはほぼすべて押さえてくれ、前回の番組で誤解を招きかなかった側面(認知行動療法だけを積極的に描きすぎていた面)はうまく調整されていたと思います。
医者や臨床心理士や看護士にとどまらず、栄養士すら含むさまざまな役割のスタッフが、皆、患者さんをケアし、見守る援助資源であり、誤診や状態の変化に対応できるチーム医療の上でいかに重要かを改めて強調していた点についても好意が持てました(薬を必要以上に出さないことは大事ですが、この番組後半で紹介されていた事例が、画面を見る限り、入院治療である点に注意すべきかと思いますし、薬物療法をやはり大事にしている点も見逃すべきではありません)。
また、番組内でも繰り返しテロップすら出して強調されたのは、この番組を観て不安にかられるあまり、自分だけの判断で薬にやめてしまうと非常に危険なので、疑問があればお医者さんに相談してください、ということでした。これも適切な配慮でしょう。
*****
さて、今回の番組の前半で中心として取り上げられたのは、先述の、抗うつ、SSRI)が、人によっては、攻撃性や衝動性を誘発する副作用が出る可能性があることを、この4月に、厚生労働省が、製薬会社に注意書きとして掲載することを義務付ける通達を出したという点でした。
日本では、SSRIの投与が現実の衝動的な暴力事件と因果関係を厚生省が正式に認定されたケース事件はまだ4件しかありません。
この番組でも紹介された、1999年の、機長を殺害し、精神鑑定の結果無期懲役に減刑された、全日空61便ハイジャック事件で、抗うつ剤大量服用による心神耗弱が無期懲役への減刑理由となったことはかなり知られているかと思います。
全日空事件に関しては、そもそも、通院していた医者の当初の診断も理解しかねる(統合失調症ではなくて、この段階では詐病していた疑いがあることは当時も報道されたかと)し、結果として出されていた薬のリストを見ると、医者ではない、限られた知識の私の目から見ても、もう、どういう判断でこうした薬がここまで大量に出ていたのか、目を疑う内容が列挙されていますので、判決のように「『抗うつ剤』の大量服用の副作用」だけ認定したというのは何か腑に落ちないといいますか、医者の診断と投薬のあり方そのものが大きく問われる事例と思えてならないあたりが、今回の番組では不十分な描き方と思えますが、その部分を詳しく描きすぎても番組のバランスを崩したでしょうから、敢えてクレームをつけるに及ばないかと思います。
そして、アメリカの、あの「コロンバイン高校銃乱射事件」(1999年)の犯人のひとりもまた、犯行直前に、大量のルボックスを服用していたことが、この番組で紹介されます(wikipediaによれば、犯人の遺族からの製薬会社の告訴による訴訟においては、薬との因果関係は立証されなかったものの、2002年にこの薬はアメリカ国内では販売中止になっているそうです)
アメリカでは、すでに2004年の段階で、SSRIがその副作用として攻撃性を誘発するか可能性があることを注意書きに明記する命令が製薬会社に出されていました。
*****
もとより、こうしたSSRIが攻撃性を誘発する副作用を人によっては発揮する可能性については、こうした大犯罪事件のみならず、数多くの、もっと地味な犯罪・警察沙汰の事件、そして現場医療の中で気がつかれた患者さんの衝動性の高まりなどの行動変化についての、少なからぬ症例に基づいて浮かび上がってきた事柄です。
番組では、日本での2つのケース、すなわちパキシル投与後、言動が攻撃的になり、ついにはコンビニに包丁を持って強盗に押し入り、現金20万円を奪取した事件、そして、配偶者を殴って10針の傷を負わせた事件という、2つの事件における、診断と投薬の過程の問題点が、ご本人と家族への取材映像を含めて紹介されていました。
前者のケースは、投薬開始後早い段階から、家族に対して衝動性・攻撃性が増していたにもかかわらず、医者は、まずはパキシルを3倍にまで2段階かけて増量し、その段階で「効かないから」という訴えを受けて、一転して投与全体を中止。それから数週間後には再び、かなりの量の投与を再開、更に増量(当初の4倍)という、実に頻繁な投与量の増減がなされていた点が、番組で、重要な問題点として指摘されました。
SSRIを飲むことを「急にやめてしまう」ことは、実は非常に危険であり、身体面でのリバウンドの危険も大きいばかりか本人を更に不安定にする引き金ともなるのです。ですから、患者さんが勝手な判断で飲むのをやめてしまうことは是非避けるべきです。お医者さんの指導の下で徐々に減薬していった上で、別の薬等の治療に置き換えて行くのが適切です。
(私自身、お医者さんが何を思ったかパキシルを突如全部やめてしまってデパスのみに置きかえるという、常識はずれの処方をしてきて、その際に身体がどのくらいリバウンド食らうかの恐ろしさを体験しています)
もうひとつの後者のケースは、すでに以前もご紹介したように、実は双極性障害の「うつ状態」のはずなのに、単極性障害とのみ誤診され、気分調整剤ではなくてSSRIのみが中心的に処方されたケースでした。この患者さんは、おかげで躁鬱の波が余計に悪化するというパターンにはまって、奥さんに暴力を振るってしまったのですね。
↓「NHKスペシャル」で用いられた図の再掲です。今回の番組で掲載されたのは「双極型障害Ⅰ型」についてのもので、躁状態方向への波の振幅も高まっていたので、少し違う図になるのですが、参考までに転載します。


この番組の中で、単にSSRIそのものに不安や緊張の低下と同時に、衝動性抑制の神経伝達物質代謝まで緩んでしまう作用を起こす可能性の示唆にとどまらず、お医者さんの側に、適切な診断の下で、薬を的確に使いこなせていない未熟さがまだ見られることが大きな原因であることを強調していた点は、重視すべきでしょう。
この取材に応じ下さった患者さんお二人が異口同音に語った事柄が印象的です。
「そういう時には、まるで自分が自分ではないみたいな、独特の感じなんです」
「何かにムカついてきて、イライラが高まる時のイライラとは全然違うものなんですよ」
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今回の番組の中で、ゲストの医療ジャーナリストの小出五郎氏は、日本の薬事法における、薬の副作用についての国への報告システムの問題点を指摘していました。製薬会社や大病院からそうした副作用報告を吸い上げるパイプは制度として整備されているのですが、個々の医師(開業医を含む)や患者・家族から、そうした、薬の副作用についての情報を、たとえ曖昧で確証がなくてもいいから吸い上げるまでの公式のシステムが制度的に存在しないそうです。
「副作用情報はいったい誰のためのものかということです。何よりまずは患者さん、そしてご家族にとってなくてはならないはずのはず。そうした情報を専門家と共有するためのネットワークの整備が制度的にも急務」
というのが、小出さんが最後に強調した点でした。
企業秘密もある(!)ので、私がすでに現在具体的に進行中のプロジェクトだとか、開業以外の手堅い多角的な収入源確保についてすでに何が実現され、どういう「営業」やら一種の兼業リクルート活動をしているかとか、年単位で実現をめざして模索している大きな具体的な企画(ふたを開けてみたら、「やっと『それ』を実現する気になったのね」といわれるだろうなあ・・・)をここで書いていないのは自明のことである(^^;) ものによっては、早すぎる告知が関係者に迷惑をかける場合もあるのだし。
そして、ある意味で、私のブログの記事が、3月から現在までという、これまでにない、非常に長い期間、記事を書くペースも質も変動がないどころか、むしろテーマやスタイル的に集約・洗練され、集中力に全くむらがなくなり(なのに、文体がいい意味で軽くなり、以前ほど「くどく」なくなって、あっさりしてきたことにお気づきの人もあるだろう)、読者層すら無理なく絞り込んできているともいえる。
記事を書くたびに、非常にコンスタントな形で、私がそれまでの自分よりも一歩ずつ先に進んだ、新境地といっていい見解へと進んでいく(まさに私のカウンセラーとしての体験過程のステップが刻々と刻まれていく)安定した手応えも大きい。
時々、思い出したようにオーディオ系や音楽系の記事を入れるのは、ベスト20に今も居座るそうした記事がきっかけでおいでいただく方が今も少なくないことへのサービスでもあるし、同時に、「こんな記事をカウンセラーが書いているわけね」と気づいていただくきっかけとしての、定期的な「顧客誘致活動」として位置づけてもいる(^^) ニフティニュースに気が向くとコメントするのもそのためです。
こういちろうの人生に、ここまで力まない、安定感がある時期は到来したことはなかった。
プライベートでも、随分と穏やかで安らかな生活スタイルでいる。
だから、今は、私を、決してせかすな。
これ以上、ペースを変える必要をお求めなさるな。
い・ら・ぬおせっかい。
また鬱になりそうではないか(^^;)
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