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2009/03/29

「天地人」の直江兼続とエル・シッド伝説の類似性

 今日は日曜日なので、まさに日曜日向けネタを少し。

 今、NHK大河ドラマ「天地人」で話題の直江兼続

 ドラマの最初の頃は、

 「てめー、ポチか?(^^;)」

といいたくなるくらいに頼りない純情ぶりを発揮していましたが、ストーリーが上杉謙信亡き後の跡目争い、「御館の乱」に突入したあたりから、やっと少しずつですが、逞しくなってきましたね(^^)。

 実は、ここで描かれつつある、兼続と主君上杉景勝との関係というのは、実はいろんなな意味で、中世スペインが徐々に統一される過程で伝説的なヒーローとなった、「エル・シッド」伝説における、エル・シドこと、ロドリゴ・ディアス・デ・ビバールと、主君アルフォンソ6世の関係と(史実はともあれ、伝説上は)、びっくりするほどに類似している。

 伝説上の「エル・シッド」像については、チャールトン・ヘストン主演の映画「エル・シド」において、スペインを代表する歴史学者、ラモン・メネンデス・ピダル直々の綿密な歴史考証(今では古い説なのだがか、前の年に同じへストン主演で「ベン・ハー」が公開された当時としては、よくぞここまでやったといいたくなる。ぜひ衣装の「着せ分け」に注目!!)のもと、映画音楽の巨匠ミクロス・ローザによる「エル・シドのマーチ」高らかに、中世の騎士道物語を、実に華麗なスペクタクルとして描き出している。

 私の最愛の映画のひとつということはこのブログで何回繰り返してきたことだろう。

エル・シド(1961) - goo 映画

Elcidcd
  「エル・シド」のサントラは、今やCDでは海外でも絶盤です。

 しかし、日米の好みの差なんでしょうね。「序曲」と「入場行進曲」だけなら、iTunes storeでなら、いろいろな演奏で入手できます。"el cid"で検索してください(^^) 

 私のお勧めは「入場行進曲」の方です。


*****


 詳しいことを書きすぎると、直江兼続とエル・シッドそれぞれの伝説上の人物像をまだよく知らず、これから「天・地・人」や映画「エル・シド」に接する人のお楽しみを奪うので遠慮いたします(^^)

 ただひとつ大きな違いを言えば、直江兼続が、もし御館の乱で勝利したのが史実と反対になり、越後の国から追放されたりしたら、その時どういう生き方をしたかな? という物語が「エル・シド」伝説の後半部分だといえば、ほぼ十分かもしれませんね(^^)

 主役の武人のパートナーとの関係を含めて、比較すればするほど楽しめます(^^)


 .......私は二人と同じように、決して○○を身に戴かないで生きると思う。


●エル・シド(1961) - goo 映画


*****


 なお、日本には、エル・シドについてのバランスのいい歴史解説書はほとんどないのが現状です。

 ....というか、次の本以外を読むと余計な回り道にしかなりません。
 史実と厳密に比較しからの、映画自体の解説書としても完璧です。

○エル・シッド―中世スペインの英雄 (リチャード・フレッチャー著/林邦夫訳 法政大学出版会 叢書・ウニベルシタス)


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コメント

「天地人」での兼続の描かれ方は、むしろ、幼少の時から、自ら「ポチ」としての人生を全うしようって気概にあふれていて、泣き虫であるとか敵に甘いであるとかいう表面的には柔弱と見られそうなところも、一貫して逞しいとしか私には見えませんでした。

このへん、私にはすごく気持ちよく見えておりまして、その気持ち良さはどのへんからくるのか、と考えてみると、(描かれるところの)兼続が、はっきりと自分の「甘え」をかなえてくれる“他者”に対し、傷つくことも恐れずもたれかかろうとしているように見えるところなのかなあ、とか思いました(たとえば、修行に出されていた寺で、まわりがどういう目で見ようが、「こんなところにゃ来たくなかった」とタンカを切って、甘えさせてくれる相手、母親の元へと逃げ帰って母親からは拒絶されてしまったりするところ、とか)。

ここで「甘え」という言葉をつい使ってしまったように、私は土居健郎先生の甘えに関する論考にはかなり影響を受けていまして、とりわけ、土居先生の信仰と絡んだ文章の中の、まずはじめに甘えさせてもらう(愛される)体験があって後、甘えを受け入れる(愛する)ことができる、というようなところは、まことにもっともだなあ、としか思えないところがあったりするのです(こういちろうさんも非常に学んでおられるらしいバリントも似たようなことを言っていたんではないのでしたっけ?土居先生の本にそんなようなことが書いてあった気がしただけなんですけど)。

母親に存分に甘え(甘えさせられるのではなく)、その母親から甘えの断念を迫られ、そのすぐ後に景勝という甘えの対象が現れ、景勝の足りないところを謙信に求めて、謙信からもその有り様を否定され、最後(謙信の)にはお前こそが私の義を嗣ぐものだ、と存分に兼続の甘えを満たして謙信は消える。

もはや、現実に生きる甘えの対象としての謙信はいないけれども、兼続には永遠の甘えの対象としての謙信が布置されて、「御館の乱」ともなる頃には“神”とも言える謙信の愛を後ろ盾に、表面的にも逞しく見えてくる、そういう筋だてを私は見てしまうのでした。

これは、土居先生の選集の中で中井久夫先生が書いていたことだったと思うのですが、土居先生は、その昔、虎、だとかそんな風に言われてしまうくらい論争的な人だったらしいそうだけど(土居先生がいる場でのケース発表ではかなり苛烈な指導が行われたとも)、その背後には、現実的存在ではないけれど頼りにできる甘えの対象があったればこそ、という気もするのです(現実にある存在からなんらかの愛を求めようと(甘えようと)すれば、その対象の好みに沿ったような自分の有り様から自由になれず、ある種の攻撃性を控えざるを得ないような仕儀になる、のではないか。いちいち読者にエクスキューズを求めないではいられないようなブログを書いてしまうように)

 親コンさん、ようこそ。

 大河ドラマ版での兼続の描き方についての分析、ほんとうに痛快そのものでした。

 そういう意味では、私個人の場合、「謙信からの私への遺言(!.....ここが大事です。跡継ぎは誰かではなくて)はマジだったのか????」という問題をめぐる根の深い葛藤がある気がします。

 でも、その代わりに、今度は謙信のメタ謙信(?).....毘沙門天様からは、「お前こそ私の義を継ぐもの」と、思う存分甘えを満たしてもらえているという確信はあります(^^)。

 私の毘沙門天様のほうはご存命だったりしますし、あまりにも、あまりにも、「本家の毘沙門天」らしからぬこととは思いますが。

いや、兼続が謙信から受けたものは、あーせいこーせい、という、“遺言”なるものの存在によって示されうる、なんらかの生き方・行為指針、ではなくて、単に、「お前の有り様は私の義を嗣いでいる」、ということなんではなかったのかなあ、というのが私の言いたいことなのでありました。

だから、兼続は、個々の局面において、どう行為すべきか・・、と悩む(葛藤する)ことにはなるのだけれど、一旦、こうするべきだ!、と自分で決断したからには、その決断そのものも含めて自分の有り様は“神”でもある謙信公からも認められているのだ、という確信があるからこそ、ドラマでも描かれているごとく、あーも妙な自信にあふれているのではないか。

(そして、土居先生の、論争的であったり指導において苛烈であったりするバックボーンというのは、あれこれの他人の理屈ではなく(とりわけフロイトの理論であったり、古澤先生の教えだったりではなく)、他人の理屈を参考にしつつも、最終的には自分でこれこそが正しいのだ、という決断の後ろ盾に、なにをしようが君の有り様は正しい、と認めてくれる非人間的な存在があったればこそ、なんではないかいな、ということをお伝えしたかったのでありました)

 何をお慌てでございますか、親コン殿(^^;)。

 私めは親コン殿がお書きの意図、一切誤解いたしておりませぬぞ。

 もはやわが存命の毘沙門天様(?)が今後私にどのようなことを仰せであれ、それはもはや「どうでもいい」ことなのでございます(^^) 私にとって彼(か)の方(かた)はすでに歴史上の人物であるに過ぎませぬ。私はその先を見据えたことしか考えておりません。

 毘沙門天様の唯一の最後の教えが、

「わが教え、もし汝のフェルトセンスに違和を感じさせる時は、汝従うべからず(従わずとも汝のよきに計らえ)」

であるかぎりは。

う~ん・・・、やっぱり誤解してます。

>「わが教え、もし汝のフェルトセンスに違和を感じさせる時は、汝従うべからず(従わずとも汝のよきに計らえ)」

だろうがなんだろうが、誰か他者による教え、なんてものは、単に、無いんです。

何をしようが、しなかろうが、どう考えようが考えなかろうが、どうであっても、「君はそれでいい、そのままでいい」というのが謙信から兼続に贈られた最高級の贈り物なんじゃないの?、ということが言いたかった(言葉足らずでなかなか伝えられないのがもどかしいのだけれど)。こういちろうさんは、「であるかぎりは」などと、限定的な言葉を書いているけれど、「であるかぎり」もなにもなく、単に、「君はどうであれ(悩むのであれ勝手な振る舞いをするのであれフェルトセンスに従うのであれ従わないのであれ、そんな言葉にさえこだわることさえなくったって)、そのまんまでいい」、といつ何時でも認めてくれている(と根拠もなくそう思えるようにしてもらえている)からこそ、自分に信頼がもてる。自信、とはそういうことを言うんではないんかな?

これは、誰が言っていたのかすっかり忘れしてまったのだけど、自信なんてものには、むしろ、根拠なんてものが無いほうがいい、みたいことを言ってた人がいた覚えがあって、私はそれがすごくよく分かる気がするのです。遺言だの、「であるかぎりは」だのいう限定は決して伴わず、ただ単に、自分はオールokなんだ、と。フェルトセンスなんてものに従う必要もないくらい、もう、まったくのオールokなのだ、と。

というか、どうして私が伝えたいと思っているところを、こういちろうさんは「誤解していない」などと判定できるんですか?それって、ただ単に、こういちろんさんが個人的に「誤解していない」と思っているだけですよね?

私は、こういちろうさんの書く「であるかぎりは」みたいなところから見ても、ああ、やっぱりこういちろうさんは誤解している、としか思えないところがあります。

それともう一つ、「存命の毘沙門天様」みたいなことを書かれているけれども、毘沙門天様(私が書いていたところの“神”)というのは、もう決して言葉を交わすこともできない、あっちの世界の存在なんであって、であればこそ、遺言だの、「であるかぎりは」だのいう言葉を超越した、わけのわからない肯定感(自信)を与えてくれる存在として背中を押してくれているんではないか。

また、「毘沙門天様」が存命である限り、重視するのであれ軽視するのであれ、どうしたって、その人間的傾向による制約(限定)が「毘沙門天様」から及ぼされてしまうのは避けることができない、と思うんだけど、まあ、人それぞれ、どうでもいい、と自分で思っていさえすれば、どうでもいいことになる、と考えることもできると言えばできるんだろうけど・・・、でもなあ・・。

もはや親コン殿はもはや拙者の謀(はか)るがままのお答えばかり。

「ありのまま」という言葉を使うことを「絶対的なタブー」とすることこそ、カウンセラーという職業(Profession)を選びし者の矜持と心得る。

この言葉、衆生を惑わす妖怪変化の操りしもの。

更に鑑みるに、土井師も、神田橋師も、「精神分析」というオリエンテーションを自ら捨て去ることはなさらぬご様子。

さもなくば、あたかも絵画療法で水平線を描かざるが如し(.....これではエヴァンゲリオン最終回のパクリではないか)。

貴殿の申されること、ただ嘉代子様にのみ能(あた)わざりや?

げにや「御旗」は必要なり。

さもなくばこの世に「輪郭を持った生き物」として棲み続けることかなはず。

あたかも、サン=デジュクベリが地中海に飛び立ちしまま行方(いくかた)知れずのごとし所業。

親コン殿は船で浄土に旅立つおつもりか?


......更に申さば、我、筑後の民を愛するのみならず、越後の民を愛するなり(^^)

読めばどうせ不愉快になってまた何か書き込みたくなると思って読まずにいたのですが、ついつい飲み過ぎた勢いで読んでしまったので一言。

私はすでに浄土の住人です(どういう“私”について言っているのか書き出すと・・・、本気の本気になって書き出すと、たぶん死ぬまで書き続けることを要求されるような、完結できないような、とある“私”について「浄土の住人」と言っています。現実的にも、数年前に実家の全焼事件とともに家とは切り離され、それとは別のある種の事情で、一切の仕事を辞めて、貯蓄が無くなって立ちいかなくなった時が、その時だな、と腹を決めてから数年、もう、さすがに食うこともできない・・・、と思いはじめてから今まで半年ほどが経過したのだけれど、もう、ほんと、毘沙門天様にでも感謝するしかないくらいあれこれの幸運で、今だに生きながらえています。まあ、今のところ計算できるのは、あと50日くらいの余裕なんですがw)。

そういう視点から言えば、もはや、私が何事か語り出してしまうこと自体が完全に間違ってしまっているわけです。

こういちろうさんは、たぶん、アクセスのログとか取られているでしょうから、確かめようと思えば確かめられるでしょうが、私は、かなり以前から、こういちろうさんのブログを読み続けていました(実は、一度、フォーカシングのセミナーにも参加したことがあります)。

そして、その間、ず~っと、(あ~、もう、いらつくなあ・・)、という思いを持ち続けておりまして、それが、例の「天地人」の書き込みのところで引き金を引かれてしまって、あれこれ、“間違い”続けてしまっているわけです。

私も「あるがままでいい」みたいなことが言いたいわけではありません。

間違いついでにさらなる多言を費やしてしまうとすると「あるがまま」でしか居られない、「あるがまましかない」(それをどうこうしようとするのも、「あるがまま」と肯定するのも、何をしたって、どうしたって「あるがまま」でしかあり得ない)、ということを、心の底から納得してしまうと、別に、「御旗」だろうが、肩書きだろうが、生きること、だろうが、どうでもよくなってしまうわけです。

土居先生のあれこれの発言は、発言するという時点で、「浄土」のものにはなり得ません。土居先生本人も、その点はわきまえておられているようで、私には、あからさまにしか見えないけれど、土居先生自体は、ちょろっとかすめるようにしか表に出されない、その底流には、先生のカトリック信仰が、ドデン!、と構えているとしか思えなかったりするのです(事実、精神分析だの精神科医だのいう看板を下ろさなかった、なんてことは、どうでもいいこと)。

どうせこういちろうさん流にしか理解されない(というか、こういちろうさんは、理解していない、と思われるのが苦痛なんですよね?)ことなんだろうけれど、もうこうなったらぶっちゃけます。

こういちろうさん、両親なんか捨てて、また、カンセラーなんて仕事は捨てて、神さまにすべてをまかせてしまったら、もっと楽になると思いますよw。

(こんなことは、めったな相手には言いはしないんだけれど、なんとなく、こういちろうさんには言いたくなってしまったのでした)

さっき送信したんですが、一点、そういえば、と触れていなかったことを思い出したので追記させてください。

追記させてほしいくらいこだわってしまった点というのは、神田橋先生についてでありまして、私は、精神科医だの臨床心理士だのいった人々は、どう考えてもクライエントと呼ばれる人々より病気が深い、としか感じておりませんで、そういうところから見て、神田橋先生ほどきつい人はいない、と思っているのであります。だからこそ、彼の著書は読み応えのあるものになっているんでしょうけれど。

神田橋先生の、もう、あっという間に“患者”と呼ばれる人のことを分かってしまったり、スーパービジョンなどでも、やたらとすぐにチェックを入れられるくらい、すばやくものごとを分かる人らしいという、その手の職人芸って、コツシリーズとは違ったスタンスで書かれた、「現場からの治療論」という物語、あたりなどからと考え合わせても、どうしても一言その勘違いをただしてやりたい、という気にさせずにおれない、何かがあるのです。

確か神田橋先生って、相当、ペシミスティックなところがあるお人なんですよね?

滝口俊子さんによる聞き書きを本にした「不確かさの中を」では、確か、大いなるもの、に守られているかのようなことを口にされていたと思うのだけれど、結局、そういうことを口に出して言わざるを得ないくらいには、大いなるものを信じようとして、信じ切れないでいる(信じ切れないから、あれほどファントム云々についてこだわらざるをえない)ように見えるのです。

神田橋先生は、もう、この世的にやれる、ベストは尽くされたと思うんです、どう考えても。でも、その先に関して、この世で力を発揮された分だけ、あやふやにしか信じておられない。

「親コン」とここで名乗っている私が、個人的にどうこうは、おそらくできないのだけれど、それでも私は、神田橋先生にでさえも(こういちろうさん以上に)、大いなるものに身を任せても、というか、身を任せるほうが、今は幸せですよ、と言ってあげたい(ほんとは、神田橋先生が、納得するような戦略的な言葉使いもいくつか考えないではないので、そうも直接的には言わないだろうけど)

私が久留米に帰ったのは、両親のためではありません(きっぱり)

経営的行き詰まりと療養、そして何より、久留米という、我が大いなるふるさと、大地に身を委ねることで癒されるためです。そこに導いたのが、私のほんとうの毘沙門天様なんでしょう(^^) ひょっとしたら筑紫の国造(くにのみやつこ)、磐井こそががその権現なのかもしれない。石人石馬には、まだ再び会いに行っていませんが(^^)

私は、同じ空しさを見つめるのであれば、果てしなく果てしなく、空しさの極みを見つめたいのですね。恐らくそこから先に、実に当たり前の、この世での悟りの世界があるのを実感しているから(歎異抄における親鸞聖人が指し示していたような意味での)。

私は、人生の道半ばにして、現実世界での人生のゲームを、やっとこれから本格的にはじめられるところまで来たのです(^^)

でも、決してイカロスの翼にはなりませんよ。

そのように確信を持って言えるのは、このネットでは決して書かないと心に決めた、「リアルワールド」があったればこそです。

ネットに書いているのが私にすべてではないのは言うまでもないことです。

ある意味、神田橋先生ぐらいビョーキの人はいないなんて、若い頃から気がついています。

そして、親コンさんが、カウンセラーに救われようとすることの空しさ、あるいは、カウンセラーとなって他者のお役に立とうとすることの空しさを骨の髄まで味わって来られたことが伝わって来る気がいたします。

なのに、土井先生や神田橋先生についてお書きの部分をお読みする限り、今の段階でですら、親コンさんの中に、「この世の救済者としてのカウンセラー」という「煩悩」が見え隠れしてしまう気がしてなりません。すごくドロドロとした、カウンセラーという人種への思いのようなもの。

「阿世賀さんはフォーカシングで遊び続けている」という、ある先達のご感想を私は忘れません。

私からおもちゃを取り上げようとなさるな。

それができるのは、親コンさんではなくて、「大いなる何か」だけなんですよ。

「我が舌を視よ。またついているか?」
「よし、舌さえあれば十分!!」

(張儀)

ここでいう舌とは、単なる弁舌の才ではない。フィロバットのスキルのことである。


親コンさんにこそ申し上げます。
どうかご自愛ください(^^)

スピリット(精霊=酒w)の力を借りるのではなく、ちょっと自分でやってみなさい、というダイモーンの声(フェルトセンス?)に導かれて、しらふの状態で書き込んでみます。

私はここに何事か書き込みする程度には肉体を持って、煩悩つゆだくです。救済してやりたい願望もかなりでっかく持ってます。ただしそれは、あれこれのカウンセリング理論や精神病理学や、もちろん特定の宗教による救済、治療とか癒しとかいうこの世的な救済ってわけではありません(結果的にそこに繋がることも、ままあるとは思うけど)。

まあ、ある意味、宗教的なのかもしれないれど、それより、超越的、と言っておいたほうが合っている感じ。

で、何を救済したいのか、っていうと、私は、世界をまるごと救済したいんです。狂ってるって思いますか?でも冗談ではないんですよ。でも、当然のことながら人間としての私には、そのような大それたことをできるわけがない。

そこでお祈りするわけです。

「どうか私も含めたこの世の中を救済してください」、と。

すると、どうでしょう。なぜだか分からないけど、どうしても引っ張られてしまいがちな対象が現れて(たとえばこういちろうさん)、「ここに縁を植え付けよ」的な動きに私を駆り立てる。

ああなるほど、これは大いなるものからのお告げだな、となって、そこで、救済の一環として、ふだん、あんまり書かないようなことを書かせてもらっている。理性が働いているときは、こんなことを書くのは当然気が進まないから、スピリットの力w、を借りて書く。(今は飲んでないので、かなりの緊張を伴っているけど)

そんな私の大いなる流れは、ここにきて、どうしても次のように言いたくなってきてしまった。

「こういちろうさんは(また、それ以上に神田橋先生は)現実世界での人生ゲームなんてしてる場合じゃないんです。多少思い切りがいるだろうけど、さっさと次のステージに進みなさい」、と。

病者と呼ばれるような人々に甘えんのもいい加減にしろ!と言いたい。彼らには彼らの人生ゲームがあって、“治療”なる誰かさんの人生ゲームに付き合わされるいわれは、まったくない、としか思えない。

甘える先が違うんです、神田橋先生もこういちろうさんも。(その点、土居先生は、ほぼ間違いなく、甘える先を見誤ってはいない。見誤ってはいないんだけど、生き方としては、徹底できていない。めったなことでは徹底なんてできないんだろうけど)。

こういちろうさんは、いつまでもご自愛なんかしてる場合じゃないと、私は思う。

ああ、だ・か・ら親コンさんはわかってない(もう、苦笑の限り)

ここまで婉曲にほのめかしているのに。

私の甘える対象は、クライエントさんではないということ。
少なくとも、そういう次元は卒業しつつあるというか、あるいは「先祖がえり」しつつあるというか。

実は、親コンさんは、とっくに私が私なりに「ありのままに」生きることのアシストに貢献しているのに。これはもはや「大いなる何か」のなせる業です(^^)、

裕さんのブログの「労働組合結成」のエントリーで言われてたことなんだけど、

「臨床心理士はただの職業になるべきである」

職業とは何か?

生活の糧を得る「手段」なんですね、結局は。

中井先生が「軽症境界例について」で言われるごとく「ただ生活の糧を得るために」援助者として働くということ。もしそんなら、臨床心理士とコンビニのレジ打ちを兼業してもかまわないし。生活保護受けながら、精神障害者手帳もらいながら臨床心理士でもいいではないか。

....でさ、あとは.............との人生に生きる。お互いに甘えあいながらでも、角つき合わせながらでも。そういうことです(^^)

その平凡さこそか人間の救い。

そして、どこまでいっても世界に生かされている我々であって、世界は救えない。

タルコフスキーの「ノスタルジア」ではないけど、一本のろうそくを向こうまで運べたら世界は救われるのか?
 

*****

 更に言います。

 これも何回か書きましたけど、村瀬孝雄先生いわく、

「欧米人は、自分の人生をゲームとしか思っていないからね」

......カウンセラーですら、結局クライエントさんの人生ゲームの「駒」として存在しているに過ぎない。

ゲームを「仕掛けている」のは実はクライエントさんなんであって、そのゲームに「乗ってあげる」ことが大事な出会いなんだと思う。

そのことをカウンセラー自らが悟り、いらぬプライドを捨てた時、メサイヤ・コンプレックスをそこそこ克服できる。そして、クライエントさんは「いつの間にか」そこそこ自分の人生をみつけて、カウンセラーから「勝手に」巣立つという、カウンセリングの理想の事例が増えていく。

「あ、もう、カウンセラー相手じゃ、この『ゲーム』、退屈でつまんないや。ayuのライブを一緒に楽しめる恋人がいれば」

と巣立っていく時なのだと思う。

怖いのは、カウンセラーという人種は、そういうのを「行動化」と名づけて、恋人との関係がぐじゃぐじゃになって舞い戻ることを期待し、「喜んで(内心嬉々として)」迎え入れるんだよね。こんなの「ボーダーラインの親」のやることだとマスターソンは言ってる。

中井久夫先生が、それこそ「軽症境界例について」で書いているように、何人もの治療者を渡り歩く中で「弱毒化」されればそれでいいのかもしれない。

でも、治療者側が、クライエントさんの不意の旅立ちのときの孤独に耐えられるには........

♪ 旅を止める親鳥たちは
かばおうとするその羽根がとうに
ひな鳥たちには小さすぎると
いつになっても知らない

(中島みゆき「小石のように」 アルバム「親愛なるものへ」収録)

●「軽症境界例」は、病者と社会 (中井久夫著作集―精神医学の経験)のp.150以下に所収。

そうそう、親鸞が歎異抄で言ってましたよね。

「祈る(念仏を唱える)ことができるのも、阿弥陀様のおかげ」

「念仏するかしないかは、もう、勝手にすればぁ?」

と。

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