« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

2008/08/31

新・先週の人気記事ベスト20 リニューアル!!

 「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例だった、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、再開します!!

 ただし、ランキング集計方法を大幅に改め、今回以降、@niftyココログにある私のすべてのブログの総合ランキング20位までを、PCサイト携帯サイトに分けて、独立した記事として掲載することとします。

*****

 このようにするのは、ブログ形式で全体を構築していくことにした「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトのアクセス数が徐々に伸びていて、しかも、そちらのサイトに改訂の上アップした、この「雑記帳」サイトの記事に基づく記事が、すでにかなりのアクセス数を見せ始めたからでもあります。

 今後、徐々にこのサイトの往年の(?)人気記事が、新サイトの改訂版記事〈そちらの方が余計なリンクもなく、文章も練りこんでいますし)にアクセス数を徐々に奪われていく可能性もあり、そうなった時、「雑記帳」サイトのアクセス数やランキングそのものを変容させていく可能性も高いでしょう。


******


 ひとつ宣言しますと、カウンセリングルームサイトの方には、余計な裏話などを掲載することはありません

「カウンセリングルーム公式サイト」として、常時読んでいただけるのに値する内容を徹底的に選抜・吟味します。

 「雑記帳」ブログで書いた記事が、新サイトに掲載する予定の記事の草稿という場合もありますし、一気に同時掲載の場合もあるでしょう。

 しかし、「雑記帳」ブログでの記事にオリジナルを残し、原則として版の更新や修正は新サイト側だけで進めることになるかもしれません。

 カウンセリングルームサイトで新記事を出す時には、この「雑記帳」ブログで、その記事のURLだけでもリンクして紹介し、新サイトからのトラックバックを「雑記帳」ブログに飛ばします。

 そうした際に、新サイトでは書かなかった裏話も紹介するかもしれません(^^)

 つまり、この「雑記帳」サイトは、まさに私のプライベート・サイトとして使い分けることwを始めることになります。

 それでも、カウンセリングや心理療法、いうまでもなくフォーカシングについての、かなり思い切った「実験的」な記事や、浜崎あゆみをはじめとする音楽関係やiPodをはじめとするモバイルオーディオ、社会問題の記事などの領域越境的なコンテンツ、日記的な内容は、この「雑記帳」で今後も量産していくつもりです。

 このサイトがカウンセリング一辺倒になるのではないかと「ご心配の」(「安心しておられた??」)皆様、雑記帳は永遠に雑記帳の奔放さを維持します!!

 今は新しいカウンセリングルームを立ち上げたばかりなので、カウンセリング系の記事を集中的に書いているのですね。

*****


 なお、今後、

この雑記帳の記事については【雑記帳】

「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトの記事については【開業サイト】

と略記することにします。


どうかよろしく!!

久留米フォーカシング・カウンセリングルームまでの詳細なアクセス・マップ

●「アクセス」カテゴリー〈久留米フォーカシング・カウンセリングルーム)


 Googleマップから地図Z、街の案内地図をデジカメで撮ったものなど、ローテクを交えて、手法総動員です。

 実は、久留米は北九州より熊本からの方が近い(50分)、それどころか、九州新幹線部分開業のおかげで、鹿児島中央からですら2時間という現実があるのですね。

 
 

2008/08/29

「久留米でフォーカシングを学ぶ会」、第1回は9月14日、日曜日に開催!!

 ついに「大船でフォーカシングを学ぶ会」スタイルをそのまま久留米に移植した、「久留米でフォーカシングを学ぶ会」の月例開催を9月から開始することにしました。

 久留米フォーカシング・カウンセリングルームは、私の旧宅の1階部分の2部屋を充てることにしました。

 面接室が6畳のフローリングの改装した洋室
 

 そのとなりに、12畳スペースの、これまたフローリングに改装したダイニング・キッチンがあります。そちらを「クループ・ミーティングルーム」として活用するということが可能になりましたので、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」時代のように、6人を超えたら窮屈ということはもはやありません( ^ ^ )

 そこで、定員を8人に増やし(10人でも実はゆとりがあるのですが)、原則毎月第2日曜日開催からスタートすることにしました。

 開催時間帯も10:30-17:00とし、昼食休憩(原則参加者持参)を挟んで、午前1パート、午後2パートの3部構成にするというスタイルに転じます。

 繁華街とか駅前ではない代わりに、こうした点ではゆとりがある場所を獲得できた大メリットがあるのですね。


 九州/山口地区における、フォーカシングの全くの初心者から臨床専門家まで参加自由の、新しいフォーカシング・コミュニティを目指します。


 内容/今後の日程/予約状況/料金など、詳しくはこちらをご覧下さい。

2008/08/28

久留米の新カウンセリングルーム、ネットと電話、正式に開通いたしました。(第2版)

お待たせいたしました。

ご迷惑をおかけいたしました。

今後、「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」公式サイトの構築も一気にスピードアップいたします。どうかご期待ください。

今後はファクスでのお申し込みも受け付けます。

TEL & FAX 0942 48-8797

です。

皆様、どうかよろしくお願い申し上げます。


※お申し込みは電話だけでも結構ですが、
 FAXやメール添付で利用できる申し込み用紙
 ダウンロードできるように準備しております。


2008/08/26

カウンセリングに熱を入れすぎると欝症状が悪化する?(第2版)

 タイトルでお書きしたこと、実は、医者やカウンセラーの間で結構言われてきたことなんです。

 「カウンセリングに熱が入り、クライエントさん自身も深く内面を語ることを進んでやっている場合でも、その直後に、まるでその反動のように、欝が悪化することも多いことに用心せよ」


そして、


 「内面を深く掘り下げたり、洞察や気づきをめざすような、毎回1時間におよぶ心理療法的アプローチは欝の患者には適さない。認知行動療法のみがその弊害が少ない」


ともよく言われます。


 このような考え方を重んじるお医者さんの中には、それゆえ、患者さんがカウンセリングを受たいと言い出すといい顔をしない先生もかなりいます。

 同様にして、カウンセラーの中にも、その人が欝だと知ると、カウンセリングよりもまずは「病院とつながる」ことをクライエントさんに勧め、病院とつながった後カウンセリングに来なくなったら胸をなでおろしていさえするのではないかと誤解されかねない方々も、少なからず見受けられる気がします。


******


 欝傾向のあるクライエントさんには、お医者さんの受診も勧め、必要ならば投薬治療も受けてもらうことが大事です。

 カウンセラーとしての私も、まずは通院も並行してお始めになってみること(あるいは通院の再開)をお勧めすることが多いです。

 お医者さんの「休養を要す」という診断書が出された場合、ある程度じっくり休養に専念されからカウンセリングを再開した方がいい場合も少なくないのは事実ですね。

 カウンセリングルームに通い、カウンセラーに話をすることそのものがご本人の「無理」と「負担」とストレスにばかりなるようでは反治療的なのはいうまでもありません。


*****


 しかし、かなり重たい欝で、どれだけ通うのがたいへんでもカウンセリングルームにも通いたいと願うクライエントさんもかなりの数おられます。


 別な記事でも書きましたが、そもそも

「頑張らなくてもいい」
「何事もそこそこに」
「ゆっくりと休養をとって」

などといわれると、どう過ごしたらいいのか見当がつかなくなり、焦りが空回りしやすく、その挙句に追い込まれて孤独の中で絶望しやすいのが、欝になるクライエントさんには見られがちな傾向です。

 そして、欝のクライエントさんの多くは、心が通じる信頼できる人との交わりに支えられていることを、一方で強く求めているものなのです。


****


 欝傾向の強いクライエントさんご本人が望みもしないのに、内面に深く触れ、深く見つめる方向にカウンセラーが導くことは確かに危険だと私も思います。

 しかし、クライエントさんが自らの内面を深く語りたいと欲し、自然とそれをお語りになれる時、それが悪い形にリバウンドしないように援助できるかどうかは、ひとえにカウンセラー側の傾聴の仕方、間柄の作り方のセンスだと思えます。

****

 ひとつ言えるのは、「無理をしやすい」欝のクライエントさんの相手をするカウンセラーも、いつの間にか「頑張って、無理をして」、クライエントさんの心情に共感し、理解しようと知らず知らずのうちに「無理をして」頑張り、サービスしようという方向に引き込まれやすいのですね。

 そして、しばらくそれを続けた挙句、少し疲れた頃に、まずはカウンセラーの側の無理が続かなくなり、些細なきっかけで、それまでのクライエントへの丁寧さを保てなくなり、そういうときに限って、クライエントさんとの信頼関係に水を差すようなコミュニケーションの行き違いが生じることが少なくない気がします。

 まずは、カウンセラーの方が、自分の無理に敏感に気づき、自分自身にとっても、クライエントさんにとっても無理にならない水準でのやりとりを見極めることができるだけの「心の余裕」を取り戻す必要がある気がします。

 すると、そういう「余裕」がクライエントさんにも伝染し、その時「無理をしてでも」語り尽くしてしまおうという衝動が緩むという、いい循環がはじまる気がします。


*****


 要は、カウンセラーが、面接の場の中での自分の心身の状態全体を緩やかに味わえるだけの余裕ある「間合い」を自分自身との間に見つけていければ、それはクライエントさん側の、自分の心身との適切な「間合い」として反映するということです。

 こうして、気持ちを整理して、適切な間合いを見出しすことを重視するアプローチは、産業医科大学の増井武士先生の「心の整理法」や九州大学の田嶌誠一先生の「壷イメージ療法」をはじめとして、九州・福岡発のアプローチが全国で注目を浴びています。

 しかし、こうした技法も、杓子定規に形だけなされたら、患者さんのストレスや物足りなさにつながるようにも思います。

 治療者が面接場面での自分の心身で感じることを余裕ある間合いで味わえることがベースラインになってはじめて効果を発揮するのだと思います。


 私の専門であるフォーカシング技法においても、"clearing a space"という、個々の気がかりな事柄に巻き込まれることなく、それを一渡り見渡して、その存在を自分で認めてあげた上で、適切な距離から俯瞰する技法が大事にされています。


 「スープの匂いをかぐためには、スープの中に鼻先を突っ込んではうまくいかない」


.....フォーカシング技法の創始者、ユージン・ジェンドリンの言葉です。


 これは、まずは、面接の場で刻々と心身に感じられて来ることに対して、まずはカウンセラー側に必要な、場の「抱え」のスタンスだと思えます。


******


 認知行動療法の場合でも、ひとつ間違うと、欝のクライエントさんはその課題を果たすことそのものを相当ストレスに感じたり、あるいはいつの間にか「熱心になり過ぎて」リバウンドにはまる危険という点では、根本的な違いはない、というのが、カウンセラーとしての私が、すでに認知行動療法のプログラムを最後までやり遂げた経歴のあるクライエントさんと何人もお会いする中で感じてきたことです。

 学会や臨床心理士の研修会などで、事例発表を拝聴させていただいても、認知行動療法系のカウンセラーの方で、確かに成果を上げ、現場カウンセラーとしても有能と感じさせる先生の持つ臨床センスは、結局他の療法のカウンセラーにとってもセンスあると思われる、技法として明文化されていない、隠し味的で、流派を超えて普遍的に共有可能な、患者さんとのコミュニケーション・スキルに支えられているように思えます。

 つまり、カウンセラーの側も、いい意味での心身の余裕を保ちつつ、クライエントさんとの関係全体を、緩やかに抱えるというバランス感覚をお持ちのことが多い気がします。
 

2008/08/25

電話設置日、確定いたしました

 長らくご迷惑をおかけいたしました、「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」へのNTTの光ファイバー接続が、8月28(木)正午ごろに確定いたしました。

 それと同時に、以前お知らせしていた、公式の電話・FAX番号の使用が可能になるはずです。

 TEL & FAX :0942-48-8797

 あとしばらくお待ち下さい。

2008/08/24

「空中権」への対応について

NTTはもっと顧客に迅速かつ積極的に対応しないと、他社にシェアうばわれかねないと思う。

九州電力だって電柱は張り巡らしているのである。そして東京電力のTEPCO光のような、光電話とインターネット事業をしている。

今回こそ、私の「大家さん」である父親の、ネゴシエーターとしての辣腕さで事態は乗り切れたけどね(感謝)

近況080824

これから数日中には電話とネットが繋がることが確実となり、また、クライアントさんとの本格面接も再開できたので、新サイトの構築とカウンセリング系の新規記事についてはベースダウンして、文章を練るための脳は一休みさせ、大船ではできなかった、領収書の自動発行まで一元化した形での顧客管理ソフトの導入とカスタマイズに取り掛かろうかと思っています。

それにしても、以前よりも携帯メールを使うことはずっと増えたにもかかわらず、まだまだ携帯からのブログ投稿となると圧倒的に打ち込みが遅いことについては、我ながら辟易している(+_+)

2008/08/23

「驕り」と「誠意」の狭間で

カウンセラーは「万能感」に陥ってはならないとはよく言われる。

しかし、自分に何ができるのかを真剣に考え続けねばならない存在であることも言うまでもない。

2008/08/20

「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイト、コンテンツがかなり増えてきました

 久留米での新サイト、ある程度の量のコンテンツになってきましたので、興味をお持ちの皆様、どうかよろしく。

 こちらのブログで先行公開したうちのいくつかも、すでに転載しています。

 当ブログのかなり以前の記事の転載の際にも、文章を若干見直しているものもあります。

 おそらく、全体として、こちらのサイトで読んだ場合よりも、すっきりとして読みやすいのではないかと(^^;)

 なお、新サイトでは、トップページには、総合案内のページと、最新記事の2つしか表示されていません。分野別にカテゴリーから読んでいただくか、バックナンバーをたどっていくといろいろな記事が出てくる仕様になっています。
 

医者という名の薬(第2版 全面改定稿)

 関東を離れる前、お別れ会を兼ねて、知り合いと行きつけだった、その地方で結構名の通った蕎麦屋に、2,3ヶ月ぶりに行った時のことです。

 店に入り、私たちが桟敷席に座った直後、もう一組のグループが店に入ってきて、隣の桟敷に座りました。

 店のおねーさんは、まず最初に、その、後から入ってきた席の方に、水を持ってきました。

 その後、私たちは話に花を咲かせていたのですが、数分後、気がついてみると、私たちのテーブルにはまだ水を置きに来ていない。

 私の連れは、おねーさんを呼び、水を頼んだのですが、そのあと水を持ってくるまでに2分かかる。

 更に、煮込みそばを注文したが、店がそこそこ空いていたにもかかわらず、注文品がなかなか来ない。

 やっと注文が届いてみると、、今度は、「れんげ」が食卓にない!!

 待っていても来ないので、これまた持って来いと頼む始末。


「この店、店長が代わったみたい」


と知り合いの一人。


 実際に口にした煮込みそばは、以前も食べたことがあるのに、やや麺が延びていて、何かしら生ぬるく、味付けもイマイチと私たちは皆感じた。


*****


 新店長の意識が低いと、「実際に」味も落ち、おねーさんへの接客教育も不行き届きになる。それは確かかもしれない。

 しかし、その時ふと思ったのは、おねーさんの「あの」接客態度だけで、「実際よりも」そばがまずく感じたかもしれないということ。

 これだけで、「その店にはもう通いたくない」と感じるお客さんも多いと思うのです。


*****

 そして、これと同じようなことは、お医者さんと薬の効き目のあいだにもあるように思える。


 「医者と言う名の薬」


 これは、イギリスの精神分析家、ウィニコットという人が言い出した言葉です。


 「薬の効き目の半分は、その薬を出すお医者さんといい関係にあるかどうかで決まる」

という意味で、日本では精神科医の中井久夫先生が著作の中でよくお使いになります。

****


 ご本人が悩んでいる症状〈不眠、不安、緊張、気分の落ち込みなど)そのものがどの程度、どのくらいの期間で効いてくる可能性があるのか。副作用としてはどのようなものがあり得るか、そうした時にとりあえずどういう対策を採ったらいいかについて、患者さんに理解できる形で丁寧に説明してくださるのがいいお医者さんです。

 例えば、


 「この薬を飲むと眠気を感じ、集中力が落ちると感じることもあるかもしれません。しかし、この薬は、あなたがついつい無理をし過ぎずに、ゆっくりと穏やかな気持ちで心身を休めることで、あなたの身体の自然な自己治癒能力が賦活することを狙って出しているのです。症状をただ抑えて、「無理が利く」ようにする薬を処方したら、その反動で、あなたの身体の自力はいよいよ衰えて、結局は症状がひどくなるだけですから」


 .....などと具体的に説明してもらっていれば、患者さんも安心すると思いませんか?


*****


 薬の効き目や副作用というのは、個人差がたいへん大きなもので、良心的なお医者さんだと、最初の頃は1週間ごとに通院してもらい、患者さんからの話に基づき効き目やき目や副作用の状態をチェックして、薬の種類や量を再調整したり、新たなアドバイスをしてくださることが多いと思います。

 いいお医者さんなら、求めれば、更に詳しく丁寧に、しかしツボを押さえたわかりやすい表現で、説明を補足して下さることも少なくないと思います。


****


 心の状態は、聴診器を当てても喉の奥を観察しても伝わらないということも念頭に置いてご覧になることをお勧めします。

 もちろん、表情や話しぶりからお医者さんには読み取れることも多いでしょうし、薬に効き目について見分けるポイントになる適切な問診もして下さるのがいいお医者さんでしょう。

 しかし、いいお医者さんであっても千里眼ではありません。患者さんのほうからが、最近の体調や薬を飲んでからの効き具合、特に、薬を飲み始めた後で突然生じたストレスのかかる重大事件について、お医者さんに遠慮し過ぎることなく、具体的に詳してはじめて、お医者さんの注意を引く事柄が、薬の処方にも影響する可能性があるわけですね。

 いいお医者さんなら、あなたが言葉にした、「こんなこと関係あるのかな?」とすら感じられる素朴な気がかりを丁寧に受け止めて、参考にして下さる筈です。


******


 薬の効き方が自分の期待や予想とあまりにギャップがあり、その時のお医者さんと意思疎通がうまく行かないままになったりすると、薬を飲むという体験そのものが、その人の中でひとつの「トラウマ」となり、後になって別のお医者さんに投薬を進められた時に抵抗を感じたり、そういう「薬へのトラウマ体験」そのものが、二次的な心身の不安定を誘発し、薬の効き目を変えてしまう、あるいは副作用のほうを強くする、などということは大いにあり得ると思います。

 同じ成分の物質でも、それを身体が摂取した時の状態次第で、後になっても身体の受けつけ方が変化してしまうということは結構あることなのですね。

 例えば、何かを食べたあと体調を手ひどく崩した経験がある人は、仮にそれまで好きな食べ物であった場合でも、もう匂いをかぐのも嫌、お腹に入れてもしっくり来ないということを、特に子供時代から思春期に体験した記憶をお持ちの方は少なくないでしょう。

 そもそも、人間の心身というものは同じ物質が身体の中に入ればいつでも同じ反応が身体に生じると言うには、あまりにデリケートなものだと思います。


******


 更に言えば、特に心の状態を変える薬とされるものを飲むとなると、他人(しかも「医者」という、自分の運命を託す「権威」)によって心を思いもよらない方向に操られてしまうことへの不安を感じて当然なので、ただでさえ心身にアンバランスな状態にあるからこそ病院に来談した人を更にデリケートな「ストレス状況」に一度追い込むともいえるわけですね。

 また、変化というものは、たとえ「いい変化」のきっかけとなるものであっても、そこまでの過程を、共にしてくれるパートナーの態度によっては心を大きく揺らすものです。
 例えば習い事やスポーツをはじめる際にも、師匠やコーチ自身のセンスや人柄ひとつで、それが苦しくてつまらない単調な基礎練習の繰り返しになるか、上達していくのを心待ちにしながらの、新鮮で、好奇心に満ちた、やる気を保てる体験になり、その習い事やスポーツそのものを好きになるかにも大きく影響するでしょう。

 患者さんが医者に不信感と不安を大きく抱えたままだったら、いろいろな体調の変化をポジティヴに受け止められず、薬による身体感覚変化を悪い方向にだけ感じ取る可能性もあります。


*****


 それがそのお医者さんとのやり取りの中で解決されないままだと、別の機会に別のお医者さんに薬をもらう際にも、同じようになるのではないかという不安があらかじめ準備されていることになります。

そこでの医者の応対が再び不満足で、心を傷つけ、体調を混乱させるものにとどまったら、もはや患者さんの身体の中に、悪い「条件反射」が形成される悪循環が始まるかもしれません。

 つまり、パブロフの犬が、ベルが鳴ると唾液を出すようになるのと同じように、薬を構成する「ある物質」からの刺激を舌や胃の粘膜が感受すると、強く不安を感じたり、以前と同じ身体症状が生じたり、副作用の方だけのスイッチが入るというメカニズムが身体に「定着」してしまう可能性もあると思います。


******


 カウンセラーとしての私は、適切なタイミングで薬を処方するなしで事態を改善するのは非常にむずかしい、難しいいくつかの心の病気があることも知っています。そうした薬によって心身を休め、心穏やかに過ごせるようになって、心身の自然な回復力が賦活しはじめて、はじめてカウンセリングが役立つようになることも多いのですね。

(統合失調症の発症の直後の混乱期や重たいうつ病が典型的なものです)。

(※ 当相談室においでの方が、そうした状態にある可能性があると感じられた場合には、カウンセリングをすることよりも、まずは医師の診断と処方を受けることをお勧めします。ご不安を感じないような形で病院に向かえるようなサポートもさせていただきます。

(※ 病院にすでに通院しておられる方からのご相談については、原則として、カウンセリングにお通いになることについて、お医者様に伝えていただくようにお願いしています。申し込み前ではなく、実際に来談され、当カウンセリングルームでカウンセリングを継続的に受けてみようという決心がおつきになってからで結構ですが)


 軽症の患者さんや、薬との相性が特に良かった人の場合には、飲むだけで当面の苦痛から開放され、副作用もなく、以前と同じように働いたり日常生活を送るのに不自由しなくなる場合もあるのは事実です。

 また、「心理療法の方が薬物療法より『高尚な』ことで、セラピーは薬の代わりになる」というのは、大きな誤解だと思います。

 フロイトですら、「ともかく効果的な治療法」を探した結果、神経症に効果があるものとしての「精神分析療法」を開発しただけであり、現代に生まれていたら、現代における向精神薬の発展を心から歓迎し、医者として積極活用しただろうといわれています。

 通院をはじめ、お薬を処方されるようになっても、カウンセリングの継続をお勧めになる、あるいは許してくださるお医者さんも少なくないかと思います。


*****


 そして、そもそも、誰にとっても、自分の内面を見つめるということそのものが、実は心身の「大仕事」なんだと思います。

 来談された皆様にとって、そのような「大仕事」をカウンセリングの中で私と共にしていくこと自体が心身のストレスとなり、いわばカウンセリングの「副作用」となる可能性に気を配り、バランスに配慮しながら、面接を進めていくことを私は大事にしています。この点では薬物療法の際のお医者さんの姿勢と何の変わりがないともいえます。

 「あちらかこちらか」ではなく、薬物療法と心裡療法が互いをサポートし、相乗効果を発揮するバランスが何より大事だと思うのですね。


*****


 お医者さんと患者さんとの関わり作りへのサポートも、医師にしてはじめて許される診断や治療には抵触しない範囲に厳しく限定していますが、開業カウンセラーとしての私が大事にしていることなのです。
 
 そして、薬を飲む人自身が、「薬を味方につけて」ライフスタイルを調整しようという主体的な意識もあった時、薬が自分の「味方」と感じられるようになることも少なくないのではないかと思います。


 ※医師の資格のない臨床心理士が、薬を処方することは法律で禁じられています。そのことが露見すると、日本臨床心理士資格認定協会からも、資格停止すら含む、厳重な処罰がなされています。
 

*******

●この本が参考になります:


「心に働くくすりは信頼関係があってこそ効く」

中井久夫著作集 5 病者と社会(岩崎学術出版) 所収 p.163-168


 

ユングが、心理療法を、療法家と患者の「弁証法的相互作用」として論じた主な箇所の紹介

  以前の記事への補足です。

 「弁証法」とは、古くは古代ギリシャのソクラテスが、単に深窓の閉じた部屋の中で古今の書物を相手に熟考するのではなく、ポリスの街角で意見の対立する相手と具体的な議論をする中ではじめて、その相手にも納得してもらえると考え、実践したことにはじまる。これらは「対話篇」と呼ばれる一群の著作として伝承される。

 近代に至り、ドイツのヘーゲルがそれを更に発展させ、ある考え方(正命題)に対して、それと矛盾対立するする考え方(反命題)が定立され、それを更に高次元で統合する第3の考え方が生じることではじめて解決〈止揚)されることを「弁証法」と呼ぶようになった。

 この「弁証法」的プロセスが前に進むことを、一般に「正-反-合」などと呼ぶ。

 一方が正しく、他方が間違っているというのでも、単なる「妥協」でもない、新しい次元で解決されていく筈というもの。

 わかりやすく言えば、「白」か「黒」かでの議論は、〈単なる「灰色」ではなくて)、「黄色」という高次元の答えが見出されるというのが「弁証法」のプロセスである。「色つき」という次元を想定していなかったという点では、「白」だけでも「黒」だけでも制約されていたことになる。

 ヘーゲルは、これを哲学的な議論にとどまらず、社会現象や歴史の動きのダイナミズムという現実事象そのものにも適用した。

 それを再解釈して、経済学や共産主義革命理論を作り上げたのがマルクス以降の人たちである。

 ユングはこうした「弁証法」プロセスを心理療法的な相互作用の次元に応用し、専門家の心理療法家の方が、患者(クライエント)よりも、経験や専門知識によって、患者の心の問題をよりよく理解でき、解決への処方箋を持っているというわけではなく、かといって患者自身のほうが自分のことをよくわかっていて、自分で出していく答えの方が正しいというわけでもなく、心理療法の場で、二人のあいだで生じる相互作用過程の中で、双方が先入観にとらわれるだけではないやり取りをして、それぞれが知的にも情緒的にも揺さぶられたり困惑したりを乗り越えようとする相が作用中で、はじめて、患者も成長し、療法家自身も成長すると考えたのである。


*****


※ 以下の引用は、すべて、ユング「心理療法論」林道義訳 みすず書房 1989に所収の論文より。

 この著作は、林道義氏によって選ばれたユングの個別の論文の選集である。

 未確認だが、恐らく個々の論文は、現在の、より新しい「ユング選集」などでは各巻にばらばらに新訳で掲載されているだろう。

 この時の邦訳にしか掲載されていないものもあるかもしれないが。


*****


 「いやしくも個性的な人間を心理的に治療しようとする限り、私はよかれあしかれ自分の方がよく知っているとか権威をもっているという気持ちや影響を与えようという気持ちをすべて捨て去らねばならない。
 私は必然的に弁証法的なやり方をとらねばならないが、これは相互の見方を比較するということを前提としている。

 しかしこのことは、私が相手[=患者]に、私の予見によって制限されることなく自分の内容を十分に表現する機会を与えるときに、はじめて可能になる。この表現によって彼の体系が私の体系に関連させられ、それによって私の体系に反応が引き起こされる。
 
 この反応は、私が個人として正当に私の患者に対置することができる唯一のものである。

 (中略)この態度から少しでも外れると暗示療法を意味するが、(中略)暗示療法とは、他の人の個性についいて知っているとか解釈できると僭称し、それを実際に行なうあらゆる方法を指している。

(「臨床的心理療法の基本」 邦訳p.7-8)

****

 
 「医師は一般に感染やその他の職業的危険にさらされているが、同じように、心理療法家も恐ろしい心理感染の危険を背負っている。こうして彼は一方で患者の神経症に巻き込まれるという危険の中におり、他方では個人として患者の影響を遮断しなければならないが、あまり遮断しようとすると治療する力を奪われてしまう。

(同 邦訳p.29-30)」

*****


「成功から心理療法家が学ぶことはほとんどまったくない、というのも成功はよりによって自らの誤りを正当化してしまうからである。そして失敗は極めて貴重な経験である、というのも経験にはよりよい真理への道がひらかれているのみならず、それによってわれわれが自分の見解や方法を変えざるを得なくなるからである。

(「心理療法の目標」 邦訳p.37)」

*****


 「心理療法においては、医師が確固とした目標をいっさいもたないほうが実のところ賢明であるように私には思われる。医師はおそらく自然や患者の生きる意志ほどには、その目標をよく知ることはできないであろう。人間の生が下す偉大な決定には、一般に意識的な恣意や善悪の分別よりも、はるかに多く本能その他の神秘的無意識的な要因に従っている。ある人にぴったりする靴は他の人には窮屈であり、普遍的に該当する生の処方箋など存在しない。一人一人がおそらく自分自身の中に自らの生の形式・非合理的な形式・をもっており、それより他の形式の方が優るなどということはありえないのである」

(同 邦訳p.41-42)

*****


 「世界観[価値観]は療法家の人生を導き彼の治療の精神をかたちづくる。それは最も厳密な客観性をもっているとはいえ、なによりも主観的なものであるため、恐らく何度となく患者の真実に触れて砕かれ、そしてその真実によって新たに再建される。すなわち、信念は容易に自身に変わりそこから悪くすると硬直に変わる。硬直したのでは生きているとはいえない。信念は強いと言うことは、それが柔軟で修正が効くということであり、あらゆる高度な心理と同様に、信念が皆に認められるのは自らの誤りを認めることによってである

(「心理療法と世界観」邦訳p.68)

*****


 「(前略)このような場合には、療法家が患者の真実にふれて自分の信念が壊れてもいいと思っているかどうかという問題が浮かび上がってくる。もし患者を引き続いて治療したいと思うならば、彼は患者とともに先入観なしに探求の旅に出て、その激情状態にふさわしい、宗教的・哲学的信念を発見しなければならない。

 (中略)しかし療法家が患者のために自分の信念を俎上にのせることを嫌うと、彼の基本姿勢が頑(かたく)ななのではないかという疑問が当然頭をもたげてくる。彼は恐らく自信を失いたくないので譲歩することができない。しかしその自信によって彼は硬直化の危機にさらされているのである」

(同 邦訳p.70)


楽しいことでも疲れる。

 これは、精神科医の中井久夫先生が、まずは、主として、すでにかなり回復してきた統合失調症の患者さんに対する教訓として言われ始めたものです。

 しかし、これは私たちの日常でも、しばしば体験される事柄ではないでしょうか。

 感動する映画を見た後でも、恋人とのほんとうに心安らぐデートの後でも、爽快なスポーツの後でも、有給休暇をとっての楽しい旅行の後でもいいです。その時は、楽しくて、爽快で、心癒される体験をして、ひたすら「気持ちよくて」、疲れをあまり残していないかに感じられていたとしても、それから日常に戻った後、そのいい影響が、しばらく後まで残ってくれるとは限らないものですよね? 

 まるで「揺り戻し」「反動」のように、気持ちが沈んだり、突如空しくなったり、あるいは、じんわりと心身の消耗が感じられてくるのを、皆様も少なからず体験されたことがあると思うのです。

*****

 これは、カウンセリングなどで、「話しをしてすっきりした」とか、「長年の悩みが解決した」「心が癒された」という体験をした際にも生じがちなことなのです。

 ですから、面接室においでになった時の表情とは一変して、生き生きとした明るい表情で立ち去ろうとする来談者の方に、私も一緒になって舞い上がってしまい過ぎないように心がけています。


 「面接室を一歩出たら、あなたは日々の日常に帰っていくのです。カウンセリングの中で感じていたことに違和感が生じたり、言えなかった肝心なことを思い出したり、突如この面接室の中での体験の実感が抜け落ちてしまってが、空虚で、非現実的感じがし始めてしまうことって、よくあります。

 あなたのこの面接室での体験はすばらしい、これまでにないものかもしれません。それだけでも貴重で、後に残り、あなたの日常にもいい影響を与え続けることになるかもしれませんが、あなたが目指しているのは、実施の日常にもどったご自身が以前と変化していて、そのいい影響が残り続けることでしょう? 

 私は、あなたが面接室に現れない(予約が一週間に一度だとすれば)6日と23時間に、あなたがどう過ごせているのかに心を配りたいと思っています。

 ですから、この面接の帰りがけや、家に帰って一人になった時に、そういう「反動」に襲われて「なんだ、これじゃ以前と同じ日常が待っていて、以前と同じような苦しさを感じているだけでないか」とか、「今頃になったら、先生の言ったことがうそ臭く感じられはじめた」とかいったことを、どうか次回面接では、ご遠慮なく私に伝えてくださいね」


.....などと、別れ際に実際に申し上げてみること、少なくとも心の中ではそう念じていることは少なくありません。


*****


 それまでなかなか活路が見出せず、膠着していた面接に、急に活路が開かれて、来談された方だけではなくて、カウンセラーである私の方も「ぬか喜び」した直後の次の回までにの間に限って、クライエントさんの側に、それまでは表面化していなかった深刻な事態が生じてみたり、体調を崩しになったりということがいかに多いかを、私はカウンセリングの現場で体験してきました。

 人が急激に変化する時とは、同時に、新たな危機や不安定や何らかの無理をはらんでいます。以前までの自分自身や、自分の置かれた環境と不釣合いな、その人の一面だけが「突出して」変化し始めたに過ぎない場合が多いのですね。

 あなたの中の「別な部分」には、今のところは黙っているだけの、その変化に対する、根強い「抵抗勢力」も隠れていて、足を引っ張る機会をうかがっているかもません。

 あるいは、急に変わり出したあなたを、周囲の人物が受け入れてくれないで、別の誤解をしてくることもあるでしょう。


「お母さん、あれほど私が引きこもりから回復することを望んでいたはずなのに!! どうして働き出した仕事にあそこまで文句を言うのかしら?」


......などというお話をうかがうことも、よくありますしね。

 何かが前よりできるようになると、以前と同じままの環境や人間関係でいることが耐え難くなったり、あるいは、実際に前に進めそうとなると、それに伴い、それまで未経験だった領域に実際にチャレンジすることへの不安が出てくることも多いでしょう。

 ちょうど、やっとお気に入りの靴がみつかったのに、新しく買った靴では歩きにくく、靴ズレを起こしてしまうのにも似ています。「一点豪華主義」になってしまっていて、その靴が似合うファッション全体を新たにそろえたくなる場合もありますよね。


*****


 変化や成長は、特に急に事態がいい方向に展開したかにみえる直後に、ご本人も当惑させる「揺り戻し」に、カウンセラーとクライエントさんの両方が直面すことが多いのです。

 その結果として生じる新たな事態や新たな思いに、両者が真剣に向き合って、更にカウンセリングを進められた時にこそ、はじめて安定した成果として享受できる段階に進むことも少なくないのです。

 そのことを心しながら、「次においでになる時(まで)に何が起こっても(起こらなくても)驚かないぞ」という気持ちで、日々お会いしようと努めている私です(^^)

2008/08/19

ユングにおける「超越機能」はフォーカシング技法とたいへん似ている

 前の記事で書いたことを、ユングの著作を具体的に引き合いに出して詳しく書いてみよう。


 そもそも、自分の中のもう一人の自分、真の自己との内的関係を「男女関係」にたとえることは、ユングによってはじめて学問的に切り開かれた領域である。

これは、「転移の心理学」での「王と王女の結婚」についての長大な論考にも現れている。

 それに加えて、ユングに関して、日本では比較的関心がもたれておらず、殊に現場でのカウンセリングのあり方と結び付けて語られることが少ないテーマに、「超越機能」あるいは「能動的想像」がある。これは、人間のこころの本来的な中心である「自己(Self)」と、その周りを回る惑星のような一面的な表れに過ぎない「自我(Ich)がどう対話していくかという技法に関するものである。

 こうしたユングのアプローチと、フォーカシングとの類似と相違について、ジェンドリンは、「いわゆる『自己』についてのいくつかの覚え書("Some Notes of "SELF"")」という論文で考察しているが、ユングの原典は、「自我と無意識」というタイトルで邦訳されている論文の第2章「アニマとアニムス」で詳しく論じられている(特に邦訳p.125-128)。

 このユング自身の叙述そのものをジェンドリンは論文の中で直接引用はしていないので、具体的にご紹介する意味はあるのではいないかと思う。

 ユング自身は男性で、男女観における時代的な制約もあるので、単に「アニマ(内なる女性性)との対話」としか呼んでいないが、実はここで、フォーカシング技法における「フェルトセンス」との内的対話と非常に似たことを指すような説明を、ユング自身がしているのである。

 ジェンドリンとの違いは、ユングの表現だと、単なるイメージとの対話のようにも誤解され、身体感覚の上でも局在的に感じられる「自分の中に住んでいるもうひとつの存在」みたいな「存在感(presence)」にまではっきり言及していないだけとも言えるだろう。


====以下引用========


「[内的に分離独立した対象として体験されたアニマに対して]、人に向かってするように問うことは、大きな利点があって、それによって、アニマは一個の人格として認識され、それにあい対することが可能になるアニマを[他者のごとき]人格として受け取れるようになるほど、よいのである。(中略)

 そこで彼がなすべき唯一正しいことは、アニマの姿を自律的人格として把握し、それに対して人格的な[=あたかも他者の人格に対して向けるような])問いをさしむけることなのである(中略)

 アニマと向き合うの(注、ここも邦訳は「対決」)に必要な解離は、われわれにとって、さほどむずかしいことではない。そのコツは、その眼に見えない相手を明るみに出し、しばしのあいだ自由に表現させてさせてやるだけでよい。そして、自分自身とのそうしたばかげた遊びに対して当然感じるかもしれぬ嫌悪感や、相手の声がはたして『本物』なのかという疑いに、圧倒されないようにすることだ。この後の方の点が、いささか技術を要するところである。(中略)

 もとよりこの自分自身とは異なる「他の側面」[=向こう側にいるアニマ]にそれとわかるような心的活動をさせてみようとする時は、できるだけ客観的で先入見を排した態度を取らねばならない。(中略)すぐに割って入ったり、訂正をしたり、批判したりする習癖は、すでに伝統的にかなり強いものであり、一般に、不安でもって強化される。(中略)

 普通は、自分自身にかかずり合うことは、利己的だとか、「不健全」だとか、いわれている。「自分自身しか仲間がいないのは最悪だ。憂鬱になる」....これがわれわれの性に与えられた輝かしい評価なのだ。しかしそれは、紛れもなく西洋的な考え方なのである。(中略)

 情動[=前の部分までのアニマとほぼ同じ意味]が語っている限り、批判は差し控えねばならない。しかし、いったん情動が自らを提示したならば、ちょうどわれわれと近しい人間の相手をするように、良心的に批判しなければならない。だが、それで終わりにしてはならないのであって、会話に、満足のいくような結末が見出されるまで、談話と応答を交互に続けるのがよい。その結果が満足のいくものかとうかは、ひとえに主観的な感じが決めるところである。自分をごまかそうとしても無駄である。自分自身に対して一途に正直であること、もうひとつの側面(=アニマ)が言うかもしれないことを軽率に先取りしたりしないことが、アニマの教育の技術に不可欠な条件である」

(引用終わり)


****

 .....アニマを「批判する」とか、アニマの「教育」という言葉には違和感があるが(ユングの時代的限界としての無意識的な男尊女卑の側面の現れ?)、それ以外の点では、フォーカシングにおいて、フェルトセンスとの対話において要請される態度と全く共通である点に、フォーカシングを知る読者の中には驚かれる方々もあるかもしれない。  

これらの、フォーカシングとユングの「超越機能」技法の関連については、

阿世賀浩一郎「フォーカシングにおけるセラピストとクライエントの弁証法的相互作用について:技法論を越えた視点から」人間性心理学研究 第9号 1992

ですでに言及していた。

 改めてここでご紹介したのは、そういう新鮮な形でユングをフォーカシングの先駆者のひとりとしてとして再発見なさる皆様(しかもジェンドリン自らが論文の中でそれを公認している!!)が増えることを祈ってのことである。

「本当の自分」とのつきあいは、恋人とのつきあいに似ている。

 カウンセリングに興味を持って下さる皆様の中には、「ほんとうの自分との出会い」だとか「自分の本当の気持ちを大事にしたいけけどうまく行かない、気持ちがいろいろ変化して、時々自分は本当は何を望んでいるのかわからなくなるという思いをお持ちの方が少なからずおられると思います。

 そうした一方、最近、世の中では「自分探し」ということを、永遠に青い鳥を追うことであり、その人が、現実と密着した、足が地に着いた生き方をしていくことを妨げる虚妄であるという論調も満ち溢れている気がします。

 それは、理想の恋人との出会いを渇望するあまり、特定のパートナーとの安定した関係(正式に結婚するかどうかは別として)を見つけられない人たちについて、「夢を追い過ぎる」と言われる場合と何か非常に似たとらえ方という気もするのですね。

 「ほんとうの自分と出会いたい」「本当の自分の気持ちを大事にしたい」という思いは、「本当の伴侶(愛)と出会いたい」だとか「恋人といい関係を築きたい」という思いに、ひどく共通するところが確かにある気がします。
 
 しかし、私は、「自分探し」や「理想のパートナー探し」の泥沼から抜けられないままの当事者も、そういうあり方を虚妄として批判する人たちも、何か「本当の自分(の気持ち)」というものについて、何か基本的なところで考え違いをなさっているのではないかと思うことがあるんです。


******


 「本当の自分」との関係も、「恋人」との愛を深めていけること同じように、一度出逢えてしまったら、ずった気持ちが通じ合って、あとは順風満帆というものではない。

 そのように「一度つかまえればいい」と思い込んでいる限りは、不毛な形で「青い鳥」を追いかけては「破局」することを繰り返すでしょう。

「本当の自分」とは、自分の中にいる、一番身近なようで、実はすぐにコミュニケーションがトラブる、「他者」なのです。

 繰り返し向かい合い、絆を結びなおすことをしていく中ではじめて真の<絆>が深まる「恋人」との関係のようなものです。

 「本当の自分」との「いい関係」とは、様々な事件の中で何度も危機が生じ、心を揺り動かされ、「相手」の真意に戸惑い、見失いそうになりながら、ともかく「相手」と共にいて、向き合って、「相手」からのメッセージに虚心に耳を傾け、「自分の思い込み」から繰り返し目覚め、「相手」との心と出会いなおす中で、次第に「信頼の絆(きずな)」が深まるものなんです(^^)。

 人は、実に容易に「自己欺瞞」に陥るものなのですね。

 そして、ちょっとした慢心や、「相手」への甘えや、「表面上はうまく行っている」ことにしがみつくことが、いつの間にか「相手」との溝を深め、破局の危機を準備する。絆は揺らされ、繰り返し結びなおすものです。

 「自分の本音なんてわかってる」と軽率に口にする人は、「彼/彼女の本音なんてわかってる」と安易に思い込めている人と同じくらいに、「ほんとうはわかっていない」「つかめない」「見失ってしまった」現実に思いもよらず直面して慌てふためくことを繰り返すものだと思います。

 この興味深いテーマについて語るために、まずは、一見恋愛と無関係な、寄り道にすら見えるかもしれない、私個人の日常におけるここ数日間の流れを取り上げてみることにします。


*****


 .....こうして、久留米への移住と、カウンセリングルーム開設に伴う新しいサイト向けの記事を練りあげていく中で、2週間ほど立った2,3日前から、私の中に、突然、「何もやる気がしない」という感情が強くもたげてきて、作業が進まなくなる時期が生じました。

 単にサイト向けの文章を書くことが億劫になったにとどまらず、生活全般で意欲が急低下してしまったのです。

 北京オリンピック中継も見飽きた。

 久留米での新生活のためのさまさまな外出しての活動も、何かする気にならない。
 生活に必要な買い物だとか、今後カウンセラーとして地域に根を張るための情報収集などは、楽しそうで好奇心を刺激する事柄もあるし、たまには自炊ではなくて外食もいいかもしれない、それにここ数日は、初秋を予感させる涼しい時間も多くなってきた。

 それなのに、暑くても都心よりは2,3度低く、風が涼しい「避暑地」鎌倉から、盆地的な久留米特有の蒸し暑さと熱風の中に移住したことの適応に辟易しながらも新鮮に出歩けていた、最初の2週間と比較しても、外出そのものが億劫になったのですね。

 多少疲れもたまったのかな? 一時期一気に文を書き過ぎた反動かな? 軽い欝にはまったのかな? ....などと感じ、少しでも眠たければ寝たいだけ寝るということを2日ぐらい続けてみたのですが、それでも解消されない。

 音楽を聴くとか、DVDを観るとかで気分転換をすることにも、どうにも気が乗らない。

 こうした時にこそ、私には、自分の中の容易に言葉にならない漠然とした違和感や抵抗感と真に対話し、活路を見出すための技法、フォーカシングを自分で自分のために意識的に取り組む意義がある。

 「いろいろ新しい文章のアイデアもあって構想メモを貯めているではないか。気分転換と考えても、今日はさわやかな空気、外出には持ってこいではないか? 十分すぎるほど寝たろ? なのにどうしてここまでやる気が出ないのかな?」

 と、私は自分の内側の感じ全体に静かに問いかける。

 すると、頭のあたりに、独特の違和感があることに気がつく。

 頭痛なのではない。

 敢えて言えば、「味のない食べ物を食べているために食べても食べても満たされないような、まるで脳液が薄まって水のように希薄になっているかのような感じが頭の芯のあたりを浸しているかのような感覚だった。

 「電柱まで立てることになって電話線の開通が遅れることになり、新居へのネット開通を楽しみにしていた気持ちがそがれたのかな?」

「新鮮な刺激をネットから得られず、ネットカフェでは作業がはかどらないことへの億劫さもあるのかな?」

 自分の中に、状況を分析するようないろんな連想すぐにいろいろ浮かんでくる。

 しかし、そのように思ってみても気分は少しも晴れない。

 相変わらず同じような調子で自分の中から訴えてくる、身体の中からの違和感があるのである。

 まるで、

 「そのようなことはとうに気がついているだろ。
  何を今更。そういうありきたりの分析はもうたくさんだ。つまらないよ」
 

 と、私の中のどこからか、私の中の「何か」が執拗に抗議し、不平不満を訴え続けるかのように。


 そこで、その、私の内側からの「その程度の理解ではもうつまらない」「『私』の心には響かない」という「ダメ出し」がどこから来ているのか、身体全体でしばらくじっくり感じなおそうとしてみた。

 しかし。

 その感じに近づこうとするとなかなかうまくいかない。その感じに注意を向けようとする私の足を引っ張るようにして、妨害しようとする、更に別の心の動きがありそうだということに気がついた。

 どこから「その」動きは生じてくるかを、感じてみた。

 何か、身体の右脇のほうからのエネルギーとして「せっかちに横槍を入れて」来るかのようであった

 ここで私は、「そっち(身体の右脇の方角)」に向けて、

「とうも、そっちの方に、そういう内側からの感じの訴えそのものにじっかり付き合うよりも、ともかく今の状態を解消したいという『焦り』みたいなものもあるみたいだね。わかったわかった。その気持ちも理解してあげないとね」


 すると、今度はおなかの底の方から反応が返って来たのである。

 何かがどっしりとお腹に居座っているような感覚である。

 しかし、それは嫌な感覚、払いのけたいような感覚ではない。

 まるでお腹に鉄の玉が入っているような重さなのだが、私が物事を「腰を据えて」じっくりとやって行ける時に繰り返し体験していた、「重心の座った」「確固たる」、ポジティブな感覚なのである。

 「この」感覚がお腹に味わえる時には、むしろ私は、足が地に着きながらも「調子がいい」時が非常に多いのである!!

 「その」感覚が、今、無理をしてでも動き始めることに徹底的に「ダメ出し」をするのである。

 まるでその感覚そのものが、

   「私は、今、心底動き出したくない」

と、一見強情なまでの圧倒的な信念で、しかしある独特の「穏やかな落ち着き」すら私に感じさせながら、私に態度で示してくるかのようなのである。

 その感覚そのものが、私に「誠意を持って」「真摯に」訴えてきていることは、全く疑いようがなかった。

 私は、このお腹の底の方からの感覚は、何かないがしろにできない大事なメッセージだと受け止めた。

 そして、一切の自己分析をやめてしまい、お腹の底からの「その」感覚のそばにたたずみ、静かに一緒にいようとしてみた。

 これは、その感覚に「没入して」しまうのとは似て異なる。まるで、言葉では何も語ってはくれないけれども、どっしりとした落ち着きを感じさせる人物のそばに座り、私の方も何も話しかけようとはしないまま、その人が眺めている風景を、共に味わうみたいな感覚である。

 それは、満ち足りて安らかに横になっている恋人や子供のそばに静かに身を横たえ、抱きつくなとのスキンシップは仕掛けないまま、共に安らぎをじっくり味わおうとするようなスタンスに似ている。

 だが、私は、その日(夜になっていた)は、そのまま眠り込んでしまった。


*****


翌朝、目が覚めた。

 昨日よりも疲れが更に取れて、すっきり目覚めたかのかのように感じたが、実際に起き上がろうとしてみると、相変わらずそれに抵抗する「鉄の玉」感覚が、お腹の底の方から、同じように生じてきた。

 そこで、私は無理して起き上がることをしないまま、

「まだそういうふうでいたいわけね。わかったわかった。それじゃ、あとしばらくつきあうよ
 
みたいな態度を、そのお腹の底からの「動かずにいたい」という鉄の玉の訴えに示しなおした。


 すると、私の中の、普段何かが思い浮かぶ時より奥の方から、


「今は無駄なことは一切したくない」


という言葉が浮かんできた。


 しばらくすると、そのお腹の「動きたくない」という漠然とした訴えそのものは急に静まり、むしろそうやって訴えを尊重してくれていることへの感謝を込めた安らぎのような感じが強まり、その感触の質は、「鉄の玉」から変化し、ある種の潤いに満ちた流動性のある生き生きとした新鮮な感覚が、おなかのそのへんをぐるぐるとめぐっているかのようなものに急激に変化した(これが、フォーカシングでいう「シフト」です)。

 それにつれて、頭の方にさっきまで相変わらずあった、まるで脳液が水になるまで希釈されたような感覚も、むしろ、おいしい飲み物を心から堪能した時のような、新鮮な潤いがあるものが懇々と泉のように頭の芯から湧き出すような感覚へと変化した。

 私が、物事に新鮮な関心を持って、浮き足立ちも焦りも感じないでじっくりと取り組める時に繰り返して体験してきたような、独特のテイストを持った「脳内に定位される感覚」である。

 それは、まるで数日ぶりに恋人と対面し、席を「共にした」時に、自分の五感に新鮮な潤いが取り戻されるのにも似た感覚と思われた。

 起き出してみても身が軽い。

 この調子なら、今日は原稿を書いても、外出しても、その身の軽さを保ったまま過ごせそうに思った。

****

 そうやって起き上がって、朝食をとるためにたまたまテレビをつけたら、オリンピックではなくて、NHKの教育テレビの教養番組が映った。

「歴史に好奇心 -江戸の色恋ものがたり-」 第1回の再放送である。

 江戸文化論で知られる、法政大学の田中優子教授がコメンテーターで、井原西鶴の「好色一代男」を取り上げている、その番組がはじまったばかりであった。

 そこで田中氏は、

江戸時代における「好色」とは、

1.「おおらかなもの」であり、
2.それは単に性にとどまらない、五感を通してのさまざまな味わいを堪能し、表現する上での、洗練されたスキル(俳句など)とセンス全般をも大事にするものであり、
3.ファッションへの敏感なセンスも求められるものである。

と解説していた。


 これに触発されて、私は、以前から時々頭裏をめぐっていたけれども、やや大胆すぎるように思われて、実際には書けないでいたテーマ、すなわち、

「その時その時の自分自身の本当の気持ちをつかんで、それを日々の活動の更なる前進に反映させられる」状態とは、実は「恋人といい関係を現実に築き、維持し、深めて行ける」ということと非常に似た性質の体験である」

ということについて、書いてみようと思ったのである。


 .....そして、今、こうして書きつつあるわけであるが。


(テレビ番組からの新しい刺激をすぐに原稿に生かすという、何とも「無駄のない」(!)対処の仕方)


******


 フォーカシングでいう、自分の内側の容易に言葉にならない漠然とした感じ、すなわちフェルトセンスは、まるで、現実の恋人と同じような、どうにもつかみようがなくなることがある相手だということ。

 自分のほんとうの気持ちに触れるとは、まるで、気難しく、ナーバスになった恋人の心を開こうとする時と同じような、こちらの思うようにはいかない、デリケートな対応を必要とするものであるということ。

 今、私が例に出した体験を、恋愛の中でよく繰り広がられがちな場面に置き換えると、次のようなシチュエーションにたとえることができるかもしれない

 自分の心身に、何か言葉にならない違和感や抵抗感のようなものがあることに気がついた時。

 それは、せっかくのデートの日に、喫茶店にたどり着いてみると、何か相手の機嫌が悪くて、口数が少ない。デートの真の目的地に向かおうと手を引っ張って誘っても、無言のままじっと座り続けている状態にもたとえられる。


「君もayu(浜崎あゆみ)のコンサート、あんなに楽しみにしていたのに、どうしたの?」

「......」

「体調イマイチ? それとも、何か嫌なことあったの?」

「ううん......」

「ひょっとして、君の機嫌損ねること、何かしたっけ?」

「ううん、別に...」

「.....あ、今日、待ち合わせの駅の出口に改札に君が10分遅れたことを、何回もあげつらって文句言うみたいないい方し過ぎてしまったかな?」

「.....そんなことは気にしてないよ....実際に私、遅刻したんだし」

「せっかくコンサートのペア券予約したのに(そのための俺の労力と投資についても考えてくれよな....」

「.......」

「まだ少し時間があるから、ちょっと君の行きたい店をぶらいついたりしてもいいけど?」

「.....そんな気分じゃない.......」

「(どうしたんだろう。何か機嫌を損ねることでもした?」

「........」

 ここで彼は、このまま問いかけ続けたら、焦りに駆られた「空振り」の連続になり、いよいよ彼女の機嫌をそこねかねないことに気がつく。


そこで、

「....ま、いいか。まだ時間あるし、しばらくここにいようか?」


とさりげなく言葉にしたまま、それ以上言葉を重ねて、自分から勝手な憶測で問いかけたり、相手の気持ちを打ち明けてもらおうとせっかちになるのをやめて、彼女の方に時々好意的な視線を向けながら、焦るふうもない様子でそばに座っていようとした。

しかし、彼自身そういうふうでいようとしても、実際には落ちついてはいられない。


この「落ち着けなさ」は何なのか?


...思わず、以前付き合っていた女性(A子)に、デートの時に、思いもよらない形で突然むくれられたのをきっかけに、うまく行きつつあった交際がいきなり破綻への道をまっさかさまに突き進んだ時の記憶がよみがえる。


(ああ、A子とはあんなことあったし、こういう場面で自分が動揺するのも無理はないか。....でも、今、目の前にいる彼女は、A子とは全然性格も違って、ずっと気持ちが通じ合うと感じてきたではないか。A子と一緒くたにしたらだめた。彼女を信頼して待っていてみよう)

 そう思い直してしばらくしてみると、不思議と、嫌な沈黙という感じはしなくなる。

 更にしばらくすると、彼女との間に漂う空気と居心地しそのものに、ある「緩み」のうなものが生じてきた気がする。

 彼女のそばに居ても、さっきまでほどの取り付く暇がないようなぴりぴりしたものが緩んで、なんとなくリラックスしてそばにいやすくなる。

 すると、彼女は、突然、

「.....ごめん、あなたとは全然関係ないことのせいでむくれてたの。もう大丈夫だから、会場に行こう!」

彼女は苦笑するような表情を浮かべて、その後は笑顔で立ち上がる。


いったい何なんだ!!

勝手に立ち直るな!!


 でもその苦笑してからの吹っ切れた表情と、その後の彼女の様子は、無理に不機嫌さを押さえ込んだのではないとだろうという手ごたえを感じさせる。

 (こちらから「どうしたの?」とまで尋ねなくてもいいか。僕と関係ないことのせいとも言ってくれたし。こちらから深入りしないままの方がいいかな?)

と一度は思おうとした。
しかし、別な思いも浮かぶ。

 (でも、こうやって、相手の気がもう済んだと僕の側が一方的に思い込みやすいのが前の彼女とうまく行かなくなるのと関係していた気がする。会場の席にすわったら、ちょっと、この更なる豹変にについて、一言言葉をかけてみるか)


******


 コンサート会場の席について落ち着いてから、

 真顔になって

 「あのさ....」

と言葉をかけるタイミングを見計らい始めると、何と、彼女の方から口を開く。

 「ごめんね。さっきまでむくれてたの、あなたのせいじゃないの。実は、昨日電話した時、親と喧嘩したばかりで、気持ちがムシャクシャしていたんだ。でも、コンサートとayuの話ばかりあなたが熱心にするから、それに話題をあわせてしまって。親とのこと忘れて、デートの話にしちゃった方が気が紛れるかなと、そのときは感じていた気がするの。
 でも、昨日電話切っちゃったら、親のことでどうにも気持ちがおさまらないままになっている自分に気がついたんだ。やっぱり、親とのゴタゴタの話に付き合って欲しかった私がいたんだって。

 だから、今日になって会ったら真っ先に打ち明けようと思ってた。でも、今朝、駅でおちあってから、またのっけからayuのライブについてのあなたのウンチク話になっちゃったじゃない。それもしかたないのは理解しているつもりだけど。

 でも、話の流れがそうなったら、あなたと一緒にいるのに、急にさびしくなってしまうのを、どうしようもなくなって。

 私なんかより熱烈なayuファンであるあなたのこと嫌いじゃないよ。だって、私、あなたみたいに熱中できるものがあったらなって、いつも思ってるし。私も私なりにayuのこと好きだし、ライブ誘ってくれることがうれしくて仕方なかったよ。

 親とのもめごととなると簡単に気持ちがおさまらないのは私の未熟なところで、私が自分で解決するしかないことだと思っているんだけど.....ごめんなさい」


 彼は答える。


「.....そうだったんだ.....ayuのこととなるとすぐに自己中で盛り上がっちゃう僕も、君への気遣いは足りないなと、今、しみじみ思ったよ。

 ....でも、親とのこと、僕と無関係な自分の問題だなんて抱え込まなくてもいいよ。
 これは親とのことに限らないかな。

 たとえ僕と関係ないことであるかに君自身に思えても、悩みやウダウダを話してもらえたら、僕は嬉しい。そのことは信じてくれていいから」

                    (この例は、あくまでフィクションです!)


******


 フォーカシングとは、本当の自分の気持ちを知るための、実に強力なスキルとなります。

 自分が「ほんとうに」そう感じているのか、心と身体ごと「芯から」それを望んでいるのか、それとも、単なる頭での判断として「そういうふうに自分が感じているのも当然ありかな」程度に「一応」受け止めているだけで、心底は納得していないのかについて、自分の中で厳密に識別し(感じ分け)、まるで次元が違うものとして実感できるようになります。

 そして、本当の自分の気持ちだとか、自分がほんとうは何をどうやりたいかということが、一度「出会って」「気づいて」しまえばいいものではなく、次から次に生じる状況の中で、自分を見つめなおすことによって、その時その時はジグザグな紆余曲折の道をだどったとしても、次第次第に、自分でも確信の持てる方向に定まってくる、まるで急傾斜の山々の尾根をそろそろと一歩一歩歩いていくような、慎重で小さなステップの積み上げの成果として形成される、自分の奥深いところとの「絆」であり、しかも、実はこれで「上がり」のゴールとか「達成」というものが存在しない、一息ついたら更に新たな問題に直面する、果てしない変化と再統合の過程ではじめて維持できる「絆」であることも痛感するようになりました。

 考えてみれば、人がほんとうにワン・ステップ成長できれば、それだけで以前には体験できなかった、新たな状況に直面し、更なる成長が必要になる伏線を自然と準備しているのです。

 恋愛でも同じですね。相手との関係が密接になればなるほど、相手に気を許すがゆえに、お互いの、最初は気づかなかった、気にならなかった面が、次第に我慢できなくなったりします。

 また、新たな外的状況にも直面していきますよね。仕事との折り合い、どうデートに誘うか。セックスに進むかどうか。一緒に過ごす時間を増やしたい。同棲もあり? 経済面や相手の家族との関係......どんどんステップが上がり、双方のあり方が問われる新たな状況に直面していく....。

 それまでのステージでは顕在化せずに済んでいた、以前からの限界が始めて露呈する場になるかもしれません。

 それは、いわば、最初は炎のような燃え上がりを見せ、人生最大の幸せと感じられるような恋に落ちても、その恋を更に発展させ、相手と生き生きした関係を続けようとなれば、いつの間にか生じざるを得ない多くの困難と危機と、お互いのコミュニケーション、相互の変化と成長の過程を耐え抜いて、ほんとうの「絆」になっていくことが多いということと、ひどく似ている気がします。

 本当の自分の気持ちに気がついて行けるということは、恋人との微妙な気持ちのズレにはじまる危機を繰り返して乗り越えていき、徐々に安定したいい関係へと深まっていく場合にも似た、果てしない自分との(相手との)コミュニケーションのなかで、はじめて継続できるプロセスなのです。

 つまり、自分自身の本当の気持ちをつかまえることは、恋する相手の本当の気持ちをつかもうとコミュニケーションする時と同じくらいに大変で、微妙で、スリリングなことではあるんです。しかし、自分の気持ちと出会えることは、恋人との心の絆をはっきり実感できた時と同じくらいに、深い満足を伴うものでもあるのです。

 自分のフェルトセンスと無理なく全く自然に共にいられる、じっくり味わい抜けるという瞬間の体験は、場合によっては、子供や恋人との最も幸せな瞬間すら超越する深い満足感があります。

 そして、自分のフェルトセンスとの非常にいい関係の時の実感を「知ってしまっている」と、一見恋人や子供と楽しくやれているかに思える瞬間でも、そうした中で「上っ面だけでも幸せを感じ、演じ続けたいがために」自分の中でもみ消してしまう、微妙な危機感や違和感、空虚感にも自分から腹を据えて冷静に直面できるようになれます。

 そして、そういう微妙な相手への違和感を丁寧に吟味して行っても、気持ちが不安定になり過ぎることなく自分の方向性を見出すことができるようになり、実際に相手との関係の中で動き出してみても、それが「やぶ蛇」になって相手との関係をむしろ悪化させて傷つけあう引き金に過ぎなくなる「勇み足」は、確実に減って行き、相手と更にオープンで深い次元で思い切ってコミュニケーションできる幸せを味わえる段階に進めるもののようにも思います。

 更にあえて言えば、自分の気持ちとじっくり対話できる人なら、もし仮に相手と別れるにしても、不要な傷つけあいが生じにくい形で、お互いに納得の行く次元までコミュニケーションをした上での、お互いにとって前向きな別れを生み出すのに役立つとすら思うのですね。

 恋愛で苦しむことは、どれだけ正直に「自分の気持ち」に直面できるかということでもあり、それができてはじめて相手への思いやりも成熟した形になっていくと感じておられる方は、少なくないのではないかと思います(^^)

 自分の気持ちが見えていない人に、相手への真の思いやりも抱けるはずがありません。


*****


 こと恋愛に限らない次元にまで拡張すれば、フォーカシングを学び、より深い次元で自分のフェルトセンスといい関係を築けるようになるということは、自分自身とのコミュニケーションを改善するのみならず、様々な次元(例えば営業の売り込みや、職場での人間関係など)で関わるいろいろな他者と、新たな次元で「いい関係」を作るスキルを高めることにもつながるのではないかと思います。

 現実の他者との関係がずっとうまく行かず、同じような不満とストレスしか感じ得ないとすれば、その人のフォーカシングのあり方は、まだ成長の余地があるということではないかと思います(自戒を込めて)。

 (人間の成長において、それまでの自分の、周囲と波風を立てないけど個人的には不幸な状態から、一度徹底的な個人主義者になり、敢えて対人関係から自覚的に身を引いてみたり、自分本位に動いてみたり、人に迷惑をかけたり、他人との揉め事がむしろ増える段階を経過することは少なくないかと思います。フォーカシングも、その人をいったんそのような方向に向かわせるかもしれない。しかし、それは、当人には、以前ほどは窮屈な生き方ではないと感じられているでしょう。

 しかし、フェルトセンスとは、いつまでも同じ次元の繰り返しでは納得せず、更に先へとその人を導こう徐々に「駄々をこね出す」ものだと思います。それは、結果的に何らかの意味で、より主体的でありながら、相互に満足がいく、しなやかな関係作り(距離のとり方を含めて)の方向に、その人をワン・ステップは進化させようという誘いに「なってしまう」ことが多いのではないかと思います。人は、ほんの数パーセント変わるだけで、周囲の反応は予想外に大きく変わり始めるものだと思いますし)


*****


 もっとも、人は、自分の深いところにある本音=フェルトセンスからのメッセージに逆らってしまったり、無視したりしたまま、物事を達成したり解決せねばならない時、いつの間にか行動してしてしまっている時はことはたくさんある気がします。やりたくもないことを、職務上、あるいは法律上どうしてもやらねばならなくなることもあるかもしれません。自分に全く責任のない状況の変化(不慮の事故や災害、犯罪に巻き込まれる等)にさらされ、傷つく時もあります。

 しかし、そうなった後で、自分の気持ちを立て直したり、相手との関係の無理のない次元での修復をしたり、もはや「共に歩む」ことは諦めて、「紛争状態」の解決に向けての生産的で具体的な話し合いをしていく上でも、フォーカシングは役立つはずと私は信じています。 


 ここでユングの言葉を引用します:


 「そもそも他人の言い分を認めてやる能力が、人間にはいかに欠けているかは、見ていて驚くほかはない。そのくせこの能力こそ、どんな人間社会にあっても欠くことができない根本条件なのである。この一般に見られるむつかしさを、自分自身と厳しく向き合おうとする人はよくよく考慮に入れておかねばならない。他人の言い分を認めないその分だけ、自分の内なる『他者』にも存在権を認めないことになるのであり、その逆もまた正しい。内なる対話の能力は、外での客観性の尺度である」


(ユング「超越機能」邦訳p,131より一部修正の上で引用。「想像する無意識」松代洋一訳 朝日出版社 1985に所収)


*****


 最後に、卑近な話ですけど、敢えて一言。

 フォーカシングを学んでいることは、自分の「身体感覚」や気持ちの微妙な変化や味わいに敏感になることです。ですから、パートナーとのセックス・ライフにおいて、より深い満足を味わえるあり方を、パートナーと一緒に、絶えず新鮮に見つけていく上でも、かなり貢献するのでないかと、私は思うのですが(^^)。

 フォーカシングとユングの「超越機能」との関係については、次の記事で詳しく紹介します。

2008/08/17

正式のネットと電話の敷設が遅れます

新たに電柱を立てることになりました。
九月初旬にずれ込む可能性もあります。

2008/08/15

私は、「フリー」のカウンセラーです。

     ※この記事は、新サイトに「開業のごあいさつ」用に掲載予定の記事です。

 こんにちは。

 このたび、故郷である福岡県の久留米市でカウンセリングルームを開業させていただきました阿世賀と申します。

 私は、生まれてから高校卒業まで、久留米で生活し、育ちました。

 大学に入ります時に、青雲の志を抱いて上京し、その後臨床心理学・心理療法学を学ぶことを志し、故・村瀬孝雄先生のご指導のもと、心理学の大学院に進みました。

 そして、20年にわたって、東京・神奈川のいくつかの大学で、大学学生相談を主な現場として、現場カウンセラーとしての研鑽を積ませていただき、最近の3年間は、鎌倉市の大船(おおふな)という土地で、「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」を開業しておりました。

 そうしたわけで、ここ30年間の生活をずっと関東で過ごし、現場臨床家としてのキャリアのすべてを九州以外で積んできたことになります。

 そうした私にとって、故郷、久留米に「移転」することは、親しみがある土地とはいえ、たいへんな決心を要することでした。


*****


 福岡は、日本の中でも、首都圏、名古屋圏、関西圏と並び、日本の心理療法・カウンセリングの領域では、古くからの歴史を持ち、著名な臨床家を輩出した、「カウンセリングの西の都」と称していい先進地域のひとつです。

(皆様、ご存知でしたか?)

 以前からおつきあいさせていただいて来た、諸先達の先生方、若く有望な臨床家もたくさんいて下さいますが、「福岡では新人」のカウンセラーとして、新たな道を切り開いていくことにいたしました。


 地域のひとりひとりの皆様のお楽に立つ「街のカウンセラー」を目指しています。


 どうかよろしくお願い申し上げます。


             (平成20年8月15日 久留米での開業に際して)


*****


●街の「よろず相談所」としての開業カウンセリング

 福岡市のごく近郊を例外にしますと、九州では、まだ、個人開業しているカウンセリングルーム(正確には、「私設心理臨床」と呼びます)というのはまだ珍しいかもしれません。

 病院や公的施設に所属しているわけでもない「フリー」のカウンセラーのもとに出向いて相談をするということが、どういうことなのか、お戸惑いになる一般の皆様も少なくないかと存じます。

 私はそれを、カウンセリング業界の「街医者」のようなもの、と位置づけています。「よろず身の上相談所」のようなものとして、お気軽においでいただきたいのです。

 よく、カウンセリングは「心の問題」を扱う、という言い方がなされます。しかし、人が生きて、生活していく中で直面する困難や悩み、行き詰まりというのは、単にご本人の「心の問題」として存在することはありえないと思います。

 例えば、身体の健康、教育環境、就職・求人・雇用状況、社会・経済情勢、地域の産業問題、法律上の問題、消費者問題、文化や娯楽や生涯教育、福祉などの市民サービスシステムとも密接に絡み合う問題として生じているものだと思います。 

 お求めがあれば、あるいは必要を感じましたら、精神科・心療内科の病院にとどまら医療機関、様々な公的機関、教育・法律・経営・債務処理・福祉等の適切な機関もご紹介したり、連携も図ってまいります。

 そうしたネットワークの要のひとつとして、地域の皆様に開かれたお手伝いができることが「街のカウンセラー」の務めだと思っておりますので、どうかお気軽にお問い合わせください。


*****


●学生相談の現場で学んだ多様な援助のためのアプローチを生かし、伝えること


 私が長年勤務しておりました、大学の学生相談という現場は、まさにそのような「よろず相談所」的な職場なんですね。

 「交際を断った相手からの携帯メールでのストーカーが止まない」という相談が来ます。
 「将来の進路に悩んでいる」という相談が来ます。

 そう思っていると、クレジットカードの返済ができなくなったという相談が来たり、実家の親が経済的危機に陥ったという相談が来ます。

 バイト先での喧嘩や、交通事故の示談の話も来ます。
 アパートの隣の部屋からの騒音にどう対処したらいいかという相談も来ます。

 実は入学式以来ほとんど登校せず、単位もとらないでいることを親に伝えられないでいるという相談も来ます。

 休学していた学生からの、学業再開についての不安の相談が来ます。

 ご家族からの相談もあれば、ご家族についての相談もあります。

 時には、職員や教員の先生から、対応に困難を感じ始めた学生についての相談が来ます。

 そうした中で、「友達ができない」とか、「人前で緊張する」なとといったものから、急いで病院を紹介する必要があるような深刻な精神の危機にある学生さんまで、訪れてくるのです。

 狭い意味でのカウンセリングや心理療法にはとても収まらない、いろんなご紹介や、危機介入、大学内部や大学外部のさまざまな機関や組織と時にはダッグを組みながら事態を解決していくための柔軟なスキルを求められるのですね。

 そうした経験が今日の私を形作ってきました。


 そうした中で積み上げてきた経験値を生かして、カウンセラーにとどまらない、様々な職種の、人の援助に携わる専門家の皆様のご相談に乗ること(ケーススーパーヴィジョンといいます)ことも、私が大事にしていることです。

******


●フォーカシングの指導者として


 さて、私のカウンセリングルームのもうひとつの柱は、「フォーカシング」と呼ばれる技法のトレーニングと、その臨床現場への応用(この場合「フォーカシング指向心理療法」といいます)についての国際資格を持つのみならず、トレーナーやセラピストのを訓練し、資格を認定する、日本で13人、世界で百数十人いる、「コーディネーター」としての資格も持っていることです。

 フォーカシングは、一般の人にも役に立つ、自分で身につけて日常の中で使うことができる心と身体のスキルです。シカゴ大学のユージン・ジェンドリン教授が開発しました。

 誰もが漠然と感じている、すぐには言葉にならない、心とも身体ともつかないモヤモヤした実感そのものに直接注意を向け、大事にして行く中で、自分自身の内面との対話を深め、その人にとっての新鮮な気づきや心身の安定を得る技法です。

 実は、この技法を、日本で一番古くから研究実践してきたのが、福岡の地なんですね。
 この技法を、一般の皆様に開かれた形でトレーニングできる常設機関はまだ日本に多くはありません。

 福岡や九州の、フォーカシングを学ぶ皆様、フォーカシングの普及を目指して研究実践してきた皆様と、新たな協力のもとにネットワークを築いていくことも、私が九州に来て楽しみにしていることです。

 通常のカウンセリングと同じように、日時が折り合いましたら、フォーカシングの個別あるいは数名前後でのトレーニングもお引き受けします。

 講師としての地方出張も喜んで引き受けさせていただきます。

 また、9月からは、久留米の私のカウンセリングルームで、月に一回、フォーカシングの学習会を開いていく予定です。

 久留米は九州各地からの交通の便がたいへんいい土地柄です(鹿児島市からですら、2時間半!!)。

 すでにフォーカシングを学んで来られた方が、新たな仲間を探す場として生かしていただければとも思います。

 フォーカシングについて何もご存じない方、本で読んだけどそれだけではよくわからない方、セミナーやワークショップに出たことがあるけれども、継続的な研修の場がなかなか見つからない皆様、どうか久留米においでください。


*******


 なお、私は、通常のご相談を申し込まれた皆様に、フォーカシングを私の方からお勧めすることはしない、というのが私の基本方針なんです。

 それは、ほかならぬ私自身が、自分自身の日常生活に普段使いで生かすことにこそ、フォーカシングのありがたみを感じている人間であり、それが当然のごとく「カウンセラーという職務」を、専門家として皆様のために遂行する上でも隠し味として隅々まで役に立つと感じている「筋金入りのフォーカサー(注)」だからです。

(注:恩師、故・村瀬孝雄が、共著「フォーカシング事始め」のまえがきで私を紹介くださる時に、使った下さった言葉です)


欝の人は、「祭りの後」に生きている(第2版)

 以前書いた、欝についての私の代表的な記事続編として、欝に陥った皆様にお会いしていて、私が、少なからぬケースにおいて特徴的だと感じられることをもうひとつ述べてみたいと思います。

 欝の人は、自分の未来を思い描く際に、「新しい未来」という方向ではなく、実はひたすら「過去の再現」を志向していることが少なくない、というお話です。


*****


 欝になりかけの頃(こうした人は、「その頃がすでになりかけだったのだ」と、後になって、すでに欝が重くなり、生活や働くことに大きな支障が出始め、医者にはっきり「欝状態」と診断されて治療が始まっ時点で、はじめて徐々に認識できることが多いのですが)、努力と根気で切り抜けられると固く信じていた人が少なくないと思います。

 もちろん、以前よりも無理を重ね、少しずつふんばりが効かなくなりつつことに心のどこかで不安を募らせ始めてもいるのですが、

 「このままではいずれもっと働けなくなる危険もある。そうなる前に何とかしないと」

という方向で、「転ばぬ先の杖」として、無理にならないように自制したり、早いうちから治療に自分から足を運ぶことは少ないのですね。

 周囲が心配しても、「大丈夫です」。

 本人も、大丈夫なつもりでいる。少なくとも、大丈夫だと強く自分に言い聞かせているものです。

 そして、更に無理を重ねた挙句、ほんとうに行き詰ったところで、はじめてそうした自分と直面するけれども、そういう自分をなかなか率直に身近な人に打ち明けない。

 そういう人は、その段階でも、全くの孤独ということはなく、普段は、友人や家族や同僚たちと、一見打ち解けた、親しい関係を維持していることも多いのです。

 しかし、肝心要の、自分の中に迫りつつある破滅への恐怖や、ものすごい焦りを、素直に周囲に告白しないままのことが多いのですね。

 そうした挙句、自分だけで抱え込んでほんとうに絶望すると、いきなり自殺を考えたり、実行してしまったりすることも少なくないことになります。

 そういう意味で、欝の深みにはまりつつある人は自分の「近未来」に「迫りくる、切迫しているはずの危機」に対しては、見かけ上、「奇妙なまでの楽観主義者」であるかのようだとも言えるのですね(あくまでも、ひとつの逆説です)。

 「大丈夫、大丈夫」と自分に暗示をかけ続け、ほんとうにエンストを起こすまでは、ひたすらパワーを上げ続ける。

 ある意味で、自分の心身の未来予測能力という点では、とても客観的とはいえない、ほとんど麻痺している状態にはまり込みがちです。


*****

 
  そもそも、多少なりとも欝の素質がある人たちが、近代社会においては多数派を占めています。

 つまり、実際に欝にならなくても、普段から

  「近い将来に起こる可能性がある大破局」

に対する危機感を抱きにくく、多少それが脳裏を掠めても、すぐにそのことを意識から排除してしまう。

 まさに、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ですね。
 
  「昨日と同じように今日があり、
   今日と同じように明日は続くだろう」

 ....という、
 まったりとした日常の繰り返しに対する、奇妙なまでの信頼感を支えに生きています。
 要するに「立ち直りが早く」て、くよくよしない。


 多少何かがうまくいかなくても、そのことがむやみと後を引くことはなく、すぐに立ち直り、

 「明日は大丈夫だろう」
 「明日には挽回できる」

という、大いなる日常への期待と信頼をもって、あまりぐらつき過ずに生きていくのです。

 これは、基本的に平穏な日々が続く限り、社会を安定して維持する上では、むしろ、小さな行き詰まりから容易にリバウンド(立ち直り)ができるという意味で、そうした人たちが多数派を占めることは、ふさわしい、適応的なあり方ということになります。

 その代わり、将来に生じうる大変化を前々から察知し、先回りして予防したり、対策を立てて実現するとう点では、アンテナが鈍い。

 そうやって先の見通しを失って、悪あがきを重ねた挙句、心身の疲労でどうにもやれなくなった現実に直面してはじめて、もはや「後の祭り」だ、単なる「建て直し」は不可能ということを、かろうじて徐々に受け入れ始めることができるともいえます。

 バブル崩壊やら、グローバル化の流れの中での、日本の政治・経済の後手後手の対応を見ていると、なるほど、「徐々に追い詰められて、従来のやり方が通用しなくなってきているのは目に見えているのに、未来に向けて先手を打つことがなかなかできない」という点で、うつ病に実際に落ちいって行く個々の人たちと同じようなことが国全体のレヴェルで進行している気もします。


******


 ある意味で、欝傾向のある人は、「建設的に未来を切り開く」というのが、苦手なんです。

 先例に倣って、社会の中で、ある段階まで十分役割を果たせる状態まで到達すると、そうやって到達した「調子のいいときの水準」を維持すること、そして、多少の波があっても、以前の「調子がいい時」の状態を「取り戻す」ことを何より目指します。

 ある年が不作でも、翌年に取り戻せばいいさ、ということですね。

 欝的な人にとっての「未来」というのは、
 得てして、

   「過去にすでに経験した、
    調子のいい時を再び回復する(維持する)

 ということでしかないのです。


 つまり「新しい未来」なるものを構想し、予測し、実現する力に乏しい。


******

 .....からだの病気を含めて、およそ病気からの「回復」というものを、「以前のように健康に戻れる」ことととらえるのは、一見当たり前のことでしょう。

 しかし、
 ことカウンセリングの領域では、
 必ずしもこうしたとらえ方はメジャーではありません。

 単なる「回復」ではなく、
 「変化」し、「成長」して行けた時に
 成果が上がったという発想の方がむしろ主流でしょう。

 単に以前に戻ることを理想とする、と発想しない。

 心理療法の先駆者、フロイト自身、さまざまな症状が治まるのには、その人の中で、まだ未成熟なままだった部分が成長し、自我に統合されるという、「それまでになかったその人の成長」が生じた時だということを発見したわけです。 


*****


 ところが、この点で、「うつ病的」な人、そして、いろいろなストレスが身体の素質的に弱い部分に噴き出した「心身症」傾向の強い人は、「新しい自分に成長する」というイメージをリアルに描けない場合も少なくないのですね。

(ある観点からすると、うつ病とは、ストレスが、もっぱら中枢神経(脳や神経系)に「身体症状」が出た心身症のようなものともいえます)

 「以前と同じように働けるようになれば」

 あるいは

 「今回は欝に陥ったが、
  回復したら、
  今度は同じように頑張っても『欝(心身症)』にならない
  より強い人間に成長したい」

と、更に「超人化」することを期待することが多い。


 つまり、

 「病気になるまでの過去の自分のあり方そのものは全肯定」

という点ではすごく頑固な方が少なくない気がします。


  「これを機会に新たな人生へと進んでください」


などといわれても、内心では、


 「ごもっとも。でもちょっときれいごとの言い方だな」


と感じておられることも少なくないかと思います(^^)


 「変化しろ??? あのさあ、これまでの自分の人生を否定して生まれ変われっていうの?、何とも偉そうなご宣託だね」

 控えめな方でも、

 「そんなこと言われたって、これまでやってきた生き方(働き方)以外に、私がどうやって生きて行けるしょう? もう青年時代に戻れるわけではないし、今更やり直せといわれても無理だよ」

......このへんが本音でしょう。

 これは、実は「欝をきっかけに新たな人生の再出発」みたいな言葉をカウンセラーや精神科医から安易に投げつけられた皆様の、実は当然のお気持ちではないかと、今の私は思うようになりました。

 以前の記事でも書きましたが、自分の生き方の変化や心の変化を、他人に押し付けられることに反発するというのは、ある意味で健康な心情だ、という前提に、われわれカウンセラーも、謙虚に立ち返らなければならない気がします。


*****


 そうした一方で、世の中には、(比較的少数派ですが)、これまでの自分、今の自分に耐えられないことにこそ悩んでいる皆様もたくさんおられるでしょう。

 別な自分、理想の自分に成長することこそが目標、でも、それをうまくやれないことに悩んでいる皆様です。

 こうした人たちは、これからの自分に不安を感じたり、このままの自分では駄目になるという予感を、むしろ強烈に実感しています。その意味では、欝傾向の人とは正反対に、「未来」に本当の自分はあると感じる傾向が強いわけですね。

 自分は、まだ人生の真の「祭り」に到達していない、いつまでたっても「祭りの前」にしかいられないと感じているわけです。

 そして、自分の人生にも「祭り」の時が訪れるかどうか、という無力感と焦りの中でこそ「落ちこむ」わけです。

 これは、いわゆる欝傾向の典型の人の陥る「うつ状態」と、(似た面もありますけど)かなり違った性質のものでもあります。

 恐らく、未来への「焦り」と不安が空回りして、不器用な形で挑戦しては失敗を繰り返してみたり、本当に現実に可能な自分を変えていくやり方を地道に、あるいは、自分に可能なペースをつかんで腰をすえてしぶとく経験値を上げることができないのでしょう。

 .....しかし。

 実はこうした皆様の中にも、実はその、つらいはずの現状を変えていくことへの、単なる変化への不安にとどまらない、「今のままでいたい」という心情、それどころか「あの日に帰りたい」という思いが隠れていることも少なくない気がします。


******


 さて、あなたは、もっぱら「以前のように順調に」と願う「祭りの後」形人間でしょうか?

 それとも、もっぱら「自分の未来にこそ希望を賭けつつも実現できないまま」であることに苦しんでいる「祭りの前」人間でしょうか?

 それとも、「いや、私の中には両方の面があるな」とお感じでしょうか?


 皆様が、自分の悩みの性質、特に、一見「落ち込んだ」状態、欝っぽいかに感じられる状態がどんな性質ものかを見つめなおしてご覧になる上で、ささやかなヒントになれば幸いです。

【追記】:この、「祭りの前」「祭りの後」というのは、精神科医の木村敏先生が提唱されたもので、木村先生の後輩にあたる中井久夫先生の著作にもずいぶん出てきます。それを参考に、私なりにかみ砕いて書いてみたつもりです。


2008/08/13

「カウンセリング」?「心理療法」?「セラピー」?「ヒーリング」?

 「カウンセリング」という言葉は、今日、社会の中でいろんなジャンルにわたって流通しています。

 その一方、次のような言葉もありますよね。

A.心理療法
B.精神療法
C.サイコセラピー
D.セラピー
E.精神医療
F.精神分析
G.ヒーリング(癒し)


 .....これらの言葉の関係を整理してみましょう。


******

●「心理(精神)療法」(サイコセラピー)とは、専門家の言うとおりに受身に従うだけでは効果をあげないはず。

 「心理療法」と聞くと、


「心の病気や症状を抱えた人が、専門家によって心の治療を受けること」


というイメージが強いかと思います。


 しかし、どのような流派や手法のセラピーでも、セラピーを体験するとは、単にセラピスト(カウンセラー)に言われるままに受身に従っていくということではありません。

 およそ、流派に関係なく、相談に来た人(クライエントさん)からの反応や感じ方をカウンセラーが敏感に受け止め、面接や心理療法のその後の展開に臨機応変に役立てていかない心理療法やカウンセリングなど存在しないはずと私は考えます。

 心理療法やカウンセリングとは、相談においでの一般の皆様と、専門家としてのカウンセラーとの「共同作業」の中で、初めて真価を発揮するものです。

 そういう共同作業をうまく進めるために、相談においでの方からの、時として予想もしない反応を汲み取り、柔軟に生かすための技量こそ、カウンセラー(セラピスト)の「専門家としての能力」を決定づけるものであると私は考えます。


 ですから、(私のカウンセリングルームに限らず)カウンセラーに相談に来られる皆様、カウンセリングの進みかたやカウンセラーの言うことに違和感を感じたら、どうか遠慮なさることなく、できればその回の面接が終わる前に、カウンセラーに伝えてください。

 そうした際に、誠意をもって受け止め、むしろカウンセリングの進展に役立てようとする姿勢を柔軟にとれるのが、流派に関係なく、いいカウンセラーだと私は思います。


******


●カウンセリング=心理(精神)療法

 日本においては、戦後早い段階で紹介されたカール・ロジャーズの来談者中心療法の大きな影響もあり、

「カウンセリング」=「サイコセラピー」=「心理療法」

という共通理解が専門家の間ではほぼ定着していると思います。


つまり、


 (心理)カウンセラー=サイコセラピスト(あるいは単に「セラピスト」)=心理療法家


とみなしていただいてかまいません。


 どうも一般の皆様の中には、


「カウンセリング=具体的な事柄について解決するための軽い相談」


誤解されている場合も少なくない気がしますので。

※このサイトの記事でも、「カウンセリング」と「心理療法」という言葉を同じ意味に使いますし、心理療法の専門家(セラピスト)全般を指す意味で「カウンセラー」という言葉を使います。
 


*****


●心理療法=精神療法=サイコセラピー


 実は"psychotherapy"という英語の日本語訳が「心理療法」あるいは「精神療法」であるに過ぎません。

 訳しかたの違いに過ぎず、全く同じ意味なんですね(^^)

 どちらか深いもの、あるいは本格的なものというわけでもありません。

 では、こうした訳語の違いが生まれたかといいますと、日本では、精神科医・心療内科医など、医療関係者は「精神療法」と訳する伝統が生じ、臨床心理士など、医師資格を持たないカウンセリング専門家は「心理療法」と訳するという、暗黙の合意が、専門家の間でいつの間にか長年のうちに生じたということ。それだけです。

 もっとも、現在、現実には、精神科医が「心理療法」という言葉を使ったり、臨床心理士などの心理カウンセリング専門家が「精神療法」という言葉を使うことも現在では普通です。


※臨床心理士である私は、このサイトの中では、「心理療法」という訳語に今後統一します。すでに述べましたように、「カウンセリング」という言葉を使った場合でも「心理療法全般」という意味と区別していないのですが。


*****

●「セラピー」と「心理療法」(=「サイコセラピー」)との関係


 セラピー"therapy"という言葉には、単に「治療(法)」という意味しかありません。医師やカウンセラーの行なう「専門的」治療法にとどまりません。心に限らず、もっぱら身体を治療する技法全般も含まれます。

 例えば、「温泉」だって十分にセラピーだし、都市を離れ、自然に包まれた環境で静養したり散策することだってセラピー、何を食べるかに注意を払うことや、音楽や絵画を解消することセラピー、スポーツ・運動すらセラピーといえる場合があることになりますね。

 敢えて申し上げると、薬物「療法」ですらセラピーともいえます。

 しかし、今日、日本に限らず、世界的に見ても、身体の治療や健康増進のみを目的とするのでなければ、カウンセリングや心理療法、ヨガや瞑想などを含めたすべての技法を「セラピー」と呼ぶことが増えているように思います。

 ヨガや瞑想に関心を持ち、真剣に深く極めている臨床心理士もたくさんいます。

 しかし、単に「セラピー」といった場合にも、もっぱら臨床心理士などの資格ある専門家が行なう、狭義の、学術的とされる「心理(精神)療法」やカウンセリングを指す場合も多く、「心理療法(サイコセラピー)」との厳密な区別はなくなっているようにおもいます。


*****


●スピリチュアルな次元での悩み


 私はそうした東洋的修行の体験はありませんが、いわゆる「スピリチュアル」な次元についてのご相談にも、信じる宗教・宗派に関係なく誠意を持って応じています。

 欧米では、「私は教会の行事やお祈りは熱心にささげて来ましたが、実は神の存在を本当に確信したことがないことで悩んでいます」というような相談はありふれているとのことですし。

(メアリー・ヒンターコフ著「スピリチュアリティとフォーカシング」による)

*****


●「ヒーリング」という言葉


 さて、最近は「ヒーリング」(癒し)という言葉が流行しています。

 「ヒーリング」という言葉は、実はそれを用いる人、聴く人によって全く異なる次元で理解されている気がします。

 「苦しい修行や内面を見つめ抜くことをしなくても、受身に体験するだけで心身が癒されること」

と理解している人がいる一方、正反対の極には、

 「通常の心理療法やセラピーは、個々の症状や問題を解決するという次元にしか届かない。<たましい>の救済、スピリチュアル(霊的・超越的)な次元での<癒し>は、時として苦しい修行を重ねて、やっとたどり着ける」

と理解している人もあるように思います。

 そして、どちらに理解するにしても、そうした癒しを求め続けて、たどり着けなくて悩んでいる人、「そういう癒しは現実逃避に過ぎない」と批判的にとらえて、家族や知り合いを批判しながらも、対処に困っている人もいれば、そうした疑いに自分の中で苦しんでいる人もいるかと思います。

 私は、「ヒーリング」の正しい理解と何かを判断する立場に自分があるとは思いません。

 しかし、こうした様々な次元での理解と困惑を背景としてのひとりひとりの皆様のご相談にお応えしていくのが務めだと考え、実践しているつもりです。

***

●狭い意味での「心理療法」


 「心理療法(=精神療法=サイコセラピー)」という言葉は、


カウンセラーとクライエント(相談においでの皆様)の間で、
1対1で行なう、
主として言葉のやりとりを通してなされる技法


.....を指すことがあります。


 こうした場合、「心理療法ではないもの」として、次のようなものと比較して使われているのですね。


* 観点a:「薬物療法」 との区別

 .....別の項で述べますように、心身の「診察」をして、法律的効力のある「診断」を行うこと、そして「薬物」を処方する権限は医師にしかありません。

 また、精神科医・心療内科医でも、カウンセリングや心理療法に熟達し、研修を重ねたた人はいます。そういうお医者さん行なう、薬物療法以外の診療活動全般を「心理療法(精神療法」と呼ぶこともあります。

 もっとも、お医者さんの少なからぬ場合、お医者さん自身が、得てして30分から10分程度、ともかく患者さんの話をきくことをしていれば「精神療法(心理療法)」と呼ぶことも少なくありません。

 時間が短いからといって、1時間かけた臨床心理士のカウンセリングよりも価値が低いとは限りません。 

 実力のあるお医者さんは、1回ごとは短時間であっても、密度の高いやり取りを続けるすることによって、十分に「治療的」で、クライエントさんの役に立つやりとりをするだけのセンスを磨いていますので。

* 観点b:「言語のやりとり」以外も重視する療法との区別


 例えば、

「行動療法」(内面の洞察よりも問題行動そのものをなくすことを重視する療法)
「表現療法(=芸術療法)」=絵画療法・箱庭療法・音楽療法・身体を動かす療法など

と区別するために「心理療法」という言葉を使う場合があります。

 最近は、誤解を避けるために「対話的」心理療法という言い方もよく使われるようになりましたが。

 もっとも、行動療法や箱庭療法でも、多くの場合、カウンセラーとクライエントさんとの言葉のやりとりは、時々はなされていることが少なくないわけです。

 一方、主として言葉のやりとりを中心とするかに見える心理療法でも、クライエントさんの表情の変化や、実際には言葉に出して言えないでいる思いがあるのではないかことを大事にしない心理療法はありえない気がします。

 そうした際にどのように対処していくかも、そうしたセラピーの効果に大きく影響します。

 あるいは、主として言葉による対話によるやり取りを中心としてやり取りを進めていても、そうした中で、絵や図に書いてみることをクライエントさんに提案したり、カウンセラーの側から絵や図を描いてみたり、クライエントさんが自分で書いてきた、あるいは持ってきた詩や俳句や絵や漫画や音楽をネタにしたコミュニケーションを柔軟にしていくカウンセラーさんも多いと思います。私もそうした立場です。

 ですから、行動療法や表現療法を含めて「心理療法」という言い方をするのでかまわないと私は思っています。


******


●「精神分析」という言葉

 
 一般の皆様の中には、カウンセリングや心理療法に当たる専門家とのやり取りのことを「精神分析」と呼び、精神科医による薬物治療によらない治療法全般を指すつもりで理解されておられる方も少なくありません。

 「精神分析を受けたいのですが」と相談申し込みをされた時、どんな流派に属するカウンセラーであっても、安易に「ここでは精神分析はやっていません」と口にしてしまうと、それだけで不必要な誤解の火種をまくことになる気がします。

 一般のクライエントさんに,

「精神分析とは、フロイトの創始した心理療法のことで、厳密に言えば寝椅子に横たわっての自由連想をしていくことを基本とする。厳密には、フロイトから離反したアドラーの療法は「個人心理学」と呼ばれ、ユングの「分析心理学」を精神分析の一流派と位置づけることにも問題がある。その後、精神分析は、アメリカを中心とした「自我心理学派」、メラニークライン正統の「クライン派」、両者を仲介する立場にある「対象関係学派」に別れている.....」

......などと講釈することには、決してクライエントさんの求めに答えることではないはず(^^;)


 ますは、その人がイメージし、期待している「精神分析」とはどのようなものかをじっくり聞いてみることがまずは大事かと思います。

 フロイトが始めたように、ほんとうに、寝椅子に横になって自由連想をすることを期待されている場合もあるでしょう。

 むしろ、ユング派の夢分析に近いことを期待されている場合もあります。

 しかし、実は手法なんか役に立つ限り、広い意味での「カウンセリング」を受ける中で悩みや症状が解決していくならそれでいい、薬物療法にだけは不安がある、という人もあるかもしれません。

 薬物療法でもOKだという人すらいるでしょう(^^)


******


●たいていのカウンセラーは実は特定の「心理療法流派」に所属し、その技法にのみ忠誠を誓っているわけではない。


流派の違いというものはカウンセリングの効果の違いに結びつかないことが多い。

(未完)

「私はカウンセリングを受けに行っていいのでしょうか?」


 いきなり、少し奇妙に見えるタイトルのつけ方をさせていただきました。

 普通なら、


「カウンセリングはほんとうに私の役に立ちますか?」


だとか、


「私はカウンセリングに向いていますか?」


というタイトルにしそうなところで、このようなタイトルに敢えてしてみたのです。


 ・・・・といいますのは、皆様の中に、カウンセリングを受ける、ということに、いろいろな情報や既成概念から生じる「しり込み」があるのではないかと感じたからです。


例えば、


「カウンセリングを受ける人は、『心の病気』にかかっていないとならない」

「カウンセリングを受けるには、具体的で、『深刻な悩み』を持っていなければならない」


.....というふうに思われている皆さんは少なくないのではありませんか?

******

 更に、思いつくままに例を挙げてみましょうか:


「純粋に経済的な問題(クレジットカードの支払いができなくなった)や、法律が絡みそうな問題(「アダルトサイトにアクセスしたら、高額の料金を請求された」の域から、「離婚」や「遺産相続」に関係することなどを含む)を、心理カウンセラーに相談するのは筋違いでしょ?」

「自分の学校(勤務先)にカウンセリングルームがあり、週〇回カウンセラーがいるのに、そこに通う勇気が出なくてここに来ました」

「カウンセラーは、話をじっくりときいてくれるのが仕事で、結局は、私自身が解決への答えを見つけないとならないのですよね?」

「家族や身近な友人や上司や恋人同僚に相談できないこと自体が問題で、カウンセリングを受けるしかできないというのは、それだけで恥ずかしいことと思えて」

「私は、これまで、精神科医や他のカウンセリング機関でけむたがられ、厄介者扱いされてきた気がします。こんな私でも引き受けてくださいますか?」

「これまでのカウンセラー(精神科医)に不満を持っているのですが、まだ止めてしまう決心がつきません。とりあえず『セカンド・オピニオン』をうかがうために来談する...なんて、ズルいやり方ですか?」

「私、ある歌手が本人のブログで、私のファンレターを意識しながら記事を書いている気がしてならなくて。これを友たちに話すと、『妄想も程々にしたら?』と言われてしまって。私って『精神病』なんですか?」

「私は今この問題が解決したら十分と感じていて、私自身が人間として変化したり成長する必要はないと感じているんですけど」

「私の住んでいる地域に便利な精神科医やカウンセラーを紹介して欲しいためにだけ、相談するなんて非礼なことですよね?」

「うちの子供は引きこもったままで、決して自分からはカウンセリングに出向こうとはしないみたいです。問題の当事者がカウンセリングに出向かないようでは何の解決にも結びつかないですよね?」

「カウンセラーって、カウンセリングの勉強は十分なさってきたでしょうけど、世間のことはよくご存じないと思うので、相談しても失望するだけではないかという不安も消えなくて....」

「私は、カウンセラーや精神科医の前でも言いたいことがいえないんです。そのことであとでムシャクシャして、感情的になり、カウンセリングや医療が長続きしたことっがないんです。先生のカウンセリングを受けても結局そうなっちゃうかもしれない。それが悩みなんですけど」

「熊本県の八代から、先生のカウンセリングに月一回だけ通おうなんていうの、無理ですよね?」

「実は、私の友人がカウンセリングに行こうかどうか迷っているのでそのことについて相談に乗っているんですけど、私は自分が体験したものでないと信じない主義です。だから、ともかくカウンセラーというものに会ってみたいので申し込んでみただけなんです。その子は別に先生のカウンセリングを受けたいといっているわけでもないのですがが、いいですか?」

「要するに私は愚痴の聞き手が欲しいだけです。自分から問題を解決しようという意欲なんてない、根性なしですから。だから、私をいい方向に改善しようなどとはしない、という条件でカウンセリングを引き受けて下さいますか?」

「この世の中には、私よりもっと苦しんでいる人、がんばっている人がたくさんいると思います。私は自分に甘えているだけです。こんな私にはカウンセリングを受ける資格などなく、ほんとうに悩んでいる人たちからの相談に、先生の時間を使っていただくのが筋だと思います」

「私の仕事は、毎週休める日が変わる勤務体制です。突然休日が変わることもあります。これでは『定期的に』通うことなんてできないなと思っているのですが」

「私は、何が何でも『認知行動療法』のセラピーを受けたいんです。でも、先生は『フォーカシング』がご専門ですよね....」

「私は会社の人事課長なんですけど、いつの間にかいろんな職員の悩み相談担当みたいな役割を背負わされて困っています。そういう際に役立つアドバイスを伺いたいのですが....」

「私自身が教師(看護士、医師、僧侶、警察官、社長、カウンセラー!)なんです。むしろ人の相談に乗り、人を支え、指導しなければならない立場です。こんな私がカウンセリングを受けることなど許されないことのような気がします」

「職場や家族に黙ったまま、その人についてよそでベラベラ相談するなんて、よくないんではないかと......」

「ともかく私の見たすごい夢について、一度、心理の専門家である先生に解説してもらいたいだけなんですけど、友人に『そんな占い師みたいな扱い、プロの心理の先生に失礼だよ』と言われてしまって...」

「この年になって、実は童貞なんです。こんなこと、カウンセラーさんに相談してもどうにもならないでしょ」

「私はクリスチャンですが、自分の信仰に疑問を持っています。こういうことを相談されてもお困りですよね?」

「カウンセラーを『金で買う』なんて、精神的な売春婦(ホスト)に金を払うようなものという気がする」

「カウンセリングって、何十回も、定期的に通い続けないとならないものなんでしょ?」
「私、カウンセラーになりたいんです!! ....なんていう動機で相談するなんて、ありですか? 」

「心の問題を見つめるなんてやりたくない。私の症状はストレスから来ている面が大きいと感じていますけど、症状だけ軽くなることを目指す、なんて不謹慎ですかね?」

「カウンセリングに通い続けていたら、最後にはそのカウンセラーの流派のカウンセラーになるように勧誘されるかもしれないと不安なんです」

.....以上の例の中には、


「うん、うん、自分もそうしたことを気にしたことがある」


というお感じの例もあるかもしれませんが、

その一方、


「そんなことを気にする人もあるの?」


とお感じの例も多いかもしれません(^^)


私は感じます:

「そういう不安をお持ちの方こそ、気軽にお問い合わせいただきたいなあ」

....と。

心に効く薬と「眼鏡」のように付き合うサイボーグ(第3版)

 さて、薬物療法に対する不安というのにはいくつかの次元がある気がします

1.自分の感情や意識を、薬の力で別次元のものに「変えられて」しまうという不安
2.身体的・精神的副作用への不安
3.仮に薬で心身のいいバランスが得られたとしても、薬を飲まなかったらそうは行かないのだから、薬をやめられるまでの自分はほんとうには健康だといえないのだという思い。


 私自身、以前、「適応障害」という診断を受け、欝を体験していますし、投薬治療も受けています。

 実は今もデパケンを飲み続けていたりするのですが。あと、デジレルも毎日2錠ほど。

 私は幸い、副作用に苦しんだということは、ある特定の時期を除き、ほとんどありません。

 薬というものを、自分の無理が利かなくしてくれるもの、休息をじっくりとらせてくれるための大事な「サポーター」、「相棒」だと思っています。

 飲んでから30分後には自分の心身に徐々に生じはじめる、心身の微妙な変化そのものと対話しながら日々を送ってきたつもりです。


*****


 副作用に苦しんでいる皆様に、そういう、薬と「仲良しになれた」人間のいい気な言い草と非難されるてしまうのを覚悟で、敢えて次のことを書いてみたくなりました。


 例えば、慢性の生活習慣病や心臓病で薬をもらっている人は、薬を自分が全く飲まないで済む状態が来ることをあまり期待しないだろうと思います。

 私は、薬があって、以前ほどの無理はできないかもしれないけど、薬の力を借りれば自分のおおかれた状況の中でまずまず力を発揮できるとしたら、それはそれで「サイボーグ」として、多少の不自由さを感じながらも生きていくのでいいのではないかと思っています。

 ある意味では、「眼鏡をかけて」生きることや、緑内障の治療のために人工水晶体入れてしまうことは、すでに自分の身体を「サイボーグ」化する第一歩とも言えるかと思います。

 なお、ここでいう「サイボーグ」とは、通常の人間には不可能な超人になること、という意味では使っていません。生身の身体機能の一部を人工的なものによって置き換えたり、補完したりしている存在、というぐらいの意味です(wikipedia参照)。

 すでにかなりの昔から、人類におけるサイボーグ化の普及は、義足や眼鏡という形ですでにかなりの水準で進行しているという見方もできるかと思います。それなら、向精神薬ですらそのような「人工的な補助ツール」にたとえてもいいのではないかという、拡張した発想に立ってみたのです。

 そのような意味で「サイボーグ」化してしか生活を送れないことを、完璧に健康ではないとは誰も思わないでしょう?


+++++

 
 私は、薬を飲まなくなれた時にはじめて健康に戻れたのだとは思わないように生きていこうと思っています。

 ひょっとしたら、数年後には、もともとコレステロールの多い、脳梗塞と心疾患で亡くなる親類ばかりの家系ですから、血管のための薬を何か飲み始めているかもしれないですしね(^^)


 このことを、私は、こと「心に効く」とされる薬となると、とたんに偏見の塊となることが少なくない、一般の皆様に向けて書いているつもりです。


 果たして、「昔のように戻れる」ことが健康なのか?

 私は、欝になるなる前のほうが、よほど不健康な、今の私から見たら未熟そのものの生き方をしていた気がしてなりませんが。

2008/08/12

「症状」ではなく「...する能力」としてとらてみたら?

 これは、日本を代表する独自の精神分析技法の大家、神田橋條治先生〈鹿児島県在住)が唱えた、有名な「逆説」です。

神田橋先生がこのことを真っ先に言われたのは、

「自閉」という症状についてです。

自閉する「能力」があると読み替えた見たら?

その人は「自閉」する力があったからこそ、もっとひどい状態に陥らずに済んだのではないか。


神田橋先生の高弟のひとりである、増井武士先生も、これを発達障害としての『自閉症』にも適用して、次のような逸話を著作に残しています。

(引用)

高機能自閉症の人が、鈍感なのではなく、むしろ、外界からの刺激を独特な形で過敏に受け止めるように生まれついているのでそうなるという側面があるとことは、発達臨床に関わる皆様なら周知のことでしょう。

増井先生のもうひとつの逆説的名言は、不登校の若者たちは「登校意欲過剰症」なのだ、というものです。


*****


 神田橋先生に戻りますと、例えば、

「欝になる能力」
「妄想する能力」
「人格を解離する能力」
「黙り込む能力」
「多動する能力」


などというとらえ方も可能となりますね。


 この「能力」シリーズでは、統合失調症の人は「拒否能力」が低いという言い方が臨床家にはよく知られています。「拒否する能力」を発揮できるようになれば、統合失調症のひとは安定してくる、ということでもあるのですね。

 いわゆる「境界例水準」の人って、単に不安定なのではなくて、「相手の期待にふさわしい自分」にいつに間にかすり替われてしまうという「能力」が過剰なので、その場面を離れると、一気に自制が効かないリバウンドが起こりやすい、と説明することもできます。

 これは、境界例的な人や統合失調症的な人に限らないことです。

 カウンセラーの言うことに「いえ、そうではなくて」....と差し挟めないクライエントさんは、それが言える人よりも深刻な状態にある可能性がある、という逆説的示唆ともいえます。

 実はカウンセラーの言うことに何らかの抗弁を「してくれる」だけで感謝したくなる、みたいな心境でいつも話を聴いていると、カウンセリング場面で、クライエントさんが突然感情的・攻撃的になったりしてカウンセラーが振り回されるような混乱場面が(意外でしょうが)むしろ最初から生じにくくなる、というのが私のカウンセラーとしての経験です。


****

 この「・・・する能力」という発想は、田島誠一先生(福岡県在住)にも受け継がれて発展し、クライエントさんの「注文をつける能力」「工夫する能力」という、現場臨床的に見て凄く役に立つ概念にまで展開されることになります。

 私の現場臨床経験でも、クライエントさんにこうした能力が発露される場合には、カウンセリングが効果的に役立っていることを、クライエントさん自身が生活の中での手ごたえとして実感していく展開になることが多い気がします。


*******


 フォーカシングのトレーニングの中でもしみじみと実感しますね。
 私の提案に、必死でそのまま取り組み、それができないことに罪悪感のようなものを抱くうちは、まだまだです。

 私の提案を「気に入ったら使えるアイデア」ぐらいに活用し、私が言ったことは聞き流して、自分のプロセスに熱中したり、私が思いもよらないやり方をむしろ私の方に提案して、目の前で勝手にやりはじめるくらいの人こそ、すでに、トレーナーの私よりも自分自身のフェルトセンスに従う、自律的なフォーカサーに育ちつつあるのです。

「一緒に考えて行きましょう」.....(第3版)

●カウンセラーと来談された方の「共同作業」とは何か

 誰が悪いのかを言い当てて
 どうすればいいかを書き立てて
 評論家やカウンセラーが米を買う
 迷える子羊たちは彼らほど賢いものはいないと思う
 あとをついて行けば何とかなると思う
 見えることとできることは別物だと米を買う

 これは、若き日の中島みゆきの傑作アルバム、「寒水魚」に収録された「時刻表」という歌です。

 かなり皮肉っぽい脈絡で「カウンセラー」が引き合いに出されています。

 もし、カウンセラーというものが、社会の大多数の人から、クライエントさん(カウンセリングに来られた一般の皆様)から悩み相談を受ければ、答え一発、適切なアドバイスをしてくれて、それに従っていれば問題や悩みは見事解決、というふうな存在として、すでに信頼されて来ていたとすれば、カウンセラーは、とうの昔に、弁護士以上に人気が集まり、収入も多い、専門職の筆頭になっていたことでしょうね。

*****

 でも、だからといって、カウンセリングをはじめるにあたって、カウンセラーの方から、

「カウンセリングとはそのようなではありません」

とか、

「あなた自身が答えを見つけていくお手伝いをするのです」

「本当の答えはあなた自身の中に眠っているのです」

などと前もって解説してしまうことに、私は大きな違和感があります。

 やっぱり、どこか、クライエントさんの機先を制して、過剰な期待を抱かないように前もって警告することで、カウンセラーが「自己防衛」しているかのような漠然とした居心地悪さを、カウンセラーである私自身が感じてしまって。

*****

 一見これと似ていますが、
 カウンセリングを始める時に、

「これから、時間をかけて、一緒に考えて行きましょう」

という言い方を添えることもよくなされています。

 私は、この言い方の方がまだしもいいかなとは感じています(^^)

 しかし、そもそも「一緒に考えていく」とはどういうことなのかについて、そのカウンセラーに明快なビジョンがあるのでしょうか?

 少なくとも、一般の人同士が「お互いに知恵を絞って解決策を探す」ということを超えた、カウンセラー側の専門性を生かした「何か」をも意味するはずです。

 このことについての、私なりのとらえ方をこれから述べてみたいと思います。

*****

●カウンセラー側の「思い込み」が少しずつ壊されていくことが、好ましいカウンセリングの必要条件

 カウンセラーにとって重要なのは、学んだ知識とそれまでの様々な現場でのカウンセリング体験に基づき、クライエントさんのや、やり取りの中での反応に基づき、そのクライエントさんについての的確な「見立て」を立てて、「仮説」を刻々と形成していく能力と、その後の展開に即してそうした一度立てた「仮説」を刻々と「修正」し、それに応じて更にクライエントさんへの対応を調整していく能力だと思います。

 仮説を立てる際には、カウンセラーは知識と過去の経験を総動員して、クライエントさんをある「タイプ」に類型化し、シミュレーションしようとします。

 そうした仮説を「修正する」とは何か? それは、カウンセラーが、そうしたいったん立てた仮説と「矛盾する」とも感じられることをクライエントさんの反応や発言から敏感に感受し、拾い上げるということです。

 これは、カウンセラー自身が、それまでの、クライエントさんについての自分自身のそれまでの「思い込み」「錯覚」から目覚める(「脱錯覚」する)ことを自分に許すことができるかどうかというセンスです。

 つまり、クライエントさんの反応が、カウンセラーの予想を裏切る「意外な」方向に向かうという刺激がある程度ないと、カウンセラーは「その」クライエントさん固有の状況や心理に更に迫ることはできない。

 素朴な例を出しましょう。

 名門とされる中高一貫女子校、エリートを輩出し、洗練された人間が多いという大学に入学し、しかも在学中に1年間の留学経験もして外資系企業に勤務した女性がいたとします。見た目も話しぶりも「いいところのお穣さん」ふう。こうなると、カウンセラーといえども、「彼女は裕福な中流以上の家の恵まれた環境で育った」という方向に思い込みやすいわけですね。

 ところが、その彼女が、かなり田舎の酒屋の娘であり、父母ともに際立った高学歴でもなく、酒屋の経営は不安定だった、などということも話し出したら、カウンセラーといえども一瞬戸惑うのが自然でしょう?

 カウンセラー自身がいつの間にか思い描いていた「幻想」=クライエントさんについての「思い込み」が大いに揺るがされるわけですね。

 こうした「理解を超えた矛盾した事実」に直面したときに、冷静さを失わず、むしろ彼女の真実に更に迫れるチャンスを得たことに感謝すらしながら、こうした見かけ上の「矛盾」を大事に抱えながら面接を続け、適切なやり取りを重ねる中で、そうした「矛盾」に適切な「補助線」を引いてくれる事柄をクライエントさんから自然に引き出せるやり取りができてこそ、カウンセラーの専門性なんですね。

 そして、こうしたやり取りの中で、クライエントさん自身の自己理解が深まり、その結果、更に、クライエントさんにも思いもよらないことが思い出され、語られたりして、それがまたもや、カウンセラーに、自明の前提として立てていた仮説の何らかの見直しの必要を感じさせる.....といったジグザグの相互作用が進んでいくのが、クライエントさんにとっても、カウンセラーにとっても好ましい、カウンセリングの展開だと思います。

 こうして、いわば正-反-合の「弁証法的な」相互作用が進んでいくということが、カウンセリングがカウンセラーとクライエントさんの「共同作業」の本質だと私が考えているものなのです。

 敢えて言うと、カウンセラーの「予想を覆す」ことをクライエントさんが語るということが、ある程度以上頻繁に生じてこない面接過程というのは、むしろ何かおかしな状態に面接全体がはまり込みつつある可能性が高いと思います。

 あるいは、カウンセラー側の「思い込み」に反することを、クライエントさんが何も言葉にできなくなっているのかもしれない。

 例えば、カウンセラーの方が、自分の仮説で引っ張り過ぎているために、カウンセラーの仮説を補強する方向の話題しか拾い上げられず、そうでなければ、クライエントさんが自然と語りだしたかもしれない方向にわだいがそもそも向かわなくなっているのかもしれません。

 あるいは、クライエントさんの語ったさりげない言葉の中に含まれている含蓄に気がつかないままでいたり、同じ「ええ、そうですね...」といった応答の声の調子に含まれる、「一応そうとはいえるけど、それだけではない」だとか、微妙な違和感のトーンを拾いきれないままになっている場合も考えられます。

 クライエントさんは、カウンセラーを「先生」と思っていることが少なくないので、一応うなづいて、そのまま受け入れてみようとすることも少なくないであろうことも配慮せねばなりません。カウンセラーの語ることを修正したり、否定したり、話題を転じることだけでも、クライエントさんにとってはなかなか勇気がいったり、タイミングがつかめないものです。

 ことに、カウンセラーの指摘が、そのクライエントさんが普段から思い悩んだり、「そこを衝(つ)かれたら痛い」と感じている点だったりしたら、なおさらのことです。

 仮に、クライエントさんが否定的にのみとらえすぎている点を、さりげなく評価する発言だったとしても、その段階のクライエントさんが受け入れるには、まだ早すぎるという場合もあるでしょう。「先取りのし過ぎ」も、面接の流れをおかしくすることがあるのです。

****

 実は、カウンセリングの醍醐味は、カウンセラーのいかなる予想とも、クライエントさん自身のいかなる予想とも異なるけれども、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、専門家であるはずのカウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような展開が直後のやり取りの中で生じることなのだと私は常々思っています。

 クライエントさんだけでも、カウンセラーだけでも、注意を向けなかったようなところにどちらからともなく立ち止まり、それをきっかけに新たな認識の地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 二人とも、思いもよらない新鮮な次元で二人とも納得でき、カウンセラー自身のそれまでの人間観や臨床的経験知にすら微妙な変化が生じるような、新たな地平を二人が共有できる、小さなステップが小刻みに進むのがいい面接なのだとおもいます。

 これは、カウンセラーとクライエントが「共に流される」ことと似ているようで、実は異なる「何か」です

 つまり、カウンセラーにとってですら、それまでのやり方がそのまま通用し、何ら新鮮な体験を伴わないような面接が繰り返されるようなら、それはカウンセリング経験が深まり、ある一定の境地に達した結果などではなく、むしろそのカウンセラーのカウンセリング能力が「硬直」し、「形骸化」する弊害の方が大きくなり始めた兆候であるとすら、私は考えます。

 カウンセラーの言った事に対して、クライエントさんが「いや、そうではなくて....」と口にして言ってくれたら、むしろそのことをクライエントさんが与えてくれた絶好のチャンスと感じられること。
「まさにそのとおりです」といわれたら、クライエントさんは無理してカウンセラーに迎合している可能性も一応疑ってかかるくらいが、いい塩梅(あんばい)だと私個人は感じています。

 .......もっとも、このことを大事な信念としているはずの私であるにもかかわらず、いまだに「思い込み」のままに面接を進め、クライエントさんに違和やご不満くすぶっているケースもまだ結構見られる気がいたします。

 どうか、そういう際には、面接の中で、遠慮なくご指摘いただけることを祈っています。

*****

 こうして私は、面接の中で、クライエントさんによって、カウンセラーですらも、自分の思い込みから少しずつ目覚めさせられていくものだということを述べてきました。

 これは、カウンセリングとは、カウンセラーの方が、客観的な見方をできていて、クライエントさんの方は、自分の一面的な、あるいは、歪んだものの見方を修正されていくもの、という、常識的な考え方に敢えて一石を投じるつもりで書いてみたものです。

 
*****

 例えば、行動療法ですら、行動計画をクライエントさんが実現できない壁にぶつかった時に、クライエントさんに実現可能そうな、更に小さな行動ステップをクライエントさんに「創造的に」提案し、新鮮に受け止めてもらえ、セラピストとクライエントが協力して達成しようという関係性が成立した時に効果が目覚しいのではないか。

 山上敏子先生の行動療法の事例報告に触れる度に私が感じることですが。

 認知行動療法のセラピストですら、ほんとうの達人の先生方は、このこと....つまり、クライエントさんからの話を謙虚に傾聴し、思いもよらない次元の話をたくさん聞かせてもらってはじめて、そのクライエントさんの心情や状況にほんとうにフィットする、無理のない提案ができ、クライエントさんにも、率先してやってみようと感じてもらえ、モチベーションを高めてもらえることを、よくわきまえておられる気がしてなりません。
 

*******

◇この問題について更に関心を深めたい人にお勧めの本:

●ユング「心理療法論」林道義 編訳 みすず書房

 この本の更に詳しいご紹介と、いくつかのユングの文章の抜粋をこちらの記事で詳しく紹介しています。

変わりたいのも、変わりたくないのも、ほんとうの気持ち(改題)

飛べないハードルを 負けない気持ちで
クリアーしてきたけど
出し切れない実力は、誰のせい?

(田村直美「ゆずれない願い」)

たいていの人は、自分の現状に不満を持っていると思います。
 ....そう、人は、変化し、成長したい生き物です。

それと同時に、今やっている日常を「変えないままで繰り返せたら」とも心のどこかで感じています。
 ....そう、人は何の変化もないまま、現状が漫然と続くことを求める生き物でもあるのです。

そして。自分が何もしなくとも、状況が変わったり、周囲がお膳立てしてくれることで自体が解決することを期待しています。
 ....そう、人は、自分からは行動を起こさないままで事態が変わることを期待する生き物です;

しかしそれと同時に、今の自分が、別人に「変えさせられてしまう」ことをすごく恐れていると思います。
  ....そう、人は、他人に無理やり変えさせられるくらいなら、自分で人生の運命を変えたい生き物です。


 「変化」を実感するには、
 変化する前と後とでも
 あい変わらず「同じ自分」が
 自分の中に確かに「継続」しているという安心感も
 必要なのではないでしょうか。


 「気がついたら、以前困難を感じていた状況をある程度普通に乗り越えることができている。人前であがることを気にせず発言できることが増えていたような。これは私がいつの間にか「変わった」ということなのだろうか? 私はその間、だいたいのところは、同じ自分の延長線上にあるままもがいているくらいに感じてやっていた。でも、今、同じ事態を同じに感じずに済んでいるということは、何かが変わったんですよね?」


 「一度ブレイクして人気が出てしまったら、周囲の自分を見る目が変わっていた。でも私って、私のままじゃない? テレビの中に写っているのは、どうも私みたいだけど、ほんとうにテレビを見ているこの私という気がしない。この運命は、私が自分から生み出した変化なの? それとも、周囲がいつの間にか私をここに連れてきたの? 昔と同じように私を受け止めてくれる人がいないのがつらい」

…この違いはどこから生じるのでしょう?


バードルを飛べた途端に、
人は今度は、
そのハードルを乗り越えるのが当たり前の存在に
「変化をしてしまった」はずという
プレッシャーと直面し始めることも多い。


.......今、ここで書いてきたことの中に、カウンセリングの大事な本質が含まれている気がします

*****


追記:

 この記事、北京オリンピックの中継を観ている中で、思いついたものです。

ここからは、新サイト向けに書いた記事のいくつかを紹介。そのためのindexページ(第7版)

 さて、ここからは、いくつか、「久留米フォーカシング・カウンセリングルーム」サイトに常設表示する予定の新記事の草稿を、こちらでも順不同にアップしていくつもりです。

 ただ、新サイトでの最終的な配列は変わっていくと思います

 実は、これまでこのブログで書いてきた内容とかなり重複するものも多いのですが、皆、新たに書き下ろしてみたものです。

 まだ内容は今後増補改訂される記事もあれば、逆に、新サイトに最終的には掲載しない、幻の記事(?)も出てくるかも知れませんが(それらの記事は、こちらでは載せたままにします)。

 このページに、それらの記事草稿のための仮のindexを作っておきましょう。


●「変化」と「成長」。「ほんとうの自分」
●「一緒に考えて行きましょう」
●「症状」ではなく「...する能力」としてとらえてみたら
●「カウンセリング」?「心理療法」?「セラピー」?「ヒーリング」?
●心に効く薬と「眼鏡」のように付き合うサイボーグ
●「私はカウンセリングを受けに行っていいのでしょうか?」
●欝の人は、「祭りの後」に生きている
●開業のごあいさつ
●「本当の自分」とのつきあいは、恋人とのつきあいに似ている。
●楽しいことでも疲れる。
●医者という名の薬
カウンセリングに熱を入れすぎると欝症状が悪化する?


 このブログのほうにとりあえずアップした時点でここからリングを張りますね。


******


 あと、こちらのブログの人気記事である、

●欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている
●5分診療の神経科・心療内科の現実といかに対処するか
●薬物療法より精神療法の方が「高尚な」ことである、という誤解
●「思い込みが過ぎる」ことを、実社会を生きるしたたかなシミュレーション能力に「変換」させよう!!
●日常次元での「治療的副作用」への想像力
●「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~
●私のスーパーバイズ ~実践編~
●スーパーバイザーとカウンセラーの関係は、カウンセラーとクライエントさんの関係の「写像」となる?

などは、このブログの記事をある程度手直しして転載になるかと思います。


こうした、当ブログからの「昇格」記事は更にいくつも出るかと思います。


久留米フォーカシング・カウンセリングルームサイト公式サイトを構築開始

 やっと、久留米フォーカシング・カウンセリングルームサイト公式サイトを構築し始めました。

http://kasega.way-nifty.com/kurumefocusing/

 このトップページは常に表示がひとつだけです。
 ここから、カテゴリー機能を駆使して、さまざまな案内を整理した形でアップして行きます。

 このカウンセリングルーム公式サイトの方は、最新のお知らせ等を除き、記事を固定的な内容にして表示します。原則としてトラックバックやコメントはできない設定にしますが、それとは別に「分室」ブログを立てて、皆様からのご質問やご回答を反映させられる拡大サイトにしていくつもりです。

 あとしばらくお待ちください。

2008/08/07

人間性心理学会大会、熊本は再来年。来年は法政多摩!!

 日本人間性心理学会大会、熊本大学は再来年(2010年)で、来年(2009年)は法政大学町田(多摩)校舎とのこと。

 ここには現代福祉学部があり、末武康弘先生というフォーカシングの代表的研究者のおひとりがおられます。

 今年は取りやめにしましたが、
 来年こそ、今年予定していた発表内容で、
 人間性心理学会、心理臨床学会、
 ともに個人発表するつもりです。

 皆様と再会できることを楽しみにしておりますので、どうかよろしくお願い申しあげます。
 

****


 私はこの法制多摩キャンパスの学生相談室のカウンセラーを10年以上つとめたのです。

 何かと町田との縁は続くこういちろうであった。

 (...と書いても、本当の真意がわかる人は約1名 f^_^; 
  追伸:そのご本人から発表は見に行くとレスいただいた)


*****

 なお、元八王子市民、および大学に勤務した者としてひとこと。

 法政大学町田キャンパスの最寄り駅は、決して町田でも橋本でもありません。
 JR中央線西八王子駅、あるいは京王高尾線めじろ台駅です(バスの本数もたいへん多い)。

 町田駅近郊からは約40分かかり、バス等の接続(これはJR横浜線相原駅から)もかなり本数が少ないです。

この1ヶ月の人気記事ベスト30 PCサイト版!! (08/7/8-8/6)

 「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例だった、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、5/4付けの94回めまで連続掲載を重ねつつも、ついに中断したままになっていました。

 最近一ヶ月間は、私が湘南フォーカシング・カウンセリングルームを閉じることを公表してから、久留米に引っ越すまでの怒涛の一ヶ月でした。新規記事の量産も再開される中で、以前とはかなり上位記事も様変わりしています。

 そこで、久留米への引越しまでの集大成として、久々に上位記事のランキングをやってみましょう(^^)

 固定リンクでのアクセス率の順位から集計しています。アクセス数が同じ場合には、訪問者実数上位の記事を上位とし,訪問者実数も同じ場合にのみ、同じ順位として掲載します。
 30×24時間、つまり8/6日(火)24:00の時点での集計です。


*******


 今回は特別集計ですので、前回からのランキング上下の表示はありません。
 ただ、以前のランキングになかった記事についてはNEW!表示、前回集計から今回の集計でも連続ランキング入りしている記事については○回連続の表示をつけることにします。

 

 この30日間の総アクセス数、延べ11,337。一日平均アクセス337.90
 訪問者実数は、8,826名様


 当ブログの「一限さんでない率(リピーター率)」、8.1%

 「毎日必ず」おいでになる「完璧常連様」は、11名様(0.5%)


 それでは記事別ランキングの方の発表!!

*********

1.バウムテストにおける「診断」とフォーカシング(1) 9回連続

2.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている 91回連続!!

3.関東時代の総括はまだまだ続き、「新天地」福岡での構想にまで進む(^^) NEW!

4.「ナイチンゲール 神話と真実」について  4回連続

5.湘南フォーカシング・カウンセリングルーム7/20終業のお知らせ NEW!

6.「神田橋條治」カテゴリー・バックナンバー

7.ナイチンゲールは「看護すること」の覚え書を出版したのだ!!

8.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~  18回連続

9.私のピュアオーディオシステム(そこに更にiPodをどう繋ぐか)

10.臨床心理士ではないカウンセラーをあなどるなかれ NEW!

11.私のスーパーバイズ ~実践編~ 5回連続

12.「ナイチンゲール」カテゴリー・バックナンバー 5回連続

13.対話で解決しようとする前に、ともかく共に「いられる」時を作ることを優先せよ。 NEW!

14.「見せしめ」死刑執行は20-40前後の人間の自殺者を増やしかねない

15.「謝罪させ」ブームへの違和感 NEW!

16.流派を問わず、すべてのセラピーは、まずはセルフセラピーとして学ばれるのが自然ではないのか? NEW!

17.オーディオにおける接点復活剤について 3回連続

18.「学会参加報告」カテゴリー・バックナンバー

19.「フォーカシングを学ぶと、あなた自身の力で、あなたにふさわしいカウンセラーや精神科医を見分けることができるようになります」 NEW!

20.浮気を疑われるようになったのは NEW!

21.引っ越し早まる:リサイクル店出張買い取りの店選びの重要性 NEW!

22.独立開業を目指します

23.「東急ハンズ」カテゴリー・バックナンバー

24.素朴な夢分析でもカウンセリングに生かせる NEW!

25.「中井久夫」カテゴリー・バックナンバー

26.「電源」カテゴリー・バックナンバー

27.iPod Shuffleの音質あなどるなかれ

28.「パソコン用スピーカー」カテゴリー・バックナンバー

29.「カウンセリング」と「身の上相談」の違い 2回連続

30.前の記事で書いたことは NEW!

*********

  これを書いている「今、この瞬間」(8/7 03:48)までの、PCサイトにおける当「カウンセラーこういちろうの雑記帳単独での文章記事の延べ総アクセス数は、352208、プロフィールページ、フォトアルバム、そして"My FavotiteBooks"、"フォーカシング Q&A”まで含めると392282

 携帯サイト(20054)を含めた、延べアクセス数、412336です。

 このブログ単独の通算記事数はこの記事で1595本めです。


 新天地、久留米に移った今後も、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくお願い申し上げます。


筑後川花火大会......には行きそこなった。

 久留米の花火大会といえば、久留米まつりの一環として開催される「筑後川花火大会」(2008年は8/5)に尽きます。

 花火3万発、350年の歴史を誇り、「九州の両国」といわれる西日本最大級の花火大会。3万発を超える、出し惜しみのない花火大会。久留米に年間で一番観光客が訪れる日なのですね。

 私は当初、子供時代以来役40年ぶりに行ってみるつもりだったのですが、引越し疲れと、連日35度、湿度も高いという、久留米の夏の暑さにやられて、行く元気がどうしても出ないままでした。残念!!

 

2008/08/03

久留米フォーカシング・カウンセリングルーム 公式サイトはこちら

 久留米での開業再開情報です。


 久留米フォーカシング・カウンセリングルーム 公式サイト

筑後川と山々

 筑後国一ノ宮の高良(こうら)大社をいただく高良山(右端)から東に連なる耳納(みのう)山地
(久留米から真東方面)
Korasan
 
 耳納スカイラインがこれらの山々をめぐり、うきは市まで伸びています。
 その先は大分県日田市。

 典型的な傾動地塊(けいどうちかい。傾いた断層面がそのまま隆起)による造山運動でできた。筑後平野の南端に、壁のようにそそり立つ。

 鉄橋は西日本鉄道天神大牟田線櫛原-宮ノ陣間の筑後川鉄橋。


*****


 一転して、脊振(せぶり)山地方面。
 (久留米の真北側)
Segurisan

 脊振山頂に、航空自衛隊とアメリカ軍のレーダー基地があるのがこの写真からもわかる。
 九州新幹線はこの山地を貫通する脊振トンネルを経て、2011年春、博多まで12分で久留米と結ぶ予定。


*****


 以上、今日のお散歩でした(^^)

 30年のうちに、筑後川沿いの田園地帯が市街地に一変していて驚いた。
 昔はレンコン堀が広がり、蛙を取ったものだが。

国土交通省とNTTの関係

 新住所に光ファイバーを引こうと手続きしたところ、国道3号線沿線のために、工事に国土交通省の認可が要り、お盆開けにしか開通しないことが判明f^_^;

 家から5分にネットカフェ(Net villa 久留米店)<があるので、ブロードバンドへの飢えは何とか満たされるが....


******


 これが国道3号線だ!!

Kurume_route3
 久留米大橋より西鉄久留米駅方面をのぞむ。

2008/08/02

福岡とその周へん

Image393_4


 4年さくら組 あせがこう一ろう 夏休み 自由けんきゅう。

 なつ休みには、おとうさんとあかあさんといっしょに、大さかの万国はくらん会に行きました。

 阪急電車がじどう改さつぐちになっているのが、かっこよかったです。


*****

 いずこからか発掘され、当面の住まいになる東櫛原の旧宅のベッドにおかれていたもの。

 父親のおちゃめである(^^;)

 この紙粘土細工の立体地図模型は、直径30センチほどの、漬物のふたの裏に製作されている。

 37年間という、長年の風雪にさらされた結果、志賀島が侵食されて跡形もなくなっている一方、国鉄宮原(みやのばる)線(豊後森-小国)や矢部線(羽犬塚-黒木)、佐賀線(佐賀-瀬高)がきちんと書き込まれたいるあたりに、時代を感じさせられる(^^)

 実は一番下のへりが阿蘇カルデラの横断面になっている。

久留米での朝です。

無事帰りつきました(^^)

私が上京したときは、新幹線は7時間かかっていたのに、5時間を切るとなると、地上を走っているのに、あれよあれよと言う間に関門海峡を超える感じですね。

自宅にインターネットを引くまでの間、書き込みは少ないかもしれないことを、どうかお許しください。


見送ってくれたMさん、ほんとうにありがとう。

コメント・トラックバックについて

  • このブログのコメントやトラックは、スパム防止および個人情報保護の観点から認証制をとらせていただいております。これらの認証基準はかなり緩やかなものにしています。自分のブログの記事とどこかで関係あるとお感じでしたら、どうかお気軽にトラックバックください。ただし、単にアフリエイトリンク(成人向けサイトへのリンクがあると無条件で非承認)ばかりが目立つRSSリンク集のようなサイトの場合、そのポリシーにかなりの独自性が認められない場合にはお断りすることが多いことを、どうかご容赦ください。

最近のコメント

はてなブックマーク


最近のトラックバック

last.fm


フォーカシングの本1

フォーカシングの本2

フォト
2012年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

banner

  • 携帯アクセス解析
  • Google Sitemaps用XML自動生成ツール
  • Firefox3 Meter
  • ブログランキング・にほんブログ村へ

ブログパーツたち

  • track feed カウンセラーこういちろうの雑記帳
  • アクセス状況
    アクセス解析

カテゴリー