カウンセリングに興味を持って下さる皆様の中には、「ほんとうの自分との出会い」だとか「自分の本当の気持ちを大事にしたいけけどうまく行かない、気持ちがいろいろ変化して、時々自分は本当は何を望んでいるのかわからなくなるという思いをお持ちの方が少なからずおられると思います。
そうした一方、最近、世の中では「自分探し」ということを、永遠に青い鳥を追うことであり、その人が、現実と密着した、足が地に着いた生き方をしていくことを妨げる虚妄であるという論調も満ち溢れている気がします。
それは、理想の恋人との出会いを渇望するあまり、特定のパートナーとの安定した関係(正式に結婚するかどうかは別として)を見つけられない人たちについて、「夢を追い過ぎる」と言われる場合と何か非常に似たとらえ方という気もするのですね。
「ほんとうの自分と出会いたい」「本当の自分の気持ちを大事にしたい」という思いは、「本当の伴侶(愛)と出会いたい」だとか「恋人といい関係を築きたい」という思いに、ひどく共通するところが確かにある気がします。
しかし、私は、「自分探し」や「理想のパートナー探し」の泥沼から抜けられないままの当事者も、そういうあり方を虚妄として批判する人たちも、何か「本当の自分(の気持ち)」というものについて、何か基本的なところで考え違いをなさっているのではないかと思うことがあるんです。
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「本当の自分」との関係も、「恋人」との愛を深めていけること同じように、一度出逢えてしまったら、ずった気持ちが通じ合って、あとは順風満帆というものではない。
そのように「一度つかまえればいい」と思い込んでいる限りは、不毛な形で「青い鳥」を追いかけては「破局」することを繰り返すでしょう。
「本当の自分」とは、自分の中にいる、一番身近なようで、実はすぐにコミュニケーションがトラブる、「他者」なのです。
繰り返し向かい合い、絆を結びなおすことをしていく中ではじめて真の<絆>が深まる「恋人」との関係のようなものです。
「本当の自分」との「いい関係」とは、様々な事件の中で何度も危機が生じ、心を揺り動かされ、「相手」の真意に戸惑い、見失いそうになりながら、ともかく「相手」と共にいて、向き合って、「相手」からのメッセージに虚心に耳を傾け、「自分の思い込み」から繰り返し目覚め、「相手」との心と出会いなおす中で、次第に「信頼の絆(きずな)」が深まるものなんです(^^)。
人は、実に容易に「自己欺瞞」に陥るものなのですね。
そして、ちょっとした慢心や、「相手」への甘えや、「表面上はうまく行っている」ことにしがみつくことが、いつの間にか「相手」との溝を深め、破局の危機を準備する。絆は揺らされ、繰り返し結びなおすものです。
「自分の本音なんてわかってる」と軽率に口にする人は、「彼/彼女の本音なんてわかってる」と安易に思い込めている人と同じくらいに、「ほんとうはわかっていない」「つかめない」「見失ってしまった」現実に思いもよらず直面して慌てふためくことを繰り返すものだと思います。
この興味深いテーマについて語るために、まずは、一見恋愛と無関係な、寄り道にすら見えるかもしれない、私個人の日常におけるここ数日間の流れを取り上げてみることにします。
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.....こうして、久留米への移住と、カウンセリングルーム開設に伴う新しいサイト向けの記事を練りあげていく中で、2週間ほど立った2,3日前から、私の中に、突然、「何もやる気がしない」という感情が強くもたげてきて、作業が進まなくなる時期が生じました。
単にサイト向けの文章を書くことが億劫になったにとどまらず、生活全般で意欲が急低下してしまったのです。
北京オリンピック中継も見飽きた。
久留米での新生活のためのさまさまな外出しての活動も、何かする気にならない。
生活に必要な買い物だとか、今後カウンセラーとして地域に根を張るための情報収集などは、楽しそうで好奇心を刺激する事柄もあるし、たまには自炊ではなくて外食もいいかもしれない、それにここ数日は、初秋を予感させる涼しい時間も多くなってきた。
それなのに、暑くても都心よりは2,3度低く、風が涼しい「避暑地」鎌倉から、盆地的な久留米特有の蒸し暑さと熱風の中に移住したことの適応に辟易しながらも新鮮に出歩けていた、最初の2週間と比較しても、外出そのものが億劫になったのですね。
多少疲れもたまったのかな? 一時期一気に文を書き過ぎた反動かな? 軽い欝にはまったのかな? ....などと感じ、少しでも眠たければ寝たいだけ寝るということを2日ぐらい続けてみたのですが、それでも解消されない。
音楽を聴くとか、DVDを観るとかで気分転換をすることにも、どうにも気が乗らない。
こうした時にこそ、私には、自分の中の容易に言葉にならない漠然とした違和感や抵抗感と真に対話し、活路を見出すための技法、フォーカシングを自分で自分のために意識的に取り組む意義がある。
「いろいろ新しい文章のアイデアもあって構想メモを貯めているではないか。気分転換と考えても、今日はさわやかな空気、外出には持ってこいではないか? 十分すぎるほど寝たろ? なのにどうしてここまでやる気が出ないのかな?」
と、私は自分の内側の感じ全体に静かに問いかける。
すると、頭のあたりに、独特の違和感があることに気がつく。
頭痛なのではない。
敢えて言えば、「味のない食べ物を食べているために食べても食べても満たされないような、まるで脳液が薄まって水のように希薄になっているかのような感じが頭の芯のあたりを浸しているかのような感覚だった。
「電柱まで立てることになって電話線の開通が遅れることになり、新居へのネット開通を楽しみにしていた気持ちがそがれたのかな?」
「新鮮な刺激をネットから得られず、ネットカフェでは作業がはかどらないことへの億劫さもあるのかな?」
自分の中に、状況を分析するようないろんな連想すぐにいろいろ浮かんでくる。
しかし、そのように思ってみても気分は少しも晴れない。
相変わらず同じような調子で自分の中から訴えてくる、身体の中からの違和感があるのである。
まるで、
「そのようなことはとうに気がついているだろ。
何を今更。そういうありきたりの分析はもうたくさんだ。つまらないよ」
と、私の中のどこからか、私の中の「何か」が執拗に抗議し、不平不満を訴え続けるかのように。
そこで、その、私の内側からの「その程度の理解ではもうつまらない」「『私』の心には響かない」という「ダメ出し」がどこから来ているのか、身体全体でしばらくじっくり感じなおそうとしてみた。
しかし。
その感じに近づこうとするとなかなかうまくいかない。その感じに注意を向けようとする私の足を引っ張るようにして、妨害しようとする、更に別の心の動きがありそうだということに気がついた。
どこから「その」動きは生じてくるかを、感じてみた。
何か、身体の右脇のほうからのエネルギーとして「せっかちに横槍を入れて」来るかのようであった
ここで私は、「そっち(身体の右脇の方角)」に向けて、
「とうも、そっちの方に、そういう内側からの感じの訴えそのものにじっかり付き合うよりも、ともかく今の状態を解消したいという『焦り』みたいなものもあるみたいだね。わかったわかった。その気持ちも理解してあげないとね」
すると、今度はおなかの底の方から反応が返って来たのである。
何かがどっしりとお腹に居座っているような感覚である。
しかし、それは嫌な感覚、払いのけたいような感覚ではない。
まるでお腹に鉄の玉が入っているような重さなのだが、私が物事を「腰を据えて」じっくりとやって行ける時に繰り返し体験していた、「重心の座った」「確固たる」、ポジティブな感覚なのである。
「この」感覚がお腹に味わえる時には、むしろ私は、足が地に着きながらも「調子がいい」時が非常に多いのである!!
「その」感覚が、今、無理をしてでも動き始めることに徹底的に「ダメ出し」をするのである。
まるでその感覚そのものが、
「私は、今、心底動き出したくない」
と、一見強情なまでの圧倒的な信念で、しかしある独特の「穏やかな落ち着き」すら私に感じさせながら、私に態度で示してくるかのようなのである。
その感覚そのものが、私に「誠意を持って」「真摯に」訴えてきていることは、全く疑いようがなかった。
私は、このお腹の底の方からの感覚は、何かないがしろにできない大事なメッセージだと受け止めた。
そして、一切の自己分析をやめてしまい、お腹の底からの「その」感覚のそばにたたずみ、静かに一緒にいようとしてみた。
これは、その感覚に「没入して」しまうのとは似て異なる。まるで、言葉では何も語ってはくれないけれども、どっしりとした落ち着きを感じさせる人物のそばに座り、私の方も何も話しかけようとはしないまま、その人が眺めている風景を、共に味わうみたいな感覚である。
それは、満ち足りて安らかに横になっている恋人や子供のそばに静かに身を横たえ、抱きつくなとのスキンシップは仕掛けないまま、共に安らぎをじっくり味わおうとするようなスタンスに似ている。
だが、私は、その日(夜になっていた)は、そのまま眠り込んでしまった。
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翌朝、目が覚めた。
昨日よりも疲れが更に取れて、すっきり目覚めたかのかのように感じたが、実際に起き上がろうとしてみると、相変わらずそれに抵抗する「鉄の玉」感覚が、お腹の底の方から、同じように生じてきた。
そこで、私は無理して起き上がることをしないまま、
「まだそういうふうでいたいわけね。わかったわかった。それじゃ、あとしばらくつきあうよ」
みたいな態度を、そのお腹の底からの「動かずにいたい」という鉄の玉の訴えに示しなおした。
すると、私の中の、普段何かが思い浮かぶ時より奥の方から、
「今は無駄なことは一切したくない」
という言葉が浮かんできた。
しばらくすると、そのお腹の「動きたくない」という漠然とした訴えそのものは急に静まり、むしろそうやって訴えを尊重してくれていることへの感謝を込めた安らぎのような感じが強まり、その感触の質は、「鉄の玉」から変化し、ある種の潤いに満ちた流動性のある生き生きとした新鮮な感覚が、おなかのそのへんをぐるぐるとめぐっているかのようなものに急激に変化した(これが、フォーカシングでいう「シフト」です)。
それにつれて、頭の方にさっきまで相変わらずあった、まるで脳液が水になるまで希釈されたような感覚も、むしろ、おいしい飲み物を心から堪能した時のような、新鮮な潤いがあるものが懇々と泉のように頭の芯から湧き出すような感覚へと変化した。
私が、物事に新鮮な関心を持って、浮き足立ちも焦りも感じないでじっくりと取り組める時に繰り返して体験してきたような、独特のテイストを持った「脳内に定位される感覚」である。
それは、まるで数日ぶりに恋人と対面し、席を「共にした」時に、自分の五感に新鮮な潤いが取り戻されるのにも似た感覚と思われた。
起き出してみても身が軽い。
この調子なら、今日は原稿を書いても、外出しても、その身の軽さを保ったまま過ごせそうに思った。
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そうやって起き上がって、朝食をとるためにたまたまテレビをつけたら、オリンピックではなくて、NHKの教育テレビの教養番組が映った。
「歴史に好奇心 -江戸の色恋ものがたり-」 第1回の再放送である。
江戸文化論で知られる、法政大学の田中優子教授がコメンテーターで、井原西鶴の「好色一代男」を取り上げている、その番組がはじまったばかりであった。
そこで田中氏は、
江戸時代における「好色」とは、
1.「おおらかなもの」であり、
2.それは単に性にとどまらない、五感を通してのさまざまな味わいを堪能し、表現する上での、洗練されたスキル(俳句など)とセンス全般をも大事にするものであり、
3.ファッションへの敏感なセンスも求められるものである。
と解説していた。
これに触発されて、私は、以前から時々頭裏をめぐっていたけれども、やや大胆すぎるように思われて、実際には書けないでいたテーマ、すなわち、
「その時その時の自分自身の本当の気持ちをつかんで、それを日々の活動の更なる前進に反映させられる」状態とは、実は「恋人といい関係を現実に築き、維持し、深めて行ける」ということと非常に似た性質の体験である」
ということについて、書いてみようと思ったのである。
.....そして、今、こうして書きつつあるわけであるが。
(テレビ番組からの新しい刺激をすぐに原稿に生かすという、何とも「無駄のない」(!)対処の仕方)
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フォーカシングでいう、自分の内側の容易に言葉にならない漠然とした感じ、すなわちフェルトセンスは、まるで、現実の恋人と同じような、どうにもつかみようがなくなることがある相手だということ。
自分のほんとうの気持ちに触れるとは、まるで、気難しく、ナーバスになった恋人の心を開こうとする時と同じような、こちらの思うようにはいかない、デリケートな対応を必要とするものであるということ。
今、私が例に出した体験を、恋愛の中でよく繰り広がられがちな場面に置き換えると、次のようなシチュエーションにたとえることができるかもしれない
自分の心身に、何か言葉にならない違和感や抵抗感のようなものがあることに気がついた時。
それは、せっかくのデートの日に、喫茶店にたどり着いてみると、何か相手の機嫌が悪くて、口数が少ない。デートの真の目的地に向かおうと手を引っ張って誘っても、無言のままじっと座り続けている状態にもたとえられる。
「君もayu(浜崎あゆみ)のコンサート、あんなに楽しみにしていたのに、どうしたの?」
「......」
「体調イマイチ? それとも、何か嫌なことあったの?」
「ううん......」
「ひょっとして、君の機嫌損ねること、何かしたっけ?」
「ううん、別に...」
「.....あ、今日、待ち合わせの駅の出口に改札に君が10分遅れたことを、何回もあげつらって文句言うみたいないい方し過ぎてしまったかな?」
「.....そんなことは気にしてないよ....実際に私、遅刻したんだし」
「せっかくコンサートのペア券予約したのに(そのための俺の労力と投資についても考えてくれよな....」
「.......」
「まだ少し時間があるから、ちょっと君の行きたい店をぶらいついたりしてもいいけど?」
「.....そんな気分じゃない.......」
「(どうしたんだろう。何か機嫌を損ねることでもした?」
「........」
ここで彼は、このまま問いかけ続けたら、焦りに駆られた「空振り」の連続になり、いよいよ彼女の機嫌をそこねかねないことに気がつく。
そこで、
「....ま、いいか。まだ時間あるし、しばらくここにいようか?」
とさりげなく言葉にしたまま、それ以上言葉を重ねて、自分から勝手な憶測で問いかけたり、相手の気持ちを打ち明けてもらおうとせっかちになるのをやめて、彼女の方に時々好意的な視線を向けながら、焦るふうもない様子でそばに座っていようとした。
しかし、彼自身そういうふうでいようとしても、実際には落ちついてはいられない。
この「落ち着けなさ」は何なのか?
...思わず、以前付き合っていた女性(A子)に、デートの時に、思いもよらない形で突然むくれられたのをきっかけに、うまく行きつつあった交際がいきなり破綻への道をまっさかさまに突き進んだ時の記憶がよみがえる。
(ああ、A子とはあんなことあったし、こういう場面で自分が動揺するのも無理はないか。....でも、今、目の前にいる彼女は、A子とは全然性格も違って、ずっと気持ちが通じ合うと感じてきたではないか。A子と一緒くたにしたらだめた。彼女を信頼して待っていてみよう)
そう思い直してしばらくしてみると、不思議と、嫌な沈黙という感じはしなくなる。
更にしばらくすると、彼女との間に漂う空気と居心地しそのものに、ある「緩み」のうなものが生じてきた気がする。
彼女のそばに居ても、さっきまでほどの取り付く暇がないようなぴりぴりしたものが緩んで、なんとなくリラックスしてそばにいやすくなる。
すると、彼女は、突然、
「.....ごめん、あなたとは全然関係ないことのせいでむくれてたの。もう大丈夫だから、会場に行こう!」
彼女は苦笑するような表情を浮かべて、その後は笑顔で立ち上がる。
いったい何なんだ!!
勝手に立ち直るな!!
でもその苦笑してからの吹っ切れた表情と、その後の彼女の様子は、無理に不機嫌さを押さえ込んだのではないとだろうという手ごたえを感じさせる。
(こちらから「どうしたの?」とまで尋ねなくてもいいか。僕と関係ないことのせいとも言ってくれたし。こちらから深入りしないままの方がいいかな?)
と一度は思おうとした。
しかし、別な思いも浮かぶ。
(でも、こうやって、相手の気がもう済んだと僕の側が一方的に思い込みやすいのが前の彼女とうまく行かなくなるのと関係していた気がする。会場の席にすわったら、ちょっと、この更なる豹変にについて、一言言葉をかけてみるか)
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コンサート会場の席について落ち着いてから、
真顔になって
「あのさ....」
と言葉をかけるタイミングを見計らい始めると、何と、彼女の方から口を開く。
「ごめんね。さっきまでむくれてたの、あなたのせいじゃないの。実は、昨日電話した時、親と喧嘩したばかりで、気持ちがムシャクシャしていたんだ。でも、コンサートとayuの話ばかりあなたが熱心にするから、それに話題をあわせてしまって。親とのこと忘れて、デートの話にしちゃった方が気が紛れるかなと、そのときは感じていた気がするの。
でも、昨日電話切っちゃったら、親のことでどうにも気持ちがおさまらないままになっている自分に気がついたんだ。やっぱり、親とのゴタゴタの話に付き合って欲しかった私がいたんだって。
だから、今日になって会ったら真っ先に打ち明けようと思ってた。でも、今朝、駅でおちあってから、またのっけからayuのライブについてのあなたのウンチク話になっちゃったじゃない。それもしかたないのは理解しているつもりだけど。
でも、話の流れがそうなったら、あなたと一緒にいるのに、急にさびしくなってしまうのを、どうしようもなくなって。
私なんかより熱烈なayuファンであるあなたのこと嫌いじゃないよ。だって、私、あなたみたいに熱中できるものがあったらなって、いつも思ってるし。私も私なりにayuのこと好きだし、ライブ誘ってくれることがうれしくて仕方なかったよ。
親とのもめごととなると簡単に気持ちがおさまらないのは私の未熟なところで、私が自分で解決するしかないことだと思っているんだけど.....ごめんなさい」
彼は答える。
「.....そうだったんだ.....ayuのこととなるとすぐに自己中で盛り上がっちゃう僕も、君への気遣いは足りないなと、今、しみじみ思ったよ。
....でも、親とのこと、僕と無関係な自分の問題だなんて抱え込まなくてもいいよ。
これは親とのことに限らないかな。
たとえ僕と関係ないことであるかに君自身に思えても、悩みやウダウダを話してもらえたら、僕は嬉しい。そのことは信じてくれていいから」
(この例は、あくまでフィクションです!)
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フォーカシングとは、本当の自分の気持ちを知るための、実に強力なスキルとなります。
自分が「ほんとうに」そう感じているのか、心と身体ごと「芯から」それを望んでいるのか、それとも、単なる頭での判断として「そういうふうに自分が感じているのも当然ありかな」程度に「一応」受け止めているだけで、心底は納得していないのかについて、自分の中で厳密に識別し(感じ分け)、まるで次元が違うものとして実感できるようになります。
そして、本当の自分の気持ちだとか、自分がほんとうは何をどうやりたいかということが、一度「出会って」「気づいて」しまえばいいものではなく、次から次に生じる状況の中で、自分を見つめなおすことによって、その時その時はジグザグな紆余曲折の道をだどったとしても、次第次第に、自分でも確信の持てる方向に定まってくる、まるで急傾斜の山々の尾根をそろそろと一歩一歩歩いていくような、慎重で小さなステップの積み上げの成果として形成される、自分の奥深いところとの「絆」であり、しかも、実はこれで「上がり」のゴールとか「達成」というものが存在しない、一息ついたら更に新たな問題に直面する、果てしない変化と再統合の過程ではじめて維持できる「絆」であることも痛感するようになりました。
考えてみれば、人がほんとうにワン・ステップ成長できれば、それだけで以前には体験できなかった、新たな状況に直面し、更なる成長が必要になる伏線を自然と準備しているのです。
恋愛でも同じですね。相手との関係が密接になればなるほど、相手に気を許すがゆえに、お互いの、最初は気づかなかった、気にならなかった面が、次第に我慢できなくなったりします。
また、新たな外的状況にも直面していきますよね。仕事との折り合い、どうデートに誘うか。セックスに進むかどうか。一緒に過ごす時間を増やしたい。同棲もあり? 経済面や相手の家族との関係......どんどんステップが上がり、双方のあり方が問われる新たな状況に直面していく....。
それまでのステージでは顕在化せずに済んでいた、以前からの限界が始めて露呈する場になるかもしれません。
それは、いわば、最初は炎のような燃え上がりを見せ、人生最大の幸せと感じられるような恋に落ちても、その恋を更に発展させ、相手と生き生きした関係を続けようとなれば、いつの間にか生じざるを得ない多くの困難と危機と、お互いのコミュニケーション、相互の変化と成長の過程を耐え抜いて、ほんとうの「絆」になっていくことが多いということと、ひどく似ている気がします。
本当の自分の気持ちに気がついて行けるということは、恋人との微妙な気持ちのズレにはじまる危機を繰り返して乗り越えていき、徐々に安定したいい関係へと深まっていく場合にも似た、果てしない自分との(相手との)コミュニケーションのなかで、はじめて継続できるプロセスなのです。
つまり、自分自身の本当の気持ちをつかまえることは、恋する相手の本当の気持ちをつかもうとコミュニケーションする時と同じくらいに大変で、微妙で、スリリングなことではあるんです。しかし、自分の気持ちと出会えることは、恋人との心の絆をはっきり実感できた時と同じくらいに、深い満足を伴うものでもあるのです。
自分のフェルトセンスと無理なく全く自然に共にいられる、じっくり味わい抜けるという瞬間の体験は、場合によっては、子供や恋人との最も幸せな瞬間すら超越する深い満足感があります。
そして、自分のフェルトセンスとの非常にいい関係の時の実感を「知ってしまっている」と、一見恋人や子供と楽しくやれているかに思える瞬間でも、そうした中で「上っ面だけでも幸せを感じ、演じ続けたいがために」自分の中でもみ消してしまう、微妙な危機感や違和感、空虚感にも自分から腹を据えて冷静に直面できるようになれます。
そして、そういう微妙な相手への違和感を丁寧に吟味して行っても、気持ちが不安定になり過ぎることなく自分の方向性を見出すことができるようになり、実際に相手との関係の中で動き出してみても、それが「やぶ蛇」になって相手との関係をむしろ悪化させて傷つけあう引き金に過ぎなくなる「勇み足」は、確実に減って行き、相手と更にオープンで深い次元で思い切ってコミュニケーションできる幸せを味わえる段階に進めるもののようにも思います。
更にあえて言えば、自分の気持ちとじっくり対話できる人なら、もし仮に相手と別れるにしても、不要な傷つけあいが生じにくい形で、お互いに納得の行く次元までコミュニケーションをした上での、お互いにとって前向きな別れを生み出すのに役立つとすら思うのですね。
恋愛で苦しむことは、どれだけ正直に「自分の気持ち」に直面できるかということでもあり、それができてはじめて相手への思いやりも成熟した形になっていくと感じておられる方は、少なくないのではないかと思います(^^)
自分の気持ちが見えていない人に、相手への真の思いやりも抱けるはずがありません。
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こと恋愛に限らない次元にまで拡張すれば、フォーカシングを学び、より深い次元で自分のフェルトセンスといい関係を築けるようになるということは、自分自身とのコミュニケーションを改善するのみならず、様々な次元(例えば営業の売り込みや、職場での人間関係など)で関わるいろいろな他者と、新たな次元で「いい関係」を作るスキルを高めることにもつながるのではないかと思います。
現実の他者との関係がずっとうまく行かず、同じような不満とストレスしか感じ得ないとすれば、その人のフォーカシングのあり方は、まだ成長の余地があるということではないかと思います(自戒を込めて)。
(人間の成長において、それまでの自分の、周囲と波風を立てないけど個人的には不幸な状態から、一度徹底的な個人主義者になり、敢えて対人関係から自覚的に身を引いてみたり、自分本位に動いてみたり、人に迷惑をかけたり、他人との揉め事がむしろ増える段階を経過することは少なくないかと思います。フォーカシングも、その人をいったんそのような方向に向かわせるかもしれない。しかし、それは、当人には、以前ほどは窮屈な生き方ではないと感じられているでしょう。
しかし、フェルトセンスとは、いつまでも同じ次元の繰り返しでは納得せず、更に先へとその人を導こう徐々に「駄々をこね出す」ものだと思います。それは、結果的に何らかの意味で、より主体的でありながら、相互に満足がいく、しなやかな関係作り(距離のとり方を含めて)の方向に、その人をワン・ステップは進化させようという誘いに「なってしまう」ことが多いのではないかと思います。人は、ほんの数パーセント変わるだけで、周囲の反応は予想外に大きく変わり始めるものだと思いますし)
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もっとも、人は、自分の深いところにある本音=フェルトセンスからのメッセージに逆らってしまったり、無視したりしたまま、物事を達成したり解決せねばならない時、いつの間にか行動してしてしまっている時はことはたくさんある気がします。やりたくもないことを、職務上、あるいは法律上どうしてもやらねばならなくなることもあるかもしれません。自分に全く責任のない状況の変化(不慮の事故や災害、犯罪に巻き込まれる等)にさらされ、傷つく時もあります。
しかし、そうなった後で、自分の気持ちを立て直したり、相手との関係の無理のない次元での修復をしたり、もはや「共に歩む」ことは諦めて、「紛争状態」の解決に向けての生産的で具体的な話し合いをしていく上でも、フォーカシングは役立つはずと私は信じています。
ここでユングの言葉を引用します:
「そもそも他人の言い分を認めてやる能力が、人間にはいかに欠けているかは、見ていて驚くほかはない。そのくせこの能力こそ、どんな人間社会にあっても欠くことができない根本条件なのである。この一般に見られるむつかしさを、自分自身と厳しく向き合おうとする人はよくよく考慮に入れておかねばならない。他人の言い分を認めないその分だけ、自分の内なる『他者』にも存在権を認めないことになるのであり、その逆もまた正しい。内なる対話の能力は、外での客観性の尺度である」
(ユング「超越機能」邦訳p,131より一部修正の上で引用。「想像する無意識」松代洋一訳 朝日出版社 1985に所収)
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最後に、卑近な話ですけど、敢えて一言。
フォーカシングを学んでいることは、自分の「身体感覚」や気持ちの微妙な変化や味わいに敏感になることです。ですから、パートナーとのセックス・ライフにおいて、より深い満足を味わえるあり方を、パートナーと一緒に、絶えず新鮮に見つけていく上でも、かなり貢献するのでないかと、私は思うのですが(^^)。
フォーカシングとユングの「超越機能」との関係については、次の記事で詳しく紹介します。
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