大船でフォーカシングを学ぶ会、あと2回で終了させていただきます。
「大船でフォーカシングを学ぶ会」ですが、
第25回 7月6日(日)13:00-18:00【A日程】(定員6名)
第26回 7月20日(日)13:00-18:00【臨時にA日程】(定員8名)
で終了とさせていただきます。
急な決定で、誠に申し訳ございません。
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「大船でフォーカシングを学ぶ会」ですが、
第25回 7月6日(日)13:00-18:00【A日程】(定員6名)
第26回 7月20日(日)13:00-18:00【臨時にA日程】(定員8名)
で終了とさせていただきます。
急な決定で、誠に申し訳ございません。
秋葉原通り魔殺人事件と、宮崎勤の死刑「執行」のタイミング関連の、前の記事の続きです。
現段階での私が知る情報の範囲内で観ると、恐らく「精神病的な」面はほとんどなくて、「精神病質」でもない。「分裂型人格障害(schizotypal)」あるいは「分裂病質(統合失調症質)」(schizoid)というDSM的診断は最大公約数としてできるだろうけど、その診断に当てはまる層の多くは社会的にごく真っ当に生きている人たちの10数パーセントは当てはまると思う。
要するに,クレッチマーの性格分類でいう「分裂気質」のやや濃い人たちのある部分、あるいは中井久夫が「分裂病と人類」でいう「S親和者」=それを典拠を示しつつ拝借した浅田彰が、「逃走論」で「スキゾ」とポップに名前を付け替えた、「病理」というには過ぎ、社会の最前線で適応的に行けている人は、有名・無名を含めて五万(じゃなくて日本に500万?)といて、「人も歩けば棒に当たる」水準の範疇化(カテゴリー分け)しかできそうにない。
こう分類できる人を排除したら、文化や政治に貢献したかなりの人は抹殺されることになるし、ただの「パラノ」だけでは社会そのものが機能停止し、全人類が窒息する(浜崎あゆみだって、後述の夜回り先生、水谷氏だって楽々このカテゴリーに入る。
未熟な私だって堂々とその末席を穢(けが)せる(^^)
宮台さんだって、ある意味では浅田彰よりはかしこく大人になって、しかもしたたかに社会にコミットする戦略を続けている「熱い」人物だろう。
もっとも、あそこまで博学な、衒学的(ペダンチック)な饒舌さと感じさせてしまう多弁を押し付けると、「鼻持ちならなさ」とだけ感じられてしまいかねない限界はあるとして。
安易に「大衆を啓蒙する」ノリにはまらないのはひとつの挟持だと思うが、まだまだ「身を守っている」気もする。
宮台さんもあと一歩「突き抜ける」必要はある。
いうまでもなく、私も。
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今回の事件の犯人については、学習障害などの広汎性発達障害の可能性もそんなに高くないだろう。
いずれにしても、犯行時の「責任能力」は十分にあったと思う。
もし今後、彼についてまたぞろ「多重人格障害」とか出てきたら、それは弁護士と精神鑑定医の「ひいきの引き倒し」となるだろう。少なくとも故宮崎や故宅間よりは健康性が高かったまま凶行に及んでいると思う。
ちゃんと贖罪できるパーソナリティの筈。
そうならないなら法曹界や司法精神医学やマスコミがよってたかってこじらせたといわれてもしかたない。
人がきちんと贖罪できるためには、それを可能にする「環境」におかれていること!!
これは今後の展開のためにほぼ断言しておいていいと思う。
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もとより、現行法制のもとでは死刑以外になる可能性は全くに近くないと思いますが。
私はこの問題が「死刑の是非」論になった瞬間に本質を置き去りにした議論に過ぎなくなると確信しています。
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●【秋葉原通り魔事件】加藤容疑者のメル友女性告白「悩んでいるようには見えなかった」(msn=産経)
(前略)
彼女がトモと初めて会ったのは昨年7月末だった。
携帯電話の出会い系サイトで知り合い、メールを何通かやりとりした。送られてくるメールは笑顔や悲しい顔などのカラフルな絵文字入りで、2、3行の短いものがほとんどだったが、一度始まると何往復もした。
お互いに青森市に住んでいることが分かり、トモは「会いたい」と言ってきた。
市内の駐車場で待ち合わせをした。ありふれたチノパンとシャツを着て、髪形には気を使っていないような印象を受けた。
「きっと彼女はいないんだろうな」
そう思った。
名前を「ともひろ」と読み当てると、トモは「珍しいな。1回で読めた人」と笑顔をみせた。彼女はトモと呼ぶことに決めた。
トモの軽乗用車に何度か乗せてもらった。車内は整頓され、後部座席にはUFOキャッチャーで得たらしいディズニーなどのキャラクターもののぬいぐるみが4、5個並んでいた。会話はあまり弾まなかった。ラジオやCDはかけず、車内はシーンとしていた。
「この車、ずっと乗っているの?」
「前はスポーツカーに乗ってたんだけど、事故起こした。今度、GT−R買いたいんだ」
2人ともゲームが好きで、よくゲームセンターでUFOキャッチャーをやった。一度だけカラオケにも行った。歌を歌うのは好きらしく、一般の人は知らないようなアニメ系の歌を次々と入れていた。
8月1日には2人で「浅虫温泉花火大会」に遊びに行った。屋台で食べ物を買ったり、花火を携帯電話の動画に撮ったりして半日過ごした。2人でいる間、トモは携帯電話の着信などを気にする様子はなく、親しい友人はいないようだった。
花火大会の翌日。「親に家を追い出された。アパートに引っ越したから来ないか」と自宅に誘われた。
部屋はアパート1階の1LDK。電気はまだ通っておらず、中は真っ暗だった。壁紙は張り替えたばかりらしく、清潔な感じがした。玄関にはスリッパが2足並んでいた。向かって右側にトイレと風呂、その奥にキッチン。左側奥には居間、その手前に小さな寝室があった。
居間は10畳以上あり、フローリング床でテレビと大きなクリーム色のL字型ソファが占拠していた。「お金には困っていないのかな」と思う一方でこうも思った。
「こんな大きなソファに1人でいたら寂しいだろうな」
寝室には青っぽい絨毯が敷かれ、しわひとつない黄緑色のカバーがかかったベッドがあった。自炊をしている様子はなく、冷蔵庫にはその日の分のコンビニで買ってきた食べ物やプリンなどしか入っていなかった。
一度、コンビニで買ってきた缶入りのカクテルを部屋で飲んだことがあった。トモは何本か飲んでも変わらず、酒は強そうだった。
部屋では2人でもっぱらテレビを見て過ごした。夕方にはニュース番組をみることが多かった。バラエティー番組を見ているときなどは、トモは口元に手を当ててクスッと笑うこともあった。
「オレと一緒になればいいのに」
本気かウソか分からないが、トモがそんなふうに言ってきたことがあった。彼女は「それはないから」と、それとなく交際を断った。
帰り際には必ず、「また来ていいから」と言われた。何度目かに自宅を訪れたとき、突然、合鍵を手渡された。
戸惑いながら「いや」と言うと、トモは「いつでも来ていいから」と鍵を手のひらに押し込んできた。
「誰かに頼られたいのと、自分も誰かに頼りたいのかな」
そう思って鍵を受け取ったが、彼女がその鍵を使うことはなかった。
8月も終わりに近づき、気がつくとメールのやりとりは途絶えていた。
彼女が連絡先を変えたこともあり、それ以降連絡は一切取っていない。
「生きていれば何とかなる」と言っていたのに…
加藤容疑者は彼女にとって「お兄さん」のような存在だったという。口数は少なく、自分の家族や悩みについて話すことはなかった。
その代わり、彼女の話はよく聞いてくれた。
当時、人間関係に悩んでいた彼女に対し、加藤容疑者は「生きていれば何とかなる。何かあってもオレがいるから」と優しく励ましてくれたという。
当時を振り返り、彼女は「あんなふうに言っていたのに、自分がそうなったら(事件を起こしたりしたら)ダメだよ」と語る。
彼女は加藤容疑者について「病んでいたり、悩みがあるようには思えなかった。もし悩みがあったのなら、私が聞いてあげていれば、あんなにたくさんの人を殺さずにすんだかもしれない」と唇をかむ。
わずか1カ月間のつきあいだったが、今回の事件で、彼女自身もショックから立ち直れないでいる
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.......この記事は、あまりにもリアリティがある気がする。
もちろん、彼女の力ではどうしようもなかったと思う。
彼女の深い後悔と傷つきは、まさに知り合いに「自殺された人」が誰でも陥る「あの日にこうしてあげたら」心理状態とかなりの程度同質のものとすら思うが。
私が大学学生相談カウンセラー時代に何度も研修を受けた、自殺学の権威、高橋祥友氏が"postvention"(「自殺された」人のケア)の問題として、語っているものを熟読のこと。
一冊なら「青少年のための自殺予防マニュアル」がおすすめ。
これは「犯罪防止マニュアル」でもあるのかもしれないという思いから。
以上、トラックバックうまく張れないでいるけど、
●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘などお待ちします。第2部【上の第1部に続きます】(MIYADAI.com Blog)
に寄せて。
臨床心理士にできるのは「診断」ではなく「見立て(assesment)」であり、直接あっても居ないクライエントについてのこうした推論は慎むべきとされているのを承知の上で、精神科医や臨床心理士など現場臨床家の多くが首肯し得る非常に無難かつ最大公約数的なラインとして申し上げました。
マスコミや弁護士や留置のありかたが,彼の症状を今後こじらせ得る「原因」として機能し得るため、犯行時の真相究明をむしろ混乱させ、類似の状態にある人たちにも悪影響としてしか機能しなくなるということを示唆することこそ私の狙いです。「自己成就的予言」への危惧ですね。
●【人、瞬間(ひととき)】あの先生 夜回り先生、水谷修さん(52)(中)(msn=産経)
この記事、何か、自分を見るようです。
私自身は学生運動まっただ中の団塊世代ではないし、いわゆる「ノンポリ」だった。しかし、ロックアウトや学内で発煙筒が炊かれるを学内で体験できた「団塊余韻世代」、水谷氏の数年後輩を、東京千代田区のお隣の私立大学で「哲学科生」として体験した。
体験した哲学科生としての違和感は、水谷氏と接点が相当あると思う。
水谷氏自身は「遅れてきた」「時代遅れの」学生運動家みたいな世代的マージナル(辺縁)性を持っていたと思うので。
宮崎の死刑の是非は置く。
死刑論議にも関与すまい。
ただ、このタイミングでの「死刑執行」が(すでに言われていることらしいけど)秋葉原の事件を受けての、早速の「見せしめ」効果を狙ったと受け取られてもおかしくない(少なくともそう受け取られる可能性が高いことを承知で出さないとすればおかしい)あたりを「うさん臭い」と思うのは全く自然なことと思います。
はっきりいって、それを狙ったとすれば、現代日本とは、何とも「野蛮な」仕方で治安を守る、中世前期ヨーロッパの異民族との戦争クラスの前近代的な社会でしかない。
今は「モーロ人」と戦ったシャルルマーニュやエル・シドの時代ではないのである。
「異民族」に新たに虐殺された見せしめに、ずーーーっとロンドン塔かバスティーユに監禁していた「その異民族」の「有名人」を公開処刑したようなもので。
何か、最近の「正論」って、ものごと割り切り過ぎて自分もその正論の犠牲者になる可能性を考えてもいない気がする。
そこで政府の政策(あるいはポピュリズム的世論)の支持をしても誰もそのぶん自分たちを助けても援護してもくれないよ.....といいますか。
ユングの「影」や「相補性」の概念を持ち出すまでもなく、
「私は『あいつ』のような人間ではない」
という論理よりも、
「自分の中にも『あいつ』と同じようなところがある」
という感覚がある人間の方が,結局は強い気がしてね。
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かつて、東京埼玉幼女連続誘拐殺人事件で宮崎が逮捕された日の報道が「おたく差別」になる危険を、逮捕の当日の夕刊を各紙買い占めて読んで、その晩のうちに朝日新聞「声」欄に投書し、数日後掲載された人間として。
私は、あの投稿をしたその日から、自分はカウンセラーだから彼とは異次元だ、なんてただの一度も感じたことはない。
もっとも、宮崎のことを「多重人格」という方向で鑑定しようとした人たちは、精神医学の中で蓄積された「多重人格」という診断の価値を「安く」してしまった張本人だと思う。
ちょっとした臨床家なら、あそこで「多重人格」の診断を持ち出すことが「あまりに素人臭いアマチュアリスム」の次元だと気がついた筈だ。
精神医学の世界ですら、明らかに診断に「流行」がある。
鬱病は古代ギリシャから普遍的に観察された病だが。
いや、およそ社会に置ける新しい概念は「過剰使用」されたあげくバブル崩壊して見事な値崩れを起こす。
何でもかんでもその概念を当てはめるうちに、別のものに化けるのだ。
「地球温暖化」や「グローバリスム」ですら、20年後には陳腐な概念として振り返られるかもしれない。
いつの間に「アダルトチルドレン」は差別語になったの?
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すでに公開されている情報から見る限り、彼には責任能力はあったと思う。ただ、拘置の過程で抗禁性精神病状態に入っていた、あるいは、いろいろな人が勝手にいろんな診断をする中で、彼自身がそれに振り回されていよいよ混乱していった(あるいは彼の中のよこしまな心を更にかき立て、更に邪悪にした)可能性は否定できないだろう。
敢えていうが、彼がこのタイミングで見せしめ的に死刑執行されたことで、実は、45歳前後以下の世代のマジョリティすら持っている危機的な「何か」が一緒くたに「葬り去られた」気がする。
法務大臣は、今後仮に無差別殺人は減ったとしても、20代から40代の自殺者はぐっと増えかねないことをやらかしている気がしてならないのね。
オイルショックの頃、石油に限らず、世界中の資源がまるで21世紀初頭にすべて枯渇してしまうみたいな「政府公報」が繰り返し流されていたことを忘れない世代として。
「それが世界の潮流である」
ということは、その潮流に乗っていたら社会がうまく行くこと、自分も生き残れることはみじんも意味しない。
30年スパンで見たら、笑いたくなるくらいに「世間の常識」は変動しているということ。
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宮台さんが自分のブログで、
●公共機関のために準備中の文章です。誤りのご指摘やご意見をお待ちします。(MIYADAI.com Blog)
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=652
として載せている原案、「社会包摂性」ということがキーワードとされています。
宮台さんなりに、最近の状況について、単に「評論」するのではなく、社会的に「コミットメント」しようというスタンスを感じます。
「フリーター」という言葉に変わって「ワーキングプア」という言葉が一般化するまでに、実は2年もかかっていないということ。
少なくとも20代後半から40代前半ぐらいの世代って、誰からも具体的な処方箋を政治水準では提案してもらえないまま、責められるばかりになっている気がします。
それを超えていくパラダイムを日本社会に提示しようとしているだけで、その心意気は買いたいですね。
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恐らく、私の世代は、実の親が、単に「銃後」ではない、大陸での戦争の現実を体験し、背負いながら戦後を行きてきたことを肌で感じている最後の世代かもしれない。
団塊世代よりも前の世代の「戦争体験者」感覚が、自分の中に濃厚に生きているのを感じる。
私の祖父は、関東軍の軍属で、ソ連の戦車におわれて引き上げる中で、何か非常に不透明な状況下で「殺されて」いる。父も銃で死んだ死体しか観ていない。
父親の兄のひとりは、現地で徴兵され、阿片窟で死んだことは歴史資料からほぼ確実らしい。(父親が長年かけて史料を読みあさり、執念で突き止めたようだ)
「阿片窟」で連想する映画といえば「ラ・マン(愛人)」ですが。
生き残った父と祖母は、昭和21年まで1年間大陸で生き延びた。
その優しくも気骨があった祖母こそが、私の中にある親より上の世代の「原像」であり、私の高校時代までの人格形成に大きく影響していると思う。
引き上げた先の福岡の実家は、東京生まれですぐ大陸に渡った父にとっては「故郷」ではなく、「異郷」だった。
私は,私なりに父親の身体に染み付いた「闇の部分」を引き継ぐだろう。
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昨日、「愛と哀しみのボレロ」(Les Uns et les Autres)を実に久しぶり(恐らく20何年ぶり)に、しかも完全版で観た。
私の大学学部生時代の映画。
原題と邦題が全然ニュアンスが違う映画としてマニアには知られているかと思う。
"Les Uns et les Autres"って、英語でいえば「"THE WE"and"THE OTHERS"」というあたりか。 直訳だと「私たちと他人」あるいは「俺たちとあいつら」ってとこ?
実は作品の中で繰り返して出てくる歌のタイトルでもある。
自分たちと他人
自分たちと他人
お互いが他人なのに
尽くす人は少ない
理屈ではわかっていても
救いを求める声を聞き流す
他人のことを聞き流す
人は皆平等だけど
特別大事な人もいる
ジョージ・オーウェル言うとおり
他人は他人
他人は他人
私が学部学生時代に読んだ、反精神医学の旗手、イギリスのR.D.レインの「自己と他者」っていう本(私がレインの本の中で一番親しめた本)のタイトルも連想するけど、これはあながち思い込みではない気がする。
DVDは完全版ではない3時間10分ほどのもの。現段階でVHSビデオ2巻組の中古でしか観れない完全版は4時間です。ビデオの画質は「凄く良好な」部類と思いますよ。DVDにダビングしても良好な画質保てます。ブルーレイ時代の本格突入待つしかないか? 入手難の作品です。
参考までに。確かPart1のビデオが冒頭の予告編付きで2時間25分くらいでヌレエフ(がモデル)のソ連ダンサーのパリ空港での亡命シーンまで。Part2のビデオが2時間6分です。
これ、カラヤンとヌレエフとピアフとグレン・ミラーをモデル(といっても史実とはいろいろ違うが)にした4家族の歴史が交錯する大河ドラマ、というくくりかたが紹介でよく使われるけど、実は完全版まで観ると、ベタン政権とナチ占領軍にゴマをすって戦後一転して転向して大物になった人物とその娘やら、アルジェリア戦争帰還兵という無名の男性4人とそれに絡む男女関係やら、実は「有名人」ではない人々を含む、合計8家族が緻密に織りなす(ひょっとしたらフランス人だとモデルとなる人物がもっといろいろ思い当たるのかも)からこそ面白い、よくこれだけの人数の登場人物の関係を緻密に統合できたと感じる、実に厚みのある大河ドラマなのだ。それが本来のこの映画の持ち味。
少なくともカラヤンのナチとの関係やヌレエフの亡命事件ぐらいは自明の教養水準として要求されるけど、あとはフランスのベタン政権(ヴィシー政権)とアルジェリア独立戦争とノルマンディ上陸作戦についての世界史の教科書クラスの知識があれば、この作品を味わうのに何も困らないと思う。
これは完全版で2回ぐらい通して観ると、どんどん味わい深くなる映画だと思います。一回観ただけでは登場人物の互いの絡み、とらえきらないし。
クライマックスの、ベジャール振り付けの、今は亡きジョルジュ・ドンのカリスマ的な「ボレロ」シーンだけがひとり歩きしているけど、このシーンにすべてが結実するこうした数多くの登場人物の歴史こそが本題。いわばその収束的救済のための「虚構の祝祭」がクライマックスということにあるわけで。
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この映画に「我がことのように」共感する感性を、現代はもはや失いつつあるのだろうと感じる。
すっと以前の映画だが、私は、「日本の一番長い日」も「白い巨塔」も子供時代に鮮烈な印象で同時代的に観た世代である。
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何か脈絡が散文的になってしまったが、
ここで書いたことの中に、恐らく今後の私の人生を決める、何かが含まれている気がする。
続きはこちら。
「湘南フォーカシングカウンセリングルーム」における、「フォーカシング個別指導」の料金を、今後改訂いたします。
(旧)お1人1回60分 8000円 日本フォーカシング協会メンバー割引 7000円
(新)お1人1回60分 6000円 日本フォーカシング協会メンバー割引 5500円
●お二人様以上の場合の割引
(新)お2人1回90分 合計10000円(おひとりあたり5000円)
お2人とも日本フォーカシング協会メンバーの場合:合計9000円(おひとりあたり4500円)
(新)ご3人1回120分 合計13500円(おひとりあたり4500円)
ご3人とも日本フォーカシング協会メンバーの場合:合計12000円(おひとりあたり4000円)
*****
一方、「あまりに安すぎる」というご提言(=「内容まで不信の目で見られますよ」)が多かった「大船でフォーカシングを学ぶ会」については、本日、6/15の次の回(7/6)から、【A日程13:00-18:00】【B日程 14:45-19:00】、共に、
(旧)2000円 日本フォーカシング協会メンバー割引 1500円
(新)4000円 日本フォーカシング協会メンバー割引 3500円
とさせていただきます。
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参加者お一人様が体験できる密度を勘案し、フォーカシング実体験の裾野を広げるつもりで、予約時間自由の「個別指導」とグループ中心の「学ぶ会」の格差是正(?)させていただいたつもりです。
どうかよろしくご理解のほど、お願い申し上げます。
昨日、6/1は、「大船でフォーカシングを学ぶ会」の23回め、3名の皆様にお集まりいただけました。
5/31は大船や鎌倉でもびっくりするほど寒い雨模様でした。
しかし昨日は、予想された暑くて蒸し暑い初夏の天気と異なり、むしろ秋の好天の日を思わせる涼やかな空気で、ほっとさせられました。その空気がどこかで反映した「学ぶ会」の場になったようにも思います。
今回は、それぞれ、まったく異なる背景からフォーカシングに関心をお持ちの、全員当「学ぶ会」初参加の皆様でした。
今回は、
1.身体感覚中心のクリアリングスペース(ホールボディフォーカシング統合バージョン)と振り返り
2.1名の方をフォーカサー、私がガイドを務める、生粋アン・ワイザー風のinner relationshipを大事にするフォーカシング・セッションを2名の方にはオブサーバーしていただいてシェアする。
3.藤嶽法第1法でフォーカサー1名、リスナー3名の持ち回り(私はリスナーとコーディネータのみ)
.....当会おなじみのパターンのようですが、それぞれの参加者の背景を尊重できたじっくりとした丁寧な時間の使い方を新鮮な形でできたと思います。
自分の中に何をフォーカシングする対象として選んでいくかへの戸惑いが生じたときにどうしよう?...とか、 イメージを言葉にすることと体の感じを言葉にすることの間での戸惑い、リスナー(ガイド)としてどう進めるかへのまごつきなど、参加者同士が共有して自由に自然に言葉を交わしていただくける場作りができたかなと感じています。
そして、フォーカシングを実習する体験をお持ちでも、フォーカシングの中で生じてきた、身体からのメッセージという確信がないものまで含めて、いろんな思いやイメージひとつひとつをそれぞれ自分の中で「認めてあげて」いくと、自然と先の展開が深まっていくというあたりを、まだまだじっくりと体験できた方が少ないのかなという印象を持ちました。
藤嶽法の実習では、藤嶽法と共通性のあるインタラクティヴ・フォーカシングを実習として体験された方が2名おられたれたこともあり、「フォーカサーの身になって、フォーカサーのフェルトセンスを感じようとする」際に、本当に端的な一語か2,3の語句、あるいはひとつのイメージとして提示してみた上でお互いに照合するからこそ生じる面白さを体験していただく上で、お役に立てたかなというささやかな思いもあります。
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●今後の予定:
【B日程】6/15(日)14:45-19:00
【A日程】7/06(日)13:00-18:00
の予定です。
なお、第4土曜日の2つめのB日程のコースは、2回連続エントリーがありませんでしたので、当面行わないつもりです。ですから、毎月原則第1・第3日曜の月二回、ただし時間帯が違うという体制に戻させていただきます。
*****
継続的な参加を必要とする内容にはいたしません。
第1・第3日曜のいずれかのみ参加、
敢えて月2回回の参加、
更に、ランダムに参加されること等、ご自由に選んでいただければと思います。
ただし、開催日前日夕刻までに、どの日にご参加希望かのエントリーを、継続者の方も、メール・ファクス・電話等で必ずお願いいたします。
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付言しますと、第1日曜の「学ぶ会」開催日(5/4も含む!!)については、夜19:00以降の個人カウンセリング・フォーカシング個別指導・ケーススーパービジョンの申し込み、第3日曜については、14:30までに終了する申し込み、19:30以降の枠のお申し込み、まだ予約がない場合には受け付けています。
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