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2008/04/16

件の宮台さんのサイトの記事にアクセスできてしまった

 前の記事で「アクセス不能になった」と書いた、宮台さんのサイトの記事、実はトラックバックお張りしていたためか、私のブログの「コントロールパネル」の「リンク元アクセス」からは検知できてしまったのですね(^^;;;)

 ただし、なぜかトップページのURLなので、読者の皆さんはもうアクセスできないかも。

 そこで、宮台さんにクレームつけられるのを覚悟で(こういう事態も、メタ真実形成におけるオープンなネットの「複数視座」の役割という観点からすれば当然あり得る、ということは宮代さんの論旨からすれば想定可能なはず ^^;)

 宮台さん自身から著作権侵害で取り下げを求められない限り、そのまま転載しておきます。

 一度ネットに掲載した以上は、日本中の何百人もが、この記事の「まるごとキャッシュ」を持っていることは想定できるでしょうし。

 私は、この記事の趣旨に「すべて」賛同するかは別として、注目するに値する見解であると考えています。


=======以下全文引用=========


一国を自壊に導くテレポリティクスの悪夢
投稿者:miyadai
投稿日時:2008-04-11 - 10:47:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(1)
一国を自壊に導くテレポリティクスの悪夢

o 特定財源問題・チベット問題・大連立問題での出鱈目な情報発信--


■私事だが、TBSラジオのニュースバラエティ番組『荒川強啓デイキャッチ』の金曜日コメンテーターとして、1995年4月の番組開始から数えて丸13年間、毎週ほぼ休まずにその日のニュースないしその週のニュースについてコメントをつけてきたことになる。
■当初は文字通りニュースのバラエティの豊かさに圧倒される思いだったが、それも最初の一年間だけ。ほどなくニュース解説がある種のルーティーンであることに気がつく。むろんニュースに一定の類型があることもあるが、問題の本質はそこにはないと感じる。
■結論から言えば、問題の本質は社会的反応のステレオタイプにある。日本では記者クラブ制度と放送寡占で、調査報道というより報告報道--政治家や官僚(警察官僚を含め)がこう言ってました--の比率が高く、事件なら事件について「本当の事」は分かりにくい。
■「本当の事」とはむろん言葉の綾に過ぎない。マスコミ論の今日的水準では、かつてのD・ブーアスティンのように現実を疑似現実が覆い隠すという単純な図式はとれない。むしろ視座--文字通りカメラの立ち位置--次第で複数のリアリティが並立するのである。
■社会学者P・バーガーはこれを多元的現実と呼び、J・ボードリヤールはオリジナル/コピーの二元図式と対比してシミュラクルと呼ぶ。事件報道をする寡占的放送局の全てが報告報道--警察リークの反復など--に覆われれば、複数視座の提示可能性は塞がれる。
■従って、ここでいう「本当の事」とは、あり得る視座の大半をシミュレイトした結果得られる「多元的現実の束」を意味しよう。「こちらからはこう見え、そちらからはそう見え、あちらからはああ見える」ということ自体が、謂わばメタ真実を構成するのだ。
■こうしたメタ真実を受容するには前提が必要だ。社会を多様な者たちが構成するのが通常態だという認識である。近代が成熟すれば社会は多様になる。だが多様性フォビア(恐怖症)が覆う日本ではメタ真実が嫌われ、不安を覆い隠す単純な真実が需要される。
■私にとってニュース解説がルーティーンだと感じられるのは、そうした事情からマスメディアが形づくりがちな社会的反応のステレオタイプのせいだろう。簡単に言えば、いつも同じような社会的反応を相手に「そう簡単な話ではない」と言い続けてきている。
■何を切り口にしても良いが、ここでは昨今の内政ニュースと外交ニュースから「道路特定財源問題」と「チベット問題」をまず取り上げ、次いで内政と外交にまたがる大問題なのに政局問題として扱われた「大連立問題」に触れて問題の深刻さを示そうと思う。

【内政:道路特定財源問題の本質を取り逃がす】
■「道路特定財源問題」についてのマスメディアの扱いは改めて詳述しない。本質から述べよう。必要性を吟味せずに予算枠が決まっていれば、要らない道路が作られたり、余った予算が道路に関係ないものに使われるモラルハザードが起こるのは、当たり前だ。
■そもそも先進国標準に比べて道路整備が圧倒的に遅れていた時代の、まさに「暫定的」予算措置。だから道路特定財源の入口は「暫定税率」に支えられた。「暫定」の筈が何十年も「手つかず」というのも、あり得ない不合理だ。ならば、どうすればいいか。
■暫定税の部分を取りやめてガソリン価格を下げよ、物流コストを下げることは、国民、特に経済的に困窮する地方にとってありがたい、云々。いや、暫定税率の部分を特定財源から一般財源化せよ。一般財源化で、要らない道路が作られないようにせよ、云々。
■政治学的にはこの問題の扱いは決まっている。道路特定財源はやめるべきである。だが、第一に、暫定税を取りやめてガソリン税や重量税を下げるのは誤りである。第二に、特定財源化によって無駄が生じるのだとしても、単に一般財源化することも誤りである。
■理由は単純。車に乗る人々がとりわけ享受する便益--道路などインフラ整備の恩恵--や、車に乗る人々がとりわけ帰結する社会的コスト--排ガス公害や温暖化や交通事故の害悪--がある以上、ガソリン税や重量税は合理的だからだ。現に日本の税は国際的に高くない。
■従って、税を下げてはいけない。代わりに税の使い道を変えるしかない。「ならば、一般財源化しかない」と思うのは早い。必要性を吟味せずに使い道が特定されているのは不合理だが、租税の受益者負担原則ならびに租税の公平負担原則を忘れてはいけない。
■先述したが、車の利用者に専ら関わる便益や社会的コストがある「から」課税するのだ。一般財源という同じ財布に車の利用者だけが多くの金を入れるのは公平でない。車の利用者に資するリソースに車の非利用者の金が注ぎ込まれるのも受益者負担に反する。
■どうすれば良いか。ガソリン税は徴収する。今より高くてもいい。でも暫定税率はやめて恒久税率とし、道路特定財源も廃止する。でも一般財源化するのでなく、公平化や受益者負担の原則に従って、自動車周りの便益や社会的コストのために用いるのである。
■簡単に言えば、車周りのことに「広く」使うのだ。道路整備もある。環境対策もある。安全システム整備もある。交通遺児の手当もある。高速道無料化もある。道路建設だけに使うと決めるからモラルハザードが起こる。何にどれだけ使うかを拡げ、絶えず検討対象とする。
■今までも「どの」道路を作るかを是是非非で検討してきたのに腐敗が起こったとする向きもあろう。反論は簡単だ。昔は道路が少なかったから緊要性が高かった。道路が出来るほど緊要性が低くなる。低くなってくれば要求は恣意的になり、腐敗しがちになる。
■因みに道路族議員の「今でも道路を必要とする地域や人々がいる」という議論に但し書をつけよう。必要だという声があるから道路を作る。尤もらしい。だがそうした声に従ってバイパスや道の駅を作った結果、旧市街が空洞化し民業圧迫に苦しむ結果になる。
■昔はそのようには作られなかった。全総こと全国総合開発計画の名の下、建設省(現在は国土交通省に編入)が国道を計画、それに接続するブランチとして都道府県が県道を計画、更にそれに応接するブランチとして各自治体が市道その他を計画してきたのだ。
■国道整備計画が飽和すれば、ツリー状に構造化された道路建設計画も飽和する。その結果、アドホックな民意に従った道路建設がなされるようになる。道路建設には良くも悪しくも多様な波及効果がある。住民の要求通り作るのでは衆愚政治になり下がるのだ。
■考えておかねばならぬのは「受益者は誰か」が自明ではないことだ。道路の便益を享受するのは車の運転者や所有者だけか。物流の大半が鉄道に担われていた昔と違い、今では物流の要はトラック輸送だ。物流の恩恵は業者だけでなく国民全体が享受している。
■であれば物流を担う商業車については燃料税や重量税を下げるのが合理的だ。軽油税など一部はそうなっている。環境対策、安全対策、交通遺児対策などに関しては、「受益するのは誰か」とは別に「責任を負うのは誰か」が自明ではない。検討が必要になる。
■昨今では道路特定財源問題が、暫定税率廃止問題か一般財源化問題へと単純化される。不合理な議論である。不合理で損をするのは国民だ。不合理な議論を批判すべきなのは「第四の権力」であるマスメディアである筈だ。だが責務を果たしているとは言い難い。

【外交:チベット問題の本質を取り逃がす】
■昨今のチベット問題には、確かに餃子問題と似た所があるように見える。餃子問題での中国政府の対応には、倫理的には問題があっても、一定の合理性がある。倫理的に批判を浴びているチベット問題での中国政府の対応にも、似た合理性があることが重要だ。
■今日の国民国家においては「統治権力の意志にそれなりの合理性がある」と見るべきだ。むろん今述べた通り合理性は倫理性を意味しない。倫理的な侵犯は感情を刺激する。だからマスメディアの餌になる。だが合理性があればあるほど倫理的批判に効果がない。
■今挙げた例では「国民国家の統合ぶりを示す」という目的に由来する手段的合理性だ。五輪が背景にある。餃子問題でいえば、従来なら中国政府は、たとえ冤罪にせよ「犯人」を挙げ、「これは食の安全問題でなく、特殊な者による刑事事件だ」としただろう。
■だが五輪を前にするとプライオリティが変わる。「国内に安寧秩序を脅かす反乱分子がいる」ということ自体が、国家統合を示すための象徴操作上、問題化する。中国政府がチベット騒乱を国外(ダライラマ法王)の陰謀だと断定するのも同じ理由なのである。
■五輪を前にすると、国際社会を相手とした象徴操作が喫緊の課題になるのは、どんな国民国家においても同じことだ。1988年のソウル五輪で、犬料理屋が目貫通りから裏通りに移転させられ、散在した性風俗店がチョンニャンニ(清涼里)に集積させられた。
■東京五輪も同じことだ。首都高建設は因より、直前の東海道新幹線開通も国際社会を相手とした象徴操作であったし、長年の婦人運動を背景にした1958年の売春防止法施行にも、不平等条約撤廃を目的とした明治時代の猥褻三法と同じく象徴操作の面があった。
■象徴操作としての合理性を追求する営みを批判する資格は、どこの国にもない。合理性の追求を仕方ないこととして認めた上、しかしそれによる倫理性の侵犯が象徴操作上かえってネガティブな帰結をもたらすことを中国政府に伝達することが、大切になろう。
■むろん先進国を中心とした批判的感情の噴出がそうした伝達機能を担う。餃子問題における日本国民の批判的感情の噴出もそうだ。だが中国政府はそれを相対的に軽視する。「人の噂も75日」だからなのか。それ以上の理由がないかどうかの検討が、必要になる。
■餃子問題の場合は、日本の食が中国に大幅に依存するという安全保障上の弱点ゆえに足元を見られているという「別の要因」が強く効いているが、チベット問題でも、チベットが水資源と鉱物資源の宝庫であるという安全保障上の「別の要因」が効いている。
■グローバル化が進むと一般に安全保障問題が浮上する。なぜなら安全保障とは一口で言えば「依存はある程度仕方ないが、依存しすぎると危ない」とする物の見方だからだ。どこの国でも、軍事のみならず、資源や、食料や、技術や、文化の安全保障が浮上する。
■その結果、オーソドクスな国際貿易理論とりわけリカードの比較優位仮説か効かなくなる。比較優位仮説は、各国が得意分野に特化した上、国際貿易すればパレート最適化が果たされるとする。この仮説は、稀少な財も高い金を払えば買えることを前提とする。
■だが軍事外の安全保障問題が浮上すればする程この前提は危うくなる。中国はレアメタルを売らないようにすることを示唆した。似たことが各国の各種品目に拡がる恐れがある。グローバル化が国家の役割を小さくするという物言いが妄念であることが分かる。
■二十年以上前まで中国はダライラマ法王に緩やかな自治を約束していた。それが変わった。90年代からグローバル化の時代になったことが大きい。マネジメントの移入で中国が急に近代化して各種リソースの需要が増大し、他国への依存度が増したのが背景だ。
■中国政府にとって、13億国民の生命と安全の確保という観点から、チベットの水と鉱物資源がますます重要になる。だがそこでこの地域に住む300万人(アムド地域やカム地域を含めると600万人以上)のチベット人の宗教的文化が大きな障害になることに気づく。
■鉱物資源のために山に穴を開けたり、水利のためにダムを作ることを、チベット仏教が許さないのだ。中国政府にすれば、人口0.5%にも満たない前近代的な人々が13億人国民の生命と安全を脅かす。チベットが中国領である以上、彼らを開化するのは当り前だ。
■「大善のために小悪をなすを憚るなかれ」。国民国家は統治目的上こうした構えを多かれ少なかれ採るしかない。列強の横暴から大東亜を守るための「侵略」然り。独裁者の横暴から善良なるイラク国民を救済するための「侵略」然り。綺麗事は通らないのだ。
■綺麗事の倫理的批判は、それなりに倫理的な合理化が可能な国家目的や統治目的によって、簡単に中和されてしまう。辛うじて有効なのは、「そうした手段の選択がかえって国家目的や統治目的の完遂を妨げること」を統治権力に納得させる営みであるだろう。
■そこでは倫理的批判ではなく歴史的批判が必要になる。即ち歴史を参照すれば「そうした手段」の選択が経験的に見合わないことが分かるという指摘である。その場合、誰が指摘するかで効果が違う。例えば現に経験した者が反省的に語ることは有効であり得る。
■その意味で日本に資格がある。中国共産党の近代化モデルは、日清戦争の敗北を反省した中国人が日本のアイヌ政策や琉球政策に学んだ「単一民族化」図式。だがこの図式を完遂しようとした日本は領土を失う。「単一民族化」が通用すると見えたのは局所だ。
■個人に対する批判と国家に対する批判とは同列に扱えない。国家は「大善のために小悪をなす」ことを憚らない存在だからだ。大善のために手段的な合理性を持つと信じられるからこそ小悪を敢えてなす。小悪に対する倫理的批判などハナから折込済みなのだ。
■倫理的批判の大合唱は、蛙の面に小便であるどころか、相手国国民の感情を硬化させて相手国政府を縛ってしまう。相手を善導するには、むしろ直接的感情の発露を抑え、戦略的に振る舞う必要がある。マスメディアは、そのことを国民に伝える責務を負う。
■マスメディアが俗情に媚び、国民が感情的に自国政治家を突き上げる場合、政治家には戦略的な外交行動が採れなくなる。その結果、中国政府の善導ができなくなるか、他国政府たちにその役割を奪われることになる。これは明らかに国益に反する結果である。
■日本は曲がりなりにも近代国家であり、パブリック・ディプロマシー(世論を背景にした外交)を旨とせざるを得ない。国民の民度があがれば、その民度によって政治家が後押しされ、あるいは縛られる。ゆえに「第四の権力」は外交的にも大きな力を果たす。

【内政・外交を支える適切な自意識を取り逃がす】
■内政と外交に渡る昨今の個別事例を挙げた。国民の俗情に媚びるマスメディア(に媚びる政治家)が、他国ならば採り得る適切な内政・外交上の選択肢の採用を妨害する典型例である。だが内政・外交に跨る昨今最も重大な事例は「大連立」問題に見出される。
■私は大連立問題での福田&小沢合意が民主党総務会で否決された後の記者会見を最初から最後まで見た。小沢民主党代表は、福田首相側からの二つの重大な意志変更ゆえに、大連立への前向き姿勢を採ったと説明した。そこで説明された意志変更は極めて重大だ。
■一つは、イラク特措法の延長に拘らず、自衛隊海外派遣に関する恒久法を目指してOKというもの。もう一つは恒久法の中身だが、国連(総会や安保理)が動かない問題については、米国の要求があっても自衛隊を出せないようにしてOKというもの。重大だ。
■この記者会見で最も仰天したのは米国だろう。米国追従路線への実効的な釘刺しを意味するからだ。だが十分後のNHKニュースでは政治記者が全く別の説明をした。国民生活を停滞させてはいけないから福田・小沢両氏が大連立に合意した(!)と述べていた。
■その日の夕刊も主要紙を含めて全てが、米国が仰天しただろう小沢会見の中核部分を報じなかった。私は記者クラブによる報道管制でもあったのかと思った。だが記者たちに尋ねるとフェスティンガーの「認知的不協和理論」が最も有効な説明になると判った。
■第一に、米国追従が自明化した意味空間ゆえに小沢発言の意味がつかめなかったこと。コロラリーだが国民に説明しても理解されないと感じたこと。第二に、福田・小沢合意の内容が、米国追従のみが現実的だとされる意味空間ゆえに発言が戯れ言に思えたこと。
■残念ながら、日本国の内政と外交に関する適切な自意識が、国民はおろか、政治記者の間にも共有されていない事実が示された。そのような意味空間では、政治家がマスメディア相手に重大な発言をしても、それが記者にもコメンテータにも受け止められない。
■内政と外交に関する適切な自意識と述べた。二点を紹介する。第一は、米国の伝統的な外交手法に関する認識。ジョセフ・ナイのソフトパワー論に象徴される通り、国益上の最適選択が米国追従だと各国の国民が思えるように下ごしらえするのが、米国の常だ。
■目下のリソース配置で米国追従が最適だとしても、そのリソース配置のままで良いかは別問題だ。政治哲学では「行為功利主義と規則功利主義とは別」と言う。「与えられたゲーム(規則)で何が最適プレイか/そもそもどのゲーム(規則)が最適か」の別だ。
■第二は、米国が日本の国益増進に与えるプライオリティが冷戦終焉後に変化したこと。最近、武部元幹事長を座長とする自民党の政策勉強会の第一回会合に呼ばれ、自民党の党勢凋落の根本原因を探れという要望に応じて、約一時間余り要点を話す機会があった。
■要点は単純だ。(1)党勢凋落とりわけ農村票の自民党離れは絶対得票率分析によれば90年代前半から生じた。(2)原因は、80年代末の牛肉オレンジ交渉と日米構造協議(の結果としての農産物自由化・大店法緩和・公共事業漬け化…)がもたらす農村空洞化にある。
■(3)当時も米国の行動原理は不変であり、冷戦体制終焉と日本による製造業グローバル化を踏まえて日本の位置づけが変わったのである。(4)[日本は意識したくないが]米国による日本の位置づけが変わった以上、米国追従と国土保全が両立しない選択になった。
■(5)国土保全を重要視するなら、米国追従を徐々にに中立化する必要がある。(6)それには軍事的安全保障がネックになるから「軽武装依存」から「重武装中立」にシフトする必要がある。(7)それにはアジア重視外交により、アジアの感情的回復を図る必要がある。
■勉強会に出席した数十人の議員から悲鳴とも溜息ともつかぬ声があがった。「もやもやしていたことに初めて言葉が与えられた」と発言する議員もいた。だが「対米追従と国土保全は今や両立しない」という認識が小沢発言の背景にあった、と私は睨んでいる。
■冷戦体制後、米国による日本の位置づけがシフトしたのに、日本による米国の位置づけが変わらない。片思い状態に近づいたのに、日米関係についての自意識が変わらない。小沢発言でこうした問題を議論する千載一遇の機会が与えられたのに、誰も利用しない。
■こうした問題の構造を理解したとしても、解決すべき課題は困難を極める。米国を敵に回さずに米国にノーと言えるようにするための戦略は? 重武装化に必要なアジアの感情的回復の戦略は? 重武装化(のための改憲)に必要な文民の資質向上のための戦略は?
■結論。判りやすく言えば「民度の低い国民・に媚びる水準の低いマスメディア・に媚びる理念なき政治家・のテレポリティクスに踊らされる国民の民度低下」という悪循環を、どう食い止めるのかだ。マスメディアが果たすべき責務は、もはや言うまでもなかろう。

==============引用終わり============

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コメント

こんにちは。
こういちろうさんの、裏技的なテクニックのおかげで、記事を読むことができました。感謝します。
早速、「宮台さん自身から著作権侵害で取り下げを求め」られた場合に備えて、コピペして自分のコンピュータにテキスト保存。
フロイト全集を引用しまくりの私としては、引用および著作権問題は気になるところなのですが、あんまり言うとやぶへびなので‥‥。

全体を読ませてもらって、なるほどいろいろと斬新な視点を教示されましたが。
「だからこそ、宮台さん、もっとがんばってよ」と、言いたい。
宮台さんの社会批判が、一部の若い人に受けていることは知っていたけど、なんとなく食わず嫌いというか、あまりちゃんと読んだことはなかった。
内容がどうとかより、あの言葉づかいが。「民度の低い国民」とか、あえて刺激的な表現での啓蒙を計算してのことかもしれないけど、どうも「自分以外はみんな馬鹿」という態度に受け取れてしまう。
ほぼ同じことを「私も含めて、日本人もまだまだだねー」などと表現すればずっと共感しやすくなるのに、と思うのは私の個人的な好みかもしれませんが。
なんといっても、宮台さんは平均的な国民より、ずっとマスメディアに大きな影響を行使できる立場にいるのだから。
日本のマスメディアのレベルが低いとしたら、その責任の一端は宮台さんにもあるだろう、と言いたいね。

「多元的現実」についての論は、宮台氏のブログの4/16づけ記事「『靖国 YASUKUNI』騒動を巡る巷の議論は、本質を全く捉えていない」にも書かれていますね。
この文章では、「表現の自由は憲法規定で、憲法規定は国民ではなく国家(統治権力)への命令だからだ。 」というあたりの考え方は、宮台氏の師であり私も尊敬する小室直樹氏が強調していたところです。しかし、他の箇所ではやたらと学者の名前や概念を引用しているのに、なんでここでは小室氏の名をあげないのかなと。
ブログの最近の記事を読んだところでは、宮台氏はかなり小室氏の影響を受けているのだなと思ったけど。
うがった見方をすれば、極右的なイメージの小室の名を出すと、不偏不党の立場をとろうとしている宮台氏のイメージに傷がつくと考えているのかなとか。
多くの視点から、真実を浮かび上がらせようという姿勢は大切だし、もっともだと思うが。「じゃあ、あんたの立場はどうなんだ」と、詰め寄りたくなってしまう。
「あんな立場も、こんな立場もあって、双方がいがみあっていることも理解できる。そういうことを冷静に分析して判断できる、賢いボクなんだよ」と言っているようで、なんだかなあ。

と、批判的なことを書いたけど、宮台氏への期待です。しかも、ここ程のブログになると、ご本人が見に来ないとも限らないので。

で、「靖国」について。
ついでに、「日の丸」と「君が代」についても、私自身の最近の感想。

想像してみよう。もし、パラレル・ワールドならぬ、パラレル・ジャパンがあったとして。
そこでは、歴代首相の靖国神社参拝は当然のごとく毎年行われていた。
あまりに当然なので、いちいちマスコミもとりあげず、一般の人もどうでもいいと思っており、諸外国もそのことを問題にしていない。
参拝は儀式として形骸化し、その意味は問われず、ただなんとなく例年どおりに行われていた。
国旗も、国家も、平均的な他の国と同じ程度に、尊重され、学校の儀式で掲揚され、歌われていた。
そのことに疑問をもつものもあまりなく、しかし本当にそれらが心をこめて尊重されているわけでもなかった。つまり、形式化していた。人々は無関心であった。

以上のような事態は、けっこう起こりそうなことだと思うのだが、現実の日本ではそうなっていない。
パラレルジャパンの状況に比べれば、今の日本の人々は、はるかに強く日本を愛している。
それも、アンビバレント(両価的)に。

フロイト曰く(といっても私の記憶からの不正確な引用ですが)、愛の本当の対極は無関心である。憎しみは、むしろ愛に近い感情である。

投稿: 重元寛人 | 2008/04/16 17:46

追記

最後のフロイトの引用は、ちょっと蛇足でした。
よく調べたら、はっきりそのように書かれているところはなかったので少し訂正。

頭にあったのは、『欲動とその運命』(1915)の議論で、愛についての対極性を自我の発達段階に応じて次のように分けている。
第一段階:愛-無関心(原ナルシシズム段階の自我と外界に対応する)
第二段階:愛-憎しみ(対象との関係において生じる)
第三段階:愛すること-愛されること(能動性と受動性、男性性と女性性の対立と対応する)

このように、もっとも根源的に愛と対立するのは無関心である。
しかし、靖国の話と結びつけるのはこじつけだったかな。

投稿: 重元寛人 | 2008/04/16 20:50

>重元さん

 なかなかクールな感想、おもしろかったです(^^;)

 私が敢えて今回全文掲載に踏み切ったひとつの理由は、「なぜ取り下げたのかよくわかんない」という点に不服があるからでもあります(^^)

 それはこれ以上深く追求しないことにして。

>内容がどうとかより、あの言葉づかいが。「民度の低い国民」とか、あえて刺激的な表現での啓蒙を計算してのことかもしれないけど、どうも「自分以外はみんな馬鹿」という態度に受け取れてしまう。

 受け取りようによれば、宮台さんの「信者」的な人は、宮台さんと「同一化」しているから、「自分たち以外はみんな馬鹿」 という意識になれるはりあいがあるのかもしれない(^^;)

 ただ、私も、少なくとも「終わりなき日常を生きろ」を読んだ頃よりは、この人の文の「体臭へ」の違和感が無くなって、言わんとしていることの内容だけで判断するという感覚になってきているところがある。

 以前はそんなに意識しなかったけど、フォーカシングの背景にある体験過程理論も、ある種の「ポストモダン」の潮流であることをさらりと実感できるようになって来ていたことも大きいかもしれない。

 いずれにしても、今回、これをきっかけに宮台さんのブログの記事を思いつくままにあさって読んでみているけど、宮台さんの主張を「価値相対主義」でくくるのは、いくらなんでも底が浅そうだとは思う。

 ジェンドリンでさえ、身体からのメッセージはその人固有の含蓄を帯びるし、ひとつのシフトが生じたら終わりなんてなくて、その瞬間に、新たに焦点づけ可能なフェルトセンスが生じ、それから再び「その全体」への焦点づけの結果、シフトが生じるというジグザグなステップで、それがどう進むのかについては予見不能という立場で、そういう意味では「絶対的・固定的な価値はない」という立場なのだし。言語としてシンボライズされたものは、もはやみな「抜け殻」であり、シフト体験の瞬間に身体に生じたことを「反芻」して味わい直すためのラベル(ハンドル)という立場に基本的にあるわけで。

 「ゴーマニズム宣言」初期に、小林よしのり氏は、

「みんなひとりひとりがゴーマニストになれなどと私は言ってはいない。そんなことになったら価値紊乱の相対主義になるだけだ」、と、突如言い出した時期があります。

 この時、「あ、そうじゃないの?」という違和感をはじめて覚え、ジェンドリンの体験過程理論まで説明して、更に、「そういう群雄割拠の中で生き残るのはほんのいくつかの思想になるでしょうから」と、ややなだめるような投稿を送ったら、よしりん先生、後者の文を、当時編まれた読者からの感想特集の本に収録して下さったものの、実際本になってみると「ちょっと卑屈で媚びた書き方したかな」という、微妙な後味の悪さを感じたんですね。

 今にして思えば、よしりん氏にとっては、その頃から、宮台氏なんて「価値相対主義の権化」に見えていたことだろうと思います(^^)
 
 .....いずれにしても、そういう意味ではポスト・ポストモダニズムの世界的潮流の流れの一分枝としてジェンドリンの哲学を位置づけるクールなまなざしもあっていいと私は思ってます。

 要は、「シミュラクル」という著名な概念の中に、結構ジェンドリンと相通じる認識がふくまれてもいたわけだ....と気がつかせてもらったことが、私が自分のブログで記事として取り上げたモチベーションの半分以上なのです(^^)

 もうひとつには、以前別の記事でも取り上げた、ネットラジオのJ-POP批評での発言に共感するところもあったからなんですが。

 それはそうと、

>そこでは、歴代首相の靖国神社参拝は当然のごとく毎年行われていた。
あまりに当然なので、いちいちマスコミもとりあげず、一般の人もどうでもいいと思っており、諸外国もそのことを問題にしていない。
参拝は儀式として形骸化し、その意味は問われず、ただなんとなく例年どおりに行われていた。
国旗も、国家も、平均的な他の国と同じ程度に、尊重され、学校の儀式で掲揚され、歌われていた。
そのことに疑問をもつものもあまりなく、しかし本当にそれらが心をこめて尊重されているわけでもなかった。つまり、形式化していた。人々は無関心であった。


 このシミュレーションですけど、確かにそうなんですよね。

 でも、多くの国で、「国旗」というものに象徴的な意味を強くみる傾向は確かにある。

 だからこそ、他国の政治のあり方とかを糾弾する際に、多くの国で「相手国の国旗を焼く人たち」が登場する。

 独立を志す人たちは、「あの国旗」ではなくて、「自分たちの国旗」がひるがえる瞬間に忘れられない感慨を抱く。

  「父親たちの星条旗」で描かれたように、実は硫黄島作戦がまだまだ膠着していく段階ですでに星条旗を掲げた写真が撮られ、国民から戦費を調達するためとなれば、当事者の兵士をフィクションに巻き込んで人身御供としてでも個人史の真実は隠匿される。

 青島幸男氏がすっと以前に訳出した「23分間の奇跡」 (集英社文庫)という本では、アメリカの学校教育現場でも「国旗に忠誠を誓う」ということを、子供たちを洗脳してでも実現することが普通になされているらしい(?)ことが描かれていた(私が大学生の頃読んだ本です)。

 ただ、日本の場合に特徴的なのは、第2次大戦後、「日の丸」を即、ドイツにおける「ハーケンクロイツ(鍵十字)」と同じように、戦中の政治の「悪」を象徴させる存在として受け止めるという流れが形成されていき、「日の丸」=「軍国主義復活」、「日の丸反対派」=「左翼」という感覚が、恐らく、右翼からとも左翼からともつかない相乗作用として増幅される中で、まるで「日の丸」「君が代」を認めるか認めないかという点だけで、「左右両派からの」踏み絵とされる、という、あまりに単純な構造が定着したことです。

 その「真ん中」の人たちにとっては国旗に感銘するのはオリンピックの時ぐらいで、「ゆるやかな親しみ」の対象へと変化しつつあったのに.....です。恐らく、大多数の国民の天皇への敬意もそうした「緩やかな肯定」感覚というのは、今もそうでしょうし。


>うがった見方をすれば、極右的なイメージの小室の名を出すと、不偏不党の立場をとろうとしている宮台氏のイメージに傷がつくと考えているのかなとか。

 これはどうでしょう? 宮台さんは「不偏不党」であろうとしているのかどうか? 既成政党との関わりにおいては単純な「支持」と思われないように、「取り込まれない」ようにする慎重さがあると思いますが。

 ブログの他の記事で、「自分は保守リベラルである」と明快に自己規定してあるし、ある意味で最近の文章がかなり「保守的」であるとみられてもいいとご本人思われていると思いますが。

 まだ、ブログのいくつかの記事を細かく読み始めた段階ですが、「著名な学者」としての自分の影響力については、どこでどうふるうかについて、すごーく「自覚的な」方という印象です(^^;)
 


 

投稿: こういちろう | 2008/04/16 21:14

追記2

こういちろうさんのコメントを読んで、私自身少し筆がすべったかなとも感じました。

全体としては、私も今回ブログの文章を読んで、以前食わず嫌いしていた時よりも納得することが多かったです。
ので、これを機会にもう少し色々と読んでから、また批判なり意見なりしたいと思います。

国旗については、そうですね、もう何年も前ですが朝日新聞の読者投書欄で、めずらしくお決まりのパターンと違う投書があって感心したのですが。
その趣旨とは、日本が戦争中にアジアの人々にひどいことをした、そのために彼らが日の丸を見て嫌な感情を持つ、というのであればむしろ、われわれはその日の丸を罪を思い起こすためにも掲げていこう、というような内容だったかと。(私の記憶からの引用ですから、かなり変形されている可能性あり)
確かに、日の丸が軍国主義の象徴だからだめということで、もし別のデザインの国旗を作って「日本は変わりましたよ」とかやったら、それこそ偽善以外のなにものでもないでしょうね。
罪悪感なのかなあと。
ひどいこともいろいろしたけれど、それも含めて日本です、ということには、なかなか耐えられないのかなあと。

投稿: 重元寛人 | 2008/04/16 22:30

 あのあといろいろ調べものををしているさなかで、日の丸についての歴史を再確認。


●日本での「日の丸」「君が代」の問題の公教育界での紛糾は、実は1989年文部省の学習指導要領で「入学式や卒業式などにおいては、その意義をふまえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものである」と明記されてから、1999年に「国旗・国歌法」が制定されるまでの間にピークが生じるが、1958年の改訂学習指導要領で「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、君が代をせい唱させることが望ましい」という表現がなされたのが初の具体的な動き(この時点では、「入学式や卒業式に」とは明言されていない点にも注意が必要だろう)。

具体的に君が代拒否で教員が処分されたのは1970年がはじめて。校長が君が代日の丸問題を苦にして自殺する事件は、1974年。

逆に言うと、1945年の終戦から1958年までは、公教育の世界で「君が代・日の丸問題」は、少なくともはっきりとは顕在化していなかったことになる。

ちなみに、日教組の勤務評定反対闘争強化が1957年だったそうなので、教員管理のための「踏み絵」として、翌年の改訂学習指導要領の前述の内容に盛り込まれたという「推測」も可能である。


●実は国旗・国歌としての制定は、1999年(平成11年)に「国旗国歌法」が成立するまでは、戦前の日本ですら、一度も明文化された法律で「国歌・国旗」と規定された時代はない。

 敢えていえば、1870年(明治3年)制定の太政官布告第57号商船規則に基づき、「日本船の目印」として採用されたという点のみ。

 戦前にも、1931年(昭和6年)と、その翌年に「大日本帝国国旗法案」が提出され、審議されたが、いずれも(初回は貴族院の審議未了、2回目は衆議院解散)のままで廃案になり、そのまま終戦を迎えている。

つまり、当時の軍国主義者にとっても、その後10数年、今更そういうことを「法制化」することが不可欠という認識がなかった。これは法治主義の未熟さともいえるけど、そんな象徴主義より根が深い現実操作とか「大東亜共栄圏」のイメージ宣伝の方が大事だったのだろうと思う。


●ところが、1991年以前に施行された法律の条文の中で、実は国旗を何なのか規定する法律はないのに「国旗」という言葉が含まれた法律がたくさん存在した!!(「船舶法」、「海上保安庁法」「自衛隊法」「商標法」など)


●ちなみに、アメリカでは、公立学校で星条旗への敬礼を強制は、信教の自由を保障した合衆国憲法の修正1条に違反するという連邦裁判所の判決が出ており、実施されていない。その後、80年代のレーガン政権時代に、政府への抗議として星条旗を燃やす事件が起き、この事件を期に国旗を冒涜する行為を禁止する国旗保護法が制定されたことがあったが、1990年に連邦裁判所はこの法律が合衆国憲法に違反するものとして無効であるという判断を出している。


以上、

wikipedia「日本の国旗」の項
日の丸・君が代関連年表
日の丸と君が代(by 村田 浩 「クロ箱」)

より情報を得ました。


*****


 ちょっと過激かもしれないけど、そもそも「日の丸・君が代」が愛国心や戦争責任についての「踏み絵」的な象徴に祭り上げられていく過程そのものが、宮台氏的言葉を借りて「煽動的」にいえば、「民度の低さ」の現れであり、右翼も左翼もその悪循環の「ゲーム」に乗ってしまった「共犯者」ではないかとすら、個人的には感じています。ある意味では、戦前の軍国主義者以上に「ファナティックな」闘争に成り果てたとすらいえるかも。

 そんな単純な「象徴操作」だけで「教育の現実」が変わると双方が思い込んでしまったのだ。おかげで多くの実際的な問題がお留守になって、あるいはふりまわされて、現場の教員も、校長などの管理職の人も、文部省の官僚も「本当に必要だったこと」ができないままになった(あるいは、無自覚なままになった)。日本の教育の「実質的」改善には実は不毛なことばかりにエネルギーをとられたともいえるかもしれない。

 そもそも言葉で教える『内容』で教育的影響力に違いが生じるというのも幻想なのではないか。言葉で得られる『情報』で、人が変化したり成長したりするわけでもないのと同じである。

 戦前の日本の国政を全体として「ひどかった」と教えるのにも違和感がある。「正当化」にも違和がある。「侵略」と呼ぼうと「進出」と呼ぼうと、そこで具体的に歴史のどういう側面に個々の生徒がどういうふうに触発されるか抜きでは空疎な議論だ思う。一部の軍人のせいにしてもはじまらない歴史の流れ全体を読み解く必要がある。同様に、陰謀説的なものを排除してですら、第二次世界大戦の開始までの経緯に関しては、欧米の連合国側の「責任」とまでいわないないまでも、数多くの外交政策上の判断ミスもやはりあることは確かだろう。

そういうことを幅広く見渡すことが「価値相対主義」というのは、何か基本的におかしい気がする。矛盾錯綜した現象を包括的に観察し、「感じてみる」中で、ステロタイプではない認識と処方箋が見いだせてくるのではないかと思う。

投稿: こういちろう | 2008/04/17 06:50

こんばんは。最近は、こちらのサイトへのコメントにネットにおける活動配分を高めている重元です。
本日も、こういちろうさんの胸を借りるつもりでがんばってコメントいたします。

日の丸についての簡潔なサマリーと、ご意見をありがとうございました。

ただ、リンクのうち、Wikipediaのものが私のところからはうまく行けませんでした。自分で検索したらたどりつけましたが。

*****

日の丸・君が代の「強制」については、何をもって強制とするかということが問題だと思いますね。
そのあたりは、アメリカではどう考えているのでしょうか。

卒業式で君が代を起立斉唱しない生徒に罰をあたえれば、それは強制になるでしょう。
しかし、起立斉唱しない教師を免職にすることが、強制といえるのか。

その教師が個人的に出席した式典で君が代を歌わなくても、それは個人の信条の問題であり、かまわない。それを処罰されるのであれば問題である。
しかし、学校の式典での教師の振舞いは、単なる一個人のものではなく、生徒への見本としての教育的意味をもっている。
であるから、その振舞いが教師としての教育的姿勢として相応しくないと評価されれば、免職の対象となることもあるかもしれない。

*****

もっとも、私もこういちろうさんのおっしゃるように、日の丸・君が代問題は、もっと本質的な問題から比べれば辺縁的な事柄であり、そのことにエネルギーをさくあまりに、実際的な教育の問題や、国政全体の事柄がおきざりにされているというのは、まことに由々しきことであると思います。

教科書問題にしても、それ自体は大変重要なことではあるものの、しかし実際の教育現場においては、その教科書がほとんど使われずに教師が独自の授業をしているからあんまり関係ないという、笑い話のような状況がある。

ただ、それを「民度の低さ」のせいにするのでは、心理療法において症状を患者の「未熟さ」のせいにするのと同じで、あまり建設的とはいえない。
フロイト流に解釈すれば、「日の丸・君が代」は、ヒステリー症状のように、本質的な病理とは象徴的につながりつつかけ離れたところに生じる妥協形成物ではないかと。
なぜ、本質的な点に目が向けられないかといえば、ひとつには日本人の感じた大きな罪悪感。
そして、そこに戦勝国アメリカの陰謀によって、アメリカの罪まで背負わされてしまったという。

だいたい、日本において、保守は親米、革新が反米という傾向がありがちなのは、ちょっと奇妙でしょう。
自国の伝統を守ろうとすれば、外国には反発するのが自然の流れなのに。
だから、小林よしのりが保守で反米という立場を打ち出したのは、筋が通ったことだと思う。

*****

こういちろうさんの、最後の視点は、私から見ると価値相対主義ではなく、幅広い視点を持ちつつ、確固たる立場に基づいたご意見だと思います。

それに比べると、宮台さんの論述は、価値相対主義というより価値軽蔑主義と見えてしまう。
「世の中によくある意見としてAという主張と、それと対立するBという主張がある。Aは間違い。Bも間違い。どちらも、ことの本質を見誤っている。正しいのはNonA-NonBである。」みたいな。
そして、Aを真剣に主張する人の動機をみすかし、Bを鼻で笑う。
でも、あなたがNonA-NonBを採用する理由は、単にステレオタイプに迎合しない賢くかっこいい自分を演出したいからなんじゃないのか?
と、言いたくなります。なんだか。

宮台さんによる、具体的な事例の解説や分析は、なかなかするどく、納得させるものがある。
だけど、抽象的な理論のところがよくわからない。
そして抽象的な理論と具体的事例とのつながりがわからない。
いっそのこと、具体的事例の解説だけでいいんじゃないのか?

フロイトの著作だと、抽象的なモデルが提示され、それを具体的事例に適用することで、事例に新たな光が投げかけられ非常に腑に落ちると感じられる。それによって、モデルのすばらしさも納得される。
そういう、理論と事例の有機的なつながりというものが、宮台氏の文章からは、私は読み取れないのである。

さらに、ステレオタイプに陥ることを嫌っているらしい宮台氏が、非常にありきたりな主張をしているようにみえるところがある。

それは、「現代とは大きな変革の時期である」という見方。
人間とは、今自分が目の前にしている「現代」が、長い人類の歴史の中でも決定的に重要な変化の時期であると、実際より高く見積もりがちである、という気がする。
「現代こそはまさに歴史の変革期である」ということは、100年前の人も言っていた。200年前の人も、1000年前の人も、おそらく1万年前の人も。
しかし、そんなに人は、社会は、文化は、根本的に変化したのだろうか。あるいは、現在まさに大きく変化しつつあるのだろうか。

近代化からポストモダンへのパラダイムのシフトといったことも、4万年前に人類がアフリカを飛び出してから続けている、「文明化」という大きな波の表面にできた波紋にすぎないのではないか。
そういう目で見れば、フロイトの提示した文明化のモデルは、現代社会の分析にも充分通用するだろうと、私は思っています。

投稿: 重元寛人 | 2008/04/19 00:27

重元さん

リンク「貼り忘れて」いたwikipediaの項の部分、張り直しておきました。ご指摘ありがとうございます。

>ただ、それを「民度の低さ」のせいにするのでは、心理療法において症状を患者の「未熟さ」のせいにするのと同じで、あまり建設的とはいえない。
フロイト流に解釈すれば、「日の丸・君が代」は、ヒステリー症状のように、本質的な病理とは象徴的につながりつつかけ離れたところに生じる妥協形成物ではないかと。

なるほど。そういっていいでしょうね。

私が「民度の低さ」という言葉を使ってみたのは、宮台さんの思考プロセスを、まだ宮台さんのウェブ評論の全体までは掴んでいませんが、取りあえず読んだ範囲で、それこそシミュレーションしてみて、「宮台さんならここでこの表現使うかな?」と感じて使ってみただけで、この言葉そのものには共感していない私です.....と言い訳(^^;)

 この言葉を使うことに、偉い勇気がいるなあ....という「逆転移分析」も体験できたし(^^)


>なぜ、本質的な点に目が向けられないかといえば、ひとつには日本人の感じた大きな罪悪感。
そして、そこに戦勝国アメリカの陰謀によって、アメリカの罪まで背負わされてしまったという。

>だいたい、日本において、保守は親米、革新が反米という傾向がありがちなのは、ちょっと奇妙でしょう。
>自国の伝統を守ろうとすれば、外国には反発するのが自然の流れなのに。
>だから、小林よしのりが保守で反米という立場を打ち出したのは、筋が通ったことだと思う。

そのへんまでは「ゴー宣」継続して読んでました。

「新しい教科書を作る会」のメンバーになっていたのに辞める時の言葉として、「作る会」の人たちが「アメリカについてはちょっと.....」と逡巡したことに違和感を感じてのものでしたっけ。

確かに、全く自然な疑問だったろうと思います。

少なくとも、「大東和共栄圏」(これ自体、実は「大東和宣言」をはじめとして、他のアジアの参加国からの修正意見を全く受け付けなかった時点で、「お里が知れた」側面があったと思います)の復活と誤解されない形で、アジアとの関係重視の「非-非武装中立路線」を取る道を探って良かった。

 個々の汚職はともかく、「親米派保守」に対する「民族派保守」的側面があった田中角栄の動きにはそういう側面もあったのだろうと思います。

’(だから潰されたともいえる)

 でも、今も結局、中国に対しては、アメリカと中国の方が政治的には頭越しにしたたかな太いパイプを作っちゃってイニシアティヴをとるのを感受するしかない形で来てしまった。

 このあたり、今度のチベット問題へのEU諸国(アメリカではなく!!)とのスタンスとの違いに注意を向けてもわかることかと思います。むしろ、そういう日本外交の現状が見事に露呈したのがチベット問題という気もします。

アメリカは、中国の現状の厄介なところには目をつぶっても「今は」中国をサポートする(少なくともオリンピックが終わるまではなんとかかんとかそうする)という姿勢が露骨。

日本も「青色聖火守備隊」はお断りしたけどね。これは中国との関係悪化の危険を犯しても、国の警察権にも関わる「譲れない」ポイントにすべきだったので、胸をなで下ろす決断でしょう。

>「現代こそはまさに歴史の変革期である」ということは、100年前の人も言っていた。200年前の人も、1000年前の人も、おそらく1万年前の人も。
しかし、そんなに人は、社会は、文化は、根本的に変化したのだろうか。あるいは、現在まさに大きく変化しつつあるのだろうか。

それはそう。「最近の若い者は.....」と同じ。

最も、遺伝子操作とか、それの行き着く先の「人間(しかも「持てる者」)の長寿化」とかはかつて経験したことがないとは言えるでしょうけど、従来の「品種改良」ですら、実は生態系のバランスの上で甚大な反作用をもたらしてきたかということを言い出したらきりがない。

(この問題のモデルとしては、生態系的に孤立度が高いオーストリア大陸で、単なる在来種の撲滅、カンガルー問題だけではなく、家畜から野生化したウサギの大繁殖との果てしない「いたちごっこ」的な戦いなど、わかりやすい。この点は、以前もご紹介した、藤川 隆男著:「オーストラリア歴史の旅」 (朝日選書)に詳しい)

これだけのペースで人口増大する社会というのも、人類にとって20世紀以降が初体験でしょうけどね(^^)

ただ、そうした現象の「より小さなモデル」は、まさに過去の歴史の中ですでに繰り返されてきている。そうした事柄から現代への教訓にできるはずのことは、山のようにあると思います。

投稿: こういちろう | 2008/04/19 03:25

おはようございます。

だいぶ以前のことですが、「藤原弘達のグリーン放談」という番組でホスト役の藤原さんがゲスト(たしか牛尾治朗さんだったか)との雑談で、「結局日本人というのは、つつましく納豆でも食べている方が幸せだったんだろうね。」「そうそう」みたいな対話があって、とても印象に残っております。
要するに、大国の器でないのに経済大国になってしまった。こうなってしまった以上は、「納豆の国」に戻るのもむずかしいでしょうが。大国であることばかりがすばらしいわけではない、という視点も大事でしょうね。

もうひとつのパラレル・ジャパン。
戦後の経済発展もなく、貧しいままの日本。
「これも戦争に負けちゃったからしょうがないねえ。」と、言いながら納豆を食べている人々。
この方が、罪悪感を満たすためにはしっくりいって、精神的に健康でいられたかも。

投稿: 重元寛人 | 2008/04/19 07:42

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