増井先生のいわゆる「感じ過ぎている」について。(第2版)
さて、いよいよ「フォーカシング vs.増井」の戦いの本質を、やっと皆様に紹介することになる。(^^;)
この点で、この壮絶な戦い(?)について予備知識がある人向けにこれまで書きすぎていたかもしれない。
なお、神田橋先生の「自閉のすすめ」論については、「発想の航跡」に収められている。
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増井先生の師、神田橋先生の「自閉」論の本質は、そもそも精神病域の人や引きこもりの人(この二つを混同しないように注意を促したいが)が、なぜ社会や対人関係から引きこもるのかについての究極の逆説から出発する。
こうした人たちは、
外の世界の刺激を感じられないから引きこもるのではない。
あまりにも強烈に感じすぎているので、
それに全く対応できなくて、
やむなくそこから遠ざかるために引きこもるのである。
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これは、もっぱら薬物療法を中心としている精神科医の皆様も首肯する事実ではなかろうか。
統合失調症の薬は、気分を高揚させたり活動的にするものなのか?
......実はむしろ正反対である。その人の、自分の内部、および外部からの刺激に対する、特異な性質の過剰なまでの敏感さをむしろ鎮静させ、休息に導くためにある。
しかもその敏感さとは、一種独特の選択的なものだ。
(そのへんがわからないと、躁状態を鎮静する薬との重大な区別が見えないことになる)
この「選択的な敏感さ」について「説明する」という点では、神田橋先生も増井先生もやや不十分であると私は感じている。
現場臨床的には熟知しておられ、要約されると抜け落ちかねないさりげない箇所で言及もしておられる気もするが、少なくとも専門家一般に広まっている、要約された「神田橋理論」「増井理論」においては抜け落ちがちなポイントではないか????
特に増井先生は、実は関係性の問題について、「論じる理論」というより、現場臨床的に観て、実はもの凄い敏感な配慮をなさる方と私は感じている。
この「選択的な敏感性」についてとなると、中井久夫先生が言われている「微分回路認知」(あるいは「差分的回路認知」)の理論や、安永浩先生の「ファントム理論」まで動員して、やっと、日本における精神医学の叡智が結集したことになるだろう。しかもそこから引き出される結論は、実は意外なほど、精神医学における認知理論的なアプローチや生理学的アプローチの「最先端」とも接点が出てくるはずである(私のうかがい知る範囲では)。
しかし、特に中井先生の業績については、不完全ながらたびたびこのブログでも取り上げてきたので、ここではこれ以上言及せず、示唆に留めたい。
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それはともかく、増井先生は、この「感じすぎるから自閉する」というテーゼを、統合失調症や引き籠もりの人のみならず、広汎性発達障害、すなわち、狭義の「自閉症」にすら通用する、普遍的な問題軸で眺めている点では、大胆かつ画期的である。
ここでずっと追い続けている本には、次のような文章がある。これも是非一度、この本から全文紹介したかった部分だ。
筆者が関係する病院での実習の時、ひとりの学生が、ある自閉症者の精神療法の見学の後、
「自閉症というのは、他人や外界との関係を断絶した病気であると聞いていたが、なるほど、その通りだと思った」
という印象を述べた。
筆者はその時、その自閉症児との精神療法における治療目標は、患者と治療者が全くひとりひとりの人間として断絶しながら、ある一定の時間を共有するという、言語下的状況を中心とした、かなり神経を使う精神療法が進行中であり、患者にとり治療者ががそこにいるということを、かろうじて共有できていた時点であったので、その学生に、その[学生の、自閉症についての]定義が事実そうなのか、[つまり、]その患者に嫌われないように近づき、できれば抱き取ることを提案した。
学生は、相手を驚かさないようにやさしく声をかけながら近づいたが、、結果的に患者は、その学生が語るところによると、「まるで鬼を発見したように」逃げ去った。
仮に自閉症が、他人との関係を完全に断絶している病気であるならば、その患者は、ある意味では、他人の接近にも「物体」のように反応し、抱き取られるのも意に介さないと考えられる。しかしその自閉症児は明らかに、通常の子供より敏感に他人の接近に反応したわけである。
自閉症に限らず、程度の差はあれ、多くの患者にみられるこの傾向は、彼らは、その内的な体験として、他者の接近に対し、健常人より明らかに何かを感じすぎており、、その何かは、その個人に混乱を起すような圧力の高い感覚の下で体験されているという仮定を十分に成立させる。
(p.99)
この発言を、逆にADHD(多動性障害)の子供がなぜ落ち着かないのかを理解する上でも役立ちそうな気が、今こうして書き写している最中に、私の中でしてきたのだが。私は児童心理の専門家ではないのを承知で、思いつきを書かせてもらいたい。
なぜじっとしていられないか。じっとしていると、何か独特の、過剰な刺激に受け身に耐えねばならないからだとしたら?
(自閉症については、セミナーも何回か受講し、かつて、高機能自閉症の成人、および自閉症児をもつ家族ひとりとだけの面接で、適応促進的な円満な終結に至れたことがある)
そして更に、ここで増井先生の述べた、
患者と治療者が全くひとりひとりの人間として断絶しながら、ある一定の時間を共有するという、言語下的状況
とは、ウィニコットの言う「環境としての母親」「ひとりでいられる能力」、そして、バリントの言う、「フィロバティズム」の問題を、あまりにも見事に連想させはしまいか?
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さて、ここまで読んでこられただけで、読者もお疲れのことと思います(^^;;;;)
結局もう一日はかかることをお許し下さい。
増井先生が、ありがちなフォーカシングのありかたに、どのように舌鋒鋭く斬りかかるか、専門家の方の中にはは、多少あたりがついてきた方もあるかもしれません(^^)
続きはこちらです。
いかにもイタリア人によるギリシャの乾いた空気の中で大理石の彫刻のようだけど、若い頃よりずっと柔軟性を増した、
でも、例えば、第3楽章や第4楽章の中間部(別な作曲家の手で編曲されてドイツリートにもなってます。何とヘルマン・プライの独唱版がアルヒーフのLP(archiv 2533121)にかつてあったのね。私これ若い頃にFMで聴いてます)など、初々しいコケティッシュな魅力に満ちた部分もあるので、おすすめ。


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私は、自分の体型も性格も、かなりてんかん気質的な面がベースにあり、そこに分裂気質がまじり、実は躁鬱気質の人からは素質的には一番遠いと感じている。そういう私の生来の「何か」が、伝説上のステンカ・ラージンにシンクロしたのが、子供時代の鮮烈な体験なのではないかとも思える。
ピアノ・ソナタ(これは珍しく2種類登録されているが、John Browningの方をお薦め)やチェロ・ソナタ(この曲はブラームスっぽい)など、室内楽・器楽系が多いので、先ほどのCDを補完する「衝動聴き」にはもってこいである。





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