以上の内容は、
「開業カウンセリング」ではなくて、「私設心理相談」!?
への私のコメントの一部を、繰り上げ再掲載したものです。
初期のコメントから大幅増補されてもいますし、多くの読者の方に(改めて)読んでいただく意味があると感じましたので。
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報道というのは、常に個人の身に生じたことが匿名の大衆に公開されるという側面があります。
報道の対象となるというだけで、極論すれば、それが例えば
「港区民一気飲みコンテスト in 六本木で濱崎歩さん(28)が優勝した」
というような記事ですら、報道対象となる人にとっては『ストレス』になる場合があることになります(^^)
私も、そんなに多くはないものの(^^;),自分のことが雑誌などで取材を受けた、新聞で実名の投稿が掲載されたりするだけで、自分というものの自然な「現実感覚」みたいのものがかすかに「ゆらぐ」ことを何とかコントロールしようとしている自分を感じることがあります。
たいていの一般の人にとっては、自分が、放送されているテレビの画面に現実に映る機会があれば、半日は少し「おかしくなってる」と思います(^^;)マスコミに関わって、「現実との遠近法」を見失わず、身を持ち崩さないというのは、実はそれだけでたいへんな自我の力を要することと思います。
こういう次元まで考慮に入れると、「報道」というものと「個人情報保護」というものの間には,常にある宿命的なディレンマがあると痛切に感じます。
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少し次元は違いますが、今では、クライエントさんの事例について、ご本人の許可を得ないまま、クローズドな学会であっても発表することをしないという原則があります。
これはある意味でもっともなことなのですが、仮にご本人と話し合って、ご本人の納得がいく発表内容にして、内容に差し支えない個人情報は特定を避けるため「改変」や「曖昧化」「一般化」したとしても(例えば「"鎌倉市"を"K市"とすべきではない」というところまで決まりがあるんですよ!!)、それを発表するとなった時点で、クライエントさんのカウンセリングは「プライベートな」ことでなくなるわけです。
そのことがクライエントさんに与える微妙な影響ということを考えると、ご本人の承諾を得るというシステムが常にクライエントさんの利益であるとだけ言うのも一面的と思います。
事例発表の対象として選択するということは、いくら終わった事例で、匿名性は保証されていても、それだけでクライエントさんを「カウンセラーにとっての特別クライエント」にしてしまう危険をおかしてもいる。
つまり、事例発表について承諾を求めるという行為そのものが、新たな「転移状況」へとクライエントさんを焚きつける危険もあるわけですね。
デリケートなクライエントさんの場合,自分の事例が発表されたという事実を「快く承諾していた」としても、それがストレスやその後の人生へのプレッシャーになる可能性がある、ということになります。
(極端な実例としては、フロイトが
「狼男」の症例について、実は「中立性」「禁欲」の原則をものの見事に破っていて、生活費の援助までしていたし、その後の「狼男」の人生が、まさに「フロイトの患者であったこと」以外にアイデンティティが見いだせないものになってしまった悲劇は今日よく知られるようになりました)
そういう意味では、発表について受諾してくれるものの、「内容には干渉しません。見せていただかなくて結構です。お任せします」と言ってもらえるのが一番ほっとさせられる形ではあります。
でも、本人が発表内容を事前に知る「権利」は保証されるべきという点については、私の基本姿勢であり、「発表についての事前承諾」とは「閲覧権」を含まない、という解釈はどうみてもおかしいと思います。
現実の学会事例発表でも、クライエントさんが発表内容に目を通した際にカウンセラーに返してきた具体的感想までご報告下さる発表者も増えています。そうした発表は、うかがっていて気持ちのいい充実した内容のものが多い、とは、私の印象からは言えます(^^)
いずれにしても、クライエントさんの承諾を得るということが,実はクライエントさんの尊重のようにみえて、実はカウンセラーがクライエントさんに訴えられないための「自己防衛」としてなされる側面も自覚しないままに、安易に承諾を求めるようでは、これもまたデリカシーがない。
仮に本人が内容を知ったとしても、全然良心に恥じない場合にしか発表しない、という基本的態度は一般化して欲しいと思ってはいます。
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私の場合は、面接のお申し込みの際に署名付きでクライエントさんと交換する「個人情報の扱いについての申し合わせ」についての誓約書の中で、敢えて「学会発表や論文に書く場合」、それどころか「事例検討会に出す場合」について、守秘義務がどういうシステムで守られるかまで具体的に明記することにしました。これは、専門家が学術研究や研修のために事例に基づき「何をしているか」そのものを公開してしまい、そのことについて理解していただけた場合にのみカウンセリング関係を始めるということによって、そうした「ストレス」を事前に予防することも考えてのことです。
しかし、今度はそういうことを明示することによって、面接申し込みに二の足を踏む皆さんを生み出していまいかといわれれば、そうかもしれないということになりますね。
結局、この種の問題は、「こうすればその人の安全と人権を守ることになる」とある観点からのみ決めつけたとたんに、別の副作用が看過されやすいという、果てしないジレンマ全体をどこまで俯瞰できるかということだと思います。
こうしたことが、私の直面し「続けねばならない」壁だと感じています。
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蛇足ですが、最近でいえば「硫黄島二部作」などの戦争映画で、敢えて残虐なシーンがそのまま描かれるようになったことは、それを見た瞬間はショックであっても、戦争体験者のストレスを疑似体験する上では大事だと思います。


私は,基本的に、暴力描写を制限するあり方全体に、ある欺瞞性を感じます。暴力描写に一番神経質な国がアメリカであるということそのものに、私はアメリカという国家の基本的な歪みを感じてしまわざるを得ない。原爆の被害展がスミソニアン博物館で開かれることをが中止になったいきさつと同じと感じます。原爆投下が戦争の早期終結に必要だったと主張するのなら、そういう展覧会を実際に観てもその主張ができてこそ「理性的」なはずです!そういう人自身が、実は自分の、そして人間の理性を実は信頼していないことの証拠です。
それこそ、フィクションの世界で感性を自由に解放でき感化されながらも、現実の人との関わりでは、ある節度と思慮深さと人への思いやりを失わない人間こそ、「理性的で、自我のしっかりした」人間なのであり、青少年もそうした方向にこそ育てるべきなわけでしょうし。テレビで暴力描写を観ても実際には暴力を人に振るわない人間にこそ育ってもらわねばならない。
「この映画には、過激な暴力シーンがあります」ということを事前告知したあとは、お金を払って見る人の(少なくともそれを見せる大人の)自己責任と思います。
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戦争のPTSDの問題はやっとここしばらくの間に認識が深まって来ましたが、このことの大変さについての認識が広がると、それだけで誰も戦争を望まなくなると思うのですが。
最近ある情報で接して,今度もう少し調べてから取り上げようと思うのですが、ナイチンゲールがクリミア戦争の従軍から帰還した直後に10年近く療養するしかなくなったのは、PTSDの側面が強いようですね。
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最後に。
戦争でなくても、ひろい意味で、医療や援助職・福祉職に関わる人間は、独特のストレスフルな状況に耐えている。そのことだけでもケアが必要な次元で。そうしたことへの認識、以前より高まりましたけど、まだまだと思います。
私の仕事の重要な部分は、そうした援助的専門家「自身のための」メンタルヘルスであることを、明確に位置づけています。
そうしたご相談を、率先してお引き受けしています。
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