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2007/04/19

「怒り」ではない、言葉にならない「何か」を漠然と感じ続けていたとしたら? -カウンセラーこういちろうによるジェンドリンの体験過程理論の解題 断章-(4)

 ここからはじまった、ジェンドリンの体験過程理論の基本文献「人格変化の一理論」のごく短い断章についての、私の参加する勉強会での「ある特定の回の」やりとりを、やや要約し、脚色つつも再現する連載シリーズ、第4回です。(前回はこちら

*****

 ある人が全く幸せな気持ちを感じながら場を去った。だが四日後に,彼は,あの時実は自分は起こったことについてひどい怒りを持っていたのだと覚る,彼は自分がず-っと怒りの気持ちを持ち続けて「いた」(has been)のだが「そのことに気づいていなかったのだ」と感ずる。(旧訳・新訳同じ。 g原書p.138,新訳p.218)

 さて我々の理論は彼が現在,怒りと呼んでいるものがずーっと気づかれることなしに彼の身体の中にあったという考え方を否定する。我々の考えでは,何かがあったのだが,怒りを持つという過程はなかったのである。彼はそれを今怒りを持つ,と呼んでいる。なぜならば,彼はその過程に参加しており,彼の現在の怒りが,過去4日の間自分が身体的に感じていたある条件を「満たし」「放電し」「解放し」「象徴化し」「完了している」こと……すなわち早くいえば,その条件とある深く感じられた関係をもっていること……を生理的に彼に知らせるようなある解放惑(定義8[新訳:定義h]を見よ)をはっきりと感じているからに他ならない。


 An individual leaves a certain situation feeling quite happy. Four days later he becomes aware that really he has been quite angry about what happened. He feels that he "has been" angry all along but "wasn't aware of it."

 Now, our theory denies that what he now calls anger was in his body all along, without awareness. Rather, there was something, but not the process of being angry. He calls it being angry now, because now he is engaged in that process, and he clearly feels the releasing (see definition 8) quality which physiologically lets him know that his present anger "satisfies," "discharges," "releases," "symbolizes," "completes"--in short, has some deeply felt relation to--the condition he physically felt during the four preceding days.

 ......ここまでがすでに完全に終わった部分です。

 過程は生じていなかったのであり,それは,今になってはじめて変更をうけている或る生理的条件の方へと進んでいたのだ。「構造に拘束された」体験が「完了する」ときに我々は,以前にそれが何であったかが今わかるのを感ずるのである。そのときに,そのことがわからなかったのは,今進行している過程はそのときの停止した条件とは異なっているからである。 ([ ]内以外旧訳・新訳同じ)

 The process was not occurring, and that made for a physiological condition which is only now altered. When "structure bound" experience "goes to completion," we feel that we now know what it was then; we did not know it then, because the ongoing process of now is different from the stopped condition of then.

太字原文のイタリック。訳書にもある)


******


 こういちろうの講釈:


 ここに至り、ジェンドリンは「過程は生じていなかったのであり」と明言している。こうなると、以前棚上げにした問題、つまり、《第1幕》、つまり、この実例において、デートのまさにその時、更に《第2幕》、デート後の3日間の間、彼は、「十分幸福だった」という思う一方で、言葉にならない漠然とした曖昧な感覚としてのフェルトセンスに、少なくとも直接注意を向けてはいなかったという判断をしていたことになるね。

 もとより、有機体の暗々裏の機能そのものは、フェルトセンスに直接の注意(direct reference)を向けようが向けまいが絶えず進行している。このことは、この論文の第4節、「(知覚と行動における)暗々裡の機能」で既に解説されていた通り。

 でも、これと、体験過程「推進する(carry forward)」ということははっきり区別せねばならないわけでね。続く6節で述べられていたように、そうなると、フェルトセンスへの直接的注意(direct reference)だけは不可欠の事柄になる。

 わかりやすくいえば、デートの時のことと全く無関係なものとしての漠然とした実感でかまわないので、

「何かモヤモヤする」
「すっきりしない」
「なぜか調子が出ないなあ」
「どうしたのかな、あれだけ楽しかったのに、気分が今イチなのは?」

.....などとは自覚的に感じた瞬間が必要なんだよね。

 これで、そういう瞬間が、《第3幕》の4日めになるまでは全くなかった実例だという前提に、ジェンドリンは立っていたことになるね。

 さて、(参加メンバーに)思い出して欲しいんだけど、ジェンドリンの体験過程理論において曖昧な理解が今日までされて来たのが、次の部分に出て来る「構造に拘束されていた(structure-bound)」体験の「再構成化(Reconstituting)」なわけだけど。

 フェルトセンスとして直接注意を向けること(=direct reference)で、暗々裏の漠然とした意味合い(implicit meaning)が、なんとなく感受されはじめてれば、それですでに、体験過程の推進(carry forward)ははじまっていることになる。

 でも、もしフェルトセンスとして直接注意を向けられないままなら、その体験は「構造に拘束されて(structure-bound)」いる。その「構造に拘束されている」体験をフェルトセンスとして体験可能なものにして行くのは、その段階でフェルトセンスとしてすでに感じられるものに直接注意を向けて行くことで、小さな過程推進(carry forward)のステップが生じたその結果、いわばフェルトセンスとして注意を向けることが可能な、感じられる対象へと少しずつ「繰り込まれていく」形で生じる。この後者のプロセスのことを「再構成化(Reconstituting)」と呼んでいるであって、「推進(carry forward)」と並行して生じるけど、「推進」とは別次元の事柄とみなければならない。

 いわば、

個体の「ろう」が「ろうだまり」に溶けた液体のろうになる過程が「再構成化(Reconstituting)」、

その液体のろうが、芯を通って気化して空気と科学反応を起こして「燃える」作用の過程が「推進(carry forward)」

(フェルトセンスとして注意を向けることが「液体のろう」にあたる)

という比喩が使えることは、この「東海フォーカシング研究会」でみなさんと一緒に以前私が編み出した、オリジナルの説明(C)なわけだよね。

 つまり、火が燃える「から」、「個体のろう」は溶けて(=「再構成化」が進み「液体のろう」に繰り込まれて行く。

 でも、液体のろうが存在するには、その「個体のろう」が存在していたからはじめて可能なことなわけで。


B(お坊さん=藤嶽大安さん):.......そうなるとさ、どうなんやろ? ジェンドリンの言っとること、ちょっとここで矛盾しとるんとちがう? 「怒り」としてはっきり感じるようになる前の3日間も、この人は、「怒り」でなくとも、「何か」は感じとらんやろか。そんなら、その間も「過程は推進」しとって、「構造拘束」ではなかった、ということになると思うんやけど.」

(......以上、北部三重弁のアクセントでお読み下さい)


こういちろう:.......なるほど、そうね。

 3日めまでに、「怒り」ではないにしても、何か漠然としたものをこの人が感受して注意を向けたことがある可能性をはっきり否定することはジェンドリンは述べていないとも言える。

 なるほど、「怒り」なんだと体験したのは4日めだったし、それまでは「怒り」にあたるものが「どこかに隠れていた」わけではないとは明言していることになるし、その点では何も問題ないんだけど。

 この節の最初の方、

> there was something, but not the process of being angry.

ってあるわけだけど、

ここでいう"something"は、

うまく言葉にはできないけど「気になる」フェルトセンスとして体験されていた「何か」

なのか、それとも、

フェルトセンスとしてすら注意を向けられることなく、感じられてもはいない、まさに「暗黙の機能」としてのみ進んでいた次元のことを差すのか

というあたりになると、どちらにも受け取れる言い方になっているとも言えるかな」


*****


 今回の内容に至っては、ここまで十分に理解できた人は、少なくとも、「日本のフォーカシングを専攻する大学院2年めの学生の大半」以上の水準で、体験過程理論について理解できる(潜在力が既にある)皆様です(^^)

 むしろ、フォーカシングに普段無縁な臨床家の皆様に、こうしたやりとりを興味深く読んでいただければ幸いと思っています。


*****

 なお、藤嶽大安さんは、日本のフォーカシングの領域では、「藤嶽法」と呼ばれる、カードを用いた相互作用の技法体系の考案と、学校教育現場での活用においてすでに名前が知られた方で、私はこの方の発表の「プロデューサー」役を続けています。あくまでも「クリエイター」と「パフォーマー」は藤嶽さんをはじめとする「東海フォーカシング研究会」のメンバーです。

 4回にわたった、この連載は、とりあえずここまでにさせていただきます。




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