前の記事で、洗濯機おたくの少年の話を書いたので、これに対する臨床専門家の反応を予想的にシミュレーションして書いてしまうけど、
「この少年は、自閉症っぽいのではないか?」
念のために申し上げると、ここでいう「自閉症」とは、以前の、社会的引きこもりの人をみんな「自閉症的」と呼んだ時代の、「自閉症」概念ではない。
「広汎的発達障害」に含まれる「早期幼児自閉症」と呼ばれる、生後ほんの2,3週間で、母親とのアイコンタクトなどのコミュニケーションの障害が観察可能で、今日では生得的、ないし出産時までの微細脳損傷に起源を持つと仮定されている、カナー症候群とかアスペルガー症候群と呼ばれる診断のことである。
いわゆる「ひきこもり」の人のかなりの部分は、実は、他の人の気持ちについて過剰なまでに気遣った、気にする側面を持っている。それが空回りするので、周囲の迷惑に結果的になるだけであり、「自分の気持ちにめざめて」、「自分で引き受けられるようになる」までを「静かに見守って」くれる環境ができたりすると、むしろ一見以前よりも「わがままを『責任もって』通す」方向に向かう形で改善して行くことが少なからず見られる。
これは、ここでいう「発達障害」的な「自閉傾向」があるとされる人たちにの多くに取っては、むしろ一番不得手な周囲へのアンテナの向け方である。
ダスティン・ホフマンとトム・クルーズ主演の
「レインマン」も、こうした「発達障害的自閉症」の「重度の」人たちについて一般の人が認識を深める上で貢献した。
私は大学院時代、封切り時にマリオンで見ているけど、先輩や周囲に観たという人がなかなか出てこなくてちょっと失望したのをよく覚えている。
「カッコーの巣の上で」を合宿で院生に見せて下さった、我が村瀬孝雄先生ですら(この作品は、ジャック・ニコルソン演じる主役ではなくて、実は脇役のネイティヴ・アメリカンの男性.....観た人はすぐに思い出せますよね......のアイデンティティ探求こそが、原作から一貫する「真の隠れテーマ」なので、自らが帰国児童で、エリクソンのアイデンティティ論を専門の一つにしていた村瀬先生の関心が深かったのは当然なのだが)、「ほう、どうだったかね?」という関心にとどまっておられて.....
こうした「早期幼児自閉症」の人たちの中で、比較的社会適応に問題なく成長できた人たちを「高機能自閉症」とも呼ぶ。
この、「高機能自閉症」のことが、発達障害や幼児の専門家ではない心理臨床家にも幅広く認識され、自分が通常のカウンセリングの中でいつでも接する可能性がある人たちに、この診断を考慮すべき時代に来たことについての認識が一般化したのは、何と5年ぐらい前であるに過ぎない。
私は、いわゆる「発達」の専門の人たち以外では、比較的、この種の診断の可能性について考慮すべきケースに、ご家族からの相談を含めて、比較的早くから遭遇してきた方だと思う。
(これをお読みのクライエントの皆さん、私がこのように書くからといって、「自分も実はそのように見立てられているのでは?」と思わないでくださいね。少なくとも現在、ご本人からの相談で、その種の診断を専門家が今後する可能性を考慮に入れる必要があると感じる方はおられません。すでにそのような診断を「医師から告知されている」方自身やご家族とはお会いしていますが)
それでも私はいわゆる「発達」や「障害」の専門家ではありませんから、勉強不足はまだまだある可能性はあるにしても、でも、いきなり前の記事の少年を、先に述べた意味での、少なくとも軽度の発達障害的「自閉症」の図式でとらえるばかりに終わることには違和感がある、とは申し上げたいと思います。
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私は、「発達障害」をはじめとして、何らかの生得的な要因が疑われるとされたとたんに、「内省的なカウンセリングだけでは不十分(あるいは逆効果)で、生活指導的な訓練なしでは済まされない」という方向に一気にギア・チェンジしてしまう「切り分け方」に相当な違和感があります。
これは、(「発達障害」とは別次元の診断軸ですが)、たとえば統合失調症やうつ状態を経過した人について、「単なる受容的・共感的な傾聴を中心とするカウンセリングは、ひとつ間違えると症状をこじらせる」という言い方がなされることへの違和感にも通じるのですが。
最近の私は、「カウンセリング」という枠でお会いする限り、どんなクライエントさんとも基本的には同じようなスタンスでカウンセリングしているという意識しかありません。
もとより、完全予約制の、料金をいただく開業という形になった時点で、すでに私のカウンセリングルームにおいでになる決心をされる時点で、ある「ハードル」を越える力がある皆様だけがおいでになっている可能性については謙虚でありたいと思っていますが、すでに入院・服薬の経験がある方、通院中の方、あちこちの援助的専門家に相談する経験を重ねた方が少なくないことも確かです。何より、「1時間6千円」というのは、首都圏でJRの主要駅から徒歩10分の開業カウンセリングの立地からすれば、かなり安いほうですし(^^)。
実は、この「どんなクライエントさんとも同じスタンスでお会いしている気がする」ということは、私の中では、「一見似たような診断が下る可能性がある人たちお一人お一人とお会いする際に、実はまるで違うスタンスでお会いしている気がする」ということとイコールで結ばれてしまいます。
もちろん私も、臨床心理の専門家として、いわゆる「見立て(アセスメント)」はしていきながら面接しています。この点で私が少なくとも平均水準以上には、多角的な仮説をシミュレーションしながら面接をするタイプだということは、私のもとにスーパービジョンに通っておられる臨床家の皆さんはご存知のとおりです。
心的外傷的なPTSDや、ASD、状況因性の強い「適応障害」、発達障害のいわば、常に限局化された様態としての「学習障害(LD)」、心身症における身体的治療の大事さや遺伝負因、嗜癖(addiction)における生理学的変化を考慮すべきケースなど、むしろさまざまな可能性を考慮する幅は広いほうだろうとすら思っています
(通常ならそこまで考慮しないことすら視野に入れ、関連付けて仮説をたててみるけど、そのひとつひとつにとらわれすぎないタイプということは、このブログの私のものの書き方に顕著に現れているでしょう(^^;)
そして、カウンセリングだけで援助になるという発想にはむしろ警戒的でしょう。そもそも、仮に週に1回、1時間として、残りの7×24-1時間をカウンセリング場面の外の日常で過ごすクライエントさんにとって、カウンセリング場面での私との関わりは、168分の1の時間に過ぎず、それで自分が何か決定的な援助ができねばと思い込みすぎるのもどうかなと感じています。
もとより、「たかが168分の一、されど168分の一」ですが。必要がありそうと感じれば、医療への紹介もむしろ比較的早めにお薦めることが少なくないとすら思います。
.....もっとも、私のクライエントさんは、ある時点で、自分から医療にもかかりはじめることを考慮される方がなぜか多くて、医療にもかかるように「説得する」かたちになることは、最近あまり記憶にないのですが。
(相談機関に勤務していた当時の方が、クライエントさんの躊躇を超えて説得しようとする「力技」になって、むしろそのことの「弊害」「反作用」を後悔する形になり、クライエントさんとの関係に傷を遺したのではないかと反省することが多かったです。これは、私が組織の一員だったことの影響というより、単に私がまだ未熟だったということかもしれません)
しかし、私は同時に、「内省的なカウンセリング」と、現実的アドバイスとも見えるものや、ある種の訓練的、適応指導的と分類可能なものがまるで矛盾対立するかのような捕らえ方にもそもそも違和感があるのですね。
以前も書きましたが、だからといって、私はいわゆる「折衷的」という言い方は好きではないです。そんな、「うまく使い分ける」とも受け取れるあり方をあっさり夢想できるのは、専門性をあまりに「操作的(操縦可能なもの)」としてとらえるオプティミズムとナルシシズムを疑いたくなるくらいで。
でも「統合的」という言い方も「かっこがよすぎる」(別に村瀬嘉代子先生のことをさしているわけではなく。嘉代子先生も、いわば「方便」としてあの言い方を採用するしかないと思われていて、そう簡単に「統合」なんてできるわけがないというのがご本心と思います(^^)
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むしろ、私は、中井久夫先生の「分裂病と人類」「西欧精神医学背景史」(左側のフレームのブックレビューを参照ください)をはじめとする著作に色濃く流れる、
「多くの『疾病』や『症状』『障害(disorder)』とされているものは、本来ある文化的・社会的状況においては、むしろ種の保存のために有利な形質だったものが、文化的・社会的変化の過程で不適応を生み出す失調要因に転じ、単なる少数者の地位におとしめられていったものである(これはこと精神医学に限定されない)」
という発想を大事にしたいのですね。
たとえば、すごく人目を気にする人は、現代の平和な社会の中では生きづらいかもしれない。
でも、大型肉食獣に狩られるか、草食獣や小動物に気配を察されることなく忍び寄って仕留めないと今日の家族の食料はないという世界に生きていたらどうだろう?
草のざわめきひとつから,風なのか、獲物なのか、はたまた自分を襲おうとするライオンなのかを識別できる感度なしには生きられない。
こうした感度が、現代社会の都市空間の人間関係で発揮されたら、「過剰な思い込み」「気にし過ぎ」「気苦労」という形で本人を消耗させるだけになるであろうことは想像に難くないだろう。
同様にして、槍や弓矢や棍棒や剣で戦う兵士に過ぎなかったら、出会った人間の「表情や物腰」だけで「敵か、味方か」を識別できなければ、次の瞬間の命に関わるのだ。
猫やイヌは、相手と「鳴き声で対話」したり実際に喧嘩してはじめて相手が自分より強いかどうかを判断しているのではない。あるいは、「つがう」にふさわしい相手を選択しているのでもない(^^;)。
「気配」で察し、「気」で(非言語的に)戦い、「匂い」で相手の心理状態を掌握するのである。人間の感覚機能はこれらの高等ほ乳類よりかなり退化しているとはいえ、原始生活の中でははるかに鋭敏だったはずだ。
急激な天気の変化や、「風を読む」力、些細な兆候からその後しばらくの気候変動を予測する力は、都市生活民は、明らかに、熟練した「飛行機乗り」やハイカー、農業・漁業従事者や山あいの住民の「一身具現的」な「勘」にはるかに及ばないだろう。
あるいは、他の人が疲れたり飽きたり投げだしたりしかねない極限状況で、疲れを知らずに心身を働かせ続け、他人と合議しなくても率先して決断し、具体的な行動に踏み切り続ける「非情の人」(単なる扇動者ではない責任感ある[政治的・文化的・学問的・ビジネス的]革命家や、軍隊の真に優秀な武将や船長タイプ)がいなかったら、混乱した状況でその集団はみな死滅してしまうかもしれない。
(「平時」になったり、「日常社会」に戻ったり、「陸の丘」にあがったり、「私生活」の面では、、この人たちは、「隠れて棲むことを最善」という規範を禁欲的に守れないで「誘惑に屈する」と、意外と、立ち回りが不器用で、一つ間違うと「独裁者」と呼ばれ、スケープゴートにされやすいのだが。
シーザーやナポレオン、ドゴールなどといった軍人あがりの政治家が陥ってきた罠だし、天才芸術家や天才科学者、天才起業家が後半生でよくはまり、不幸な寂しい晩年を迎える(^^;.....最近も多いかも.....)
身体面について言っても、「本態性高血圧」の人は、普段は静かに待機していても、ここぞという瞬間に一気にドーパミンを爆発させて一気に体力を使う切り替えが必要な状況に置かれていたら、その「エンジン起動の高性能さ」は明らかに有利な形質である。
群れを成して移動し始めると皆一緒について行くばかりだったら、その群れの行く先が致命的に誤っていたら、すべての「個体」がレミングの群れのごとく崖から集団自死を遂げることになる。
(この、ディズニーの記録映画の捏造疑惑事件で有名な、人口に膾炙したレミングの習性そのものが疑問視されているらしいけど。Wikipediaのこちらを参照。)
だから、集団からはぐれて、ペースをあわせずに勝手気ままな行動をとって、常識的合理的シミュレーションでは考えられない「あさっての方向に」のらりくらりとマイペースで向かう個体も,少数ながら、むしろ、種のリスクマネジメントの観点から「いなければならない」。それらの「個体」を「落後者」とみなすのは、あくまでも群れの「内側の」個体の「目先の」論理に過ぎない。
「だから」、その「個体」に適した棲息地(仮の避難地)にたどり着けたら、あるいは、時代が変化したら、その人たちこそが次の時代を開く適者の遺伝子を持っているのかもしれない。
その人たちが決して「遺伝的にも淘汰」されないで生き残るように、人類という種そのものが実はもともと「できている」。
.......やっとはじめて本格的に書きましたけど、中井久夫先生の医学観の壮大さの本質は、まさにこうした点にも顕われていると思っています。
このことに『勇気』をもらう人たちはたくさんいると思うし、こうした視点があると、クライエントさんのこれからについて、狭量な視点ではない「大局観」を保ちつつ、一緒に「どっこい生きてる」あり方を探していけるのではないかとも思っているのです。
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ですから、
「コミニュケーション能力,他者への共感力という点では限界を持ちつつ、他の人たちがそこまで注意を向けないことに執着を持ち続け、普通の人には不可能な域の、直感的記憶力と知覚的弁別力を持つ」
人たちは、人類の存続のためにむしろ「必要」なのではないか。
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最近は、経験ある専門家までもが、
「俺って、結構アスペルガーっぽいかな」
「私も、結構ADHD(多動)だった時期がある気がする」
「僕がカウンセラーをやっているのは、結局、社会的に正当化された「人間嗜癖」を維持できる状態をまんまと社会的身分として獲得できたということなのさ」
などと、半分本気で自己認識していることが結構少なくなかったりして(^^)
「そうであってはならない、克服しないと」という境地すら「超越」して。
もとより、
「自分にそういう傾向があっても、重度の症状を抱えた人とは次元が違う」
ことは当然の前提として、
「それでも」そのように語る人たちである。
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つくづく思うのは、心の「健康さ」とは、実は、自分自身や他者の心のいわゆる「不健康さ」に対するキャパシティの深さのことではないかということである。
そして、自分自身の代にはかなえられなくても、子孫の代の人類には、むしろ大事になるかもしれない遺伝的形質を引き継ぐためだけにでも、自分が「どっこい生きていく」存在意義がある、と考えてみることはできないだろうか?
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BGMは、
ayuの
"part of Me"
ということで。
(「狙った」つもりは全然なかったんだけど.....)
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