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2007/03/20

日本人にとって、漢字文化の受容のほうが、西洋文化の受容以上に大きなハードルだったのでは?(第2版) -茂木健一郎さんの記事によせて(2)-

「ココログセレブ」の茂木健一郎さん特集、今回は後編についてです。

 現地の学者が欲しいのは、引用でつながる仲間意識ではなくて、日本発の発想や思想なんです。日本からしか出ないような、他とは異なる強烈な贈り物を欲しがっているというわけ。ならば僕は、贈り物を海外に届ける"輸出業者"に徹しようではないか、と思うようになりました。


 ここで茂木さんは「もののあはれ」のことを語り始められるんだけど、私はもはや「日本発の」という時に、「日本土着の」というニュアンスを帯びさせることそのものが不必要だと感じています。

 私たち戦後世代は、もはや欧米文化をある意味で空気のように受容して生きてきた。もちろん、それは、「本場ものの」欧米文化とは異質な、日本化されたものなのだと思うけれども、そういう「日本的欧米文化」というバックグラウンド自体ををしなやかに受容していい時代が来ているのではないかとも思えます。もう今更「切り分けられない」と思うんですよ。

 思わず、ベストセラー史に残るこの本(中学時代に読みました)のいう「日本教」のことを思い出したけど、ここで書かれていることを「前提としつつ」、同時にそれを「踏み超えて」もいい時代という気もするのです。

 どっちみち、日本人だけではなくて、アメリカ人だって、「アメリカ教」的日本理解しかしないという前提に立ったらどうだろう?

*****

 海外に行った人ならご存知のように、ファーストフードやファミレスにしたところで、外国では、日本と同じチェーン店の同じメニューでも、サイズも違えば味もまるで違う。

 外国でも、日本人からすればびっくり仰天するような、「似非『日本食』」ブームが広がっているらしい。

 そういう「欧米的『日本文化』」と、「日本的『欧米文化』」が、まさに茂木さんの言われる、『対称にした』関係で向き合うというのでいいではないか。

 早い話、中日にテスト生として入り、年収400万で契約した中村選手がスタメンに入れるかどうかということを応援するより、桑田投手がマイナーではなくてメジャーでベンチ入りできるかどうかを応援することで、前者より後者のほうが「格が上」なんだろうか?

 もう、「アメリカで」活躍していることがそれだけでステータスとして高いというより、たまたま活躍の場が「アメリカで」開けた、ぐらいの感覚でもいいような気すらする。

 「国際人」であることを気負う時代でなくなることこそが「国際性」という逆説もある気がして。

 「たまたま自分が相手をしたい人たちが、英語しか話せないので、英語も学ぶ」ぐらいの感覚のほうがいいのかもしれない。


*****

 いつも書きますけど、「英語力」と「読解力」って、全然別なものだと思ってます。翻訳書を通してだって、原書を読みこなす人よりも、英語圏の著作を深く理解していることなど、ありふれていると思う。そうでないと私はこの世に存在しない(爆)。

 フォーカシングの国際メーリングリストを読んでたりすると、

 「あ、あの、そんなことなんて、ジェンドリン、すでに1960年代に『主著(人格変化の一理論)で』書いてますけど?」

という域のことについて、少し前のジェンドリンのレクチャーで聴いて、まるでジェンドリンの新機軸のように感心していたりする書き込みがあったりもする。

 そうすると私は結構拍子抜けしたりもするんですね(^^;)

 思わず、

 「ああ、今の私が英作文自在に操れたら、ネット経由で海を越えて、いらぬ興ざめの横槍を入れていそうだな」

.....と。

*****

 まあ、それでも、フォーカシングの領域でも、アルタイ語族である日本語の文法(異説もあるが)だからこそ容易に表現できるフォーカシングの世界がある気がする。

 実は、「和漢混淆文」を平安時代に確立した時点で、日本人は、「訓読み」の「やまとことば」の世界と、「音読み」の「漢語」の世界を統合し、行き来するということによって、二つの「脳みその使い方」になじんでいた気がする。

 近代における西洋文化と西洋的な概念の受容と言うのは、実はその、平安時代にすでに体験した日本語の「革命」の「応用問題」に過ぎなかったという見方もできる気がする。

 むしろ、「漢語」的思考法と、「やまとことば」的思考法の間にこそ、脳の使い方にある基本的な飛躍があるのだというのが私の考えである。

 このあたりのことを、フォーカシングにおける、日常的な言語使用を題材として、ほとんどhow toの次元でまとめてみようというのが、私の今週構想している新記事の内容である。

 それは、記事として別立てにして、もう少し練りこんでからにします(^^)


*****


 このへんについての、茂木さんの見解をまるで知らない次元でのものなので、「トホホ、私の独り相撲か」に終わるかもしれない(^^;)


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