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2007年2月

2007/02/27

「今が一番いい時」(通算700番目の記事)(第2版)

 これは、私が尊敬している,現在第一線で活躍している先輩のカウンセラーの先生(恐らく、「ある種の」『現場』カウンセリングの領域でその先生の名前を知らないとモグリといわれる域の、その現場での先駆的功労者かつ指導者)の、30代前後の頃の,知る人ぞ知るの逸話。

 「あなた,旧帝大系の大学を出たカウンセラーなんだから、昼飯には毎日ビフテキ食べてるでしょ?」

 その先生曰く、

 「あの.....私の年収は200万なんだけども」

*****

 私は、生涯持ち家が欲しいとも思わないし、自動車にも乗らないと思うし、結構趣味の製品はとっくに「一生もの」を基本的にそろえてると思うし、ファッションには、人に不快は与えない域ならいいと思ってるし、立派な家具調度なんかにも関心ないし。グルメでもないし,酒は、付き合い酒は十分できるけど、自分からはほとんど飲まないし。クラシックも今はライブコンサートへの関心はないし、プロスポーツ観戦への興味もないので、ayu様ひとりのライブにこだわっても、特別とはいえないでしょう。

 まあ、身体がいうこと利かなくなる前に、そして経済と政治の情勢がそれを許さなくなる前に、行ってみたい外国は10いくつかあるにしても。

 どっちにしても、恐らく税金を引いた年収が今の相場で550から600万ぐらいに到達したらそれ以上望まない人間だと思います(実は、もっと「ずっと」高かった時代を過去に経験したりしてますが,カウンセラーとしてクライエントさんの「お役に立てている」かは今の方がすでによほど安定してきていると我ながら思う。はっきりいって、40幾つにもなったのに、『一ヶ月単位で』今もこの点では成長「し続けている」とは、ささやかながら、思います。若い頃いい加減過ぎただけなのかも)。

 あとは、それと、「その時代の」個々のクライエントさんのお役に立てている確かな手応えがある「現場カウンセラー」であること(ここには,後の世代に私がささやかながら「その時点で」到達している経験値を、その世代の、「そのカウンセラーにとって」意味があると実感してもらえる援助となる形で、せいぜい「残る生涯で数十名」ぐらいの援助職の人に伝え得ることも含まれます。別にめいっぱい「繁盛」しなくてもいい)と、そこそこ「自分らしい生き方をしている手応え」が得られていれば、それでいいと思う。

 まあ、これこそが実は最大の「贅沢な」望みかなとも思いますけど。

 「あなたは若い頃には自分で帯を締めて、行きたいところに行ける。でも、老人になれば、人に帯を締めてもらい、行きたくもないところに連れて行かれる」
 
 とイエス様はいわれますが(新約聖書 ヨハネによる福音書21:18)。

 金銭面で豊かになる分、個人的には不幸せになったり,人を不幸にしたくはないなとは,心に決めているつもりです。

 実は個人的にはいろいろ十字架もかかえております。

 でも、実は、今の自分が、生涯で「これでも」一番幸せな時なのかもしれない....と、ふと思うことがありますね。

 アニソンファン向けに、かなり古い歌ですが。

川村万梨阿さんの、「今が一番いい時」という歌、意外とおススメなのだ。

「メガゾーン23」ヴォーカル・コレクションより。

このアルバム、いろんな意味で希少価値かも。

中森明菜クローンみたいな宮里久美の歌声と曲想。

そして、あの「高岡早紀」が歌ったPart3のテーマソングなるものがある(Part3はアニメとしては今3つでしたが、ここで彼女がけっこうたどたどしく歌った2曲は、妙に耳に残る曲であります.....)

  以上、完璧に80年代末期にアニメファンとしてのピークだった私の感性むき出しですが(^^:)、45過ぎたオジさんになると、なぜか川村万梨阿さんの前記の曲などを、iPodでこっそり時々聴きたくなるのが,アニメファンとしての私なりの「枯れ方」のようです(^^)

2007/02/26

浜崎あゆみの"momentum"プロモーションビデオを、もう一段深く掘り下げて味わえる方法

お待たせしました!!

ももう発売だし、そろそろ「時効」でしょうから、書きます!!

浜崎あゆみ/
momentum"momentum"(プロモーションビデオ)
(アルバム"Secret"収録)


 雪の○に○○○○いるであろう人物=雪の中で歌っているayu

......という前提を「崩して」ご覧になってみることを私はお勧めします(^^) 

 ビデオ映像の最初の方のシーンから、あの辺、さりげなく「盛り上がって」るんですけど.....

.....そこで眠っているのが「君」と歌われている人物だとしたら? 歌うayuはそれを皆に訴える「雪の妖精」だったりして。

........そして、その人と「妖精」のかつての関係は....

 それでこそ、ファンタジー!!!!

HMVジャパン

処世術の常識

 どのような組織や団体でも、その構成員が「一枚岩」の価値観を持ち、行動をしているというのは「幻想」である。

 だから、その中の「ひとり」とさえ十分に気心を通じる相手にでき始めると、結構活路が開けるものである。

いいカウンセリングとは

「私が思っているより、クライエントさん自身に成長する力があったから順調に進んだだけなのかもしれない」

という感慨を、カウンセラー自身が、しみじみと感じられる形でカウンセリングの終結を振り返れる時である。

......もし、そのクライエントさんが、継続的にカウンセリングに通わないままでも、同じような「自力での成長ができた」ことを証明できる根拠がどこにありますか?

 「カウンセラーの力で」、そのクライエントさんが成長できたと、カウンセラーの側が確信できるラインをねらうことなど、おこがましいことであり、そのような水準を必要だと感じるカウンセリング指導者は、その指導者自身が、自らの野心やエゴイズムの問題に直面できてはおらず、教育分析をお受けになる必要があるかもしれない......と思います(^^)

2007/02/25

受験生の受難は必至だって、わかる人には聴かなくてもわかるのにな.....(および、「モスキート・トーン」「オーディオ機器のエージング」について)(第4版)

恒例、msn=毎日新聞サイトより。

センター試験:リスニング機器、性能劣るのを承知で採用

 この記事、

 音質面では、採用されたプレーヤーについて「一世代前の音声圧縮法」とし、競合プレーヤーは「最近の標準的な圧縮法で音楽の再生にも用いることができ、音質は優れている」と記している。

 再利用については、採用プレーヤーは「記録方式が独自でパソコンの入出力と互換がなく、再利用に大きな障害となる」と記述。競合プレーヤーは「パソコンと互換があり、デジタルカメラなどのメモリーに利用できる」と優位性を認めた。

 「ここまで」上から読めば、オーディオマニアだったら、採用プレイヤーのメーカー、わかっちゃうんですよね(^^;)。

 恐らく「採用さなかった」のは、

仮説1.シャープ
仮説2.パナソニック。

(パイオニア、東芝もありだけど,確率的には上記の2つかな)

のマイクロソフト.wmv系音声圧縮。

「値段が高過ぎるので,最初から検討から除外された」のは、Apple=iPod系(AAC形式)かもしれない。
 もちろん、「理不尽な不採用」を食らったのがMP3系の可能性もあるけど、サードパーティのいろんなメーカーが安い製品を出したMP3系製品より、ソニー独自のMDやATRAC3plusの圧縮形式の製品の方が「高い」って印象があるもので......

 そして、いずれにしても、AACもWMVもMP3も「国産の」音声圧縮フォーマットではない。そして、多くの携帯のメモリーがminiSDカードないし SDカードの時代に、メモリースティックもソニーだけだけの規格だから。こういう「すべて自社独自規格」路線で生き残ろうと思ったら、Apple=macクラスのクオリティと洗練がないと「割高でも信頼される」という形で支持を維持できないのに....。

 そのAppleすら,intelのCPU導入のタイミングを間違えず、むしろそれをプラスに生かして,今後の対windows系陣営への拡大戦略という点で、根っこのところで有利に展開できる布石を打った(携帯市場への参入だけが、特に対日本戦略という点ではリスキーなんだけどb、そのことは十分わきまえてしか今後も事業展開しないだろう)

 それにしても、選考にあたる文部省のお役人さんに、ちょっとまともなオーディオファンがいれば.....。はっきりいって、すでに数年以上前から、ソニーは、モバイルを含む音響機器の分野では迷走し続けてます!! .....どうもそれが「音だけではなくなってきた」のが、ゲーム界でのPS2から一転してのPS3の苦境だったりするのかな.......

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 ソニーの音響技術者の人たちって、普段からどんな装置で音を聴いているのかしらと思う。CDやMDの規格を生み出した頃の過去の栄光にしがみついて、他社の装置を謙虚な耳でいろいろ聴いてみる姿勢がないのか????

 更にいえば、「1年で使い捨てるのではなく、3年はリサイクルすれば?」という参考意見がついたという点は、ほとんど、「税金を払ってる国民を愚弄するな」の世界です。こういう点からこそ「予算引き締め」すべきなのだ。

 新品でも、初期故障、ないし、初期の作動不良の確率と、最初はきちんと動作して、使用開始から一年後に壊れている確率は、どっちが高いかなんて、よほどプアーな製品でない限り、はっきりしてます。1年後ちゃんと作動するかどうか再検査をメーカーに委託したとしても、新品購入よりは安いはずでしょ。

 ......となると,リサイクルを前提に立てば、少し値段が上でも、「ソニーでない方」を選んだ方が安かったりするのは当たり前。いまだにソニーというだけで「いいメーカー」というブランドイメージが国の役人さんにあるとすれば、あの,現在の経済市場でのソニーの評価がどうなってるのか、その背景に、製品に関するどのようなユーザーの評価と,販売戦略の格差が生じているかとか、政府は「何も知らないまま」とはいわせませんけど....に,尽きます。国の経済感覚はもうどうしようもないのでは???

 以上、最近のソニーの製品を「自分なりに使い込んで」「自分の耳で比較して」、それでも気に入っている人まで批判するつもりは『全く』ありません!!

******

 あと、参考までにいいますと、日本語よりも、英語の方が、「子音」の周波数特性成分が高い周波数帯域にあります。リーダーやグラマーの成績ならかなりいい人でも、日本人が英語の特にネイティヴの人の「ヒアリング」となると,最初の壁を突破するのが結構たいへんなのは、普通に日常に言葉を話す時に、その「子音」帯域への感受性と識別力が経験的に自然に訓練/学習されいく環境にない以上、やむを得ないかと思います。

 平均的英語教師の皆様の発音も、この子音周波数の違いまで完全にネイティヴの人並みということはないと思います。私はミッション校出身でしたから、何人か外国人の英語の先生がおられましたが、日本に来られたばかりの、今思えば完全に「米語」発音の先生の、全く平易な内容の英会話の問いかけが、話す言葉が出ない以前に、何回か繰り返してもらっても、そもそも発音がまるっきり「聴き取れない」ことにかなりショックだった記憶があります(直前の日本人の先生が、正反対に、古風なまでのキングス・イングリッシュ発音("either"を絶対に「エイザー」に近い発音でお読みになる)だったのでなおのことだったんでしょうけど。

 そのへんを「聴きやすく」「弁別しやすく」なるか否かを重視する形で、欧米の音声圧縮形式、そして機器そのもののチューニングは当然のごとく作り込まれます。

 ちなみに、この子音成分への敏感性という点だけ取り出すと、これまた母国語の子音の性質に拠るのでしょうが、ドイツ系の音響機器メーカーのものが一般にみてすごく水準高いのです。

 ヘッドフォンでいえば、なぜかAKGには趣味があわないのですが、ベイヤー、ゼンハイザー、B&O、そしてまだ日本ではあまり普及してませんが、UlTRASONE、そしてオランダですが、フィリップスの製品系列の中に、声の生々しさと、息づかいを含めた空気感の生々しい再現という点で、日本製品にはない「はまっちゃう」音の製品を「どれか」見つけられる可能性は高いのです。

 映画のセリフ、いや、地上波テレビで昔のモノラルのアニメの「日本語の」セリフでもいいので、イギリスやドイツ系のスピーカーの「バランスのいい音(値段は無関係)」を聴かれると、その「生々しさ」に、初体験のときからぎょっとすることになる場合もあると思いますよ。私が30年以上前のタンノイスピーカー(いつもお書きするように「スターリング」)を使い続け、テレビの音声や映画まで、このAV対応まるでなしの2チャンネル再生で満足しているのか???? 生々しいんですよ。声の帯域が。それと、「音から音への移ろい」みたいなものに敏感。映画館の空気だけは、ドルビーサラウンドなしでも結構再現できるのです。

 BOSEやJBLは、アメリカ系の、全く違う基準での音作りですが、やはり質的には全く次元が違うけど、「子音成分にこだわった生々しさ」はある(ピーク成分の置き方の発想がヨーロッパ系とは全く異質にしても)と思うし、「ジャズやアメリカのハードロックははJBLでないと」という人のお気持ちも理解できます。

 不思議と、オーディオの世界となると、フランスのメーカーが「全く」かすんでしまうのも、フランス語という言語の性質と関係あると思います、イタリア製や北欧製の方がまだ高級市場では結構「知る人そ知る」の製品群があります。ただ、これらの国々はヘッドフォンは自社開発しないことが多いので。

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 ちなみに、17キロヘルツの「モスキート・トーン」のことがいろいろ話題になるようになりました。例えば、Pc Viewサイトのこの記事

 「モスキート・トーン」とは「一般に大人になると聴こえなくなる周波数帯域」の音のことです。私も30歳過ぎから聴こえなくなりました。

 蛍光灯がずっとついているときの「シーーーーーン」という感じの音が近い帯域。これはもちろん、英語やドイツ語のヒアリングに決定的な子音の周波数帯域よりは、かなり上です。

 でも、この問題についての現時点での紹介記事の多くは、大いなる誤解を引き起こす危険に満ちています。

「CDの周波数帯域が高域20kHZまでになったのは、人間の耳の性能がそうだからと教わったけど」

→「そんなら、中年のオーディオオジさんには17kHZすら「聴こえていない」のだから、その人たちの語る蘊蓄には全く意味がないのでは?」

 それをいったら、楽器の演奏者だって、歌手だって、CDやPAを操作する技術者だって、オーディオエンジニアだって、30歳過ぎたらみんなお払い箱にすべきなの?

 ......になるわけでして。

 なるほど、17KHzの音「だけ」を流されたら、30歳過ぎた人はまず「聴こえ」ません。ところがどっこいギッチョンッチョン、「聴こえてもいる」のです(^^)

 わかりやすいのは、いわゆる低周波騒音。今度は逆に20Hz以下なので人間の耳には「聴こえない」のに、なぜ健康被害になるのだと思いますか???

 17kHzのモスキート・トーンであっても、一定以上の音の大きさで延々聴き続けたら、若者にも「大人にも」ものすごいストレスになる筈なんです。

 いわゆる聴覚器官の「刺激域」の外側の音を、人間の「身体は」何も感受していないわけではない。脳細胞そのものは、内蔵は、骨は、直接その振動を受け止めているはず、と考えてみればわかりやすいでしょう.

*****

 だから、実は、例えば大人の「耳の」周波数帯域である20Hz-16kHz以外の周波数特性の部分に、変なピーク成分があったりする音響機器は、実際に耳で聴いているよりもはるかに「大きな音」を「身体で」受け止めている可能性があります。これじゃ身体に変調が生じてあたりまえ。少なくとも聴いているうちに疲れて来て当たり前なんですね。

 ヘッドフォンでも、中級以上の製品になると、スペック上、高域が30kHZまで周波数特性が伸びているものがたくさんあります。こうした機器の中で秀逸製品、しかもエージングをきちっとやって十分慣らし込まれた製品の音は......意外でしょうが、新品を買った直後を別にして高い音が決してキンキンうるさく「ない」はずです!!

 むしろ、なんでかしらないけど、音の広がりの空間のスケールが大きくて、ホールに響く残響や、間接音成分、ピアノのタッチ、歌手の歌い回しが繊細に響く。一般的にいうと、透明感と音の解像度、ステレオ低位の細やかさが増して、ふと、機械の音を聴いているのを忘れて、ヘッドフォンの外からの音と勘違いする.....

 そういう、「これみよがしではないさりげなさ」、「機械の音を聴いていることを意識しないで済む」という方向に聴感上はむかうはず。

 なぜなら、自然界には、その可聴帯域外の周波数の音が、「全く自然な周波数特性」で存在するから。自然界の周波数特性は0Hz-無限Hzでしょうから!!(そりゃそうだ!!これこそA=Aのトートロジー(同義反復。前期ウィトゲンシュタインはこの点では正しい)。

 ただし、人間が存在する通常の環境における物理学的周波数帯域の「高域上限」はあるかも。電子や原子の振動以上の帯域なんてないでしょうからね!!

 これらの周波数の中で、人間の「心身機能全体に」何らかの影響が「ない」周波数帯域ってのがほんとはどのへんか? までくると、まだ科学的に真相は究明されず、いろんなオカルトまがいの似非科学が流通している段階でしかないのではなかろうか???

******

 更に、オーディオ機器の「エージング」について触れます。

 エージングとは、音を繰り返し鳴らし込む過程で、アンプやCDプレーヤーの中の様々な部品、ケーブル、スピーカーなどの音を発生させる部分が電気的に、あるいは物理的に「使い込まれて」装置本来の性能を発揮できる方向に少しずつ「馴化して」、しなやかな、うるささのない方向に音質が変化して行くこと、あるいは、それを意図的に促進することです。

 論理的には、ある『寿命」を経過すると、今度は電子部品や機器のサスペンションや可動部分、スピーカーのコーンそのものの性能の自然劣化がはじまることにもなります。でも、部品に良い質の素材を吟味した良い設計の製品だと、この「マイナスのエージング」はなかなか生じないまま、いわば年代物のワインやウイスキーみたいな「熟成」がどんどん進むことになります。どんどん「オトナの音」としての持ち味が出てくるわけですね。

 ところが、たいていの人が聴く音楽ジャンルは偏ってますし,本当にバランスいい録音は少ない。
 だから,音楽をただ大量に聴き続けているだけでは,エージングのスピードとバランスはいびつなものになります

 (意外にも、ayuの最近のCDなら、ayuの片耳難聴をサポートして来たスタッフの耳が凄くいいんでしょう、もともとオーディオ的にひどく凝り性な上に、最近のayuのレパートリーは、アコースティックからテクノ、ハードロック系まで一枚のアルバムにすごい多様性で入っていて、ともかくバックのバンドの曲ごとのアレンジのひねり具合とパートの重ね方が壮絶の域、なのに欧米の超一流クラスの音作りの洗練に比べると「冒険的に過ぎる」スリリングなミキシングバランス(^^;A)なので、エージング効果は高い筈です。マジに、ayuを聴くようになって、うちの装置はクラシックすらウェルバランスになる方向に向かい続けて来たのである)この,音の複雑性と多様性、周波数レンジの広さという点では、今でもavexで,制作コスト「特別扱い」以外の何者でもないと思う....。もとより、その最近のayuのアルバムを気持ち良く聴けるところまでエージングするには、どうしたらいいの? となると,以下の内容を読まれたし)

 理想としては、ジャズもクラシックも、バリバリのジャーマン系トランス・ミュージック(これ,特に高域の周波数特性、のっけから自然にない人工音だから、とんでもないパルシブなこと,特に本国ドイツ盤のマスタリングでは平然とやります)も、ワールドミュージックの太鼓の音も、教会堂の音も、波打ち際などの自然界の様々なサウンドも、SLやF1やジェット機の発進の生録音,高域成分に独特の美しさのあるグラス・ハーモニカ(音階に調節された多数の水を入れたワイングラスとかの縁を指で濡らしてならす、あれのこと)の音や古い大仕掛けのオルゴールの音、梵鐘の音、尺八の音、雷の音も、花火の音も。

 そして、それこそ17kHZのモスキート・トーンや低周波の一定周波数のピンク・ノイズの、それぞれ1分程度の持続音、およびそれらの周波数特性を波を打つようにゆっくり行き来する音、同じくその周波数の音を徐々に1分ぐらいかけて減衰していくサンプル、更にすべての周波数の音が同時にランダムに響く音=「ホワイト・ノイズ」と呼ばれるもので、チャンネル設定されていない、画面は「砂漠」状態のときのテレビの「ザーッ」という音をもっと広帯域に広げたと思ってもらうといいでしょう)さらに、手を「パン!!」とたたく時のような瞬発的な"clap音"の繰り返し。そして左右のチャンネルをわざと逆相にした音(これは,スピーカーケーブルのつなぎかたの極性の確認だけではなく、ステレオアンプのチャンネルセパレーションに関わる回路にとってはエージングの意味があるだろう)

 ......ゼイゼイ(^^;A

 これくらいの、広帯域の良質な録音のサンプルだけを集めた一枚のCDとかを「通して」再生すると、エージングは高スピードで万遍なくすすみ、新品の機器ばかりではなく、既に長年使い込んだ音響機器でも、この種のCDを「数回通して」鳴ら込んだだけで、アンプやスピーカーやCDプレーヤーの音が「ドラマチックに」音が整い、美しくなることがあります。まるで、汚れとほこりだらになっていた眼鏡をきれいに拭いた後の「見える」爽快感に似ています。
  
(ただし、近所迷惑にならないように(1分間ずーっと、"ピーーーーー””ボーーーーーー””キュイーーーーン””ドン!!」,更にそれの繰り返し.......ってな具合なので,音楽が微かに聴こえるのなら平気な隣室の人も怒鳴り込んでくる危険はある(^^;)),機器を逆に痛める危険を回避するために、ボリュームをあげ過ぎないことに注意!! このあたりは,この種のCDに録音されたナレーションで口をすっぱくして「おせっかいなまでに」次のトーンを出す前に「事前警告」してくれますが。

 この種の「オーディオ・チェックCD」とか「XLO CD」「Burn-in CD]と呼ばれるものは、いわば機器の潜在力をめいっぱい活性化させる「虎の穴」の特訓じみたCDなので、ずーっと真面目に聞いていると怒濤のように神経が疲労するので(波の音や花火の音に、ほれぼれと身を任せ、「自然界にはこんなにすばらしい音の世界があるのに,音楽に熱中しているだけではもったいないな」と思わず感動したりもすんですけど、念のためにいますと、ヒーリングCDとかに入っているそういう自然音は,必ずしも高品質の録音のものばかりではありません)、適当に、CDプレーヤーをリピートに設定してリスニングポジションを離れてほっとくぐらいでいいです。

*****

 この種のCDは,何と、iPodやその対抗製品群、MDプレーヤーにコピーしても、エージング効果が鮮明に出ます。当然ヘッドフォンにも!!

 私は、すでに20年は前に買った、"The sheffield/XLO Tests & Burn in CD"とい製品宝物にしています。そしてiPodに、トラックをセレクトしてですがロスレスでコピーして、 iPodやヘッドフォンに「寝起きの悪さ」を感じた時には、機器に「活を入れる」ために活用していますいます(このCDタイトルを読んで、懐かしい思いにかられた古くからのオーディオ・ファンの人、少なくないでしょう。↓これですねね)

Burnincd

 現在発売されているこの種の"Burn-in CD"を探してみましたが、

Burn-In-CD:EMZ zounds Power Disc

XLO/Reference Recordings Test&Burn-In CD RX-1000

が楽天で見つかりました。後者はHDCD用ですが,恐らく普通のCDプレーヤーでの再生もできます。

 あと、高級なオーディオ機器の中には、この種のCDが製品とセットでついているものもあるみたいですなので,特にCDプレーヤーやスピーカー、ヘッドフォンの部門に目を光らせてみるのもいいかもしれません。

(後日記:ULTRASONの高級機になると最初からこの種のCDついてるみたいです。"From a northern place"(by "Blue Yuta"氏)というブログ(私なんか、てんでかなわないくらいの「ヘッドフォン専門Site」ではないか!!)のこのベージのぐぐぐーっと下の方の記事参照。けっこうエージング後の音の変化について、私の述べたこと,私よりディープなマニアの方が裏付けて下さる内容と思います)

.....最近、この種の、音楽再生機器の「エージング」問題についてのまとまった情報、あまり見かけないので,この記事も,当ブログの「意外な長期ヒット記事」になっていくかも......

1.今週のセール(週替わり)

先週の人気記事ベスト20!!(02/18-24)

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「週ごと先記事別アクセス解析機能を使っての、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、33回めです(^^)

 固定リンクでのアクセス率の順位から集計しています。アクセス数が同じ場合には、訪問者実数上位の記事を上位とし,訪問者実数も同じ場合にのみ、同じ順位として掲載します。
 7×24時間、つまり2/24日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,999(前回1,747)。(一日平均アクセス285.57。前回249.5)と、最近では文句なく最多アクセスです!! 感謝!!

 訪問者実数は、1,540名様(前回1,429名様)と、これまたかなり上昇。

 「サイト内移動」、前回の回282(33.1.%)に対して今回355(34.31.%)、それに対して、トップページへの外部からのアクセス、前回363(41.8%)に対して、今回456(44.0%)。これまた最近にない数字です。

 そして、当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、4回連続8.2%。

 「訪問周期」は、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回11名、今回は10名様

 それでは記事別ランキングの方の発表!!


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1.インシュレーターは使わないに越したことはない(→) 26週連続

2.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↑)27週連続

3.オーディオにおける接点復活剤について(↑) 9週連続

4."↑↑"や"→→"ではなくて、"→↑"か、"↑→"で3ステップ深めましょう。 NEW!

5.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~(↑)7週連続

6."Focuser as Teacher"論 続編(2) -セッション実例編 下の巻- NEW!

7.ストーカー「加害者」の心理COME BACK!!

8.私のスーパーバイズ ~実践編~ (↑)3週連続

9.「中島みゆき」カテゴリーへの直接リンク NEW!

10.先週の人気記事ベスト20!!(02/11-17)

11."Focuser as Teacher"論 続編(2) -セッション実例編 上の巻-NEW!

12.「神田橋條治」カテゴリーへの直接リンク(↑)5週連続

13.私のピュアオーディオシステム(そこに更にiPodをどう繋ぐか) (↓)5週連続

14.映画「マリー・アントワネット」「女王フアナ」、あるいは浜崎あゆみの「成熟」について(↑)3週連続

15.「死にたい」と言ってもらえること (↑) 12週連続

16.安易に共感されると人は自分自身でいられなくなる 〜中島みゆき「エレーン」「異国」「空と君のあいだに」に寄せて〜NEW!

17.Vistaの最初の印象(↓)

18.近未来娯楽作品のリメイクというには奥が深い秀作NEW!

19.ゲームと現場医療スキルの進歩NEW!

20.「CDプレーヤ」カテゴリーへの直接リンクCOME BACK!!

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 現在、全体として、どの記事を読んでくださるかに、非常な幅広い裾野の広がりが生じてきて、新作が突出することが難しくなってきている分、ベスト20以下のあたりの記事のシェアが上がって、ランク入りにしのぎを削っているのがうれしい状況です。だから、今後も、何かのはずみで、かなり古い記事の突如の新規ランクインや久々カムバックがいつ生じてもおかしくない流れになってきています。

 しかし、それでも、な、なぜ、ayu様ほどにも最近言及していないのに、ここでみゆきお姉さま系がランキング復帰なのか??? 「でじなみ」のバックナンバー、メール振り分けでたまるに任せていて、まだ確認してないので、後で確認するけど、何か最近の動向に根拠があるのかもしれない??? (avexが応援歌で提携しているダイエー球団とのタイアップでayu様が無料でライブするかも.....といった情報は仕込んでるのですが)

後日記:2月23日がみゆき様のお誕生日という認識がなかったこういちろうであった!! ayu様は当然宙で覚えてます(^^;)

  しかしこれで、やっとあの、私のこのブログの「ごく初期」におけるみゆき論の「代表作」と自負する、「エレーン」「異国」論という、私のカウンセリング論のその後の方向性に多大な影響を与えた「原点」というべき記事が、何とも悠然と水面下で少しずつシェアを増加させて、ついにランクイン。まるでオリコンの"地上の星"のチャート上昇みたいな「気の長さ」で、それがまさにみゆきっぽい展開なので、何かうれしいこういちろうである(^^)

 しかし、こ、これで、ayu様関係の先送り分を除くとかなり予定消化できてきました(...というか、"A Best 2"発売が迫ってきたので、周回遅れだけど、タイミング的にはむしろよくなるか?)。あと、「フランス革命期の音楽」ネタもわすれてないつもりです。

 個人的には、今回5位になった、「トムとジェリー」と「赤ずきんちゃん」がcrossingする記事は、フォーカシングというものの「スリリングな一面」をこれまでで一番「リアルに」伝え得たかな、と、納得してます。

******

 これを書いている「今、この瞬間」(2/24 AM 03:25)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、133267、フォトアルバムを含めると153705、ブログの通算記事数はこの記事で695本めです。

 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。

HMVジャパンApple Store(Japan)

民族主義・ユートピア主義の超克(第5版)

 私にとって、「成熟とは何か」と問われれば、答えは割とはっきりしている。

 すでにこのブログでも何回か言及していることなのだが、

「自分のものの感じ方や判断の仕方が、実はある種の思い込みや先入観に基づくものではないかということに謙虚であり、以前の見解を修正したり撤回したりすべきと判断できたら潔くそれを実践すること」

.......である。

更にもうひとつ付け加えれば、

 「およそ人間のシミュレーション能力というものには限界がある。自分がどこまで緻密にさまざまな可能性について仮説を立てたとしても、現実には必ず自分のシミュレーションを超えたような事態はあっさりと生じる。最善を尽くしてシミュレーションをしつつも、それすら覆されることを当然と考え、むしろ自分のシミュレーションを超えた事態に直面できることこそを「天が与えた祝福、成長の機会」としてうけとめることができる必要がある。でもこれは、最初から何もシミュレーションしないとのは、雲泥の差がある、現実への前向きで柔軟な姿勢である

ということ。

 さらに言えば、私の中には、ある種の「懐古的ユートピア主義」へのものすごい警戒心がある。つまり、「昔はよかった。そこには調和的でよりすばらしい世界があった」「現在はそのことに比べると悲惨である」というタイプのものの見方への警戒心がある。すべての「復古主義」をうさんくさいと感じているのだ。

 「今の日本では古き良き日本が失われた」

という言い方を私は基本的に好まない。戦乱になると武士たちが略奪の限りを尽し、婦女子は強姦して刺し殺すのがあたりまえだった時代。自分の上司が死んだら「殉死」するのが美徳とされた時代。飢饉になったら最悪の場合人間の肉すら食べた時代。町のある一定の個所には斬首刑になった犯罪者の首が当たり前のようにさらされていた時代。武士の機嫌を損ねたらちょっとしたことで、裁判すらなしに切り捨てられても誰も文句が言えなかった時代。キリスト教の布教をちよっと前まで奨励していたのに、数十年後には一転して信仰を捨てなければ死罪になった時代。口べらしのために生まれた子供をすぐに絞め殺したり、娘を女郎屋に売り飛ばした時代。

*****

 日本でも、ちょっとした家柄であることを示すために、武家の系図はなぜかさかのぼるとたいてい源氏か平氏か藤原氏=まわりまわって天皇家の流れを組むことになっている。実際に政略結婚でそういう古い家柄とのつながりで箔をつけた例もあろうが、たいてい、それ以前から、そういうご先祖様がいることになっているのだ。

 これはヨーロッパでも似たようなもので、ホメロスの「オデュッセイア」に集約された古代ギリシアの歴史は、先住民族だった「トロイア人」に対して勝利を上げていくというとこそにみーんな収束していく。

(検索しているうちに出くわしたこの本未読ですが、ちょっと興味を感じる)


、つまり、ギリシャ=ローマ文化の中心地から支配されていた地域が独自の力を貯え、地中海沿岸地域と拮抗する政治力や武力を持つ国家として成長を始めると、必ず、「祖先はトロイ人の英雄だれそれ」という方向に年代記は脚色されることにより、「自分たちはギリシャ・ローマよりも実は古い歴史と文化の後継者なのだ」という逆転ホームランで権威付けしようとする。

 不思議なもので、ヨーロッパには、自分たちを古代メソポタミアやエジプト文化の末裔であるという権威つけのパターンは存在しない。対ペルシャ、対エジプトという形で自らのアイデンティティを主張する伝統は、ユダヤ民族の独占物になっていたように思える。

 要するに、「キリスト教的ヨーロッパ」の世界観においては、ペルシャもエジプトも「東国」ないし「アジアの一部」として一括して捕らえられてしまうのである。こうなった背景のひとつには、中東諸国が、中世初期までにあれよあれよという間に、イスラームの政治的・文化的枠組みに包括されたものとして受け止められたことも大きいのだろう。

 そして更に、ヨーロッパの場合には、ゲルマン民族の侵入「以前」の、地中海沿岸を除く、中・北部ヨーロッパの歴史の空白を埋めるために、「トロイア人」にとって代って、今度はケルト人」「ケルト文化」という概念が、全く都合のいいように埋め草として、ある時代から「忽然と」使われるようになる歴史がある。

 純粋の「ケルト文化」として位置づけられるものがあるとすれば、一万数千年まえの青銅器文化の時代までさかのぼるしかないのに.....である。

 スコットランドの文化が、独自のアイデンティティをもつものとして称揚されはじめるのは、何と、スコットランドが実際にイングランドに政治的に統合された1707年以降のことである。単なる「地酒」としてそれまでは外国人に見向きもされなかった「スコッチ・ウイスキー」がひとつの国際的ステータスを徐々に確立していくのはこれ以降の時代である。

 それどころか、今や「スコットランド」のイメージの典型となっている「タータン・チェック」は、実は昔から織物が作られているヨーロッパ地域では、最もシンプルな織り柄として広範な地域で作られていた模様であるに過ぎないし、バグパイプにしても、ヨーロッパのいろんな国で中世から使われていた楽器で、別段スコットランド由来でないことは、西洋の古い絵画や音楽の歴史をひも説いた人には周知の事実。

 さらに言えば、あの男性の着用するキルトというスカートめいたもの(現在のファッションの世界では意味が拡張されていますが)は、実はイングランド人が、スコットランドの自分の鉱山の採掘所で労働者の作業着として便利なので「発明した」品が、比較的短期間に、まずは他の類似の現場にも「便利だから」という理由で広がっていくという歴史の浅さしか持っていない。

 それらがスコットランド民族のアイデンティティの象徴であるかのように「普及する」きっかけは、イングランド(グレート・ブリテン)王ジョージ4世が、1822年(!!)に、イングランド王としては数代ぶりにスコットランドに公式に行幸する際に、その公式行事のイベントの総プロデューサーとなった、大作家、ウォルター・スコットが、ジョージ4世に、タータンチェックのキルトといういでたちで行幸させ、公式行事に参加する貴族たちにもこのスタイルでレセプションに現れるように「要請した」ことがまんまとあたって、タータンチェックとキルトの大流行が中流階級以降に一気に生じて以降のことである。「氏族ごとにはるか昔から受け継がれたタータン・チェックの柄がある」という「伝統」も、実はこの時を境に、すでに産業革命の流れに乗って紡績工業が発展し、仕立て屋が商売繁盛させるためのセールス・トークとして「ねつ造された」過去の歴史ということになる。

 ヨーロッパの民族衣装における地域性というのも、実は、18世紀に勃興した「民族主義」という「新しい」潮流と、産業革命によって衣類や織物が量産できるとうになってから、はじめて「実現された」商業主義の出会いの産物ということになるらしい。それ以前は、一般庶民は、ヨーロッパのどこに行こうと似たり寄ったりの、「貫頭衣」のようなワンピースに近いものを着用していたにすぎない。布地を作ること、手に入れることそのものがたいへんな時代の庶民(特に農民)の衣服なんてそんなものである。

 そもそも「民族主義」は、あくまでも、近世以降、ヨーロッパ列強による帝国主義的な覇権の争いの中で、それに屈した地域の中ではじめて形成されてくるものなのである。しかもその出発点は、むしろ征服した側の民族や国家の側からの一種の懐柔策、あるいはいわば「辺境ロマンチシズム」のファンタジーのようにして形成され始める。征服された側の人たちがそれを自分たちのアイデンティティとして積極活用しはじめた後で、支配者側は、大慌てでその民族の象徴の文化....もとはといえばプロデューサーは自分たちなのに.....の弾圧をはじめる。その時点で、古代からの誇り高き民族の「神話」が、あたかも昔からの言い伝えのようにして歴史の断片から半ば「ねつ造され」ることになる。

 そもそも「国民国家」という概念そのものが、いわばフランス革命以降、18世紀以降に成立するものであるにすぎない。フランス革命あったればこそ、神聖ローマ帝国に属する小さな領邦国家群にすぎなかった地域に「ドイツ民族主義」が勃興する。それまでは、ハプスブルグ家をはじめとするヨーロッパの王室の公用語は、フランス語だったのである。

 そういう中で、ドイツ・ロマン主義が興隆するし、長らく忘れ去られていた「ニーベルンゲンの歌」(ワーグナーの「ニーベルングの指輪」はその焼き直し.池田理代子さんのコミック版があるとは知らなかった)も「再発見」される。グリム兄弟は童話集を出版するが、実は童話集の多くの素材が、実際にドイツの民衆の言い伝えを採取してまとめられたというのは真っ赤な嘘で、せいぜい、貴族の娘たちあたりから聞いた話にグリム兄弟が大幅に創作を加えたのが真相らしい。

 先日言及した「赤ずきんちゃん」にしたところで、長らく、より成立年代が古い、シャルル・ペロー作のフランス語版の童話の方が、より古い「民俗学的」採集にもとづく古い形とされたグリム童話版の焼き直しにすぎない長年思われていたが、実際にはペロー版の方が早く成立し、それを「脚色」したのがグリム兄弟でなかったか、という方向に学説は逆転して動いているようである。グリム兄弟は、実際、その後ドイツ語の純化をすすめる「国家政策」に大きな働きを果たすのだが。

 同様のことは、ゲール語=ケルト文化固有の「古代叙事詩」としての「歴史的大発見」とされ、ロマン派の文学や劇音楽の運動で、国境を越えて多くの作品に影響を与えた「オシアン」において、「これは民俗学的フィールドワーク」の産物ではなく、古代ゲール語から「翻訳」したジェームズ・マクファーソン自身が、周囲のスポンサーの期待に応えるために思わずやらかしてしまった、大部分が「創作」にすぎないものはないかという嫌疑がかかり、今日ではそちらの説の方が有力で、いつの間にか岩波文庫からも「オシアン」の翻訳は消えてしまい、今や古書市場ですら見つけるのがかなり困難な作品になってしまった。

 いずれにしても、近代にいたるまで、戦争において、兵士とは、金を稼いだり戦利品(人間も含む!!)を獲るために、あるいは、むりやり徴用されて(場合によっては、兵士を集めるために「意図的に」借金の返済という状況に騙されて追い込まれて)集められた兵士が、領主ないし傭兵隊長(あるいは奴隷にとっての「市民」)の命令に従い働くに過ぎない存在であり、「国のため」に戦う(ないし国の現政権打倒のために)戦うというイデオロギーそのものが、近代の産物であるにすぎないのである。

 そういう意味では、「『フランスを』救うために」戦ったジャンヌ・ダルクなどは中世の「異端児」そのものであり、現実には、歴史的経緯の上でも、実際の政治情勢の上でも異様なまでに複雑に入り組み、いとも簡単に「寝返り」を繰り返した、イギリスとフランスの諸侯の政治ゲームに利用され、スケープゴートにされるのは半ば宿命的だったともいえる。

(だから100年前後も「だらだらと」続くのだ!!究極には「国」と「国」とのたたかいではなく、地理的に現在のフランスとイギリス(イングランド)にあたる地域の諸侯の、果てしない「合従連衡」の時代としかいいようがないのだから)。

 そして、その後の時代を含めて、いかなる時代も、「純粋な愛国心」の持ち主というのは、「少数派の変人」であったに過ぎないともいえる。私利私欲と支配のためか、背に腹は代えられずに日々の糧を得るためか、煽動者であることそのものを生きるか、扇動されることを「消費」する、その時点ではいわばローマのコロセウムの観客であるに過ぎないか、徴用され、支配され、搾り取られ、犯され、人殺しをさせられ、殺されたり不具になるまで支配者の犠牲になるか。それだけである。


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 このようにして、「我々は過去に素晴らしい文化を持っていたんだ」という伝統主義そのものが、むしろ後の時代にねつ造された「ユートピア」を過去に投影したものにすぎない、ということは、世界的な現象として残念ながらかなりの程度見られる。おそらく、日本国内の「固有の地域文化」「伝統」といったもののかなりの部分にも、そうした面があるのは、残念ながら事実だろう。

 わが故郷、久留米を代表する名産品、人間国宝の機織りを輩出した「久留米絣」は、ほんとうに幕末ごろに井上伝というひとりの女性の創意工夫の中から生まれた、比較的歴史の新しい「久留米の伝統工芸」であるにすぎないことは、幸いにして地元では小学生でもきちんと学んでいる(はずである)。しかし、ほとんど同時代的に、絣の製法は、日本各地にうまれたものというのも現実なのである。

 福岡の「黒田節」と、雅楽の「越天楽」そして、「君が代」が、基本的には同じ系列の流れにある可能性が高いことは、以前も書いたかと思います。

 それにしても、相変わらずこの水準ですからね。最近の新しい用語「だけ」取り入れてかっこつけていい気になってるだけではないか。この、お茶目な道化もの!!

 もとよりこれは、現実の文部行政には無知蒙昧、もとい、初心者としての新鮮な気持ちで臨んでおられるトップの大臣さンだけのことで、文科省の官僚さんもしらけ切っているし、全国の教育委員会や校長先生方の中には、良識的かつ現実的な方も「地上の星」としていくらでもおられるでしょうから、例えば私がスクールカウンセラーを志願したとしても、採用して下さる奇特な自治体はあると思います(^^)。

 批判するにしても、自画自賛するにしても、ある組織・団体に属する存在を上から下まで「単一民族国家」、もとい、「同じ考えを持った等質集団」と思い込むことそのものが「全体主義的」ファンタジーですからネ!!

.......なーんてことを,採用面接ではおくびも出さないのがオトナです!!

(このウイットに「笑える」人だけが、私と関わってくれればいいの!!)


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 話が拡散しそうですけど(^^;)、私はもちろん未来を楽観する「予定調和的進歩主義」の持ち主ではありません。でも、あるひとつの技術やメディアの登場が、人間の人間性を一層すさんだものにして、自然破壊を広げ、人心をすさませ、人類の滅亡を早め、子供の教育にマイナスになる、式の論調は基本的には「大嫌い」です。

 たとえば、私のような開業カウンセラーは、携帯電話の普及によって、家族や職場の人たちのことをクライエントさんが気にせずに申し込んだり、打ち合わせができるという点ではむしろほっとしています。

 はっきりいって、ネットや携帯電話の発達によって、以前より「構造化された」カウンセリング関係の維持が難しくなったと感じているようなカウンセラーは、そのカウンセラーの方が携帯やネットという媒体の活用法について未熟な水準に甘んじているだけか、あるいは、クライエントさんとの信頼関係を、一定の節度のもとに形成できない程度の、「優柔不断な未熟さ」にとどまっているだけです。

 なるほど、ネットにはさまざまな誘惑の火種があります。しかし、たとえば家に押し掛けるセールスマンやギャッチセールス、アイスクリームをわざとくっつけておいて親切を装うスリのグループや、荷台に乗せたままの客の手荷物を渡さないうちに走り去るタクシーの運転手、通常の電話での勧誘、いや、会社のビジネスにおけるフェイス・トウ・フェイスの交渉の中ですら、いくらだって詐欺まがいの勧誘の魔の手はあって当然ではないでしょうか? 

 実は、そうした連中の中から相手の本性を見抜き、「そうはいきませんよ」とやんわりとうまくけん制して相手にその気を失わせたり、いざとなれば強い態度で拒否したり、次の約束をすっぽかしたり、無視したり、まっしぐらに逃げる!! などの眼力と実践的対処法の育成という点では、「メディアが何であれ」基本的には同質のもののような気がします。

(《註》:ここでいう「メディア」とは、「マスメディア」とか「通信手段」いう意味にとどまらない。ここでは、直接の面と向かったやりとりすら含む、相手との交渉や出会いのchannelの様式全般をさす。"medium"という言葉本来の意味に戻る。だから「媒介なし」とか「偶然出くわす」も「メディア」の「一様式」である)

 人間って、新しい技術やメディアには、勝手に、バラ色の未来か、堕落させる誘惑の「どちらか」を見てしまいやすいものだと思います。

 あるいは,過去の伝統や、昔ながらの失われた生活様式に、今は失われた「人間性」とか、残酷さ、「野蛮さ」の「どちらか」を見てしまいやすいものだと思います。

 そして、いつの時代も、その時点での「現在」の視点から、その両方を繰り返して来たのです!!

 しょせん、私にとっても、インターネットは「ただのメディア」です。インターネットを使う方が余計にもうかるだとか全然思っていない。儲けのうまい奴は、どんな「媒体」を活用してもうまいし、「うまくなる」し、最後にはそのことに溺れて「没落する」のではないか? 

そして.....地道に普及させるしかない対象は、ネットを通しても地道にしか広がらない。

 どうも私は、「書く能力」という武器は持っているし、大人数を相手に即興で場の雰囲気を妨げないようにコントロールしながら意見を言う能力も伸び続けているみたいなので、媒体もまだインターネットがない時代なら、雑誌や機関誌なんかに投稿するか、自分で手紙や「覚書」の頒布や、演説をしまくる私がいただけ、という違い「だけ」でしょうね(^^;)

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 私の方針はある意味でシンプルです。まずは、私とのカウンセリングやフォーカシングのトレーニングに「代価に値するだけの」意味があったと感じてくれる人を「ひとり」生み出す。

そして「2人目」を生み出す。

「3人目」を生み出す。

 そうこうしているうちに、私の側にも、多くの人に対して同水準の援助を維持できるだけのスキルと経験が蓄積され、それにちょうど見合うぐらいに顧客さんも増えていく。

 そうこうするうちに、顧客さんの口コミがはじまり、そして私の訓練を受けた人たち同士の横のネットワークも、堅実に成長する。「どこに出しても通用する」人たちを!!

 私は最初から、私に依存しなくても、その人なりの主体性をもって、生活のただなかでフォーカシングをかなりの程度活かせる水準の人、自立して、主体的にトレーナーの活動をできる水準の人を、少数精鋭で、一人ずつゆっくりと増やすことしか考えません。

 そうやっていくうちに、中には、私よりも、「天性の素質として」、グループワークの形で集団に指導するのが向いている人たちも含まれてくるだろう。私はそういう弟子たちから「学び」、「協力を受ける」形でしか、「裾野を広げる」スキルを身につけられないかもしれないが、それはそれで、一番地道な発展の手順ではないのか。

 それしか、健全な形で、それぞれの地域や業種の中で、核となって、フォーカシングを有効活用でき、指導できる人たちを増やしていく手立ては存在しない!!

 ある意味で、古いタイプの職人の天性であることは、私の宿命のように思う。

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 さらに言えば。

 フォーカシングとは、人が、自分自身の気持ちと向き合い、それを言葉にして、受け止めていくことすら、いかに大変なことかということへの厳粛なまでの謙虚さと、「敬意ある自己信頼」(これは単なるナルシシズムとは雲泥の差がある事柄)にたどり着くためのひとつの道なのだと思います。

 自分自身との関係においておやしかり!!

 まして、たった一人の他者と、限られた瞬間にお互いに確かに気も市が通じ合えたと感じられることは、いよいよ厳粛な「奇跡」であり、感謝に値する事柄なのだと思ます。

 そしてそれは、ひょっとしたら、身近な、ある程度慣れ親しんだ「日本人」同士がほんとうに絆を築くことも難しさは、生まれも育ちも文化も言語も異なる外国の人の「ひとり」と、「ある限られた場で」形成される「理解しあえた」と思えることの難しさと、ほとんど何の違いがない水準の領域かもしれない。

 軽率に「日本的な」フォーカシングなどという言葉を口にすることで、フォーカシングとは名ばかりの、単に周囲への「気を使い」方がへたくそで場になじめない人(そういう人たちこそ,フォーカシングの潜在的な強力なユーザなのに)を暗黙のうちに排除するような、フォーカシングとは名ばかりの「えせフォーカシング」に換骨奪胎されないことを、私は心から祈ります。

 もともと日本的な世渡りがうまい人だけ、そして、そういう人たちの「ご機嫌を伺う」ムラ社会追従者道徳としてのみ「センスを磨く」域に留まるフォーカシングの普及など、

「くそくらえ!!」

である!!

 なお、たまたま今はフォーカシングのことだけを例に挙げていますが、これらのことはおよそすべての心理療法流派においても,本質は同じでしょう)

 いえ、およそすべての職業、いや、すべての媒体、すべての制度が、何か他のものよりも「便利だ」とか「効果的だ」と思い始めた瞬間に陥る悪魔の誘惑です。

 できるのは何か? 自分の「現場」という、てこの支点を立脚点として、自らの限界を真っ正面から見つめつつ、創意工夫を重ねていくことでしかない。

*****

 少なくとも、私は、

「ドイツ文化固有の」フォーカシングの在り方、だとか、

 そんなことがフォーカシングの国際的な場で論じられたりテーマになったことがあるなどとは記憶しません。


 まずは「あなたの」フォーカシングの世界を作ることを。

 「日本人」であることは、あなたのアイデンティティの構成要素の一部であるに過ぎない。

 どうせあと、50年もしたら、日本も、少なくともアジアのいろいろな国の出身者が共存する社会になるでしょう。EUならぬ「アジア共同体」の一部として、共通の貨幣を使っているかもしれない。

 そういう時に外国からの移住者を排除するための極右政党の人身をまとめるためにフォーカシングが用いられていないことを心から祈るものであります。

(こういうのが、この前の記事で書いた、「真意」を汲んで欲しい、私のウィットのつもりなんですが)


私は、実は何一つ、「独創的な」ことはやっていません。
しかし「私の」フォーカシングをしています。

人は、結局、今、この瞬間に最善を尽くす以外の生き方はできない。

どこまでも、愚直であれ!!


※推薦ミュージックビデオ(やっとこの傑作PVもiTunes Storeに入った!!):
浜崎あゆみの
momentum"momentum"
(アルバム"Secret"収録)


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●参考資料

原聖/「<民族起源>の精神史 -ブルターニュとフランス近代-」)
「高橋哲雄/スコットランド 歴史を歩く」

「シュリーマン旅行記清国・日本」

ハリー・ レヴィン/「ルネッサンスにおける黄金時代の神話」

2007/02/23

シェークスピアはラブコメの古典でもあるのだ。そして......

 恋愛物語の中で「三角関係」を描く上での人間関係の上での図式には、大きく分けて二通りある。

1..Aという登場人物がいて、B、Cという二人の人間が、Aという人物をめぐって恋愛の上で競争関係にあるケース。

2.AはBを好きなのに、BはCを好きで、CはAを好きという形で葛藤が生じる。

......なるほど、そうだよねえ.......

.......などと、あっさり納得しないように(^^;)

2.の場合、Aが女性だとするとBは男性のことが多く、そのBが恋するCは女性のことが多いということになる。
.....となると、Cが恋しているAは、男性のことが多い筈ということになる!!

 「同性」に恋愛感情を抱く登場人物を登場させない形で、このタイプの三角関係を「異性への」愛の連鎖としてのみ物語を描くには、どうすればいいのでしょうか?

ア:Aは実は「二人の」異性の人間である。(たとえば、そっくりの双子で、あに-いもうと、あね-おとうとであることに誰かが気づいていない)

イ:ひとりは、(素性を隠すなどのため)何らかの意味で自覚的に、異性の扮装やふるまいをしている。

ウ:ひとりは、少なくとも思いを寄せる人から見た外見やたちふるまいと、本人が自己意識している性別が全く異なっている。

エ:ひとりは、(本人は望まないまま)親などからの外部的強制で異性として教育を受けたり、振る舞わされたりしている。

オ:ひとりは、お湯をかけると異性になる(^^;)


 こうした、「順送り型」三角関係ラブコメディの古典のひとつ、それがシェイクスピアの「十二夜」である。

 男が女装したり、女が男装することで相手の目を欺く計略、というテーマそのものは、多くの国に古代以来神話や伝説として数限りなくある。ヤマトタケルノミコトですら、女装してクマソタケルを油断させたことになっている。

 シェイクスピア時代は、日本の歌舞伎と同じように女が役者をすることを禁じられていたので、「男のフリをする女性の登場人物を、男性俳優が演じる」という、しちめんどくさいことになった。ある意味では、女優を禁止していることへの揶揄や皮肉も込められていたのかもしれないけど、この、ジェンダーの超越という主題は、結果的に時代を超えて一人歩きしていく潜在力があったように思う。

 この種の話は、「どうしてこの人が異性だってそう簡単にはバレないんだ!!」ということにこだわると面白みの核心がなくなる。

 たいてい、会話のシーンで、相手方が、

「女(男)なんて、女なんて、信じられないや でええっきらいだ!!」

とぶちまけることになる(なぜなら、その人の恋する相手は他の男性(女性)に首ったけだったりするので)。その相手を慰めたり、「いや、あなたは女性(男性)の心がわかっていません」と時には説き聞かせ、場合によってはそれをもとに喧嘩になる。でも実は、目の前にいるその人を愛していて、自分の気持ちと裏腹に、その愛する男性(女性)の恋愛の手助けすらしなければならなくなるあたりの屈折。

 このあたりを、いかに細やかに表現できるか、あるいは、例えば敵国同士、民族や宗教や身分・経済格差や性差別の問題、などという設定を加えてどのように生かすか。更に他の登場人物の恋愛や奸計などのエピソードを交えて、起伏に富んだスリリングな展開にできるか。

 この前記事を書いた、「恋に落ちたシェイクスピア」は、「ロミオとジュリエット」と「十二夜」を完全合成して、更にメタフィクション化するという、高度な脚本術に基づいているので、「恋に落ちるシェイクスピア」を観た後で、「十二夜」単独の(?)映画をを観るというのは、妙に、もの足りなくもなってしまった。

 でも、いかにもイギリスという美しい自然と、敢えて19世紀後半ぐらいに舞台を移してみていること。そしてスキンヘッドの道化役(!)の俳優の存在感、いかにも古くからのイギリス民謡風だけど、敢えて19世紀的な楽器編成で唄われる挿入歌。加えて、ヒロインでは「ない」方のお姫様役を、かなり現代的な、コケティッシュな雰囲気のわがまま娘にしたことで、エキセントリックさは乏しいが、気品ある内容になっているとは思う。

*****

 ちなみに、ローレンス・オリヴィエがヒースクリフを演じるモノクロの「嵐が丘」も同時に観たんですけど、実は私、「嵐が丘」って、原作もどんな内容かもしらなかったのです (^^;)

 これまた、シリアス系のメロドラマの、永遠の「古典中の古典」そのもののストーリーではないか。

 ご存知の方には、何を今更.....でしょうけど(^^)

 

2007/02/21

"↑↑"や"→→"ではなくて、"→↑"か、"↑→"で3ステップ深めましょう。 

 何と読むのか全く想像できない記事のタイトルにしましたが(^^;)

(実はこういうタイトルにしたら、どういうURLがこの記事につくのかを予想して楽しんでいる)

 IT madia Biz ID「入門書の“2冊読み”で学ぶべきことを取捨選択」という記事、何もIT基本技術に限らない、どんな分野でもそうだと思う。

 つまり、「入門書」に続いて、次のレヴェルのステップの”advanced”な本、というのは、およそ何の分野の本でも、必ずしも学びを真の意味で柔軟で幅がある、応用力や主体的創意、自発的問題意識を形成する形で深めることにはならない。そして意外と実践的効率が良くない。

 一つのテーマについて、同じくらいの水準の「入門より少し水準の高い本」を「自発的に」2冊読むというのは、先を急ぐあまり同じ著者やシリーズものの「中級編」に進むより、「実効ある」学習になることが少なくないのだ。

 この記事で、

> 同じ物事についてまったく別のプロセスでまとめ上げられた別の書籍を比較することで、より客観的にそれらの対象を把握することができる

という、まさにその点がカギ。
 
 この記事にも書いてあるけど、

「あ、この部分、表現は違っても、内容的には結局あの本と同じことが書いてあるのね」

と理解・識別できるのは、重要な「読解力」の訓練なのだ。

 そして、

 「でも、この点については、論理の筋道や対策や結論が違う」

と気が付けると、次によりadvancedな本を「選ぶ」時点でも、ネットのレビューや書評を参考にしたりや、本屋での立ち読みでのチョイスの際に、自分の関心を確実に深める方向の本を見つける糸口になるし、実際に読むときにも、まさに「そこ」に焦点を当てて読んでいけばいいという形で、メリハリのある読み方ができることにもなる。

 こうして「三冊」読み終えた時点での学びの深さ、それだけはなくて、読解力そのもののスキルアップ、さらに、ものごとを一つの方向だけしか見ないのを克服して、自分なりに判断する能力の育成は、単に上級に向かって同じ著者や同じシリーズで3冊読んだ時にはない「重大な」効果があると思う。

*****

 私の歴史の本や音楽や映画の関心の広げ方は、このパターンが多いし、もちろんカウンセリングの勉強でもそうだと思います。

 少なくとも同じ研修所や流派で、ひとつ上のランクまで勉強したら、その時点で、いきなり別な研修所や流派の、入門向けより少し高度な水準に「横移動」してみるといいです。

 いつまでも、いろんな流派や研修期間の入門コース「だけ」3つも4つも受けても、何か、わかったような気になって、でも実際には何も身につかないままになりがちです(^^)

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 ちょっと話は広がるかもしれないけど、私って、映画でも、同じ歴史的事実について続けて2本、とか、同じ監督さん・俳優さんの作品を続けて2本、とか、旧作とリメイク作品を続けて、とか、シリーズものを続けて、というパターンでは、なかなか次に進まないのですよね(「硫黄島二部作」は、私は「2本で一つの映画」という意識をはっきり抱いたので例外)。

 でも、私なりの「こだわりの連鎖」が明確にあるのは確かというのは、ただひたすら「時系列的に」連続して私の記事を読んでいただくと明白でしょう。

 一見無関係に話題のジャンルが飛んでも、ちゃんと前の記事の「続き」となるステップを,、少しだけ前進させて書いていることが多いのですね。

 それを、半分は無意識のうちに、半分は意識的な効果として、「結果的にやっている」のです。

.....これって、人によっては、不思議な前進の順序に思われるみたいです。

2007/02/20

ゲームと現場医療スキルの進歩

 msnを通して見つけた、毎日新聞の「ゲーム愛好者は手術がうまい 米調査」という記事、もっともだと思います(^^)

 そりゃ、プロジェクターの画面を通しての、機器の指先の微妙な「遠隔操作」の腕は上がろうってものです(^^)

 もちろん、ゲームだけしていて、他の医学の勉強もしてもらってないと困りますが(^^)

 内視鏡手術の高度な発達が、手術後の傷の回復までという治療的「副作用」の軽減に貢献してきたことは、言うまでもありませんし。


近未来娯楽作品のリメイクというには奥が深い秀作(第3版)

 直前の記事で、「赤ずきんちゃん」「トムとジェリー」関連で、

「食べられたおばあさんへの復讐のために、武道を学び....」

ということを書いたところで、ふと思い出したのですが、

(私の連想の飛躍は、唐突のようで、すべて意味がある)

「バットマン・ビギンズ」

.....すでにかなり前に観ていたのです。

 私は昔のテレビシリーズの実写版「バットマン」の記憶が残っている世代で、実はこの「ビギンズ」の前に作られた劇場版シリーズは観ないままです。

 しかし、この「ビギンズ」にはすごく感心したのを覚えています。

 いい意味で「リアル」にすることにこだわっている。つまり、主人公は武道の修業を自分からしていく。そしてその修業団体の「影の部分」を葛藤しつつも断固として拒否。バットマンの能力は、自分が企業家として努力し、父の会社を乗っ取っていた連中を合法的に排除して獲得した亡き父の会社の信頼できる技術者との協力で生み出されたテクノロジーの産物(だから、決して万能ではない)。そして,どんでん返しの連続のスリルあふれるクライマックス。

 そして、一見オカルトまがいと見える描写も、主人公の幼児体験にまでさかのぼる、父への深い思いに裏打ちされた、深層心理的にも説得力があるもの。私個人の意見では、この一作の中に、少なくとも「スター・ウォーズ」の最初の3部作(最近の3部作は観てないんですよね、私)を凝縮しただけの密度で「ダーク・サイド」との関わりが描かれていると思います。美術も、切れ味あるスリリングな演出もすばらしい。

 とても古典的ヒーローもののリメイクのそのまたリメイクという先入見に侵されて観ないままなのはもったいないと思います。

 推薦映画なのにご紹介の機会を逸していました。

 私は「娯楽作品」と「シリアスな作品」に垣根を設けるのがすごく嫌いな人間です(^^)

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 ラストの,瓦礫の山になった父からの遺産の邸宅を前に召使いがつぶやくセリフは、第二次大戦の焦土と化した町並みをヨーロッパの少なからぬ都市が再建した際の、大空襲で廃墟と焦土と化す前の町並みと建物を、レンガの質から建物の以前からのひび割れまで再現したという「あの」徹底したポリシー(なぜか日本とアメリカにはない発想)を思い出させる。あれって,日本の場合みたいな「観光目的の町おこし」的なそれではなく、「先行世代から続く町の文化への誇り」という感覚なのだと思います。まずは,そこに住む市民のためにやっていることだと思います。

 日本は地震の心配もあるし、狭いし、木造が多かったし、新規の住居やビルの建築耐用年数もせいぜい2,30年というありさまなので、ビジネスのためには別の土地に新市街を設けて....とはなかなかいかないのはわかるけど、バブルの頃までの計画そのままに、規模だけ大きな産業基地や商業ビルとかを、古い商店街や田畑をつぶしたり,海を埋め立てたりして築いておきながら、誘致企業やテナントが入らないまま閑古鳥が泣く。

 地方の大通りに面した市街地の新しいビルのテナントは空きだらけで、老舗の中小地元資本の小売店がどんどんなくなり、大手の系列店の全国的寡占となり、地方でもちょっと大きな市には、似たような店内構造の「新星堂」や「紀伊国屋書店」や「ヤマダ電器」や「スターバックス」や全国系列のコンビ二ばかりがあるようなことになるのなら、もっと別な都市計画あったのでは? 

 どっちがお金をどぶに捨てて、福祉や教育、健全な経済・流通、行政機関の充実への有益な投資を不可能にしてきたのだろう? とも思います。

 なぜ、経済規模がより小さなヨーロッパ諸国の方が、一人一人の国民が「裕福」なのか? ヨーロッパのように地震もなく、何百年年も前の石造りの建物が今も使えるわけではないにしても。.....日本にも「景観法」はできましたが。

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 もっとも、「楽天」や「amazon」のシステムが、単なる地方の中小小売業の全国系列化ではなく、むしろユニークな生き残りに貢献してもいることは認めたいのですけれども。私の手元に届く中古や稀観本、DVDが、実は日本全国各地から、手書きに近い包装で安価にすぐに信頼置ける形で配送されて来ている現実。私の手元に届く、普通のCD屋にないCDのシェアの相当部分が、実は大分県の小さな都市のCD屋さんからの発送で占めていることとか、痛快ではありますけど。

 大船なんかに住んで「自営業」していたら、それを買うためだけに都心に出る交通費の方が、郵送料金より高い。そして、わざわざそれを買うために出向く「時間」も失われる。

 主要交通機関は半径3キロ以内の自転車と徒歩「だけ」の生活。健康が回復して来てからは、タクシーに乗るのはよほど例外的な場合になりました。.....で、運転免許持ってませんので(^^)。私は月に一度しか都心に出ない人間にとっくになってますし。

 交通費宿泊費食費主催者持ちで、何とここ10年近く月に一度「出張する」四日市の方が、新宿や渋谷よりよほど身近な街なんですよね。最近はその四日市の行き帰りのとこかで封切り映画まで観ている合理性!! 四日市は、私の故郷久留米といろいろな意味で似ている都市(人口30万規模の大都市の衛星都市のようでいて、地方の中核都市といえるくらいには独立性が高い、ともに大河が近くにある、大和時代にさかのぼれる歴史の古い街で、交通の要衝、戦後の経済成長期には大企業の企業城下町的工業都市として栄えた。しかし、いとも簡単に田んぼだらけの大平野の農村地帯に隣接しているetc....)で、居心地いいですしね。私の気心が知れた勉強仲間たちがいますし。

 でも、都市計画の効果(利用効果がない閑古鳥施設が少ない)という点では、県庁所在地の津より大きな三重県最大の都市ということもあるのでしょうが、日本のかなりの地域の県庁所在地より大きいけど、県3番めの都市、久留米よりかなり成功している気がします。久留米も新幹線があと数年で開通すると、「福岡市まで通勤15分」という圧倒的メリットを獲得しますが、ひとつ間違うと「ただの福岡の衛星都市」になり、商業が更にさびれる危険がある......その点、四日市は、近鉄特急停車駅として、伊勢半島にも、大阪圏にも開かれた歴史が既に長い.....

 ここから先は、行政の実力次第ですね。

 ......最後には話が飛躍しましたけど。

飛躍ついでにアフィリエイトはこうしてしまおう(在庫切れの際はご容赦!!)

シムシティDS

msn=毎日新聞にこんな記事もあります。

2007/02/19

"Focuser as Teacher"論 続編(2) -セッション実例編 下の巻- (第2版)

 さて、前回は"Focuser as teacher"のセッションの実例編の続き

 前回(上の巻)は、

背中の背骨の上半分の感じ

しゃちほこ

→その「反り返っている」感覚

→濡れたタオルの端を両手でつまんで、一気に引き下ろす時、反対側の端が跳ね上がる時の感覚を繰り返して楽しんでいる。

→体育館で床に横たえられた太い縄の端を持ち上げて、一気に引き下ろすと、その反動が伝わっていって、反対側の端が、ピン!! と持ち上がる瞬間の感覚。

→地面にまっすぐに横たわっている大蛇のしっぽを持ち上げて、一気に引き下ろすと、その振動が伝わって、蛇の頭が カクン!! と持ち上がり、蛇が失神しそうになるのを繰り返して楽しんでいる。

「吐くんだ!! 吐け~!!」

「いたぶる」

あかずきんちゃんとおばあさんを呑み込んで満腹して(うつぶせに)寝ている狼のしっぽを持ち上げて、一気に引き下ろすと、その振動が伝わって、狼の頭が カクン!! と持ち上がり、狼が失神しそうになるのを繰り返しているうちに、狼の口から、パハッ!! ペロン!!と、あかずきんちゃんとおばあさんが吐き出される。狼は「ごめんあさい、もうしません」とあやまって、これにて一件落着。

→これって、狼を撃ち殺したり、狼の腹を割いてふたりを救出し、石を詰め込んで縫い合わせて「くたばらせる」、童話本来のオチよりも、「誰も傷つけない」という点で、いい解決法ではないのか? という連想が浮かぶ。

.......というところまででした(^^)

*****

 "Focuser as teacher"こういちろうの語り口はこのあたりから多弁になる。

これは、こういちろうに限らない(^^;)。 

 実はこのフォーカシングのセッション最大のシフト(ひらけ unfolding)は、実は「いたぶる」という言葉を見つけた時点で一気に達成されている。

 あとはその瞬間にすでに全面的に質的に変容していた曖昧なフェルトセンスの「感じ」そのものの中から、新たな言葉やイメージが、新鮮な観点から、具体的な洞察の形でいくらでも、紡ぎ出され、フォーカサーである私自身の具体的状況と関わる気づきとして統合されるプロセスが進むのである。だから、ここまで来ると、フォーカサーは、その気づきについて具体的にリスナーに物語りたい気持ちがある限り(話さない自由はある)、一気に多弁になる。

 これをジェンドリンは、「人格変化の一理論」(「セラピープロセスの小さな一歩」(池見陽 編・共訳・著) 所収)の中で、「全面的な適用(grand application)」と呼ぶが、それが、すでに肝心な変化(シフトそのもの)が生じた後の、「過程の『副産物』であるに過ぎない」ことを強調している。

 この部分に入ったら、リスナー・ガイドは、それこそ「うん、うん」とうなづくだけの聴き手でもいいし、要所要所で伝え返しをする際に、フォーカサーのプロセスを妨げないかと神経を研ぎ澄ます必要はほとんどなくなる(どのように終わらせるか、は別として)。

*****

 「......『赤頭巾ちゃん』は、そもそも、狼が二人を『丸呑み』にでき、腹を割いても生きていて救出できるという時点で、できすぎた、都合のいい物語なわけですけど、でも「銃で撃つ」とか、「腹を割く」「石を詰める」というあたりは何とも残酷なわけですよね。童話ですらこういうオチをつける。

 もとより、このストーリーをリアルに脚色すれば、「残虐ホラームーピー」にもできてしまうわけだし、

「殺されたあかずきんちゃんとおばあさんの幽霊が、その狼の目の前に繰り返し現れて、狼が責めさいなまれる」となれば、四谷怪談みたいな「怪談話」になる。

 でも、これらはみーんな「残虐シーン」がいっぱいではないか!! リアルではあるけど、誰かが取り返しのつかないひどいことをしたりひどいめにあったりすることには変わりない

 私が今編み出した、「赤ずきんちゃん」新バージョンこそが、いちばん心優しい世界ではないかと思えてきて」

「......(沈黙十数秒)......そうそう思い出した、まさに『このパターンの』展開しか存在しないアニメ!!

そうか、『これ』のことだったんだ!!

[注:この瞬間に、更なるシフトがこういちろうの中に自然に生じているのである]

「トムとジェリー」じゃないか!!

この物語世界は!!

(wikipediaはこちら

  ......例えば、ジェリーの友達の子供アヒルがトムの口に呑み込まれる。すると、ジェリーはトムのしっぽの上にドカンと重たい家具とかを押し倒す。するとしっぽから痙攣が伝わって、トムの

"Ahhhhhhhhhhhhhhhhhh!!!!"

という叫びと共に、口から、アヒルの子がひょいと吐き出される

 たいていこの後、トムは重い家具の下からしっぽをむりやりひきずり出す。するとトムのしっぽは金床で伸ばされたみたいに広がって大きく平たくなってる......でも、トムのしっぽは次のシーンでは見事に復活。再生している。

 あと、上から金庫を落とされたら、金庫の扉を駆けて、真四角の身体になったトムかトコトコ歩き出す、というのもこのアニメの定番ギャグでしょ? 凄いのになると、トムは、ジェリーの倒したまさかりで、トムは脳天から真っ二つになっても次のシーンでは蘇る(注:確か、「花咲ける騎士道」、という話)。

 トムとジェリーが、お互いから受けた「虐待」を根に持って呪いに呪う話なんてほとんどないし、あったとしても、いざとなると相手がかわいそうになって助けたりする。[注:ジェリーが幽霊を「演じて」トムを懲らしめようとする話はありますね]

 トムにしてもジェリーにしても、ブルさんにしても、喧嘩ばかりしているようで、実はそういうことをすぐに忘れて和気藹々ともしてしまえる。

(リスナー:「♪なかよく喧嘩しな」ですね)

 「そう、それそれ!! 言ってくれてありがとう。

......あれ、もちろん日本でだけのテーマソングだけど、あの歌詞の一言こそ、この作品の本質を言い当てていると思う

 実は、このアニメについて、以前、アニメの歴史を書いた本[注:創刊直後の頃の「アニメージュ」]で

「暴力的で残虐なアニメ」

で一蹴されている専門家の叙述にぶつかって、

へえ、そんな見方もあるわけ? でもそれだけで済ませるのはないだろ?....と憤慨したことがある。

 それをいうなら、いわゆるシリアスでリアルなストーリーのアニメで、敵役が実は単なる悪人ではなかった、という展開にするために、いろいろと理屈をつけたりなんたりすることで説得力を増そうとすることの方が、よほどうさんくさくて、教育上もよろしくないんじないかと。

 自分の国は他の国に兵隊を送って戦争しておいて、自分の国の子供たちには「暴力に走らせる」といって、暴力描写のある作品を見せない方がよほど偽善だ。しかも、別段暴力を「正義」として描いてもいないのに、「悪」を滅ぼしてもいないのに、「トムとジェリー」まで「暴力的」と非難したり、「まねしたら困る」というのでは、何かがはき違えられている。

......私の心の中に、いわば、相手への愛情のこもった悪戯心のこもった「大人のウィット」として、少しキツイジョークを言っても、その意図を察して、「わかったわかった」で紳士的に受け止めて、今度はまた、悪戯心のある「大人のウィット」を投げ返してもらって、そこに込められた「善意の忠告」みたいのものをそのまま「信頼できる」みたいな関係への、すごい憧れがあるのかもしれない」

(後略)

※「トムとジェリー」のYoutube動画をこちらにまとめてみました(^^)

******

 実は、今の最後の部分もまた、自分の状況と重ね合わせての、統括的な、かなり大きなシフトであり、ここで完全に「体験過程尺度 Stage 7」に到達したことになります。

(.......ということまで、振り返りの際に、訓練生のリスナーには解説しています

******

 更に、振り返りの時に、私は、私の方から、訓練生に次のように尋ねてみました。

「実は、タオルをパシンといわせることを繰り返している時の感じがぴったりだとか、『いたぶる』という言葉を口にしようとした時、私は、あなたに、何か攻撃的だとか、残酷だという印象を与えるのではないかと一瞬躊躇していたんです。でも、その言い方以上に実感にぴったりな言葉がなかったから、結局口にしたんですけど、どう感じていましたか?

 訓練生は答えてくれました。

「いえ、そういう感じは全然していなくて。
タオルの話の時も、
先生は、

『これでは端っこの毛先が痛んでしまうな』

という気遣いを口にしてました。

『これじゃ蛇とか狼も、たまらないだろうな』

とかも。

それが、先生の、やさしさいたわりみたいなものに思えていましたから」

 私は、

「聞いてみてよかった。
そういってもらえたことを心からありがたく思うよ」

と答えました。

 そして更に、今やってみたやりとりは、意図したわけではないけど結果的に、リスナー側がどんな感じでいるのか、リスナーへの感情移入的な言語化をフォーカサーの側から提示し、リスナーにそれを修正して、感想を述べてもらうというふうにして、交互に進めるプロセスの中で、自己理解、相互理解を深める、"Interactive Focusing"的にもなっていることを紹介し、いずれその技法も実地のセッションとして紹介するつもりだと伝えました。

******

 まあ、こんなふうにして私は、フォーカシング個別指導をしているわけです。

 なお、私は、「トムとジェリー」が、結果的に第2次世界大戦の空気や当時の欧米の社会問題をいろいろと反映していて、見る人が見れば、そのことの「暗号」はいろいろ解き明かせるということも、私なりに了解します。

*****

 更に、さすがにフォーカシングのセッションでは話してませんし(そこまで訓練生を自分の世界に引き込むことはしない)、半分は後知恵ですが、

1.おばあさんの姿をした狼が「(口が大きいのは)お前を食べるためなのさ」、と言ったところで、「私、トイレに行きたくなっちゃった」と赤ずきんちゃんが言って[ここまではおとぎ話にそういうバージョンがあるそうです]、トイレに行かせたら、窓から逃げていた。

2.おばあさんの姿をした狼の正体がバレた瞬間、赤ずきんは「キャー、男〜!!!」と突然叫び、怪力になり、狼を放り投げ、おばあさんの家全体が破壊されたら、それこそ、「うる星やつら」、水乃小路飛鳥バージョンですね(^^;)

[面堂了子ではなくて!!.....同じ間違いをこのブログで2度犯した私をお許しください]

3.実は、おばあさんは悔しくも悲しいことに食べられた、でも、赤ずきんちゃんは深傷を追いつつも、すんでのところで助かった。狼はその抵抗を受けた際に片目を傷つき失う。そして赤ずきんちゃんは、その後美しい女性として成長する過程で武芸を身につけ、赤い柔道着あるいは赤いチャイナ服に身を包んで、世界中の武道家の中に、「片目のオオカミ男」を探しまわる復讐のさすらいの旅に出たら.....(2つの作品が考えられますね)

(映画もゲームも、「2」全盛の時に体験している世代です。下手でしたけど)

 ......まあ、こういうバリエーションは、すでにアニメ作品として、小説として、ゲームとして、果てしなく作られており、「赤ずきんちゃん」は、物語の世界の黄金の源泉のひとつとして君臨しているわけです。

「人狼」(この、押井守さんの作品は、早くからDVD持っていたのに、これを書いて3年は経て、やっと観ました

「赤ずきんチャチャ」(特に初期のギャグの切れ味が好きだった作品)

......他にも山のようにあるらしいですけど、私の守備範囲を超えるので略します(^^)

*****

 推薦BGMは、浜崎あゆみの  浜崎あゆみ - Secret - Beautiful Fighters"Beautiful Fighters"(アルバム"Secret"収録)とさせていただきます。この曲のPVも、シリアスなメッセージがこもった名作と思いますので、推薦。

 この記事でこの曲を推薦した意図は、真剣なファンの中に、通じる方々が、少なからずいらっしゃるとおもいますので(^^)

HMVジャパン

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2007/02/18

"Focuser as Teacher"論 続編(2) -セッション実例編 上の巻-(第2版)

 フォーカシングのセッションの実例をまたひとつご紹介します。

 今回は、少し前に再び言及した、"Focuser as Teacher"の実際の訓練において行われたものですので、訓練生の方の許諾をいただく必要がありました。

 もっとも、"as teacher"役のフォーカサーは、他ならぬ私です。

 「な、なんだ? それでは、こういちろうが、ひとりフォーカシングの結果を公表するのと何が違うのか?」

......と言われそうですが、まず、たった小一時間で生じた、以下の内容の展開を目の前で実際にリスナーとしてライブで体験した人が実際にこの世の中にひとりおられるという点で違いがあります(^^;) その方とのセッション後の振り返りも生かしているので、再現のリアリティは更に上がっている筈です。

 そして、私はその訓練生のリスナーに、傾聴と応答の仕方について刻々と指示と感想を返しているのです。

 そして、この展開そのものが、恐らく、私ひとりでは生じず、訓練生であるリスナーとの暗黙の相互作用の中でこそ進展したものであるということも確かと思えます。

*****

 今回、事前にフォーカサーである私が、訓練生であるリスナーに求めたのは、

「私が言ったことを、逐一投げ返してもらう必要はありません。大事だと思う言葉だけを選んでそのまま返すという基本姿勢でお願いします。教示をしてもらうことは、途中で私の方からも求めないつもりです。それ以外の応答が必要な場合には、私の方からお願いします」

ということでした。

 このようにしたのは、

1.この訓練生の方が現職のカウンセラーだったので、几帳面なクライエント・センタード的な投げ返しの訓練には既になじまれているように思われたこと。

2.私はフォーカシングに慣れている。しかも言葉数が多いことが多い(.....皆様、想像できるでしょう.....)。更に、容易に体験過程尺度的に言うとstage 5以上の水準で語り始める。しかしそうなると、言い方は常に曖昧で微妙な言い回しを、曖昧な、飛躍した脈絡で試みることを繰り返すことになるので、逐語的に返そうとすると、必ずズレが大きくなる。
 (私の文章の、時として、「普通ではない用語法」を織り交ぜるクセにお気づきでしょうか?....あれは、「え?」と感じて思わず少し前から読み返してもらえることを前提に使っています。文章なので、推敲の過程で、そういう部分を「効果的に」なるように相当に手を入れているのですね。いきなりその原型をを「ライヴで」話されたら、困っちゃうだろうなあと自覚してもいるのです)
 それを全部こちらから修正していたら、私もプロセスが前に進まなくなるし、私に限らず、フォーカサー一般にとって妨げになるので、むしろ最初から「取りあえずこの言葉を返しておけばフォーカサーの邪魔にはならないというあたりの言葉を返すセンスをこそ磨いてもらおうと考えた。

 要するに、野球で言えば、

「適時長打にはならなくていい。打ち急いで凡打を打つくらいなら、余計な球には手を出すくらいなら、2ストライクまではスイングしないままでいい。ファーボールで塁に出られるのも打者の力。時には意識的にバッターボックスから離れるのも打撃のうち。走者がいる時に少なくともダブルプレーを食らう場所に打たなければいい。走者がいるときの犠牲フライ、あるいはファールになる(けど、みすみす野手にキャッチされる場所へのファールフライにはならない)打ち方ができればいい」

というあたり、要するに、フォーカサーに「害のない」「みすみすチャンスをつぶさない」反応をリスナーがする勘所をつかんでもらえることが大事と思ったからです。

(今の比喩自体、野球に親しんでない人にはピンと来ないかもしれないと思いつつも....)

 3.そして、フォーカサーに対して、自分がどういう応答をすべきかにばかりいきなり気を使うのではなくて、まずは、フォーカサーのプロセスとはどんなものかに開かれた関心を持ち、そこにたたずんで味わっていくことそのものが大事だからです。(後者が十分にできて、はじめて前者に気を使う余裕が生じる)

*****

「それでは、今から始めます。まずは、......楽な姿勢で座って、今の自分がどんな感じでいるのかな......というあたりを、自分の内側の感じに確認していってみますね」

......"as teacher"としてのフォーカサーは、こうした「今、自分が内面で何をやろうとしているか」ということ自体を、リスナー役に「同時実況中継」します。

「.....(沈黙数十秒)......何か頭の内側が暖かい感じがします」

(リスナー:頭の内側が暖かい.....)

「そうそう、今の時点では、それくらいの言葉を返していただければ十分です。..........(沈黙数十秒)......その暖かさは、そう悪い感じではなくて、感じてはいられるんですけど、何か、額のあたりに輪っかみたいな感じがあるんです。......言葉返してもらえますか?

(リスナー:額の暖かさも気になる感じなんだけど、額のあたりの輪っかの方がもっと気になる....)

「......あ、この場合なら、『額の暖かさを感じてはいられる。でも額の感じの方が気になってきたんですね』ぐらいでいいです。すいませんが、この言い方でもう一度言っていただけますか?」

(リスナー:額の暖かさを感じてはいられる。でも額の感じの方が気になってきた)

「はい、どうもありがとう。.......額のあたりの感じは、何か外側から締め付けられるような感じだとは言えるけど、そんなに苦痛ではない。......えーっと、何だっけ、『この』かんじは? .....そうそう、ちょうどシャンプーハットみたいなのをかぶってるぐらいの感じ」

(リスナー:額のあたりに、何かシャンプーハットのイメージが浮かんでいて、締め付けられるように感じる)

「あ、これ、イメージではなくて、ちょうど、シャンプーハットをかぶっているときぐらいに締め付けられるような感じが頭の表面に実際にあるってことです」

(リスナー:あ。すみません)

「いいのいいの。私も曖昧な言い方をしていると思うから。私の頭の回りに、ちょうど帯のように、緩い締め付けられる感じが身体にあるわけ。その締め付けられる感触はそんな感じかな.....と味わっていたら、シャンプーハットで締め付けられればこのくらいかな、という気がした。そして、その締め付けているものにはつばとかひさしのようなあって、ちょっとあたまから下がって広がっているくらいに視野に入っているかな、というイメージがある方がぴったりかなと感じたの。......こういう場合、『何かシャンプーハットみたいなのをかぶってるような』とだけ返してくれればいいかな。今、お願いしていいですか?

(リスナー:何か、シャンプーハットみたいなのをかぶってるような感じなんですね)

はい、どうもありがとう.......(沈黙)......私は、今の沈黙の中で、さっきの、シャンプーハットみたいのをかぶっている程度の締め付けられるような頭の感じと、無理なく一緒にいられるかな? というのを味わっていました。......その結果、どうも、その感じそのものをすぐにこれ以上相手をしてあげなくてもいいという感じだったので、首から下の胴体にも周囲を向けて言ってもいいかなと感じて、注意を下におろして行きました。[以上、リスナーのための「実況中継」モード]。.......今、おなかの中まで注意をおろしていったんですが、頭の芯の方と同じで、ちょっと暖かい感じで。不快ではありません」

(リスナー:暖かい感じで、不快ではない)

そう、そこだけ投げ返してもらえば十分に助けになります。ありがとう。.......しばらく。そのおなかの暖かい感じと一緒にいられるかどうか試してみます..........(沈黙数十秒)......うーん、何かさっきと感じが変わってきた。背中の方が熱いんですね。背骨の周りのあたり。ちょうど、脊椎の、胃のあたりより上の部分から、熱を発しているような」

(リスナー:????....何か胃の上の方が熱くなってきたんですか?)

「あ、今の私の言い方はついて来るのがたいへんだよね。そういう時は、取りあえずあなたが言葉として返せそうな部分を手短に返してみれば、フォーカサーが、力がある人なら、自分で正確に、リスナーであるあなたに一層伝わるような言い方に自然と言い直してくれるものだから、今ぐらいでもいいかも。いざとなれば、「何かさっきと感じが変わってきたみたいですね」だけでもいい。.......今の「この」感じをどういうふうに言葉にしたらいいかじっくり感じるために時間をもらいますので、ちょっとの間待っていてもらえますか?

(リスナー:わかりました)

「.........(沈黙数十秒)......うん、そうね。背骨の脊椎のひとつひとつが、ちょうど火鉢に入れる炭の円柱みたいなブロックになって積み重なっている。そこから出る放射熱が、おなかの方まで広がっているみたいな感じ。それが脊柱の胃あたりより上の部分の脊柱だけなの。.....言葉もらえますか?

(リスナー:背中の方の、炭の熱が、おなかの方まで広がってるんですね)

.......うん、それくらいで十分。ありがとう。。.............(沈黙数十秒)........ちょっと、この脊柱の上半分の感じが独特でね。どこかで体験したことがある感じだけど、何の時の感じかわからないでいる。しばらくそれを探してみるので、また時間もらいます............(沈黙数十秒)........今、いきなり、目の前に、鯱(しゃちほこ)のイメージが浮かんで。ちょっと離れたところから、建物の屋根にあるしゃちほこを眺めているみたいな」

(そのしゃちほこの感じがが、背中の感じとぴったりなんですね)

今のレスもらえて助かりました。.......そのしゃちょほこは、名古屋城の金のしゃちょほこみたいに、頭が下で、しっぽをぴんと反らして張り上げている。でも、私のイメージの中では、お城の上ではなくて、なぜか、お寺の大きなお堂の上にその金のしゃちほこがあるの。その方がしっくりくる。........あ、全体が金では」ないな、しゃちほこの素材そのものは黒くて、それを縁取るように、縁のあたりだけが金属の素材でできている感じかな。.......そして、この「頭を下にして、尾を上にして反ってる」感じが、何か背骨のつながりのわん曲している感じと一致する。ちょうど、ちゃちほこのうろこの模様のひとつひとつが、背骨の一個一個に対応するというか。わかるかしら?

(リスナー:背骨の反り返る感じが、しゃちほこの反り返る感じとそっくりなんですね)

「…うん、それだけ投げ返してくれれば十分です。特に『反り返る』という言い方をキーにして返してくれたことには感謝します。むしろ、言われて、そこが一番の核心だと気がついたくらいなので。.........『この』感じ、何か凄く大事なのに。うまくつかめないでいるけど、もう少しじっくり関わるために、ちょっと時間もらいます。............(沈黙数十秒)........今、その背中の感じに『この感じの核心、いったい何なんだろう』....って問いかけてみていました。フォーカシングの教示で言うと、「フェルトセンスに問いかける(asking)っていう、5番目のです。........この「ピン!!と跳ね上がる感じ、独特なんだけどな、この、『ピン!!と』は何だっけ? 知ってる感じなのに? って、ずっと自分の中でさがしていた。.....そうしたら、やっと今出てきた。今、こうやって話しているうちにやっと浮かんだんだけど、濡れたタオルみたいなの、洗濯物として干す時に、しゃんとさせるために、端っこを両手で持って、こんなふうに(目の前で動作をしている)急に引き下ろすような動作をすることがある気がする。そうすると、タオルの反対の端は、スパンと音を立てて、むしろ上に反り返るって言うか。......子供の頃、選択の手伝いみたいな時に、この動作を何回も何回も遊びみたいに繰り返していた気がする。ほんとうはこんなことを繰り返していたら、布地が痛んで、端っこからほつれ出すかもしれないんだけどね。

この動作、映像で表現すると、こうなります。
(うまく映像表示されない時には、「リンク先のファイルを保存」を使ってください)

.......「この」洗濯物の端がスパン!と跳ね上げるみたいな感じなんだけどな.......ともかく、自分の内側で、このタオルをスパン、スパン、といわせる動作の感じを繰り返してしばらく味わってみます..........反対側の端が跳ね上がる度に、濡れてるから、しぶきが跳ね上がって自分にもかかるんですよ。今、そのしぶきが宙を舞って、それが降りかかる時の感じを味わってみています。.......嫌な感じではなくてね。むしろ降りかかるのを繰り返して楽しんでいるというか。....レスもらえますか?」

(リスナー:その、もう一方の端がピン!!と上に跳ね上がる水しぶきを浴びるのが楽しくて、繰り返して遊んでいるような感じなんですね)

「そう!! 楽しいから繰り返して遊んでいるの!! いいレスありがとう......(沈黙十秒)........あ、今、イメージが変わって。体育館みたいなところに、縄登りに使うような太い縄がなぜか横たえてあって、その一方の端を一度持ち上げて、思い切って下に引き下ろすわけです。すると、そのエネルギーが縄をずっと伝わって行って、縄の反対の端がピン!と跳ね上がる。そういう感じ。その動作を繰り返している。

(注:セッションではこういう言い方しか思いついていないが、むしろ、運動会に使う綱引きの綱がグラウンドに横たえられている時、その縄をもう一度まっすぐにし直すために、端っこを持って持ち上げてから急に引き下ろし、その波動を伝播させることで、この動作を繰り返すことがある気がする。)

「.......<沈黙10秒>........そしたら、今度はその縄が、ニシキヘビみたいな大蛇みたいに思えてきてね。私は長ーくまっすぐに横たわっていた蛇のしっぽを持ち上げて、急に下向きに引き下ろすわけ。すると、そのうねりが伝わっていって、眠りこけていたへびの頭がピン!! と跳ね上がるわけ。蛇の首筋はカクン!!と凄い衝撃を受けて反りかえって、蛇はショック受けて失神しそうになる、それでも私は繰り返してしっぽを引き下ろして、蛇の頭にカクン、カクンとダメージを与えるわけ」

(リスナーはこのあたりも的確に手短に言葉を返してくれたが、記録にないので略)

「この感じを一言で言うとどうなのか、言葉を探してみます。.....(沈黙20秒前後)......「いたぶる」.......そう、「いたぶる」だよ。これ。やっとホントにぴったりの言葉が出てきた!!

(リスナー:「いたぶる」.....)


「そう。.....意味、わかりますよね?」

(リスナー:ええ。○○○するみたいなことですか?)

[リスナーのここでの答えは別に特別な、放送禁止用語的な説明ではない。私にはしっくり来ないものだったが、その言葉そのものは記憶にもなく、両者ともに忘れたので、取りあえず○○○と表記したのみ!!]

「.......っていうか.......そうね、『いじめる』だと違うんですよ。『はたく』といっても違う

(リスナー:『いじめる』だと違うし、『はたく』といっても違う.......)

「そういう言い方のようには、残酷さは際だたないの。本来の意味はどうか知らないけど、ここで私が言ってる場合には。.........さっきの蛇に戻ると、しっぽ握ってそんなことされたら、蛇からすればいい迷惑で、胃から食べ物が逆流して、口から吹き出しそうになるかもしれないけどさ。

 『吐くんだ!! 吐け~!!』 

みたいになってしまう(笑)」

(リスナー:『吐くんだ!!、吐け~!!』.....ですか?)

「そう。.........あ、今、突然、『赤ずきんちゃん』の童話思い出して。

 蛇ではなくて、私は,腹一杯でうつぶせに眠り込んでる狼のしっぽを持ちあげて、一気に引き下ろすことを繰り返す。その度に、その振動が狼の胴体をしならせていって、口の辺りがピンと跳ね上がり、カハッ、カハッ、となるわけ。そういう同じ動作を繰り返してしているの。

「貴様、赤ずきんちゃんとお婆さん丸呑みにしたろ!!『吐くんだ!! 吐け~!!』」

......すると、ついに、狼の口から、カハッ、ペロンと、赤ずきんちゃんとお婆さんが生きたまま吐き出されて出てくるわけ。

 狼は、こうやって繰り返して『いたぶられて』吐き出さされるまでの苦しみだけでさんざんな目に遭ってるから、

「どうもすいません、もうしません」

 赤ずきんちゃんもおばあさんもそれで狼を許して、これにて一件落着!!

.......今、連想していくうちに考えてみたら、これって、グリム童話とかよりもよっぽど誰も傷つけないオチだと思えてきた。.....だって、童話では、確か、猟師に銃で撃たれるか、寝ている間におなかを切り開かれて、赤ずきんちゃんとお婆さんを救出後、代わりに石を詰めこまれて縫いあわされて、起きた狼は小川で溺れ死ぬのではなかったけ? 
 
 (注:狼は、猟銃で撃たれる、あるいは、お腹に石を詰められてくたばって死ぬというのは正しいが、「溺れ死ぬ」ではないことを後で確認した。『カチカチ山』の泥船が合成されたかもしれない)

......."Focuser as teacher"こういちろうの連想は、ここから更なる異次元に跳躍し、いよいよ体験過程尺度stage 7、ジェンドリンの言う『全面的な適用(grand application)へと跳躍する統合的な気づきに向かうのだが.......

......長くなったので、前後編に分けます。

 後編はこちら


*****


 アニメの話になると予告されたけど?.....ですって? 

 ......なります。どの作品かあてて下さい(^^)

恐らく、アニメに詳しすぎる人ほど、「ホームランと見紛う大ファール」となると予測します。灯台もと暗しになると(^^;)


****

●なお「赤ずきんちゃん」の伝承について、このセッションの後、記事を書くにあたって、はじめていろいろ調べたのですが、その資料性(童話「赤ずきんちゃん」の成立過程の俗説の検証、『赤ずきんちゃん」のいくつものバージョンのもならず、「赤ずきんちゃん」と類似した、古今東西のおとぎ話バージョンが実際に読めます)との比較論的考察の多角性という点で、

神話・民話・雑学のサイト 円環伝承 (by すわさき さん) 

の「赤ずきんちゃん」関連ページ(私の判断で、取りあえず入り口はここにさせていただきます)が、私もたいへんに勉強になりました。

 ここまで「一冊の本」で考察したものは果たしてあるだろうか? という域です。しかも自分のページを相互リンクできるWebの特性を生かしておられるから、ここまでできるのですね。

 謹んでご紹介させていただきます。

先週の人気記事ベスト20!!(02/11-17)

「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「週ごと先記事別アクセス解析機能を使っての、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、32回めです(^^)

 固定リンクでのアクセス率の順位から集計しています。アクセス数が同じ場合には、訪問者実数上位の記事を上位とし,訪問者実数も同じ場合にのみ、同じ順位として掲載します。
 7×24時間、つまり2/11日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,747(前回1,550)。(一日平均アクセス249.57。前回221.43)と、前々回と同じ水準に回復。

 訪問者実数は、1,429名様(前回1,233名様)と、これはかなり上昇。

 「サイト内移動」、前回の240(32.2%)に対して今回282(33.1.%)、それに対して、トップページへの外部からのアクセス、前回346(43.8%)に対して、今回363(41.8%)。これらは全開の水準維持と言っていいでしょう。

 そして、当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、3回連続前8.2%。

 「訪問周期」は、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回9名、今回久々に11名様まで一気に回復。感謝!!

....以上のいくつかの数値を見る限り、ひとりで一度に読んでいただく記事の数が減っても、定着読者自体が増加して下さる傾向は維持されていますあると推測しています。

 それでは記事別ランキングの方の発表!!


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1.インシュレーターは使わないに越したことはない(→) 25週連続

2.Vistaの最初の印象 NEW!

3.「大人」自身が自分の価値観を崩し続ける「冒険者」でいられるには? NEW!

4.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↑)26週連続

5.オーディオにおける接点復活剤について(↓) 8週連続

6.私のピュアオーディオシステム(そこに更にiPodをどう繋ぐか) (↓)5週連続

7.Focuser as Teacher"論 続編(1) NEW!

8.心理臨床家の研修のコスト・パフォーマンス NEW!

9.映画「マリー・アントワネット」「女王フアナ」、あるいは浜崎あゆみの「成熟」について(↓)

10,私が最も納得して、楽しんで観た、大推薦の歴史もの映画!! NEW!

11.「モバイルオーディオ」カテゴリーへの直接リンク (↓)3週連続

12.不眠?鬱?.....いえ「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」の場合 COME BACK!!  

13.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~(↓)5週連続

14.「CDプレーヤ」カテゴリーへの直接リンクCOME BACK!!

15.「神田橋條治」カテゴリーへの直接リンク(→)4週連続

16.「死にたい」と言ってもらえること (↓) 11週連続

17.私のスーパーバイズ ~実践編~ (↑)

18.「ホールボディ・フォーカシング」カテゴリーへの直接リンク NEW!

19.扉を開けて (↓)

20.先週の人気記事ベスト20!!(02/4-10)

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 さりげなく心理系の記事のシェア回復が進んでいます。やたらと映画系が多かったという点も反映してますね。映画系はもう少しだめ押しネタが予定されてます。次にどれで来るか、わかる人にはわかる「必然的な」つながりです!!

 何かayu系が予定消化でいろんな記事に先を越されて割り食ってますが、そのうちに"A BSET 2"の発売も迫って来たことだし、また「旬」ネタになりますので、今度こそ今週には予定消化するのではないかと。

 あと,かなり凝ったクラシックネタが,アントワネットがらみで書くでしょう(アントワネットの曲だけではない次元....つまり、「フランス革命期の音楽」紹介まで飛翔します)。

 更に、フォーカシングと、ある超メジャーなアニメをもろに絡めた記事(これがネット上での仕込みがたいへんなことになった)、これは順当に行けば次の大作になります。

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 これを書いている「今、この瞬間」(2/18 AM 01:35)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、131254、フォトアルバムを含めると151367、ブログの通算記事数はこの記事で687本めです。

 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。

HMVジャパンApple Store(Japan)

2007/02/17

次の記事、予備調査のため遅れております.....

何だか書く日と書かない日の落差が大きくなってますけど、昨日の空き時間は今度書くつもりの内容の「予備調査」に費やされてしまいました。

「仕込みはOK」ですけど、今日は都心でこれから別の仕事がある日なので、いろいろ掲載予定がどんどん順延気味な傾向、どうかお許し下さいませ!!

2007/02/15

私が最も納得して、楽しんで観た、大推薦の歴史もの映画!!

「恋に落ちたシェイクスピア」

 ほんと、「ボーマルシェ フィガロの誕生」の直後にこの映画を観て、ご紹介するのはたまたまのいきがかりなんですけど、「でき過ぎてる」といいたくなるご紹介の順序です。

 この映画がその年のアカデミー賞最多部門受賞作品になるのなら、私はアカデミー賞の選考基準を信頼できる気がする。

 まず,コンセプトの勝利!! 「ロミオとジュリエット」を劇中劇にして、シェイクスピアが「ロミオとジュリエット」を作るまでを、まさにシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」的なコンセプトで作る!! 

 エリザベス女王時代の当時の史実のポイントを幾つか知っていて、シェイクスピアの戯曲を幾つか楽しんで観たことがある人だと、まんまとうまく「つじつまあわせた」物語作りやがって!! とニヤニヤしたくなる仕掛けも盛りだくさん!!

 それを、素晴らしいデザインセンスの衣装と、ズボン役もお姫様もよく似合い、正統派の芝居センスもしっかりした美人のヒロイン、そして不気味だけど(爆)、「リアルな」エリザベス女王って、こんな雰囲気だろね、という助演女優にやらせて、物語の中のフィクションと現実を「等価の」フィクション性で、しかもスピーディでロマンチックに描ききれてしまうと、もう、言うことなくなるのである。

 「なぜ、女だとバレないんだよ!!」とかいう人は野暮!! シェイクスピア時代が日本の歌舞伎と同じように女優禁止だったんだから、もう、虚構の中で「男が演じる女と、女が演じる男」という設定を生かせてしまったら、それをあっさり楽しもうじゃないの!! という気になる。

 実はさりげなく現代的と言いますか、冒頭の、スランプになって某所にかけこむシェイクスピアが、完全に私が現実にやっている職業についての「映画的なイメージ」そのものだったり、ヒロインが実はシェイクスピアよりやや現実見当力が高いしっかり者で、潔いあたりとかは、現代アメリカナイズされているけど、特に前者なんて「わざとそこでウケねらってパロディしてるの、わかるでしょ?」「はいはい」という感じですし。

 エリザベス女王についても、

「もー、あんた,いいとこ取りして、いかにも、あんたらしい心境の、セリフ決めるものなあ」

としかいいようがない。そうだよ、あんたが一番偉かったんだよ!! わかってるから!!

 エンターティメントと歴史物としてのバランスが最高度の作品の一つでしょう。いわゆる歴史ものの重苦しさが全然ないのはむしろ美点です。

 映画「エリザベス」と続けて観たら、

「若い頃あんな目にあったあんたが、おばーちゃんになったらこういうばあちゃんなったていたとしたら、もう,納得だよ!!」 

という感じだから、レンタルで観るなら2本とも借りて続けて観るパターンはおすすめです(^^)「エリザベス」でけ観たら不完全燃焼に終わる人も、歴史を知らない人も、この2つを連続してみると、「相乗効果」はかなりのものがあると思います。これで「エリザベス女王」大河ドラマは、途中をすっ飛ばして、しかも製作年代をそんなに隔てない、ほどよく現代的で娯楽色もある形で、一応完結するのだ。はじめから、それをねらって作ったところもあるのか? 衣装や画面作り、演出の切れなど、総合的なクオリティは、本作の方が高いと思いますが。

 屈折したりどろついた恋愛ものでないと空空しく感じる人でなければ、歴史ものアレルギーではない人の、バレンタインやホワイトデー向けDVDとしても好ましいかもしれない。

 そして、あとになって、シェイクスピアの原作やシェイクスピア劇の伝統、当時のイギリスの歴史背景を、この映画がいかに巧妙に生かしているか(「えーっ!! ここまで史実なんだ」「これも『ロミオとジュリエット』原作にあるセリフなわけ?」「さ,最初からヒロインの名前、仕組んでたのか」)を、ご堪能下さい!!

 小説嫌いの私も、シェイクスピアは主要作のかなりの部分を学生の頃からなぜか読んで来ました。個人的には「リア王」が一番好きであります。シェイクスピア全般、私がなじんで来たのは新潮文庫の福田恒存訳でっす。

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 なお、「ロミオとジュリエット」といえばプロコフィエフ作曲のバレエです!! 敢えて、本国ロシアのではなくて、現代的な官能みとロマンチシズムのマクミラン版、しかもイギリスのロイヤル・バレエのを選んでおきます。このあたりが,ハリウッド的な感覚とも一番違和がないでしょう。

 でもやはり、現代屈指の天才男性ダンサー、マニュエル・ルグリの舞台のも,映像としては未見ですが、紹介しておこう。このバレエの「愛の場面」だけは、来日時に目の前(それこそ前から10列目以内)で堪能していることでもありますので!!

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 なお、この記事コメントの後半も、この映画の落ち穂拾いとしてお読み下さい。

フィガロ=ボーマルシェ???

「ボーマルシェ/フィガロの誕生」

 アントワネットつながりで「やっと」観たもう一本の映画です。映画の存在は数年前から知っていて、気になっていたんですけど。

 「フィガロの結婚」というと、モーツァルトのオペラが有名ですけど、ここで題材になるのはその原作としてのボーマルシェの戯曲が上演されるまでの顛末です。

(ちなみに、オペラの方は、あまりにもスタンダードですけど、映画的に作り込まれた、ポネル演出のベーム盤の印象が強い世代なんですよね。これと、ベームとヴィーン国立歌劇場引っ越し公演の時のをテレビで観たのが。あのベーム晩年の、「第4幕終結が遅くて」話題になった奴です。オペラの「フィガロ」については、wikipediaにまとまりのいい解説が出たばかりですのでそちらに譲ります)

 さて、この映画に出てくるボーマルシェは、ある意味で「目的のためには手段は選ばず」、詐欺、賄賂、買収、詭弁、二枚舌を使いこなす権謀術数の士、超ウルトラ現実主義者です。フランス革命直前の時代に、一方では、王権や貴族社会を風刺する劇の上演を高等法院や王自身と争いつつ、賄賂で同時に裁判官もやって貴族社会に入り込んでいる。一方では市民の英雄、人気取りに走りつつ、その裏では、王や貴族たちとそつなく関わり、いかに儲けるかに血道をあげている。女性関係も奔放。上演停止、市民権剥奪、牢獄への収監を食らったと思ったら、実は宮廷の重臣に、とっくに深い人脈を築いていて、王からその匿名性を利用して、イギリスへのスパイ活動を要請される。

 でも、ミイラ取りがミイラになり、逆に騙されて危機一髪になったり、フランスからアメリカ独立戦争に荷担する兵器輸出(ライバルのイギリス憎さのために、フランス旧体制が、民主主義を前に進めて自国に革命を喚起し自分の首を絞めかねない、こうした援助をしてしまっていたことは、史実として存在するが、この映画では、何とボーマルシェ自身がが先の王、ルイ15世が既に進めていたものであると「でっちあげて」ルイ16世を丸め込んでのこととして描かれている)を王から「公式に」たのまれつつも、その密輸出の元手は自分で貿易して稼げと突き放される始末。

 映画は、ボーマルシェにあこがれて弟子入りしたひとりの若者と、同じようにボーマルシェに真実の愛を捧げようと現れた女性の視点から描かれる。ふたりは、この、「裏表」どころか、「右左」「上下」「斜め」、あまりにも矛盾に満ちたさまざまな自分を使い分けるボーマルシェに失望しても行くのだが......という話。

 当時のフランスの民衆の「人気者」たちは、多かれ少なかれ、このような様々の顔を使い分け、旧体制と革命派の間を泳ぎ回るタイプだった。ミラボーしかり。「ベルばら」の悪役で有名なオルレアン公こと、後のフィリップ=エガリテしかり。

 そして(この人を好きな人なんていなかったが)、貧しい僧侶から三部会議員に当選して、当時もっとも過激な共産主義的独裁者として、「リオンの大虐殺」を指揮したかと思えば、気がついてみると、テルミドールの反動後から、ナポレオン総統時代、帝政時代更に復古王政に至るまで、警察長官として闇の秘密を一手に握って、私腹を肥やし、フランス第2の資産を持つ貴族にまで泳ぎ渡った「爬虫類」フーシェしかり。


(あ、この本、私が岩波文庫版を中古で買った後、6倍近い値段のしか残ってないわけ??)

 私の読んだツヴァイクのアントワネット伝によれば、ボーマルシェは、自分で、ルイ16世の「不能」を喧伝する「秘密文書」を作っておきながら、それを別の作者によるものと偽り、自分で「密告」し、その文書が「広まらないようにする」ための「裏工作資金」を、アントワネットの母のマリア・テレジアから巻き上げようとして未遂に終わり、鞭打ちと禁固刑を受けたこともあるらしい(「スペイン王冠法についてのスペインの分家に対する重要な文書」事件という)。

 恐らく、その史実あたりから、この映画におけるボーマルシェのキャラクターは膨らまされているのであろう。

(だから、アントワネットが

「『セビリアの理髪師』(『フィガロの結婚』が続編)だーい好き!!スザンナ、チャーミング!! 宮廷の劇場で、私絶対スザンナ役やるの!!」

で「宮廷学芸会」に向けて暴走しはじめた時、マリア・テレジアは、

「あ、あなた、ボーマルシェって、あなたを4年前にカモにしようとした『あの人』なのわかってるの?」

と唖然とすることになるわけですが。

 でも、アントワネットの『理髪師』『フィガロ』びいきがなかったら、モーツアルトのあのオペラが、いくら原作戯曲の政治的に過激な部分のセリフを緩めたとはいえ、順調に作曲され、ハプスブルク家お膝元のヴィーンでともかくも初演されることはなかったろうとのことです)

 でも、この映画、全然暗くないのです。そういう、常に背水の陣の綱渡りの人生を、周囲を煙に巻くようにして送っていくボーマルシェを描き出す中で、この、革命前夜の、混沌に満ちた時代の人間のバイタリティを、肯定も否定もせずに、切れ味ある演技と演出で、肌でビシバシ感じさせようとしているという印象です。

 そして、まさに、ボーマルシェの生き方そのものが、彼が戯曲で生み出した、貴族を翻弄する「フィガロ」よりは更に過激な「フイガロ」そのものの生き様であるかのように描かれている思います。

 この映画の中にも、アントワネットは出てきますけど、ルイ16世にフィガロの最終脚本を読んで聴かせるだけという、地味な役回り。ちなみにこの映画で出てくるルイ16世は、20歳過ぎにしては老け顔で、貫禄もあり、映画の途
中で死んでしまうルイ15世とあまり違いがないといいますか、結構リアリストの政治家として描かれています。

 生身のルイ16世そのものも、実際には「どの映画で」描かれている以上に、複雑で多面的な人間ではなかったかとも、最近の私は感じ始めていますが。

2007/02/14

「大人」自身が自分の価値観を崩し続ける「冒険者」でいられるには?(第2版)

> 「昔の子どもは家事を手伝うことで、働く者として家族から認められた。 今、日本の子どもたちは家事を手伝う必要がない。そのかわり、消費者として自分を確立する。(略)今の子どもはしばしば『これを勉強すると何の役に立つんですか』と聞く。消費者として自分を確立した子どもには当然の問いである。消費者にとって、自分がその有用性を理解できない商品は意味をもたないからだ。
 だが『何の役に立つか』と問う人間は、ことの有用無用について自分の価値観が正しいと思っている。勉強によって自分の価値観そのものがゆらぐことを知らない

『下流志向 学ばない子どもたち働かない若者たち』内田 樹 著

「勉強とは、自分の価値観を揺らがせる可能性に敢えて身を委ねる『冒険』である」

というのは、真実という気がします。

 少なくとも、自分からやっていく勉強というのは、そういう面がないのなら、実はなんの張り合いもないものだと。

 歴史の勉強なんて、自分の「歴史観」「人間観」を揺るがす「冒険」そのものになってこそ、おもしろい。私の場合、ほとんど「趣味」化していて、ひとつのテーマが気になり出すと、どんなジャンルの本より興味の赴くままに広げまくり、渉猟し続けまけど。

 同じ歴史歴事実について、数冊の本を読むと、ほんとに自分の価値観がぐちゃぐちゃにされる危険があるんだけど、「それこそが」おもしろい!! 

 .....ということで、マリー・アントワネット関係のもう一冊のお薦め本、これです。

「ルイ十七世の謎と母マリー・アントワネット―革命、復讐、DNAの真実」 (デボラ キャドベリー著/櫻井 郁恵 訳)

 「ルイ17世」って誰? という人も多いでしょう。もちろん、ルイ16世とアントワネットの息子です。ルイ16世やアントワネットと一緒にダンプル塔に幽閉されました。国外亡命した後のルイ18世やシャルル10世、亡命貴族(エミグレ)のみならず、革命政府を承認していなかった国(ある段階ではアメリカですら!!)は、ルイ16世の処刑の後、フランスの国家元首は「ルイ17世」である、という立場を公式に表明していたわけです。

 彼は、父ルイ16世の処刑の後、ひとりだけ引き離され、「共和主義者」への手荒い洗脳を受けます。そして独房に食事を差し入れられるだけの状態で拘禁されて1年、テルミドールの反動が終わってやっと医療の援助と人間的な扱いが回復し始めますが、時既に遅し。彼の身体は衰弱し、病魔に蝕まれ、10歳で死んでしまう。

(そうなる前も,勝手に「実は父親はルイ16世ではない。あのふしだらな、オーストリアの雌犬、アントワネットの不倫相手だ」という憶測パンフレットは当時のマスコミで山のようにばらまかれていた。当然、フェルセンが父親説もありました。でも,歴史的には、フェルセンだけが王以外の男性というのは結構定説化してました。ちなみに、意外と知られてないでしょうが、ルイ「15世」時代に、すでに、「現在日本で一番普及している避妊器具」は,実用段階のものとして、ありました。女ったらしのイギリスのチャールズ2世が王位継承をややこしくし過ぎないために、侍医が1651年発明とのこと(wikipediaによる)。牛の腸幕で作っていたそうなので、ほんとに上流階級の人だけだったでしょう。ルイ15世も、愛妾に「鹿の園」で徹底管理されていましたが、ハーレム状態でした。ちなみに、ルイ16世は、愛人を持つことを宮廷内で勧められても拒否し続けたくらいに、20代にして、性生活は「王としての公的義務」であっても「楽しみ」ではなかった人らしいです)。

 ところが、ダンペル塔に幽閉されていた「ルイ・カペー(16世の、王権を取り上げられてから処刑までの革命政府の公式呼称)の息子」は、実は他の子供にすり替えられ、監獄から救出され、実は生き延びているという伝説が生まれ、世界各地に「自分こそ生き延びたルイ17世」を名乗る人間が次々あらわれる。そのあまりのホンモノらしさに、革命後生き延びた、生前のルイを知る関係者すら翻弄される。

 この問題に、最終的な決着を与えたのが、DNA鑑定だったわけです。今から数年前のことに過ぎない。アントワネットの遺体も息子の遺体もまともな埋葬をされていませんでしたから、この鑑定に用いられた「サンプル」が現代にまで伝えられるプロセスそのものが、「小説より奇なり」の歴史の流転のドラマです。どこで出て来るかはお明かししませんが、「ロベスピエールが隠し持っていた時期がある」「イギリスのチャールズ皇太子もDNAを提供した」というくらいの広がりがあるのですね。

 そして,変化する政治情勢の中で、憶測とフィクションがいかに人間を翻弄するかについて、切ない思いにかられます。「生き延びたルイ17世」という存在そのものが、虚言癖がある人物や詐欺師というだけでは説明がつかない。「ルイ17世生き残り伝説」を信じたい人々が、よってたかってそれにおあつらえの人間を無意識のうちのも選び出し、いわば心理=社会的アイデンティティの上での「クローン」を生み出してしまう歴史共謀者であり、自称「ルイ17世」たちに対する扱いの変転そのものが政治的利害関係に翻弄され、彼らは本気で自分を「ルイ17世」と確信するとことまで周囲に追い込まれた挙げ句に見捨てられた人間なのではないかと思えて来ます。

 児童虐待や政治的洗脳の問題みならず、人のアイデンティティとは何か?人の善意とは何かということにすら,根源的な問いをつきつける素材と思います。

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 ちなみに、アントワネットやフアナと対照的に、「婚姻政策」の道具にされることを断固として拒否し、むしろその自らの道具性を「ちらつかせ,活用する主体」となる生き方を選択することで、家臣や外国の王族を翻弄して、自らは結婚しないまま政治力をふるった女王といえば、この人ですね(^^)

「エリザベス」(主演:ケイト・ブランケット)

 この映画は既に以前に見ていました。

 あと、比較論の対象として面白いのは、それこそオーストリア=ハンガリー「二重帝国」(今度は正確な用語法だ!!)成立の立て役者、悲劇的最期を遂げたハプスブルグ家の美貌の流浪の王妃として名高い、皇妃エリーザベトでしょうか。名香智子さんのコミック版は、なぜか以前の職場に置いてあって、すでに読んだことがあります。私がこれまで本でエリーザベトのことをまとめて読んだのは「ハプスブルク家の女たち」だけです。もちろん、宝塚でヒットしたことは知っていますが、現段階でそこまで観てみようとは思わない。あとは私のヨーロッパの城への関心がらみで蘊蓄があるけど、今はまだ先送り。


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 いずれにしても、ある特定のテーマだけを切り口にして、歴史の本を「複数」実際に読んでみることがそれがどれだけ人間と社会というものについての開かれた視野を生み出すか。下手にカウンセリングの本を一冊読むよりはよほど勉強になっているとすら思います。

 でも、これは、例えば物理学についてですら、生物学についてですら、基本的にはそのはずなのだと思います。

この記事なんておもしろいかな)

 ただ、私はここで「今の子供たちは」にしてしまうことに、違和があるんですよね。

 戦後世代の今の親たち自身が、とっくに、できあいのものの「消費」を生き甲斐とし、「消費」的な物事の学び方になじんでいる気はするので。

 いや、フランス革命の昔から、いかに「マスコミの扇動」で大衆が動くばかりかというのは、何も変わっていないとも言える。

 それこそ、この本を読んで(それどころか、この本「についての」新聞の社説だけを読んで!!)「そうだそうだ!!」でいることを、読み手の大人たちが日々の生活の中で超えていけるかどうかこそが大事と思います。さもなければそれそのものが、ただの、大人たちの

> 誰が悪いのかを言い当てて
> どうすればいいかを書き立てて

「一部の」評論家やカウンセラーが「米を買う」プロセス、

一時的な気休めのための「消費」です。(^^;)

(恒例、中島みゆきの中島みゆき - 寒水魚 - 時刻表"時刻表")

 自分の価値観を自分で揺るがして、統合し直すことそのものをおもしろがる主体としての「冒険者」を生きる「大人たち」がいないことには。さもなければ、それを受け身にやらされるだけだと、子供たちが「呑み込まれ不安」に留まるのも自然かと。

 フォーカシングは、まさに、多用な価値観に翻弄されるだけではなく、その中で「自分自身」であり続けるための援助であることこそ、ジェンドリンが「フォーカシング」の中で高らかに歌い上げた理念だと思います。

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 今日、たいていの人は、まだ、一連の新しい形式がいずれは賛成されるものと思い込んでいます。つまりこのことは、以前と同じように、わたしたちが、自分自身と他人に、新しい形式を押しつけねばならないことを意味しています。

 こうした古いスタイルの形式の押しつけが未だにつづいていることも事実です。例えば、今や人びとは新しい役割のパターンとして、嫉妬したり、所有的であってはいけないと考えています。もし恋人ないしつれあいが、他の人と性関係を持った場合、それを受け入れねばならないと感じています。しかし実際にはそれを受け入れることはできないのです。そこで人びとは、自分たちを新しい役割・パターンに一生懸命はめ込もうと苦労しているのです。フリーセックスは新しい形式です。だから人びとが古い形式を変えようと準備している間に、新しい形式を押しつけられてもピッタリしないわけです。そこで新しい形式がピッタリしないためにために、罪責感と自責の念が生まれ、とめどなく心が傷ついてしまいます。「いったい私のどこが悪いんだろう」と自分への問いかけがどんどん進みます。「もしこの形式が他の勇気ある人たちにふさわしいならば、なぜ私にふさわしいことにならないのだろうか」という疑問が湧いてきます。形式だけが新しいのです。これが古いあるいは新しい形式に同調していく普通の様式なのです。

 フォーカシングを知っているある夫婦は、彼らの関係を開かれたものにしていくユニークで複雑な方法を発展させていきます。またある人たちは、嫉妬を自分のからだに感ずるのだから、また改めてそれを大切にすることにしたといっています。ここで明確なことは、新しいものであれ古いものであれ、一般的なパターンを取り入れることがのぞましい方法ではないことです。私たちのからだは絶えず新しい学習を吸収していて、すでに持っている巨大な智恵の貯蔵庫に新しく何かを加えているのです。

 本当の学習は、自分自身のからだとの対話の中でのみ起こるのです。感受性に富んだフォーカシングのアプローチだけが、私たちひとりひとりにと親しい人びとの中に、ユニークでピッタリするような、本当に生きたパターンを生み出していくことになるでしょう。パターン創造をやってみようではありませんか。

Focusing_hyoushi_1ジェンドリン/『フォーカシング』訳書pp.211-2より。

心理臨床家の研修のコスト・パフォーマンス(第2版)

 カウンセラー志望者の皆様には既に知られていることでしょうが、臨床心理士の仕事「だけ」で、月に25万円以上の収入がある人は、年齢に関係なく、相当に恵まれている方に入ると思います。

 ここでいう、臨床心理士としての仕事とはどこまでだ? と言われそうですが、スクールカウンセラーとしての全業務、カウンセリングのみならず、プレイセラピーや心理テスト判定員としての仕事も含む、という水準で仮にとらえたら、私の上述の目安は全く現実的でしょう。ましてや、スクールカウンセラーはやらずに上記の水準をクリアーできていればいい方の5分の一には楽々入るのではないか。
 
 これに加えて、教養の心理学でもいいから、大学ないし各種学校・専門学校の非常勤講師も兼職に含まれていていいし、広い意味で地域精神保健や病院デイ・ケア、幼児教育等に関わる援助職的な仕事、というところまで許容しても、25万の壁を突破できている人は、過半数に届かないかもしれません。

 当然ながら、非常勤職の場合、出張費や研修費を多少なりとも出してくれる機関にいられることは、必ずしも多くないわけです。そして、国民健康保険・国民年金のことが多いということになります。

 要するに、臨床心理士で何らかの常勤職に就けているというだけでも少数派ということになります。

 ......こうなってくると、少なくとも、配偶者が家事と育児に専念して、一家の生計をひとりで臨床心理士が支えるということが成立するだけでも、実はたいへんと言うことになります。ボーナスもないわけですし。思った日の思った時間に臨時に休みを取ることができるとも、なかなか行かないでしょう。

1.親の収入が多い
2.配偶者と共働きである
3.配偶者が非常に安定した社会的身分と収入を持っている

 これらの中のいずれかの条件を満たして、自分ははじめてカウンセリング専業の生き方をできていることを否定できない臨床心理士の方はかなりの割合にのぼるはずです。

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 こうした状況下で、更に勉強を積むためのセミナーやワークショップや書籍を自己負担する。臨床心理士は5年ごとの資格更新制度があり、その5年間の間に、ある一定のポイント数になる研修会や学会発表等の経歴を積む必要があります。安めの研修会でも、数時間の参加で6,000円から8,000円ということは普通でしょう。そもそも自分の住んでいる地域でそうした催しが頻繁にある方ばかりではないので、交通費や宿泊費もかかるわけですね。

 勤務契約時間が早く終結する曜日や、その曜日の職場からは比較的近い場所に、一日1-2時間の研修に月に1回通うにしても、それを、従来の生活時間サイクルに新たに組み込むとなると、職場の態勢や、家族の協力など、いろいろ課題が出てくる人も多いでしょう。

 連休などを利用した3日間通いのワークショップで、「参加費だけで3万円」というのはかなりありふれたことです。でも、その3日間のうちの少なくとも一日、他の仕事を無理して休まずに済む人は少ないかもしれません。まして、家庭があれば、連休というのは、普段できない家族のための時間として使いたい(使って欲しい)という状況は容易に生じます。

 そういう研修に通える臨床心理士は、すでにある経済的・時間的条件が「すでに満たされた」人が選ばれてしまっているともいえます。

1.自分の生活圏の近くに
2.自分の生活時間にあわせやすい
2.高すぎない料金の

研修機関が必要とされる。


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 こうした現実の中で、カウンセラーの人たちに、新たに(例えば、湘南フォーカシング・カウンセリングルームにおいでいただいて)、技法の研修やスーパービジョンを受けてもらうということが、実はどれだけ高いハードルを課すものであるか!!


 もちろん、「通った甲斐があった」という手応えが得られること!!

 そして、その手応えが得られなかったのは、自分が元々勉強不足だったのだ、とか、分不相応なハイ・レヴェルの場所を選んでしまった自分が悪いのだ、という形ばかりで納得してしまうのでは、やっぱり「お人好しが過ぎる」と私も思います(^^)

 「この指導者の先生は偉い先生で、キャリアのある先生なのに、自分はその先生から学んだことを生かせない。それは自分がキャリアと勉強とやる気が不足しているからである」

.....これでは、ほんとうは、内罰的な循環論法なんですけどネ!!

 「私、あの先生が講師(スーパーバイザー)の研修会に通っているの!!」ということそのものをステータスにしたいのでしたらともかく(^^)


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 そういう、身近な環境で日常的に指導を受ける環境がないままに、いきなり外国の「一週間のワークショップ」に出るのは、果たして「効果的」「引き合う」のかと思います。

 まず語学の壁があること多い。この点はクリアーできたとして、パスポートは持っていて、仮に現地の、泊まりがけの参加費が12万として、往復の航空券が格安で11万で手に入ったとします。それでも成田空港までの道のり、現地の空港から会場までの道のりに日本円で1万かからなければかなり幸せな部類でしょうし、食費や、1泊ぐらい、日程調整のための自前での別の宿泊が必要のことは多いし、せっかく外国に行ったのだから少しは観光やショッピングを、となれば、ここまでで27-30万の予算になりかねません。

 そして、一週間連続休みを取らねばならないし、その直前直後は旅行との準備と「時差ぼけ解消」も必要となる。

 私は、幸いにして、そういう、時間も費用もかかるワークショップに出られる幸運な状況にある人は、何も遠慮せず、どしどし出ていいと心から思っていますが。

  ただし、そうした経験が日本での臨床の現実や自分個人の現実に生きるためには、事前に相当密度の濃い個別的で身近で適価の研修の場があった方がいいし、あるいは、自分なりにそうした経験を「消化」する上で、後になってでもいいから、そういう場が必要だし、そういう場の運営が成り立たねばならないと思います。


*****


 ここで、そういう「外国での」一週間ワークショップの経験と、私のカウンセリングルームでの研修を比較させていただくという大風呂敷を広げさせていただきます。

 その27万円の「外国での一週間のワークショップの経験と同じ投資を、カウンセリングルームでの個別研修に置き換えたとします。

  27万円=1回1-1.5時間X(7000円から9500円+交通費仮に1500円)
  だと何回通えるか?

答え:各種割引なしで24回から32回

月イチなら2年から2年半です(^^)

 私は、フォーカシングに限らず、ひとりの研修者のニーズと状況に合わせた研修やスーパーヴィジョンを心がけています。

 コースと料金体系こちらです。
 
 それに価する場になるように、それこそ、「前の週よりは今週、進歩し、改善しよう」と、絶えず反省し、こつこつと努力しているつもりの私ではあるのでした。

 私のところにおいでになれ人ですら、時間や経済条件、仕事や生活の条件で「選ばれた」人であるに過ぎないのかもしれない。それだったら、少なくともその幸いにして「選ばれた」人に、まずは最善のものを、その人に十分手応えを感じていただける形で伝える責務がある.....と思っています。

2007/02/13

"Focuser as Teacher"論 続編(1)

 フォーカシングのトレーニングのひとつ、"Focuser as teacher"については、すでに、《単なる「ロールプレイ」より効果的なカウンセラー訓練》という記事でとりあえずの説明しました。

 私のフォーカシング個別指導においても、訓練生に、ある程度、私をガイド、訓練生をフォーカサーとする体験になじんでもらった時点で、

「今日は私がフォーカサーをやってみるので、あなたの方が私のリスナーをしてみない?」

という提案を試みます。

 (フォーカシング全く未体験だった訓練生には、この提案をするのは、だいたい最低3回はフォーカサー体験を続けてもらってからが多いでしょうか)

 こうした場合、私は、リスナー役初体験の人に、ガイド役、つまり、教示の提案までは最初は全く求めません。純然たるリスナー、つまり、フォーカサーとしての私の言葉を的確に投げ返してもらうことだけを求めます。

 そして、"focuser as teacher"としての私は、その投げ返しが的確だったら積極的に感謝を伝え、修正してほしければ、修正案を伝えて、それを実際に投げ返してもらってから、自分のフォーカシングのプロセスを先に進めるわけですね。

 「はっきりと大事に返して欲しい、要(かなめ)となる言葉はどの言葉か」

とか、

 「言い換えられても気にならない部分」
 「、ただ『うん、うん』と返してもらうだけで十分な部分」
 「ただ沈黙して聴いてもらっていればいい部分」

などについての判断のセンスも磨いてもらっていくことになります。

 この際、リスナー役の問題点を指摘するだけではなくて、好ましい応答を自発的にしてくれたと感じたら、すぐに積極的に感謝を表すことを忘れないことです!!(そうでないと、リスナー役の訓練生は萎縮して受け身になるばかりとなりますから)

 "as teacher"をしていくフォーカサーには、いわば自分のプロセスを"pause"して保持する、最低限のセルフフォーカシング能力......少なくとも自分のフェルトセンスを自分の中で感じ続け、見失わないようにする能力は必要かと思います。

 そして、私の考えでは、これは単にリスナー役としての傾聴の訓練ではありません。フォーカサーとしてのフォーカシングのプロセスが「いかに(how)」展開するのかについて、「内容(what)」ではない次元で追体験してもらうことになります。

 これは、その人がフォーカサーとして自分のフォーカシングを進める際のモデルになるのみならず、フォーカサー、あるいはフォーカシング的な状態に自然に入ったクライエントさんや知り合いのはなしをどう受け止めていくと、相手のプロセスを妨げないのかのついての、その人の、共に-いる「プレゼンス」のセンスそのものを高めてもらう機会と思います。つまり、言葉として何を返すか、返さないかといった技術論を超えた、非言語領域での「たたずまい方」自体において、その人なりのスタイルを身につけてもらうきっかけとなる場だと私は考えています。

 いずれにしても、"as teacher"をする時のフォーカサーのプロセスは、「ロールプレイ」などではなく、本当に真剣勝負の、自分のためのフォーカシングでないと意味がないと私は思っています。そうでなければ、リスナー役の訓練生にも、真の学びは生じないと考えます。

 もとより、訓練生が経験を積めば、今度は、訓練生が"Focuser as teacher"となり、トレイナーである私のガイディングやリスニングに介入し、フォーカサーとしての自分の求める教示や聴き方について、ライヴで私に刻々と注文をつけることにもなじんでもらうことになります。そこまでできて、ほんとうの自律的なフォーカサーであり、同時に、フォーカサーの自律性を大事にするトレイナーとしての態度を学ぶことになるでしょう。

 海千山千のガイド・リスナーである私ですら、実は、その時のフォーカサーのペースを微妙に乱す教示やレスポンスは山のようにしているはずです。フォーカサーが自律的であり、自分の中のフェルトセンスに敏感になる限り、どんな優秀なガイドですら、最後にはフォーカサーのプロセスの邪魔者になる瞬間を避けられません。それがないというのはウソなのですね。

 だから、ある意味では、

 私はどんな人がガイドをしてくれても不充足感があります。
 でも、どんな人がガイドをしてくれても、自分だけではできない助けになるのです。

(.......やっと、このことをあっさりと口にしていい心境になってきました。
 自分の訓練生が、何人か、その人なりに成長してくると、この実感が味わえるのですね)。


 この続きは、こちらです。

2007/02/11

Vistaの最初の印象

 実は予約開始の非常に早い段階で、ultimateで分割払いで予約する決断をしていたのですが、私の職場のパソコンのXP Media Center Edition 2005プリインストール機種からの「アップグレードインストール」は”home premium”か”ultimate”でないとできないことの情報までは一般にはまだほとんど流れていない段階で予約だったので、特にクリーンインストールしかできない"business"にはしてなくて結果的にほっとしているこういちろうであった(^^;)

 アップグレード直後は重いですが、Microsoft updateまで済ませ、普段使うソフトの動作を繰り返して、OSがおそらくその動作を覚えこんで早く起動するように優先順位が上がりだすと、XP末期の方が動作にいびつな無理が生じていたとすら感じます。

 OSと統合されて本来の居場所(?)を得れば、Internet Explorer 7がこんなに「軽快な」ブラウザと思っていなかった。

 ネットのパフォーマンスは、明らかに、素のままでも、Vistaのほうが高速になりますね(ちなみに職場はマンションごと、USENの光ファイバです)。

 意外と一般向けの解説では言及されていない「地味な」仕様変更のようだけど、「マイ・ドキュメント」フォルダを"Documents and Settings"フォルダの下に置くツリー構造をやめ、"Users"フォルダの下位に「ドキュメント」を「ピクチャ」や「ミュージック」と等価の階層のフォルダにする形への変更は合理的と思います。これまでが、ドキュメント全体をバックアップしようとすると、画像や音楽や映像ファイルという巨大ファイルも道連れでみんなついてくるというのは困ったフォルダツリー構造だったのだ。フォルダを下ってはじめて他のメンバーの設定が出てくるこれまでの形が変なのだ(iTunesのデータベースはちゃんと自動的に置き換えられる形にアップデートされます。もっとも、アップグレードVista版の場合、現状のiTunesバージョンは、一度アンインストールして再インストールしないと深刻な問題が生じることがAppleサイトのこの記事.....英語のみ.....で言及されています。この問題に対応したiTunesのアップデートは数週間後の予定とのこと.....私でも何とか読めるではないか)。

 デスクトップへの標準機能としての「ガシェット」の登場(フリーソフトこれからたくさん出るでしょうね)、や、OS用標準フォントとしてOsakaっぽい「メイリオ」が採用された(もっとも、基本のドット数が違うわけですけど)ことで、.....な、何か、Mac OS X Tigerにいよいよインターフェイスと機能が「一見似てきた」ではないか、という感じですが、いいところはどしどしまねあえばいい。

 "AERO"という、多数開いたウィンドウが立体的に斜めに傾いて並べられる表示機能や、タスクバーに最小化した中身が縮小版で表示される表示機能(これは実はおもてにあらわれた部分にすぎない)を統括する「グラフィックチップ統括制御」はMac OSにまだないものと思いますが、次期 OS X LeopardではMacも当然それにあたることをやるでしょう。

 ファイル転送ソフトや不要ファイル削除ソフト、デプラグソフトなど、システムの根幹に関わるソフトは、フリーウェア・シェアウェア含めて全般にVista対応が遅れているようです。

 もっとも、そもそもVista標準搭載の、「ディスク・クリーンアップ」が、やっと不要ファイル削除「標準搭載」ソフトとして最低限十分な水準に到達したし、「インストローラー・クリーンアップ」も「標準搭載」されたので、サードパーティのソフトに頼らなくても、以前ほどゴミファイルの累積によるパフォーマンスの累積的悪化を懸念しなくてよくなったはずとは思う。

 でも「敢えて」サードパーティのこの種のソフトに手を出してみたい人に情報を伝えれば、すでにVista対応が迅速なのは驚速2007です。あいもかわらず(!!)、officeソフトばかりか今回はiTunesまでも高速起動がインストール直後のデフォルト設定にしてあるのは、実際にはパソコン起動の際に負荷をかける形になるので、インストール後に任意に「追加」できる機能にしてくれないと、メモリが少なくてCore DuoではないCPUの人のパソコン起動時にはプリーズの危険を増やす、とんでもねえ逆効果が生じ、いよいよいい迷惑だろうと思うけど(ガシェットや、AEROによって可能な表示すらデフォルト設定ではみーんな止めてしまいます.....もちろん再設定で復活しますが)、価格比的に見て、不要ファイル削除・不要機能停止機能はコンパクトに「まとめられて」いると思う(はっきりいって、現状では、Windowsの設定に少し詳しい人なら別々に手作業でできる工夫を「まとめただけ」のソフトである。まさに1980円が妥当な値段)。

 ”Live OneCare”は、Macで同じ事やろうとすると現状ではサードパーティソフトが必要な機能も統合的に含まれ(簡易デプラグとウィルス/スパイウェアチェックの、ネットを通したエクステント読み込みによる機能のこと。Mac Os X用ソフトMac用iDefragのオンライン最適化機能の一部の、グラフィック表示なしのすごい簡略版みたいなものに、Mac OS X標準搭載の"Backup"にあたるものがOneCareに統合されていると理解)、Macより進んだ標準搭載統合ソフトといえるかも。

 デプラグにあたることが、簡略な形ではあるけど、定期的にバックグラウンドで自動でなされていることは、Macはともかく、Windowsのパフォーマンスにおいては結構影響が大きい筈。

 OneCareだけでも少なくともウィルス駆除の性能においては十分高度というのは、すでにXP版試用版で実感してますが、標準搭載のWindows Defenderと合わせての総合実力で、ファイアーウォールの高度化やスパイウェアやフィッシング詐欺対策への対応性がウィルスバスター以上かどうかはわかりません(ウィルスパターンファイルのアップデートの迅速さという点ではこれまでトレンドマイクロがかなり優位だったと思います。昨年は「お手つき」事件もありましたけどネ!!)

 ちなみに、Vistaでは、サードパーティのウィルス駆除・ファイアーウォールソフトとの「共存」インストールがそもそも不可能になります。Windowsネイティヴ路線でいくか、サードパーティのどの会社かのソフトに任せるかの「二者択一」を求められる設定になっているわけですね。だから、常にOneCare+Defenderよりも高水準の新規ウィルスへの迅速対応とセキュリティ維持を可能にしていること(しかもそれがパフォーマンス悪化の要因にならないこと)を実際の効果としても宣伝上も維持できないと、特にトレンドマイクロやシマンテックのシェアはどんどん下がると思います。

 ultimateのセキュリティそのものが、Windows Updateの"Windows ultimate Extra"に自動対応して、他のタイプのVistaより高度なものが標準搭載・自動アップグレードされるようですが。実は、こうした点からすると、ultimateは,最初の購入費は高いけど、実はサードパーティ系のソフトの追加購入、ないしVistaの追加機能のネット購入なしで済ませられるサービスや機能が最初からついているという意味では、長期的には減価償却できるのかも。

 このあたり、特にすでにXP搭載のCore DuoのCPUのパソコンをお持ちの方がアップグレード版を買う場合、Vistaプリインストールの機種を買う際にhomeにとどめるか、もっと上級の仕様で最初から買うのと結果的にどっちが安く上がるか、事前にシミュレーションして賢く判断すべきかと思います。
 そして、やたらとバックグラウンド動作に依存するVistaの場合、メモリが1024ではなくて2048メモリであるかないかがパフォーマンスに与える「圧倒的影響」も考慮すべきです。立ち上がりのスピードなんて、まるで違いますよ。

(自宅のシングルコアのデスクトップパソコンにベータ版をインストールしてみた時の体験からいえます。職場に初期に持ち込んでいた自宅デスクトップは今やLinuxに鞍替えして動かしていたりして。モバイルのメインがかなり以前からMac系だから、最近メジャーなすべてのOSに分散している(^^;)。
 ホームページ制作は、Macとwindowsの両方の閲覧活況があると、webデザイン上の問題点が容易に気づかれやすくなります。Vistaにドライバ未対応の周辺機器(最後の一つも2月中にドライバが出る予定)を動作させるためには、ファイルをPDF化して、その時だけモバイルのmacを職場に持ち込めばいいわけで。実は周辺機器選びの時点でこうした複数OS対応の有無は最初から意識しているのである)

 あとは”Windows live”などとの、ローカルパソコンのネットを通した機能上のシームレスな一体化がどう進み、「コンテント」と「エクステント」の一体化が、一般個人ユーザにとっても、セキュリティとネットのトラフィックが両立する形で(!)今後どう展開されるのかを見守りましょう。

 CNETでこんな記事も目にとまりました。....そうか、暗号化が鍵ですか。

 VistaのBitLockerについての解説、まだ英語版だけなの、何とかならんのかね。ドライブそのものの暗号化は、すでにMac OS Xはやっていたと思うけど???

※なお、iDefragは、パッケージ販売版ではPower PC用とIntel Core Duo用が同梱、サードパーティ製Mac OS X用ソフトとしては信頼性が高い、いいソフトと思いますが、ダウンロード販売版は、上述のCPUのちがいによって別々の商品、一方では他方はっそもそも作動しないので、Macユーザの方、ご購入前に用心してください。新旧Macをお持ちの方はパッケージ版がいいでしょう。

*****

......以上、例によって、パソコンを自己流でしか学んでいない人間が、とりあえず、半可通な知識と2日操作した実感だけででまとめた感想にすぎませんので、何か用語の奇妙さや誤解が含まれていても、お許しのほどを!!

先週の人気記事ベスト20!!(02/4-10)

 ここ2日は、OSをVista ultimateにアップグレードする作業を優先しておりました(^^)ドライバまだの周辺機器は幸い一つだけ、無事終了いたしました。

 もともとIntel Core Duoで2048メモリに先行投資していたので、半日使い込むだけで、アップグレード前よりむしろ動作がスムーズになったこういちろうです(これについては別建てで感想書きます)。

 そこで、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「週ごと先記事別アクセス解析機能を使っての、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、31回めへとまずは進みます(^^)

 固定リンクでのアクセス率の順位から集計しています。アクセス数が同じ場合には、訪問者実数上位の記事を上位とし,訪問者実数も同じ場合にのみ、同じ順位として掲載します。
 7×24時間、つまり2/10日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,550(前回1,705)。(一日平均アクセス221.43。前回243.57)と、前回よりそこそこ減りましたが、記事数の割には安定感ありますね。

 このへんは、一日平均200アクセス堅持されていれば、それでも「本業の顧客さんが」少しずつ増えている限り、全く平常心なのが今の私です。ネットのほうでだけ「訪問者」の方が増えても、「黒字経営」に近づくわけではないのであります(^^) ネットでも、新しい読者の方が少しずつコンスタントに来てくださることのほうが大事なんですね。そうなると、過去の記事という「資産」が確実に蓄積されていることが、いよいよ私を、ネットへのスタンスにおいてリラックスさせてくれます。記事数は縛りこまれても、じっくり腰を据えてひとつひとつの構想を煮込んでから焦らず書く、という方向にいよいよ向かうのだろうか?

 訪問者実数は、1,233名様(前回1,377名様)と、これもやや減。

 「サイト内移動」、前回の324(36.8%)に対して今回240(32.2%)、それに対して、トップページへの外部からのアクセス、前回254(32.1%)に対して、今回326(43.8%)。

 そして、当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、前回も今回も8.2%。

 「訪問周期」は、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回8名、今回9名様に回復。感謝!!

....以上のいくつかの数値を見る限り、ひとりで一度に読んでいただく記事の数が減っただけで、読者の方に定着していただけている傾向はあると推測しています。

 それでは記事別ランキングの方の発表!!


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1.インシュレーターは使わないに越したことはない(→) 24週連続

2.オーディオにおける接点復活剤について(↑) 7週連続

3.私のピュアオーディオシステム(そこに更にiPodをどう繋ぐか) (↑)4週連続

4.映画「マリー・アントワネット」「女王フアナ」、あるいは浜崎あゆみの「成熟」について NEW!

5.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↓)25週連続

6.映画『マリー・アントワネット』追加報告。あるいは「学術研究」のあり方への感慨 NEW!

7.扉を開けて NEW!

8.先週の人気記事ベスト20!!(01/28-2/3)

9.「モバイルオーディオ」カテゴリーへの直接リンク (↑)

10.「疲れた」「つらい」筈なのにそう感じていな「かった」時の「独特の感覚」は本人にも「実感」できる COME BACK!!

11.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~(↓)4週連続

11.やはり、耳栓型イヤフォンの名機、SHURE E5cについて書きます (↑)

13.「死にたい」と言ってもらえること (↓) 10週連続

14.ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史) (↓)

15.「神田橋條治」カテゴリーへの直接リンク(↓)3週連続

16.ヘッドフォン、Bose Quiet Comfort 2のへビーユーザーとしての本音 (↑)

17.ストーカー「加害者」の心理(↑)3週連続

18.私のスーパーバイズ ~実践編~ COME BACK!!

19.「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)(↓)4週連続

20.「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」サイト刷新!! (↓)3週連続


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 今週も、「記事寡作の週になると、検索エンジンからの用語検索でコンスタントにアクセスいただいているオーディオ系の記事のアクセス数が相対的に高まる」という、これまでの傾向がダイレクトに反映されつつ、新規記事が第2上位グループにコンスタントに並び、カウンセリング系の常連時事が下支えするという、安定した展開でした。

 これを書いている「今、この瞬間」(2/11 AM 01:33)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、129489、フォトアルバムを含めると149289、ブログの通算記事数はこの記事で679本めです。

 いずれにしても今週は、このブログだけで通産13万アクセス、フォトアルバム込みで通産15万アクセスを通過する週になります(^^)

 今度こそayuのライブ論の仕上げ(^^;v)、アントワネット関連物が最低2作、そして、別のトレーニーの方に許諾いただいた、フォーカシング・セッションの、別の視角からの実例(予告します!! "Focuser as Teacher"トレーニングの実況!!)が、大作群として予定されています。

 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。

HMVジャパンApple Store(Japan)

2007/02/09

パンフの郵便番号が間違っていた!!

 正しくは、〒244-0843です。

 すでに修正版を職場サイトのpdfにはupしております。

 すでに発送済みの皆様、関係機関の皆様にお詫び申し上げます。

 誤りをご指摘下さいました、大学学部時代の恩師.....ほんとうにおもしろい心理学の講義を、当時の視聴覚の水準をめいっぱい駆使してして下さり、私を心理の道に誘って下さった先生....に、心から感謝申し上げます。

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 郵便番号のミスの場合、郵政公社の職員さんのお手間を増やすだけかと思いますが。

 そのため、残り分の発送は遅れていますことをお許し下さい(刷り直しまではしないで、修正部分のはりつけで済ませますが)。

2007/02/08

映画『マリー・アントワネット』追加報告。あるいは「学術研究」のあり方への感慨 (第2版)

 ブレイザーの原作、読了です。

 ブレイザーは、一カ所もツヴァイクに直接言及していませんが、明らかにツヴァイクを下敷きにして書いているとしか思えない部分は多いです。一方、ツヴァイクの名前こそ出さないものの、ツヴァイクに書かれてることを個々の点で否定することになる見解は、ところどころに観られます。

 例えば、アントワネットの兄のフランツ1世がフランスを訪問してルイ16世に会った目的が、ルイの「不能」問題の解決のためのルイへの忠告とアドバイスであったことはそのまま認めていますが、「手術」を勧めた、その結果「手術」をルイは受けた、ということには否定的です。

(映画ではだからそこまで言及しないのですね。....ああ、キルティン・ダンストが演じるアントワネットが「オクテ」ゆえにあの程度しかルイにベッドの上で「迫れ」ないことを繰り返したということが「画面で」伝わらないことを監督が問題にしなかったことが命取りに思えてきた.....。あるいは,台詞の字幕の訳にも限界があったり,観客が映像作品での露骨な性描写に慣れ過ぎているせいなのか?)

 その理由は、麻酔や痛み止めがない当時、一度手術を受けたら、2,3ヶ月は、とても乗馬できる態勢にないにもかかわらず、ルイ16世のその頃の狩りの記録にそれにあたる空白がないことを指摘しています。

 私には実際の馬の鞍にまたがってみた経験は、ごく短時間しかありませんが、なるほど、鞍というものは予想外に硬いものだし、早馬の時に腰を浮かせるにしても、股間に筋肉の力がかかるでしょう(^^;)。

 更に、二人が床を共にした日に、シーツに、「的を外した発射後の痕跡があった日」の公式記録なるものは存在するらしい。王妃の「将軍夫人」の日(脈絡でわかりますよね)も逐一公式記録があるとのことなので(^^;)

 こんな記録が召使いによって逐一確認され、記録され、実家の母親(テレジアのこと)にまで「手紙での報告義務」があったりすれば、「最初の一回に成功するか否か」に不安がある若者同士の心理的プレッシャーを考えれば、悪循環そのものであり、我々でも失敗と自己嫌悪、相互の気まずい思いを連発して、その気が失せそうである(^^;)

 だから、手術は受けないまま。フランツ1世は、女性経験のある男なら誰でも想像できる次元の「ちょっとした工夫」のアドバイスをしただけ、ということになります(^^)。
 おそらく、事前に「人工的あるいは意図的に」潤滑性を十分に高めるための手法、そして、そうした上で「ちゃんと動かせ」!!「抜かずにいろよな!」ということです(爆)

 これらのことから想像して、マリーちゃんもルイ君も、基本的にセックスに淡白で、悦楽の花園に誘惑する異性そのものに「実習を伴うレッスン」を受けて欲望開発してもらう機会もないまま長期間放置される環境にいたと想定するしかなくなるのであります。

 「一回目は立たなかった」「一回めの更に一回目は誤爆した(服脱ぐ間もなく「暴発」し、その後立たなかった)」「一回目は(男の方も)痛いばかりで傷だらけで、一番デリケートな部分の傷や炎症や痒さにその後苦しんだ(液体や雑菌への免疫がないので)」などというのが真相という皆様が、実は非常に高いパーセンテージでいないとは言わせませんが(^^;)。どっちかが経験者でない限り(そうであったとしても)、そんなものでしょう。

 「心とからだの感じ」にデリケートに依存する「習熟スキル」である限り、双方未経験から、いきなり両方が絶頂に達し、本音のところで満足できる、百点満点のことができるなんて、幻想でしょう(きっぱり)。

(おいおい、「専門家」としておまえはここで、そこまで「アブナい橋を渡る」暗示的比喩を使うか? って? 

 ....いや,別に、私は、スポーツや車の運転ですら、全く未経験の人が、知識だけ詰め込んで、いきなり試合や路上の運転をすらすらと楽しめるなんてあるかね? と、「いろんなジャンルのことがらに共通のあたりまえのこと」をいいたいだけです。

 .......皆さん、妄想的にならないように(^^;))

 何事においても、「失敗」や「気まずい思い」、「試行錯誤」は避けて通れず、少しずつ「うまく」なり、少しずつ「おもしろくなって」くること。そしてそのことをお互いに理解しあうための相互の思いやりや気配りなしにはなりたたない。適切なタイミングでの適切なアドバイザーの配慮あるピンポイントの助言がないばかりに,深刻な悩みへの悪循環になってしまっているだけだったりするわけですね。一回のアドバイスだけですべてがバラ色、というのもウソですが。

 これは、個々人が、そのことをどこまでできるか、どこまでめざすか、どこまで興味を持つか、どこまで「際し障りがないくらいに最低限身につけ、演技もするか」否かの判断の自由を認めた上でのことです(^^;)

*****

 ツヴァイクの伝記そのものは、同時代人でない以上、「一次資料」にふんだんにあたっていても一次資料そのものではない
 そして,他の人の、推測による、あるいは政治的/意図的に歪曲された歴史解釈を厳しく退けつつも、ご自身はといえば「文学的創作」の誘惑に明らかに負けている部分もある。

 それに対して、フレーザーという人は、奥ゆかしい人で、「私の商品は『ここが』従来の他社製品とは違う!!」なーんていう自己喧伝で評価されることに無関心、ないし、そういうの、見苦しいという価値観の持ち主なんでしょう。イギリスの名門の人みたいですしね。

 古今のオックスブリッジ出身の学者で、こういう点で「商品差」の喧伝に存在意義を露骨にかけるひとはいくらでもいるにしても。
 ウィトゲンシュタインの前期論理実証主義哲学なんて、師、ラッセルの数理哲学と記号論理学への重大な「誤解」(「階層」の問題についての)を前提としているわけです。

 ........でも、すでにツヴァイクを十分読み込んだ人には、どこでツヴァイクの見解を否定したかはわかる筈の書き方はしている、というあたりでしょう。

*****

 思わず、学術論文というものだと、「既成研究をどこまで押さえていて、どこからが独自性か」を明示できないとならないことそのものが、実はそれだけでは必ずしも既成研究への謙虚な理解を前に進ませるとは限らないものである現実を、自戒を込めて振り返ってもしまいました。(^^;)

 だって、既成研究そのもの読解を筆者が間違っていたり、論文審査委員の方が間違っていることはいくらでもあるのだ。私は、両方の立場での実経験があります。

 誤解.誤読、流行、権威主義、知ったかぶり、売名への野心、党派性、媚びへつらい、プライド、受け売り、嫉妬....こうしたものからほんとうに自由な研究というのは、結局最後にはひとりひとりの良心性、そして「自分の間違いを認める勇気」なしには成り立たないのかもしれません。

2007/02/07

映画「マリー・アントワネット」「女王フアナ」、あるいは浜崎あゆみの「成熟」について(第2版)

 この映画と比較してみるとおもしろいのが、ヴィセンテ・アランダ監督のスペイン・ポルトガル・イタリア合作映画「女王フアナ」(2001年制作)である(解説サイトはこちらなど)。

原作本。フアナについては、かなり前にこれこれも読みました。


 フアナは、カスティーリア(スペイン)女王、イザベルの娘。イサベル女王は、あの、イベリア半島最後のグラナダ王国を陥落させてレコンキスタ(キリスト教徒の失地回復運動)を完成させ、コロンブスを新大陸に送り、大航海時代のスペイン繁栄の礎を築いた女王である。
 フアナは、イザベルのしくんだ政略結婚で、ハプスブルグ家のブルゴーニュ(現在のティジョンを中心とする、フランス北西部の狭義のブルゴーニュ地域のみならず、今のオランダ・ベルギー、ルクセンブルグなどのフランドル地域から、アルザス・ロレーヌなど、フランスとドイツの辺境地域を含んでいたと思ってください)公、フェリペ王子のもとに嫁ぐ。
 情熱的で美男子のフェりペにフアナはすぐに惚れ込み、二人は最初仲むつまじく暮らし、子供にも恵まれるが、フェりぺに愛人がいることが発覚、フアナは、フェリペと愛人に異様なまでの嫉妬心を向け始める。王や王子が愛妾をもつことは当然とみられていた時代、フアナのヒステリックなふるまいは宮廷では異様なものと映り、「王女は狂っている」という噂が、実際よりも誇張されて貴族社会に広がる。
 皇太子だったフアナの兄、フアンの急死。更に次の皇位継承者の姉の死が生じ、カスティーリアのしきたりに則り、母、イザベル女王の死後、皇位継承権は、思いもよらず、フアナのものになる(フェリペは「共同統治者」を名乗りたかったが、「王の配偶者」(王配)としてしか認められなかった。
 スペインには、ハプスブルグ家の血をひく男子が王室の血を継いでいくことに対して内部抗争があり、ハプスブルグ家と結んだスペイン勢力は、フアナの情緒不安定を理由にフェリペを摂政にしようと企む。
 ところがそのフェリペも、伝染病で若くして急死してしまう。フアナはその衝撃で精神状態を更に悪化させ、やっと「自分のもの」になったフェリペの棺を家来たちに引かせて、スペインの荒れ野をさまようという奇な行動を取り、その後40年、修道院に幽閉される。その後も、時々フェリペの棺を訪問することを許され、ミイラ化した亡骸に接吻するという行動を繰り返したという。
 フアナの女王としての身分は保たれたが、その間に、息子のカルロス5世が摂政として実質的な権力を握り、神聖ローマ帝国とスペインを併せた巨大国家の長として君臨することとなる。

 ...このように歴史を紐解くと、「十代での政略結婚」「尾ひれのついた噂の中で政治的に利用される」「若くして幽閉生活へ」という点で、マリー・アントワネットの生涯と妙に重なるところがある。夫がプレーボーイだったという点ではフアナは対照的だが。

 そして、共に時代に翻弄され、スキャンダルまみれになった「悲劇の王妃」「悲劇の女王」は、実は、王族というには「あまりに普通の若い女の子」だっただけではないのか、という視点から描き出している点でも、この2つの映画には共通項がある。

 更に言えば、フアナは、修道院に幽閉された後も、ヨーロッパ制覇の野望に燃えて新大陸から得られた富をひたすら戦争につぎ込むだけのカルロス5世の支配に反対するスペイン貴族たちの反乱にも巻き込まれるなど、後半生にも波乱があるのだが、映画「女王フアナ」は映画「マリー・アントワネット」同様に、「ドラマチックな晩年」をクライマックスとして描くことへの、観衆への期待を見事に裏切るかのような時点で、突如エンディングを迎えてしまうのである。

*****

 ソフィア・コッポラ(もちろん大監督フランシス・コッポラ」の娘)の「マリー・アントワネット」、「期待はずれ」という感想に接することが私は今のところ多い。それでも自分の目で見て納得しないと気が済まないのが私であった。

 なるほど、いくらソフィア・コッポラとの数年前の映画では評判だったとしても、主役のキルティン・ダンストは、いくら14歳で結婚するアントワネットを演じるには今や少し苦しいかもしれない。どうしても少しカマトトっぽく見えてしまうのね。「数年前には」ハイティーン向けのテレビドラマで人気があったにしても。
 同じようにスペインのハイティーン向けのテレビドラマで人気絶頂だったフアナ役、ピラール・ロペス・デ・アジの「映画初挑戦」と比較してしまうと、分が悪い。

****

 余談ですが、今の浜崎あゆみだと、うまくすれば「十代の高校生でっす!!」という演技をさせようとしても無理がないのだ。この人の場合、特に"I am..."から"Rainbow"の頃は、実際以上に背伸びしていたと思うし、メイクも嫌に大人びていた。でも、ほんとうは今でも156cmで、思春期体型に近いことは、ナマのayuを間近で観れた人(あるいは私のように双眼鏡で視野いっぱいに拡大してayuの3Dでのプレゼンスを味わったことがある人)ならご存じのはず。

 そして、何かおととしの「人間臭くいたい」発言のちょっと前の頃から、ほんとうに見かけ年齢が逆に若帰ったようにも思える。これはメイクのせいだけではなくて、本人の精神的変化が自然と現れているのだと私は感じている。ホントに「等身大」になってきたし、そうやって「等身大」になることこそがayuの「更なる成熟」だったという逆説を私は感じてます。
 だから、シークレットインソール気味の、ヒールの高いロングブーツさえ脱いでしまい、等身を本来の形に戻してしまえば、メイクと演出と演技次第で、10歳はサバを読むことが今でも全く不可能ではない(褒めてるんです。念のため)。

 そのあたりの効果が絶妙に発揮されているのが、"momentum"のPVにおける、ティーンの女の子とも妖精とも受け取れてしまう、「雪の中ayu」の名演技である(明らかに、意識的に底の薄いブーツ履いてると思う)

 ......"momentum"のPVについては、も一回書きます。

*****

 話を元に戻すと、映画「マリー・アントワネット」は、意識的に現代的なものを織り込んだ、音楽と靴とケーキを別にすると、実は歴史考証の上ではほとんど「何も」おかしなことは描いていないのです。この映画を観た時点では、映画の原作のフレイザーの方の伝記はまだ全く読んでませんでしたが、ツヴァイクの伝記だけによってすら、この映画にはほとんど矛盾する描写は出てこないのですね。この段階で、フレイザーの伝記が、ツヴァイクの伝記に敢えて挑戦するような内容ではなく、一致点の方が多いだろうことは、想像がつきました。

(今、フレイザーの方を半分ほど読みかけてますけど、基本的には、思ったよりずーっと「同じ路線」なのです。歴史の予備知識に自信がない人には、そのあたりまでやさしく解説するフレイザー、文章の「濃さ」と迫真性と辛口度という点では、ツヴァイクというところでしょうか)。

 結婚宣誓の文書のアントワネットのサインが「あんなふうになってしまった」のも、史実ですし(^^)、あの、贅沢三昧の時期のアントワネットの頭の上の、もの凄く盛り上り、いろんな模型が刺さっているファッションは、同時代に書かれた肖像画やツヴァイクの伝記の描写そのもの。

 プチ・トリアノンに映ってからの「ナチュラル &スローライフ」志向への切り替えが、当時のルソーの「自然に帰れ」の「最新流行」にそのまんま乗った「だけ」の「贅沢の一種」なのも、ツヴァイク描かれている通り。宮廷の中では、アントワネットのこの段階での「ナチュラル指向」ファッションは明らかに「浮いて」いて、旧弊な宮廷人からは眉をひそめられたそうです。でも、そもそもああやってお金をかけて「農民ごっこ」をしていた夫人は、他の貴族にもいっぱいいたのですね。なのにアントワネットだけそのことを取りざたされるのは、彼女がファースト・レディだったからに他なりません。

 史実と異なるのは、

.1..パリの「女たちのヴェルサイユ行進」の結果、国王一家がヴェルサイユからテュイリー宮殿に移動するまでのいきさつ(1789年10月5日)で、宮殿のバルコニーの下で待つ群衆の前に最初に姿を現わしたのは、夫のルイ16世の方で、実はその時点ではルイは文句なくそのことで喝采を浴びた。
 まだ革命のこの段階では、市民の大半は、ルイ16世の廃位とか殺害なんて思ってもいない。確かロベスピエールすらまだ王党派だった。政治的扇動の上でも、そこまでねらうほどの急進共和主義者ははまだ多くなかった。「王が公平な議会制立憲君主制に同意してくれれば十分」「悪いのはみんな『浪費の女王』アントワネット」というのが大勢だった。ルイ16世に「期待」してもいたのである。
 だから、ルイ16世がバルコニーに立つだけでは民衆はおさまらない。次に、あの「諸悪の根源」「世紀の悪女」アントワネットを出せー!! というムードだった。ツヴァイクの評伝を読む限り、むしろ、アントワネットがバルコニーに立つことの方が、投石や、狙撃による暗殺などの危険がよほど高い中で、彼女は敢えて決断してバルコニーに出たのである。しかも、映画でのように民衆に頭を下げることすらせず、黙って立ちつくすだけで、怒号の民衆を「気で圧して」沈黙させたらしい(アメリカ独立戦争に義勇軍を率いて参加した民衆の英雄、ラファイエットがすぐに王妃の隣に立つという機転を利かせたことで、「王妃万歳!!」の歓声が沸き起こるのだが)

(後日記:この部分、これは、映画の中で全く出てこない、後の事件、つまり、テュイリー宮殿に移った後の、1791年6月の国王一家の国外逃亡の失敗(ヴァレンヌ事件)、その更に後の、1792年8月10日、今度はテュイリー宮殿が再び大群衆と義勇兵に取り囲まれて、国王一家が議会に避難した後、宮殿で生じた、近衛兵の発砲を引き金とした義勇兵と民衆による、宮殿に残っていた人たちの大虐殺(「8月10日事件」)を経て、王権停止の議決、ダンプル塔に国王一家が幽閉されるまでのいきさつと、私の頭の中でごっちゃになっていたようです。m(_ _)m )

 ちなみに、ルイ16世は、ルイ15世より王として頼りないと言ってしまうのは不公平みたいです。元をたどれば、先代のルイ15世が統治数十年の長きにわたりる治世において、愛妾との生活にうつつを抜かして政治にあまり関与しなかった間に、パリの貴族階級全体の爛熟と社会経済の困窮はゆっくりと準備されていたのだし、ルイ16世も、ルイ15世が溺愛し、帝王学をみっちり仕込まれた王太子が急死したものだから、皇位継承権が「繰り上がって」しまっただけ。しかもルイ15世そのものが病気で急死したもので、予想以上に早く18歳で王位に就いた。
 つまり、帝王学を学ぶ余裕もないままに、あまりにも早くフランス王国の「負の遺産」を背負い込んだ不運な人であり、そんなに迷妄ではない、真面目でそこそこ善良な人間だったのである。
 庶民の暮らしの現実をあまりにも知らなかったとも言えるが、この点は大抵の貴族と五十歩百歩である。プレイボーイと正反対であったが、女性に宮廷を牛耳られる構造はすでに先代のルイ15世の時代に確立していたとも言える。ちなみに、錠前作りは、ブルボン家代々の修行だったらしいし。狩りが何より好きというあたりは、劣等感の裏返しとはいえ、男らしくもあったといえる。「国王の狩りの勇姿は観に行く価値がある」という証言が残っているそうだが、おべっかばかりではないようだ。.....性格は、確かに、少しアスペルガー的ですらあるとは思いますが。
 アントワネットの濫費についても、アントワネット自身の出費ではなくて、アントワネットの取り巻きたちがピンハネした利益、貴族や僧侶身分の裕福な層の濫費の問題が、ひとりのよそもののオーストリア女に押しつけられ、スケープゴートにされたという側面を考えれば、傾国の原因の氷山の一角。
 ちなみに、アントワネットの母親のマリア・テレジア女王にしても、まさに「かかあ天下」そのものの存在だったし、若い頃は賭博好きだったらしい。自分のそういう「負の側面」がアントワネットに受け継がれている兆候があったればこそ、あれだけ手紙で口やかましく説教したのである。
 アントワネットも、上の姉が死んだので、大国への王妃候補として繰り上がってしまったという点では、ルイ16世と同じ状態で、甘やかされていた末娘として、王妃にふさわしい修行は、フランスへの縁談が具体化した時点で「ドロ縄式」になされはじめたものだった。「この子の欠点は、集中力がなくてその時の気分だけでパッと反応すること」ということを母親(マリア・テレジア)ははっきり見抜いていた。
 アントワネットの知能そのものは高くて、目の前にいる人間への直感的判断応力と決断力には秀でていたことは間違いないし、ほんとうに革命の進行の中で追い込まれていくと、公的な発言の場での機転と隙のない切れ味の良さが出てくることは確かである。
 処刑される前の裁判での弁論など、すでに相当やつれていた筈(子宮がんが疑われるらしい)なのに、2日間、一日10時間以上の法廷の緊張に耐え抜き、自制心を失わず、自分を陥れようとするエベールや証人たちを完膚無きまでに隙なく論破していることは公判記録に明白に残っている。要するに「はじめに死刑ありき」だから通じなかっただけで、アメリカあたりへの第3国への国外追放処分というあたりが妥当な判決だったと、数年前にフランスで行われた「模擬裁判」の結果、90パーセント以上の陪審員が判断したらしい(以上、フレイザーの伝記より)。
 ユング風性格類型論的に言えば、主機能外向的感情型(物事を好き・嫌いで判断する)副次機能は感覚型(つまり、目の前にある対象への審美眼はあるが、背後に隠された可能性は見抜けない=事態の「直観」的洞察力には欠ける)、エゴグラムで言えば、FC(自由な子供)優位だが、CP(批評的な親)やAC(順応的な子供=いい子)の低さに比べれば、A(成人的な現実性)は平均水準以上、というところか。世間の現実は知らない分経験値が低いのでAの潜在的高さが生きないだけである。
 まあ、二人とも「あなたら国一番のVIPなんだから、よほど用心しないと、ていのいいスケープゴートにされちゃうよ」という先読み的政治的現実感覚という点では、全くもって無防備だったとは言えると思います。
 映画で描かれているように、最後のパリ外出時のオペラ座見物での聴衆の反応が以前とまるで違っていたことに危機感を覚えつつも、「気がついたら宮廷に出入りする人が減っていて」、バスチーユが陥落しても危機感なし、前述の、パリから女たち中心の大群衆が行進して来るその日まで、ルイ16世は「いつも通り」狩りにでかけ、アントワネットもプチ・トリアノンで、農夫の姿で物思いにふけっていたというのは確かですが、そのくらいに、ベルサイユはパリの現実から実感的にも離れていたわけです。あのへんは、ほとんど「ツヴァイクの」伝記での語り口が、映像でそのままダイレクトに見事に表現されているといってもいいでしょう。
 でも、それは、世界中に、家のドアを一歩外に出れば、いつ犯罪に巻き込まれてもおかしくない現実が生々しく待っている地域がたくさんあるということなど実感できない、たいていの日本人の「無防備さ」と何も変わらないとも言えるかと思います。

2.どうして、ルイ16世の不能の原因が「○○○○」だったからに過ぎないこと、アントワネットの兄のフランツ2世がわざわざフランスまでやってきたのが、男と男の仲で、その「治療」を勧める目的だったからということを描いていないのかはちょっとわかんない。
 むしろ、映画を観る人が「誤解」するのは、お母様のマリア・テレジアから手紙で「もっと積極的に迫れ」と要請されたのに、「あのくらいしか」ベッドで誘惑しないアントワネットの描写が「物足りない」と感じてしまうだろうこと。アントワネットは「耳年増」で、女友達には話を合わせていたかもしれないけど、実はすごい「オクテ」だったのは歴史的事実のようです。ほんとうに夫とフェルセン「しか」男性経験がない可能性が高い。
 「レズビアン」という噂が立ったのは、まさにアントワネットがまだサリヴァンのいう「前思春期段階」的な同性との親密さの域に留まったまま、みかけだけ背伸びしていたから。そして、この映画、映像文法の上では、満たされぬ性欲そのものというより、昨今日本で話題の(--;)「子供を産む機械」としての期待のプレッシャーに加えて、問題に「私の友達やおじいさま(ルイ15世)は今頃えっちしてるのにぃ!!」という、周囲からの疎外感のフラストレーションがアントワネットを追い詰めていくさまを、正攻法で表現している。
 これがそのように見えないのは、ひとえにキルティン・ダンストのプレゼンスのせいであろう。てめー、演技やメイクや演出によっては「初々しく」見えない点ではayu様にまるで及ばぬ。こういうのは、中井久夫先生ふうに言えば「こころの産ぶ毛」を保ったまま成熟できるかどうかという、半ば天性の問題だから.....
 この点で、『女王フアナ』を観ると、フアナが、まだ精神的には幼ないままの状態で、手練れの「プレイボーイ」のフェリペ君に、会った早々「初夜を迎える宮廷儀式」すらすっ飛ばして30分もかからずに陥落されてしまったおかげで、アントワネットとは逆に、むしろ、宮廷でのすべての社会的ストレスが性的ストレスの悶々に「置き換わる」方向で尖鋭化したんじゃないのか? というあたりを、フアナ役のピラール・ロペス・デ・アジは、うまく演じきっている気がする。こういうあたりは、もうおじいさんに近い老練な監督さんの方が演技指導もうまくいくのだろうと思う。

 あと、「せっかくベルサイユでロケしたのに」という言い方は、かつて「ベルサイユの薔薇」実写映画版(私は観ていません。でも、雑誌の記事のグラビアとかの記憶はあり。俳優は皆西洋人です)も、ベルサイユでロケされたのに、そういう映画があること、たいていの人、記憶すらしてないということを念頭に置かないと、「返す刀でバッサリ!!」ということになるわけでして。
 私は、ベルサイユでロケしているのに、それがまるであたりまえのことであるかのように描かれてしまうからこそ、この映画は意味があるのだと思います(^^)。ルイとアントワネットにとって、それは「あたりまえの日常」だったのだから。幻想と追憶の彼方にある世界、みたいな変なオーラがないことにこそ、この映画の意義なのです。

******

 でも。私の結論としては、問題をキルティン・ダンストの限界に還元したくはない。あるいは、ソフィア・コッポラの監督としての技量の限界故の不徹底さにも(それもあるかもしれない気がするが)。

 ひとつには、実は、予告編のイメージとのギャップで損してないかな、とも思うのだ。

 あの予告編だと、まるでこの作品の基調が、

「ちょっとキッチュな、コメディタッチの作品」

を期待させてしまう気がするのだ。

(予告編は、映画スタッフとは別の人が作るのが通例とのことですが)

 実際には、むしろ叙情的で、淡彩で静かで透明な、パーソナルなトーンが中心の作品という気がする。むしろ、多くの衣装だけが古めかしいことにミスマッチ感覚が出てしまうくらいでいいのだ。

監督は「マリー・アントワネットは、実は、なぜかセレブな家に生まれちゃっただけの、中身は現代の普通の女の子と何も変わりがないティーンの女の子なの」ということこそ、描きたかったことなのだろうし、彼女の実像はホントにそうみたいなのである。
 ブレイザーではなくて、すでに75年前に書かれたツヴァイクの伝記のサブタイトルそのものが「一平凡人の肖像」というのだけれども、彼女が全く「中庸の女性」であり、歴史があのような悲劇的運命に追い込まなければ全く平凡で無名な王妃に終わったろうということこそ描こうとしていることなのである。

 ルイ16世が「家庭の父」としては十分に愛情あふれる存在であり、そういう「家族人としての夫」との関係においては、アントワネットも十分に満たされているばかりか、ベルサイユを離れてから、テュイリー宮、更にタンプル宮と、より自由度のない、狭い空間に幽閉され、ルイの王権が制限されればされるほど、ルイとアントワネットの一家は、ささやかではあるが親密で暖かい家族関係という点では、ベルサイユ時代よりも幸せですらあり、実際にこのファミリーに接した看守をはじめとする周囲の人間は、「フランス人民を苦しめた諸悪の根源」というマスコミや政治家のまき散らしたイメージと、そのあまりの「普通の幸せな家族っぽさ」のギャップに当惑し、巻き込まれれ、いわゆる「王党派」ではなくても、思わずこの一家に善意に同情的に振る舞ってしまうところがあったことも確かなようである。
 このあたりは、(映画では出てこないけど)逃亡がヴァレンヌで発覚して、パリに帰還する際の、監視役として馬車に同乗した国民公会の特使2人(ひとりはバリバリのジャコバン派闘士の筈)が王室一家のアット・ホームぶりに巻き込まれていくあたりの、ツヴァイクの語り口は、そのまま映画にできそうなくらいのコメディーである。ジャコバン派闘士さんは、何と回想録で、ルイ16世の妹のエリザべートに愛を向けられたという思いこみを綿々とロマンチックに書き連ねたことで死後も恥をさらし続けている。
 逃亡の行きがけなんて、実際に馬車が走り出せばほんとうに家族的なピクニックのようなノリだったらしい(本人たちの意識にそうやって危機感がなさ過ぎたことも、失敗の一因なのだが。計画をあそこまで準備した、フェルゼンさんはさぞ空しかったことだろう.....この人、行く国ごとに愛人を増やしていく、当時の社交界空前のプレイボーイだったけど、監獄の中のアントワネットとも文通を続け、救出作戦を練るくらいの、アントワネットになくてはならない相談相手、心の友であり、ほんとうにアントワネットのためとなると東奔西走、尽くしに尽くし、アントワネットの理想の「白馬の騎士」そのものとして生きたことは史実である。

 このへんまで映画のノリのままで描くこともできただろう。もっとも、そうなると3時間の超大作にする必要があったろうし、それは今の時代には不可能だろう。

*****

 しかし、この映画は、それを遡る、ベルサイユからチュイリー宮殿への移動、夕日のベルサイユを観ながら馬車が走り出すシーンでエンドとなる。

 でも、まさにその、夕日をのベルサイユを観ながら、ルイとアントワネットが「あの会話」を交わせたところで、この映画のメッセージはすでに十分完結していたとも言えるだろう。

 この映画では、二人の宮中での食事の場面が、同じアングルで繰り返し出てくるが、その執拗な繰り返しが、このラストの二人の会話に収束した時点で。

 この瞬間、やっと、ルイとマリーは、ほんとうに「出逢えた」。

 フェルセンは、「マリー」にはじめて恋の炎をともした、ひとときの夢のようなできごと、白馬の王子様、という薄っぺらい存在感だけで作品舞台から退く。この映画では、それでかまなわないのだ。

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 ちなみに、『女王フアナ』が、フェリペの死の後、先に述べた、フアナ伝説のクライマックスと言うべき、「亡き夫の遺骸の棺桶を引かせての荒野の放浪」(それについてのもっとも有名な絵がこれです。凄み、ありますよ。wikipediaの画像ファイルへのリンクがスペイン本国版からはたどれて良かった)すらさらりと暗示するだけで、THE ENDに向かうのも、全く同じ理由かと思う。


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 BGMは、ayuの浜崎あゆみ - Startin'/Born To Be... EP - teens (acoustic version)"teens"にしておきます(^^)

 それこそayuのアルバム”My story"のアルバムオリジナル曲、"(miss)understoood"
"Secret"の時期のたいていの曲がそのままOKと感じますが。

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 なお、この2005年のライヴの冒頭で、ayuは明らかに自分をアントワネットになぞらえています。.

 私が実際に2回も体験している、"teens"のライヴでのayuの、CD版を超越した名演は、こちらです。

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2007/02/06

扉を開けて

久しぶりに、フォーカシングそのものについて書いてみることにします。

私は、すでにこの記事の中で、

1.個々のフォーカサーの人にとって懇切丁寧な教示やサポートをしていくことと、フォーカサーの主体的・自律的なスキルの向上をいかにして両立させるか。

2.日常とセッションのための場で感じられる「ギャップ」をいかに無理なくフォーカサーの人に統合してもらえるか。

.....この2点が、私が現在フォーカシングのトレーニングをしていく際に一番の課題としていることを、述べてきました。

 この観点から見て格好の実例を、ご本人に許諾いただきましたので、ここでご紹介します。

 すでに「フォーカシング個別指導」という形で月に一度、十数回お会いしている社会人の方です。

*****

 Aさんは、すでに面接室に入ると、自発的に語りたいことがあると語り出し、フォーカシング的に自分の心身をじっくりと感じてみるモードに自分から入られることが多いのです。私は何一つ教示的な言葉は挟まずに、その自然な沈黙の時をフォーカサーが終えられて話を始めるのを待っていました。

 そこで語り出されたのは、

 「この面接室に入ってしまうと、すごくゆったりして落ち着いた気分になって、ここにたどり着くまで感じていた実感が、ほんとうになくなってしまうんですよ。私はその実感の相手をしたいのに。この部屋に入った途端にそうなるんです」

 ガイドとしての私は、それを伝え返した上で、

「そうやってここでは楽になれてしまい、普段の実感に触れられなくなることへの当惑をこの場で話してもらえること自体が貴重なことだと私は思っていますから。
 むしろ、そういう思いを語ってもらえないままセッションを進めてしまった場合のことを想像すると、申し訳なくて、それを語っていただけたこと自体に感謝したいくらいの気持ちです」

という意味の応答をしました。

 私は、自分から、こうした、フォーカシングのセッションを進める上での違和感や壁、不満を言葉にしていただけるフォーカサーを、いつも心から歓迎しています。

****

 それまでも、Aさんの場合には、ホールボディ・フォーカシングになじんでいただく過程で、それを通常のフォーカシングにも拡張し、自分がフォーカシングしやすい「姿勢」や「立場ち場所」に、Aさん自身がこだわるようになって来ていました。

 Aさんが、セッションの際に

「こういうこともやってみていいだろうか?」

と更に応用的なやりかたを提案してくると、私は、その度ごとに興味を感じ、「あなたの実感がそれを求めているのなら、それもいいんじゃないですか?」と、歓迎していたのです。

 そのうちに、Aさんは、同じ感じを、座った状態から、立ちあがって感じ直してみる、とか、すわる場所、立つ場所を変えて感じ直してみる、とか、徐々に姿勢を変えて感じていき、フェルトセンスを感じる上で自分でしっくりくるポーズや場所を見つけていくことを、自然に試みてみる人でした。

****

 しかし、その回、先ほどの「日常の中での感じが面接室では感じられなくなる」ことについてのやりとりに続いて、Aさんの方から、次のように提案された時には、少し、いい意味での「驚き」がありました。

「あの、今からドアの外に出て、感じ直してみたいんですけど.....」

 私は、ほんの少しだけ内面に注意を向ける時間をもらい(せいぜい20秒)、

「1.ドアの開け閉めは、音が出ないように静かにやってもろう
 2.ドアの外では、言葉にはせず、感じを味わってもらい、ドアを閉めてからはじめて言葉にしてもらう

.....というのでどうだろう?」

という提案をしました。

Aさんもそれに同意しました。

そしてゆっくりと立ちあがり、ドアの前に立ち、静かに扉を開けると、扉を開けたまま、ゆっくり「半歩だけ」扉の外に立ち、30秒ほど味わい、また静かに扉を閉めて、戻ってきてから、再び内面に少しだけ注意を向けて確認した上で、はじめて口を開きました。

「あ、一気に戻ってきました。普段感じていた『あの』感じが。一気に身体の中に広がってきて。....今、こうやって座って味わい直してみても、6割ぐらいはその感じは残っていて、味わい続けられますね」


******

 もっとも、私は、こうした例を、単に

「ドアを開けて感じてみる工夫」

みたいに定式化して受け止めていただくことや、

「面接室の外の空間でフォーカシングするのって、当然ありでしょ?」

と受け止められてしまうと、何か、私がこのセッションで感じた小さな「驚き」と、Aさんに思わす感じた「敬意」の本質がが伝わらないように感じています。

 トレーナーである私に、ほとんど毎回のように、セッションの進め方への「違和感」の表明や「新しい進め方」の提案」を自分から私にしてくれてはいたのですが、このセッションでは、違和感の「具体的解決策」全体を、自分で提案するところまでしてくれたのです。

 私はそのことに、同じ「フォーカシングを学んできた者」としての敬意を表したくなるのです。

「セッションの場をリードしている」のは、文字通りフォーカサーの方なんですね。

2007/02/05

先週の人気記事ベスト20!!(01/28-2/3)

 福井での臨床心理士会研修会参加のため発表が遅れましたが、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」週に一度の恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「週ごと先記事別アクセス解析機能を使っての、先週の記事アクセス「ベスト20」の発表、おかげさまで、ついに30回めです(^^)

 固定リンクでのアクセス率の順位から集計しています。アクセス数が同じ場合には、訪問者実数上位の記事を上位とし,訪問者実数も同じ場合にのみ、同じ順位として掲載します。
 7×24時間、つまり2/3日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,705(前回1,767)。(一日平均アクセス243.57。前回252.43)と、前回より若干減。

 訪問者実数は、1,377名様(前回1,412名様)と、これも若干減。

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 今週は、パンフレット制作/発送と、前述の研修会参加のため、最近では新規記事が積極的とは言えない週でした。

(パンフレットは、何回かに分けて発送しつつあるので、本日以降にお届けとなる関係者の皆様もあります。更にメール便を使っていますので地域によっては発送から到着まで4日かかります。特別な業務提携先を除いてはランダムな発送をしていますことをお許し下さい。遅い方にも今週中には届くようにします。更なる新規発送のご希望については、日本フォーカシング協会のクローズドなメーリングリスト上で今週中に告知し、当面協会メンバーの方を優先して承ります)

 この新作寡作の影響は数値的には週後半になってやっと顕著にあらわれてきました。こういう、最近では稀なくらいにブログ活動をしなかった週にもかかわらず、この1週間おいでいただけた皆様、誠にありがとうございます。

 心身ともにいろいろ充電はできましたので、再びこれからコンスタントに記事を書ける週に入ると思います。どうかよろしく。

 (実は、映画「アントワネット」は昨夕帰りがけに、映画の上映時間とジャストフィットの平塚で「途中下車」して.....つまり交通費ゼロで、観ることができました。結論だけ先に書きますと、十分に「佳作」であり、「筋の通った」映画と思います)

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 「サイト内移動」、前回の324(36.8%)に対して今回298(37.6%)、それに対して、トップページへの外部からのアクセス、前回335(38.1%)に対して、今回254(32.1%)。

 そして、当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、前回8.3%、今回8.2%。コンマ1%落ちました。でも、コンマ1で済んだことには感謝申し上げます。

 「訪問周期」は、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回も今回も8名様を維持。これにも感謝!!

 それでは記事別ランキングの方の発表!!


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1.インシュレーターは使わないに越したことはない(→) 23週連続

2.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↑)24週連続

3.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~(↑)3週連続

4.「湘南フォーカシング・カウンセリングルーム」サイト刷新!! (↑)

5.眼鏡なしの歴史三昧(あるいは,今後の予定) NEW!

6.「逆上がりしたい」の正体 NEW!

7.オーディオにおける接点復活剤について(↑) 6週連続

8.「死にたい」と言ってもらえること (↑) 9週連続

9.「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)(↓)3週連続

10.先週の人気記事ベスト22!!(01/21-27)

11.私のピュアオーディオシステム(そこに更にiPodをどう繋ぐか) (↓)3週連続

12.ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史) COME BACK!!

13.「神田橋條治」カテゴリーへの直接リンク (↑)

14.やはり、耳栓型イヤフォンの名機、SHURE E5cについて書きます COME BACK!!

15.「モバイルオーディオ」カテゴリーへの直接リンク NEW!

16.「パソコン用スピーカー」カテゴリーへの直接リンク NEW!

17.ヘッドフォン、Bose Quiet Comfort 2のへビーユーザーとしての本音 COME BACK!!

18.ストーカー「加害者」の心理(↑)

19.2/3(土)-4(日)は、日本臨床心理士会「ベテラン臨床心理士のための研修会」に参加させていただきます。(↓)

20.浜崎あゆみと中島みゆきの共通項(↓)3週連続

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 「記事寡作の週になると、検索エンジンからの用語検索でコンスタントにアクセスいただいているオーディオ系の記事のアクセス数が相対的に高まる」という、これまでの傾向がダイレクトに反映した週でした。

 これを書いている「今、この瞬間」(2/5 PM 12:59)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、 128166、フォトアルバムを含めると147705、ブログの通算記事数はこの記事で674本めです。

 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。

HMVジャパンApple Store(Japan)

2007/02/03

芦原温泉より

 昨日は、やたらと早朝につく夜行を降りた後、
Tojinbo1_2
東尋坊
と、
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永平寺を路線バスでめぐり、
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京福電鉄で福井を経て芦原温泉の「素泊まり」旅館にたどり着いて大浴場でひと風呂浴びて部屋に戻ったら、そのまま朝まで寝てしまいました(^^)

 おかげで、やや宵っ張りの朝寝坊モードになっていたのは見事に回復しましたが。

 今年は雪が少ない北陸ですが、さすがに「国境の長いトンネルを抜ける」前後では吹雪の中を列車が突っ走るモードは久々に味わえましたし、日本海に突き出した東尋坊の海からの風はコートを突き抜けて身体に凍みる寒さでしたし、永平寺は、もともとあのあたりでも雪が深い地域なので、きちんと「雪の永平寺」であることを堪能できました。「永平寺」が、「参拝する」お寺というより、「修行する道場」という空気が強く、想像していたより大きかったですし。

 というわけで、これから数時間後に、温泉町を別のホテルに移動して「臨床心理士会研修会」モードに切り替えるまで、またゆたっと過ごします。

******

 なお、今晩は、6人ぐらいの「相部屋」だし、参加者の皆様との懇親優先にしますから、「先週の人気記事ベスト20」の最新版の掲載は、福井から戻ってからに延期します。

2007/02/01

眼鏡なしの歴史三昧(あるいは,今後の予定)

 珍しく、ブログを3日ほど書かなかったのですが、その間も、ブログを更新していたときと全く同じペースで当ブログにおいでいただき続けていたことに感謝申し上げます。

 私の活動全体のペースそのものは全く変わっていません。

 結局、眼鏡は発見できませんでした(^^;)。40代半ばで、老眼が刻々と進んでいる筈なので、結局、福井への出発日である本日から逆算してぎりぎりの日に、「再検査してフレームごと眼鏡を新調する」決断をしました。「今」やっと、できあがった眼鏡を引き取って来たのですね(^^)

 さすがに、遠視乱視近視すべてが重なっていますと、パソコンは画面20センチに接近しないと見えません。その姿勢でブログを無理して打つと、かなり猫背せざるを得ず、「腰にくる」ので、完全に開き直り、面接をしている時間以外は、ブログの記事は無理して書かず、その分を職場の新しいパンフレットの作成と発送と、普段から眼鏡なしが普通の、読書にのみ集中することにしました。

******

 ....で、何を読んでいたかと言うと、予定通り、歴史書三昧でした(^^)。いったんその世界に入ってしまうと、いろいろな思いが湧いて来てしまって、それを整理してうまくことばに言葉にできないモードにもなってしまい、(思わず浜崎あゆみ - No Way to Say - EP - No Way to Say"No Way to Say")、一層書くことから遠のいてしまった気がします。

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 結局、映画「マリー・アントワネット」は眼鏡なしでだと最前列で観てももったいないので観ないままです。私はもともと、有楽町マリオンの日劇の大スクリーンは別とすると、前から3列目から5列目ぐらいで視野いっぱいに映画を観るのが好きなくらいですから。
 ......で、ジャコバン・クラブの前身、ブルトン・クラブがブルターニュ出身者が多いことに何か意味があるのかという関心から、

ブルターニュの民族主義成立の背景→ケルト民族

原聖/「<民族起源>の精神史 -ブルターニュとフランス近代-」)

→スコットランド

高橋哲雄/スコットランド 歴史を歩く」

.....とまわって、結局、マリー・アントワネットに戻り、マリー・アントワネットの伝記の古典である、ツヴァイクの本(1932)を読破。

 更に、マリー・アントワネットの作曲したとされる歌曲を、「ベルばら」の作者、池田理代子さん(音大を出て,現在はソプラノ歌手としても第1線で活躍しているのはご存知の方が多いかも)自らが歌ったCD、

 そして、このあとは演劇としての「フィガロの結婚」の作者、ボーマルシェの映画

(「演劇」フィガロが検閲をくぐり抜けて上演にこぎつけるまでにはにはアントワネットが大きく関わっている。アントワネット自身がベルサイユの宮殿内の舞台で「役者として」演じている!!)を経て、「ルイ17世問題」とアントワネットの肖像に詳しい本を経て、更に、恐らくロベスピエールの恐怖政治の背景についての本を探すところまでは、一気に「フランス革命」モードで走ると思います。

 映画「マリー・アントワネット」は、そういう渉猟の途中,来週の木曜日の
「定休日」に藤沢で観てしまうでしょう。

******

 さて、今から上野駅に出発するまでに書ける範囲は限られているので、「今後の予定」内容をかいつまんでダイジェストするにとどめます(^^)。
 
 つくづく感じ始めているのは、フランス革命のプロセスそのものの中に、現代にも通じる、政治と社会と個人のありようが、縮図のように読み取れるという思いです。

 そして.....

 このブログの記事の流れの中で、実はすでにさりげなく,何度となく示唆していることになるかもしれませんが、少し前から、私の中に、ひとつの「直感」としてあるのは、

浜崎あゆみのあり方を
マリー・アントワネットのあり方と
シンクロさせたらどうなるか

という思いなんですね。

 ツヴァイクによる伝記を読んだ時点では、この直観は生かせそうだと感じています。

 結論は書いておいてもいいでしょう。

 「浜崎あゆみはバカじゃない」

 これは、ayuのデビュー1周年の頃の、「オールナイト・日本」でのayuの特番がでDJした時に使われたサブタイトルですが、

 「マリー・アントワネットも、おバカさんではなかった」

.....ということ。

 気づくのが遅過ぎたし、ある意味で、最後まで「王」に必要な決断力を発揮できなかったルイ16世の「王妃」というアイデンティティを超えられなかったがゆえに堂々巡りしたところがあるにしても、彼女は、ハプスブルグ王朝黄金期を築いたオーストリア=ハンガリー帝国の最も英明な政治力を持った女王、マリア・テレジアの娘そのもの、つまり、「『王の器』の精神的後継者」として、母親のアイデンティティを見事に引きついだ、自立した「政治家」として生涯の最後の数年を終えたとはいえそうだということです。

 それが「ツヴァイクの」史観といえばそうなのかもしれないけど、少なくとも、フェルセンの果たした役割について、もっとスウェーデンの政治情勢と直結させてシビアな理解はできるかもしれない可能性をツヴァイクの伝記に感じる点は留保するにしても、王妃
としての「アイデンティティの確立」までの問題として、アントワネットの生涯を読み解く価値が十分ありそう
とは、強く感じました。

 

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