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2007/01/13

「疲れた」「つらい」筈なのにそう感じていな「かった」時の「独特の感覚」は本人にも「実感」できる(第5版)

 「欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている」

 ......この記事は、このブログの個別記事別で、通算最多アクセス記録を現在も更新し続けている記事であり、週ごとの「ベスト20」でも20週連続ランクインを続け、たいへん多くの皆様にお読みいただいて来ています。

 それが、

> 少しでもこれが世間の「欝」についての著作より「新鮮に」響けば幸いです。

と、私がその記事の最後に記した思いが伝わった結果であるとすれば、たいへん光栄なことと感じています。

*****

 ただ、最近。

 この記事について、次のようには誤解されたくないなあ、という思いも生じてきました。

「鬱の人は自分が無理していることを自覚できない人なのだから、まわりが無理してでも本人にそのことを自覚させるしかない」

 私は、カウンセラーとして、このように受け取っていただきたくはないのです。

****

 その理由は、大きく分けて2つあります:

1. 私は、およそどのような場合でも、

  「自分自身の感覚や判断を信用するな、
  なぜなら、あなたは『こころの病気』だからである」

というふうに、クライエントさんに受け取られる危険のあるメッセージを発することは治療的ではないと考えます。

 もとより、クライエントさん本人が、自分が病気なのではないか、病気故にこうなっているのではないか、と感じて悩んでいる場合には、それを受容的・共感的に受け止めて、その「悩み」とどう向き合うかについて一緒に考えて行くことをしてまいります。

 しかし、それはあくまでも「病気」という現象を「括弧に入れて」、「病気」であるかないか、「病気」故に現状から抜け出せないのか、というクライエントさんの苦悩とおつきあいするということに他なりません。このスタンスを失うと、実はほんとうのカウンセリングにはならないと考えています。

 例えば医者からはっきり『鬱病』と診断された人がいたとします。これは告知された診断名が『鬱状態』であろうと、『感情障害』であろうと『適応障害』であろうと、本人にとっては大差なく、これらの告知は、ご本人に最初「ある衝撃」を伴います。たとえ「やっぱりそうか」とご本人が受け止めたつもりの場合ですら!!

 「これが、世間で言う『鬱』ということなのか?」

 たいていの人は、自分が思い描いていた『鬱』というものとの違いに驚きます。

 たとえ、カウンセラーであっても、自分が実際に鬱になってみたら、習い覚えていた知識だけではとらえきれない「何か」を実感として感じます。そして、学んだ事柄が「こういうこと」だったんだ、と、今更のように新鮮に少しずつ気がつきます。

 その一方で、一般に流通している、「鬱の人にはこのようにかかわるべき」という、専門家向けのマニュアルめいたものが、いかに表面的で、ひとつ使い方を誤ると、本人をいかに傷つけ、それこそ「鬱を悪化させる」危険すらある「際どさ」を秘めているかに気がつきます。

*****

 例えば、

「がんばれ」というな

という、皆様も恐らくご存じの、鬱状態の人への接し方の「基本的なドグマ」みたいなものがあります。

 このことを、鬱状態とされるその人の、以前のように思うように活力を持ってものごとをできないことへの、ほとんど衝撃的な絶望感と無力感、ふがいなさを汲んだ上でない形で、表面的にだけ伝えると、クライエントさんにとってはほんとうに行き場のない思いを呼び起こす場合があります。

 「がんばらなくてもいいよ(You may...)」
→「がんばってはならない(You must.....)」
→「自分は社会的に有意義な活動ができない無能者とみられている」

あるいは、

 がんばろうとすると、カウンセラーの人は、苦虫をかみつぶしたような表情で、私(クライエントさん)に、「拒否的」になる。カウンセラーの先生に「嫌われない」ためには、「がんばらない」ようにしないとならないのがつらい

 実は、単に「がんばらなくていいよ」といわれたら、このように感じてしまうのが、まさに、いわゆる「鬱的な」人の「発想法」らしいのではないかと私は思いますが.......。

 自責感が強く、「周囲に」存在意義を受け止められ、友好的に溶け込んでいられることこそ、鬱的な人が自明としていることなのですから。

 その意味では、鬱状態の苦しさの本体は、心身のエネルギー低下そのものではない(これ自体は生物として、全く自然な生体恒常性の営みである)とも言えます。

 神田橋先生ふうにいえば、「元気がない」状態で、かなりペースを落として生活することに、もしご本人が全く違和感や抵抗感がなければ、それは「こころの病」とは言えないことになります。

 「心身のエネルギーが低下すると、それまで周囲に認められていたような活動ができなくなる」=「自分は存在意義の根幹を喪失する」

という根源的恐怖こそ、鬱状態の「苦しさ」の本体だといってもいいのではないかと思います。

 あるいは、「がんばらなくていい」といわれて持て余す、時間をどう過ごしたらいいかという空虚感と焦燥感にこそ苦悩するのが鬱状態の人である。

 逆説的にいえば、人は「鬱」になったこと自体で二次的に鬱になることにこそ苦しむ。

 このようにクライエントさんが受け止める可能性への「想像力」を持ち、以前のように全力を出したいのに出せないことへのふがいなさ気持ちを十分過ぎるほどに汲んで、その上で、クライエントさんがいつの間にか無理をしていないかに目配りする姿勢こそが必要です。

 極論すれば、自分が多少は無理をしようとしてみないと、自分が現在それが「無理」だということには、その人なりに実感としては気がつけないという逆説がある気がします。クライエントさんに、ほんの少しだけacting outする自由を与え、ちょっとだけ無理をしてみる自由を保障することが必要だとすら言えるかと思います。

 これは「試行錯誤(try and error)の自由の保障」とも言えるでしょう。もとより、それを安全な形で許容できるには、すでに治療者とクライエントさんの信頼関係の《絆》が、『抱え』の構造を生み出している場合に限定されますが。

 その結果、

 「やっばり以前ほど踏ん張りが効きませんね。くやしいことですが」

といったことを正直に打ち明けても、

だから私の言ったとおりでしょ? 今のあなたには無理なのよ!!」

と、あきれるように、あるいは勝ち誇るように(と、敢えていいますね!)言葉を返してくるのではない対応をしてくれる、医者やカウンセラーでないと、信頼の絆は生まれないし、治療もはかどれない(たとえ薬物治療中心でも)筈です。

 単に「治療者に嫌われたくないからそうする」というのを超えた治療者との関係性が築かれていないことには、鬱的な状態にある人は、自分なりの節度をまきまえたライフスタイルにたどりつくことはないと私は考えます。

*****

2.別な観点からすると、実は、

鬱的な人に「自分が『無理をしている』『疲れている』と自覚する能力がない

というのは誤りなのです。

「無理をしていた筈なのに無理をしていたという実感がなかった
「疲れていた筈なのに疲れていたという実感がなかった

などという場合、実は、何の実感もなかったし、その時の「実感」を、、呼び起こせないということではないのですね。

 つまり、「無理をしていたはずなのに無理していると感じなかった」時の「独特の感じ」というのは、本人も実感可能なことが多いのです。

 「疲れていたはずなのに疲れを感じなかった」時の「独特の感じ」というのは、本人も実感可能なことが少なくないのです。

 それらは、ほんとうに「無理をしていない」時、「疲れていない時」の「実感」とは、別の「感触」や「感覚」であることを、本人が実はかなりの程度弁別できることを期待していい場合が、実はほとんどだと思います。

 「あの時は、普段よりも宿題が多くて、思わずピッチをあげてしまった。でも、数日後、疲れていた、無理をしていたのだと突然気がついたことがあった。でもそれをお医者さんには言わないままだった。そしたらその直後に学校を1週間休むしかなくなった」

などと通院中のクライエントさんが語る時、

「その、無理をしていると気がつかなかった時の、独特の自分のノリというか、気分、調子」というのがあったんじゃないですか。その時の感覚を今も少しだけ呼び覚ますことはできるかしら? 簡単に言葉にならないかもしれないけど、実感それ自体としては?

と尋ねると、少なからぬクライエントさんは、そのクライエントさんなりに「その『独特の』感覚」を、感覚そのものとして「思い出せる」のです。

「それなら、今後、『その』感覚が出た時点で、少し注意信号かな、と自覚できる(acknowledging)だけでも、すでに少しセーブが効き出していると思うから、大事にしたら?」

などと伝えると、

「そうですね。もう、あんなふうに、直後に寝込んでひどい思いはしたくありませんから。今度『ああいう』感じになったら、すぐにお医者さんに打ち明けます」

などと、あっさりと受け止めてもらえる場合があります。

 これは、サリヴァンが言い出し、中井久夫先生も強調する、「辺縁的身体感覚」の賦活というのと、基本的に共通のことだと思います。

 私が、フォーカシングで言う、言葉にならない曖昧な心身未分化の感覚それ自体としての「フェルトセンス」と重ねていることにお気づきのかたは少なくないかと思います。フォーカシング指向心理療法的な「認知行動療法」的アプローチとも言えます。

 結果的に、その人が悪循環に陥る際の認知と行動のパターン細かく振り返っていただき、そこに「ピンポイント的」な認知と行動の修正の「提案」をしていますから。 

 しかし、言葉で表現しにくい微弱な心身未分化な感覚それ自体その人固有の味わい="taste"を直接指標にできるという点では、より繊細なアプローチの可能性を開くともいえるかと思います。

 そして、認知行動療法において決定的なのは、クライエントさん自身が自分の内部感覚と認知と行動の連鎖の細やかな「観察者」になることへの内発的な興味と関心(=好奇心!!)を喚起できるかどうかにこそ成功のポイントがあると思います(行動療法の山上敏子先生の「暴露反応妨害法」ですら、ある意味でそうだと思いますが)。

 つまり。自分の日常の堂々巡りを生じさていた「感覚」→「認知」→行動」→「感覚」→.....という連鎖に、クライエントさん自身が更に探索し、気がつき、できるところからピンポイントで修正していく「ゲーム」の主体となることに興味と好奇心を持ち、その結果生活が円滑になり、ストレスも減り、以前よりも快適で、実は真の意味で「効率がよく」て(悪循環の無駄な繰り返しがなくなるから、実は時間もエネルギーも「浪費」されなくなるのである。休息の意味も生産的に自然ととらえられるようになる)、余裕感を感じられるようになる。

 そうした、生活そのものの中での「成功報酬」を得られ更なる動機付けとして、自発的に(オペラント!!)そうした自分の中の悪循環をち切る小さなステップを探していくことそのものが、ある意味で楽しくすらなった時こそ、認知行動的アプローチの真の成功のはずと思います。

(「治療者に褒められるから」、だけではまだ悪循環の火種がある。治療者が、それらがクライエントさんに「摂り入れ」られ、「内在化」されることだけを予定調和的に期待するだけでは、また落とし穴にはまると思います)

*****

 こうして、自分の「つらいはずなのにつらくない」「無理しているはずなのに無理をしていない」時の、その人なりの独特の曖昧な感覚自覚してもらい、クライエントさん自身がセルフコントロール上での指標とする状態が学習されていった時にこそ、いわゆる「鬱状態」の人は、自律性の回復という最大の課題を少しずつ消化できていく。

 カウンセラーは、それをサポートする存在でこそあるべきと思います。

*****

 なお、ここでいう「自律性の回復」とは、私と同じTFIの国際資格認定資格者(コーディネータ)である、九州大学の吉良安之先生の提唱された、最大の業績のひとつ、「『主体感覚』の賦括」というテーマにもつながるものだと思います

(ネット上では、吉良先生ご自身の「臨床経験にもとづく体験過程療法の再吟味」という論考が、日本フォーカシング協会のサイトで一般の皆様にも公開されています)。

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 今回「第3版」での増補は、極めて重要なものですので、心理臨床の専門家、そして精神科/心療内科の医療に関わっておられる専門家の読者の皆様、フォーカシング関係者の皆様には是非再読をお願いいたします。

****

増補は、終わりの方の数十行に含まれていますが、

●クライエントさんが医者どういう時に自分が「無理と気づかないままに無理をしている」可能性を伝えたらいいか

●鬱状態にある人とみられる人への認知行動療法的アプローチとの共通項と、フォーカシング指向心理療法をそこにブレンドすることのメリットについての私見

●吉良安之先生の「『主体感覚』の賦括」論との関わりの示唆

....大別すると、この3点について増補しました。

*****

 恐らく、現段階での、少なくとも軽度の鬱状態にあるとも見なされるクライエントさんへの現場心理臨床的援助についての私のアプローチをとりあえず「総括」したとも言えるものになったかと思います。

 私自身、鬱状態のキャリアを持つことはこのブログでも公言しておりますが、ここまで書けたことで、やっと、私自身の鬱の「学部卒業論文の草稿」ぐらいは書けたかな、という心境です(^^)

 第3版の更新直後に、久々に、1時間アクセス110名様以上となりました。ありがとうございます。

「第5版」までかけて、更に細かな増補と改訂を重ねました。

 ます、吉良先生の「主体感覚」論に関する、手に入りやすい資料へのリンクを入れました。

 更に今回は、あちこちの一見細かな部分で「画竜点睛」的補足をしています。でもその一句一句が加わると。その文節の「有効打率」が上がるような「だめ押しの一句」が多いので、申し訳ありませんが、この論考に興味を持っていただいた皆様、もう一回読み直していただければと思います。.....一部、そこまでいうと「くどい」とお感じの部分もあるかもしれませんが.....

 特に、フォーカシング関係者の皆様には、私なりの"Thinking at the Edge"(TAE)のプロセスを「ライヴで」楽しんでいただけたかもしれません(^^)。

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