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2006年11月

2006/11/30

今、ayuの新作フルアルバム"Secret"聴き終わりました(第3版)

 このアルバムの発売のこと、これまで一度もこのブログで言及しなかったですけど、もちろん期待して待ってたわけです(^^)

 ただ,本業と関係することでこの11月はあまりに頭がいっぱいだったもので、浜崎あゆみさんのことを考えるゆとりもまるで見失っていた(^^;)

 島根への旅行中は、iPodで結果的にayuの全アルバムを聴き返して(意外とこういう聴き方は久しぶり)、いろんな感慨にふけっておりました。

 どうしても私はayuの新たなフルアルバムを聴く際には,凄く「構えて」しまう。

 先に詞を読みました。私のフェルトセンスは"OK"をあっさり出しました。

 iPodに今ロスレスでおとしました。

 聴きます!!

 感想がすぐに言葉になるかどうかは、わかりませんが。


*******


(以下、第2版)


.......と、言っときながら、私としては「初の」速攻のアルバム評です(^^)

 まずは訂正。この前のツアーの落日の時点で、とっくにayuの髪、かなり長かったこと思い出した。ステージではいろいろ「かぶり物」してるからどれが「地の髪の毛」か、ようわからなくなるのだ...と、いいわけ。

 冒頭は比較的クールに始まるけど、曲が進むにつれて燃焼度が上がって行き、最後の"Secret"で遂に見事に「泣き落とされてしまった」こういちろうであった。

 当初のミニアルバムとしての発売をやめてしまって、フルアルバムに格上げしての発売は、明快にayuの意志であろうと想像はしていた。恐らくギリギリになって「何か、これだけでは違う!!」という違和感(^^)に衝き動かされたayuがいたのではなかろうか。

 「さすがに発売日は動かせない」

という会社側に、

 「いい!! 何とかする」

.......とayuは突っ張りまくって、自分を追い込んだ挙げ句、短期間でどわーっとインスピレーションがわいて来て、スタッフたちもその勢いにのまれて、エネルギー120%状態に突っ込んでいったというあたりなのではないか。

 実際のアルバムを聴くと、タイトルが,フルアルバム移行の際に、"JEWEL"から""Secret"に移行したのも全く当然であると感じられた。

 一枚マキシを出すごとに一歩一歩新たな実験を繰り返し、フルアルバムにする段階で、一見渋いけど見事な静謐な数曲を絶妙に配置した、前作"(miss)understood"とは異なり、かなり短期間の間に作られたからこそ、スタッフの力をこれまでより更に引き出せたのではないかと思う。

 私としては、最後の"Secret"に向けて盛り上がるアルバムの流れ全体を楽しんで欲しいが、"Secret"の直前の"kiss o' kill"の時点ですでに「殺されそうに」なった(^^)

 曲も詞もだが、アレンジが新鮮。あんなふうに、合いの手で○○○○をぶつけるなんて、誰のアイデアなの? 

******

 「あと出しじゃんけん」ですが、この前のツアーの落日でのSEで、よっちゃんとのやりとりを観ていて、何か二人のやり取りに「感慨めいた空気」を感じて、「あ、よっちゃんともお別れなんだ」という走る予感はしていたんだけど、このアルバムの録音の演奏者として、よっちゃんもエンリケも完全にいなくなってしまったことが確認できた。

 編曲の上で、すでにこの二人の存在が、ある制約となり、アルバムを一本調子にする「重荷」にすらなりはじめていたというのは、6thアルバム"My Story"を聴いた時点で痛感したことだったけど。やっと、無理のないタイミングで、バンドメンバーの総入れ替えが完成したことになる。幸せなお別れだったはず。

 それゆえの新鮮さを一番感じたのが"kiss o' kill"だった。何かしらないけど、かなり独創的な編成の、アコースティックとテクノとフォークとロックの間を自由に行き来でき、意外なクロスオーバーを臨機応変に創造できる態勢が整って来たようだ。

 今や"avexのはみ出しもの”みたいな、偉大なる「自分勝手」を突き進んでいる、ayuはどこまでいくのだろう? いいのいいの、倖田の稼ぎを会社からたっぷりしぼりとって、したたかに進んで下さい!! 

 でも、例えばonly oneとの出会いとかあれば、いつでも辞めていいっす。

 すべてはあゆみさんのフェルトセンスが命じるままに。あんたのよかごつ(博多弁)。

 そうすりゃ、どんな形にしても、思いもよらない「出口」が、状況的にいつの間にか整うでしょう(^^)

 売り上げはともかく、音楽的充実度で「尻すぼみ」に終わることだけは、ayuの場合ないとは思う。


*****


 ライブで聴いたら、ayuの歌声がCDに全然おさまりきらない魅力を振りまきそうな「勘所」をつかまえた曲が増えている気がする。カウントダウンはこのアルバムの披露という面がかなり濃いものになる予感。楽しみである。

****

 PVについては、今日は無理。

 観るなら、実はまだ観てなかった、この前のツアーの私自身が落日を体験したDVDをこれから観ます。

親鸞の「歎異抄」の精神とパーソン・センタード・アプローチ(第6版)

 私は実際に浄土真宗の家に生まれていますけど、親鸞については、ほんとうに日本史の教科書的な記述以上のことはほとんど何も知らなかったんです。「他力本願」「悪人正機説」、僧の妻帯を認めた、一向一揆と、その後の本願寺の権力者による抑圧、ぐらいのことで。

 この前も書きましたが、11月はじめのの人間性心理学会大会で、池見先生とアンの「対談」を聞く中で、突如私の中で、シフトが生じ、

> 「ジェンドリンは、『フォーカシング』の中で、
>
> ぴったりなコトバがなかなか浮かび上がってこないようなフェルトセンスが生じてきたら、それはむしろ歓迎されるべきである
>
> というようなことを述べていた。
>
> そういう時に、焦ることなく、
> 心の中のスペースを大事にして、
>  新鮮な『言葉』が
>  おのずから立ち現れてくるのを
>  じっくりと待てるということは、
>
>  新たな『状況』が、
>  おのずから生じてくるのを
>  じっくりと待てることと同じことだと思う」

......と、自分でも、口にしてからびっくりするような、思いよらないことを口にしていたその数時間後、今度は、シンポジウムで、シンポジストとのひとりの山折哲雄先生がいわれたことで、不思議と気に入った(実は、この言葉を聴いた瞬間に居眠りから醒めたのであった....)のが、その時点では出典すら記憶になくてメモにも取らなかった、

「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」

という言葉のうろ覚えが私の中でなぜか響きあい、実際にネットで「歎異抄」を調べ始めて、実際に原文を読み通してみて、いよいよ興味深くなったという順序なんですね。

*****

 「歎異抄」という著作そのものは、実は親鸞自身ののものではありません。唯円という僧が、若い時代に関東からはるばる京都の親鸞のもとを学友と訪ねた時に歓迎され、滞在時に伝え聞いた話ををまとめたものである。

 書かれたのは、親鸞唯一の直弟子となった、親鸞の入滅後30年、唯円自身が亡くなる前、1年以内とされる。

 後述する梅原氏の説によれば、恐らく、第3門主に覚如(親鸞の曾孫にあたる)が就く際に、再び京都に赴き、彼に親鸞の真意を伝えることによって教えが風化しないことを祈って事前に書き留めた上で講釈したのではないかと推理している。本来「ただひとりの人間」にのみ伝えるつもりの「秘伝」だったらしい。

 親鸞自身は、実は師の法然の忠実な継承者に過ぎないと思っていた。法然も親鸞も天台宗の総本山、比叡山で修行を積んだ。学問や厳しい修行がなくても、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、「誰でも」浄土に行けるという思想そのものは法然が既に確立したものである。法然自身が叡山で危険視されたが、あまりの博識と、僧としての持戒の深さ(伝統的に僧が犯してはならないとされる戒めをきちんと守ることの潔癖さ)のために一目置かざるを得なかったようである。

 もとより、法然の時点では、「悪人も」「肉食妻帯者も」、念仏さえ唱えれば浄土に行けるという教えだったのだが、親鸞に至り、僧の肉食妻帯を「公然と」認めた(「非公然に」ならば、実際にはなされることが多かったのは、そもそも天台の始祖、最澄自らが歎いていた現実だった。天台宗そのそのものが、最初は既成仏教への改革運動そのものだったのである)。親鸞は、それどころか、「悪人の方が浄土に近い」という大逆説まで公然と唱えるようになっていくこととなる。

 若い頃は、法然の兄弟子たちの間すら「無学な過激派」とみられていたが、法然自身は弟子たちの集まった前で、「親鸞の念仏は自分の念仏と同じ信心である」と、親鸞が若い頃にすでに公式に発言したという。
 
 宮中の侍女たちとの弟子たちのゴシップを体のいい理由づけにされて、弟子4人は死罪、法然と親鸞は遠隔地に流罪となっている。法然はすぐに京都に戻ったが、親鸞は福井に俗人として長期間滞在し、妻子を設ける。
 
 そして次に歴史の舞台に現れた時は、常陸の国を中心とする関東で長期間布教活動をして、中年期を過ぎてやっと京都に戻る。もっとも、知り合いのところをあちこち点々とするという、地味な暮らしぶりだったらしいが,何と90近くまで生きることになる。

 その頃には、親鸞の弟子や「また弟子」たちが、各地で勝手に親鸞の教えを広め、お互いに誰が真の弟子かを競い合う混乱状態が生じていた。しかも、妻帯を公然と認めたものだから、必然的に宗主は、子孫や親族たちの後継者争いになり、それはそれぞれが当時の有力諸候と癒着した生臭いものになる。(親鸞自身は、まさに「異説を広めた帳本人」として長男を廃嫡するしかなかった)。

 それは、時代を下るにつれて、時の権力者をも脅かす政治勢力としての性格を強めるしかなくなった。「浄土真宗」と「浄土宗」の分化は完全に歴史の産物なのである。親鸞自身が独立した宗主を自認する発言は全くしていない。親鸞の墓所が正式に本願寺として成立するまで数代、本願寺が独立宗派の総本山と自他共に幅広く認められる存在になるのは、革命的布教者で、かの「石山本願寺」を建てた8代めの蓮如の代である。この連如ですら一度は焼き討ちにあい,各地を転々としている。「本願寺」そのものが、数回場所を変えて建立されるしかなかった。秀吉に京都に本願寺を移すように命じられ、跡地に大阪城作られてしまい、更には家康にそそのかされて東本願寺が分離独立した時点で、浄土真宗は、大勢力ではありつつも、政治家に屈服してしまうのである。

 話を遡ると、3代めの覚如は、教団の維持に都合の悪いところは無視して、でも「歎異抄」をもろに剽窃して、自分の書いた「口伝抄(親鸞から、2代めの如信に口伝されたものを『如信から』3代めの自分に口伝されたものの抄録)」として公式に示すことにより、女系の曾孫という、血縁的には遠い自分こそが親鸞の後継者という位置づけを強化したのだろうと梅原氏は推測している。

 結果的に、単なる無名の地方の僧侶だった唯円が著者だということそのものが歴史に直接は残らなかった。幸い、本山に「お蔵入り」はされていて、唯円という僧についての他の行跡の断片的記録を照合すると、「点と線」は見事につながり、著者唯円が、親鸞自身から聴いたことを書き留めたのは間違いないことは,学界でも宗学の上でも『今は』ほぼ定説化している。

 少なくとも、新約聖書の4大福音書の成立(2世紀ぐらい)までに比べたら、直弟子だった人物のまとまった唯一の記録として、親鸞の生の発言が忠実に反映されている度合いが格段に高いとされている。

 しかし、この書の存在は長い間知られず、学問的・教学的吟味がはじまったのは、江戸時代中期、本居宣長らによって古事記をはじめとする古い文献への文献学的再吟味が始まった潮流に乗って以降である。この時点で著者唯円説を説得力ある形で唱えた学僧ははいたが、あまり問題にされなかったようである。

 この書を有名にしたのは、明治時代になってから、清沢満之とその門弟たち(金子大栄はそのひとり)が真宗改革運動の乗り出す際にこの著作を重視してからであり、それまでは、そもそも「布教に使われることのないまま」埋もれていた。その内容が、基本的に教祖の親鸞自身が「教団」というシステムそのものを否定する、激越な内容を含んでいたためである。

 要するに、親鸞が若い熱心な弟子に向かって、問わず語りに、おそらくかなりくつろいだ気分で、ざっくばらんに繰り返し語った「ホンネ」集みたいなもの。

 鎌倉時代の、しかもかなり口語的にくだけた文語なので、少なくとも源氏物語を読もうとするのに比べれば(徒然草よりもだと思う)、古文に普段なじんでいなかった人でも、そんなに多くはない独特の仏教用語そのものすら前後の脈絡から何となく推理でき、現代語訳で解説的に「翻訳」されてしまうと失われる「泥臭いまでに生身の人間の匂いがする」味わいがダイレクトに堪能できるのではないかと思います。

 何しろ、私がはじめて「読破」した仏教についての単著がいきなりこの原典、というくらいです。

 岩波の金子大栄氏校注(現代語への非常に解説的な意訳付き)で、昔でいう★の厚さにしかならないもので、原文だけならほんの20ページで終わってしまうでしょう。

****

 私が妄想した、ある光景。

「だってさあ、そうだろ、お前。わかるかあ? 阿弥陀様は、こんな俺のことだけを思って救って下さろうとしたのではないか、とすら感じた気持ち。これって、一見傲慢だろうけどさ、自分が本当に救われた、それは私の意志やがんばりなんかではなくて、師匠の法然様が救ってくださったのですらなくて、本当に、人間の思慮分別を超えた阿弥陀様というものがおられて、何でかわからんけど私なんぞを「救って下さった」というしかない、って。自分を超えた「何か」の「はからい」がないとこうなるわけない!! と心底感じたから、阿弥陀様に念仏を唱えずにいられないわけだよ。」

「俺は「弟子」なんてひとりも持った覚えはないから。俺の教科書をありがたがって知識として「勉強する」だけの奴らなんて何もわかってないの!! ホントぞっとするね(きはめて荒涼のことなり)。そうやってただの生身の人間であるに過ぎない私を崇拝する奴らなんて!! 俺をありがたがるなよ!! 凄いのは阿弥陀様であって俺ではない。俺であってはならないわけ!!」

「 そして、信者たちにありがたがられて、まるで自分が救い主みたいな自己陶酔するなっつーの!! そういうのが俺の高弟でごさい、みたいな態度取ってると虫酸が走るよ。救ってくださるのは阿弥陀様であって、連中が、努力や修行を積んでいけば人々を「救える」ようになりたいと「願う」ことのがそもそも傲慢だよ。どこまでいっても人間はこの世では煩悩から抜け出せないよ。阿弥陀様だけが、俺たちを含む人間の救済を本当に「願う」(本願)力を持っている。「祈って」待つしかないんだ。阿弥陀様の慈悲がその人をお救いになることを。人が人を救える、自分もそういう人間に修行を積めばなれる、なんて発想そのものが、そもそも不届きで傲慢で「煩悩そのもの」なんだよ」

「そういう人間は、自分は徳を積んだ善人だと確信犯してるからいよいよどうにもならん。俺はいろんな欲や感情にとらわれ、悪いことをして生きていくしかない、そのことへの自嘲と絶望を密かに感じている人間の方が、本当に人を超えた何かに救われたいという思いに近いとすら思うね。阿弥陀様もえらいモンだよ。そういう「独善的」エゴイズムにとらわれた人間すら念仏「させてくださって」救ってくださろうっていうんだから(「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」・・・・いわゆる「悪人正機」説

「......もっとも、逆に、どんな悪いことをしても、色と欲に開き直っても、阿弥陀様は念仏しさえすれば救ってくださると開き直る連中も、逆方向にどんでもない勘違いしている。念仏ってのはさ、実は自分の意志で「する」か「しない」か自由に決められるものだと思ってるだろ、そいつら。念仏「できる」ことのものが、阿弥陀様の慈悲あってのものだっていう、肝心なことに気がついてない」

「.......え? 『念仏していても全然幸せな気持ちになれないし、そもそも極楽浄土って、そんなにいい場所なんでしょうか?』って? .........正直な奴よのう、お前。......実は、わしもそう思う時がある(爆)。でも、そうやって煩悩や迷妄にとらわれる存在でしかないからこそ、救っていただけるありがたみがあるんじゃないかの? 念仏するかしないかは、勝手にすればあ? としか思ってないんだけどね。」

「....実は、俺すら、この程度の人間だから、阿弥陀様がまっすぐ極楽に連れて行ってくれる保証はないと思うね。すべては阿弥陀様の手の内にありだし、どうみても、一度は地獄行きでもしかたない程度のものだと思うし。でも、そうなっても先生の法然様が俺をたぶらかしたなんて、師のせいにして一切恨まないからね。すべては阿弥陀様の手の内にある、その慈悲にすがるしかないってのは、俺の人生かけて悔いはない帰結なんだからから」

*****

 「歎異抄」とは、自分本来の教えの意図がが右にも左にも誤解されて『異』なった姿で論じられるようになったことへの師の『嘆(なげ)き』に共鳴した弟子が、師に繰り返し言われたことの核心を要約してまとめ(『抄』録し)、後続の章で、唯円自身による解説を付記した書物なのである。

 ここからは、現段階での私の想像です。

 どうも身近な弟子たちは私に媚びてるので信頼ならない。でもはるばる関東の地からやってきたこいつ(唯円)なら、情熱はあるけど頭でっかちではなくて全然スレてない。「浄土ってそんなにすばらしいところか信じられない時もあるんですけど」、とか、無礼な質問すら平気でしてくる誠実さを持っている、こいつなら気を許せる、と見込まれてしまって、飲み屋での老人の繰り言のように、熱弁をふるい出す師の話に「繰り返しつきあわされる」みたいな状態だった唯円。

 京都滞在時代の若い頃を思い返すうちに、いよいよ混迷し、政治にも巻き込まれて変節していく教団のありようと引き比べるうちに、師の語った「逆説の山」の真意をいよいよ悟っていった。

 親鸞の直接の教えを受けた人たちがみるみる世を去り、直弟子唯一の生き残りとなったところに、関東の外れに「無名だが、直弟子がまだひとりだけ存命」と知った京都の本山からお呼びがかかったが、あまりに過激なその内容に、唯円が精魂込めて書いた持ってきたテキストは、あっさり「お蔵入り」となってしまった。

*****

 「他力本願」というのは、実はカウンセラーに必要な究極の姿勢ではないかと思う。

 カウンセラーは、自分が修行を積めば人を「救える」ようになるなどとうぬぼれてはならない。「願って」もならない。

 ましてや、自分の流派が優れているとか、自分こそが真の弟子だとか論争するのは、恐らくカウンセリングを受けるクライエントさんにすら有害な、もっての他である。
 
 実は相手が以前よりいい状態になることを『願う』ことののものが、カウンセラーの煩悩であって、身勝手なのではないか。

 我が身を振り返ってみろ。そんなに幸せか? そんなにものごとをうまくやれているか? 時には色んな欲や感情に振り回され、ごまかしをし、先生や先輩として慕われることにいい気になり、逆に先達の機嫌を損ねないために媚びへつらい、自分の業績へのこだわりから他人を批判する。身近な人たちを傷つけ、失望させ、他人の命をむしり取るようにして生きている、いつまでたってもそんな人間ではないか。

 ******

 私は、自分が現場カウンセラーが「天職」な人間などとはほとんど思っていません。でも、それは周囲と比較してのの劣等感とか、そんなものでもないのです。むしろ、少し前まで思っていたより、カウンセラーの実力差など、実は「ない」のではないかとすら感じ始めています。

 私は、なぜか、フォーカシングとの出会いから一貫して、ジェンドリン自身すら含めて、フォーカシングの世界の中で、特定の誰かを「師」と感じたことがない、というあたりはこのブログでも平然とボロボロ書いてきました。ジェンドリンの理論が、心理療法の世界のアインシュタインと言いたいくらいの「コペルニクス的展開」を秘めたものであるということは確信してますが。

 そして、「私はそれを確信している」と言っておきながら、それを積極的に宣伝することにはあんまり興味がないようである。親鸞が法隆寺六角堂で阿弥陀様から受けた啓示と同じようにして、フォーカシングと出会ったという意識しかないから、「特に臨床家のみなさんがピンとこないことが『わからない』ともいえるし、『仕方がない』とも思っている」と開き直るところがある。

 (もっとも、これは、フォーカシングについて「実体験がないままの人に、実体験がないまま『理解」』してもらおうという意識がとことん欠けている」ということです。もとより、実際に実習してみようとおいでになった個々の皆様に対してとなると、個々のフォーカサーの方のペースに寄り添おうと努めるトレーナーであろうと務めています。フォーカサーの「お口に合う」、「一品料理」としてのフォーカシング体験になるように最大限の配慮をします。消化不良にもならないように。この点は、こちらで書いた通りです)

 フォーカシングとは、フェルトセンスを感じてみるという、ただそれだけのことで、しかもフェルトセンスはすでにそこにあって、こっちに気づいてもらいたがっているものであることは、ジェンドリンの本を最初にめくった瞬間から自明のものだった。ジェンドリンはそれに言葉を与え、「自覚させて」くれただけの存在なのだ。フェルトセンスに「どのくらい」従って「いない」かだけは、どんな瞬間にも実は感じて「いた」としかいいようがない。

 アンはすばらしい「先達」だし,わかりやすくツボを押さえて技法化する上でのセンスは圧倒的だし、個人的にも全然構えずに気持ちが通じやすい人だと感じてますが、いわば「タメ口安心してたたける先輩」みたいな意識です。

 そして、村瀬孝雄先生は、そういうどこの馬の骨ともわからない私を引き立ててくださった。村瀬先生との出会いなしでは、今日の私はありません。でもそれは、何と村瀬先生が、ひたすら私の聴き役をして下さるという、驚くべき謙虚さをお持ちだったからに他なりません。

 もちろん、今でも、個々の点で、その人を「見くびっていた」な、この人はこの人なりに、私にはない持ち味があると感じて自分の傲慢さを恥じることはしょっちゅうですが。

 そして、フォーカシングとの出会いを、ほとんど運命的な「神からの恩寵」と感じていることは繰り返し書いてきました。それこそ、「私を」癒すために、フォーカシングという技法が生まれ、遣わされたのだとすら思っているところが確かにある(^^;)。

 もとよりこれは、各人が、各人なりに、フォーカシングとの出会いをそれくらいに「私的な」邂逅(かいこう)として体験できることを信じたいからこそ、おおっぴらにいうことなのです。

 いずれにしても、私は、この世の誰の影響の元にフォーカシングに導かれたのでもない、という事実は変えようもない。

 でも、フォーカシングというものそのものが、自分のコントロールを超えた何かだと感じているのですね。

 どうして、「あの時」ではなく「この時」フェルトセンスに改めてじっくり注意を向けようという気に「なれた」のか???

******

 「クライエントさんは、自分の力で治っていく」という言い方も、結局行きすぎだと思います。

 なぜかしらんけど、そのひとの「状況」が味方をし始めた、としかいえないことって、多い気がして。

 そこまで、クライエントさんを何とかしようという「悪魔の誘惑」にも負けてしまわず、クライエントさんに何も変わらないという絶望を感じさせ、クライエントさんに見捨てられたと感じる無力感からも目をそらさず、「なぜか」関係が維持されていることそのものに感謝を覚えなから、何か活路が生じることを「祈る」ことしかできない。

 ちょっと、カウンセラーを「変えよう」と力んでいた私が恥ずかしくもなっています。

 出口は、常に「向こうから」やってくる。

 そう感じている人だけが、技法に「使われる」ことなく、技法を「なぜか無理なく有効に使えてしまう」ようにも思います。

*****

 ともかく、たまたま浄土真宗の家に生まれたことも、何かの巡り合わせかなと思いました。

 梅原猛先生の訳注の、はるかに分厚い「歎異抄」を読みました。すでに更なる読み返しの最中です。梅原先生の本を読むことすら初めてのこの私(^^;)

 金子大栄氏の岩波版は、現代語訳が親切に「意訳」しすぎて、逆に原文の生々しさが薄れて、洗練され過ぎている気がしましたが、梅原先生の現代語訳は、より逐語的でありつつも、平易で、原文の情熱が伝わる訳と感じました。もうちょっと下品でもいいかなとは個人的には思いますけど。解説は、ちょっと親切すぎるくらいだけど、歴史考証も含めて、たいへん読み応えがあります。

追記:私って、やはり、法然(村瀬先生)にとっての親鸞であり、まさにフォーカシング界の「歎異抄」(のもとに未来になる予定の「雑記帳」)を、ここで必死に書いて来たんだと思います。

2006/11/29

また「本部」トップページ等のアップミス、失礼しましたm(_ _)m

FTP操作の際に、個人サイトと職場サイトで画像を共有しようと、2つのサイトで「越境クロスさせてアップさせた際にミスするケースなんですよね。お見苦しいところをお見せいたしましたm(_ _)m

相談室'06-'07冬シーズンの花

Cyclamen

 いうまでもなく、cyclamen(シクラメン)です。

 室内のあまり暖かい場所に置くべきではないということはよく知られているかと思います。例えば玄関とか。

 私の場合、控えめなオイルヒーター暖房が好きですから、この点ではクリア。


 あと、例によって花屋さんから直接伺った注意点:

1..この写真のような、葉っぱが密生して茂って生えてるのが長持ちする。
2..基本的にたっぷりとした水分と、湿気が好きな花である。鉢の中に自動的に水を吸い上げる仕掛けがあるもの(鉢の側面に半円の水の注ぎ口があるの)がベター。
3.直射日光は大の苦手である。
4.花や葉っぱがダラーッと広がってしまった時は、水のやり過ぎではなく、たいてい、日の光に当たりすぎたか、部屋が乾燥しすぎて水分が不十分になった場合である。花や葉への直接の霧吹きはいいことだし、濡れた新聞紙で包んで覆ってしまい、一晩置いておくと復活する。
5.枯れた花や葉の茎は、中途で折るのではなく、ひねるように回して、根っこから抜いてしまうように処理すること。茎を中途で折ってしまうと、その中で殺菌が増殖して全体を枯らす場合もあり。
6.いい鉢植え製品であれば、上記のこまめな対応により、土の中に仕込んである固形肥料だけで、5月ぐらいまで持つ場合がある。追肥や植え替えの必要ない

......とのことです(^^)

エネルギー節約についての会議中に停電、暗闇の中でも議論

何かこういう記事が好きなので思わず紹介してしまいました(^^;)

ニフティクリップというものについては、興味が出てきたので、今度設定してみようかな?

フォーカシングの名トレーナー、アン・ワイザーさんもご愛用の第5世代iPod

 島根でのフォーカサーの集いで、アン先生と親しい、ある日本の代表的なフォーカシングの先生からうかがったお話です。

 話の内容から見て、映画も見れる第5世代iPodであることは間違いありませんでした(私もまだ持ってません)。

 写真をたくさん入れて、持ち歩いておられるそうです。

 日本人は、プライベート・フォトを持ち歩いて人に見せてまわることに抵抗感が強い人もあるかもしれませんが、それもコミュニケーションのきっかけだと思いますよ。それをケータイではなくてiPodでやるのも、おしゃれなスタイルかも(^^) 
Apple Store(Japan)

2006/11/28

カウンセラーとしてしか生きられないからカウンセラーをしているだけ?

 確か中井久夫先生がどの著作かでお書きになっていたことなのですが、

 「他科の医者から精神科に転じた医者というのはたいへん多い。しかし、精神科から他科に転じた医者というのはほとんどいない」

 私はこの言葉がずっと気になっていました。

 「他の職種の社会人経験を経てカウンセラーになった人は実に多い。しかし、カウンセラーを捨てて他の職種の社会人になったという人の話は滅多に聞かない」

 というのも真実な気がして。

*****

 文筆業を別にすれば、「精神科医」としての経歴もあって、他の業界でも成功した人、というのは、世界的に見ても、滅多に聞かない気がします。

 既に亡くなった指揮者のジュゼッペ・シノーポリも、精神医学を学んだ経歴はありますが、現実の臨床現場に出た経験がある、という叙述を少なくとも私は知りません。博士の学位をいくつもの分野で取ることそのものは、ヨーロッパのインテリではありふれたことですから。カール・ベームも「法学博士」だったと思いますし。

*****

 精神科医が医者全体の中で占める比率は、人数的にはたいへん少ないと聞いたことがあります。しかも、欧米の方が必ずしも精神科医のシェアが高いというわけでもないとすら。

 カウンセラーは、精神科医よりはるかに新興のprofessionです。もともとカウンセラーの実人数が人口比的に少ないから、「カウンセラー出身」の他業種でもひとかどの人材になった人のことが話題にならないだけかもしれません。臨床心理士ですら確かまだ1万数千人ですから。

 少なくとも、「人生の達人だから」カウンセラーになるわけではない。

 それなら、当然のごとく、カウンセラーを廃業して他分野で成功して有名になる人がもっと出てきてもいいはずと思います。(繰り返しますが、著述業は除きます)

 カウンセラーとしての有能性が、その人の社会人としての適応の良さを前提としないことは確かです。

 もとより、どんな分野でも、自分の専門を離れたら、生きる術をまるで見失う人は多いと思いますので、ことカウンセラーが特別ではないとも言えるでしょう。

 でも、「大学の先生」でも「著述業」でもない形で、そして単に現場臨床への挫折感を体験して他業種に転じるのでもない形で、「カウンセラー時代」を人生のひとつのステップとして、広い意味での「援助職」以外の別な領域で生きるようになったことに自負を感じている人(有名である必要はないです)に、実際に巡り会って、お話をうかがってみたいと感じている私がいるのも確かです。

 できれば、自分もそうなりたいと、私は今でも思っているのかもしれない。

 向こう10年は、「一介の現場カウンセラー」として、どこまでやれるのか試してみたいのですが。

 45歳になり、人が一生にできることは、たいへん限られたことだと実感を持って感じつつも。

 でも、ユングが「人生の後半からが真の個性化だ」、といったことも真実かな? とも、最近感じます。

 このブログをずっとお読みの皆様からすれば、とっくに「個性的な」カウンセラーだろうって?

 でも、ユングのいう「個性化」とは、いわゆる「個性的」ということとは見かけは正反対ですらある、「何か」だと思います(^^)

自殺防止運動は誰のため?

 私は、最近のいじめと自殺に関するコメントを慎重に控えていました。


 「もし、あなたの周囲の誰かに自殺されたら、あなたはどう感じますか」

 特に教育者や、カウンセラーなどの援助職、職場の上司といった立場に立つ人は、このことをまずは虚心に「感じて」みることからスタートすることをお薦めします。

 「面倒なことをやらかしてくれた」
 「これで自分はそのことの責任を追及されるのではないか」
 「学校や職場の評判が落ちてしまう」

.....などという形で、
自殺したを、

   「責めたくなり」、
   「憎み」、
   「恨みたくなる」

自分「も」いるかもしれない。

 こうした心情が「自分にも」生じる可能性があることをまずは自分で生々しく「認めることができる」こと、これこそが真の出発点ではないか?

 さもなければ、「自殺防止運動」は、自殺される側の「保身のための」エゴイズムという側面を「暗々裏に」抱え込んでしまいます。

 こうなった時、「問題行動」をおこす人という点では、「自殺する人」も「いじめをする人」も、「困った人」という点では同次元になってしまうのですね。


  「自殺撲滅キャンペーン」という言葉は、さすがに使われることはありません。

 でも、「いじめ撲滅キャンペーン」という言葉も、どんなものでしょうか?

 
 ......以上、ひとつの「逆説」として。

2006/11/27

先週の人気記事ベスト20!!(11/19-25)

 島根からスーパーはくとで(誤字にあらず)もどってきたばかりのこういちろうです。きちんと「倉吉から」「京都まで」乗る律儀さでした。ディーゼル特急が、曲線の多い線路をあそこまで高速ですっ飛ばすのを、視野の広いフロントガラスの先頭車両で堪能するのはやはり快感である。これを可能とするのは「振り子式」だからこそなことなのだが)。

 一日遅れですが、 恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「先週」記事別アクセス解析機能を使っての「ベスト20」の発表20回めです(^^)

 固定リンクでのアクセス率の順位のみから集計しています。
 7×24時間、つまり11/26日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,468(前回1,365)。(一日平均209.71アクセス。前回195.00)。久しぶりに平均200アクセス回復です。

 訪問者実数が、1,176名様(前回874名様)と,これも大きく回復。

 「サイト内移動」、196(31.2%)の前回に対して今回286(39.8%)、トップページへの外部からのアクセス、前回232(36.9%)に対して今回284(39.6%)と、パーセンテージも数字もかなりの伸び。

 .....当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、前回7.8%に対して今回も7.9%と、2回連続アップ。

 記事そのものは少ない週なのですが、恐らく、「父親たちの星条旗」への感想アップ後にアクセスに勢いがついたのは確かです。

 「訪問周期」では、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回10名様、今回9名様。

 一番多い訪問頻度は、「32日に一度」で38名様、2位が「38日に一度」で32名様、です。以前訪問して下さった皆様が久しぶりに再来下さったということでしょうか?

 それでは記事別ランキングの方の発表!!


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1.オイルヒーターの暖房の自然さ (→) 5週連続  3週連続1位

2.インシュレーターは使わないに越したことはない(↑) 13週連続

3.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↑)14週連続

4.「オイルヒーター」カテゴリーへの直接リンク (↑) 4週連続

5.戦争には、「犠牲者」しかいない(「父親たちの星条旗」)。 NEW!

6.身体の中のneutralな感じの部分を大切にするとフォーカシングは楽に進むことが少なくない -フォーカシングのコツシリーズ 1- (↓)

7.「死にたい」と言ってもらえること(↓) 19週連続

8. iPod向けヘッドフォン・イヤフォン・小型スピーカーの記事index COME BACK!!

9.オーディオにおける接点復活剤について (↑)6週連続

10.カウンセラーの実践的禁句集 その3 (↑)

11.「すきま暖房」という新発想(↑)

12.先週の人気記事ベスト30スペシャル!!

13.フォーカシングにおける「身体の感じ」とは何か (圏外より↑)

14.ヘッドフォンと共に過ごした「安息日」 (→)

15.フォーカサーの集いを前に NEW!

16.私のピュアオーディオシステム(そこに更にiPodをどう繋ぐか) COME BACK!!

17.やはり、耳栓型イヤフォンの名機、SHURE E5cについて書きます(圏外より↑)

18.「症状」こそ「自然治癒」の働き、という場合もある。 COME BACK!!

19.ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史)(↑) 6週連続

20.浜崎あゆみ用ヘッドフォン(?) (圏外より↑)


*****

 何かまたもやオーディオ・サイト性が強くなりましたね(^^;)

 ちなみに、今週はちゃんとayuのことを幾つか書きます!!

 (ちなみに、今年のカウントダウンライブ、行きます!! 1年で3回の生ayuになってしまう.....)

 カウンセリング論の重厚(?)な新作も構想中。

 「歎異抄」論も予定に入ってます。

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 ちなみに、これを書いている「今、この瞬間」(11/27 PM 22:28)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、 112439、フォトアルバムを含めると130547です。


 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。

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島根の足立美術館の紅葉は今が「絶景」です!!

 島根県安来市にある足立美術館を本日訪問させていただきました。

 足立美術館は、館内の日本画を中心とするコレクションと、背景の山々すら見事な借景とした,広大な日本庭園の、四季それぞれの美しさを「交互に」自然と味わえる、絶妙のコンセプトの作りの美術館です。

 この庭園の紅葉が今、恐らく今(2006/11/26)、「絶景」といっていい美しさです。
 紅葉(もみじ)の木の一本一本の色合いが絶妙なバランスを醸し出すように最初から設計されているのでしょうね。この紅葉そのものが自然と一体になった見事な「アート」です。

 お見逃しなく!!

 携帯の写真では、とてもその繊細な風情がお伝えできないのが残念ですが。

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2006/11/25

速報!! 2009年5月、フォーカシング国際会議、日本の淡路島で開催決定!!(第3版)

 フォーカシング国際会議が、2009年5月12日(火)から5月16日(土)にかけて、5日間、日本で開催されることになりました。

●公式サイト

 場所は、兵庫県淡路島の北端、明石大橋を渡って十数分の、「淡路夢舞台」にある、淡路島Westin、そしてこのホテルと直接つながった、兵庫県立国際会議場(Wikipediaはこちら)です。

 海を眺望できる、自然に包まれた北淡路の高台にありながらも、日本とは思えない、すべてが完全に「外国人向け高級仕様」の超ゴージャスな外資系リゾートホテルと、これまた窓からの眺望のいい分科会用の小会議室をたくさん備えた国際会議場での体験は、日本に居ながらにして外国旅行の気分も味わえる素晴らしい会場です。

 (団体割引が適用されますので、一泊あたりの食事込み宿泊料金そのものは、施設の「超」ゴージャスさからすれば「予想外なまでに」リーズナブルとなります)。

 茶室や植物園も隣接していますし、京都のお寺とをバスで往復しながらのレクチャー付きの、移動形式の、東洋と西洋のスピリチュアリティの出会いの参加企画などもすでに有力な構想に浮上しています。

 神戸方面からの公共交通の便も、バスが10-20分に1本という、至便の地です。

 主催:フォーカシング国際大会実行委員会(会長:池見陽)
 後援:日本フォーカシング協会(次期会長:吉良安之)
    The Focusing Institute日本コーディーネータ−会

 参加資格は特にありません。フォーカシングに関心のある世界中の皆様に開かれた催しです。

 「会議」と銘打ってはおりますが、単なる国際学会大会というより、むしろ「全世界のフォーカシングに関心を持つ人たちの、年に1度の交流の集い、お祭り」というべきものです。

 これまでも、すでに年一度、18回にわたり、各国のThe Focusing Instituteのコーディネータ有志を主催者とする形で、それぞれの持ち味を生かしながら、北米(アメリカ/カナダの各地域)、西欧各国(イギリス・アイルランド・ドイツ・オランダなど)、中南米(コスタリカ)で開催されて来ました。

 来年、2007年はイスラエル、2008年はカナダのモントリオールでの開催がすでに予定されています。

 学術研究発表というよりは、自由に参加できるさまざまな20近い分科会やパーティー、オプショナルツアーなどを包含する、宿泊形式の数日かけての体験中心複合ワークショップとイメージしていただくといいかと思います。

 フォーカシング体験がない人ですら全く違和感なく参加でき、なおかつ世界各地のフォーカシングの各領域の「最先端」のディープさも体験可能という、何とも懐の広いプログラムとなっています。

 現場心理臨床のみならず、さまさまな経歴を持つ人たちが、各国のさまざまな状況下での教育現場、宗教、開発途上国への支援活動、芸術、民族問題、差別や貧困の問題、国際平和活動、哲学、東洋思想など、独自の観点からアプローチして、フォーカシングを活用しようと情熱を傾ける人たちかいるのだという、それらの方々の生き様とプレゼンス(ひとりの人間としての存在感)に触れるだけでも刺激的な体験です。フォーカシングについての既成概念を覆すさまざまな「発見」と「出会い」に満ちあふれたものになるでしょう。

 そして,世界のフォーカシング関係者は、世界有数のフォーカシング大国になりつつある「日本では」フォーカシングがどのような広がりと展開を見せつつあるのかに、たいへんな関心を抱いています。日本の草の根のフォーカシング・ピープルたちからむしろ啓発される、刺激的な出会いを待ち望んでいます。

 日本各地のフォーカシング関係者からの、自発的な分科会「開催」申し込みも幅広く受け付けます

 すでに来日してワークショップを実施してきたトレーナーの先生方のみならず、「日本では」まだあまり知られていない、欧米(ギリシャ含む)や中南米、イスラエルの、さまさまなジャンルにおけるフォーカシングの実践家や愛好者、数十名以上が来日して下さるものと思います。

 日本からの一般参加者も、流派や経験、専門家であるか否かを問わず、幅広く歓迎し、総参加者200名ほどとなるものと思われます。

 使用言語は日本語と英語を予定しています。

 なお、特に日本では5日間連続で、普段の仕事を休んで、宿泊形式のワークショップに参加するとなると二の足を踏む皆様が少なくないかと思いますが、日程の部分参加も歓迎できる方向で検討中です。

******

 ここ数年、日本からも毎年数名から十数名の参加者が各国での国際会議に参加して来ましたが、ついに3年後日本ではじめて開催することとなり、本日まで開催されておりました「フォーカサーの集い in 島根」で、正式に、有志による実行委員会の発足が決まりました。

 このような大規模な催しですので、国際会議の具体がどのようなものになり、プログラムの具体や参加参加申し込みのシステムなどもこれから検討されて、徐々に具体化されて行きます。

 いずれこの大会のための日本語版・英語版の公式サイトも立ち上げられる予定です。ネット上でのそうした動きが進みましたら、この場でもお知らせいたします。

 (私もすでに実行委員のひとりではありますが、今後は、具体的な開催内容についての情報は、公式サイトに譲りたいと思います。「こんなことも既に公式サイトで正式公表されました」ということをは、折々こちらのブログでも「私的に」お伝えするかと思いますが)

 具体的なお問い合わせは、日本大会公式サイトが立ち上がってから、公式サイト経由でお願い申し上げます。


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 ちなみに、当ブログの1年少し前のフォトアルバム、「淡路島縦断の旅」は、実は、大会参加経験がある関東のTFIコーディネーターとして、「会場候補地」を、他のコーディネータの皆様の了解の元に「お忍び視察」(?)させていただいた時のものだったのですね(^^)。実は、この時に、すでに営業の方に会議場を含めた「全施設」を見せていただいていました。

 つまり、すでに2年以上にわたり、日本のコーディネーター会で、2009年のフォーカシング国際会議誘致については検討を重ねて来て、やっと本日から、「国際会議開催」と参加への呼びかけを広めることが可能にになりました(^^)。

 まもなく、このフォトアルバムは「フォーカシング国際会議開催予定地はこんなところ」みたいなタイトルで、分割・再構成いたします(注:あくまでもプライベートな紹介記事です)

 私が参加した、2005年のトロントでの国際会議の写真集「トロントだより」こちら。フォーカシング国際会議が堅苦しくない、ユーモアに満ちた催しなのは、この写真集からも汲んでだいただけるものと思います。


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追伸:

「フォーカサーの集いin 島根」に参加された皆様、またの出会いを楽しみにしております。

 土江正司さんをはじめとする、島根の「集い」を企画・運営して下さった皆様、盛りだくさんの楽しい日々、ありがとうございました。お疲れさまです。

 明日(26日)は、これらの島根のスタッフの皆様が企画して下さった、出雲の神話の里をめぐるオプショナルツアーに参加します。


           松江より こういちろう

2006/11/20

フォーカサーの集いを前に

 フォーカシングのコミュニティというのは、実体験がある方に限定すると、せいぜい今日本で2000名くらいのコミュニティです。ある意味では凄く狭い世界なんですよね。

 なのに、その中でコーディネーターという、日本で12,3名しかいない「資格認定資格者」のひとりが、フォーカシングについての批判を、しばしばかなり厳しいタッチで書き続けてきた。このこと自体、日本のフォーカシングのイメージダウンになりはしまいかという思いを私は一方で忘れていたわけではありません。

 ただ、私は、「フォーカシングってこんなに素晴らしいんですよ」とばかり書くことはどうしてもできませんでした。すでにフォーカシングを学んできた方、あるいは1回でもワークショップやセミナーに出た方の感じた「物足りなさ」だとか、「違和感」に訴える形で、

 「でも、それは実はあと一歩踏み込んでいないからだけなんです。フォーカシングの可能性はまだまだ未開拓なだけだ。ほんとうはもっともっと凄い可能性があるのだから、フォーカシングにもっと目を向けて欲しい」

.....という思いの方が本当は強いのです。

 別にそれが私個人の力だけでできることなどとは全く思ってもいません。そして、単に私のカウンセリングルームを繁盛させるために、「差別化」をはかるといいますか、他のフォーカシング関係者を貶めようなどという狭い了見はないつもりです。

 それぞれの形で、個別指導、ワークショップ、あるいはパートナーシップ、ゼミ等の実習の形を通して、フォーカシングの研鑽を積もうとしている皆様が、それぞれの形で試行錯誤と研鑽を積まれ、手応えを徐々に高めておられるものと推察いたしますし、それがその個人や団体にとって充実したものになっていくことをお祈りこそすれ、
何も干渉するつもりもありません。詳しくうかがえば、私も感嘆する、とても私の今の力では届かない実践をされている方も必ずたくさんあると思います。

 (私って、自分だとできない、と感じてしまうと、あっさりとその人を絶賛したくなるタイプです)

 明治学院学生相談センターで常勤をした5年間は、今にして思えば、学生相談の領域でも最もシビアな次元での私の経験値を高めてくれていた場だったつくづく思います。在籍中は消化できなかった事柄すら、どのくらいその後の私にとって支えとなる宝だったかとあとでしみじみ思いました。

 あの5年間がなければ、開業しようなどという発想はそもそも出てきていないでしょう。

でも、フォーカシング指導における私の本領は、今のところ個別指導にあるという思いは強いですし、

フォーカシングの可能性について、一フォーカサーとしての私にとっても、フォーカシング界への貢献の上でも、のびのびと自分の信ずる方向に試行錯誤し、模索し続ける「自由」を失いたくない私はいます。

 フォーカサーも、トレーナーも、単なる輸入文化に留まることなく、独自の問題意識でフォーカシングの可能性を開いていく必要は、日本のフォーカシング関係者の皆様もすでに実感しておられ、私が知らないだけで、さまざまな研鑽を積まれていることと思います。

 私自身、さまざまな現実に直面する中で、自分のフォーカシングの限界と無力をしみじみ味わいました。カウンセラーとしても。一個人としても。

 そういう「もだえ苦しみ」の中から出た発言で、「許せない!!」とか、傷ついた方がおられれば、どうかお許し下さい。数年後になったら、私は何と「青かった」と思いそうな予感もしています。

 ただ、私、「これはフォーカシングについての話し合いの場だから」という言い方がなされる時、いつもつまづきました。なぜなら、フォーカシングは、狭い意味でのカウンセリングや心理療法に限定されない、生活すべてに密着したものだと信じていましたから。

 「フォーカシングについての『話』」とは、実は、世間のどの領域にもある、制度や、資格や、システムについての話に過ぎない気がしていましたから。

 「フォーカシングは『する』ものであって、『論じる』ものではない」。

その単純な原点に返る必要を感じます。
 
 恐らく今、必要なのは、ホンネの対話なのだと思います。正確に言うと、自分にとってのフォーカシングについてフォーカシングを重ね合いながらの対話。

*****

 近づきました、「フォーカサーの集い」が、フォーカシングの世界に新鮮でオープンな風とスペースを日本のフォーカシングを愛好する皆様に呼び込むことを祈りつつ。

 恐らくその場で現実の私とはじめてお会いになる方もあるかもしれませんが、こ、怖がらないでくださいね!! 私は今、怖がられるのが一番怖い!!

2006/11/19

先週の人気記事ベスト30スペシャル!!(11/12-18)

恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「先週」記事別アクセス解析機能を使っての記事別アクセスランキングの発表19回めです(^^)

 今回は、日本フォーカシング協会「メンバーの集い」(島根県松江市)直前のため、今週今後記事をほとんど書かない可能性があります。そこで大サービス(というより大ズル?)として、初の週間ベスト30公開とします(^^;)

 だんだん発表日時が遅れてきました。自分の生活のリズムに日曜零時過ぎに無理をすることが合わなくなってきたようです。でもそれは昼間、それだけ、健全で充実感を感じる日々が増えてきたことの裏返しでもあります。どうかお許し下さい。m(_ _)m、

 固定リンクでのアクセス率の順位のみから集計しています。
 7×24時間、つまり11/18日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,365(前回1,345)。(一日平均195.00アクセス。前回192.14)

 訪問者実数が、874名様(前回806名様)。

若干全体として持ち直しました(^^)

 「サイト内移動」、294(39.4%)の前回に対して今回196(31.2%)、トップページへの外部からのアクセス、前回215(29,2%)に対して今回232(36.9%)。

 .....当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、前回7.6%に対して今回も7.8%と、積分的数値でなかなか動かないこの数字にも回復傾向があります。

 「訪問周期」では、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回10名様、今回9名様。
 一番多い訪問頻度は、「28日に一度」で35名様、2位が「34日に一度」で26名様、3位が「18日に一度」「24日に一度」「25日に一度」の、各24名様です。


 それでは記事別ランキングの方の発表!!


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1.オイルヒーターの暖房の自然さ (→) 4週連続

2.身体の中のneutralな感じの部分を大切にするとフォーカシングは楽に進むことが少なくない -フォーカシングのコツシリーズ 1- NEW!

3.インシュレーターは使わないに越したことはない(→) 12週連続

4.フォーカシングへの誤解を解く その1 (↑↑)

5.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↓)13週連続

6.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~(→) 5週連続

7.「オイルヒーター」カテゴリーへの直接リンク (↑) 3週連続

8.フォーカシングへの誤解を解く(?) その2 NEW!

9.時の異邦人 NEW!

10.先週の人気記事ベスト20!!(11/5-11)

11.カウンセラーの実践的禁句集 その3 NEW!

12.オーディオにおける接点復活剤について (↑)5週連続

13.「死にたい」と言ってもらえること(↓) 18週連続

14.ヘッドフォンと共に過ごした「安息日」 COME BACK!!

15.人を助ける仕事に「一人前」はありえない NEW!

16.「すきま暖房」という新発想 NEW!

17.私のスーパーバイズ ~実践編~ COME BACK!!

18.「魔王」そして「流浪の民」はこういちろうの小中学時代の「定番」だった!!(↑)

19.ヘッドフォン、Bose Quiet Comfort 2のへビーユーザーとしての本音 -万国iPod向けヘッドフォン博覧会 その1- 5週連続

20.ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史)(↓) 5週連続

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21.結局何もできなかった彼らが「英雄」なのはなぜか NEW!

22.やはり、耳栓型イヤフォンの名機、SHURE E5cについて書きます(↓)

23.「ヘッドフォン」カテゴリーへの直接リンク NEW!

24.「スピーカー」カテゴリーへの直接リンク (↓)

25.「ウィニコット」カテゴリーへの直接リンク COME BACK!!

26.フォーカシングにおける「身体の感じ」とは何か COME BACK!!

27.「症状」こそ「自然治癒」の働き、という場合もある。 COME BACK!!

28.フォーカシング関係者へ NEW!

29.「CDプレーヤー」カテゴリーへの直接リンク COME BACK!!

30.浜崎あゆみ用ヘッドフォン(?) COME BACK!!

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 いよいよ冷え込んできましたので、オイルヒーター記事は何と10%のシェアという不動の一位となりました。昨年もそうでしたから当面これは動かないでしょうね(^^)

 興味深いのは、2004年12月という、このブログ開始後、ごく初期の記事である「時の異邦人」が唐突に上位ランクインとなったことです。首藤剛志さん脚本の、湯山邦彦監督による、いわゆるOVAの走りで、単館上映しかされたことがない、実写映画のテイストに満ちたシュールで圧倒的に盛り上がるラストを持った傑作アニメをめぐって、年末への思いを書いた、私としては確かに凄く自然体のエッセイだと思うのですが、先々週ごろから20位少し下に来ていたのが、今回突如勢いがつきました。特別な思い入れがある作品ですので、この作品の情報を求めておられる方が今もおられるだけで嬉しいところがあります。

 もっとも、私の「鎌倉」という土地へのこだわりを込めたエッセイでもあります。これを書いた時点では開業そのものを考えていなかったのに、今も、引っ越したとはいえ「鎌倉市民」です。職場は「横浜市栄区」....といっても、ほんの数十メートル南まで鎌倉市なんですが。

 詳しいことは、敢えてここではお書きしませんが、私の人生の「ひとつの時代」に区切りがつこうとしています。いろんな思いはありますし、これからも背負い続けていくしかない、いや、これからこそ本当に背負っていくしかないものがあると痛感していますが、それでも、私は「鎌倉」という土地への「縁」を大事にしながら、当面、開業カウンセラーとして生きていきます。

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 ちなみに、これを書いている「今、この瞬間」(11/19 PM 23:30)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、 110735、フォトアルバムを含めると128722です。


 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。

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戦争には、「犠牲者」しかいない。

 昨日は今、都心での仕事の帰りに、有楽町マリオンで「父親たちの星条旗」を観て来ました(msnの特集はこちら)。

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!

 この映画には心の底から感服しました(不謹慎な言い方でしたら、お許し下さい)。

 同じクリント・イーストウッド監督の手により次に公開される「硫黄島からの手紙」との2部作でにアメリカと日本,それぞれの視点から見て戦いを描くことではじめて総合的な意味が出て来る作り方に徹したから余計に感じられることなんでしょうが、この映画で、日本兵は、地下壕から突然現れて襲いかかる無名の兵士と死体という形でしか登場しません。

 我が身の不勉強を暴露するようなものですが、この硫黄島の戦いが、上陸を水際で食い止めるという攻防戦の常識を破り、むしろアメリカ軍の兵士や兵器弾薬が火山島の足場の悪い砂地に上陸された間合いを見計らい、むしろアメリカ軍兵士を深くおびき寄せて、地下壕を張り巡らして要塞化した地面のどこからいつ攻撃されるか全くわからない状況下で混乱に巻き込み、日本軍側がどこまでまだ戦力を残しているのかわからないという、長期化させるために周到に計画された、兵士の自決や安易な玉砕戦法すら禁じられた、日本軍にとって「例外的な」、ひたすら持久戦に徹した、無駄な攻撃を徹底的に排除した戦いを数ヶ月かけて計画的に周到に準備した戦術が行われた地域ということを、この映画のパンフではじめて知った(wikipediaの記事はこちら)。

 それが戦場のアメリカ兵に取って、どれだけの恐怖とパニックを引き起こすものだったかというのが、この、とことん姿を現さない日本兵を相手にしたアメリカの兵士たちの身になって描かれる時、恐らく、多くの戦争を知らない世代の人たちも、肌で感じる体験として、

 前線に立つというのは、このくらい『怖い』ことで、
 人はここまであっけなく死んでしまうもので、
 助けを求める声に応じて戦場を走り回る「衛生兵」の仕事すら、こんなに空しく感じられるものなのだということ。

 突然襲って来る日本兵を必死になって殺した直後に味方の兵士の傷の手当をするということだけでどれだけ空しい思いにとらわれるかを追体験できると思います。
 
.........この映画は、それを淡々と描いて行きます。

 巧みに時系列を行ったり来たりさせる描き方によって、新聞紙上に掲載され,本国のアメリカ人の戦意を一気に高揚させた、「頂上にはためくアメリカ国旗を6人の兵士が掲げる」写真を撮ることができた上陸5日後以降も、実は30日間もの戦闘が続き、実際に国旗を掲げた兵士のうち半分は死ぬばかりか、残された「3人」(この「3人」が「」入りなのには意味があります)を待ち受ける運命も.......

 「ほんとうに前線で戦った兵士はその現実を沈黙したまま語らない」
 「英雄は存在しない。『必要とされる』ものだ」

 それこそ、この作品をイーストウッド監督に託した、プロデューサーのスピルバーグ自身の「プライベート・ライアン」すら観ていない私ですが、この映画が今後名作の一つと呼ばれることは間違いないでしょう。

 戦争には、「犠牲者」しかいない。少なくとも兵士とその家族にとっては。

 そして、その犠牲を内に隠し持ちつつ家族を育てた世代のかなりがすでに鬼籍に入った、日本の今の時代。その「犠牲」は、「英雄」という言葉に「すり替える」だけでは報われようもない何かなのだと思います。

 そのことを日本人もアメリカ人も,共に共感できる描き方をしているこの作品に敬意を表します。

 日米合同で慰霊祭が営まれた、唯一の土地が硫黄島だと言うこと。それは今そこに自衛隊と米軍の基地があるからというだけでもないのではないか。制空権の上で決定的拠点というだけのことで、無人島での箱庭のような戦闘で、両軍の若い兵士たちの血をこれだけ吸い取った土地もないということ。

 それにしても、wikipediaの叙述で、

> 作戦開始を控えた記者会見でスミス中将は説明した。
> 「攻略予定は5日間、死傷は1万5千を覚悟している。」

 味方の兵士が大勢死ぬのが当たり前という予測を司令官は平然と口にできるものなのですね......。

  「硫黄島からの手紙」も、もちろん観るでしょう。ほとんど日本語で日本人俳優中心のこの作品を、イーストウッドがどう対比させて描き切れるか? そしてそれがアメリカでどう受け止められるのか?


クリント・イーストウッド監督.出演作品のDVDへのリンク

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2006/11/18

「すきま暖房」という新発想

 正確には「オイルヒーター」ではなくて、「ヒーター」ですが、ちょっとその斬新な発想に驚き、思わず購入して実感を確かめた商品のご紹介。

window radiator(ウィンドウ ラジエーター) W/R-1219

 見事な発想の転換の暖房器具である。

 私自身、自宅の寝室では畳敷きに布団を強いて寝ている。

 枕の側が、大きなアルミサッシの出入りできる引き戸になっている。

 すると、関東では今日現在まだ日によってはさほど冷え込まない夜でも、二重のカーテンの下から冷気が這(は)ってくるのがわかる。

 これが、体感的な室温を下げていることには気がついていた。

 窓際のjカーテンの裾に沿って毛布などを絨毯のように丸めて置いておいて、冷気を遮(さえぎ)ろうとしても、そんなもの「乗り越えて」冷気は「這って来る」。

 そういう時に、例によって「楽天で」この商品を見つけた。

 まさにその冷気の発生源であるベランダ沿いの隙間に、横長の棒状に設置するヒーター。消費電力わずか120W。しかも幅を伸び縮みできる。カーテンを痛めたり、まかり間違っても燃やするほどの熱量ではない。オイルヒーターほどですらない。

 アルミサッシの引き戸に沿って、「そこそこ暖気の上昇気流」を発生させれば、この「床を這って広がろうとする冷気」を中和することになるのは全く当たり前ではないか!! 電気代をさほど食わないのに体感温度は、確実に上がる!!

 これはまさに私が求めていた製品そのものである。

 2万円以上の投資でも、一冬使えば減価償却できる。

 これとオイルヒーターを併用すれば、電気暖房としてはたいへん効率がいいことになる。全くの静音。しかも床暖房につきまとう、「低音やけど」の心配がない

******

 実際購入したら、ものの見事に「カーテン下から否応無しに『這って』来る冷気の流れ」が止まりました。床に届く厚めのカーテンのすそとアルミサッシの「間に」設置してしまうのがコツです

このヒーターのフィンの窓に水平な張り方そのものこのが、冷気が乗り越えて行く「防波堤」になるように形状も吟味されている。

 窓の結露の抑制効果もあるらしい。カーテンと窓の間で乾燥したぬるい上昇気流が生じれば当然のこと。


 特に、鉄筋コンクリート系の密閉度の高いマンションや持ち家などで、特に一階の庭に出るアルミサッシ引き戸をもち、なおかつたたみに布団を引く寝所にしている方には、効果がはっきり実感できるだろう。

 あとは,空気が乾燥しにくいように、オイルヒーターの上に、転倒しにくい熱伝導のいい容器に水をたたえて、スイッチや計器の密集した漏電が怖い場所ではない、うっかりこぼしにくい場所側に設置すれば、乾燥し過ぎもカバーできる。

ちなみに、この商品、類似品がまだありません!! 今のところ楽天でも1店舗のみで通販してます。楽天以外でどのくらい流通しているか?

 なお、「森永エンジニアリング」の商品とのこと。実際、「森永乳業」のベンチャー部門子会社なのである。恐らく特許取ってますね。

 こうして、オイルヒーターとの併用により、無音無臭で「暖房している実感が皆無」という静かな空間が生じます。私のようなオーディオファン向きの空間ですね。


*****


 以下は蛇足です。

 暖房についての文化が根本的に異なる、二重窓が当たり前の東北や北海道の人には理解を超えた商品かもしれない。(^^;)。でも、電源の引き込みに細工して、2重窓の間に据えたりできたら、効果あるかも???

 フォーカシングの研修会で講師に呼んでいただいて、北海道の冬をはじめて体験した時、その、部屋を30度近くに暖めて薄着で過ごすもの、という生活感覚には驚いた。

 おかげで、「『東』北海道」出身の以前の同僚カウンセラーが、「上京した頃。東京の人はなぜこんなに部屋を寒いままで冬を過ごせるのか、信じられないと感じた」というのはわかる。

そういう北海道「出身の」森永乳業社員の発想が元で開発した.....とかいうストーリーなら、でき過ぎてます(^^)。.....今のところ「私の勝手な思い込み」ですが、いつものようにこれから独自調査を重ねます(^^)

******

 一方、学会で沖縄にはじめて12月に行った時、気温28度でシャツの袖をまくりあげて汗だらだらの私を尻目に、毛糸のセーターと毛糸の帽子をかぶって外出している地元の人にも驚きました(^^)

 「家ではこたつに入る人もありますよ」とバスガイドさんが言っていたような。沖縄にこたつ文化流入!! というのも驚きでした。これはたしか10年前の体験。

2006/11/17

カウンセラーの実践的禁句集 その3(第2版)

「あなたのことが心配だ」

 ......第2版で理由を書くと宣言したままですが、この言葉が「禁句」だと強く感じている私の気持ちを言語化しようとすると、どうしても今のところ「頭での」説明になってしまいます。お許し下さい。

 そもそも、私自身が「心配されるのが大嫌いな」人間ですが(^^)


 .......少なくとも、フォーカシング関係者に対してだけは、

「人のことを心配する前に、自分の中の『心配君』の声をよーくきいてあげてからにして下さい」

......と、あっさりご注進申し上げてしまいたいのですが(^^;)

結局何もできなかった彼らが「英雄」なのはなぜか

 昨日、やっと「ワールド・トレード・センター」を藤沢で観て来ました。(msnの特集はこちら

ワールド・トレード・センター スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

 すでに、今週金曜までの早朝上映だけ、という、藤沢で観るにはぎりぎりセーフでしたが。都心の有楽町の日劇で観ればもう少しロングランしそうでしたし、大スクリーンかつ音響効果の素晴らしさも体験できたろうし、実際、土曜日に都心での仕事もあったのでそれは可能でした。
 
 しかし、自宅のある大船からとなりの藤沢まで130円、(大船、いや、鎌倉には映画館はなぜかありません)映画館までの徒歩を含めても行程皇実質30分だったし、まだ藤沢の映画館は行ったことがなかったので、新鮮な散策を兼ねて丁いいかと。いい加減で早起きに慣れたいというのもありました。

*****

 私は、何とオリバー・ストーン監督の作品を見るのはこれがはじめてです。

(結局、私って、ちょっとした映画好きの方に比べればかなり貧しい量しか実写映画は見てません。ただ、実写映画体験が分厚い監督さんのアニメで鍛えた「映画の文法」というものには凄く敏感です。あと,世界屈指といわれる声優さんたちの声の演技力で鍛えられた、「役者」の人物表現のセンスを観る目はそこそこあるつもりです。それに、アニメは、「意識的に」描こうとしないとそこには何も映らないわけで、伏線的・象徴的映像表現には敏感になります)。

 でも、私が他の作品について伝え聞くことを総合しても、「オリバー・ストーンとしては、職人的で、抑えたタッチの淡々とした映画だね」という感想を覚えた人も多いかもしれない。

 「タイタニック」の方がよほどスペクタクルで悲壮な悲劇性があったし、とか。

(『タイタニック』は、「銀河鉄道の夜」の原作の物語を重ねてみると深みが増すわけですが。特に賛美歌になじんでいれば....というのは蛇足)

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 そして極めつけ、

 結局、あの警察官二人は、「誰も人助けをできないうちに」生き埋めになり、身動きできなかったまま助けを求めるしかなかっただけではないか。

 実際に非常階段を駆け上り、降りてくる人たちを誘導した挙げ句に死んだ人たちの方がよほど英雄ではないか、と。

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 でも、私は、だ・か・ら、あの二人は「英雄」なのだ、とも感じます。本来人を助ける側の人間が、情けないまでに「受苦(passion)」に耐え忍ぶしかなかった存在だからこそ。

 徹底的に、「他力本願」になることの苦悩と葛藤を味わい尽くしたからこそ。

 「他力本願」については、あれから「歎異抄」原文を実際に文庫版で読みましたので、また別の記事で、もう少し突っ込んだ私なりの理解を述べていますので、興味のある方はお読みください。

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 そして、この物語の中で、実は一番その英雄性に驚かされるのは、遥か離れた土地から、救済に向かうことを神の意志と感じ、家族や仕事を放り出して、全くの単独行動で現地に「潜り込んだ」海兵隊の予備役の男性ということは、多くの人の意見が一致するとことでしょう。

 二次災害の危険があると捜索活動が中止された中に、わざわざ久しぶりに海兵隊員らしく床屋で髪を借り上げ、自前の海兵隊員の服装でまんまともぐり込んで、勝手にひとりで捜索活動をし続けた彼。実は瓦礫の山でめぐりあった、もうひとりの「違法単独捜索」者もまた、海兵隊員でした。

 「誰かに声をかけられても無視し(して捜索活動を続け)よう」

 彼は、瓦礫の下数メートルに生き埋めになった警察官二人を発見し,連絡し、レスキュー隊員たちを呼び寄せると、あっさりその場を離れます。

 「これからは,私のような経験豊富な兵士が必要になるから」

と。

 彼はその後実際にイラクに派兵されました。実際の人物を俳優が演じているわけですから、ひょっとしたらこの海兵隊予備役の会計士の(!)男性は、多くの「敵」を殺戮する側に廻ったかもしれない。今もイラクにいるのかもしれない。

 そういう連想が生じるにもかかわらず、彼の存在感の凄さは、この映画の中で異彩を放っています。私の観た映画の中でいえば、「タクシー・ドライバー」
の主人公にも「どこか」通じる「何か」です。

 私は「プラトーン」すら観ていません。でも、

 「本当の英雄は、広い意味での『現場』の最前縁にある、名もなき人たちなのだ」

 という思いがストーン監督の中に重くあることは確かなのだと思います。

 実は免許剥奪中の看護士が,敢えて危険な瓦礫の中に実際に潜って応急手当をした人物だという「現実」。

 彼らは、この物語の中で、さりげなく登場し、さりげなく立ち去ります。

 パンフによれば、警察署員、消防士など、実際に現場でこの2人の救出に立ち会った50名がエキストラとして、実際に果たしたそのままの役割として参加しているとのこと。細かい台詞にまで「そんなことは消防署員はいわない」などと、即興でどんどん台本は手直しされたとのこと。

 実物そっくりに再現された瓦礫の山のセットを前にして、俳優が本人の代わりに出たシーンの「本人」も含めて、これだけ多くの関係者の再会ははじめてで、当初は何とも複雑な重い空気をもたらすものだったらしい。

 でもすでにその晩は、まるで「同窓会」のようでもあり、いわゆる、"postvension"におけるブリーフィング(悲劇を共にした関係者の「事後ケア」の癒しのための集い。詳しくは高橋祥友先生の著作参照)としての意味を持ったとのことでした。

最新映画、話題作を観るならワーナー・マイカルで!
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2006/11/15

身体の中のneutralな感じの部分を大切にするとフォーカシングは楽に進むことが少なくない -フォーカシングのコツシリーズ 1-(第2版)

 そもそもフェルトセンスとは何か?

 「何か気がかりな事柄についての漠然とした曖昧な言葉にならない感覚」

というのが一番古典的な説明でした。

 この、フェルトセンスとは何か?

 私は「フェルトセンスを」感じているのか?

.......ということに初心者の皆様は得てして振り回されます。

 私は、何とアン・ワイザーさんが日本に来日される(1994年)に先んじて、すでに、1990年の段階で

 「自分の日常や状況や存在のあり方と、何か、(somewhat)、どことなく(somewhere)、何となく(somehow)響き合っているかのようにも漠然と感じられなくもない気分だとか居心地だとか身体の感じ『のようなもの』」

.......であればフェルトセンスとみなしていい、という、ある意味でアバウトな定義を公式に表明した日本で最初の人間であります。

研究業績一覧参照。1990年の3本の合計著作・論文で言及しています)

 身体の感じそのものとの直接の関わりを大事にし、ボディワークをフォーカシングに取り入れるという試みは、当時「東京フォーカシング研究会」と呼ばれた、白岩紘子・井上澄子・川村玲子(故人)という3名の先生が独自の形で既に展開していて、私も大学院1年目まで、2年ほどその場に参加させていただいていたのですが、当時はこのアプローチはフォーカシングなのか? ということそれ自体論争になっていました。

 私は、身体の外側からアプローチするものとしてのボディー・ワークには、いい体験でしたけど、積極的な関心までは抱いていなかったのです。私は当時から生意気にも「独立学派(中間学派)」であると自称している、ひとりフォーカシングにこだわる人間でした。

 そして、ただの身体の感じとフェルトセンスの違いに拘泥することそのものが、何かフォーカシング学習者を戸惑わせるばかりで、「ただの身体の感じ」であるかに思える感覚でも、それに触れていけば、そこからいくらでもフォーカシングに持ち込めるチャンスは自然と何回もめぐって来るんだから、と、そのへんで論争になること自体、内心はため息をついていたのであります(^^)

 私が、「昼食後だからおなかが張るに過ぎない」と自分で主張するフォーカサーの方とすら、そのおなかの感じを出発点にしてフォーカシングのガイディングをして、ご本人も私も驚くような、その人の抱えた子供時代から現在の対人関係にまで通底していた問題についての連鎖反応的気づきに結びつくセッションが、初心者のフォーカサーでも遅くとも2セッション目で可能なことすら少なくないことを、かなりありふれた現象と思っていることは、既にこのブログのこの記事で実例と共に詳しく述べたとおりです。

 そして、身体の感じに注意を向けることが「順調に」進むと、「身体感覚の局在化」現象が進行する、ということも1990年に論じています。つまり、不快だった感覚それ自身が、「自ずから」次第にその領域を狭め、いわば「コア(核)」の部分へと濃縮されて行き、感じの質としては「更に」鮮明かつ細やかに感じて来るのに、同時に楽に抱えていられるようにもなる、という現象を見いだしていました。

 そして、裏を返すと、身体の中のいろいろ気になる感覚を、ゲンシュタルト心理学でいうと「図(figure)」とする形で浮かび上がらせている「地(ground)」の部分の感覚、つまり、身体の感覚として注意を向けられていなかった部分の、それまでneutral(中立的)だった感覚や、それどころか実は「いい感覚」ですらあった部分を、敢えて、図と地を反転させて(!)感じてみようとすると、不快な身体の感じの局在化は自然と進行し、適切な距離が見いだされることを、自分のひとりフォーカシング体験の中から気がついていました。

 さらに、自分の気になる、得てして不快な身体感覚に関わる際には、そのneutralな部分の方に意識の「居場所」をおいて、「そこ」から、いわば身体内に幾つか島のように点在する感覚を「見やる」、あるいは時々その局在化された感覚の表面にセンサーを伸ばして時々タッチするぐらいのつもりで注意を向けるといいことに気がついていました。

 それは、その頃村瀬先生から入手した、Mary MacGuireの境界例水準のクライエントさんとの関わりで"solid place"......「確かな居場所」とでも訳しましょうか....を見いだし、そこから関わりづらい感覚と関わるやり方と、発想が重なることに気がついたわけです。

(マクガイアは、そのクライエントさんの過去の「たったひとつの」いい思い出をありありと想起して感じてもらうことで、クライエントさんに"solid place"を見いだしてもらったという点で、「時間軸」上に求めたのに対して、私は身体内感覚の「空間軸」上に見いだ点に違いがあったのですが、実は共通の観点が含まれていると思いました。これは、感じと単に距離を取るというより、身体感覚自体としてのdisidentificationを生み出すと言うべきでしょう)

 確か私が池見陽先生から、「アン・ワイザーというトレーナーが最近言い出していることと君の技法に似たところがある」と聞かされたのは、1991年だったはずです。

 アンが実際に来日する3年前でした。

 この、"neutaralな感じの場所も感じられる?"という言い方、私をガイドとするセッションの体験がある方には、おなじみな、私秘伝の「隠し味」です。

 ただし、この教示は、さりげない「誘いかけ」であるべきであり、下手に「狙いすまして」強迫的に使うと、うまくいきません!! 

 フォーカサーの「身体」が、ガイドである私からの「操作」に反逆しますので!! この反逆は、全く自然かつ健全な、フォーカサーの「心身の」営みです!!


 ガイド(トレーナー)は、

「フォーカサーに『うまく』プロセスを『生じさせよう』」

という、ガイド自身の

『我欲』

に屈してはならないのです!!


 それから15年以上、なぜか、いまだにこの教示のまねをする人とは、私は直接出会ったことないんですが(^^;)
 
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 もうひとつヒント。

 「フォーカシングするのは、自分にとって楽な姿勢なら、立ったままでも(!)、横になってでもいい。「中途でうやむやなままに眠り込んで」も、「ただ単に寝ようとして眠る」よりは暗黙のうちにプロセスが進み、寝覚めがいいことが多いので、寝てしまったことを後悔する必要はない」

 ......どの文献か忘れたけど、これまた、1990年までに、既に私はどこかで書いていた筈です(^^;)


 
*******

 この当時、私はアニメ雑誌の読者投稿常連でもありました(^^)

 その後、実際にアンの初来日時に、いきなりアンと意気投合し、そして更に、私の人生経験と臨床経験のための年月が流れたのです(^^)
 



2006/11/14

フォーカシングへの誤解を解く(?) その2

これはクラシック音楽の何かの雑誌で読んだことだと思うのですが、

 特にある程度年長になってバイオリンの持ち方を教えてもらい、弓を弦の上に運ぼうとした時、そもそも「弓を弦に吸い付けたまま」ボウイング(弓の上げ下げ)をするということそのものが、こんなにも難しいものかと感じた方は少なくないかと思います。

 ギターはこの点有利です。ポロンと音を鳴らしてみるだけなら、抱え方すら知らなくたって誰でもできる。いじくってるうちに、同じ音が違う弦だとどのポジションを押さえればいいかも、そこそこきちんと調律されていれば、いじっているうちにわかる。オクターブだとか、ドミソの協和音とかも、自己流で鳴らせる。「調律されていない」と、違う弦で同じ音を鳴らしたつもりでも、「音がうなる」という、貴重な体験もできる。

 そして、違う弦で同じ音を鳴らすと、響きが実は異なる(倍音成分が異なるから)ことにも気がつくし、

つま弾く部分をネック寄りにするだけで音色が変わるのもわかる。

 不協和音でいいからジャラジャラ鳴らしてみると、何となくギターを弾いて音楽をやっている気分になれる(^^;)

 中には、純粋に自分で試行錯誤する中で、5本の弦の全く自己流の調弦の仕方すら身につけ、全く何も教本を見ない独学で、伴奏でコードをジャラジャラ鳴らして歌の伴奏にする境地までたどり着いた、という方も決して稀ではないと思います。

 ピアノには、この、「音色の多様性を楽しむ」という側面があまりない。

 だから、何が弾けるかというと、フォークギターでコード伴奏するくらいなら何とか.....という人が、ピアノやバイオリンより、「人口比的にずっと多い」のだと思います(^^)

 バイオリンに至っては、ギターには当然ある「フレット」がないから、取りあえず正確な音程を出すだけで、実は、高度な能力が必要とされる。

 もとよりバイオリンの、この音程のアナログ的なコントロールの自在さは、人間の声と同じように微妙な音程の変化や、ヴィブラート、そして、ほんとはピアノのような「平均律」の楽器だと微妙に濁ってしまう和音の「純正な」響きを生み出すのにも役立つ。


*****


...で、そのバイオリンを学ぶ時、ヨーロッパでは、ボウイング(弓の上げ下げ)ができるようになった段階で、石造りの残響(エコー)の多いドームとかに連れ出して、まずは自分の弾くバイオリンの「響きの快感」に十分浸らせる教育がよく取られるとのこと。

 同じことは、もちろん声楽でもギターでもピアノでも応用できるわけですが。

 要するに、「お風呂場の名歌手」ないし「カラオケのエコーの快感」状態に置くわけですね。

 学校なら階段の踊り場とか、体育館とかが、うってつけの空間でしょう。

でも、日本にはそういうエコー成分の豊富な空間がなかなかない。

 石造りの建物の中で育まれた西洋楽器の勉強の初歩はまずそこでつまづくわけです。

 もちろん、本格的に練習を始めたら、かなり響きの薄い「デッド」な部屋の方が、厳密な練習には向いているでしょうが。

 ヨーロッパなら、素人であっても、幼児期に「教会堂の響き」の中で聖歌隊の歌声を聴いた瞬間の恍惚感ことが、その音楽家の音楽を志すきっかけだったというような話はいくらでもあるでしょう。

 少なくともフランスの、最後までピアノが弾けなかった、管弦楽法の大家、「幻想交響曲」が一番著名なベルリオーズの「回想録」には出てくる話です。これが音楽家の家系で全然はないベルリオーズがフランスの片田舎から音楽家になる夢を執念深く(この人の場合、どうしてもそういいたくなります)持ち続ける決定的な出会いだったんですね。

*****


 で、私がなぜこんな前口上を述べたのかといいますと、


 フォーカシングにまず最初に関心をもってもらうためには、

 フォーカシングの「出会い」そのものが「心地よい」体験となり、

 「あの」体験を自分でも繰り返し味わえるようになりたい!!


 という「誘惑」のための「動機付け」が必要だ
と思うのですよ。


******


 この点で、フォーカシングとの出会いがワークショップ形式というのは、必ずしもふさわしくはないのではないかと私は感じています。

 自分がやってることがこれでいいのかどうか?

 他の参加者の人の中には、何か知らんけど「感動的な」体験をしている人もあるようだ。自分にはなぜそれができない?

 そもそもワークショップにはじめて参加する人って、フォーカシングであろうとなかろうと、何らかの意味で「劣等感」に敏感な人が多いと想定できます。

******

 フォーカシングにおいては、フォーカサー自身の主体性が尊重されます。フォーカシングを進めるのはあくまでもフォーカサー自身であり、リスナーはまずは良き聴き手であることが大事にされます。

 教示を与えるガイドも、あくまでもフォーカサーの助言者であり、フォーカサーの求めに応じて、教示を提案する存在に留まるのが理想的です.

 しかし、一回目のフォーカシングセッションは、フォーカサーにとって「素晴らしい体験」になるように、「個別に」徹底的にサポートするガイディングで一向かまわないのではないかと思います。

 最初のセッション1回目から

「フォーカシングってbeautiful !!」

と感じていただける体験をしていただけることを目指して、日々研鑽を積んでおります。

そうでないと、そのあと興味が続くのでしょうか?




 そうなればフォーカシングの本を「関心を持って」読んでもらえる(再読してもらえる)ことにもなる。特にアンの本には、私の実際のセッションと符合する内容は「体験してはじめて『読めて』くる」形でたくさん出てきます。



ところが、2回目からはしばらく普通のカウンセリングを望まれる方もある。それもよし!!

2,3回の体験の時点で、早くも

「フォーカシングのトレーナーになりたい」
「カウンセリングにに生かしたい」

と言い出す人には、あっさりと

「じゃ、フォーカサーとしての私のリスナーなってみること、試してみる? .....大丈夫。どうリスニングや教示をすればいいかは私が同時進行で教えていくから」

と、"Focuser as Teacher"体験をしてもらったりします。


そして、私は、言葉の端々に、

「実は、フォーカシングはひとりでもできるようになれる」

ということを、さりげなく含めていくわけです。

カウンセラーなど、援助職の方には、

「そして、ひとりでもできるようになると、例えば現場臨床でどの程度、どのように活用できるかのヒントは、あなたのこれまでのカウンセラーとしての経験や知識がみんな生きる形で、自然とあなたなりに見つけられるはずです」

という、メッセージをさりげなく含めたりします。

すると、「こんなフォーカシングをやってみた」という、

「ひとりフォーカシング日記」を、全く「自発的に」持ってくる人まで現れる。

私は別にそういうやり方をはっきり勧めてすらいないのに。

 
******


 ジェンドリンが、「フォーカシング指向心理療法」で、「フォーカサーの運転席を乗っ取ってはならない」というのはもっともなことです。

 いつまでも、ガイドの手取り足取りの教示によってフォーカサーの体験をすることを求めるようなあり方に留まるのは確かに善くないかもしれない。



 (でも、そういう受け身のフォーカシング体験が本人にとって、厳しい日常のストレスから解放されるかけがえのない場だとすれば、それを繰り返し求める人の「権利」を否定することはないとすら思います。たとえその人の日常が何も変化しなくても。日常とフォーカシングを学ぶ場のギャップに「本人が」苦痛を感じないのなら!)

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「ひとりでフォーカシングする」ということのために、特別な時間とコンディションを整えねばならない人もいます。

例えば、家族が家にいると、できないという人は結構多いでしょう。

家族が全員、家から外出していても、家の「雰囲気」そのものに縛られるという人もあるかも。

私はそういうベストコンディションが来るまで、フェルトセンスを2日も3日も心の片隅に「キープ」することすら習熟しました。そしたら必ず、

「いい加減で『私』の相手をしろよなー」

と「フェルトセンス」ゴネまくって、となりで他の人が寝ていようが、電車の中だろうが、フェルトセンスからの「脅し」に屈して、ありあわせの状況下でフォーカシングする「芸当」も身につけました。

 フェルトセンスがホントに私に相手をしてもらいたがっているその「瞬間」こそ、フォーカシングの絶好のチャンスということですね。


******


 更にいうと、わざわざフォーカシングのための時間をとらないまま、生活それ自体の最中で、自分のフェルトセンスを「絶えざるセンサーにして」生活する、という次元が可能ということです。

例えば買い物の際にどこの売り場をどのようにまわるか。
その品物を買うか、買うのを延期するか?
それどころか、すでに相当なじんだ大船の町の「どの街路を通るか」

みーんな、フェルトセンスの御宣託任せなわけですね。


A:「今日は疲れているからタクシーを使いたいよう」

わかったわかった。

B:「でも倹約すべきである!!」

わかったわかった。

C:「明日も同じ場所に行く。2回ともタクシーは避けて、その時ホントに疲れていたらタクシーに乗る、というのでどうか?」

わかったわかった。

D:「おい、そんなもの買ったらまた太るぞ」

わかったわかった。


 フェルトセンスからではなくて、「内なる批評家」やら「内なる無精君」やら「内なるええかっこしい」やら、

自分へとふリ注ぐいろんな「内なるささやき」をかたっぱしからacknowledgeして(認めてあげて)いく。


E:「あなたは今ここでアイスクリームひとつを食べてしまうことに本当は罪悪感を感じているだろ」

......おっしゃるっとおり。ほんとはそんなに食べたいとすら感じてないのに食べてます。

私は、今、単なる「批評家の声」ではなく、フェルトセンスに「逆らった」ことをやっているとしか思えない「違和感」を感じています。


E:「わかったわかった」



 多分に逆説的ですが、人は、フェルトセンスに従わ「ない」自由も持っています。

 フェルトセンスに従って「いない」自分を「自覚」できている人間は、フェルトセンスに触れないまま自分は善をなしていると信じている人間よりはましなのではないか?.... と理解したら、親鸞がこの言葉に込めようとした「逆説」にも一致するのではなかろうか??

*****

 先日、これまた人間性心理学会で、池見陽先生とアン先生の「フォーカシングと言語」と題する素敵な対談がありました。

 discussionに入って、いったい池見先生とアン先生の、どのやりとりから"inspire"されて(霊感を吹き込まれて)フロアから発言する気になったのかすら忘れてしまいましたが、


> 「ジェンドリンは、『フォーカシング』の中で、
>
> ぴったりなコトバがなかなか浮かび上がってこないようなフェルトセンスが生じてきたら、それはむしろ歓迎されるべきである
>
> というようなことを述べていた。
>
> そういう時に、焦ることなく、
> 心の中のスペースを大事にして、
> 新鮮な『言葉』が
> おのずから立ち現れてくるのを
> じっくりと待てるということは、
>
> 新たな『状況』が
>  おのずから生じてくるのを
>  じっくりと待てることと同じことだと思う」

と、自分でも、口にしてからびっくりするような、思いよらないことを口にしていたのです。

 思い浮かんでから発言し終わるまで3,40秒だった気がします。

 「言葉」が思い浮かぶことと、「状況」が生じることは、全く別次元のことの筈ではないか!!

 .....でも、なぜか自分でも気に入って、メモしておいたのです。

 ........この発想なんて、ある意味では親鸞の言う、「他力本願」そのものではないか?....とさっき気づいたのですが、いかがでしょう?

*****

 何か、前半と後半で、全く矛盾すること書いてるとお思いかもしれませんが、私の思いはひとつです。

 フォーカシングを「お勉強」から解放したいということ!!

「三昧」ないし、"playing"の領域ということです。

 

それと「真剣さ」「厳粛さ」は両立すると思います。

2006/11/13

先週の人気記事ベスト20!!(11/5-11)

恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「先週」記事別アクセス解析機能を使っての「先週の人気記事ベスト20」の発18回めです(^^)

 どうも「強迫的」に日曜日深夜に発表するにはいろいろ忙しくなってきまして(^^;)、今後こういうケースが増えると思います。どうかお許し下さい m(_ _)m、

 固定リンクでのアクセス率の順位のみから集計しています。
 7×24時間、つまり11/11日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,345(前回1,555)。(一日平均222.14アクセス。前回222.14)

 訪問者実数が、806名様(前回824名様)。[初版に誤りがありました。これで納得!!]

 「サイト内移動」、359(39.4%)の前回に対して今回294(39.4%)、トップページへの外部からのアクセス、前回326(35.8%)に対して今回215(29,2%)。

 興味深かったのは、「阿世賀浩一郎のホームページ」「フォーカシングの部屋」「湘南フォーカシングルーム」「こういちろうのおすすめayu」という、私の当ブログ「以外の」サイトからのアクセスが合計195(26.5%)というこれまでにない高率をはじき出したことです。これまで、まるでこのブログこそメインで、他の私のサイトがまるでおまけみたいな状態だったのに。

 当ブログの記事更新が減ったので、他の私のサイトまで読者層が広がったということなのか???

 .....当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、これまた前回7.6%に対して今回も7.6%

 「訪問周期」では、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回9名様、今回10名様。
 これだけ急に新規記事をほとんど書かない週が出てきても安定していることに感謝いたします。一番多い訪問頻度は、「25日に一度」で37名様、2位が「28日に一度」で28名様、3位が「10日に一度」「31日に一度」の、各25名様です。


 それでは記事別ランキングの方の発表!!


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1.オイルヒーターの暖房の自然さ (↑) 3週連続

2.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↑)12週連続

3.インシュレーターは使わないに越したことはない(↑) 11週連続

4.「死にたい」と言ってもらえること(↑) 17週連続

5.先週の人気記事ベスト20!!(10/29-11/4)

6.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~(↑) 4週連続

7.やはり、耳栓型イヤフォンの名機、SHURE E5cについて書きます(↑)

8.iPod向けヘッドフォン・イヤフォン・小型スピーカーの記事index(↑↑)

9.オーディオにおける接点復活剤について (↑)4週連続

10.フォーカシングを学ぶ上での「究極の大逆説」??? NEW!

11.「魔王」そして「流浪の民」はこういちろうの小中学時代の「定番」だった!!COME BACK!!

12.「オイルヒーター」カテゴリーへの直接リンク (↓)

13.ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史)(↓) 4週連続

14.「浜崎あゆみ」カテゴリーへの直接リンク

15.音抜けが圧倒的に良く、決して低域がダブつかない、究極のオールラウンド密閉型ヘッドフォン!!(↑)

16.”ZERO3”への道!! -私の携帯電話観(1)- (↓)

17.「スピーカー」カテゴリーへの直接リンク NEW!

18.生活の中で刻々と実践され、試行錯誤されるフォーカシングこそ意味がある。 COME BACK!!

19.フォーカシングへの誤解を解く その1 NEW!

19.ヘッドフォン、Bose Quiet Comfort 2のへビーユーザーとしての本音 -万国iPod向けヘッドフォン博覧会 その1- 4週連続

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 19位は、訪問者数、アクセス数同数なので、今回は2つあります。

 相変わらず、すでに冬のボーナスシリーズに向けての情報を求めての読者の方が大勢いらっしゃてるのかな?....状態ですが、本職カウンセラーの人間がやってるブログにこれだけ安定した数字の方がおいでになり続けるということ自体、光栄に思います。

 実は、私の「もの選びにおける周到さ」というのも、実は私個人のフォーカシング・スキルのなせる技、応用編のつもりなんです(^^;)。

 なかなか他のサイトではここまで書かないホンネで、「強心臓で」製品の長所や弱点をご紹介しているかに見えるのは、二次情報に流されないで、スペックと値段という客観情報、使い心地と音質という主観的感性に関わる部分をつきつめて統合しているつもりです。それを支えているのは私個人のフォーカシング・スキルです。

その意味ではこのブログのすべてのコンテンツが、実はフォーカシングを使い込むと何がどのくらいできるかの「我が身を持った宣伝」なのです(^^)


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 ちなみに、これを書いている「今、この瞬間」(11/14 PM 23:20)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、 109423、フォトアルバムを含めると127319です。


 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。


Apple Store(Japan)

人を助ける仕事に「一人前」はありえない

 インターネットで見つけた、この記事、襟を正させられる思いがしました。

 オリバー・ストーン監督の、「ワールド・トレード・センター」(msnの記事はこちら)、まだ未見ですけど、やはり見たくなりました。

 

2006/11/11

フォーカシングへの誤解を解く その1

 2つ前の記事への補足みたいになるのですが、いくら私が、

「地上に自分のフェルトセンス以上の権威なし」
(There is no authority above his/her own felt sense on earth.)

.........ということを、フォーカシングの私なりのモットーにしているからといって、それは、この世の権威を、すべて無視するとか、邪険に扱うとか、反抗するとか、そういうことは意味しないわけですね。

 むしろ、権威(例えばマスコミ報道や上司や先生や著名な学者の発言)に対して、いつの間にか何となく無条件に「鵜呑みにして信頼」したり、単に反論を調べて、その、「対抗(アンチ)権威」の意見を丸呑みにすることで逆に失敗することもなく、さまざまなな矛盾した情報から得られる「言葉に出せない違和感」を大事にしながら総合判断を「腹を据えた形で」、状況に応じて刻々としていくことにも貢献する筈である。

 もとより、世の中には、その権威や上司ににらまれでもしたら、職を失うどころか、命の保証すら危うくなったり、相手に法律のマジックを使いこなされると、現行法上ではとんでもない理不尽な事態になることは山のようにある。

 そういう場合に、軽率ではない、でも、手遅れにもならないし、お人好しにもならす、勘ぐりすぎにもならずという形で、いろいろな調査や準備や交渉や「裏工作」をしたりしなかったりすることで、相手への完全勝利とは行かないまでも、少なくとも単に被害者として泣き寝入りするのではない形で、自分や家族の身を守るための、「最善とは行かなくても、決定的なミスには陥らない」判断を、変化する状況の中で積み重ねねばならないことは多い。

 そういう時に、決して絶望しないで、しぶとく状況を打開したり、自分がある思いこみや先入観にとらわれていたがゆえに、思いもよらない出口や当面の救済策に気がつかないまま絶望していたことに気がつくきっかけも与えてくれる。

 こういうことは、ほんとうに「背水の陣」で、すべてをフォーカシングに委ねてみたことがある人間だけが持つ、自分のフォーカシングスキルとの「信頼関係」です。

 背水の陣で使った人なら、決して自分のフォーカシング・スキルに慢心は抱かないでしょう。それが、刃物の刃の上を安全に渡るにも等しい際どさを持ち、「自分」ではなくて、それこそ、偶然の助けや他の人の支えや犠牲、あるいは神仏のご加護か何かがあってはじめて「何とかなった」ことにも気がつきますから。「具体的状況」の中に人ははじめて生を「許されている」ことへの厳粛な畏敬も抱くようになるでしょう。

 時には、相手に「なめられないため」、あるいは逆に「危険人物視されないため」の、はったりすら含んだ牽制的な対応が必要な場合もあろうし、完全な「敵対」ではなく、むしろ相手への利益になることを理解してもらったり、相手への思いやりも十分あるし、相手からの意見を聞く耳も持つことをうまく相手に伝えて信頼を得る必要があることなど、無駄な争いを減らして実効を上げるために必要なことはいくらでもあるだろう。

 屈辱すらため込みつつも、上司や専門家の発言に「押し切られる」形で、批判を封じられたり、やりたくもないことをやらされたり、逆にやりたいことができなくなったり、感情的に怒り出してしまったり、権威をや論理を立てにしてものをいう人に屈従したりなどという形で、「権威からの圧力に『振り回されたり』、軽率に信頼したり、尻馬に乗らないための『生き抜く智恵』」を、その人の中から最大限に引き出すことを可能にするものがあるとしたら?

 例えば、

○相手のプライドを決して傷つけない形で、自分の意図を相手に伝えるにはどうすればいいか。

○相手との正面対決をむしろ回避して、でもその相手のからの批判や介入をかわす形で、「こっそりと」自分のやりたいことを「安全に」実現するにはどうすればいいか。

○話し合いの場で、参加者の様子を見ながら、臨機応変に、相手に通じやすい形で即興で論や喩えや説明の仕方を組み立て、説得力ある発言をし、逆に、いわずもがなのことはいわないで済ませる交渉力を高めること。

などにもフォーカシングを「身につけていること」は大いに役立ちます。

 単なる「妥協」とは異なる次元で相手との間の問題を、創造的に、自分も相手も思いもよらない仕方で解決する力を高めるでしょう。

*****

 また、よく誤解されるのは、フォーカシングとは、「主観的」「内面的」「直感的」な過程だから、「客観的」「対人関係的」「論理的」な事柄について適切に取り扱えないのではないか、ということです。

 実体はまるで逆ですね(^^;)。フォーカシングは、例えば、いろんな観点からの数値的データや、情報、他者からの意見などを総合して、フォーカシングを知らない人間にも、説得力ある、そして実効のある、具体的問題解決過程を「論理的に」提案したり、遂行するのにも貢献します。

 客観的に測定された数値的データが、すべてコンピュータに任せられるような、完全自動化された対処システムでの対応にすべて依存できる領域はかなり限られていて、実は最後には人間の判断が必要な領域がたくさんあることは、技術系の専門家にとっては常識でしょう。

 統計なんて、本人に悪用の意図はなくても、都合のいいデータを都合よくプレゼンテーションすれば、いくらでも偽の「客観的証拠」にできてしまうことは、少しでも統計学をかじったものの常識でしょう。

 わかりやすい例が、大雨や強風や地震になった時に、一定の観測量計の数値を超えたら、自動的に列車を安全な場所で停止させてしまうシステムは、鉄道には非常に多くの箇所で活用されています。しかし、実際にその場所が「運行再開しても大丈夫な安全さがすでに確保されているか」となると、なるほど、レールの歪みや、架線や、列車の車体の通過する空間に何かが張り出して来ていないかどうかを調査し、修復するための特別な測定車はありますけど(深夜の大船駅そばの線路で、その種の車両がそろりそろり動いているのを、私はしばしば「見下ろし」ながらベランダでホタル族してます)。

 特に危険地域の周辺の地盤のゆるみや川の増水の状況などについては、測定器だけではだめで、実際に保線担当者が手分けして何回も見て回って、無線などでで送られてくる現地からのさまざまな情報を総合することが多いでしょう。 別に、気象予報官が、列車を再び走らせて大丈夫かについての責任を取ってくれるわけではない!!

 そして、運行再開後の一番列車の運転席には、運転手だけではなくて保線の担当者が同乗し、徐行運転しながら、最後には「視認で」、線路やその周辺物に危険な状況がないか確認するものですよね。

 高度に発達した医療の領域ですら、データと実際の診察、そして手術して患部を実際に見て、その時点での患者の身体の状態についての様々な測定値に基づき「人間が」判断を下す領域はまだ山のようにある。

 そういう、さまざまな「客観的」情報やデータを、通常より高次元で解析し、適切な対処を生み出すのにもフォーカシングは役立ちます。

 あるいは、集団的意志決定の場に、フォーカシングを自分のために身につけたエキスパートがひとりいるだけで、その集団の最終的な意志決定にさりげない重大な影響を与える可能性があるとすら思います。

******

 もちろん過去の膨大な「例外ケース」のデータベースに基づく対応マニュアルと、そういう際の情報収集と命令指示系統についてのマニュアルも存在し、過去の事例に基づくシミュレーションでの訓練などもなされているでしょう(大抵の大学では災害時を想定したそういうマニュアルがあると思います。大学のメンタルヘルスの次元ですら、そういうマニュアルが整備されているところもあります)

 機器操作の訓練も、ある段階まではシュミレーターというバーチャルな世界での訓練で、非常事態への対処を含めて、緊急事態を「安全に」体験できるところまできているのではなかろうか。飛行機や宇宙船の訓練がそうなってきているのは知っています(こちらも参照。テロの犯人に操縦訓練の機会も与えてしまったという弊害への対策も必要になったそうで)。

 話は少し飛躍しますが、"電車でGO!"の、ほんもののプロ運転士訓練版だってあるのかもしれない、と思ってWikipediaその他を調べてみたら情報なし。

 (でも、これで子供の頃から徹底的に上級編までマスターして、電車運転手への道を進路を実際に選んだ方はきっと少なからずいるでしょうね)

 そういう、シュミレーターでの訓練すら、フォーカシングを学んだものの方がスキルアップが高いとすら思いますが。

 フォーカシングを学ぶと、ゲーマーとしても上達は早いかも?

*****

 いずれにしても、フォーカシングは、ただの「心理療法」の枠組みを大きく逸脱しています。

 昔から、職人や、キャリアある専門家の経験値や『勘』といわれたものを向上させることが、分野を問わずにほんとうに可能な方法のひとつです。

****

  ちなみに、自分の能力を過信せず、どういう場合にどの程度、他の人(家族、教師、友人、本やネット上の記事)やその道の専門家の意見を参考にするか(利用するか)、そして、「専門家」に支配され過ぎないように巧妙に「距離感」を維持するか、ということにすら、フォーカシングを身につけることは役立ちます。「漠然とした違和感」を自分なりに相手に説得力ある形で「言語化」することに習熟したら、大抵の専門家はタジタジとなると思います。

 つまり、フォーカシングは、究極的には、現実社会を生き抜く「リアリスト」.....しかも、既成の慣例や価値観にしばられないやり方を、どういうわけか周囲にも納得させ、いい意味での協力関係を樹立し、実際に成果をあげ、少なくとも最悪の事態を可能な限り回避していくことに貢献するはず。

 そして、それと心身の安定を保つことすらかなりの程度両立させられるはず。

 フォーカシングを完璧に身につけた理系の研究者、
 フォーカシングを完璧に身につけたスポーツ選手、
 フォーカシングを完璧に身につけた政治家、
 フォーカシングを完璧に身につけたアメリカ大統領
 フォーカシングを完璧に身につけた軍事専門家
 フォーカシングを完璧に身につけた革命家
 フォーカシングを完璧に身につけた企業経営者
 フォーカシングを完璧に身につけた株取引の達人
 フォーカシングを完璧に身につけた弁護士

いたらすごいですよ、きっと。

*****

 フォーカシングは果たして「悪用」できるか?

というのも私の大きな問いのひとつです。

 私の現段階での答えは、少なくとも、フォーカシングは必ず善と平和をもたらすほど「予定調和的」ではない。

 無謬の存在を生み出すわけではないとも思いますし、「なりたい自分になれる」どころか、「思いもよらないけれども、仮に志し半ばで途絶しても、後悔しない人生」をどんどん生み出す可能性の方が高いでしょう。

2006/11/07

着メロはELTの"Graceful World"ということに.....

 昨日はちょっとネクラモードの記事を久々に書いてしまいましたが(何でか訳がわからん人生の成り行きでひとつの流派の重責を背負い込むと時々「解毒」のためにこのブログを使ってしまうことがあるようです、お許しを)

 突如話題転じて、私が結局携帯の着メロに何を選んだかといいますと、曲が以前から好きなのと、「目覚まし効果」の強烈さということで、意外にもayuではなくて(ayuも最近の数曲ストックしているので気分で変えるかもしれないけど)、

●ELT“Every Best Single 2”CD<通常盤>(9/10発売)Every Little Thing『Graceful World』
Every Little Thing - Graceful World - EP - Graceful WorldELTの"Graceful World"
に一応落としどころはなりました。

 マナーモードへの切り替えの設定忘れると、

「♪ジャンジャンジャンジャン--------」

,,,,,,という、他人迷惑なとんでもないことになりますが(^^;)

フォーカシングを学ぶ上での「究極の大逆説」???

私のフォーカシング観の「究極のキャッチフレーズ」が、

「地上に自分のフェルトセンス以上の権威なし」
(There is no authority above his/her own felt sense on earth.)

であることは、何度となくこのブログで紹介して来ました。

これが私の独創でも何でもなくて、以前もご紹介した通り、例えば「ホールボディ・フォーカシング」の創始者、ケビン・マケベニュさんも著書で、

「私は、私たち自身の内側にあるものこそが、どんな権威よりも、私たちの人生を癒すために必要な多くのことを知っているということを繰り返し確かめることができました」(訳書pp.2-3)

とお書きで、フォーカシングを突き詰めていく限り、これと似た表現には、少なからぬ人が自分の中でたどり着くと思います。

*****

 私はそこでいう「権威」に、私自身を含むフォーカシング教師も含まれる、ということも繰り返して来ました。

 これについては、ジェンドリン自身が、著書「夢とフォーカシング」の中で、「教示に従わない教示」という、短いけれども絶妙な「最終章」を書いていることも、この記事で紹介しました。

再掲すると、

 「私が示してきたこの方法が唯一、あなたにとって必要だとか価値があるということではありません。もし私がこれが唯一の方法だと言っていたとすれば、私が言ったことは間違いだと皆さんが思ってくださるように望んでいます。」

 「また、教示(=フォーカシングの手順の公式的フォーマット)は成文化されてしまうと誤解を避けることができません。あらゆる人に合うような公式はないのです。とにかく、(フォーカシングをする)それぞれの人が独自の方法を見つける必要があります。」

 「あなた自身、そしてあなたのからだ(の内側の曖昧な感じ)そのものに注意を向けてみましょう。(その結果、)健全で広がりがある(気持ちがおおらかになったり、安らいだり、落ち着いた気分になる)体験のみが価値があるものと考えてください。

 あなたの身体の中でおかしな(違和感のある)感じがしたとき、教示に従うのをやめ、少し自分(自身)を取り戻し(、一息ついて)みましょう。 
 
 これらはまさに教示に従わないための教示です。

 ですから、もちろんこの教示(=「教示に従わないための教示」)自身にも当てはまります」


教示通りにうまくできないことで、自分を責める悪循環に陥る必要はない。

 むしろ、フォーカシングのいろんな本の中から、適当に「つまみ食い」して、自分にできそうなことからやってみるのでいいと思うのです。

 私は、まさにそういうやり方で身につけました。気がかりな事柄の棚卸しとしてのクリアリング・ア・スペースも、「フェルトセンスに問いかける(asking)」の教示もピンと来ない。だからやらない。

 しかし、自分がすでに使い慣れた教示だけではどうにも活路が開けない時が必ず来るのです。

 そういう時に、私の中には、自分が「頭で」覚えていたに過ぎない教示の中のひとつが突如思い浮かぶのでした。

 ええい、やぶれかぶれだ!! こいつを試してみるか!!

 .....すると、たいていの場合、その教示が見事に「効く」のでした。

 こうやって、私は少しずつ、自分の「身についた」、自分には「「役に立つ」教示のレパートリーを増やしていきました。

 気がついてみたら、ジェンドリンやアンが技法書で書いている教示で、自分の役に立たない教示はひとつもなくなっていました。

 ただ、確実に言えたのは、

1. 「自分で」「ひとりで」フォーカシングする際に効果をそうやって実感し、その教示の使い方の、言葉で説明できない「コツ」のようなものを十分身につけていること。

2. 「どんな教示がこの瞬間に適切か」という、自分のフェルトセンスへの問いかけの結果、そのフェルトセンス自身の中から、ぴったりなコトバとして浮かび上がってきた教示(複数の「候補」が出ることあり)でないと、効かないということ(!)。

3. 以上、1.と2.の条件を、ガイド(リスナー)としてセッションのただ中で「共に満たした」形での教示の提案ができた場合しか、その時のフォーカサーにとっても援助にならないということでした。

 つまり、私は「知っているだけの」教示を、「形だけ」フォーカサーに候補として適当に提案したことが「全く」ないのです。

 おかしなことに、一番オーソドックスとされるトレーナーとしての訓練の仕方「も」できるようになれたてきたのは、ごく最近のことだったりします。

 おかげで、やっと阿世賀も正統派の教え方に準じるところまで落ち着いてきた、と、コーディネーター仲間に「誤解」されてしまったくらいなんですね(^^;)。

 私は、ただレパートリーを自分のフェルトセンスのわがままにひたすら従い、「優等生のお勉強」としてフォーカシングを学ばないまま、自分のフェルトセンスに導かれるすままに「自分のための」より効果的なフォーカシングを、まるで、高い木にの葉っぱを食べられないと死んじゃうので首が伸びる方向に進化したキリンのように(.....などという説明は古風なラマルク説進化論みたいになっちゃいますが)個体発生的に進化した(?)だけです。

 その意味では、「恐怖のアマチュア・フォーカサー」であるに過ぎない(^^)。そういう人間が、現場臨床のカウンセラーとして食べていくようになる過程で、いろんなタイプの多くの人と接する中での行き詰まりを打破するために、更に自分で自分のためにフォーカシングを重ね続け(!)、そうなるとなぜか他の流派の精神療法の本についても、理屈でわかるかどうかはなくて「味わえる」ようになり、もはやどの流派とも言えない形で、一般のカウンセリング場面での臨機応変な対応と渾然と一体化しただけなのが私の「専門性」です。

 ところが、これは実は果てしないステップアップのプロセスです。自分が以前より経験値が上がったかなと思ったら、以前にはお会いしなかったようなタイプのクライエントさんともめぐりあえるように、なぜか「運命は定まって」いるようです。

 そうした「現場臨床」経験の更なる広範化が、再び、私が「頭では」知っていたけれども、しっくりこなかったフォーカシングの技法をまたもやまずは「自分個人のために」掌中にし、それを「フォーカシング個別指導でも」生かす引き金となります。

 私はもはやフォーカシングの技法面でのオリジナリティを主張したり、事例発表を自分のキャリアアップのためにすることには無関心になっています。自分の「身についている」ことがまずは自分に役立つことが大事で、それが他の人の援助に役立つのなら、そしてそれが私自身がこの世に思い残すことなく生きていけることとも両立するのならば、それは「天の恵み」として神妙に果たすしかない.....というくらいの心境でしょうか。

 あきれかえられるかもしれませんが、もし、「現場臨床」と、何か他の手段(例えば文筆です)で十分食べていけるのなら、積極的にフォーカシングの教師をやろうという気持ちもあまりない。

 「フォーカシング教師」は、私のアイデンティティの核心ではない。

 私のアイデンティティは、あくまでも

「生涯一フォーカサーとして生きてみたら、どんな人生が自分に生じてくるか」

喜怒哀楽を味わい尽くすことにあるのかもしれない。

 それが、私が自分の実人生を賭けた「ゲーム」として選んだ生き方だとも思えます。

 あるいは、
 こうして前半生をフォーカシングと「共に」生きてきたからには、
 生涯をフォーカシングの熟達者という「モルモット」としてとことん生き抜くだけでも、
 ささやかな歴史の証人になるのではないか?

 そもそも、フォーカシングを学んだ人がみんなフォーカシングのトレーナーになるのは基本的に「変なこと」だと思っています。

 それは「学校で勉強した人がみんな教師になる」くらいに変なことです。

 車の運転を学んだ人がみんな自動車学校の先生になるくらいに変なことです。


*****


 では、何故私がトレーナーでいるのかですって?

 こういうトレーナーがひとりぐらいいいないと、フォーカシングが生きる上で本当に役立つかもしれないこの世のいろんな人たちの「私有財産」に、フォーカシングがならない気がするから。

 トレーナーなろうという人は、よほどの「もの好き」だけでいい。

 ところが、少なくとも日本のフォーカシング教育システムは、「トレーナー養成システム」でしかない。

 トレーナー認定資格者のことをなぜか「コーディネーター」と呼ぶのですね。"coordinator"=調整役というコトバもありますが、私は、ファッション・コーディネーターとかの意味に近いニュアンスで理解するのが好きです。

 ファッション・コーディネーターは、そのファッションを着る人を自分の「着せ替え人形」にしたくなる悪魔のささやきと戦わねばならない仕事ではないかと勝手に想像します。

その顧客を満足させ、より輝かせるための黒子に過ぎない。

人生の舞台に立つのは、顧客さんの側なのです。


*****


あなたはフォーカシングを学ぶことで、そうでない場合よりは悔いのない「自分の」人生を歩めてきましたか?


*****

 ......で、つい先日から思い始めているんですけど、

フォーカシングを学ぶ人には、自分のフェルトセンスに「従わない」自由も保障されていなければならない

 .........究極の大逆説でしょうが(^^)

 

2006/11/06

先週の人気記事ベスト20!!(10/29-11/4)

 学会疲れでご報告が遅れましたが、恒例、@NIFTYココログの、日曜日-土曜日の「先週」記事別アクセス解析機能を使っての「先週の人気記事ベスト20」の発17回めです(^^)

 固定リンクでのアクセス率の順位のみから集計しています。
 7×24時間、つまり11/4日(土)24:00の時点での集計です。

 それでは発表!!

 先週の一週間の総アクセス数、延べ1,555(前回1,421)。(一日平均222.14アクセス。前回203.00)

最低のアクセス数の日は11/4の167アクセスで、ここ数ヶ月ではじめて当ブログ始まって以来の通算平均アクセス数を下回る日となりましたが、ここまで本格的な新規記事少ない週は実に久しぶりなので仕方ないですね(^^;)

 それにも関わらず、アクセス数は先々週より回復したことについては、おいでいただいた皆様に感謝申し上げます。

 訪問者実数も、824名様、前回の816名よりはかろうじて増加しています(^^)

****

 「サイト内移動」、222(28.8%)の前回に対して今回359(39.4%)、トップページへの外部からのアクセス、前回321(41.7%)に対して今回326(35.8%)と、サイト内移動が大幅に回復。記事更新しなかった分、いろいろと別の記事に移動してくださったということになり、感謝です。

 .....当ブログの「一限さんでない率」、これは同じ人が一度に「何ページ」記事をお読みになったかと無関係な訪問者「実数」比に基づくもののようですが、これまた前回7.7%に対して今回7.6%

 「訪問周期」では、毎日おいでになる「完璧常連様」は前回10名様、今回9名様。
 これだけ急に新規記事をほとんど書かない週が出てきても安定していることに感謝いたします。一番多い訪問頻度は、「21日に一度」で34名様、2位が「10日に一度」「14日に一度」の、各29名様です。


 それでは記事別ランキングの方の発表!!

*********

1.「ワンセグチューナー」って何? -私の携帯電話観(2)- NEW!

2.オイルヒーターの暖房の自然さ (↑↑)

3.「オイルヒーター」カテゴリーへの直接リンク NEW!

4.インシュレーターは使わないに越したことはない(↓) 10週連続

5.欝とは、自分が無理をしていることを認識できなくなる時期にすでに始まっている(↓)11週連続

6.結局、今はワンセグチューナー付き携帯は当面買わないことに.... -私の携帯電話観(3)- NEW!

7.”ZERO3”への道!! -私の携帯電話観(1)- NEW!

8.オーディオにおける接点復活剤について (↑)3週連続

9.「死にたい」と言ってもらえること(↓) 16週連続

10.先週の人気記事ベスト25スペシャル!!(10/22-28)

11.ZERO3の記事補足 NEW!

12.「ケーススーパーバイズ」とは何だろう ~入門編~(↓) 3週連続

13.ヘッドフォン、Bose Quiet Comfort 2のへビーユーザーとしての本音 -万国iPod向けヘッドフォン博覧会 その1- 3週連続

14.ほとんど「オーディオの奇跡」という領域のヘッドフォン!!(+ 私の20余年におよぶヘッドフォン選定のさまよえる歴史)(↑) 3週連続

15.やはり、耳栓型イヤフォンの名機、SHURE E5cについて書きます(圏外より↑)

16.iPod向けヘッドフォン・イヤフォン・小型スピーカーの記事index COME BACK

17.音抜けが圧倒的に良く、決して低域がダブつかない、究極のオールラウンド密閉型ヘッドフォン!! COME BACK

18.504SHでもこのくらいに映る NEW!

19.「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編) COME BACK

20.ヘッドフォンと共に過ごした「安息日」 COME BACK


*****


 心理系の新規記事を書かない状態になると、私のブログを基本的に安定して支えているのが、いかに私の、モバイルをはじめとするハード(使用機器)についての評論・紹介であるかがこれほど鮮明に出た週は、かつてなかった!!(^^)

 予想通り、今年もオイルヒーターの記事が上位常連になってきました。これ、助かるんです。アフィリエイト収入が結構あって(^^;)

 今週は、再び本業のカウンセリング系の記事.....そういえばまだayuの今年のツアーのDVDも実際にはまだ観てないし、音楽やDVDの「ソフト」評も復活すると思います。


*****


 ちなみに、これを書いている「今、この瞬間」(11/6 PM 23:33)までの当ブログ文章記事の延べ総アクセス数)は、 108062、フォトアルバムを含めると125873です。


 今後とも、「カウンセラーこういちろうの雑記帳」を、よろしくご贔屓(ひいき)に、お願い申し上げます。



2006/11/04

無事起きれた!!

.......ので、まもなく出発であります!!

2006/11/03

明日のために今日は寝るのだ(記憶に間違いがなければ(C)松本零士)

 恒例、名古屋止まりこだま号で名古屋着。湘南電車で小田原すら寝過ごして熱海乗り換えになってしまい、こだま号でも目覚めたらいきなり豊橋だったくらいだから、まだ寝足りないらしい。

明日の朝イチが発表なので、今日はひたすら明日のために寝ることとします。

 今晩お会いすることへの提案して下さった、○○さん(男性です!!)そういうことでゴメンナサイ。

 職場が昼過ぎから夜までの営業時間なので、そもそも朝9時に起きていたことなんて滅多にない人間である。

まして藤が丘のそのまた先にある愛知学院大学の発表会場に8時半には事前の打ち合わせのためにたどり着こうというだけで戦々恐々なのだ。

(東山線沿線に泊まってはいますが)

やっと最近解禁したアルコール(といっても勘チューハイですが)で、強引にでも早寝するのである。

******

 今週は、書き込み少ない割には、「携帯ネタ」が効いたのか、すでに結構多くの方に来ていただいていることに感謝申し上げます。

今日はこれから名古屋です

例によって「小田原経由のこだま号」を使っての移動です(^^)
でしょうが。

明日の朝9時から、愛知学院大学での日本人間性心理学会第25回大会、四日市の藤嶽大安さんたちとの共同発表。口頭発表は藤嶽さんなので、ある意味ではリラックスして臨みます。

2006/11/01

504SHでもこのくらいに映る(第2版)

夜の控えめの光量(蛍光灯3本のみ)の室内と夜景ががこのくらいに映るのなら、以前の機種より相当立派で、当面満足できるでしょう。

 もう、メアリー女史とのツーショット(こちら参照)が手ぶれになっていたのが携帯の小さな画面では気がつかなかったようなことはなくなる(^^)

Mycounselingroom_1

Sodanchitsu

                     ↑ほんとうはこのへんに角さんとのツーショットも置いてあります。

↓何が走ってるか、わかる人にはわかるくらいでしょうし(^^)

Ysakei_1_1

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