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2006/08/23

conscience=意識=良心!!(第2版)

 ながらく、私は、フランス語において、「意識」と「良心」との語が、ともにconscienceであることを不思議に思ってきた。イタリア語にも、スペイン語にも、要するにラテン語に派生したことばなら皆同じである。英語でも、17世紀まで、conscienceで、「意識」と「良心」をともに表わしてきた。consciousnessという言葉は、英国経験論哲学とともに生まれた新しい言葉である。(中略)

 ここからは私の推論であるが、「意識」の中にあるものはすべて「キリスト教徒の正しい行為の証人」すなわち「良心」でなければならない。すなわち、意識の中にあるものは、神に開示できるものでなければならない。(中略)

 「意識していないこと」は、神に答責できないものであり、そういうものが自分の中にあることは大問題である。したがって、無意識は外部に投射される傾向があって、かつては悪魔となり、現在も自己を正義として、「悪」を外部に探す傾向(すなわち他罰性)が著しいのではないか。

Seiouseishinigakuhaikeishi中井久夫 「西欧精神医学背景史」 1999年の追記 pp.221-3)

 中井久夫先生のこの言葉を読むと、いろんな連想が生じます:

*****

「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫(かんいん)を犯したのです」(マタイによる福音書 5-28)

 このイエス様の言葉に「思春期の頃」悩み苦しんだクリスチャンの方、少なくないでしょう。

 でも、聖書を本当によく理解した先達がいたら、次のようにアドバイスされたでしょう。

「『姦淫』=セックスすること、とおもっているのではないですか? 『姦淫』って、要するに『不倫』の肉体関係のことだよ。だから十代の独身の今のあなたが,例えばクラスメートを「オカズ」にしていたとしてもさ、それは『姦淫』ではないの! 何しろ、モーゼの『十戒』にすら「汝、姦淫するなかれ」とあるのだから、『姦淫』=セックスだったら、とっくにユダヤ民族は十戒を授かって百年のうちに滅びてなければならないでしょ?」

と。

 ちなみに、法律用語では、「個人の性的自由を侵害する犯罪」となり、両性の合意によらない、異性への肉体的侵襲」は、セックスまで行かなくても『姦淫罪』だから、意味がかなり異なるのですが。

 不倫であるかないか、あるいは夫婦間であるかどうかとは、全く別の物差しなわけですね。

*******

ヒステリー研究(上)ヒステリー研究(下) 一方、フロイトの有名なヒステリー症例で、家庭教師先の父親に恋愛感情を抱いていることを、フロイトの解釈によって気づかされ、身体の症状も消失した「ルーシー」が、

 「ええ、今でも愛しております。でもただそれだけのことなのです。自分ひとりで好きなことを感じたり考えたりするのは自由ですから」

という境地に達したことは、有名かも。

 このことについて以前書いた時の見解を、今回。全く逆方向に修正します。

 この症例なんて、イエス様の前述の聖句を、むしろ「前向きに」解釈したともいえる状態かも。

「情欲を抱いて他所の父親をみる私は、心の中で不倫してるの。でも私はそれを『自覚(意識)』している。それでいいのよ」

そして、その「自覚」(consciousness)は己れの「良心」(conscience)」に反するものではないし、イエス様もそこまでは確実に許してくださる、と。

*****

 次に、「投影同一視(projective identification) 」という、メラニー・クラインが生み出した(というの、不正確でもお許しを)有名な概念なんだけど、

 これって、要するに、

自分自身の中に生じた「言葉にならないモヤモヤ」を、すべて他人からの好意や愛情、あるいは敵意や攻撃として認知すること

は、みーーーーーんなあてはまる

というふうに理解していれば、およそ生きると言うことは、投影同一視であるということになりますよね。

 つまり、少なくとも私は、いわゆる「帰属理論(attribution theory)」における、

「『原因』の『外部帰属』」=「投影同一視」

とみなすぐらいでちょうどいい、という「極論」を敢えて主張します

 こうなると、他人に向かって、安易に、

「それはあなたの私への『投影同一視』です」

という人間なんて、

「それは私のあなたへの『投影同一視』を『投影同一視』したものだと私は「意識」できないまま、あなたのせいにするという『謀略』をやっていることを『意識』していません!!」

......ではないと言い切れる人なんて、ほとんどいないと思います(何か、R.D.レインっぽくなってきたな。確かレインがこういう無限連鎖に挑んだのは『自己と他者』の中でだったと思う)

 それなら、自分の他者への批判や怒りは、結局すべて自分の『影』への攻撃である、ということになるユングのとらえ方の方が潔いかもしれない。

 私がこのブログでやっている批判的言動は、すべて私の「影」=「私の認めていない私自身」への攻撃に過ぎないかもしれない、くらいには思っている方が謙虚だとは思っています。

 ということは、私の批判に対して、「グサッ」と感じて、自分のあり方について反省を始めた人は、すべて私への「逆転移」に巻き込まれただけなのかもしれない??????

****** 

..............私が今までの部分で言いたいことの、ホントの意図わかりますよね。

「下手に対象関係論を振り回すと、ろくなことはない」

 治療者が、自分は正しいという正当化、逆に相手を批判する武器として、いくらでも濫用できるということです!!!

******

...........私は、今や普段はほとんど対人恐怖的に振る舞うことがなくなった人間ですが、

 フォーカシングを学び始めた一番最初の段階での最大の洞察の一つは、

 「自分が他者と関わる中で生じる『傷つき』とは、すべて私の身体の内側の「ある部分」の傷みとして体験できる」

 ということでした。

そして、

その傷みの原因が何なのか、自分のせいなのか、誰かのせいなのかついて、安易に決めつけることは浅はかである

ということでした。

 少なくとも、

「他人に傷つけられた

と体験するよりは

「私はその人(たち)と私との関わりにおいて、
何らかの意味で『不満』である」

とらえ直してみる癖をつける方が、健康的で生産的だ、

ということでした。

これは、自分が悪いか、相手が悪いかという安易な決めつけを「止揚(しよう)」した次元でのとらえ方です。

私が「私に」不満、ともいえるし、私が「相手に」不満、とも言える。

そのあたりで、
意識(注意=direct reference!!!)
「平等に漂わせて」いると、

突然、
必要なときに、必要なだけの、
自分の力に叶う対処法が浮かび、
場合によっては「ゲリラ的速攻」で、
事態に対処できるようになったのです。

 

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コメント

重要な改訂をしました(^^;;;;;)

"conscience"
"consciousness"

敬愛する中井久夫先生、ごめんなさい。

皆様、私の英語力は、ほんとに「この程度」ということに、私の「人間味」を感じていただければ、幸いです。

もっとも、中井先生も、「西欧精神医学背景史」の初版を、現実にヨーロッパに「一度も」渡ったことがないうちに、今の私より若い43歳までに書いていた.....といったら、皆さん、どう思われますか?

そういう人間は,この世に存在するのです。
だから、私もこの世に存在します。

そして....以下はこの後に書いた、「新規記事」参照。

 第2版への改訂は、「より適切な状況設定に」改めた部分が「一カ所」あるだけですが、「微妙な問題」の箇所ですので、それがどこなのかは読者の皆様が探して下さい(^^;A

こういうふうにして,文章に「画龍点晴」的な推敲をする能力は、フォーカシングを「自分で身に付ける」と、すごく高くなります。

 何か自分の文に「言葉にならない違和感」を「何となく」感じ出し、それをどう修正したらいいかが、突然、無理のない瞬間に、「ポッと」思い浮かぶようになるのです。

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